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或《あ》る女(前編)
有島武郎

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)或《あ》る女(前編)

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)八|分《ぶ》がたしまりかかった

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)さっき[#「さっき」に傍点]の車夫が

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ずき/\/\と頭の心《しん》が痛んで
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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    一

 新橋《しんばし》を渡る時、発車を知らせる二番目の鈴《ベル》が、霧とまではいえない九月の朝の、煙《けむ》った空気に包まれて聞こえて来た。葉子《ようこ》は平気でそれを聞いたが、車夫は宙を飛んだ。そして車が、鶴屋《つるや》という町のかどの宿屋を曲がって、いつでも人馬の群がるあの共同井戸のあたりを駆けぬける時、停車場の入り口の大戸をしめようとする駅夫と争いながら、八|分《ぶ》がたしまりかかった戸の所に突っ立ってこっちを見まもっている青年の姿を見た。
 「まあおそくなってすみませんでした事……まだ間に合いますかしら」
 と葉子がいいながら階段をのぼると、青年は粗末な麦稈《むぎわら》帽子をちょっと脱いで、黙ったまま青い切符《きっぷ》を渡した。
 「おやなぜ一等になさらなかったの。そうしないといけないわけがあるからかえてくださいましな」
 といおうとしたけれども、火がつくばかりに駅夫がせき立てるので、葉子は黙ったまま青年とならんで小刻みな足どりで、たった一つだけあいている改札口へと急いだ。改札はこの二人《ふたり》の乗客を苦々《にがにが》しげに見やりながら、左手を延ばして待っていた。二人がてんでんに切符を出そうとする時、
 「若奥様、これをお忘れになりました」
 といいながら、羽被《はっぴ》の紺の香《にお》いの高くするさっき[#「さっき」に傍点]の車夫が、薄い大柄《おおがら》なセルの膝掛《ひざか》けを肩にかけたままあわてたように追いかけて来て、オリーヴ色の絹ハンケチに包んだ小さな物を渡そうとした。
 「早く早く、早くしないと出っちまいますよ」改札がたまらなくなって癇癪声《かんしゃくごえ》をふり立てた。
 青年の前で「若奥様」と呼ばれたのと、改札ががみ[#「がみ」に傍点]がみどなり立てたので、針のように鋭い神経はすぐ彼女をあまのじゃく[#「あまのじゃく」に傍点]にした。葉子は今まで急ぎ気味《ぎみ》であった歩みをぴったり[#「ぴったり」に傍点]止めてしまって、落ち付いた顔で、車夫のほうに向きなおった。
 「そう御苦労よ。家に帰ったらね、きょうは帰りがおそくなるかもしれませんから、お嬢さんたちだけで校友会にいらっしゃいってそういっておくれ。それから横浜《よこはま》の近江屋《おうみや》――西洋|小間物屋《こまものや》の近江屋が来たら、きょうこっちから出かけたからっていうようにってね」
 車夫はきょと[#「きょと」に傍点]きょとと改札と葉子とをかたみがわりに見やりながら、自分が汽車にでも乗りおくれるようにあわてていた。改札の顔はだんだん険しくなって、あわや通路をしめてしまおうとした時、葉子はするするとそのほうに近よって、
 「どうもすみませんでした事」
 といって切符をさし出しながら、改札の目の先で花が咲いたようにほほえんで見せた。改札はばかになったような顔つきをしながら、それでもおめ[#「おめ」に傍点]おめと切符に孔《あな》を入れた。
 プラットフォームでは、駅員も見送り人も、立っている限りの人々は二人《ふたり》のほうに目を向けていた。それを全く気づきもしないような物腰《ものごし》で、葉子は親しげに青年と肩を並べて、しずしずと歩きながら、車夫の届けた包み物の中には何があるかあててみろとか、横浜のように自分の心をひく町はないとか、切符を一緒にしまっておいてくれろとかいって、音楽者のようにデリケートなその指先で、わざとらしく幾度か青年の手に触れる機会を求めた。列車の中からはある限りの顔が二人を見迎え見送るので、青年が物慣れない処女《しょじょ》のようにはにかんで、しかも自分ながら自分を怒《おこ》っているのが葉子にはおもしろくながめやられた。
 いちばん近い二等車の昇降口の所に立っていた車掌は右の手をポッケットに突っ込んで、靴《くつ》の爪先《つまさき》で待ちどおしそうに敷き石をたたいていたが、葉子がデッキに足を踏み入れると、いきなり耳をつんざくばかりに呼び子を鳴らした。そして青年(青年は名を古藤《ことう》といった)が葉子に続いて飛び乗った時には、機関車の応笛《おうてき》が前方で朝の町のにぎやかなさざめき[#「さざめき」に傍点]を破って響き渡った。
 葉子は四角なガラスをはめた入り口の繰り戸を古藤が勢いよくあけるのを待って、中にはいろうとして、八分通りつまった両側の乗客に稲妻《いなずま》のように鋭く目を走らしたが、左側の中央近く新聞を見入った、やせた中年の男に視線がとまると、はっ[#「はっ」に傍点]と立ちすくむほど驚いた。しかしその驚きはまたたく暇もないうちに、顔からも足からも消えうせて、葉子は悪《わる》びれもせず、取りすましもせず、自信ある女優が喜劇の舞台にでも現われるように、軽い微笑を右の頬《ほお》だけに浮かべながら、古藤に続いて入り口に近い右側の空席に腰をおろすと、あでやかに青年を見返りながら、小指をなんともいえないよい形に折り曲げた左手で、鬢《びん》の後《おく》れ毛《げ》をかきなでるついでに、地味《じみ》に装って来た黒のリボンにさわってみた。青年の前に座を取っていた四十三四の脂《あぶら》ぎった商人|体《てい》の男は、あたふた[#「あたふた」に傍点]と立ち上がって自分の後ろのシェードをおろして、おりふし横ざしに葉子に照りつける朝の光線をさえぎった。
 紺の飛白《かすり》に書生下駄《しょせいげた》をつっかけた青年に対して、素性《すじょう》が知れぬほど顔にも姿にも複雑な表情をたたえたこの女性の対照は、幼い少女の注意をすらひかずにはおかなかった。乗客一同の視線は綾《あや》をなして二人《ふたり》の上に乱れ飛んだ。葉子は自分が青年の不思議な対照になっているという感じを快く迎えてでもいるように、青年に対してことさら親しげな態度を見せた。
 品川《しながわ》を過ぎて短いトンネルを汽車が出ようとする時、葉子はきびしく自分を見すえる目を眉《まゆ》のあたりに感じておもむろにそのほうを見かえった。それは葉子が思ったとおり、新聞に見入っているかのやせた男だった。男の名は木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、8-8]《きべこきょう》といった。葉子が車内に足を踏み入れた時、だれよりも先に葉子に目をつけたのはこの男であったが、だれよりも先に目をそらしたのもこの男で、すぐ新聞を目八|分《ぶ》にさし上げて、それに読み入って素知《そし》らぬふりをしたのに葉子は気がついていた。そして葉子に対する乗客の好奇心が衰え始めたころになって、彼は本気に葉子を見つめ始めたのだ。葉子はあらかじめこの刹那《せつな》に対する態度を決めていたからあわても騒ぎもしなかった。目を鈴《すず》のように大きく張って、親しい媚《こ》びの色を浮かべながら、黙ったままで軽くうなずこうと、少し肩と顔とをそっちにひねって、心持ち上向《うわむ》きかげんになった時、稲妻のように彼女の心に響いたのは、男がその好意に応じてほほえみかわす様子のないという事だった。実際男の一文字眉《いちもんじまゆ》は深くひそんで、その両眼はひときわ鋭さを増して見えた。それを見て取ると葉子の心の中はかっ[#「かっ」に傍点]となったが、笑《え》みかまけたひとみはそのままで、するすると男の顔を通り越して、左側の古藤の血気《けっき》のいい頬《ほお》のあたりに落ちた。古藤は繰り戸のガラス越しに、切り割りの崕《がけ》をながめてつくねん[#「つくねん」に傍点]としていた。
 「また何か考えていらっしゃるのね」
 葉子はやせた木部《きべ》にこれ見よがしという物腰ではなやかにいった。
 古藤はあまりはずんだ葉子の声にひかされて、まんじり[#「まんじり」に傍点]とその顔を見守った。その青年の単純な明《あか》らさまな心に、自分の笑顔《えがお》の奥の苦い渋い色が見抜かれはしないかと、葉子は思わずたじろ[#「たじろ」に傍点]いだほどだった。
 「なんにも考えていやしないが、陰になった崕《がけ》の色が、あまりきれいだもんで……紫に見えるでしょう。もう秋がかって来たんですよ。」
 青年は何も思っていはしなかったのだ。
 「ほんとうにね」
 葉子は単純に応じて、もう一度ちらっ[#「ちらっ」に傍点]と木部を見た。やせた木部の目は前と同じに鋭く輝いていた。葉子は正面に向き直るとともに、その男のひとみの下で、悒鬱《ゆううつ》な険しい色を引きしめた口のあたりにみなぎらした。木部はそれを見て自分の態度を後悔すべきはずである。

    二
    
 葉子は木部が魂を打ちこんだ初恋の的《まと》だった。それはちょうど日清《にっしん》戦争が終局を告げて、国民一般はだれかれの差別なく、この戦争に関係のあった事柄や人物やに事実以上の好奇心をそそられていたころであったが、木部は二十五という若い齢《とし》で、ある大新聞社の従軍記者になってシナに渡り、月並みな通信文の多い中に、きわだって観察の飛び離れた心力のゆらいだ文章を発表して、天才記者という名を博してめでたく凱旋《がいせん》したのであった。そのころ女流キリスト教徒の先覚者として、キリスト教婦人同盟の副会長をしていた葉子の母は、木部の属していた新聞社の社長と親しい交際のあった関係から、ある日その社の従軍記者を自宅に招いて慰労の会食を催した。その席で、小柄《こがら》で白皙《はくせき》で、詩吟の声の悲壮な、感情の熱烈なこの少壮従軍記者は始めて葉子を見たのだった。
 葉子はその時十九だったが、すでに幾人もの男に恋をし向けられて、その囲みを手ぎわよく繰りぬけながら、自分の若い心を楽しませて行くタクトは充分に持っていた。十五の時に、袴《はかま》をひもで締《し》める代わりに尾錠《びじょう》で締めるくふうをして、一時女学生界の流行を風靡《ふうび》したのも彼女である。その紅《あか》い口びるを吸わして首席を占めたんだと、厳格で通《とお》っている米国人の老校長に、思いもよらぬ浮き名を負わせたのも彼女である。上野《うえの》の音楽学校にはいってヴァイオリンのけいこを始めてから二か月ほどの間《あいだ》にめきめき上達して、教師や生徒の舌を巻かした時、ケーべル博士《はかせ》一人《ひとり》は渋い顔をした。そしてある日「お前の楽器は才で鳴るのだ。天才で鳴るのではない」と無愛想《ぶあいそ》にいってのけた。それを聞くと「そうでございますか」と無造作《むぞうさ》にいいながら、ヴァイオリンを窓の外にほうりなげて、そのまま学校を退学してしまったのも彼女である。キリスト教婦人同盟の事業に奔走し、社会では男まさりのしっかり者という評判を取り、家内では趣味の高いそして意志の弱い良人《おっと》を全く無視して振る舞ったその母の最も深い隠れた弱点を、拇指《ぼし》と食指《しょくし》との間《あいだ》にちゃん[#「ちゃん」に傍点]と押えて、一歩もひけ[#「ひけ」に傍点]を取らなかったのも彼女である。葉子の目にはすべての人が、ことに男が底の底まで見すかせるようだった。葉子はそれまで多くの男をかなり近くまで潜《もぐ》り込ませて置いて、もう一歩という所で突っ放《ぱな》した。恋の始めにはいつでも女性が祭り上げられていて、ある機会を絶頂に男性が突然女性を踏みにじるという事を直覚のように知っていた葉子は、どの男に対しても、自分との関係の絶頂がどこにあるかを見ぬいていて、そこに来かかると情け容赦もなくその男を振り捨ててしまった。そうして捨てられた多くの男は、葉子を恨むよりも自分たちの獣性を恥じるように見えた。そして彼らは等しく葉子を見誤っていた事を悔いるように見えた。なぜというと、彼らは一人《ひとり》として葉子に対して怨恨《えんこん》をいだいたり、憤怒《ふんぬ》をもらしたりするものはなかったから。そして少しひがんだ者たちは自分の愚を認めるよりも葉子を年《とし》不相当にませた女と見るほうが勝手だったから。
 それは恋によろしい若葉の六月のある夕方《ゆうがた》だった。日本橋《にほんばし》の釘店《くぎだな》にある葉子の家には七八人の若い従軍記者がまだ戦塵《せんじん》の抜けきらないようなふうをして集まって来た。十九でいながら十七にも十六にも見れば見られるような華奢《きゃしゃ》な可憐《かれん》な姿をした葉子が、慎みの中にも才走った面影《おもかげ》を見せて、二人《ふたり》の妹と共に給仕《きゅうじ》に立った。そしてしいられるままに、ケーベル博士からののしられたヴァイオリンの一手も奏《かな》でたりした。木部の全霊はただ一目《ひとめ》でこの美しい才気のみなぎりあふれた葉子の容姿に吸い込まれてしまった。葉子も不思議にこの小柄な青年に興味を感じた。そして運命は不思議ないたずらをするものだ。木部はその性格ばかりでなく、容貌《ようぼう》――骨細《ほねぼそ》な、顔の造作の整った、天才|風《ふう》に蒼白《あおじろ》いなめらかな皮膚の、よく見ると他の部分の繊麗な割合に下顎骨《かがっこつ》の発達した――までどこか葉子のそれに似ていたから、自意識の極度に強い葉子は、自分の姿を木部に見つけ出したように思って、一種の好奇心を挑発《ちょうはつ》せられずにはいなかった。木部は燃えやすい心に葉子を焼くようにかきいだいて、葉子はまた才走った頭に木部の面影を軽く宿して、その一夜の饗宴《きょうえん》はさりげなく終わりを告げた。
 木部の記者としての評判は破天荒《はてんこう》といってもよかった。いやしくも文学を解するものは木部を知らないものはなかった。人々は木部が成熟した思想をひっさげて世の中に出て来る時の華々《はなばな》しさをうわさし合った。ことに日清戦役という、その当時の日本にしては絶大な背景を背負っているので、この年少記者はある人々からは英雄《ヒーロー》の一人《ひとり》とさえして崇拝された。この木部がたびたび葉子の家を訪れるようになった。その感傷的な、同時にどこか大望《たいもう》に燃え立ったようなこの青年の活気は、家じゅうの人々の心を捕えないでは置かなかった。ことに葉子の母が前から木部を知っていて、非常に有為《ゆうい》多望な青年だとほめそやしたり、公衆の前で自分の子とも弟ともつかぬ態度で木部をもてあつかったりするのを見ると、葉子は胸の中でせせら笑った。そして心を許して木部に好意を見せ始めた。木部の熱意が見る見る抑《おさ》えがたく募り出したのはもちろんの事である。
 かの六月の夜が過ぎてからほどもなく木部と葉子とは恋という言葉で見られねばならぬような間柄《あいだがら》になっていた。こういう場合葉子がどれほど恋の場面を技巧化し芸術化するに巧みであったかはいうに及ばない。木部は寝ても起きても夢の中にあるように見えた。二十五というそのころまで、熱心な信者で、清教徒風《せいきょうとふう》の誇りを唯一の立場としていた木部がこの初恋においてどれほど真剣になっていたかは想像する事ができる。葉子は思いもかけず木部の火のような情熱に焼かれようとする自分を見いだす事がしばしばだった。
 そのうちに二人《ふたり》の間柄はすぐ葉子の母に感づかれた。葉子に対してかねてからある事では一種の敵意を持ってさえいるように見えるその母が、この事件に対して嫉妬《しっと》とも思われるほど厳重な故障を持ち出したのは、不思議でないというべき境《さかい》を通り越していた。世故《せこ》に慣れきって、落ち付き払った中年の婦人が、心の底の動揺に刺激されてたくらみ出すと見える残虐な譎計《わるだくみ》は、年若い二人の急所をそろそろとうかがいよって、腸も通れと突き刺してくる。それを払いかねて木部が命限りにもがくのを見ると、葉子の心に純粋な同情と、男に対する無条件的な捨て身な態度が生まれ始めた。葉子は自分で造り出した自分の穽《おとしあな》にたわいもなく酔い始めた。葉子はこんな目もくらむような晴れ晴れしいものを見た事がなかった。女の本能が生まれて始めて芽をふき始めた。そして解剖刀《メス》のような日ごろの批判力は鉛のように鈍ってしまった。葉子の母が暴力では及ばないのを悟って、すかしつなだめつ、良人《おっと》までを道具につかったり、木部の尊信する牧師を方便にしたりして、あらん限りの知力をしぼった懐柔策も、なんのかいもなく、冷静な思慮深い作戦計画を根気《こんき》よく続ければ続けるほど、葉子は木部を後ろにかばいながら、健気《けなげ》にもか弱い女の手一つで戦った。そして木部の全身全霊を爪《つめ》の先《さき》想《おも》いの果てまで自分のものにしなければ、死んでも死ねない様子が見えたので、母もとうとう我《が》を折った。そして五か月の恐ろしい試練の後に、両親の立ち会わない小さな結婚の式が、秋のある午後、木部の下宿《げしゅく》の一間《ひとま》で執り行なわれた。そして母に対する勝利の分捕《ぶんど》り品《ひん》として、木部は葉子一人のものとなった。
 木部はすぐ葉山《はやま》に小さな隠れ家《が》のような家を見つけ出して、二人はむつまじくそこに移り住む事になった。葉子の恋はしかしながらそろそろと冷え始めるのに二週間以上を要しなかった。彼女は競争すべからぬ関係の競争者に対してみごとに勝利を得てしまった。日清戦争というものの光も太陽が西に沈むたびごとに減じて行った。それらはそれとしていちばん葉子を失望させたのは同棲《どうせい》後始めて男というものの裏を返して見た事だった。葉子を確実に占領したという意識に裏書きされた木部は、今までおくび[#「おくび」に傍点]にも葉子に見せなかった女々《めめ》しい弱点を露骨《ろこつ》に現わし始めた。後ろから見た木部は葉子には取り所のない平凡な気の弱い精力の足りない男に過ぎなかった。筆一本握る事もせずに朝から晩まで葉子に膠着《こうちゃく》し、感傷的なくせに恐ろしくわがままで、今日《こんにち》今日の生活にさえ事欠きながら、万事を葉子の肩になげかけてそれが当然な事でもあるような鈍感なお坊《ぼっ》ちゃんじみた生活のしかたが葉子の鋭い神経をいらいらさせ出した。始めのうちは葉子もそれを木部の詩人らしい無邪気さからだと思ってみた。そしてせっせ[#「せっせ」に傍点]せっせと世話女房らしく切り回す事に興味をつないでみた。しかし心の底の恐ろしく物質的な葉子にどうしてこんな辛抱がいつまでも続こうぞ。結婚前までは葉子のほうから迫ってみたにも係わらず、崇高と見えるまでに極端な潔癖屋だった彼であったのに、思いもかけぬ貪婪《どんらん》な陋劣《ろうれつ》な情欲の持ち主で、しかもその欲求を貧弱な体質で表わそうとするのに出っくわすと、葉子は今まで自分でも気がつかずにいた自分を鏡で見せつけられたような不快を感ぜずにはいられなかった。夕食を済ますと葉子はいつでも不満と失望とでいらいらしながら夜を迎えねばならなかった。木部の葉子に対する愛着が募れば募るほど、葉子は一生が暗くなりまさるように思った。こうして死ぬために生まれて来たのではないはずだ。そう葉子はくさ[#「くさ」に傍点]くさしながら思い始めた。その心持ちがまた木部に響いた。木部はだんだん監視の目をもって葉子の一挙一動を注意するようになって来た。同棲《どうせい》してから半か月もたたないうちに、木部はややもすると高圧的に葉子の自由を束縛するような態度を取るようになった。木部の愛情は骨にしみるほど知り抜きながら、鈍っていた葉子の批判力はまた磨《みが》きをかけられた。その鋭くなった批判力で見ると、自分と似よった姿なり性格なりを木部に見いだすという事は、自然が巧妙な皮肉をやっているようなものだった。自分もあんな事を想《おも》い、あんな事をいうのかと思うと、葉子の自尊心は思う存分に傷つけられた。
 ほかの原因もある。しかしこれだけで充分だった。二人《ふたり》が一緒になってから二か月目に、葉子は突然|失踪《しっそう》して、父の親友で、いわゆる物事のよくわかる高山《たかやま》という医者の病室に閉じこもらしてもらって、三日《みっか》ばかりは食う物も食わずに、浅ましくも男のために目のくらんだ自分の不覚を泣き悔やんだ。木部が狂気のようになって、ようやく葉子の隠れ場所を見つけて会いに来た時は、葉子は冷静な態度でしらじらしく面会した。そして「あなたの将来のおためにきっとなりませんから」と何げなげにいってのけた。木部がその言葉に骨を刺すような諷刺《ふうし》を見いだしかねているのを見ると、葉子は白くそろった美しい歯を見せて声を出して笑った。
 葉子と木部との間柄はこんなたわいもない場面を区切りにしてはかなくも破れてしまった。木部はあらんかぎりの手段を用いて、なだめたり、すかしたり、強迫までしてみたが、すべては全く無益だった。いったん木部から離れた葉子の心は、何者も触れた事のない処女のそれのようにさえ見えた。
 それから普通の期間を過ぎて葉子は木部の子を分娩《ぶんべん》したが、もとよりその事を木部に知らせなかったばかりでなく、母にさえある他の男によって生んだ子だと告白した。実際葉子はその後、母にその告白を信じさすほどの生活をあえてしていたのだった。しかし母は目ざとくもその赤ん坊に木部の面影を探り出して、キリスト信徒にあるまじき悪意をこのあわれな赤ん坊に加えようとした。赤ん坊は女中部屋《じょちゅうべや》に運ばれたまま、祖母の膝《ひざ》には一度も乗らなかった。意地《いじ》の弱い葉子の父だけは孫のかわいさからそっと赤ん坊を葉子の乳母《うば》の家に引き取るようにしてやった。そしてそのみじめな赤ん坊は乳母の手一つに育てられて定子《さだこ》という六歳の童女になった。
 その後葉子の父は死んだ。母も死んだ。木部は葉子と別れてから、狂瀾《きょうらん》のような生活に身を任せた。衆議院議員の候補に立ってもみたり、純文学に指を染めてもみたり、旅僧のような放浪生活も送ったり、妻を持ち子を成し、酒にふけり、雑誌の発行も企てた。そしてそのすべてに一々不満を感ずるばかりだった。そして葉子が久しぶりで汽車の中で出あった今は、妻子を里に返してしまって、ある由緒《ゆいしょ》ある堂上華族《どうじょうかぞく》の寄食者となって、これといってする仕事もなく、胸の中だけにはいろいろな空想を浮かべたり消したりして、とかく回想にふけりやすい日送りをしている時だった。

    三
    
 その木部の目は執念《しゅうね》くもつきまつわった。しかし葉子はそっちを見向こうともしなかった。そして二等の切符でもかまわないからなぜ一等に乗らなかったのだろう。こういう事がきっとあると思ったからこそ、乗り込む時もそういおうとしたのだのに、気がきかないっちゃないと思うと、近ごろになく起きぬけからさえざえしていた気分が、沈みかけた秋の日のように陰ったりめいったりし出して、冷たい血がポンプにでもかけられたように脳のすきまというすきまをかたく閉ざした。たまらなくなって向かいの窓から景色でも見ようとすると、そこにはシェードがおろしてあって、例の四十三四の男が厚い口びるをゆるくあけたままで、ばかな顔をしながらまじまじと葉子を見やっていた。葉子はむっ[#「むっ」に傍点]としてその男の額《ひたい》から鼻にかけたあたりを、遠慮もなく発矢《はっし》と目でむちうった。商人は、ほんとうにむちうたれた人が泣き出す前にするように、笑うような、はにかんだような、不思議な顔のゆがめかたをして、さすがに顔をそむけてしまった。その意気地《いくじ》のない様子がまた葉子の心をいらいらさせた。右に目を移せば三四人先に木部がいた。その鋭い小さな目は依然として葉子を見守っていた。葉子は震えを覚えるばかりに激昂《げきこう》した神経を両手に集めて、その両手を握り合わせて膝《ひざ》の上のハンケチの包みを押えながら、下駄《げた》の先をじっ[#「じっ」に傍点]と見入ってしまった。今は車内の人が申し合わせて侮辱でもしているように葉子には思えた。古藤が隣座《となりざ》にいるのさえ、一種の苦痛だった。その瞑想的《めいそうてき》な無邪気な態度が、葉子の内部的経験や苦悶《くもん》と少しも縁が続いていないで、二人《ふたり》の間には金輸際《こんりんざい》理解が成り立ち得ないと思うと、彼女は特別に毛色の変わった自分の境界《きょうがい》に、そっとうかがい寄ろうとする探偵《たんてい》をこの青年に見いだすように思って、その五|分刈《ぶが》りにした地蔵頭《じぞうあたま》までが顧みるにも足りない木のくずかなんぞのように見えた。
 やせた木部の小さな輝いた目は、依然として葉子を見つめていた。
 なぜ木部はかほどまで自分を侮辱するのだろう。彼は今でも自分を女とあなどっている。ちっぽけな才力を今でも頼んでいる。女よりも浅ましい熱情を鼻にかけて、今でも自分の運命に差し出がましく立ち入ろうとしている。あの自信のない臆病《おくびょう》な男に自分はさっき媚《こ》びを見せようとしたのだ。そして彼は自分がこれほどまで誇りを捨てて与えようとした特別の好意を眦《まなじり》を反《かえ》して退けたのだ。
 やせた木部の小さな目は依然として葉子を見つめていた。
 この時突然けたたましい笑い声が、何か熱心に話し合っていた二人《ふたり》の中年の紳士の口から起こった。その笑い声と葉子となんの関係もない事は葉子にもわかりきっていた。しかし彼女はそれを聞くと、もう欲にも我慢がしきれなくなった。そして右の手を深々《ふかぶか》と帯の間にさし込んだまま立ち上がりざま、
 「汽車に酔ったんでしょうかしらん、頭痛がするの」
 と捨てるように古藤にいい残して、いきなり[#「いきなり」に傍点]繰り戸をあけてデッキに出た。
 だいぶ高くなった日の光がぱっと大森田圃《おおもりたんぼ》に照り渡って、海が笑いながら光るのが、並み木の向こうに広すぎるくらい一どきに目にはいるので、軽い瞑眩《めまい》をさえ覚えるほどだった。鉄の手欄《てすり》にすがって振り向くと、古藤が続いて出て来たのを知った。その顔には心配そうな驚きの色が明《あか》らさまに現われていた。
 「ひどく痛むんですか」
 「ええかなりひどく」
 と答えたがめんどうだと思って、
 「いいからはいっていてください。おおげさに見えるといやですから……大丈夫あぶなかありませんとも……」
 といい足した。古藤はしいてとめようとはしなかった。そして、
 「それじゃはいっているがほんとうにあぶのうござんすよ……用があったら呼んでくださいよ」
 とだけいって素直《すなお》にはいって行った。
 「Simpleton!」
 葉子は心の中でこうつぶやくと、焼き捨てたように古藤の事なんぞは忘れてしまって、手欄《てすり》に臂《ひじ》をついたまま放心して、晩夏の景色をつつむ引き締まった空気に顔をなぶらした。木部の事も思わない。緑や藍《あい》や黄色のほか、これといって輪郭のはっきり[#「はっきり」に傍点]した自然の姿も目に映らない。ただ涼しい風がそよそよと鬢《びん》の毛をそよがして通るのを快いと思っていた。汽車は目まぐるしいほどの快速力で走っていた。葉子の心はただ渾沌《こんとん》と暗く固まった物のまわりを飽きる事もなく幾度も幾度も左から右に、右から左に回っていた。こうして葉子にとっては長い時間が過ぎ去ったと思われるころ、突然頭の中を引っかきまわすような激しい音を立てて、汽車は六郷川《ろくごうがわ》の鉄橋を渡り始めた。葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として夢からさめたように前を見ると、釣《つ》り橋《ばし》の鉄材が蛛手《くもで》になって上を下へと飛びはねるので、葉子は思わずデッキのパンネルに身を退《ひ》いて、両袖《りょうそで》で顔を抑《おさ》えて物を念じるようにした。
 そうやって気を静めようと目をつぶっているうちに、まつ毛を通し袖を通して木部の顔とことにその輝く小さな両眼とがまざまざと想像に浮かび上がって来た。葉子の神経は磁石《じしゃく》に吸い寄せられた砂鉄のように、堅くこの一つの幻像の上に集注して、車内にあった時と同様な緊張した恐ろしい状態に返った。停車場に近づいた汽車はだんだんと歩度をゆるめていた。田圃《たんぼ》のここかしこに、俗悪な色で塗り立てた大きな広告看板が連ねて建ててあった。葉子は袖《そで》を顔から放して、気持ちの悪い幻像を払いのけるように、一つ一つその看板を見迎え見送っていた。所々《ところどころ》に火が燃えるようにその看板は目に映って木部の姿はまたおぼろになって行った。その看板の一つに、長い黒髪を下げた姫が経巻《きょうかん》を持っているのがあった。その胸に書かれた「中将湯《ちゅうじょうとう》」という文字を、何《なに》げなしに一字ずつ読み下すと、彼女は突然私生児の定子の事を思い出した。そしてその父なる木部の姿は、かかる乱雑な連想の中心となって、またまざまざと焼きつくように現われ出た。
 その現われ出た木部の顔を、いわば心の中の目で見つめているうちに、だんだんとその鼻の下から髭《ひげ》が消えうせて行って、輝くひとみの色は優しい肉感的な温《あたた》かみを持ち出して来た。汽車は徐々に進行をゆるめていた。やや荒れ始めた三十男の皮膚の光沢《つや》は、神経的な青年の蒼白《あおじろ》い膚の色となって、黒く光った軟《やわ》らかい頭《つむり》の毛がきわ立って白い額をなでている。それさえがはっきり[#「はっきり」に傍点]見え始めた。列車はすでに川崎《かわさき》停車場のプラットフォームにはいって来た。葉子の頭の中では、汽車が止まりきる前に仕事をし遂《おお》さねばならぬというふうに、今見たばかりの木部の姿がどんどん若やいで行った。そして列車が動かなくなった時、葉子はその人のかたわらにでもいるように恍惚《うっとり》とした顔つきで、思わず知らず左手を上げて――小指をやさしく折り曲げて――軟《やわ》らかい鬢《びん》の後《おく》れ毛《げ》をかき上げていた。これは葉子が人の注意をひこうとする時にはいつでもする姿態《しな》である。
 この時、繰り戸がけたたましくあいたと思うと、中から二三人の乗客がどやどやと現われ出て来た。
 しかもその最後から、涼しい色合いのインバネスを羽織《はお》った木部が続くのを感づいて、葉子の心臓は思わずはっ[#「はっ」に傍点]と処女の血を盛《も》ったようにときめいた。木部が葉子の前まで来てすれすれにそのそばを通り抜けようとした時、二人《ふたり》の目はもう一度しみじみと出あった。木部の目は好意を込めた微笑にひたされて、葉子の出ようによっては、すぐにも物をいい出しそうに口びるさえ震えていた。葉子も今まで続けていた回想の惰力に引かされて、思わずほほえみかけたのであったが、その瞬間|燕返《つばめがえ》しに、見も知りもせぬ路傍の人に与えるような、冷刻な驕慢《きょうまん》な光をそのひとみから射出《いだ》したので、木部の微笑は哀れにも枝を離れた枯れ葉のように、二人の間をむなしくひらめいて消えてしまった。葉子は木部のあわてかたを見ると、車内で彼から受けた侮辱にかなり小気味よく酬《むく》い得たという誇りを感じて、胸の中がややすがすがしくなった。木部はやせたその右肩を癖のように怒らしながら、急ぎ足に濶歩《かっぽ》して改札口の所に近づいたが、切符を懐中から出すために立ち止まった時、深い悲しみの色を眉《まゆ》の間にみなぎらしながら、振り返ってじっ[#「じっ」に傍点]と葉子の横顔に目を注いだ。葉子はそれを知りながらもとより侮蔑《ぶべつ》の一瞥《いちべつ》をも与えなかった。
 木部が改札口を出て姿が隠れようとした時、今度は葉子の目がじっ[#「じっ」に傍点]とその後ろ姿を逐《お》いかけた。木部が見えなくなった後も、葉子の視線はそこを離れようとはしなかった。そしてその目にはさびしく涙がたまっていた。
 「また会う事があるだろうか」
 葉子はそぞろに不思議な悲哀を覚えながら心の中でそういっていたのだった。

    四

 列車が川崎駅を発すると、葉子はまた手欄《てすり》によりかかりながら木部の事をいろいろと思いめぐらした。やや色づいた田圃《たんぼ》の先に松並み木が見えて、その間《あいだ》から低く海の光る、平凡な五十三|次風《つぎふう》な景色が、電柱で句読《くとう》を打ちながら、空洞《うつろ》のような葉子の目の前で閉じたり開いたりした。赤とんぼも飛びかわす時節で、その群れが、燧石《ひうちいし》から打ち出される火花のように、赤い印象を目の底に残して乱れあった。いつ見ても新開地じみて見える神奈川《かながわ》を過ぎて、汽車が横浜の停車場に近づいたころには、八時を過ぎた太陽の光が、紅葉坂《もみじざか》の桜並み木を黄色く見せるほどに暑く照らしていた。
 煤煙《ばいえん》でまっ黒にすすけた煉瓦《れんが》壁の陰に汽車が停《と》まると、中からいちばん先に出て来たのは、右手にかのオリーヴ色の包み物を持った古藤だった。葉子はパラソルを杖《つえ》に弱々しくデッキを降りて、古藤に助けられながら改札口を出たが、ゆるゆる歩いている間に乗客は先《さき》を越してしまって、二人《ふたり》はいちばんあとになっていた。客を取りおくれた十四五人の停車場づきの車夫が、待合部屋《まちあいべや》の前にかたまりながら、やつれて見える葉子に目をつけて何かとうわさし合うのが二人の耳にもはいった。「むすめ」「らしゃめん」というような言葉さえそのはしたない言葉の中には交じっていた。開港場のがさつ[#「がさつ」に傍点]な卑しい調子は、すぐ葉子の神経にびり[#「びり」に傍点]びりと感じて来た。
 何しろ葉子は早く落ち付く所を見つけ出したかった。古藤は停車場の前方の川添いにある休憩所まで走って[#底本では「走つて」、22-18]行って見たが、帰って来るとぶり[#「ぶり」に傍点]ぶりして、駅夫あがりらしい茶店の主人は古藤の書生っぽ姿をいかにもばかにしたような断わりかたをしたといった。二人はしかたなくうるさく付きまつわる車夫を追い払いながら、潮の香の漂った濁った小さな運河を渡って、ある狭いきたない町の中ほどにある一軒の小さな旅人宿にはいって行った。横浜という所には似もつかぬような古風な外構《そとがま》えで、美濃紙《みのがみ》のくすぶり返った置き行燈《あんどん》には太い筆つきで相模屋《さがみや》と書いてあった。葉子はなんとなくその行燈に興味をひかれてしまっていた。いたずら好きなその心は、嘉永《かえい》ごろの浦賀《うらが》にでもあればありそうなこの旅籠屋《はたごや》に足を休めるのを恐ろしくおもしろく思った。店にしゃがんで、番頭と何か話しているあばずれ[#「あばずれ」に傍点]たような女中までが目にとまった。そして葉子が体《てい》よく物を言おうとしていると、古藤がいきなり取りかまわない調子で、
 「どこか静かな部屋《へや》に案内してください」
 と無愛想《ぶあいそ》に先《さき》を越してしまった。
 「へいへい、どうぞこちらへ」
 女中は二人をまじまじと見やりながら、客の前もかまわず、番頭と目を見合わせて、さげすんだらしい笑いをもらして案内に立った。
 ぎし[#「ぎし」に傍点]ぎしと板ぎしみのするまっ黒な狭い階子段《はしごだん》を上がって、西に突き当たった六畳ほどの狭い部屋《へや》に案内して、突っ立ったままで荒っぽく二人を不思議そうに女中は見比べるのだった。油じみた襟元《えりもと》を思い出させるような、西に出窓のある薄ぎたない部屋の中を女中をひっくるめてにらみ回しながら古藤は、
 「外部《そと》よりひどい……どこか他所《よそ》にしましょうか」
 と葉子を見返った。葉子はそれには耳もかさずに、思慮深い貴女《きじょ》のような物腰で女中のほうに向いていった。
 「隣室《となり》も明いていますか……そう。夜まではどこも明いている……そう。お前さんがここの世話をしておいで?……なら余《ほか》の部屋《へや》もついでに見せておもらいしましょうかしらん」
 女中はもう葉子には軽蔑《けいべつ》の色は見せなかった。そして心得顔《こころえがお》に次の部屋との間《あい》の襖《ふすま》をあける間《あいだ》に、葉子は手早く大きな銀貨を紙に包んで、
 「少しかげんが悪いし、またいろいろお世話になるだろうから」
 といいながら、それを女中に渡した。そしてずっ[#「ずっ」に傍点]と並んだ五つの部屋を一つ一つ見て回って、掛け軸、花びん、団扇《うちわ》さし、小屏風《こびょうぶ》、机というようなものを、自分の好みに任せてあてがわれた部屋のとすっかり[#「すっかり」に傍点]取りかえて、すみからすみまできれいに掃除《そうじ》をさせた。そして古藤を正座に据《す》えて小ざっぱり[#「小ざっぱり」に傍点]した座ぶとんにすわると、にっこりほほえみながら、
 「これなら半日ぐらい我慢ができましょう」
 といった。
 「僕はどんな所でも平気なんですがね」
 古藤はこう答えて、葉子の微笑を追いながら安心したらしく、
 「気分はもうなおりましたね」
 と付け加えた。
 「えゝ」
 と葉子は何げなく微笑を続けようとしたが、その瞬間につと思い返して眉《まゆ》をひそめた。葉子には仮病《けびょう》を続ける必要があったのをつい忘れようとしたのだった。それで、
 「ですけれどもまだこんななんですの。こら動悸《どうき》が」
 といいながら、地味《じみ》な風通《ふうつう》の単衣物《ひとえもの》の中にかくれたはなやかな襦袢《じゅばん》の袖《そで》をひらめかして、右手を力なげに前に出した。そしてそれと同時に呼吸をぐっ[#「ぐっ」に傍点]とつめて、心臓と覚《おぼ》しいあたりにはげしく力をこめた。古藤はすき通るように白い手くびをしばらくなで回していたが、脈所《みゃくどころ》に探りあてると急に驚いて目を見張った。
 「どうしたんです、え、ひどく不規則じゃありませんか……痛むのは頭ばかりですか」
 「いゝえ、お腹《なか》も痛みはじめたんですの」
 「どんなふうに」
 「ぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と錐《きり》ででももむように……よくこれがあるんで困ってしまうんですのよ」
 古藤は静かに葉子の手を離して、大きな目で深々《ふかぶか》と葉子をみつめた。
 「医者を呼ばなくっても我慢ができますか」
 葉子は苦しげにほほえんで見せた。
 「あなただったらきっとできないでしょうよ。……慣れっこですからこらえて見ますわ。その代わりあなた永田《ながた》さん……永田さん、ね、郵船会社の支店長の……あすこに行って船の切符の事を相談して来ていただけないでしょうか。御迷惑ですわね。それでもそんな事までお願いしちゃあ……ようござんす、わたし、車でそろそろ行きますから」
 古藤は、女というものはこれほどの健康の変調をよくもこうまで我慢をするものだというような顔をして、もちろん自分が行ってみるといい張った。
 実はその日、葉子は身のまわりの小道具や化粧品を調《ととの》えかたがた、米国行きの船の切符を買うために古藤を連れてここに来たのだった。葉子はそのころすでに米国にいるある若い学士と許嫁《いいなずけ》の間柄になっていた。新橋で車夫が若奥様と呼んだのも、この事が出入りのものの間に公然と知れわたっていたからの事だった。
 それは葉子が私生子を設けてからしばらく後の事だった。ある冬の夜、葉子の母の親佐《おやさ》が何かの用でその良人《おっと》の書斎に行こうと階子段《はしごだん》をのぼりかけると、上から小間使いがまっしぐら[#「まっしぐら」に傍点]に駆けおりて来て、危うく親佐にぶっ突かろうとしてそのそばをすりぬけながら、何か意味のわからない事を早口にいって[#底本では「いつて」、26-10]走り去った。その島田髷《しまだまげ》や帯の乱れた後ろ姿が、嘲弄《ちょうろう》の言葉のように目を打つと、親佐は口びるをかみしめたが、足音だけはしとやか[#「しとやか」に傍点]に階子段《はしごだん》を上がって、いつもに似ず書斎の戸の前に立ち止まって、しわぶきを一つして、それから規則正しく間《ま》をおいて三度戸をノックした。
 こういう事があってから五日《いつか》とたたぬうちに、葉子の家庭すなわち早月家《さつきけ》は砂の上の塔のようにもろくもくずれてしまった。親佐はことに冷静な底気味わるい態度で夫婦の別居を主張した。そして日ごろの柔和に似ず、傷ついた[#底本では「傷ついに」と誤り]牡牛《おうし》のように元どおりの生活を回復しようとひしめく良人《おっと》や、中にはいっていろいろ言いなそうとした親類たちの言葉を、きっぱり[#「きっぱり」に傍点]としりぞけてしまって、良人を釘店《くぎだな》のだだっ広い住宅にたった一人《ひとり》残したまま、葉子ともに三人の娘を連れて、親佐は仙台《せんだい》に立ちのいてしまった。木部の友人たちが葉子の不人情を怒って、木部のとめるのもきかずに、社会から葬ってしまえとひしめいているのを葉子は聞き知っていたから、ふだんならば一も二もなく父をかばって母に楯《たて》をつくべきところを、素直《すなお》に母のするとおりになって、葉子は母と共に仙台に埋《うず》もれに行った。母は母で、自分の家庭から葉子のような娘の出た事を、できるだけ世間《せけん》に知られまいとした。女子教育とか、家庭の薫陶とかいう事をおりあるごとに口にしていた親佐は、その言葉に対して虚偽という利子を払わねばならなかった。一方をもみ消すためには一方にどん[#「どん」に傍点]と火の手をあげる必要がある。早月母子《さつきおやこ》が東京を去るとまもなく、ある新聞は早月《さつき》ドクトルの女性に関するふしだら[#「ふしだら」に傍点]を書き立てて、それにつけての親佐の苦心と貞操とを吹聴《ふいちょう》したついでに、親佐が東京を去るようになったのは、熱烈な信仰から来る義憤と、愛児を父の悪感化から救おうとする母らしい努力に基づくものだ。そのために彼女はキリスト教婦人同盟の副会長という顕要な位置さえ投げすてたのだと書き添えた。
 仙台における早月親佐はしばらくの間《あいだ》は深く沈黙を守っていたが、見る見る周囲に人を集めて華々《はなばな》しく活動をし始めた。その客間は若い信者や、慈善家や、芸術家たちのサロンとなって、そこからリバイバルや、慈善|市《いち》や、音楽会というようなものが形を取って生まれ出た。ことに親佐が仙台支部長として働き出したキリスト教婦人同盟の運動は、その当時|野火《のび》のような勢いで全国に広がり始めた赤十字社の勢力にもおさおさ劣らない程の盛況を呈した。知事令夫人も、名だたる素封家《そほうか》の奥さんたちもその集会には列席した。そして三か年の月日は早月親佐を仙台には無くてはならぬ名物の一つにしてしまった。性質が母親とどこか似すぎているためか、似たように見えて一調子違っているためか、それとも自分を慎むためであったか、はたの人にはわからなかったが、とにかく葉子はそんなはなやかな雰囲気《ふんいき》に包まれながら、不思議なほど沈黙を守って、ろくろく晴れの座などには姿を現わさないでいた。それにもかかわらず親佐の客間に吸い寄せられる若い人々の多数は葉子に吸い寄せられているのだった。葉子の控え目なしおらしい様子がいやが上にも人のうわさを引く種《たね》となって、葉子という名は、多才で、情緒の細《こま》やかな、美しい薄命児をだれにでも思い起こさせた。彼女の立ちすぐれた眉目形《みめかたち》は花柳《かりゅう》の人たちさえうらやましがらせた。そしていろいろな風聞が、清教徒風に質素な早月の佗住居《わびずまい》の周囲を霞《かすみ》のように取り巻き始めた。
 突然小さな仙台市は雷にでも打たれたようにある朝の新聞記事に注意を向けた。それはその新聞の商売がたきである或《あ》る新聞の社主であり主筆である某が、親佐と葉子との二人《ふたり》に同時に慇懃《いんぎん》を通じているという、全紙にわたった不倫きわまる記事だった。だれも意外なような顔をしながら心の中ではそれを信じようとした。
 この日髪の毛の濃い、口の大きい、色白な一人《ひとり》の青年を乗せた人力車《じんりきしゃ》が、仙台の町中を忙《せわ》しく駆け回ったのを注意した人はおそらくなかったろうが、その青年は名を木村《きむら》といって、日ごろから快活な活動好きな人として知られた男で、その熱心な奔走の結果、翌日の新聞紙の広告欄には、二段抜きで、知事令夫人以下十四五名の貴婦人の連名で早月親佐《さつきおやさ》の冤罪《えんざい》が雪《すす》がれる事になった。この稀有《けう》の大《おお》げさな広告がまた小さな仙台の市中をどよめき渡らした。しかし木村の熱心も口弁も葉子の名を広告の中に入れる事はできなかった。
 こんな騒ぎが持ち上がってから早月親佐の仙台における今までの声望は急に無くなってしまった。そのころちょうど東京に居残っていた早月が病気にかかって薬に親しむ身となったので、それをしお[#「しお」に傍点]に親佐は子供を連れて仙台を切り上げる事になった。
 木村はその後すぐ早月|母子《おやこ》を追って東京に出て来た。そして毎日入りびたるように早月家に出入りして、ことに親佐の気に入るようになった。親佐が病気になって危篤に陥った時、木村は一生の願いとして葉子との結婚を申し出た。親佐はやはり母だった。死期を前に控えて、いちばん気にせずにいられないものは、葉子の将来だった。木村ならばあのわがままな、男を男とも思わぬ葉子に仕えるようにして行く事ができると思った。そしてキリスト教婦人同盟の会長をしている五十川《いそがわ》女史に後事を託して死んだ。この五十川女史のまあまあというような不思議なあいまいな切り盛りで、木村は、どこか不確実ではあるが、ともかく葉子を妻としうる保障を握ったのだった。

