青空文庫アーカイブ

追憶
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)梯子《はしご》か何かに

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(例)時|冬青《もち》の木の下に

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(例)白※[#「皙」の「白」に代えて「日」、第3水準1-85-31]《はくせき》
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     一 埃

 僕の記憶の始まりは数え年の四つの時のことである。と言ってもたいした記憶ではない。ただ広さんという大工が一人、梯子《はしご》か何かに乗ったまま玄能で天井を叩《たた》いている、天井からはぱっぱっと埃《ほこり》が出る――そんな光景を覚えているのである。
 これは江戸の昔から祖父や父の住んでいた古家を毀《こわ》した時のことである。僕は数え年の四つの秋、新しい家に住むようになった。したがって古家を毀したのは遅《おそ》くもその年の春だったであろう。

     二 位牌

 僕の家《うち》の仏壇には祖父母の位牌《いはい》や叔父《おじ》の位牌の前に大きい位牌が一つあった。それは天保《てんぽう》何年かに没した曾祖父母《そうそふぼ》の位牌だった。僕はもの心のついた時から、この金箔《きんぱく》の黒ずんだ位牌に恐怖に近いものを感じていた。
 僕ののちに聞いたところによれば、曾祖父は奥坊主を勤めていたものの、二人の娘を二人とも花魁《おいらん》に売ったという人だった。のみならずまた曾祖母も曾祖父の夜泊まりを重ねるために家に焚《た》きもののない時には鉈《なた》で縁側を叩《たた》き壊《こわ》し、それを薪《たきぎ》にしたという人だった。

     三 庭木

 新しい僕の家の庭には冬青《もち》、榧《かや》、木斛《もっこく》、かくれみの、臘梅《ろうばい》、八つ手、五葉の松などが植わっていた。僕はそれらの木の中でも特に一本の臘梅を愛した。が、五葉の松だけは何か無気味でならなかった。

     四 「てつ」

 僕の家《うち》には子守《こも》りのほかに「てつ」という女中が一人あった。この女中はのちに「源《げん》さん」という大工のお上さんになったために「源てつ」という渾名《あだな》を貰《もら》ったものである。
 なんでも一月か二月のある夜、(僕は数え年の五つだった)地震のために目をさました「てつ」は前後の分別を失ったとみえ、枕《まくら》もとの行灯《あんどん》をぶら下げたなり、茶の間から座敷を走りまわった。僕はその時座敷の畳に油じみのできたのを覚えている。それからまた夜中の庭に雪の積もっていたのを覚えている。

     五 猫の魂

「てつ」は源《げん》さんへ縁づいたのちも時々僕の家《うち》へ遊びに来た。僕はそのころ「てつ」の話した、こういう怪談を覚えている。――ある日の午後、「てつ」は長火鉢《ながひばち》に頬杖《ほほづえ》をつき、半睡半醒《はんすいはんせい》の境にさまよっていた。すると小さい火の玉が一つ、「てつ」の顔のまわりを飛びめぐり始めた。「てつ」ははっとして目を醒《さ》ました。火の玉はもちろんその時にはもうどこかへ消え失《う》せていた。しかし「てつ」の信ずるところによればそれは四、五日前に死んだ「てつ」の飼い猫《ねこ》の魂がじゃれに来たに違いないというのだった。

     六 草双紙

 僕の家《うち》の本箱には草双紙《くさぞうし》がいっぱいつまっていた。僕はもの心のついたころからこれらの草双紙を愛していた。ことに「西遊記《さいゆうき》」を翻案した「金毘羅利生記《こんぴらりしょうき》」を愛していた。「金毘羅利生記」の主人公はあるいは僕の記憶に残った第一の作中人物かもしれない。それは岩裂《いわさき》の神という、兜巾鈴懸《ときんすずか》けを装った、目《ま》なざしの恐ろしい大天狗《だいてんぐ》だった。

     七 お狸様

 僕の家《うち》には祖父の代からお狸様《たぬきさま》というものを祀《まつ》っていた。それは赤い布団にのった一対の狸の土偶《でく》だった。僕はこのお狸様にも何か恐怖を感じていた。お狸様を祀ることはどういう因縁によったものか、父や母さえも知らないらしい。しかしいまだに僕の家には薄暗い納戸《なんど》の隅《すみ》の棚《たな》にお狸様の宮を設け、夜は必ずその宮の前に小さい蝋燭《ろうそく》をともしている。

