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寺内の奇人団
淡島寒月

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)名残《なごり》で、

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)沢山|誦《よ》んで

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)おれ[#「おれ」に傍点]の処に
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 水族館の近所にある植込を見ると茶の木が一、二本眼につくでしょう。あれは昔の名残《なごり》で、明治の初年には、あの辺一帯茶畠で、今活動写真のある六区は田でした。これが種々の変遷《へんせん》を経て、今のようになったのですから、浅草寺寺内のお話をするだけでもなかなか容易な事ではありません。その中で私は面白い事を選んでお話しましょう。
 明治の八、九年頃、寺内にいい合わしたように変人が寄り集りました。浅草寺寺内の奇人団とでも題を附けましょうか、その筆頭には先《ま》ず私の父の椿岳《ちんがく》を挙げます。私の父も伯父も浅草寺とは種々関係があって、父は公園の取払《とりはらい》になるまで、あの辺一帯の開拓者となって働きましたし、伯父は浅草寺の僧侶の取締みたような役をしていました。ところで父は変人ですから、人に勧められるままに、御経も碌々《ろくろく》読めない癖に、淡島堂の堂守《どうもり》となりました。それで堂守には、坊主の方がいいといって、頭をクリクリ坊主にした事がありました。ところで有難い事に、淡島堂に参詣の方は、この坊主がお経を出鱈目《でたらめ》によむのを御存知なく、椿岳さんになってから、お経も沢山|誦《よ》んで下さるし、御蝋燭《おろうそく》も沢山つけて下さる、と悦んで礼をいいましたね。堂守になる前には仁王門の二階に住んでいました。(仁王門に住むとは今から考えたら随分|奇抜《きばつ》です。またそれを見ても当時浅草寺の秩序がなかったのが判《わか》ります。)この仁王門の住居は出入によほど不自由でしたが、それでもかなり長く住んでいました。後になっては画家の鏑木雪庵《かぶらぎせつあん》さんに頼んで、十六羅漢《じゅうろくらかん》の絵をかいて貰《もら》って、それを陳列して参詣の人々を仁王門に上らせてお茶を飲ませた事がありました。それから父は瓢箪池《ひょうたんいけ》の傍で万国一覧という覗眼鏡《のぞきめがね》を拵《こしら》えて見世物を開きました。眼鏡の覗口《のぞきぐち》は軍艦の窓のようで、中には普仏戦争とか、グリーンランドの熊狩とか、そんな風な絵を沢山に入れて、暗くすると夜景となる趣向をしましたが、余り繁昌したので面倒になり知人ででもなければ滅多《めった》にこの夜景と早替りの工夫をして見せませんでした。このレンズは初め土佐の山内侯が外国から取寄せられたもので、それが渡り渡って典物《てんぶつ》となり、遂に父の手に入ったもので、当時よほど珍物に思われていたものと見えます。その小屋の看板にした万国一覧の四字は、西郷さんが、まだ吉之助といっていた頃に書いて下さったものだといいます。それで眼鏡を見せ、お茶を飲ませて一銭貰ったのです。処で例の新門辰五郎《しんもんたつごろう》が、見世物をするならおれ[#「おれ」に傍点]の処に渡りをつけろ、といって来た事がありました。しかし父は変人ですし、それに水戸の藩から出た武士|気質《かたぎ》は、なかなか一朝一夕にぬけないで、新門のいう話なぞはまるで初めから取合わず、この興行の仕舞まで渡りをつけないで、別派の見世物として取扱われていたのでした。
 それから次には伊井蓉峰《いいようほう》の親父《おやじ》さんのヘヾライ[#「ヘヾライ」に傍点]さん。まるで毛唐人《けとうじん》のような名前ですが、それでも江戸ッ子です。何故ヘヾライと名を附けたかというと、これにはなかなか由来があります。これは変人の事を変方来な人といって、この変方来を、もう一つ通り越したのでヘヾライだという訳だそうです。このヘヾライさんは、写真屋を始めてなかなか繁昌しました。写真師ではこの人の他に、北庭筑波《きたにわつくば》、その弟子に花輪吉野などいうやはり奇人がいました。
 次に、久里浜で外国船が来たのを、十里離れて遠眼鏡《とおめがね》で見て、それを注進したという、あの名高い、下岡蓮杖《しもおかれんじょう》さんが、やはり寺内で函館戦争、台湾戦争の絵をかいて見せました。これは今でも九段の遊就館《ゆうしゅうかん》にあります。この他、浅草で始めて電気の見世物をかけたのは広瀬じゅこくさんで、太鼓に指をふれると、それが自然に鳴ったり、人形の髪の毛が自然に立ったりする処を見せました。
 曲馬が東京に来た初めでしょう。仏蘭西《フランス》人のスリエというのが、天幕《てんまく》を張って寺内で興行しました。曲馬の馬で非常にいいのを沢山外国から連れて来たもので、私などは毎日のように出掛けて、それを見せてもらいました。この連中に、英国生れの力持《ちからもち》がいて、一人で大砲のようなものを担《かつ》ぎあげ、毎日ドンドンえらい音を立てたので、一時は観音様の鳩が一羽もいなくなりました。
 それから最後に狸の騒動があった話をしましょう。ただ今の六区辺は淋《さび》しい処で、田だの森だのがありました。それを開いたのは、大橋門蔵という百姓でした。森の木を伐《き》ったり、叢《くさ》を刈ったりしたので、隠れ家を奪われたと見えて、幾匹かの狸が伝法院の院代をしている人の家の縁の下に隠れて、そろそろ持前《もちまえ》の悪戯《わるさ》を始めました。ちょっと申せば、天井から石を投げたり、玄関に置いた下駄を、台所の鍋の中に並べて置いたり、木の葉を座敷に撒《ま》いたり、揚句《あげく》の果には、誰かが木の葉がお金であったらいいといったのを聞いたとかで、観音様の御賽銭《おさいせん》をつかみ出して、それを降らせたりしたので、その騒ぎといったらありませんでした。前に申したスリエの曲馬で大砲をうった男が、よし来たというので、鉄砲をドンドン縁の下に打込む、それでもなお悪戯が止まなかったので、仕方がないから祀《まつ》ってやろうとなって、祠《ほこら》を建てました。これは御狸様といって昔と位置は変っていますが、今でも区役所の傍にあります。
[#地から1字上げ](明治四十五年四月『新小説』第十七年第四巻)
       ◇
 その御狸様のお告げに、ここに祀ってくれた上からは永く浅草寺の火防の神として寺内安泰を計るであろうとのことであったということです。
 今浅草寺ではこのお狸様を鎮護大使者として祀っています。当時私の父椿岳はこの祠堂《しどう》に奉納額をあげましたが、今は遺《のこ》っていないようです。
 毎年三月の中旬に近い日に祭礼を催します。水商売の女性たちの参詣が盛んであるようですが、これは御鎮護様《おちんごさま》をオチンボサマ[#「オチンボサマ」に傍点]に懸けた洒落《しゃれ》参りなのかも知れません。
[#地から1字上げ](大正十四年十一月『聖潮』第二巻第十号より追補)



底本:「梵雲庵雑話」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年8月18日第1刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:小林繁雄
校正:門田裕志
2003年2月9日作成
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