    五

 郵船会社の永田は夕方でなければ会社から退《ひ》けまいというので、葉子は宿屋に西洋物店のものを呼んで、必要な買い物をする事になった。古藤はそんならそこらをほッつき[#「ほッつき」に傍点]歩いて来るといって、例の麦稈《むぎわら》帽子を帽子掛けから取って立ち上がった。葉子は思い出したように肩越しに振り返って、
 「あなたさっきパラソルは骨が五本のがいいとおっしゃってね」
 といった。古藤は冷淡な調子で、
 「そういったようでしたね」
 と答えながら、何か他の事でも考えているらしかった。
 「まあそんなにとぼけて……なぜ五本のがお好き?」
 「僕が好きというんじゃないけれども、あなたはなんでも人と違ったものが好きなんだと思ったんですよ」
 「どこまでも人をおからかいなさる……ひどい事……行っていらっしゃいまし」
 と情を迎えるようにいって向き直ってしまった。古藤が縁側に出るとまた突然呼びとめた。障子《しょうじ》にはっきり[#「はっきり」に傍点]立ち姿をうつしたまま、
 「なんです」
 といって古藤は立ち戻《もど》る様子がなかった。葉子はいたずら者らしい笑いを口のあたりに浮かべていた。
 「あなたは木村と学校が同じでいらしったのね」
 「そうですよ、級は木村の……木村君のほうが二つも上でしたがね」
 「あなたはあの人をどうお思いになって」
 まるで少女のような無邪気な調子だった。古藤はほほえんだらしい語気で、
 「そんな事はもうあなたのほうがくわしいはずじゃありませんか……心《しん》のいい活動家ですよ」
 「あなたは?」
 葉子はぽん[#「ぽん」に傍点]と高飛車《たかびしゃ》に出た。そしてにやり[#「にやり」に傍点]としながらがっくり[#「がっくり」に傍点]と顔を上向きにはねて、床の間の一蝶《いっちょう》のひどい偽《まが》い物《もの》を見やっていた。古藤がとっさの返事に窮して、少しむっ[#「むっ」に傍点]とした様子で答え渋っているのを見て取ると、葉子は今度は声の調子を落として、いかにもたよりないというふうに、
 「日盛りは暑いからどこぞでお休みなさいましね。……なるたけ早く帰って来てくださいまし。もしかして、病気でも悪くなると、こんな所で心細うござんすから……よくって」
 古藤は何か平凡な返事をして、縁板を踏みならしながら出て行ってしまった。
 朝のうちだけからっ[#「からっ」に傍点]と破ったように晴れ渡っていた空は、午後から曇り始めて、まっ白な雲が太陽の面をなでて通るたびごとに暑気は薄れて、空いちめんが灰色にかき曇るころには、膚寒く思うほどに初秋の気候は激変していた。時雨《しぐれ》らしく照ったり降ったりしていた雨の脚《あし》も、やがてじめじめと降り続いて、煮しめたようなきたない部屋《へや》の中は、ことさら湿《しと》りが強く来るように思えた。葉子は居留地のほうにある外国人相手の洋服屋や小間物屋などを呼び寄せて、思いきったぜいたくな買い物をした。買い物をして見ると葉子は自分の財布《さいふ》のすぐ貧しくなって行くのを怖《おそ》れないではいられなかった。葉子の父は日本橋ではひとかどの門戸《もんこ》を張った医師で、収入も相当にはあったけれども、理財の道に全く暗いのと、妻の親佐《おやさ》が婦人同盟の事業にばかり奔走していて、その並み並みならぬ才能を、少しも家の事に用いなかったため、その死後には借金こそ残れ、遺産といってはあわれなほどしかなかった。葉子は二人《ふたり》の妹をかかえながらこの苦しい境遇を切り抜けて来た。それは葉子であればこそし遂《おお》せて来たようなものだった。だれにも貧乏らしいけしきは露ほども見せないでいながら、葉子は始終貨幣一枚一枚の重さを計って支払いするような注意をしていた。それだのに目の前に異国情調の豊かな贅沢品《ぜいたくひん》を見ると、彼女の貪欲《どんよく》は甘いものを見た子供のようになって、前後も忘れて懐中にありったけの買い物をしてしまったのだ。使いをやって正金《しょうきん》銀行で換えた金貨は今|鋳出《いだ》されたような光を放って懐中の底にころがっていたが、それをどうする事もできなかった。葉子の心は急に暗くなった。戸外の天気もその心持ちに合槌《あいづち》を打つように見えた。古藤はうまく永田から切符をもらう事ができるだろうか。葉子自身が行き得ないほど葉子に対して反感を持っている永田が、あの単純なタクトのない古藤をどんなふうに扱ったろう。永田の口から古藤はいろいろな葉子の過去を聞かされはしなかったろうか。そんな事を思うと葉子は悒鬱《ゆううつ》が生み出す反抗的な気分になって、湯をわかさせて入浴し、寝床をしかせ、最上等の三鞭酒《シャンペン》を取りよせて、したたかそれを飲むと前後も知らず眠ってしまった。
 夜になったら泊まり客があるかもしれないと女中のいった五つの部屋《へや》はやはり空《から》のままで、日がとっぷりと暮れてしまった。女中がランプを持って来た物音に葉子はようやく目をさまして、仰向いたまま、すすけた天井に描かれたランプの丸い光輪をぼんやりとながめていた。
 その時じたッ[#「じたッ」に傍点]じたッとぬれた足で階子段《はしごだん》をのぼって来る古藤の足音が聞こえた。古藤は何かに腹を立てているらしい足どりでずかずかと縁側を伝って来たが、ふと立ち止まると大きな声で帳場《ちょうば》のほうにどなった。
 「早く雨戸をしめないか……病人がいるんじゃないか。……」
 「この寒いのになんだってあなたも言いつけないんです」
 今度はこう葉子にいいながら、建て付けの悪い障子をあけていきなり[#「いきなり」に傍点]中にはいろうとしたが、その瞬間にはっ[#「はっ」に傍点]と驚いたような顔をして立ちすくんでしまった。
 香水や、化粧品や、酒の香をごっちゃ[#「ごっちゃ」に傍点]にした暖かいいきれ[#「いきれ」に傍点]がいきなり古藤に迫ったらしかった。ランプがほの暗いので、部屋のすみずみまでは見えないが、光の照り渡る限りは、雑多に置きならべられたなまめかしい女の服地や、帽子や、造花や、鳥の羽根や、小道具などで、足の踏みたて場もないまでになっていた。その一方に床の間を背にして、郡内《ぐんない》のふとんの上に掻巻《かいまき》をわきの下から羽織った、今起きかえったばかりの葉子が、はでな長襦袢《ながじゅばん》一つで東ヨーロッパの嬪宮《ひんきゅう》の人のように、片臂《かたひじ》をついたまま横になっていた。そして入浴と酒とでほんのり[#「ほんのり」に傍点]ほてった顔を仰向けて、大きな目を夢のように見開いてじっ[#「じっ」に傍点]と古藤を見た。その枕《まくら》もとには三鞭酒《シャンペン》のびんが本式に氷の中につけてあって、飲みさしのコップや、華奢《きゃしゃ》な紙入れや、かのオリーヴ色の包み物を、しごき[#「しごき」に傍点]の赤が火の蛇《くちなわ》のように取り巻いて、その端が指輪の二つはまった大理石のような葉子の手にもてあそばれていた。
 「お遅《おそ》うござんした事。お待たされなすったんでしょう。……さ、おはいりなさいまし。そんなもの足ででもどけてちょうだい、散らかしちまって」
 この音楽のようなすべすべした調子の声を聞くと、古藤は始めて illusion から目ざめたふうではいって来た。葉子は左手を二の腕がのぞき出るまでずっ[#「ずっ」に傍点]と延ばして、そこにあるものを一払《ひとはら》いに払いのけると、花壇の土を掘り起こしたようにきたない畳が半畳ばかり現われ出た。古藤は自分の帽子を部屋のすみにぶちなげて置いて、払い残された細形《ほそがた》の金鎖を片づけると、どっか[#「どっか」に傍点]とあぐらをかいて正面から葉子を見すえながら、
 「行って来ました。船の切符もたしかに受け取って来ました」
 といってふところの中を探りにかかった。葉子はちょっと改まって、
 「ほんとにありがとうございました」
 と頭を下げたが、たちまち roughish な目つきをして、
 「まあそんな事はいずれあとで、ね、……何しろお寒かったでしょう、さ」
 といいながら飲み残りの酒を盆の上に無造作に捨てて、二三度左手をふってしずくを切ってから、コップを古藤にさしつけた。古藤の目は何かに激昂《げきこう》しているように輝いていた。
 「僕は飲みません」
 「おやなぜ」
 「飲みたくないから飲まないんです」
 この角《かど》ばった返答は男を手もなくあやし慣れている葉子にも意外だった。それでそのあとの言葉をどう継ごうかと、ちょっとためらって古藤の顔を見やっていると、古藤はたたみかけて口をきった。
 「永田ってのはあれはあなたの知人ですか。思いきって尊大な人間ですね。君のような人間から金を受け取る理由はないが、とにかくあずかって置いて、いずれ直接あなたに手紙でいってあげるから、早く帰れっていうんです、頭から。失敬なやつだ」
 葉子はこの言葉に乗じて気まずい心持ちを変えようと思った。そしてまっしぐらに何かいい出そうとすると、古藤はおっかぶせるように言葉を続けて、
 「あなたはいったいまだ腹が痛むんですか」
 ときっぱり[#「きっぱり」に傍点]いって堅くすわり直した。しかしその時に葉子の陣立てはすでにでき上がっていた。初めのほほえみをそのままに、
 「えゝ、少しはよくなりましてよ」
 といった。古藤は短兵急《たんぺいきゅう》に、
 「それにしてもなかなか元気ですね」
 とたたみかけた。
 「それはお薬にこれを少しいただいたからでしょうよ」
 と三鞭酒《シャンペン》を指さした。
 正面からはね返された古藤は黙ってしまった。しかし葉子も勢いに乗って追い迫るような事はしなかった。矢頃《やごろ》を計ってから語気をかえてずっ[#「ずっ」に傍点]と下手《したで》になって、
 「妙にお思いになったでしょうね。わるうございましてね。こんな所に来ていて、お酒なんか飲むのはほんとうに悪いと思ったんですけれども、気分がふさいで来ると、わたしにはこれよりほかにお薬はないんですもの。さっきのように苦しくなって来ると私はいつでも湯を熱めにして浴《はい》ってから、お酒を飲み過ぎるくらい飲んで寝るんですの。そうすると」
 といって、ちょっといいよどんで見せて、
 「十分か二十分ぐっすり[#「ぐっすり」に傍点]寝入るんですのよ……痛みも何も忘れてしまっていい心持ちに……。それから急に頭がかっ[#「かっ」に傍点]と痛んで来ますの。そしてそれと一緒に気がめいり出して、もうもうどうしていいかわからなくなって、子供のように泣きつづけると、そのうちにまた眠たくなって一寝入りしますのよ。そうするとそのあとはいくらかさっぱり[#「さっぱり」に傍点]するんです。……父や母が死んでしまってから、頼みもしないのに親類たちからよけいな世話をやかれたり、他人力《ひとぢから》なんぞをあてにせずに妹|二人《ふたり》を育てて行かなければならないと思ったりすると、わたしのような、他人様《ひとさま》と違って風変《ふうが》わりな、……そら、五本の骨でしょう」
 とさびしく笑った。
 「それですものどうぞ堪忍《かんにん》してちょうだい。思いきり泣きたい時でも知らん顔をして笑って通していると、こんなわたしみたいな気まぐれ者になるんです。気まぐれでもしなければ生きて行けなくなるんです。男のかたにはこの心持ちはおわかりにはならないかもしれないけれども」
 こういってるうちに葉子は、ふと木部との恋がはかなく破れた時の、われにもなく身にしみ渡るさびしみや、死ぬまで日陰者であらねばならぬ私生子の定子の事や、計らずもきょうまのあたり見た木部の、心《しん》からやつれた面影などを思い起こした。そしてさらに、母の死んだ夜、日ごろは見向きもしなかった親類たちが寄り集まって来て、早月家《さつきけ》には毛の末ほども同情のない心で、早月家の善後策について、さも重大らしく勝手気ままな事を親切ごかしにしゃべり[#「しゃべり」に傍点]散らすのを聞かされた時、どうにでもなれという気になって、暴《あば》れ抜いた事が、自分にさえ悲しい思い出となって、葉子の頭の中を矢のように早くひらめき通った。葉子の顔には人に譲ってはいない自信の色が現われ始めた。
 「母の初七日《しょなぬか》の時もね、わたしはたて続けにビールを何杯飲みましたろう。なんでもびんがそこいらにごろごろころがりました。そしてしまいには何がなんだか夢中になって、宅に出入りするお医者さんの膝《ひざ》を枕《まくら》に、泣き寝入りに寝入って、夜中《よなか》をあなた二時間の余《よ》も寝続けてしまいましたわ。親類の人たちはそれを見ると一人帰り二人帰りして、相談も何もめちゃくちゃになったんですって。母の写真を前に置いといて、わたしはそんな事までする人間ですの。おあきれになったでしょうね。いやなやつでしょう。あなたのような方から御覧になったら、さぞいやな気がなさいましょうねえ」
 「えゝ」
 と古藤は目も動かさずにぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]に答えた。
 「それでもあなた」
 と葉子は切《せつ》なさそうに半ば起き上がって、
 「外面《うわつら》だけで人のする事をなんとかおっしゃるのは少し残酷ですわ。……いゝえね」
 と古藤の何かいい出そうとするのをさえぎって、今度はきっ[#「きっ」に傍点]とすわり直った。
 「わたしは泣き言《ごと》をいって他人様《ひとさま》にも泣いていただこうなんて、そんな事はこれんばかりも思やしませんとも……なるならどこかに大砲《おおづつ》のような大きな力の強い人がいて、その人が真剣に怒《おこ》って、葉子のような人非人《にんぴにん》はこうしてやるぞといって、わたしを押えつけて心臓でも頭でもくだけて飛んでしまうほど折檻《せっかん》をしてくれたらと思うんですの。どの人もどの人もちゃん[#「ちゃん」に傍点]と自分を忘れないで、いいかげんに怒《おこ》ったり、いいかげんに泣いたりしているんですからねえ。なんだってこう生温《なまぬる》いんでしょう。
 義一《ぎいち》さん(葉子が古藤をこう名で呼んだのはこの時が始めてだった)あなたがけさ、心《しん》の正直ななんとかだとおっしゃった木村に縁づくようになったのも、その晩の事です。五十川《いそがわ》が親類じゅうに賛成さして、晴れがましくもわたしをみんなの前に引き出しておいて、罪人にでもいうように宣告してしまったのです。わたしが一口でもいおうとすれば、五十川のいうには母の遺言ですって。死人に口なし。ほんとに木村はあなたがおっしゃったような人間ね。仙台であんな事があったでしょう。あの時知事の奥さんはじめ母のほうはなんとかしようが娘のほうは保証ができないとおっしゃったんですとさ」
 いい知らぬ侮蔑《ぶべつ》の色が葉子の顔にみなぎった。
 「ところが木村は自分の考えを押し通しもしないで、おめおめと新聞には母だけの名を出してあの広告をしたんですの。
 母だけがいい人になればだれだってわたしを……そうでしょう。そのあげくに木村はしゃあ[#「しゃあ」に傍点]しゃあとわたしを妻にしたいんですって、義一さん、男ってそれでいいものなんですか。まあね物の譬《たと》えがですわ。それとも言葉ではなんといってもむだだから、実行的にわたしの潔白を立ててやろうとでもいうんでしょうか」
 そういって激昂《げきこう》しきった葉子はかみ捨てるようにかん高《だか》くほゝ[#「ほゝ」に傍点]と笑った。
 「いったいわたしはちょっとした事で好ききらいのできる悪い質《たち》なんですからね。といってわたしはあなたのような生《き》一本でもありませんのよ。
 母の遺言だから木村と夫婦になれ。早く身を堅めて地道《じみち》に暮らさなければ母の名誉をけがす事になる。妹だって裸でお嫁入りもできまいといわれれば、わたし立派《りっぱ》に木村の妻になって御覧にいれます。その代わり木村が少しつらいだけ。
 こんな事をあなたの前でいってはさぞ気を悪くなさるでしょうが、真直《まっすぐ》なあなただと思いますから、わたしもその気で何もかも打ち明けて申してしまいますのよ。わたしの性質や境遇はよく御存じですわね。こんな性質でこんな境遇にいるわたしがこう考えるのにもし間違いがあったら、どうか遠慮なくおっしゃってください。
 あゝいやだった事。義一さん、わたしこんな事はおくびにも出さずに今の今までしっかり胸にしまって我慢していたのですけれども、きょうはどうしたんでしょう、なんだか遠い旅にでも出たようなさびしい気になってしまって……」
 弓弦《ゆづる》を切って放したように言葉を消して葉子はうつむいてしまった。日はいつのまにかとっぷり[#「とっぷり」に傍点]と暮れていた。じめじめと降り続く秋雨に湿《しと》った夜風が細々と通《かよ》って来て、湿気でたるんだ障子紙をそっ[#「そっ」に傍点]とあおって通った。古藤は葉子の顔を見るのを避けるように、そこらに散らばった服地や帽子などをながめ回して、なんと返答をしていいのか、いうべき事は腹にあるけれども言葉には現わせないふうだった。部屋《へや》は息気《いき》苦しいほどしん[#「しん」に傍点]となった。
 葉子は自分の言葉から、その時のありさまから、妙にやる瀬ないさびしい気分になっていた。強い男の手で思い存分両肩でも抱きすくめてほしいようなたよりなさを感じた。そして横腹に深々と手をやって、さし込む痛みをこらえるらしい姿をしていた。古藤はややしばらくしてから何か決心したらしくまとも[#「まとも」に傍点]に葉子を見ようとしたが、葉子の切《せつ》なさそうな哀れな様子を見ると、驚いた顔つきをしてわれ知らず葉子のほうにいざり寄った。葉子はすかさず豹《ひょう》のようになめらかに身を起こしていち早くもしっかり古藤のさし出す手を握っていた。そして、
 「義一さん」
 と震えを帯びていった声は存分に涙にぬれているように響いた。古藤は声をわななかして、
 「木村はそんな人間じゃありませんよ」
 とだけいって黙ってしまった。
 だめだったと葉子はその途端に思った。葉子の心持ちと古藤の心持ちとはちぐはぐ[#「ちぐはぐ」に傍点]になっているのだ。なんという響きの悪い心だろうと葉子はそれをさげすんだ。しかし様子にはそんな心持ちは少しも見せないで、頭から肩へかけてのなよやかな線を風の前のてっせん[#「てっせん」に傍点]の蔓《つる》のように震わせながら、二三度深々とうなずいて見せた。
 しばらくしてから葉子は顔を上げたが、涙は少しも目にたまってはいなかった。そしていとしい弟でもいたわるようにふとんから立ち上がりざま、
 「すみませんでした事、義一さん、あなた御飯はまだでしたのね」
 といいながら、腹の痛むのをこらえるような姿で古藤の前を通りぬけた。湯でほんのりと赤らんだ素足に古藤の目が鋭くちらっ[#「ちらっ」に傍点]と宿ったのを感じながら、障子を細目にあけて手をならした。
 葉子はその晩不思議に悪魔じみた誘惑を古藤に感じた。童貞で無経験で恋の戯れにはなんのおもしろみもなさそうな古藤、木村に対してといわず、友だちに対して堅苦しい義務観念の強い古藤、そういう男に対して葉子は今までなんの興味をも感じなかったばかりか、働きのない没情漢《わからずや》と見限って、口先ばかりで人間並みのあしらいをしていたのだ。しかしその晩葉子はこの少年のような心を持って肉の熟した古藤に罪を犯させて見たくってたまらなくなった。一夜のうちに木村とは顔も合わせる事のできない人間にして見たくってたまらなくなった。古藤の童貞を破る手を他の女に任せるのがねたましくてたまらなくなった。幾枚も皮をかぶった古藤の心のどん底に隠れている欲念を葉子の蠱惑力《チャーム》で掘り起こして見たくってたまらなくなった。
 気取《けど》られない範囲で葉子があらん限りの謎《なぞ》を与えたにもかかわらず、古藤が堅くなってしまってそれに応ずるけしきのないのを見ると葉子はますますいらだった。そしてその晩は腹が痛んでどうしても東京に帰れないから、いやでも横浜に宿《とま》ってくれといい出した。しかし古藤は頑《がん》としてきかなかった。そして自分で出かけて行って、品《しな》もあろう事かまっ赤《か》な毛布《もうふ》を一枚買って帰って来た。葉子はとうとう我《が》を折って最終列車で東京に帰る事にした。
 一等の客車には二人《ふたり》のほかに乗客はなかった。葉子はふとした出来心から古藤をおとしいれようとした目論見《もくろみ》に失敗して、自分の征服力に対するかすかな失望と、存分の不快とを感じていた。客車の中ではまたいろいろと話そうといって置きながら、汽車が動き出すとすぐ、古藤の膝《ひざ》のそばで毛布にくるまったまま新橋まで寝通してしまった。
 新橋に着いてから古藤が船の切符を葉子に渡して人力車を二台|傭《やと》って、その一つに乗ると、葉子はそれにかけよって懐中から取り出した紙入れを古藤の膝にほうり出して、左の鬢《びん》をやさしくかき上げながら、
 「きょうのお立て替えをどうぞその中から……あすはきっといらしってくださいましね……お待ち申しますことよ……さようなら」
 といって自分ももう一つの車に乗った。葉子の紙入れの中には正金銀行から受け取った五十円金貨八枚がはいっている。そして葉子は古藤がそれをくずして立て替えを取る気づかいのないのを承知していた。

    六

 葉子が米国に出発する九月二十五日はあすに迫った。二百二十日の荒れそこねたその年の天気は、いつまでたっても定まらないで、気違い日和《びより》ともいうべき照り降りの乱雑な空あいが続き通していた。
 葉子はその朝暗いうちに床を離れて、蔵の陰になつた自分の小部屋《こべや》にはいって、前々から片づけかけていた衣類の始末をし始めた。模様や縞《しま》の派手《はで》なのは片端からほどいて丸めて、次の妹の愛子にやるようにと片すみに重ねたが、その中には十三になる末の妹の貞世《さだよ》に着せても似合わしそうな大柄《おおがら》なものもあった。葉子は手早くそれをえり分けて見た。そして今度は船に持ち込む四季の晴れ着を、床の間の前にあるまっ黒に古ぼけたトランクの所まで持って行って、ふたをあけようとしたが、ふとそのふたのまん中に書いてあるY・Kという白文字を見て忙《せわ》しく手を控えた。これはきのう古藤が油絵の具と画筆とを持って来て書いてくれたので、かわききらないテレビンの香がまだかすかに残っていた。古藤は、葉子・早月の頭文字《かしらもじ》Y・Sと書いてくれと折り入って葉子の頼んだのを笑いながら退けて、葉子・木村の頭文字Y・Kと書く前に、S・Kとある字をナイフの先で丁寧に削ったのだった。S・Kとは木村貞一のイニシャルで、そのトランクは木村の父が欧米を漫遊した時使ったものなのだ。その古い色を見ると、木村の父の太《ふと》っ腹《ぱら》な鋭い性格と、波瀾《はらん》の多い生涯《しょうがい》の極印《ごくいん》がすわっているように見えた。木村はそれを葉子の用にと残して行ったのだった。木村の面影はふと葉子の頭の中を抜けて通った。空想で木村を描く事は、木村と顔を見合わす時ほどの厭《いと》わしい思いを葉子に起こさせなかった。黒い髪の毛をぴったり[#「ぴったり」に傍点]ときれいに分けて、怜《さ》かしい中高《なかだか》の細面《ほそおもて》に、健康らしいばら色を帯びた容貌《ようぼう》や、甘すぎるくらい人情におぼれやすい殉情的な性格は、葉子に一種のなつかしさをさえ感ぜしめた。しかし実際顔と顔とを向かい合わせると、二人《ふたり》は妙に会話さえはずまなくなるのだった。その怜《さ》かしいのがいやだった。柔和なのが気にさわった。殉情的なくせに恐ろしく勘定高いのがたまらなかった。青年らしく土俵ぎわまで踏み込んで事業を楽しむという父に似た性格さえこましゃくれて見えた。ことに東京生まれといってもいいくらい都慣れた言葉や身のこなしの間に、ふと東北の郷土の香《にお》いをかぎ出した時にはかんで捨てたいような反感に襲われた。葉子の心は今、おぼろげな回想から、実際|膝《ひざ》つき合わせた時にいやだと思った印象に移って行った。そして手に持った晴れ着をトランクに入れるのを控えてしまった。長くなり始めた夜もそのころにはようやく白《しら》み始めて、蝋燭《ろうそく》の黄色い焔《ほのお》が光の亡骸《なきがら》のように、ゆるぎもせずにともっていた。夜の間《あいだ》静まっていた西風が思い出したように障子にぶつかって、釘店《くぎだな》の狭い通りを、河岸《かし》で仕出しをした若い者が、大きな掛け声でがらがらと車をひきながら通るのが聞こえ出した。葉子はきょう一日に目まぐるしいほどあるたくさんの用事をちょっと胸の中で数えて見て、大急ぎでそこらを片づけて、錠をおろすものには錠をおろし切って、雨戸を一枚繰って、そこからさし込む光で大きな手文庫からぎっしり[#「ぎっしり」に傍点]つまった男文字の手紙を引き出すと風呂敷《ふろしき》に包み込んだ。そしてそれをかかえて、手燭《てしょく》を吹き消しながら部屋《へや》を出ようとすると、廊下に叔母《おば》が突っ立っていた。
 「もう起きたんですね……片づいたかい」
 と挨拶《あいさつ》してまだ何かいいたそうであった。両親を失ってからこの叔母夫婦と、六歳になる白痴の一人息子《ひとりむすこ》とが移って来て同居する事になったのだ。葉子の母が、どこか重々しくって男々《おお》しい風采《ふうさい》をしていたのに引きかえ、叔母は髪の毛の薄い、どこまでも貧相に見える女だった。葉子の目はその帯《おび》しろ裸《はだか》な、肉の薄い胸のあたりをちらっ[#「ちらっ」に傍点]とかすめた。
 「おやお早うございます……あらかた片づきました」
 といってそのまま二階に行こうとすると、叔母は爪《つめ》にいっぱい垢《あか》のたまった両手をもやもやと胸の所でふりながら、さえぎるように立ちはだかって、
 「あのお前さんが片づける時にと思っていたんだがね。あすのお見送りに私は着て行くものが無いんだよ。おかあさんのもので間《ま》に合うのは無いだろうかしらん。あすだけ借りればあとはちゃんと始末をして置くんだからちょっと見ておくれでないか」
 葉子はまたかと思った。働きのない良人《おっと》に連れ添って、十五年の間《あいだ》丸帯一つ買ってもらえなかった叔母の訓練のない弱い性格が、こうさもしくなるのをあわれまないでもなかったが、物怯《ものお》じしながら、それでいて、欲にかかるとずうずうしい、人のすきばかりつけねらう仕打ちを見ると、虫唾《むしず》が走るほど憎かった。しかしこんな思いをするのもきょうだけだと思って部屋の中に案内した。叔母は空々《そらぞら》しく気の毒だとかすまないとかいい続けながら錠をおろした箪笥《たんす》を一々あけさせて、いろいろと勝手に好みをいった末に、りゅう[#「りゅう」に傍点]とした一揃《ひとそろ》えを借る事にして、それから葉子の衣類までをとやかくいいながら去りがてにいじくり回した。台所からは、みそ汁《しる》の香《にお》いがして、白痴の子がだらしなく泣き続ける声と、叔父《おじ》が叔母を呼び立てる声とが、すがすがしい朝の空気を濁すように聞こえて来た。葉子は叔母にいいかげんな返事をしながらその声に耳を傾けていた。そして早月家の最後の離散という事をしみじみと感じたのであった。電話はある銀行の重役をしている親類がいいかげんな口実《こうじつ》を作って只《ただ》持って行ってしまった。父の書斎道具や骨董品《こっとうひん》は蔵書と一緒に糶売《せりう》りをされたが、売り上げ代はとうとう葉子の手にははいらなかった。住居《すまい》は住居で、葉子の洋行後には、両親の死後何かに尽力したという親類の某が、二束三文《にそくさんもん》で譲り受ける事に親族会議で決まってしまった。少しばかりある株券と地所《じしょ》とは愛子と貞世《さだよ》との教育費にあてる名儀で某々が保管する事になった。そんな勝手放題なまねをされるのを葉子は見向きもしないで黙っていた。もし葉子が素直《すなお》な女だったら、かえって食い残しというほどの遺産はあてがわれていたに違いない。しかし親族会議では葉子を手におえない女だとして、他所《よそ》に嫁入って行くのをいい事に、遺産の事にはいっさい関係させない相談をしたくらいは葉子はとうに感づいていた。自分の財産となればなるべきものを一部分だけあてがわれて、黙って引っ込んでいる葉子ではなかった。それかといって長女ではあるが、女の身として全財産に対する要求をする事の無益なのも知っていた。で「犬にやるつもりでいよう」と臍《ほぞ》を堅めてかかったのだった。今、あとに残ったものは何がある。切り回しよく見かけを派手《はで》にしている割合に、不足がちな三人の姉妹の衣類諸道具が少しばかりあるだけだ。それを叔母は容赦もなくそこまで切り込んで来ているのだ。白紙のようなはかない寂しさと、「裸になるならきれいさっぱり[#「さっぱり」に傍点]裸になって見せよう」という火のような反抗心とが、むちゃくちゃに葉子の胸を冷やしたり焼いたりした。葉子はこんな心持ちになって、先ほどの手紙の包みをかかえて立ち上がりながら、うつむいて手ざわりのいい絹物をなで回している叔母を見おろした。
 「それじゃわたしまだほかに用がありますししますから錠をおろさずにおきますよ。ごゆっくり御覧なさいまし。そこにかためてあるのはわたしが持って行くんですし、ここにあるのは愛と貞にやるのですから別になすっておいてください」
 といい捨てて、ずんずん部屋《へや》を出た。往来には砂ほこりが立つらしく風が吹き始めていた。
 二階に上がって見ると、父の書斎であった十六畳の隣の六畳に、愛子と貞世とが抱き合って眠っていた。葉子は自分の寝床を手早くたたみながら愛子を呼び起こした。愛子は驚いたように大きな美しい目を開くと半分夢中で飛び起きた。葉子はいきなり[#「いきなり」に傍点]厳重な調子で、
 「あなたはあすからわたしの代わりをしないじゃならないんですよ。朝寝坊なんぞしていてどうするの。あなたがぐず[#「ぐず」に傍点]ぐずしていると貞ちゃんがかわいそうですよ。早く身じまいをして下のお掃除《そうじ》でもなさいまし」
 とにらみつけた。愛子は羊のように柔和な目をまばゆそうにして、姉をぬすみ見ながら、着物を着かえて下に降りて行った。葉子はなんとなく性《しょう》の合わないこの妹が、階子段《はしごだん》を降りきったのを聞きすまして、そっと貞世のほうに近づいた。面《おも》ざしの葉子によく似た十三の少女は、汗じみた顔には下げ髪がねばり付いて、頬《ほお》は熱でもあるように上気している。それを見ると葉子は骨肉《こつにく》のいとしさに思わずほほえませられて、その寝床にいざり寄って、その童女を羽《は》がいに軽く抱きすくめた。そしてしみじみとその寝顔にながめ入った。貞世の軽い呼吸は軽く葉子の胸に伝わって来た。その呼吸が一つ伝わるたびに、葉子の心は妙にめいって行った。同じ胎《はら》を借りてこの世に生まれ出た二人《ふたり》の胸には、ひたと共鳴する不思議な響きが潜んでいた。葉子は吸い取られるようにその響きに心を集めていたが、果ては寂しい、ただ寂しい涙がほろほろととめどなく流れ出るのだった。
 一家の離散を知らぬ顔で、女の身そらをただひとり米国の果てまでさすらって行くのを葉子は格別なんとも思っていなかった。振り分け髪の時分から、飽くまで意地《いじ》の強い目はしのきく性質を思うままに増長さして、ぐんぐんと世の中をわき目もふらず押し通して二十五になった今、こんな時にふと過去を振り返って見ると、いつのまにかあたりまえの女の生活をすりぬけて、たった一人《ひとり》見も知らぬ野ずえに立っているような思いをせずにはいられなかった。女学校や音楽学校で、葉子の強い個性に引きつけられて、理想の人ででもあるように近寄って来た少女たちは、葉子におど[#「おど」に傍点]おどしい同性の恋をささげながら、葉子に inspire されて、われ知らず大胆な奔放な振る舞いをするようになった。そのころ「国民文学」や「文学界」に旗挙《はたあ》げをして、新しい思想運動を興そうとした血気なロマンティックな青年たちに、歌の心を授けた女の多くは、おおかた葉子から血脈を引いた少女らであった。倫理学者や、教育家や、家庭の主権者などもそのころから猜疑《さいぎ》の目を見張って少女国を監視し出した。葉子の多感な心は、自分でも知らない革命的ともいうべき衝動のためにあてもなく揺《ゆる》ぎ始めた。葉子は他人を笑いながら、そして自分をさげすみながら、まっ暗な大きな力に引きずられて、不思議な道に自覚なく迷い入って、しまいにはまっしぐらに走り出した。だれも葉子の行く道のしるべをする人もなく、他の正しい道を教えてくれる人もなかった。たまたま大きな声で呼び留める人があるかと思えば、裏表《うらおもて》の見えすいたぺてん[#「ぺてん」に傍点]にかけて、昔のままの女であらせようとするものばかりだった。葉子はそのころからどこか外国に生まれていればよかったと思うようになった。あの自由らしく見える女の生活、男と立ち並んで自分を立てて行く事のできる女の生活……古い良心が自分の心をさいなむたびに、葉子は外国人の良心というものを見たく思った。葉子は心の奥底でひそかに芸者《げいしゃ》をうらやみもした。日本で女が女らしく生きているのは芸者だけではないかとさえ思った。こんな心持ちで年を取って行く間《あいだ》に葉子はもちろんなんどもつまずいてころんだ。そしてひとりで膝《ひざ》の塵《ちり》を払わなければならなかった。こんな生活を続けて二十五になった今、ふと今まで歩いて来た道を振り返って見ると、いっしょに葉子と走っていた少女たちは、とうの昔に尋常な女になり済ましていて、小さく見えるほど遠くのほうから、あわれむようなさげすむような顔つきをして、葉子の姿をながめていた。葉子はもと来た道に引き返す事はもうできなかった。できたところで引き返そうとする気はみじんもなかった。「勝手にするがいい」そう思って葉子はまたわけもなく不思議な暗い力に引っぱられた。こういうはめ[#「はめ」に傍点]になった今、米国にいようが日本にいようが少しばかりの財産があろうが無かろうが、そんな事は些細《ささい》な話だった。境遇でも変わったら何か起こるかもしれない。元のままかもしれない。勝手になれ。葉子を心の底から動かしそうなものは一つも身近《みぢか》には見当たらなかった。
 しかし一つあった。葉子の涙はただわけもなくほろほろと流れた。貞世は何事も知らずに罪なく眠りつづけていた。同じ胎《はら》を借りてこの世に生まれ出た二人《ふたり》の胸には、ひたと共鳴する不思議な響きが潜んでいた。葉子は吸い取られるようにその響きに心を集めていたが、この子もやがては自分が通って来たような道を歩くのかと思うと、自分をあわれむとも妹をあわれむとも知れない切《せつ》ない心に先だたれて、思わずぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と貞世を抱きしめながら物をいおうとした。しかし何をいい得ようぞ。喉《のど》もふさがってしまっていた。貞世は抱きしめられたので始めて大きく目を開いた。そしてしばらくの間、涙にぬれた姉の顔をまじまじとながめていたが、やがて黙ったまま小さい袖《そで》でその涙をぬぐい始めた。葉子の涙は新しくわき返った。貞世は痛ましそうに姉の涙をぬぐいつづけた。そしてしまいにはその袖を自分の顔に押しあてて何か言い言いしゃくり上げながら泣き出してしまった。

    七

 葉子はその朝横浜の郵船会社の永田から手紙を受け取った。漢学者らしい風格の、上手《じょうず》な字で唐紙牋《とうしせん》に書かれた文句には、自分は故早月氏には格別の交誼《こうぎ》を受けていたが、あなたに対しても同様の交際を続ける必要のないのを遺憾に思う。明晩(すなわちその夜)のお招きにも出席しかねる、と剣《けん》もほろろに書き連ねて、追伸《ついしん》に、先日あなたから一|言《ごん》の紹介もなく訪問してきた素性《すじょう》の知れぬ青年の持参した金はいらないからお返しする。良人《おっと》の定まった女の行動は、申すまでもないが慎むが上にもことに慎むべきものだと私どもは聞き及んでいる。ときっぱり書いて、その金額だけの為替《かわせ》が同封してあった。葉子が古藤を連れて横浜に行ったのも、仮病《けびょう》をつかって宿屋に引きこもったのも、実をいうと船商売をする人には珍しい厳格なこの永田に会うめんどうを避けるためだった。葉子は小さく舌打ちして、為替ごと手紙を引き裂こうとしたが、ふと思い返して、丹念《たんねん》に墨をすりおろして一字一字考えて書いたような手紙だけずた[#「ずた」に傍点]ずたに破いて屑《くず》かごに突っ込んだ。
 葉子は地味《じみ》な他行衣《よそいき》に寝衣《ねまき》を着かえて二階を降りた。朝食は食べる気がなかった。妹たちの顔を見るのも気づまりだった。
 姉妹三人のいる二階の、すみからすみまできちん[#「きちん」に傍点]と小ぎれいに片付いているのに引きかえて、叔母《おば》一家の住まう下座敷は変に油ぎってよごれていた。白痴の子が赤ん坊同様なので、東の縁に干してある襁褓《むつき》から立つ塩臭いにおいや、畳の上に踏みにじられたままこびりついている飯粒などが、すぐ葉子の神経をいらいらさせた。玄関に出て見ると、そこには叔父《おじ》が、襟《えり》のまっ黒に汗じんだ白い飛白《かすり》を薄寒そうに着て、白痴の子を膝《ひざ》の上に乗せながら、朝っぱらから柿《かき》をむいてあてがっていた。その柿の皮があかあかと紙くずとごったになって敷き石の上に散っていた。葉子は叔父にちょっと挨拶《あいさつ》をして草履《ぞうり》をさがしながら、
 「愛さんちょっとここにおいで。玄関が御覧、あんなによごれているからね、きれいに掃除《そうじ》しておいてちょうだいよ。――今夜はお客様もあるんだのに……」
 と駆けて来た愛子にわざとつんけん[#「つんけん」に傍点]いうと、叔父は神経の遠くのほうであてこすられたのを感じたふうで、
 「おヽ、それはわしがしたんじゃで、わしが掃除しとく。構《かも》うてくださるな、おいお俊《しゅん》――お俊というに、何しとるぞい」
 とのろま[#「のろま」に傍点]らしく呼び立てた。帯《おび》しろ裸《はだか》の叔母がそこにやって来て、またくだらぬ口論《くちいさかい》をするのだと思うと、泥《どろ》の中でいがみ合う豚かなんぞを思い出して、葉子は踵《かかと》の塵《ちり》を払わんばかりにそこそこ家を出た。細い釘店《くぎだな》の往来は場所|柄《がら》だけに門並《かどな》みきれいに掃除されて、打ち水をした上を、気のきいた風体《ふうてい》の男女が忙しそうに往《ゆ》き来《き》していた。葉子は抜け毛の丸めたのや、巻煙草《まきたばこ》の袋のちぎれたのが散らばって箒《ほうき》の目一つない自分の家の前を目をつぶって駆けぬけたいほどの思いをして、ついそばの日本銀行にはいってありったけの預金を引き出した。そしてその前の車屋で始終乗りつけのいちばん立派な人力車を仕立てさして、その足で買い物に出かけた。妹たちに買い残しておくべき衣服地や、外国人向きの土産品《みやげひん》や、新しいどっしり[#「どっしり」に傍点]したトランクなどを買い入れると、引き出した金はいくらも残ってはいなかった。そして午後の日がやや傾きかかったころ、大塚窪町《おおつかくぼまち》に住む内田《うちだ》という母の友人を訪れた。内田は熱心なキリスト教の伝道者として、憎む人からは蛇蝎《だかつ》のように憎まれるし、好きな人からは予言者のように崇拝されている天才|肌《はだ》の人だった。葉子は五つ六つのころ、母に連れられて、よくその家に出入りしたが、人を恐れずにぐん[#「ぐん」に傍点]ぐん思った事をかわいらしい口もとからいい出す葉子の様子が、始終人から距《へだ》てをおかれつけた内田を喜ばしたので、葉子が来ると内田は、何か心のこだわった時でもきげんを直して、窄《せま》った眉根《まゆね》を少しは開きながら、「また子猿《こざる》が来たな」といって、そのつやつやしたおかっぱ[#「おかっぱ」に傍点]をなで回したりなぞした。そのうち母がキリスト教婦人同盟の事業に関係して、たちまちのうちにその牛耳《ぎゅうじ》を握り、外国宣教師だとか、貴婦人だとかを引き入れて、政略がましく事業の拡張に奔走するようになると、内田はすぐきげんを損じて、早月親佐《さつきおやさ》を責めて、キリストの精神を無視した俗悪な態度だといきまいたが、親佐がいっこうに取り合う様子がないので、両家の間は見る見る疎々《うとうと》しいものになってしまった。それでも内田は葉子だけには不思議に愛着を持っていたと見えて、よく葉子のうわさをして、「子猿」だけは引き取って子供同様に育ててやってもいいなぞといったりした。内田は離縁した最初の妻が連れて行ってしまったたった[#「たった」に傍点]一人《ひとり》の娘にいつまでも未練を持っているらしかった。どこでもいいその娘に似たらしい所のある少女を見ると、内田は日ごろの自分を忘れたように甘々《あまあま》しい顔つきをした。人が怖れる割合に、葉子には内田が恐ろしく思えなかったばかりか、その峻烈《しゅんれつ》な性格の奥にとじこめられて小さくよどんだ愛情に触れると、ありきたりの人間からは得られないようななつかしみを感ずる事があった。葉子は母に黙って時々内田を訪れた。内田は葉子が来ると、どんな忙しい時でも自分の部屋《へや》に通して笑い話などをした。時には二人だけで郊外の静かな並み木道などを散歩したりした。ある時内田はもう娘らしく生長した葉子の手を堅く握って、「お前は神様以外の私のただ一人の道伴《みちづ》れだ」などといった。葉子は不思議な甘い心持ちでその言葉を聞いた。その記憶は長く忘れ得なかった。
 それがあの木部との結婚問題が持ち上がると、内田は否応《いやおう》なしにある日葉子を自分の家に呼びつけた。そして恋人の変心を詰《なじ》り責める嫉妬《しっと》深い男のように、火と涙とを目からほとばしらせて、打ちもすえかねぬまでに狂い怒った。その時ばかりは葉子も心から激昂《げきこう》させられた。「だれがもうこんなわがままな人の所に来てやるものか」そう思いながら、生垣《いけがき》の多い、家並《やな》みのまばらな、轍《わだち》の跡のめいりこんだ小石川《こいしかわ》の往来を歩き歩き、憤怒の歯ぎしりを止めかねた。それは夕闇《ゆうやみ》の催した晩秋だった。しかしそれと同時になんだか大切なものを取り落としたような、自分をこの世につり上げてる糸の一つがぷつん[#「ぷつん」に傍点]と切れたような不思議なさびしさの胸に逼《せま》るのをどうする事もできなかった。
 「キリストに水をやったサマリヤの女の事も思うから、この上お前には何もいうまい――他人《ひと》の失望も神の失望もちっと[#「ちっと」に傍点]は考えてみるがいい、……罪だぞ、恐ろしい罪だぞ」
 そんな事があってから五年を過ぎたきょう、郵便局に行って、永田から来た為替《かわせ》を引き出して、定子を預かってくれている乳母《うば》の家に持って行こうと思った時、葉子は紙幣の束を算《かぞ》えながら、ふと内田の最後の言葉を思い出したのだった。物のない所に物を探るような心持ちで葉子は人力車を大塚のほうに走らした。
 五年たっても昔のままの構えで、まばらにさし代えた屋根板と、めっきり[#「めっきり」に傍点]延びた垣添《かきぞ》いの桐《きり》の木とが目立つばかりだった。砂きしみのする格子戸《こうしど》をあけて、帯前を整えながら出て来た柔和な細君《さいくん》と顔を合わせた時は、さすがに懐旧の情が二人の胸を騒がせた。細君は思わず知らず「まあどうぞ」といったが、その瞬間にはっ[#「はっ」に傍点]とためらったような様子になって、急いで内田の書斎にはいって行った。しばらくすると嘆息しながら物をいうような内田の声が途切れ途切れに聞こえた。「上げるのは勝手だがおれが会う事はないじゃないか」といったかと思うと、はげしい音を立てて読みさしの書物をぱたん[#「ぱたん」に傍点]と閉じる音がした。葉子は自分の爪先《つまさき》を見つめながら下くちびるをかんでいた。
 やがて細君がおどおどしながら立ち現われて、まずと葉子を茶の間《ま》に招じ入れた。それと入れ代わりに、書斎では内田が椅子《いす》を離れた音がして、やがて内田はずかずかと格子戸をあけて出て行ってしまった。
 葉子は思わずふらふらッと立ち上がろうとするのを、何気ない顔でじっ[#「じっ」に傍点]とこらえた。せめては雷のような激しいその怒りの声に打たれたかった。あわよくば自分も思いきりいいたい事をいってのけたかった。どこに行っても取りあいもせず、鼻であしらい、鼻であしらわれ慣れた葉子には、何か真味な力で打ちくだかれるなり、打ちくだくなりして見たかった。それだったのに思い入って内田の所に来て見れば、内田は世の常の人々よりもいっそう冷ややかに酷《むご》く思われた。
 「こんな事をいっては失礼ですけれどもね葉子さん、あなたの事をいろいろにいって来る人があるもんですからね、あのとおりの性質でしょう。どうもわたしにはなんともいいなだめようがないのですよ。内田があなたをお上げ申したのが不思議なほどだとわたし思いますの。このごろはことさらだれにもいわれないようなごた[#「ごた」に傍点]ごたが家の内にあるもんですから、よけいむしゃくしゃ[#「むしゃくしゃ」に傍点]していて、ほんとうにわたしどうしたらいいかと思う事がありますの」
 意地も生地《きじ》も内田の強烈な性格のために存分に打ち砕かれた細君は、上品な顔立てに中世紀の尼にでも見るような思いあきらめた表情を浮かべて、捨て身の生活のどん底にひそむさびしい不足をほのめかした。自分より年下で、しかも良人《おっと》からさんざん悪評を投げられているはずの葉子に対してまで、すぐ心が砕けてしまって、張りのない言葉で同情を求めるかと思うと、葉子は自分の事のように歯がゆかった。眉《まゆ》と口とのあたりにむごたらしい軽蔑《けいべつ》の影が、まざまざと浮かび上がるのを感じながら、それをどうする事もできなかった。葉子は急に青味を増した顔で細君を見やったが、その顔は世故《せこ》に慣れきった三十女のようだった。(葉子は思うままに自分の年を五つも上にしたり下にしたりする不思議な力を持っていた。感情次第でその表情は役者の技巧のように変わった)
 「歯がゆくはいらっしゃらなくって」
 と切り返すように内田の細君の言葉をひったくって、
 「わたしだったらどうでしょう。すぐおじさんとけんかして出てしまいますわ。それはわたし、おじさんを偉い方《かた》だとは思っていますが、わたしこんなに生まれついたんですからどうしようもありませんわ。一から十までおっしゃる事をはい[#「はい」に傍点]はいと聞いていられませんわ。おじさんもあんまりでいらっしゃいますのね。あなたみたいな方に、そう笠《かさ》にかからずとも、わたしでもお相手になさればいいのに……でもあなたがいらっしゃればこそおじさんもああやってお仕事がおできになるんですのね。わたしだけは除《の》け物ですけれども、世の中はなかなかよくいっていますわ。……あ、それでもわたしはもう見放されてしまったんですものね、いう事はありゃしません。ほんとうにあなたがいらっしゃるのでおじさんはお仕合わせですわ。あなたは辛抱なさる方《かた》。おじさんはわがままでお通しになる方《かた》。もっともおじさんにはそれが神様の思《おぼ》し召《め》しなんでしょうけれどもね。……わたしも神様の思《おぼ》し召《め》しかなんかでわがままで通す女なんですからおじさんとはどうしても茶碗《ちゃわん》と茶碗ですわ。それでも男はようござんすのね、わがままが通るんですもの。女のわがままは通すよりしかたがないんですからほんとうに情けなくなりますのね。何も前世の約束なんでしょうよ……」
 内田の細君は自分よりはるか年下の葉子の言葉をしみじみと聞いているらしかった。葉子は葉子でしみじみと細君の身なりを見ないではいられなかった。一昨日《おととい》あたり結ったままの束髪《そくはつ》だった。癖のない濃い髪には薪《たきぎ》の灰らしい灰がたかっていた。糊気《のりけ》のぬけきった単衣《ひとえ》も物さびしかった。その柄《がら》の細かい所には里の母の着古しというような香《にお》いがした。由緒《ゆいしょ》ある京都の士族に生まれたその人の皮膚は美しかった。それがなおさらその人をあわれにして見せた。
 「他人《ひと》の事なぞ考えていられやしない」しばらくすると葉子は捨てばちにこんな事を思った。そして急にはずんだ調子になって、
 「わたしあすアメリカに発《た》ちますの、ひとりで」
 と突拍子《とっぴょうし》もなくいった。あまりの不意に細君は目を見張って顔をあげた。
 「まあほんとうに」
 「はあほんとうに……しかも木村の所に行くようになりましたの。木村、御存じでしょう」
 細君がうなずいてなお仔細《しさい》を聞こうとすると、葉子は事もなげにさえぎって、
 「だからきょうはお暇乞《いとまご》いのつもりでしたの。それでもそんな事はどうでもようございますわ。おじさんがお帰りになったらよろしくおっしゃってくださいまし、葉子はどんな人間になり下がるかもしれませんって……あなたどうぞおからだをお大事に。太郎《たろう》さんはまだ学校でございますか。大きくおなりでしょうね。なんぞ持って上がればよかったのに、用がこんなものですから」
 といいながら両手で大きな輪を作って見せて、若々しくほほえみながら立ち上がった。
 玄関に送って出た細君の目には涙がたまっていた。それを見ると、人はよく無意味な涙を流すものだと葉子は思った。けれどもあの涙も内田が無理無体にしぼり出させるようなものだと思い直すと、心臓の鼓動が止まるほど葉子の心はかっ[#「かっ」に傍点]となった。そして口びるを震わしながら、
 「もう一言《ひとこと》おじさんにおっしゃってくださいまし、七度を七十倍はなさらずとも、せめて三度ぐらいは人の尤《とが》も許して上げてくださいましって。……もっともこれは、あなたのおために申しますの。わたしはだれにあやまっていただくのもいやですし、だれにあやまるのもいやな性分《しょうぶん》なんですから、おじさんに許していただこうとは頭《てん》から思ってなどいはしませんの。それもついでにおっしゃってくださいまし」
 口のはたに戯談《じょうだん》らしく微笑を見せながら、そういっているうちに、大濤《おおなみ》がどすん[#「どすん」に傍点]どすんと横隔膜につきあたるような心地《ここち》がして、鼻血でも出そうに鼻の孔《あな》がふさがった。門を出る時も口びるはなおくやしそうに震えていた。日は植物園の森の上に舂《うすず》いて、暮れがた近い空気の中に、けさから吹き出していた風はなぎた。葉子は今の心と、けさ早く風の吹き始めたころに、土蔵わきの小部屋《こべや》で荷造りをした時の心とをくらべて見て、自分ながら同じ心とは思い得なかった。そして門を出て左に曲がろうとしてふと道ばたの捨て石にけつまずいて、はっ[#「はっ」に傍点]と目がさめたようにあたりを見回した。やはり二十五の葉子である。いヽえ昔たしかに一度けつまずいた事があった。そう思って葉子は迷信家のようにもう一度振り返って捨て石を見た。その時に日は……やはり植物園の森のあのへんにあった。そして道の暗さもこのくらいだった。自分はその時、内田の奥さんに内田の悪口をいって、ペテロとキリストとの間に取りかわされた寛恕《かんじょ》に対する問答を例に引いた。いヽえ、それはきょうした事だった。きょう意味のない涙を奥さんがこぼしたように、その時も奥さんは意味のない涙をこぼした。その時にも自分は二十五……そんな事はない。そんな事のあろうはずがない……変な……。それにしてもあの捨て石には覚えがある。あれは昔からあすこにちゃん[#「ちゃん」に傍点]とあった。こう思い続けて来ると、葉子は、いつか母と遊びに来た時、何か怒《おこ》ってその捨て石にかじり付いて動かなかった事をまざまざと心に浮かべた。その時は大きな石だと思っていたのにこれんぼっちの石なのか。母が当惑して立った姿がはっきり目先に現われた。と思うとやがてその輪郭が輝き出して、目も向けられないほど耀《かがや》いたが、すっ[#「すっ」に傍点]と惜しげもなく消えてしまって、葉子は自分のからだが中有《ちゅうう》からどっしり[#「どっしり」に傍点]大地におり立ったような感じを受けた。同時に鼻血がどくどく口から顎《あご》を伝って胸の合わせ目をよごした。驚いてハンケチを袂《たもと》から探り出そうとした時、
 「どうかなさいましたか」
 という声に驚かされて、葉子は始めて自分のあとに人力車がついて来ていたのに気が付いた。見ると捨て石のある所はもう八九町後ろになっていた。
 「鼻血なの」
 と応《こた》えながら葉子は初めてのようにあたりを見た。そこには紺暖簾《こんのれん》を所せまくかけ渡した紙屋の小店があった。葉子は取りあえずそこにはいって、人目を避けながら顔を洗わしてもらおうとした。
 四十格好の克明《こくめい》らしい内儀《かみ》さんがわが事のように金盥《かなだらい》に水を移して持って来てくれた。葉子はそれで白粉気《おしろいけ》のない顔を思う存分に冷やした。そして少し人心地《ひとごこち》がついたので、帯の間から懐中鏡を取り出して顔を直そうとすると、鏡がいつのまにかま二つに破《わ》れていた。先刻けつまずいた拍子に破れたのかしらんと思ってみたが、それくらいで破れるはずはない。怒りに任せて胸がかっ[#「かっ」に傍点]となった時、破れたのだろうか。なんだかそうらしくも思えた。それともあすの船出の不吉を告げる何かの業《わざ》かもしれない。木村との行く末の破滅を知らせる悪い辻占《つじうら》かもしれない。またそう思うと葉子は襟元《えりもと》に凍った針でも刺されるように、ぞくぞくとわけのわからない身ぶるいをした。いったい自分はどうなって行くのだろう。葉子はこれまでの見窮められない不思議な自分の運命を思うにつけ、これから先の運命が空恐ろしく心に描かれた。葉子は不安な悒鬱《ゆううつ》な目つきをして店を見回した。帳場にすわり込んだ内儀《かみ》さんの膝《ひざ》にもたれて、七つほどの少女が、じっ[#「じっ」に傍点]と葉子の目を迎えて葉子を見つめていた。やせぎすで、痛々しいほど目の大きな、そのくせ黒目の小さな、青白い顔が、薄暗い店の奥から、香料や石鹸《せっけん》の香につつまれて、ぼんやり浮き出たように見えるのが、何か鏡の破《わ》れたのと縁でもあるらしくながめられた。葉子の心は全くふだんの落ち付きを失ってしまったようにわく[#「わく」に傍点]わくして、立ってもすわってもいられないようになった。ばかなと思いながらこわいものにでも追いすがられるようだった。
 しばらくの間《あいだ》葉子はこの奇怪な心の動揺のために店を立ち去る事もしないでたたずんでいたが、ふとどうにでもなれという捨てばちな気になって元気を取り直しながら、いくらかの礼をしてそこを出た。出るには出たが、もう車に乗る気にもなれなかった。これから定子に会いに行ってよそながら別れを惜しもうと思っていたその心組みさえ物憂《ものう》かった。定子に会ったところがどうなるものか。自分の事すら次の瞬間には取りとめもないものを、他人の事――それはよし自分の血を分けた大切な独子《ひとりご》であろうとも――などを考えるだけがばかな事だと思った。そしてもう一度そこの店から巻紙《まきがみ》を買って、硯箱《すずりばこ》を借りて、男恥ずかしい筆跡で、出発前にもう一度乳母を訪れるつもりだったが、それができなくなったから、この後とも定子をよろしく頼む。当座の費用として金を少し送っておくという意味を簡単にしたためて、永田から送ってよこした為替《かわせ》の金を封入して、その店を出た。そしていきなり[#「いきなり」に傍点]そこに待ち合わしていた人力車の上の膝掛《ひざか》けをはぐって、蹴込《けこ》みに打ち付けてある鑑札にしっかり[#「しっかり」に傍点]目を通しておいて、
 「わたしはこれから歩いて行くから、この手紙をここへ届けておくれ、返事はいらないのだから……お金ですよ、少しどっさり[#「どっさり」に傍点]あるから大事にしてね」
 と車夫にいいつけた。車夫はろくに見知りもないものに大金を渡して平気でいる女の顔を今さらのようにきょと[#「きょと」に傍点]きょとと見やりながら空俥《からぐるま》を引いて立ち去った。大八車《だいはちぐるま》が続けさまに田舎《いなか》に向いて帰って行く小石川の夕暮れの中を、葉子は傘《かさ》を杖《つえ》にしながら思いにふけって歩いて行った。
 こもった哀愁が、発しない酒のように、葉子のこめかみをちかちかと痛めた。葉子は人力車の行くえを見失っていた。そして自分ではまっすぐに釘店《くぎだな》のほうに急ぐつもりでいた。ところが実際は目に見えぬ力で人力車に結び付けられでもしたように、知らず知らず人力車の通ったとおりの道を歩いて、はっ[#「はっ」に傍点]と気がついた時にはいつのまにか、乳母が住む下谷《したや》池《いけ》の端《はた》の或《あ》る曲がり角《かど》に来て立っていた。
 そこで葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として立ちどまってしまった。短くなりまさった日は本郷《ほんごう》の高台に隠れて、往来には厨《くりや》の煙とも夕靄《ゆうもや》ともつかぬ薄い霧がただよって、街頭のランプの灯《ひ》がことに赤くちらほらちらほらとともっていた。通り慣れたこの界隈《かいわい》の空気は特別な親しみをもって葉子の皮膚をなでた。心よりも肉体のほうがよけいに定子のいる所にひき付けられるようにさえ思えた。葉子の口びるは暖かい桃の皮のような定子の頬《ほお》の膚ざわりにあこがれた。葉子の手はもうめれんす[#「めれんす」に傍点]の弾力のある軟《やわ》らかい触感を感じていた。葉子の膝《ひざ》はふうわり[#「ふうわり」に傍点]とした軽い重みを覚えていた。耳には子供のアクセントが焼き付いた。目には、曲がり角《かど》の朽ちかかった黒板塀《くろいたべい》を透《とお》して、木部から稟《う》けた笑窪《えくぼ》のできる笑顔《えがお》が否応なしに吸い付いて来た。……乳房はくすむったかった。葉子は思わず片頬に微笑を浮かべてあたりをぬすむように見回した。とちょうどそこを通りかかった内儀《かみ》さんが、何かを前掛けの下に隠しながらじっ[#「じっ」に傍点]と葉子の立ち姿を振り返ってまで見て通るのに気がついた。
 葉子は悪事でも働いていた人のように、急に笑顔を引っ込めてしまった。そしてこそ[#「こそ」に傍点]こそとそこを立ちのいて不忍《しのばず》の池《いけ》に出た。そして過去も未来も持たない人のように、池の端につくねん[#「つくねん」に傍点]と突っ立ったまま、池の中の蓮《はす》の実の一つに目を定めて、身動きもせずに小半時《こはんとき》立ち尽くしていた。

