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明治座今昔
長谷川時雨

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)芦寿賀《ろすが》さん

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)百本|杭《くい》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ぱたん[#「ぱたん」に傍点]と
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 芦寿賀《ろすが》さんは、向う両国の青柳といった有名な料亭の女将《おかみ》でもあった。百本|杭《くい》の角《かど》で、駒止橋《こまどめばし》の前にあって、後には二洲楼《にしゅうろう》とよばれ、さびれてしまったが、その当時は格式も高く、柳橋の亀清《かめせい》よりきこえていたのだ。横浜にいった最初の旦那《だんな》は、判事さんだというものもあったが、その人はどうしたことか切腹してしまったのだ。
 だからおしょさんが、お嬢さんあいての月謝をすこしばかり集めて、二絃琴《にげんきん》なんぞ教えているということは、めんどくさかったろうと思う。慰さみ半分の閑《ひま》を消すためだったかもしれない。
 おしょさんの家の箪笥《たんす》の上の飾りものの数は言いつくせない。およそ美術的にかざった玩具《おもちゃ》の数々――ああした趣味もこれからの世間には見られまい。下品なものはなかった。隣家《となり》に常磐津《ときわず》の老婆《おばあさん》師匠が越して来て、負けずに窓のある部屋へ見えるように飾りたてたりしたが、覗《のぞ》いて見ると、それは子供にも不思議に思えた男の子のつけているもののかたちを、かざりならべておがんでいた。

 おしょさんの家《うち》へは、綺麗《きれい》な娘さんたちが多く来た。みんな美しい人だった。お母さんや、ばあやさんの自慢の娘さんたちだった。鴛鴦《おしどり》に鹿《か》の子《こ》をかけたり、ゆいわた島田にいったり、高島田《たかしまだ》だったり、赤い襟に、着ものには黒繻子《くろじゅす》をかけ、どんなよい着物でも、町家《ちょうか》だから前《まえ》かけをかけているのが多かった。前垂れの友禅《ゆうぜん》ちりめんが、着物より派手な柄だから揃っていると綺麗だった。春の夕暮など、鬼ごっこや、目かくしをすると、せまい新道に花がこぼれたように冴々《さえざえ》した色彩《いろ》が流れた。玉村の――お菓子屋の――お島ちゃんは面長な美女で、好んで黄八丈の着物に黒じゅすと鹿の子の帯をしめ、鹿の子や金紗《きんしゃ》を、結綿《ゆいわた》島田の上にかけているので、白木屋お駒という仇名《あだな》だった。山口屋――本問屋――のお駒ちゃんは八百屋お七――お駒ちゃんの妹の幸《こう》ちゃんは実にぱっちりした、若衆だちの顔つきだった。天野さんの――化粧品問屋――×さんはおとなしく、金物問屋のおぬひちゃん、袋物問屋のおよしさんその他の人たちも醜いのはなかった。
 高い脚立《きゃたつ》をかついで駈《かけ》てきた点燈屋《てんとうや》さんも、立止ってにこついて眺めている。近所の人たちはいうまでもない、通行の人たちも立止っている。そんな時、おしょさんはどんなことを思っていたろうか、いつか、こんなことをはなしたことがあった。
「あたしは十五の時お母さんに叱られたことから、ふと死にたくなって、矢の倉|河岸《がし》(大川端)に死ににゆこうとしたら、町内の角に木戸口があった時分のことでね、急いでゆく前にぱたん[#「ぱたん」に傍点]と立ちふさがったものがあるので、怖々《こわごわ》顔をあげてみたらば、男の首くくりがぶらさがっててね、あっと思ったとたん死神がどこかへ飛んでしまって――」
「その時、おしょさん、どんな姿《なり》してた?」
 何でも訊《き》きたがる私は、話にぶらさがるようにきいた。
「ゆいわたに結って、黄八丈の――あたしゃ、まあいやだよ、いい気になって……この子はいけない子だ。」
 ふと、その頃の自分とおんなじような、年頃の娘たちをあずかっている事を思出したのだろう笑ってしまった。
