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保吉の手帳から
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)保吉《やすきち》
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(例)その時|欠伸《あくび》まじりに
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(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]
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わん
ある冬の日の暮、保吉《やすきち》は薄汚《うすぎたな》いレストランの二階に脂臭《あぶらくさ》い焼パンを齧《かじ》っていた。彼のテエブルの前にあるのは亀裂《ひび》の入った白壁《しらかべ》だった。そこにはまた斜《はす》かいに、「ホット(あたたかい)サンドウィッチもあります」と書いた、細長い紙が貼《は》りつけてあった。(これを彼の同僚の一人は「ほっと暖いサンドウィッチ」と読み、真面目《まじめ》に不思議《ふしぎ》がったものである。)それから左は下へ降りる階段、右は直《すぐ》に硝子《ガラス》窓だった。彼は焼パンを齧りながら、時々ぼんやり窓の外を眺めた。窓の外には往来の向うに亜鉛屋根《トタンやね》の古着屋が一軒、職工用の青服だのカアキ色のマントだのをぶら下げていた。
その夜《よ》学校には六時半から、英語会が開かれるはずになっていた。それへ出席する義務のあった彼はこの町に住んでいない関係上、厭《いや》でも放課後六時半まではこんなところにいるより仕かたはなかった。確《たし》か土岐哀果《ときあいか》氏の歌に、――間違ったならば御免なさい。――「遠く来てこの糞《くそ》のよなビフテキをかじらねばならず妻よ妻よ恋し」と云うのがある。彼はここへ来る度に、必ずこの歌を思い出した。もっとも恋しがるはずの妻はまだ貰ってはいなかった。しかし古着屋の店を眺め、脂臭《あぶらくさ》い焼パンをかじり、「ホット(あたたかい)サンドウィッチ」を見ると、「妻よ妻よ恋し」と云う言葉はおのずから唇《くちびる》に上《のぼ》って来るのだった。
保吉はこの間《あいだ》も彼の後《うし》ろに、若い海軍の武官が二人、麦酒《ビイル》を飲んでいるのに気がついていた。その中の一人は見覚えのある同じ学校の主計官《しゅけいかん》だった。武官に馴染《なじ》みの薄い彼はこの人の名前を知らなかった。いや、名前ばかりではない。少尉級か中尉級かも知らなかった。ただ彼の知っているのは月々の給金《きゅうきん》を貰う時に、この人の手を経《へ》ると云うことだけだった。もう一人《ひとり》は全然知らなかった。二人《ふたり》は麦酒《ビイル》の代りをする度に、「こら」とか「おい」とか云う言葉を使った。女中はそれでも厭《いや》な顔をせずに、両手にコップを持ちながら、まめに階段を上《のぼ》り下《お》りした。その癖《くせ》保吉のテエブルへは紅茶を一杯《いっぱい》頼んでも容易に持って来てはくれなかった。これはここに限ったことではない。この町のカフェやレストランはどこへ行っても同じことだった。
