青空文庫アーカイブ

好色
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)平中《へいちゆう》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)平中|病付《やみつき》にけり

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1-84-54]
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[#ここから3字下げ]
平中《へいちゆう》といふ色ごのみにて、宮仕人《みやづかへびと》はさらなり、人の女《むすめ》など忍びて見
ぬはなかりけり。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]宇治拾遺物語
[#ここから3字下げ]
何《いか》でかこの人に不会《あは》では止まむと思ひ迷ける程に、平中|病付《やみつき》にけり。
然《しかうし》て悩《なやみ》ける程に死《しに》にけり。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]今昔物語
[#ここから3字下げ]
色を好むといふは、かやうのふるまひなり。
[#ここで字下げ終わり]
[#地から3字上げ]十訓抄

     一 画姿

 泰平《たいへい》の時代にふさはしい、優美なきらめき烏帽子《ゑぼし》の下には、下《しも》ぶくれの顔がこちらを見てゐる。そのふつくりと肥つた頬に、鮮かな赤みがさしてゐるのは、何も臙脂《えんじ》をぼかしたのではない。男には珍しい餅肌が、自然と血の色を透《す》かせたのである。髭《ひげ》は品《ひん》の好い鼻の下に、――と云ふよりも薄い唇の左右に、丁度薄墨を刷《は》いたやうに、僅ばかりしか残つてゐない。しかしつややかな鬢《びん》の上には、霞も立たない空の色さへ、ほんのりと青みを映してゐる。耳はその鬢《びん》のはづれに、ちよいと上《あが》つた耳たぶだけ見える。それが蛤《はまぐり》の貝のやうな、暖かい色をしてゐるのは、かすかな光の加減らしい。眼は人よりも細い中《うち》に、絶えず微笑が漂つてゐる。殆《ほとんど》その瞳の底には、何時《いつ》でも咲き匂つた桜の枝が、浮んでゐるのかと思ふ位、晴れ晴れした微笑が漂つてゐる。が、多少注意をすれば、其処《そこ》には必しも幸福のみが住まつてゐない事がわかるかも知れない。これは遠い何物かに、※[#「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1-84-54]※[#「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45]《しやうけい》を持つた微笑である。同時に又手近い一切《いつさい》に、軽蔑を抱いた微笑である。頸《くび》は顔に比べると、寧《むし》ろ華奢《きやしや》すぎると評しても好い。その頸には白い汗衫《かざみ》の襟が、かすかに香を焚きしめた、菜の花色の水干《すゐかん》の襟と、細い一線を画《ゑが》いてゐる。顔の後にほのめいてゐるのは、鶴を織り出した几帳《きちやう》であらうか? それとものどかな山の裾に、女松《めまつ》を描いた障子であらうか? 兎に角曇つた銀のやうな、薄白い明《あかる》みが拡がつてゐる。……
 これが古い物語の中から、わたしの前に浮んで来た「天《あめ》が下《した》の色好《いろごの》み」平《たひら》の貞文《さだぶみ》の似顔である。平の好風《よしかぜ》に子が三人ある、丁度その次男に生まれたから、平中《へいちゆう》と渾名《あだな》を呼ばれたと云ふ、わたしの Don Juan の似顔である。

     二 桜

