青空文庫アーカイブ
報恩記
芥川龍之介
-------------------------------------------------------
【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)甚内《じんない》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)突然|真面目《まじめ》に
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「てへん+丑」、第4水準2-12-93]
-------------------------------------------------------
阿媽港甚内《あまかわじんない》の話
わたしは甚内《じんない》と云うものです。苗字《みょうじ》は――さあ、世間ではずっと前から、阿媽港甚内《あまかわじんない》と云っているようです。阿媽港甚内、――あなたもこの名は知っていますか? いや、驚くには及びません。わたしはあなたの知っている通り、評判の高い盗人《ぬすびと》です。しかし今夜参ったのは、盗みにはいったのではありません。どうかそれだけは安心して下さい。
あなたは日本《にほん》にいる伴天連《ばてれん》の中でも、道徳の高い人だと聞いています。して見れば盗人と名のついたものと、しばらくでも一しょにいると云う事は、愉快ではないかも知れません。が、わたしも思いのほか、盗みばかりしてもいないのです。いつぞや聚楽《じゅらく》の御殿《ごてん》へ召された呂宋助左衛門《るそんすけざえもん》の手代《てだい》の一人も、確か甚内と名乗っていました。また利休居士《りきゅうこじ》の珍重《ちんちょう》していた「赤がしら」と称える水さしも、それを贈った連歌師《れんがし》の本名《ほんみょう》は、甚内《じんない》とか云ったと聞いています。そう云えばつい二三年以前、阿媽港日記《あまかわにっき》と云う本を書いた、大村《おおむら》あたりの通辞《つうじ》の名前も、甚内と云うのではなかったでしょうか? そのほか三条河原《さんじょうがわら》の喧嘩に、甲比丹《カピタン》「まるどなど」を救った虚無僧《こむそう》、堺《さかい》の妙国寺《みょうこくじ》門前に、南蛮《なんばん》の薬を売っていた商人、……そう云うものも名前を明かせば、何がし甚内だったのに違いありません。いや、それよりも大事なのは、去年この「さん・ふらんしすこ」の御寺《みてら》へ、おん母「まりや」の爪を収めた、黄金《おうごん》の舎利塔《しゃりとう》を献じているのも、やはり甚内と云う信徒だった筈です。
しかし今夜は残念ながら、一々そう云う行状を話している暇はありません。ただどうか阿媽港甚内《あまかわじんない》は、世間一般の人間と余り変りのない事を信じて下さい。そうですか? では出来るだけ手短かに、わたしの用向きを述べる事にしましょう。わたしはある男の魂のために、「みさ」の御祈りを願いに来たのです。いや、わたしの血縁のものではありません。と云ってもまたわたしの刃金《はがね》に、血を塗ったものでもないのです。名前ですか? 名前は、――さあ、それは明かして好《い》いかどうか、わたしにも判断はつきません。ある男の魂のために、――あるいは「ぽうろ」と云う日本人のために、冥福《めいふく》を祈ってやりたいのです。いけませんか?――なるほど阿媽港甚内に、こう云う事を頼まれたのでは、手軽に受合う気にもなれますまい。ではとにかく一通り、事情だけは話して見る事にしましょう。しかしそれには生死を問わず、他言《たごん》しない約束が必要です。あなたはその胸の十字架《くるす》に懸けても、きっと約束を守りますか? いや、――失礼は赦《ゆる》して下さい。(微笑)伴天連《ばてれん》のあなたを疑うのは、盗人《ぬすびと》のわたしには僭上《せんじょう》でしょう。しかしこの約束を守らなければ、(突然|真面目《まじめ》に)「いんへるの」の猛火に焼かれずとも、現世《げんぜ》に罰《ばち》が下《くだ》る筈です。