 だが、その娘さんたちに交って、娘のような、娘でないような人がひとりいた。お金ちゃんにきくと、アンポンタンが知る前に阪地《かみがた》へいった人なのだそうだ、曙山《しょざん》さんていうのだといった。
 曙山という名は、アンポンタンにも新しいものではない、まさかに子供でも、錦絵の智識から羽左衛門《はねざえもん》かとか尾上梅幸《おがみうめゆき》とかよぶようなこともしなかったから、曙山とは、沢村田之助《さわむらたのすけ》の俳名《はいみょう》だと知っていた。幕末頃のくさ草紙には、俳優田之助が人気があったからか、小意気《こいき》な水茶屋の女なぞに環菊《かんぎく》のお田之《たの》とかなんとか書いてあったほどだから、俳名の曙山も目からくる文字の上でのおなじみだった。
 その女《ひと》は黒い顔で、大きな鼻で、体はグニャグニャとしていた。長じゅばんが褄《つま》から蹴《け》出されると、緋《ひ》ぢりめんだったり、薄紫ちりめんだったりした。黒ちりめんに加賀紋の羽織を着て、風呂敷ほどの絹半巾《きぬはんけち》を鼻からまいて、車からおりると、
「おッしょさん――」
て鼻声を出して、踊るように袖をバタバタさせて、
「おお寒む寒む、はよう温かいものでもおくれ。」
と妙に甘ったれた調子《アクセント》で太い声を出した。
 みんなが羽根や手鞠《てまり》をついていると、
「わたいも、つこ。」
と仲間になる。
「さあ、あんたはん、あげますウ。」
と器用に、なんでも巧者《じょうず》だ。
 アンポンタンは思った。この女《ひと》は、どっか大きな家《とこ》の娘で、病気――ばかのようなので、髪を断《き》らして遊ばせてあるのだろう、だから、あんなに無作法《ぶさほう》なのだと――そう思えたほど、堅気《かたぎ》の娘たちとは調和しない奔放《ほんぽう》さがあった。
 その人は斬髪《ざんぎり》だった。だが、その女の人が、なんで田之助の俳名と関係《つながり》があるのかがわからなかった。あたしの解釈では、くさ草紙の人物、環菊のお田之《たの》さんのように、これは生きた人間が田之助ぶっているのだろうと思った。しかし、環菊のお田之はそれは美しい女に描いてあるが、曙山という女は汚らしかった。だから言った。
「あの女《ひと》、気狂い?」
 すると、お金坊は金切り声を張りあげて、
「おッさん、曙山さんのことを気狂いかって!」
「悪い子がいるね、誰がわたしのこと気狂いというた。」
 太い声がモッタリといって、こっちを振りかえった。
「あの女の人、黒い汚ない顔だって。」
「フン、黒うても白うなる、白粉《おしろい》つけて美しうなって見せてあげる。――金坊、おッさんに白粉《おしろい》だしてもろうとくれ。」
 あたしは怖気《こわげ》だった。気狂いが、白粉をつけだしたりしてどうなるのかと――
 丸い手鏡を片手に持って、白粉刷毛《おしろいばけ》でくるくる顔をなでまわしていた曙山さんは、傍らにいるおもよどんや、お金ちゃんを顎《あご》でつかって、紅《べに》をとれの、墨をかせのと、命令するように押《おし》つぶした声で簡単にいいつける。
「その手拭《てぬぐい》をおよこし。」
 鏡台わきの手拭かけにあった白地に市川という字が手拭一ぱいの熨斗《のし》の模様になって、莚升《えんしょう》と書いてある市川左団次の配り手拭をとらせると、上手に姐《あね》さんかぶりにして、すっと立上ると、
「おッさんの寛袍《どてら》をもっといで。」
と自分の帯をときだした。
 あたしはとんでもない事をいってしまったとしょげていたが、廻りの者はゲラゲラと笑って面白がっている。
 曙山さんという人は、わざとらしく怒りっぽく、
「お腹《なか》がすいとるのに、みな面白そうに笑ってからに、わたしばかりこんなことさせて――おごらんかったら怒る。」
「どういたしまして、これこの通り、ちゃんとお仕たくはしてござります。」
 おもよどんはそんな事をいって、大きなお膳の上にのせたおすしの大皿と、もひとつの高脚膳《おぜん》にのせたものをはこんできた。その上には酒徳久利《さかどっくり》ものっている――
「では、まず一ツ――」
 曙山さんは立ちながら腰をかがめて、お猪口《ちょこ》でなく、そばの湯呑《ゆのみ》をとってお酒をついで、ごくごくと飲みほした。