 平中は柱によりかかりながら、漫然と桜を眺めてゐる。近々と軒に迫つた桜は、もう盛りが過ぎたらしい。そのやや赤みの褪《あ》せた花には、永い昼過ぎの日の光が、さし交《かは》した枝の向き向きに、複雑な影を投げ合つてゐる。が、平中の眼は桜にあつても、平中の心は桜にない。彼はさつきから漫然と、侍従《じじゆう》の事を考へてゐる。
「始めて侍従を見かけたのは、――」
 平中はかう思ひ続けた。
「始めて侍従を見かけたのは、――あれは何時《いつ》の事だつたかな? さうさう、何でも稲荷詣《いなりまう》でに出かけると云つてゐたのだから、初午《はつうま》の朝だつたのに違ひない。あの女が車へ乗らうとする、おれが其処へ通りかかる、――と云ふのが抑々《そもそも》の起りだつた。顔は扇をかざした陰にちらりと見えただけだつたが、紅梅や萌黄《もえぎ》を重ねた上へ、紫の袿《うちぎ》をひつかけてゐる、――その容子《ようす》が何とも云へなかつた。おまけに※[#「車+非」、第4水準2-89-66]《はこ》へはひる所だから、片手に袴をつかんだ儘《まま》、心もち腰をかがめ加減にした、――その又恰好もたまらなかつたつけ。本院の大臣《おとど》の御屋形《おんやかた》には、ずゐぶん女房も沢山ゐるが、まづあの位なのは一人もないな。あれなら平中が惚《ほ》れたと云つても、――」
 平中はちよいと真顔《まがほ》になつた。
「だが本当に惚れてゐるかしら? 惚れてゐると云へば、惚れてゐるやうでもあるし、惚れてゐないと云へば、惚れて、――一体こんな事は考へてゐると、だんだんわからなくなるものだが、まあ一通りは惚れてゐるな。尤もおれの事だから、いくら侍従に惚れたと云つても、眼さきまで昏《くら》んでしまひはしない。何時かあの範実《のりざね》のやつと、侍従の噂《うはさ》をしてゐたら、憾《うら》むらくは髪が薄すぎると、聞いた風な事を云つたつけ、あんな事は一目見た時にもうちやんと気がついてゐたのだ。範実《のりざね》などと云ふ男は、篳篥《ひちりき》こそちつとは吹けるだらうが、好色《かうしよく》の話となつた日には、――まあ、あいつはあいつとして置け。差向きおれが考へたいのは、侍従一人の事なのだから、――所でもう少し欲を云へば、顔もあれぢや寂しすぎるな。それも寂しすぎると云ふだけなら、何処《どこ》か古い画巻《ゑまき》じみた、上品な所がある筈だが、寂しい癖に薄情らしい、妙に落着いた所があるのは、どう考へても頼もしくない。女でもああ云ふ顔をしたのは、存外人を食つてゐるものだ。その上色も白い方ぢやない、浅黒いとまでは行かなくつても、琥珀色《こはくいろ》位な所はあるな。しかし何時見てもあの女は、何だかかう水際《みづぎは》立つた、震《ふる》ひつきたいやうな風をしてゐる。あれは確かにどの女も、真似の出来ない芸当だらう。……」
 平中は袴の膝を立てながら、うつとりと軒の空を見上げた。空は簇《むらが》つた花の間に、薄青い色をなごませてゐる。
「それにしてもこの間から、いくら文《ふみ》を持たせてやつても、返事一つよこさないのは、剛情にも程があるぢやないか? まあおれが文をつけた女は、大抵は三度目に靡《なび》いてしまふ。たまに堅い女があつても、五度と文をやつた事はない。あの恵眼《ゑげん》と云ふ仏師の娘なぞは、一首の歌だけに落ちたものだ。それもおれの作つた歌ぢやない。誰かが、さうさう、――義輔《よしすけ》が作つた歌だつけ。義輔はその歌を書いてやつても、とんと先方の青女房には相手にされなかつたとか云ふ話だが、同じ歌でもおれが書けば――尤も侍従はおれが書いても、やつぱり返事はくれなかつたから、あんまり自慢は出来ないかも知れない。しかし兎に角おれの文には必ず女の返事が来る、返事が来れば逢ふ事になる。逢ふ事になれば大騒ぎをされる。大騒ぎをされれば――ぢきに又それが鼻についてしまふ。かうまあ相場がきまつてゐたものだ。所が侍従には一月ばかりに、ざつと二十通も文を書いたが、何とも便りがないのだからな。