青空文庫アーカイブ
女体
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)楊某《ようぼう》
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(例)[#地から1字上げ](大正六年九月)
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楊某《ようぼう》と云う支那人が、ある夏の夜、あまり蒸暑いのに眼がさめて、頬杖をつきながら腹んばいになって、とりとめのない妄想《もうぞう》に耽っていると、ふと一匹の虱《しらみ》が寝床の縁《ふち》を這っているのに気がついた。部屋の中にともした、うす暗い灯《ひ》の光で、虱は小さな背中を銀の粉《こな》のように光らせながら、隣に寝ている細君の肩を目がけて、もずもず這って行くらしい。細君は、裸のまま、さっきから楊の方へ顔を向けて、安らかな寝息を立てているのである。
楊は、その虱ののろくさい歩みを眺めながら、こんな虫の世界はどんなだろうと思った。自分が二足か三足で行ける所も、虱には一時間もかからなければ、歩けない。しかもその歩きまわる所が、せいぜい寝床の上だけである。自分も虱に生れたら、さぞ退屈だった事であろう。……
そんな事を漫然と考えている中に、楊の意識は次第に朧《おぼろ》げになって来た。勿論夢ではない。そうかと云ってまた、現《うつつ》でもない。ただ、妙に恍惚たる心もちの底へ、沈むともなく沈んで行くのである。それがやがて、はっと眼がさめたような気に帰ったと思うと、いつか楊の魂はあの虱の体へはいって、汗臭い寝床の上を、蠕々然《ぜんぜんぜん》として歩いている。楊は余りに事が意外なので、思わず茫然と立ちすくんだ。が、彼を驚かしたのは、独りそればかりではない。――
彼の行く手には、一座の高い山があった。それがまた自《おのずか》らな円《まる》みを暖く抱いて、眼のとどかない上の方から、眼の先の寝床の上まで、大きな鍾乳石《しょうにゅうせき》のように垂れ下っている。その寝床についている部分は、中に火気を蔵しているかと思うほど、うす赤い柘榴《ざくろ》の実の形を造っているが、そこを除いては、山一円、どこを見ても白くない所はない。その白さがまた、凝脂《ぎょうし》のような柔らかみのある、滑《なめらか》な色の白さで、山腹のなだらかなくぼみでさえ、丁度雪にさす月の光のような、かすかに青い影を湛《たた》えているだけである。まして光をうけている部分は、融けるような鼈甲色《べっこういろ》の光沢を帯びて、どこの山脈にも見られない、美しい弓なりの曲線を、遥《はるか》な天際に描《えが》いている。……
楊《よう》は驚嘆の眼を見開いて、この美しい山の姿を眺めた。が、その山が彼の細君の乳の一つだと云う事を知った時に、彼の驚きは果してどれくらいだった事であろう。彼は、愛も憎《にくし》みも、乃至《ないし》また性欲も忘れて、この象牙《ぞうげ》の山のような、巨大な乳房《ちぶさ》を見守った。そうして、驚嘆の余り、寝床の汗臭い匂《におい》も忘れたのか、いつまでも凝固《こりかた》まったように動かなかった。――楊は、虱になって始めて、細君の肉体の美しさを、如実に観ずる事が出来たのである。
しかし、芸術の士にとって、虱の如く見る可きものは、独り女体《にょたい》の美しさばかりではない。
[#地から1字上げ](大正六年九月)
底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
1996(平成8)年7月15日第11刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:earthian
1998年12月28日公開
2004年3月9日修正
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