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お富の貞操
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)午《ひる》過ぎだつた
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(例)上野|界隈《かいわい》
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(例)※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々《そうそう》
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一
明治元年五月十四日の午《ひる》過ぎだつた。「官軍は明日夜の明け次第、東叡山彰義隊を攻撃する。上野|界隈《かいわい》の町家のものは※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々《そうそう》何処《どこ》へでも立ち退《の》いてしまへ。」――さう云ふ達しのあつた午過ぎだつた。下谷町《したやまち》二丁目の小間物店、古河屋政兵衛《こがやせいべゑ》の立ち退いた跡には、台所の隅の蚫貝《あはびがひ》の前に大きい牡の三毛猫が一匹静かに香箱《かうばこ》をつくつてゐた。
戸をしめ切つた家の中は勿論午過ぎでもまつ暗だつた。人音《ひとおと》も全然聞えなかつた。唯耳にはひるものは連日の雨の音ばかりだつた。雨は見えない屋根の上へ時々急に降り注いでは、何時《いつ》か又中空へ遠のいて行つた。猫はその音の高まる度に、琥珀《こはく》色の眼をまん円《まる》にした。竈《かまど》さへわからない台所にも、この時だけは無気味な燐光が見えた。が、ざあつと云ふ雨音以外に何も変化のない事を知ると、猫はやはり身動きもせずもう一度眼を糸のやうにした。
そんな事が何度か繰り返される内に、猫はとうとう眠つたのか、眼を明ける事もしなくなつた。しかし雨は不相変《あひかはらず》急になつたり静まつたりした。八つ、八つ半、――時はこの雨音の中にだんだん日の暮へ移つて行つた。
すると七つに迫つた時、猫は何かに驚いたやうに突然眼を大きくした。同時に耳も立てたらしかつた。が、雨は今までよりも遙かに小降りになつてゐた。往来を馳《は》せ過ぎる駕籠舁《かごか》きの声、――その外には何も聞えなかつた。しかし数秒の沈黙の後、まつ暗だつた台所は何時の間にかぼんやり明るみ始めた。狭い板の間を塞《ふさ》いだ竈、蓋《ふた》のない水瓶《みづがめ》の水光り、荒神《くわうじん》の松、引き窓の綱、――そんな物も順々に見えるやうになつた。猫は愈《いよいよ》不安さうに、戸の明いた水口《みづぐち》を睨《にら》みながら、のそりと大きい体を起した。
この時この水口の戸を開いたのは、いや戸を開いたばかりではない、腰障子もしまひに明けたのは、濡れ鼠になつた乞食だつた。彼は古い手拭をかぶつた首だけ前へ伸ばしたなり、少時《しばらく》は静かな家のけはひにぢつと耳を澄ませてゐた。が、人音のないのを見定めると、これだけは真新しい酒筵《さかむしろ》に鮮かな濡れ色を見せた儘、そつと台所へ上つて来た。猫は耳を平《ひら》めながら、二足三足跡ずさりをした。しかし乞食は驚きもせず後手《うしろで》に障子をしめてから、徐《おもむ》ろに顔の手拭をとつた。顔は髭《ひげ》に埋まつた上、膏薬も二三個所貼つてあつた。しかし垢《あか》にはまみれてゐても、眼鼻立ちは寧《むし》ろ尋常だつた。
「三毛。三毛。」
乞食は髪の水を切つたり、顔の滴《しづく》を拭つたりしながら、小声に猫の名前を呼んだ。猫はその声に聞き覚えがあるのか、平めてゐた耳をもとに戻した。が、まだ其処《そこ》に佇《たたず》んだなり、時々はじろじろ彼の顔へ疑深い眼を注いでゐた。その間に酒筵を脱いだ乞食は脛《すね》の色も見えない泥足の儘、猫の前へどつかりあぐらをかいた。
