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芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)簾《すだれ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)皆|赭《あか》ちゃけた

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「廛+おおざと」、第3水準1-92-84]
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 目のあらい簾《すだれ》が、入口にぶらさげてあるので、往来の容子《ようす》は仕事場にいても、よく見えた。清水《きよみず》へ通う往来は、さっきから、人通りが絶えない。金鼓《こんく》をかけた法師《ほうし》が通る。壺装束《つぼしょうぞく》をした女が通る。その後《あと》からは、めずらしく、黄牛《あめうし》に曳《ひ》かせた網代車《あじろぐるま》が通った。それが皆、疎《まばら》な蒲《がま》の簾《すだれ》の目を、右からも左からも、来たかと思うと、通りぬけてしまう。その中で変らないのは、午後の日が暖かに春を炙《あぶ》っている、狭い往来の土の色ばかりである。
 その人の往来を、仕事場の中から、何と云う事もなく眺めていた、一人の青侍《あおざむらい》が、この時、ふと思いついたように、主《あるじ》の陶器師《すえものつくり》へ声をかけた。
「不相変《あいかわらず》、観音様《かんのんさま》へ参詣する人が多いようだね。」
「左様でございます。」
 陶器師《すえものつくり》は、仕事に気をとられていたせいか、少し迷惑そうに、こう答えた。が、これは眼の小さい、鼻の上を向いた、どこかひょうきんな所のある老人で、顔つきにも容子《ようす》にも、悪気らしいものは、微塵《みじん》もない。着ているのは、麻《あさ》の帷子《かたびら》であろう。それに萎《な》えた揉烏帽子《もみえぼし》をかけたのが、この頃評判の高い鳥羽僧正《とばそうじょう》の絵巻の中の人物を見るようである。
「私も一つ、日参《にっさん》でもして見ようか。こう、うだつ[#「うだつ」に傍点]が上らなくちゃ、やりきれない。」
「御冗談《ごじようだん》で。」
「なに、これで善い運が授《さず》かるとなれば、私だって、信心をするよ。日参をしたって、参籠《さんろう》をしたって、そうとすれば、安いものだからね。つまり、神仏を相手に、一商売をするようなものさ。」
 青侍は、年相応な上調子《うわちょうし》なもの言いをして、下唇を舐《な》めながら、きょろきょろ、仕事場の中を見廻した。――竹藪《たけやぶ》を後《うしろ》にして建てた、藁葺《わらぶ》きのあばら家《や》だから、中は鼻がつかえるほど狭い。が、簾の外の往来が、目まぐるしく動くのに引換えて、ここでは、甕《かめ》でも瓶子《へいし》でも、皆|赭《あか》ちゃけた土器《かわらけ》の肌《はだ》をのどかな春風に吹かせながら、百年も昔からそうしていたように、ひっそりかんと静まっている。どうやらこの家の棟《むね》ばかりは、燕《つばめ》さえも巣を食わないらしい。……
 翁《おきな》が返事をしないので、青侍はまた語を継《つ》いだ。
「お爺《じい》さんなんぞも、この年までには、随分いろんな事を見たり聞いたりしたろうね。どうだい。観音様は、ほんとうに運を授けて下さるものかね。」
「左様でございます。昔は折々、そんな事もあったように聞いて居りますが。」
「どんな事があったね。」
「どんな事と云って、そう一口には申せませんがな。――しかし、貴方《あなた》がたは、そんな話をお聞きなすっても、格別面白くもございますまい。」
「可哀そうに、これでも少しは信心気《しんじんぎ》のある男なんだぜ。いよいよ運が授かるとなれば、明日《あす》にも――」
「信心気でございますかな。商売気でございますかな。」
 翁《おきな》は、眦《めじり》に皺《しわ》をよせて笑った。捏《こ》ねていた土が、壺《つぼ》の形になったので、やっと気が楽になったと云う調子である。