     八 蘭

 僕は時々狭い庭を歩き、父の真似《まね》をして雑草を抜いた。実際庭は水場だけにいろいろの草を生じやすかった。僕はある時|冬青《もち》の木の下に細い一本の草を見つけ、早速それを抜きすててしまった。僕の所業を知った父は「せっかくの蘭《らん》を抜かれた」と何度も母にこぼしていた。が、格別、そのために叱《しか》られたという記憶は持っていない。蘭はどこでも石の間に特に一、二|茎《けい》植えたものだった。

     九 夢中遊行

 僕はそのころも今のように体《からだ》の弱い子供だった。ことに便秘《べんぴ》しさえすれば、必ずひきつける子供だった。僕の記憶に残っているのは僕が最後にひきつけた九歳の時のことである。僕は熱もあったから、床の中に横たわったまま、伯母《おば》の髪を結うのを眺《なが》めていた。そのうちにいつかひきつけたとみえ、寂しい海辺《うみべ》を歩いていた。そのまた海辺には人間よりも化け物に近い女が一人、腰巻き一つになったなり、身投げをするために合掌していた。それは「妙々車《みょうみょうぐるま》」という草双紙《くさぞうし》の中の插画《さしえ》だったらしい。この夢うつつの中の景色だけはいまだにはっきりと覚えている。正気になった時のことは覚えていない。

     一〇 「つうや」

 僕がいちばん親しんだのは「てつ」ののちにいた「つる」である。僕の家《うち》はそのころから経済状態が悪くなったとみえ、女中もこの「つる」一人ぎりだった。僕は「つる」のことを「つうや」と呼んだ。「つうや」はあたりまえの女よりもロマンティック趣味に富んでいたのであろう。僕の母の話によれば、法界節《ほうかいぶし》が二、三人|編《あ》み笠《がさ》をかぶって通るのを見ても「敵討《かたきう》ちでしょうか?」と尋ねたそうである。

     一一 郵便箱

 僕の家《うち》の門の側《そば》には郵便箱が一つとりつけてあった。母や伯母《おば》は日の暮れになると、かわるがわる門の側へ行き、この小さい郵便箱の口から往来の人通りを眺《なが》めたものである。封建時代らしい女の気もちは明治三十二、三年ころにもまだかすかに残っていたであろう。僕はまたこういう時に「さあ、もう雀色時《すずめいろどき》になったから」と母の言ったのを覚えている。雀色時という言葉はそのころの僕にも好きな言葉だった。

     一二 灸

 僕は何かいたずらをすると、必ず伯母《おば》につかまっては足の小指に灸《きゅう》をすえられた。僕に最も怖《おそ》ろしかったのは灸の熱さそれ自身よりも灸をすえられるということである。僕は手足をばたばたさせながら「かちかち山だよう。ぼうぼう山だよう」と怒鳴ったりした。これはもちろん火がつくところから自然と連想《れんそう》を生じたのであろう。

     一三 剥製の雉

 僕の家《うち》へ来る人々の中に「お市さん」という人があった。これは代地《だいち》かどこかにいた柳派の「五《ご》りん」のお上《かみ》さんだった。僕はこの「お市さん」にいろいろの画本《えほん》や玩具《おもちゃ》などを貰《もら》った。その中でも僕を喜ばせたのは大きい剥製《はくせい》の雉《きじ》である。
 僕は小学校を卒業する時、その尾羽根の切れかかった雉を寄附していったように覚えている。が、それは確かではない。ただいまだにおかしいのは雉の剥製を貰った時、父が僕に言った言葉である。
「昔、うちの隣にいた××××(この名前は覚えていない)という人はちょうど元日のしらしら明けの空を白い鳳凰《ほうおう》がたった一羽、中洲《なかず》の方へ飛んで行くのを見たことがあると言っていたよ。もっともでたらめを言う人だったがね」

