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異國さかな雜談
濱田耕作
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)加牟流知《かむるち》
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「喞」の「口」に代えて「魚」、第3水準1-94-46]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ピチ/\
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私は衣食住ともに無頓着の方で、殊に食べ物に就いてはデリケートの味感がないと見え、たゞ世間普通の意味での甘い物を食べさせられてさへ居ればよいのであつて、マヅイものを食はされても餘り文句は言はない方である。それで自分の家でも、子供達は却つて今日の飯は固いとか、柔か過ぎるとか小言を言つても、私だけは今日は強い飯の流義の家に逗つた日だ、今日は柔かい飯の好きな家庭の人となつたのだと諦めるのであり、お菜があまくてもからくても、やはり甘口の料理屋へ行つたと思ひ、辛口の料理法に出會はしたのだと思つて我慢をするから、細君や女中に向つては至極寛大に取扱ひ易く出來てゐる積りでゐるが、それでは折角料理に念を入れても一向張合がないと言はれた。成程さうかも知れぬ。何しろ斯う言ふ手合であるから、料理に關する事を「洛味」に書けと言はれても、一向持合せの材料がないので困つてしまふ。併し度々の御催促であるから、今日は異國で經驗した食物の話を少し思ひ出し、しぼり出して書いて見よう。
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朝鮮の扶餘へ行つた時、洛東江に産する川幸を色々と食べさせられた。中にも「カムルチ」と言ふ魚の刺身は、其の身が眞白で美くしく、頗る味覺をそゝつたが、何分洛東江の魚にはヂストマがゐると聞いてゐるので、此處では生ま物を食はぬ決心をして、同行の東伏見伯にも左樣に申して居たのであるが、星島家令が遂に其の禁を破られたので、若しも病氣になつたら星島君獨りでは氣の毒と、皆んな破戒無殘の身となつてしまつた。ムツチリとした味で、仲々他の魚には見られない味である。それから二年以上も經つて、誰れも發病せぬのですつかり安心をしてしまひ、昨年再び同地へ行つた時には自分で注文して之を賞味したことである。カムルチ[#「カムルチ」は底本では「カルムチ」]は蛇の樣な形をしてゐるとの事であるが、宿屋の主人の見せてくれた溌溂たる奴を見ると、成程多少はそれに似た不氣味な形をしてゐるのみならず、頗る獰猛な鬪魚の種類であつて、近年は京都附近の川にも少し繁殖してゐると言ふ。その後釜山の小學校から貰つた郷土讀本を見たら、其の習性が面白く書かれてゐた。伯爵も特に此の魚を珍らしく思はれたと見え、『寶雲』誌上に連載せられてゐる朝鮮美術行脚の標題をば、「加牟流知《かむるち》」とせられてゐるのである。
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一昨年平壤へ行つた時、黒板先生に誘はれて成川の書院を見に行つた。晝食を成川河畔の料亭でたべると、珍らしい魚が刺身にも燒肴にも出てゐるので、其の名を聞くと「セガレ」(?)と言ふ。その後滿洲國輯安縣の高句麗の古墳を調査する爲め、鴨緑江畔の滿浦鎭へ暫く滯在すると、殆ど毎日の樣に此の魚を食はされた。一寸オコゼにも似た形をしてゐるが、カムルチ的のムツチリした仲々捨て難い味を持ち、川魚と言ふよりも寧ろ海魚の味である。洋々たるアリナレの流れはさすが鴨川とは違ふ。其處に住む魚もモロコやゴリの樣なものではない。併し昨年また同じ滿浦鎭へ行つて、同じ滿浦館へ行つたら、「セガレ」は一寸顏を見せただけで、後は堅い牛肉などが出て來ると言ふ有樣であつて、此の魚もさうザラには捕れるのではないらしい。又同じ大きさの物も仲々揃はないと見え、數人の食卓にも一人には大きな奴が一つ、一人には小さな奴が二つと言ふ有樣であつた。
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支那の料理は日本料理とは違つて、魚が餘り幅を利かしてゐないことは先刻諸君の知つてゐられる通りで、鯉魚とか※[#「喞」の「口」に代えて「魚」、第3水準1-94-46]魚とかゞスツカリ煮込まれて現はれて來る位であるが、南方では生魚も出ることがあると言ふ。先年北京の東興樓といふ料理屋で、蘇州の名物とかの生きた小蝦に味噌を付けて食ふ奴を出されたことがある。ピチ/\と跳ねる蝦を食ふのであるから、殘酷でもあり薄氣味が惡く、味を賞する餘裕もなかつた。然るに同席の支那の友人某君に「それはチブスに危險ですからお止めなさい」と言はれて、急に腹具合が惡く、それから一週間ばかり今日發病するか、明日參るかと心配したことである。後で聞くと、此の蝦は西湖の泥水の中にゐるのを捕るのであるから、丸でバチルスの培養基の樣なものであると言ふ。可恐、可恐。併し今に殘念に思ふのは、大正五年最初朝鮮へ行つた時には、上水道のない土地では一切生ものを食べないことにしてゐたので、鎭南浦の宿屋で其の日に捕りたてのマグロの刺身を出されても、恐れをなして食はなかつた處、同行の小場君に「口の中で溶ける樣なマグロを何故食べぬか」と見せつけられ、唾液を呑んだ時の事である。今でもあの時食べれば宜かつたにと殘念に思ふ。