「神仏の御考えなどと申すものは、貴方《あなた》がたくらいのお年では、中々わからないものでございますよ。」
「それはわからなかろうさ。わからないから、お爺さんに聞くんだあね。」
「いやさ、神仏が運をお授けになる、ならないと云う事じゃございません。そのお授けになる運の善し悪しと云う事が。」
「だって、授けて貰えばわかるじゃないか。善い運だとか、悪い運だとか。」
「それが、どうも貴方がたには、ちとおわかりになり兼ねましょうて。」
「私には運の善し悪しより、そう云う理窟の方がわからなそうだね。」
 日が傾き出したのであろう。さっきから見ると、往来へ落ちる物の影が、心もち長くなった。その長い影をひきながら、頭《かしら》に桶《おけ》をのせた物売りの女が二人、簾の目を横に、通りすぎる。一人は手に宿への土産《みやげ》らしい桜の枝を持っていた。
「今、西の市《いち》で、績麻《うみそ》の※[#「廛+おおざと」、第3水準1-92-84]《みせ》を出している女なぞもそうでございますが。」
「だから、私はさっきから、お爺さんの話を聞きたがっているじゃないか。」
 二人は、暫くの間、黙った。青侍は、爪で頤《あご》のひげを抜きながら、ぼんやり往来を眺めている。貝殻のように白く光るのは、大方《おおかた》さっきの桜の花がこぼれたのであろう。
「話さないかね。お爺さん。」
 やがて、眠そうな声で、青侍が云った。
「では、御免を蒙って、一つ御話し申しましょうか。また、いつもの昔話でございますが。」
 こう前置きをして、陶器師《すえものつくり》の翁は、徐《おもむろ》に話し出した。日の長い短いも知らない人でなくては、話せないような、悠長な口ぶりで話し出したのである。
「もうかれこれ三四十年前になりましょう。あの女がまだ娘の時分に、この清水《きよみず》の観音様へ、願《がん》をかけた事がございました。どうぞ一生安楽に暮せますようにと申しましてな。何しろ、その時分は、あの女もたった一人のおふくろに死別《しにわか》れた後で、それこそ日々《にちにち》の暮しにも差支えるような身の上でございましたから、そう云う願《がん》をかけたのも、満更《まんざら》無理はございません。
「死んだおふくろと申すのは、もと白朱社《はくしゅしゃ》の巫子《みこ》で、一しきりは大そう流行《はや》ったものでございますが、狐《きつね》を使うと云う噂《うわさ》を立てられてからは、めっきり人も来なくなってしまったようでございます。これがまた、白あばたの、年に似合わず水々しい、大がらな婆さんでございましてな、何さま、あの容子《ようす》じゃ、狐どころか男でも……」
「おふくろの話よりは、その娘の話の方を伺いたいね。」
「いや、これは御挨拶で。――そのおふくろが死んだので、後は娘一人の痩《や》せ腕でございますから、いくらかせいでも、暮《くらし》の立てられようがございませぬ。そこで、あの容貌《きりょう》のよい、利発者《りはつもの》の娘が、お籠《こも》りをするにも、襤褸《つづれ》故に、あたりへ気がひけると云う始末でございました。」
「へえ。そんなに好《い》い女だったかい。」
「左様でございます。気だてと云い、顔と云い、手前の欲目では、まずどこへ出しても、恥しくないと思いましたがな。」
「惜しい事に、昔さね。」
 青侍は、色のさめた藍の水干《すいかん》の袖口を、ちょいとひっぱりながら、こんな事を云う。翁は、笑声を鼻から抜いて、またゆっくり話しつづけた。後《うしろ》の竹籔では、頻《しきり》に鶯《うぐいす》が啼いている。
「それが、三七日《さんしちにち》の間、お籠りをして、今日が満願と云う夜《よ》に、ふと夢を見ました。何でも、同じ御堂《おどう》に詣《まい》っていた連中の中に、背むしの坊主《ぼうず》が一人いて、そいつが何か陀羅尼《だらに》のようなものを、くどくど誦《ず》していたそうでございます。大方それが、気になったせいでございましょう。うとうと眠気がさして来ても、その声ばかりは、どうしても耳をはなれませぬ。とんと、縁の下で蚯蚓《みみず》でも鳴いているような心もちで――すると、その声が、いつの間にやら人間の語《ことば》になって、『ここから帰る路で、そなたに云いよる男がある。その男の云う事を聞くがよい。』と、こう聞えると申すのでございますな。