二人は麦酒を飲みながら、何か大声に話していた。保吉は勿論《もちろん》その話に耳を貸していた訣《わけ》ではなかった。が、ふと彼を驚かしたのは、「わんと云え」と云う言葉だった。彼は犬を好まなかった。犬を好まない文学者にゲエテとストリントベルグとを数えることを愉快《ゆかい》に思っている一人だった。だからこの言葉を耳にした時、彼はこんなところに飼《か》ってい勝ちな、大きい西洋犬《せいよういぬ》を想像した。同時にそれが彼の後《うし》ろにうろついていそうな無気味《ぶきみ》さを感じた。
彼はそっと後ろを見た。が、そこには仕合せと犬らしいものは見えなかった。ただあの主計官が窓の外を見ながら、にやにや笑っているばかりだった。保吉は多分犬のいるのは窓の下だろうと推察《すいさつ》した。しかし何だか変な気がした。すると主計官はもう一度、「わんと云え。おい、わんと云え」と云った。保吉は少し体《からだ》を※[#「てへん+丑」、第4水準2-12-93]《ね》じ曲《ま》げ、向うの窓の下を覗《のぞ》いて見た。まず彼の目にはいったのは何とか正宗《まさむね》の広告を兼ねた、まだ火のともらない軒燈《けんとう》だった。それから巻いてある日除《ひよ》けだった。それから麦酒樽《ビイルだる》の天水桶《てんすいおけ》の上に乾《ほ》し忘れたままの爪革《つまかわ》だった。それから、往来の水たまりだった。それから、――あとは何だったにせよ、どこにも犬の影は見なかった。その代りに十二三の乞食《こじき》が一人、二階の窓を見上げながら、寒そうに立っている姿が見えた。
「わんと云え。わんと云わんか!」
主計官はまたこう呼びかけた。その言葉には何か乞食の心を支配する力があるらしかった。乞食はほとんど夢遊病者のように、目はやはり上を見たまま、一二歩窓の下へ歩み寄った。保吉はやっと人の悪い主計官の悪戯《あくぎ》を発見した。悪戯?――あるいは悪戯ではなかったかも知れない。なかったとすれば実験である。人間はどこまで口腹《こうふく》のために、自己の尊厳を犠牲《ぎせい》にするか?――と云うことに関する実験である。保吉自身の考えによると、これは何もいまさらのように実験などすべき問題ではない。エサウは焼肉のために長子権《ちょうしけん》を抛《なげう》ち、保吉はパンのために教師《きょうし》になった。こう云う事実を見れば足りることである。が、あの実験心理学者はなかなかこんなことぐらいでは研究心の満足を感ぜぬのであろう。それならば今日生徒に教えた、De gustibus non est Disputandum である。蓼《たで》食《く》う虫も好き好《ず》きである。実験したければして見るが好《い》い。――保吉はそう思いながら、窓の下の乞食を眺めていた。
主計官はしばらく黙っていた。すると乞食《こじき》は落着かなそうに、往来《おうらい》の前後を見まわし始めた。犬の真似《まね》をすることには格別異存はないにしても、さすがにあたりの人目だけは憚《はばか》っているのに違いなかった。が、その目の定まらない内に、主計官は窓の外へ赤い顔を出しながら、今度は何か振って見せた。
「わんと云え。わんと云えばこれをやるぞ。」
乞食の顔は一瞬間、物欲しさに燃え立つようだった。保吉は時々乞食と云うものにロマンティックな興味を感じていた。が、憐憫《れんびん》とか同情とかは一度も感じたことはなかった。もし感じたと云うものがあれば、莫迦《ばか》か嘘《うそ》つきかだとも信じていた。しかし今その子供の乞食が頸《くび》を少し反《そ》らせたまま、目を輝かせているのを見ると、ちょいといじらしい心もちがした。ただしこの「ちょいと」と云うのは懸《か》け値《ね》のないちょいとである。保吉はいじらしいと思うよりも、むしろそう云う乞食の姿にレムブラント風の効果を愛していた。