「三毛公。どうした?――誰もゐない所を見ると、貴様だけ置き去りを食はされたな。」
乞食は独り笑ひながら、大きい手に猫の頭を撫でた。猫はちよいと逃げ腰になつた。が、それぎり飛び退《の》きもせず、反《かへ》つて其処へ坐つたなり、だんだん眼さへ細め出した。乞食は猫を撫でやめると、今度は古|湯帷子《ゆかた》の懐から、油光りのする短銃を出した。さうして覚束《おぼつか》ない薄明りの中に、引き金の具合を検《しら》べ出した。「いくさ」の空気の漂つた、人気のない家の台所に短銃をいぢつてゐる一人の乞食――それは確に小説じみた、物珍らしい光景に違ひなかつた。しかし薄眼になつた猫はやはり背中を円《まる》くした儘、一切の秘密を知つてゐるやうに、冷然と坐つてゐるばかりだつた。
「明日になるとな、三毛公、この界隈《かいわい》へも雨のやうに鉄砲の玉が降つて来るぞ。そいつに中《あた》ると死んじまふから、明日はどんな騒ぎがあつても、一日縁の下に隠れてゐろよ。……」
乞食は短銃を検《しら》べながら、時々猫に話しかけた。
「お前とも永い御馴染《おなじみ》だな。が、今日が御別れだぞ。明日はお前にも大厄日だ。おれも明日は死ぬかも知れない。よし又死なずにすんだ所が、この先二度とお前と一しよに掃溜《はきだ》めあさりはしないつもりだ。さうすればお前は大喜びだらう。」
その内に雨は又一しきり、騒がしい音を立て始めた。雲も棟瓦《むねがはら》を煙らせる程、近々に屋根に押し迫つたのであらう。台所に漂つた薄明りは、前よりも一層かすかになつた。が、乞食は顔も挙げず、やつと検べ終つた短銃へ、丹念に弾薬を装填《さうてん》してゐた。
「それとも名残りだけは惜しんでくれるか? いや、猫と云ふやつは三年の恩も忘れると云ふから、お前も当てにはならなさうだな。――が、まあ、そんな事はどうでも好《い》いや。唯おれもゐないとすると、――」
乞食は急に口を噤《つぐ》んだ。途端に誰か水口の外へ歩み寄つたらしいけはひがした。短銃をしまふのと振り返るのと、乞食にはそれが同時だつた。いや、その外に水口の障子ががらりと明けられたのも同時だつた。乞食は咄嗟《とつさ》に身構へながら、まともに闖入者《ちんにふしや》と眼を合せた。
すると障子を明けた誰かは乞食の姿を見るが早いか、反つて不意を打たれたやうに、「あつ」とかすかな叫び声を洩らした。それは素裸足《すはだし》に大黒傘を下げた、まだ年の若い女だつた。彼女は殆ど衝動的に、もと来た雨の中へ飛び出さうとした。が、最初の驚きから、やつと勇気を恢復すると、台所の薄明りに透《す》かしながら、ぢつと乞食の顔を覗《のぞ》きこんだ。
乞食は呆気《あつけ》にとられたのか、古|湯帷子《ゆかた》の片膝を立てた儘、まじまじ相手を見守つてゐた。もうその眼にもさつきのやうに、油断のない気色《けしき》は見えなかつた。二人は黙然《もくねん》と少時《しばらく》の間、互に眼と眼を見合せてゐた。
「何だい、お前は新公ぢやないか?」
彼女は少し落ち着いたやうに、かう乞食へ声をかけた。乞食はにやにや笑ひながら、二三度彼女へ頭を下げた。
「どうも相済みません。あんまり降りが強いもんだから、つい御留守へはひこみましたがね――何、格別明き巣狙ひに宗旨を変へた訣《わけ》でもないんです。」
「驚かせるよ、ほんたうに――いくら明き巣狙ひぢやないと云つたつて、図々しいにも程があるぢやないか?」
彼女は傘の滴《しづく》を切り切り、腹立たしさうにつけ加へた。
「さあ、こつちへ出ておくれよ。わたしは家へはひるんだから。」
「へえ、出ます。出ろと仰有《おつしや》らないでも出ますがね。姐《ねえ》さんはまだ立ち退《の》かなかつたんですかい?」