「はっと思って、眼がさめると、坊主はやっぱり陀羅尼三昧《だらにざんまい》でございます。が、何と云っているのだか、いくら耳を澄ましても、わかりませぬ。その時、何気なく、ひょいと向うを見ると、常夜燈《じょうやとう》のぼんやりした明りで、観音様の御顔が見えました。日頃|拝《おが》みなれた、端厳微妙《たんごんみみょう》の御顔でございますが、それを見ると、不思議にもまた耳もとで、『その男の云う事を聞くがよい。』と、誰だか云うような気がしたそうでございます。そこで、娘はそれを観音様の御告《おつげ》だと、一図《いちず》に思いこんでしまいましたげな。」
「はてね。」
「さて、夜がふけてから、御寺を出て、だらだら下りの坂路を、五条へくだろうとしますと、案の定《じょう》後《うしろ》から、男が一人抱きつきました。丁度、春さきの暖い晩でございましたが、生憎《あいにく》の暗で、相手の男の顔も見えなければ、着ている物などは、猶《なお》の事わかりませぬ。ただ、ふり離そうとする拍子に、手が向うの口髭《くちひげ》にさわりました。いやはや、とんだ時が、満願《まんがん》の夜に当ったものでございます。
「その上、相手は、名を訊《き》かれても、名を申しませぬ。所を訊かれても、所を申しませぬ。ただ、云う事を聞けと云うばかりで、坂下の路を北へ北へ、抱きすくめたまま、引きずるようにして、つれて行きます。泣こうにも、喚《わめ》こうにも、まるで人通りのない時分なのだから、仕方がございませぬ。」
「ははあ、それから。」
「それから、とうとう八坂寺《やさかでら》の塔の中へ、つれこまれて、その晩はそこですごしたそうでございます。――いや、その辺《へん》の事なら、何も年よりの手前などが、わざわざ申し上げるまでもございますまい。」
 翁《おきな》は、また眦《めじり》に皺《しわ》をよせて、笑った。往来の影は、いよいよ長くなったらしい。吹くともなく渡る風のせいであろう、そこここに散っている桜の花も、いつの間にかこっちへ吹きよせられて、今では、雨落ちの石の間に、点々と白い色をこぼしている。
「冗談云っちゃいけない。」
 青侍は、思い出したように、頤《あご》のひげを抜き抜き、こう云った。
「それで、もうおしまいかい。」
「それだけなら、何もわざわざお話し申すがものはございませぬ。」翁《おきな》は、やはり壺《つぼ》をいじりながら、「夜があけると、その男が、こうなるのも大方|宿世《すくせ》の縁だろうから、とてもの事に夫婦《みょうと》になってくれと申したそうでございます。」
「成程。」
「夢の御告げでもないならともかく、娘は、観音様のお思召《おぼしめ》し通りになるのだと思ったものでございますから、とうとう首《かぶり》を竪《たて》にふりました。さて形《かた》ばかりの盃事《さかずきごと》をすませると、まず、当座の用にと云って、塔の奥から出して来てくれたのが綾《あや》を十|疋《ぴき》に絹を十疋でございます。――この真似《まね》ばかりは、いくら貴方《あなた》にもちとむずかしいかも存じませんな。」
 青侍は、にやにや笑うばかりで、返事をしない。鶯も、もう啼かなくなった。
「やがて、男は、日の暮《くれ》に帰ると云って、娘一人を留守居《るすい》に、慌《あわただ》しくどこかへ出て参りました。その後《あと》の淋しさは、また一倍でございます。いくら利発者でも、こうなると、さすがに心細くなるのでございましょう。そこで、心晴らしに、何気《なにげ》なく塔の奥へ行って見ると、どうでございましょう。綾や絹は愚《おろか》な事、珠玉とか砂金《さきん》とか云う金目《かねめ》の物が、皮匣《かわご》に幾つともなく、並べてあると云うじゃございませぬか。これにはああ云う気丈な娘でも、思わず肚胸《とむね》をついたそうでございます。
「物にもよりますが、こんな財物《たから》を持っているからは、もう疑《うたがい》はございませぬ。引剥《ひはぎ》でなければ、物盗《ものと》りでございます。――そう思うと、今まではただ、さびしいだけだったのが、急に、怖いのも手伝って、何だか片時《かたとき》もこうしては、いられないような気になりました。何さま、悪く放免《ほうめん》の手にでもかかろうものなら、どんな目に遭《あ》うかも知れませぬ。