     一四 幽霊

 僕は小学校へはいっていたころ、どこの長唄《ながうた》の女師匠は亭主の怨霊《おんりょう》にとりつかれているとか、ここの仕事師のお婆《ばあ》さんは嫁の幽霊に責められているとか、いろいろの怪談を聞かせられた。それをまた僕に聞かせたのは僕の祖父の代に女中をしていた「おてつさん」という婆さんである。僕はそんな話のためか、夢とも現《うつつ》ともつかぬ境にいろいろの幽霊に襲われがちだった。しかもそれらの幽霊はたいていは「おてつさん」の顔をしていた。

     一五 馬車

 僕が小学校へはいらぬ前、小さい馬車を驢馬《ろば》に牽《ひ》かせ、そのまた馬車に子供を乗せて、町内をまわる爺《じい》さんがあった。僕はこの小さい馬車に乗って、お竹倉や何かを通りたかった。しかし僕の守《も》りをした「つうや」はなぜかそれを許さなかった。あるいは僕だけ馬車へ乗せるのを危険にでも思ったためかもしれない。けれども青い幌《ほろ》を張った、玩具《おもちゃ》よりもわずかに大きい馬車が小刻みにことこと歩いているのは幼目にもハイカラに見えたものである。

     一六 水屋

 そのころはまた本所《ほんじょ》も井戸の水を使っていた。が、特に飲用水だけは水屋の水を使っていた。僕はいまだに目に見えるように、顔の赤い水屋の爺《じい》さんが水桶《みずおけ》の水を水甕《みずがめ》の中へぶちまける姿を覚えている。そう言えばこの「水屋さん」も夢現《ゆめうつつ》の境に現われてくる幽霊の中の一人だった。

     一七 幼稚園

 僕は幼稚園へ通いだした。幼稚園は名高い回向院《えこういん》の隣の江東小学校の附属である。この幼稚園の庭の隅《すみ》には大きい銀杏《いちょう》が一本あった。僕はいつもその落葉を拾い、本の中に挾《はさ》んだのを覚えている。それからまたある円顔《まるがお》の女生徒が好きになったのも覚えている。ただいかにも不思議なのは今になって考えてみると、なぜ彼女を好きになったか、僕自身にもはっきりしない。しかしその人の顔や名前はいまだに記憶に残っている。僕はつい去年の秋、幼稚園時代の友だちに遇《あ》い、そのころのことを話し合った末、「先方でも覚えているかしら」と言った。
「そりゃ覚えていないだろう」
 僕はこの言葉を聞いた時、かすかに寂しい心もちがした。その人は少女に似合わない、萩《はぎ》や芒《すすき》に露の玉を散らした、袖《そで》の長い着物を着ていたものである。

     一八 相撲

 相撲《すもう》もまた土地がらだけに大勢近所に住まっていた。現に僕の家《うち》の裏の向こうは年寄りの峯岸《みねぎし》の家だったものである。僕の小学校にいた時代はちょうど常陸山《ひたちやま》や梅ヶ谷の全盛を極《きわ》めた時代だった。僕は荒岩亀之助が常陸山を破ったため、大評判になったのを覚えている。いったいひとり荒岩に限らず、国見山でも逆鉾《さかほこ》でもどこか錦絵《にしきえ》の相撲に近い、男ぶりの人に優《すぐ》れた相撲はことごとく僕の贔屓《ひいき》だった。しかし相撲というものは何か僕にはばくぜんとした反感に近いものを与えやすかった。それは僕が人並みよりも体《からだ》が弱かったためかもしれない。また平生見かける相撲が――髪を藁束《わらたば》ねにした褌《ふんどし》かつぎが相撲膏《すもうこう》を貼《は》っていたためかもしれない。

     一九 宇治紫山

 僕の一家は宇治紫山《うじしざん》という人に一中節《いっちゅうぶし》を習っていた。この人は酒だの遊芸だのにお蔵前の札差しの身上《しんしょう》をすっかり費やしてしまったらしい。僕はこの「お師匠さん」の酒の上の悪かったのを覚えている。また小さい借家にいても、二、三坪の庭に植木屋を入れ、冬などは実を持った青木の下に枯れ松葉を敷かせたのを覚えている。
 この「お師匠さん」は長命だった。なんでも晩年|味噌《みそ》を買いに行き、雪上がりの往来で転んだ時にも、やっと家《うち》へ帰ってくると、「それでもまあ褌《ふんどし》だけ新しくってよかった」と言ったそうである。

