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黄粱夢
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)盧生《ろせい》

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(例)[#地から1字上げ](大正六年十月)
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 盧生《ろせい》は死ぬのだと思った。目の前が暗くなって、子や孫のすすり泣く声が、だんだん遠い所へ消えてしまう。そうして、眼に見えない分銅《ふんどう》が足の先へついてでもいるように、体が下へ下へと沈んで行く――と思うと、急にはっと何かに驚かされて、思わず眼を大きく開いた。
 すると枕もとには依然として、道士《どうし》の呂翁《ろおう》が坐っている。主人の炊《かし》いでいた黍《きび》も、未《いま》だに熟さないらしい。盧生は青磁の枕から頭をあげると、眼をこすりながら大きな欠伸《あくび》をした。邯鄲《かんたん》の秋の午後は、落葉《おちば》した木々の梢《こずえ》を照らす日の光があってもうすら寒い。
「眼がさめましたね。」呂翁は、髭《ひげ》を噛みながら、笑《えみ》を噛み殺すような顔をして云った。
「ええ」
「夢をみましたろう。」
「見ました。」
「どんな夢を見ました。」
「何でも大へん長い夢です。始めは清河《せいか》の崔氏《さいし》の女《むすめ》と一しょになりました。うつくしいつつましやかな女だったような気がします。そうして明《あく》る年、進士《しんし》の試験に及第して、渭南《いなん》の尉《い》になりました。それから、監察御史《かんさつぎょし》や起居舎人《ききょしゃじん》知制誥《ちせいこう》を経て、とんとん拍子に中書門下《ちゅうしょもんか》平章事《へいしょうじ》になりましたが、讒《ざん》を受けてあぶなく殺される所をやっと助かって、驩州《かんしゅう》へ流される事になりました。そこにかれこれ五六年もいましたろう。やがて、冤《えん》を雪《すす》ぐ事が出来たおかげでまた召還され、中書令《ちゅうしょれい》になり、燕国公《えんこくこう》に封ぜられましたが、その時はもういい年だったかと思います。子が五人に、孫が何十人とありましたから。」
「それから、どうしました。」
「死にました。確か八十を越していたように覚えていますが。」
 呂翁《ろおう》は、得意らしく髭を撫でた。
「では、寵辱《ちょうじょく》の道も窮達《きゅうたつ》の運も、一通りは味わって来た訳ですね。それは結構な事でした。生きると云う事は、あなたの見た夢といくらも変っているものではありません。これであなたの人生の執着《しゅうじゃく》も、熱がさめたでしょう。得喪《とくそう》の理も死生の情も知って見れば、つまらないものなのです。そうではありませんか。」
 盧生《ろせい》は、じれったそうに呂翁の語《ことば》を聞いていたが、相手が念を押すと共に、青年らしい顔をあげて、眼をかがやかせながら、こう云った。
「夢だから、なお生きたいのです。あの夢のさめたように、この夢もさめる時が来るでしょう。その時が来るまでの間、私《わたし》は真に生きたと云えるほど生きたいのです。あなたはそう思いませんか。」
 呂翁は顔をしかめたまま、然《しか》りとも否《いな》とも答えなかった。
[#地から1字上げ](大正六年十月)



底本:「芥川龍之介全集2」ちくま文庫、筑摩書房
   1986(昭和61)年10月28日第1刷発行
   1996(平成8)年7月15日第11刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:平山誠、野口英司
校正:もりみつじゅんじ
1997年11月10日公開
2004年3月12日修正
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