おれの艶書《えんしよ》の文体にしても、さう無際限にある訳ぢやなし、そろそろもう跡が続かなくなつた。だが今日やつた文の中には、『せめては唯見つとばかりの、二文字《ふたもじ》だに見せ給へ』と書いてやつたから、何とか今度こそ返事があるだらう。ないかな? もし今日も亦ないとすれば、――ああ、ああ、おれもついこの間までは、こんな事に気骨を折る程、意気地のない人間ぢやなかつたのだがな。何でも豊楽院《ぶらくゐん》の古狐は、女に化けると云ふ事だが、きつとあの狐に化かされたのは、こんな気がするのに違ひない。同じ狐でも奈良坂の狐は、三抱《みかか》へもあらうと云ふ杉の木に化ける。嵯峨の狐は牛車《ぎつしや》に化ける。高陽川《かやがは》の狐は女《め》の童《わらは》に化ける。桃薗《ももぞの》の狐は大池に化け――狐の事なぞはどうでも好《い》い。ええと、何を考へてゐたのだつけ?」
 平中は空を見上げた儘、そつと欠伸《あくび》を噛殺《かみころ》した。花に埋《うづ》まつた軒先からは、傾きかけた日の光の中に、時々白いものが飜つて来る。何処かに鳩も啼いてゐるらしい。
「兎に角あの女には根負《こんま》けがする。たとひ逢ふと云はないまでも、おれと一度話さへすれば、きつと手に入れて見せるのだがな。まして一晩逢ひでもすれば、――あの摂津《せつつ》でも小中将《こちゆうじやう》でも、まだおれを知らない内は、男嫌ひで通してゐたものだ。それがおれの手にかかると、あの通り好きものになるぢやないか? 侍従にした所が金仏《かなぼとけ》ぢやなし、有頂天にならない筈はあるまい。しかしあの女はいざとなつても、小中将のやうには恥しがるまいな。と云つて又摂津のやうに、妙にとりすます柄でもあるまい。きつと袖を口へやると、眼だけにつこり笑ひながら、――」
「殿様。」
「どうせ夜の事だから、切り燈台か何かがともつてゐる。その火の光があの女の髪へ、――」
「殿様。」
 平中はやや慌《あわ》てたやうに、烏帽子《ゑぼし》の頭を後へ向けた。後には何時《いつ》か童《わらべ》が一人、ぢつと伏し眼になりながら、一通の文《ふみ》をさし出してゐる。何でもこれは一心に、笑ふのをこらへてゐたものらしい。
「消息《せうそこ》か?」
「はい、侍従様から、――」
 童はかう云ひ終ると、※[#「勹<夕」、第3水準1-14-76]々《そうそう》主人の前を下《さが》つた。
「侍従様から? 本当かしら?」
 平中は殆《ほとんど》恐る恐る、青い薄葉《うすえふ》の文を開いた。
「範実や義輔の悪戯《いたづら》ぢやないか? あいつ等はみんなこんな事が、何よりも好きな閑人《ひまじん》だから、――おや、これは侍従の文だ。侍従の文には違ひないが、――この文は、これは、何と云ふ文だい?」
 平中は文を抛《はふ》り出した。文には「唯見つとばかりの、二文字《ふたもじ》だに見せ給へ」と書いてやつた、その「見つ」と云ふ二文字だけが、――しかも平中の送つた文から、この二文字だけ切り抜いたのが、薄葉に貼りつけてあつたのである。
「ああ、ああ、天《あめ》が下《した》の色好みとか云はれるおれも、この位|莫迦《ばか》にされれば世話はないな。それにしても侍従と云ふやつは、小面《こづら》の憎い女ぢやないか? 今にどうするか覚えてゐろよ。……」
 平中は膝を抱へた儘、茫然と桜の梢を見上げた。青い薄葉の飜つた上には、もう風に吹かれた落花が、点々と幾ひらもこぼれてゐる。……

     三 雨夜

 それから二月程たつた後である。或|長雨《ながあめ》の続いた夜、平中は一人本院の侍従の局《つぼね》へ忍んで行つた。雨は夜空が溶け落ちるやうに、凄《すさ》まじい響を立ててゐる。路は泥濘《でいねい》と云ふよりも、大水が出たのと変りはない。こんな晩にわざわざ出かけて行けば、いくらつれない侍従でも、憐れに思ふのは当然である、――かう考へた平中は、局の口へ窺《うかが》ひよると、銀を張つた扇を鳴らしながら、案内を請ふやうに咳ばらひをした。
