青空文庫アーカイブ

神神の微笑
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)ある春の夕《ゆうべ》

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(例)昔|紅海《こうかい》の底に

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53]
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 ある春の夕《ゆうべ》、Padre Organtino はたった一人、長いアビト(法衣《ほうえ》)の裾《すそ》を引きながら、南蛮寺《なんばんじ》の庭を歩いていた。
 庭には松や檜《ひのき》の間《あいだ》に、薔薇《ばら》だの、橄欖《かんらん》だの、月桂《げっけい》だの、西洋の植物が植えてあった。殊に咲き始めた薔薇の花は、木々を幽《かす》かにする夕明《ゆうあか》りの中に、薄甘い匂《におい》を漂わせていた。それはこの庭の静寂に、何か日本《にほん》とは思われない、不可思議な魅力《みりょく》を添えるようだった。
 オルガンティノは寂しそうに、砂の赤い小径《こみち》を歩きながら、ぼんやり追憶に耽っていた。羅馬《ロオマ》の大本山《だいほんざん》、リスポアの港、羅面琴《ラベイカ》の音《ね》、巴旦杏《はたんきょう》の味、「御主《おんあるじ》、わがアニマ(霊魂)の鏡」の歌――そう云う思い出はいつのまにか、この紅毛《こうもう》の沙門《しゃもん》の心へ、懐郷《かいきょう》の悲しみを運んで来た。彼はその悲しみを払うために、そっと泥烏須《デウス》(神)の御名《みな》を唱えた。が、悲しみは消えないばかりか、前よりは一層彼の胸へ、重苦しい空気を拡げ出した。
「この国の風景は美しい――。」
 オルガンティノは反省した。
「この国の風景は美しい。気候もまず温和である。土人は、――あの黄面《こうめん》の小人《こびと》よりも、まだしも黒ん坊がましかも知れない。しかしこれも大体の気質は、親しみ易いところがある。のみならず信徒も近頃では、何万かを数えるほどになった。現にこの首府のまん中にも、こう云う寺院が聳《そび》えている。して見ればここに住んでいるのは、たとい愉快ではないにしても、不快にはならない筈ではないか? が、自分はどうかすると、憂鬱の底に沈む事がある。リスポアの市《まち》へ帰りたい、この国を去りたいと思う事がある。これは懐郷の悲しみだけであろうか? いや、自分はリスポアでなくとも、この国を去る事が出来さえすれば、どんな土地へでも行きたいと思う。支那《しな》でも、沙室《シャム》でも、印度《インド》でも、――つまり懐郷の悲しみは、自分の憂鬱の全部ではない。自分はただこの国から、一日も早く逃れたい気がする。しかし――しかしこの国の風景は美しい。気候もまず温和である。……」
 オルガンティノは吐息《といき》をした。この時偶然彼の眼は、点々と木かげの苔《こけ》に落ちた、仄白《ほのじろ》い桜の花を捉《とら》えた。桜! オルガンティノは驚いたように、薄暗い木立《こだ》ちの間《あいだ》を見つめた。そこには四五本の棕櫚《しゅろ》の中に、枝を垂らした糸桜《いとざくら》が一本、夢のように花を煙らせていた。
「御主《おんあるじ》守らせ給え!」