もう二年あまり以前の話ですが、ちょうどある凩《こがらし》の真夜中です。わたしは雲水《うんすい》に姿を変えながら、京の町中《まちなか》をうろついていました。京の町中をうろついたのは、その夜《よ》に始まったのではありません。もうかれこれ五日ばかり、いつも初更《しょこう》を過ぎさえすれば、必ず人目に立たないように、そっと家々を窺《うかが》ったのです。勿論何のためだったかは、註を入れるにも及びますまい。殊にその頃は摩利伽《まりか》へでも、一時渡っているつもりでしたから、余計に金《かね》の入用もあったのです。
町は勿論とうの昔に人通りを絶っていましたが、星ばかりきらめいた空中には、小《お》やみもない風の音がどよめいています。わたしは暗い軒通《のきづた》いに、小川通《おがわどお》りを下《くだ》って来ると、ふと辻を一つ曲《まが》った所に、大きい角屋敷《かどやしき》のあるのを見つけました。これは京でも名を知られた、北条屋弥三右衛門《ほうじょうややそうえもん》の本宅です。同じ渡海《とかい》を渡世にしていても、北条屋は到底《とうてい》角倉《かどくら》などと肩を並べる事は出来ますまい。しかしとにかく沙室《しゃむろ》や呂宋《るそん》へ、船の一二|艘《そう》も出しているのですから、一かどの分限者《ぶげんしゃ》には違いありません。わたしは何もこの家《うち》を目当に、うろついていたのではないのですが、ちょうどそこへ来合わせたのを幸い、一稼《ひとかせ》ぎする気を起しました。その上前にも云った通り、夜《よ》は深いし風も出ている、――わたしの商売にとりかかるのには、万事持って来いの寸法《すんぽう》です。わたしは路ばたの天水桶《てんすいおけ》の後《うしろ》に、網代《あじろ》の笠や杖を隠した上、たちまち高塀を乗り越えました。
世間の噂《うわさ》を聞いて御覧なさい。阿媽港甚内《あまかわじんない》は、忍術を使う、――誰でも皆そう云っています。しかしあなたは俗人のように、そんな事は本当と思いますまい。わたしは忍術も使わなければ、悪魔も味方にはしていないのです。ただ阿媽港《あまかわ》にいた時分、葡萄牙《ポルトガル》の船の医者に、究理の学問を教わりました。それを実地に役立てさえすれば、大きい錠前を※[#「てへん+丑」、第4水準2-12-93]《ね》じ切ったり、重い閂《かんぬき》を外したりするのは、格別むずかしい事ではありません。(微笑)今までにない盗みの仕方、――それも日本《にっぽん》と云う未開の土地は、十字架や鉄砲の渡来と同様、やはり西洋に教わったのです。
わたしは一ときとたたない内に、北条屋の家《うち》の中にはいっていました。が、暗い廊下《ろうか》をつき当ると、驚いた事にはこの夜更《よふ》けにも、まだ火影《ほかげ》のさしているばかりか、話し声のする小座敷があります。それがあたりの容子《ようす》では、どうしても茶室に違いありません。「凩《こがらし》の茶か」――わたしはそう苦笑《くしょう》しながら、そっとそこへ忍び寄りました。実際その時は人声のするのに、仕事の邪魔《じゃま》を思うよりも、数寄《すき》を凝らした囲いの中に、この家《や》の主人や客に来た仲間が、どんな風流を楽しんでいるか?――そんな事に心が惹《ひ》かれたのです。
襖《ふすま》の外に身を寄せるが早いか、わたしの耳には思った通り、釜《かま》のたぎりがはいりました。が、その音がすると同時に、意外にも誰か話をしては、泣いている声が聞えるのです。誰か、――と云うよりもそれは二度と聞かずに、女だと云う事さえわかりました。こう云う大家《たいけ》の茶座敷に、真夜中女の泣いていると云うのは、どうせただ事ではありません。わたしは息をひそめたまま、幸い明いていた襖《ふすま》の隙《すき》から、茶室の中を覗《のぞ》きこみました。
