青空文庫アーカイブ

シュリーマン夫人を憶ふ
濱田耕作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)嵌石細工《モザイク》

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(例)※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]畫で、
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          一

 トロイ、チリンス、ミケーネの發掘者、エーゲ文明復活の先驅、ハインリヒ・シュリーマン博士の歿後四十年、此の永久に記憶せらる可き考古學者の未亡人として、またアゼンスの交際社會の女王として「イリウー・メラトロン」の大主婦として、活躍せられてゐたソフイヤ夫人の訃が忽然として昨年十月二十七日を以て世界に傳へられたのは、我々をして洵に一入淋しさを感ぜしめる。斯くして偉大なりし十九世紀の人物の面影と其の名殘りは、次第々々に此の世界から消え失せてしまふのである。
 少女ミンナとお伽話の如く未來を契つたハインリヒ・シュリーマンは、彼女を失つて殆ど絶望の淵に沈んだが、トロイの發掘(一八七一年)に著手する二年前、ホメロスの詩の愛誦者であり、又彼の事業に深い同情を捧ぐる年若い希臘の一婦人を、其の生涯の伴侶として娶つたのである。而してトロイやミケーネに、櫛風沐雨苦樂を共にして、遂に曠世の大發見を成就せしめたのは、實にアゼンス名家出たるソフィヤ(Sophia Engastronenas)夫人であつた。彼女は時僅に十七歳の妙齡で、シュリーマンとは三十歳も違ふ娘の樣な若さであつた。
 併しながら教養に於いて趣味に於いて、彼女は實際シュリーマンとは比ぶ可くもない優れた人物であつた。「彼女は其の夫に向つて神の顯現とも云ふ可きものである」と、シュリーマンをして書かしめたのも無理もないことである。二十年前あこがれの希臘に旅する機會を得て、アゼンスに著いた私は、アクロポリスの上のパルテノンと共に、第一に見ることを願つたのはシュリーマン夫人であつた。而して私はシュリーマンの古い親友であつたセイス老先生から
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“This is to introduce a Japanese friend of mine, Mr. Hamada……………who has been a student and admirer of your husband's work and has come all the way from Japan to visit the remains of prehistoric Greece. I wish I could be with him !………
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とある懇切なる紹介状を持つて、夫人に見ゆることを得た、大正四年五月十一日の午後を思ひ出さゞるを得ない。

          二

 私をして曾つて『希臘紀行』に記した處を、再び茲に繰返へすことを許して貰ひ度い。私はアゼンスへ著いた次の朝、直に書を載して夫人に面會の日を問合せた。如何に早くとも明朝ならでは返事は來ないだらうと思つたに、其の晩ハスラツク氏の招宴に招かれて、夜遲く宿に歸ると、其の留守中に夫人から使があつて、今夜九時の茶會に來よとのことであつたが、已に十時をも過ぎたれば詮術もなく、次の朝再び手紙して、昨夜の不都合を詫びると、今日の午後四時半在宅とのことで、同行の市河君と共に愈々大學町の十番地の「イリオン」邸に車を走らした。
 二階造りの宏壯な建築の前面には「アルケード」があり、朱色のポムペイ式の壁畫が街路からも目に立つて、これこそシュリーマン邸よと直ちに知られる位である。應接室に導かれて暫く待つて居ると、やがて衣褶れの音がして夫人の姿が現れた。あゝこれこそ豫てよりシュツクハルトの書物の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]畫で、トロイ發掘の黄金寶飾を身に附けて寫された寫眞の主ソフイヤ夫人ではないか。今は六十の坂をも越えられたれば、容顏は過ぎし日の美しさを殘しながらも、已に老境に入られてゐるのは致し方もない。鼠色の衣に稍々肥え太つた體をつゝみ、頭髮亦白きを交へてゐる。
 夫人は我々を奧まつた室へ導き長椅子に請じ、セイス先生のことから「さて何より話し始むべき、アゼンスは氣に入り給ひしか」と問はれ、やがて談はホメロスの詩のことなどに移つたが、暫くして其場に入つて來られた美しい長女アンドロマツヘ夫人を我等に紹介せられると、實にもソフイヤ夫人の若い頃を偲ばしめる姿貌である。
 夫人は「古物の類は皆な博物館に寄附して、今は家に殘れるものもなし、されど御見せ申す可きものこそあれ」とて、我等を大きな舞踏室に導かれると、床は悉く大理石の嵌石細工《モザイク》で、トロイやミケーネ發見の人面土器などを模樣に現はし、天井の壁畫には二三の天使が、發掘を助けてゐる處を描いてある。夫人は之を指して「あれは娘、これは息子」と、其の肖像を寫してあるのだと説明せられた。そして我々を別室に誘つて懇篤なる茶菓を饗せられ、クリート島から歸つて來たならば、再び訪問せよと契つて戸口まで送られたが、我々は遂に其の約を果すことが出來ず、希臘内地の旅行に上つてしまつたのであつた。

          三

 私は日本へ歸つてから『希臘紀行』の小著を世に公にしたが、その一部を夫人に贈呈することを忘れなかつた。すると夫人はやがて懇篤なる謝辭を以て答へられた。而かも手紙の最後にソフイヤ・シュリーマンと署して、其の下に不思議な文字を以て一行記されてゐるのは、楔状文字でもなく、又何處の文字とも一向分らず、私に久しく謎として殘つて居つたが、數年前之を或る人に示すと、其の人は横の方に坐つて居つたが、「是は日本の片假名ではないか」と云はれて見れば、如何にもそれに違ひなく、夫人は「ソフイヤ・シュリーマン」の片假名を横に書かれたのであつて、私は愚にも其の時まで氣がつかなかつたのである。誰か日本人が之を夫人に教へたのを、私にも見せて喜ばさうと苦心して寫されたのであつたのである。
 八十歳の高齡を以て逝かれた夫人は、夫君が始めて鋤を下して地下から掘り起こされたエーゲ文化が、今日の如く充分に復活せられるのを遺憾なく見られたのであつて、今や之をイリソス河畔の墳塋のうちに葬られてゐるシュリーマン博士の下に、之を報告せられることになつたのである。而して希臘國家に獻納せられた「イリオン」邸は、此の傳奇的生涯を送つたシュリーマンと其の夫人の記念として、永しへに世に傳はるに違ひなく、ミケーネにある『シュリーマン夫人發掘の墓』は『アトレウスの寶庫』と共にいつまでも訪客の記憶を新にするであらう。
[#地付き](ドルメン二ノ三 昭和八、三)



底本:「青陵随筆」座右寶刊行會
   1947(昭和22)年11月20日発行
初出:「ドルメン」
   1933(昭和8)年3月
※「ソフイヤ」「ソフィヤ」の混用は底本のままです。
入力:鈴木厚司
校正:門田裕志
2004年5月18日作成
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