 すると十五六の女《め》の童《わらは》が、すぐに其処へ姿を見せた。ませた顔に白粉《おしろい》をつけた、さすがに睡《ね》むさうな女の童である。平中は顔を近づけながら、小声に侍従へ取次を頼んだ。
 一度引きこんだ女の童は、局の口へ帰つて来ると、やはり小声にこんな返事をした。
「どうかこちらに御待ち下さいまし。今に皆様が御休みになれば、御逢ひになるさうでございますから。」
 平中は思はず微笑した。さうして女の童の案内通り、侍従の居間の隣らしい、遣戸《やりど》の側に腰を下した。
「やつぱりおれは智慧者だな。」
 女の童が何処かへ退いた後、平中は独りにやにやしてゐた。
「さすがの侍従も今度と云ふ今度は、とうとう心が折れたと見える。兎角《とかく》女と云ふやつは、ものの哀れを感じ易いからな。其処へ親切気を見せさへすれば、すぐにころりと落ちてしまふ。かう云ふ甲所《かんどころ》を知らないから、義輔《よしすけ》や範実《のりざね》は何と云つても、――待てよ。だが今夜逢へると云ふのは、何だか話が旨《うま》すぎるやうだぞ。――」
 平中はそろそろ不安になつた。
「しかし逢ひもしないものが、逢ふと云ふ訳もなささうなものだ。するとおれのひがみかな? 何しろざつと六十通ばかり、のべつに文を持たせてやつても、返事一つ貰へなかつたのだから、ひがみの起るのも尤もな話だ。が、ひがみではないとしたら、――又つくづく考へると、ひがみではない気もしない事はない。いくら親切に絆《ほだ》されても、今までは見向きもしなかつた侍従が、――と云つても相手はおれだからな。この位平中に思はれたとなれば、急に心も融けるかも知れない。」
 平中は衣紋《えもん》を直しながら、怯《お》づ怯《お》づあたりを透かして見た。が、彼のゐまはりには、くら闇の外《ほか》に何も見えない。その中に唯雨の音が、檜肌葺《ひはだぶき》の屋根をどよませてゐる。
「ひがみだと思へば、ひがみのやうだし、ひがみでないと、――いや、ひがみだと思つてゐれば、ひがみでも何でもなくなるし、ひがみでないと思つてゐれば、案外ひがみですみさうな気がする。一体運なぞと云ふやつは、皮肉に出来てゐるものだからな。して見れば、何でも一心《いつしん》にひがみでないと思ふ事だ。さうすると今にもあの女が、――おや、もうみんな寝始めたらしいぞ。」
 平中は耳を側立《そばだ》てた。成程《なるほど》ふと気がついて見れば、不相変《あひかはらず》小止《をや》みない雨声《うせい》と一しよに、御前《ごぜん》へ詰めてゐた女房たちが局々《つぼねつぼね》に帰るらしい、人ざわめきが聞えて来る。
「此処が辛抱のし所だな。もう半時《はんとき》もたちさへすれば、おれは何の造作もなく、日頃の思ひが晴らされるのだ。が、まだ何だか肚《はら》の底には、安心の出来ない気もちもあるぞ。さうさう、これが好いのだつけ。逢はれないものだと思つてゐれば、不思議に逢ふ事が出来るものだ。しかし皮肉な運のやつは、さう云ふおれの胸算用《むなさんよう》も見透かしてしまふかも知れないな。ぢや逢はれると考へようか? それにしても勘定づくだから、やつぱりこちらの思ふやうには、――ああ、胸が痛んで来た。一そ何か侍従なぞとは、縁のない事を考へよう。大分どの局もひつそりしたな。聞えるのは雨の音ばかりだ。ぢや早速眼をつぶつて、雨の事でも考へるとしよう。春雨、五月雨、夕立、秋雨、……秋雨と云ふ言葉があるかしら? 秋の雨、冬の雨、雨だり、雨漏り、雨傘、雨乞ひ、雨竜《あまりよう》、雨蛙、雨革《あまがは》、雨宿り、……」
 こんな事を思つてゐる内に、思ひがけない物の音が、平中の耳を驚かせた。いや、驚かせたばかりではない、この音を聞いた平中の顔は、突然|弥陀《みだ》の来迎《らいがう》を拝した、信心深い法師よりも、もつと歓喜に溢れてゐる。何故と云へば遣戸《やりど》の向うに、誰か懸け金を外《はづ》した音が、はつきり耳に響いたのである。