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生魚《ローフイシユ》を食はぬ西洋人も、牡蠣だけは一向平氣に食ふことは日本人以上である。十年程前巴里へ行つた時、久々に今ま波蘭の公使をしてゐられる伊藤述史君に會つた。「今日は一つ自分の家庭でゆつくり夕食をやらう」と、電話をかけて奧樣に都合を聞かれると、お客樣へ出す食物の用意は一向ないとの事、併し「宜しい」と、伊藤君は私と一緒に其の家に歸る途中で牡蠣を買はれて行つたが、さて食卓には二人前の魚しかなく、私に牡蠣を出されたが、私は恐ろしくて生牡蠣を食べる勇氣はなく、降參して伊藤君の魚を頂戴したので、伊藤君は生牡蠣だけで食事を終られたのは、實に氣の毒な思ひをしたことであつた。併し生牡蠣の料理が出る毎に、伊藤君が舊友を歡迎する爲めに、大使館から歸り途に牡蠣を買つて歸られ、それ計りで夕食を濟まされた厚意を思ひ出し、哺飯の故事にも似た感謝の念を新たにする次第である。
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伊太利は地中海の魚が豐富なので、隨分食卓に魚が出て來る。羅馬の「カステル・チユザリ」と言ふ料理屋では「フリツト・ミスト」と言つて、小さな魚、飯章魚などの天麩羅も食はすが、安下宿屋などでは金曜日の精進日の外には餘り魚を食はさない(西洋では魚は精進物の部類に這入つてゐる)。羅馬の或る下宿に居る頃、日本では一番何を食ふかと聞かれて、魚を食ふと答へた後間もなく、或る日の中食に魚が出た。併し日本の魚の樣に新しくなく、まさかプーンと來る程でもないが、肉が柔かく一寸閉口してフオークをおいてしまつた。その時私の向側に坐つてゐた宿の主婦の妹さんは、此の魚は新しくないので私が食べないのであると感づいたと見え、女中に「濱田さんは魚を召上らないから肉を持つて來なさい」と命令した。併しながら、同卓二十餘人の客人は已に皆な之を食べてしまつてゐる、私ばかり何うして肉を食へよう。私は「いや今日は少し腹具合が惡いので、洵に失禮をします」と辯解して其の後の皿は食べず、早く食卓を離れて直ちに街の料理屋へ走つたことであつた。
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とにかく魚の新鮮で美味なること日本に若くはない。勿論巴里のプルニエー、倫敦のスコツトなどに行けば、よい魚も食べられようが、安下宿住居の留學生などには其の勇氣はない。何時も店頭に飾つてある赤い大きな爪の蟹や蝦の姿を見て、タメ息をついたことである。そこで十年前二度目に倫敦に行つた時、ピカデリーを歩いて例の蟹の爪を見て、急に留學生の某々君を誘つて、十年前の鬱憤を晴した處、そのうち某君は切りに初對面に關らず此の御馳走に預ると恐縮せられるので、「さう思はれるならば、此の次西洋に來られる時、留學生の方々にオゴつて返禮をして下さい」と言つた樣な次第で、西洋では貧乏人は肉を食ひ、金持ちが魚を食ふ所は日本とは大分違つてゐる。但し日本も近頃は追々と西洋風になつて行く傾向はあるが、當分鰯でも食つて居れば、まだ/\魚に食ひはぐれることはあるまい。
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私の家のものは東北の山國生れであるから、子供の時は魚と言へば鯉や鮒の外には、章魚と鹽鮭ぐらゐを見ただけである。其頃は交通が不便なので、魚屋《いさばや》に行くと大きな章魚がブラ下つて、蠅が飛び廻つてゐる鮭が置いてある位であつたことを私も覺えてゐる。京都の若狹鰈と鱧と言ふ所だ。それで今でも始終魚屋に章魚を注文するので、近來齒の惡くなつた私は閉口する。また近頃は京都あたりでは魚屋は鮪の切身を置いて行き、魚を料理して行くから、女子供等は魚の全形も知らず、其の名も一向覺えない。私の如く子供の時暫く海岸に居つて、自分で魚を釣つて來て自分で料理をしたものと比較すれば、魚に關する知識は非常な違ひである。それでは今に各家庭の食堂には、西洋によくある樣に野鳥や魚の畫を額にして出して置く必要が起つて來るであらう。
[#地から3字上げ](洛味三ノ四 昭和一二、六)
底本:「青陵随筆」座右寶刊行會
1947(昭和22)年11月20日発行
初出:「洛味」
1937(昭和12)年6月
入力:鈴木厚司
校正:門田裕志
2004年5月18日作成
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