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クララの出家
有島武郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)暗い中《うち》に

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)神の子|基督《キリスト》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)はっ[#「はっ」に傍点]
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       ○

 これも正しく人間生活史の中に起った実際の出来事の一つである。

       ○

 また夢に襲われてクララは暗い中《うち》に眼をさました。妹のアグネスは同じ床の中で、姉の胸によりそってすやすやと静かに眠りつづけていた。千二百十二年の三月十八日、救世主のエルサレム入城を記念する棕櫚《しゅろ》の安息日《あんそくび》の朝の事。
 数多い見知り越しの男たちの中で如何《どう》いう訳か三人だけがつぎつぎにクララの夢に現れた。その一人はやはりアッシジの貴族で、クララの家からは西北に当る、ヴィヤ・サン・パオロに住むモントルソリ家のパオロだった。夢の中にも、腰に置いた手の、指から肩に至るしなやかさが眼についた。クララの父親は期待をもった微笑を頬《ほお》に浮べて、品よくひかえ目にしているこの青年を、もっと大胆に振舞えと、励ますように見えた。パオロは思い入ったようにクララに近づいて来た。そして仏蘭西《フランス》から輸入されたと思われる精巧な頸飾《くびかざ》りを、美しい金象眼《きんぞうがん》のしてある青銅の箱から取出して、クララの頸に巻こうとした。上品で端麗な若い青年の肉体が近寄るに従って、クララは甘い苦痛を胸に感じた。青年が近寄るなと思うとクララはもう上気して軽い瞑眩《めまい》に襲われた。胸の皮膚は擽《くすぐ》られ、肉はしまり、血は心臓から早く強く押出された。胸から下の肢体《したい》は感触を失ったかと思うほどこわばって、その存在を思う事にすら、消え入るばかりの羞恥《しゅうち》を覚えた。毛の根は汗ばんだ。その美しい暗緑の瞳《ひとみ》は、涙よりももっと輝く分泌物の中に浮き漂った。軽く開いた唇《くちびる》は熱い息気《いき》のためにかさかさに乾いた。油汗の沁《し》み出た両手は氷のように冷えて、青年を押もどそうにも、迎え抱こうにも、力を失って垂れ下った。肉体はややともすると後ろに引き倒されそうになりながら、心は遮二無二《しゃにむに》前の方に押し進もうとした。
 クララは半分気を失いながらもこの恐ろしい魔術のような力に抵抗しようとした。破滅が眼の前に迫った。深淵が脚の下に開けた。そう思って彼女は何とかせねばならぬと悶《もだ》えながらも何んにもしないでいた。慌《あわ》て戦《おのの》く心は潮《うしお》のように荒れ狂いながら青年の方に押寄せた。クララはやがてかのしなやかなパオロの手を自分の首に感じた。熱い指先と冷たい金属とが同時に皮膚に触れると、自制は全く失われてしまった。彼女は苦痛に等しい表情を顔に浮べながら、眼を閉じて前に倒れかかった。そこにはパオロの胸があるはずだ。その胸に抱き取られる時にクララは元のクララではなくなるべきはずだ。
 もうパオロの胸に触れると思った瞬間は来て過ぎ去ったが、不思議にもその胸には触れないでクララの体は抵抗のない空間に傾き倒れて行った。はっ[#「はっ」に傍点]と驚く暇もなく彼女は何所《どこ》とも判《わか》らない深みへ驀地《まっしぐら》に陥って行くのだった。彼女は眼を開こうとした。しかしそれは堅く閉じられて盲目《めしい》のようだった。真暗な闇の間を、颶風《ぐふう》のような空気の抵抗を感じながら、彼女は落ち放題に落ちて行った。「地獄に落ちて行くのだ」胆《きも》を裂くような心咎《こころとが》めが突然クララを襲った。それは本統《ほんとう》はクララが始めから考えていた事なのだ。十六の歳《とし》から神の子|基督《キリスト》の婢女《しもべ》として生き通そうと誓った、その神聖な誓言《せいごん》を忘れた報いに地獄に落ちるのに何の不思議がある。それは覚悟しなければならぬ。それにしても聖処女によって世に降誕した神の子基督の御顔を、金輪際《こんりんざい》拝し得られぬ苦しみは忍びようがなかった。クララはとんぼがえり[#「とんぼがえり」に傍点]を打って落ちながら一心不乱に聖母を念じた。
 ふと光ったものが眼の前を過ぎて通ったと思った。と、その両肱《りょうひじ》は棚《たな》のようなものに支えられて、膝《ひざ》がしらも堅い足場を得ていた。クララは改悛者《かいしゅんしゃ》のように啜泣《すすりな》きながら、棚らしいものの上に組み合せた腕の間に顔を埋めた。