「立ち退いたのさ。立ち退いたんだけれども、――そんな事はどうでも好いぢやないか?」
「すると何か忘れ物でもしたんですね。――まあ、こつちへおはひんなさい。其処では雨がかかりますぜ。」
彼女はまだ業腹《ごふはら》さうに、乞食の言葉には返事もせず、水口の板の間へ腰を下した。それから流しへ泥足を伸ばすと、ざあざあ水をかけ始めた。平然とあぐらをかいた乞食は髭《ひげ》だらけの顋《あご》をさすりながら、じろじろその姿を眺めてゐた。彼女は色の浅黒い、鼻のあたりに雀斑《そばかす》のある、田舎者らしい小女だつた。なりも召使ひに相応な手織木綿の一重物に、小倉《こくら》の帯しかしてゐなかつた。が、活《い》き活きした眼鼻立ちや、堅肥りの体つきには、何処か新しい桃や梨を聯想させる美しさがあつた。
「この騒ぎの中を取りに返るのぢや、何か大事の物を忘れたんですね。何です、その忘れ物は? え、姐《ねえ》さん。――お富さん。」
新公は又尋ね続けた。
「何だつて好《い》いぢやないか? それよりさつさと出て行つておくれよ。」
お富の返事は突慳貪《つつけんどん》だつた。が、ふと何か思ひついたやうに、新公の顔を見上げると、真面目にこんな事を尋ね出した。
「新公、お前、家の三毛を知らないかい?」
「三毛? 三毛は今|此処《ここ》に、――おや、何処《どこ》へ行きやがつたらう?」
乞食はあたりを見廻した。すると猫は何時の間にか、棚の擂鉢《すりばち》や鉄鍋の間に、ちやんと香箱をつくつてゐた。その姿は新公と同時に、忽ちお富にも見つかつたのであらう。彼女は柄杓《ひしやく》を捨てるが早いか、乞食の存在も忘れたやうに、板の間の上に立ち上つた。さうして晴れ晴れと微笑しながら、棚の上の猫を呼ぶやうにした。
新公は薄暗い棚の上の猫から、不思議さうにお富へ眼を移した。
「猫ですかい、姐さん、忘れ物と云ふのは?」
「猫ぢや悪いのかい?――三毛、三毛、さあ、下りて御出で。」
新公は突然笑ひ出した。その声は雨音の鳴り渡る中に殆《ほとんど》気味の悪い反響を起した。と、お富はもう一度、腹立たしさに頬を火照《ほて》らせながら、いきなり新公に怒鳴りつけた。
「何が可笑《をか》しんだい? 家のお上《かみ》さんは三毛を忘れて来たつて、気違ひの様になつてゐるんぢやないか? 三毛が殺されたらどうしようつて、泣き通しに泣いてゐるんぢやないか? わたしもそれが可哀さうだから、雨の中をわざわざ帰つて来たんぢやないか?――」
「ようござんすよ。もう笑ひはしませんよ。」
新公はそれでも笑ひ笑ひ、お富の言葉を遮《さへぎ》つた。
「もう笑ひはしませんがね。まあ、考へて御覧なさい。明日にも『いくさ』が始まらうと云ふのに、高が猫の一匹や二匹――これはどう考へたつて、可笑しいのに違ひありませんや。お前さんの前だけれども、一体此処のお上さん位、わからずやのしみつたれはありませんぜ。第一あの三毛公を探しに、……」
「お黙りよ! お上さんの讒訴《ざんそ》なぞは聞きたくないよ!」
お富は殆どぢだんだを踏んだ。が、乞食は思ひの外彼女の権幕には驚かなかつた。のみならずしげしげ彼女の姿に無遠慮な視線を注いでゐた。実際その時の彼女の姿は野蛮な美しさそのものだつた。雨に濡れた着物や湯巻、――それらは何処《どこ》を眺めても、ぴつたり肌についてゐるだけ、露《あら》はに肉体を語つてゐた。しかも一目に処女を感ずる、若々しい肉体を語つてゐた。新公は彼女に目を据ゑたなり、やはり笑ひ声に話し続けた。
「第一あの三毛公を探しに、お前さんをよこすのでもわかつてゐまさあ。ねえ、さうぢやありませんか? 今ぢやもう上野界隈、立ち退《の》かない家はありませんや。して見れば町家は並んでゐても、人のゐない野原と同じ事だ。まさか狼も出まいけれども、どんな危い目に遇ふかも知れない――と、まづ云つたものぢやありませんか?」
