青空文庫アーカイブ

カインの末裔
有島武郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)痩馬《やせうま》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)進退|窮《きわま》った。

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)あつし[#「あつし」に傍点]
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   (一)

 長い影を地にひいて、痩馬《やせうま》の手綱《たづな》を取りながら、彼《か》れは黙りこくって歩いた。大きな汚い風呂敷包と一緒に、章魚《たこ》のように頭ばかり大きい赤坊《あかんぼう》をおぶった彼れの妻は、少し跛脚《ちんば》をひきながら三、四間も離れてその跡からとぼとぼとついて行った。
 北海道の冬は空まで逼《せま》っていた。蝦夷富士《えぞふじ》といわれるマッカリヌプリの麓《ふもと》に続く胆振《いぶり》の大草原を、日本海から内浦湾《うちうらわん》に吹きぬける西風が、打ち寄せる紆濤《うねり》のように跡から跡から吹き払っていった。寒い風だ。見上げると八合目まで雪になったマッカリヌプリは少し頭を前にこごめて風に歯向いながら黙ったまま突立っていた。昆布岳《こんぶだけ》の斜面に小さく集った雲の塊を眼がけて日は沈みかかっていた。草原の上には一本の樹木も生えていなかった。心細いほど真直《まっすぐ》な一筋道を、彼れと彼れの妻だけが、よろよろと歩く二本の立木のように動いて行った。
 二人は言葉を忘れた人のようにいつまでも黙って歩いた。馬が溺《いば》りをする時だけ彼れは不性無性《ふしょうぶしょう》に立《たち》どまった。妻はその暇にようやく追いついて背《せなか》の荷をゆすり上げながら溜息をついた。馬が溺りをすますと二人はまた黙って歩き出した。
 「ここらおやじ(熊の事)が出るずら」
 四里にわたるこの草原の上で、たった一度妻はこれだけの事をいった。慣れたものには時刻といい、所柄《ところがら》といい熊の襲来を恐れる理由があった。彼れはいまいましそうに草の中に唾《つば》を吐き捨てた。
 草原の中の道がだんだん太くなって国道に続く所まで来た頃には日は暮れてしまっていた。物の輪郭《りんかく》が円味《まるみ》を帯びずに、堅いままで黒ずんで行くこちんとした寒い晩秋の夜が来た。
 着物は薄かった。そして二人は餓《う》え切《き》っていた。妻は気にして時々赤坊を見た。生きているのか死んでいるのか、とにかく赤坊はいびきも立てないで首を右の肩にがくりと垂れたまま黙っていた。
 国道の上にはさすがに人影が一人二人動いていた。大抵は市街地に出て一杯飲んでいたのらしく、行違いにしたたか酒の香を送ってよこすものもあった。彼れは酒の香をかぐと急にえぐられるような渇きと食欲とを覚えて、すれ違った男を見送ったりしたが、いまいましさに吐き捨てようとする唾はもう出て来なかった。糊《のり》のように粘ったものが唇《くちびる》の合せ目をとじ付けていた。
 内地ならば庚申塚《こうしんづか》か石地蔵でもあるはずの所に、真黒になった一丈もありそうな標示杭《ひょうじぐい》が斜めになって立っていた。そこまで来ると干魚《ひざかな》をやく香《におい》がかすかに彼れの鼻をうったと思った。彼れははじめて立停った。痩馬も歩いた姿勢をそのままにのそりと動かなくなった。鬣《たてがみ》と尻尾《しりっぽ》だけが風に従ってなびいた。
 「何んていうだ農場は」
 背丈《せた》けの図抜けて高い彼れは妻を見おろすようにしてこうつぶやいた。
 「松川農場たらいうだが」
 「たらいうだ? 白痴《こけ》」
 彼れは妻と言葉を交わしたのが癪《しゃく》にさわった。そして馬の鼻をぐんと手綱でしごいてまた歩き出した。暗《く》らくなった谷を距《へだ》てて少し此方《こっち》よりも高い位の平地に、忘れたように間をおいてともされた市街地のかすかな灯影《ほかげ》は、人気《ひとけ》のない所よりもかえって自然を淋しく見せた。彼れはその灯《ひ》を見るともう一種のおびえを覚えた。人の気配《けはい》をかぎつけると彼れは何んとか身づくろいをしないではいられなかった。自然さがその瞬間に失われた。それを意識する事が彼れをいやが上にも仏頂面《ぶっちょうづら》にした。「敵が眼の前に来たぞ。馬鹿な面《つら》をしていやがって、尻子玉《しりこだま》でもひっこぬかれるな」とでもいいそうな顔を妻の方に向けて置いて、歩きながら帯をしめ直した。良人《おっと》の顔付きには気も着かないほど眼を落した妻は口をだらりと開《あ》けたまま一切無頓着でただ馬の跡について歩いた。
 K市街地の町端《まちはず》れには空屋《あきや》が四軒までならんでいた。小さな窓は髑髏《どくろ》のそれのような真暗な眼を往来に向けて開いていた。五軒目には人が住んでいたがうごめく人影の間に囲炉裡《いろり》の根粗朶《ねそだ》がちょろちょろと燃えるのが見えるだけだった。六軒目には蹄鉄屋《ていてつや》があった。怪しげな煙筒からは風にこきおろされた煙の中にまじって火花が飛び散っていた。店は熔炉《ようろ》の火口《ひぐち》を開いたように明るくて、馬鹿馬鹿しくだだっ広い北海道の七間道路が向側《むこうがわ》まではっきりと照らされていた。片側町ではあるけれども、とにかく家並があるだけに、強《しい》て方向《むき》を変えさせられた風の脚が意趣に砂を捲《ま》き上《あ》げた。砂は蹄鉄屋の前の火の光に照りかえされて濛々《もうもう》と渦巻く姿を見せた。仕事場の鞴《ふいご》の囲《まわ》りには三人の男が働いていた。鉄砧《かなしき》にあたる鉄槌《かなづち》の音が高く響くと疲れ果てた彼れの馬さえが耳を立てなおした。彼れはこの店先きに自分の馬を引張って来る時の事を思った。妻は吸い取られるように暖かそうな火の色に見惚《みと》れていた。二人は妙にわくわくした心持ちになった。
 蹄鉄屋の先きは急に闇が濃《こま》かくなって大抵の家はもう戸じまりをしていた。荒物屋《あらものや》を兼ねた居酒屋《いざかや》らしい一軒から食物の香と男女のふざけ返った濁声《だみごえ》がもれる外《ほか》には、真直《まっすぐ》な家並は廃村のように寒さの前にちぢこまって、電信柱だけが、けうとい唸《うな》りを立てていた。彼れと馬と妻とは前の通りに押黙って歩いた。歩いては時折り思い出したように立停った。立停ってはまた無意味らしく歩き出した。
 四、五町歩いたと思うと彼らはもう町はずれに来てしまっていた。道がへし折られたように曲って、その先きは、真闇《まっくら》な窪地に、急な勾配《こうばい》を取って下っていた。彼らはその突角《とっかく》まで行ってまた立停った。遙か下の方からは、うざうざするほど繁り合った濶葉樹林《かつようじゅりん》に風の這入《はい》る音の外《ほか》に、シリベシ河のかすかな水の音だけが聞こえていた。
 「聞いて見ずに」
 妻は寒さに身をふるわしながらこううめいた。
 「汝《われ》聞いて見べし」
 いきなりそこにしゃごんでしまった彼れの声は地の中からでも出て来たようだった。妻は荷をゆりあげて鼻をすすりすすり取って返した。一軒の家の戸を敲《たた》いて、ようやく松川農場のありかを教えてもらった時は、彼れの姿を見分けかねるほど遠くに来ていた。大きな声を出す事が何んとなく恐ろしかった。恐ろしいばかりではない、声を出す力さえなかった。そして跛脚《ちんば》をひきひきまた返って来た。
 彼らは眠くなるほど疲れ果てながらまた三町ほど歩かねばならなかった。そこに下見囲《したみがこい》、板葺《いたぶき》の真四角な二階建が外《ほか》の家並を圧して立っていた。
 妻が黙ったまま立留《たちどま》ったので、彼れはそれが松川農場の事務所である事を知った。ほんとうをいうと彼れは始めからこの建物がそれにちがいないと思っていたが、這入るのがいやなばかりに知らんふりをして通りぬけてしまったのだ。もう進退|窮《きわま》った。彼れは道の向側の立樹《たちき》の幹に馬を繋《つな》いで、燕麦《からすむぎ》と雑草とを切りこんだ亜麻袋を鞍輪《くらわ》からほどいて馬の口にあてがった。ぼりりぼりりという歯ぎれのいい音がすぐ聞こえ出した。彼れと妻とはまた道を横切って、事務所の入口の所まで来た。そこで二人は不安らしく顔を見合わせた。妻がぎごちなそうに手を挙げて髪をいじっている間に彼れは思い切って半分ガラスになっている引戸を開けた。滑車がけたたましい音をたてて鉄の溝を滑《すべ》った。がたぴしする戸ばかりをあつかい慣れている彼れの手の力があまったのだ。妻がぎょっとするはずみに背《せなか》の赤坊も眼を覚《さま》して泣き出した。帳場にいた二人の男は飛び上らんばかりに驚いてこちらを見た。そこには彼れと妻とが泣く赤坊の始末もせずにのそりと突立っていた。