行燈《あんどん》の光に照された、古色紙《こしきし》らしい床《とこ》の懸け物、懸け花入《はないれ》の霜菊《しもぎく》の花。――囲《かこ》いの中には御約束通り、物寂びた趣が漂っていました。その床の前、――ちょうどわたしの真正面《ましょうめん》に坐った老人は、主人の弥三右衛門《やそうえもん》でしょう、何か細《こま》かい唐草《からくさ》の羽織に、じっと両腕を組んだまま、ほとんどよそ眼に見たのでは、釜の煮《に》え音でも聞いているようです。弥三右衛門の下座《しもざ》には、品《ひん》の好《い》い笄髷《こうがいまげ》の老女が一人、これは横顔を見せたまま、時々涙を拭っていました。
「いくら不自由がないようでも、やはり苦労だけはあると見える。」――わたしはそう思いながら、自然と微笑を洩《も》らしたものです。微笑を、――こう云ってもそれは北条屋《ほうじょうや》夫婦に、悪意があったのではありません。わたしのように四十年間、悪名《あくみょう》ばかり負っているものには、他人の、――殊に幸福らしい他人の不幸は、自然と微笑を浮ばせるのです。(残酷な表情)その時もわたしは夫婦の歎きが、歌舞伎《かぶき》を見るように愉快だったのです。(皮肉な微笑)しかしこれはわたし一人に、限った事ではありますまい。誰にも好まれる草紙《そうし》と云えば、悲しい話にきまっているようです。
弥三右衛門はしばらくの後《のち》、吐息《といき》をするようにこう云いました。
「もうこの羽目《はめ》になった上は、泣いても喚《わめ》いても取返しはつかない。わたしは明日《あす》にも店のものに、暇《ひま》をやる事に決心をした。」
その時また烈しい風が、どっと茶室を揺《ゆ》すぶりました。それに声が紛《まぎ》れたのでしょう。弥三右衛門の内儀《ないぎ》の言葉は、何と云ったのだかわかりません。が、主人は頷《うなず》きながら、両手を膝の上に組み合せると、網代《あじろ》の天井へ眼を上げました。太い眉《まゆ》、尖った頬骨《ほおぼね》、殊に切れの長い目尻、――これは確かに見れば見るほど、いつか一度は会っている顔です。
「おん主《あるじ》、『えす・きりすと』様。何とぞ我々夫婦の心に、あなた様の御力を御恵み下さい。……」
弥三右衛門は眼を閉じたまま、御祈りの言葉を呟《つぶや》き始めました。老女もやはり夫のように天帝の加護を乞うているようです。わたしはその間《あいだ》瞬きもせず、弥三右衛門の顔を見続けました。するとまた凩《こがらし》の渡った時、わたしの心に閃《ひらめ》いたのは、二十年以前の記憶です。わたしはこの記憶の中に、はっきり弥三右衛門の姿を捉《とら》えました。
その二十年以前の記憶と云うのは、――いや、それは話すには及びますまい。ただ手短に事実だけ云えば、わたしは阿媽港《あまかわ》に渡っていた時、ある日本《にほん》の船頭に危《あやう》い命を助けて貰いました。その時は互に名乗りもせず、それなり別れてしまいましたが、今わたしの見た弥三右衛門は、当年の船頭に違いないのです。わたしは奇遇《きぐう》に驚きながら、やはりこの老人の顔を見守っていました。そう云えば威《い》かつい肩のあたりや、指節《ゆびふし》の太い手の恰好《かっこう》には、未《いまだ》に珊瑚礁《さんごしょう》の潮《しお》けむりや、白檀山《びゃくだんやま》の匂いがしみているようです。
弥三右衛門は長い御祈りを終ると、静かに老女へこう云いました。
「跡はただ何事も、天主《てんしゅ》の御意《ぎょい》次第と思うたが好《よ》い。――では釜のたぎっているのを幸い、茶でも一つ立てて貰おうか?」
しかし老女は今更のように、こみ上げる涙を堪《こら》えるように、消え入りそうな返事をしました。
「はい。――それでもまだ悔《く》やしいのは、――」
「さあ、それが愚痴《ぐち》と云うものじゃ。北条丸《ほうじょうまる》の沈んだのも、抛《な》げ銀《ぎん》の皆倒れたのも、――」
