青空文庫アーカイブ

銀座は昔からハイカラな所
淡島寒月

-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)尾張町《おわりちょう》の

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)皆|舶来蝋燭《はくらいろうそく》を

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#地から1字上げ](大正十年十月『銀座』資生堂)
-------------------------------------------------------

 今日でも「銀座」といえば何に限らず目新らしいもののある所とされていますが、以前「煉瓦」と呼ばれた時代にもあの辺は他の場所よりも一歩進んでいて、その時分の珍らしいものや、珍らしい事の多くはこの「煉瓦」にありました。いわば昔からハイカラな所だったのです。

     伊太利風景の見世物

 明治七、八年の頃だったと思いますが、尾張町《おわりちょう》の東側に伊太利《イタリー》風景の見世物がありました。これは伊太利人が持って来たもので、長いカンバスへパノラマ風に伊太利のベニスの風景だとか、ナポリの景だとかあるいはヴェスビアス火山だとかいったものが描いてあって、それを機械で一方から一方へ巻いて行くに連れてそれらの景色が順次正面へ現れて来ます。そうするとその前の方へ少し離れた所に燈火《あかり》の仕掛があってこれがその絵に依《よ》って種々《いろいろ》な色の光を投げかけるようになっています。例えばベニスの景の時には月夜の有様を見せて青い光を浴せ、ヴェスビアス火山噴火の絵には赤い光線に変るといった具合です。今から考えれば実に単純なつまらないものですが、その時分にはパノラマ風の画風と外国の風景と光線の応用とが珍らしくって、評判だったものです。これを私の父が模倣《まね》して浅草公園で興行しようと計画したことがありましたが都合でやめました。

     西洋蝋燭

 明治五年初めて横浜と新橋との間に汽車が開通した時、それを祝って新橋停車場の前には沢山の紅提灯《べにぢょうちん》が吊るされましたが、その時その提灯には皆|舶来蝋燭《はくらいろうそく》を使用して灯をつけたものです。その蝋燭の入っていた箱が新橋の傍に山のように積んで捨ててあったのを覚えています。これが恐らく西洋蝋燭を沢山に使った初めでしたろう。その頃は西洋蝋燭を使うなどということは珍らしかった時代ですから大分世間の評判に上りました。

     舶来屋

 その頃から西洋臭いものを売る店が比較的多くありました。こういう店では大抵舶来の物を種々雑多取り交ぜて、また新古とも売っておりました。例えばランプもあれば食器類もあり、帽子もあればステッキのようなものもあるといった具合で、今日のように専門的に売っているのではなかったのです。それでこういう店を俗に舶来屋と呼んでいました。私の今覚えていますのは、当時の読売新聞社と大倉組との間あたりにこの舶来屋がありました。尤《もっと》もこの店は器物食器を主に売っていました。それから大倉組の処からもう少し先《さ》き、つまり尾張町寄りの処にもありました。現に私がこの店で帽子を見てそれが非常に気に入り、父をせびって買いに行った事がありましたが、値をきいて見ると余り高価だったのでとうとう買わずに帰って口惜しかった事を覚えています。とにかくこういうように舶来の物を売る店があったということは、横浜から新橋へ汽車の便のあったことと、築地に居留地のあったためと、もう一つは家屋の構造が例の煉瓦で舶来品を売るのに相当していたためでしょう。

     オムニバス

 明治七年頃でしたが、「煉瓦」の通りを「オムニバス」というものが通りました。これは即ち二階馬車のことですが、当時は原語そのままにオムニバスと呼んだものです。このオムニバスは紀州の由良という、後に陛下の馭者《ぎょしゃ》になった人と私の親戚に当る伊藤八兵衛という二人が始めたもので、雷門に千里軒というのがあって此処《ここ》がいわば車庫で、雷門と芝口との間を往復していたのです。この車台は英国の物を輸入してそのまま使用したので即ち舶来品でした。ですから数はたった二台しかありませんでした。馬は四頭立で車台は黒塗り、二階は背中合せに腰掛けるようになっていて梯子《はしご》は後部の車掌のいる所に附いていました。馭者はビロードの服にナポレオン帽を戴《いただ》いているという始末で、とにかく珍らしくもあり、また立派なものでした。乗車賃は下が高く二階は安うございました。多分下の方の乗車賃は芝口から浅草まで一分《いちぶ》だったかと思います。ところがなにしろその時分の狭い往来をこんな大きな、しかも四頭立の馬車が走ったものですから、度々《たびたび》方々で人を轢《ひ》いたり怪我をさせたので大分評判が悪く、随《したが》って乗るのも危《あぶ》ながってだんだん乗客が減ったので、とうとうほんの僅かの間でやめてしまいました。その後このオムニバスの残骸は、暫《しばら》く本所《ほんじょ》の緑町に横《よこた》わっていたのですが、その後どうなりましたかさっぱり分らなくなってしまいました。これから後に鉄道馬車が通るようになったのです。

     釆女ケ原で風船

 これは銀座通りとは少し離れていますが、今の精養軒の前は釆女《うねめ》ケ原《はら》でした。俗にこれを海軍原と呼んで海軍省所属の原でしたが、ここで海軍省が初めて風船というものを揚《あ》げました。なにしろ日本で初めてなのですから珍らしくって大した評判で、私などもわざわざ見に行きました。
 こんな風に今の銀座|界隈《かいわい》その時分の「煉瓦」辺が、他の場所よりも早く泰西《たいせい》文明に接したというわけは、西洋の文明が先《ま》ず横浜へ入って来る、するとそれは新橋へ運ばれて築地の居留地へ来る。その関係から築地と新橋にほど近い「煉瓦」は自然と他の場所よりもハイカラな所となったのでありましょう。[#地から1字上げ](大正十年十月『銀座』資生堂)



底本:「梵雲庵雑話」岩波文庫、岩波書店
   1999(平成11)年8月18日第1刷発行
※「釆女ケ原」の「ケ」を小書きしない扱いは、底本通りにしました。
入力:小林繁雄
校正:門田裕志
2003年2月9日作成
2003年5月11日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


前のページに戻る 青空文庫アーカイブ