青空文庫アーカイブ

諸国の玩具
――浅草奥山の草分――
淡島寒月

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)この間《あいだ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)印度|辺《あた》りから

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)チャリネ[#「チャリネ」に傍点]の前か

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ヘベさん/\と
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 例の珍らしいもの、変ったもの、何んでもに趣味を持つ僕の事ですから、この間《あいだ》三越の小児博覧会へ行った。見て行く中に、印度《インド》のコブラ(錦蛇《にしきへび》あるいは眼鏡蛇《めがねへび》)の玩具《おもちゃ》があったが、その構造が、上州の伊香保《いかほ》で売っている蛇の玩具と同じである。全く作り方が同じである処から見ると、この玩具は初め印度|辺《あた》りから渡ったものらしい。もっとも今は伊香保だけしか売っていないようですが、昔は東京にでも花時などに売っているのを往々見かけた。昔東京で僕らが見たのは、胴と同じように、頭も木で出来てあったが、伊香保のは、頭が張子で、形は段々と巧みになっている。それからこの間、『耽奇漫録《たんきまんろく》』から模したのですが、日向国《ひゅうがのくに》高鍋《たかなべ》の観音の市に売るという鶉車《うずらぐるま》の玩具や、また筑後柳河で作る雉子車《きじぐるま》、この種の物は形が古雅で、無器用な処に面白味がある。この節では玩具一つでも、作方《つくりかた》が巧みになって来たのは勿論であるが、面白味がなくなった。例えていえば昔の狐の面を見ると、眼の処に穴が空いていないが、近頃のはレースで冠って見えるようになっているなども、玩具の変遷《へんせん》の一例でしょう。面といえば昔は色々の形があった。僕の子供の時代であるから、安政度であるが、その時分の玩具には面が多くあって、おかめ、ひょっとこ、狐は勿論、今|一向《いっこう》見かけない珍らしいのでは河童《かっぱ》、蝙蝠《こうもり》などの面があったが、近頃は面の趣味は廃《すた》ったようだ。元来僕は面が大好きでしてね。その頃の僕の家ですから、僕が面が好きだというので、僕の室の欄間《らんま》には五、六十の面を掛けて、僕のその頃の着物は、袂《たもと》の端に面の散《ちら》し模様が染めてあって、附紐《つけひも》は面継《めんつぎ》の模様であったのを覚えています位、僕が面好きであったと共に、玩具屋にも種々あったものです。清水晴風さんの『うなゐのとも』という玩具の事を書いた書の中にも、ベタン人形として挙げてあるのはこれで、肥後熊本日奈久で作られます。僕は上方風《かみがたふう》にベッタ人形といっているが、ベタン人形と同じものですよ。それからこの間|仲見世《なかみせ》で、長方形の木箱の蓋《ふた》が、半ば引開になって、蓋の上には鼠がいて、開けると猫が追っかけて来るようになっている玩具を売ってますのを見たが、これは僕の子供の時分に随分|流行《はや》って、その後|廃《す》たれていたのが、この頃またまた復活して来たのですな。今は到底売れないが昔|亀戸《かめいど》の「ツルシ」といって、今|張子《はりこ》の亀の子や兵隊さんがありますが、あの種類《たぐい》で、裸体の男が前を出して、その先《さ》きへ石を附けて、張子の虎の首の動くようなのや、おかめが松茸《まつたけ》を背負っているという猥褻《わいせつ》なのがありましたっけ。こんな子供の玩具にも、時節の変遷が映《うつ》っているのですからな。僕の子供の頃の浅草の奥山の有様を考えると、暫《しばら》くの間に変ったものです。奥山は僕の父|椿岳《ちんがく》さんが開いたのですが、こんな事がありましたっけ。確かチャリネ[#「チャリネ」に傍点]の前かスリエ[#「スリエ」に傍点]という曲馬が――明治五年でしたか――興行された時に、何でもジョーワニという大砲を担《かつ》いで、空砲を打つという曲芸がありまして、その時|空鉄砲《からでっぽう》の音に驚かされて、奥山の鳩が一羽もいなくなった事がありました。