 「何んだ手前《てめえ》たちは、戸を開けっぱなしにしくさって風が吹き込むでねえか。這入るのなら早く這入って来《こ》う」
 紺《こん》のあつし[#「あつし」に傍点]をセルの前垂れで合せて、樫《かし》の角火鉢《かくひばち》の横座《よこざ》に坐った男が眉《まゆ》をしかめながらこう怒鳴《どな》った。人間の顔――殊《こと》にどこか自分より上手《うわて》な人間の顔を見ると彼れの心はすぐ不貞腐《ふてくさ》れるのだった。刃《やいば》に歯向う獣のように捨鉢《すてばち》になって彼れはのさのさと図抜けて大きな五体を土間に運んで行った。妻はおずおずと戸を閉《し》めて戸外に立っていた、赤坊の泣くのも忘れ果てるほどに気を転倒させて。
 声をかけたのは三十前後の、眼の鋭い、口髭《くちひげ》の不似合な、長顔の男だった。農民の間で長顔の男を見るのは、豚の中で馬の顔を見るようなものだった。彼れの心は緊張しながらもその男の顔を珍らしげに見入らない訳には行かなかった。彼れは辞儀一つしなかった。
 赤坊が縊《くび》り殺されそうに戸の外で泣き立てた。彼れはそれにも気を取られていた。
 上框《あがりがまち》に腰をかけていたもう一人の男はやや暫《しば》らく彼れの顔を見つめていたが、浪花節《なにわぶし》語りのような妙に張りのある声で突然口を切った。
 「お主は川森さんの縁《ゆかり》のものじゃないんかの。どうやら顔が似とるじゃが」
 今度は彼れの返事も待たずに長顔の男の方を向いて、
 「帳場《ちょうば》さんにも川森から話《はな》いたはずじゃがの。主《ぬし》がの血筋を岩田が跡に入れてもらいたいいうてな」
 また彼れの方を向いて、
 「そうじゃろがの」
 それに違いなかった。しかし彼れはその男を見ると虫唾《むしず》が走った。それも百姓に珍らしい長い顔の男で、禿《は》げ上《あが》った額から左の半面にかけて火傷《やけど》の跡がてらてらと光り、下瞼《したまぶた》が赤くべっかんこをしていた。そして唇《くちびる》が紙のように薄かった。
 帳場と呼ばれた男はその事なら飲み込めたという風に、時々|上眼《うわめ》で睨《にら》み睨《にら》み、色々な事を彼れに聞《き》き糺《ただ》した。そして帳場机の中から、美濃紙《みのがみ》に細々《こまごま》と活字を刷った書類を出して、それに広岡|仁右衛門《にんえもん》という彼れの名と生れ故郷とを記入して、よく読んでから判を押せといって二通つき出した。仁右衛門(これから彼れという代りに仁右衛門と呼ぼう)は固《もと》より明盲《あきめくら》だったが、農場でも漁場《ぎょば》でも鉱山でも飯を食うためにはそういう紙の端に盲判を押さなければならないという事は心得ていた。彼れは腹がけの丼《どんぶり》の中を探り廻わしてぼろぼろの紙の塊《かたまり》をつかみ出した。そして筍《たけのこ》の皮を剥《は》ぐように幾枚もの紙を剥がすと真黒になった三文判がころがり出た。彼れはそれに息気《いき》を吹きかけて証書に孔《あな》のあくほど押しつけた。そして渡された一枚を判と一緒に丼の底にしまってしまった。これだけの事で飯の種にありつけるのはありがたい事だった。戸外では赤坊がまだ泣きやんでいなかった。
 「俺《お》ら銭《ぜに》こ一文も持たねえからちょっぴり借りたいだが」
 赤坊の事を思うと、急に小銭がほしくなって、彼れがこういい出すと、帳場は呆《あき》れたように彼れの顔を見詰めた、――こいつは馬鹿な面《つら》をしているくせに油断のならない横紙破りだと思いながら。そして事務所では金の借貸は一切しないから縁者になる川森からでも借りるがいいし、今夜は何しろ其所《そこ》に行って泊めてもらえと注意した。仁右衛門はもう向腹《むかっぱら》を立ててしまっていた。黙りこくって出て行こうとすると、そこに居合わせた男が一緒に行ってやるから待てととめた。そういわれて見ると彼れは自分の小屋が何所《どこ》にあるのかを知らなかった。
 「それじゃ帳場さん何分|宜《よろ》しゅう頼むがに、塩梅《あんばい》よう親方の方にもいうてな。広岡さん、それじゃ行くべえかの。何とまあ孩児《やや》の痛ましくさかぶぞい。じゃまあおやすみ」
 彼れは器用に小腰をかがめて古い手提鞄《てさげかばん》と帽子とを取上げた。裾《すそ》をからげて砲兵の古靴《ふるぐつ》をはいている様子は小作人というよりも雑穀屋の鞘取《さやと》りだった。
 戸を開けて外に出ると事務所のボンボン時計が六時を打った。びゅうびゅうと風は吹き募《つの》っていた。赤坊の泣くのに困《こう》じ果てて妻はぽつりと淋しそうに玉蜀黍殻《とうきびがら》の雪囲いの影に立っていた。
 足場が悪いから気を付けろといいながら彼《か》の男は先きに立って国道から畦道《あぜみち》に這入《はい》って行った。
 大濤《おおなみ》のようなうねりを見せた収穫後の畑地は、広く遠く荒涼として拡《ひろ》がっていた。眼を遮《さえぎ》るものは葉を落した防風林の細長い木立ちだけだった。ぎらぎらと瞬《またた》く無数の星は空の地《じ》を殊更《ことさ》ら寒く暗いものにしていた。仁右衛門を案内した男は笠井という小作人で、天理教の世話人もしているのだといって聞かせたりした。
 七町も八町も歩いたと思うのに赤坊はまだ泣きやまなかった。縊《くび》り殺されそうな泣き声が反響もなく風に吹きちぎられて遠く流れて行った。
 やがて畦道《あぜみち》が二つになる所で笠井は立停った。
 「この道をな、こう行くと左手にさえて小屋が見えようがの。な」
 仁右衛門は黒い地平線をすかして見ながら、耳に手を置き添えて笠井の言葉を聞き漏らすまいとした。それほど寒い風は激しい音で募っていた。笠井はくどくどとそこに行き着く注意を繰返して、しまいに金が要《い》るなら川森の保証で少し位は融通すると付加えるのを忘れなかった。しかし仁右衛門は小屋の所在が知れると跡は聞いていなかった。餓えと寒さがひしひしと答え出してがたがた身をふるわしながら、挨拶一つせずにさっさと別れて歩き出した。
 玉蜀黍殻《とうきびがら》といたどり[#「いたどり」に傍点]の茎で囲いをした二間半四方ほどの小屋が、前のめりにかしいで、海月《くらげ》のような低い勾配《こうばい》の小山の半腹に立っていた。物の饐《す》えた香と積肥《つみごえ》の香が擅《ほしいまま》にただよっていた。小屋の中にはどんな野獣が潜んでいるかも知れないような気味悪さがあった。赤坊の泣き続ける暗闇の中で仁右衛門が馬の背からどすんと重いものを地面に卸《おろ》す音がした。痩馬は荷が軽るくなると鬱積《うっせき》した怒りを一時にぶちまけるように嘶《いなな》いた。遙かの遠くでそれに応《こた》えた馬があった。跡は風だけが吹きすさんだ。
 夫婦はかじかんだ手で荷物を提《さ》げながら小屋に這入った。永く火の気は絶えていても、吹きさらしから這入るとさすがに気持ちよく暖《あたたか》かった。二人は真暗な中を手さぐりであり合せの古蓆《ふるむしろ》や藁《わら》をよせ集めてどっかと腰を据《す》えた。妻は大きな溜息をして背の荷と一緒に赤坊を卸して胸に抱き取った。乳房をあてがって見たが乳は枯れていた。赤坊は堅くなりかかった歯齦《はぐき》でいやというほどそれを噛《か》んだ。そして泣き募った。
 「腐孩子《くされにが》! 乳首《たたら》食いちぎるに」
 妻は慳貪《けんどん》にこういって、懐《ふところ》から塩煎餅《しおせんべい》を三枚出して、ぽりぽりと噛みくだいては赤坊の口にあてがった。
 「俺《お》らがにも越《く》せ」
 いきなり仁右衛門が猿臂《えんぴ》を延ばして残りを奪い取ろうとした。二人は黙ったままで本気に争った。食べるものといっては三枚の煎餅しかないのだから。
 「白痴《たわけ》」
 吐き出すように良人がこういった時勝負はきまっていた。妻は争い負けて大部分を掠奪《りゃくだつ》されてしまった。二人はまた押黙って闇の中で足《た》しない食物を貪《むさぼ》り喰った。しかしそれは結局食欲をそそる媒介《なかだち》になるばかりだった。二人は喰い終ってから幾度も固唾《かたず》を飲んだが火種のない所では南瓜《かぼちゃ》を煮る事も出来なかった。赤坊は泣きづかれに疲れてほっぽり出されたままに何時《いつ》の間にか寝入っていた。
 居鎮《いしず》まって見ると隙間《すきま》もる風は刃《やいば》のように鋭く切り込んで来ていた。二人は申合せたように両方から近づいて、赤坊を間に入れて、抱寝《だきね》をしながら藁の中でがつがつと震えていた。しかしやがて疲労は凡《すべ》てを征服した。死のような眠りが三人を襲った。
 遠慮会釈もなく迅風《はやて》は山と野とをこめて吹きすさんだ。漆《うるし》のような闇が大河の如《ごと》く東へ東へと流れた。マッカリヌプリの絶巓《ぜってん》の雪だけが燐光を放ってかすかに光っていた。荒らくれた大きな自然だけがそこに甦《よみがえ》った。
 こうして仁右衛門夫婦は、何処《どこ》からともなくK村に現われ出て、松川農場の小作人になった。