 平中は遣戸を引いて見た。戸は彼の思つた通り、するりと閾《しきゐ》の上を辷《すべ》つた。その向うには不思議な程、空焚《そらだき》の匂が立ち罩《こ》めた、一面の闇が拡がつてゐる。平中は静かに戸をしめると、そろそろ膝で這ひながら、手探りに奥へ進み寄つた。が、この艶《なまめ》いた闇の中には、天井の雨の音の外に、何一つ物のけはひもしない。たまたま手がさはつたと思へば、衣桁《いかう》や鏡台ばかりである。平中はだんだん胸の動悸が、高まるやうな気がし出した。
「ゐないのかな? ゐれば何とか云ひさうなものだ。」
 かう彼が思つた時、平中の手は偶然にも柔かな女の手にさはつた。それからずつと探りまはすと、絹らしい打衣《うちぎぬ》の袖にさはる。その衣《きぬ》の下の乳房にさはる。円々した頬や顋《あご》にさはる。氷よりも冷たい髪にさはる。――平中はとうとうくら闇の中に、ぢつと独り横になつた、恋しい侍従を探り当てた。
 これは夢でも幻でもない。侍従は平中の鼻の先に、打衣一つかけた儘、しどけない姿を横たへてゐる。彼は其処にゐすくんだなり、我知らずわなわな震へ出した。が、侍従は不相変、身動きをする気色さへ見えない。こんな事は確か何かの草紙に、書いてあつたやうな心もちがする。それともあれは何年か以前、大殿油《おほとのあぶら》の火影《ほかげ》に見た何かの画巻にあつたのかも知れない。
「忝《かたじけ》ない。忝ない。今まではつれないと思つてゐたが、もう向後《かうご》は御仏よりも、お前に身命を捧げるつもりだ。」
 平中は侍従を引き寄せながら、かうその耳に囁《ささや》かうとした。が、いくら気は急《せ》いても、舌は上顋《うはあご》に引ついた儘、声らしいものは口へ出ない。その内に侍従の髪の匂や、妙に暖い肌の匂は、無遠慮に彼を包んで来る。――と思ふと彼の顔へは、かすかな侍従の息がかかつた。
 一瞬間、――その一瞬間が過ぎてしまへば、彼等は必ず愛欲の嵐に、雨の音も、空焚きの匂も、本院の大臣《おとど》も、女《め》の童《わらは》も忘却してしまつたに相違ない。しかしこの際《きは》どい刹那《せつな》に侍従は半ば身を起すと、平中の顔に顔を寄せながら、恥しさうな声を出した。
「お待ちなさいまし。まだあちらの障子には、懸金が下してございませんから、あれをかけて参ります。」
 平中は唯|頷《うなづ》いた。侍従は二人の褥《しとね》の上に、匂の好い暖《ぬく》みを残した儘、そつと其処を立つて行つた。
「春雨、侍従、弥陀如来、雨宿り、雨だれ、侍従、侍従、……」
 平中はちやんと眼を開《あ》いたなり、彼自身にも判然しない、いろいろな事を考へてゐる。すると向うのくら闇に、かちりと懸金を下す音がした。
「雨竜、香炉、雨夜のしなさだめ、ぬば玉の闇のうつつはさだかなる夢にいくらもまさらざりけり、夢にだに、――どうしたのだらう? 懸け金はもう下りたと思つたが、――」
 平中は頭を擡《もた》げて見た。が、あたりにはさつきの通り、空焚きの匂が漂つた、床《ゆか》しい闇があるばかりである。侍従は何処へ行つたものか、衣ずれの音も聞えて来ない。
「まさか、――いや、事によると、――」
 平中は褥《しとね》を這ひ出すと、又元のやうに手探りをしながら、向うの障子へ辿《たど》りついた。すると障子には部屋の外から、厳重に懸け金が下してある。その上耳を澄ませて見ても、足音一つさせるものはない。局々が大雨の中に、いづれもひつそりと寝静まつてゐる。
「平中、平中、お前はもう天が下の色好みでも何でもない。――」
 平中は障子に寄りかかつた儘、失心したやうに呟いた。
「お前の容色も劣へた。お前の才も元のやうぢやない。お前は範実《のりざね》や義輔《よしすけ》よりも、見下げ果てた意気地なしだ。……」

     四 好色問答

 これは平中の二人の友達――義輔と範実との間に交換された、或無駄話の一節である。