「いえ、そんな事ではございません。せめては倅《せがれ》の弥三郎《やさぶろう》でも、いてくれればと思うのでございますが、……」
わたしはこの話を聞いている内に、もう一度微笑が浮んで来ました。が、今度は北条屋《ほうじょうや》の不運に、愉快を感じたのではありません。「昔の恩を返す時が来た」――そう思う事が嬉しかったのです。わたしにも、御尋ね者の阿媽港甚内《あまかわじんない》にも、立派《りっぱ》に恩返しが出来る愉快さは、――いや、この愉快さを知るものは、わたしのほかにはありますまい。(皮肉に)世間の善人は可哀そうです。何一つ悪事を働かない代りに、どのくらい善行を施《ほどこ》した時には、嬉しい心もちになるものか、――そんな事も碌《ろく》には知らないのですから。
「何、ああ云う人でなしは、居らぬだけにまだしも仕合せなぐらいじゃ。……」
弥三右衛門は苦々《にがにが》しそうに、行燈《あんどん》へ眼を外《そ》らせました。
「あいつが使いおった金でもあれば、今度も急場だけは凌《しの》げたかも知れぬ。それを思えば勘当《かんどう》したのは、………」
弥三右衛門はこう云ったなり、驚いたようにわたしを眺めました。これは驚いたのも無理はありません。わたしはその時声もかけずに、堺《さかい》の襖《ふすま》を明けたのですから。――しかもわたしの身なりと云えば、雲水《うんすい》に姿をやつした上、網代《あじろ》の笠を脱いだ代りに、南蛮頭巾《なんばんずきん》をかぶっていたのですから。
「誰だ、おぬしは?」
弥三右衛門は年はとっていても、咄嗟《とっさ》に膝を起しました。
「いや、御驚きになるには及びません。わたしは阿媽港甚内と云うものです。――まあ、御静かになすって下さい。阿媽港甚内は盗人《ぬすびと》ですが、今夜突然参上したのは、少しほかにも訣《わけ》があるのです。――」
わたしは頭巾《ずきん》を脱ぎながら、弥三右衛門の前に坐りました。
その後《のち》の事は話さずとも、あなたには推察出来るでしょう。わたしは北条屋《ほうじょうや》の危急《ききゅう》を救うために、三日と云う日限《にちげん》を一日も違えず、六千貫の金《かね》を調達する、恩返しの約束を結んだのです。――おや、誰か戸の外に、足音が聞えるではありませんか? では今夜は御免下さい。いずれ明日《あす》か明後日《あさって》の夜《よる》、もう一度ここへ忍《しの》んで来ます。あの大十字架《おおくるす》の星の光は阿媽港《あまかわ》の空には輝いていても、日本《にっぽん》の空には見られません。わたしもちょうどああ云うように日本では姿を晦《くら》ませていないと、今夜「みさ」を願いに来た、「ぽうろ」の魂のためにもすまないのです。
何、わたしの逃げ途《みち》ですか? そんな事は心配に及びません。この高い天窓《てんまど》からでも、あの大きい暖炉《だんろ》からでも、自由自在に出て行かれます。ついてはどうか呉々《くれぐれ》も、恩人「ぽうろ」の魂のために、一切|他言《たごん》は慎《つつし》んで下さい。
北条屋弥三右衛門の話
伴天連《ばてれん》様。どうかわたしの懺悔《ざんげ》を御聞き下さい。御承知でも御座いましょうが、この頃世上に噂の高い、阿媽港甚内《あまかわじんない》と云う盗人《ぬすびと》がございます。根来寺《ねごろでら》の塔に住んでいたのも、殺生関白《せっしょうかんぱく》の太刀《たち》を盗んだのも、また遠い海の外《そと》では、呂宋《るそん》の太守を襲ったのも、皆あの男だとか聞き及びました。それがとうとう搦《から》めとられた上、今度一条|戻《もど》り橋《ばし》のほとりに、曝《さら》し首《くび》になったと云う事も、あるいは御耳にはいって居りましょう。わたしはあの阿媽港甚内に一方《ひとかた》ならぬ大恩を蒙《こうむ》りました。が、また大恩を蒙っただけに、ただ今では何とも申しようのない、悲しい目にも遇《あ》ったのでございます。どうかその仔細《しさい》を御聞きの上、罪びと北条屋弥三右衛門《ほうじょうややそうえもん》にも、天帝の御愛憐を御祈り下さい。
