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鼠小僧次郎吉
芥川龍之介
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一
或初秋の日暮であつた。
汐留《しほどめ》の船宿、伊豆屋の表二階には、遊び人らしい二人の男が、さつきから差し向ひで、頻《しきり》に献酬《けんしう》を重ねてゐた。
一人は色の浅黒い、小肥りに肥つた男で、形《かた》の如く結城《ゆふき》の単衣物《ひとへもの》に、八反の平ぐけを締めたのが、上に羽織つた古渡《こわた》り唐桟《たうざん》の半天と一しよに、その苦みばしつた男ぶりを、一層いなせに見せてゐる趣があつた。もう一人は色の白い、どちらかと云へば小柄な男だが、手首まで彫つてある剳青《ほりもの》が目立つせゐか、糊《のり》の落ちた小弁慶の単衣物に算盤珠《そろばんだま》の三尺をぐるぐる巻きつけたのも、意気と云ふよりは寧《むし》ろ凄味のある、自堕落な心もちしか起させなかつた。のみならずこの男は、役者が二三枚落ちると見えて、相手の男を呼びかける時にも、始終親分と云ふ名を用ひてゐた。が、年輩は彼是《かれこれ》同じ位らしく、それだけ又世間の親分子分よりも、打《う》ち融《と》けた交情が通つてゐる事は、互に差しつ抑へつする盃の間にも明らかだつた。
初秋の日暮とは云ひながら、向うに見える唐津《からつ》様の海鼠壁《なまこかべ》には、まだ赤々と入日がさして、その日を浴びた一株の柳が、こんもりと葉かげを蒸してゐるのも、去つて間がない残暑の思ひ出を新しくするのに十分だつた。だからこの船宿の表二階にも、葭戸《よしど》こそもう唐紙《からかみ》に変つてゐたが、江戸に未練の残つてゐる夏は、手すりに下つてゐる伊予簾《いよすだれ》や、何時からか床に掛け残された墨絵の滝の掛物や、或は又二人の間に並べてある膳の水貝や洗ひなどに、まざまざと尽きない名残りを示してゐた。実際往来を一つ隔《へだ》ててゐる掘割の明るい水の上から、時たま此処に流れて来るそよ風も、微醺《びくん》を帯びた二人の男には、刷毛先《はけさき》を少し左へ曲げた水髪の鬢《びん》を吹かれる度に、涼しいとは感じられるにした所が、毛頭秋らしいうそ寒さを覚えさせるやうな事はないのである。殊に色の白い男の方になると、こればかりは冷たさうな掛守《かけまも》りの銀鎖もちらつく程、思入れ小弁慶の胸をひろげてゐた。
二人は女中まで遠ざけて、暫くは何やら密談に耽《ふけ》つてゐたが、やがてそれも一段落ついたと見えて、色の浅黒い、小肥りに肥つた男は、無造作に猪口《ちよく》を相手に返すと、膝の下の煙草入をとり上げながら、
「と云ふ訳での、おれもやつと三年ぶりに、又江戸へ帰つて来たのよ。」
「道理でちつと御帰りが、遅すぎると思つてゐやしたよ。だがまあ、かうして帰つて来ておくんなさりや、子分子方のものばかりぢや無《ね》え、江戸つ子一統が喜びやすぜ。」
「さう云つてくれるのは、手前《てめえ》だけよ。」
「へへ、仰有《おつしや》つたものだぜ。」
色の白い、小柄な男は、わざと相手を睨《にら》めると、人が悪るさうににやりと笑つて、
「小花|姐《ねえ》さんにも聞いて御覧なせえまし。」
「そりや無《ね》え。」
親分と呼ばれた男は、如心形《によしんがた》の煙管《きせる》を啣《くは》へた儘、僅に苦笑の色を漂はせたが、すぐに又|真面目《まじめ》な調子になつて、
「だがの、おれが三年見|無《ね》え間に、江戸もめつきり変つたやうだ。」
「いや、変つたの、変ら無えの。岡場所なんぞの寂《さび》れ方と来ちや、まるで嘘のやうでごぜえますぜ。」
「かうなると、年よりの云ひぐさぢや無えが、やつぱり昔が恋しいの。」
「変ら無えのは私《わつち》ばかりさ。へへ、何時《いつ》になつてもひつてんだ。」
小弁慶の浴衣《ゆかた》を着た男は、受けた盃をぐいとやると、その手ですぐに口の端の滴を払つて、自ら嘲《あざけ》るやうに眉を動かしたが、
「今から見りや、三年|前《めえ》は、まるでこの世の極楽さね。ねえ、親分、お前さんが江戸を御売んなすつた時分にや、盗《ぬす》つ人《と》にせえあの鼠小僧のやうな、石川五右衛門とは行かねえまでも、ちつとは睨《にら》みの利《き》いた野郎があつたものぢやごぜえませんか。」