 オルガンティノは一瞬間、降魔《ごうま》の十字を切ろうとした。実際その瞬間彼の眼には、この夕闇に咲いた枝垂桜《しだれざくら》が、それほど無気味《ぶきみ》に見えたのだった。無気味に、――と云うよりもむしろこの桜が、何故《なぜ》か彼を不安にする、日本そのもののように見えたのだった。が、彼は刹那《せつな》の後《のち》、それが不思議でも何でもない、ただの桜だった事を発見すると、恥しそうに苦笑しながら、静かにまたもと来た小径へ、力のない歩みを返して行った。

       ×          ×          ×

 三十分の後《のち》、彼は南蛮寺《なんばんじ》の内陣《ないじん》に、泥烏須《デウス》へ祈祷を捧げていた。そこにはただ円天井《まるてんじょう》から吊るされたランプがあるだけだった。そのランプの光の中に、内陣を囲んだフレスコの壁には、サン・ミグエルが地獄の悪魔と、モオゼの屍骸《しがい》を争っていた。が、勇ましい大天使は勿論、吼《たけ》り立った悪魔さえも、今夜は朧《おぼろ》げな光の加減か、妙にふだんよりは優美に見えた。それはまた事によると、祭壇の前に捧げられた、水々《みずみず》しい薔薇《ばら》や金雀花《えにしだ》が、匂っているせいかも知れなかった。彼はその祭壇の後《うしろ》に、じっと頭を垂れたまま、熱心にこう云う祈祷を凝らした。
「南無《なむ》大慈大悲の泥烏須如来《デウスにょらい》! 私《わたくし》はリスポアを船出した時から、一命はあなたに奉って居ります。ですから、どんな難儀に遇《あ》っても、十字架の御威光を輝かせるためには、一歩も怯《ひる》まずに進んで参りました。これは勿論私一人の、能《よ》くする所ではございません。皆天地の御主《おんあるじ》、あなたの御恵《おんめぐみ》でございます。が、この日本に住んでいる内に、私はおいおい私の使命が、どのくらい難《かた》いかを知り始めました。この国には山にも森にも、あるいは家々の並んだ町にも、何か不思議な力が潜《ひそ》んで居ります。そうしてそれが冥々《めいめい》の中《うち》に、私の使命を妨《さまた》げて居ります。さもなければ私はこの頃のように、何の理由もない憂鬱の底へ、沈んでしまう筈はございますまい。ではその力とは何であるか、それは私にはわかりません。が、とにかくその力は、ちょうど地下の泉のように、この国全体へ行き渡って居ります。まずこの力を破らなければ、おお、南無大慈大悲の泥烏須如来《デウスにょらい》! 邪宗《じゃしゅう》に惑溺《わくでき》した日本人は波羅葦増《はらいそ》(天界《てんがい》)の荘厳《しょうごん》を拝する事も、永久にないかも存じません。私はそのためにこの何日か、煩悶《はんもん》に煩悶を重ねて参りました。どうかあなたの下部《しもべ》、オルガンティノに、勇気と忍耐とを御授け下さい。――」
 その時ふとオルガンティノは、鶏の鳴き声を聞いたように思った。が、それには注意もせず、さらにこう祈祷の言葉を続けた。
「私《わたくし》は使命を果すためには、この国の山川《やまかわ》に潜んでいる力と、――多分は人間に見えない霊と、戦わなければなりません。あなたは昔|紅海《こうかい》の底に、埃及《エジプト》の軍勢《ぐんぜい》を御沈めになりました。この国の霊の力強い事は、埃及《エジプト》の軍勢に劣りますまい。どうか古《いにしえ》の予言者のように、私もこの霊との戦に、………」
 祈祷の言葉はいつのまにか、彼の唇《くちびる》から消えてしまった。今度は突然祭壇のあたりに、けたたましい鶏鳴《けいめい》が聞えたのだった。オルガンティノは不審そうに、彼の周囲を眺めまわした。すると彼の真後《まうしろ》には、白々《しろじろ》と尾を垂れた鶏が一羽、祭壇の上に胸を張ったまま、もう一度、夜でも明けたように鬨《とき》をつくっているではないか?