   (二)

 仁右衛門の小屋から一町ほど離れて、K村から倶知安《くっちゃん》に通う道路添《みちぞ》いに、佐藤与十という小作人の小屋があった。与十という男は小柄で顔色も青く、何年たっても齢《とし》をとらないで、働きも甲斐《かい》なそうに見えたが、子供の多い事だけは農場一だった。あすこの嚊《かかあ》は子種をよそから貰《もら》ってでもいるんだろうと農場の若い者などが寄ると戯談《じょうだん》を言い合った。女房と言うのは体のがっしりした酒喰《さけぐら》いの女だった。大人数なために稼《かせ》いでも稼《かせ》いでも貧乏しているので、だらしのない汚い風はしていたが、その顔付きは割合に整っていて、不思議に男に逼《せま》る淫蕩《いんとう》な色を湛《たた》えていた。
 仁右衛門がこの農場に這入《はい》った翌朝早く、与十の妻は袷《あわせ》一枚にぼろぼろの袖無《そでな》しを着て、井戸――といっても味噌樽《みそだる》を埋めたのに赤※[#金へんに繍の正字の右側、19-5]《あかさび》の浮いた上層水《うわみず》が四分目ほど溜ってる――の所でアネチョコといい慣わされた舶来の雑草の根に出来る薯《いも》を洗っていると、そこに一人の男がのそりとやって来た。六尺近い背丈《せい》を少し前こごみにして、営養の悪い土気色《つちけいろ》の顔が真直に肩の上に乗っていた。当惑した野獣のようで、同時に何所《どこ》か奸譎《わるがしこ》い大きな眼が太い眉の下でぎろぎろと光っていた。それが仁右衛門だった。彼れは与十の妻を見ると一寸《ちょっと》ほほえましい気分になって、
 「おっかあ、火種べあったらちょっぴり分けてくれずに」
といった。与十の妻は犬に出遇った猫のような敵意と落着《おちつ》きを以《もっ》て彼れを見た。そして見つめたままで黙っていた。
 仁右衛門は脂《やに》のつまった大きな眼を手の甲で子供らしくこすりながら、
 「俺らあすこの小屋さ来たもんだのし。乞食《ほいと》ではねえだよ」
といってにこにこした。罪のない顔になった。与十の妻は黙って小屋に引きかえしたが、真暗な小屋の中に臥乱《ねみだ》れた子供を乗りこえ乗りこえ囲炉裡《いろり》の所に行って粗朶《そだ》を一本提げて出て来た。仁右衛門は受取ると、口をふくらましてそれを吹いた。そして何か一言二言話しあって小屋の方に帰って行った。
 この日も昨夜《ゆうべ》の風は吹き落ちていなかった。空は隅《すみ》から隅《すみ》まで底気味悪く晴れ渡っていた。そのために風は地面にばかり吹いているように見えた。佐藤の畑はとにかく秋耕《あきおこし》をすましていたのに、それに隣《とな》った仁右衛門の畑は見渡す限りかまどがえし[#「かまどがえし」に傍点]とみずひき[#「みずひき」に傍点]とあかざ[#「あかざ」に傍点]ととびつか[#「とびつか」に傍点]とで茫々《ぼうぼう》としていた。ひき残された大豆の殻《から》が風に吹かれて瓢軽《ひょうきん》な音を立てていた。あちこちにひょろひょろと立った白樺《しらかば》はおおかた葉をふるい落してなよなよとした白い幹が風にたわみながら光っていた。小屋の前の亜麻をこいだ所だけは、こぼれ種から生えた細い茎が青い色を見せていた。跡は小屋も畑も霜のために白茶けた鈍い狐色《きつねいろ》だった。仁右衛門の淋しい小屋からはそれでもやがて白い炊煙がかすかに漏れはじめた。屋根からともなく囲いからともなく湯気のように漏れた。
 朝食をすますと夫婦は十年も前から住み馴《な》れているように、平気な顔で畑に出かけて行った。二人は仕事の手配もきめずに働いた。しかし、冬を眼の前にひかえて何を先きにすればいいかを二人ながら本能のように知っていた。妻は、模様も分らなくなった風呂敷《ふろしき》を三角に折って露西亜《ロシア》人《じん》のように頬《ほお》かむりをして、赤坊を背中に背負いこんで、せっせと小枝や根っこを拾った。仁右衛門は一本の鍬《くわ》で四町にあまる畑の一隅から掘り起しはじめた。外《ほか》の小作人は野良《のら》仕事に片をつけて、今は雪囲《ゆきがこい》をしたり薪を切ったりして小屋のまわりで働いていたから、畑の中に立っているのは仁右衛門夫婦だけだった。少し高い所からは何処《どこ》までも見渡される広い平坦な耕作地の上で二人は巣に帰り損《そこ》ねた二匹の蟻《あり》のようにきりきりと働いた。果敢《はか》ない労力に句点をうって、鍬の先きが日の加減でぎらっぎらっと光った。津波のような音をたてて風のこもる霜枯れの防風林には烏《からす》もいなかった。荒れ果てた畑に見切りをつけて鮭《さけ》の漁場にでも移って行ってしまったのだろう。
 昼少しまわった頃仁右衛門の畑に二人の男がやって来た。一人は昨夜事務所にいた帳場だった。今一人は仁右衛門の縁者という川森|爺《じい》さんだった。眼をしょぼしょぼさせた一徹らしい川森は仁右衛門の姿を見ると、怒ったらしい顔付をしてずかずかとその傍によって行った。
 「汝《わり》ゃ辞儀一つ知らねえ奴の、何条《なんじょう》いうて俺らがには来くさらぬ。帳場さんのう知らしてくさずば、いつまでも知んようもねえだった。先ずもって小屋さ行ぐべし」
 三人は小屋に這入《はい》った。入口の右手に寝藁《ねわら》を敷いた馬の居所と、皮板を二、三枚ならべた穀物置場があった。左の方には入口の掘立柱《ほったてばしら》から奥の掘立柱にかけて一本の丸太を土の上にわたして土間に麦藁を敷きならしたその上に、所々|蓆《むしろ》が拡《ひろ》げてあった。その真中に切られた囲炉裡にはそれでも真黒に煤《すす》けた鉄瓶《てつびん》がかかっていて、南瓜《かぼちゃ》のこびりついた欠椀《かけわん》が二つ三つころがっていた。川森は恥じ入る如《ごと》く、
 「やばっちい所で」
といいながら帳場を炉の横座《よこざ》に招じた。
 そこに妻もおずおずと這入って来て、恐る恐る頭を下げた。それを見ると仁右衛門は土間に向けてかっと唾を吐いた。馬はびくん[#「びくん」に傍点]として耳をたてたが、やがて首をのばしてその香をかいだ。
 帳場は妻のさし出す白湯《さゆ》の茶碗を受けはしたがそのまま飲まずに蓆の上に置いた。そしてむずかしい言葉で昨夜の契約書の内容をいい聞かし初めた。小作料は三年ごとに書換えの一反歩二円二十銭である事、滞納には年二割五分の利子を付する事、村税は小作に割宛てる事、仁右衛門の小屋は前の小作から十五円で買ってあるのだから来年中に償還すべき事、作跡《さくあと》は馬耕《うまおこし》して置くべき事、亜麻は貸付地積の五分の一以上作ってはならぬ事、博奕《ばくち》をしてはならぬ事、隣保相助けねばならぬ事、豊作にも小作料は割増しをせぬ代りどんな凶作でも割引は禁ずる事、場主に直訴《じきそ》がましい事をしてはならぬ事、掠奪《りゃくだつ》農業をしてはならぬ事、それから云々、それから云々。
 仁右衛門はいわれる事がよく飲み込めはしなかったが、腹の中では糞《くそ》を喰《く》らえと思いながら、今まで働いていた畑を気にして入口から眺めていた。
 「お前は馬を持ってるくせに何んだって馬耕をしねえだ。幾日《いくんち》もなく雪になるだに」
 帳場は抽象論から実際論に切込んで行った。
 「馬はあるが、プラオがねえだ」
 仁右衛門は鼻の先きであしらった。
 「借りればいいでねえか」
 「銭子《ぜにこ》がねえかんな」
 会話はぷつんと途切《とぎ》れてしまった。帳場は二度の会見でこの野蛮人をどう取扱わねばならぬかを飲み込んだと思った。面と向って埒《らち》のあく奴ではない。うっかり女房にでも愛想を見せれば大事《おおごと》になる。
 「まあ辛抱してやるがいい。ここの親方は函館《はこだて》の金持《まるも》ちで物の解《わか》った人だかんな」
 そういって小屋を出て行った。仁右衛門も戸外に出て帳場の元気そうな後姿を見送った。川森は財布から五十銭銀貨を出してそれを妻の手に渡した。何しろ帳場につけとどけをして置かないと万事に損が行くから今夜にも酒を買って挨拶に行くがいいし、プラオなら自分の所のものを借してやるといっていた。仁右衛門は川森の言葉を聞きながら帳場の姿を見守っていたが、やがてそれが佐藤の小屋に消えると、突然馬鹿らしいほど深い嫉妬《しっと》が頭を襲って来た。彼れはかっと喉《のど》をからして痰《たん》を地べたにいやというほどはきつけた。
 夫婦きりになると二人はまた別々になってせっせと働き出した。日が傾きはじめると寒さは一入《ひとしお》に募って来た。汗になった所々は氷るように冷たかった。仁右衛門はしかし元気だった。彼れの真闇《まっくら》な頭の中の一段高い所とも覚《おぼ》しいあたりに五十銭銀貨がまんまるく光って如何《どう》しても離れなかった。彼れは鍬を動かしながら眉をしかめてそれを払い落そうと試みた。しかしいくら試みても光った銀貨が落ちないのを知ると白痴《ばか》のようににったり[#「にったり」に傍点]と独笑《ひとりわら》いを漏《もら》していた。
 昆布岳《こんぶだけ》の一角には夕方になるとまた一叢《ひとむら》の雲が湧いて、それを目がけて日が沈んで行った。
 仁右衛門は自分の耕した畑の広さを一わたり満足そうに見やって小屋に帰った。手ばしこく鍬を洗い、馬糧を作った。そして鉢巻《はちまき》の下ににじんだ汗を袖口《そでぐち》で拭《ぬぐ》って、炊事にかかった妻に先刻の五十銭銀貨を求めた。妻がそれをわたすまでには二、三度|横面《よこつら》をなぐられねばならなかった。仁右衛門はやがてぶらり[#「ぶらり」に傍点]と小屋を出た。妻は独りで淋しく夕飯を食った。仁右衛門は一片の銀貨を腹がけの丼《どんぶり》に入れて見たり、出して見たり、親指で空に弾《はじ》き上げたりしながら市街地の方に出懸けて行った。
 九時――九時といえば農場では夜更《よふ》けだ――を過ぎてから仁右衛門はいい酒機嫌で突然佐藤の戸口に現われた。佐藤の妻も晩酌に酔いしれていた。与十と鼎座《ていざ》になって三人は囲炉裡をかこんでまた飲みながら打解けた馬鹿話をした。仁右衛門が自分の小屋に着いた時には十一時を過ぎていた。妻は燃えかすれる囲炉裡火に背を向けて、綿のはみ出た蒲団《ふとん》を柏《かしわ》に着てぐっすり寝込んでいた。仁右衛門は悪戯者《いたずらもの》らしくよろけながら近寄ってわっといって乗りかかるように妻を抱きすくめた。驚いて眼を覚した妻はしかし笑いもしなかった。騒ぎに赤坊が眼をさました。妻が抱き上げようとすると、仁右衛門は遮《さえぎ》りとめて妻を横抱きに抱きすくめてしまった。
 「そうれまんだ肝《きも》べ焼けるか。こう可愛《めんこ》がられても肝べ焼けるか。可愛《めんこ》い獣物《けだもの》ぞい汝《われ》は。見ずに。今《いんま》にな俺《お》ら汝に絹の衣装べ着せてこすぞ。帳場の和郎《わろ》(彼れは所きらわず唾《つば》をはいた)が寝言べこく暇に、俺ら親方と膝つきあわして話して見せるかんな。白痴奴《こけめ》。俺らが事誰れ知るもんで。汝《わり》ゃ可愛いぞ。心から可愛いぞ。宜《よ》し。宜し。汝ゃこれ嫌いでなかんべさ」
といいながら懐から折木《へぎ》に包んだ大福を取出して、その一つをぐちゃぐちゃに押しつぶして息気《いき》のつまるほど妻の口にあてがっていた。

   (三)

 から風の幾日も吹きぬいた挙句《あげく》に雲が青空をかき乱しはじめた。霙《みぞれ》と日の光とが追いつ追われつして、やがて何所《どこ》からともなく雪が降るようになった。仁右衛門の畑はそうなるまでに一部分しか耡起《すきおこ》されなかったけれども、それでも秋播《あきまき》小麦を播《ま》きつけるだけの地積は出来た。妻の勤労のお蔭《かげ》で一冬分《ひとふゆぶん》の燃料にも差支《さしつかえ》ない準備は出来た。唯《ただ》困るのは食料だった。馬の背に積んで来ただけでは幾日分の足《た》しにもならなかった。仁右衛門はある日馬を市街地に引いて行って売り飛ばした。そして麦と粟《あわ》と大豆とをかなり高い相場で買って帰らねばならなかった。馬がないので馬車追いにもなれず、彼れは居食《いぐ》いをして雪が少し硬くなるまでぼんやりと過していた。
 根雪《ねゆき》になると彼れは妻子を残して木樵《きこり》に出かけた。マッカリヌプリの麓《ふもと》の払下《はらいさげ》官林に入りこんで彼れは骨身を惜まず働いた。雪が解けかかると彼れは岩内《いわない》に出て鰊場《にしんば》稼《かせ》ぎをした。そして山の雪が解けてしまう頃に、彼れは雪焼けと潮焼けで真黒になって帰って来た。彼れの懐は十分重かった。仁右衛門は農場に帰るとすぐ逞《たくま》しい一頭の馬と、プラオと、ハーローと、必要な種子《たね》を買い調えた。彼れは毎日毎日小屋の前に仁王立《におうだち》になって、五ヶ月間積り重なった雪の解けたために膿《う》み放題に膿んだ畑から、恵深い日の光に照らされて水蒸気の濛々《もうもう》と立上る様を待ち遠しげに眺めやった。マッカリヌプリは毎日紫色に暖かく霞《かす》んだ。林の中の雪の叢消《むらぎ》えの間には福寿草《ふくじゅそう》の茎が先ず緑をつけた。つぐみ[#「つぐみ」に傍点]としじゅうから[#「しじゅうから」に傍点]とが枯枝をわたってしめやかなささ啼《な》きを伝えはじめた。腐るべきものは木の葉といわず小屋といわず存分に腐っていた。
 仁右衛門は眼路《めじ》のかぎりに見える小作小屋の幾軒かを眺めやって糞《くそ》でも喰《くら》えと思った。未来の夢がはっきりと頭に浮んだ。三年|経《た》った後には彼れは農場一の大小作《おおこさく》だった。五年の後には小さいながら一箇の独立した農民だった。十年目にはかなり広い農場を譲り受けていた。その時彼れは三十七だった。帽子を被って二重マントを着た、護謨《ゴム》長靴ばきの彼れの姿が、自分ながら小恥《こはずか》しいように想像された。
 とうとう播種時《たねまきどき》が来た。山火事で焼けた熊笹《くまざさ》の葉が真黒にこげて奇跡の護符のように何所《どこ》からともなく降って来る播種時が来た。畑の上は急に活気だった。市街地にも種物商や肥料商が入込んで、たった一軒の曖昧屋《ごけや》からは夜ごとに三味線の遠音《とおね》が響くようになった。
 仁右衛門は逞《たくま》しい馬に、磨《と》ぎすましたプラオをつけて、畑におりたった。耡き起される土壌は適度の湿気をもって、裏返るにつれてむせるような土の香を送った。それが仁右衛門の血にぐんぐんと力を送ってよこした。
 凡《すべ》てが順当に行った。播いた種は伸《のび》をするようにずんずん生い育った。仁右衛門はあたり近所の小作人に対して二言目には喧嘩面《けんかづら》を見せたが六尺ゆたかの彼れに楯《たて》つくものは一人もなかった。佐藤なんぞは彼れの姿を見るとこそこそと姿を隠した。「それ『まだか』が来おったぞ」といって人々は彼れを恐れ憚《はばか》った。もう顔がありそうなものだと見上げても、まだ顔はその上の方にあるというので、人々は彼れを「まだか」と諢名《あだな》していたのだ。
 時々佐藤の妻と彼れとの関係が、人々の噂《うわさ》に上るようになった。