ちょうど今から二年ばかり以前の、冬の事でございます。ずっとしけ[#「しけ」に傍点]ばかり続いたために、持ち船の北条丸《ほうじょうまる》は沈みますし、抛《な》げ銀は皆倒れますし、――それやこれやの重なった揚句《あげく》、北条屋一家は分散のほかに、仕方のない羽目《はめ》になってしまいました。御承知の通り町人には取引き先はございましても、友だちと申すものはございません。こうなればもう我々の家業は、うず潮に吸われた大船《おおぶね》も同様、まっ逆《さか》さまに奈落《ならく》の底へ、落ちこむばかりなのでございます。するとある夜、――今でもこの夜《よ》の事は忘れません。ある凩《こがらし》の烈しい夜《よる》でございましたが、わたし共夫婦は御存知の囲《かこ》いに、夜の更《ふ》けるのも知らず話して居りました。そこへ突然はいって参ったのは、雲水《うんすい》の姿に南蛮頭巾《なんばんずきん》をかぶった、あの阿媽港甚内《あまかわじんない》でございます。わたしは勿論驚きもすれば、また怒《いか》りも致しました。が、甚内の話を聞いて見ますと、あの男はやはり盗みを働きに、わたしの宅へ忍びこみましたが、茶室には未《いまだ》に火影《ほかげ》ばかりか、人の話し声が聞えている、そこで襖越《ふすまご》しに、覗《のぞ》いて見ると、この北条屋弥三右衛門は、甚内の命を助けた事のある、二十年以前の恩人だったと、こう云う次第ではございませんか?
なるほどそう云われて見れば、かれこれ二十年にもなりましょうか、まだわたしが阿媽港《あまかわ》通いの「ふすた」船の船頭を致していた頃、あそこへ船がかりをしている内に、髭《ひげ》さえ碌《ろく》にない日本人を一人、助けてやった事がございます。何でもその時の話では、ふとした酒の上の喧嘩《けんか》から、唐人《とうじん》を一人殺したために、追手《おって》がかかったとか申して居りました。して見ればそれが今日《こんにち》では、あの阿媽港甚内と云う、名代《なだい》の盗人《ぬすびと》になったのでございましょう。わたしはとにかく甚内の言葉も嘘ではない事がわかりましたから、一家のものの寝ているのを幸い、まずその用向きを尋ねて見ました。
すると甚内の申しますには、あの男の力に及ぶ事なら、二十年以前の恩返しに、北条屋の危急を救ってやりたい、差当《さしあた》り入用《いりよう》の金子《きんす》の高は、どのくらいだと尋ねるのでございます。わたしは思わず苦笑《くしょう》致しました。盗人に金を調達して貰う、――それが可笑《おか》しいばかりではございません。いかに阿媽港甚内でも、そう云う金があるくらいならば、何もわざわざわたしの宅へ、盗みにはいるにも当りますまい。しかしその金高《きんだか》を申しますと、甚内は小首《こくび》を傾けながら、今夜の内にはむずかしいが、三日も待てば調達しようと、無造作《むぞうさ》に引き受けたのでございます。が、何しろ入用なのは、六千貫と云う大金でございますから、きっと調達出来るかどうか、当《あ》てになるものではございません。いや、わたしの量見《りょうけん》では、まず賽《さい》の目をたのむよりも、覚束《おぼつか》ないと覚悟をきめていました。
甚内はその夜《よ》わたしの家内に、悠々と茶なぞ立てさせた上、凩《こがらし》の中を帰って行きました。が、その翌日になって見ても、約束の金は届きません。二日目も同様でございました。三日目は、――この日は雪になりましたが、やはり夜《よ》に入ってしまった後《のち》も、何一つ便りはありません。わたしは前に甚内の約束は、当にして居らぬと申し上げました。が、店のものにも暇《ひま》を出さず、成行きに任《まか》せていた所を見ると、それでも幾分か心待ちには、待っていたのでございましょう。また実際三日目の夜《よ》には、囲いの行燈《あんどん》に向っていても、雪折れの音のする度毎に、聞き耳ばかり立てて居りました。