 泣いてる中《うち》にクララの心は忽《たちま》ち軽くなって、やがては十ばかりの童女の時のような何事も華やかに珍らしい気分になって行った。突然華やいだ放胆な歌声が耳に入った。クララは首をあげて好奇の眼を見張った。両肱は自分の部屋の窓枠に、両膝は使いなれた樫《かし》の長椅子《ながいす》の上に乗っていた。彼女の髪は童女の習慣どおり、侍童《ページ》のように、肩あたりまでの長さに切下《きりさげ》にしてあった。窓からは、朧夜《おぼろよ》の月の光の下に、この町の堂母《ドーモ》なるサン・ルフィノ寺院とその前の広場とが、滑かな陽春の空気に柔らめられて、夢のように見渡された。寺院の北側をロッカ・マジョーレの方に登る阪《さか》を、一つの集団となってよろけながら、十五、六人の華車《きゃしゃ》な青年が、声をかぎりに青春を讃美する歌をうたって行くのだった。クララはこの光景を窓から見おろすと、夢の中にありながら、これは前に一度目撃した事があるのにと思っていた。
 そう思うと、同時に窓の下の出来事はずんずんクララの思う通りにはかどって行った。

  夏には夏の我れを待て。
  春には春の我れを待て。
  夏には隼《たか》を腕に据えよ。
  春には花に口を触れよ。
  春なり今は。春なり我れは。
  春なり我れは。春なり今は。
  我がめぐわしき少女《おとめ》。
  春なる、ああ、この我れぞ春なる。

 寝しずまった町並《まちなみ》を、張りのある男声の合唱が鳴りひびくと、無頓着《むとんじゃく》な無恥な高笑いがそれに続いた。あの青年たちはもう立止る頃だとクララが思うと、その通りに彼らは突然阪の中途で足をとめた。互に何か探し合っているようだったが、やがて彼らは広場の方に、「フランシス」「ベルナルドーネの若い騎士」「円卓子《パンサ・ロトンダ》の盟主」などと声々に叫び立てながら、はぐれた伴侶《なかま》を探しにもどって来た。彼らは広場の手前まで来た。そして彼らの方に二十二、三に見える一人の青年が夢遊病者のように足もともしどろ[#「しどろ」に傍点]に歩いて来るのを見つけた。クララも月影でその青年を見た。それはコルソの往還を一つへだてたすぐ向うに住むベルナルドーネ家のフランシスだった。華美を極めた晴着の上に定紋《じょうもん》をうった蝦茶《えびちゃ》のマントを着て、飲み仲間の主権者たる事を現わす笏《しゃく》を右手に握った様子は、ほかの青年たちにまさった無頼《ぶらい》の風俗だったが、その顔は痩《や》せ衰えて物凄いほど青く、眼は足もとから二、三間さきの石畳を孔《あな》のあくほど見入ったまま瞬《またた》きもしなかった。そしてよろけるような足どりで、見えないものに引ずられながら、堂母《ドーモ》の広場の方に近づいて来た。それを見つけると、引返して来た青年たちは一度にとき[#「とき」に傍点]をつくって駈《か》けよりざまにフランシスを取かこんだ。「フランシス」「若い騎士」などとその肩まで揺《ゆす》って呼びかけても、フランシスは恐《おそろ》しげな夢からさめる様子はなかった。青年たちはそのていたらく[#「ていたらく」に傍点]にまたどっと高笑いをした。「新妻《にいづま》の事でも想像して魂がもぬけたな」一人がフランシスの耳に口をよせて叫んだ。フランシスはついた狐《きつね》が落ちたようにきょとん[#「きょとん」に傍点]として、石畳から眼をはなして、自分を囲むいくつかの酒にほてった若い笑顔を苦々しげに見廻わした。クララは即興詩でも聞くように興味を催《もよ》おして、窓から上体を乗出しながらそれに眺め入った。フランシスはやがて自分の纏《まと》ったマントや手に持つ笏《しゃく》に気がつくと、甫《はじ》めて今まで耽《ふけ》っていた歓楽の想出《おもいで》の糸口が見つかったように苦笑いをした。
 「よく飲んで騒いだもんだ。そうだ、私は新妻の事を考えている。しかし私が貰《もら》おうとする妻は君らには想像も出来ないほど美しい、富裕な、純潔な少女なんだ」
 そういって彼れは笏を上げて青年たちに一足先きに行けと眼で合図した。青年たちが騒ぎ合いながら堂母《ドーモ》の蔭に隠れるのを見届けると、フランシスはいまいましげに笏を地に投げつけ、マントと晴着とをずたずたに破りすてた。
 次の瞬間にクララは錠のおりた堂母《ドーモ》の入口に身を投げかけて、犬のようにまろびながら、悔恨の涙にむせび泣く若いフランシスを見た。彼女は奇異の思いをしながらそれを眺めていた。春の月は朧《おぼ》ろに霞《かす》んでこの光景を初めからしまいまで照している。