「云わんか? おい、わんと云うんだ。」
乞食は顔をしかめるようにした。
「わん。」
声はいかにもかすかだった。
「もっと大きく。」
「わん。わん。」
乞食はとうとう二声鳴いた。と思うと窓の外へネエベル・オレンジが一つ落ちた。――その先はもう書かずとも好《い》い。乞食は勿論オレンジに飛びつき、主計官は勿論《もちろん》笑ったのである。
それから一週間ばかりたった後《のち》、保吉はまた月給日に主計部へ月給を貰いに行った。あの主計官は忙《いそが》しそうにあちらの帳簿《ちょうぼ》を開いたり、こちらの書類を拡《ひろ》げたりしていた。それが彼の顔を見ると、「俸給《ほうきゅう》ですね」と一言《ひとこと》云った。彼も「そうです」と一言答えた。が、主計官は用が多いのか、容易《ようい》に月給を渡さなかった。のみならずしまいには彼の前へ軍服の尻《しり》を向けたまま、いつまでも算盤《そろばん》を弾《はじ》いていた。
「主計官。」
保吉はしばらく待たされた後《のち》、懇願《こんがん》するようにこう云った。主計官は肩越しにこちらを向いた。その唇《くちびる》には明らかに「直《すぐ》です」と云う言葉が出かかっていた。しかし彼はそれよりも先に、ちゃんと仕上げをした言葉を継《つ》いだ。
「主計官。わんと云いましょうか? え、主計官。」
保吉の信ずるところによれば、そう云った時の彼の声は天使よりも優しいくらいだった。
西洋人
この学校へは西洋人が二人、会話や英作文を教えに来ていた。一人はタウンゼンドと云う英吉利《イギリス》人、もう一人はスタアレットと云う亜米利加《アメリカ》人だった。
タウンゼンド氏は頭の禿《は》げた、日本語の旨い好々爺《こうこうや》だった。由来西洋人の教師《きょうし》と云うものはいかなる俗物にも関《かかわ》らずシェクスピイアとかゲエテとかを喋々《ちょうちょう》してやまないものである。しかし幸いにタウンゼンド氏は文芸の文の字もわかったとは云わない。いつかウワアズワアスの話が出たら、「詩と云うものは全然わからぬ。ウワアズワアスなどもどこが好《よ》いのだろう」と云った。
保吉《やすきち》はこのタウンゼンド氏と同じ避暑地《ひしょち》に住んでいたから、学校の往復にも同じ汽車に乗った。汽車はかれこれ三十分ばかりかかる。二人はその汽車の中にグラスゴオのパイプを啣《くわ》えながら、煙草《たばこ》の話だの学校の話だの幽霊《ゆうれい》の話だのを交換した。セオソフィストたるタウンゼンド氏はハムレットに興味を持たないにしても、ハムレットの親父《おやじ》の幽霊には興味を持っていたからである。しかし魔術とか錬金術《れんきんじゅつ》とか、occult sciences の話になると、氏は必ずもの悲しそうに頭とパイプとを一しょに振りながら、「神秘の扉《とびら》は俗人の思うほど、開《ひら》き難いものではない。むしろその恐しい所以《ゆえん》は容易《ようい》に閉じ難いところにある。ああ云うものには手を触《ふ》れぬが好《よ》い」と云った。
もう一人のスタアレット氏はずっと若い洒落者《しゃれもの》だった。冬は暗緑色のオオヴァ・コートに赤い襟巻《えりまき》などを巻きつけて来た。この人はタウンゼンド氏に比べると、時々は新刊書も覗《のぞ》いて見るらしい。現に学校の英語会に「最近の亜米利加《アメリカ》の小説家」と云う大講演をやったこともある。もっともその講演によれば、最近の亜米利加の大小説家はロバアト・ルイズ・スティヴンソンかオオ・ヘンリイだと云うことだった!