 一日働き暮すとさすが労働に慣れ切った農民たちも、眼の廻るようなこの期節の忙しさに疲れ果てて、夕飯もそこそこに寝込んでしまったが、仁右衛門ばかりは日が入っても手が痒《かゆ》くてしようがなかった。彼れは星の光をたよりに野獣のように畑の中で働き廻わった。夕飯は囲炉裡の火の光でそこそこにしたためた。そうしてはぶらり[#「ぶらり」に傍点]と小屋を出た。そして農場の鎮守《ちんじゅ》の社の傍の小作人集会所で女と会った。
 鎮守は小高い密樹林の中にあった。ある晩仁右衛門はそこで女を待ち合わしていた。風も吹かず雨も降らず、音のない夜だった。女の来ようは思いの外《ほか》早い事も腹の立つほどおそい事もあった。仁右衛門はだだっ広い建物の入口の所で膝《ひざ》をだきながら耳をそばだてていた。
 枝に残った枯葉が若芽にせきたてられて、時々かさっと地に落ちた。天鵞絨《ビロード》のように滑かな空気は動かないままに彼れをいたわるように押包んだ。荒くれた彼れの神経もそれを感じない訳には行かなかった。物なつかしいようななごやか[#「なごやか」に傍点]な心が彼れの胸にも湧いて来た。彼れは闇の中で不思議な幻覚に陥りながら淡くほほえんだ。
 足音が聞こえた。彼れの神経は一時に叢立《むらだ》った。しかしやがて彼れの前に立ったのはたしかに女の形ではなかった。
 「誰れだ汝《わり》ゃ」
 低かったけれども闇をすかして眼を据えた彼れの声は怒りに震えていた。
 「お主こそ誰れだと思うたら広岡さんじゃな。何んしに今時こないな所にいるのぞい」
 仁右衛門は声の主が笠井の四国猿奴《しこくざるめ》だと知るとかっ[#「かっ」に傍点]となった。笠井は農場一の物識《ものし》りで金持《まるもち》だ。それだけで癇癪《かんしゃく》の種には十分だ。彼れはいきなり笠井に飛びかかって胸倉《むなぐら》をひっつかんだ。かーっ[#「かーっ」に傍点]といって出した唾《つば》を危くその面《かお》に吐きつけようとした。
 この頃浮浪人が出て毎晩集会所に集って焚火《たきび》なぞをするから用心が悪い、と人々がいうので神社の世話役をしていた笠井は、おどかしつけるつもりで見廻りに来たのだった。彼れは固《もと》より樫《かし》の棒位の身じたくはしていたが、相手が「まだか」では口もきけないほど縮んでしまった。
 「汝《わり》ゃ俺《お》らが媾曳《あいびき》の邪魔べこく気だな、俺らがする事に汝《われ》が手だしはいんねえだ。首ねっこべひんぬかれんな」
 彼れの言葉はせき上る息気《いき》の間に押しひしゃげ[#「ひしゃげ」に傍点]られてがらがら[#「がらがら」に傍点]震えていた。
 「そりゃ邪推じゃがなお主《ぬし》」
と笠井は口早にそこに来合せた仔細《しさい》と、丁度いい機会だから折入って頼む事がある旨をいいだした。仁右衛門は卑下して出た笠井にちょっと興味を感じて胸倉から手を離して、閾《しきい》に腰をすえた。暗闇の中でも、笠井が眼をきょとん[#「きょとん」に傍点]とさせて火傷《やけど》の方の半面を平手で撫《な》でまわしているのが想像された。そしてやがて腰を下《おろ》して、今までの慌《あわ》てかたにも似ず悠々《ゆうゆう》と煙草入《たばこいれ》を出してマッチを擦《す》った。折入って頼むといったのは小作一同の地主に対する苦情に就いてであった。一反歩二円二十銭の畑代はこの地方にない高相場であるのに、どんな凶年でも割引をしないために、小作は一人として借金をしていないものはない。金では取れないと見ると帳場は立毛《たちけ》の中《うち》に押収してしまう。従って市街地の商人からは眼の飛び出るような上前《うわまえ》をはねられて食代《くいしろ》を買わねばならぬ。だから今度地主が来たら一同で是非とも小作料の値下を要求するのだ。笠井はその総代になっているのだが一人では心細いから仁右衛門も出て力になってくれというのであった。
 「白痴《こけ》なことこくなてえば。二両二貫が何|高値《たか》いべ。汝《われ》たちが骨節《ほねっぷし》は稼《かせ》ぐようには造ってねえのか。親方には半文の借りもした覚えはねえからな、俺らその公事《くじ》には乗んねえだ。汝《われ》先ず親方にべなって見べし。ここのがよりも欲にかかるべえに。……芸もねえ事《こん》に可愛《めんこ》くもねえ面《つら》つんだすなてば」
 仁右衛門はまた笠井のてかてかした顔に唾をはきかけたい衝動にさいなまれたが、我慢してそれを板の間にはき捨てた。
 「そうまあ一概にはいうもんでないぞい」
 「一概にいったが何条《なじょう》悪いだ。去《い》ね。去ねべし」
 「そういえど広岡さん……」
 「汝《わり》ゃ拳固《げんこ》こと喰らいていがか」
 女を待ちうけている仁右衛門にとっては、この邪魔者の長居しているのがいまいましいので、言葉も仕打ちも段々|荒《あら》らかになった。
 執着の強い笠井も立《たた》なければならなくなった。その場を取りつくろう世辞をいって怒った風《ふう》も見せずに坂を下りて行った。道の二股《ふたまた》になった所で左に行こうとすると、闇をすかしていた仁右衛門は吼《ほ》えるように「右さ行くだ」と厳命した。笠井はそれにも背《そむ》かなかった。左の道を通って女が通って来るのだ。
 仁右衛門はまた独りになって闇の中にうずくまった。彼れは憤りにぶるぶる震えていた。生憎《あいにく》女の来ようがおそかった。怒った彼れには我慢が出来きらなかった。女の小屋に荒《あば》れこむ勢で立上ると彼れは白昼大道を行くような足どりで、藪道《やぶみち》をぐんぐん歩いて行った。ふとある疎藪《ぼさ》の所で彼れは野獣の敏感さを以て物のけはいを嗅《か》ぎ知った。彼れははた[#「はた」に傍点]と立停ってその奥をすかして見た。しんとした夜の静かさの中で悪謔《からか》うような淫《みだ》らな女の潜み笑いが聞こえた。邪魔の入ったのを気取《けど》って女はそこに隠れていたのだ。嗅ぎ慣れた女の臭《にお》いが鼻を襲ったと仁右衛門は思った。
 「四つ足めが」
 叫びと共に彼れは疎藪《ぼさ》の中に飛びこんだ。とげとげする触感が、寝る時のほか脱いだ事のない草鞋《わらじ》の底に二足三足感じられたと思うと、四足目は軟いむっちりした肉体を踏みつけた。彼れは思わずその足の力をぬこうとしたが、同時に狂暴な衝動に駈《か》られて、満身の重みをそれに托《たく》した。
 「痛い」
 それが聞きたかったのだ。彼れの肉体は一度に油をそそぎかけられて、そそり立つ血のきおいに眼がくるめいた。彼れはいきなり女に飛びかかって、所きらわず殴ったり足蹴《あしげ》にしたりした。女は痛いといいつづけながらも彼れにからまりついた。そして噛《か》みついた。彼れはとうとう女を抱きすくめて道路に出た。女は彼れの顔に鋭く延びた爪をたてて逃れようとした。二人はいがみ合う犬のように組み合って倒れた。倒れながら争った。彼れはとうとう女を取逃がした。はね起きて追いにかかると一目散に逃げたと思った女は、反対に抱きついて来た。二人は互に情に堪えかねてまた殴ったり引掻《ひっか》いたりした。彼れは女のたぶさ[#「たぶさ」に傍点]を掴《つか》んで道の上をずるずる引張って行った。集会所に来た時は二人とも傷だらけになっていた。有頂天になった女は一塊の火の肉となってぶるぶる震えながら床の上にぶっ倒れていた。彼れは闇の中に突っ立ちながら焼くような昂奮《こうふん》のためによろめいた。

   (四)