 寺院の戸が開いた。寺院の内部は闇で、その闇は戸の外に溢れ出るかと思うほど濃かった。その闇の中から一人の男が現われた。十歳の童女から、いつの間にか、十八歳の今のクララになって、年に相当した長い髪を編下げにして寝衣《ねまき》を着たクララは、恐怖の予覚を持ちながらその男を見つめていた。男は入口にうずくまるフランシスに眼をつけると、きっ[#「きっ」に傍点]とクララの方に鋭い眸《ひとみ》を向けたが、フランシスの襟元《えりもと》を掴《つか》んで引きおこした。ぞろぞろと華やかな着物だけが宙につるし上って、肝腎《かんじん》のフランシスは溶けたのか消えたのか、影も形もなくなっていた。クララは恐ろしい衝動を感じてそれを見ていた。と、やがてその男の手に残った着物が二つに分れて一つはクララの父となり、一つは母となった。そして二人の間に立つその男は、クララの許婚《いいなずけ》のオッタヴィアナ・フォルテブラッチョだった。三人はクララの立っている美しい芝生より一段低い沼地がかった黒土《くろつち》の上に単調にずらっ[#「ずらっ」に傍点]とならんで立っていた――父は脅《おびや》かすように、母は歎くように、男は怨《うら》むように。戦《たたかい》の街《ちまた》を幾度もくぐったらしい、日に焼けて男性的なオッタヴィアナの顔は、飽く事なき功名心と、強い意志と、生一本《きいっぽん》な気象とで、固い輪郭《りんかく》を描いていた。そしてその上を貴族的な誇りが包んでいた。今まで誰れの前にも弱味を見せなかったらしいその顔が、恨みを含んでじっとクララを見入っていた。クララは許婚の仲であるくせに、そしてこの青年の男らしい強さを尊敬しているくせに、その愛をおとなしく受けようとはしなかったのだ。クララは夢の中にありながら生れ落ちるとから神に献《ささ》げられていたような不思議な自分の運命を思いやった。晩《おそ》かれ早かれ生みの親を離れて行くべき身の上も考えた。見ると三人は自分の方に手を延ばしている。そしてその足は黒土の中にじりじりと沈みこんで行く。脅かすような父の顔も、歎くような母の顔も、怨むようなオッタヴィアナの顔も見る見る変って、眼に逼《せま》る難儀を救ってくれと、恥も忘れて叫ばんばかりにゆがめた口を開いている。しかし三人とも声は立てずに死のように静かで陰鬱《いんうつ》だった。クララは芝生の上からそれをただ眺めてはいられなかった。口まで泥の中に埋まって、涙を一ぱいためた眼でじっ[#「じっ」に傍点]とクララに物をいおうとする三人の顔の外《ほか》に、果てしのないその泥の沼には多くの男女の頭が静かに沈んで行きつつあるのだ。頭が沈みこむとぬるり[#「ぬるり」に傍点]と四方からその跡を埋めに流れ寄る泥の動揺は身の毛をよだてた。クララは何もかも忘れて三人を救うために泥の中に片足を入れようとした。
 その瞬間に彼女は真黄《まっきい》に照り輝く光の中に投げ出された。芝生も泥の海ももうそこにはなかった。クララは眼がくらみながらも起き上がろうともがい[#「もがい」に傍点]た。クララの胸を掴んで起させないものがあった。クララはそれが天使ガブリエルである事を知った。「天国に嫁《とつ》ぐためにお前は浄《きよ》められるのだ」そういう声が聞こえたと思った。同時にガブリエルは爛々《らんらん》と燃える炎の剣をクララの乳房の間からずぶり[#「ずぶり」に傍点]とさし通した。燃えさかった尖頭《きっさき》は下腹部まで届いた。クララは苦悶の中《うち》に眼をあげてあたりを見た。まぶしい光に明滅して十字架にかかった基督《キリスト》の姿が厳かに見やられた。クララは有頂天になった。全身はかつて覚えのない苦しい快い感覚に木の葉の如《ごと》くおののいた。喉《のど》も裂け破れる一声に、全身にはり満ちた力を搾《しぼ》り切ろうとするような瞬間が来た。その瞬間にクララの夢はさめた。
 クララはアグネスの眼をさまさないようにそっ[#「そっ」に傍点]と起き上って窓から外を見た。眼の下には夢で見たとおりのルフィノ寺院が暁闇《あかつきやみ》の中に厳かな姿を見せていた。クララは扉《とびら》をあけて柔かい春の空気を快く吸い入れた。やがてポルタ・カプチイニの方にかすかな東明《しののめ》の光が漏れたと思うと、救世主のエルサレム入城を記念する寺の鐘が一時に鳴り出した。快活な同じ鐘の音は、麓《ふもと》の町からも聞こえて来た、牡鶏《おんどり》が村から村に時鳴《とき》を啼《な》き交すように。
 今日こそは出家して基督《キリスト》に嫁ぐべき日だ。その朝の浅い眠りを覚ました不思議な夢も、思い入った心には神の御告げに違いなかった。クララは涙ぐましい、しめやかな心になってアグネスを見た。十四の少女は神のように眠りつづけていた。
 部屋は静かだった。

       ○

 クララは父母や妹たちより少しおくれて、朝の礼拝《れいはい》に聖《サン》ルフィノ寺院に出かけて行った。在家《ざいけ》の生活の最後の日だと思うと、さすがに名残が惜しまれて、彼女は心を凝らして化粧をした。「クララの光りの髪」とアッシジで歌われたその髪を、真珠紐《しんじゅひも》で編んで後ろに垂れ、ベネチヤの純白な絹を着た。家の者のいない隙《すき》に、手早く置手紙と形見の品物を取りまとめて机の引出しにしまった。クララの眼にはあとからあとから涙が湧き流れた。眼に触れるものは何から何までなつかしまれた。