スタアレット氏も同じ避暑地ではないが、やはり沿線のある町にいたから、汽車を共にすることは度たびあった。保吉は氏とどんな話をしたか、ほとんど記憶に残っていない。ただ一つ覚えているのは、待合室の煖炉《だんろ》の前に汽車を待っていた時のことである。保吉はその時|欠伸《あくび》まじりに、教師と云う職業の退屈《たいくつ》さを話した。すると縁無《ふちな》しの眼鏡《めがね》をかけた、男ぶりの好《よ》いスタアレット氏はちょいと妙な顔をしながら、
「教師になるのは職業ではない。むしろ天職と呼ぶべきだと思う。You know, Socrates and Plato are two great teachers …… Etc.」と云った。
ロバアト・ルイズ・スティヴンソンはヤンキイでも何でも差支えない。が、ソクラテスとプレトオをも教師だったなどと云うのは、――保吉は爾来《じらい》スタアレット氏に慇懃《いんぎん》なる友情を尽すことにした。
午休《ひるやす》み
――或空想――
保吉《やすきち》は二階の食堂を出た。文官教官は午飯《ひるめし》の後《のち》はたいてい隣の喫煙室《きつえんしつ》へはいる。彼は今日はそこへ行かずに、庭へ出る階段を降《くだ》ることにした。すると下から下士が一人、一飛びに階段を三段ずつ蝗《いなご》のように登って来た。それが彼の顔を見ると、突然|厳格《げんかく》に挙手の礼をした。するが早いか一躍《ひとおど》りに保吉の頭を躍《おど》り越えた。彼は誰もいない空間へちょいと会釈《えしゃく》を返しながら、悠々と階段を降り続けた。
庭には槙《まき》や榧《かや》の間《あいだ》に、木蘭《もくれん》が花を開いている。木蘭はなぜか日の当る南へ折角《せっかく》の花を向けないらしい。が、辛夷《こぶし》は似ている癖に、きっと南へ花を向けている。保吉は巻煙草《まきたばこ》に火をつけながら、木蘭の個性を祝福した。そこへ石を落したように、鶺鴒《せきれい》が一羽舞い下《さが》って来た。鶺鴒も彼には疎遠《そえん》ではない。あの小さい尻尾《しっぽ》を振るのは彼を案内する信号である。
「こっち! こっち! そっちじゃありませんよ。こっち! こっち!」
彼は鶺鴒の云うなり次第に、砂利《じゃり》を敷いた小径《こみち》を歩いて行った。が、鶺鴒はどう思ったか、突然また空へ躍《おど》り上った。その代り背の高い機関兵が一人、小径をこちらへ歩いて来た。保吉はこの機関兵の顔にどこか見覚えのある心もちがした。機関兵はやはり敬礼した後《のち》、さっさと彼の側《そば》を通り抜けた。彼は煙草《たばこ》の煙を吹きながら、誰だったかしらと考え続けた。二歩、三歩、五歩、――十歩目に保吉は発見した。あれはポオル・ゴオギャンである。あるいはゴオギャンの転生《てんしょう》である。今にきっとシャヴルの代りに画筆《がひつ》を握るのに相違ない。そのまた挙句《あげく》に気違いの友だちに後《うし》ろからピストルを射かけられるのである。可哀《かわい》そうだが、どうも仕方がない。
保吉はとうとう小径伝いに玄関《げんかん》の前の広場へ出た。そこには戦利品の大砲が二門、松や笹の中に並んでいる。ちょいと砲身に耳を当てて見たら、何だか息の通る音がした。大砲も欠伸《あくび》をするかも知れない。彼は大砲の下に腰を下した。それから二本目の巻煙草へ火をつけた。もう車廻しの砂利《じゃり》の上には蜥蜴《とかげ》が一匹光っている。人間は足を切られたが最後、再び足は製造出来ない。しかし蜥蜴は尻《し》っ尾《ぽ》を切られると、直《すぐ》にまた尻っ尾を製造する。保吉は煙草を啣《くわ》えたまま、蜥蝪はきっとラマルクよりもラマルキアンに違いないと思った。が、しばらく眺めていると、蜥蜴はいつか砂利に垂れた一すじの重油に変ってしまった。