 春の天気の順当であったのに反して、その年は六月の初めから寒気と淫雨《いんう》とが北海道を襲って来た。旱魃《かんばつ》に饑饉《ききん》なしといい慣わしたのは水田の多い内地の事で、畑ばかりのK村なぞは雨の多い方はまだ仕やすいとしたものだが、その年の長雨には溜息を漏《もら》さない農民はなかった。
 森も畑も見渡すかぎり真青になって、掘立小屋《ほったてごや》ばかりが色を変えずに自然をよごしていた。時雨《しぐれ》のような寒い雨が閉ざし切った鈍色《にびいろ》の雲から止途《とめど》なく降りそそいだ。低味《ひくみ》の畦道《あぜみち》に敷ならべたスリッパ材はぶかぶかと水のために浮き上って、その間から真菰《まこも》が長く延びて出た。蝌斗《おたまじゃくし》が畑の中を泳ぎ廻ったりした。郭公《ほととぎす》が森の中で淋しく啼《な》いた。小豆《あずき》を板の上に遠くでころがすような雨の音が朝から晩まで聞えて、それが小休《おや》むと湿気を含んだ風が木でも草でも萎《しぼ》ましそうに寒く吹いた。
 ある日農場主が函館《はこだて》から来て集会所で寄合うという知らせが組長から廻って来た。仁右衛門はそんな事には頓着《とんじゃく》なく朝から馬力《ばりき》をひいて市街地に出た。運送店の前にはもう二台の馬力があって、脚をつまだてるようにしょんぼり[#「しょんぼり」に傍点]と立つ輓馬《ひきうま》の鬣《たてがみ》は、幾本かの鞭《むち》を下げたように雨によれて、その先きから水滴が絶えず落ちていた。馬の背からは水蒸気が立昇った。戸を開けて中に這入《はい》ると馬車追いを内職にする若い農夫が三人土間に焚火《たきび》をしてあたっていた。馬車追いをする位の農夫は農夫の中でも冒険的な気の荒い手合だった。彼らは顔にあたる焚火のほてりを手や足を挙げて防ぎながら、長雨につけこんで村に這入って来た博徒《ばくと》の群の噂をしていた。捲《ま》き上《あ》げようとして這入り込みながら散々手を焼いて駅亭から追い立てられているような事もいった。
 「お前も一番乗って儲《もう》かれや」
とその中の一人は仁右衛門をけしかけた。店の中はどんよりと暗く湿っていた。仁右衛門は暗い顔をして唾《つば》をはき捨てながら、焚火の座に割り込んで黙っていた。ぴしゃぴしゃと気疎《けうと》い草鞋《わらじ》の音を立てて、往来を通る者がたまさかにあるばかりで、この季節の賑《にぎわ》い立《だ》った様子は何処《どこ》にも見られなかった。帳場の若いものは筆を持った手を頬杖《ほおづえ》にして居眠っていた。こうして彼らは荷の来るのをぼんやりして二時間あまりも待ち暮した。聞くに堪えないような若者どもの馬鹿話も自然と陰気な気分に押えつけられて、動《やや》ともすると、沈黙と欠伸《あくび》が拡がった。
 「一はたりはたらずに」
 突然仁右衛門がそういって一座を見廻した。彼れはその珍らしい無邪気な微笑をほほえんでいた。一同は彼れのにこやかな顔を見ると、吸い寄せられるようになって、いう事をきかないではいられなかった。蓆《むしろ》が持ち出された。四人は車座《くるまざ》になった。一人は気軽く若い者の机の上から湯呑茶碗を持って来た。もう一人の男の腹がけの中からは骰子《さい》が二つ取出された。
 店の若い者が眼をさまして見ると、彼らは昂奮《こうふん》した声を押つぶしながら、無気《むき》になって勝負に耽《ふけ》っていた。若い者は一寸《ちょっと》誘惑を感じたが気を取直して、
 「困るでねえか、そうした事|店頭《みせさき》でおっ広《ぴろ》げて」
というと、
 「困ったら積荷こと探して来《こ》う」
と仁右衛門は取り合わなかった。
 昼になっても荷の回送はなかった。仁右衛門は自分からいい出しながら、面白くない勝負ばかりしていた。何方《どっち》に変るか自分でも分らないような気分が驀地《まっしぐら》に悪い方に傾いて来た。気を腐らせれば腐らすほど彼れのやま[#「やま」に傍点]は外れてしまった。彼れはくさくさしてふいと座を立った。相手が何とかいうのを振向きもせずに店を出た。雨は小休《おやみ》なく降り続けていた。昼餉《ひるげ》の煙が重く地面の上を這《は》っていた。
 彼れはむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]しながら馬力を引ぱって小屋の方に帰って行った。だらしなく降りつづける雨に草木も土もふやけ切って、空までがぽとり[#「ぽとり」に傍点]と地面の上に落ちて来そうにだらけていた。面白くない勝負をして焦立《いらだ》った仁右衛門の腹の中とは全く裏合せな煮《に》え切《き》らない景色だった。彼れは何か思い切った事をしてでも胸をすかせたく思った。丁度自分の畑の所まで来ると佐藤の年嵩《としかさ》の子供が三人学校の帰途《かえり》と見えて、荷物を斜《はす》に背中に背負って、頭からぐっしょり[#「ぐっしょり」に傍点]濡れながら、近路《ちかみち》するために畑の中を歩いていた。それを見ると仁右衛門は「待て」といって呼びとめた。振向いた子供たちは「まだか」の立っているのを見ると三人とも恐ろしさに顔の色を変えてしまった。殴りつけられる時するように腕をまげて目八分の所にやって、逃げ出す事もし得ないでいた。
 「童子連《わらしづれ》は何条《なじょう》いうて他人《ひと》の畑さ踏み込んだ。百姓の餓鬼《がき》だに畑のう大事がる道知んねえだな。来《こ》う」
 仁王立《におうだ》ちになって睨《にら》みすえながら彼れは怒鳴《どな》った。子供たちはもうおびえるように泣き出しながら恐《お》ず恐《お》ず仁右衛門の所に歩いて来た。待ちかまえた仁右衛門の鉄拳はいきなり十二ほどになる長女の痩《や》せた頬《ほお》をゆがむほどたたきつけた。三人の子供は一度に痛みを感じたように声を挙げてわめき出した。仁右衛門は長幼の容捨《ようしゃ》なく手あたり次第に殴りつけた。
 小屋に帰ると妻は蓆の上にペッたんこに坐って馬にやる藁《わら》をざくりざくり切っていた。赤坊はいんちこ[#「いんちこ」に傍点]の中で章魚《たこ》のような頭を襤褸《ぼろ》から出して、軒から滴り落ちる雨垂れを見やっていた。彼れの気分にふさわない重苦しさが漲《みなぎ》って、運送店の店先に較《くら》べては何から何まで便所のように穢《きたな》かった。彼は黙ったままで唾をはき捨てながら馬の始末をするとすぐまた外に出た。雨は膚《はだ》まで沁《し》み徹《とお》ってぞくぞく寒かった。彼れの癇癪《かんしゃく》は更《さ》らにつのった。彼れはすたすたと佐藤の小屋に出かけた。が、ふと集会所に行ってる事に気がつくとその足ですぐ神社をさして急いだ。
 集会所には朝の中《うち》から五十人近い小作者が集って場主の来るのを待っていたが、昼過ぎまで待ちぼけを喰《く》わされてしまった。場主はやがて帳場を伴《とも》につれて厚い外套《がいとう》を着てやって来た。上座《かみざ》に坐ると勿体《もったい》らしく神社の方を向いて柏手《かしわで》を打って黙拝をしてから、居合わせてる者らには半分も解らないような事をしたり[#「したり」に傍点]顔にいい聞かした。小作者らはけげんな顔をしながらも、場主の言葉が途切れると尤《もっと》もらしくうなずいた。やがて小作者らの要求が笠井によって提出せらるべき順番が来た。彼れは先ず親方は親で小作は子だと説き出して、小作者側の要求をかなり強くいい張った跡で、それはしかし無理な御願いだとか、物の解らない自分たちが考える事だからだとか、そんな事は先ず後廻しでもいい事だとか、自分のいい出した事を自分で打壊すような添言葉《そえことば》を付加えるのを忘れなかった。仁右衛門はちょうどそこに行き合せた。彼れは入口の羽目板《はめいた》に身をよせてじっと聞いていた。
 「こうまあ色々とお願いしたじゃからは、お互も心をしめて帳場さんにも迷惑をかけぬだけにはせずばなあ(ここで彼れは一同を見渡した様子だった)。『万国心をあわせてな』と天理教のお歌様にもある通り、定《き》まった事は定まったようにせんとならんじゃが、多い中じゃに無理もないようなものの、亜麻などを親方、ぎょうさん[#「ぎょうさん」に傍点]つけたものもあって、まこと済まん次第じゃが、無理が通れば道理もひっこみよるで、なりませんじゃもし」
 仁右衛門は場規もかまわず畑の半分を亜麻にしていた。で、その言葉は彼れに対するあてこすり[#「あてこすり」に傍点]のように聞こえた。
 「今日なども顔を出しよらん横道者《よこしまもの》もありますじゃで……」
 仁右衛門は怒りのために耳がかァん[#「かァん」に傍点]となった。笠井はまだ何か滑らかにしゃべっていた。
 場主がまだ何か訓示めいた事をいうらしかったが、やがてざわざわと人の立つ気配がした。仁右衛門は息気《いき》を殺して出て来る人々を窺《うか》がった。場主が帳場と一緒に、後から笠井に傘《かさ》をさしかけさせて出て行った。労働で若年の肉を鍛《きた》えたらしい頑丈《がんじょう》な場主の姿は、何所《どこ》か人を憚《はば》からした。仁右衛門は笠井を睨《にら》みながら見送った。やや暫《しば》らくすると場内から急にくつろいだ談笑の声が起った。そして二、三人ずつ何か談《かた》り合《あ》いながら小作者らは小屋をさして帰って行った。やや遅れて伴《つ》れもなく出て来たのは佐藤だった。小さな後姿は若々しくって青年《あんこ》のようだった。仁右衛門は木の葉のように震えながらずかずかと近づくと、突然後ろからその右の耳のあたりを殴りつけた。不意を喰《くら》って倒れんばかりによろけた佐藤は、跡も見ずに耳を押えながら、猛獣の遠吠《とおぼえ》を聞いた兎《うさぎ》のように、前に行く二、三人の方に一目散にかけ出してその人々を楯《たて》に取った。
 「汝《わり》ゃ乞食《ほいと》か盗賊《ぬすっと》か畜生か。よくも汝《われ》が餓鬼どもさ教唆《しか》けて他人《ひと》の畑こと踏み荒したな。殴《う》ちのめしてくれずに。来《こ》」
 仁右衛門は火の玉のようになって飛びかかった。当の二人と二、三人の留男《とめおとこ》とは毬《まり》になって赤土の泥の中をころげ廻った。折重なった人々がようやく二人を引分けた時は、佐藤は何所《どこ》かしたたか傷を負って死んだように青くなっていた。仲裁したものはかかり合いからやむなく、仁右衛門に付添って話をつけるために佐藤の小屋まで廻り道をした。小屋の中では佐藤の長女が隅《すみ》の方に丸まって痛い痛いといいながらまだ泣きつづけていた。炉《ろ》を間に置いて佐藤の妻と広岡の妻とはさし向いに罵《ののし》り合《あ》っていた。佐藤の妻は安座《あぐら》をかいて長い火箸《ひばし》を右手に握っていた。広岡の妻も背に赤ん坊を背負って、早口にいい募っていた。顔を血だらけにして泥まみれになった佐藤の跡から仁右衛門が這入って来るのを見ると、佐藤の妻は訳を聞く事もせずにがたがた震える歯を噛《か》み合せて猿のように唇《くちびる》の間からむき出しながら仁右衛門の前に立ちはだかって、飛び出しそうな怒りの眼で睨《にら》みつけた。物がいえなかった。いきなり火箸を振上げた。仁右衛門は他愛もなくそれを奪い取った。噛みつこうとするのを押しのけた。そして仲裁者が一杯飲もうと勧めるのも聴かずに妻を促して自分の小屋に帰って行った。佐藤の妻は素跣《すはだし》のまま仁右衛門の背に罵詈《ばり》を浴せながら怒精《フューリー》のようについて来た。そして小屋の前に立ちはだかって、囀《さえず》るように半ば夢中で仁右衛門夫婦を罵りつづけた。
 仁右衛門は押黙ったまま囲炉裡《いろり》の横座《よこざ》に坐って佐藤の妻の狂態を見つめていた。それは仁右衛門には意外の結果だった。彼れの気分は妙にかたづかないものだった。彼れは佐藤の妻の自分から突然離れたのを怒ったりおかしく思ったり惜《おし》んだりしていた。仁右衛門が取合わないので彼女はさすがに小屋の中には這入らなかった。そして皺枯《しわが》れた声でおめき叫びながら雨の中を帰って行ってしまった。仁右衛門の口の辺にはいかにも人間らしい皮肉な歪《ゆが》みが現われた。彼れは結局自分の智慧《ちえ》の足りなさを感じた。そしてままよと思っていた。
 凡《すべ》ての興味が全く去ったのを彼れは覚えた。彼れは少し疲れていた。始めて本統《ほんとう》の事情を知った妻から嫉妬《しっと》がましい執拗《しつこ》い言葉でも聞いたら少しの道楽気《どうらくげ》もなく、どれほどな残虐な事でもやり兼ねないのを知ると、彼れは少し自分の心を恐れねばならなかった。彼れは妻に物をいう機会を与えないために次から次へと命令を連発した。そして晩《おそ》い昼飯をしたたか喰った。がらっと箸《はし》を措《お》くと泥だらけなびしょぬれな着物のままでまたぶらりと小屋を出た。この村に這入りこんだ博徒らの張っていた賭場《とば》をさして彼の足はしょう事なしに向いて行った。

   (五)