     二〇 学問

 僕は小学校へはいった時から、この「お師匠さん」の一人|息子《むすこ》に英語と漢文と習字とを習った。が、どれも進歩しなかった。ただ英語はTやDの発音を覚えたくらいである。それでも僕は夜になると、ナショナル・リイダアや日本外史をかかえ、せっせと相生町《あいおいちょう》二丁目の「お師匠さん」の家へ通って行った。It is a dog――ナショナル・リイダアの最初の一行はたぶんこういう文章だったであろう。しかしそれよりはっきりと僕の記憶に残っているのは、何かの拍子に「お師匠さん」の言った「誰《だれ》とかさんもこのごろじゃ身なりが山水《さんすい》だな」という言葉である。

     二一 活動写真

 僕がはじめて活動写真を見たのは五つか六つの時だったであろう。僕は確か父といっしょにそういう珍しいものを見物した大川端《おおかわばた》の二州楼へ行った。活動写真は今のように大きい幕に映るのではない。少なくとも画面の大きさはやっと六尺に四尺くらいである。それから写真の話もまた今のように複雑ではない。僕はその晩の写真のうちに魚を釣《つ》っていた男が一人、大きい魚が針にかかったため、水の中へまっさかさまにひき落とされる画面を覚えている。その男はなんでも麦藁帽《むぎわらぼう》をかぶり、風立った柳や芦《あし》を後ろに長い釣竿《つりざお》を手にしていた。僕は不思議にその男の顔がネルソンに近かったような気がしている。が、それはことによると、僕の記憶の間違いかもしれない。

     二二 川開き

 やはりこの二州楼の桟敷《さじき》に川開きを見ていた時である。大川はもちろん鬼灯提灯《ほおずきぢょうちん》を吊《つ》った無数の船に埋《うず》まっていた。するとその大川の上にどっと何かの雪崩《なだ》れる音がした。僕のまわりにいた客の中には亀清《かめせい》の桟敷が落ちたとか、中村楼の桟敷が落ちたとか、いろいろの噂《うわさ》が伝わりだした。しかし事実は木橋《もっきょう》だった両国橋の欄干が折れ、大勢の人々の落ちた音だった。僕はのちにこの椿事《ちんじ》を幻灯か何かに映したのを見たこともあるように覚えている。

     二三 ダアク一座

 僕は当時|回向院《えこういん》の境内にいろいろの見世物を見たものである。風船乗り、大蛇《だいじゃ》、鬼の首、なんとか言う西洋人が非常に高い桿《さお》の上からとんぼ[#「とんぼ」に傍点]を切って落ちて見せるもの、――数え立てていれば際限はない。しかしいちばんおもしろかったのはダアク一座の操《あやつ》り人形である。その中でもまたおもしろかったのは道化《どうけ》た西洋の無頼漢が二人、化けもの屋敷に泊まる場面である。彼らの一人は相手の名前をいつもカリフラと称していた。僕はいまだに花キャベツを食うたびに必ずこの「カリフラ」を思い出すのである。

     二四 中洲

 当時の中洲《なかず》は言葉どおり、芦《あし》の茂ったデルタアだった。僕はその芦の中に流れ灌頂《かんじょう》や馬の骨を見、気味悪がったことを覚えている。それから小学校の先輩に「これはアシかヨシか?」と聞かれて当惑したことも覚えている。

     二五 寿座

 本所《ほんじょ》の寿座ができたのもやはりそのころのことだった。僕はある日の暮れがた、ある小学校の先輩と元町通りを眺《なが》めていた。すると亜鉛《トタン》の海鼠板《なまこいた》を積んだ荷車が何台も通って行った。
「あれはどこへ行く?」
 僕の先輩はこう言った。が、僕はどこへ行くか見当も何もつかなかった。
「寿座! じゃあの荷車に積んであるのは?」
 僕は今度は勢い好《よ》く言った。
「ブリッキ!」
 しかしそれはいたずらに先輩の冷笑を買うだけだった。
「ブリッキ? あれはトタンというものだ」
 僕はこういう問答のため、妙に悄気《しょげ》たことを覚えている。その先輩は中学を出たのち、たちまち肺を犯されて故人になったとかいうことだった。