「飛んだ事を云ふぜ。何処の国におれと盗つ人とを一つ扱ひにする奴があるものだ。」
唐桟《たうざん》の半天をひつかけた男は、煙草の煙にむせながら、思はず又苦笑を洩らしたが、鉄火な相手はそんな事に頓着する気色《けしき》もなく、手酌でもう一杯ひつかけると、
「そいつがこの頃は御覧なせえ。けちな稼ぎをする奴は、箒《はうき》で掃く程ゐやすけれど、あの位《くれえ》な大泥坊は、つひぞ聞か無えぢやごぜえませんか。」
「聞か無えだつて、好いぢや無えか。国に盗賊、家に鼠だ。大泥坊なんぞはゐ無え方が好い。」
「そりや居無え方が好い。居無え方が好いにや違えごぜえませんがね。」
色の白い、小柄な男は、剳青《ほりもの》のある臂《ひぢ》を延べて、親分へ猪口《ちよく》を差しながら、
「あの時分の事を考へると、へへ、妙なもので盗つ人せえ、懐しくなつて来やすのさ。先刻御承知にや違え無えが、あの鼠小僧と云ふ野郎は、心意気が第一嬉しいや。ねえ、親分。」
「嘘は無え。盗つ人の尻押しにや、こりや博奕打《ばくちうち》が持つて来いだ。」
「へへ、こいつは一番おそれべか。」
と云つて、ちよいと小弁慶の肩を落したが、こちらは忽ち又元気な声になつて、
「私《わつち》だつて何も盗つ人の肩を持つにや当ら無えけれど、あいつは懐の暖《あつたけ》え大名屋敷へ忍びこんぢや、御手許金と云ふやつを掻攫《かつさら》つて、その日に追はれる貧乏人へ恵んでやるのだと云ひやすぜ。成程《なるほど》善悪にや二つは無えが、どうせ盗みをするからにや、悪党|冥利《みやうり》にこの位《くれえ》な陰徳は積んで置き度《て》えとね、まあ、私《わつち》なんぞは思つてゐやすのさ。」
「さうか。さう聞きや無理は無えの。いや、鼠小僧と云ふ野郎も、改代町《かいだいまち》の裸松《はだかまつ》が贔屓《ひいき》になつてくれようとは、夢にも思つちや居無えだらう。思へば冥加《みやうが》な盗つ人だ。」
色の浅黒い、小肥りに肥つた男は、相手に猪口を返しながら、思ひの外しんみりとかう云つたが、やがて何か思ひついたらしく、大様に膝を進めると、急に晴々した微笑を浮べて、
「ぢや聞きねえ。おれもその鼠小僧ぢや、とんだ御茶番を見た事があつての、今でも思ひ出すたんびに、腹の皮がよれてなら無《ね》えのよ。」
親分と呼ばれた男は、かう云ふ前置きを聞かせてから、又悠々と煙管《きせる》を啣《くは》へて、夕日の中に消えて行く煙草の煙の輪と一しよに、次のやうな話をし始めた。
二
丁度今から三年前、おれが盆茣蓙《ぼんござ》の上の達《た》て引《ひ》きから、江戸を売つた時の事だ。
東海道にやちつと差しがあつて、路は悪いが甲州街道を身延《みのぶ》まで出にやなら無えから、忘れもし無え、極月《ごくげつ》の十一日、四谷の荒木町を振り出しに、とうとう旅鴉《たびがらす》に身をやつしたが、なりは手前《てめえ》も知つてた通り、結城紬《ゆふきつむぎ》の二枚重ねに一本|独銛《どつこ》の博多の帯、道中差《だうちゆうざし》をぶつこんでの、革色の半合羽に菅笠《すげがさ》をかぶつてゐたと思ひねえ。元より振分けの行李の外にや、道づれも無え独り旅だ。脚絆《きやはん》草鞋《わらぢ》の足拵《あしごしら》へは、見てくればかり軽さうだが、当分は御膝許《おひざもと》の日の目せえ、拝まれ無え事を考へりや、実は気も滅入つての、古風ぢやあるが一足毎に、後髪を引かれるやうな心もちよ。
その日が又意地悪く、底冷えのする雪曇りでの、まして甲州街道は、何処の山だか知ら無えが、一面の雲のかかつたやつが、枯つ葉一つがさつか無え桑畑の上に屏風《びやうぶ》を立《たて》てよ、その桑の枝を掴《つか》んだ鶸《ひは》も、寒さに咽喉《のど》を痛めたのか、声も立て無えやうな凍《い》て方《かた》だ。おまけに時々身を切るやうな、小仏颪《こぼとけおろし》のからつ風がやけにざつと吹きまくつて、横なぐれに合羽を煽《あふ》りやがる。かうなつちやいくら威張つても、旅慣れ無え江戸つ子は形無しよ。おれは菅笠の縁に手をかけちや、今朝四谷から新宿と踏み出して来た江戸の方を、何度振り返つて見たか知れやし無え。