 よくこれほどあるもんだと思わせた長雨も一カ月ほど降り続いて漸《ようや》く晴れた。一足飛びに夏が来た。何時《いつ》の間に花が咲いて散ったのか、天気になって見ると林の間にある山桜も、辛夷《こぶし》も青々とした広葉になっていた。蒸風呂のような気持ちの悪い暑さが襲って来て、畑の中の雑草は作物を乗りこえて葎《むぐら》のように延びた。雨のため傷《いた》められたに相異ないと、長雨のただ一つの功徳《くどく》に農夫らのいい合った昆虫《こんちゅう》も、すさまじい勢で発生した。甘藍《キャベツ》のまわりにはえぞしろちょう[#「えぞしろちょう」に傍点]が夥《おびただ》しく飛び廻った。大豆《だいず》にはくちかきむし[#「くちかきむし」に傍点]の成虫がうざうざするほど集まった。麦類には黒穂の、馬鈴薯《ばれいしょ》にはべと[#「べと」に傍点]病の徴候が見えた。虻《あぶ》と蚋《ぶよ》とは自然の斥候《せっこう》のようにもやもやと飛び廻った。濡れたままに積重ねておいた汚れ物をかけわたした小屋の中からは、あらん限りの農夫の家族が武具《えもの》を持って畑に出た。自然に歯向う必死な争闘の幕は開かれた。
 鼻歌も歌わずに、汗を肥料のように畑の土に滴らしながら、農夫は腰を二つに折って地面に噛《かじ》り付いた。耕馬は首を下げられるだけ下げて、乾き切らない土の中に脚を深く踏みこみながら、絶えず尻尾《しりっぽ》で虻を追った。しゅっと音をたてて襲って来る毛の束にしたたか打れた虻は、血を吸って丸くなったまま、馬の腹からぽとりと地に落ちた。仰向《あおむ》けになって鋼線《はりがね》のような脚を伸したり縮めたりして藻掻《もが》く様《さま》は命の薄れるもののように見えた。暫《しばら》くするとしかしそれはまた器用に翅《はね》を使って起きかえった。そしてよろよろと草の葉裏に這いよった。そして十四、五分の後にはまた翅をはってうなりを立てながら、眼を射るような日の光の中に勇ましく飛び立って行った。
 夏物が皆無作というほどの不出来であるのに、亜麻だけは平年作位にはまわった。青《あお》天鵞絨《ビロード》の海となり、瑠璃色《るりいろ》の絨氈《じゅうたん》となり、荒くれた自然の中の姫君なる亜麻の畑はやがて小紋《こもん》のような果《み》をその繊細な茎の先きに結んで美しい狐色に変った。
 「こんなに亜麻をつけては仕様《しよう》がねえでねえか。畑が枯れて跡地には何んだって出来はしねえぞ。困るな」
 ある時帳場が見廻って来て、仁右衛門にこういった。
 「俺《お》らがも困るだ。汝《わ》れが困ると俺らが困るとは困りようが土台ちがわい。口が干上《ひあが》るんだあぞ俺《おら》がのは」
 仁右衛門は突慳貪《つっけんどん》にこういい放った。彼れの前にあるおきて[#「おきて」に傍点]は先ず食う事だった。
 彼れはある日亜麻の束を見上げるように馬力に積み上げて倶知安《くっちゃん》の製線所に出かけた。製線所では割合に斤目《はかり》をよく買ってくれたばかりでなく、他の地方が不作なために結実がなかったので、亜麻種《あまだね》を非常な高値《たかね》で引取る約束をしてくれた。仁右衛門の懐の中には手取り百円の金が暖くしまわれた。彼れは畑にまだしこたま残っている亜麻の事を考えた。彼れは居酒屋に這入《はい》った。そこにはK村では見られないような綺麗《きれい》な顔をした女もいた。仁右衛門の酒は必ずしも彼れをきまった型には酔わせなかった。或る時は彼れを怒りっぽく、或る時は悒鬱《ゆううつ》に、或る時は乱暴に、或る時は機嫌よくした。その日の酒は勿論《もちろん》彼れを上機嫌にした。一緒に飲んでいるものが利害関係のないのも彼れには心置きがなかった。彼れは酔うままに大きな声で戯談口《じょうだんぐち》をきいた。そういう時の彼れは大きな愚かな子供だった。居合せたものはつり込まれて彼れの周囲に集った。女まで引張られるままに彼れの膝に倚《よ》りかかって、彼れの頬《ほお》ずりを無邪気に受けた。
 「汝《われ》がの頬に俺《おら》が髭《ひげ》こ生《お》えたらおかしかんべなし」
 彼れはそんな事をいった。重いその口からこれだけの戯談が出ると女なぞは腹をかかえて笑った。陽《ひ》がかげる頃に彼れは居酒屋を出て反物屋《たんものや》によって華手《はで》なモスリンの端切《はぎ》れを買った。またビールの小瓶《こびん》を三本と油糟《あぶらかす》とを馬車に積んだ。倶知安《くっちゃん》からK村に通う国道はマッカリヌプリの山裾《やますそ》の椴松帯《とどまつたい》の間を縫っていた。彼れは馬力の上に安座《あぐら》をかいて瓶から口うつしにビールを煽《あお》りながら濁歌《だみうた》をこだま[#「こだま」に傍点]にひびかせて行った。幾抱えもある椴松は羊歯《しだ》の中から真直に天を突いて、僅《わず》かに覗《のぞ》かれる空には昼月が少し光って見え隠れに眺められた。彼れは遂に馬力の上に酔い倒れた。物慣れた馬は凸凹の山道を上手に拾いながら歩いて行った。馬車はかしいだり跳ねたりした。その中で彼れは快い夢に入ったり、面白い現《うつつ》に出たりした。
 仁右衛門はふと熟睡から破られて眼をさました。その眼にはすぐ川森|爺《じい》さんの真面目《まじめ》くさった一徹な顔が写った。仁右衛門の軽い気分にはその顔が如何《いか》にもおかしかったので、彼れは起き上りながら声を立てて笑おうとした。そして自分が馬力の上にいて自分の小屋の前に来ている事に気がついた。小屋の前には帳場も佐藤も組長の某もいた。それはこの小屋の前では見慣れない光景だった。川森は仁右衛門が眼を覚ましたのを見ると、
 「早《はよ》う内さ行くべし。汝《われ》が嬰子《にが》はおっ死《ち》ぬべえぞ。赤痢さとッつかれただ」
といった。他愛のない夢から一足飛びにこの恐ろしい現実に呼びさまされた彼れの心は、最初に彼れの顔を高笑いにくずそうとしたが、すぐ次ぎの瞬間に、彼れの顔の筋肉を一度気《いちどき》にひきしめてしまった。彼れは顔中の血が一時に頭の中に飛《と》び退《の》いたように思った。仁右衛門は酔いが一時に醒《さ》めてしまって馬力から飛び下りた。小屋の中にはまだ二、三人人がいた。妻はと見ると虫の息に弱った赤坊の側に蹲《うずくま》っておいおい泣いていた。笠井が例の古鞄《ふるかばん》を膝に引つけてその中から護符のようなものを取出していた。
 「お、広岡さんええ所に帰ったぞな」
 笠井が逸早《いちはや》く仁右衛門を見付けてこういうと、仁右衛門の妻は恐れるように怨《うら》むように訴えるように夫を見返って、黙ったまま泣き出した。仁右衛門はすぐ赤坊の所に行って見た。章魚《たこ》のような大きな頭だけが彼れの赤坊らしい唯《ただ》一つのものだった。たった半日の中《うち》にこうも変るかと疑われるまでにその小さな物は衰え細っていた。仁右衛門はそれを見ると腹が立つほど淋しく心許《こころもと》なくなった。今まで経験した事のないなつかしさ可愛さが焼くように心に逼《せま》って来た。彼れは持った事のないものを強いて押付けられたように当惑してしまった。その押付けられたものは恐ろしく重い冷たいものだった。何よりも先ず彼れは腹の力の抜けて行くような心持ちをいまいましく思ったがどうしようもなかった。
 勿体《もったい》ぶって笠井が護符を押いただき、それで赤坊の腹部を呪文《じゅもん》を称《とな》えながら撫《な》で廻わすのが唯一の力に思われた。傍にいる人たちも奇蹟の現われるのを待つように笠井のする事を見守っていた。赤坊は力のない哀れな声で泣きつづけた。仁右衛門は腸《はらわた》をむしられるようだった。それでも泣いている間はまだよかった。赤坊が泣きやんで大きな眼を引つらしたまま瞬《まばた》きもしなくなると、仁右衛門はおぞましくも拝むような眼で笠井を見守った。小屋の中は人いきれで蒸すように暑かった。笠井の禿上《はげあが》った額からは汗の玉がたらたらと流れ出た。それが仁右衛門には尊くさえ見えた。小半時《こはんとき》赤坊の腹を撫で廻わすと、笠井はまた古鞄の中から紙包を出して押いただいた。そして口に手拭《てぬぐい》を喰わえてそれを開くと、一寸四方ほどな何か字の書いてある紙片を摘《つま》み出して指の先きで丸めた。水を持って来さしてそれをその中へ浸した。仁右衛門はそれを赤坊に飲ませろとさし出されたが、飲ませるだけの勇気もなかった。妻は甲斐甲斐《かいがい》しく良人《おっと》に代った。渇き切っていた赤坊は喜んでそれを飲んだ。仁右衛門は有難いと思っていた。
 「わしも子は亡《な》くした覚えがあるで、お主の心持ちはようわかる。この子を助けようと思ったら何せ一心に天理王様に頼まっしゃれ。な。合点か。人間|業《わざ》では及ばぬ事じゃでな」
 笠井はそういってしたり顔をした。仁右衛門の妻は泣きながら手を合せた。
 赤坊は続けさまに血を下した。そして小屋の中が真暗になった日のくれぐれに、何物にか助けを求める成人《おとな》のような表情を眼に現わして、あてどもなくそこらを見廻していたが、次第次第に息が絶えてしまった。
 赤坊が死んでから村医は巡査に伴《つ》れられて漸《ようや》くやって来た。香奠《こうでん》代りの紙包を持って帳場も来た。提灯《ちょうちん》という見慣れないものが小屋の中を出たり這入《はい》ったりした。仁右衛門夫婦の嗅《か》ぎつけない石炭酸の香は二人を小屋から追出してしまった。二人は川森に付添われて西に廻った月の光の下にしょんぼり立った。
 世話に来た人たちは一人去り二人去り、やがて川森も笠井も去ってしまった。
 水を打ったような夜の涼しさと静かさとの中にかすかな虫の音がしていた。仁右衛門は何という事なしに妻が癪《しゃく》にさわってたまらなかった。妻はまた何という事なしに良人《おっと》が憎まれてならなかった。妻は馬力の傍にうずくまり、仁右衛門はあてもなく唾《つば》を吐き散らしながら小屋の前を行ったり帰ったりした。よその農家でこの凶事があったら少くとも隣近所から二、三人の者が寄り合って、買って出した酒でも飲みちらしながら、何かと話でもして夜を更《ふ》かすのだろう。仁右衛門の所では川森さえ居残っていないのだ。妻はそれを心から淋しく思ってしくしくと泣いていた。物の三時間も二人はそうしたままで何もせずにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]小屋の前で月の光にあわれな姿をさらしていた。
 やがて仁右衛門は何を思い出したのかのそのそと小屋の中に這入って行った。妻は眼に角《かど》を立てて首だけ後ろに廻わして洞穴のような小屋の入口を見返った。暫《しば》らくすると仁右衛門は赤坊を背負って、一丁の鍬《くわ》を右手に提《さ》げて小屋から出て来た。
 「ついて来《こ》う」
 そういって彼れはすたすたと国道の方に出て行った。簡単な啼声《なきごえ》で動物と動物とが互《たがい》を理解し合うように、妻は仁右衛門のしようとする事が呑み込めたらしく、のっそり[#「のっそり」に傍点]と立上ってその跡に随《したが》った。そしてめそめそと泣き続けていた。
 夫婦が行き着いたのは国道を十町も倶知安《くっちゃん》の方に来た左手の岡の上にある村の共同墓地だった。そこの上からは松川農場を一面に見渡して、ルベシベ、ニセコアンの連山も川向いの昆布岳《こんぶだけ》も手に取るようだった。夏の夜の透明な空気は青み亘《わた》って、月の光が燐のように凡《すべ》ての光るものの上に宿っていた。蚊《か》の群がわんわんうなって二人に襲いかかった。
 仁右衛門は死体を背負ったまま、小さな墓標や石塔の立列《たちつらな》った間の空地に穴を掘りだした。鍬の土に喰い込む音だけが景色に少しも調和しない鈍い音を立てた。妻はしゃがんだままで時々|頬《ほお》に来る蚊をたたき殺しながら泣いていた。三尺ほどの穴を掘り終ると仁右衛門は鍬の手を休めて額の汗を手の甲で押拭《おしぬぐ》った。夏の夜は静かだった。その時突然恐ろしい考が彼れの吐胸《とむね》を突いて浮んだ。彼れはその考に自分ながら驚いたように呆《あき》れて眼を見張っていたが、やがて大声を立てて頑童《がんどう》の如《ごと》く泣きおめき始めた。その声は醜く物凄《ものすご》かった。妻はきょっとん[#「きょっとん」に傍点]として、顔中を涙にしながら恐ろしげに良人《おっと》を見守った。
 「笠井の四国猿めが、嬰子《にが》事殺しただ。殺しただあ」
 彼れは醜い泣声の中からそう叫んだ。
 翌日彼れはまた亜麻の束を馬力に積もうとした。そこには華手《はで》なモスリンの端切《はぎ》れが乱雲の中に現われた虹《にじ》のようにしっとり朝露にしめったまま穢《きた》ない馬力の上にしまい忘られていた。

   (六)