 一人の婢女《はしため》を連れてクララは家を出た。コルソの通りには織るように人が群れていた。春の日は麗《うらら》かに輝いて、祭日の人心を更らに浮き立たした。男も女も僧侶もクララを振りかえって見た。「光りの髪のクララが行く」そういう声があちらこちらで私語《ささや》かれた。クララは心の中で主の祈を念仏のように繰返し繰返しひたすらに眼の前を見つめながら歩いて行った。この雑鬧《ざっとう》な往来の中でも障碍《しょうがい》になるものは一つもなかった。広い秋の野を行くように彼女は歩いた。
 クララは寺の入口を這入《はい》るとまっすぐにシッフィ家の座席に行ってアグネスの側に坐を占めた。彼女はフォルテブラッチョ家の座席からオッタヴィアナが送る視線をすぐに左の頬に感じたけれども、もうそんな事に頓着《とんじゃく》はしていなかった。彼女は座席につくと面《おもて》を伏せて眼を閉じた。ややともすると所も弁《わきま》えずに熱い涙が眼がしらににじもうとした。それは悲しさの涙でもあり喜びの涙でもあったが、同時にどちらでもなかった。彼女は今まで知らなかった涙が眼を熱くし出すと、妙に胸がわくわくして来て、急に深淵のような深い静かさが心を襲った。クララは明かな意識の中にありながら、凡《すべ》てのものが夢のように見る見る彼女から離れて行くのを感じた。無一物な清浄《しょうじょう》な世界にクララの魂だけが唯《ただ》一つ感激に震えて燃えていた。死を宣告される前のような、奇怪な不安と沈静とが交《かわ》る交《がわ》る襲って来た。不安が沈静に代る度にクララの眼には涙が湧き上った。クララの処女らしい体は蘆《あし》の葉のように細かくおののいていた。光りのようなその髪もまた細かに震えた。クララの手は自《おのずか》らアグネスの手を覓《もと》めた。
 「クララ、あなたの手の冷たく震える事」
 「しっ、静かに」
 クララは頼りないものを頼りにしたのを恥じて手を放した。そして咽《む》せるほどな参詣人《さんけいにん》の人いきれの中でまた孤独に還った。
 「ホザナ……ホザナ……」
 内陣から合唱が聞こえ始めた。会衆の動揺は一時に鎮《しずま》って座席を持たない平民たちは敷石の上に跪《ひざまず》いた。開け放した窓からは、柔かい春の光と空気とが流れこんで、壁に垂れ下った旗や旒《ながばた》を静かになぶった。クララはふと眼をあげて祭壇を見た。花に埋められ香をたきこめられてビザンチン型《けい》の古い十字架聖像《クロチェ・フィッソ》が奥深くすえられてあった。それを見るとクララは咽《む》せ入りながら「アーメン」と心に称《とな》えて十字を切った。何んという貧しさ。そして何んという慈愛。
 祭壇を見るとクララはいつでも十六歳の時の出来事を思い出さずにはいなかった。殊にこの朝はその回想が厳しく心に逼《せま》った。
 今朝《けさ》の夢で見た通り、十歳の時|眼《ま》のあたり目撃した、ベルナルドーネのフランシスの面影《おもかげ》はその後クララの心を離れなくなった。フランシスが狂気になったという噂《うわ》さも、父から勘当を受けて乞食の群に加わったという風聞も、クララの乙女心を不思議に強く打って響いた。フランシスの事になるとシッフィ家の人々は父から下女の末に至るまで、いい笑い草にした。クララはそういう雑言《ぞうごん》を耳にする度に、自分でそんな事を口走ったように顔を赤らめた。
 クララが十六歳の夏であった、フランシスが十二人の伴侶《なかま》と羅馬《ローマ》に行って、イノセント三世から、基督《キリスト》を模範にして生活する事と、寺院で説教する事との印可《いんか》を受けて帰ったのは。この事があってからアッシジの人々のフランシスに対する態度は急に変った。ある秋の末にクララが思い切ってその説教を聞きたいと父に歎願した時にも、父は物好きな奴だといったばかりで別にとめはしなかった。
 クララの回想とはその時の事である。クララはやはりこの堂母《ドーモ》のこの座席に坐っていた。着物を重ねても寒い秋寒に講壇には真裸《まっぱだか》なレオというフランシスの伴侶《なかま》が立っていた。男も女もこの奇異な裸形《らけい》に奇異な場所で出遇って笑いくずれぬものはなかった。卑しい身分の女などはあからさまに卑猥《ひわい》な言葉をその若い道士に投げつけた。道士は凡ての反感に打克《うちか》つだけの熱意を以て語ろうとしたが、それには未だ少し信仰が足りないように見えた。クララは顔を上げ得なかった。
 そこにフランシスがこれも裸形のままで這入《はい》って来てレオに代って講壇に登った。クララはなお顔を得《え》上げなかった。