 あたしはまた溜息をついた。おしょさんはなんでだまって煙草《タバコ》なんか長い煙管《キセル》からのんき[#「のんき」に傍点]にふかしてるのだろう――
 と思いがけずおしょさんがこんなことをいった。
「お前さんがそうやってると白糸《しらいと》がよさそうだね。」
「あたしもそう思う、鈴木|主人《もんど》をつきおうてくれるものがあれば――」
「川崎屋(市川権十郎)ならいいけれど――」
 曙山さんは、ふと、アンポンタンを見た。
「あの子がわたしのこと気狂というたのやろ、ほんに無理もないこと。これ御覧、綺麗《きれい》な長じゅばんだっしゃろ。」
 姐さんかぶりの曙山さんは、褄《つま》をあげて見せたが、
「よい事がある。」
といって着物を脱いでしまった。下には薄紫に遠山紅葉《とおやまもみじ》の裾《すそ》模様のあるちりめんの長じゅばんを着て、白はかたの細帯をまいていた。
「この上へお着せ。」
 おもよどんが、紅絹裏《もみうら》の糸織《いとおり》のどてらを長く上にかけた。
 曙山さんは懐紙《ふところがみ》で顔をあおぎながら立膝《たてひざ》をして、お膳の前の大ざぶとんの上に座り直した。
「さあ、みんなおすしおあがり。」
 おそろしく横柄だった。あたしはかつて他人から、そんな風に声をかけられたことがなかったから、いよいよ気狂いだと思った。けれどみんなは、嬉しそうに、楽しそうに、ゲラゲラ笑っていた。
 この人の正体がやっとわかった。女形だったのだ、旧時代の遺物そのままに育てられて、久しく阪地へいっていた俳優だったのだ。東京の水になれないので、むかしのままのお坊ちゃんで、とお師匠さんはある時いっていた。お金ちゃんの説明によると、
「曙山さんは女の通りに育てられたのよ。けど、ほんとは女かもしれないわ。裁縫《おしごと》もよくするし髪も巧者《じょうず》に結うし、なんでもかでも女の通りよ。だけど男だっていうの、女の通りに育てられた男だっていうの。こんど来たら、なんだか男と半分半分になっちゃったけど、もうせんには、ほんとに女だったわ。だから、おッしょさんも、女のお弟子さんとおんなじだって――」
 そしていった。この間も、新富座《しんとみざ》へ乗込みのときは、以前《せん》の通りに――鬘《かつら》だったけれど――楽屋下地に結って、紫のきれを額にかけて、鼈甲《べっこう》の簪《かんざし》をさして、お振袖で、乗組んだのだと。
 あたしは気味がわるいと思った。どうしたって、あの大きな黒い顔は、そんな、花やいだ、たおやかさを思わせはしなかったから――
 ともかくこの人は、結局女ではなかったのだ。でも、その後、時々面白い笑話がきかされた。
 盲目《めくら》の坊主頭のお婆さんが死んで、その法事《ほうじ》のかえりに、浅草|田圃《たんぼ》の大金《たいきん》(鳥料理)へいったらそこの人たちが、どうした事か、家業柄にもにず、この女形を完全に女にしてしまって、御後室様《ごこうしつさま》御後室様と、お風呂まで女風呂へ案内したとか――
 またそののち、曙山さんの名を養家へかえしてしまって、市川の門下になった。時勢はいつまでも彼を娘と見るような甘いものでもなく、彼もまた薹《とう》のたった女男《おんなおとこ》になってしまったが、娘ぶりより、御後室の方がまだしも気味わるくない。新富町の露路裏に、男役者と、やもめ二人が同居していたが、そんな時、彼はすっかり世話女房だった。片っぽが帰らない朝なんぞはブツブツいって女中と一緒に働いていた。
 ある朝、片っぽの男に捨られた女が、勢い猛に押寄せて来た。彼女は、昨夜《ゆうべ》、自分の情夫《おとこ》が他の女《もの》と一緒にいたことを耳にして、大変なけんまくで駈けこんで来たのだ。彼女は下駄もはいたままで座敷へ飛込みかねない物凄《ものすご》い有様だった。あたしを差おいて――と彼女はいった。彼女は彼の家の火鉢の前に座るべき正妻の権利を第一にもちうるものは自分だと信じてるのだ。だから障子をガラリとあけた。
「どなた――」
 ぼやけた声がする。
 はて! 女もさすがに躊躇《ちゅうちょ》した。
「あたしです。」
「あたしって、どなた?」
 彼女は、自分の位置であるべきもののような問方《といかた》をするのが小癪《こしゃく》にさわった。けれど、来たわけをいわないわけにはいかない。