    八

 日の光がとっぷり[#「とっぷり」に傍点]と隠れてしまって、往来の灯《ひ》ばかりが足もとのたよりとなるころ、葉子は熱病患者のように濁りきった頭をもてあまして、車に揺られるたびごとに眉《まゆ》を痛々しくしかめながら、釘店《くぎだな》に帰って来た。
 玄関にはいろいろの足駄《あしだ》や靴《くつ》がならべてあったが、流行を作ろう、少なくとも流行に遅れまいというはなやかな心を誇るらしい履物《はきもの》といっては一つも見当たらなかった。自分の草履《ぞうり》を始末しながら、葉子はすぐに二階の客間の模様を想像して、自分のために親戚《しんせき》や知人が寄って別れを惜しむというその席に顔を出すのが、自分自身をばかにしきったことのようにしか思われなかった。こんなくらいなら定子の所にでもいるほうがよほどましだった。こんな事のあるはずだったのをどうしてまた忘れていたものだろう。どこにいるのもいやだ。木部の家を出て、二度とは帰るまいと決心した時のような心持ちで、拾いかけた草履をたたきに戻《もど》そうとしたその途端に、
 「ねえさんもういや……いや」
 といいながら、身を震わしてやにわに胸に抱きついて来て、乳の間のくぼみに顔を埋《うず》めながら、成人《おとな》のするような泣きじゃくり[#「じゃくり」に傍点]をして、
 「もう行っちゃいやですというのに」
 とからく[#「からく」に傍点]言葉を続けたのは貞世《さだよ》だった。葉子は石のように立ちすくんでしまった。貞世は朝からふきげんになってだれのいう事も耳には入れずに、自分の帰るのばかりを待ちこがれていたに違いないのだ。葉子は機械的に貞世に引っぱられて階子段《はしごだん》をのぼって行った。
 階子段をのぼりきって見ると客間はしん[#「しん」に傍点]としていて、五十川《いそがわ》女史の祈祷《きとう》の声だけがおごそかに聞こえていた。葉子と貞世とは恋人のように抱き合いながら、アーメンという声の一座の人々からあげられるのを待って室《へや》にはいった。列座の人々はまだ殊勝らしく頭をうなだれている中に、正座近くすえられた古藤《ことう》だけは昂然《こうぜん》と目を見開いて、襖《ふすま》をあけて葉子がしとやかにはいって来るのを見まもっていた。
 葉子は古藤にちょっと目で挨拶《あいさつ》をして置いて、貞世を抱いたまま末座に膝《ひざ》をついて、一同に遅刻のわびをしようとしていると、主人座にすわり込んでいる叔父《おじ》が、わが子でもたしなめるように威儀を作って、
 「なんたらおそい事じゃ。きょうはお前の送別会じゃぞい。……皆さんにいこうお待たせするがすまんから、今五十川さんに祈祷《きとう》をお頼み申して、箸《はし》を取っていただこうと思ったところであった……いったいどこを……」
 面と向かっては、葉子に口小言《くちこごと》一ついいきらぬ器量なしの叔父が、場所もおりもあろうにこんな場合に見せびらかしをしようとする。葉子はそっち[#「そっち」に傍点]に見向きもせず、叔父の言葉を全く無視した態度で急に晴れやかな色を顔に浮かべながら、
 「ようこそ皆様……おそくなりまして。つい行かなければならない所が二つ三つありましたもんですから……」
 とだれにともなくいっておいて、するすると立ち上がって、釘店《くぎだな》の往来に向いた大きな窓を後ろにした自分の席に着いて、妹の愛子と自分との間に割り込んで来る貞世の頭をなでながら、自分の上にばかり注がれる満座の視線を小うるさそうに払いのけた。そして片方の手でだいぶ乱れた鬢《びん》のほつれをかき上げて、葉子の視線は人もなげに古藤のほうに走った。
 「しばらくでしたのね……とうとう明朝《あした》になりましてよ。木村に持って行くものは、一緒にお持ちになって?……そう」
 と軽い調子でいったので、五十川女史と叔父とが切り出そうとした言葉は、物のみごとにさえぎられてしまった。葉子は古藤にそれだけの事をいうと、今度は当《とう》の敵ともいうべき五十川女史に振り向いて、
 「おばさま、きょう途中でそれはおかしな事がありましたのよ。こうなんですの」
 といいながら男女をあわせて八人ほど居ならんだ親類たちにずっと目を配って、
 「車で駆け通ったんですから前も後《あと》もよくはわからないんですけれども、大時計のかどの所を広小路《ひろこうじ》に出ようとしたら、そのかどにたいへんな人だかりですの。なんだと思って見てみますとね、禁酒会の大道演説で、大きな旗が二三本立っていて、急ごしらえのテーブルに突っ立って、夢中になって演説している人があるんですの。それだけなら何も別に珍しいという事はないんですけれども、その演説をしている人が……だれだとお思いになって……山脇《やまわき》さんですの」
 一同の顔には思わず知らず驚きの色が現われて、葉子の言葉に耳をそばだてていた。先刻しかつめらしい顔をした叔父《おじ》はもう白痴のように口をあけたままで薄笑いをもらしながら葉子を見つめていた。
 「それがまたね、いつものとおりに金時《きんとき》のように首筋までまっ赤《か》ですの。『諸君』とかなんとかいって大手を振り立ててしゃべっているのを、肝心《かんじん》の禁酒会員たちはあっけに取られて、黙ったまま引きさがって見ているんですから、見物人がわい[#「わい」に傍点]わいとおもしろがってたかっているのも全くもっともですわ。そのうちに、あ、叔父さん、箸《はし》をおつけになるように皆様におっしゃってくださいまし」
 叔父があわてて口の締まりをして仏頂面《ぶっちょうづら》に立ち返って、何かいおうとすると、葉子はまたそれには頓着《とんじゃく》なく五十川《いそがわ》女史のほうに向いて、
 「あの肩の凝《こ》りはすっかり[#「すっかり」に傍点]おなおりになりまして」
 といったので、五十川女史の答えようとする言葉と、叔父のいい出そうとする言葉は気まずくも鉢合《はちあ》わせになって、二人《ふたり》は所在なげに黙ってしまった。座敷は、底のほうに気持ちの悪い暗流を潜めながら造り笑いをし合っているような不快な気分に満たされた。葉子は「さあ来い」と胸の中で身構えをしていた。五十川女史のそばにすわって、神経質らしく眉《まゆ》をきらめかす中老の官吏は、射るようないまいましげな眼光を時々葉子に浴びせかけていたが、いたたまれない様子でちょっと居ずまいをなおすと、ぎくしゃく[#「ぎくしゃく」に傍点]した調子で口をきった。
 「葉子さん、あなたもいよいよ身のかたまる瀬戸ぎわまでこぎ付けたんだが……」
 葉子はすきを見せたら切り返すからといわんばかりな緊張した、同時に物を物ともしないふうでその男の目を迎えた。
 「何しろわたしども早月家《さつきけ》の親類に取ってはこんなめでたい事はまずない。無いには無いがこれからがあなたに頼み所だ。どうぞ一つわたしどもの顔を立てて、今度こそは立派な奥さんになっておもらいしたいがいかがです。木村君はわたしもよく知っとるが、信仰も堅いし、仕事も珍しくはき[#「はき」に傍点]はきできるし、若いに似合わぬ物のわかった仁《じん》だ。こんなことまで比較に持ち出すのはどうか知らないが、木部氏のような実行力の伴わない夢想家は、わたしなどは初めから不賛成だった。今度のはじたい[#「じたい」に傍点]段が違う。葉子さんが木部氏の所から逃げ帰って来た時には、わたしもけしからんといった実は一人《ひとり》だが、今になって見ると葉子さんはさすがに目が高かった。出て来ておいて誠によかった。いまに見なさい木村という仁なりゃ、立派に成功して、第一流の実業家に成り上がるにきまっている。これからはなんといっても信用と金だ。官界に出ないのなら、どうしても実業界に行かなければうそだ。擲身《てきしん》報国は官吏たるものの一特権だが、木村さんのようなまじめな信者にしこたま[#「しこたま」に傍点]金を造ってもらわんじゃ、神の道を日本に伝え広げるにしてからが容易な事じゃありませんよ。あなたも小さい時から米国に渡って新聞記者の修業をすると口ぐせのように妙な事をいったもんだが(ここで一座の人はなんの意味もなく高く笑った。おそらくはあまりしかつめらしい空気を打ち破って、なんとかそこに余裕《ゆとり》をつけるつもりが、みんなに起こったのだろうけれども、葉子にとってはそれがそうは響かなかった。その心持ちはわかっても、そんな事で葉子の心をはぐらかそうとする彼らの浅はかさがぐっ[#「ぐっ」に傍点]と癪《しゃく》にさわった)新聞記者はともかくも……じゃない、そんなものになられては困りきるが(ここで一座はまたわけもなくばからしく笑った)米国行きの願いはたしかにかなったのだ。葉子さんも御満足に違いなかろう。あとの事はわたしどもがたしかに引き受けたから心配は無用にして、身をしめて妹さん方《がた》のしめし[#「しめし」に傍点]にもなるほどの奮発を頼みます……えゝと、財産のほうの処分はわたしと田中さんとで間違いなく固めるし、愛子さんと貞世さんのお世話は、五十川《いそがわ》さん、あなたにお願いしようじゃありませんか、御迷惑ですが。いかがでしょう皆さん(そういって彼は一座を見渡した。あらかじめ申し合わせができていたらしく一同は待ち設けたようにうなずいて見せた)どうじゃろう葉子さん」
 葉子は乞食《こじき》の嘆願を聞く女王のような心持ちで、○○局長といわれるこの男のいう事を聞いていたが、財産の事などはどうでもいいとして、妹たちの事が話題に上るとともに、五十川女史を向こうに回して詰問のような対話を始めた。なんといっても五十川女史はその晩そこに集まった人々の中ではいちばん年配でもあったし、いちばんはばかられているのを葉子は知っていた。五十川女史が四角を思い出させるような頑丈《がんじょう》な骨組みで、がっしり[#「がっしり」に傍点]と正座に居直って、葉子を子供あしらいにしようとするのを見て取ると、葉子の心は逸《はや》り熱した。
 「いゝえ、わがままだとばかりお思いになっては困ります。わたしは御承知のような生まれでございますし、これまでもたびたび御心配かけて来ておりますから、人様《ひとさま》同様に見ていただこうとはこれっぱかりも思ってはおりません」
 といって葉子は指の間になぶっていた楊枝《ようじ》を老女史の前にふい[#「ふい」に傍点]と投げた。
 「しかし愛子も貞世も妹でございます。現在わたしの妹でございます。口幅ったいと思《おぼ》し召《め》すかもしれませんが、この二人《ふたり》だけはわたしたとい米国におりましても立派に手塩にかけて御覧にいれますから、どうかお構いなさらずにくださいまし。それは赤坂《あかさか》学院も立派な学校には違いございますまい。現在私もおばさまのお世話であすこで育てていただいたのですから、悪くは申したくはございませんが、わたしのような人間が、皆様のお気に入らないとすれば……それは生まれつきもございましょうとも、ございましょうけれども、わたしを育て上げたのはあの学校でございますからねえ。何しろ現在いて見た上で、わたしこの二人をあすこに入れる気にはなれません。女というものをあの学校ではいったいなんと見ているのでござんすかしらん……」
 こういっているうちに葉子の心には火のような回想の憤怒が燃え上がった。葉子はその学校の寄宿舎で一個の中性動物として取り扱われたのを忘れる事ができない。やさしく、愛らしく、しおらしく、生まれたままの美しい好意と欲念との命ずるままに、おぼろげながら神というものを恋しかけた十二三歳ごろの葉子に、学校は祈祷《きとう》と、節欲と、殺情とを強制的にたたき込もうとした。十四の夏が秋に移ろうとしたころ、葉子はふと思い立って、美しい四寸幅ほどの角帯《かくおび》のようなものを絹糸で編みはじめた。藍《あい》の地《じ》に白で十字架と日月とをあしらった模様だった。物事にふけりやすい葉子は身も魂も打ち込んでその仕事に夢中になった。それを造り上げた上でどうして神様の御手に届けよう、というような事はもとより考えもせずに、早く造り上げてお喜ばせ申そうとのみあせって、しまいには夜の目もろくろく合わさなくなった。二週間に余る苦心の末にそれはあらかた[#「あらかた」に傍点]でき上がった。藍の地に簡単に白で模様を抜くだけならさしたる事でもないが、葉子は他人のまだしなかった試みを加えようとして、模様の周囲に藍と白とを組み合わせにした小さな笹縁《ささべり》のようなものを浮き上げて編み込んだり、ひどく伸び縮みがして模様が歪形《いびつ》にならないように、目立たないようにカタン糸を編み込んで見たりした。出来上がりが近づくと葉子は片時《かたとき》も編み針を休めてはいられなかった。ある時聖書の講義の講座でそっ[#「そっ」に傍点]と机の下で仕事を続けていると、運悪くも教師に見つけられた。教師はしきりにその用途を問いただしたが、恥じやすい乙女心《おとめごころ》にどうしてこの夢よりもはかない目論見《もくろみ》を白状する事ができよう。教師はその帯の色合いから推《お》して、それは男向きの品物に違いないと決めてしまった。そして葉子の心は早熟の恋を追うものだと断定した。そして恋というものを生来知らぬげな四十五六の醜い容貌《ようぼう》の舎監は、葉子を監禁同様にして置いて、暇さえあればその帯の持ち主たるべき人の名を迫り問うた。
 葉子はふと心の目を開いた。そしてその心はそれ以来峰から峰を飛んだ。十五の春には葉子はもう十も年上な立派な恋人を持っていた。葉子はその青年を思うさま翻弄《ほんろう》した。青年はまもなく自殺同様な死に方をした。一度生血の味をしめた虎《とら》の子のような渇欲が葉子の心を打ちのめすようになったのはそれからの事である。
 「古藤さん愛と貞とはあなたに願いますわ。だれがどんな事をいおうと、赤坂学院には入れないでくださいまし。私きのう田島《たじま》さんの塾《じゅく》に行って、田島さんにお会い申してよくお頼みして来ましたから、少し片付いたらはばかりさまですがあなた御自身で二人《ふたり》を連れていらしってください。愛さんも貞ちゃんもわかりましたろう。田島さんの塾にはいるとね、ねえさんと一緒にいた時のようなわけには行きませんよ……」
 「ねえさんてば……自分でばかり物をおっしゃって」
 といきなり[#「いきなり」に傍点]恨めしそうに、貞世は姉の膝《ひざ》をゆすりながらその言葉をさえぎった。
 「さっきからなんど書いたかわからないのに平気でほんとにひどいわ」
 一座の人々から妙な子だというふうにながめられているのにも頓着《とんじゃく》なく、貞世は姉のほうに向いて膝の上にしなだれかかりながら、姉の左手を長い袖《そで》の下に入れて、その手のひらに食指で仮名を一字ずつ書いて手のひらで拭《ふ》き消すようにした。葉子は黙って、書いては消し書いては消しする字をたどって見ると、
 「ネーサマハイイコダカラ『アメリカ』ニイツテハイケマセンヨヨヨヨ」
 と読まれた。葉子の胸はわれ知らず熱くなったが、しいて笑いにまぎらしながら、
 「まあ聞きわけのない子だこと、しかたがない。今になってそんな事をいったってしかたがないじゃないの」
 とたしなめ諭《さと》すようにいうと、
 「しかたがあるわ」
 と貞世は大きな目で姉を見上げながら、
 「お嫁に行かなければよろしいじゃないの」
 といって、くるり[#「くるり」に傍点]と首を回して一同を見渡した。貞世のかわいい目は「そうでしょう」と訴えているように見えた。それを見ると一同はただなんという事もなく思いやりのない笑いかたをした。叔父《おじ》はことに大きなとんきょ[#「とんきょ」に傍点]な声で高々と笑った。先刻から黙ったままでうつむいてさびしくすわっていた愛子は、沈んだ恨めしそうな目でじっ[#「じっ」に傍点]と叔父をにらめたと思うと、たちまちわくように涙をほろほろと流して、それを両袖でぬぐいもやらず立ち上がってその部屋《へや》をかけ出した。階子段《はしごだん》の所でちょうど下から上がって来た叔母と行きあったけはいがして、二人《ふたり》が何かいい争うらしい声が聞こえて来た。
 一座はまた白《しら》け渡った。
 「叔父さんにも申し上げておきます」
 と沈黙を破った葉子の声が妙に殺気を帯びて響いた。
 「これまで何かとお世話様になってありがとうこざいましたけれども、この家もたたんでしまう事になれば、妹たちも今申したとおり塾《じゅく》に入れてしまいますし、この後はこれといって大して御厄介《ごやっかい》はかけないつもりでございます。赤の他人の古藤さんにこんな事を願ってはほんとうにすみませんけれども、木村の親友でいらっしゃるのですから、近い他人ですわね。古藤さん、あなた貧乏|籤《くじ》を背負い込んだと思《おぼ》し召《め》して、どうか二人《ふたり》を見てやってくださいましな。いいでしょう。こう親類の前ではっきり[#「はっきり」に傍点]申しておきますから、ちっとも御遠慮なさらずに、いいとお思いになったようになさってくださいまし。あちらへ着いたらわたしまたきっとどうともいたしますから。きっとそんなに長い間御迷惑はかけませんから。いかが、引き受けてくださいまして?」
 古藤は少し躊躇《ちゅうちょ》するふうで五十川《いそがわ》女史を見やりながら、
 「あなたはさっきから赤坂学院のほうがいいとおっしゃるように伺っていますが、葉子さんのいわれるとおりにしてさしつかえないのですか。念のために伺っておきたいのですが」
 と尋ねた。葉子はまたあんなよけいな事をいうと思いながらいらいらした。五十川女史は日ごろの円滑な人ずれのした調子に似ず、何かひどく激昂《げきこう》した様子で、
 「わたしは亡《な》くなった親佐《おやさ》さんのお考えはこうもあろうかと思った所を申したまでですから、それを葉子さんが悪いとおっしゃるなら、その上とやかく言いともないのですが、親佐さんは堅い昔風な信仰を持った方《かた》ですから、田島さんの塾は前からきらいでね……よろしゅうございましょう、そうなされば。わたしはとにかく赤坂学院が一番だとどこまでも思っとるだけです」
 といいながら、見下げるように葉子の胸のあたりをまじまじとながめた。葉子は貞世を抱いたまましゃん[#「しゃん」に傍点]と胸をそらして目の前の壁のほうに顔を向けていた、たとえばばら[#「ばら」に傍点]ばらと投げられるつぶて[#「つぶて」に傍点]を避けようともせずに突っ立つ人のように。
 古藤は何か自分|一人《ひとり》で合点したと思うと、堅く腕組みをしてこれも自分の前の目八|分《ぶ》の所をじっ[#「じっ」に傍点]と見つめた。
 一座の気分はほとほと動きが取れなくなった。その間でいちばん早くきげんを直して相好《そうごう》を変えたのは五十川《いそがわ》女史だった。子供を相手にして腹を立てた、それを年がいないとでも思ったように、気を変えてきさく[#「きさく」に傍点]に立ちじたくをしながら、
 「皆さんいかが、もうお暇《いとま》にいたしましたら……お別れする前にもう一度お祈りをして」
 「お祈りをわたしのようなもののためになさってくださるのは御無用に願います」
 葉子は和らぎかけた人々の気分にはさらに頓着《とんじゃく》なく、壁に向けていた目を貞世に落として、いつのまにか寝入ったその人の艶々《つやつや》しい顔をなでさすりながらきっぱり[#「きっぱり」に傍点]といい放った。
 人々は思い思いな別れを告げて帰って行った。葉子は貞世がいつのまにか膝《ひざ》の上に寝てしまったのを口実にして人々を見送りには立たなかった。
 最後の客が帰って行ったあとでも、叔父叔母《おじおば》は二階を片づけには上がってこなかった。挨拶《あいさつ》一つしようともしなかった。葉子は窓のほうに頭を向けて、煉瓦《れんが》の通りの上にぼうっ[#「ぼうっ」に傍点]と立つ灯《ひ》の照り返しを見やりながら、夜風にほてった顔を冷やさせて、貞世を抱いたまま黙ってすわり続けていた。間遠《まどお》に日本橋を渡る鉄道馬車の音が聞こえるばかりで、釘店《くぎだな》の人通りは寂しいほどまばらになっていた。
 姿は見せずに、どこかのすみで愛子がまだ泣き続けて鼻をかんだりする音が聞こえていた。
 「愛さん……貞《さあ》ちゃんが寝ましたからね、ちょっとお床を敷いてやってちょうだいな」
 われながら驚くほどやさしく愛子に口をきく自分を葉子は見いだした。性《しょう》が合わないというのか、気が合わないというのか、ふだん愛子の顔さえ見れば葉子の気分はくずされてしまうのだった。愛子が何事につけても猫《ねこ》のように従順で少しも情というものを見せないのがことさら憎かった。しかしその夜だけは不思議にもやさしい口をきいた。葉子はそれを意外に思った。愛子がいつものように素直《すなお》に立ち上がって、洟《はな》をすすりながら黙って床を取っている間に、葉子はおりおり往来のほうから振り返って、愛子のしとやかな足音や、綿を薄く入れた夏ぶとんの畳に触れるささやかな音を見入りでもするようにそのほうに目を定めた。そうかと思うとまた今さらのように、食い荒らされた食物や、敷いたままになっている座ぶとんのきたならしく散らかった客間をまじまじと見渡した。父の書棚《しょだな》のあった部分の壁だけが四角に濃い色をしていた。そのすぐそばに西洋暦が昔のままにかけてあった。七月十六日から先ははがされずに残っていた。
 「ねえさま敷けました」
 しばらくしてから、愛子がこうかすかに隣でいった。葉子は、
 「そう御苦労さまよ」
 とまたしとやかに応《こた》えながら、貞世を抱きかかえて立ち上がろうとすると、また頭がぐらぐらッとして、おびただしい鼻血が貞世の胸の合わせ目に流れ落ちた。


    九

 底光りのする雲母色《きららいろ》の雨雲が縫い目なしにどんより[#「どんより」に傍点]と重く空いっぱいにはだかって、本牧《ほんもく》の沖合いまで東京湾の海は物すごいような草色に、小さく波の立ち騒ぐ九月二十五日の午後であった。きのうの風が凪《な》いでから、気温は急に夏らしい蒸し暑さに返って、横浜の市街は、疫病にかかって弱りきった労働者が、そぼふる雨の中にぐったりとあえいでいるように見えた。
 靴《くつ》の先で甲板《かんばん》をこつ[#「こつ」に傍点]こつとたたいて、うつむいてそれをながめながら、帯の間に手をさし込んで、木村への伝言を古藤はひとり言《ごと》のように葉子にいった。葉子はそれに耳を傾けるような様子はしていたけれども、ほんとうはさして注意もせずに、ちょうど自分の目の前に、たくさんの見送り人に囲まれて、応接に暇《いとま》もなげな田川法学|博士《はかせ》の目じりの下がった顔と、その夫人のやせぎすな肩との描く微細な感情の表現を、批評家のような心で鋭くながめやっていた。かなり広いプロメネード・デッキは田川家の家族と見送り人とで縁日のようににぎわっていた。葉子の見送りに来たはずの五十川《いそがわ》女史は先刻から田川夫人のそばに付ききって、世話好きな、人のよい叔母《おば》さんというような態度で、見送り人の半分がたを自身で引き受けて挨拶《あいさつ》していた。葉子のほうへは見向こうとする模様もなかった。葉子の叔母は葉子から二三|間《げん》離れた所に、蜘蛛《くも》のような白痴の子を小婢《こおんな》に背負わして、自分は葉子から預かった手鞄《てかばん》と袱紗《ふくさ》包みとを取り落とさんばかりにぶら下げたまま、花々しい田川家の家族や見送り人の群れを見てあっけに取られていた。葉子の乳母《うば》は、どんな大きな船でも船は船だというようにひどく臆病《おくびょう》そうな青い顔つきをして、サルンの入り口の戸の陰にたたずみながら、四角にたたんだ手ぬぐいをまっ赤《か》になった目の所に絶えず押しあてては、ぬすみ見るように葉子を見やっていた。その他の人々はじみ[#「じみ」に傍点]な一団になって、田川家の威光に圧せられたようにすみのほうにかたまっていた。
 葉子はかねて五十川女史から、田川夫婦が同船するから船の中で紹介してやるといい聞かせられていた。田川といえば、法曹界《ほうそうかい》ではかなり名の聞こえた割合に、どこといって取りとめた特色もない政客ではあるが、その人の名はむしろ夫人のうわさのために世人の記憶にあざやかであった。感受力の鋭敏なそしてなんらかの意味で自分の敵に回さなければならない人に対してことに注意深い葉子の頭には、その夫人の面影《おもかげ》は長い事宿題として考えられていた。葉子の頭に描かれた夫人は我《が》の強い、情の恣《ほしい》ままな、野心の深い割合に手練《タクト》の露骨《ろこつ》な、良人《おっと》を軽く見てややともすると笠《かさ》にかかりながら、それでいて良人から独立する事の到底できない、いわば心《しん》の弱い強がり家《や》ではないかしらんというのだった。葉子は今後ろ向きになった田川夫人の肩の様子を一目見たばかりで、辞書でも繰り当てたように、自分の想像の裏書きをされたのを胸の中でほほえまずにはいられなかった。
 「なんだか話が混雑したようだけれども、それだけいって置いてください」
 ふと葉子は幻想《レェリー》から破れて、古藤のいうこれだけの言葉を捕えた。そして今まで古藤の口から出た伝言の文句はたいてい聞きもらしていたくせに、空々《そらぞら》しげにもなくしんみり[#「しんみり」に傍点]とした様子で、
 「確かに……けれどもあなたあとから手紙ででも詳しく書いてやってくださいましね。間違いでもしているとたいへんですから」
 と古藤をのぞき込むようにしていった。古藤は思わず笑いをもらしながら、「間違うとたいへんですから」という言葉を、時おり葉子の口から聞くチャームに満ちた子供らしい言葉の一つとでも思っているらしかった。そして、
 「何、間違ったって大事はないけれども……だが手紙は書いて、あなたの寝床《バース》の枕《まくら》の下に置いときましたから、部屋《へや》に行ったらどこにでもしまっておいてください。それから、それと一緒にもう一つ……」
 といいかけたが、
 「何しろ忘れずに枕の下を見てください」
 この時突然「田川法学|博士《はかせ》万歳」という大きな声が、桟橋《さんばし》からデッキまでどよみ渡って聞こえて来た。葉子と古藤とは話の腰を折られて互いに不快な顔をしながら、手欄《てすり》から下のほうをのぞいて見ると、すぐ目の下に、そのころ人の少し集まる所にはどこにでも顔を出す轟《とどろき》という剣舞の師匠だか撃剣の師匠だかする頑丈《がんじょう》な男が、大きな五つ紋の黒羽織《くろばおり》に白っぽい鰹魚縞《かつおじま》の袴《はかま》をはいて、桟橋の板を朴《ほお》の木下駄《きげた》で踏み鳴らしながら、ここを先途《せんど》とわめいていた。その声に応じて、デッキまではのぼって来ない壮士|体《てい》の政客や某私立政治学校の生徒が一斉《いっせい》に万歳を繰り返した。デッキの上の外国船客は物珍しさにいち早く、葉子がよりかかっている手欄《てすり》のほうに押し寄せて来たので、葉子は古藤を促して、急いで手欄の折れ曲がったかどに身を引いた。田川夫婦もほほえみながら、サルンから挨拶《あいさつ》のために近づいて来た。葉子はそれを見ると、古藤のそばに寄り添ったまま、左手をやさしく上げて、鬢《びん》のほつれをかき上げながら、頭を心持ち左にかしげてじっ[#「じっ」に傍点]と田川の目を見やった。田川は桟橋のほうに気を取られて急ぎ足で手欄《てすり》のほうに歩いていたが、突然見えぬ力にぐっ[#「ぐっ」に傍点]と引きつけられたように、葉子のほうに振り向いた。
 田川夫人も思わず良人《おっと》の向くほうに頭を向けた。田川の威厳に乏しい目にも鋭い光がきらめいては消え、さらにきらめいて消えたのを見すまして、葉子は始めて田川夫人の目を迎えた。額の狭い、顎《あご》の固い夫人の顔は、軽蔑《けいべつ》と猜疑《さいぎ》の色をみなぎらして葉子に向かった。葉子は、名前だけをかねてから聞き知って慕っていた人を、今目の前に見たように、うやうやしさと親しみとの交じり合った表情でこれに応じた。そしてすぐそのばから、夫人の前にも頓着《とんじゃく》なく、誘惑のひとみを凝らしてその良人の横顔をじっ[#「じっ」に傍点]と見やるのだった。
 「田川法学|博士《はかせ》夫人万歳」「万歳」「万歳」
 田川その人に対してよりもさらに声高《こわだか》な大歓呼が、桟橋にいて傘《かさ》を振り帽子を動かす人々の群れから起こった。田川夫人は忙《せわ》しく葉子から目を移して、群集に取っときの笑顔《えがお》を見せながら、レースで笹縁《ささべり》を取ったハンケチを振らねばならなかった。田川のすぐそばに立って、胸に何か赤い花をさして型のいいフロック・コートを着て、ほほえんでいた風流な若紳士は、桟橋の歓呼を引き取って、田川夫人の面前で帽子を高くあげて万歳を叫んだ。デッキの上はまた一しきりどよめき渡った。
 やがて甲板の上は、こんな騒ぎのほかになんとなく忙《せわ》しくなって来た。事務員や水夫たちが、物せわしそうに人中を縫うてあちこちする間に、手を取り合わんばかりに近よって別れを惜しむ人々の群れがここにもかしこにも見え始めた。サルン・デッキから見ると、三等客の見送り人がボーイ長にせき立てられて、続々|舷門《げんもん》から降り始めた。それと入れ代わりに、帽子、上着、ズボン、ネクタイ、靴《くつ》などの調和の少しも取れていないくせに、むやみに気取った洋装をした非番の下級船員たちが、ぬれた傘《かさ》を光らしながら駆けこんで来た。その騒ぎの間に、一種|生臭《なまぐさ》いような暖かい蒸気が甲板の人を取り巻いて、フォクスルのほうで、今までやかましく荷物をまき上げていた扛重機《クレーン》の音が突然やむと、かーんとするほど人々の耳はかえって遠くなった。隔たった所から互いに呼びかわす水夫らの高い声は、この船にどんな大危険でも起こったかと思わせるような不安をまき散らした。親しい間の人たちは別れの切《せつ》なさに心がわくわくしてろくに口もきかず、義理一ぺんの見送り人は、ややともするとまわりに気が取られて見送るべき人を見失う。そんなあわただしい抜錨《ばつびょう》の間ぎわになった。葉子の前にも、急にいろいろな人が寄り集まって来て、思い思いに別れの言葉を残して船を降り始めた。葉子はこんな混雑な間にも田川のひとみが時々自分に向けられるのを意識して、そのひとみを驚かすようななまめいたポーズや、たよりなげな表情を見せるのを忘れないで、言葉少なにそれらの人に挨拶《あいさつ》した。叔父《おじ》と叔母《おば》とは墓の穴まで無事に棺を運んだ人夫のように、通り一ぺんの事をいうと、預かり物を葉子に渡して、手の塵《ちり》をはたかんばかりにすげなく、まっ先に舷梯《げんてい》を降りて行った。葉子はちらっ[#「ちらっ」に傍点]と叔母の後ろ姿を見送って驚いた。今の今までどことて似通う所の見えなかった叔母も、その姉なる葉子の母の着物を帯まで借りて着込んでいるのを見ると、はっ[#「はっ」に傍点]と思うほどその姉にそっくり[#「そっくり」に傍点]だった。葉子はなんという事なしにいやな心持ちがした。そしてこんな緊張した場合にこんなちょっとした事にまでこだわる自分を妙に思った。そう思う間《ま》もあらせず、今度は親類の人たちが五六人ずつ、口々に小やかましく何かいって、あわれむような妬《ねた》むような目つきを投げ与えながら、幻影のように葉子の目と記憶とから消えて行った。丸髷《まるまげ》に結ったり教師らしい地味《じみ》な束髪に上げたりしている四人の学校友だちも、今は葉子とはかけ隔たった境界《きょうがい》の言葉づかいをして、昔葉子に誓った言葉などは忘れてしまった裏切り者の空々《そらぞら》しい涙を見せたりして、雨にぬらすまいと袂《たもと》を大事にかばいながら、傘にかくれてこれも舷梯《げんてい》を消えて行ってしまった。最後に物おじする様子の乳母《うば》が葉子の前に来て腰をかがめた。葉子はとうとう行き詰まる所まで来たような思いをしながら、振り返って古藤を見ると、古藤は依然として手欄《てすり》に身を寄せたまま、気抜けでもしたように、目を据えて自分の二三|間《げん》先をぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]ながめていた。
 「義一さん、船の出るのも間《ま》が無さそうですからどうか此女《これ》……わたしの乳母ですの……の手を引いておろしてやってくださいましな。すべりでもすると怖《こお》うござんすから」
 と葉子にいわれて古藤は始めてわれに返った。そしてひとり言《ごと》のように、
 「この船で僕もアメリカに行って見たいなあ」
 とのんきな事をいった。
 「どうか桟橋まで見てやってくださいましね。あなたもそのうちぜひいらっしゃいましな……義一さんそれではこれでお別れ。ほんとうに、ほんとうに」
 といいながら葉子はなんとなく親しみをいちばん深くこの青年に感じて、大きな目で古藤をじっと見た。古藤も今さらのように葉子をじっと見た。
 「お礼の申しようもありません。この上のお願いです。どうぞ妹たちを見てやってくださいまし。あんな人たちにはどうしたって頼んではおけませんから。……さようなら」
 「さようなら」
 古藤は鸚鵡返《おうむがえ》しに没義道《もぎどう》にこれだけいって、ふいと手欄《てすり》を離れて、麦稈《むぎわら》帽子を目深《まぶか》にかぶりながら、乳母に付き添った。
 葉子は階子《はしご》の上がり口まで行って二人に傘《かさ》をかざしてやって、一段一段遠ざかって行く二人《ふたり》の姿を見送った。東京で別れを告げた愛子や貞世の姿が、雨にぬれた傘のへんを幻影となって見えたり隠れたりしたように思った。葉子は不思議な心の執着から定子にはとうとう会わないでしまった。愛子と貞世とはぜひ見送りがしたいというのを、葉子はしかりつけるようにいってとめてしまった。葉子が人力車で家を出ようとすると、なんの気なしに愛子が前髪から抜いて鬢《びん》をかこうとした櫛《くし》が、もろくもぽきり[#「ぽきり」に傍点]と折れた。それを見ると愛子は堪《こら》え堪えていた涙の堰《せき》を切って声を立てて泣き出した。貞世は初めから腹でも立てたように、燃えるような目からとめどなく涙を流して、じっ[#「じっ」に傍点]と葉子を見つめてばかりいた。そんな痛々しい様子がその時まざまざと葉子の目の前にちらついたのだ。一人《ひとり》ぽっちで遠い旅に鹿島立《かしまだ》って行く自分というものがあじきなくも思いやられた。そんな心持ちになると忙《せわ》しい間にも葉子はふと田川のほうを振り向いて見た。中学校の制服を着た二人の少年と、髪をお下げにして、帯をおはさみ[#「おはさみ」に傍点]にしめた少女とが、田川と夫人との間にからまってちょうど告別をしているところだった。付き添いの守《も》りの女が少女を抱き上げて、田川夫人の口びるをその額に受けさしていた。葉子はそんな場面を見せつけられると、他人事《ひとごと》ながら自分が皮肉でむちうたれるように思った。竜《りゅう》をも化して牝豚《めぶた》にするのは母となる事だ。今の今まで焼くように定子の事を思っていた葉子は、田川夫人に対してすっかり反対の事を考えた。葉子はそのいまいましい光景から目を移して舷梯《げんてい》のほうを見た。しかしそこにはもう乳母の姿も古藤の影もなかった。
 たちまち船首のほうからけたたましい銅鑼《どら》の音が響き始めた。船の上下は最後のどよめきに揺らぐように見えた。長い綱を引きずって行く水夫が帽子の落ちそうになるのを右の手でささえながら、あたりの空気に激しい動揺を起こすほどの勢いで急いで葉子のかたわらを通りぬけた。見送り人は一斉《いっせい》に帽子を脱いで舷梯のほうに集まって行った。その際になって五十川女史ははた[#「はた」に傍点]と葉子の事を思い出したらしく、田川夫人に何かいっておいて葉子のいる所にやって来た。
 「いよいよお別れになったが、いつぞやお話しした田川の奥さんにおひきあわせしようからちょっと」
 葉子は五十川女史の親切ぶりの犠牲になるのを承知しつつ、一種の好奇心にひかされて、そのあとについて行こうとした。葉子に初めて物をいう田川の態度も見てやりたかった。その時、
 「葉子さん」
 と突然いって、葉子の肩に手をかけたものがあった。振り返るとビールの酔いのにおいがむせかえるように葉子の鼻を打って、目の心《しん》まで紅《あか》くなった知らない若者の顔が、近々と鼻先にあらわれていた。はっ[#「はっ」に傍点]と身を引く暇もなく、葉子の肩はびしょぬれになった酔いどれの腕でがっしりと巻かれていた。
 「葉子さん、覚えていますかわたしを……あなたはわたしの命なんだ。命なんです」
 といううちにも、その目からはほろほろと煮えるような涙が流れて、まだうら若いなめらかな頬《ほお》を伝った。膝《ひざ》から下がふらつくのを葉子にすがって危うくささえながら、
 「結婚をなさるんですか……おめでとう……おめでとう……だがあなたが日本にいなくなると思うと……いたたまれないほど心細いんだ……わたしは……」
 もう声さえ続かなかった。そして深々と息気《いき》をひいてしゃくり上げながら、葉子の肩に顔を伏せてさめざめと男泣きに泣き出した。
 この不意な出来事はさすがに葉子を驚かしもし、きまりも悪くさせた。だれだとも、いつどこであったとも思い出す由がない。木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、82-8]《きべこきょう》と別れてから、何という事なしに捨てばちな心地《ここち》になって、だれかれの差別もなく近寄って来る男たちに対して勝手気ままを振る舞ったその間に、偶然に出あって偶然に別れた人の中の一人《ひとり》でもあろうか。浅い心でもてあそんで行った心の中にこの男の心もあったであろうか。とにかく葉子には少しも思い当たる節《ふし》がなかった。葉子はその男から離れたい一心に、手に持った手鞄《てかばん》と包み物とを甲板の上にほうりなげて、若者の手をやさしく振りほどこうとして見たが無益だった。親類や朋輩《ほうばい》たちの事あれがしな目が等しく葉子に注がれているのを葉子は痛いほど身に感じていた。と同時に、男の涙が薄い単衣《ひとえ》の目を透《とお》して、葉子の膚にしみこんで来るのを感じた。乱れたつやつやしい髪のにおいもつい鼻の先で葉子の心を動かそうとした。恥も外聞も忘れ果てて、大空の下ですすり泣く男の姿を見ていると、そこにはかすかな誇りのような気持ちがわいて来た。不思議な憎しみといとしさがこんがらかって葉子の心の中で渦巻《うずま》いた。葉子は、
 「さ、もう放してくださいまし、船が出ますから」
 ときびしくいって置いて、かんで含めるように、
 「だれでも生きてる間は心細く暮らすんですのよ」
 とその耳もとにささやいて見た。若者はよくわかったというふうに深々とうなずいた。しかし葉子を抱く手はきびしく震えこそすれ、ゆるみそうな様子は少しも見えなかった。
 物々しい銅鑼《どら》の響きは左舷から右舷に回って、また船首のほうに聞こえて行こうとしていた。船員も乗客も申し合わしたように葉子のほうを見守っていた。先刻から手持ちぶさたそうにただ立って成り行きを見ていた五十川女史は思いきって近寄って来て、若者を葉子から引き離そうとしたが、若者はむずかる子供のように地だんだ[#「だんだ」に傍点]を踏んでますます葉子に寄り添うばかりだった。船首のほうに群がって仕事をしながら、この様子を見守っていた水夫たちは一斉《いっせい》に高く笑い声を立てた。そしてその中の一人はわざと船じゅうに聞こえ渡るようなくさめをした。抜錨《ばつびょう》の時刻は一秒一秒に逼《せま》っていた。物笑いの的《まと》になっている、そう思うと葉子の心はいとしさから激しいいとわしさに変わって行った。
 「さ、お放しください、さ」
 ときわめて冷酷にいって、葉子は助けを求めるようにあたりを見回した。
 田川博士のそばにいて何か話をしていた一人の大兵《たいひょう》な船員がいたが、葉子の当惑しきった様子を見ると、いきなり大股《おおまた》に近づいて来て、
 「どれ、わたしが下までお連れしましょう」
 というや否や、葉子の返事も待たずに若者を事もなく抱きすくめた。若者はこの乱暴にかっ[#「かっ」に傍点]となって怒り狂ったが、その船員は小さな荷物でも扱うように、若者の胴のあたりを右わきにかいこんで、やすやすと舷梯《げんてい》を降りて行った。五十川女史はあたふた[#「あたふた」に傍点]と葉子に挨拶《あいさつ》もせずにそのあとに続いた。しばらくすると若者は桟橋の群集の間に船員の手からおろされた。
 けたたましい汽笛が突然鳴りはためいた。田川夫妻の見送り人たちはこの声で活を入れられたようになって、どよめき渡りながら、田川夫妻の万歳をもう一度繰り返した。若者を桟橋に連れて行った、かの巨大な船員は、大きな体躯《たいく》を猿《ましら》のように軽くもてあつかって、音も立てずに桟橋からずしずしと離れて行く船の上にただ一条の綱を伝って上がって来た。人々はまたその早業《はやわざ》に驚いて目を見張った。
 葉子の目は怒気を含んで手欄《てすり》からしばらくの間かの若者を見据えていた。若者は狂気のように両手を広げて船に駆け寄ろうとするのを、近所に居合わせた三四人の人があわてて引き留める、それをまたすり抜けようとして組み伏せられてしまった。若者は組み伏せられたまま左の腕を口にあてがって思いきりかみしばりながら泣き沈んだ。その牛のうめき声のような泣き声が気疎《けうと》く船の上まで聞こえて来た。見送り人は思わず鳴りを静めてこの狂暴な若者に目を注いだ。葉子も葉子で、姿も隠さず手欄《てすり》に片手をかけたまま突っ立って、同じくこの若者を見据えていた。といって葉子はその若者の上ばかりを思っているのではなかった。自分でも不思議だと思うような、うつろな余裕がそこにはあった。古藤が若者のほうには目もくれずにじっ[#「じっ」に傍点]と足もとを見つめているのにも気が付いていた。死んだ姉の晴れ着を借り着していい心地《ここち》になっているような叔母《おば》の姿も目に映っていた。船のほうに後ろを向けて(おそらくそれは悲しみからばかりではなかったろう。その若者の挙動が老いた心をひしいだに違いない)手ぬぐいをしっかり[#「しっかり」に傍点]と両眼にあてている乳母《うば》も見のがしてはいなかった。
 いつのまに動いたともなく船は桟橋から遠ざかっていた。人の群れが黒蟻《くろあり》のように集まったそこの光景は、葉子の目の前にひらけて行く大きな港の景色の中景になるまでに小さくなって行った。葉子の目は葉子自身にも疑われるような事をしていた。その目は小さくなった人影の中から乳母の姿を探り出そうとせず、一種のなつかしみを持つ横浜の市街を見納めにながめようとせず、凝然として小さくうずくまる若者ののらしい黒点を見つめていた。若者の叫ぶ声が、桟橋の上で打ち振るハンケチの時々ぎら[#「ぎら」に傍点]ぎらと光るごとに、葉子の頭の上に張り渡された雨よけの帆布《ほぬの》の端《はし》から余滴《したたり》がぽつり[#「ぽつり」に傍点]ぽつりと葉子の顔を打つたびに、断続して聞こえて来るように思われた。
 「葉子さん、あなたは私を見殺しにするんですか……見殺しにするん……」