 「神、その独子《ひとりご》、聖霊及び基督の御弟子《みでし》の頭《かしら》なる法皇の御許によって、末世の罪人、神の召によって人を喜ばす軽業師《かるわざし》なるフランシスが善良なアッシジの市民に告げる。フランシスは今日教友のレオに堂母《ドーモ》で説教するようにといった。レオは神を語るだけの弁才を神から授《さずか》っていないと拒《こば》んだ。フランシスはそれなら裸になって行って、体で説教しろといった。レオは雄々《おお》しくも裸かになって出て行った。さてレオが去った後、レオにかかる苦行《くぎょう》を強いながら、何事もなげに居残ったこのフランシスを神は厳しく鞭《むちう》ち給うた。眼ある者は見よ。懺悔《ざんげ》したフランシスは諸君の前に立つ。諸君はフランシスの裸形を憐まるるか。しからば諸君が眼を注いで見ねばならぬものが彼所《かしこ》にある。眼あるものは更に眼をあげて見よ」
 クララはいつの間にか男の裸体と相対している事も忘れて、フランシスを見やっていた。フランシスは「眼をあげて見よ」というと同時に祭壇に安置された十字架聖像《クルシ・フィッキス》を恭《うやうや》しく指した。十字架上の基督は痛ましくも痩《や》せこけた裸形のままで会衆を見下ろしていた。二十八のフランシスは何所《どこ》といって際立って人眼を引くような容貌を持っていなかったが、祈祷《きとう》と、断食《だんじき》と、労働のためにやつれた姿は、霊化した彼れの心をそのまま写し出していた。長い説教ではなかったが神の愛、貧窮《ひんきゅう》の祝福などを語って彼がアーメンといって口をつぐんだ時には、人々の愛心がどん底からゆすりあげられて思わず互に固い握手をしてすすり泣いていた。クララは人々の泣くようには泣かなかった。彼女は自分の眼が燃えるように思った。
 その日彼女はフランシスに懺悔《ざんげ》の席に列《つらな》る事を申しこんだ。懺悔するものはクララの外《ほか》にも沢山いたが、クララはわざと最後を選んだ。クララの番が来て祭壇の後ろのアプスに行くと、フランシスはただ一人|獣色《けものいろ》といわれる樺色《かばいろ》の百姓服を着て、繩の帯を結んで、胸の前に組んだ手を見入るように首を下げて、壁添いの腰かけにかけていた。クララを見ると手まねで自分の前にある椅子《いす》に坐れと指した。二人は向いあって坐った。そして眼を見合わした。
 曇った秋の午後のアプスは寒く淋しく暗み亘《わた》っていた。ステインド・グラスから漏れる光線は、いくつかの細長い窓を暗く彩《いろど》って、それがクララの髪の毛に来てしめやかに戯《たわむ》れた。恐ろしいほどにあたりは物静かだった。クララの燃える眼は命の綱のようにフランシスの眼にすがりついた。フランシスの眼は落着いた愛に満ち満ちてクララの眼をかき抱くようにした。クララの心は酔いしれて、フランシスの眼を通してその尊い魂を拝もうとした。やがてクララの眼に涙が溢れるほどたまったと思うと、ほろほろと頬を伝って流れはじめた。彼女はそれでも真向《まっこう》にフランシスを見守る事をやめなかった。こうしてまたいくらかの時が過ぎた。クララはただ黙ったままで坐っていた。
 「神の処女《むすめ》」
 フランシスはやがて厳かにこういった。クララは眼を外にうつすことが出来なかった。
 「あなたの懺悔は神に達した。神は嘉《よみ》し給うた。アーメン」
 クララはこの上控えてはいられなかった。椅子からすべり下りると敷石の上に身を投げ出して、思い存分泣いた。その小さい心臓は無上の歓喜のために破れようとした。思わず身をすり寄せて、素足のままのフランシスの爪先きに手を触れると、フランシスは静かに足を引きすざらせながら、いたわるように祝福するように、彼女の頭に軽く手を置いて間遠《まどお》につぶやき始めた。小雨《こさめ》の雨垂れのようにその言葉は、清く、小さく鋭く、クララの心をうった。
 「何よりもいい事は心の清く貧しい事だ」
 独語のようなささやきがこう聞こえた。そして暫《しば》らく沈黙が続いた。
 「人々は今のままで満足だと思っている。私にはそうは思えない。あなたもそうは思わない。神はそれをよしと見給うだろう。兄弟の日、姉妹の月は輝くのに、人は輝く喜びを忘れている。雲雀《ひばり》は歌うのに人は歌わない。木は跳《おど》るのに人は跳らない。淋しい世の中だ」
 また沈黙。
 「沈黙は貧しさほどに美しく尊い。あなたの沈黙を私は美酒《うまざけ》のように飲んだ」
 それから恐ろしいほどの長い沈黙が続いた。突然フランシスは慄《ふる》える声を押鎮めながらつぶやいた。
 「あなたは私を恋している」
 クララはぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として更《あらた》めて聖者を見た。フランシスは激しい心の動揺から咄嗟《とっさ》の間に立ちなおっていた。
 「そんなに驚かないでもいい」
 そういって静かに眼を閉じた。
 クララは自分で知らなかった自分の秘密をその時フランシスによって甫《はじ》めて知った。長い間の不思議な心の迷いをクララは種々《いろいろ》に解きわずらっていたが、それがその時始めて解かれたのだ。クララはフランシスの明察を何んと感謝していいのか、どう詫《わ》びねばならぬかを知らなかった。狂気のような自分の泣き声ばかりがクララの耳にやや暫らくいたましく聞こえた。