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義輔 「あの侍従と云ふ女には、さすがの平中もかなはないさうだね。」
範実 「さう云ふ噂だね。」
義輔 「あいつには好《い》い見せしめだよ。あいつは女御更衣《によごかうい》でなければ、どんな女にでも手を出す男だ。ちつとは懲《こ》らしてやる方が好い。」
範実 「へええ、君も孔子の御弟子か?」
義輔 「孔子の教なぞは知らないがね。どの位女が平中の為に、泣かされたか位は知つてゐるのだ。もう一言|次手《ついで》につけ加へれば、どの位苦しんだ夫があるか、どの位腹を立てた親があるか、どの位怨んだ家来があるか、それもまんざら知らないぢやない。さう云ふ迷惑をかける男は当然|鼓《こ》を鳴らして責むべき者だ。君はさう考へないかね?」
範実 「さうばかりも行かないからね。成程《なるほど》平中一人の為に、世間は迷惑してゐるかも知れない。しかしその罪は平中一人が、負ふべきものでもなからうぢやないか?」
義輔 「ぢや又外に誰が負ふのだね?」
範実 「それは女に負はせるのさ。」
義輔 「女に負はせるのは可哀さうだよ。」
範実 「平中に負はせるのも可哀さうぢやないか?」
義輔 「しかし平中が口説《くど》いたのだからな。」
範実 「男は戦場に太刀打ちをするが、女は寝首《ねくび》しか掻《か》かないのだ。人殺しの罪は変るものか。」
義輔 「妙に平中の肩を持つな。だがこれだけは確かだらう? 我々は世間を苦しませないが、平中は世間を苦しませてゐる。」
範実 「それもどうだかわからないね。一体我々人間は、如何《いか》なる因果か知らないが、互に傷《きずつ》け合はないでは、一刻も生きてはゐられないものだよ。唯平中は我々よりも、余計に世間を苦しませてゐる。この点は、ああ云ふ天才には、やむを得ない運命だね。」
義輔 「冗談ぢやないぜ。平中が天才と一しよになるなら、この池の鰌《どぢやう》も竜になるだらう。」
範実 「平中は確かに天才だよ。あの男の顔に気をつけ給へ。あの男の声を聞き給へ。あの男の文《ふみ》を読んで見給へ。もし君が女だつたら、あの男と一晩逢つて見給へ。あの男は空海上人だとか小野道風だとかと同じやうに、母の胎内を離れた時から、非凡な能力を授かつて来たのだ。あれが天才でないと云へば、天下に天才は一人もゐない。その点では我々二人の如きも、到底平中の敵ぢやないよ。」
義輔 「しかしだね。しかし天才は君の云ふやうに、罪ばかり作つてはゐないぢやないか? たとへば道風の書を見れば、微妙な筆力に動かされるとか、空海上人の誦経《ずきやう》を聞けば――」
範実 「僕は何も天才は、罪ばかり作ると云ひはしない。罪も作ると云つてゐるのだ。」
義輔 「ぢや平中とは違ふぢやないか? あいつの作るのは罪ばかりだぜ。」
範実 「それは我々にはわからない筈だ。仮名も碌《ろく》に書けないものには、道風の書もつまらないぢやないか? 信心気《しんじんき》のちつともないものには、空海上人の誦経《ずきやう》よりも、傀儡《くぐつ》の歌の方が面白いかも知れない。天才の功徳《くどく》がわかる為には、こちらにも相当の資格が入るさ。」
義輔 「それは君の云ふ通りだがね、平中|尊者《そんじや》の功徳なぞは、――」
範実 「平中の場合も同じぢやないか? ああ云ふ好色の天才の功徳は、女だけが知つてゐる筈だ。君はさつきどの位女が平中の為に泣かされたかと云つたが、僕は反対にかう云ひたいね。どの位女が平中の為に、無上の歓喜を味はつたか、どの位女が平中の為に、しみじみ生き甲斐を感じたか、どの位女が平中の為に、犠牲の尊さを教へられたか、どの位女が平中の為に、――」
義輔 「いや、もうその位で沢山だよ。君のやうに理窟をつければ、案山子《かかし》も鎧武者《よろひむしや》になつてしまふ。」
範実 「君のやうに嫉妬深いと、鎧武者も案山子と思つてしまふぜ。」
義輔 「嫉妬深い? へええ、これは意外だね。」