保吉はやっと立ち上った。ペンキ塗りの校舎に沿いながら、もう一度庭を向うへ抜けると、海に面する運動場へ出た。土の赤いテニス・コオトには武官教官が何人か、熱心に勝負を争っている。コオトの上の空間は絶えず何かを破裂させる。同時にネットの右や左へ薄白《うすじろ》い直線を迸《ほとばし》らせる。あれは球《たま》の飛ぶのではない。目に見えぬ三鞭酒《シャンパン》を抜いているのである。そのまた三鞭酒《シャンパン》をワイシャツの神々が旨そうに飲んでいるのである。保吉は神々を讃美しながら、今度は校舎の裏庭へまわった。
裏庭には薔薇《ばら》が沢山ある。もっとも花はまだ一輪もない。彼はそこを歩きながら、径《みち》へさし出た薔薇の枝に毛虫《けむし》を一匹発見した。と思うとまた一匹、隣の葉の上にも這《は》っているのがあった。毛虫は互に頷《うなず》き頷き、彼のことか何か話しているらしい。保吉はそっと立ち聞きすることにした。
第一の毛虫 この教官はいつ蝶《ちょう》になるのだろう? 我々の曾々々祖父《そそそそふ》の代から、地面の上ばかり這《は》いまわっている。
第二の毛虫 人間は蝶にならないのかも知れない。
第一の毛虫 いや、なることはなるらしい。あすこにも現在飛んでいるから。
第二の毛虫 なるほど、飛んでいるのがある。しかし何と云う醜《みにく》さだろう! 美意識《びいしき》さえ人間にはないと見える。
保吉は額《ひたい》に手をかざしながら、頭の上へ来た飛行機を仰《あお》いだ。
そこに同僚に化《ば》けた悪魔が一人、何か愉快そうに歩いて来た。昔は錬金術《れんきんじゅつ》を教えた悪魔も今は生徒に応用化学《おうようかがく》を教えている。それがにやにや笑いながら、こう保吉に話しかけた。
「おい、今夜つき合わんか?」
保吉は悪魔の微笑の中にありありとファウストの二行《にぎょう》を感じた。――「一切の理論は灰色だが、緑なのは黄金《こがね》なす生活の樹《き》だ!」
彼は悪魔に別れた後《のち》、校舎の中へ靴《くつ》を移した。教室は皆がらんとしている。通りすがりに覗《のぞ》いて見たら、ただある教室の黒板の上に幾何《きか》の図《ず》が一つ描《か》き忘れてあった。幾何の図は彼が覗いたのを知ると、消されると思ったのに違いない。たちまち伸《の》びたり縮《ちぢ》んだりしながら、
「次の時間に入用《いりよう》なのです。」と云った。
保吉はもと降りた階段を登り、語学と数学との教官室へはいった。教官室には頭の禿《は》げたタウンゼンド氏のほかに誰もいない。しかもこの老教師は退屈まぎれに口笛《くちぶえ》を吹き吹き、一人ダンスを試みている。保吉はちょいと苦笑したまま、洗面台の前へ手を洗いに行った。その時ふと鏡《かがみ》を見ると、驚いたことにタウンゼンド氏はいつのまにか美少年に変り、保吉自身は腰の曲った白頭《はくとう》の老人に変っていた。
恥《はじ》
保吉《やすきち》は教室へ出る前に、必ず教科書の下調《したしら》べをした。それは月給を貰《もら》っているから、出たらめなことは出来ないと云う義務心によったばかりではない。教科書には学校の性質上海上用語が沢山出て来る。それをちゃんと検《しら》べて置かないと、とんでもない誤訳をやりかねない。たとえば Cat's paw と云うから、猫《ねこ》の足かと思っていれば、そよ風だったりするたぐいである。
ある時彼は二年級の生徒に、やはり航海のことを書いた、何とか云う小品《しょうひん》を教えていた。それは恐るべき悪文だった。マストに風が唸《うな》ったり、ハッチへ浪《なみ》が打ちこんだりしても、その浪なり風なりは少しも文字の上へ浮ばなかった。彼は生徒に訳読《やくどく》をさせながら、彼自身先に退屈し出した。こう云う時ほど生徒を相手に、思想問題とか時事問題とかを弁《べん》じたい興味に駆《か》られることはない。元来教師と云うものは学科以外の何ものかを教えたがるものである。道徳、趣味《しゅみ》、人生観、――何と名づけても差支《さしつか》えない。とにかく教科書や黒板よりも教師自身の心臓《しんぞう》に近い何ものかを教えたがるものである。しかし生憎《あいにく》生徒と云うものは学科以外の何ものをも教わりたがらないものである。いや、教わりたがらないのではない。絶対に教わることを嫌悪《けんお》するものである。保吉はそう信じていたから、この場合も退屈し切ったまま、訳読を進めるより仕かたなかった。