するとおれの旅慣れ無えのが、通りがかりの人目にも、気の毒たらしかつたのに違え無え。府中の宿《しゆく》をはづれると、堅気らしい若え男が、後からおれに追ひついて、口まめに話しかけやがる。見りや紺の合羽に菅笠は、こりや御定りの旅仕度だが、色の褪《さ》めた唐桟《たうざん》の風呂敷包を頸《くび》へかけの、洗ひざらした木綿縞《もめんじま》に剥げつちよろけの小倉《こくら》の帯、右の小鬢《こびん》に禿《はげ》があつて、顋《あご》の悪くしやくれたのせえ、よしんば風にや吹かれ無えでも、懐の寒むさうな御人体《ごにんてえ》だ。だがの、見かけよりや人は好いと見えて、親切さうに道中の名所古蹟なんぞを教へてくれる。こつちは元より相手欲しやだ。
「御前さんは何処まで行きなさる。」
「私《わつし》は甲府まで参りやす。旦那は又どちらへ。」
「私《わたし》は何、身延詣りさ。」
「時に旦那は江戸でござりやせう。江戸はどの辺へ御住ひなせえます。」
「茅場町《かやばちやう》の植木店《うゑきだな》さ。お前さんも江戸かい。」
「へえ、私《わつし》は深川の六間堀《ろくけんぼり》で、これでも越後屋重吉と云ふ小間物|渡世《とせい》でござりやす。」
とまあ、云つた調子での。同じ江戸懐しい話をしながら、互に好い道づれを見つけた気でよ、一しよに路を急いで行くと、追つけ日野宿《ひのしゆく》へかからうと云ふ時分に、ちらちら白い物が降り出しやがつた。独り旅であつて見ねえ。時刻も彼是《かれこれ》七つ下《さが》りぢやあるし、この雪空を見上げちや、川千鳥の声も身に滲《し》みるやうで、今夜はどうでも日野泊りと、出かけ無けりやなら無え所だが、いくら懐は寒むさうでも、其処は越後屋重吉と云ふ道づれのある御かげ様だ。
「旦那え、この雪ぢや明日《あす》の路は、とても捗《はか》が参りやせんから、今日の中に八王子までのして置かうぢやござりやせんか。」
と云はれて見りや、その気になつての、雪の中を八王子まで、辿《たど》りついたと思ひねえ。もう空はまつ暗で、とうに白くなつた両側の屋根が、夜目にも跡の見える街道へ、押つかぶさるやうに重なり合つた、――その下に所々、掛行燈《かけあんどう》が赤く火を入れて、帰り遅れた馬の鈴が、だんだん近くなつて来るなんぞは、手もなく浮世画の雪景色よ。するとその越後屋重吉と云ふ野郎が、先に立つて雪を踏みながら、
「旦那え、今夜はどうか御一しよに願ひたうござりやす。」
と何度もうるさく頼みやがるから、おれも異存がある訳ぢやなし、
「そりやさう願へれば、私も寂しくなくつて好い。だが私は生憎《あいにく》と、始めて来た八王子だ。何処も旅籠《はたご》を知ら無えが。」
「何《なあ》に、あすこの山甚《やまじん》と云ふのが、私《わつし》の定宿《ぢやうやど》でござりやす。」
と云つておれをつれこんだのは、やつぱり掛行燈のともつてゐる、新見世だとか云ふ旅籠屋だがの、入口の土間を広くとつて、その奥はすぐに台所へ続くやうな構へだつたらしい。おれたち二人が中へ這入《はひ》ると、帳場の前の獅噛《しがみ》火鉢へ噛りついてゐた番頭が、まだ「御濯《おすす》ぎを」とも云は無え内に、意地のきたねえやうだけれど、飯の匂と汁の匂とが、湯気や火つ気と一つになつて、むんと鼻へ来やがつた。それから早速|草鞋《わらぢ》を脱ぎの、行燈を下げた婢《をんな》と一しよに、二階座敷へせり上つたが、まづ一風呂暖まつて、何はともあれ寒《さむ》さ凌《しの》ぎと、熱燗《あつかん》で二三杯きめ出すと、その越後屋重吉と云ふ野郎が、始末に了《を》へ無え機嫌上戸での、唯でせえ口のまめなやつが、大方|饒舌《しやべ》る事ぢや無え。
「旦那え、この酒なら御口に合ひやせう。これから甲州路へかかつて御覧なさいやし。とてもかう云ふ酒は飲めませんや。へへ、古い洒落《しやれ》だが与右衛門の女房で、私《わつし》ばかりかさねがさね――」
などと云つてゐる内は、まだ好かつたが、銚子が二三本も並ぶやうになると、目尻を下げて、鼻の脂を光らせて、しやくんだ顋《あご》を乙に振つて、
「酒に恨《うらみ》が数々ござるつてね、私なんぞも旦那の前だが、茶屋酒のちいつとまはり過ぎたのが、飛んだ身の仇《あだ》になりやした。あ、あだな潮来《いたこ》で迷はせるつ。」