    一〇

 始めての旅客も物慣れた旅客も、抜錨《ばつびょう》したばかりの船の甲板に立っては、落ち付いた心でいる事ができないようだった。跡始末のために忙《せわ》しく右往左往する船員の邪魔になりながら、何がなしの興奮にじっ[#「じっ」に傍点]としてはいられないような顔つきをして、乗客は一人《ひとり》残らず甲板に集まって、今まで自分たちがそば近く見ていた桟橋のほうに目を向けていた。葉子もその様子だけでいうと、他の乗客と同じように見えた。葉子は他の乗客と同じように手欄《てすり》によりかかって、静かな春雨《はるさめ》のように降っている雨のしずくに顔をなぶらせながら、波止場《はとば》のほうをながめていたが、けれどもそのひとみにはなんにも映ってはいなかった。その代わり目と脳との間と覚《おぼ》しいあたりを、親しい人や疎《うと》い人が、何かわけもなくせわしそうに現われ出て、銘々いちばん深い印象を与えるような動作をしては消えて行った。葉子の知覚は半分眠ったようにぼんやりして注意するともなくその姿に注意をしていた。そしてこの半睡の状態が破れでもしたらたいへんな事になると、心のどこかのすみでは考えていた。そのくせ、それを物々しく恐れるでもなかった。からだまでが感覚的にしびれるような物うさを覚えた。
 若者が現われた。(どうしてあの男はそれほどの因縁《いんねん》もないのに執念《しゅうね》く付きまつわるのだろうと葉子は他人事《ひとごと》のように思った)その乱れた美しい髪の毛が、夕日とかがやくまぶしい光の中で、ブロンドのようにきらめいた。かみしめたその左の腕から血がぽた[#「ぽた」に傍点]ぽたとしたたっていた。そのしたたりが腕から離れて宙に飛ぶごとに、虹色《にじいろ》にきらきらと巴《ともえ》を描いて飛び跳《おど》った。
 「……わたしを見捨てるん……」
 葉子はその声をまざまざと聞いたと思った時、目がさめたようにふっ[#「ふっ」に傍点]とあらためて港を見渡した。そして、なんの感じも起こさないうちに、熟睡からちょっと驚かされた赤児《あかご》が、またたわいなく眠りに落ちて行くように、再び夢ともうつつともない心に返って行った。港の景色はいつのまにか消えてしまって、自分で自分の腕にしがみ付いた若者の姿が、まざまざと現われ出た。葉子はそれを見ながらどうしてこんな変な心持ちになるのだろう。血のせいとでもいうのだろうか。事によるとヒステリーにかかっているのではないかしらんなどとのんきに自分の身の上を考えていた。いわば悠々《ゆうゆう》閑々と澄み渡った水の隣に、薄紙|一重《ひとえ》の界《さかい》も置かず、たぎり返って渦《うず》巻き流れる水がある。葉子の心はその静かなほうの水に浮かびながら、滝川の中にもまれもまれて落ちて行く自分というものを他人事《ひとごと》のようにながめやっているようなものだった。葉子は自分の冷淡さにあきれながら、それでもやっぱり驚きもせず、手欄《てすり》によりかかってじっ[#「じっ」に傍点]と立っていた。
 「田川法学|博士《はかせ》」
 葉子はまたふといたずら者らしくこんなことを思っていた。が、田川夫妻が自分と反対の舷《げん》の籐椅子《とういす》に腰かけて、世辞世辞しく近寄って来る同船者と何か戯談口《じょうだんぐち》でもきいているとひとりで決めると、安心でもしたように幻想はまたかの若者にかえって行った。葉子はふと右の肩に暖かみを覚えるように思った。そこには若者の熱い涙が浸《し》み込んでいるのだ。葉子は夢遊病者のような目つきをして、やや頭を後ろに引きながら肩の所を見ようとすると、その瞬間、若者を船から桟橋に連れ出した船員の事がはっ[#「はっ」に傍点]と思い出されて、今まで盲《めし》いていたような目に、まざまざとその大きな黒い顔が映った。葉子はなお夢みるような目を見開いたまま、船員の濃い眉《まゆ》から黒い口髭《くちひげ》のあたりを見守っていた。
 船はもうかなり速力を早めて、霧のように降るともなく降る雨の中を走っていた。舷側《げんそく》から吐き出される捨て水の音がざあ[#「ざあ」に傍点]ざあと聞こえ出したので、遠い幻想の国から一|足《そく》飛びに取って返した葉子は、夢ではなく、まがいもなく目の前に立っている船員を見て、なんという事なしにぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とほんとうに驚いて立ちすくんだ。始めてアダムを見たイヴのように葉子はまじまじと珍しくもないはずの一人《ひとり》の男を見やった。
 「ずいぶん長い旅ですが、何、もうこれだけ日本が遠くなりましたんだ」
 といってその船員は右手を延べて居留地の鼻を指さした。がっしりした肩をゆすって、勢いよく水平に延ばしたその腕からは、強くはげしく海上に生きる男の力がほとばしった。葉子は黙ったまま軽くうなずいた、胸の下の所に不思議な肉体的な衝動をかすかに感じながら。
 「お一人《ひとり》ですな」
 塩がれた強い声がまたこう響いた。葉子はまた黙ったまま軽くうなずいた。
 船はやがて乗りたての船客の足もとにかすかな不安を与えるほどに速力を早めて走り出した。葉子は船員から目を移して海のほうを見渡して見たが、自分のそばに一人の男が立っているという、強い意識から起こって来る不安はどうしても消す事ができなかった。葉子にしてはそれは不思議な経験だった。こっちから何か物をいいかけて、この苦しい圧迫を打ち破ろうと思ってもそれができなかった。今何か物をいったらきっとひどい不自然な物のいいかたになるに決まっている。そうかといってその船員には無頓着《むとんじゃく》にもう一度前のような幻想に身を任せようとしてもだめだった。神経が急にざわざわと騒ぎ立って、ぼーっと煙《けぶ》った霧雨《きりさめ》のかなたさえ見とおせそうに目がはっきり[#「はっきり」に傍点]して、先ほどのおっかぶさるような暗愁は、いつのまにかはかない出来心のしわざとしか考えられなかった。その船員は傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に衣嚢《かくし》の中から何か書いた物を取り出して、それを鉛筆でチェックしながら、時々思い出したように顔を引いて眉《まゆ》をしかめながら、襟《えり》の折り返しについたしみを、親指の爪《つめ》でごしごしと削ってははじいていた。
 葉子の神経はそこにいたたまれないほどちかちかと激しく働き出した。自分と自分との間にのそのそと遠慮もなく大股《おおまた》ではいり込んで来る邪魔者でも避けるように、その船員から遠ざかろうとして、つと手欄《てすり》から離れて自分の船室のほうに階子段《はしごだん》を降りて行こうとした。
 「どこにおいでです」
 後ろから、葉子の頭から爪先《つまさき》までを小さなものででもあるように、一目に籠《こ》めて見やりながら、その船員はこう尋ねた。葉子は、
 「船室まで参りますの」
 と答えないわけには行かなかった。その声は葉子の目論見《もくろみ》に反して恐ろしくしとやかな響きを立てていた。するとその男は大股《おおまた》で葉子とすれすれになるまで近づいて来て、
 「船室《カビン》ならば永田《ながた》さんからのお話もありましたし、おひとり旅のようでしたから、医務室のわきに移しておきました。御覧になった前の部屋《へや》より少し窮屈かもしれませんが、何かに御便利ですよ。御案内しましょう」
 といいながら葉子をすり抜けて先に立った。何か芳醇《ほうじゅん》な酒のしみ[#「しみ」に傍点]と葉巻煙草《シガー》とのにおいが、この男固有の膚のにおいででもあるように強く葉子の鼻をかすめた。葉子は、どしん[#「どしん」に傍点]どしんと狭い階子段《はしごだん》を踏みしめながら降りて行くその男の太い首から広い肩のあたりをじっ[#「じっ」に傍点]と見やりながらそのあとに続いた。
 二十四五脚の椅子《いす》が食卓に背を向けてずらっ[#「ずらっ」に傍点]とならべてある食堂の中ほどから、横丁《よこちょう》のような暗い廊下をちょっとはいると、右の戸に「医務室」と書いた頑丈《がんじょう》な真鍮《しんちゅう》の札がかかっていて、その向かいの左の戸には「No.12 早月葉子殿」と白墨で書いた漆塗《うるしぬ》りの札が下がっていた。船員はつか[#「つか」に傍点]つかとそこにはいって、いきなり勢いよく医務室の戸をノックすると、高いダブル・カラーの前だけをはずして、上着を脱ぎ捨てた船医らしい男が、あたふたと細長いなま白い顔を突き出したが、そこに葉子が立っているのを目ざとく見て取って、あわてて首を引っ込めてしまった。船員は大きなはばかりのない声で、
 「おい十二番はすっかり[#「すっかり」に傍点]掃除《そうじ》ができたろうね」
 というと、医務室の中からは女のような声で、
 「さしておきましたよ。きれいになってるはずですが、御覧なすってください。わたしは今ちょっと」
 と船医は姿を見せずに答えた。
 「こりゃいったい船医の私室《プライベート》なんですが、あなたのためにお明け申すっていってくれたもんですから、ボーイに掃除するようにいいつけておきましたんです。ど、きれいになっとるかしらん」
 船員はそうつぶやきながら戸をあけて一わたり中を見回した。
 「むゝ、いいようです」
 そして道を開いて、衣嚢《かくし》から「日本郵船会社|絵島丸《えじままる》事務長勲六等|倉地三吉《くらちさんきち》」と書いた大きな名刺を出して葉子に渡しながら、
 「わたしが事務長をしとります。御用があったらなんでもどうか」
 葉子はまた黙ったままうなずいてその大きな名刺を手に受けた。そして自分の部屋《へや》ときめられたその部屋の高い閾《しきい》を越えようとすると、
 「事務長さんはそこでしたか」
 と尋ねながら田川博士がその夫人と打ち連れて廊下の中に立ち現われた。事務長が帽子を取って挨拶《あいさつ》しようとしている間に、洋装の田川夫人は葉子を目ざして、スカーツの絹ずれの音を立てながらつか[#「つか」に傍点]つかと寄って来て眼鏡《めがね》の奥から小さく光る目でじろり[#「じろり」に傍点]と見やりながら、
 「五十川さんがうわさしていらしった方はあなたね。なんとかおっしゃいましたねお名は」
 といった。この「なんとかおっしゃいましたね」という言葉が、名もないものをあわれんで見てやるという腹を充分に見せていた。今まで事務長の前で、珍しく受け身になっていた葉子は、この言葉を聞くと、強い衝動を受けたようになってわれに返った。どういう態度で返事をしてやろうかという事が、いちばんに頭の中で二十日鼠《はつかねずみ》のようにはげしく働いたが、葉子はすぐ腹を決めてひどく下手《したで》に尋常に出た。「あ」と驚いたような言葉を投げておいて、丁寧に低くつむりを下げながら、
 「こんな所まで……恐れ入ります。わたし早月葉《さつきよう》と申しますが、旅には不慣れでおりますのにひとり旅でございますから……」
 といってひとみを稲妻のように田川に移して、
 「御迷惑ではこざいましょうが何分よろしく願います」
 とまたつむりを下げた。田川はその言葉の終わるのを待ち兼ねたように引き取って、
 「何不慣れはわたしの妻も同様ですよ。 何しろこの船の中には女は二人《ふたり》ぎりだからお互いです」
 とあまりなめらかにいってのけたので、妻の前でもはばかるように今度は態度を改めながら事務長に向かって、
 「チャイニース・ステアレージには何人《なんにん》ほどいますか日本の女は」
 と問いかけた。事務長は例の塩から声で
 「さあ、まだ帳簿もろくろく整理して見ませんから、しっかり[#「しっかり」に傍点]とはわかり兼ねますが、何しろこのごろはだいぶふえました。三四十人もいますか。奥さんここが医務室です。何しろ九月といえば旧の二八月の八月ですから、太平洋のほうは暴《し》ける事もありますんだ。たまにはここにも御用ができますぞ。ちょっと船医も御紹介しておきますで」
 「まあそんなに荒れますか」
 と田川夫人は実際恐れたらしく、葉子を顧みながら少し色をかえた。事務長は事もなげに、
 「暴《し》けますんだずいぶん」
 と今度は葉子のほうをまともに見やってほほえみながら、おりから部屋《へや》を出て来た興録《こうろく》という船医を三人に引き合わせた。
 田川夫妻を見送ってから葉子は自分の部屋にはいった。さらぬだにどこかじめじめするような船室《カビン》には、きょうの雨のために蒸すような空気がこもっていて、汽船特有な西洋臭いにおいがことに強く鼻についた。帯の下になった葉子の胸から背にかけたあたりは汗がじんわりにじみ出たらしく、むし[#「むし」に傍点]むしするような不愉快を感ずるので、狭苦しい寝台《バース》を取りつけたり、洗面台を据えたりしてあるその間に、窮屈に積み重ねられた小荷物を見回しながら、帯を解き始めた。化粧鏡の付いた箪笥《たんす》の上には、果物《くだもの》のかごが一つと花束が二つ載せてあった。葉子は襟前《えりまえ》をくつろげながら、だれからよこしたものかとその花束の一つを取り上げると、そのそばから厚い紙切れのようなものが出て来た。手に取って見ると、それは手札形の写真だった。まだ女学校に通っているらしい、髪を束髪《そくはつ》にした娘の半身像で、その裏には「興録さま。取り残されたる千代《ちよ》より」としてあった。そんなものを興録がしまい忘れるはずがない。わざと忘れたふうに見せて、葉子の心に好奇心なり軽い嫉妬《しっと》なりをあおり立てようとする、あまり手もとの見えすいたからくり[#「からくり」に傍点]だと思うと、葉子はさげすんだ心持ちで、犬にでもするようにぽい[#「ぽい」に傍点]とそれを床の上にほうりなげた。一人《ひとり》の旅の婦人に対して船の中の男の心がどういうふうに動いているかをその写真一枚が語り貌《がお》だった、葉子はなんという事なしに小さな皮肉な笑いを口びるの所に浮かべていた。
 寝台の下に押し込んである平べったいトランクを引き出して、その中から浴衣《ゆかた》を取り出していると、ノックもせずに突然戸をあけたものがあった。葉子は思わず羞恥《しゅうち》から顔を赤らめて、引き出した派手《はで》な浴衣を楯《たて》に、しだらなく脱ぎかけた長襦袢《ながじゅばん》の姿をかくまいながら立ち上がって振り返って見ると、それは船医だった。はなやかな下着を浴衣の所々からのぞかせて、帯もなくほっそりと途方に暮れたように身を斜《しゃ》にして立った葉子の姿は、男の目にはほしいままな刺激だった。懇意ずくらしく戸もたたかなかった興録もさすがにどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]して、はいろうにも出ようにも所在に窮して、閾《しきい》に片足を踏み入れたまま当惑そうに立っていた。
 「飛んだふうをしていまして御免くださいまし。さ、おはいり遊ばせ。なんぞ御用でもいらっしゃいましたの」
 と葉子は笑いかまけたようにいった。興録はいよいよ度を失いながら、
 「いゝえ何、今でなくってもいいのですが、元のお部屋のお枕《まくら》の下にこの手紙が残っていましたのを、ボーイが届けて来ましたんで、早くさし上げておこうと思って実は何したんでしたが……」
 といいながら衣嚢《かくし》から二通の手紙を取り出した。手早く受け取って見ると、一つは古藤が木村にあてたもの、一つは葉子にあてたものだった。興録はそれを手渡すと、一種の意味ありげな笑いを目だけに浮かべて、顔だけはいかにももっともらしく葉子を見やっていた。自分のした事を葉子もしたと興録は思っているに違いない。葉子はそう推量すると、かの娘の写真を床の上から拾い上げた。そしてわざと裏を向けながら見向きもしないで、
 「こんなものがここにも落ちておりましたの。お妹さんでいらっしゃいますか。おきれいですこと」
 といいながらそれをつき出した。
 興録は何かいいわけのような事をいって部屋《へや》を出て行った。と思うとしばらくして医務室のほうから事務長のらしい大きな笑い声が聞こえて来た。それを聞くと、事務長はまだそこにいたかと、葉子はわれにもなくはっ[#「はっ」に傍点]となって、思わず着かえかけた着物の衣紋《えもん》に左手をかけたまま、うつむきかげんになって横目をつかいながら耳をそばだてた。破裂するような事務長の笑い声がまた聞こえて来た。そして医務室の戸をさっ[#「さっ」に傍点]とあけたらしく、声が急に一倍大きくなって、
 「Devil take it! No tame creature then,eh?」と乱暴にいう声が聞こえたが、それとともにマッチをする音がして、やがて葉巻《はまき》をくわえたままの口ごもりのする言葉で、
 「もうじき検疫《けんえき》船だ。準備はいいだろうな」
 といい残したまま事務長は船医の返事も待たずに行ってしまったらしかった。かすかなにおいが葉子の部屋にも通《かよ》って来た。
 葉子は聞き耳をたてながらうなだれていた顔を上げると、正面をきって何という事なしに微笑をもらした。そしてすぐぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としてあたりを見回したが、われに返って自分|一人《ひとり》きりなのに安堵《あんど》して、いそいそと着物を着かえ始めた。

    一一

 絵島丸が横浜を抜錨《ばつびょう》してからもう三日《みっか》たった。東京湾を出抜けると、黒潮に乗って、金華山《きんかざん》沖あたりからは航路を東北に向けて、まっしぐらに緯度を上《のぼ》って行くので、気温は二日《ふつか》目あたりから目立って涼しくなって行った。陸の影はいつのまにか船のどの舷《げん》からもながめる事はできなくなっていた。背羽根の灰色な腹の白い海鳥が、時々思い出したようにさびしい声でなきながら、船の周囲を群れ飛ぶほかには、生き物の影とては見る事もできないようになっていた。重い冷たい潮霧《ガス》が野火《のび》の煙のように濛々《もうもう》と南に走って、それが秋らしい狭霧《さぎり》となって、船体を包むかと思うと、たちまちからっ[#「からっ」に傍点]と晴れた青空を船に残して消えて行ったりした。格別の風もないのに海面は色濃く波打ち騒いだ。三日目からは船の中に盛んにスティームが通り始めた。
 葉子はこの三日というもの、一度も食堂に出ずに船室にばかり閉じこもっていた。船に酔ったからではない。始めて遠い航海を試みる葉子にしては、それが不思議なくらいたやすい旅だった。ふだん以上に食欲さえ増していた。神経に強い刺激が与えられて、とかく鬱結《うっけつ》しやすかった血液も濃く重たいなりにもなめらかに血管の中を循環し、海から来る一種の力がからだのすみずみまで行きわたって、うずうずするほどな活力を感じさせた。もらし所のないその活気が運動もせずにいる葉子のからだから心に伝わって、一種の悒鬱《ゆううつ》に変わるようにさえ思えた。
 葉子はそれでも船室を出ようとはしなかった。生まれてから始めて孤独に身を置いたような彼女は、子供のようにそれが楽しみだ[#「た」?、96-8]かったし、また船中で顔見知りのだれかれができる前に、これまでの事、これからの事を心にしめて考えてもみたいとも思った。しかし葉子が三日の間船室に引きこもり続けた心持ちには、もう少し違ったものもあった。葉子は自分が船客たちから激しい好奇の目で見られようとしているのを知っていた。立役《たてやく》は幕明きから舞台に出ているものではない。観客が待ちに待って、待ちくたぶれそうになった時分に、しずしずと乗り出して、舞台の空気を思うさま動かさねばならぬのだ。葉子の胸の中にはこんなずるがしこいいたずらな心も潜んでいたのだ。
 三日目の朝電燈が百合《ゆり》の花のしぼむように消えるころ葉子はふと深い眠りから蒸し暑さを覚えて目をさました。スティームの通って来るラディエターから、真空になった管の中に蒸汽の冷えたしたたりが落ちて立てる激しい響きが聞こえて、部屋《へや》の中は軽く汗ばむほど暖まっていた。三日の間狭い部屋の中ばかりにいてすわり疲れ寝疲れのした葉子は、狭苦しい寝台《バース》の中に窮屈に寝ちぢまった自分を見いだすと、下になった半身に軽いしびれを覚えて、からだを仰向けにした。そして一度開いた目を閉じて、美しく円味《まるみ》を持った両の腕を頭の上に伸ばして、寝乱れた髪をもてあそびながら、さめぎわの快い眠りにまた静かに落ちて行った。が、ほどもなくほんとうに目をさますと、大きく目を見開いて、あわてたように腰から上を起こして、ちょうど目通りのところにあるいちめんに水気で曇った眼窓《めまど》を長い袖《そで》で押しぬぐって、ほてった頬《ほお》をひやひやするその窓ガラスにすりつけながら外を見た、夜はほんとうには明け離れていないで、窓の向こうには光のない濃い灰色がどんより[#「どんより」に傍点]と広がっているばかりだった。そして自分のからだがずっ[#「ずっ」に傍点]と高まってやがてまた落ちて行くなと思わしいころに、窓に近い舷《げん》にざあっ[#「ざあっ」に傍点]とあたって砕けて行く波濤《はとう》が、単調な底力のある震動を船室に与えて、船はかすかに横にかしいだ。葉子は身動きもせずに目にその灰色をながめながら、かみしめるように船の動揺を味わって見た。遠く遠く来たという旅情が、さすがにしみじみと感ぜられた。しかし葉子の目には女らしい涙は浮かばなかった。活気のずんずん回復しつつあった彼女には何かパセティックな夢でも見ているような思いをさせた。
 葉子はそうしたままで、過ぐる二日の間暇にまかせて思い続けた自分の過去を夢のように繰り返していた。連絡のない終わりのない絵巻がつぎつぎに広げられたり巻かれたりした。キリストを恋い恋うて、夜も昼もやみがたく、十字架を編み込んだ美しい帯を作って献《ささ》げようと一心に、日課も何もそっちのけにして、指の先がささくれるまで編み針を動かした可憐《かれん》な少女も、その幻想の中に現われ出た。寄宿舎の二階の窓近く大きな花を豊かに開いた木蘭《もくらん》の香《にお》いまでがそこいらに漂っているようだった。国分寺《こくぶんじ》跡の、武蔵野《むさしの》の一角らしい櫟《くぬぎ》の林も現われた。すっかり少女のような無邪気な素直《すなお》な心になってしまって、孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、98-1]《こきょう》の膝《ひざ》に身も魂も投げかけながら、涙とともにささやかれる孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、98-2]の耳うちのように震えた細い言葉を、ただ「はいはい」と夢心地にうなずいてのみ込んだ甘い場面は、今の葉子とは違った人のようだった。そうかと思うと左岸の崕《がけ》の上から広瀬川《ひろせがわ》を越えて青葉山《あおばやま》をいちめんに見渡した仙台の景色がするすると開け渡った。夏の日は北国の空にもあふれ輝いて、白い礫《こいし》の河原《かわら》の間をまっさおに流れる川の中には、赤裸《あかはだか》な少年の群れが赤々とした印象を目に与えた。草を敷かんばかりに低くうずくまって、はなやかな色合いのパラソルに日をよけながら、黙って思いにふける一人《ひとり》の女――その時には彼女はどの意味からも女だった――どこまでも満足の得られない心で、だんだんと世間から埋《うず》もれて行かねばならないような境遇に押し込められようとする運命。確かに道を踏みちがえたとも思い、踏みちがえたのは、だれがさした事だと神をすらなじってみたいような思い。暗い産室も隠れてはいなかった。そこの恐ろしい沈黙の中から起こる強い快い赤児《あかご》の産声《うぶごえ》――やみがたい母性の意識――「われすでに世に勝てり」とでもいってみたい不思議な誇り――同時に重く胸を押えつける生の暗い急変。かかる時思いも設けず力強く迫って来る振り捨てた男の執着。あすをも頼み難い命の夕闇《ゆうやみ》にさまよいながら、切れ切れな言葉で葉子と最後の妥協を結ぼうとする病床の母――その顔は葉子の幻想を断ち切るほどの強さで現われ出た。思い入った決心を眉《まゆ》に集めて、日ごろの楽天的な性情にも似ず、運命と取り組むような真剣な顔つきで大事の結着を待つ木村の顔。母の死をあわれむとも悲しむとも知れない涙を目にはたたえながら、氷のように冷え切った心で、うつむいたまま、口一つきかない葉子自身の姿……そんな幻像《まぼろし》があるいはつぎつぎに、あるいは折り重なって、灰色の霧の中に動き現われた。そして記憶はだんだんと過去から現在のほうに近づいて来た。と、事務長の倉地の浅黒く日に焼けた顔と、その広い肩とが思い出された。葉子は思いもかけないものを見いだしたようにはっ[#「はっ」に傍点]となると、その幻像はたわいもなく消えて、記憶はまた遠い過去に帰って行った。それがまただんだん現在のほうに近づいて来たと思うと、最後にはきっと倉地の姿が現われ出た。
 それが葉子をいらいらさせて、葉子は始めて夢現《ゆめうつつ》の境からほんとうに目ざめて、うるさいものでも払いのけるように、眼窓《めまど》から目をそむけて寝台《バース》を離れた。葉子の神経は朝からひどく興奮していた。スティームで存分に暖まって来た船室の中の空気は息気《いき》苦しいほどだった。
 船に乗ってからろくろく運動もせずに、野菜気《やさいけ》の少ない物ばかりをむさぼり食べたので、身内の血には激しい熱がこもって、毛のさきへまでも通うようだった。寝台《バース》から立ち上がった葉子は瞑眩《めまい》を感ずるほどに上気して、氷のような冷たいものでもひし[#「ひし」に傍点]と抱きしめたい気持ちになった。で、ふらふらと洗面台のほうに行って、ピッチャーの水をなみなみと陶器製の洗面盤にあけて、ずっぷり[#「ずっぷり」に傍点]ひたした手ぬぐいをゆるく絞って、ひやっ[#「ひやっ」に傍点]とするのを構わず、胸をあけて、それを乳房と乳房との間にぐっ[#「ぐっ」に傍点]とあてがってみた。強いはげしい動悸《どうき》が押えている手のひらへ突き返して来た。葉子はそうしたままで前の鏡に自分の顔を近づけて見た。まだ夜の気が薄暗くさまよっている中に、頬《ほお》をほてらしながら深い呼吸をしている葉子の顔が、自分にすら物すごいほどなまめかしく映っていた。葉子は物好きらしく自分の顔に訳のわからない微笑をたたえて見た。
 それでもそのうちに葉子の不思議な心のどよめきはしずまって行った。しずまって行くにつれ、葉子は今までの引き続きでまた瞑想的《めいそうてき》な気分に引き入れられていた。しかしその時はもう夢想家ではなかった。ごく実際的な鋭い頭が針のように光ってとがっていた。葉子はぬれ手ぬぐいを洗面盤にほうりなげておいて、静かに長椅子《ながいす》に腰をおろした。
 笑い事ではない。いったい自分はどうするつもりでいるんだろう。そう葉子は出発以来の問いをもう一度自分に投げかけてみた。小さい時からまわりの人たちにはばかられるほど才はじけて、同じ年ごろの女の子とはいつでも一調子違った行きかたを、するでもなくして来なければならなかった自分は、生まれる前から運命にでも呪《のろ》われているのだろうか。それかといって葉子はなべての女の順々に通《とお》って行く道を通る事はどうしてもできなかった。通って見ようとした事は幾度あったかわからない。こうさえ行けばいいのだろうと通って来て見ると、いつでも飛んでもなく違った道を歩いている自分を見いだしてしまっていた。そしてつまずいては倒れた。まわりの人たちは手を取って葉子を起こしてやる仕方《しかた》も知らないような顔をしてただばからしくあざわらっている。そんなふうにしか葉子には思えなかった。幾度ものそんな苦い経験が葉子を片意地な、少しも人をたよろうとしない女にしてしまった。そして葉子はいわば本能の向かせるように向いてどんどん歩くよりしかたがなかった。葉子は今さらのように自分のまわりを見回して見た。いつのまにか葉子はいちばん近しいはずの人たちからもかけ離れて、たった一人《ひとり》で崕《がけ》のきわに立っていた。そこでただ一つ葉子を崕の上につないでいる綱には木村との婚約という事があるだけだ。そこに踏みとどまればよし、さもなければ、世の中との縁はたちどころに切れてしまうのだ。世の中に活《い》きながら世の中との縁が切れてしまうのだ。木村との婚約で世の中は葉子に対して最後の和睦《わぼく》を示そうとしているのだ。葉子に取って、この最後の機会をも破り捨てようというのはさすがに容易ではなかった。木村といふ首桎《くびかせ》を受けないでは生活の保障が絶え果てなければならないのだから。葉子の懐中には百五十ドルの米貨があるばかりだった。定子の養育費だけでも、米国に足をおろすや否や、すぐに木村にたよらなければならないのは目の前にわかっていた。後詰《ごづ》めとなってくれる親類の一人もないのはもちろんの事、ややともすれば親切ごかしに無いものまでせびり取ろうとする手合いが多いのだ。たまたま葉子の姉妹の内実を知って気の毒だと思っても、葉子ではというように手出しを控えるものばかりだった。木村――葉子には義理にも愛も恋も起こり得ない木村ばかりが、葉子に対するただ一人の戦士なのだ。あわれな木村は葉子の蠱惑《チャーム》に陥ったばかりで、早月家《さつきけ》の人々から否応《いやおう》なしにこの重い荷を背負わされてしまっているのだ。
 どうしてやろう。
 葉子は思い余ったその場のがれから、箪笥《たんす》の上に興録《こうろく》から受け取ったまま投げ捨てて置いた古藤の手紙を取り上げて、白い西洋封筒の一端を美しい指の爪《つめ》で丹念《たんねん》に細く破り取って、手筋は立派ながらまだどこかたどたどしい手跡でペンで走り書きした文句を読み下して見た。
[#ここから引用文、本文より一字下げ]
 「あなたはおさんどん[#「おさんどん」に傍点]になるという事を想像してみる事ができますか。おさんどん[#「おさんどん」に傍点]という仕事が女にあるという事を想像してみる事ができますか。僕はあなたを見る時はいつでもそう思って不思議な心持ちになってしまいます。いったい世の中には人を使って、人から使われるという事を全くしないでいいという人があるものでしょうか。そんな事ができうるものでしょうか。僕はそれをあなたに考えていただきたいのです。
 あなたは奇態な感じを与える人です。あなたのなさる事はどんな危険な事でも危険らしく見えません。行きづまった末にはこうという覚悟がちゃん[#「ちゃん」に傍点]とできているように思われるからでしょうか。
 僕があなたに始めてお目にかかったのは、この夏あなたが木村君と一緒に八幡《やわた》に避暑をしておられた時ですから、あなたについては僕は、なんにも知らないといっていいくらいです。僕は第一一般的に女というものについてなんにも知りません。しかし少しでもあなたを知っただけの心持ちからいうと、女の人というものは僕に取っては不思議な謎《なぞ》です。あなたはどこまで行ったら行きづまると思っているんです。あなたはすでに木村君で行きづまっている人なんだと僕には思われるのです。結婚を承諾した以上はその良人《おっと》に行きづまるのが女の人の当然な道ではないでしょうか。木村君で行きづまってください。木村君にあなたを全部与えてください。木村君の親友としてこれが僕の願いです。 
 全体同じ年齢でありながら、あなたからは僕などは子供に見えるのでしょうから、僕のいう事などは頓着《とんじゃく》なさらないかと思いますが、子供にも一つの直覚はあります。そして子供はきっぱり[#「きっぱり」に傍点]した物の姿が見たいのです。あなたが木村君の妻になると約束した以上は、僕のいう事にも権威があるはずだと思います。
 僕はそうはいいながら一面にはあなたがうらやましいようにも、憎いようにも、かわいそうなようにも思います。あなたのなさる事が僕の理性を裏切って奇怪な同情を喚《よ》び起こすようにも思います。僕は心の底に起こるこんな働きをもしいて押しつぶして理屈一方に固まろうとは思いません。それほど僕は道学者ではないつもりです。それだからといって、今のままのあなたでは、僕にはあなたを敬親する気は起こりません。木村君の妻としてあなたを敬親したいから、僕はあえてこんな事を書きました。そういう時が来るようにしてほしいのです。
 木村君の事を――あなたを熱愛してあなたのみに希望をかけている木村君の事を考えると僕はこれだけの事を書かずにはいられなくなります。
古藤義一[#行末より三字上げ]
   木村葉子様」
[#引用文ここまで]
 それは葉子に取ってはほんとうの子供っぽい言葉としか響かなかった。しかし古藤は妙に葉子には苦手《にがて》だった。今も古藤の手紙を読んで見ると、ばかばかしい事がいわれているとは思いながらも、いちばん大事な急所を偶然のようにしっかり[#「しっかり」に傍点]捕えているようにも感じられた。ほんとうにこんな事をしていると、子供と見くびっている古藤にもあわれまれるはめ[#「はめ」に傍点]になりそうな気がしてならなかった。葉子はなんという事なく悒鬱《ゆううつ》になって古藤の手紙を巻きおさめもせず膝《ひざ》の上に置いたまま目をすえて、じっ[#「じっ」に傍点]と考えるともなく考えた。
 それにしても、新しい教育を受け、新しい思想を好み、世事にうといだけに、世の中の習俗からも飛び離れて自由でありげに見える古藤さえが、葉子が今立っている崕《がけ》のきわから先には、葉子が足を踏み出すのを憎み恐れる様子を明らかに見せているのだ。結婚というものが一人《ひとり》の女に取って、どれほど生活という実際問題と結び付き、女がどれほどその束縛の下に悩んでいるかを考えてみる事さえしようとはしないのだ。そう葉子は思ってもみた。
 これから行こうとする米国という土地の生活も葉子はひとりでにいろいろと想像しないではいられなかった。米国の人たちはどんなふうに自分を迎え入れようとはするだろう。とにかく今までの狭い悩ましい過去と縁を切って、何の関《かかわ》りもない社会の中に乗り込むのはおもしろい。和服よりもはるかに洋服に適した葉子は、そこの交際社会でも風俗では米国人を笑わせない事ができる。歓楽でも哀傷でもしっくり[#「しっくり」に傍点]と実生活の中に織り込まれているような生活がそこにはあるに違いない。女のチャームというものが、習慣的な絆《きずな》から解き放されて、その力だけに働く事のできる生活がそこにはあるに違いない。才能と力量さえあれば女でも男の手を借りずに自分をまわりの人に認めさす事のできる生活がそこにはあるに違いない。女でも胸を張って存分呼吸のできる生活がそこにはあるに違いない。少なくとも交際社会のどこかではそんな生活が女に許されているに違いない。葉子はそんな事を空想するとむず[#「むず」に傍点]むずするほど快活になった。そんな心持ちで古藤の言葉などを考えてみると、まるで老人の繰り言のようにしか見えなかった。葉子は長い黙想の中から活々《いきいき》と立ち上がった。そして化粧をすますために鏡のほうに近づいた。
 木村を良人《おっと》とするのになんの屈託《くったく》があろう。木村が自分の良人《おっと》であるのは、自分が木村の妻であるというほどに軽い事だ。木村という仮面……葉子は鏡を見ながらそう思ってほほえんだ。そして乱れかかる額ぎわの髪を、振り仰いで後ろになでつけたり、両方の鬢《びん》を器用にかき上げたりして、良工が細工物でもするように楽しみながら元気よく朝化粧を終えた。ぬれた手ぬぐいで、鏡に近づけた目のまわりの白粉《おしろい》をぬぐい終わると、口びるを開いて美しくそろった歯並みをながめ、両方の手の指を壺《つぼ》の口のように一所《ひとところ》に集めて爪《つめ》の掃除《そうじ》が行き届いているか確かめた。見返ると船に乗る時着て来た単衣《ひとえ》のじみな着物は、世捨て人のようにだらり[#「だらり」に傍点]と寂しく部屋《へや》のすみの帽子かけにかかったままになっていた。葉子は派手《はで》な袷《あわせ》をトランクの中から取り出して寝衣《ねまき》と着かえながら、それに目をやると、肩にしっかり[#「しっかり」に傍点]としがみ付いて、泣きおめいた彼《か》の狂気じみた若者の事を思った。と、すぐそのそばから若者を小わきにかかえた事務長の姿が思い出された。小雨の中を、外套《がいとう》も着ずに、小荷物でも運んで行ったように若者を桟橋の上におろして、ちょっと五十川《いそがわ》女史に挨拶《あいさつ》して船から投げた綱にすがるや否や、静かに岸から離れてゆく船の甲板の上に軽々と上がって来たその姿が、葉子の心をくすぐるように楽しませて思い出された。
 夜はいつのまにか明け離れていた。眼窓《めまど》の外は元のままに灰色はしているが、活々《いきいき》とした光が添い加わって、甲板の上を毎朝規則正しく散歩する白髪の米人とその娘との足音がこつ[#「こつ」に傍点]こつ快活らしく聞こえていた。化粧をすました葉子は長椅子《ながいす》にゆっくり腰をかけて、両足をまっすぐにそろえて長々と延ばしたまま、うっとり[#「うっとり」に傍点]と思うともなく事務長の事を思っていた。
 その時突然ノックをしてボーイがコーヒーを持ってはいって来た。葉子は何か悪い所でも見つけられたようにちょっとぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として、延ばしていた足の膝《ひざ》を立てた。ボーイはいつものように薄笑いをしてちょっと頭を下げて銀色の盆を畳椅子《たたみいす》の上においた。そしてきょうも食事はやはり船室に運ぼうかと尋ねた。
 「今晩からは食堂にしてください」
 葉子はうれしい事でもいって聞かせるようにこういった。ボーイはまじめくさって「はい」といったが、ちらりと葉子を上目で見て、急ぐように部屋《へや》を出た。葉子はボーイが部屋《へや》を出てどんなふうをしているかがはっきり[#「はっきり」に傍点]見えるようだった。ボーイはすぐににこ[#「にこ」に傍点]にこと不思議な笑いをもらしながらケーク・ウォークの足つきで食堂のほうに帰って行ったに違いない。ほどもなく、
 「え、いよいよ御来迎《ごらいごう》?」
 「来たね」
 というような野卑な言葉が、ボーイらしい軽薄な調子で声高《こわだか》に取りかわされるのを葉子は聞いた。
 葉子はそんな事を耳にしながらやはり事務長の事を思っていた。「三日も食堂に出ないで閉じこもっているのに、なんという事務長だろう、一ぺんも見舞いに来ないとはあんまりひどい」こんな事を思っていた。そしてその一方では縁もゆかりもない馬のようにただ頑丈《がんじょう》な一人《ひとり》の男がなんでこう思い出されるのだろうと思っていた。
 葉子は軽いため息をついて何げなく立ち上がった。そしてまた長椅子《ながいす》に腰かける時には棚《たな》の上から事務長の名刺を持って来てながめていた。「日本郵船会社絵島丸事務長勲六等倉地三吉」と明朝《ミンチョウ》ではっきり[#「はっきり」に傍点]書いてある。葉子は片手でコーヒーをすすりながら、名刺を裏返してその裏をながめた。そしてまっ白なその裏に何か長い文句でも書いであるかのように、二重になる豊かな顎《あご》を襟《えり》の間に落として、少し眉《まゆ》をひそめながら、長い間まじろぎもせず見つめていた。

    一二

 その日の夕方、葉子は船に来てから始めて食堂に出た。着物は思いきって地味《じみ》なくすんだのを選んだけれども、顔だけは存分に若くつくっていた。二十《はたち》を越すや越さずに見える、目の大きな、沈んだ表情の彼女の襟の藍鼠《あいねずみ》は、なんとなく見る人の心を痛くさせた。細長い食卓の一端に、カップ・ボードを後ろにして座を占めた事務長の右手には田川夫人がいて、その向かいが田川博士、葉子の席は博士のすぐ隣に取ってあった。そのほかの船客も大概はすでに卓に向かっていた。葉子の足音が聞こえると、いち早く目くばせをし合ったのはボーイ仲間で、その次にひどく落ち付かぬ様子をし出したのは事務長と向かい合って食卓の他の一端にいた鬚《ひげ》の白いアメリカ人の船長であった。あわてて席を立って、右手にナプキンを下げながら、自分の前を葉子に通らせて、顔をまっ赤《か》にして座に返った。葉子はしとやかに人々の物数奇《ものずき》らしい視線を受け流しながら、ぐるっ[#「ぐるっ」に傍点]と食卓を回って自分の席まで行くと、田川|博士《はかせ》はぬすむように夫人の顔をちょっとうかがっておいて、肥《ふと》ったからだをよけるようにして葉子を自分の隣にすわらせた。
 すわりずまいをただしている間、たくさんの注視の中にも、葉子は田川夫人の冷たいひとみの光を浴びているのを心地《ここち》悪いほどに感じた。やがてきちん[#「きちん」に傍点]とつつましく正面を向いて腰かけて、ナプキンを取り上げながら、まず第一に田川夫人のほうに目をやってそっと挨拶《あいさつ》すると、今までの角々《かどかど》しい目にもさすがに申しわけほどの笑《え》みを見せて、夫人が何かいおうとした瞬間、その時までぎごちなく話を途切らしていた田川博士も事務長のほうを向いて何かいおうとしたところであったので、両方の言葉が気まずくぶつかりあって、夫婦は思わず同時に顔を見合わせた。一座の人々も、日本人といわず外国人といわず、葉子に集めていたひとみを田川夫妻のほうに向けた。「失礼」といってひかえた博士に夫人はちょっと頭を下げておいて、みんなに聞こえるほどはっきり澄んだ声で、
 「とんと食堂においでがなかったので、お案じ申しましたの、船にはお困りですか」
 といった。さすがに世慣れて才走ったその言葉は、人の上に立ちつけた重みを見せた。葉子はにこやかに黙ってうなずきながら、位を一段落として会釈するのをそう不快には思わぬくらいだった。二人《ふたり》の間の挨拶《あいさつ》はそれなりで途切れてしまったので、田川|博士《はかせ》はおもむろに事務長に向かってし続けていた話の糸目をつなごうとした。
 「それから……その……」
 しかし話の糸口は思うように出て来なかった。事もなげに落ち付いた様子に見える博士の心の中に、軽い混乱が起こっているのを、葉子はすぐ見て取った。思いどおりに一座の気分を動揺させる事ができるという自信が裏書きされたように葉子は思ってそっと満足を感じていた。そしてボーイ長のさしずでボーイらが手器用《てぎよう》に運んで来たポタージュをすすりながら、田川博士のほうの話に耳を立てた。
 葉子が食堂に現われて自分の視界にはいってくると、臆面《おくめん》もなくじっ[#「じっ」に傍点]と目を定めてその顔を見やった後に、無頓着《むとんじゃく》にスプーンを動かしながら、時々食卓の客を見回して気を配っていた事務長は、下くちびるを返して鬚《ひげ》の先を吸いながら、塩さびのした太い声で、
 「それからモンロー主義の本体は」
 と話の糸目を引っぱり出しておいて、まともに博士を打ち見やった。博士は少し面伏《おもぶ》せな様子で、
 「そう、その話でしたな。モンロー主義もその主張は初めのうちは、北米の独立諸州に対してヨーロッパの干渉を拒むというだけのものであったのです。ところがその政策の内容は年と共にだんだん変わっている。モンローの宣言は立派に文字になって残っているけれども、法律というわけではなし、文章も融通《ゆうずう》がきくようにできているので、取りようによっては、どうにでも伸縮する事ができるのです。マッキンレー氏などはずいぶん極端にその意味を拡張しているらしい。もっともこれにはクリーブランドという人の先例もあるし、マッキンレー氏の下にはもう一人《ひとり》有力な黒幕があるはずだ。どうです斎藤《さいとう》君」
 と二三人おいた斜向《はすか》いの若い男を顧みた。斎藤と呼ばれた、ワシントン公使館赴任の外交官補は、まっ赤《か》になって、今まで葉子に向けていた目を大急ぎで博士のほうにそらして見たが、質問の要領をはっきり捕えそこねて、さらに赤くなって術ない身ぶりをした。これほどな席にさえかつて臨んだ習慣のないらしいその人の素性《すじょう》がそのあわてかたに充分に見えすいていた。博士は見下したような態度で暫時その青年のどぎまぎした様子を見ていたが、返事を待ちかねて、事務長のほうを向こうとした時、突然はるか遠い食卓の一端から、船長が顔をまっ赤《か》にして、
 「You mean Teddy the roughrider?」
 といいながら子供のような笑顔《えがお》を人々に見せた。船長の日本語の理解力をそれほどに思い設けていなかったらしい博士は、この不意打ちに今度は自分がまごついて、ちょっと返事をしかねていると、田川夫人がさそく[#「さそく」に傍点]にそれを引き取って、
 「Good hit for you,Mr. Captain !」
 と癖のない発音でいってのけた。これを聞いた一座は、ことに外国人たちは、椅子《いす》から乗り出すようにして夫人を見た。夫人はその時|人《ひと》の目にはつきかねるほどの敏捷《すばしこ》さで葉子のほうをうかがった。葉子は眉《まゆ》一つ動かさずに、下を向いたままでスープをすすっていた。
 慎み深く大さじを持ちあつかいながら、葉子は自分に何かきわ立った印象を与えようとして、いろいろなまねを競い合っているような人々のさまを心の中で笑っていた。実際葉子が姿を見せてから、食堂の空気は調子を変えていた。ことに若い人たちの間には一種の重苦しい波動が伝わったらしく、物をいう時、彼らは知らず知らず激昂《げきこう》したような高い調子になっていた。ことにいちばん年若く見える一人《ひとり》の上品な青年――船長の隣座にいるので葉子は家柄《いえがら》の高い生まれに違いないと思った――などは、葉子と一目顔を見合わしたが最後、震えんばかりに興奮して、顔を得《え》上げないでいた。それだのに事務長だけは、いっこう動かされた様子が見えぬばかりか、どうかした拍子《ひょうし》に顔を合わせた時でも、その臆面《おくめん》のない、人を人とも思わぬような熟視は、かえって葉子の視線をたじろがした。人間をながめあきたような気倦《けだ》るげなその目は、濃いまつ毛の間から insolent な光を放って人を射た。葉子はこうして思わずひとみをたじろがすたびごとに事務長に対して不思議な憎しみを覚えるとともに、もう一度その憎むべき目を見すえてその中に潜む不思議を存分に見窮めてやりたい心になった。葉子はそうした気分に促されて時々事務長のほうにひきつけられるように視線を送ったが、そのたびごとに葉子のひとみはもろくも手きびしく追い退けられた。
 こうして妙な気分が食卓の上に織りなされながらやがて食事は終わった。一同が座を立つ時、物慣らされた物腰で、椅子《いす》を引いてくれた田川|博士《はかせ》にやさしく微笑を見せて礼をしながらも、葉子はやはり事務長の挙動を仔細《しさい》に見る事に半ば気を奪われていた。
 「少し甲板に出てごらんになりましな。寒くとも気分は晴れ晴れしますから。わたしもちょと部屋《へや》に帰ってショールを取って出て見ます」
 こう葉子にいって田川夫人は良人《おっと》と共に自分の部屋のほうに去って行った。
 葉子も部屋に帰って見たが、今まで閉じこもってばかりいるとさほどにも思わなかったけれども、食堂ほどの広さの所からでもそこに来て見ると、息気《いき》づまりがしそうに狭苦しかった。で、葉子は長椅子の下から、木村の父が使い慣れた古トランク――その上に古藤が油絵の具でY・Kと書いてくれた古トランクを引き出して、その中から黒い駝鳥《だちょう》の羽のボアを取り出して、西洋臭いそのにおいを快く鼻に感じながら、深々と首を巻いて、甲板に出て行って見た。窮屈な階子段《はしごだん》をややよろよろしながらのぼって、重い戸をあけようとすると外気の抵抗がなかなか激しくって押しもどされようとした。きりっ[#「きりっ」に傍点]と搾《しぼ》り上げたような寒さが、戸のすきから縦に細長く葉子を襲った。
 甲板には外国人が五六人厚い外套《がいとう》にくるまって、堅いティークの床《ゆか》をかつかつと踏みならしながら、押し黙って勢いよく右往左往に散歩していた。田川夫人の姿はそのへんにはまだ見いだされなかった。塩気を含んだ冷たい空気は、室内にのみ閉じこもっていた葉子の肺を押し広げて、頬《ほお》には血液がちくちくと軽く針をさすように皮膚に近く突き進んで来るのが感ぜられた。葉子は散歩客には構わずに甲板を横ぎって船べりの手欄《てすり》によりかかりながら、波また波と果てしもなく連なる水の堆積《たいせき》をはるばるとながめやった。折り重なった鈍色《にぶいろ》の雲のかなたに夕日の影は跡形もなく消えうせて、闇《やみ》は重い不思議な瓦斯《がす》のように力強くすべての物を押しひしゃげていた。雪をたっぷり含んだ空だけが、その間とわずかに争って、南方には見られぬ暗い、燐《りん》のような、さびしい光を残していた。一種のテンポを取って高くなり低くなりする黒い波濤《はとう》のかなたには、さらに黒ずんだ波の穂が果てしもなく連なっていた。船は思ったより激しく動揺していた。赤いガラスをはめた檣燈《しょうとう》が空高く、右から左、左から右へと広い角度を取ってひらめいた。ひらめくたびに船が横かしぎになって、重い水の抵抗を受けながら進んで行くのが、葉子の足からからだに伝わって感ぜられた。
 葉子はふらふらと船にゆり上げゆり下げられながら、まんじりともせずに、黒い波の峰と波の谷とがかわるがわる目の前に現われるのを見つめていた。豊かな髪の毛をとおして寒さがしんしんと頭の中にしみこむのが、初めのうちは珍しくいい気持ちだったが、やがてしびれるような頭痛に変わって行った。……と急に、どこをどう潜んで来たとも知れない、いやなさびしさが盗風《とうふう》のように葉子を襲った。船に乗ってから春の草のように萌《も》え出した元気はぽっきり[#「ぽっきり」に傍点]と心《しん》を留められてしまった。こめかみがじんじんと痛み出して、泣きつかれのあとに似た不愉快な睡気《ねむけ》の中に、胸をついて嘔《は》き気《け》さえ催して来た。葉子はあわててあたりを見回したが、もうそこいらには散歩の人足《ひとあし》も絶えていた。けれども葉子は船室に帰る気力もなく、右手でしっかり[#「しっかり」に傍点]と額を押えて、手欄《てすり》に顔を伏せながら念じるように目をつぶって見たが、いいようのないさびしさはいや増すばかりだった。葉子はふと定子を懐妊していた時のはげしい悪阻《つわり》の苦痛を思い出した。それはおりから痛ましい回想だった。……定子……葉子はもうその笞《しもと》には堪えないというように頭を振って、気を紛らすために目を開いて、とめどなく動く波の戯れを見ようとしたが、一目見るやぐらぐらと眩暈《めまい》を感じて一たまりもなくまた突っ伏《ぷ》してしまった。深い悲しいため息が思わず出るのを留めようとしてもかいがなかった。「船に酔ったのだ」と思った時には、もうからだじゅうは不快な嘔感《おうかん》のためにわなわなと震えていた。
 「嘔《は》けばいい」
 そう思って手欄《てすり》から身を乗り出す瞬間、からだじゅうの力は腹から胸もとに集まって、背は思わずも激しく波打った。そのあとはもう夢のようだった。
 しばらくしてから葉子は力が抜けたようになって、ハンカチで口もとをぬぐいながら、たよりなくあたりを見回した。甲板《かんぱん》の上も波の上のように荒涼として人気《ひとけ》がなかった。明るく灯《ひ》の光のもれていた眼窓《めまど》は残らずカーテンでおおわれて暗くなっていた。右にも左にも人はいない。そう思った心のゆるみにつけ込んだのか、胸の苦しみはまた急によせ返して来た。葉子はもう一度|手欄《てすり》に乗り出してほろほろと熱い涙をこぼした。たとえば高くつるした大石を切って落としたように、過去というものが大きな一つの暗い悲しみとなって胸を打った。物心を覚えてから二十五の今日《こんにち》まで、張りつめ通した心の糸が、今こそ思い存分ゆるんだかと思われるその悲しい快《こころよ》さ。葉子はそのむなしい哀感にひたりながら、重ねた両手の上に額を乗せて手欄《てすり》によりかかったまま重い呼吸をしながらほろほろと泣き続けた。一時性貧血を起こした額は死人のように冷えきって、泣きながらも葉子はどうかするとふっ[#「ふっ」に傍点]と引き入れられるように、仮睡に陥ろうとした。そうしてははっ[#「はっ」に傍点]と何かに驚かされたように目を開くと、また底の知れぬ哀感がどこからともなく襲い入った。悲しい快さ。葉子は小学校に通《かよ》っている時分でも、泣きたい時には、人前では歯をくいしばっていて、人のいない所まで行って隠れて泣いた。涙を人に見せるというのは卑しい事にしか思えなかった。乞食《こじき》が哀れみを求めたり、老人が愚痴をいうのと同様に、葉子にはけがらわしく思えていた。しかしその夜に限っては、葉子はだれの前でも素直《すなお》な心で泣けるような気がした。だれかの前でさめざめと泣いてみたいような気分にさえなっていた。しみじみとあわれんでくれる人もありそうに思えた。そうした気持ちで葉子は小娘のようにたわいもなく泣きつづけていた。
 その時|甲板《かんぱん》のかなたから靴《くつ》の音が聞こえて来た。二人《ふたり》らしい足音だった。その瞬間まではだれの胸にでも抱きついてしみじみ泣けると思っていた葉子は、その音を聞きつけるとはっ[#「はっ」に傍点]というまもなく、張りつめたいつものような心になってしまって、大急ぎで涙を押しぬぐいながら、踵《くびす》を返して自分の部屋《へや》に戻《もど》ろうとした。が、その時はもうおそかった。洋服姿の田川夫妻がはっきり[#「はっきり」に傍点]と見分けがつくほどの距離に進みよっていたので、さすがに葉子もそれを見て見ぬふりでやり過ごす事は得《え》しなかった。涙をぬぐいきると、左手をあげて髪のほつれ[#「ほつれ」に傍点]をしなをしながらかき上げた時、二人はもうすぐそばに近寄っていた。
 「あらあなたでしたの。わたしどもは少し用事ができておくれましたが、こんなにおそくまで室外《そと》にいらしってお寒くはありませんでしたか。気分はいかがです」
 田川夫人は例の目下《めした》の者にいい慣れた言葉を器用に使いながら、はっきり[#「はっきり」に傍点]とこういってのぞき込むようにした。夫妻はすぐ葉子が何をしていたかを感づいたらしい。葉子はそれをひどく不快に思った。
 「急に寒い所に出ましたせいですかしら、なんだか頭《つむり》がぐらぐらいたしまして」
 「お嘔《もど》しなさった……それはいけない」
 田川|博士《はかせ》は夫人の言葉を聞くともっともというふうに、二三度こっくり[#「こっくり」に傍点]とうなずいた。厚外套《あつがいとう》にくるまった肥《ふと》った博士と、暖かそうなスコッチの裾長《すそなが》の服に、ロシア帽を眉《まゆ》ぎわまでかぶった夫人との前に立つと、やさ形の葉子は背たけこそ高いが、二人《ふたり》の娘ほどにながめられた。
 「どうだ一緒に少し歩いてみちゃ」
 と田川博士がいうと、夫人は、
 「ようございましょうよ、血液がよく循環して」と応じて葉子に散歩を促した。葉子はやむを得ず、かつかつと鳴る二人の靴《くつ》の音と、自分の上草履《うわぞうり》の音とをさびしく聞きながら、夫人のそばにひき添って甲板《かんぱん》の上を歩き始めた。ギーイときしみながら船が大きくかしぐのにうまく中心を取りながら歩こうとすると、また不快な気持ちが胸先にこみ上げて来るのを葉子は強く押し静めて事もなげに振る舞おうとした。
 博士は夫人との会話の途切れ目を捕えては、話を葉子に向けて慰め顔にあしらおうとしたが、いつでも夫人が葉子のすべき返事をひったくって物をいうので、せっかくの話は腰を折られた。葉子はしかし結句《けっく》それをいい事にして、自分の思いにふけりながら二人に続いた。しばらく歩きなれてみると、運動ができたためか、だんだん嘔《は》き気《け》は感ぜぬようになった。田川夫妻は自然に葉子を会話からのけものにして、二人の間で四方山《よもやま》のうわさ話を取りかわし始めた。不思議なほどに緊張した葉子の心は、それらの世間話にはいささかの興味も持ち得ないで、むしろその無意味に近い言葉の数々を、自分の瞑想《めいそう》を妨げる騒音のようにうるさく思っていた。と、ふと田川夫人が事務長と言ったのを小耳にはさんで、思わず針でも踏みつけたようにぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として、黙想から取って返して聞き耳を立てた。自分でも驚くほど神経が騒ぎ立つのをどうする事もできなかった。
 「ずいぶんしたたか者らしゅうございますわね」
 そう夫人のいう声がした。
 「そうらしいね」
 博士《はかせ》の声には笑いがまじっていた。
 「賭博《ばくち》が大の上手《じょうず》ですって」
 「そうかねえ」
 事務長の話はそれぎりで絶えてしまった。葉子はなんとなく物足らなくなって、また何かいい出すだろうと心待ちにしていたが、その先を続ける様子がないので、心残りを覚えながら、また自分の心に帰って行った。
 しばらくすると夫人がまた事務長のうわさをし始めた。
 「事務長のそばにすわって食事をするのはどうもいやでなりませんの」
 「そんなら早月《さつき》さんに席を代わってもらったらいいでしょう」
 葉子は闇《やみ》の中で鋭く目をかがやかしながら夫人の様子をうかがった。
 「でも夫婦がテーブルにならぶって法はありませんわ……ねえ早月さん」
 こう戯談《じょうだん》らしく夫人はいって、ちょっと葉子のほうを振り向いて笑ったが、べつにその返事を待つというでもなく、始めて葉子の存在に気づきでもしたように、いろいろと身の上などを探りを入れるらしく聞き始めた。田川博士も時々親切らしい言葉を添えた。葉子は始めのうちこそつつましやかに事実にさほど遠くない返事をしていたものの、話がだんだん深入りして行くにつれて、田川夫人という人は上流の貴夫人だと自分でも思っているらしいに似合わない思いやりのない人だと思い出した。それはあり内《うち》の質問だったかもしれない。けれども葉子にはそう思えた。縁もゆかりもない人の前で思うままな侮辱を加えられるとむっ[#「むっ」に傍点]とせずにはいられなかった。知った所がなんにもならない話を、木村の事まで根はり葉はり問いただしていったいどうしようという気なのだろう。老人でもあるならば、過ぎ去った昔を他人にくどくどと話して聞かせて、せめて慰むという事もあろう。「老人には過去を、若い人には未来を」という交際術の初歩すら心得ないがさつ[#「がさつ」に傍点]な人だ。自分ですらそっと手もつけないで済ませたい血なまぐさい身の上を……自分は老人ではない。葉子は田川夫人が意地《いじ》にかかってこんな悪戯《わるさ》をするのだと思うと激しい敵意から口びるをかんだ。
 しかしその時田川博士が、サルンからもれて来る灯《ひ》の光で時計を見て、八時十分前だから部屋《へや》に帰ろうといい出したので、葉子はべつに何もいわずにしまった。三人が階子段《はしごだん》を降りかけた時、夫人は、葉子の気分にはいっこう気づかぬらしく、――もしそうでなければ気づきながらわざと気づかぬらしく振る舞って、
 「事務長はあなたのお部屋にも遊びに見えますか」
 と突拍子《とっぴょうし》もなくいきなり問いかけた。それを聞くと葉子の心は何という事なしに理不尽な怒りに捕えられた。得意な皮肉でも思い存分に浴びせかけてやろうかと思ったが、胸をさすりおろしてわざと落ち付いた調子で、
 「いゝえちっとも[#「ちっとも」に傍点]お見えになりませんが……」
 と空々《そらぞら》しく聞こえるように答えた。夫人はまだ葉子の心持ちには少しも気づかぬふうで、
 「おやそう。わたしのほうへはたびたびいらして困りますのよ」
 と小声でささやいた。「何を生意気な」葉子は前後《あとさき》なしにこう心のうちに叫んだが一言《ひとこと》も口には出さなかった。敵意――嫉妬《しっと》ともいい代えられそうな――敵意がその瞬間からすっかり[#「すっかり」に傍点]根を張った。その時夫人が振り返って葉子の顔を見たならば、思わず博士《はかせ》を楯《たて》に取って恐れながら身をかわさずにはいられなかったろう、――そんな場合には葉子はもとよりその瞬間に稲妻のようにすばしこく隔意のない顔を見せたには違いなかろうけれども。葉子は一言もいわずに黙礼したまま二人《ふたり》に別れて部屋《へや》に帰った。
 室内はむっ[#「むっ」に傍点]とするほど暑かった。葉子は嘔《は》き気《け》はもう感じてはいなかったが、胸もとが妙にしめつけられるように苦しいので、急いでボアをかいやって床《ゆか》の上に捨てたまま、投げるように長椅子《ながいす》に倒れかかった。
 それは不思議だった。葉子の神経は時には自分でも持て余すほど鋭く働いて、だれも気のつかないにおいがたまらないほど気になったり、人の着ている着物の色合いが見ていられないほど不調和で不愉快であったり、周囲の人が腑抜《ふぬ》けな木偶《でく》のように甲斐《かい》なく思われたり、静かに空を渡って行く雲の脚《あし》が瞑眩《めまい》がするほどめまぐるしく見えたりして、我慢にもじっ[#「じっ」に傍点]としていられない事は絶えずあったけれども、その夜のように鋭く神経のとがって来た事は覚えがなかった。神経の末梢《まっしょう》が、まるで大風にあったこずえのようにざわざわと音がするかとさえ思われた。葉子は足と足とをぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]とからみ合わせてそれに力をこめながら、右手の指先を四本そろえてその爪先《つまさき》を、水晶のように固い美しい歯で一思いに激しくかんで見たりした。悪寒《おかん》のような小刻みな身ぶるいが絶えず足のほうから頭へと波動のように伝わった。寒いためにそうなるのか、暑いためにそうなるのかよくわからなかった。そうしていらいらしながらトランクを開いたままで取り散らした部屋の中をぼんやり見やっていた。目はうるさくかすんでいた。ふと落ち散ったものの中に葉子は事務長の名刺があるのに目をつけて、身をかがめてそれを拾い上げた。それを拾い上げるとま二つに引き裂いてまた床になげた。それはあまりに手答えなく裂けてしまった。葉子はまた何かもっとうん[#「うん」に傍点]と手答えのあるものを尋ねるように熱して輝く目でまじまじとあたりを見回していた。と、カーテンを引き忘れていた。恥ずかしい様子を見られはしなかったかと思うと胸がどきん[#「どきん」に傍点]としていきなり立ち上がろうとした拍子《ひょうし》に、葉子は窓の外に人の顔を認めたように思った。田川博士のようでもあった。田川夫人のようでもあった。しかしそんなはずはない、二人はもう部屋に帰っている。事務長……
 葉子は思わず裸体を見られた女のように固くなって立ちすくんだ。激しいおののきが襲って来た。そして何の思慮もなく床の上のボアを取って胸にあてがったが、次の瞬間にはトランクの中からショールを取り出してボアと一緒にそれをかかえて、逃げる人のように、あたふた[#「あたふた」に傍点]と部屋を出た。
 船のゆらぐごとに木と木とのすれあう不快な音は、おおかた船客の寝しずまった夜の寂寞《せきばく》の中にきわ立って響いた。自動平衡器の中にともされた蝋燭《ろうそく》は壁板に奇怪な角度を取って、ゆるぎもせずにぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と光っていた。
 戸をあけて甲板《かんばん》に出ると、甲板のあなたはさっきのままの波また波の堆積《たいせき》だった。大煙筒から吐き出される煤煙《ばいえん》はまっ黒い天の川のように無月《むげつ》の空を立ち割って水に近く斜めに流れていた。