 「わが神、わが凡《すべ》て」
 また長い沈黙がつづいた。フランシスはクララの頭に手を置きそえたまま黙祷《もくとう》していた。
 「私の心もおののく。……私はあなたに値しない。あなたは神に行く前に私に寄道した。……さりながら愛によってつまずいた優しい心を神は許し給うだろう。私の罪をもまた許し給うだろう」
 かくいってフランシスはすっと立上った。そして今までとは打って変って神々《こうごう》しい威厳でクララを圧しながら言葉を続けた。
 「神の御名《みな》によりて命ずる。永久《とこしえ》に神の清き愛児《まなご》たるべき処女《おとめ》よ。腰に帯して立て」
 その言葉は今でもクララの耳に焼きついて消えなかった。そしてその時からもう世の常の処女ではなくなっていた。彼女はその時の回想に心を上《うわ》ずらせながら、その時泣いたように激しく泣いていた。
 ふと「クララ」と耳近く囁《ささや》くアグネスの声に驚かされてクララは顔を上げた。空想の中に描かれていたアプスの淋しさとは打って変って、堂内にはひしひしと群集がひしめいていた。祭壇の前に集った百人に余る少女は、棕櫚《しゅろ》の葉の代りに、月桂樹の枝と花束とを高くかざしていた――夕栄《ゆうばえ》の雲が棚引《たなび》いたように。クララの前にはアグネスを従えて白い髯《ひげ》を長く胸に垂れた盛装の僧正《そうじょう》が立っている。クララが顔を上げると彼れは慈悲深げにほほえんだ。
 「嫁《とつ》ぎ行く処女《おとめ》よ。お前の喜びの涙に祝福あれ。この月桂樹は僧正によって祭壇から特にお前に齎《もた》らされたものだ。僧正の好意と共に受けおさめるがいい」
 クララが知らない中《うち》に祭事は進んで、最後の儀式即ち参詣の処女に僧正手ずから月桂樹を渡して、救世主の入城を頌歌《しょうか》する場合になっていたのだ。そしてクララだけが祭壇に来なかったので僧正自らクララの所に花を持って来たのだった。クララが今夜出家するという手筈《てはず》をフランシスから知らされていた僧正は、クララによそながら告別を与えるためにこの破格な処置をしたのだと気が付くと、クララはまた更らに涙のわき返るのをとどめ得なかった。クララの父母は僧正の言葉をフォルテブラッチョ家との縁談と取ったのだろう、笑《え》みかまけながら挨拶の辞儀をした。
 やがて百人の処女の喉《のど》から華々しい頌歌が起った。シオンの山の凱歌《がいか》を千年の後に反響さすような熱と喜びのこもった女声高音が内陣から堂内を震動さして響《ひび》き亘《わた》った。会衆は蠱惑《こわく》されて聞《き》き惚《ほ》れていた。底の底から清められ深められたクララの心は、露ばかりの愛のあらわれにも嵐のように感動した。花の間に顔を伏せて彼女は少女の歌声に揺られながら、無我の祈祷に浸り切った。

       ○

 「クララ……クララ」
 クララは眼をさましていたけれども返事をしなかった。幸に母のいる方には後ろ向けに、アグネスに寄り添って臥《ね》ていたから、そのまま息気《いき》を殺して黙っていた。母は二人ともよく寝たもんだというような事を、母らしい愛情に満ちた言葉でいって、何か衣裳らしいものを大椅子の上にそっくり置くと、忍び足に寝台に近よってしげしげと二人の寝姿を見守った。そして夜着をかけ添えて軽く二つ三つその上をたたいてから静かに部屋を出て行った。
 クララの枕はしぼるように涙に濡れていた。
 無月《むげつ》の春の夜は次第に更《ふ》けた。町の諸門をとじる合図の鐘は二時間も前に鳴ったので、コルソに集って売買に忙がしかった村の人々の声高《こわだか》な騒ぎも聞こえず、軒なみの店ももう仕舞《しま》って寝しずまったらしい。女猫《めねこ》を慕う男猫の思い入ったような啼声《なきごえ》が時折り聞こえる外《ほか》には、クララの部屋の時計の重子《おもり》が静かに下りて歯車をきしらせる音ばかりがした。山の上の春の空気はなごやかに静かに部屋に満ちて、堂母《ドーモ》から二人が持って帰った月桂樹と花束の香を隅々《すみずみ》まで籠《こ》めていた。
 クララは取りすがるように祈りに祈った。眼をあけると間近かにアグネスの眠った顔があった。クララを姉とも親とも慕う無邪気な、素直な、天使のように浄《きよ》らかなアグネス。クララがこの二、三日ややともすると眼に涙をためているのを見て、自分も一緒に涙ぐんでいたアグネス。……そのアグネスの睫毛《まつげ》はいつでも涙で洗ったように美しかった。殊に色白なその頬は寝入ってから健康そうに上気して、その間に形よく盛り上った小鼻は穏やかな呼吸と共に微細に震えていた。「クララの光の髪、アグネスの光の眼」といわれた、無類な潤みを持った童女にしてはどこか哀れな、大きなその眼は見る事が出来なかった。クララは、見つめるほど、骨肉のいとしさがこみ上げて来て、そっと掌《てのひら》で髪から頬を撫《な》でさすった。その手に感ずる暖いなめらかな触感はクララの愛欲を火のようにした。クララは抱きしめて思い存分いとしがってやりたくなって半身を起して乗しかかった。同時にその場合の大事がクララを思いとどまらした。クララは肱《ひじ》をついて半分身を起したままで、アグネスを見やりながらほろほろと泣いた。死んだ一人児《ひとりご》を母が撫でさすりながら泣くように。