とふるへ声で唄ひ始めやがる。おれは実に持て余しての、何でもこいつは寝かすより外に仕方が無えと思つたから、潮さきを見て飯にすると、
「さあ、明日が早えから、寝なせえ。寝なせえ。」
とせき立てての、まだ徳利《とつくり》に未練のあるやつを、やつと横にならせたが、御方便なものぢや無えか、あれ程はしやいでゐた野郎が、枕へ頭をつけたとなると、酒臭え欠伸《あくび》を一つして、
「あああつ、あだな潮来で迷はせるつ。」
ともう一度、気味の悪い声を出しやがつたが、それつきり後は鼾《いびき》になつて、いくら鼠が騒がうが、寝返り一つ打ちやがら無え。
が、こつちや災難だ。何を云ふにも江戸を立つて、今夜が始めての泊りぢやあるし、その鼾が耳へついて、あたりが静になりやなる程、反《かへ》つて妙に寝つかれ無え。外はまだ雪が止ま無えと見えて、時々雨戸へさらさらと吹つかける音もするやうだ。隣に寝てゐる極道人《ごくだうにん》は、夢の中でも鼻唄を唄つてゐるかも知ら無えが、江戸にやおれがゐ無えばかりに、一人や二人は夜の目も寝無えで、案じてゐてくれるものがあるだらうと、――これさ、のろけぢや無えと云ふ事に、――つまら無え事を考へると、猶《なほ》の事おれは眼が冴《さ》えての、早く夜明けになりや好いと、そればつかり思つてゐた。
そんなこんなで九つも聞きの、八つを打つたのも知つてゐたが、その内に眠む気がさしたと見えて、何時《いつ》かうとうとしたやうだつた。が、やがてふと眼がさめると、鼠が燈心でも引きやがつたか、枕もとの行燈が消えてゐる。その上隣に寝てゐる野郎が、さつきまでは鼾をかいてゐた癖に、今はまるで死んだやうに寝息一つさせやがら無え。はてな、何だか可笑《をか》しな容子《ようす》だぞと、かう思ふか思は無え内に、今度はおれの夜具の中へ、人間の手が這入つて来やがつた。それもがたがたふるへながら、胴巻の結び目を探しやがるのよ。成程。人は見かけにやよら無えものだ。あのでれ助が胡麻《ごま》の蠅とは、こいつはちいつと出来すぎたわい。――と思つたら、すんでの事に、おれは吹き出す所だつたが、その胡麻の蠅と今が今まで、一しよに酒を飲んでゐたと思や、忌々《いまいま》しくもなつて来ての、あの野郎の手が胴巻の結び目をほどきにかかりやがると、いきなり逆にひつ掴《つか》めえて、捻り上げたと思ひねえ。胡麻の蠅の奴め、驚きやがるめえ事か、慌てて振り放さうとする所を、夜具を頭から押つかぶせての、まんまとおれがその上へ馬乗りになつてしまつたのよ。するとあの意気地なしめ、無理無体に夜具の下から、面《つら》だけ外へ出したと思ふと、「ひ、ひ、人殺し」と、烏骨鶏《をこつけい》が時でもつくりやしめえし、奇体《きてえ》な声を立てやがつた。手前《てめえ》が盗みをして置きながら、手前で人を呼びや世話は無え、唐変木《たうへんぼく》とは始めから知つちやゐるが、さりとは男らしくも無え野郎だと、おれは急に腹が立つたから、其処にあつた枕をひつ掴んで、ぽかぽかその面《つら》をぶちのめしたぢや無えか。
さあ、その騒ぎが聞えての、隣近所の客も眼をさましや、宿の亭主や奉公人も、何事が起つたと云ふ顔色で、手燭の火を先立ちに、どかどか二階へ上つて来やがつた。来て見りやおれの股ぐらから、あの野郎がもう片息になつて、面妖《めんえう》な面《つら》を出してゐやがる始末よ。こりや誰が見ても大笑ひだ。
「おい、御亭主、飛んだ蚤《のみ》にたかられての、人騒がせをして済まなかつた。外《ほか》の客人にやお前から、よく詑びを云つておくんなせえ。」
それつきりよ。もう後は訳を話すも話さ無えも無え。奉公人がすぐにあの野郎を、ぐるぐる巻にふん縛つて、まるで生捕りました河童《かつぱ》のやうに、寄つてたかつて二階から、引きずり下してしまやがつた。
さてその後で山甚の亭主が、おれの前へ手をついての、
「いや、どうも以ての外の御災難で、さぞまあ、御驚きでございましたらう。が、御路用その外別に御紛失物《ごふんじつもの》もなかつたのは、せめてもの御仕合せでございます。追つてはあの野郎も夜の明け次第、早速役所へ引渡す事に致しますから、どうか手前どもの届きません所は、幾重にも御勘弁下さいますやうに。」
と何度も頭を下げるから、
