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恋愛と夫婦愛とを混同しては不可ぬ
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)不幸を齎《もたら》す

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(例)あつさり[#「あつさり」に傍点]
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 媒酌結婚で結構です

 媒酌結婚と自由結婚との得失といふことは、結局、この二種の結婚様式が結婚後の生活の上に、如何なる幸福を導き出し、如何なる不幸を齎《もたら》すかといふことのやうに解せられる。併《しか》し結婚生活の幸福とは果して如何なることを意味するであらうか、それも考へなければならぬ。太く短く楽しむのか、細く長く楽しむのか、それとも又た夫婦間に衝突のある生活なのか、俄《には》かに決定することの出来ない問題である。又た恋愛といふもの、昔の人達の考へたやうな清浄高潔な恋愛といふものが、世の中にあるだらうか否かといふことについても、私は疑ひを懐いてゐるものである。
 実際に於て、さういふ生活があり得るか否かは別問題として、一般の人たちが考へるやうに、太く長く且《か》つ平和に楽しめる夫婦生活といふものを、理想とし幸福として考へるならば、聡明な男女には自由結婚が適して居り、聡明でない男女には媒酌結婚が適してゐると私は言ひたい。併し聡明といふことと、青年といふことは、多くの場合一致しないものである。だから大抵の場合、媒酌結婚で結構だと思ふ。

 ホリデイ・ラブ

 右は大体について言うたのであるが、無知な大人が媒酌する結婚は、聡明でない青年男女が自由結婚をするのよりも遥かに危険である。ここに無知といふのは、理解といふ言葉の意味を広義に解釈したときの無理解といふことである。即《すなは》ち現在二人が如何なる人生観を有つてゐるか、それが将来如何に変化してゆくだらうかといふ点まで考へないことである。結婚が人生の大きな時期《エポツク》を作るものであることは申すまでもない。結婚前の人物や思想といふものは、結婚によつて変ることが多く、結婚前の愛は結婚と同時になくなる、少くも変形するものである。
 結婚後、湧いてくる新しい夫婦愛といふものは、人生の好伴侶として配偶者を見る愛であつて、結婚前の恋愛とは別箇のものである。私は愛の恒久性や純潔さを疑ふ。愛の変化消滅といふことについては厭世的である。恋愛の陶酔といふものが永続するとは考へられない。結婚して幻滅の悲哀を感ずるとは、よく聞くところであるが、結婚のみならず人生は総て幻滅の連続であらうと思ふ。結婚前の陶酔した恋愛とても、その過程《プロセス》の中には幾多の幻滅があるし、結婚後の永い生活の間にも屡々幻滅を感ずる。幻滅のない恒久性の愛といふものは考へられない。この点から私はホリデイラヴ、即ち一週間に一度の恋愛を主張する。
 又、結婚後に幻滅を感じたら、その上、不愉快な生活を続けるよりも離婚したらよい。商事契約に於て、解約すれば権利も義務もなくなり全然無関係となるやうな具合に、結婚や離婚に対しても、もつとあつさり[#「あつさり」に傍点]考へたい。離婚や再婚を罪悪視するのは余りにこだは[#「こだは」に傍点]つた考へ方であると思ふ。況《いは》んや見合ひなどした際、どちらか一方が幻滅を感じたにも拘らず、当座の義理や体裁から、これを有耶無耶《うやむや》に葬つて結婚するなどに至つては笑止の極《きはみ》であると思ふ。

 媒酌と自由との調和

 いかに自分は仁慈《じんじ》の君主であるか、いかに自分は天意を受けて君主の寵位に在るものであるかを、どうして国民に知らしめようかしらと苦心した帝王が東洋の昔にも西洋の昔にも沢山あるが、これと同じやうに親子、夫婦の間には虚偽の生活、瞞着《まんちやく》し合ふ生活が少くない。子供たちが恋仲になり、続いて結婚しようとする所謂《いはゆる》自由結婚と信じてゐるものゝ中《うち》に、あらゆる媒酌結婚の長所を取入れさせるだけの用意を持つてゐない親達は馬鹿であると共に、自分たちの恋愛結婚を、形式上媒酌人は立てゝもいゝから、父母を始として周囲の人たちの眼に、立派な結婚らしく映らせることの出来ない子供達、言葉を換へて云ふなら、親達が正式の結婚と信じてゐるものゝ中に、あらゆる自由結婚の長所を含ませるだけの働のない子供達は、これ亦《ま》た聡明を欠いてゐるといはなければならぬ。この点について、しつかりした考へを持つてゐる親子が揃ふと理想的の親子といへる。又かういふ親子ばかりだと、世の中は平和に面白く行くわけなんだが、事実かゝる怜悧《りこう》な親達も子供達も少いものである。
 英国のハンキングの戯曲中に次のやうなのがあつた。或る財産家の息子が、小間使《パーラーメイド》だつたと記憶してゐるが。兎に角一人の田舎者《ラスチツク》の少女と恋に陥つたところ、母親は別に何とも言はないで、その少女と婚約さす、さうしておいて、花やかな社交界に二人をドシドシと出入させた。賑やかな交際社会へ入つてみると、今まで綺麗だと思つてゐた田舎者の少女も、美しい令嬢、夫人たちに伍すると非常に見劣りがして、その上、礼儀、作法、人品、言葉遣ひなど種々の点で、これでは結婚後不便だらうと思はれるやうなあら[#「あら」に傍点]が沢山眼に見えてきたので、息子の方から破約を申出たといふのである。これを読んだときは、惨酷な手段を取つたものだなあと思つたが、よく考へてみると、その結果は息子のためにも少女のためにも、又周囲の人達の為にも、幸福――当座は不幸であつたかも知れないにしても――であつたに違ひない。ブルの婆々め非道いことやつたなとも考へられないではないが、兎に角、これだけの用意を心に持つた親といふものは滅多にないものである。

 恋愛を余り高調するな

 今の若い人達は余り恋愛といふものを高調し過ぎる。恋愛に関して非常に感傷的《センチメンタル》になつてゐると私には思はれる。婦人が殊に甚しいやうである。尤《もつと》も男子のやうな社会的生活をすることが少いから、婦人に於ける性の意義は男子のそれよりも重く、それだけに婦人が当然の帰結として恋愛を高調するのかも知れないが、実に馬鹿げたことである。恋愛といふものはそんなに高潔であり恒久永続するものではなくて、互に『変るまいぞや』『変るまい』と契つた仲でも、常に幾多の紆余曲折《うよきよくせつ》があり幻滅が伴ふものである。だから私は先に言うたやうにホリデーラヴを主張するのである。よしんば其の恋愛が途中の支障がなく、順調に芽を育まれて行つたにしても、結婚によつて、それは消滅し又は全く形を変へてしまふのである。
 自由結婚にしても媒酌結婚にしても、結婚生活といふものは幻滅であつて、或る意味に於て凡ての結婚といふものは、決して幸福なものではないと思ふ。



底本:「芥川龍之介全集 第十一巻」岩波書店
   1996(平成8)年9月9日発行
入力:もりみつじゅんじ
校正:綾小路毅
2002年4月30日作成
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