     二六 いじめっ子

 幼稚園にはいっていた僕はほとんど誰《だれ》にもいじめられなかった。もっとも本間《ほんま》の徳ちゃんにはたびたび泣かされたものである。しかしそれは喧嘩《けんか》の上だった。したがって僕も三度に一度は徳ちゃんを泣かせた記憶を持っている。徳ちゃんは確か総武鉄道の社長か何かの次男に生まれた、負けぬ気の強い餓鬼大将だった。
 しかし小学校へはいるが早いか僕はたちまち世間に多い「いじめっ子」というものにめぐり合った。「いじめっ子」は杉浦誉四郎である。これは僕の隣席にいたから何か口実を拵《こしら》えてはたびたび僕をつねったりした。おまけに杉浦の家の前を通ると狼《おおかみ》に似た犬をけしかけたりもした。(これは今日考えてみれば Greyhound という犬だったであろう)僕はこの犬に追いつめられたあげく、とうとうある畳屋の店へ飛び上がってしまったのを覚えている。
 僕は今漫然と「いじめっ子」の心理を考えている。あれは少年に現われたサアド型性欲ではないであろうか? 杉浦は僕のクラスの中でも最も白※[#「皙」の「白」に代えて「日」、第3水準1-85-31]《はくせき》の少年だった。のみならずある名高い富豪の妾腹にできた少年だった。

     二七 画

 僕は幼稚園にはいっていたころには海軍将校になるつもりだった。が、小学校へはいったころからいつか画家志願に変っていた。僕の叔母《おば》は狩野勝玉《かのうしょうぎょく》という芳崖《ほうがい》の乙弟子《おとでし》に縁づいていた。僕の叔父《おじ》もまた裁判官だった雨谷《うこく》に南画を学んでいた。しかし僕のなりたかったのはナポレオンの肖像だのライオンだのを描《か》く洋画家だった。
 僕が当時買い集めた西洋名画の写真版はいまだに何枚か残っている。僕は近ごろ何かのついでにそれらの写真版に目を通した。するとそれらの一枚は、樹下に金髪の美人を立たせたウイスキイの会社の広告画だった。

     二八 水泳

 僕の水泳を習ったのは日本水泳協会だった。水泳協会に通ったのは作家の中では僕ばかりではない。永井荷風《ながいかふう》氏や谷崎《たにざき》潤一郎氏もやはりそこへ通ったはずである。当時は水泳協会も芦《あし》の茂った中洲《なかず》から安田の屋敷前へ移っていた。僕はそこへ二、三人の同級の友達と通って行った。清水昌彦《しみずまさひこ》もその一人だった。
「僕は誰《だれ》にもわかるまいと思って水の中でウンコをしたら、すぐに浮いたんでびっくりしてしまった。ウンコは水よりも軽いもんなんだね」
 こういうことを話した清水も海軍将校になったのち、一昨年《おととし》(大正十三年)の春に故人になった。僕はその二、三週間前に転地先の三島からよこした清水の手紙を覚えている。
「これは僕の君に上げる最後の手紙になるだろうと思う。僕は喉頭《こうとう》結核の上に腸結核も併発している。妻は僕と同じ病気に罹《かか》り僕よりも先に死んでしまった。あとには今年《ことし》五つになる女の子が一人残っている。……まずは生前のご挨拶《あいさつ》まで」
 僕は返事のペンを執りながら、春寒《はるさむ》の三島の海を思い、なんとかいう発句を書いたりした。今はもう発句は覚えていない。しかし「喉頭結核でも絶望するには当たらぬ」などという気休めを並べたことだけはいまだにはっきりと覚えている。