「何、胡麻の蠅とも知ら無えで、道づれになつたのが私の落度だ。それを何も御前《おめえ》さんが、あやまんなさる事は無えのさ。こりやほんの僅ばかりだが、世話になつた若《わけ》え衆《しゆ》たちに、暖え蕎麦《そば》の一杯も振舞つてやつておくんなせえ。」
と祝儀をやつて返したが、つくづく一人になつて考へりや、宿場女郎にでも振られやしめえし、何時までも床に倚《よ》つかかつて、腕組みをしてゐるのも智慧《ちゑ》が無え。と云つてこれから寝られやせず、何かと云ふ中にや六つだらうから、こりや一そ今の内に、ちつとは路が暗くつても、早立ちをするのが上分別だと、かう思案がきまつたから、早速身仕度にとりかかりの、勘定は帳場で払つて行かうと、外の客の邪魔になら無えやうに、そつと梯子口《はしごぐち》まで来て見ると、下ぢやまだ奉公人たちが、皆起きてゐると見えて、何やら話し声も聞えてゐる。するとその中《うち》にどう云ふ訳か、度々さつき手前《てめえ》の話した、鼠小僧と云ふ名が出るぢや無えか。おれは妙だと思つての、両掛の行李を下げた儘、梯子口から下を覗いて見ると、広い土間のまん中にや、あの越後屋重吉と云ふ木念人《ぼくねんじん》が、繩尻は柱に括《くく》られながら、大あぐらをかいてゐやがる。そのまはりにや又若え者が、番頭も一しよに三人ばかり、八間《はちけん》の明りに照らされながら、腕まくりをしてゐるぢや無えか。中でもその番頭が、片手に算盤《そろばん》をひつ掴みの、薬罐頭《やくわんあたま》から湯気を立てて、忌々しさうに何か云ふのを聞きや、
「ほんによ、こんな胡麻の蠅も、今に劫羅《こふら》を経て見さつし、鼠小僧なんぞはそこのけの大泥坊になるかも知れ無え。ほんによ、さうなつた日にやこいつの御蔭で、街道筋の旅籠屋《はたごや》が、みんな暖簾《のれん》に瑕《きず》がつくわな。その事を思や今の内に、ぶつ殺した方が人助けよ。」
と云ふ側から、ぢぢむさく髭《ひげ》の伸びた馬子半天《まごばんてん》が、じろじろ胡麻の蠅の面《つら》を覗きこんで、
「番頭どんともあらうものが、いやはや又|当《あ》て事《ごと》も無え事を云つたものだ。何でこんな間抜野郎に、鼠小僧の役が勤るべい。大方胡麻の蠅も気が強えと云つたら、面《つら》を見たばかりでも知れべいわさ。」
「違え無え。高々|鼬小僧《いたちこぞう》位な所だらう。」
こりや火吹竹を得物《えもの》にした、宿の若え者が云つた事だ。
「ほんによ。さう云やこの野猿坊《やゑんばう》は、人の胴巻もまだ盗ま無え内に、うぬが褌《ふんどし》を先へ盗まれさうな面だ。」
「下手な道中稼ぎなんぞするよりや、棒つ切の先へ黏《とりもち》をつけの、子供と一しよに賽銭箱《さいせんばこ》のびた銭でもくすねてゐりや好い。」
「何、それよりや案山子《かかし》代りに、おらが後の粟畑へ、突つ立つてゐるが好かんべい。」
かう皆がなぶり物にすると、あの越後屋重吉め、ちつとの間は口惜しさうに眼ばかりぱちつかせてゐやがつたが、やがて宿の若え者が、火吹竹を顋《あご》の下へやつて、ぐいと面を擡《もた》げさせると、急に巻き舌になりやがつて、
「やい、やい、やい、こいつらは飛んだ奴ぢやねえかえ。誰だと思つて囈言《たはごと》をつきやがる。かう見えても、この御兄《おあにい》さんはな、日本中を股にかけた、ちつとは面《つら》の売れてゐる胡麻の蠅だ。不面目にも程があらあ。うぬが土百姓の分在で、利いた風な御託《ごたく》を並べやがる。」
これにや皆驚いたのに違え無え。実は梯子を下りかけたおれも、あんまりあの野郎の権幕が御大《ごたい》さうなものだから、又中段に足を止めて、もう少し下の成行きを眺めてゐる気になつたのよ。まして人の好ささうな番頭なんぞは、算盤まで持ち出したのも忘れたやうに、呆れてあの野郎を見つめやがつた。が、気の強えのは馬子半天での、こいつだけはまだ髭を撫でながら、何処を風が吹くと云ふ面で、
「何が胡麻の蠅がえらかんべい。三年前の大夕立に雷獣《らいじう》様を手捕りにした、横山|宿《じゆく》の勘太とはおらが事だ。おらが身もんでえを一つすりや、うぬがやうな胡麻の蠅は、踏み殺されると云ふ事を知ん無えか。」
と嵩《かさ》にかかつて嚇《おど》したが、胡麻の蠅の奴はせせら笑つて、