「そんな余計な心配をするより、さつさと猫をとつておくれよ。――これが『いくさ』でも始まりやしまいし、何が危い事があるものかね。」
「冗談云つちやいけません。若い女の一人歩きが、かう云ふ時に危くなけりや、危いと云ふ事はありませんや。早い話が此処にゐるのは、お前さんとわたしと二人つきりだ。万一わたしが妙な気でも出したら、姐《ねえ》さん、お前さんはどうしなさるね?」
新公はだんだん冗談だか、真面目だか、わからない口調になつた。しかし澄んだお富の目には、恐怖らしい影さへ見えなかつた。
唯その頬には、さつきよりも、一層血の色がさしたらしかつた。
「何だい、新公、――お前はわたしを嚇《おど》かさうつて云ふのかい?」
お富は彼女自身嚇かすやうに、一足新公の側へ寄つた。
「嚇かすえ? 嚇かすだけならば好いぢやありませんか? 肩に金切《きんぎ》れなんぞくつけてゐたつて、風《ふう》の悪いやつらも多い世の中だ。ましてわたしは乞食ですぜ。嚇かすばかりとは限りませんや。もしほんたうに妙な気を出したら、……」
新公は残らず云はない内に、したたか頭を打ちのめされた。お富は何時か彼の前に、大黒傘をふり上げてゐたのだつた。
「生意気な事をお云ひでない。」
お富は又新公の頭へ、力一ぱい傘を打ち下した。新公は咄嗟《とつさ》に身を躱《かは》さうとした。が、傘はその途端に、古|湯帷子《ゆかた》の肩を打ち据ゑてゐた。この騒ぎに驚いた猫は、鉄鍋を一つ蹴落しながら、荒神《くわうじん》の棚へ飛び移つた。と同時に荒神の松や油光りのする燈明皿も、新公の上へ転げ落ちた。新公はやつと飛び起きる前に、まだ何度もお富の傘に、打ちのめされずにはすまなかつた。
「こん畜生! こん畜生!」
お富は傘を揮《ふる》ひ続けた。が、新公は打たれながらも、とうとう傘を引つたくつた。のみならず傘を投げ出すが早いか猛然とお富に飛びかかつた。二人は狭い板の間の上に、少時《しばらく》の間|掴《つか》み合つた。この立ち廻りの最中に、雨は又台所の屋根へ、凄《すさ》まじい音を湊《あつ》め出した。光も雨音の高まるのと一しよに、見る見る薄暗さを加へて行つた。新公は打たれても、引つ掻かれても、遮二無二《しやにむに》お富を※[#「てへん+丑」、第4水準2-12-93]《ね》ぢ伏せようとした。しかし何度か仕損じた後、やつと彼女に組み付いたと思ふと、突然又|弾《はじ》かれたやうに、水口の方へ飛びすさつた。
「この阿魔あ!……」
新公は障子を後ろにしたなり、ぢつとお富を睨《にら》みつけた。何時か髪も壊れたお富は、べつたり板の間に坐りながら、帯の間に挾んで来たらしい剃刀《かみそり》を逆手《さかて》に握つてゐた。それは殺気を帯びてもゐれば、同時に又妙に艶《なま》めかしい、云はば荒神の棚の上に、背を高めた猫と似たものだつた。二人はちよいと無言の儘、相手の目の中を窺《うかが》ひ合つた。が、新公は一瞬の後、わざとらしい冷笑を見せると、懐《ふところ》からさつきの短銃を出した。
「さあ、いくらでもぢたばたして見ろ。」
短銃の先は徐《おもむ》ろに、お富の胸のあたりへ向つた。それでも彼女は口惜《くや》しさうに、新公の顔を見つめたきり、何とも口を開かなかつた。新公は彼女が騒がないのを見ると、今度は何か思ひついたやうに、短銃の先を上に向けた。その先には薄暗い中に、琥珀《こはく》色の猫の目が仄《ほの》めいてゐた。
「好《い》いかい? お富さん。――」
新公は相手をじらすやうに、笑ひを含んだ声を出した。
「この短銃がどん[#「どん」に傍点]と云ふと、あの猫が逆様に転げ落ちるんだ。お前さんにしても同じ事だぜ。そら好いかい?」
引き金はすんでに落ちようとした。
「新公!」
突然お富は声を立てた。
「いけないよ。打つちやいけない。」
新公はお富へ目を移した。しかしまだ短銃の先は、三毛猫に狙ひを定めてゐた。
「いけないのは知れた事だ。」
「打つちや可哀さうだよ。三毛だけは助けておくれ。」