 オルガンティノは飛び上るが早いか、アビトの両腕を拡げながら、倉皇《そうこう》とこの鳥を逐い出そうとした。が、二足三足《ふたあしみあし》踏み出したと思うと、「御主《おんあるじ》」と、切れ切れに叫んだなり、茫然とそこへ立ちすくんでしまった。この薄暗い内陣《ないじん》の中には、いつどこからはいって来たか、無数の鶏が充満している、――それがあるいは空を飛んだり、あるいはそこここを駈けまわったり、ほとんど彼の眼に見える限りは、鶏冠《とさか》の海にしているのだった。
「御主、守らせ給え!」
 彼はまた十字を切ろうとした。が、彼の手は不思議にも、万力《まんりき》か何かに挟《はさ》まれたように、一寸《いっすん》とは自由に動かなかった。その内にだんだん内陣《ないじん》の中には、榾火《ほたび》の明《あか》りに似た赤光《しゃっこう》が、どこからとも知れず流れ出した。オルガンティノは喘《あえ》ぎ喘ぎ、この光がさし始めると同時に、朦朧《もうろう》とあたりへ浮んで来た、人影があるのを発見した。
 人影は見る間《ま》に鮮《あざや》かになった。それはいずれも見慣れない、素朴《そぼく》な男女の一群《ひとむれ》だった。彼等は皆|頸《くび》のまわりに、緒《お》にぬいた玉を飾りながら、愉快そうに笑い興じていた。内陣に群がった無数の鶏は、彼等の姿がはっきりすると、今までよりは一層高らかに、何羽も鬨《とき》をつくり合った。同時に内陣の壁は、――サン・ミグエルの画《え》を描《か》いた壁は、霧のように夜へ呑まれてしまった。その跡には、――
 日本の Bacchanalia は、呆気《あっけ》にとられたオルガンティノの前へ、蜃気楼《しんきろう》のように漂って来た。彼は赤い篝《かがり》の火影《ほかげ》に、古代の服装をした日本人たちが、互いに酒を酌み交《かわ》しながら、車座《くるまざ》をつくっているのを見た。そのまん中には女が一人、――日本ではまだ見た事のない、堂々とした体格の女が一人、大きな桶《おけ》を伏せた上に、踊り狂っているのを見た。桶の後ろには小山のように、これもまた逞《たくま》しい男が一人、根こぎにしたらしい榊《さかき》の枝に、玉だの鏡だのが下《さが》ったのを、悠然と押し立てているのを見た。彼等のまわりには数百の鶏が、尾羽根《おばね》や鶏冠《とさか》をすり合せながら、絶えず嬉しそうに鳴いているのを見た。そのまた向うには、――オルガンティノは、今更のように、彼の眼を疑わずにはいられなかった。――そのまた向うには夜霧の中に、岩屋《いわや》の戸らしい一枚岩が、どっしりと聳えているのだった。
 桶の上にのった女は、いつまでも踊をやめなかった。彼女の髪を巻いた蔓《つる》は、ひらひらと空に翻《ひるがえ》った。彼女の頸に垂れた玉は、何度も霰《あられ》のように響き合った。彼女の手にとった小笹の枝は、縦横に風を打ちまわった。しかもその露《あら》わにした胸! 赤い篝火《かがりび》の光の中に、艶々《つやつや》と浮《うか》び出た二つの乳房《ちぶさ》は、ほとんどオルガンティノの眼には、情欲そのものとしか思われなかった。彼は泥烏須《デウス》を念じながら、一心に顔をそむけようとした。が、やはり彼の体は、どう云う神秘な呪《のろい》の力か、身動きさえ楽には出来なかった。
 その内に突然沈黙が、幻の男女たちの上へ降った。桶の上に乗った女も、もう一度|正気《しょうき》に返ったように、やっと狂わしい踊をやめた。いや、鳴き競っていた鶏さえ、この瞬間は頸を伸ばしたまま、一度にひっそりとなってしまった。するとその沈黙の中に、永久に美しい女の声が、どこからか厳かに伝わって来た。
「私《わたし》がここに隠《こも》っていれば、世界は暗闇になった筈ではないか? それを神々は楽しそうに、笑い興じていると見える。」
 その声が夜空に消えた時、桶の上にのった女は、ちらりと一同を見渡しながら、意外なほどしとやかに返事をした。
「それはあなたにも立ち勝《まさ》った、新しい神がおられますから、喜び合っておるのでございます。」
 その新しい神と云うのは、泥烏須《デウス》を指しているのかも知れない。――オルガンティノはちょいとの間《あいだ》、そう云う気もちに励まされながら、この怪しい幻の変化に、やや興味のある目を注いだ。