「へん、こけが六十六部に立山《たてやま》の話でも聞きやしめえし、頭からおどかしを食つてたまるものかえ。これやい、眠む気ざましにや勿体無えが、おれの素性《すじやう》を洗つてやるから、耳の穴を掻つぽじつて聞きやがれ。」
と声色《こわいろ》にしちや語呂の悪い、啖呵《たんか》を切り出した所は豪勢だがの、面《つら》を見りや寒いと見えて、水《みづ》つ洟《ぱな》が鼻の下に光つてゐる。おまけにおれのなぐつた所が、小鬢《こびん》の禿から顋へかけて、まるで面が歪《ゆが》んだやうに、脹《は》れ上つてゐようと云ふものだ。が、それでも田舎者《ゐなかもの》にや、あの野郎のぽんぽん云ふ事が、ちつとは効き目があつたのだらう。あいつが乙に反り身になつて、餓鬼の時から悪事を覚えた行き立てを饒舌《しやべ》つてゐる内にや、雷獣を手捕りにしたとか云ふ、髭のぢぢむせえ馬子半天も、追々あの胡麻の蠅を胴突《どつ》かなくなつて来たぢや無えか。それを見るとあの野郎め、愈《いよいよ》しやくんだ顋を振りの、三人の奴らをねめまはして、
「へん、このごつぽう人めら、手前《てめえ》たちを怖はがるやうな、よいよいだとでも思やがつたか。いんにやさ。唯の胡麻の蠅だと思ふと、相手が違ふぞ。手前たちも覚えてゐるだらうが、去年の秋の嵐の晩に、この宿《しゆく》の庄屋へ忍びこみの、有り金を残らず掻《か》つ攫《さら》つたのは、誰でも無えこのおれだ。」
「うぬが、あの庄屋様へ、――」
かう云つたのは、番頭ばかりぢや無え。火吹竹を持つた若え者も、さすがに肝をつぶしたと見えて、思はず大きな声を出しながら、二足三足後へ下りやがつた。
「さうよ。そんな仕事に驚くやうぢや、手前たちはまだ甘えものだ。かう、よく聞けよ。ついこの中《ぢゆう》も小仏峠で、金飛脚《かねびきやく》が二人殺されたのは、誰の仕業だと思やがる。」
あの野郎は水《みづ》つ洟《ぱな》をすすりこんぢや、やれ府中で土蔵を破つたの、やれ日野宿でつけ火をしたの、やれ厚木街道の山の中で巡礼の女をなぐさんだの、だんだん途方も無え悪事を饒舌《しやべ》り立てたが、妙な事にやそれにつれて、番頭始め二人の野郎が、何時の間にかあの木念人へ慇懃《いんぎん》になつて来やがつた。中でも図体の大きな馬子半天が、莫迦力《ばかぢから》のありさうな腕を組んで、まじまじあの野郎の面を眺めながら、
「お前さんと云ふ人は、何たる又悪党だんべい。」
と唸るやうな声を出した時にや、おれは可笑しさがこみ上げての、あぶなく吹き出す所だつた。ましてあの胡麻の蠅が、もう酔もさめたのだらう、如何にも寒さうな顔色で、歯の根も合は無え程ふるへながら、口先ばかりや勢よく、
「何と、ちつとは性根がついたか。だがおれの官禄は、まだまだそんな事ぢや無え。今度江戸をずらかつたのは、臍繰金《へそくりがね》が欲しいばかりに二人と無え御袋を、おれの手にかけて絞め殺した、その化の皮が剥げたからよ。」
と大きな見得を切つた時にや、三人ともあつと息を引いての、千両役者でも出て来はしめえし、小鬢から脹れ上つたあいつの面を、難有さうに見つめやがつた。おれはあんまり莫迦《ばか》らしいから、もう見てゐるがものは無えと思つて、二三段梯子を下りかけたが、その途端に番頭の薬罐頭め、何と思やがつたか横手を打つて、
「や、読めたぞ。読めたぞ。あの鼠小僧と云ふのは、さてはおぬしの渾名《あだな》だな。」
と頓狂な声を出しやがつたから、おれはふと又気が変つて、あいつが何とぬかしやがるか、それが聞きたさにもう一度、うすつ暗え梯子の中段へ足を止めたと思ひねえ。するとあの胡麻の蠅め、じろりと番頭を睨みながら、
「図星を指されちや仕方が無え。如何にも江戸で噂の高え、鼠小僧とはおれの事だ。」
と横柄にせせら笑やがつた。が、さう云ふか云は無え内に、胴震ひを一つしたと思ふと、二つ三つ続けさまに色気の無え嚏《くしやみ》をしやがつたから、折角の睨みも台無しよ。それでも三人の野郎たちは、勝角力《かちずまふ》の名乗りでも聞きやしめえし、あの重吉の間抜野郎を煽ぎ立て無えばかりにして、
「おらもさうだらうと思つてゐた。三年前の大夕立に雷獣様を手捕りにした、横山宿の勘太と云つちや、泣く児も黙るおらだんべい。それをおらの前へ出て、びくともする容子《ようす》が見え無えだ。」
「違え無え。さう云やどこか眼の中に、すすどい所があるやうだ。」