お富は今までとは打つて変つた、心配さうな目つきをしながら、心もち震へる唇《くちびる》の間に、細かい歯並みを覗かせてゐた。新公は半ば嘲《あざけ》るやうに、又半ば訝《いぶか》るやうに、彼女の顔を眺めたなり、やつと短銃の先を下げた。と同時にお富の顔には、ほつとした色が浮んで来た。
「ぢや猫は助けてやらう。その代り。――」
新公は横柄《わうへい》に云ひ放つた。
「その代りお前さんの体を借りるぜ。」
お富はちよいと目を外《そ》らせた。一瞬間彼女の心の中には、憎しみ、怒り、嫌悪、悲哀、その外いろいろの感情がごつたに燃え立つて来たらしかつた。新公はさう云ふ彼女の変化に注意深い目を配りながら、横歩きに彼女の後ろへ廻ると茶の間の障子を明け放つた。茶の間は台所に比べれば、勿論一層薄暗かつた。が、立ち退いた跡と云ふ条、取り残した茶箪笥《ちやだんす》や長火鉢は、その中にもはつきり見る事が出来た。新公は其処に佇《たたず》んだ儘、かすかに汗ばんでゐるらしい、お富の襟もとへ目を落した。するとそれを感じたのか、お富は体を捻《ねぢ》るやうに、後ろにゐる新公の顔を見上げた。彼女の顔にはもう何時の間にか、さつきと少しも変らない、活《い》き活きした色が返つてゐた。しかし新公は狼狽《らうばい》したやうに、妙な瞬《またた》きを一つしながら、いきなり又猫へ短銃を向けた。
「いけないよ。いけないつてば。――」
お富は彼を止めると同時に、手の中の剃刀《かみそり》を板の間へ落した。
「いけなけりやあすこへお行きなさいな。」
新公は薄笑ひを浮べてゐた。
「いけ好かない!」
お富は忌々《いまいま》しさうに呟《つぶや》いた。が、突然立ち上ると、ふて腐れた女のするやうに、さつさと茶の間へはひつて行つた。新公は彼女の諦めの好いのに、多少驚いた容子《ようす》だつた。雨はもうその時には、ずつと音をかすめてゐた。おまけに雲の間には、夕日の光でもさし出したのか、薄暗かつた台所も、だんだん明るさを加へて行つた。新公はその中に佇みながら、茶の間のけはひに聞き入つてゐた。小倉の帯の解かれる音、畳の上へ寝たらしい音。――それぎり茶の間はしんとしてしまつた。
新公はちよいとためらつた後、薄明るい茶の間へ足を入れた。茶の間のまん中にはお富が一人、袖に顔を蔽《おほ》つた儘、ぢつと仰向《あふむ》けに横たはつてゐた。新公はその姿を見るが早いか、逃げるやうに台所へ引き返した。彼の顔には形容の出来ない、妙な表情が漲《みなぎ》つてゐた。それは嫌悪のやうにも見えれば、恥ぢたやうにも見える色だつた。彼は板の間へ出たと思ふと、まだ茶の間へ背を向けたなり、突然苦しさうに笑ひ出した。
「冗談だ。お富さん。冗談だよ。もうこつちへ出て来ておくんなさい。……」
――何分かの後、懐《ふところ》に猫を入れたお富は、もう傘を片手にしながら、破《や》れ筵《むしろ》を敷いた新公と、気軽に何か話してゐた。
「姐《ねえ》さん。わたしは少しお前さんに、訊《き》きたい事があるんですがね。――」
新公はまだ間が悪さうに、お富の顔を見ないやうにしてゐた。
「何をさ!」
「何をつて事もないんですがね。――まあ肌身を任せると云へば、女の一生ぢや大変な事だ。それをお富さん、お前さんは、その猫の命と懸け替に、――こいつはどうもお前さんにしちや、乱暴すぎるぢやありませんか?」
新公はちよいと口を噤《つぐ》んだ。がお富は頬笑んだぎり、懐の猫を劬《いたは》つてゐた。
「そんなにその猫が可愛いんですかい?」
「そりや三毛も可愛いしね。――」
お富は煮え切らない返事をした。
「それとも又お前さんは、近所でも評判の主人思ひだ。三毛が殺されたとなつた日にや、この家の上《かみ》さんに申し訣がない。――と云ふ心配でもあつたんですかい?」
「ああ、三毛も可愛いしね。お上さんも大事にや違ひないんだよ。けれどもただわたしはね。――」
お富は小首を傾けながら、遠い所でも見るやうな目をした。