    一三

 そこだけは星が光っていないので、雲のある所がようやく知れるぐらい思いきって暗い夜だった。おっかぶさって来るかと見上くれば、目のまわるほど遠のいて見え、遠いと思って見れば、今にも頭を包みそうに近く逼《せま》ってる鋼色《はがねいろ》の沈黙した大空が、際限もない羽をたれたように、同じ暗色の海原に続く所から波がわいて、闇《やみ》の中をのたうちまろびながら、見渡す限りわめき騒いでいる。耳を澄まして聞いていると、水と水とが激しくぶつかり合う底のほうに、
 「おーい、おい、おい、おーい」
 というかと思われる声ともつかない一種の奇怪な響きが、舷《ふなべり》をめぐって叫ばれていた。葉子は前後左右に大きく傾く甲板の上を、傾くままに身を斜めにしてからく重心を取りながら、よろけよろけブリッジに近いハッチの物陰までたどりついて、ショールで深々と首から下を巻いて、白ペンキで塗った板囲いに身を寄せかけて立った、たたずんだ所は風下《かざしも》になっているが、頭の上では、檣《ほばしら》からたれ下がった索綱《さくこう》の類が風にしなってうなり[#「うなり」に傍点]を立て、アリュウシャン群島近い高緯度の空気は、九月の末とは思われぬほど寒く霜を含んでいた。気負いに気負った葉子の肉体はしかしさして寒いとは思わなかった。寒いとしてもむしろ快い寒さだった。もうどんどんと冷えて行く着物の裏に、心臓のはげしい鼓動につれて、乳房《ちぶさ》が冷たく触れたり離れたりするのが、なやましい気分を誘い出したりした。それにたたずんでいるのに足が爪先《つまさき》からだんだんに冷えて行って、やがて膝《ひざ》から下は知覚を失い始めたので、気分は妙に上《うわ》ずって来て、葉子の幼い時からの癖である夢ともうつつとも知れない音楽的な錯覚に陥って行った。五体も心も不思議な熱を覚えながら、一種のリズムの中に揺り動かされるようになって行った。何を見るともなく凝然と見定めた目の前に、無数の星が船の動揺につれて光のまたたきをしながら、ゆるいテンポをととのえてゆらりゆらりと静かにおどると、帆綱のうなりが張り切ったバスの声となり、その間を「おーい、おい、おい、おーい……」と心の声とも波のうめき[#「うめき」に傍点]ともわからぬトレモロが流れ、盛り上がり、くずれこむ波また波がテノルの役目を勤めた。声が形となり、形が声となり、それから一緒にもつれ合う姿を葉子は目で聞いたり耳で見たりしていた。なんのために夜寒《よさむ》を甲板に出て来たか葉子は忘れていた。夢遊病者のように葉子はまっしぐらにこの不思議な世界に落ちこんで行った。それでいて、葉子の心の一部分はいたましいほど醒《さ》めきっていた。葉子は燕《つばめ》のようにその音楽的な夢幻界を翔《か》け上がりくぐりぬけてさまざまな事を考えていた。
 屈辱、屈辱……屈辱――思索の壁は屈辱というちかちかと寒く光る色で、いちめんに塗りつぶされていた。その表面に田川夫人や事務長や田川博士の姿が目まぐるしく音律に乗って動いた。葉子はうるさそうに頭の中にある手のようなもので無性《むしょう》に払いのけようと試みたがむだだった。皮肉な横目をつかって青味を帯びた田川夫人の顔が、かき乱された水の中を、小さな泡《あわ》が逃げてでも行くように、ふらふらとゆらめきながら上のほうに遠ざかって行った。まずよかったと思うと、事務長の insolent な目つきが低い調子の伴音となって、じっ[#「じっ」に傍点]と動かない中にも力ある震動をしながら、葉子の眼睛《ひとみ》の奥を網膜まで見とおすほどぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と見すえていた。「なんで事務長や田川夫人なんぞがこんなに自分をわずらわすだろう。憎らしい。なんの因縁《いんねん》で……」葉子は自分をこう卑しみながらも、男の目を迎え慣れた媚《こ》びの色を知らず知らず上《うわ》まぶたに集めて、それに応じようとする途端、日に向かって目を閉じた時に綾《あや》をなして乱れ飛ぶあの不思議な種々な色の光体、それに似たものが繚乱《りょうらん》として心を取り囲んだ。星はゆるいテンポでゆらりゆらりと静かにおどっている。「おーい、おい、おい、おーい」……葉子は思わずかっ[#「かっ」に傍点]と腹を立てた。その憤りの膜の中にすべての幻影はすーっと吸い取られてしまった。と思うとその憤りすらが見る見るぼやけて、あとには感激のさらにない死のような世界が果てしもなくどんより[#「どんより」に傍点]とよどんだ。葉子はしばらくは気が遠くなって何事もわきまえないでいた。
 やがて葉子はまたおもむろに意識の閾《しきい》に近づいて来ていた。
 煙突の中の黒い煤《すす》の間を、横すじかいに休らいながら飛びながら、上《のぼ》って行く火の子のように、葉子の幻想は暗い記憶の洞穴《ほらあな》の中を右左によろめきながら奥深くたどって行くのだった。自分でさえ驚くばかり底の底にまた底のある迷路を恐る恐る伝って行くと、果てしもなく現われ出る人の顔のいちばん奥に、赤い着物を裾長《すそなが》に着て、まばゆいほどに輝き渡った男の姿が見え出した。葉子の心の周囲にそれまで響いていた音楽は、その瞬間ぱったり[#「ぱったり」に傍点]静まってしまって、耳の底がかーん[#「かーん」に傍点]とするほど空恐ろしい寂莫《せきばく》の中に、船の舳《へさき》のほうで氷をたたき破《わ》るような寒い時鐘《ときがね》の音が聞こえた。「カンカン、カンカン、カーン」……。葉子は何時《なんじ》の鐘だと考えてみる事もしないで、そこに現われた男の顔を見分けようとしたが、木村に似た容貌《ようぼう》がおぼろに浮かんで来るだけで、どう見直して見てもはっきり[#「はっきり」に傍点]した事はもどかしいほどわからなかった。木村であるはずはないんだがと葉子はいらいらしながら思った。「木村はわたしの良人《おっと》ではないか。その木村が赤い着物を着ているという法があるものか。……かわいそうに、木村はサン・フランシスコから今ごろはシヤトルのほうに来て、私の着くのを一日千秋の思いで待っているだろうに、わたしはこんな事をしてここで赤い着物を着た男なんぞを見つめている。千秋の思いで待つ? それはそうだろう。けれどもわたしが木村の妻になってしまったが最後、千秋の思いでわたしを待ったりした木村がどんな良人《おっと》に変わるかは知れきっている。憎いのは男だ……木村でも倉地でも……また事務長なんぞを思い出している。そうだ、米国に着いたらもう少し落ち着いて考えた生きかたをしよう。木村だって打てば響くくらいはする男だ。……あっちに行ってまとまった金ができたら、なんといってもかまわない、定子を呼び寄せてやる。あ、定子の事なら木村は承知の上だったのに。それにしても木村が赤い着物などを着ているのはあんまりおかしい……」ふと葉子はもう一度赤い着物の男を見た。事務長の顔が赤い着物の上に似合わしく乗っていた。葉子はぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]とした。そしてその顔をもっとはっきり[#「はっきり」に傍点]見つめたいために重い重いまぶたをしいて押し開く努力をした。
 見ると葉子の前にはまさしく、角燈を持って焦茶色《こげちゃいろ》のマントを着た事務長が立っていた。そして、
 「どうなさったんだ今ごろこんな所に、……今夜はどうかしている……岡《おか》さん、あなたの仲間がもう一人《ひとり》ここにいますよ」
 といいながら事務長は魂を得たように動き始めて、後ろのほうを振り返った。事務長の後ろには、食堂で葉子と一目顔を見合わすと、震えんばかりに興奮して顔を得《え》上げないでいた上品なかの青年が、まっさおな顔をして物におじたようにつつましく立っていた。
 目はまざまざと開いていたけれども葉子はまだ夢心地《ゆめごこち》だった。事務長のいるのに気づいた瞬間からまた聞こえ出した波濤《はとう》の音は、前のように音楽的な所は少しもなく、ただ物狂おしい騒音となって船に迫っていた。しかし葉子は今の境界がほんとうに現実の境界なのか、さっき不思議な音楽的の錯覚にひたっていた境界が夢幻の中の境界なのか、自分ながら少しも見さかいがつかないくらいぼんやりしていた。そしてあの荒唐《こうとう》な奇怪な心の adventure をかえってまざまざとした現実の出来事でもあるかのように思いなして、目の前に見る酒に赤らんだ事務長の顔は妙に蠱惑的《こわくてき》な気味の悪い幻像となって、葉子を脅かそうとした。
 「少し飲み過ぎたところにためといた仕事を詰めてやったんで眠れん。で散歩のつもりで甲板《かんぱん》の見回りに出ると岡さん」
 といいながらもう一度後ろに振り返って、
 「この岡さんがこの寒いに手欄《てすり》からからだを乗り出してぽかん[#「ぽかん」に傍点]と海を見とるんです。取り押えてケビンに連れて行こうと思うとると、今度はあなたに出っくわす。物好きもあったもんですねえ。海をながめて何がおもしろいかな。お寒かありませんか、ショールなんぞも落ちてしまった」
 どこの国なまりともわからぬ一種の調子が塩さびた声であやつられるのが、事務長の人となりによくそぐって聞こえる。葉子はそんな事を思いながら事務長の言葉を聞き終わると、始めてはっきり[#「はっきり」に傍点]目がさめたように思った。そして簡単に、
 「いゝえ」
と答えながら上目《うわめ》づかいに、夢の中からでも人を見るようにうっとり[#「うっとり」に傍点]と事務長のしぶとそうな顔を見やった。そしてそのまま黙っていた。
 事務長は例の insolent な目つきで葉子を一目に見くるめながら、
 「若い方《かた》は世話が焼ける……さあ行きましょう」
 と強い語調でいって、からからと傍若無人《ぼうじゃくぶじん》に笑いながら葉子をせき立てた。海の波の荒涼たるおめきの中に聞くこの笑い声は diabolic なものだった。「若い方《かた》」……老成ぶった事をいうと葉子は思ったけれども、しかし事務長にはそんな事をいう権利でもあるかのように葉子は皮肉な竹篦返《しっぺがえ》しもせずに、おとなしくショールを拾い上げて事務長のいうままにそのあとに続こうとして驚いた。ところが長い間そこにたたずんでいたものと見えて、磁石《じしゃく》で吸い付けられたように、両足は固く重くなって一|寸《すん》も動きそうにはなかった。寒気のために感覚の痲痺《まひ》しかかった膝《ひざ》の関節はしいて曲げようとすると、筋を絶《た》つほどの痛みを覚えた。不用意に歩き出そうとした葉子は、思わずのめり出さした上体をからく後ろにささえて、情けなげに立ちすくみながら、
 「ま、ちょっと」
 と呼びかけた。事務長の後ろに続こうとした岡と呼ばれた青年はこれを聞くといち早く足を止めて葉子のほうを振り向いた。
 「始めてお知り合いになったばかりですのに、すぐお心安だてをしてほんとうになんでございますが、ちょっとお肩を貸していただけませんでしょうか。なんですか足の先が凍ったようになってしまって……」
 と葉子は美しく顔をしかめて見せた。岡はそれらの言葉が拳《こぶし》となって続けさまに胸を打つとでもいったように、しばらくの間どぎまぎ躊躇《ちゅうちょ》していたが、やがて思い切ったふうで、黙ったまま引き返して来た。身のたけも肩幅も葉子とそう違わないほどな華車《きゃしゃ》なからだをわなわなと震わせているのが、肩に手をかけないうちからよく知れた。事務長は振り向きもしないで、靴《くつ》のかかとをこつこつと鳴らしながら早二三|間《げん》のかなたに遠ざかっていた。
 鋭敏な馬の皮膚のようにだちだちと震える青年の肩におぶいかかりながら、葉子は黒い大きな事務長の後ろ姿を仇《あだ》かたきでもあるかのように鋭く見つめてそろそろと歩いた。西洋酒の芳醇《ほうじゅん》な甘い酒の香が、まだ酔いからさめきらない事務長の身のまわりを毒々しい靄《もや》となって取り巻いていた。放縦という事務長の心《しん》の臓は、今不用心に開かれている。あの無頓着《むとんじゃく》そうな肩のゆすりの陰にすさまじい desire の火が激しく燃えているはずである。葉子は禁断の木の実を始めてくいかいだ原人のような渇欲をわれにもなくあおりたてて、事務長の心の裏をひっくり返して縫い目を見窮めようとばかりしていた。おまけに青年の肩に置いた葉子の手は、華車《きゃしゃ》とはいいながら、男性的な強い弾力を持つ筋肉の震えをまざまざと感ずるので、これらの二人《ふたり》の男が与える奇怪な刺激はほしいままにからまりあって、恐ろしい心を葉子に起こさせた。木村……何をうるさい、よけいな事はいわずと黙って見ているがいい。心の中をひらめき過ぎる断片的な影を葉子は枯れ葉のように払いのけながら、目の前に見る蠱惑《こわく》におぼれて行こうとのみした。口から喉《のど》はあえぎたいほどにひからびて、岡の肩に乗せた手は、生理的な作用から冷たく堅くなっていた。そして熱をこめてうるんだ目を見張って、事務長の後ろ姿ばかりを見つめながら、五体はふらふらとたわいもなく岡のほうによりそった。吐き出す気息《いき》は燃え立って岡の横顔をなでた。事務長は油断なく角燈で左右を照らしながら甲板の整頓《せいとん》に気を配って歩いている。
 葉子はいたわるように岡の耳に口をよせて、
 「あなたはどちらまで」
 と聞いてみた。その声はいつものように澄んではいなかった。そして気を許した女からばかり聞かれるような甘たるい親しさがこもっていた。岡の肩は感激のために一入《ひとしお》震えた。頓《とみ》には返事もし得ないでいたようだったが、やがて臆病《おくびょう》そうに、
 「あなたは」
 とだけ聞き返して、熱心に葉子の返事を待つらしかった。
 「シカゴまで参るつもりですの」
 「僕も……わたしもそうです」
 岡は待ち設けたように声を震わしながらきっぱり[#「きっぱり」に傍点]と答えた。
 「シカゴの大学にでもいらっしゃいますの」
 岡は非常にあわてたようだった。なんと返事をしたものか恐ろしくためらうふうだったが、やがてあいまいに口の中で、
 「えゝ」
 とだけつぶやいて黙ってしまった。そのおぼこさ……葉子は闇《やみ》の中で目をかがやかしてほほえんだ。そして岡をあわれんだ。
 しかし青年をあわれむと同時に葉子の目は稲妻のように事務長の後ろ姿を斜めにかすめた。青年をあわれむ自分は事務長にあわれまれているのではないか。始終一歩ずつ上手《うわて》を行くような事務長が一種の憎しみをもってながめやられた。かつて味わった事のないこの憎しみの心を葉子はどうする事もできなかった。
 二人《ふたり》に別れて自分の船室に帰った葉子はほとんど delirium の状態にあった。眼睛《ひとみ》は大きく開いたままで、盲目《めくら》同様に部屋《へや》の中の物を見る事をしなかった。冷えきった手先はおどおどと両の袂《たもと》をつかんだり離したりしていた。葉子は夢中でショールとボアとをかなぐり捨て、もどかしげに帯だけほどくと、髪も解かずに寝台の上に倒れかかって、横になったまま羽根|枕《まくら》を両手でひし[#「ひし」に傍点]と抱いて顔を伏せた。なぜと知らぬ涙がその時|堰《せき》を切ったように流れ出した。そして涙はあとからあとからみなぎるようにシーツを湿《うるお》しながら、充血した口びるは恐ろしい笑いをたたえてわなわなと震えていた。
 一時間ほどそうしているうちに泣き疲れに疲れて、葉子はかけるものもかけずにそのまま深い眠りに陥って行った。けばけばしい電燈の光はその翌日の朝までこのなまめかしくもふしだらな葉子の丸寝姿《まるねすがた》を画《か》いたように照らしていた。

    一四

 なんといっても船旅は単調だった。たとい日々夜々に一瞬もやむ事なく姿を変える海の波と空の雲とはあっても、詩人でもないなべての船客は、それらに対して途方に暮れた倦怠《けんたい》の視線を投げるばかりだった。地上の生活からすっかり[#「すっかり」に傍点]遮断《しゃだん》された船の中には、ごく小さな事でも目新しい事件の起こる事のみが待ち設けられていた。そうした生活では葉子が自然に船客の注意の焦点となり、話題の提供者となったのは不思議もない。毎日毎日凍りつくような濃霧の間を、東へ東へと心細く走り続ける小さな汽船の中の社会は、あらわには知れないながら、何かさびしい過去を持つらしい、妖艶《ようえん》な、若い葉子の一挙一動を、絶えず興味深くじっ[#「じっ」に傍点]と見守るように見えた。
 かの奇怪な心の動乱の一夜を過ごすと、その翌日から葉子はまたふだんのとおりに、いかにも足もとがあやうく見えながら少しも破綻《はたん》を示さず、ややもすれば他人の勝手になりそうでいて、よそからは決して動かされない女になっていた。始めて食堂に出た時のつつましやかさに引きかえて、時には快活な少女のように晴れやかな顔つきをして、船客らと言葉をかわしたりした。食堂に現われる時の葉子の服装だけでも、退屈に倦《うん》じ果てた人々には、物好きな期待を与えた。ある時は葉子は慎み深い深窓《しんそう》の婦人らしく上品に、ある時は素養の深い若いディレッタントのように高尚《こうしょう》に、またある時は習俗から解放された adventuress とも思われる放胆を示した。その極端な変化が一日の中に起こって来ても、人々はさして怪しく思わなかった。それほど葉子の性格には複雑なものが潜んでいるのを感じさせた。絵島丸が横浜の桟橋につながれている間から、人々の注意の中心となっていた田川夫人を、海気にあって息気《いき》をふき返した人魚のような葉子のかたわらにおいて見ると、身分、閲歴、学殖、年齢などといういかめしい資格が、かえって夫人を固い古ぼけた輪郭にはめこんで見せる結果になって、ただ神体のない空虚な宮殿のような空《そら》いかめしい興なさを感じさせるばかりだった。女の本能の鋭さから田川夫人はすぐそれを感づいたらしかった。夫人の耳もとに響いて来るのは葉子のうわさばかりで、夫人自身の評判は見る見る薄れて行った。ともすると田川|博士《はかせ》までが、夫人の存在を忘れたような振る舞いをする、そう夫人を思わせる事があるらしかった。食堂の卓をはさんで向かい合う夫妻が他人同士のような顔をして互い互いにぬすみ見をするのを葉子がすばやく見て取った事などもあった。といって今まで自分の子供でもあしらうように振る舞っていた葉子に対して、今さら夫人は改まった態度も取りかねていた。よくも仮面をかぶって人を陥れたという女らしいひねくれ[#「ひねくれ」に傍点]た妬《ねた》みひがみが、明らかに夫人の表情に読まれ出した。しかし実際の処置としては、くやしくても虫を殺して、自分を葉子まで引き下げるか、葉子を自分まで引き上げるよりしかたがなかった。夫人の葉子に対する仕打ちは戸板をかえすように違って来た。葉子は知らん顔をして夫人のするがままに任せていた。葉子はもとより夫人のあわてたこの処置が夫人には致命的な不利益であり、自分には都合のいい仕合わせであるのを知っていたからだ。案のじょう、田川夫人のこの譲歩は、夫人に何らかの同情なり尊敬なりが加えられる結果とならなかったばかりでなく、その勢力はますます下り坂になって、葉子はいつのまにか田川夫人と対等で物をいい合っても少しも不思議とは思わせないほどの高みに自分を持ち上げてしまっていた。落ち目になった夫人は年がいもなくしどろもどろ[#「しどろもどろ」に傍点]になっていた。恐ろしいほどやさしく親切に葉子をあしらうかと思えば、皮肉らしくばか丁寧に物をいいかけたり、あるいは突然路傍の人に対するようなよそよそしさを装って見せたりした。死にかけた蛇《へび》ののたうち回るのを見やる蛇使いのように、葉子は冷ややかにあざ笑いながら、夫人の心の葛藤《かっとう》を見やっていた。
 単調な船旅にあき果てて、したたか刺激に飢えた男の群れは、この二人《ふたり》の女性を中心にして知らず知らず渦巻《うずま》きのようにめぐっていた。田川夫人と葉子との暗闘は表面には少しも目に立たないで戦われていたのだけれども、それが男たちに自然に刺激を与えないではおかなかった。平らな水に偶然落ちて来た微風のひき起こす小さな波紋ほどの変化でも、船の中では一《ひと》かどの事件だった。男たちはなぜともなく一種の緊張と興味とを感ずるように見えた。
 田川夫人は微妙な女の本能と直覚とで、じりじりと葉子の心のすみずみを探り回しているようだったが、ついにここぞという急所をつかんだらしく見えた。それまで事務長に対して見下したような丁寧さを見せていた夫人は、見る見る態度を変えて、食卓でも二人は、席が隣り合っているからという以上な親しげな会話を取りかわすようになった。田川博士までが夫人の意を迎えて、何かにつけて事務長の室《へや》に繁《しげ》く出入りするばかりか、事務長はたいていの夜は田川夫妻の部屋《へや》に呼び迎えられた。田川博士はもとより船の正客である。それをそらすような事務長ではない。倉地は船医の興録《こうろく》までを手伝わせて、田川夫妻の旅情を慰めるように振る舞った。田川博士の船室には夜おそくまで灯《ひ》がかがやいて、夫人の興ありげに高く笑う声が室外まで聞こえる事が珍しくなかった。
 葉子は田川夫人のこんな仕打ちを受けても、心の中で冷笑《あざわら》っているのみだった。すでに自分が勝ち味になっているという自覚は、葉子に反動的な寛大な心を与えて、夫人が事務長を※[#「※」は「てへんに虜」、132-2]《とりこ》にしようとしている事などはてんで問題にはしまいとした。夫人はよけいな見当違いをして、痛くもない腹を探っている、事務長がどうしたというのだ。母の胎《はら》を出るとそのままなんの訓練も受けずに育ち上がったようなぶしつけ[#「ぶしつけ」に傍点]な、動物性の勝った、どんな事をして来たのか、どんな事をするのかわからないようなたかが事務長になんの興味があるものか。あんな人間に気を引かれるくらいなら、自分はとうに喜んで木村の愛になずいているのだ。見当違いもいいかげんにするがいい。そう歯がみをしたいくらいな気分で思った。
 ある夕方葉子はいつものとおり散歩しようと甲板《かんぱん》に出て見ると、はるか遠い手欄《てすり》の所に岡がたった一人《ひとり》しょんぼりとよりかかって、海を見入っていた。葉子はいたずら者らしくそっ[#「そっ」に傍点]と足音を盗んで、忍び忍び近づいて、いきなり岡と肩をすり合わせるようにして立った。岡は不意に人が現われたので非常に驚いたふうで、顔をそむけてその場を立ち去ろうとするのを、葉子は否応《いやおう》なしに手を握って引き留めた。岡が逃げ隠れようとするのも道理、その顔には涙のあとがまざまざと残っていた。少年から青年になったばかりのような、内気らしい、小柄《こがら》な岡の姿は、何もかも荒々しい船の中ではことさらデリケートな可憐《かれん》なものに見えた。葉子はいたずらばかりでなく、この青年に一種の淡々《あわあわ》しい愛を覚えた。
 「何を泣いてらしったの」
 小首を存分傾けて、少女が少女に物を尋ねるように、肩に手を置きそえながら聞いてみた。
 「僕……泣いていやしません」
 岡は両方の頬《ほお》を紅《あか》く彩《いろど》って、こういいながらくるり[#「くるり」に傍点]とからだをそっぽう[#「そっぽう」に傍点]に向け換えようとした。それがどうしても少女のようなしぐさだった。抱きしめてやりたいようなその肉体と、肉体につつまれた心。葉子はさらにすり寄った。
 「いゝえいゝえ泣いてらっしゃいましたわ」
 岡は途方に暮れたように目の下の海をながめていたが、のがれる術《すべ》のないのを覚《さと》って、大っぴらにハンケチをズボンのポケットから出して目をぬぐった。そして少し恨むような目つきをして、始めてまとも[#「まとも」に傍点]に葉子を見た。口びるまでが苺《いちご》のように紅《あか》くなっていた。青白い皮膚に嵌《は》め込まれたその紅《あか》さを、色彩に敏感な葉子は見のがす事ができなかった。岡は何かしら非常に興奮していた。その興奮してぶるぶる震えるしなやかな手を葉子は手欄《てすり》ごとじっ[#「じっ」に傍点]と押えた。
 「さ、これでおふき遊ばせ」
 葉子の袂《たもと》からは美しい香《かお》りのこもった小さなリンネルのハンケチが取り出された。
 「持ってるんですから」
 岡は恐縮したように自分のハンケチを顧みた。
 「何をお泣きになって……まあわたしったらよけいな事まで伺って」
 「何いいんです……ただ海を見たらなんとなく涙ぐんでしまったんです。からだが弱いもんですからくだらない事にまで感傷的になって困ります。……なんでもない……」
 葉子はいかにも同情するように合点合点した。岡が葉子とこうして一緒にいるのをひどくうれしがっているのが葉子にはよく知れた。葉子はやがて自分のハンケチを手欄《てすり》の上においたまま、
 「わたしの部屋《へや》へもよろしかったらいらっしゃいまし。またゆっくりお話ししましょうね」
 となつこくいってそこを去った。
 岡は決して葉子の部屋を訪れる事はしなかったけれども、この事のあって後は、二人《ふたり》はよく親しく話し合った。岡は人なじみの悪い、話の種《たね》のない、ごく初心《うぶ》な世慣れない青年だったけれども、葉子はわずかなタクトですぐ隔てを取り去ってしまった。そして打ち解けて見ると彼は上品な、どこまでも純粋な、そして慧《さ》かしい青年だった。若い女性にはそのはにかみや[#「はにかみや」に傍点]な所から今まで絶えて接していなかったので、葉子にはすがり付くように親しんで来た。葉子も同性の恋をするような気持ちで岡をかわいがった。
 そのころからだ、事務長が岡に近づくようになったのは。岡は葉子と話をしない時はいつでも事務長と散歩などをしていた。しかし事務長の親友とも思われる二三の船客に対しては口もきこうとはしなかった。岡は時々葉子に事務長のうわさをして聞かした。そして表面はあれほど粗暴のように見えながら、考えの変わった、年齢や位置などに隔てをおかない、親切な人だといったりした。もっと交際してみるといいともいった。そのたびごとに葉子は激しく反対した。あんな人間を岡が話し相手にするのは実際不思議なくらいだ。あの人のどこに岡と共通するような優《すぐ》れた所があろうなどとからかった。
 葉子に引き付けられたのは岡ばかりではなかった。午餐《ごさん》が済んで人々がサルンに集まる時などは団欒《だんらん》がたいてい三つくらいに分かれてできた。田川夫妻の周囲にはいちばん多数の人が集まった。外国人だけの団体から田川のほうに来る人もあり、日本の政治家実業家連はもちろんわれ先にそこに馳《は》せ参じた。そこからだんだん細く糸のようにつながれて若い留学生とか学者とかいう連中が陣を取り、それからまただんだん太くつながれて、葉子と少年少女らの群れがいた。食堂で不意の質問に辟易《へきえき》した外交官補などは第一の連絡の綱となった。衆人の前では岡は遠慮するようにあまり葉子に親しむ様子は見せずに不即不離の態度を保っていた。遠慮会釈なくそんな所で葉子になれ親しむのは子供たちだった。まっ白なモスリンの着物を着て赤い大きなリボンを装った少女たちや、水兵服で身軽に装った少年たちは葉子の周囲に花輪のように集まった。葉子がそういう人たちをかたみがわり[#「かたみがわり」に傍点]に抱いたりかかえたりして、お伽話《とぎばなし》などして聞かせている様子は、船中の見ものだった。どうかするとサルンの人たちは自分らの間の話題などは捨てておいてこの可憐《かれん》な光景をうっとり[#「うっとり」に傍点]見やっているような事もあった。
 ただ一つこれらの群れからは全く没交渉な一団があった。それは事務長を中心にした三四人の群れだった。いつでも部屋の一|隅《ぐう》の小さな卓を囲んで、その卓の上にはウイスキー用の小さなコップと水とが備えられていた。いちばんいい香《にお》いの煙草《たばこ》の煙もそこから漂って来た。彼らは何かひそひそと語り合っては、時々|傍若無人《ぼうじゃくぶじん》な高い笑い声を立てた。そうかと思うとじっと田川の群れの会話に耳を傾けていて、遠くのほうから突然皮肉の茶々を入れる事もあった。だれいうとなく人々はその一団を犬儒派《けんじゅは》と呼びなした。彼らがどんな種類の人でどんな職業に従事しているかを知る者はなかった。岡などは本能的にその人たちを忌《い》みきらっていた。葉子も何かしら気のおける連中だと思った。そして表面はいっこう無頓着《むとんじゃく》に見えながら、自分に対して充分の観察と注意とを怠っていないのを感じていた。
 どうしてもしかし葉子には、船にいるすべての人の中で事務長がいちばん気になった。そんなはず、理由のあるはずはないと自分をたしなめてみてもなんのかいもなかった。サルンで子供たちと戯れている時でも、葉子は自分のして見せる蠱惑的《こわくてき》な姿態《しな》がいつでも暗々裡《あんあんり》に事務長のためにされているのを意識しないわけには行かなかった。事務長がその場にいない時は、子供たちをあやし楽しませる熱意さえ薄らぐのを覚えた。そんな時に小さい人たちはきまってつまらなそうな顔をしたりあくびをしたりした。葉子はそうした様子を見るとさらに興味を失った。そしてそのまま立って自分の部屋《へや》に帰ってしまうような事をした。それにも係わらず事務長はかつて葉子に特別な注意を払うような事はないらしく見えた。それが葉子をますます不快にした。夜など甲板《かんぱん》の上をそぞろ歩きしている葉子が、田川|博士《はかせ》の部屋の中から例の無遠慮な事務長の高笑いの声をもれ聞いたりなぞすると、思わずかっ[#「かっ」に傍点]となって、鉄の壁すら射通しそうな鋭いひとみを声のするほうに送らずにはいられなかった。
 ある日の午後、それは雲行きの荒い寒い日だった。船客たちは船の動揺に辟易《へきえき》して自分の船室に閉じこもるのが多かったので、サルンががら明きになっているのを幸い、葉子は岡を誘い出して、部屋のかどになった所に折れ曲がって据《す》えてあるモロッコ皮のディワンに膝《ひざ》と膝を触れ合わさんばかり寄り添って腰をかけて、トランプをいじって遊んだ。岡は日ごろそういう遊戯には少しも興味を持っていなかったが、葉子と二人《ふたり》きりでいられるのを非常に幸福に思うらしく、いつになく快活に札をひねくった。その細いしなやかな手からぶきっちょう[#「ぶきっちょう」に傍点]に札が捨てられたり取られたりするのを葉子はおもしろいものに見やりながら、断続的に言葉を取りかわした。
 「あなたもシカゴにいらっしゃるとおっしゃってね、あの晩」
 「えゝいいました。……これで切ってもいいでしょう」
 「あらそんなものでもったいない……もっと低いものはおありなさらない?……シカゴではシカゴ大学にいらっしゃるの?」
 「これでいいでしょうか……よくわからないんです」
 「よくわからないって、そりゃおかしゅうござんすわね、そんな事お決めなさらずに米国《あっち》にいらっしゃるって」
 「僕は……」
 「これでいただきますよ……僕は……何」
 「僕はねえ」
 「えゝ」
 葉子はトランプをいじるのをやめて顔を上げた。岡は懺悔《ざんげ》でもする人のように、面《おもて》を伏せて紅《あか》くなりながら札をいじくっていた。
 「僕のほんとうに行く所はボストンだったのです。そこに僕の家で学資をやってる書生がいて僕の監督をしてくれる事になっていたんですけれど……」
 葉子は珍しい事を聞くように岡に目をすえた。岡はますますいい憎そうに、
 「あなたにおあい申してから僕もシカゴに行きたくなってしまったんです」
 とだんだん語尾を消してしまった。なんという可憐《かれん》さ……葉子はさらに岡にすり寄った。岡は真剣になって顔まで青ざめて来た。
 「お気にさわったら許してください……僕はただ……あなたのいらっしゃる所にいたいんです、どういうわけだか……」
 もう岡は涙ぐんでいた。葉子は思わず岡の手を取ってやろうとした。
 その瞬間にいきなり事務長が激しい勢いでそこにはいって来た。そして葉子には目もくれずに激しく岡を引っ立てるようにして散歩に連れ出してしまった。岡は唯々《いい》としてそのあとにしたがった。
 葉子はかっ[#「かっ」に傍点]となって思わず座から立ち上がった。そして思い存分事務長の無礼を責めようと身構えした。その時不意に一つの考えが葉子の頭をひらめき通った。「事務長はどこかで自分たちを見守っていたに違いない」
 突っ立ったままの葉子の顔に、乳房《ちぶさ》を見せつけられた子供のようなほほえみがほのかに浮かび上がった。