「ほんによ、だからおれは始めから、何でもこの人は一つぱしの大泥坊になると云つてゐたわな。ほんによ。今夜は弘法《こうぼふ》にも筆の誤り、上手《じやうず》の手からも水が漏るす。漏つたが、これが漏ら無えで見ねえ。二階中の客は裸にされるぜ。」
と繩こそ解かうとはし無えけれど、口々にちやほやしやがるのよ。すると又あの胡麻の蠅め、大方威張る事ぢや無え。
「かう、番頭さん、鼠小僧の御宿をしたのは、御前《おめえ》の家の旦那が運が好いのだ。さう云ふおれの口を干しちや、旅籠屋《はたごや》冥利《みやうり》が尽きるだらうぜ。桝《ます》で好いから五合ばかり、酒をつけてくんねえな。」
かう云ふ野郎も図々しいが、それを又正直に聞いてやる番頭も間抜けぢや無えか。おれは八間の明りの下で、薬罐頭の番頭が、あの飲んだくれの胡麻の蠅に、桝の酒を飲ませてゐるのを見たら、何もこの山甚の奉公人ばかりとは限ら無え、世間の奴等の莫迦莫迦《ばかばか》しさが、可笑《をか》しくつて、可笑しくつて、こてえられ無かつた。何故と云ひねえ。同じ悪党とは云ひながら、押込みよりや掻払ひ、火つけよりや巾着切《きんちやくきり》が、まだしも罪は軽いぢや無えか。それなら世間もそのやうに、大盗つ人よりや、小盗つ人に憐みをかけてくれさうなものだ。所が人はさうぢや無え。三下野郎にやむごくつても、金箔つきの悪党にや向うから頭を下げやがる。鼠小僧と云や酒も飲ますが、唯の胡麻の蠅と云や張り倒すのだ。思やおれも盗つ人だつたら、小盗つ人にやなりたく無え。――とまあ、おれは考へたが、さて何時までも便々と、こんな茶番も見ちやゐられ無えから、わざと音をさせて梯子を下りの、上り口へ荷物を抛り出して、
「おい、番頭さん、私は早立ちと出かけるから、ちよいと勘定をしておくんなせえ。」
と声をかけると、いや、番頭の薬罐頭め、てれまい事か、慌てて桝を馬子半天に渡しながら、何度も小鬢《こびん》へ手をやつて、
「これは又御早い御立ちで――ええ、何とぞ御腹立ちになりやせんやうに――又先程は、ええ、手前どもにもわざわざ御心づけを頂きまして――尤も好い塩梅《あんばい》に雪も晴れたやうでげすが――」
などと訳のわからねえ事を並べやがるから、おれは可笑しさも可笑しくなつて、
「今下りしなに小耳に挾んだが、この胡麻の蠅は、評判の鼠小僧とか云ふ野郎ださうだの。」
「へい、さやうださうで、――おい、早く御草鞋《おわらぢ》を持つて来さつし。御笠に御合羽は此処にありと――どうも大した盗つ人ださうでげすな。――へい、唯今御勘定を致しやす。」
番頭のやつはてれ隠しに、若え者を叱りながら、そこそこ帳場の格子《かうし》の中へ這入ると、仔細《しさい》らしく啣《くは》へ筆《ふで》で算盤をぱちぱちやり出しやがつた。おれはその間に草鞋をはいて、さて一服吸ひつけたが、見りやあの胡麻の蠅は、もう御神酒《おみき》がまはつたと見えて、小鬢《こびん》の禿まで赤くしながら、さすがにちつとは恥しいのか、なるべくおれの方を見無えやうに、側眼《わきめ》ばかり使つてゐやがる。その見すぼらしい容子《ようす》を見ると、おれは今更のやうにあの野郎が可哀さうにもなつて来たから、
「おい、越後屋さん。いやさ、重吉さん。つまら無え冗談《じようだん》は云は無えものだ。御前《おめえ》が鼠小僧だなどと云ふと、人の好い田舎者は本当にするぜ。それぢや割が悪からうが。」
と親切づくに云つてやりや、あの阿呆の合天井《がふてんじやう》め、まだ芝居がし足り無えのか、
「何だと。おれが鼠小僧ぢや無え? 飛んだ御前は物知りだの。かう、旦那旦那と立ててゐりや――」
「これさ。そんな啖呵《たんか》が切りたけりや、此処にゐる馬子や若え衆が、丁度|御前《おめえ》にや好い相手だ。だがそれもさつきからぢや、もう大抵切り飽きたらう。第一御前が紛れも無え日本一の大泥坊なら、何もすき好んでべらべらと、為にもなら無え旧悪を並べ立てる筈が無えわな。これさ、まあ黙つて聞きねえと云ふ事に。そりや御前が何でも彼《か》でも、鼠小僧だと剛情を張りや、役人始め真実御前が鼠小僧だと思ふかも知れ無え。が、その時にや軽くて獄門、重くて磔《はりつけ》は逃れ無えぜ。それでも御前は鼠小僧か、――と云はれたら、どうする気だ。」