 沈黙はしばらく破れなかった。が、たちまち鶏の群《むれ》が、一斉《いっせい》に鬨《とき》をつくったと思うと、向うに夜霧を堰《せ》き止めていた、岩屋の戸らしい一枚岩が、徐《おもむ》ろに左右へ開《ひら》き出した。そうしてその裂《さ》け目からは、言句《ごんく》に絶した万道《ばんどう》の霞光《かこう》が、洪水のように漲《みなぎ》り出した。
 オルガンティノは叫ぼうとした。が、舌は動かなかった。オルガンティノは逃げようとした。が、足も動かなかった。彼はただ大光明のために、烈しく眩暈《めまい》が起るのを感じた。そうしてその光の中に、大勢《おおぜい》の男女の歓喜する声が、澎湃《ほうはい》と天に昇《のぼ》るのを聞いた。
「大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53]貴《おおひるめむち》! 大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53]貴! 大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53]貴!」
「新しい神なぞはおりません。新しい神なぞはおりません。」
「あなたに逆《さから》うものは亡びます。」
「御覧なさい。闇が消え失せるのを。」
「見渡す限り、あなたの山、あなたの森、あなたの川、あなたの町、あなたの海です。」
「新しい神なぞはおりません。誰も皆あなたの召使です。」
「大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53]貴! 大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53]貴! 大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53]貴!」
 そう云う声の湧き上る中に、冷汗になったオルガンティノは、何か苦しそうに叫んだきりとうとうそこへ倒れてしまった。………
 その夜《よ》も三更《さんこう》に近づいた頃、オルガンティノは失心の底から、やっと意識を恢復した。彼の耳には神々の声が、未だに鳴り響いているようだった。が、あたりを見廻すと、人音《ひとおと》も聞えない内陣《ないじん》には、円天井《まるてんじょう》のランプの光が、さっきの通り朦朧《もうろう》と壁画《へきが》を照らしているばかりだった。オルガンティノは呻《うめ》き呻き、そろそろ祭壇の後《うしろ》を離れた。あの幻にどんな意味があるか、それは彼にはのみこめなかった。しかしあの幻を見せたものが、泥烏須《デウス》でない事だけは確かだった。
「この国の霊と戦うのは、……」
 オルガンティノは歩きながら、思わずそっと独り語《ごと》を洩らした。
「この国の霊と戦うのは、思ったよりもっと困難らしい。勝つか、それともまた負けるか、――」
 するとその時彼の耳に、こう云う囁《ささや》きを送るものがあった。
「負けですよ!」
 オルガンティノは気味悪そうに、声のした方を透《す》かして見た。が、そこには不相変《あいかわらず》、仄暗《ほのぐら》い薔薇や金雀花《えにしだ》のほかに、人影らしいものも見えなかった。

       ×          ×          ×

 オルガンティノは翌日の夕《ゆうべ》も、南蛮寺《なんばんじ》の庭を歩いていた。しかし彼の碧眼《へきがん》には、どこか嬉しそうな色があった。それは今日|一日《いちにち》の内に、日本の侍が三四人、奉教人《ほうきょうにん》の列にはいったからだった。
 庭の橄欖《かんらん》や月桂《げっけい》は、ひっそりと夕闇に聳えていた。ただその沈黙が擾《みだ》されるのは、寺の鳩《はと》が軒へ帰るらしい、中空《なかぞら》の羽音《はおと》よりほかはなかった。薔薇の匂《におい》、砂の湿り、――一切は翼のある天使たちが、「人の女子《おみなご》の美しきを見て、」妻を求めに降《くだ》って来た、古代の日の暮のように平和だった。