    一五

 葉子はある朝思いがけなく早起きをした。米国に近づくにつれて緯度はだんだん下がって行ったので、寒気も薄らいでいたけれども、なんといっても秋立った空気は朝ごとに冷《ひ》え冷《び》えと引きしまっていた。葉子は温室のような船室からこのきりっ[#「きりっ」に傍点]とした空気に触れようとして甲板《かんぱん》に出てみた。右舷《うげん》を回って左舷に出ると計らずも目の前に陸影を見つけ出して、思わず足を止めた。そこには十日《とおか》ほど念頭から絶え果てていたようなものが海面から浅くもれ上がって続いていた。葉子は好奇な目をかがやかしながら、思わず一たんとめた足を動かして手欄《てすり》に近づいてそれを見渡した。オレゴン松がすくすくと白波の激しくかみよせる岸べまで密生したバンクーバー島の低い山なみがそこにあった。物すごく底光りのするまっさおな遠洋の色は、いつのまにか乱れた波の物狂わしく立ち騒ぐ沿海の青灰色に変わって、その先に見える暗緑の樹林はどんより[#「どんより」に傍点]とした雨空の下に荒涼として横たわっていた。それはみじめな姿だった。距《へだた》りの遠いせいか船がいくら進んでも景色にはいささかの変化も起こらないで、荒涼たるその景色はいつまでも目の前に立ち続いていた。古綿《ふるわた》に似た薄雲をもれる朝日の光が力弱くそれを照らすたびごとに、煮え切らない影と光の変化がかすかに山と海とをなでて通るばかりだ。長い長い海洋の生活に慣れた葉子の目には陸地の印象はむしろきたないものでも見るように不愉快だった。もう三日ほどすると船はいやでもシヤトルの桟橋につながれるのだ。向こうに見えるあの陸地の続きにシヤトルはある。あの松の林が切り倒されて少しばかりの平地となった所に、ここに一つかしこに一つというように小屋が建ててあるが、その小屋の数が東に行くにつれてだんだん多くなって、しまいには一かたまりの家屋ができる。それがシヤトルであるに違いない。うらさびしく秋風の吹きわたるその小さな港町の桟橋に、野獣のような諸国の労働者が群がる所に、この小さな絵島丸が疲れきった船体を横たえる時、あの木村が例のめまぐるしい機敏さで、アメリカ風《ふう》になり済ましたらしい物腰で、まわりの景色に釣《つ》り合わない景気のいい顔をして、船梯子《ふなばしご》を上って来る様子までが、葉子には見るように想像された。
 「いやだいやだ。どうしても木村と一緒になるのはいやだ。私は東京に帰ってしまおう」
 葉子はだだっ子らしく今さらそんな事を本気に考えてみたりしていた。
 水夫長と一人《ひとり》のボーイとが押し並んで、靴《くつ》と草履《ぞうり》との音をたてながらやって来た。そして葉子のそばまで来ると、葉子が振り返ったので二人《ふたり》ながら慇懃《いんぎん》に、
 「お早うございます」
 と挨拶《あいさつ》した。その様子がいかにも親しい目上に対するような態度で、ことに水夫長は、
 「御退屈でございましたろう。それでもこれであと三日になりました。今度の航海にはしかしお陰様で大助かりをしまして、ゆうべからきわだってよくなりましてね」
 と付け加えた。
 葉子は一等船客の間の話題の的《まと》であったばかりでなく、上級船員の間のうわさの種《たね》であったばかりでなく、この長い航海中に、いつのまにか下級船員の間にも不思議な勢力になっていた。航海の八日目かに、ある老年の水夫がフォクスルで仕事をしていた時、錨《いかり》の鎖に足先をはさまれて骨をくじいた。プロメネード・デッキで偶然それを見つけた葉子は、船医より早くその場に駆けつけた。結びっこぶのように丸まって、痛みのためにもがき苦しむその老人のあとに引きそって、水夫|部屋《べや》の入り口まではたくさんの船員や船客が物珍しそうについて来たが、そこまで行くと船員ですらが中にはいるのを躊躇《ちゅうちょ》した。どんな秘密が潜んでいるかだれも知る人のないその内部は、船中では機関室よりも危険な一区域と見なされていただけに、その入り口さえが一種人を脅かすような薄気味わるさを持っていた。葉子はしかしその老人の苦しみもがく姿を見るとそんな事は手もなく忘れてしまっていた。ひょっとすると邪魔物扱いにされてあの老人は殺されてしまうかもしれない。あんな齢《とし》までこの海上の荒々しい労働に縛られているこの人にはたよりになる縁者もいないのだろう。こんな思いやりがとめどもなく葉子の心を襲い立てるので、葉子はその老人に引きずられてでも行くようにどんどん水夫部屋の中に降りて行った。薄暗い腐敗した空気は蒸《む》れ上がるように人を襲って、陰の中にうよ[#「うよ」に傍点]うよとうごめく群れの中からは太く錆《さ》びた声が投げかわされた。闇《やみ》に慣れた水夫たちの目はやにわに葉子の姿を引っ捕えたらしい。見る見る一種の興奮が部屋のすみずみにまでみちあふれて、それが奇怪なののしり声となって物すごく葉子に逼《せま》った。だぶだぶのズボン一つで、節くれ立った厚みのある毛胸に一糸もつけない大男は、やおら人中《ひとなか》から立ち上がると、ずかずか葉子に突きあたらんばかりにすれ違って、すれ違いざまに葉子の顔を孔《あな》のあくほどにらみつけて、聞くにたえない雑言《ぞうごん》を高々とののしって、自分の群れを笑わした。しかし葉子は死にかけた子にかしずく母のように、そんな事には目もくれずに老人のそばに引き添って、臥安《ねやす》いように寝床を取りなおしてやったり、枕《まくら》をあてがってやったりして、なおもその場を去らなかった。そんなむさ苦しいきたない所にいて老人がほったらかしておかれるのを見ると、葉子はなんという事なしに涙があとからあとから流れてたまらなかった。葉子はそこを出て無理に船医の興録をそこに引っぱって来た。そして権威を持った人のように水夫長にはっきりしたさしずをして、始めて安心して悠々《ゆうゆう》とその部屋を出た。葉子の顔には自分のした事に対して子供のような喜びの色が浮かんでいた。水夫たちは暗い中にもそれを見のがさなかったと見える。葉子が出て行く時には一人《ひとり》として葉子に雑言《ぞうごん》をなげつけるものがいなかった。それから水夫らはだれいうとなしに葉子の事を「姉御《あねご》姉御」と呼んでうわさするようになった。その時の事を水夫長は葉子に感謝したのだ。
 葉子はしんみにいろいろと病人の事を水夫長に聞きただした。実際水夫長に話しかけられるまでは、葉子はそんな事は思い出しもしていなかったのだ。そして水夫長に思い出させられて見ると、急にその老水夫の事が心配になり出したのだった。足はとうとう不具になったらしいが痛みはたいていなくなったと水夫長がいうと葉子は始めて安心して、また陸のほうに目をやった。水夫長とボーイとの足音は廊下のかなたに遠ざかって消えてしまった。葉子の足もとにはただかすかなエンジンの音と波が舷《ふなばた》を打つ音とが聞こえるばかりだった。
 葉子はまた自分一人の心に帰ろうとしてしばらくじっ[#「じっ」に傍点]と単調な陸地に目をやっていた。その時突然岡が立派な西洋絹の寝衣《ねまき》の上に厚い外套《がいとう》を着て葉子のほうに近づいて来たのを、葉子は視角の一端にちらりと捕えた。夜でも朝でも葉子がひとりでいると、どこでどうしてそれを知るのか、いつのまにか岡がきっと身近《みぢか》に現われるのが常なので、葉子は待ち設けていたように振り返って、朝の新しいやさしい微笑を与えてやった。
 「朝はまだずいぶん冷えますね」
 といいながら、岡は少し人になれた少女のように顔を赤くしながら葉子のそばに身を寄せた。葉子は黙ってほほえみながらその手を取って引き寄せて、互いに小さな声で軽い親しい会話を取りかわし始めた。
 と、突然岡は大きな事でも思い出した様子で、葉子の手をふりほどきながら、
 「倉地さんがね、きょうあなたにぜひ願いたい用があるっていってましたよ」
 といった。葉子は、
 「そう……」
 とごく軽く受けるつもりだったが、それが思わず息気《いき》苦しいほどの調子になっているのに気がついた。
 「なんでしょう、わたしになんぞ用って」
 「なんだかわたしちっとも知りませんが、話をしてごらんなさい。あんなに見えているけれども親切な人ですよ」
 「まだあなただまされていらっしやるのね。あんな高慢ちきな乱暴な人わたしきらいですわ。……でも先方《むこう》で会いたいというのなら会ってあげてもいいから、ここにいらっしゃいって、あなた今すぐいらしって呼んで来てくださいましな。会いたいなら会いたいようにするがようござんすわ」
 葉子は実際激しい言葉になっていた。
 「まだ寝ていますよ」
 「いいから構わないから起こしておやりになればよござんすわ」
 岡は自分に親しい人を親しい人に近づける機会が到来したのを誇り喜ぶ様子を見せて、いそいそと駆けて行った。その後ろ姿を見ると葉子は胸に時ならぬときめき[#「ときめき」に傍点]を覚えて、眉《まゆ》の上の所にさっ[#「さっ」に傍点]と熱い血の寄って来るのを感じた。それがまた憤《いきどお》ろしかった。
 見上げると朝の空を今まで蔽《おお》うていた綿のような初秋の雲は所々ほころびて、洗いすました青空がまばゆく切れ目切れ目に輝き出していた。青灰色によごれていた雲そのものすらが見違えるように白く軽くなって美しい笹縁《ささべり》をつけていた。海は目も綾《あや》な明暗をなして、単調な島影もさすがに頑固《がんこ》な沈黙ばかりを守りつづけてはいなかった。葉子の心は抑《おさ》えよう抑えようとしても軽くはなやかにばかりなって行った。決戦……と葉子はその勇み立つ心の底で叫んだ。木村の事などはとうの昔に頭の中からこそぎ取るように消えてしまって、そのあとにはただ何とはなしに、子供らしい浮き浮きした冒険の念ばかりが働いていた。自分でも知らずにいたような weird な激しい力が、想像も及ばぬ所にぐんぐんと葉子を引きずって行くのを、葉子は恐れながらもどこまでもついて行こうとした。どんな事があっても自分がその中心になっていて、先方《むこう》をひき付けてやろう。自分をはぐらかすような事はしまいと始終張り切ってばかりいたこれまでの心持ちと、この時わくがごとく持ち上がって来た心持ちとは比べものにならなかった。あらん限りの重荷を洗いざらい思いきりよく投げすててしまって、身も心も何か大きな力に任しきるその快さ心安さは葉子をすっかり夢心地《ゆめごこち》にした。そんな心持ちの相違を比べて見る事さえできないくらいだった。葉子は子供らしい期待に目を輝かして岡の帰って来るのを待っていた。
 「だめですよ。床の中にいて戸も明けてくれずに、寝言《ねごと》みたいな事をいってるんですもの」
 といいながら岡は当惑顔で葉子のそばに現われた。
 「あなたこそだめね。ようござんすわ、わたしが自分で行って見てやるから」
 葉子にはそこにいる岡さえなかった。少し怪訝《けげん》そうに葉子のいつになくそわそわした様子を見守る青年をそこに捨ておいたまま葉子は険しく細い階子段《はしごだん》を降りた。
 事務長の部屋《へや》は機関室と狭い暗い廊下一つを隔てた所にあって、日の目を見ていた葉子には手さぐりをして歩かねばならぬほど勝手がちがっていた。地震のように機械の震動が廊下の鉄壁に伝わって来て、むせ返りそうな生《なま》暖かい蒸気のにおいと共に人を不愉快にした。葉子は鋸屑《おがくず》を塗りこめてざらざらと手ざわりのいやな壁をなでて進みながらようやく事務室の戸の前に来て、あたりを見回して見て、ノックもせずにいきなりハンドルをひねった。ノックをするひまもないようなせかせか[#「せかせか」に傍点]した気分になっていた。戸は音も立てずにやすやすとあいた。「戸もあけてくれずに……」との岡の言葉から、てっきり[#「てっきり」に傍点]鍵《かぎ》がかかっていると思っていた葉子にはそれが意外でもあり、あたりまえにも思えた。しかしその瞬間には葉子はわれ知らずはっ[#「はっ」に傍点]となった。ただ通りすがりの人にでも見付けられまいとする心が先に立って、葉子は前後のわきまえもなく、ほとんど無意識に部屋《へや》にはいると、同時にぱたん[#「ぱたん」に傍点]と音をさせて戸をしめてしまった。
 もうすべては後悔にはおそすぎた。岡の声で今寝床から起き上がったらしい事務長は、荒い棒縞《ぼうじま》のネルの筒袖《つつそで》一枚を着たままで、目のはれぼったい顔をして、小山のような大きな五体を寝床にくねらして、突然はいって来た葉子をぎっ[#「ぎっ」に傍点]と見守っていた。とうの昔に心の中は見とおしきっているような、それでいて言葉もろくろくかわさないほどに無頓着《むとんじゃく》に見える男の前に立って、葉子はさすがにしばらくはいい出《い》づべき言葉もなかった。あせる気を押し鎮《しず》め押ししずめ、顔色を動かさないだけの沈着を持ち続けようとつとめたが、今までに覚えない惑乱のために、頭はぐら[#「ぐら」に傍点]ぐらとなって、無意味だと自分でさえ思われるような微笑をもらす愚かさをどうする事もできなかった。倉地は葉子がその朝その部屋《へや》に来るのを前からちゃん[#「ちゃん」に傍点]と知り抜いてでもいたように落ち付き払って、朝の挨拶《あいさつ》もせずに、
 「さ、おかけなさい。ここが楽《らく》だ」
 といつものとおりな少し見おろした親しみのある言葉をかけて、昼間は長椅子《ながいす》がわりに使う寝台の座を少し譲って待っている。葉子は敵意を含んでさえ見える様子で立ったまま、
 「何か御用がおありになるそうでございますが……」
 固くなりながらいって、あゝまた見えすく事をいってしまったとすぐ後悔した。事務長は葉子の言葉を追いかけるように、
 「用はあとでいいます。まあおかけなさい」
 といってすましていた。その言葉を聞くと、葉子はそのいいなり放題になるよりしかたがなかった。「お前は結局はここにすわるようになるんだよ」と事務長は言葉の裏に未来を予知しきっているのが葉子の心を一種捨てばちなものにした。「すわってやるものか」という習慣的な男に対する反抗心はただわけもなくひしがれていた。葉子はつか[#「つか」に傍点]つかと進みよって事務長と押し並んで寝台に腰かけてしまった。
 この一つの挙動が――このなんでもない一つの挙動が急に葉子の心を軽くしてくれた。葉子はその瞬間に大急ぎで今まで失いかけていたものを自分のほうにたぐり戻《もど》した。そして事務長を流し目に見やって、ちょっとほほえんだその微笑には、さっきの微笑の愚かしさが潜んでいないのを信ずる事ができた。葉子の性格の深みからわき出るおそろしい自然さがまとまった姿を現わし始めた。
 「何御用でいらっしゃいます」
 そのわざとらしい造り声の中にかすかな親しみをこめて見せた言葉も、肉感的に厚みを帯びた、それでいて賢《さか》しげに締まりのいい二つの口びるにふさわしいものとなっていた。
 「きょう船が検疫所に着くんです、きょうの午後に。ところが検疫医がこれなんだ」
 事務長は朋輩《ほうばい》にでも打ち明けるように、大きな食指を鍵形《かぎがた》にまげて、たぐるような格好をして見せた。葉子がちょっと判じかねた顔つきをしていると、
 「だから飲ましてやらんならんのですよ。それからポーカーにも負けてやらんならん。美人がいれば拝ましてもやらんならん」
 となお手まねを続けながら、事務長は枕《まくら》もとにおいてある頑固《がんこ》なパイプを取り上げて、指の先で灰を押しつけて、吸い残りの煙草《たばこ》に火をつけた。
 「船をさえ見ればそうした悪戯《わるさ》をしおるんだから、海|坊主《ぼうず》を見るようなやつです。そういうと頭のつるり[#「つるり」に傍点]とした水母《くらげ》じみた入道らしいが、実際は元気のいい意気な若い医者でね。おもしろいやつだ。一つ会ってごらん。わたしでからがあんな所に年じゅう置かれればああなるわさ」
 といって、右手に持ったパイプを膝《ひざ》がしらに置き添えて、向き直ってまともに葉子を見た。しかしその時葉子は倉地の言葉にはそれほど注意を払ってはいない様子を見せていた。ちょうど葉子の向こう側にある事務テーブルの上に飾られた何枚かの写真を物珍しそうにながめやって、右手の指先を軽く器用に動かしながら、煙草《たばこ》の煙が紫色に顔をかすめるのを払っていた。自分を囮《おとり》にまで使おうとする無礼もあなたなればこそなんともいわずにいるのだという心を事務長もさすがに推《すい》したらしい。しかしそれにも係わらず事務長は言いわけ一ついわず、いっこう平気なもので、きれいな飾り紙のついた金口《きんぐち》煙草の小箱を手を延ばして棚《たな》から取り上げながら、
 「どうです一本」
 と葉子の前にさし出した。葉子は自分が煙草をのむかのまぬかの問題をはじき飛ばすように、
 「あれはどなた?」と写真の一つに目を定めた。
 「どれ」
 「あれ」葉子はそういったままで指さしはしない。
 「どれ」と事務長はもう一度いって、葉子の大きな目をまじまじと見入ってからその視線をたどって、しばらく写真を見分けていたが、
 「はああれか。あれはねわたしの妻子ですんだ。荊妻《けいさい》と豚児《とんじ》どもですよ」
 といって高々と笑いかけたが、ふと笑いやんで、険しい目で葉子をちらっと見た。
 「まあそう。ちゃんとお写真をお飾りなすって、おやさしゅうござんすわね」
 葉子はしんなり[#「しんなり」に傍点]と立ち上がってその写真の前に行った。物珍しいものを見るという様子をしてはいたけれども、心の中には自分の敵がどんな獣物《けだもの》であるかを見きわめてやるぞという激しい敵愾心《てきがいしん》が急に燃えあがっていた。前には芸者ででもあったのか、それとも良人《おっと》の心を迎えるためにそう造ったのか、どこか玄人《くろうと》じみたきれいな丸髷《まるまげ》の女が着飾って、三人の少女を膝《ひざ》に抱いたりそばに立たせたりして写っていた。葉子はそれを取り上げて孔《あな》のあくほどじっ[#「じっ」に傍点]と見やりながらテーブルの前に立っていた。ぎこちない沈黙がしばらくそこに続いた。
 「お葉さん」(事務長は始めて葉子をその姓で呼ばずにこう呼びかけた)突然震えを帯びた、低い、重い声が焼きつくように耳近く聞こえたと思うと、葉子は倉地の大きな胸と太い腕とで身動きもできないように抱きすくめられていた。もとより葉子はその朝倉地が野獣のような assault に出る事を直覚的に覚悟して、むしろそれを期待して、その assault を、心ばかりでなく、肉体的な好奇心をもって待ち受けていたのだったが、かくまで突然、なんの前ぶれもなく起こって来ようとは思いも設けなかったので、女の本然の羞恥《しゅうち》から起こる貞操の防衛に駆られて、熱しきったような冷えきったような血を一時に体内に感じながら、かかえられたまま、侮蔑《ぶべつ》をきわめた表情を二つの目に集めて、倉地の顔を斜めに見返した。その冷ややかな目の光は仮初《かりそ》めの男の心をたじろがすはずだった。事務長の顔は振り返った葉子の顔に息気《いき》のかかるほどの近さで、葉子を見入っていたが、葉子が与えた冷酷なひとみには目もくれぬまで狂わしく熱していた。(葉子の感情を最も強くあおり立てるものは寝床を離れた朝の男の顔だった。一夜の休息にすべての精気を充分回復した健康な男の容貌《ようぼう》の中には、女の持つすべてのものを投げ入れても惜しくないと思うほどの力がこもっていると葉子は始終感ずるのだった)葉子は倉地に存分な軽侮の心持ちを見せつけながらも、その顔を鼻の先に見ると、男性というものの強烈な牽引《けんいん》の力を打ち込まれるように感ぜずにはいられなかった。息気《いき》せわしく吐く男のため息は霰《あられ》のように葉子の顔を打った。火と燃え上がらんばかりに男のからだからは desire の焔《ほむら》がぐんぐん葉子の血脈にまで広がって行った。葉子はわれにもなく異常な興奮にがたがた震え始めた。
    ×    ×    ×
 ふと倉地の手がゆるんだので葉子は切って落とされたようにふらふらとよろけながら、危うく踏みとどまって目を開くと、倉地が部屋《へや》の戸に鍵《かぎ》をかけようとしているところだった。鍵が合わないので、
 「糞《くそ》っ」
 と後ろ向きになってつぶやく倉地の声が最後の宣告のように絶望的に低く部屋の中に響いた。
 倉地から離れた葉子はさながら母から離れた赤子のように、すべての力が急にどこかに消えてしまうのを感じた。あとに残るものとては底のない、たよりない悲哀ばかりだった。今まで味わって来たすべての悲哀よりもさらに残酷な悲哀が、葉子の胸をかきむしって襲って来た。それは倉地のそこにいるのすら忘れさすくらいだった。葉子はいきなり寝床の上に丸まって倒れた。そしてうつぶしになったまま痙攣的《けいれんてき》に激しく泣き出した。倉地がその泣き声にちょっとためらって立ったまま見ている間に、葉子は心の中で叫びに叫んだ。
 「殺すなら殺すがいい。殺されたっていい。殺されたって憎みつづけてやるからいい。わたしは勝った。なんといっても勝った。こんなに悲しいのをなぜ早く殺してはくれないのだ。この哀《かな》しみにいつまでもひたっていたい。早く死んでしまいたい。……」

    一六

 葉子はほんとうに死の間をさまよい歩いたような不思議な、混乱した感情の狂いに泥酔《でいすい》して、事務長の部屋《へや》から足もとも定まらずに自分の船室に戻《もど》って来たが、精も根も尽き果ててそのままソファの上にぶっ倒れた。目のまわりに薄黒い暈《かさ》のできたその顔は鈍い鉛色をして、瞳孔《どうこう》は光に対して調節の力を失っていた。軽く開いたままの口びるからもれる歯並みまでが、光なく、ただ白く見やられて、死を連想させるような醜い美しさが耳の付け根までみなぎっていた。雪解時《ゆきげどき》の泉のように、あらん限りの感情が目まぐるしくわき上がっていたその胸には、底のほうに暗い悲哀がこちん[#「こちん」に傍点]とよどんでいるばかりだった。
 葉子はこんな不思議な心の状態からのがれ出ようと、思い出したように頭を働かして見たが、その努力は心にもなくかすかなはかないものだった。そしてその不思議に混乱した心の状態もいわばたえきれぬほどの切《せつ》なさは持っていなかった。葉子はそんなにしてぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と目をさましそうになったり、意識の仮睡《かすい》に陥ったりした。猛烈な胃痙攣《いけいれん》を起こした患者が、モルヒネの注射を受けて、間歇的《かんけつてき》に起こる痛みのために無意識に顔をしかめながら、麻薬《まやく》の恐ろしい力の下に、ただ昏々《こんこん》と奇怪な仮睡に陥り込むように、葉子の心は無理無体な努力で時々驚いたように乱れさわぎながら、たちまち物すごい沈滞の淵《ふち》深く落ちて行くのだった。葉子の意志はいかに手を延ばしても、もう心の落ち行く深みには届きかねた。頭の中は熱を持って、ただぼーと黄色く煙《けむ》っていた。その黄色い煙の中を時々|紅《あか》い火や青い火がちかちかと神経をうずかして駆け通った。息気《いき》づまるようなけさの光景や、過去のあらゆる回想が、入り乱れて現われて来ても、葉子はそれに対して毛の末ほども心を動かされはしなかった。それは遠い遠い木魂《こだま》のようにうつろにかすかに響いては消えて行くばかりだった。過去の自分と今の自分とのこれほどな恐ろしい距《へだた》りを、葉子は恐れげもなく、成るがままに任せて置いて、重くよどんだ絶望的な悲哀にただわけもなくどこまでも引っぱられて行った。その先には暗い忘却が待ち設けていた。涙で重ったまぶたはだんだん打ち開いたままのひとみを蔽《おお》って行った。少し開いた口びるの間からは、うめくような軽い鼾《いびき》がもれ始めた。それを葉子はかすかに意識しながら、ソファの上にうつむきになったまま、いつとはなしに夢もない深い眠りに陥っていた。
 どのくらい眠っていたかわからない。突然葉子は心臓でも破裂しそうな驚きに打たれて、はっ[#「はっ」に傍点]と目を開いて頭をもたげた。ずき/\/\と頭の心《しん》が痛んで、部屋《へや》の中は火のように輝いて面《おもて》も向けられなかった。もう昼ごろだなと気が付く中にも、雷とも思われる叫喚が船を震わして響き渡っていた。葉子はこの瞬間の不思議に胸をどきつかせながら聞き耳を立てた。船のおののきとも自分のおののきとも知れぬ震動が葉子の五体を木の葉のようにもてあそんだ。しばらくしてその叫喚がややしずまったので、葉子はようやく、横浜を出て以来絶えて用いられなかった汽笛の声である事を悟った。検疫所が近づいたのだなと思って、襟《えり》もとをかき合わせながら、静かにソファの上に膝《ひざ》を立てて、眼窓《めまど》から外面《とのも》をのぞいて見た。けさまでは雨雲に閉じられていた空も見違えるようにからっ[#「からっ」に傍点]と晴れ渡って、紺青《こんじょう》の色の日の光のために奥深く輝いていた。松が自然に美しく配置されて生《は》え茂った岩がかった岸がすぐ目の先に見えて、海はいかにも入り江らしく可憐《かれん》なさざ波をつらね、その上を絵島丸は機関の動悸《どうき》を打ちながら徐《しず》かに走っていた。幾日の荒々しい海路からここに来て見ると、さすがにそこには人間の隠れ場らしい静かさがあった。
 岸の奥まった所に白い壁の小さな家屋が見られた。そのかたわらには英国の国旗が微風にあおられて青空の中に動いていた。「あれが検疫官のいる所なのだ」そう思った意識の活動が始まるや否や、葉子の頭は始めて生まれ代わったようにはっきり[#「はっきり」に傍点]となって行った。そして頭がはっきり[#「はっきり」に傍点]して来るとともに、今まで切り放されていたすべての過去があるべき姿を取って、明瞭《めいりょう》に現在の葉子と結び付いた。葉子は過去の回想が今見たばかりの景色からでも来たように驚いて、急いで眼窓《めまど》から顔を引っ込めて、強敵に襲いかかられた孤軍のように、たじろぎながらまたソファの上に臥倒《ねたお》れた。頭の中は急に叢《むら》がり集まる考えを整理するために激しく働き出した。葉子はひとりでに両手で髪の毛の上からこめかみの所を押えた。そして少し上目《うわめ》をつかって鏡のほうを見やりながら、今まで閉止していた乱想の寄せ来るままに機敏にそれを送り迎えようと身構えた。
 葉子はとにかく恐ろしい崕《がけ》のきわまで来てしまった事を、そしてほとんど無反省で、本能に引きずられるようにして、その中に飛び込んだ事を思わないわけには行かなかった。親類縁者に促されて、心にもない渡米を余儀なくされた時に自分で選んだ道――ともかく木村と一緒になろう。そして生まれ代わったつもりで米国の社会にはいりこんで、自分が見つけあぐねていた自分というものを、探り出してみよう。女というものが日本とは違って考えられているらしい米国で、女としての自分がどんな位置にすわる事ができるか試《ため》してみよう。自分はどうしても生まるべきでない時代に、生まるべきでない所に生まれて来たのだ。自分の生まるべき時代と所とはどこか別にある。そこでは自分は女王の座になおっても恥ずかしくないほどの力を持つ事ができるはずなのだ。生きているうちにそこをさがし出したい。自分の周囲にまつわって来ながらいつのまにか自分を裏切って、いつどんな所にでも平気で生きていられるようになり果てた女たちの鼻をあかさしてやろう。若い命を持ったうちにそれだけの事をぜひしてやろう。木村は自分のこの心の企《たくら》みを助ける事のできる男ではないが、自分のあとについて来られないほどの男でもあるまい。葉子はそんな事も思っていた。日清《にっしん》戦争が起こったころから葉子ぐらいの年配の女が等しく感じ出した一種の不安、一種の幻滅――それを激しく感じた葉子は、謀叛人《むほんにん》のように知らず知らず自分のまわりの少女たちにある感情的な教唆を与えていたのだが、自分自身ですらがどうしてこの大事な瀬戸ぎわを乗り抜けるのかは、少しもわからなかった。そのころの葉子は事ごとに自分の境遇が気にくわないでただいらいらしていた。その結果はただ思うままを振る舞って行くよりしかたがなかった。自分はどんな物からもほんとうに訓練されてはいないんだ。そして自分にはどうにでも働く鋭い才能と、女の強味(弱味ともいわばいえ)になるべき優《すぐ》れた肉体と激しい情緒とがあるのだ。そう葉子は知らず知らず自分を見ていた。そこから盲滅法《めくらめっぽう》に動いて行った。ことに時代の不思議な目ざめを経験した葉子に取っては恐ろしい敵は男だった。葉子はそのためになんどつまずいたかしれない。しかし、世の中にはほんとうに葉子を扶《たす》け起こしてくれる人がなかった。「わたしが悪ければ直すだけの事をして見せてごらん」葉子は世の中に向いてこういい放ってやりたかった。女を全く奴隷《どれい》の境界《きょうがい》に沈め果てた男はもう昔のアダムのように正直ではないんだ。女がじっと[#「じっと」に傍点]している間は慇懃《いんぎん》にして見せるが、女が少しでも自分で立ち上がろうとすると、打って変わって恐ろしい暴王になり上がるのだ。女までがおめおめと男の手伝いをしている。葉子は女学校時代にしたたかその苦《にが》い杯をなめさせられた。そして十八の時|木部孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、154-18]《きべこきょう》に対して、最初の恋愛らしい恋愛の情を傾けた時、葉子の心はもう処女の心ではなくなっていた。外界の圧迫に反抗するばかりに、一時火のように何物をも焼き尽くして燃え上がった仮初《かりそ》めの熱情は、圧迫のゆるむとともにもろくも萎《な》えてしまって、葉子は冷静な批評家らしく自分の恋と恋の相手とを見た。どうして失望しないでいられよう。自分の一生がこの人に縛りつけられてしなびて行くのかと思う時、またいろいろな男にもてあそばれかけて、かえって男の心というものを裏返してとっくり[#「とっくり」に傍点]と見きわめたその心が、木部という、空想の上でこそ勇気も生彩もあれ、実生活においては見下げ果てたほど貧弱で簡単な一書生の心としいて結びつかねばならぬと思った時、葉子は身ぶるいするほど失望して木部と別れてしまったのだ。
 葉子のなめたすべての経験は、男に束縛を受ける危険を思わせるものばかりだった。しかしなんという自然のいたずらだろう。それとともに葉子は、男というものなしには一刻も過ごされないものとなっていた。砒石《ひせき》の用法を謬《あやま》った患者が、その毒の恐ろしさを知りぬきながら、その力を借りなければ生きて行けないように、葉子は生の喜びの源を、まかり違えば、生そのものを虫ばむべき男というものに、求めずにはいられないディレンマに陥ってしまったのだ。
 肉欲の牙《きば》を鳴らして集まって来る男たちに対して、(そういう男たちが集まって来るのはほんとうは葉子自身がふりまく香《にお》いのためだとは気づいていて)葉子は冷笑しながら蜘蛛《くも》のように網を張った。近づくものは一人《ひとり》残らずその美しい四《よ》つ手網《であみ》にからめ取った。葉子の心は知らず知らず残忍になっていた。ただあの妖力《ようりょく》ある女郎蜘蛛《じょろうぐも》のように、生きていたい要求から毎日その美しい網を四つ手に張った。そしてそれに近づきもし得ないでののしり騒ぐ人たちを、自分の生活とは関係のない木か石ででもあるように冷然と尻目《しりめ》にかけた。
 葉子はほんとうをいうと、必要に従うというほかに何をすればいいのかわからなかった。
 葉子に取っては、葉子の心持ちを少しも理解していない社会ほど愚かしげな醜いものはなかった。葉子の目から見た親類という一群《ひとむ》れはただ貪欲《どんよく》な賤民《せんみん》としか思えなかった。父はあわれむべく影の薄い一人《ひとり》の男性に過ぎなかった。母は――母はいちばん葉子の身近《みぢか》にいたといっていい。それだけ葉子は母と両立し得ない仇敵《きゅうてき》のような感じを持った。母は新しい型にわが子を取り入れることを心得てはいたが、それを取り扱う術《すべ》は知らなかった。葉子の性格が母の備えた型の中で驚くほどするすると生長した時に、母は自分以上の法力を憎む魔女のように葉子の行く道に立ちはだかった。その結果|二人《ふたり》の間には第三者から想像もできないような反目と衝突とが続いたのだった。葉子の性格はこの暗闘のお陰で曲折のおもしろさと醜さとを加えた。しかしなんといっても母は母だった。正面からは葉子のする事なす事に批点を打ちながらも、心の底でいちばんよく葉子を理解してくれたに違いないと思うと、葉子は母に対して不思議ななつかしみを覚えるのだった。
 母が死んでからは、葉子は全く孤独である事を深く感じた。そして始終張りつめた心持ちと、失望からわき出る快活さとで、鳥が木から木に果実を探るように、人から人に歓楽を求めて歩いたが、どこからともなく不意に襲って来る不安は葉子を底知れぬ悒鬱《ゆううつ》の沼に蹴落《けお》とした。自分は荒磯《あらいそ》に一本流れよった流れ木ではない。しかしその流れ木よりも自分は孤独だ。自分は一ひら風に散ってゆく枯れ葉ではない。しかしその枯れ葉より自分はうらさびしい。こんな生活よりほかにする生活はないのかしらん。いったいどこに自分の生活をじっ[#「じっ」に傍点]と見ていてくれる人があるのだろう。そう葉子はしみじみ思う事がないでもなかった。けれどもその結果はいつでも失敗だった。葉子はこうしたさびしさに促されて、乳母《うば》の家を尋ねたり、突然|大塚《おおつか》の内田にあいに行ったりして見るが、そこを出て来る時にはただ一入《ひとしお》の心のむなしさが残るばかりだった。葉子は思い余ってまた淫《みだ》らな満足を求めるために男の中に割ってはいるのだった。しかし男が葉子の目の前で弱味を見せた瞬間に、葉子は驕慢《きょうまん》な女王のように、その捕虜から面《おもて》をそむけて、その出来事を悪夢のように忌みきらった。冒険の獲物《えもの》はきまりきって取るにも足らないやくざものである事を葉子はしみじみ思わされた。
 こんな絶望的な不安に攻めさいなめられながらも、その不安に駆り立てられて葉子は木村という降参人をともかくその良人《おっと》に選んでみた。葉子は自分がなんとかして木村にそり[#「そり」に傍点]を合わせる努力をしたならば、一生涯《いっしょうがい》木村と連れ添って、普通の夫婦のような生活ができないものでもないと一時思うまでになっていた。しかしそんなつぎはぎ[#「つぎはぎ」に傍点]な考えかたが、どうしていつまでも葉子の心の底を虫ばむ不安をいやす事ができよう。葉子が気を落ち付けて、米国に着いてからの生活を考えてみると、こうあってこそと思い込むような生活には、木村はのけ物になるか、邪魔者になるほかはないようにも思えた。木村と暮らそう、そう決心して船に乗ったのではあったけれども、葉子の気分は始終ぐらつき通しにぐらついていたのだ。手足のちぎれた人形をおもちゃ箱にしまったものか、いっそ捨ててしまったものかと躊躇《ちゅうちょ》する少女の心に似たぞんざい[#「ぞんざい」に傍点]なためらいを葉子はいつまでも持ち続けていた。
 そういう時突然葉子の前に現われたのが倉地事務長だった。横浜の桟橋につながれた絵島丸の甲板《かんぱん》の上で、始めて猛獣のようなこの男を見た時から、稲妻のように鋭く葉子はこの男の優越を感受した。世が世ならば、倉地は小さな汽船の事務長なんぞをしている男ではない。自分と同様に間違って境遇づけられて生まれて来た人間なのだ。葉子は自分の身につまされて倉地をあわれみもし畏《おそ》れもした。今までだれの前に出ても平気で自分の思う存分を振る舞っていた葉子は、この男の前では思わず知らず心にもない矯飾《きょうしょく》を自分の性格の上にまで加えた。事務長の前では、葉子は不思議にも自分の思っているのとちょうど反対の動作をしていた。無条件的な服従という事も事務長に対してだけはただ望ましい事にばかり思えた。この人に思う存分打ちのめされたら、自分の命は始めてほんとうに燃え上がるのだ。こんな不思議な、葉子にはあり得ない欲望すらが少しも不思議でなく受け入れられた。そのくせ表面《うわべ》では事務長の存在をすら気が付かないように振る舞った。ことに葉子の心を深く傷つけたのは、事務長の物懶《ものう》げな無関心な態度だった。葉子がどれほど人の心をひきつける事をいった時でも、した時でも、事務長は冷然として見向こうともしなかった事だ。そういう態度に出られると、葉子は、自分の事は棚《たな》に上げておいて、激しく事務長を憎んだ。この憎しみの心が日一日と募って行くのを非常に恐れたけれども、どうしようもなかったのだ。
 しかし葉子はとうとうけさの出来事にぶっ突かってしまった。葉子は恐ろしい崕《がけ》のきわからめちゃくちゃに飛び込んでしまった。葉子の目の前で今まで住んでいた世界はがらっ[#「がらっ」に傍点]と変わってしまった。木村がどうした。米国がどうした。養って行かなければならない妹や定子がどうした。今まで葉子を襲い続けていた不安はどうした。人に犯されまいと身構えていたその自尊心はどうした。そんなものは木《こ》っ葉《ぱ》みじんに無くなってしまっていた。倉地を得たらばどんな事でもする。どんな屈辱でも蜜《みつ》と思おう。倉地を自分ひとりに得さえすれば……。今まで知らなかった、捕虜の受くる蜜より甘い屈辱!
 葉子の心はこんなに順序立っていたわけではない。しかし葉子は両手で頭を押えて鏡を見入りながらこんな心持ちを果てしもなくかみしめた。そして追想は多くの迷路をたどりぬいた末に、不思議な仮睡状態に陥る前まで進んで来た。葉子はソファを牝鹿《めじか》のように立ち上がって、過去と未来とを断ち切った現在|刹那《せつな》のくらむばかりな変身に打ちふるいながらほほえんだ。
 その時ろくろくノックもせずに事務長がはいって来た。葉子のただならぬ姿には頓着《とんじゃく》なく、
 「もうすぐ検疫官がやって来るから、さっきの約束を頼みますよ。資本入らずで大役が勤まるんだ。女というものはいいものだな。や、しかしあなたのはだいぶ資本がかかっとるでしょうね。……頼みますよ」と戯談《じょうだん》らしくいった。
 「はあ」葉子はなんの苦もなく親しみの限りをこめた返事をした。その一声の中には、自分でも驚くほどな蠱惑《こわく》の力がこめられていた。
 事務長が出て行くと、葉子は子供のように足なみ軽く小さな船室の中を小跳《こおど》りして飛び回った。そして飛び回りながら、髪をほごしにかかって、時々鏡に映る自分の顔を見やりながら、こらえきれないようにぬすみ笑いをした。

    一七

 事務長のさしがね[#「さしがね」に傍点]はうまい坪《つぼ》にはまった。検疫官は絵島丸の検疫事務をすっかり[#「すっかり」に傍点]年とった次位の医官に任せてしまって、自分は船長室で船長、事務長、葉子を相手に、話に花を咲かせながらトランプをいじり通した。あたりまえならば、なんとかかとか必ず苦情の持ち上がるべき英国風の小やかましい検疫もあっさり[#「あっさり」に傍点]済んで放蕩者《ほうとうもの》らしい血気盛りな検疫官は、船に来てから二時間そこそこできげんよく帰って行く事になった。
 停《と》まるともなく進行を止めていた絵島丸は風のまにまに少しずつ方向を変えながら、二人《ふたり》の医官を乗せて行くモーター・ボートが舷側《げんそく》を離れるのを待っていた。折り目正しい長めな紺の背広を着た検疫官はボートの舵座《かじざ》に立ち上がって、手欄《てすり》から葉子と一緒に胸から上を乗り出した船長となお戯談《じょうだん》を取りかわした。船梯子《ふなばしご》の下まで医官を見送った事務長は、物慣れた様子でポッケットからいくらかを水夫の手につかませておいて、上を向いて相図をすると、船梯子《ふなばしご》はきり[#「きり」に傍点]きりと水平に巻き上げられて行く、それを事もなげに身軽く駆け上って来た。検疫官の目は事務長への挨拶《あいさつ》もそこそこに、思いきり派手《はで》な装いを凝らした葉子のほうに吸い付けられるらしかった。葉子はその目を迎えて情をこめた流眄《ながしめ》を送り返した。検疫官がその忙しい間にも何かしきりに物をいおうとした時、けたたましい汽笛が一抹《いちまつ》の白煙を青空に揚げて鳴りはためき、船尾からはすさまじい推進機の震動が起こり始めた。このあわただしい船の別れを惜しむように、検疫官は帽子を取って振り動かしながら、噪音《そうおん》にもみ消される言葉を続けていたが、もとより葉子にはそれは聞こえなかった。葉子はただにこにことほほえみながらうなずいて見せた。そしてただ一時のいたずらごころから髪にさしていた小さな造花を投げてやると、それがあわよく検疫官の肩にあたって足もとにすべり落ちた。検疫官が片手に舵綱《かじづな》をあやつりながら、有頂点《うちょうてん》になってそれを拾おうとするのを見ると、船舷《ふなばた》に立ちならんで物珍しげに陸地を見物していたステヤレージの男女の客は一斉《いっせい》に手をたたいてどよめいた。葉子はあたりを見回した。西洋の婦人たちは等しく葉子を見やって、その花々しい服装から軽率《かるはずみ》らしい挙動を苦々しく思うらしい顔つきをしていた。それらの外国人の中には田川夫人もまじっていた。
 検疫官は絵島丸が残して行った白沫《はくまつ》の中で、腰をふらつかせながら、笑い興ずる群集にまで幾度も頭を下げた。群集はまた思い出したように漫罵《まんば》を放って笑いどよめいた。それを聞くと日本語のよくわかる白髪の船長は、いつものように顔を赤くして、気の毒そうに恥ずかしげな目を葉子に送ったが、葉子がはした[#「はした」に傍点]ない群集の言葉にも、苦々《にがにが》しげな船客の顔色にも、少しも頓着《とんじゃく》しないふうで、ほほえみ続けながらモーター・ボートのほうを見守っているのを見ると、未通女《おぼこ》らしくさらにまっ赤《か》になってその場をはずしてしまった。
 葉子は何事も屈託なくただおもしろかった。からだじゅうをくすぐるような生の歓《よろこ》びから、ややもするとなんでもなく微笑が自然に浮かび出ようとした。「けさから私はこんなに生まれ代わりました御覧なさい」といってだれにでも自分の喜びを披露《ひろう》したいような気分になっていた。検疫官の官舎の白い壁も、そのほうに向かって走って行くモーター・ボートも見る見る遠ざかって小さな箱庭のようになった時、葉子は船長室でのきょうの思い出し笑いをしながら、手欄《てすり》を離れて心あてに事務長を目で尋ねた。と、事務長は、はるか離れた船艙《せんそう》の出口に田川夫妻と鼎《かなえ》になって、何かむずかしい顔をしながら立ち話をしていた。いつもの葉子ならば三人の様子で何事が語られているかぐらいはすぐ見て取るのだが、その日はただ浮き浮きした無邪気な心ばかりが先に立って、だれにでも好意のある言葉をかけて、同じ言葉で酬《むく》いられたい衝動に駆られながら、なんの気なしにそっちに足を向けようとして、ふと気がつくと、事務長が「来てはいけない」と激しく目に物を言わせているのが覚《さと》れた。気が付いてよく見ると田川夫人の顔にはまごうかたなき悪意がひらめいていた。
 「またおせっかいだな」
 一秒の躊躇《ちゅうちょ》もなく男のような口調で葉子はこう小さくつぶやいた。「構うものか」そう思いながら葉子は事務長の目使いにも無頓着《むとんじゃく》に、快活な足どりでいそいそと田川夫妻のほうに近づいて行った。それを事務長もどうすることもできなかった。葉子は三人の前に来ると軽く腰をまげて後《おく》れ毛《げ》をかき上げながら顔じゅうを蠱惑的《こわくてき》なほほえみにして挨拶《あいさつ》した。田川博士の頬《ほお》にはいち早くそれに応ずる物やさしい表情が浮かぼうとしていた。
 「あなたはずいぶんな乱暴をなさる方《かた》ですのね」
 いきなり震えを帯びた冷ややかな言葉が田川夫人から葉子に容赦もなく投げつけられた。それは底意地の悪い挑戦的《ちょうせんてき》な調子で震えていた。田川|博士《はかせ》はこのとっさの気まずい場面を繕うため何か言葉を入れてその不愉快な緊張をゆるめようとするらしかったが、夫人の悪意はせき立って募るばかりだった。しかし夫人は口に出してはもうなんにもいわなかった。
 女の間に起こる不思議な心と心との交渉から、葉子はなんという事なく、事務長と自分との間にけさ起こったばかりの出来事を、輪郭だけではあるとしても田川夫人が感づいているなと直覚した。ただ一言《ひとこと》ではあったけれども、それは検疫官とトランプをいじった事を責めるだけにしては、激し過ぎ、悪意がこめられ過ぎていることを直覚した。今の激しい言葉は、その事を深く根に持ちながら、検疫医に対する不謹慎な態度をたしなめる言葉のようにして使われているのを直覚した。葉子の心のすみからすみまでを、溜飲《りゅういん》の下がるような小気味よさが小おどりしつつ走《は》せめぐった。葉子は何をそんなに事々しくたしなめられる事があるのだろうというような少ししゃあ[#「しゃあ」に傍点]しゃあした無邪気な顔つきで、首をかしげながら夫人を見守った。
 「航海中はとにかくわたし葉子さんのお世話をお頼まれ申しているんですからね」
 初めはしとやかに落ち付いていうつもりらしかったが、それがだんだん激して途切れがちな言葉になって、夫人はしまいには激動から息気《いき》をさえはずましていた。その瞬間に火のような夫人のひとみと、皮肉に落ち付き払った葉子のひとみとが、ぱったり出っくわして小ぜり合いをしたが、また同時に蹴返《けかえ》すように離れて事務長のほうに振り向けられた。
 「ごもっともです」
 事務長は虻《あぶ》に当惑した熊《くま》のような顔つきで、柄《がら》にもない謹慎を装いながらこう受け答えた。それから突然本気な表情に返って、
 「わたしも事務長であって見れば、どのお客様に対しても責任があるのだで、御迷惑になるような事はせんつもりですが」
 ここで彼は急に仮面を取り去ったようににこにこし出した。
 「そうむきになるほどの事でもないじゃありませんか。たかが早月《さつき》さんに一度か二度|愛嬌《あいきょう》をいうていただいて、それで検疫の時間が二時間から違うのですもの。いつでもここで四時間の以上もむだにせにゃならんのですて」
 田川夫人がますますせき込んで、矢継《やつ》ぎ早《ばや》にまくしかけようとするのを、事務長は事もなげに軽々とおっかぶせて、
 「それにしてからがお話はいかがです、部屋《へや》で伺いましょうか。ほかのお客様の手前もいかがです。博士《はかせ》、例のとおり狭っこい所ですが、甲板《かんぱん》ではゆっくりもできませんで、あそこでお茶でも入れましょう。早月さんあなたもいかがです」
 と笑い笑い言ってからくるりッ[#「くるりッ」に傍点]と葉子のほうに向き直って、田川夫妻には気が付かないように頓狂《とんきょう》な顔をちょっとして見せた。
 横浜で倉地のあとに続いて船室への階子段《はしごだん》を下る時始めて嗅《か》ぎ覚えたウイスキーと葉巻とのまじり合ったような甘たるい一種の香《にお》いが、この時かすかに葉子の鼻をかすめたと思った。それをかぐと葉子の情熱のほむらが一時にあおり立てられて、人前では考えられもせぬような思いが、旋風《つむじかぜ》のごとく頭の中をこそいで通るのを覚えた。男にはそれがどんな印象を与えたかを顧みる暇もなく、田川夫妻の前ということもはばからずに、自分では醜いに違いないと思うような微笑が、覚えず葉子の眉《まゆ》の間に浮かび上がった。事務長は小むずかしい顔になって振り返りながら、
 「いかがです」ともう一度田川夫妻を促した。しかし田川博士は自分の妻のおとなげないのをあわれむ物わかりのいい紳士という態度を見せて、態《てい》よく事務長にことわりをいって、夫人と一緒にそこを立ち去った。
 「ちょっといらっしゃい」
 田川夫妻の姿が見えなくなると、事務長はろくろく葉子を見むきもしないでこういいながら先に立った。葉子は小娘のようにいそいそとそのあとについて、薄暗い階子段《はしごだん》にかかると男におぶいかかるようにしてこぜわしく降りて行った。そして機関室と船員室との間にある例の暗い廊下を通って、事務長が自分の部屋の戸をあけた時、ぱっ[#「ぱっ」に傍点]と明るくなった白い光の中に、nonchalant な diabolic な男の姿を今さらのように一種の畏《おそ》れとなつかしさとをこめて打ちながめた。
 部屋にはいると事務長は、田川夫人の言葉でも思い出したらしくめんどうくさそうに吐息《といき》一つして、帳簿を事務テーブルの上にほうりなげておいて、また戸から頭だけつき出して、「ボーイ」と大きな声で呼び立てた。そして戸をしめきると、始めてまとも[#「まとも」に傍点]に葉子に向きなおった。そして腹をゆすり上げて続けさまに思い存分笑ってから、
 「え」と大きな声で、半分は物でも尋ねるように、半分は「どうだい」といったような調子でいって、足を開いて akimbo をして突っ立ちながら、ちょいと無邪気に首をかしげて見せた。
 そこにボーイが戸の後ろから顔だけ出した。
 「シャンペンだ。船長の所にバーから持って来《こ》さしたのが、二三本残ってるよ。十の字三つぞ(大至急という軍隊用語)。……何がおかしいかい」
 事務長は葉子のほうを向いたままこういったのであるが、実際その時ボーイは意味ありげににやにや[#「にやにや」に傍点]薄笑いをしていた。
 あまりに事もなげな倉地の様子を見ていると葉子は自分の心の切《せつ》なさに比べて、男の心を恨めしいものに思わずにいられなくなった。けさの記憶のまだ生々《なまなま》しい部屋《へや》の中を見るにつけても、激しく嵩《たか》ぶって来る情熱が妙にこじれて、いても立ってもいられないもどかしさが苦しく胸に逼《せま》るのだった。今まではまるきり眼中になかった田川夫人も、三等の女客の中で、処女とも妻ともつかぬ二人《ふたり》の二十女も、果ては事務長にまつわりつくあの小娘のような岡までが、写真で見た事務長の細君と一緒になって、苦しい敵意を葉子の心にあおり立てた。ボーイにまで笑いものにされて、男の皮を着たこの好色の野獣のなぶりものにされているのではないか。自分の身も心もただ一息にひしぎつぶすかと見えるあの恐ろしい力は、自分を征服すると共にすべての女に対しても同じ力で働くのではないか。そのたくさんの女の中の影の薄い一人《ひとり》の女として彼は自分を扱っているのではないか。自分には何物にも代え難《がた》く思われるけさの出来事があったあとでも、ああ平気でいられるそののんきさはどうしたものだろう。葉子は物心がついてから始終自分でも言い現わす事のできない何物かを逐《お》い求めていた。その何物かは葉子のすぐ手近にありながら、しっかり[#「しっかり」に傍点]とつかむ事はどうしてもできず、そのくせいつでもその力の下に傀儡《かいらい》のようにあてもなく動かされていた。葉子はけさの出来事以来なんとなく思いあがっていたのだ。それはその何物かがおぼろげながら形を取って手に触れたように思ったからだ。しかしそれも今から思えば幻影に過ぎないらしくもある。自分に特別な注意も払っていなかったこの男の出来心に対して、こっちから進んで情をそそるような事をした自分はなんという事をしたのだろう。どうしたらこの取り返しのつかない自分の破滅を救う事ができるのだろうと思って来ると、一秒でもこのいまわしい記憶のさまよう部屋の中にはいたたまれないように思え出した。しかし同時に事務長は断ちがたい執着となって葉子の胸の底にこびりついていた。この部屋をこのままで出て行くのは死ぬよりもつらい事だった。どうしてもはっきり[#「はっきり」に傍点]と事務長の心を握るまでは……葉子は自分の心の矛盾に業《ごう》を煮やしながら、自分をさげすみ果てたような絶望的な怒りの色を口びるのあたりに宿して、黙ったまま陰鬱《いんうつ》に立っていた。今までそわそわと小魔《しょうま》のように葉子の心をめぐりおどっていたはなやかな喜び――それはどこに行ってしまったのだろう。
 事務長はそれに気づいたのか気がつかないのか、やがてよりかかりのないまるい事務いすに尻《しり》をすえて、子供のような罪のない顔をしながら、葉子を見て軽く笑っていた。葉子はその顔を見て、恐ろしい大胆な悪事を赤児《あかご》同様の無邪気さで犯しうる質《たち》の男だと思った。葉子はこんな無自覚な状態にはとてもなっていられなかった。一足ずつ先《さき》を越されているのかしらんという不安までが心の平衡をさらに狂わした。
 「田川博士は馬鹿《ばか》ばかで、田川の奥さんは利口ばかというんだ。はゝゝゝゝ」
 そういって笑って、事務長は膝《ひざ》がしらをはっし[#「はっし」に傍点]と打った手をかえして、机の上にある葉巻をつまんだ。
 葉子は笑うよりも腹だたしく、腹だたしいよりも泣きたいくらいになっていた。口びるをぶるぶると震わしながら涙でもたまったように輝く目は剣《けん》を持って、恨みをこめて事務長を見入ったが、事務長は無頓着《むとんじゃく》に下を向いたまま、一心に葉巻に火をつけている。葉子は胸に抑《おさ》えあまる恨みつらみをいい出すには、心があまりに震えて喉《のど》がかわききっているので、下くちびるをかみしめたまま黙っていた。
 倉地はそれを感づいているのだのにと葉子は置きざりにされたようなやり所のないさびしさを感じていた。
 ボーイがシャンペンとコップとを持ってはいって来た。そして丁寧にそれを事務テーブルの上に置いて、さっきのように意味ありげな微笑をもらしながら、そっ[#「そっ」に傍点]と葉子をぬすみ見た。待ち構えていた葉子の目はしかしボーイを笑わしてはおかなかった。ボーイはぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]として飛んでもない事をしたというふうに、すぐ慎み深い給仕《きゅうじ》らしく、そこそこに部屋《へや》を出て行った。
 事務長は葉巻の煙に顔をしかめながら、シャンペンをついで盆を葉子のほうにさし出した。葉子は黙って立ったまま手を延ばした。何をするにも心にもない作り事をしているようだった。この短い瞬間に、今までの出来事でいいかげん乱れていた心は、身の破滅がとうとう来てしまったのだというおそろしい予想に押しひしがれて、頭は氷で巻かれたように冷たく気《け》うとくなった。胸から喉《のど》もとにつきあげて来る冷たいそして熱い球《たま》のようなものを雄々《おお》しく飲み込んでも飲み込んでも涙がややともすると目がしらを熱くうるおして来た。薄手《うすで》のコップに泡《あわ》を立てて盛られた黄金色《こがねいろ》の酒は葉子の手の中で細かいさざ波を立てた。葉子はそれを気取《けど》られまいと、しいて左の手を軽くあげて鬢《びん》の毛をかき上げながら、コップを事務長のと打ち合わせたが、それをきっかけ[#「きっかけ」に傍点]に願《がん》でもほどけたように今までからく持ちこたえていた自制は根こそぎくずされてしまった。
 事務長がコップを器用に口びるにあてて、仰向きかげんに飲みほす間、葉子は杯を手にもったまま、ぐびりぐびりと動く男の喉《のど》を見つめていたが、いきなり自分の杯を飲まないまま盆の上にかえして、
 「よくもあなたはそんなに平気でいらっしゃるのね」
 と力をこめるつもりでいったその声はいくじなくも泣かんばかりに震えていた。そして堰《せき》を切ったように涙が流れ出ようとするのを糸切り歯でかみきるばかりにしいてくいとめた。
 事務長は驚いたらしかった。目を大きくして何かいおうとするうちに、葉子の舌は自分でも思い設けなかった情熱を帯びて震えながら動いていた。
 「知っています。知っていますとも……。あなたはほんとに……ひどい方《かた》ですのね。わたしなんにも知らないと思ってらっしゃるのね。えゝ、わたしは存じません、存じません、ほんとに……」
 何をいうつもりなのか自分でもわからなかった。ただ激しい嫉妬《しっと》が頭をぐらぐらさせるばかりに嵩《こう》じて来るのを知っていた。男がある機会には手傷も負わないで自分から離れて行く……そういういまいましい予想で取り乱されていた。葉子は生来こんなみじめなまっ暗な思いに捕えられた事がなかった。それは生命が見す見す自分から離れて行くのを見守るほどみじめでまっ暗だった。この人を自分から離れさすくらいなら殺してみせる、そう葉子はとっさに思いつめてみたりした。
 葉子はもう我慢にもそこに立っていられなくなった。事務長に倒れかかりたい衝動をしいてじっとこらえながら、きれいに整えられた寝台にようやく腰をおろした。美妙な曲線を長く描いてのどかに開いた眉根《まゆね》は痛ましく眉間《みけん》に集まって、急にやせたかと思うほど細った鼻筋は恐ろしく感傷的な痛々しさをその顔に与えた。いつになく若々しく装った服装までが、皮肉な反語のように小股《こまた》の切れあがったやせ形《がた》なその肉を痛ましく虐《しいた》げた。長い袖《そで》の下で両手の指を折れよとばかり組み合わせて、何もかも裂いて捨てたいヒステリックな衝動を懸命に抑《おさ》えながら、葉子は唾《つば》も飲みこめないほど狂おしくなってしまっていた。
 事務長は偶然に不思議を見つけた子供のような好奇なあきれた顔つきをして、葉子の姿を見やっていたが、片方のスリッパを脱ぎ落としたその白足袋《しろたび》の足もとから、やや乱れた束髪《そくはつ》までをしげしげと見上げながら、
 「どうしたんです」
 といぶかるごとく聞いた。葉子はひったくるようにさそく[#「さそく」に傍点]に返事をしようとしたけれども、どうしてもそれができなかった。倉地はその様子を見ると今度はまじめになった。そして口の端《はた》まで持って行った葉巻をそのままトレイの上に置いて立ち上がりながら、
 「どうしたんです」
 ともう一度聞きなおした。それと同時に、葉子も思いきり冷酷に、
 「どうもしやしません」
 という事ができた。二人《ふたり》の言葉がもつれ返ったように、二人の不思議な感情ももつれ合った。もうこんな所にはいない、葉子はこの上の圧迫には堪《た》えられなくなって、はなやかな裾《すそ》を蹴乱《けみだ》しながらまっしぐらに戸口のほうに走り出ようとした。事務長はその瞬間に葉子のなよやかな肩をさえぎりとめた。葉子はさえぎられて是非なく事務テーブルのそばに立ちすくんだが、誇りも恥も弱さも忘れてしまっていた。どうにでもなれ、殺すか死ぬかするのだ、そんな事を思うばかりだった。こらえにこらえていた涙を流れるに任せながら、事務長の大きな手を肩に感じたままで、しゃくり上げて恨めしそうに立っていたが、手近に飾ってある事務長の家族の写真を見ると、かっと気がのぼせて前後のわきまえもなく、それを引ったくるとともに両手にあらん限りの力をこめて、人殺しでもするような気負いでずた[#「ずた」に傍点]ずたに引き裂いた。そしてもみくたになった写真の屑《くず》を男の胸も透《とお》れと投げつけると、写真のあたったその所にかみつきもしかねまじき狂乱の姿となって、捨て身に武者ぶりついた。事務長は思わず身を退《ひ》いて両手を伸ばして走りよる葉子をせき止めようとしたが、葉子はわれにもなく我武者《がむしゃ》にすり入って、男の胸に顔を伏せた。そして両手で肩の服地を爪《つめ》も立てよとつかみながら、しばらく歯をくいしばって震えているうちに、それがだんだんすすり泣きに変わって行って、しまいににはさめざめと声を立てて泣きはじめた。そしてしばらくは葉子の絶望的な泣き声ばかりが部屋《へや》の中の静かさをかき乱して響いていた。
 突然葉子は倉地の手を自分の背中に感じて、電気にでも触れたように驚いて飛びのいた。倉地に泣きながらすがりついた葉子が倉地からどんなものを受け取らねばならぬかは知れきっていたのに、優しい言葉でもかけてもらえるかのごとく振る舞った自分の矛盾にあきれて、恐ろしさに両手で顔をおおいながら部屋のすみに退《さが》って行った。倉地はすぐ近寄って来た。葉子は猫《ねこ》に見込まれたカナリヤのように身もだえしながら部屋の中を逃げにかかったが、事務長は手もなく追いすがって、葉子の二の腕を捕えて力まかせに引き寄せた。葉子も本気にあらん限りの力を出してさからった。しかしその時の倉地はもうふだんの倉地ではなくなっていた。けさ写真を見ていた時、後ろから葉子を抱きしめたその倉地が目ざめていた。怒《おこ》った野獣に見る狂暴な、防ぎようのない力があらしのように男の五体をさいなむらしく、倉地はその力の下にうめきもがきながら、葉子にまっしぐらにつかみかかった。
 「またおれをばかにしやがるな」
 という言葉がくいしばった歯の間から雷のように葉子の耳を打った。
 あゝこの言葉――このむき出しな有頂点《うちょうてん》な興奮した言葉こそ葉子が男の口から確かに聞こうと待ち設けた言葉だったのだ。葉子は乱暴な抱擁の中にそれを聞くとともに、心のすみに軽い余裕のできたのを感じて自分というものがどこかのすみに頭をもたげかけたのを覚えた。倉地の取った態度に対して作為のある応対ができそうにさえなった。葉子は前どおりすすり泣きを続けてはいたが、その涙の中にはもう偽りのしずくすらまじっていた。
 「いやです放して」
 こういった言葉も葉子にはどこか戯曲的な不自然な言葉だった。しかし倉地は反対に葉子の一語一語に酔いしれて見えた。
 「だれが離すか」
 事務長の言葉はみじめにもかすれおののいていた。葉子はどんどん失った所を取り返して行くように思った。そのくせその態度は反対にますますたよりなげなやる瀬ないものになっていた。倉地の広い胸と太い腕との間に羽《は》がいに抱きしめられながら、小鳥のようにぶるぶると震えて、
 「ほんとうに離してくださいまし」
 「いやだよ」
 葉子は倉地の接吻《せっぷん》を右に左によけながら、さらに激しくすすり泣いた。倉地は致命傷を受けた獣《けもの》のようにうめいた。その腕には悪魔のような血の流れるのが葉子にも感ぜられた。葉子は程《ほど》を見計らっていた。そして男の張りつめた情欲の糸が絶ち切れんばかりに緊張した時、葉子はふと泣きやんできっ[#「きっ」に傍点]と倉地の顔を振り仰いだ。その目からは倉地が思いもかけなかった鋭い強い光が放たれていた。
 「ほんとうに放していただきます」
 ときっぱり[#「きっぱり」に傍点]いって、葉子は機敏にちょっとゆるんだ倉地の手をすりぬけた。そしていち早く部屋《へや》を横筋かいに戸口まで逃げのびて、ハンドルに手をかけながら、
 「あなたはけさこの戸に鍵《かぎ》をおかけになって、……それは手籠《てご》めです……わたし……」
 といって少し情に激してうつむいてまた何かいい続けようとするらしかったが、突然戸をあけて出て行ってしまった。
 取り残された倉地はあきれてしばらく立っているようだったが、やがて英語で乱暴な呪詛《じゅそ》を口走りながら、いきなり部屋を出て葉子のあとを追って来た。そしてまもなく葉子の部屋の所に来てノックした。葉子は鍵をかけたまま黙って答えないでいた。事務長はなお二三度ノックを続けていたが、いきなり何か大声で物をいいながら船医の興録の部屋にはいるのが聞こえた。
 葉子は興録が事務長のさしがね[#「さしがね」に傍点]でなんとかいいに来るだろうとひそかに心待ちにしていた。ところがなんともいって来ないばかりか、船医室からは時々あたりをはばからない高笑いさえ聞こえて、事務長は容易にその部屋《へや》を出て行きそうな気配《けはい》もなかった。葉子は興奮に燃え立ついらいらした心でそこにいる事務長の姿をいろいろ想像していた。ほかの事は一つも頭の中にははいって来なかった。そしてつくづく自分の心の変わりかたの激しさに驚かずにはいられなかった。「定子! 定子!」葉子は隣にいる人を呼び出すような気で小さな声を出してみた。その最愛の名を声にまで出してみても、その響きの中には忘れていた夢を思い出したほどの反応《こたえ》もなかった。どうすれば人の心というものはこんなにまで変わり果てるものだろう。葉子は定子をあわれむよりも、自分の心をあわれむために涙ぐんでしまった。そしてなんの気なしに小卓の前に腰をかけて、大切なものの中にしまっておいた、そのころ日本では珍しいファウンテン・ペンを取り出して、筆の動くままにそこにあった紙きれに字を書いてみた。
[#ここより引用文、本文より一字下げ]
 「女の弱き心につけ入りたもうはあまりに酷《むご》きお心とただ恨めしく存じ参らせ候《そろ》妾《わらわ》の運命はこの船に結ばれたる奇《く》しきえにしや候《そうら》いけん心がらとは申せ今は過去のすべて未来のすべてを打ち捨ててただ目の前の恥ずかしき思いに漂うばかりなる根なし草の身となり果て参らせ候を事もなげに見やりたもうが恨めしく恨めしく死」
[#引用文ここまで]
 となんのくふうもなく、よく意味もわからないで一瀉千里《いっしゃせんり》に書き流して来たが、「死」という字に来ると、葉子はペンも折れよといらいらしくその上を塗り消した。思いのままを事務長にいってやるのは、思い存分自分をもてあそべといってやるのと同じ事だった。葉子は怒りに任せて余白を乱暴にいたずら書きでよごしていた。
 と、突然船医の部屋から高々と倉地の笑い声が聞こえて来た。葉子はわれにもなく頭《つむり》を上げて、しばらく聞き耳を立ててから、そっ[#「そっ」に傍点]と戸口に歩み寄ったが、あとはそれなりまた静かになった。
 葉子は恥ずかしげに座に戻《もど》った。そして紙の上に思い出すままに勝手な字を書いたり、形の知れない形を書いてみたりしながら、ずきん[#「ずきん」に傍点]ずきんと痛む頭をぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と肘《ひじ》をついた片手で押えてなんという事もなく考えつづけた。
 念が届けば木村にも定子にもなんの用があろう。倉地の心さえつかめばあとは自分の意地《いじ》一つだ。そうだ。念が届かなければ……念が届かなければ……届かなければあらゆるものに用がなくなるのだ。そうしたら美しく死のうねえ。……どうして……私はどうして……けれども……葉子はいつのまにか純粋に感傷的になっていた。自分にもこんなおぼこ[#「おぼこ」に傍点]な思いが潜んでいたかと思うと、抱いてなでさすってやりたいほど自分がかわゆくもあった。そして木部と別れて以来絶えて味わわなかったこの甘い情緒に自分からほだされおぼれて、心中《しんじゅう》でもする人のような、恋に身をまかせる心安さにひたりながら小机に突っ伏してしまった。
 やがて酔いつぶれた人のように頭《つむり》をもたげた時は、とうに日がかげって部屋の中にははなやかに電燈がともっていた。
 いきなり船医の部屋の戸が乱暴に開かれる音がした。葉子ははっ[#「はっ」に傍点]と思った。その時葉子の部屋の戸にどたり[#「どたり」に傍点]と突きあたった人の気配がして、「早月《さつき》さん」と濁って塩がれた事務長の声がした。葉子は身のすくむような衝動を受けて、思わず立ち上がってたじろぎながら部屋のすみに逃げかくれた。そしてからだじゅうを耳のようにしていた。
 「早月《さつき》さんお願いだ。ちょっとあけてください」
 葉子は手早く小机の上の紙を屑《くず》かごになげすてて、ファウンテン・ペンを物陰にほうりこんだ。そしてせかせかとあたりを見回したが、あわてながら眼窓《めまど》のカーテンをしめきった。そしてまた立ちすくんだ、自分の心の恐ろしさにまどいながら。
 外部では握《にぎ》り拳《こぶし》で続けさまに戸をたたいている。葉子はそわそわと裾前《すそまえ》をかき合わせて、肩越しに鏡を見やりながら涙をふいて眉《まゆ》をなでつけた。
 「早月さん!![#「!!」は横一列]」
 葉子はややしばしとつおいつ[#「とつおいつ」に傍点]躊躇《ちゅうちょ》していたが、とうとう決心して、何かあわてくさって、鍵《かぎ》をがちがち[#「がちがち」に傍点]やりながら戸をあけた。
 事務長はひどく酔ってはいって来た。どんなに飲んでも顔色もかえないほどの強酒《ごうしゅ》な倉地が、こんなに酔うのは珍しい事だった。締めきった戸に仁王立《におうだ》ちによりかかって、冷然とした様子で離れて立つ葉子をまじまじと見すえながら、
 「葉子さん、葉子さんが悪ければ早月さんだ。早月さん……僕のする事はするだけの覚悟があってするんですよ。僕はね、横浜以来あなたに惚《ほ》れていたんだ。それがわからないあなたじゃないでしょう。暴力? 暴力がなんだ。暴力は愚かなこった。殺したくなれば殺しても進んぜるよ」
 葉子はその最後の言葉を聞くと瞑眩《めまい》を感ずるほど有頂天になった。
 「あなたに木村さんというのが付いてるくらいは、横浜の支店長から聞かされとるんだが、どんな人だか僕はもちろん知りませんさ。知らんが僕のほうがあなたに深惚《ふかぼ》れしとる事だけは、この胸三寸でちゃん[#「ちゃん」に傍点]と知っとるんだ。それ、それがわからん? 僕は恥も何もさらけ出していっとるんですよ。これでもわからんですか」
 葉子は目をかがやかしながら、その言葉をむさぼった。かみしめた。そしてのみ込んだ。
 こうして葉子に取って運命的な一日は過ぎた。