「何と云へば好いんだらう? 唯あの時はああしないと、何だかすまない気がしたのさ。」
――更に又何分かの後、一人になつた新公は、古|湯帷子《ゆかた》の膝を抱いた儘、ぼんやり台所に坐つてゐた。暮色は疎《まば》らな雨の音の中に、だんだん此処へも迫つて来た。引き窓の綱、流し元の水瓶《みづがめ》、――そんな物も一つづつ見えなくなつた。と思ふと上野の鐘が、一杵《いつしよ》づつ雨雲にこもりながら、重苦しい音を拡げ始めた。新公はその音に驚いたやうに、ひつそりしたあたりを見廻した。それから手さぐりに流し元へ下りると、柄杓《ひしやく》になみなみと水を酌《く》んだ。
「村上新三郎源の繁光、今日だけは一本やられたな。」
彼はさう呟きざま、うまさうに黄昏《たそがれ》の水を飲んだ。……
* * *
明治二十三年三月二十六日、お富は夫や三人の子供と、上野の広小路を歩いてゐた。
その日は丁度竹の台に、第三回内国博覧会の開会式が催される当日だつた。おまけに桜も黒門のあたりは、もう大抵開いてゐた。だから広小路の人通りは、殆ど押し返さないばかりだつた。其処へ上野の方からは、開会式の帰りらしい馬車や人力車の行列が、しつきりなしに流れて来た。前田|正名《まさな》、田口卯吉、渋沢栄一、辻新次、岡倉覚三、下条正雄――その馬車や人力車の客には、さう云ふ人々も交つてゐた。
五つになる次男を抱いた夫は、袂《たもと》に長男を縋《すが》らせた儘、目まぐるしい往来の人通りをよけよけ、時々ちよいと心配さうに、後ろのお富を振り返つた。お富は長女の手をひきながら、その度に晴れやかな微笑《ほほゑみ》を見せた。勿論二十年の歳月は、彼女にも老《おい》を齎《もたら》してゐた。しかし目の中に冴えた光は昔と余り変らなかつた。彼女は明治四五年頃に、古河屋政兵衛《こがやせいべゑ》の甥《をひ》に当る、今の夫と結婚した。夫はその頃は横浜に、今は銀座の何丁目かに、小さい時計屋の店を出してゐた。……
お富はふと目を挙げた。その時丁度さしかかつた、二頭立ちの馬車の中には、新公が悠々と坐つてゐた。新公が、――尤《もつと》も今の新公の体は、駝鳥《だてう》の羽根の前立だの、厳《いか》めしい金モオルの飾緒だの、大小幾つかの勲章だの、いろいろの名誉の標章に埋まつてゐるやうなものだつた。しかし半白の髯の間に、こちらを見てゐる赭《あか》ら顔は、往年の乞食に違ひなかつた。お富は思はず足を緩《ゆる》めた。が、不思議にも驚かなかつた。新公は唯の乞食ではない。――そんな事はなぜかわかつてゐた。顔のせゐか、言葉のせゐか、それとも持つてゐた短銃のせゐか、兎に角わかつてはゐたのだつた。お富は眉も動かさずに、ぢつと新公の顔を眺めた。新公も故意か偶然か、彼女の顔を見守つてゐた。二十年以前の雨の日の記憶は、この瞬間お富の心に、切ない程はつきり浮んで来た。彼女はあの日無分別にも、一匹の猫を救ふ為に、新公に体を任さうとした。その動機は何だつたか、――彼女はそれを知らなかつた。新公は亦さう云ふ羽目にも、彼女が投げ出した体には、指さへ触れる事を肯《がへん》じなかつた。その動機は何だつたか、――それも彼女は知らなかつた。が、知らないのにも関らず、それらは皆お富には、当然すぎる程当然だつた。彼女は馬車とすれ違ひながら、何か心の伸びるやうな気がした。
新公の馬車の通り過ぎた時、夫は人ごみの間から、又お富を振り返つた。彼女はやはりその顔を見ると、何事もないやうに頬笑んで見せた。活《い》き活きと、嬉しさうに。……
[#地から2字上げ](大正十一年八月)
底本:「現代日本文学大系43芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月19日公開
2004年2月19日修正
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