しかし生徒の訳読に一応耳を傾けた上、綿密《めんみつ》に誤《あやまり》を直したりするのは退屈しない時でさえ、かなり保吉には面倒《めんどう》だった。彼は一時間の授業時間を三十分ばかり過《すご》した後《のち》、とうとう訳読を中止させた。その代りに今度は彼自身一節ずつ読んでは訳し出した。教科書の中の航海は不相変《あいかわらず》退屈を極めていた。同時にまた彼の教えぶりも負けずに退屈を極めていた。彼は無風帯を横ぎる帆船《はんせん》のように、動詞のテンスを見落したり関係代名詞を間違えたり、行き悩《なや》み行き悩み進んで行った。
そのうちにふと気がついて見ると、彼の下検《したしら》べをして来たところはもうたった四五行《しごぎょう》しかなかった。そこを一つ通り越せば、海上用語の暗礁《あんしょう》に満ちた、油断のならない荒海《あらうみ》だった。彼は横目《よこめ》で時計を見た。時間は休みの喇叭《らっぱ》までにたっぷり二十分は残っていた。彼は出来るだけ叮嚀《ていねい》に、下検べの出来ている四五行を訳した。が、訳してしまって見ると、時計の針はその間《あいだ》にまだ三分しか動いていなかった。
保吉は絶体絶命《ぜったいぜつめい》になった。この場合|唯一《ゆいいつ》の血路《けつろ》になるものは生徒の質問に応ずることだった。それでもまだ時間が余れば、早じまいを宣《せん》してしまうことだった。彼は教科書を置きながら、「質問は――」と口を切ろうとした。と、突然まっ赤になった。なぜそんなにまっ赤になったか?――それは彼自身にも説明出来ない。とにかく生徒を護摩《ごま》かすくらいは何とも思わぬはずの彼がその時だけはまっ赤になったのである。生徒は勿論《もちろん》何も知らずにまじまじ彼の顔を眺めていた。彼はもう一度時計を見た。それから、――教科書を取り上げるが早いか、無茶苦茶に先を読み始めた。
教科書の中の航海はその後《ご》も退屈なものだったかも知れない。しかし彼の教えぶりは、――保吉は未《いまだ》に確信している。タイフウンと闘《たたか》う帆船よりも、もっと壮烈を極めたものだった。
勇ましい守衛
秋の末か冬の初か、その辺《へん》の記憶ははっきりしない。とにかく学校へ通《かよ》うのにオオヴァ・コオトをひっかける時分だった。午飯《ひるめし》のテエブルについた時、ある若い武官教官が隣に坐っている保吉《やすきち》にこう云う最近の椿事《ちんじ》を話した。――つい二三日前の深更《しんこう》、鉄盗人《てつぬすびと》が二三人学校の裏手へ舟を着けた。それを発見した夜警中の守衛《しゅえい》は単身彼等を逮捕《たいほ》しようとした。ところが烈《はげ》しい格闘《かくとう》の末、あべこべに海へ抛《ほう》りこまれた。守衛は濡《ぬ》れ鼠《ねずみ》になりながら、やっと岸へ這《は》い上った。が、勿論盗人の舟はその間《あいだ》にもう沖《おき》の闇へ姿を隠していたのである。
「大浦《おおうら》と云う守衛ですがね。莫迦莫迦《ばかばか》しい目に遇《あ》ったですよ。」
武官はパンを頬張《ほおば》ったなり、苦しそうに笑っていた。