「やはり十字架の御威光の前には、穢《けが》らわしい日本の霊の力も、勝利を占《し》める事はむずかしいと見える。しかし昨夜《ゆうべ》見た幻は?――いや、あれは幻に過ぎない。悪魔はアントニオ上人《しょうにん》にも、ああ云う幻を見せたではないか? その証拠には今日になると、一度に何人かの信徒さえ出来た。やがてはこの国も至る所に、天主《てんしゅ》の御寺《みてら》が建てられるであろう。」
 オルガンティノはそう思いながら、砂の赤い小径《こみち》を歩いて行った。すると誰か後から、そっと肩を打つものがあった。彼はすぐに振り返った。しかし後には夕明りが、径《みち》を挟んだ篠懸《すずかけ》の若葉に、うっすりと漂《ただよ》っているだけだった。
「御主《おんあるじ》。守らせ給え!」
 彼はこう呟《つぶや》いてから、徐《おもむ》ろに頭《かしら》をもとへ返した。と、彼の傍《かたわら》には、いつのまにそこへ忍び寄ったか、昨夜の幻に見えた通り、頸《くび》に玉を巻いた老人が一人、ぼんやり姿を煙らせたまま、徐《おもむ》ろに歩みを運んでいた。
「誰だ、お前は?」
 不意を打たれたオルガンティノは、思わずそこへ立ち止まった。
「私《わたし》は、――誰でもかまいません。この国の霊の一人です。」
 老人は微笑《びしょう》を浮べながら、親切そうに返事をした。
「まあ、御一緒に歩きましょう。私はあなたとしばらくの間《あいだ》、御話しするために出て来たのです。」
 オルガンティノは十字を切った。が、老人はその印《しるし》に、少しも恐怖を示さなかった。
「私は悪魔ではないのです。御覧なさい、この玉やこの剣を。地獄《じごく》の炎《ほのお》に焼かれた物なら、こんなに清浄ではいない筈です。さあ、もう呪文《じゅもん》なぞを唱えるのはおやめなさい。」
 オルガンティノはやむを得ず、不愉快そうに腕組をしたまま、老人と一しょに歩き出した。
「あなたは天主教《てんしゅきょう》を弘《ひろ》めに来ていますね、――」
 老人は静かに話し出した。
「それも悪い事ではないかも知れません。しかし泥烏須《デウス》もこの国へ来ては、きっと最後には負けてしまいますよ。」
「泥烏須《デウス》は全能の御主《おんあるじ》だから、泥烏須に、――」
 オルガンティノはこう云いかけてから、ふと思いついたように、いつもこの国の信徒に対する、叮嚀《ていねい》な口調を使い出した。
「泥烏須《デウス》に勝つものはない筈です。」
「ところが実際はあるのです。まあ、御聞きなさい。はるばるこの国へ渡って来たのは、泥烏須《デウス》ばかりではありません。孔子《こうし》、孟子《もうし》、荘子《そうし》、――そのほか支那からは哲人たちが、何人もこの国へ渡って来ました。しかも当時はこの国が、まだ生まれたばかりだったのです。支那の哲人たちは道のほかにも、呉《ご》の国の絹だの秦《しん》の国の玉だの、いろいろな物を持って来ました。いや、そう云う宝よりも尊い、霊妙《れいみょう》な文字さえ持って来たのです。が、支那はそのために、我々を征服出来たでしょうか? たとえば文字《もじ》を御覧なさい。文字は我々を征服する代りに、我々のために征服されました。私が昔知っていた土人に、柿《かき》の本《もと》の人麻呂《ひとまろ》と云う詩人があります。その男の作った七夕《たなばた》の歌は、今でもこの国に残っていますが、あれを読んで御覧なさい。牽牛織女《けんぎゅうしょくじょ》はあの中に見出す事は出来ません。あそこに歌われた恋人同士は飽《あ》くまでも彦星《ひこぼし》と棚機津女《たなばたつめ》とです。彼等の枕に響いたのは、ちょうどこの国の川のように、清い天《あま》の川《がわ》の瀬音《せおと》でした。支那の黄河《こうが》や揚子江《ようすこう》に似た、銀河《ぎんが》の浪音ではなかったのです。しかし私は歌の事より、文字の事を話さなければなりません。人麻呂はあの歌を記すために、支那の文字を使いました。が、それは意味のためより、発音のための文字だったのです。舟《しゅう》と云う文字がはいった後《のち》も、「ふね」は常に「ふね」だったのです。さもなければ我々の言葉は、支那語になっていたかも知れません。これは勿論人麻呂よりも、人麻呂の心を守っていた、我々この国の神の力です。のみならず支那の哲人たちは、書道をもこの国に伝えました。空海《くうかい》、道風《どうふう》、佐理《さり》、行成《こうぜい》――私は彼等のいる所に、いつも人知れず行っていました。