とかう一本突つこむと、あの意気地なしめ、見る見る内に唇の色まで変へやがつて、
「へい、何とも申し訳はござりやせん。実は鼠小僧でも何でも無え、唯の胡麻の蠅でござりやす。」
「さうだらう。さうなくつちや、なら無え筈だ。だが火つけや押込みまでさんざんしたと云ふからにや、御前《おめえ》も好い悪党だ。どうせ笠の台は飛ぶだらうぜ。」
と框《かまち》で煙管をはたきながら、大真面目におれがひやかすと、あいつは酔もさめたと見えて、又|水《みづ》つ洟《ぱな》をすすりこみの、泣かねえばかりの声を出して、
「何、あれもみんな嘘でござりやす。私《わつし》は旦那に申し上げた通り、越後屋重吉と云ふ小間物渡世で、年にきつと一二度はこの街道を上下《のぼりくだり》しやすから、善かれ悪しかれいろいろな噂を知つて居りやすので、つい口から出まかせに、何でも彼でもぼんぽんと――」
「おい、おい、御前は今胡麻の蠅だと云つたぢや無えか。胡麻の蠅が小間物を売るとは、御入国以来聞か無え事だの。」
「いえ、人様の物に手をかけたのは、今夜がまだ始めてでござりやす。この秋女房に逃げられやして、それから引き続き不手まはりな事ばかり多うござりやしたから、貧すりや鈍すると申す通り、ふとした一時の出来心から、飛んだ失礼な真似を致しやした。」
おれはいくらとんちきでも、兎に角胡麻の蠅だとは思つてゐたから、かう云ふ話を聞かされた時にや、煙管へ煙草をつめかけた儘、呆《あき》れて物も云へなかつた。が、おれは呆れただけだつたが、馬子半天と若え者とは、腹を立てたの立て無えのぢやねえ。おれが止めようと思ふ内に、いきなりあの野郎を引きずり倒しの、
「うぬ、よくも人を莫迦にしやがつたな。」
「その頬桁《ほほげた》を張りのめしてくれべい。」
と喚《わめ》き立てる声の下から、火吹竹が飛ぶ、桝が降るよ。可哀さうに越後屋重吉は、あんなに横つ面を脹らした上へ、頭まで瘤《こぶ》だらけになりやがつた。……
三
「話と云ふのはこれつきりよ。」
色の浅黒い、小肥りに肥つた男は、かう一部始終を語り終ると、今まで閑却されてゐた、膳の上の猪口《ちよく》を取り上げた。
向うに見える唐津様の海鼠壁《なまこかべ》には、何時か入日の光がささなくなつて、掘割に臨んだ一株の葉柳にも、そろそろ暮色が濃くなつて来た。と思ふと三縁山増上寺の鐘の音が、静に潮の匂のする欄外の空気を揺《ゆす》りながら、今更のやうに暦の秋を二人の客の胸にしみ渡らせた。風に動いてゐる伊予簾《いよすだれ》、御浜御殿の森の鴉《からす》の声、それから二人の間にある盃洗《はいせん》の水の冷たい光――女中の運ぶ燭台の火が、赤く火先《ほさき》を靡《なび》かせながら、梯子段の下から現はれるのも、もう程がないのに相違あるまい。
小弁慶の単衣《ひとへ》を着た男は、相手が猪口をとり上げたのを見ると、早速徳利の尻をおさへながら、
「いや、はや、飛んでも無えたはけがあるものだ。日本の盗人《ぬすつと》の守り本尊、私《わつち》の贔屓《ひいき》の鼠小僧を何だと思つてゐやがる。親分なら知ら無え事、私《わつち》だつたらその野郎をきつと張り倒してゐやしたぜ。」
「何もそれ程に業《ごふ》を煮やす事は無え。あんな間抜な野郎でも、鼠小僧と名乗つたばかりに、大きな面が出来たことを思や、鼠小僧もさぞ本望だらう。」
「だつとつて御前《おめえ》さん、そんな駈け出しの胡麻の蠅に鼠小僧の名をかたられちや――」
剳青《ほりもの》のある、小柄な男は、まだ云ひ争ひたい気色《けしき》を見せたが、色の浅黒い、唐桟の半天を羽織つた男は、悠々と微笑を含みながら、
「はて、このおれが云ふのだから、本望に違え無えぢや無えか。手前《てめえ》にやまだ明さなかつたが、三年前に鼠小僧と江戸で噂が高かつたのは――」
と云ふと、猪口を控へた儘、鋭くあたりへ眼をくばつて、
「この和泉屋の次郎吉の事だ。」
[#地から2字上げ](大正八年十二月)
底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月17日公開
2004年3月14日修正
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