大浦は保吉も知っていた。守衛は何人か交替《こうたい》に門側《もんがわ》の詰《つ》め所に控《ひか》えている。そうして武官と文官とを問わず、教官の出入《ではいり》を見る度に、挙手《きょしゅ》の礼をすることになっている。保吉は敬礼されるのも敬礼に答えるのも好まなかったから、敬礼する暇《ひま》を与えぬように、詰め所を通る時は特に足を早めることにした。が、この大浦と云う守衛だけは容易《ようい》に目つぶしを食わされない。第一詰め所に坐ったまま、門の内外《うちそと》五六間の距離へ絶えず目を注《そそ》いでいる。だから保吉の影が見えると、まだその前へ来ない内に、ちゃんともう敬礼の姿勢をしている。こうなれば宿命と思うほかはない。保吉はとうとう観念《かんねん》した。いや、観念したばかりではない。この頃は大浦を見つけるが早いか、響尾蛇《がらがらへび》に狙《ねら》われた兎《うさぎ》のように、こちらから帽《ぼう》さえとっていたのである。
それが今聞けば盗人《ぬすびと》のために、海へ投げこまれたと云うのである。保吉はちょいと同情しながら、やはり笑わずにはいられなかった。
すると五六日たってから、保吉は停車場《ていしゃば》の待合室に偶然大浦を発見した。大浦は彼の顔を見ると、そう云う場所にも関《かかわ》らず、ぴたりと姿勢を正した上、不相変《あいかわらず》厳格に挙手の礼をした。保吉ははっきり彼の後《うし》ろに詰め所の入口が見えるような気がした。
「君はこの間――」
しばらく沈黙が続いた後《のち》、保吉はこう話しかけた。
「ええ、泥坊《どろぼう》を掴《つか》まえ損じまして、――」
「ひどい目に遇《あ》ったですね。」
「幸い怪我《けが》はせずにすみましたが、――」
大浦は苦笑《くしょう》を浮べたまま、自《みずか》ら嘲《あざけ》るように話し続けた。
「何、無理《むり》にも掴《つか》まえようと思えば、一人《ひとり》ぐらいは掴まえられたのです。しかし掴まえて見たところが、それっきりの話ですし、――」
「それっきりと云うのは?」
「賞与も何も貰《もら》えないのです。そう云う場合、どうなると云う明文は守衛規則にありませんから、――」
「職に殉《じゅん》じても?」
「職に殉じてでもです。」
保吉はちょいと大浦を見た。大浦自身の言葉によれば、彼は必ずしも勇士のように、一死を賭《と》してかかったのではない。賞与を打算に加えた上、捉《とら》うべき盗人を逸《いっ》したのである。しかし――保吉は巻煙草をとり出しながら、出来るだけ快活に頷《うなず》いて見せた。
「なるほどそれじゃ莫迦莫迦《ばかばか》しい。危険を冒《おか》すだけ損の訣《わけ》ですね。」
大浦は「はあ」とか何とか云った。その癖変に浮かなそうだった。
「だが賞与さえ出るとなれば、――」
保吉はやや憂鬱《ゆううつ》に云った。
「だが、賞与さえ出るとなれば、誰でも危険を冒すかどうか?――そいつもまた少し疑問ですね。」
大浦は今度は黙っていた。が、保吉が煙草を啣《くわ》えると、急に彼自身のマッチを擦《す》り、その火を保吉の前へ出した。保吉は赤あかと靡《なび》いた焔《ほのお》を煙草の先に移しながら、思わず口もとに動いた微笑《びしょう》を悟《さと》られないように噛《か》み殺した。
「難有《ありがと》う。」
「いや、どうしまして。」
大浦はさりげない言葉と共に、マッチの箱をポケットへ返した。しかし保吉は今日《こんにち》もなおこの勇ましい守衛の秘密を看破《かんぱ》したことと信じている。あの一点のマッチの火は保吉のためにばかり擦《す》られたのではない。実に大浦の武士道を冥々《めいめい》の裡《うち》に照覧《しょうらん》し給う神々のために擦られたのである。
[#地から1字上げ](大正十二年四月)
底本:「芥川龍之介全集5」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年2月24日第1刷発行
1995(平成7)年4月10日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月10日公開
2004年3月9日修正
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