「××さんはいませんか?」
「ええ、まだ帰らないんですよ、あきれっちゃうじゃありませんか、何処《どこ》をウロウロしているのだか。」
 女はギクリとして障子の中を覗《のぞ》いた、そこには、姐《あね》さんかぶりの後むきが、小意気な半纏《はんてん》を着た朝の姿で、たすきをかけて、長火鉢《ながしばち》の艶拭《つやぶき》をしていた。
「まあ! あなた、おかみさん――」
 女は、しどろな言葉で挨拶《あいさつ》して、来た時の勢いとは、くらべものにならないしょげかたで、どぶ板に、吾妻下駄《あずまげた》の音を残して帰っていった。
 なんだろうまあ、あの女は折角来たのに、用向きもいわないで――と思っていると、
「おおこわ、こわ!」
といって、同居の片っぽが帰って来た。そして、姐さんかむりの仲間を見ると、フッと吹出して、
「おかみさんがいるのに、なぜ、いわなかったってたぜ。」
といって、カラカラ笑った――
 いまこの人は老女役《ふけやく》になって、生れ土地の関西へ帰っている。

 久松町の千歳座《ちとせざ》が焼けて、明治座が建つと、あの辺は一体に華《はな》やかになり、景気だった。芝居小屋がやけて芝居小屋がたつのに、そんなかわりがあるかといいたいほど代った。明治座前に竈河岸《へっついがし》へかけて橋がかかった。川を離れてその橋じりへまで、芝居茶屋が飛んで建ったほどだ。明治座は橋にむかった角で、芝居茶屋は右手に並んでやまと、はりまやと五、六軒、通りをへだてた横に日野屋さぬきや六、七軒、楽屋口うらに中村屋が一軒、みんな大間口の素晴《すばら》しい店だった。茶屋は揃って、二階に役者紋ぢらしの幕を張り、提灯《ちょうちん》をさげ、店前《みせさき》には、贔屓《ひいき》から役者へ贈物の台をならべた。劇場の表飾りもまけずに趣好をこらし、庵《いおり》看板をならべ、アーク燈を橋のたもとに点《つ》けたので、日本橋区内には、今までになかった色彩《いろどり》をそえたのだった。それが人気にあった。しかも中洲《なかず》は開けたばかりですぐ近く、前の川の下である。橋をわたれば葭町《よしちょう》の花柳場《さかりば》があり、いんしんな人形町通りがあり、金のうなる問屋町にとりまかれて、うしろには柳橋がひかえている。ずっと昔、浅草猿若町へ、三座がひけぬ前の、葺屋町《ふきやちょう》、堺町《さかいちょう》の賑いをとりかえしたかの観を呈した。もともと千歳座があったが、中芝居《ちゅうしばい》であり、人気のあった中島座は小芝居ですでに焼けて亡《ほろ》び、中洲に真砂座《まさござ》があっても、歌舞伎の稽古《けいこ》芝居か、新派であったので、明治座はたいした人気となった。
 それに、そのころ尾上一家の細かい芸よりも、豪宕《ごうとう》な左団次(今の左団次のお父さん)が時流に合って人気を得ていた時で、その左団次が座頭《ざがしら》であり、団十郎が出動し、福助(今の歌右衛門)が女形《おやま》だというので、左団次|贔屓《ひいき》の力瘤《ちからこぶ》は大変だった。
 二絃琴のおしょさん芦須賀さんは、その左団次が、若い時からの岡惚《おかぼ》れだといってさわぎ出した。
 だから、曙山さんは左団次の弟子になった。おしょさんは、当地に馴染《なじみ》のない人だからと、毎日毎日楽屋へいろんなものをもたしてやる。ほかのものはいいがお汁粉《しるこ》をどっさりこしらえてもってゆく時は、おもよどんは運ぶのに大変だ。とにかく、お稽古はそっちのけで、明治座のはなしに無中になっている。
 アンポンタンは十二、三の時から、あの貧乏な勝梅さん(前出、長唄の師匠)の蠣殻町《かきがらちょう》の家から出ると豊沢団《とよざわだん》なんとかいう竈河岸《へっついがし》の義太夫の師匠の表格子にたって、ポカンと中の稽古をきいて過し、びっくりして歩きだして橋を渡ると、千歳座の前で看板にひっかかり、それから附木店《つけぎだな》まで歩いて、本箱の虫になって、家から迎えがくるか、おもよどんかお金ちゃんに送りながらわびてもらって、暗くなってから家へかえる習慣になっていたから、明治座が出来たから急に芝居の前にたつわけではなかったが、みんなとは違った意味で、自分の欲をたんのうさせてもらった。