「そこで、逃げ場をさがす気で、急いで戸口の方へ引返そうと致しますと、誰だか、皮匣《かわご》の後《うしろ》から、しわがれた声で呼びとめました。何しろ、人はいないとばかり思っていた所でございますから、驚いたの驚かないのじゃございませぬ。見ると、人間とも海鼠《なまこ》ともつかないようなものが、砂金の袋を積んだ中に、円《まる》くなって、坐って居ります。――これが目くされの、皺《しわ》だらけの、腰のまがった、背の低い、六十ばかりの尼法師《あまほうし》でございました。しかも娘の思惑《おもわく》を知ってか知らないでか、膝《ひざ》で前へのり出しながら、見かけによらない猫撫声《ねこなでごえ》で、初対面の挨拶《あいさつ》をするのでございます。
「こっちは、それ所の騒《さわ》ぎではないのでございますが、何しろ逃げようと云う巧《たく》みをけどられなどしては大変だと思ったので、しぶしぶ皮匣《かわご》の上に肘《ひじ》をつきながら心にもない世間話をはじめました。どうも話の容子《ようす》では、この婆さんが、今まであの男の炊女《みずし》か何かつとめていたらしいのでございます。が、男の商売の事になると、妙に一口も話しませぬ。それさえ、娘の方では、気になるのに、その尼《あま》がまた、少し耳が遠いと来ているものでございますから、一つ話を何度となく、云い直したり聞き直したりするので、こっちはもう泣き出したいほど、気がじれます。――
「そんな事が、かれこれ午《ひる》までつづいたでございましょう。すると、やれ清水の桜が咲いたの、やれ五条の橋普請《はしぶしん》が出来たのと云っている中《うち》に、幸い、年の加減《かげん》か、この婆さんが、そろそろ居睡《いねむ》りをはじめました。一つは娘の返答が、はかばかしくなかったせいもあるのでございましょう。そこで、娘は、折を計って、相手の寝息を窺《うかが》いながら、そっと入口まで這《は》って行って、戸を細目にあけて見ました。外にも、いい案配に、人のけはいはございませぬ。――
「ここでそのまま、逃げ出してしまえば、何事もなかったのでございますが、ふと今朝《けさ》貰った綾と絹との事を思い出したので、それを取りに、またそっと皮匣《かわご》の所まで帰って参りました。すると、どうした拍子か、砂金の袋にけつまずいて、思わず手が婆さんの膝《ひざ》にさわったから、たまりませぬ。尼の奴め驚いて眼をさますと、暫くはただ、あっけにとられて、いたようでございますが、急に気ちがいのようになって、娘の足にかじりつきました。そうして、半分泣き声で、早口に何かしゃべり立てます。切れ切れに、語《ことば》が耳へはいる所では、万一娘に逃げられたら、自分がどんなひどい目に遇うかも知れないと、こう云っているらしいのでございますな。が、こっちもここにいては命にかかわると云う時でございますから、元よりそんな事に耳をかす訳がございませぬ。そこで、とうとう、女同志のつかみ合がはじまりました。
「打つ。蹴《け》る。砂金の袋をなげつける。――梁《はり》に巣を食った鼠《ねずみ》も、落ちそうな騒ぎでございます。それに、こうなると、死物狂いだけに、婆さんの力も、莫迦《ばか》には出来ませぬ。が、そこは年のちがいでございましょう。間もなく、娘が、綾と絹とを小脇《こわき》にかかえて、息を切らしながら、塔の戸口をこっそり、忍び出た時には、尼《あま》はもう、口もきかないようになって居りました。これは、後《あと》で聞いたのでございますが、死骸《しがい》は、鼻から血を少し出して、頭から砂金を浴びせられたまま、薄暗い隅の方に、仰向《あおむ》けになって、臥《ね》ていたそうでございます。
「こっちは八坂寺《やさかでら》を出ると、町家《ちょうか》の多い所は、さすがに気がさしたと見えて、五条|京極《きょうごく》辺の知人《しりびと》の家をたずねました。この知人と云うのも、その日暮しの貧乏人なのでございますが、絹の一疋もやったからでございましょう、湯を沸かすやら、粥《かゆ》を煮るやら、いろいろ経営《けいえい》してくれたそうでございます。そこで、娘も漸《ようや》く、ほっと一息つく事が出来ました。」
