青空文庫アーカイブ

●「或る女」巻頭のホイットマンの詩

"Not till the sun excludes you, do I exclude you;
Not till the waters refuse to glisten for you, and the leaves to rustle for you, do my words refuse to glisten and rustle for you,"
              ――Walt Whitman――


太陽があなたを見放さないうちは、私もあなたを見放しにはしない、
水があなたのために輝くのを拒み、そうして木の葉があなたのためにひらめくのを拒まない間は、私の言葉もあなたのために輝きひらめくことを拒みはしない。
              ――有島武郎 訳――


●「或る女」あとがき

    書  後

 相変らず愚図々々していたけれども、もう如何しても余裕がなくなったので、私は四月の一日から、円覚寺の塔頭の一つの松嶺院という無住の寺に引籠りました。本気に作物をしようとなると如何しても住い慣れた自家では出来ないのが悪い習慣です。家族の者達が身近かにいて、縦令《たとえ》何等の世話を焼いてくれないでも、どの位|捗取《はかど》ったろうなどゝ考えていてくれるなと思うと、もう私はそれが気懸りで思うように筆を運ばす事が出来なくなるのです。札幌で教師をしていた頃も、よく学校を休んで市内の旅館に泊りこんで筆を取ったものです。翌日知らん顔をして学校に出ると、狭い田舎町の事とて、新聞の消息欄の中に「有島武郎氏○○館止宿」などゝ出ているのを発見した事などを思い出します。
 松嶺院では階下にも広い座敷がいくつもありましたが、若《も》し止宿者が来た時お互に迷惑になってはいけないと思って、孤立した二階の二間を借りました。本当に畳や襖は汚れていて、天井は頭が支える程低く、日光とては一日の間殆んど這入らないような所でしたけれども仕事は可なり出来ました。新聞は全く見ませんでした。一週間に一度か二度可なりゆっくり[#「ゆっくり」に傍点]休養した外には、殆んど※[#「※」は、石へん+乞]々《こつこつ》として机の前にばかりいました。机の上の小さな一輪挿しには椿、さつき、菜の花、海棠、山吹、薔薇という順序に花が挿されて、最後の薔薇が花を開き切らない中にそこを去るようになりました。実際春の移り変りはこの二十日の間に可なり落付いた心で眺める事が出来ました。私はこれを副収穫として嬉しく思っています。始めの中は思守居の坊さんもいないので、大きな建物の中にはたった一人で住んでいました。この生活の委細はその中「雑信一束」で「我等」に寄稿したいと思っています。原稿は一日平均十八枚を書いた事になります。一番沢山枚数を書いた日が三十枚です。それを書いて夜の十一時頃になると、我慢にも頭が働かなくなってしまいます。二日か三日働くのなら一日にもっと書けるかも知れませんが、十日以上も続けて仕事をしていると一日三十枚が最大限だと云う事を知りました。
 二十二日に東京に帰ると慌てゝ京都の同志社に於ける講演旅行の準備に取りかゝりました。而《そう》して二十七日に東京を発ちました。完成しない「或女」の続稿の一部分も荷物の中に這入っていました。同志社では「芸術論」の去年の続きとホイットマンとを講じています。
 ホイットマンと云えば、今年が丁度誕生から百年に当る故かも知れないけれども、にわかに流行し出したようです。而《し》かも私のようなものがこの詩人の研究者として権威あるものゝ一人であるかの如くにある人々から思われているのは困ったものです。こんな事は何所にでもあるか知らないが、線香花火のような軽率な流行は実際何よりもいやな気がします。私なんかゞホイットマン研究者の代表的な一人として見られるという事などは、日本の思想界の軽佻さを裏書きしたものと云はなければなりません。私が僭越にもこの詩人を同志社の講演の題目に選んだのは、何も私がその学者だからという訳ではないです。同志社の講壇には最初から私は学者として立ってはいないのです。たゞ一個の作家として立っているのです。作家が自分を築き上げる上にホイットマンから受けた所を、秩序も研究もなく雑然と披瀝しているのに過ぎないのです。
 同志社講演の暇を盗んで、一昨日から私は鳥羽離宮の遺趾なる京都城南の北向不動堂の方丈の一室を借りて、「或女」の残りを書き上げました。朝夕二度の精進の食事と昼にはパンと牛乳とで働きました。境遇は円覚寺ほど幽邃《ゆうすい》ではありませんが、それでも兎に角仕事は終えました、電報までよこして催促している足助に早くこの稿をこれから送ります。今日はこれから京都に帰って、明日は※[#「※」は、つつみがまえに夕]々《そうそう》神戸の方に行かなければなりません。
 京都の春はもう過ぎました。こゝでは蚊帳を垂って寝ました。菜種畑は結実でたわゝになっています。風が吹くと椎の木から去年の葉が留度なく散り飛んでいます。交尾期にあるかとんぼ[#「かとんぼ」に傍点]が部屋の中に幾匹も飛び込んで来ます。昼中は蝉が鳴き出しています。袷を着ていた私は暑さに堪えずに単衣を着て経机に向っています。
 読者諸君から「或女」前篇に対する感想を十数通受取りました。御返事をし漏れた向きもあると思いますからこゝで感謝の意を表します。
 この八月には差支えがなかったら子供達と一緒に北海道の方に旅をして見たいと思っています。子供は三人とも札幌で生れました。彼等は五年振りで自分の生れ故郷を見舞おうとするのです。
 写真版は私が籠っていた円覚寺の松嶺院です。[#底本には、本文と書後の間に松嶺院の写真が一葉挟まっている]
 最後に付加えて云っておきたいのは、この小説にはモデルがあって、それはある文学者とその先妻にあたる人とが用いられていると云うある一部の人達の評判です。それはそうに違いありません。然しそれは事件の極輪郭だけからヒントを得たので、性格などは全然私が創作したものです。殊に後半の女主人公や事務長の関係は全然無根だと云っていゝのです。だからこの作物は全く私の実感の延長だとして読んでいたゞきます。モデルに累を及ぼしたくないから一言します。
   一九一九 五月十一日



作業履歴:「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の指針」に基づいて、底本の表記を次のようにあらためました。
 1.旧仮名づかいを現代仮名づかいにあらためた。
 2.旧字を常用漢字表に掲げられている新字にあらためた。
 3.難読な漢字には振り仮名をつけた。

底本:『精選 名著復刻全集 近代文学館「或女 後編」』財団法人 日本近代文学館 刊行
   1979(昭和54)年2月1日 発行
親本:「或女 後編」有島武郎著作集 第九輯 叢文閣
   1919(大正8)年6月16日 発行
入力:地田尚



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