範実 「君は平中を責める程、淫奔《いんぽん》な女を責めないぢやないか? たとひ口では責めてゐても、肚の底で責めてゐまい。それはお互に男だから、何時か嫉妬が加はるのだ。我々はみんな多少にしろ、もし平中になれるものなら、平中になつて見たいと云ふ、人知れない野心を持つてゐる。その為に平中は謀叛人《むほんにん》よりも、一層我々に憎まれるのだ。考へて見れば可哀さうだよ。」
義輔 「ぢや君も平中になりたいかね?」
範実 「僕か? 僕はあまりなりたくない。だから僕が平中を見るのは、君が見るのよりも公平なのだ。平中は女が一人出来ると、忽ちその女に飽きてしまふ。さうして誰か外の女に、可笑しい程夢中になつてしまふ。あれは平中の心の中には、何時《いつ》も巫山《ふざん》の神女《しんによ》のやうな、人倫《じんりん》を絶した美人の姿が、髣髴《はうふつ》と浮んでゐるからだよ。平中は何時も世間の女に、さう云ふ美しさを見ようとしてゐる。実際惚れてゐる時には、見る事が出来たと思つてゐるのだ。が、勿論二三度逢へば、さう云ふ蜃気楼《しんきろう》は壊れてしまふ。その為にあいつは女から女へ、転々と憂《う》き身をやつしに行くのだ。しかも末法《まつぽふ》の世の中に、そんな美人のゐる筈はないから、結局平中の一生は、不幸に終るより仕方がない。その点では君や僕の方が、遙かに仕合せだと云ふものさ。しかし平中の不幸なのは、云はば天才なればこそだね。あれは平中一人ぢやない。空海上人や小野道風も、きつとあいつと似てゐたらう。兎に角仕合になる為には、御同様凡人が一番だよ……。」
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     五 まりも美しとなげく男

 平中《へいちゆう》は独り寂しさうに、本院の侍従の局《つぼね》に近い、人気《ひとけ》のない廊下に佇んでゐる。その廊下の欄にさした、油のやうな日の色を見ても、又今日は暑さが加はるらしい。が、庇《ひさし》の外の空には、簇々《そうそう》と緑を抽《ぬ》いた松が、静かに涼しさを守つてゐる。
「侍従はおれを相手にしない。おれももう侍従は思ひ切つた。――」
 平中は蒼白い顔をした儘、ぼんやりこんな事を思つてゐる。
「しかしいくら思ひ切つても、侍従の姿は幻のやうに、必ず眼前に浮んで来る。おれは何時かの雨夜以来、唯この姿を忘れたいばかりに、どの位四方の神仏へ、祈願を凝《こ》らしたかわからない。が、加茂の御社《みやしろ》へ行けば、御鏡の中にありありと、侍従の顔が映つて見える。清水《きよみづ》の御寺《みてら》の内陣にはひれば、観世音菩薩の御姿さへ、その儘侍従に変つてしまふ。もしこの姿が何時までも、おれの心を立ち去らなければ、おれはきつと焦《こが》れ死《じに》に、死んでしまふのに相違ない。――」
 平中は長い息をついた。
「だがその姿を忘れるには、――たつた一つしか手段はない。それは何でもあの女の浅間しい所を見つける事だ。侍従もまさか天人ではなし、不浄もいろいろ蔵してゐるだらう。其処を一つ見つけさへすれば、丁度女房に化けた狐が、尾のある事を知られたやうに、侍従の幻も崩れてしまふ。おれの命はその刹那に、やつとおれのものになるのだ。が、何処が浅間しいか、何処が不浄を蔵してゐるか、それは誰も教へてくれない。ああ、大慈大悲の観世音菩薩、どうか其処を御示し下さい、侍従は河原の女乞食と、実は少しも変らない証拠を。……」
 平中はかう考へながら、ふと懶《ものう》い視線を挙げた。
「おや、あすこへ来かかつたのは、侍従の局の女《め》の童《わらは》ではないか?」
 あの利口さうな女の童は、撫子《なでしこ》重《がさ》ねの薄物の袙《あこめ》に、色の濃い袴を引きながら、丁度こちらへ歩いて来る。それが赤紙の画扇の陰に、何か筐《はこ》を隠してゐるのは、きつと侍従のした糞《まり》を捨てに行く所に相違ない。その姿を一目見ると、突然平中の心の中《うち》には、或大胆な決心が、稲妻のやうに閃《ひらめ》き渡つた。