「私も、やっと安心したよ。」
 青侍《あおざむらい》は、帯にはさんでいた扇《おおぎ》をぬいて、簾《すだれ》の外の夕日を眺めながら、それを器用に、ぱちつかせた。その夕日の中を、今しがた白丁《はくちょう》が五六人、騒々しく笑い興じながら、通りすぎたが、影はまだ往来に残っている。……
「じゃそれでいよいよけり[#「けり」に傍点]がついたと云う訳だね。」
「所が」翁《おきな》は大仰《おおぎょう》に首を振って、「その知人《しりびと》の家に居りますと、急に往来の人通りがはげしくなって、あれを見い、あれを見いと、罵《ののし》り合う声が聞えます。何しろ、後暗《うしろぐら》い体ですから、娘はまた、胸を痛めました。あの物盗《ものと》りが仕返ししにでも来たものか、さもなければ、検非違使《けびいし》の追手《おって》がかかりでもしたものか、――そう思うともう、おちおち、粥《かゆ》を啜《すす》っても居られませぬ。」
「成程。」
「そこで、戸の隙間《すきま》から、そっと外を覗いて見ると、見物の男女《なんにょ》の中を、放免《ほうめん》が五六人、それに看督長《かどのおさ》が一人ついて、物々しげに通りました。それからその連中にかこまれて、縄にかかった男が一人、所々|裂《さ》けた水干を着て烏帽子《えぼし》もかぶらず、曳かれて参ります。どうも物盗りを捕えて、これからその住家《すみか》へ、実録《じつろく》をしに行く所らしいのでございますな。
「しかも、その物盗りと云うのが、昨夜《ゆうべ》、五条の坂で云いよった、あの男だそうじゃございませぬか。娘はそれを見ると、何故か、涙がこみ上げて来たそうでございます。これは、当人が、手前に話しました――何も、その男に惚《ほ》れていたの、どうしたのと云う訳じゃない。が、その縄目《なわめ》をうけた姿を見たら、急に自分で、自分がいじらしくなって、思わず泣いてしまったと、まあこう云うのでございますがな。まことにその話を聞いた時には、手前もつくづくそう思いましたよ――」
「何とね。」
「観音様へ願《がん》をかけるのも考え物だとな。」
「だが、お爺《じい》さん。その女は、それから、どうにかやって行けるようになったのだろう。」
「どうにか所か、今では何不自由ない身の上になって居ります。その綾や絹を売ったのを本《もと》に致しましてな。観音様も、これだけは、御約束をおちがえになりません。」
「それなら、そのくらいな目に遇っても、結構じゃないか。」
 外の日の光は、いつの間にか、黄いろく夕づいた。その中を、風だった竹籔の音が、かすかながらそこここから聞えて来る。往来の人通りも、暫くはとだえたらしい。
「人を殺したって、物盗りの女房になったって、する気でしたんでなければ仕方がないやね。」
 青侍は、扇を帯へさしながら、立上った。翁《おきな》も、もう提《ひさげ》の水で、泥にまみれた手を洗っている――二人とも、どうやら、暮れてゆく春の日と、相手の心もちとに、物足りない何ものかを、感じてでもいるような容子《ようす》である。
「とにかく、その女は仕合せ者だよ。」
「御冗談で。」
「まったくさ。お爺さんも、そう思うだろう。」
「手前でございますか。手前なら、そう云う運はまっぴらでございますな。」
「へええ、そうかね。私なら、二つ返事で、授《さず》けて頂くがね。」
「じゃ観音様を、御信心なさいまし。」
「そうそう、明日《あす》から私も、お籠《こもり》でもしようよ。」
[#地から1字上げ](大正五年十二月)



底本:「芥川龍之介全集1」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年9月24日第1刷発行
   1995(平成7)年10月5日第13刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:earthian
1998年11月11日公開
2004年3月9日修正
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