     二九 体刑

 僕の小学校にいたころには体刑も決して珍しくはなかった。それも横顔を張りつけるくらいではない。胸ぐらをとって小突きまわしたり、床の上へ突き倒したりしたものである。僕も一度は擲《なぐ》られた上、習字のお双紙をさし上げたまま、半時間も立たされていたことがあった。こういう時に擲られるのは格別痛みを感ずるものではない。しかし、大勢の生徒の前に立たされているのはせつないものである。僕はいつかイタリアのファッショは社会主義にヒマシユを飲ませ、腹下しを起こさせるという話を聞き、たちまち薄汚《うすぎたな》いベンチの上に立った僕自身の姿を思い出したりした。のみならずファッショの刑罰もあるいは存外当人には残酷ではないかと考えたりした。

     三〇 大水

 僕は大水にもたびたび出合った。が、幸いどの大水も床の上へ来たことは一度もなかった。僕は母や伯母《おば》などが濁り水の中に二尺指《にしゃくざ》しを立てて、一分《いちぶ》殖《ふ》えたの二分殖えたのと騒いでいたのを覚えている。それから夜は目を覚《さ》ますと、絶えずどこかの半鐘が鳴りつづけていたのを覚えている。

     三一 答案

 確か小学校の二、三年生のころ、僕らの先生は僕らの机に耳の青い藁半紙《わらばんし》を配り、それへ「かわいと思うもの」と「美しいと思うもの」とを書けと言った。僕は象を「かわいと思うもの」にし、雲を「美しいと思うもの」にした。それは僕には真実だった。が、僕の答案はあいにく先生には気に入らなかった。
「雲などはどこが美しい? 象もただ大きいばかりじゃないか?」
 先生はこうたしなめたのち、僕の答案へ×印をつけた。

     三二 加藤清正

 加藤清正《かとうきよまさ》は相生町《あいおいちょう》二丁目の横町に住んでいた。と言ってももちろん鎧武者《よろいむしゃ》ではない。ごく小さい桶屋《おけや》だった。しかし主人は標札によれば、加藤清正に違いなかった。のみならずまだ新しい紺暖簾《こんのれん》の紋も蛇《じゃ》の目《め》だった。僕らは時々この店へ主人の清正を覗《のぞ》きに行った。清正は短い顋髯《あごひげ》を生《は》やし、金槌《かなづち》や鉋《かんな》を使っていた。けれども何か僕らには偉そうに思われてしかたがなかった。

     三三 七不思議

 そのころはどの家もランプだった。したがってどの町も薄暗かった。こういう町は明治とは言い条、まだ「本所《ほんじょ》の七不思議」とは全然縁のないわけではなかった。現に僕は夜学の帰りに元町通りを歩きながら、お竹倉の藪《やぶ》の向こうの莫迦囃《ばかばや》しを聞いたのを覚えている。それは石原か横網かにお祭りのあった囃しだったかもしれない。しかし僕は二百年来の狸《たぬき》の莫迦囃しではないかと思い、一刻も早く家へ帰るようにせっせと足を早めたものだった。

     三四 動員令

 僕は例の夜学の帰りに本所《ほんじょ》警察署の前を通った。警察署の前にはいつもと変わり、高張り提灯《ぢょうちん》が一対ともしてあった。僕は妙に思いながら、父や母にそのことを話した。が、誰《だれ》も驚かなかった。それは僕の留守《るす》の間に「動員令発せらる」という号外が家《うち》にも来ていたからだった。僕はもちろん日露戦役に関するいろいろの小事件を記憶している。が、この一対の高張り提灯ほど鮮《あざや》かに覚えているものはない。いや、僕は今日でも高張り提灯を見るたびに婚礼や何かを想像するよりもまず戦争を思い出すのである。

     三五 久井田卯之助

 久井田《ひさいだ》という文字は違っているかもしれない。僕はただ彼のことをヒサイダさんと称していた。彼は僕の実家にいる牛乳配達の一人だった。同時にまた今日ほどたくさんいない社会主義者の一人だった。僕はこのヒサイダさんに社会主義の信条を教えてもらった。それは僕の血肉には幸か不幸か滲《し》み入らなかった。が、日露戦争中の非戦論者に悪意を持たなかったのは確かにヒサイダさんの影響だった。
 ヒサイダさんは五、六年前に突然僕を訪問した。僕が彼と大人《おとな》同士の社会主義論をしたのはこの時だけである。(彼はそれから何か月もたたずに天城山《あまぎさん》の雪中に凍死してしまった)しかし僕は社会主義論よりも彼の獄中生活などに興味を持たずにはいられなかった。
「夏目さんの『行人《こうじん》』の中に和歌の浦へ行った男と女とがとうとう飯を食う気にならずに膳《ぜん》を下げさせるところがあるでしょう。あすこを牢《ろう》の中で読んだ時にはしみじみもったいないと思いましたよ」
 彼は人懐《ひとなつこ》い笑顔《えがお》をしながら、そんなことも話していったものだった。