奥山見世物の開山は椿岳で、明治四、五年の頃、伝法院《でんぼういん》の庭で、土州《どしゅう》山内容堂《やまのうちようどう》公の持っていられた眼鏡《めがね》で、普仏戦争の五十枚続きの油画を覗《のぞ》かしたのでした。看板は油絵で椿岳が描いたのでして、確かその内三枚ばかり、今でも下岡蓮杖《しもおかれんじょう》さんが持っています。その覗眼鏡《のぞきめがね》の中でナポレオン三世が、ローマのバチカンに行く行列があったのを覚えています。その外廓《がいかく》は、こう軍艦の形にして、船の側の穴の処に眼鏡を填《は》めたので、容堂公のを模して足らないのを駒形の眼鏡屋が磨《す》りました。而《しか》して軍艦の上に、西郷吉之助と署名して、南洲《なんしゅう》翁が横額に「万国一覧」と書いたのです。父はああいう奇人で、儲《もう》ける考えもなかったのですが、この興行が当時の事ですから、大評判で三千円という利益があった。
 当時奥山の住人というと奇人ばかりで、今立派な共同便所のある処|辺《あたり》に、伊井蓉峰《いいようほう》のお父さんの、例のヘベライといった北庭筑波《きたにわつくば》がいました。ヘベライというのは、ヘンホーライを通り越したというのでヘベライと自ら号し、人はヘベさん/\といってました。それから水族館の辺に下岡蓮杖さん、その先に鏑木雪庵《かぶらぎせつあん》、広瀬さんに椿岳なんかがいました。古い池の辺は藪《やぶ》で、狐や狸が住んでいた位で、その藪を開いて例の「万国一覧」の覗眼鏡の興行があったのです。今の五区の処は田圃でしたから今の池を掘って、その土で今の第五区が出来たというわけで、これはその辺の百姓でした大橋門蔵という人がやったのです。
 その後椿岳は観音の本堂傍の淡島堂に移って、いわゆる浅草画十二枚を一揃《ひとそろい》として描いて、十銭で売ったものです。近頃では北斎以後の画家として仏蘭西《フランス》などへ行くそうです。奇人連中の寄合《よりあい》ですから、その頃随分面白い遊びをやったもので、山門で茶の湯をやったり、志道軒《しどうけん》の持っていた木製の男根が伝っていたものですから、志道軒のやったように、辻講釈《つじこうしゃく》をやろうなどの議があったが、これはやらなかった。また椿岳は油絵なども描いた人で、明治初年の大ハイカラでした。それから面白いのは、父がゴム枕を持っていたのを、仮名垣魯文《かながきろぶん》さんが欲しがって、例の覗眼鏡の軍艦の下を張る反古《ほご》がなかった処、魯文さんが自分の草稿|一屑籠《ひとくずかご》持って来て、その代りに欲しがっていたゴム枕を父があげた事を覚えています。ツマリ当時の奇人連中は、京伝《きょうでん》馬琴《ばきん》の一面、下っては種彦《たねひこ》というような人の、耽奇の趣味を体得した人であったので、観音堂の傍で耳の垢取《あかと》りをやろうというので、道具などを作った話もあります。本郷玉川の水茶屋《みずぢゃや》をしていた鵜飼三二《うがいさんじ》さんなどもこの仲間で、玉川の三二さんは、活《い》きた字引といわれ、後には得能さんの顧問役のようになって、毎日友人の間を歴訪して遊んでいました。父の椿岳が油絵を教《おそわ》ったのは、横浜にいましたワグマン[#「ワグマン」に傍点]という人で、この人の油絵は山城宇治の万碧楼菊屋という茶屋に残っています。このワグマン[#「ワグマン」に傍点]という人も奇人で、手を出して雀を呼ぶと、鳥が懐《なつ》いて手に止りに来たというような人柄でした。ポンチ画なども描いて、今僕の覚えていて面白かったと思うのは、ポストの口に蜘蛛《くも》の巣の張っている処の画などがありました。[#地から1字上げ](明治四十二年六月『趣味』第四巻第六号)



底本:「梵雲庵雑話」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年8月18日第1刷発行
入力:小林繁雄
校正:門田裕志
2003年2月9日作成
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