 狂暴な仁右衛門は赤坊を亡《な》くしてから手がつけられないほど狂暴になった。その狂暴を募らせるように烈《はげ》しい盛夏が来た。春先きの長雨を償うように雨は一滴も降らなかった。秋に収穫すべき作物は裏葉が片端《かたっぱし》から黄色に変った。自然に抵抗し切れない失望の声が、黙りこくった農夫の姿から叫ばれた。
 一刻の暇もない農繁の真最中に馬市が市街地に立った。普段ならば人々は見向きもしないのだが、畑作をなげてしまった農夫らは、捨鉢《すてばち》な気分になって、馬の売買にでも多少の儲《もうけ》を見ようとしたから、前景気は思いの外《ほか》強かった。当日には近村からさえ見物が来たほど賑《にぎ》わった。丁度農場事務所裏の空地《あきち》に仮小屋が建てられて、爪《つめ》まで磨き上げられた耕馬が三十頭近く集まった。その中で仁右衛門の出した馬は殊に人の眼を牽《ひ》いた。
 その翌日には競馬があった。場主までわざわざ函館《はこだて》からやって来た。屋台店や見世物小屋がかかって、祭礼に通有な香のむしむしする間を着飾った娘たちが、刺戟《しげき》の強い色を振播《ふりま》いて歩いた。
 競馬場の埒《らち》の周囲は人垣で埋った。三、四軒の農場の主人たちは決勝点の所に一段高く桟敷《さじき》をしつらえてそこから見物した。松川場主の側には子供に付添って笠井の娘が坐っていた。その娘は二、三年前から函館に出て松川の家に奉公していたのだ。父に似て細面《ほそおもて》の彼女は函館の生活に磨きをかけられて、この辺では際立って垢抜《あかぬ》けがしていた。競馬に加わる若い者はその妙齢な娘の前で手柄を見せようと争った。他人《ひと》の妾《めかけ》に目星をつけて何になると皮肉をいうものもあった。
 何しろ競馬は非常な景気だった。勝負がつく度に揚る喝采《かっさい》の声は乾いた空気を伝わって、人々を家の内にじっとさしては置かなかった。
 仁右衛門はその頃|博奕《ばくち》に耽《ふけ》っていた。始めの中《うち》はわざと負けて見せる博徒の手段に甘々《うまうま》と乗せられて、勢い込んだのが失敗の基《もと》で、深入りするほど損をしたが、損をするほど深入りしないではいられなかった。亜麻の収利は疾《とう》の昔にけし飛んでいた。それでも馬は金輪際《こんりんざい》売る気がなかった。剰《あま》す所は燕麦《からすむぎ》があるだけだったが、これは播種時《たねまきどき》から事務所と契約して、事務所から一手に陸軍|糧秣廠《りょうまつしょう》に納める事になっていた。その方が競争して商人に売るのよりも割がよかったのだ。商人どもはこのボイコットを如何《どう》して見過していよう。彼らは農家の戸別訪問をして糧秣廠よりも遙かに高価に引受けると勧誘した。糧秣廠から買入代金が下ってもそれは一応事務所にまとまって下るのだ。その中から小作料だけを差引いて小作人に渡すのだから、農場としては小作料を回収する上にこれほど便利な事はない。小作料を払うまいと決心している仁右衛門は馬鹿な話だと思った。彼れは腹をきめた。そして競馬のために人の注意がおろそかになった機会を見すまして、商人と結托して、事務所へ廻わすべき燕麦をどんどん商人に渡してしまった。
 仁右衛門はこの取引をすましてから競馬場にやって来た。彼れは自分の馬で競走に加わるはずになっていたからだ。彼れは裸乗りの名人だった。
 自分の番が来ると彼れは鞍《くら》も置かずに自分の馬に乗って出て行った。人々はその馬を見ると敬意を払うように互にうなずき合って今年の糶《せり》では一番物だと賞《ほ》め合った。仁右衛門はそういう私語《ささやき》を聞くといい気持ちになって、いやでも勝って見せるぞと思った。六頭の馬がスタートに近づいた。さっと旗が降りた時仁右衛門はわざと出おくれた。彼れは外《ほか》の馬の跡から内埒《うちわ》へ内埒へとよって、少し手綱《たづな》を引きしめるようにして駈《か》けさした。ほてった彼の顔から耳にかけて埃《ほこり》を含んだ風が息気《いき》のつまるほどふきかかるのを彼れは快く思った。やがて馬場《ばば》を八分目ほど廻った頃を計《はか》って手綱をゆるめると馬は思い存分|頸《くび》を延ばしてずんずんおくれた馬から抜き出した。彼れが鞭《むち》とあおり[#「あおり」に傍点]で馬を責めながら最初から目星をつけていた先頭の馬に追いせまった時には決勝点が近かった。彼れはいらだってびしびしと鞭をくれた。始めは自分の馬の鼻が相手の馬の尻とすれすれになっていたが、やがて一歩一歩二頭の距離は縮まった。狂気のような喚呼《かんこ》が夢中になった彼れの耳にも明かに響《ひび》いて来た。もう一息と彼れは思った。――その時突然|桟敷《さじき》の下で遊んでいた松川場主の子供がよたよたと埒《らち》の中へ這入《はい》った。それを見た笠井の娘は我れを忘れて駈け込んだ。「危ねえ」――観衆は一度に固唾《かたず》を飲んだ。その時先頭にいた馬は娘の華手《はで》な着物に驚いたのか、さっときれて仁右衛門の馬の前に出た。と思う暇もなく仁右衛門は空中に飛び上って、やがて敲《たた》きつけられるように地面に転がっていた。彼れは気丈《きじょう》にも転がりながらすっく[#「すっく」に傍点]と起き上った。直ぐ彼れの馬の所に飛んで行った。馬はまだ起きていなかった。後趾《あとあし》で反動を取って起きそうにしては、前脚を折って倒れてしまった。訓練のない見物人は潮《うしお》のように仁右衛門と馬とのまわりに押寄せた。
 仁右衛門の馬は前脚を二足とも折ってしまっていた。仁右衛門は惘然《ぼんやり》したまま、不思議相《ふしぎそう》な顔をして押寄せた人波を見守って立ってる外《ほか》はなかった。
 獣医の心得もある蹄鉄屋《ていてつや》の顔を群集の中に見出してようやく正気に返った仁右衛門は、馬の始末を頼んですごすごと競馬場を出た。彼れは自分で何が何だかちっとも分らなかった。彼れは夢遊病者のように人の間を押分けて歩いて行った。事務所の角まで来ると何という事なしにいきなり路《みち》の小石を二つ三つ掴《つか》んで入口の硝子《ガラス》戸《ど》にたたきつけた。三枚ほどの硝子は微塵《みじん》にくだけて飛び散った。彼れはその音を聞いた。それはしかし耳を押えて聞くように遠くの方で聞こえた。彼れは悠々《ゆうゆう》としてまたそこを歩み去った。
 彼れが気がついた時には、何方《どっち》をどう歩いたのか、昆布岳の下を流れるシリベシ河の河岸の丸石に腰かけてぼんやり河面《かわづら》を眺めていた。彼れの眼の前を透明な水が跡から跡から同じような渦紋《かもん》を描いては消し描いては消して流れていた。彼れはじっとその戯《たわむ》れを見詰めながら、遠い過去の記憶でも追うように今日の出来事を頭の中で思い浮べていた。凡《すべ》ての事が他人事《ひとごと》のように順序よく手に取るように記憶に甦《よみがえ》った。しかし自分が放り出される所まで来ると記憶の糸はぷっつり[#「ぷっつり」に傍点]切れてしまった。彼れはそこの所を幾度も無関心に繰返した。笠井の娘――笠井の娘――笠井の娘がどうしたんだ――彼れは自問自答した。段々眼がかすんで来た。笠井の娘……笠井……笠井だな馬を片輪《かたわ》にしたのは。そう考えても笠井は彼れに全く関係のない人間のようだった。その名は彼れの感情を少しも動かす力にはならなかった。彼れはそうしたままで深い眠りに落ちてしまった。
 彼れは夜中になってからひょっくり[#「ひょっくり」に傍点]小屋に帰って来た。入口からぷんと石炭酸の香がした。それを嗅《か》ぐと彼れは始めて正気に返って改めて自分の小屋を物珍らしげに眺めた。そうなると彼れは夢からさめるようにつまらない現実に帰った。鈍った意識の反動として細かい事にも鋭く神経が働き出した。石炭酸の香は何よりも先ず死んだ赤坊を彼れに思い出さした。もし妻に怪我《けが》でもあったのではなかったか――彼れは炉《ろ》の消えて真闇《まっくら》な小屋の中を手さぐりで妻を尋ねた。眼をさまして起きかえった妻の気配がした。
 「今頃まで何所《どこ》さいただ。馬は村の衆が連れて帰ったに。傷《いたわ》しい事べおっびろげてはあ」
 妻は眠っていなかったようなはっきり[#「はっきり」に傍点]した声でこういった。彼れは闇に慣れて来た眼で小屋の片隅《かたすみ》をすかして見た。馬は前脚に重味がかからないように、腹に蓆《むしろ》をあてがって胸の所を梁《はり》からつるしてあった。両方の膝頭《ひざがしら》は白い切れで巻いてあった。その白い色が凡《すべ》て黒い中にはっきりと仁右衛門の眼に映った。石炭酸の香はそこから漂って来るのだった。彼れは火の気のない囲炉裡《いろり》の前に、草鞋《わらじ》ばきで頭を垂れたまま安座《あぐら》をかいた。馬もこそっ[#「こそっ」に傍点]とも音をさせずに黙っていた。蚊のなく声だけが空気のささやきのようにかすかに聞こえていた。仁右衛門は膝頭で腕を組み合せて、寝ようとはしなかった。馬と彼れは互に憐れむように見えた。
 しかし翌日になると彼れはまたこの打撃から跳ね返っていた。彼れは前の通りな狂暴な彼れになっていた。彼れはプラオを売って金に代えた。雑穀屋からは、燕麦《からすむぎ》が売れた時事務所から直接に代価を支払うようにするからといって、麦や大豆の前借りをした。そして馬力を頼んでそれを自分の小屋に運ばして置いて、賭場《とば》に出かけた。
 競馬の日の晩に村では一大事が起った。その晩おそくまで笠井の娘は松川の所に帰って来なかった。こんな晩に若い男女が畑の奥や森の中に姿を隠すのは珍らしい事でもないので初めの中《うち》は打捨てておいたが、余りおそくなるので、笠井の小屋を尋ねさすとそこにもいなかった。笠井は驚いて飛んで来た。しかし広い山野をどう探しようもなかった。夜のあけあけに大捜索が行われた。娘は河添《かわぞい》の窪地《くぼち》の林の中に失神して倒れていた。正気づいてから聞きただすと、大きな男が無理やりに娘をそこに連れて行って残虐《ざんぎゃく》を極めた辱《はず》かしめかたをしたのだと判《わか》った。笠井は広岡の名をいってしたり顔に小首を傾けた。事務所の硝子《ガラス》を広岡がこわすのを見たという者が出て来た。
 犯人の捜索は極めて秘密に、同時にこんな田舎《いなか》にしては厳重に行われた。場主の松川は少からざる懸賞までした。しかし手がかりは皆目《かいもく》つかなかった。疑いは妙に広岡の方にかかって行った。赤坊を殺したのは笠井だと広岡の始終いうのは誰でも知っていた。広岡の馬を躓《つまず》かしたのは間接ながら笠井の娘の仕業《しわざ》だった。蹄鉄屋が馬を広岡の所に連れて行ったのは夜の十時頃だったが広岡は小屋にいなかった。その晩広岡を村で見かけたものは一人もなかった。賭場にさえいなかった。仁右衛門に不利益な色々な事情は色々に数え上げられたが、具体的な証拠は少しも上らないで夏がくれた。
 秋の収穫時になるとまた雨が来た。乾燥が出来ないために、折角|実《みの》ったものまで腐る始末だった。小作はわやわやと事務所に集って小作料割引の歎願をしたが無益だった。彼らは案《あん》の定《じょう》燕麦|売揚《うりあげ》代金の中から厳密に小作料を控除された。来春の種子《たね》は愚か、冬の間を支える食料も満足に得られない農夫が沢山出来た。
 その間にあって仁右衛門だけは燕麦の事で事務所に破約したばかりでなく、一文の小作料も納めなかった。綺麗に納めなかった。始めの間帳場はなだめつすかしつして幾らかでも納めさせようとしたが、如何《どう》しても応じないので、財産を差押えると威脅《おどか》した。仁右衛門は平気だった。押えようといって何を押えようぞ、小屋の代金もまだ事務所に納めてはなかった。彼れはそれを知りぬいていた。事務所からは最後の手段として多少の損はしても退場さすと迫って来た。しかし彼れは頑《がん》として動かなかった。ペテンにかけられた雑穀屋をはじめ諸商人は貸金の元金は愚か利子さえ出させる事が出来なかった。

   (七)