彼等が手本にしていたのは、皆支那人の墨蹟《ぼくせき》です。しかし彼等の筆先《ふでさき》からは、次第に新しい美が生れました。彼等の文字はいつのまにか、王羲之《おうぎし》でもなければ※[#「ころもへん+楮のつくり」、第3水準1-91-82] 遂良《ちょすいりょう》でもない、日本人の文字になり出したのです。しかし我々が勝ったのは、文字ばかりではありません。我々の息吹《いぶ》きは潮風《しおかぜ》のように、老儒《ろうじゅ》の道さえも和《やわら》げました。この国の土人に尋ねて御覧なさい。彼等は皆|孟子《もうし》の著書は、我々の怒に触《ふ》れ易いために、それを積んだ船があれば、必ず覆《くつがえ》ると信じています。科戸《しなと》の神はまだ一度も、そんな悪戯《いたずら》はしていません。が、そう云う信仰の中《うち》にも、この国に住んでいる我々の力は、朧《おぼろ》げながら感じられる筈です。あなたはそう思いませんか?」
 オルガンティノは茫然と、老人の顔を眺め返した。この国の歴史に疎《うと》い彼には、折角《せっかく》の相手の雄弁も、半分はわからずにしまったのだった。
「支那の哲人たちの後《のち》に来たのは、印度《インド》の王子|悉達多《したあるた》です。――」
 老人は言葉を続けながら、径《みち》ばたの薔薇《ばら》の花をむしると、嬉しそうにその匂を嗅《か》いだ。が、薔薇はむしられた跡にも、ちゃんとその花が残っていた。ただ老人の手にある花は色や形は同じに見えても、どこか霧のように煙っていた。
「仏陀《ぶっだ》の運命も同様です。が、こんな事を一々御話しするのは、御退屈を増すだけかも知れません。ただ気をつけて頂きたいのは、本地垂跡《ほんじすいじゃく》の教の事です。あの教はこの国の土人に、大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53]貴《おおひるめむち》は大日如来《だいにちにょらい》と同じものだと思わせました。これは大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53]貴の勝でしょうか? それとも大日如来の勝でしょうか? 仮りに現在この国の土人に、大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53]貴は知らないにしても、大日如来は知っているものが、大勢あるとして御覧なさい。それでも彼等の夢に見える、大日如来の姿の中《うち》には、印度|仏《ぶつ》の面影《おもかげ》よりも、大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53]貴が窺《うかが》われはしないでしょうか? 私《わたし》は親鸞《しんらん》や日蓮《にちれん》と一しょに、沙羅双樹《さらそうじゅ》の花の陰も歩いています。彼等が随喜渇仰《ずいきかつごう》した仏《ほとけ》は、円光のある黒人《こくじん》ではありません。優しい威厳《いげん》に充ち満ちた上宮太子《じょうぐうたいし》などの兄弟です。――が、そんな事を長々と御話しするのは、御約束の通りやめにしましょう。つまり私が申上げたいのは、泥烏須《デウス》のようにこの国に来ても、勝つものはないと云う事なのです。」
「まあ、御待ちなさい。御前《おまえ》さんはそう云われるが、――」
 オルガンティノは口を挟《はさ》んだ。
「今日などは侍が二三人、一度に御教《おんおしえ》に帰依《きえ》しましたよ。」
「それは何人《なんにん》でも帰依するでしょう。ただ帰依したと云う事だけならば、この国の土人は大部分|悉達多《したあるた》の教えに帰依しています。しかし我々の力と云うのは、破壊する力ではありません。造り変える力なのです。」
 老人は薔薇の花を投げた。花は手を離れたと思うと、たちまち夕明りに消えてしまった。
「なるほど造り変える力ですか? しかしそれはお前さんたちに、限った事ではないでしょう。どこの国でも、――たとえば希臘《ギリシャ》の神々と云われた、あの国にいる悪魔でも、――」
「大いなるパンは死にました。いや、パンもいつかはまたよみ返るかも知れません。しかし我々はこの通り、未だに生きているのです。」
 オルガンティノは珍しそうに、老人の顔へ横眼を使った。