所が三更《さんこう》も過ぎた時分、突然茶室の外《そと》の庭に、何か人の組み合うらしい物音が聞えるではございませんか? わたしの心に閃《ひらめ》いたのは、勿論《もちろん》甚内の身の上でございます。もしや捕《と》り手《て》でもかかったのではないか?――わたしは咄嗟《とっさ》にこう思いましたから、庭に向いた障子《しょうじ》を明けるが早いか、行燈《あんどん》の火を掲《かか》げて見ました。雪の深い茶室の前には、大明竹《だいみんちく》の垂れ伏したあたりに、誰か二人|掴《つか》み合っている――と思うとその一人は、飛びかかる相手を突き放したなり、庭木の陰《かげ》をくぐるように、たちまち塀の方へ逃げ出しました。雪のはだれる音、塀に攀《よ》じ登る音、――それぎりひっそりしてしまったのは、もうどこか塀《へい》の外へ、無事に落ち延びたのでございましょう。が、突き放された相手の一人は、格別跡を追おうともせず、体の雪を払いながら、静かにわたしの前へ歩み寄りました。
「わたしです。阿媽港甚内《あまかわじんない》ですよ。」
わたしは呆気《あっけ》にとられたまま、甚内の姿を見守りました。甚内は今夜も南蛮頭巾《なんばんずきん》に、袈裟法衣《けさころも》を着ているのでございます。
「いや、とんだ騒《さわ》ぎをしました。誰もあの組打ちの音に、眼を覚さねば仕合せですが。」
甚内は囲《かこ》いへはいると同時に、ちらりと苦笑《くしょう》を洩《も》らしました。
「何、わたしが忍《しの》んで来ると、ちょうど誰かこの床《ゆか》の下へ、這《は》いこもうとするものがあるのです。そこで一つ手捕《てど》りにした上、顔を見てやろうと思ったのですが、とうとう逃げられてしまいました。」
わたしはまださっきの通り、捕り手の心配がございましたから、役人ではないかと尋《たず》ねて見ました。が、甚内は役人どころか、盗人だと申すのでございます。盗人が盗人を捉《とら》えようとした、――このくらい珍しい事はございますまい。今度は甚内よりもわたしの顔に、自然と苦笑が浮びました。しかしそれはともかくも、調達の成否《せいひ》を聞かない内は、わたしの心も安まりません。すると甚内は云わない先に、わたしの心を読んだのでございましょう、悠々と胴巻《どうまき》をほどきながら、炉《ろ》の前へ金包《かねづつ》みを並べました。
「御安心なさい、六千貫の工面《くめん》はつきましたから。――実はもう昨日《きのう》の内に、大抵《たいてい》調達したのですが、まだ二百貫ほど不足でしたから、今夜はそれを持って来ました。どうかこの包みを受け取って下さい。また昨日《きのう》までに集めた金は、あなた方御夫婦も知らない内に、この茶室の床下《ゆかした》へ隠して置きました。大方《おおかた》今夜の盗人のやつも、その金を嗅《か》ぎつけて来たのでしょう。」
わたしは夢でも見ているように、そう云う言葉を聞いていました。盗人に金を施《ほどこ》して貰う、――それはあなたに伺わないでも、確かに善い事ではございますまい。しかし調達が出来るかどうか、半信半疑の境《さかい》にいた時は、善悪も考えずに居りましたし、また今となって見れば、むげに受け取らぬとも申されません。しかもその金を受け取らないとなれば、わたしばかりか一家のものも、路頭《ろとう》に迷うのでございます。どうかこの心もちに、せめては御憐憫《ごれんびん》を御加え下さい。わたしはいつか甚内の前に、恭《うやうや》しく両手をついたまま、何も申さずに泣いて居りました。……