 平中は眼の色を変へたなり、女の童の行く手に立ち塞がつた。そしてその筐をひつたくるや否や、廊下の向ふに一つ見える、人のゐない部屋へ飛んで行つた。不意を打たれた女の童は、勿論泣き声を出しながら、ばたばた彼を追ひかけて来る。が、その部屋へ躍りこむと、平中は、遣戸《やりど》を立て切るが早いか、手早く懸け金を下してしまつた。
「さうだ。この中を見れば間違ひない。百年の恋も一瞬の間に、煙よりもはかなく消えてしまふ。……」
 平中はわなわな震へる手に、ふはりと筐の上へかけた、香染《かうぞめ》の薄物を掲げて見た。筐は意外にも精巧を極めた、まだ真新しい蒔絵《まきゑ》である。
「この中に侍従の糞《まり》がある。同時におれの命もある。……」
 平中は其処に佇んだ儘、ぢつと美しい筐を眺めた。局の外には忍び忍びに、女の童の泣き声が続いてゐる。が、それは何時の間にか、重苦しい沈黙に呑まれてしまふ。と思ふと遣戸や障子も、だんだん霧のやうに消え始める。いや、もう今では昼か夜か、それさへ平中には判然しない。唯彼の眼の前には、時鳥《ほととぎす》を描《か》いた筐が一つ、はつきり空中に浮き出してゐる。……
「おれの命の助かるのも、侍従と一生の別れをするのも、皆この筐に懸つてゐる。この筐の蓋を取りさへすれば、――いや、それは考へものだぞ。侍従を忘れてしまふのが好いか、甲斐のない命を長らへるのが好いか、おれにはどちらとも返答出来ない。たとひ焦がれ死をするにもせよ、この筐の蓋だけは取らずに置かうか?……」
 平中は窶《やつ》れた頬の上に、涙の痕を光らせながら、今更のやうに思ひ惑つた。しかし少時《しばらく》沈吟《ちんぎん》した後、急に眼を輝かせると、今度はかう心の中に一生懸命の叫声を挙げた。
「平中! 平中! お前は何と云ふ意気地なしだ? あの雨夜を忘れたのか? 侍従は今もお前の恋を嘲笑つてゐるかも知れないのだぞ。生きろ! 立派に生きて見せろ! 侍従の糞《まり》を見さへすれば、必《かならず》お前は勝ち誇れるのだ。……」
 平中は殆《ほとんど》気違ひのやうに、とうとう筐の蓋を取つた。筐には薄い香色の水が、たつぷり半分程はひつた中に、これは濃い香色の物が、二つ三つ底へ沈んでゐる。と思ふと夢のやうに、丁子《ちやうじ》の匂が鼻を打つた。これが侍従の糞であらうか? いや、吉祥天女にしてもこんな糞はする筈がない。平中は眉をひそめながら、一番上に浮いてゐた、二寸程の物をつまみ上げた。さうして髭にも触れる位、何度も匂を嗅ぎ直して見た。匂は確かに紛《まぎ》れもない、飛び切りの沈《ぢん》の匂である。
「これはどうだ! この水もやはり匂ふやうだが、――」
 平中は筐を傾けながら、そつと水を啜つて見た。水も丁子《ちやうじ》を煮返した、上澄みの汁に相違ない。
「するとこいつも香木かな?」
 平中は今つまみ上げた、二寸程の物を噛みしめて見た。すると歯にも透《とほ》る位、苦味の交つた甘さがある。その上彼の口の中には、急《たちま》ち橘の花よりも涼しい、微妙な匂が一ぱいになつた。侍従は何処から推量したか、平中のたくみを破る為に、香細工の糞をつくつたのである。
「侍従! お前は平中を殺したぞ!」
 平中はかう呻《うめ》きながら、ばたりと蒔絵の筐を落した。さうして其処の床の上へ、仏倒《ほとけだふ》しに倒れてしまつた。その半死の瞳の中には、紫摩金《しまごん》の円光にとりまかれた儘、※[#「女+展」、180-下-14]然《てんぜん》と彼にほほ笑みかけた侍従の姿を浮べながら。……
[#地から2字上げ](大正十年九月)



底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月19日公開
2004年3月1日修正
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