    一八

 その夜船はビクトリヤに着いた。倉庫の立ちならんだ長い桟橋に"Car to the Town.Fare 15¢"と大きな白い看板に書いてあるのが夜目にもしるく葉子の眼窓《めまど》から見やられた。米国への上陸が禁ぜられているシナの苦力《クリー》がここから上陸するのと、相当の荷役とで、船の内外は急に騒々《そうぞう》しくなった。事務長は忙しいと見えてその夜はついに葉子の部屋《へや》に顔を見せなかった。そこいらが騒々しくなればなるほど葉子はたとえようのない平和を感じた。生まれて以来、葉子は生に固着した不安からこれほどまできれいに遠ざかりうるものとは思いも設けていなかった。しかもそれが空疎な平和ではない。飛び立っておどりたいほどの ecstasy を苦もなく押えうる強い力の潜んだ平和だった。すべての事に飽き足《た》った人のように、また二十五年にわたる長い苦しい戦いに始めて勝って兜《かぶと》を脱いだ人のように、心にも肉にも快い疲労を覚えて、いわばその疲れを夢のように味わいながら、なよなよとソファに身を寄せて灯火を見つめていた。倉地がそこにいないのが浅い心残りだった。けれどもなんといっても心安かった。ともすれば微笑が口びるの上をさざ波のようにひらめき過ぎた。
 けれどもその翌日から一等船客の葉子に対する態度は手のひらを返したように変わってしまった。一夜の間にこれほどの変化をひき起こす事のできる力を、葉子は田川夫人のほかに想像し得なかった。田川夫人が世に時めく良人《おっと》を持って、人の目に立つ交際をして、女盛りといい条、もういくらか下り坂であるのに引きかえて、どんな人の配偶にしてみても恥ずかしくない才能と容貌《ようぼう》とを持った若々しい葉子のたよりなげな身の上とが、二人《ふたり》に近づく男たちに同情の軽重を起こさせるのはもちろんだった。しかし道徳はいつでも田川夫人のような立場にある人の利器で、夫人はまたそれを有利に使う事を忘れない種類の人であった。そして船客たちの葉子に対する同情の底に潜む野心――はかない、野心ともいえないほどの野心――もう一ついい換《か》ゆれば、葉子の記憶に親切な男として、勇悍《ゆうかん》な男として、美貌《びぼう》な男として残りたいというほどな野心――に絶望の断定を与える事によって、その同情を引っ込めさせる事のできるのも夫人は心得ていた。事務長が自己の勢力範囲から離れてしまった事も不快の一つだった。こんな事から事務長と葉子との関係は巧妙な手段でいち早く船中に伝えられたに違いない。その結果として葉子はたちまち船中の社交から葬られてしまった。少なくとも田川夫人の前では、船客の大部分は葉子に対して疎々《よそよそ》しい態度をして見せるようになった。中にもいちばんあわれなのは岡だった。だれがなんと告げ口したのか知らないが、葉子が朝おそく目をさまして甲板《かんぱん》に出て見ると、いつものように手欄《てすり》によりかかって、もう内海になった波の色をながめていた彼は、葉子の姿を認めるや否や、ふいとその場をはずして、どこへか影を隠してしまった。それからというもの、岡はまるで幽霊のようだった。船の中にいる事だけは確かだが、葉子がどうかしてその姿を見つけたと思うと、次の瞬間にはもう見えなくなっていた。そのくせ葉子は思わぬ時に、岡がどこかで自分を見守っているのを確かに感ずる事がたびたびだった。葉子はその岡をあわれむ事すらもう忘れていた。
 結句船の中の人たちから度外視されるのを気安い事とまでは思わないでも、葉子はかかる結果にはいっこう無頓着《むとんじゃく》だった。もう船はきょうシヤトルに着くのだ。田川夫人やそのほかの船客たちのいわゆる「監視」の下《もと》に苦々《にがにが》しい思いをするのもきょう限りだ。そう葉子は平気で考えていた。
 しかし船がシヤトルに着くという事は、葉子にほかの不安を持ちきたさずにはおかなかった。シカゴに行って半年か一年木村と連れ添うほかはあるまいとも思った。しかし木部の時でも二か月とは同棲《どうせい》していなかったとも思った。倉地と離れては一日でもいられそうにはなかった。しかしこんな事を考えるには船がシヤトルに着いてからでも三日や四日の余裕はある。倉地はその事は第一に考えてくれているに違いない。葉子は今の平和をしいてこんな問題でかき乱す事を欲しなかったばかりでなくとてもできなかった。
 葉子はそのくせ、船客と顔を見合わせるのが不快でならなかったので、事務長に頼んで船橋に上げてもらった。船は今|瀬戸内《せとうち》のような狭い内海を動揺もなく進んでいた。船長はビクトリアで傭《やと》い入れた水先《みずさき》案内と二人ならんで立っていたが、葉子を見るといつものとおり顔をまっ赤《か》にしながら帽子を取って挨拶《あいさつ》した。ビスマークのような顔をして、船長より一《ひと》がけも二《ふた》がけも大きい白髪の水先案内はふと振り返ってじっ[#「じっ」に傍点]と葉子を見たが、そのまま向き直って、
 「Charmin' little lassie ! wha' is that ?」
 とスコットランド風《ふう》な強い発音で船長に尋ねた。葉子にはわからないつもりでいったのだ。船長があわてて何かささやくと、老人はからからと笑ってちょっと首を引っ込ませながら、もう一度振り返って葉子を見た。
 その毒気なくからからと笑う声が、恐ろしく気に入ったばかりでなく、かわいて晴れ渡った秋の朝の空となんともいえない調和をしていると思いながら葉子は聞いた。そしてその老人の背中でもなでてやりたいような気になった。船は小動《こゆる》ぎもせずにアメリカ松の生《は》え茂った大島小島の間を縫って、舷側《げんそく》に来てぶつかるさざ波の音ものどかだった。そして昼近くなってちょっとした岬《みさき》をくるり[#「くるり」に傍点]と船がかわすと、やがてポート・タウンセンドに着いた。そこでは米国官憲の検査が型ばかりあるのだ。くずした崕《がけ》の土で埋め立てをして造った、桟橋まで小さな漁村で、四角な箱に窓を明けたような、生々《なまなま》しい一色のペンキで塗り立てた二三階建ての家並《やな》みが、けわしい斜面に沿うて、高く低く立ち連なって、岡の上には水上げの風車が、青空に白い羽根をゆるゆる動かしながら、かったんこっとん[#「かったんこっとん」に傍点]とのんきらしく音を立てて回っていた。鴎《かもめ》が群れをなして猫《ねこ》に似た声でなきながら、船のまわりを水に近くのどかに飛び回るのを見るのも、葉子には絶えて久しい物珍しさだった。飴屋《あめや》の呼び売りのような声さえ町のほうから聞こえて来た。葉子はチャート・ルームの壁にもたれかかって、ぽかぽかとさす秋の日の光を頭から浴びながら、静かな恵み深い心で、この小さな町の小さな生活の姿をながめやった。そして十四日の航海の間に、いつのまにか海の心を心としていたのに気がついた。放埒《ほうらつ》な、移り気《ぎ》な、想像も及ばぬパッションにのたうち回ってうめき悩むあの大海原《おおうなばら》――葉子は失われた楽園を慕い望むイヴのように、静かに小さくうねる水の皺《しわ》を見やりながら、はるかな海の上の旅路を思いやった。
 「早月さん、ちょっとそこからでいい、顔を貸してください」
 すぐ下で事務長のこういう声が聞こえた。葉子は母に呼び立てられた少女のように、うれしさに心をときめかせながら、船橋の手欄《てすり》から下を見おろした。そこに事務長が立っていた。
 「One more over there,look!」
 こういいながら、米国の税関吏らしい人に葉子を指さして見せた。官吏はうなずきながら手帳に何か書き入れた。
 船はまもなくこの漁村を出発したが、出発するとまもなく事務長は船橋にのぼって来た。
 「Here we are! Seatle is as good as reached now.」
 船長にともなく葉子にともなくいって置いて、水先案内と握手しながら、
 「Thanks to you.」
 と付け足した。そして三人でしばらく快活に四方山《よもやま》の話をしていたが、ふと思い出したように葉子を顧みて、
 「これからまた当分は目が回るほど忙しくなるで、その前にちょっと御相談があるんだが、下に来てくれませんか」
 といった。葉子は船長にちょっと挨拶《あいさつ》を残して、すぐ事務長のあとに続いた。階子段《はしごだん》を降りる時でも、目の先に見える頑丈《がんじょう》な広い肩から一種の不安が抜け出て来て葉子に逼《せま》る事はもうなかった。自分の部屋《へや》の前まで来ると、事務長は葉子の肩に手をかけて戸をあけた。部屋の中には三四人の男が濃く立ちこめた煙草《たばこ》の煙の中に所狭く立ったり腰をかけたりしていた。そこには興録の顔も見えた。事務長は平気で葉子の肩に手をかけたままはいって行った。
 それは始終事務長や船医と一かたまりのグループを作って、サルンの小さなテーブルを囲んでウイスキーを傾けながら、時々他の船客の会話に無遠慮な皮肉や茶々を入れたりする連中だった。日本人が着るといかにもいや味に見えるアメリカ風の背広も、さして取ってつけたようには見えないほど、太平洋を幾度も往来したらしい人たちで、どんな職業に従事しているのか、そういう見分けには人一倍鋭敏な観察力を持っている葉子にすら見当がつかなかった。葉子がはいって行っても、彼らは格別自分たちの名前を名乗るでもなく、いちばん安楽な椅子《いす》に腰かけていた男が、それを葉子に譲って、自分は二つに折れるように小さくなって、すでに一人《ひとり》腰かけている寝台に曲がりこむと、一同はその様子に声を立てて笑ったが、すぐまた前どおり平気な顔をして勝手な口をきき始めた。それでも一座は事務長には一目《いちもく》置いているらしく、また事務長と葉子との関係も、事務長から残らず聞かされている様子だった。葉子はそういう人たちの間にあるのを結句気安く思った。彼らは葉子を下級船員のいわゆる「姉御《あねご》」扱いにしていた。
 「向こうに着いたらこれで悶着《もんちゃく》ものだぜ。田川の嚊《かかあ》め、あいつ、一味噌《ひとみそ》すらずにおくまいて」
 「因業《いんごう》な生まれだなあ」
 「なんでも正面からぶっ突かって、いさくさいわせず決めてしまうほかはないよ」
 などと彼らは戯談《じょうだん》ぶった口調で親身《しんみ》な心持ちをいい現わした。事務長は眉《まゆ》も動かさずに、机によりかかって黙っていた。葉子はこれらの言葉からそこに居合わす人々の性質や傾向を読み取ろうとしていた。興録のほかに三人いた。その中の一人は甲斐絹《かいき》のどてら[#「どてら」に傍点]を着ていた。
 「このままこの船でお帰りなさるがいいね」
 とそのどてら[#「どてら」に傍点]を着た中年の世渡り巧者らしいのが葉子の顔を窺《うかが》い窺いいうと、事務長は少し屈託らしい顔をして物懶《ものう》げに葉子を見やりながら、
 「わたしもそう思うんだがどうだ」
 とたずねた。葉子は、
 「さあ……」
 と生返事《なまへんじ》をするほかなかった。始めて口をきく幾人もの男の前で、とっかは[#「とっかは」に傍点]物をいうのがさすがに億劫《おっくう》だった。興録は事務長の意向を読んで取ると、分別《ふんべつ》ぶった顔をさし出して、
 「それに限りますよ。あなた一つ病気におなりなさりゃ世話なしですさ。上陸したところが急に動くようにはなれない。またそういうからだでは検疫《けんえき》がとやかくやかましいに違いないし、この間のように検疫所でまっ裸にされるような事でも起これば、国際問題だのなんだのって始末におえなくなる。それよりは出帆まで船に寝ていらっしゃるほうがいいと、そこは私が大丈夫やりますよ。そしておいて船の出ぎわになってやはりどうしてもいけないといえばそれっきりのもんでさあ」
 「なに、田川の奥さんが、木村っていうのに、味噌《みそ》さえしこたますってくれればいちばんええのだが」
 と事務長は船医の言葉を無視した様子で、自分の思うとおりをぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]にいってのけた。
 木村はそのくらいな事で葉子から手を引くようなはきはきした気象の男ではない。これまでもずいぶんいろいろなうわさが耳にはいったはずなのに「僕はあの女の欠陥も弱点もみんな承知している。私生児のあるのももとより知っている。ただ僕はクリスチャンである以上、なんとでもして葉子を救い上げる。救われた葉子を想像してみたまえ。僕はその時いちばん理想的な better half を持ちうると信じている」といった事を聞いている。東北人のねんじりむっつり[#「ねんじりむっつり」に傍点]したその気象が、葉子には第一我慢のしきれない嫌悪《けんお》の種だったのだ。
 葉子は黙ってみんなのいう事を聞いているうちに、興録の軍略がいちばん実際的だと考えた。そしてなれなれしい調子で興録を見やりながら、
 「興録さん、そうおっしゃればわたし仮病《けびょう》じゃないんですの。この間じゅうから診《み》ていただこうかしらと幾度か思ったんですけれども、あんまり大げさらしいんで我慢していたんですが、どういうもんでしょう……少しは船に乗る前からでしたけれども……お腹《なか》のここが妙に時々痛むんですのよ」
 というと、寝台に曲がりこんだ男はそれを聞きながらにやりにやり笑い始めた。葉子はちょっとその男をにらむようにして一緒に笑った。
 「まあ機《しお》の悪い時にこんな事をいうもんですから、痛い腹まで探られますわね……じゃ興録さん後ほど診《み》ていただけて?」
 事務長の相談というのはこんなたわいもない事で済んでしまった。
 二人《ふたり》きりになってから、
 「ではわたしこれからほんとうの病人になりますからね」
 葉子はちょっと倉地の顔をつついて、その口びるに触れた。そしてシヤトルの市街から起こる煤煙《ばいえん》が遠くにぼんやり望まれるようになったので、葉子は自分の部屋に帰った。そして洋風の白い寝衣《ねまき》に着かえて、髪を長い編み下げにして寝床にはいった。戯談《じょうだん》のようにして興録に病気の話をしたものの、葉子は実際かなり長い以前から子宮を害しているらしかった。腰を冷やしたり、感情が激昂《げきこう》したりしたあとでは、きっと収縮するような痛みを下腹部に感じていた。船に乗った当座は、しばらくの間は忘れるようにこの不快な痛みから遠ざかる事ができて、幾年ぶりかで申し所のない健康のよろこびを味わったのだったが、近ごろはまただんだん痛みが激しくなるようになって来ていた。半身が痲痺《まひ》したり、頭が急にぼーっと遠くなる事も珍しくなかった。葉子は寝床にはいってから、軽い疼《いた》みのある所をそっ[#「そっ」に傍点]と平手でさすりながら、船がシヤトルの波止場《はとば》に着く時のありさまを想像してみた。しておかなければならない事が数かぎりなくあるらしかったけれども、何をしておくという事もなかった。ただなんでもいいせっせ[#「せっせ」に傍点]と手当たり次第したくをしておかなければ、それだけの心尽くしを見せて置かなければ、目論見《もくろみ》どおり首尾が運ばないように思ったので、一ぺん横になったものをまたむくむくと起き上がった。
 まずきのう着た派手《はで》な衣類がそのまま散らかっているのを畳んでトランクの中にしまいこんだ。臥《ね》る時まで着ていた着物は、わざとはなやかな長襦袢《ながじゅばん》や裏地が見えるように衣紋竹《えもんだけ》に通して壁にかけた。事務長の置き忘れて行ったパイプや帳簿のようなものは丁寧に抽《ひ》き出《だ》しに隠した。古藤《ことう》が木村と自分とにあてて書いた二通の手紙を取り出して、古藤がしておいたように、枕《まくら》の下に差しこんだ。鏡の前には二人《ふたり》の妹と木村との写真を飾った。それから大事な事を忘れていたのに気がついて、廊下越しに興録を呼び出して薬びんや病床日記を調《ととの》えるように頼んだ。興録の持って来た薬びんから薬を半分がた痰壺《たんつぼ》に捨てた。日本から木村に持って行くように託された品々をトランクから取り分けた。その中からは故郷を思い出させるようないろいろな物が出て来た。香《にお》いまでが日本というものをほのかに心に触れさせた。
 葉子は忙《せわ》しく働かしていた手を休めて、部屋《へや》のまん中に立ってあたりを見回して見た。しぼんだ花束が取りのけられてなくなっているばかりで、あとは横浜を出た時のとおりの部屋の姿になっていた。旧《ふる》い記憶が香《こう》のようにしみこんだそれらの物を見ると、葉子の心はわれにもなくふとぐらつきかけたが、涙もさそわずに淡く消えて行った。
 フォクスルで起重機の音がかすかに響いて来るだけで、葉子の部屋は妙に静かだった。葉子の心は風のない池か沼の面のようにただどんよりとよどんでいた。からだはなんのわけもなくだるく物懶《ものう》かった。
 食堂の時計が引きしまった音で三時を打った。それを相図のように汽笛がすさまじく鳴り響いた。港にはいった相図をしているのだなと思った。と思うと今まで鈍く脈打つように見えていた胸が急に激しく騒ぎ動き出した。それが葉子の思いも設けぬ方向に動き出した。もうこの長い船旅も終わったのだ。十四五の時から新聞記者になる修業のために来たい来たいと思っていた米国に着いたのだ。来たいとは思いながらほんとうに来《こ》ようとは夢にも思わなかった米国に着いたのだ。それだけの事で葉子の心はもうしみじみとしたものになっていた。木村は狂うような心をしいて押ししずめながら、船の着くのを埠頭《ふとう》に立って涙ぐみつつ待っているだろう。そう思いながら葉子の目は木村や二人の妹の写真のほうにさまよって行った。それとならべて写真を飾っておく事もできない定子の事までが、哀れ深く思いやられた。生活の保障をしてくれる父親もなく、膝《ひざ》に抱き上げて愛撫《あいぶ》してやる母親にもはぐれたあの子は今あの池《いけ》の端《はた》のさびしい小家で何をしているのだろう。笑っているかと想像してみるのも悲しかった。泣いているかと想像してみるのもあわれだった。そして胸の中が急にわくわくとふさがって来て、せきとめる暇もなく涙がはらはらと流れ出た。葉子は大急ぎで寝台のそばに駆けよって、枕《まくら》もとにおいといたハンケチを拾い上げて目がしらに押しあてた。素直な感傷的な涙がただわけもなくあとからあとから流れた。この不意の感情の裏切りにはしかし引き入れられるような誘惑があった。だんだん底深く沈んで哀《かな》しくなって行くその思い、なんの思いとも定めかねた深い、わびしい、悲しい思い。恨みや怒りをきれいにぬぐい去って、あきらめきったようにすべてのものをただしみじみとなつかしく見せるその思い。いとしい定子、いとしい妹、いとしい父母、……なぜこんななつかしい世に自分の心だけがこう哀《かな》しく一人《ひとり》ぼっちなのだろう。なぜ世の中は自分のようなものをあわれむしかたを知らないのだろう。そんな感じの零細な断片がつぎつぎに涙にぬれて胸を引きしめながら通り過ぎた。葉子は知らず知らずそれらの感じにしっかり[#「しっかり」に傍点]すがり付こうとしたけれども無益だった。感じと感じとの間には、星のない夜のような、波のない海のような、暗い深い際涯《はてし》のない悲哀が、愛憎のすべてをただ一色に染めなして、どんよりと広がっていた。生を呪《のろ》うよりも死が願われるような思いが、逼《せま》るでもなく離れるでもなく、葉子の心にまつわり付いた。葉子は果ては枕《まくら》に顔を伏せて、ほんとうに自分のためにさめざめと泣き続けた。
 こうして小半時《こはんとき》もたった時、船は桟橋につながれたと見えて、二度目の汽笛が鳴りはためいた。葉子は物懶《ものう》げに頭をもたげて見た。ハンケチは涙のためにしぼるほどぬれて丸まっていた。水夫らが繋《つな》ぎ綱《づな》を受けたりやったりする音と、鋲釘《びょうくぎ》を打ちつけた靴《くつ》で甲板《かんぱん》を歩き回る音とが入り乱れて、頭の上はさながら火事場のような騒ぎだった。泣いて泣いて泣き尽くした子供のようなぼんやりした取りとめのない心持ちで、葉子は何を思うともなくそれを聞いていた。
 と突然戸外で事務長の、
 「ここがお部屋《へや》です」
 という声がした。それがまるで雷か何かのように恐ろしく聞こえた。葉子は思わずぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]となった。準備をしておくつもりでいながらなんの準備もできていない事も思った。今の心持ちは平気で木村に会える心持ちではなかった。おろおろしながら立ちは上がったが、立ち上がってもどうする事もできないのだと思うと、追いつめられた罪人のように、頭の毛を両手で押えて、髪の毛をむしりながら、寝台の上にがば[#「がば」に傍点]と伏さってしまった。
 戸があいた。
 「戸があいた」、葉子は自分自身に救いを求めるように、こう心の中でうめいた。そして息気《いき》もとまるほど身内がしゃちこ[#「しゃちこ」に傍点]ばってしまっていた。
 「早月《さつき》さん、木村さんが見えましたよ」
 事務長の声だ。あゝ事務長の声だ。事務長の声だ。葉子は身を震わせて壁のほうに顔を向けた。……事務長の声だ……。
 「葉子さん」
 木村の声だ。今度は感情に震えた木村の声が聞こえて来た。葉子は気が狂いそうだった。とにかく二人《ふたり》の顔を見る事はどうしてもできない。葉子は二人に背《うし》ろを向けますます壁のほうにもがきよりながら、涙の暇から狂人のように叫んだ。たちまち高くたちまち低いその震え声は笑っているようにさえ聞こえた。
 「出て……お二人ともどうか出て……この部屋を……後生《ごしょう》ですから今この部屋を……出てくださいまし……」
 木村はひどく不安げに葉子によりそってその肩に手をかけた。木村の手を感ずると恐怖と嫌悪《けんお》とのために身をちぢめて壁にしがみついた。
 「痛い……いけません……お腹《なか》が……早く出て……早く……」
 事務長は木村を呼び寄せて何かしばらくひそひそ話し合っているようだったが、二人ながら足音を盗んでそっと部屋を出て行った。葉子はなおも息気《いき》も絶《た》え絶《だ》えに、
 「どうぞ出て……あっちに行って……」
 といいながら、いつまでも泣き続けた。

    一九

 しばらくの間《あいだ》食堂で事務長と通り一ぺんの話でもしているらしい木村が、ころを見計らって再度葉子の部屋《へや》の戸をたたいた時にも、葉子はまだ枕《まくら》に顔を伏せて、不思議な感情の渦巻《うずま》きの中に心を浸していたが、木村が一人《ひとり》ではいって来たのに気づくと、始めて弱々しく横向きに寝なおって、二の腕まで袖口《そでぐち》のまくれたまっ白な手をさし延べて、黙ったまま木村と握手した。木村は葉子の激しく泣いたのを見てから、こらえこらえていた感情がさらに嵩《こう》じたものか、涙をあふれんばかり目がしらにためて、厚ぼったい口びるを震わせながら、痛々しげに葉子の顔つきを見入って突っ立った。
 葉子は、今まで続けていた沈黙の惰性で第一口をきくのが物懶《ものう》かったし、木村はなんといい出したものか迷う様子で、二人《ふたり》の間には握手のまま意味深げな沈黙が取りかわされた。その沈黙はしかし感傷的という程度であるにはあまりに長く続き過ぎたので、外界の刺激に応じて過敏なまでに満干《みちひ》のできる葉子の感情は今まで浸っていた痛烈な動乱から一皮《ひとかわ》一皮平調に還《かえ》って、果てはその底に、こう嵩《こう》じてはいとわしいと自分ですらが思うような冷ややかな皮肉が、そろそろ頭を持ち上げるのを感じた。握り合わせたむずかゆ[#「むずかゆ」に傍点]いような手を引っ込めて、目もとまでふとんをかぶって、そこから自分の前に立つ若い男の心の乱れを嘲笑《あざわら》ってみたいような心にすらなっていた。長く続く沈黙が当然ひき起こす一種の圧迫を木村も感じてうろたえたらしく、なんとかして二人《ふたり》の間の気まずさを引き裂くような、心の切《せつ》なさを表わす適当の言葉を案じ求めているらしかったが、とうとう涙に潤った低い声で、もう一度、
 「葉子さん」
 と愛するものの名を呼んだ。それは先ほど呼ばれた時のそれに比べると、聞き違えるほど美しい声だった。葉子は、今まで、これほど切《せつ》な情をこめて自分の名を呼ばれた事はないようにさえ思った。「葉子」という名にきわ立って伝奇的な色彩が添えられたようにも聞こえた。で、葉子はわざと木村と握り合わせた手に力をこめて、さらになんとか言葉をつがせてみたくなった。その目も木村の口びるに励ましを与えていた。木村は急に弁力を回復して、
 「一日千秋の思いとはこの事です」
 とすらすらとなめらかにいってのけた。それを聞くと葉子はみごと期待に背負投《しょいな》げをくわされて、その場の滑稽《こっけい》に思わずふき出そうとしたが、いかに事務長に対する恋におぼれきった女心の残虐さからも、さすがに木村の他意ない誠実を笑いきる事は得《え》しないで、葉子はただ心の中で失望したように「あれだからいやになっちまう」とくさくさしながら喞《かこ》った。
 しかしこの場合、木村と同様、葉子も格好な空気を部屋の中に作る事に当惑せずにはいられなかった。事務長と別れて自分の部屋に閉じこもってから、心静かに考えて置こうとした木村に対する善後策も、思いよらぬ感情の狂いからそのままになってしまって、今になってみると、葉子はどう木村をもてあつかっていいのか、はっきりした目論見《もくろみ》はできていなかった。しかし考えてみると、木部|孤※[#「※」は「たけかんむりにエにふしづくり」、191-17]《こきょう》と別れた時でも、葉子には格別これという謀略があったわけではなく、ただその時々にわがままを振る舞ったに過ぎなかったのだけれども、その結果は葉子が何か恐ろしく深い企《たくら》みと手練《てくだ》を示したかのように人に取られていた事も思った。なんとかして漕《こ》ぎ抜けられない事はあるまい。そう思って、まず落ち付き払って木村に椅子《いす》をすすめた。木村が手近にある畳み椅子を取り上げて寝台のそばに来てすわると、葉子はまたしなやかな手を木村の膝《ひざ》の上において、男の顔をしげしげと見やりながら、
 「ほんとうにしばらくでしたわね。少しおやつれになったようですわ」
 といってみた。木村は自分の感情に打ち負かされて身を震わしていた。そしてわくわくと流れ出る涙が見る見る目からあふれて、顔を伝って幾筋となく流れ落ちた。葉子は、その涙の一しずくが気まぐれにも、うつむいた男の鼻の先に宿って、落ちそうで落ちないのを見やっていた。
 「ずいぶんいろいろと苦労なすったろうと思って、気が気ではなかったんですけれども、わたしのほうも御承知のとおりでしょう。今度こっちに来るにつけても、それは困って、ありったけのものを払ったりして、ようやく間に合わせたくらいだったもんですから……」
 なおいおうとするのを木村は忙《せわ》しく打ち消すようにさえぎって、
 「それは充分わかっています」
 と顔を上げた拍子《ひょうし》に涙のしずくがぽたり[#「ぽたり」に傍点]と鼻の先からズボンの上に落ちたのを見た。葉子は、泣いたために妙に脹《は》れぼったく赤くなって、てらてらと光る木村の鼻の先が急に気になり出して、悪いとは知りながらも、ともするとそこへばかり目が行った。
 木村は何からどう話し出していいかわからない様子だった。
 「わたしの電報をビクトリヤで受け取ったでしょうね」
 などともてれ[#「てれ」に傍点]隠しのようにいった。葉子は受け取った覚えもないくせにいいかげんに、
 「えゝ、ありがとうございました」
 と答えておいた。そして一時《いっとき》も早くこんな息気《いき》づまるように圧迫して来る二人《ふたり》の間の心のもつれからのがれる術《すべ》はないかと思案していた。
 「今始めて事務長から聞いたんですが、あなたが病気だったといってましたが、いったいどこが悪かったんです。さぞ困ったでしょうね。そんな事とはちっとも知らずに、今が今まで、祝福された、輝くようなあなたを迎えられるとばかり思っていたんです。あなたはほんとうに試練の受けつづけというもんですね。どこでした悪いのは」
 葉子は、不用意にも女を捕えてじかづけ[#「じかづけ」に傍点]に病気の種類を聞きただす男の心の粗雑さを忌みながら、当たらずさわらず、前からあった胃病が、船の中で食物と気候との変わったために、だんだん嵩《こう》じて来て起きられなくなったようにいい繕った。木村は痛ましそうに眉《まゆ》を寄せながら聞いていた。
 葉子はもうこんな程々《ほどほど》な会話には堪《た》えきれなくなって来た。木村の顔を見るにつけて思い出される仙台《せんだい》時代や、母の死というような事にもかなり悩まされるのをつらく思った。で、話の調子を変えるためにしいていくらか快活を装って、
 「それはそうとこちらの御事業はいかが」
 と仕事とか様子とかいう代わりに、わざと事業という言葉をつかってこう尋ねた。
 木村の顔つきは見る見る変わった。そして胸のポッケットにのぞかせてあった大きなリンネルのハンケチを取り出して、器用に片手でそれをふわり[#「ふわり」に傍点]と丸めておいて、ちん[#「ちん」に傍点]と鼻をかんでから、また器用にそれをポケットに戻《もど》すと、
 「だめです」
 といかにも絶望的な調子でいったが、その目はすでに笑っていた。サンフランシスコの領事が在留日本人の企業に対して全然冷淡で盲目であるという事、日本人間に嫉視《しっし》が激しいので、サンフランシスコでの事業の目論見《もくろみ》は予期以上の故障にあって大体失敗に終わった事、思いきった発展はやはり想像どおりの米国の西部よりも中央、ことにシカゴを中心として計画されなければならぬという事、幸いに、サンフランシスコで自分の話に乗ってくれるある手堅いドイツ人に取り次ぎを頼んだという事、シヤトルでも相当の店を見いだしかけているという事、シカゴに行ったら、そこで日本の名誉領事をしているかなりの鉄物商の店にまず住み込んで米国における取り引きの手心をのみ込むと同時に、その人の資本の一部を動かして、日本との直《じか》取り引きを始める算段であるという事、シカゴの住まいはもう決まって、借りるべきフラットの図面まで取り寄せてあるという事、フラットは不経済のようだけれども部屋《へや》の明いた部分を又貸《またが》しをすれば、たいして高いものにもつかず、住まい便利は非常にいいという事……そういう点にかけては、なかなか綿密に行き届いたもので、それをいかにも企業家らしい説服的な口調で順序よく述べて行った。会話の流れがこう変わって来ると、葉子は始めて泥《どろ》の中から足を抜き上げたような気軽な心持ちになって、ずっ[#「ずっ」に傍点]と木村を見つめながら、聞くともなしにその話に聞き耳を立てていた。木村の容貌《ようぼう》はしばらくの間に見違えるほど refine されて、元から白かったその皮膚は何か特殊な洗料で底光りのするほどみがきがかけられて、日本人とは思えぬまでなめらかなのに、油できれいに分けた濃い黒髪は、西洋人の金髪にはまた見られぬような趣のある対照をその白皙《はくせき》の皮膚に与えて、カラーとネクタイの関係にも人に気のつかぬ凝りかたを見せていた。
 「会いたてからこんな事をいうのは恥ずかしいですけれども、実際今度という今度は苦闘しました。ここまで迎いに来るにもろくろく旅費がない騒ぎでしょう」
 といってさすがに苦しげに笑いにまぎらそうとした。そのくせ木村の胸にはどっしり[#「どっしり」に傍点]と重そうな金鎖がかかって、両手の指には四つまで宝石入りの指輪がきらめいていた。葉子は木村のいう事を聞きながらその指に目をつけていたが、四つの指輪の中に婚約の時取りかわした純金の指輪もまじっているのに気がつくと、自分の指にはそれをはめていなかったのを思い出して、何くわぬ様子で木村の膝《ひざ》の上から手を引っ込めて顎《あご》までふとんをかぶってしまった。木村は引っ込められた手に追いすがるように椅子《いす》を乗り出して、葉子の顔に近く自分の顔をさし出した。
 「葉子さん」
 「何?」
 また Love-scene か。そう思って葉子はうんざり[#「うんざり」に傍点]したけれども、すげなく顔をそむけるわけにも行かず、やや当惑していると、おりよく事務長が型ばかりのノックをしてはいって来た。葉子は寝たまま、目でいそいそと事務長を迎えながら、
 「まあようこそ……先ほどは失礼。なんだかくだらない事を考え出していたもんですから、ついわがままをしてしまってすみません……お忙しいでしょう」
 というと、事務長はからかい[#「からかい」に傍点]半分の冗談をきっかけ[#「きっかけ」に傍点]に、
 「木村さんの顔を見るとえらい事を忘れていたのに気がついたで。木村さんからあなたに電報が来とったのを、わたしゃビクトリヤのどさくさ[#「どさくさ」に傍点]でころり[#「ころり」に傍点]忘れとったんだ。すまん事でした。こんな皺《しわ》になりくさった」
 といいながら、左のポッケットから折り目に煙草《たばこ》の粉がはさまってもみくちゃ[#「くちゃ」に傍点]になった電報紙を取り出した。木村はさっき葉子がそれを見たと確かにいったその言葉に対して、怪訝《けげん》な顔つきをしながら葉子を見た。些細《ささい》な事ではあるが、それが事務長にも関係を持つ事だと思うと、葉子もちょっとどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]せずにはいられなかった。しかしそれはただ一瞬間だった。
 「倉地さん、あなたはきょう少しどうかなすっていらっしゃるわ。それはその時ちゃん[#「ちゃん」に傍点]と拝見したじゃありませんか」
 といいながらすばやく[#「すばやく」に傍点]目くばせすると、事務長はすぐ何かわけがあるのを気取《けど》ったらしく、巧みに葉子にばつ[#「ばつ」に傍点]を合わせた。
 「何? あなた見た?……おゝそうそう……これは寝ぼけ返っとるぞ、はゝゝゝ」
 そして互いに顔を見合わせながら二人《ふたり》はしたたか笑った。木村はしばらく二人をかたみがわりに見くらべていたが、これもやがて声を立てて笑い出した。木村の笑い出すのを見た二人は無性《むしょう》におかしくなってもう一度新しく笑いこけた。木村という大きな邪魔者を目の前に据《す》えておきながら、互いの感情が水のように苦もなく流れ通うのを二人は子供らしく楽しんだ。
 しかしこんないたずらめいた事のために話はちょっと途切れてしまった。くだらない事に二人からわき出た少し仰山《ぎょうさん》すぎた笑いは、かすかながら木村の感情をそこねたらしかった。葉子は、この場合、なお居残ろうとする事務長を遠ざけて、木村とさし向かいになるのが得策《とくさく》だと思ったので、程《ほど》もなくきまじめな顔つきに返って、枕《まくら》の下を探って、そこに入れて置いた古藤の手紙を取り出して木村に渡しながら、
 「これをあなたに古藤さんから。古藤さんにはずいぶんお世話になりましてよ。でもあの方《かた》のぶま[#「ぶま」に傍点]さかげんったら、それはじれっ[#「じれっ」に傍点]たいほどね。愛や貞の学校の事もお頼みして来たんですけれども心もとないもんよ。きっと今ごろはけんか腰になってみんなと談判でもしていらっしゃるでしょうよ。見えるようですわね」
 と水を向けると、木村は始めて話の領分が自分のほうに移って来たように、顔色をなおしながら、事務長をそっちのけ[#「そっちのけ」に傍点]にした態度で、葉子に対しては自分が第一の発言権を持っているといわんばかりに、いろいろと話し出した。事務長はしばらく風向きを見計らって立っていたが突然|部屋《へや》を出て行った。葉子はすばやくその顔色をうかがうと妙にけわしくなっていた。
 「ちょっと失礼」
 木村の癖で、こんな時まで妙によそよそしく断わって、古藤の手紙の封を切った。西洋|罫紙《けいし》にペンで細かく書いた幾枚かのかなり厚いもので、それを木村が読み終わるまでには暇がかかった。その間、葉子は仰向けになって、甲板《かんぱん》で盛んに荷揚げしている人足《にんそく》らの騒ぎを聞きながら、やや暗くなりかけた光で木村の顔を見やっていた。少し眉根《まゆね》を寄せながら、手紙に読みふける木村の表情には、時々苦痛や疑惑やの色が往《い》ったり来たりした。読み終わってからほっ[#「ほっ」に傍点]としたため息とともに木村は手紙を葉子に渡して、
 「こんな事をいってよこしているんです。あなたに見せても構わないとあるから御覧なさい」
 といった。葉子はべつに読みたくもなかったが、多少の好奇心も手伝うのでとにかく目を通して見た。
[#ここより引用文、本文より一字下げ]
 「僕は今度ぐらい不思議な経験をなめた事はない。兄《けい》が去って後の葉子さんの一身に関して、責任を持つ事なんか、僕はしたいと思ってもできはしないが、もし明白にいわせてくれるなら、兄はまだ葉子さんの心を全然占領したものとは思われない」
 「僕は女の心には全く触れた事がないといっていいほどの人間だが、もし僕の事実だと思う事が不幸にして事実だとすると、葉子さんの恋には――もしそんなのが恋といえるなら――だいぶ余裕があると思うね」
 「これが女の tact というものかと思ったような事があった。しかし僕にはわからん」
 「僕は若い女の前に行くと変にどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]してしまってろくろく物もいえなくなる。ところが葉子さんの前では全く異《ちが》った感じで物がいえる。これは考えものだ」
 「葉子さんという人は兄がいうとおりに優《すぐ》れた天賦《てんぷ》を持った人のようにも実際思える。しかしあの人はどこか片輪《かたわ》じゃないかい」
 「明白にいうと僕はああいう人はいちばんきらいだけれども、同時にまたいちばんひきつけられる、僕はこの矛盾を解きほごしてみたくってたまらない。僕の単純を許してくれたまえ。葉子さんは今までのどこかで道を間違えたのじゃないかしらん。けれどもそれにしてはあまり平気だね」
 「神は悪魔に何一つ与えなかったが Attraction だけは与えたのだ。こんな事も思う。……葉子さんの Attraction はどこから来るんだろう。失敬失敬。僕は乱暴をいいすぎてるようだ」
 「時々は憎むべき人間だと思うが、時々はなんだかかわいそうでたまらなくなる時がある。葉子さんがここを読んだら、おそらく唾《つば》でも吐きかけたくなるだろう。あの人はかわいそうな人のくせに、かわいそうがられるのがきらいらしいから」
 「僕には結局葉子さんが何がなんだかちっとも[#「ちっとも」に傍点]わからない。僕は兄が彼女を選んだ自信に驚く。しかしこうなった以上は、兄は全力を尽くして彼女を理解してやらなければいけないと思う。どうか兄らの生活が最後の栄冠に至らん事を神に祈る」
[#引用文ここまで]
 こんな文句が断片的に葉子の心にしみて行った。葉子は激しい侮蔑《ぶべつ》を小鼻に見せて、手紙を木村に戻《もど》した。木村の顔にはその手紙を読み終えた葉子の心の中を見とおそうとあせるような表情が現われていた。
 「こんな事を書かれてあなたどう思います」
 葉子は事もなげにせせら笑った。
 「どうも思いはしませんわ。でも古藤さんも手紙の上では一枚がた男を上げていますわね」
 木村の意気込みはしかしそんな事ではごまかされそうにはなかったので、葉子はめんどうくさくなって少し険しい顔になった。
 「古藤さんのおっしゃる事は古藤さんのおっしゃる事。あなたはわたしと約束なさった時からわたしを信じわたしを理解してくださっていらっしゃるんでしょうね」
 木村は恐ろしい力をこめて、
 「それはそうですとも」
 と答えた。
 「そんならそれで何もいう事はないじゃありませんか。古藤さんなどのいう事――古藤さんなんぞにわかられたら人間も末ですわ――でもあなたはやっぱり[#「やっぱり」に傍点]どこかわたしを疑っていらっしゃるのね」
 「そうじゃない……」
 「そうじゃない事があるもんですか。わたしは一たんこうと決めたらどこまでもそれで通すのが好き。それは生きてる人間ですもの、こっちのすみあっちのすみと小さな事を捕えてとがめだてを始めたら際限はありませんさ。そんなばかな事ったらありませんわ。わたしみたいな気随《きずい》なわがまま者はそんなふうにされたら窮屈で窮屈で死んでしまうでしょうよ。わたしがこんなになったのも、つまり、みんなで寄ってたかってわたしを疑い抜いたからです。あなただってやっぱり[#「やっぱり」に傍点]その一人《ひとり》かと思うと心細いもんですのね」
 木村の目は輝いた。
 「葉子さん、それは疑い過ぎというもんです」
 そして自分が米国に来てからなめ尽くした奮闘生活もつまりは葉子というものがあればこそできたので、もし葉子がそれに同情と鼓舞とを与えてくれなかったら、その瞬間に精も根も枯れ果ててしまうに違いないという事を繰り返し繰り返し熱心に説いた。葉子はよそよそしく聞いていたが、
 「うまくおっしゃるわ」
 と留《とど》めをさしておいて、しばらくしてから思い出したように、
 「あなた田川の奥さんにおあいなさって」
 と尋ねた。木村はまだあわなかったと答えた。葉子は皮肉な表情をして、
 「いまにきっとおあいになってよ。一緒にこの船でいらしったんですもの。そして五十川《いそがわ》のおばさんがわたしの監督をお頼みになったんですもの。一度おあいになったらあなたはきっとわたしなんぞ見向きもなさらなくなりますわ」
 「どうしてです」
 「まあおあいなさってごらんなさいまし」
 「何かあなた批難を受けるような事でもしたんですか」
 「えゝえゝたくさんしましたとも」
 「田川夫人に? あの賢夫人の批難を受けるとは、いったいどんな事をしたんです」
 葉子はさも愛想《あいそ》が尽きたというふうに、
 「あの賢夫人!」
 といいながら高々と笑った。二人《ふたり》の感情の糸はまたももつれてしまった。
 「そんなにあの奥さんにあなたの御信用があるのなら、わたしから申しておくほうが早手回しですわね」
 と葉子は半分皮肉な半分まじめな態度で、横浜出航以来夫人から葉子が受けた暗々裡《あんあんり》の圧迫に尾鰭《おひれ》をつけて語って来て、事務長と自分との間に何かあたりまえでない関係でもあるような疑いを持っているらしいという事を、他人事《ひとごと》でも話すように冷静に述べて行った。その言葉の裏には、しかし葉子に特有な火のような情熱がひらめいて、その目は鋭く輝いたり涙ぐんだりしていた。木村は電火にでも打たれたように判断力を失って、一部始終をぼんやり[#「ぼんやり」に傍点]と聞いていた。言葉だけにもどこまでも冷静な調子を持たせ続けて葉子はすべてを語り終わってから、
 「同じ親切にも真底《しんそこ》からのと、通り一ぺんのと二つありますわね。その二つがどうかしてぶつかり合うと、いつでもほんとうの親切のほうが悪者《わるもの》扱いにされたり、邪魔者に見られるんだからおもしろうござんすわ。横浜を出てから三日ばかり船に酔ってしまって、どうしましょうと思った時にも、御親切な奥さんは、わざと御遠慮なさってでしょうね、三度三度食堂にはお出になるのに、一度もわたしのほうへはいらしってくださらないのに、事務長ったら幾度もお医者さんを連れて来るんですもの、奥さんのお疑いももっともといえばもっともですの。それにわたしが胃病で寝込むようになってからは、船中のお客様がそれは同情してくださって、いろいろとしてくださるのが、奥さんには大のお気に入らなかったんですの。奥さんだけがわたしを親切にしてくださって、ほかの方《かた》はみんな寄ってたかって、奥さんを親切にして上げてくださる段取りにさえなれば、何もかも無事だったんですけれどもね、中でも事務長の親切にして上げかたがいちばん足りなかったんでしょうよ」
 と言葉を結んだ。木村は口びるをかむように聞いていたが、いまいましげに、
 「わかりましたわかりました」
 合点《がてん》しながらつぶやいた。
 葉子は額の生《は》えぎわの短い毛を引っぱっては指に巻いて上目でながめながら、皮肉な微笑を口びるのあたりに浮かばして、
 「おわかりになった? ふん、どうですかね」
 と空うそぶいた。
 木村は何を思ったかひどく感傷的な態度になっていた。
 「わたしが悪かった。わたしはどこまでもあなたを信ずるつもりでいながら、他人の言葉に多少とも信用をかけようとしていたのが悪かったのです。……考えてください、わたしは親類や友人のすべての反対を犯してここまで来ているのです。もうあなたなしにはわたしの生涯《しょうがい》は無意味です。わたしを信じてください。きっと十年を期して男になって見せますから……もしあなたの愛からわたしが離れなければならんような事があったら……わたしはそんな事を思うに堪《た》えない……葉子さん」
 木村はこういいながら目を輝かしてすり寄って来た。葉子はその思いつめたらしい態度に一種の恐怖を感ずるほどだった。男の誇りも何も忘れ果て、捨て果てて、葉子の前に誓いを立てている木村を、うまうま偽っているのだと思うと、葉子はさすがに針で突くような痛みを鋭く深く良心の一|隅《ぐう》に感ぜずにはいられなかった。しかしそれよりもその瞬間に葉子の胸を押しひしぐように狭《せば》めたものは、底のない物すごい不安だった。木村とはどうしても連れ添う心はない。その木村に……葉子はおぼれた人が岸べを望むように事務長を思い浮かべた。男というものの女に与える力を今さらに強く感じた。ここに事務長がいてくれたらどんなに自分の勇気は加わったろう。しかし……どうにでもなれ。どうかしてこの大事な瀬戸を漕《こ》ぎぬけなければ浮かぶ瀬はない。葉子は大《だい》それた謀反人《むほんにん》の心で木村の caress を受くべき身構え心構えを案じていた。