     三六 火花

 やはりそのころの雨上がりの日の暮れ、僕は馬車通りの砂利道を一隊の歩兵の通るのに出合った。歩兵は銃を肩にしたまま、黙って進行をつづけていた。が、その靴《くつ》は砂利と擦《す》れるたびに時々火花を発していた。僕はこのかすかな火花に何か悲壮な心もちを感じた。
 それから何年かたったのち、僕は白柳《しらやなぎ》秀湖氏の「離愁」とかいう小品集を読み、やはり歩兵の靴から出る火花を書いたものを発見した。(僕に白柳秀湖氏や上司《かみつかさ》小剣氏の名を教えたものもあるいはヒサイダさんだったかもしれない)それはまだ中学生の僕には僕自身同じことを見ていたせいか、感銘の深いものに違いなかった。僕はこの文章から同氏の本を読むようになり、いつかロシヤの文学者の名前を、――ことにトゥルゲネフの名前を覚えるようになった。それらの小品集はどこへ行ったか、今はもう本屋でも見かけたことはない。しかし僕は同氏の文章にいまだに愛惜を感じている。ことに東京の空を罩《こ》める「鳶色《とびいろ》の靄《もや》」などという言葉に。

     三七 日本海海戦

 僕らは皆日本海海戦の勝敗を日本の一大事と信じていた。が、「今日晴朗なれども浪《なみ》高し」の号外は出ても、勝敗は容易にわからなかった。するとある日の午飯《ひるめし》の時間に僕の組の先生が一人、号外を持って教室へかけこみ、「おい、みんな喜べ。大勝利だぞ」と声をかけた。この時の僕らの感激は確かにまた国民的だったのであろう。僕は中学を卒業しない前に国木田独歩の作品を読み、なんでも「電報」とかいう短篇にやはりこういう感激を描いてあるのを発見した。
「皇国の興廃この一挙にあり」云々《うんぬん》の信号を掲げたということはおそらくはいかなる戦争文学よりもいっそう詩的な出来事だったであろう。しかし僕は十年ののち、海軍機関学校の理髪師に頭を刈ってもらいながら、彼もまた日露の戦役に「朝日」の水兵だった関係上、日本海海戦の話をした。すると彼はにこりともせず、きわめてむぞうさにこう言うのだった。
「なに、あの信号は始終でしたよ。それは号外にも出ていたのは日本海海戦の時だけですが」

     三八 柔術

 僕は中学で柔術を習った。それからまた浜町河岸《はまちょうがし》の大竹という道場へもやはり寒稽古《かんげいこ》などに通ったものである。中学で習った柔術は何流だったか覚えていない。が、大竹の柔術は確か天真揚心流だった。僕は中学の仕合いへ出た時、相手の稽古着へ手をかけるが早いか、たちまちみごとな巴投《ともえな》げを食い、向こう側に控えた生徒たちの前へ坐《すわ》っていたことを覚えている。当時の僕の柔道友だちは西川英次郎一人だった。西川は今は鳥取《とっとり》の農林学校か何かの教授をしている。僕はそののちも秀才と呼ばれる何人かの人々に接してきた。が、僕を驚かせた最初の秀才は西川だった。