「お前さんはパンを知っているのですか?」
「何、西国《さいこく》の大名の子たちが、西洋から持って帰ったと云う、横文字《よこもじ》の本にあったのです。――それも今の話ですが、たといこの造り変える力が、我々だけに限らないでも、やはり油断はなりませんよ。いや、むしろ、それだけに、御気をつけなさいと云いたいのです。我々は古い神ですからね。あの希臘《ギリシャ》の神々のように、世界の夜明けを見た神ですからね。」
「しかし泥烏須《デウス》は勝つ筈です。」
 オルガンティノは剛情に、もう一度同じ事を云い放った。が、老人はそれが聞えないように、こうゆっくり話し続けた。
「私《わたし》はつい四五日|前《まえ》、西国《さいこく》の海辺《うみべ》に上陸した、希臘《ギリシャ》の船乗りに遇《あ》いました。その男は神ではありません。ただの人間に過ぎないのです。私はその船乗と、月夜の岩の上に坐りながら、いろいろの話を聞いて来ました。目一つの神につかまった話だの、人を豕《いのこ》にする女神《めがみ》の話だの、声の美しい人魚《にんぎょ》の話だの、――あなたはその男の名を知っていますか? その男は私に遇《あ》った時から、この国の土人に変りました。今では百合若《ゆりわか》と名乗っているそうです。ですからあなたも御気をつけなさい。泥烏須《デウス》も必ず勝つとは云われません。天主教《てんしゅきょう》はいくら弘《ひろ》まっても、必ず勝つとは云われません。」
 老人はだんだん小声になった。
「事によると泥烏須《デウス》自身も、この国の土人に変るでしょう。支那や印度も変ったのです。西洋も変らなければなりません。我々は木々の中にもいます。浅い水の流れにもいます。薔薇《ばら》の花を渡る風にもいます。寺の壁に残る夕明《ゆうあか》りにもいます。どこにでも、またいつでもいます。御気をつけなさい。御気をつけなさい。………」
 その声がとうとう絶えたと思うと、老人の姿も夕闇の中へ、影が消えるように消えてしまった。と同時に寺の塔からは、眉をひそめたオルガンティノの上へ、アヴェ・マリアの鐘が響き始めた。

       ×          ×          ×

 南蛮寺《なんばんじ》のパアドレ・オルガンティノは、――いや、オルガンティノに限った事ではない。悠々とアビトの裾《すそ》を引いた、鼻の高い紅毛人《こうもうじん》は、黄昏《たそがれ》の光の漂《ただよ》った、架空《かくう》の月桂《げっけい》や薔薇の中から、一双の屏風《びょうぶ》へ帰って行った。南蛮船《なんばんせん》入津《にゅうしん》の図を描《か》いた、三世紀以前の古屏風へ。
 さようなら。パアドレ・オルガンティノ! 君は今君の仲間と、日本の海辺《うみべ》を歩きながら、金泥《きんでい》の霞に旗を挙げた、大きい南蛮船を眺めている。泥烏須《デウス》が勝つか、大日※[#「靈」の「巫」に代えて「女」、第3水準1-47-53]貴《おおひるめむち》が勝つか――それはまだ現在でも、容易《ようい》に断定《だんてい》は出来ないかも知れない。が、やがては我々の事業が、断定を与うべき問題である。君はその過去の海辺から、静かに我々を見てい給え。たとい君は同じ屏風の、犬を曳《ひ》いた甲比丹《カピタン》や、日傘をさしかけた黒ん坊の子供と、忘却の眠に沈んでいても、新たに水平へ現れた、我々の黒船《くろふね》の石火矢《いしびや》の音は、必ず古めかしい君等の夢を破る時があるに違いない。それまでは、――さようなら。パアドレ・オルガンティノ! さようなら。南蛮寺のウルガン伴天連《バテレン》!
[#地から1字上げ](大正十年十二月)



底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
   1993(平成5)年12月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
   1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月19日公開
2004年3月10日修正
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