 弾条《ぜんまい》のきしむ音と共に時計が鳴り出した。クララは数を数えないでも丁度|夜半《よなか》である事を知っていた。そして涙を拭いもあえず、静かに床からすべり出た。打合せておいた時刻が来たのだ。安息日が過ぎて神聖月曜日が来たのだ。クララは床から下り立つと昨日|堂母《ドーモ》に着て行ったベネチヤの白絹を着ようとした。それは花嫁にふさわしい色だった。しかし見ると大椅子の上に昨夜母の持って来てくれた外《ほか》の衣裳が置いてあった。それはクララが好んで来た藤紫の一揃《ひとそろい》だった。神聖月曜日にも聖《サン》ルフィノ寺院で式があるから、昨日のものとは違った服装をさせようという母の心尽しがすぐ知れた。クララは嬉しく有難く思いながらそれを着た。そして着ながらもしこれが両親の許しを得た結婚であったならばと思った。父は恐らくあすこの椅子にかけて微笑しながら自分を見守るだろう。母と女中とは前に立ち後ろに立ちして化粧を手伝う事だろう。そう思いながらクララは音を立てないように用心して、かけにくい背中のボタンをかけたりした。そしていつもの習慣通りに小箪笥《こだんす》の引出しから頸飾《くびかざり》と指輪との入れてある小箱を取出したが、それはこの際になって何んの用もないものだと気が付いた。クララはふとその宝玉に未練を覚えた。その一つ一つにはそれぞれの思出がつきまつわっていた。クララは小箱の蓋《ふた》に軽い接吻を与えて元の通りにしまいこんだ。淋しい花嫁の身じたく[#「じたく」に傍点]は静かな夜の中に淋しく終った。その中《うち》に心は段々落着いて力を得て行った。こんなに泣かれてはいよいよ家を逃れ出る時にはどうしたらいいだろうと思った床の中の心配は無用になった。沈んではいるがしゃん[#「しゃん」に傍点]と張切った心持ちになって、クララは部屋の隅の聖像の前に跪《ひざまず》いて燭火《あかり》を捧げた。そして静かに身の来《こ》し方《かた》を返り見た。
 幼い時からクララにはいい現わし得ない不満足が心の底にあった。いらいらした気分はよく髪の結い方、衣服の着せ方に小言をいわせた。さんざん小言をいってから独りになると何んともいえない淋しさに襲われて、部屋の隅でただ一人半日も泣いていた記憶も甦《よみがえ》った。クララはそんな時には大好きな母の顔さえ見る事を嫌った。ましてや父の顔は野獣のように見えた。いまに誰れか来て私を助けてくれる。堂母《ドーモ》の壁画にあるような天国に連れて行ってくれるからいいとそう思った。色々な宗教画がある度に自分の行きたい所は何所《どこ》だろうと思いながら注意した。その中《うち》にクララの心の中には二つの世界が考えられるようになりだした。一つはアッシジの市民が、僧侶をさえこめて、上から下まで生活している世界だ。一つは市民らが信仰しているにせよ、いぬにせよ、敬意を捧げている基督《キリスト》及び諸聖徒の世界だ。クララは第一の世界に生い立って栄耀栄華《えいようえいが》を極むべき身分にあった。その世界に何故|渇仰《かつごう》の眼を向け出したか、クララ自身も分らなかったが、当時ペルジヤの町に対して勝利を得て独立と繁盛との誇りに賑やか立ったアッシジの辻《つじ》を、豪奢《ごうしゃ》の市民に立ち交りながら、「平和を求めよ而《しか》して永遠の平和あれ」と叫んで歩く名もない乞食の姿を彼女は何んとなく考え深く眺めないではいられなかった。やがて死んだのか宗旨|代《が》えをしたのか、その乞食は影を見せなくなって、市民は誰れ憚《はばか》らず思うさまの生活に耽《ふけ》っていたが、クララはどうしても父や父の友達などの送る生活に従って活《い》きようと思う心地《ここち》はなかった。その頃にフランシス――この間まで第一の生活の先頭に立って雄々しくも第二の世界に盾《たて》をついたフランシス――が百姓の服を着て、子供らに狂人と罵《ののし》られながらも、聖ダミヤノ寺院の再建勧進《さいこんかんじん》にアッシジの街に現われ出した。クララは人知れずこの乞食僧の挙動を注意していた。その頃にモントルソリ家との婚談も持上って、クララは度々自分の窓の下で夜おそく歌われる夜曲を聞くようになった。それはクララの心を躍《おど》らしときめかした。同時にクララは何物よりもこの不思議な力を恐れた。
 その時分クララは著者の知れないある古い書物の中に下のような文句を見出した。