 「まだか」、この名は村中に恐怖を播《ま》いた。彼れの顔を出す所には人々は姿を隠した。川森さえ疾《とう》の昔《むかし》に仁右衛門の保証を取消して、仁右衛門に退場を迫る人となっていた。市街地でも農場内でも彼れに融通をしようというものは一人もなくなった。佐藤の夫婦は幾度も事務所に行って早く広岡を退場させてくれなければ自分たちが退場すると申出た。駐在巡査すら広岡の事件に関係する事を体《てい》よく避けた。笠井の娘を犯したものは――何らの証拠がないにもかかわらず――仁右衛門に相違ないときまってしまった。凡《すべ》て村の中で起ったいかがわしい出来事は一つ残らず仁右衛門になすりつけられた。
 仁右衛門は押太《おしぶ》とく腹を据えた。彼れは自分の夢をまだ取消そうとはしなかった。彼れの後悔しているものは博奕《ばくち》だけだった。来年からそれにさえ手を出さなければ、そして今年同様に働いて今年同様の手段を取りさえすれば、三、四年の間に一かど纏《まと》まった金を作るのは何でもないと思った。いまに見かえしてくれるから――そう思って彼れは冬を迎えた。
 しかし考えて見ると色々な困難が彼れの前には横《よこた》わっていた。食料は一冬事かかぬだけはあっても、金は哀れなほどより貯えがなかった。馬は競馬以来廃物になっていた。冬の間|稼《かせ》ぎに出れば、その留守に気の弱い妻が小屋から追立てを喰うのは知れ切っていた。といって小屋に居残れば居食いをしている外《ほか》はないのだ。来年の種子《たね》さえ工面のしようのないのは今から知れ切っていた。
 焚火《たきび》にあたって、きかなくなった馬の前脚をじっと見つめながらも考えこんだまま暮すような日が幾日も続いた。
 佐藤をはじめ彼れの軽蔑《けいべつ》し切っている場内の小作者どもは、おめおめと小作料を搾取《しぼりと》られ、商人に重い前借をしているにもかかわらず、とにかくさした屈托《くったく》もしないで冬を迎えていた。相当の雪囲いの出来ないような小屋は一つもなかった。貧しいなりに集って酒も飲み合えば、助け合いもした。仁右衛門には人間がよってたかって彼れ一人を敵にまわしているように見えた。
 冬は遠慮なく進んで行った。見渡す大空が先ず雪に埋められたように何所《どこ》から何所まで真白になった。そこから雪は滾々《こんこん》としてとめ度なく降って来た。人間の哀れな敗残の跡を物語る畑も、勝ちほこった自然の領土である森林も等しなみに雪の下に埋れて行った。一夜の中《うち》に一尺も二尺も積り重なる日があった。小屋と木立だけが空と地との間にあって汚ない斑点《しみ》だった。
 仁右衛門はある日膝まで這入《はい》る雪の中をこいで事務所に出かけて行った。いくらでもいいから馬を買ってくれろと頼んで見た。帳場はあざ笑って脚の立たない馬は、金を喰う機械見たいなものだといった。そして竹箆返《しっぺがえ》しに跡釜《あとがま》が出来たから小屋を立退けと逼《せま》った。愚図愚図していると今までのような煮え切らない事はして置かない、この村の巡査でまにあわなければ倶知安《くっちゃん》からでも頼んで処分するからそう思えともいった。仁右衛門は帳場に物をいわれると妙に向腹《むかっぱら》が立った。鼻をあかしてくれるから見ておれといい捨てて小屋に帰った。
 金を喰う機械――それに違いなかった。仁右衛門は不愍《ふびん》さから今まで馬を生かして置いたのを後悔した。彼れは雪の中に馬を引張り出した。老いぼれたようになった馬はなつかしげに主人の手に鼻先きを持って行った。仁右衛門は右手に隠して持っていた斧《おの》で眉間《みけん》を喰らわそうと思っていたが、どうしてもそれが出来なかった。彼れはまた馬を牽《ひ》いて小屋に帰った。
 その翌日彼れは身仕度をして函館《はこだて》に出懸けた。彼れは場主と一喧嘩《ひとけんか》して笠井の仕遂《しおお》せなかった小作料の軽減を実行させ、自分も農場にいつづき、小作者の感情をも柔らげて少しは自分を居心地よくしようと思ったのだ。彼れは汽車の中で自分のいい分を十分に考えようとした。しかし列車の中の沢山の人の顔はもう彼れの心を不安にした。彼れは敵意をふくんだ眼で一人一人|睨《ね》めつけた。
 函館の停車場に着くと彼はもうその建物の宏大もないのに胆《きも》をつぶしてしまった。不恰好《ぶかっこう》な二階建ての板家に過ぎないのだけれども、その一本の柱にも彼れは驚くべき費用を想像した。彼れはまた雪のかきのけてある広い往来を見て驚いた。しかし彼れの誇りはそんな事に敗けてはいまいとした。動《やや》ともするとおびえて胸の中ですくみそうになる心を励まし励まし彼れは巨人のように威丈高《いたけだか》にのそりのそりと道を歩いた。人々は振返って自然から今切り取ったばかりのようなこの男を見送った。
 やがて彼れは松川の屋敷に這入って行った。農場の事務所から想像していたのとは話にならないほどちがった宏大な邸宅だった。敷台を上る時に、彼れはつまご[#「つまご」に傍点]を脱いでから、我れにもなく手拭《てぬぐい》を腰から抜いて足の裏を綺麗《きれい》に押拭った。澄んだ水の表面の外《ほか》に、自然には決してない滑らかに光った板の間の上を、彼れは気味の悪い冷たさを感じながら、奥に案内されて行った。美しく着飾った女中が主人の部屋の襖《ふすま》をあけると、息気《いき》のつまるような強烈な不快な匂が彼れの鼻を強く襲った。そして部屋の中は夏のように暑かった。
 板よりも固い畳の上には所々に獣の皮が敷きつめられていて、障子《しょうじ》に近い大きな白熊の毛皮の上の盛上るような座蒲団《ざぶとん》の上に、はったん[#「はったん」に傍点]の褞袍《どてら》を着こんだ場主が、大火鉢《おおひばち》に手をかざして安座《あぐら》をかいていた。仁右衛門の姿を見るとぎろっ[#「ぎろっ」に傍点]と睨《にら》みつけた眼をそのまま床の方に振り向けた。仁右衛門は場主の一眼《ひとめ》でどやし付けられて這入る事も得せずに逡《しりご》みしていると、場主の眼がまた床の間からこっちに帰って来そうになった。仁右衛門は二度睨みつけられるのを恐れるあまりに、無器用な足どりで畳の上ににちゃっにちゃっ[#「にちゃっにちゃっ」に傍点]と音をさせながら場主の鼻先きまでのそのそ歩いて行って、出来るだけ小さく窮屈そうに坐りこんだ。
 「何しに来た」
 底力のある声にもう一度どやし付けられて、仁右衛門は思わず顔を挙げた。場主は真黒な大きな巻煙草のようなものを口に銜《くわ》えて青い煙をほがらか[#「ほがらか」に傍点]に吹いていた。そこからは気息《いき》づまるような不快な匂が彼れの鼻の奥をつんつん刺戟《しげき》した。
 「小作料の一文も納めないで、どの面《つら》下げて来臭《きくさ》った。来年からは魂を入れかえろ。そして辞儀の一つもする事を覚えてから出直すなら出直して来い。馬鹿」
 そして部屋をゆするような高笑《たかわらい》が聞こえた。仁右衛門が自分でも分らない事を寝言のようにいうのを、始めの間は聞き直したり、補ったりしていたが、やがて場主は堪忍袋を切らしたという風にこう怒鳴《どな》ったのだ。仁右衛門は高笑いの一とくぎりごとに、たたかれるように頭をすくめていたが、辞儀もせずに夢中で立上った。彼れの顔は部屋の暑さのためと、のぼせ上ったために湯気を出さんばかり赤くなっていた。
 仁右衛門はすっかり[#「すっかり」に傍点]打摧《うちくだ》かれて自分の小さな小屋に帰った。彼れには農場の空の上までも地主の頑丈《がんじょう》そうな大きな手が広がっているように思えた。雪を含んだ雲は気息《いき》苦しいまでに彼れの頭を押えつけた。「馬鹿」その声は動《やや》ともすると彼れの耳の中で怒鳴られた。何んという暮しの違いだ。何んという人間の違いだ。親方が人間なら俺《お》れは人間じゃない。俺れが人間なら親方は人間じゃない。彼れはそう思った。そして唯呆《ただあき》れて黙って考えこんでしまった。
 粗朶《そだ》がぶしぶしと燻《い》ぶるその向座《むこうざ》には、妻が襤褸《ぼろ》につつまれて、髪をぼうぼうと乱したまま、愚かな眼と口とを節孔《ふしあな》のように開け放してぼんやり坐っていた。しんしんと雪はとめ度なく降り出して来た。妻の膝《ひざ》の上には赤坊もいなかった。
 その晩から天気は激変して吹雪《ふぶき》になった。翌朝《あくるあさ》仁右衛門が眼をさますと、吹き込んだ雪が足から腰にかけて薄《うっす》ら積っていた。鋭い口笛のようなうなり[#「うなり」に傍点]を立てて吹きまく風は、小屋をめきりめきりとゆすぶり立てた。風が小凪《おな》ぐと滅入《めい》るような静かさが囲炉裡《いろり》まで逼《せま》って来た。
 仁右衛門は朝から酒を欲したけれども一滴もありようはなかった。寝起きから妙に思い入っているようだった彼れは、何かのきっかけ[#「きっかけ」に傍点]に勢よく立ち上って、斧《おの》を取上げた。そして馬の前に立った。馬はなつかしげに鼻先きをつき出した。仁右衛門は無表情な顔をして口をもごもごさせながら馬の眼と眼との間をおとなしく撫《な》でていたが、いきなり体を浮かすように後ろに反らして斧を振り上げたと思うと、力まかせにその眉間《みけん》に打ちこんだ。うとましい音が彼れの腹に応《こた》えて、馬は声も立てずに前膝をついて横倒しにどうと倒れた。痙攣的《けいれんてき》に後脚で蹴《け》るようなまね[#「まね」に傍点]をして、潤みを持った眼は可憐《かれん》にも何かを見詰めていた。
 「やれ怖い事するでねえ、傷《いた》ましいまあ」
 すすぎ物をしていた妻は、振返ってこの様を見ると、恐ろしい眼付きをしておびえるように立上りながらこういった。
 「黙れってば。物いうと汝《わ》れもたたき殺されっぞ」
 仁右衛門は殺人者が生き残った者を脅かすような低い皺枯《しわが》れた声でたしなめた。
 嵐が急にやんだように二人の心にはかーん[#「かーん」に傍点]とした沈黙が襲って来た。仁右衛門はだらんと下げた右手に斧をぶらさげたまま、妻は雑巾《ぞうきん》のように汚い布巾《ふきん》を胸の所に押しあてたまま、憚《はばか》るように顔を見合せて突立っていた。
 「ここへ来《こ》う」
 やがて仁右衛門は呻《うめ》くように斧を一寸《ちょっと》動かして妻を呼んだ。
 彼れは妻に手伝わせて馬の皮を剥《は》ぎ始めた。生臭い匂が小屋一杯になった。厚い舌をだらりと横に出した顔だけの皮を残して、馬はやがて裸身《はだかみ》にされて藁《わら》の上に堅くなって横《よこた》わった。白い腱《すじ》と赤い肉とが無気味な縞《しま》となってそこに曝《さ》らされた。仁右衛門は皮を棒のように巻いて藁繩でしばり上げた。
 それから仁右衛門のいうままに妻は小屋の中を片付けはじめた。背負えるだけは雑穀も荷造りして大小二つの荷が出来た。妻は良人《おっと》の心持ちが分るとまた長い苦しい漂浪の生活を思いやっておろおろと泣かんばかりになったが、夫の荒立った気分を怖れて涙を飲みこみ飲みこみした。仁右衛門は小屋の真中に突立って隅《すみ》から隅まで目測でもするように見廻した。二人は黙ったままでつまご[#「つまご」に傍点]をはいた。妻が風呂敷を被《かぶ》って荷を背負うと仁右衛門は後ろから助け起してやった。妻はとうとう身を震わして泣き出した。意外にも仁右衛門は叱りつけなかった。そして自分は大きな荷を軽々と背負い上げてその上に馬の皮を乗せた。二人は言い合せたようにもう一度小屋を見廻した。
 小屋の戸を開けると顔向けも出来ないほど雪が吹き込んだ。荷を背負って重くなった二人の体はまだ堅くならない白い泥の中に腰のあたりまで埋まった。
 仁右衛門は一旦|戸外《そと》に出てから待てといって引返して来た。荷物を背負ったままで、彼れは藁繩の片っ方の端を囲炉裡にくべ、もう一つの端を壁際にもって行ってその上に細《こまか》く刻んだ馬糧の藁をふりかけた。
 天も地も一つになった。颯《さっ》と風が吹きおろしたと思うと、積雪は自分の方から舞い上るように舞上った。それが横なぐりに靡《なび》いて矢よりも早く空を飛んだ。佐藤の小屋やそのまわりの木立は見えたり隠れたりした。風に向った二人の半身は忽《たちま》ち白く染まって、細かい針で絶間なく刺すような刺戟《しげき》は二人の顔を真赤にして感覚を失わしめた。二人は睫毛《まつげ》に氷りつく雪を打振い打振い雪の中をこいだ。
 国道に出ると雪道がついていた。踏み堅められない深みに落ちないように仁右衛門は先きに立って瀬踏みをしながら歩いた。大きな荷を背負った二人の姿はまろびがちに少しずつ動いて行った。共同墓地の下を通る時、妻は手を合せてそっちを拝みながら歩いた――わざとらしいほど高い声を挙げて泣きながら。二人がこの村に這入《はい》った時は一頭の馬も持っていた。一人の赤坊もいた。二人はそれらのものすら自然から奪い去られてしまったのだ。
 その辺から人家は絶えた。吹きつける雪のためにへし折られる枯枝がややともすると投槍のように襲って来た。吹きまく風にもまれて木という木は魔女の髪のように乱れ狂った。
 二人の男女は重荷の下に苦しみながら少しずつ倶知安《くっちゃん》の方に動いて行った。
 椴松帯《とどまつたい》が向うに見えた。凡《すべ》ての樹《き》が裸かになった中に、この樹だけは幽鬱《ゆううつ》な暗緑の葉色をあらためなかった。真直な幹が見渡す限り天を衝《つ》いて、怒濤《どとう》のような風の音を籠《こ》めていた。二人の男女は蟻《あり》のように小さくその林に近づいて、やがてその中に呑み込まれてしまった。
(一九一七、六、一三、鶏鳴を聞きつつ擱筆《かくひつ》)



底本:「カインの末裔・クララの出家」岩波文庫、岩波書店
   1940(昭和15)年9月10日第1刷発行
   1980(昭和55)年5月16日第25刷改版発行
   1990(平成2)年4月15日第35刷発行
底本の親本:「有島武郎著作集 第三輯」新潮社
   1918(大正7)年2月刊
※初出は、「新小説」1917(大正6)年7月号。
入力:鈴木厚司
校正:地田尚
2000年3月4日公開
2003年8月31日修正
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