 もともと家《うち》では、長唄が一日、二絃琴が一日と隔日にというのを、盲目《おめく》の勝梅さんの方はトットとすませて二絃琴に通うのだった。しまいには、勝梅さんは三日おき四日おきにしかいかなくなった。月謝が早く手にはいらないと、勝梅さん一家は当惑してしまう(妹と二人分だから)。そういっては悪いと思っても、貧にはかてずお婆さんかお君ちゃんがとりにくる――あたしの母はいくらその困ることをあたしに言いきかせてても、月謝を届けるのがおくれるので、それからは毎日けいし[#「けいし」に傍点]をあけて唄本《けいこぼん》の間を調べる。毎日そのままだ。もう二絃琴はさげてしまうと怒った。ほんとにさげられてしまった。
 けれど、あたしは平気で、無代《ただ》で稽古しに出かけてゆく。それがあたしの権利のように――おしょさんはなんとも言わなかったが母の方が困った。あたしは稽古そっちのけで芝居の研究をする――
 研究というときこえがいいが、覗《のぞ》いてきたままを台所でやるのだ。譬《たとえ》ば、丸橋忠弥の堀ばたとか、立廻りの見得とか、せまい台所でほんものの雨傘をひろげるのだから、じきに破いてしまうが、一方《ひとかた》ならない高島屋びいきは、小言どころではない。よくおぼえてきたよくおぼえてきたとほめる。ここの立廻りは、いくつ踏んで、トントントンとこうきまると、棒をふりまわして棚のものを破《こわ》しても叱《しか》らない。わからないところがあると、おもよどんにくっついていって楽屋から見学だ。いつまでたってもコツののみこめない下廻りを見ると、おとなって、なんて物覚えが悪いんだろうなんて生意気にも思う。
 左団次の、新富町の家の稲荷《いなり》祭りなんていうと、おしょさんは夢中だ。それでもきまり[#「きまり」に傍点]が悪いので、むこうにゆくと子供|衆《しゅ》たちが大|悦《よろこ》びで――なんていっている。
 現在《いま》の左団次はアンポンタンとおなじくらいだから初舞台から知ってるわけだ。新富座の『和田合戦』の佐々木小次郎だったか、まんまるく大福餅《だいふくもち》のようなのを覚えている。その後明治座時代の、少年期の彼はへたくそ――だが、一体に少年期に大成するものは、早くのびが縮まるようだ(私は彦三郎や、寿三郎を、後に異なる味をだす役者だといって、みんなに、まだですか、だいぶゆっくりだが、まだ見どころありですかなんて笑われるが、私はまだだと言っている)。左団次の今日あるを少年期の時誰がいいあてたろう、自分でも少々悲観していたのをしっている。舞台へ出るときまりわるがって、うつむいて、モヅモヅとものを言う。まっすぐに述べてしまうとまっすぐにひっこんでゆく――見物は気の毒そうな顔をする。お父さんが働きてで、人気ものだけに、若い伜《せがれ》の人気のないのが、一層はかなげに思われたのだった。
「銀行家にしようと思うのだが――」
と、あの舞台では睨《にら》みのきく眼が、慈眼というように柔和になって、楽屋では、これも大町人か、それこそ、そのころの、あまりこすくない銀行頭取の面影《おもかげ》をもったお父さん左団次がゆるやかに話す――
 ぼたんが小米《こよね》になった。おしょさんのうちへあそびに来た。いつも楽屋や舞台で、知りきった顔なのに、この少年は背広を着てきて、キチンと座っている。一言も口をきかない。廻りのものやおしょさん夫婦は種々《いろいろ》骨を折ってしゃべるが、かんじんの少年客はムヅとしている。そのくせ帰ろうともいわない。
 そこでアンポンタン、大成した彼の舞台を見、舞台の悪党ぶりを見、息をひいて、白い眼をむいて、顎《あご》でしゃくった太々《ふてぶて》しさを見ると、ウフッという笑いが、表面へ出ずお腹の底の方で笑う。それほど少年の客小米の、キクイクジョたる風采《ふうさい》が、教育勅語を読む山間の模範少年か、社主の前へ出たであろうところの、××会××社の少年諸君にもさもにたる勤直ぶりであったから――



底本:「旧聞日本橋」岩波文庫、岩波書店
   1983(昭和58)年8月16日第1刷発行
   2000(平成12)年8月17日第6刷発行
底本の親本:「旧聞日本橋」岡倉書房
   1935(昭和10)年刊行
入力:門田裕志
校正:松永正敏
2003年7月4日作成
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