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「肉に溺《おぼ》れんとするものよ。肉は霊への誘惑なるを知らざるや。心の眼鈍きものはまず肉によりて愛に目ざむるなり。愛に目ざめてそを哺《はぐく》むものは霊に至らざればやまざるを知らざるや。されど心の眼さときものは肉に倚《よ》らずして直《ただち》に愛の隠るる所を知るなり。聖処女の肉によらずして救主《すくいぬし》を孕《はら》み給いし如《ごと》く、汝《なんじ》ら心の眼さときものは聖霊によりて諸善の胎《はら》たるべし。肉の世の広きに恐るる事|勿《なか》れ。一度恐れざれば汝らは神の恩恵によりて心の眼さとく生れたるものなることを覚《さと》るべし」
[#ここで字下げ終わり]
 クララは幾度もそこを読み返した。彼女の迷いはこの珍らしくもない句によって不思議に晴れて行った。そしてフランシスに対して好意を持ち出した。フランシスを弁護する人がありでもすると、嫉妬《しっと》を感じないではいられないほど好意を持ち出した。その時からクララは凡ての縁談を顧《かえり》みなくなった。フォルテブラッチョ家との婚約を父が承諾した時でも、クララは一応辞退しただけで、跡は成行きにまかせていた。彼女の心はそんな事には止《とどま》ってはいなかった。唯《ただ》心を籠《こ》めて浄《きよ》い心身を基督《キリスト》に献じる機《おり》ばかりを窺《うかが》っていたのだ。その中《うち》に十六歳の秋が来て、フランシスの前に懺悔をしてから、彼女の心は全く肉の世界から逃れ出る事が出来た。それからの一年半の長い長い天との婚約の試練も今夜で果てたのだ。これからは一人の主に身も心も献げ得る嬉しい境涯が自分を待っているのだ。
 クララの顔はほてって輝いた。聖像の前に最後の祈を捧げると、いそいそとして立上った。そして鏡を手に取って近々と自分の顔を写して見た。それが自分の肉との最後の別れだった。彼女の眼にはアグネスの寝顔が吸付くように可憐に映った。クララは静かに寝床に近よって、自分の臥《ね》ていた跡に堂母《ドーモ》から持帰った月桂樹の枝を敷いて、その上に聖像を置き、そのまわりを花で飾った。そしてもう一度聖像に祈祷を捧げた。
 「御心《みこころ》ならば、主よ、アグネスをも召し給え」
 クララは軽くアグネスの額に接吻した。もう思い残す事はなかった。
 ためらう事なくクララは部屋を出て、父母の寝室の前の板床《いたゆか》に熱い接吻を残すと、戸を開《あ》けてバルコンに出た。手欄《てすり》から下をすかして見ると、暗《やみ》の中に二人の人影が見えた。「アーメン」という重い声が下から響いた。クララも「アーメン」といって応じながら用意した綱で道路に降り立った。
 空も路《みち》も暗かった。三人はポルタ・ヌオバの門番に賂《まいない》して易々《やすやす》と門を出た。門を出るとウムブリヤの平野は真暗に遠く広く眼の前に展《ひら》け亘《わた》った。モンテ・ファルコの山は平野から暗い空に崛起《くっき》しておごそかにこっち[#「こっち」に傍点]を見つめていた。淋しい花嫁は頭巾《ずきん》で深々と顔を隠した二人の男に守られながら、すがりつくようにエホバに祈祷を捧げつつ、星の光を便《たよ》りに山坂を曲りくねって降りて行った。
 フランシスとその伴侶《なかま》との礼拝所なるポルチウンクウラの小龕《しょうがん》の灯《ともしび》が遙か下の方に見え始める坂の突角に炬火《たいまつ》を持った四人の教友がクララを待ち受けていた。今まで氷のように冷たく落着いていたクララの心は、瀕死者《ひんししゃ》がこの世に最後の執着を感ずるようにきびしく烈《はげ》しく父母や妹を思った。炬火の光に照らされてクララの眼は未練にももう一度涙でかがやいた。いい知れぬ淋しさがその若い心を襲った。
 「私のために祈って下さい」
 クララは炬火を持った四人にすすり泣きながら歎願した。四人はクララを中央に置いて黙ったままうずくまった。
 平原の平和な夜の沈黙を破って、遙か下のポルチウンクウラからは、新嫁《にいよめ》を迎うべき教友らが、心をこめて歌いつれる合唱の声が、静かにかすか[#「かすか」に傍点]におごそかに聞こえて来た。
[#地から3字上げ](一九一七、八、一五、於|碓氷峠《うすいとうげ》)



底本:「カインの末裔 クララの出家」岩波文庫、岩波書店
   1940(昭和15)年9月10日第1刷発行
   1980(昭和55)年5月16日第25刷改版発行
   1990(平成2)年4月15日第35刷発行
底本の親本:「有島武郎著作集」第三輯、新潮社
   1918(大正7)年2月刊
初出:「太陽」1917(大正6)年9月
入力:鈴木厚司
校正:染川隆俊
2001年2月14日公開
2003年8月31日修正
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