    二〇

 船の着いたその晩、田川夫妻は見舞いの言葉も別れの言葉も残さずに、おおぜいの出迎え人に囲まれて堂々と威儀を整えて上陸してしまった。その余の人々の中にはわざわざ葉子の部屋《へや》を訪れて来たものが数人はあったけれども、葉子はいかにも親しみをこめた別れの言葉を与えはしたが、あとまで心に残る人とては一人《ひとり》もいなかった。その晩事務長が来て、狭っこい boudoir のような船室でおそくまでしめじめと打ち語った間に、葉子はふと二度ほど岡の事を思っていた。あんなに自分を慕っていはしたが岡も上陸してしまえば、詮方《せんかた》なくボストンのほうに旅立つ用意をするだろう。そしてやがて自分の事もいつとはなしに忘れてしまうだろう。それにしてもなんという上品な美しい青年だったろう。こんな事をふと思ったのもしかし束《つか》の間《ま》で、その追憶は心の戸をたたいたと思うとはかなくもどこかに消えてしまった。今はただ木村という邪魔な考えが、もやもやと胸の中に立ち迷うばかりで、その奥には事務長の打ち勝ちがたい暗い力が、魔王のように小動《こゆる》ぎもせずうずくまっているのみだった。
 荷役の目まぐるしい騒ぎが二日続いたあとの絵島丸は、泣きわめく遺族に取り囲まれたうつろな死骸《しがい》のように、がらん[#「がらん」に傍点]と静まり返って、騒々しい桟橋の雑鬧《ざっとう》の間にさびしく横たわっている。
 水夫が、輪切りにした椰子《やし》の実でよごれた甲板《かんぱん》を単調にごし/\ごし/\とこする音が、時というものをゆるゆるすり減らすやすり[#「やすり」に傍点]のように日がな日ねもす聞こえていた。
 葉子は早く早くここを切り上げて日本に帰りたいという子供じみた考えのほかには、おかしいほどそのほかの興味を失ってしまって、他郷の風景に一|瞥《べつ》を与える事もいとわしく、自分の部屋の中にこもりきって、ひたすら発船の日を待ちわびた。もっとも木村が毎日米国という香《にお》いを鼻をつくばかり身の回りに漂わせて、葉子を訪れて来るので、葉子はうっかり[#「うっかり」に傍点]寝床を離れる事もできなかった。
 木村は来るたびごとにぜひ米国の医者に健康診断を頼んで、大事なければ思いきって検疫官の検疫を受けて、ともかくも上陸するようにと勧めてみたが、葉子はどこまでもいや[#「いや」に傍点]をいいとおすので、二人《ふたり》の間には時々危険な沈黙が続く事も珍しくなかった。葉子はしかし、いつでも手ぎわよくその場合場合をあやつって、それから甘い歓語を引き出すだけの機才《ウィット》を持ち合わしていたので、この一か月ほど見知らぬ人の間に立ちまじって、貧乏の屈辱を存分になめ尽くした木村は、見る見る温柔な葉子の言葉や表情に酔いしれるのだった。カリフォルニヤから来る水々しい葡萄《ぶどう》やバナナを器用な経木《きょうぎ》の小籃《こかご》に盛ったり、美しい花束を携えたりして、葉子の朝化粧《あさげしょう》がしまったかと思うころには木村が欠かさず尋ねて来た。そして毎日くどくどと興録に葉子の容態を聞きただした。興録はいいかげんな事をいって一日延ばしに延ばしているのでたまらなくなって木村が事務長に相談すると、事務長は興録よりもさらに要領を得ない受け答えをした、しかたなしに木村は途方に暮れて、また葉子に帰って来て泣きつくように上陸を迫るのであった。その毎日のいきさつ[#「いきさつ」に傍点]を夜になると葉子は事務長と話しあって笑いの種《たね》にした。
 葉子はなんという事なしに、木村を困らしてみたい、いじめてみたいというような不思議な残酷な心を、木村に対して感ずるようになって行った。事務長と木村とを目の前に置いて、何も知らない木村を、事務長が一流のきびきびした悪辣《あくらつ》な手で思うさま翻弄《ほんろう》して見せるのをながめて楽しむのが一種の痼疾《こしつ》のようになった。そして葉子は木村を通して自分の過去のすべてに血のしたたる復讐《ふくしゅう》をあえてしようとするのだった。そんな場合に、葉子はよくどこかでうろ覚えにしたクレオパトラの插話《そうわ》を思い出していた。クレオパトラが自分の運命の窮迫したのを知って自殺を思い立った時、幾人も奴隷《どれい》を目の前に引き出さして、それを毒蛇《どくじゃ》の餌食《えじき》にして、その幾人もの無辜《むこ》の人々がもだえながら絶命するのを、眉《まゆ》も動かさずに見ていたという插話を思い出していた。葉子には過去のすべての呪詛《じゅそ》が木村の一身に集まっているようにも思いなされた。母の虐《しいた》げ、五十川《いそがわ》女史の術数《じゅっすう》、近親の圧迫、社会の環視、女に対する男の覬覦《きゆ》、女の苟合《こうごう》などという葉子の敵を木村の一身におっかぶせて、それに女の心が企《たくら》み出す残虐な仕打ちのあらん限りをそそぎかけようとするのであった。
 「あなたは丑《うし》の刻《こく》参りの藁《わら》人形よ」
 こんな事をどうかした拍子《ひょうし》に面と向かって木村にいって、木村が怪訝《けげん》な顔でその意味をくみかねているのを見ると、葉子は自分にもわけのわからない涙を目にいっぱいためながらヒステリカルに笑い出すような事もあった。
 木村を払い捨てる事によって、蛇《へび》が殻《から》を抜け出ると同じに、自分のすべての過去を葬ってしまうことができるようにも思いなしてみた。
 葉子はまた事務長に、どれほど木村が自分の思うままになっているかを見せつけようとする誘惑も感じていた。事務長の目の前ではずいぶん乱暴な事を木村にいったりさせたりした。時には事務長のほうが見兼ねて二人《ふたり》の間をなだめにかかる事さえあるくらいだった。
 ある時木村の来ている葉子の部屋に事務長が来合わせた事があった。葉子は枕《まくら》もとの椅子《いす》に木村を腰かけさせて、東京を発《た》った時の様子をくわしく話して聞かせている所だったが、事務長を見るといきなり[#「いきなり」に傍点]様子をかえて、さもさも木村を疎《うと》んじたふうで、
 「あなたは向こうにいらしってちょうだい」
 と木村を向こうのソファに行くように目でさしずして、事務長をその跡《あと》にすわらせた。
 「さ、あなたこちらへ」
 といって仰向けに寝たまま上目をつかって見やりながら、
 「いいお天気のようですことね。……あの時々ごーっ[#「ごーっ」に傍点]と雷のような音のするのは何?……わたしうるさい」
 「トロですよ」
 「そう……お客様がたんとおありですってね」
 「さあ少しは知っとるものがあるもんだで」
 「ゆうベもその美しいお客がいらしったの? とうとうお話にお見えにならなかったのね」
 木村を前に置きながら、この無謀とさえ見える言葉を遠慮|会釈《えしゃく》もなくいい出すのには、さすがの事務長もぎょっ[#「ぎょっ」に傍点]としたらしく、返事もろくろくしないで木村のほうに向いて、
 「どうですマッキンレーは。驚いた事が持ち上がりおったもんですね」
 と話題を転じようとした。この船の航海中シヤトルに近くなったある日、当時の大統領マッキンレーは凶徒の短銃に斃《たお》れたので、この事件は米国でのうわさの中心になっているのだった。木村はその当時の模様をくわしく新聞紙や人のうわさで知り合わせていたので、乗り気になってその話に身を入れようとするのを、葉子はにべもなくさえぎって、
 「なんですねあなたは、貴夫人の話の腰を折ったりして、そんなごまかし[#「ごまかし」に傍点]くらいではだまされてはいませんよ。倉地さん、どんな美しい方《かた》です。アメリカ生粋《きっすい》の人ってどんななんでしょうね。わたし、見たい。あわしてくださいましな今度来たら。ここに連れて来てくださるんですよ。ほかのものなんぞなんにも見たくはないけれど、こればかりはぜひ見とうござんすわ。そこに行くとね、木村なんぞはそりゃあやぼなもんですことよ」
 といって、木村のいるほうをはるかに下目で見やりながら、
 「木村さんどう? こっちにいらしってからちっと[#「ちっと」に傍点]は女のお友だちがおできになって? Lady Friend というのが?」
 「それができんでたまるか」
 と事務長は木村の内行《ないこう》を見抜いて裏書きするように大きな声でいった。
 「ところができていたらお慰み、そうでしょう? 倉地さんまあこうなの。木村がわたしをもらいに来た時にはね。石のように堅くすわりこんでしまって、まるで命の取りやりでもしかねない談判のしかたですのよ。そのころ母は大病で臥《ふ》せっていましたの。なんとか母におっしゃってね、母に。わたし、忘れちゃならない言葉がありましたわ。えゝと……そうそう(木村の口調を上手《じょうず》にまねながら)『わたし、もしほかの人に心を動かすような事がありましたら神様の前に罪人です』ですって……そういう調子ですもの」
 木村は少し怒気をほのめかす顔つきをして、遠くから葉子を見つめたまま口もきかないでいた。事務長はからからと笑いながら、
 「それじゃ木村さん今ごろは神様の前にいいくらかげん罪人になっとるでしょう」
 と木村を見返したので、木村もやむなく苦《にが》りきった笑いを浮かべながら、
 「おのれをもって人を計る筆法ですね」
 と答えはしたが、葉子の言葉を皮肉と解して、人前でたしなめるにしてはやや軽すぎるし、冗談と見て笑ってしまうにしては確かに強すぎるので、木村の顔色は妙にぎこち[#「ぎこち」に傍点]なくこだわ[#「こだわ」に傍点]ってしまっていつまでも晴れなかった。葉子は口びるだけに軽い笑いを浮かべながら、胆汁《たんじゅう》のみなぎったようなその顔を下目で快げにまじまじとながめやった。そして苦い清涼剤でも飲んだように胸のつかえを透《す》かしていた。
 やがて事務長が座を立つと、葉子は、眉《まゆ》をひそめて快からぬ顔をした木村を、しいてまたもとのように自分のそば近くすわらせた。
 「いやなやつっちゃないの。あんな話でもしていないと、ほかになんにも話の種《たね》のない人ですの……あなたさぞ御迷惑でしたろうね」
 といいながら、事務長にしたように上目に媚《こ》びを集めてじっ[#「じっ」に傍点]と木村を見た。しかし木村の感情はひどくほつれて、容易に解ける様子はなかった。葉子を故意に威圧しようとたくらむわざとな改まりかたも見えた。葉子はいたずら者らしく腹の中でくすくす笑いながら、木村の顔を好意をこめた目つきでながめ続けた。木村の心の奥には何かいい出してみたいくせに、なんとなく腹の中が見すかされそうで、いい出しかねている物があるらしかったが、途切れがちながら話が小半時《こはんとき》も進んだ時、とてつ[#「とてつ」に傍点]もなく、
 「事務長は、なんですか、夜になってまであなたの部屋《へや》に話しに来る事があるんですか」
 とさりげなく尋ねようとするらしかったが、その語尾はわれにもなく震えていた。葉子は陥穽《わな》にかかった無知な獣《けもの》を憫《あわれ》み笑うような微笑を口びるに浮かべながら、
 「そんな事がされますものかこの小さな船の中で。考えてもごらんなさいまし。さきほどわたしがいったのは、このごろは毎晩夜になると暇なので、あの人たちが食堂に集まって来て、酒を飲みながら大きな声でいろんなくだらない話をするんですの。それがよくここまで聞こえるんです。それにゆうべあの人が来なかったからからか[#「からか」に傍点]ってやっただけなんですのよ。このごろは質《たち》の悪い女までが隊を組むようにしてどっさり[#「どっさり」に傍点]船に来て、それは騒々しいんですの。……ほゝゝゝあなたの苦労性ったらない」
 木村は取りつく島を見失って、二の句がつげないでいた。それを葉子はかわいい目を上げて、無邪気な顔をして見やりながら笑っていた。そして事務長がはいって来た時途切らした話の糸口をみごとに忘れずに拾い上げて、東京を発《た》った時の模様をまた仔細《しさい》に話しつづけた。
 こうしたふうで葛藤《かっとう》は葉子の手一つで勝手に紛らされたりほごされたりした。
 葉子は一人《ひとり》の男をしっかり[#「しっかり」に傍点]と自分の把持《はじ》の中に置いて、それが猫《ねこ》が鼠《ねずみ》でも弄《な》ぶるように、勝手に弄《な》ぶって楽しむのをやめる事ができなかったと同時に、時々は木村の顔を一目見たばかりで、虫唾《むしず》が走るほど厭悪《けんお》の情に駆り立てられて、われながらどうしていいかわからない事もあった。そんな時にはただいちずに腹痛を口実にして、一人になって、腹立ち紛れにあり合わせたものを取って床の上にほうったりした。もう何もかもいってしまおう。弄《もてあそ》ぶにも足らない木村を近づけておくには当たらない事だ。何もかも明らかにして気分だけでもさっぱり[#「さっぱり」に傍点]したいとそう思う事もあった。しかし同時に葉子は戦術家の冷静さをもって、実際問題を勘定に入れる事も忘れはしなかった。事務長をしっかり[#「しっかり」に傍点]自分の手の中に握るまでは、早計に木村を逃がしてはならない。「宿屋きめずに草鞋《わらじ》を脱ぐ」……母がこんな事を葉子の小さい時に教えてくれたのを思い出したりして、葉子は一人で苦笑《にがわら》いもした。
 そうだ、まだ木村を逃がしてはならぬ。葉子は心の中に書き記《しる》してでも置くように、上目を使いながらこんな事を思った。
 またある時葉子の手もとに米国の切手のはられた手紙が届いた事があった。葉子は船へなぞあてて手紙をよこす人はないはずだがと思って開いて見ようとしたが、また例のいたずらな心が動いて、わざと木村に開封させた。その内容がどんなものであるかの想像もつかないので、それを木村に読ませるのは、武器を相手に渡して置いて、自分は素手《すで》で格闘するようなものだった。葉子はそこに興味を持った。そしてどんな不意な難題が持ち上がるだろうかと、心をときめかせながら結果を待った。その手紙は葉子に簡単な挨拶《あいさつ》を残したまま上陸した岡から来たものだった。いかにも人柄に不似合いな下手《へた》な字体で、葉子がひょっ[#「ひょっ」に傍点]とすると上陸を見合わせてそのまま帰るという事を聞いたが、もしそうなったら自分も断然帰朝する。気違いじみたしわざとお笑いになるかもしれないが、自分にはどう考えてみてもそれよりほかに道はない。葉子に離れて路傍の人の間に伍《ご》したらそれこそ狂気になるばかりだろう。今まで打ち明けなかったが、自分は日本でも屈指な豪商の身内に一人子《ひとりご》と生まれながら、からだが弱いのと母が継母であるために、父の慈悲から洋行する事になったが、自分には故国が慕われるばかりでなく、葉子のように親しみを覚えさしてくれた人はないので、葉子なしには一刻も外国の土に足を止めている事はできぬ。兄弟《きょうだい》のない自分には葉子が前世《ぜんせ》からの姉とより思われぬ。自分をあわれんで弟と思ってくれ。せめては葉子の声の聞こえる所顔の見える所にいるのを許してくれ。自分はそれだけのあわれみを得たいばかりに、家族や後見人のそしりもなんとも思わずに帰国するのだ。事務長にもそれを許してくれるように頼んでもらいたい。という事が、少し甘い、しかし真率《しんそつ》な熱情をこめた文体で長々と書いてあったのだった。
 葉子は木村が問うままに包まず岡との関係を話して聞かせた。木村は考え深く、それを聞いていたが、そんな人ならぜひあって話をしてみたいといい出した。自分より一段若いと見ると、かくばかり寛大になる木村を見て葉子は不快に思った。よし、それでは岡を通して倉地との関係を木村に知らせてやろう。そして木村が嫉妬《しっと》と憤怒《ふんぬ》とでまっ黒になって帰って来た時、それを思うままあやつってまた元の鞘に納めて見せよう。そう思って葉子は木村のいうままに任せて置いた。
 次の朝、木村は深い感激の色をたたえて船に来た。そして岡と会見した時の様子をくわしく物語った。岡はオリエンタル・ホテルの立派な一室にたった一人でいたが、そのホテルには田川夫妻も同宿なので、日本人の出入りがうるさいといって困っていた。木村の訪問したというのを聞いて、ひどくなつかしそうな様子で出迎えて、兄でも敬《うやま》うようにもてなして、やや落ち付いてから隠し立てなく真率に葉子に対する自分の憧憬《しょうけい》のほどを打ち明けたので、木村は自分のいおうとする告白を、他人の口からまざまざと聞くような切《せつ》な情にほだされて、もらい泣きまでしてしまった。二人《ふたり》は互いに相あわれむというようななつかしみを感じた。これを縁に木村はどこまでも岡を弟とも思って親しむつもりだ。が、日本に帰る決心だけは思いとどまるように勧めて置いたといった。岡はさすがに育ちだけに事務長と葉子との間のいきさつ[#「いきさつ」に傍点]を想像に任せて、はした[#「はした」に傍点]なく木村に語る事はしなかったらしい。木村はその事についてはなんともいわなかった。葉子の期待は全くはずれてしまった。役者|下手《べた》なために、せっかくの芝居《しばい》が芝居にならずにしまった事を物足らなく思った。しかしこの事があってから岡の事が時々葉子の頭に浮かぶようになった。女にしてもみまほしいかの華車《きゃしゃ》な青春の姿がどうかするといとしい思い出となって、葉子の心のすみに潜むようになった。
 船がシヤトルに着いてから五六日たって、木村は田川夫妻にも面会する機会を造ったらしかった。そのころから木村は突然わき目にもそれと気が付くほど考え深くなって、ともすると葉子の言葉すら聞き落としてあわてたりする事があった。そしてある時とうとう一人《ひとり》胸の中には納めていられなくなったと見えて、
 「わたしにゃあなたがなぜあんな人と近しくするかわかりませんがね」
 と事務長の事をうわさのようにいった。葉子は少し腹部に痛みを覚えるのをことさら誇張してわき腹を左手で押えて、眉《まゆ》をひそめながら聞いていたが、もっともらしく幾度もうなずいて、
 「それはほんとうにおっしゃるとおりですから何も好んで近づきたいとは思わないんですけれども、これまでずいぶん世話になっていますしね、それにああ見えていて思いのほか親切気のある人ですから、ボーイでも水夫でもこわがりながらなついていますわ。おまけにわたしお金まで借りていますもの」
 とさも当惑したらしくいうと、
 「あなたお金は無しですか」
 木村は葉子の当惑さを自分の顔にも現わしていた。
 「それはお話ししたじゃありませんか」
 「困ったなあ」
 木村はよほど困りきったらしく握った手を鼻の下にあてがって、下を向いたまましばらく思案に暮れていたが、
 「いくらほど借りになっているんです」
 「さあ診察料や滋養品で百円近くにもなっていますかしらん」
 「あなたは金は全く無しですね」
 木村はさらに繰り返していってため息をついた。
 葉子は物慣れぬ弟を教えいたわるように、
 「それに万一わたしの病気がよくならないで、ひとまず日本へでも帰るようになれば、なおなお帰りの船の中では世話にならなければならないでしょう。……でも大丈夫そんな事はないとは思いますけれども、さきざきまでの考えをつけておくのが旅にあればいちばん大事ですもの」
 木村はなおも握った手を鼻の下に置いたなり、なんにもいわず、身動きもせず考え込んでいた。
 葉子は術《すべ》なさそうに木村のその顔をおもしろく思いながらまじ[#「まじ」に傍点]まじと見やっていた。
 木村はふと顔を上げてしげしげと葉子を見た。何かそこに字でも書いてありはしないかとそれを読むように。そして黙ったまま深々と嘆息した。
 「葉子さん。わたしは何から何まであなたを信じているのがいい事なのでしょうか。あなたの身のためばかり思ってもいうほうがいいかとも思うんですが……」
 「ではおっしゃってくださいましななんでも」
 葉子の口は少し親しみをこめて冗談らしく答えていたが、その目からは木村を黙らせるだけの光が射られていた。軽はずみな事をいやしくもいってみるがいい、頭を下げさせないでは置かないから。そうその目はたしかにいっていた。
 木村は思わず自分の目をたじろがして黙ってしまった。葉子は片意地にも目で続けさまに木村の顔をむちうった。木村はその笞《しもと》の一つ一つを感ずるようにどぎまぎ[#「どぎまぎ」に傍点]した。
 「さ、おっしゃってくださいまし……さ」
 葉子はその言葉にはどこまでも好意と信頼とをこめて見せた。木村はやはり躊躇《ちゅうちょ》していた。葉子はいきなり手を延ばして木村を寝台に引きよせた。そして半分起き上がってその耳に近く口を寄せながら、
 「あなたみたいに水臭い物のおっしゃりかたをなさる方《かた》もないもんね。なんとでも思っていらっしゃる事をおっしゃってくださればいいじゃありませんか。……あ、痛い……いゝえさして痛くもないの。何を思っていらっしゃるんだかおっしゃってくださいまし、ね、さ。なんでしょうねえ。伺いたい事ね。そんな他人行儀は……あ、あ、痛い、おゝ痛い……ちょっとここのところを押えてくださいまし。……さし込んで来たようで……あ、あ」
 といいながら、目をつぶって、床の上に寝倒れると、木村の手を持ち添えて自分の脾腹《ひばら》を押えさして、つらそうに歯をくいしばってシーツに顔を埋《うず》めた。肩でつく息気《いき》がかすかに雪白《せっぱく》のシーツを震わした。
 木村はあたふたしながら、今までの言葉などはそっちのけにして介抱にかかった。

    二一

 絵島丸はシヤトルに着いてから十二日目に纜《ともづな》を解いて帰航するはずになっていた。その出発があと三日になった十月十五日に、木村は、船医の興録から、葉子はどうしてもひとまず帰国させるほうが安全だという最後の宣告を下されてしまった。木村はその時にはもう大体覚悟を決めていた。帰ろうと思っている葉子の下心《したごころ》をおぼろげながら見て取って、それを翻す事はできないとあきらめていた。運命に従順な羊のように、しかし執念《しゅうね》く将来の希望を命にして、現在の不満に服従しようとしていた。
 緯度の高いシヤトルに冬の襲いかかって来るさまはすさまじいものだった。海岸線に沿うてはるか遠くまで連続して見渡されるロッキーの山々はもうたっぷり[#「たっぷり」に傍点]と雪がかかって、穏やかな夕空に現われ慣れた雲の峰も、古綿のように形のくずれた色の寒い霰雲《あられぐも》に変わって、人をおびやかす白いものが、今にも地を払って降りおろして来るかと思われた。海ぞいに生《は》えそろったアメリカ松の翠《みどり》ばかりが毒々しいほど黒ずんで、目に立つばかりで、濶葉樹《かつようじゅ》の類は、いつのまにか、葉を払い落とした枝先を針のように鋭く空に向けていた。シヤトルの町並みがあると思われるあたりからは――船のつながれている所から市街は見えなかった――急に煤煙《ばいえん》が立ち増さって、せわしく冬じたくを整えながら、やがて北半球を包んで攻め寄せて来るまっ白な寒気に対しておぼつかない抵抗を用意するように見えた。ポッケットに両手をさし入れて、頭を縮め気味に、波止場の石畳を歩き回る人々の姿にも、不安と焦躁とのうかがわれるせわしい自然の移り変わりの中に、絵島丸はあわただしい発航の準備をし始めた。絞盤《こうばん》の歯車のきしむ音が船首と船尾とからやかましく冴《さ》え返って聞こえ始めた。
 木村はその日も朝から葉子を訪れて来た。ことに青白く見える顔つきは、何かわくわくと胸の中に煮え返る想《おも》いをまざまざと裏切って、見る人のあわれを誘うほどだった。背水の陣と自分でもいっているように、亡父の財産をありったけ金に代えて、手っ払《ぱら》いに日本の雑貨を買い入れて、こちらから通知書一つ出せば、いつでも日本から送ってよこすばかりにしてあるものの、手もとにはいささかの銭《ぜに》も残ってはいなかった。葉子が来たならばと金の上にも心の上にもあて[#「あて」に傍点]にしていたのがみごとにはずれてしまって、葉子が帰るにつけては、なけなしの所からまたまたなんとかしなければならないはめ[#「はめ」に傍点]に立った木村は、二三日のうちに、ぬか喜びも一時の間で、孤独と冬とに囲まれなければならなかったのだ。
 葉子は木村が結局事務長にすがり寄って来るほかに道のない事を察していた。
 木村ははたして事務長を葉子の部屋《へや》に呼び寄せてもらった。事務長はすぐやって来たが、服なども仕事着のままで何かよほどせわしそうに見えた。木村はまあといって倉地に椅子《いす》を与えて、きょうはいつものすげない態度に似ず、折り入っていろいろと葉子の身の上を頼んだ。事務長は始めの忙《せわ》しそうだった様子に引きかえて、どっしり[#「どっしり」に傍点]と腰を据えて正面から例の大きく木村を見やりながら、親身《しんみ》に耳を傾けた。木村の様子のほうがかえってそわそわしくながめられた。
 木村は大きな紙入れを取り出して、五十ドルの切手を葉子に手渡しした。
 「何もかも御承知だから倉地さんの前でいうほうが世話なしだと思いますが、なんといってもこれだけしかできないんです。こ、これです」
 といってさびしく笑いながら、両手を出して広げて見せてから、チョッキをたたいた。胸にかかっていた重そうな金鎖も、四つまではめられていた指輪の三つまでもなくなっていて、たった、一つ婚約の指輪だけが貧乏臭く左の指にはまっているばかりだった。葉子はさすがに「まあ」といった。
 「葉子さん、わたしはどうにでもします。男一匹なりゃどこにころがり込んだからって、――そんな経験もおもしろいくらいのものですが、これんばかりじゃあなたが足りなかろうと思うと、面目《めんぼく》もないんです。倉地さん、あなたにはこれまででさえいいかげん世話をしていただいてなんともすみませんですが、わたしども二人《ふたり》はお打ち明け申したところ、こういうていたらく[#「ていたらく」に傍点]なんです。横浜へさえおとどけくださればその先はまたどうにでもしますから、もし旅費にでも不足しますようでしたら、御迷惑ついでになんとかしてやっていただく事はできないでしょうか」
 事務長は腕組みをしたまままじまじ[#「まじまじ」に傍点]と木村の顔を見やりながら聞いていたが、
 「あなたはちっとも持っとらんのですか」
 と聞いた。木村はわざと快活にしいて声高《こわだか》く笑いながら、
 「きれいなもんです」
 とまたチョッキをたたくと、
 「そりゃいかん。何、船賃なんぞいりますものか。東京で本店にお払いになればいいんじゃし、横浜の支店長も万事心得とられるんだで、御心配いりませんわ。そりゃあなたお持ちになるがいい。外国にいて文《もん》なしでは心細いもんですよ」
 と例の塩辛声《しおからごえ》でややふきげんらしくいった。その言葉には不思議に重々しい力がこもっていて、木村はしばらくかれこれと押し問答をしていたが、結局事務長の親切を無にする事の気の毒さに、直《すぐ》な心からなおいろいろと旅中の世話を頼みながら、また大きな紙入れを取り出して切手をたたみ込んでしまった。
 「よしよしそれで何もいう事はなし。早月《さつき》さんはわしが引き受けた」
 と不敵な微笑を浮かべながら、事務長は始めて葉子のほうを見返った。
 葉子は二人《ふたり》を目の前に置いて、いつものように見比べながら二人の会話を聞いていた。あたりまえなら、葉子はたいていの場合、弱いものの味方をして見るのが常だった。どんな時でも、強いものがその強味を振りかざして弱い者を圧迫するのを見ると、葉子はかっ[#「かっ」に傍点]となって、理が非でも弱いものを勝たしてやりたかった。今の場合木村は単に弱者であるばかりでなく、その境遇もみじめなほどたよりない苦しいものである事は存分に知り抜いていながら、木村に対しての同情は不思議にもわいて来なかった。齢《とし》の若さ、姿のしなやかさ、境遇のゆたかさ、才能のはなやかさというようなものをたよりにする男たちの蠱惑《こわく》の力は、事務長の前では吹けば飛ぶ塵《ちり》のごとく対照された。この男の前には、弱いものの哀れよりも醜さがさらけ出された。
 なんという不幸な青年だろう。若い時に父親に死に別れてから、万事思いのままだった生活からいきなり[#「いきなり」に傍点]不自由な浮世のどん底にほうり出されながら、めげもせずにせっせ[#「せっせ」に傍点]と働いて、後ろ指をさされないだけの世渡りをして、だれからも働きのある行く末たのもしい人と思われながら、それでも心の中のさびしさを打ち消すために思い入った恋人は仇《あだ》し男にそむいてしまっている。それをまたそうとも知らずに、その男の情けにすがって、消えるに決まった約束をのがすまいとしている。……葉子はしいて自分を説服するようにこう考えてみたが、少しも身にしみた感じは起こって来ないで、ややもすると笑い出したいような気にすらなっていた。
 「よしよしそれで何もいう事はなし。早月さんはわしが引き受けた」
 という声と不敵な微笑とがどやす[#「どやす」に傍点]ように葉子の心の戸を打った時、葉子も思わず微笑を浮かべてそれに応じようとした。が、その瞬間、目ざとく木村の見ているのに気がついて、顔には笑いの影はみじんも現わさなかった。
 「わしへの用はそれだけでしょう。じゃ忙《せわ》しいで行きますよ」
 とぶっきらぼう[#「ぶっきらぼう」に傍点]にいって事務長が部屋を出て行ってしまうと、残った二人は妙にてれて、しばらくは互いに顔を見合わすのもはばかって黙ったままでいた。
 事務長が行ってしまうと葉子は急に力が落ちたように思った。今までの事がまるで芝居《しばい》でも見て楽しんでいたようだった。木村のやる瀬ない心の中が急に葉子に逼《せま》って来た。葉子の目には木村をあわれむとも自分をあわれむとも知れない涙がいつのまにか宿っていた。
 木村は痛ましげに黙ったままでしばらく葉子を見やっていたが、
 「葉子さん今になってそう泣いてもらっちゃわたしがたまりませんよ。きげんを直してください。またいい日も回って来るでしょうから。神を信ずるもの――そういう信仰が今あなたにあるかどうか知らないが――おかあさんがああいう堅い信者でありなさったし、あなたも仙台時分には確かに信仰を持っていられたと思いますが、こんな場合にはなおさら同じ神様から来る信仰と希望とを持って進んで行きたいものだと思いますよ。何事も神様は知っていられる……そこにわたしはたゆまない希望をつないで行きます」
 決心した所があるらしく力強い言葉でこういった。何の希望! 葉子は木村の事については、木村のいわゆる神様以上に木村の未来を知りぬいているのだ。木村の希望というのはやがて失望にそうして絶望に終わるだけのものだ。何の信仰! 何の希望! 木村は葉子が据《す》えた道を――行きどまりの袋小路を――天使の昇《のぼ》り降りする雲の梯《かけはし》のように思っている。あゝ何の信仰!
 葉子はふと同じ目を自分に向けて見た。木村を勝手気ままにこづき回す威力を備えた自分はまただれに何者に勝手にされるのだろう。どこかで大きな手が情けもなく容赦もなく冷然と自分の運命をあやつっている。木村の希望がはかなく断ち切れる前、自分の希望がいち早く断たれてしまわないとどうして保障する事ができよう。木村は善人だ。自分は悪人だ。葉子はいつのまにか純な感情に捕えられていた。
 「木村さん。あなたはきっと、しまいにはきっと祝福をお受けになります……どんな事があっても失望なさっちゃいやですよ。あなたのような善《よ》い方《かた》が不幸にばかりおあいになるわけがありませんわ。……わたしは生まれるときから呪《のろ》われた女なんですもの。神、ほんとうは神様を信ずるより……信ずるより憎むほうが似合っているんです……ま、聞いて……でも、わたし卑怯《ひきょう》はいやだから信じます……神様はわたしみたいなものをどうなさるか、しっかり[#「しっかり」に傍点]目を明いて最後まで見ています」
 といっているうちにだれにともなくくやしさが胸いっぱいにこみ上げて来るのだった。
 「あなたはそんな信仰はないとおっしゃるでしょうけれども……でもわたしにはこれが信仰です。立派な信仰ですもの」
 といってきっぱり[#「きっぱり」に傍点]思いきったように、火のように熱く目にたまったままで流れずにいる涙を、ハンケチでぎゅっ[#「ぎゅっ」に傍点]と押しぬぐいながら、黯然《あんぜん》と頭をたれた木村に、
 「もうやめましょうこんなお話。こんな事をいってると、いえばいうほど先が暗くなるばかりです。ほんとに思いきって不仕合わせな人はこんな事をつべこべ[#「つべこべ」に傍点]と口になんぞ出しはしませんわ。ね、いや、あなたは自分のほうからめいってしまって、わたしのいった事ぐらいでなんですねえ、男のくせに」
 木村は返事もせずにまっさおになってうつむいていた。
 そこに「御免なさい」というかと思うと、いきなり[#「いきなり」に傍点]戸をあけてはいって来たものがあった。木村も葉子も不意を打たれて気先《きさき》をくじかれながら、見ると、いつぞや錨綱《びょうづな》で足をけがした時、葉子の世話になった老水夫だった。彼はとうとう跛脚《びっこ》になっていた。そして水夫のような仕事にはとても役に立たないから、幸いオークランドに小農地を持ってとにかく暮らしを立てている甥《おい》を尋ねて厄介《やっかい》になる事になったので、礼かたがた暇乞《いとまご》いに来たというのだった。葉子は紅《あか》くなった目を少し恥ずかしげにまたたかせながら、いろいろと慰めた。

 「何ねこう老いぼれちゃ、こんな稼業《かぎょう》をやってるがてんで[#「てんで」に傍点]うそなれど、事務長さんとボンスン(水夫長)とがかわいそうだといって使ってくれるで、いい気になったが罰《ばち》あたったんだね」
 といって臆病《おくびょう》に笑った。葉子がこの老人をあわれみいたわるさまはわき目もいじらしかった。日本には伝言を頼むような近親《みより》さえない身だというような事を聞くたびに、葉子は泣き出しそうな顔をして合点合点していたが、しまいには木村の止めるのも聞かず寝床から起き上がって、木村の持って来た果物《くだもの》をありったけ籃《かご》につめて、
 「陸《おか》に上がればいくらもあるんだろうけれども、これを持っておいで。そしてその中に果物でなくはいっているものがあったら、それもお前さんに上げたんだからね、人に取られたりしちゃいけませんよ」
 といってそれを渡してやった。
 老人が来てから葉子は夜が明けたように始めて晴れやかなふだんの気分になった。そして例のいたずららしいにこにこした愛矯《あいきょう》を顔いちめんにたたえて、
 「なんという気さく[#「さく」に傍点]なんでしょう。わたし、 あんなおじいさんのお内儀《かみ》さんになってみたい……だからね、いいものをやっちまった」
 きょとり[#「きょとり」に傍点]としてまじ[#「まじ」に傍点]まじ木村のむっつり[#「むっつり」に傍点]とした顔を見やる様子は大きな子供とより思えなかった。
 「あなたからいただいたエンゲージ・リングね、あれをやりましてよ。だってなんにもないんですもの」
 なんともいえない媚《こ》びをつつむおとがい[#「おとがい」に傍点]が二重になって、きれいな歯並みが笑いのさざ波のように口びるの汀《みぎわ》に寄せたり返したりした。
 木村は、葉子という女はどうしてこうむら[#「むら」に傍点]気で上《うわ》すべりがしてしまうのだろう、情けないというような表情を顔いちめんにみなぎらして、何かいうべき言葉を胸の中で整えているようだったが、急に思い捨てたというふうで、黙ったままでほっ[#「ほっ」に傍点]と深いため息をついた。
 それを見ると今まで珍しく押えつけられていた反抗心が、またもや旋風のように葉子の心に起こった。「ねち[#「ねち」に傍点]ねちさったらない」と胸の中をいらいらさせながら、ついでの事に少しいじめてやろうというたくらみが頭をもたげた。しかし顔はどこまでも前のままの無邪気さで、
 「木村さんお土産《みやげ》を買ってちょうだいな。愛も貞もですけれども、親類たちや古藤《ことう》さんなんぞにも何かしないじゃ顔が向けられませんもの。今ごろは田川の奥さんの手紙が五十川《いそがわ》のおばさんの所に着いて、東京ではきっと大騒ぎをしているに違いありませんわ。発《た》つ時には世話を焼かせ、留守は留守で心配させ、ぽかん[#「ぽかん」に傍点]としてお土産一つ持たずに帰って来るなんて、木村もいったい木村じゃないかといわれるのが、わたし、死ぬよりつらいから、少しは驚くほどのものを買ってちょうだい。先ほどのお金で相当のものが買《と》れるでしょう」
 木村は駄々児《だだっこ》をなだめるようにわざとおとなしく、
 「それはよろしい、買えとなら買いもしますが、わたしはあなたがあれをまとまったまま持って帰ったらと思っているんです。たいていの人は横浜に着いてから土産《みやげ》を買うんですよ。そのほうが実際格好ですからね。持ち合わせもなしに東京に着きなさる事を思えば、土産なんかどうでもいいと思うんですがね」
 「東京に着きさえすればお金はどうにでもしますけれども、お土産《みやげ》は……あなた横浜の仕入れものはすぐ知れますわ……御覧なさいあれを」
 といって棚《たな》の上にある帽子入れのボール箱に目をやった。
 「古藤さんに連れて行っていただいてあれを買った時は、ずいぶん吟味したつもりでしたけれども、船に来てから見ているうちにすぐあきてしまいましたの。それに田川の奥さんの洋服姿を見たら、我慢にも日本で買ったものをかぶったり着たりする気にはなれませんわ」
 そういってるうちに木村は棚から箱をおろして中をのぞいていたが、
 「なるほど型はちっと古いようですね。だが品《しな》はこれならこっち[#「こっち」に傍点]でも上の部ですぜ」
 「だからいやですわ。流行おくれとなると値段の張ったものほどみっともないんですもの」
 しばらくしてから、
 「でもあのお金はあなた御入用ですわね」
 木村はあわてて弁解的に、
 「いゝえ、あれはどの道あなたに上げるつもりでいたんですから……」
 というのを葉子は耳にも入れないふうで、
 「ほんとにばかねわたしは……思いやりもなんにもない事を申し上げてしまって、どうしましょうねえ。……もうわたしどんな事があってもそのお金だけはいただきません事よ。こういったらだれがなんといったってだめよ」
 ときっぱり[#「きっぱり」に傍点]いい切ってしまった。木村はもとより一度いい出したらあとへは引かない葉子の日ごろの性分を知り抜いていた。で、言わず語らずのうちに、その金は品物にして持って帰らすよりほかに道のない事を観念したらしかった。
    *    *    *
 その晩、事務長が仕事を終えてから葉子の部屋《へや》に来ると、葉子は何か気に障《さ》えたふうをしてろくろくもてなしもしなかった。
 「とうとう形《かた》がついた。十九日の朝の十時だよ出航は」
 という事務長の快活な言葉に返事もしなかった。男は怪訝《けげん》な顔つきで見やっている。
 「悪党」
 としばらくしてから、葉子は一言《ひとこと》これだけいって事務長をにらめた。
 「なんだ?」
 と尻上《しりあ》がりにいって事務長は笑っていた。
 「あなたみたいな残酷な人間はわたし始めて見た。木村を御覧なさいかわいそうに。あんなに手ひどくしなくったって……恐ろしい人ってあなたの事ね」
 「何?」
 とまた事務長は尻上がりに大きな声でいって寝床に近づいて来た。
 「知りません」
 と葉子はなお怒《おこ》って見せようとしたが、いかにも刻みの荒い、単純な、他意のない男の顔を見ると、からだのどこかが揺《ゆす》られる気がして来て、わざと引き締めて見せた口びるのへんから思わずも笑いの影が潜み出た。
 それを見ると事務長は苦《にが》い顔と笑った顔とを一緒にして、
 「なんだいくだらん」
 といって、電燈の近所に椅子《いす》をよせて、大きな長い足を投げ出して、夕刊新聞を大きく開いて目を通し始めた。
 木村とは引きかえて事務長がこの部屋に来ると、部屋が小さく見えるほどだった。上向けた靴《くつ》の大きさには葉子は吹き出したいくらいだった。葉子は目でなでたりさすったりするようにして、この大きな子供みたような暴君の頭から足の先までを見やっていた。ごわっ[#「ごわっ」に傍点]ごわっと時々新聞を折り返す音だけが聞こえて、積み荷があらかた片付いた船室の夜は静かにふけて行った。
 葉子はそうしたままでふと木村を思いやった。
 木村は銀行に寄って切手を現金に換えて、店の締まらないうちにいくらか買い物をして、それを小わきにかかえながら、夕食もしたためずに、ジャクソン街にあるという日本人の旅店に帰り着くころには、町々に灯《ひ》がともって、寒い靄《もや》と煙との間を労働者たちが疲れた五体を引きずりながら歩いて行くのにたくさん出あっているだろう。小さなストーブに煙の多い石炭がぶしぶし燃えて、けばけばしい電灯の光だけが、むちうつようにがらん[#「がらん」に傍点]とした部屋《へや》の薄ぎたなさを煌々《こうこう》と照らしているだろう。その光の下で、ぐらぐらする椅子《いす》に腰かけて、ストーブの火を見つめながら木村が考えている。しばらく考えてからさびしそうに見るともなく部屋の中を見回して、またストーブの火にながめ入るだろう。そのうちにあの涙の出やすい目からは涙がほろほろととめどもなく流れ出るに違いない。
 事務長が音をたてて新聞を折り返した。
 木村は膝頭《ひざがしら》に手を置いて、その手の中に顔を埋《うず》めて泣いている。祈っている。葉子は倉地から目を放して、上目を使いながら木村の祈りの声に耳を傾けようとした。途切れ途切れな切《せつ》ない祈りの声が涙にしめって確かに……確かに聞こえて来る。葉子は眉《まゆ》を寄せて注意力を集注しながら、木村がほんとうにどう葉子を思っているかをはっきり見窮めようとしたが、どうしても思い浮かべてみる事ができなかった。
 事務長がまた新聞を折り返す音を立てた。
 葉子ははっ[#「はっ」に傍点]として淀《よど》みにささえられた木の葉がまた流れ始めたように、すらすらと木村の所作を想像した。それがだんだん岡の上に移って行った。哀れな岡! 岡もまだ寝ないでいるだろう。木村なのか岡なのかいつまでもいつまでも寝ないで火の消えかかったストーブの前にうずくまっているのは……ふけるままにしみ込む寒さはそっと床を伝わって足の先からはい上がって来る。男はそれにも気が付かぬふうで椅子《いす》の上にうなだれている。すべての人は眠っている時に、木村の葉子も事務長に抱かれて安々と眠っている時に……。
 ここまで想像して来ると小説に読みふけっていた人が、ほっとため息をしてばたん[#「ばたん」に傍点]と書物をふせるように、葉子も何とはなく深いため息をしてはっきり[#「はっきり」に傍点]と事務長を見た。葉子の心は小説を読んだ時のとおり無関心の Pathos をかすかに感じているばかりだった。
 「おやすみにならないの?」
 と葉子は鈴のように涼しい小さい声で倉地にいってみた。大きな声をするのもはばかられるほどあたりはしん[#「しん」に傍点]と静まっていた。
 「う」
 と返事はしたが事務長は煙草《たばこ》をくゆらしたまま新聞を見続けていた。葉子も黙ってしまった。
 ややしばらくしてから事務長もほっ[#「ほっ」に傍点]とため息をして、
 「どれ寝るかな」
 といいながら椅子《いす》から立って寝床にはいった。葉子は事務長の広い胸に巣食うように丸まって少し震えていた。
 やがて子供のようにすやすやと安らかないびきが葉子の口びるからもれて来た。
 倉地は暗闇《くらやみ》の中で長い間まんじりともせず大きな目を開いていたが、やがて、
 「おい悪党」
 と小さな声で呼びかけてみた。
 しかし葉子の規則正しく楽しげな寝息は露ほども乱れなかった。
 真夜中に、恐ろしい夢を葉子は見た。よくは覚えていないが、葉子は殺してはいけないいけないと思いながら人殺しをしたのだった。一方の目は尋常に眉《まゆ》の下にあるが、一方のは不思議にも眉の上にある、その男の額から黒血がどくどくと流れた。男は死んでも物すごくにやりにやりと笑い続けていた。その笑い声が木村木村と聞こえた。始めのうちは声が小さかったがだんだん大きくなって数もふえて来た。その「木村木村」という数限りもない声がうざうざと葉子を取り巻き始めた。葉子は一心に手を振ってそこからのがれようとしたが手も足も動かなかった。
                   木村……
               木村
           木村      木村……
       木村      木村
   木村      木村      木村……
       木村      木村
           木村      木村……
               木村
                   木村……
 ぞっ[#「ぞっ」に傍点]として寒気《さむけ》を覚えながら、葉子は闇《やみ》の中に目をさました。恐ろしい凶夢のなごりは、ど、ど、ど……と激しく高くうつ心臓に残っていた。葉子は恐怖におびえながら一心に暗い中をおどおどと手探りに探ると事務長の胸に触れた。
 「あなた」
 と小さい震え声で呼んでみたが男は深い眠りの中にあった。なんともいえない気味わるさがこみ上げて来て、葉子は思いきり男の胸をゆすぶってみた。
 しかし男は材木のように感じなく熟睡していた。
(前編 了)



底本:「或る女 前編」岩波文庫、岩波書店
   1950(昭和25)年5月5日 第1刷発行
   1968(昭和43)年6月16日 第27刷改版発行
   1998(平成10)年11月16日 第42刷発行
入力:真先芳秋
校正:渥美浩子
1999年10月17日公開
2003年5月11日修正
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