     三九 西川英次郎

 西川は渾名《あだな》をライオンと言った。それは顔がどことなしにライオンに似ていたためである。僕は西川と同級だったために少なからず啓発を受けた。中学の四年か五年の時に英訳の「猟人日記」だの「サッフォオ」だのを読みかじったのは、西川なしにはできなかったであろう。が、僕は西川には何も報いることはできなかった。もし何か報いたとすれば、それはただ足がらをすくって西川を泣かせたことだけであろう。
 僕はまた西川といっしょに夏休みなどには旅行した。西川は僕よりも裕福だったらしい。しかし僕らは大旅行をしても、旅費は二十円を越えたことはなかった。僕はやはり西川といっしょに中里介山氏の「大菩薩峠《だいぼさつとうげ》」に近い丹波山という寒村に泊まり、一等三十五銭という宿賃を払ったのを覚えている。しかしその宿は清潔でもあり、食事も玉子焼などを添えてあった。
 たぶんまだ残雪の深い赤城山へ登った時であろう。西川はこごみかげんに歩きながら、急に僕にこんなことを言った。
「君は両親に死なれたら、悲しいとかなんとか思うかい?」
 僕はちょっと考えたのち、「悲しいと思う」と返事をした。
「僕は悲しいとは思わない。君は創作をやるつもりなんだから、そういう人間もいるということを知っておくほうがいいかもしれない」
 しかし僕はその時分にはまだ作家になろうという志望などを持っていたわけではなかった。それをなぜそう言われたかはいまだに僕には不可解である。

     四〇 勉強

 僕は僕の中学時代はもちろん、復習というものをしたことはなかった。しかし試験勉強はたびたびした。試験の当日にはどの生徒も運動場でも本を読んだりしている。僕はそれを見るたびに「僕ももっと勉強すればよかった」という後悔を伴った不安を感じた。が、試験場を出るが早いか、そんなことはけろりと忘れていた。

     四一 金

 僕は一円の金を貰《もら》い、本屋へ本を買いに出かけると、なぜか一円の本を買ったことはなかった。しかし一円出しさえすれば、僕が欲《ほ》しいと思う本は手にはいるのに違いなかった。僕はたびたび七十銭か八十銭の本を持ってきたのち、その本を買ったことを後悔していた。それはもちろん本ばかりではなかった。僕はこの心もちの中に中産下層階級を感じている。今日でも中産下層階級の子弟は何か買いものをするたびにやはり一円持っているものの、一円をすっかり使うことに逡巡《しゅんじゅん》してはいないであろうか?

     四二 虚栄心

 ある冬に近い日の暮れ、僕は元町通りを歩きながら、突然往来の人々が全然僕を顧みないのを感じた。同時にまた妙に寂しさを感じた。しかし格別「今に見ろ」という勇気の起こることは感じなかった。薄い藍色に澄み渡った空には幾つかの星も輝いていた。僕はこれらの星を見ながら、できるだけ威張って歩いて行った。

     四三 発火演習

 僕らの中学は秋になると、発火演習を行なったばかりか、東京のある聯隊《れんたい》の機動演習にも参加したものである。体操の教官――ある陸軍大尉はいつも僕らには厳然としていた。が、実際の機動演習になると、時々命令に間違いを生じ、おお声に上官に叱《しか》られたりしていた。僕はいつもこの教官に同情したことを覚えている。

     四四 渾名

 あらゆる東京の中学生が教師につける渾名《あだな》ほど刻薄に真実に迫るものはない。僕はあいにく今日ではそれらの渾名を忘れている。が、今から四、五年前、僕の従姉《いとこ》の子供が一人、僕の家《うち》へ遊びに来た時、ある中学の先生のことを「マッポンがどうして」などと話していた。僕はもちろん「マッポン」とはなんのことかと質問した。
「どういうことも何もありませんよ。ただその先生の顔を見ると、マッポンという気もちがするだけですよ」
 僕はそれからしばらくののち、この中学生と電車に乗り、偶然その先生の風※[#「蚌のつくり」、第3水準1-14-6]《ふうぼう》に接した。するとそれは、――僕もやはり文章ではとうてい真実を伝えることはできない。つまりそれは渾名どおり、正《まさ》に「マッポン」という感じだった。
[#地から2字上げ](大正十五年三月―昭和二年一月)



底本:「河童・玄鶴山房」角川文庫、角川書店
   1969(昭和44)年11月30日改版初版発行
   1979(昭和54)年9月20日改版14版発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:一色伸子
校正:小林繁雄
2001年1月29日公開
2004年3月16日修正
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