その後《のち》わたしは二年の間《あいだ》、甚内の噂《うわさ》を聞かずに居りました。が、とうとう分散もせずに恙《つつが》ないその日を送られるのは、皆甚内の御蔭でございますから、いつでもあの男の仕合せのために、人知れずおん母「まりや」様へも、祈願《きがん》をこめていたのでございます。ところがどうでございましょう、この頃|往来《おうらい》の話を聞けば、阿媽港甚内《あまかわじんない》は御召捕《おめしと》りの上、戻《もど》り橋《ばし》に首を曝《さら》していると、こう申すではございませんか? わたくしは驚きも致しました。人知れず涙も落しました。しかし積悪の報《むくい》と思えば、これも致し方はございますまい。いや、むしろこの永年、天罰も受けずに居りましたのは、不思議だったくらいでございます。が、せめてもの恩返しに、陰《かげ》ながら回向《えこう》をしてやりたい。――こう思ったものでございますから、わたしは今日《きょう》伴《とも》もつれずに、早速一条戻り橋へ、その曝し首を見に参りました。
戻り橋のほとりへ参りますと、もうその首を曝した前には、大勢《おおぜい》人がたかって居ります。罪状を記《しる》した白木《しらき》の札《ふだ》、首の番をする下役人《したやくにん》――それはいつもと変りません。が、三本組み合せた、青竹の上に載せてある首は、――ああ、そのむごたらしい血まみれの首は、どうしたと云うのでございましょう? わたしは騒々《そうぞう》しい人だかりの中に、蒼《あお》ざめた首を見るが早いか、思わず立ちすくんでしまいました。この首はあの男ではございません。阿媽港甚内の首ではございません。この太い眉《まゆ》、この突き出た頬《ほお》、この眉間《みけん》の刀創《かたなきず》、――何一つ甚内には似て居りません。しかし、――わたしは突然日の光も、わたしのまわりの人だかりも、竹の上に載せた曝《さら》し首も、皆どこか遠い世界へ、流れてしまったかと思うくらい、烈しい驚きに襲われました。この首は甚内ではございません。わたしの首でございます。二十年以前のわたし、――ちょうど甚内の命を助けた、その頃のわたしでございます。「弥三郎《やさぶろう》!」――わたしは舌さえ動かせたなら、こう叫んでいたかも知れません。が、声を揚げるどころかわたしの体は瘧《おこり》を病んだように、震《ふる》えているばかりでございました。
弥三郎! わたしはただ幻のように、倅《せがれ》の曝し首を眺めました。首はやや仰向《あおむ》いたまま半ば開《ひら》いた※[#「目+匡」、第3水準1-88-81]《まぶた》の下から、じっとわたしを見守って居ります。これはどうした訣《わけ》でございましょう? 倅は何かの間違いから、甚内と思われたのでございましょうか? しかし御吟味《ごぎんみ》も受けたとすれば、そう云う間違いは起りますまい。それとも阿媽港甚内というのは、倅だったのでございましょうか? わたしの宅へ来た贋雲水《にせうんすい》は、誰か甚内の名前を仮りた、別人だったのでございましょうか? いや、そんな筈はございません。三日と云う日限《にちげん》を一日も違《たが》えず、六千貫の金を工面《くめん》するものは、この広い日本の国にも、甚内のほかに誰が居りましょう? して見ると、――その時わたしの心の中には、二年以前雪の降った夜《よ》、甚内と庭に争っていた、誰とも知らぬ男の姿が、急にはっきり浮んで参りました。あの男は誰だったのでございましょう? もしや倅ではございますまいか? そう云えばあの男の姿かたちは、ちらりと一目見ただけでも、どうやら倅の弥三郎に、似ていたようでもございます。しかしこれはわたし一人の、心の迷いでございましょうか? もし倅だったとすれば、――わたしは夢の覚めたように、しけじけ首を眺めました。するとその紫ばんだ、妙に緊《しま》りのない唇《くちびる》には、何か微笑《ほほえみ》に近い物が、ほんのり残っているのでございます。
曝《さら》し首に微笑が残っている、――あなたはそんな事を御聞きになると、御哂《おわら》いになるかも知れません。わたしさえそれに気のついた時には、眼のせいかとも思いました。が、何度見直しても、その干《ひ》からびた唇には、確かに微笑らしい明《あかる》みが、漂《ただよ》っているのでございます。わたしはこの不思議な微笑に、永い間《あいだ》見入って居りました。と、いつかわたしの顔にも、やはり微笑が浮んで参りました。しかし微笑が浮ぶと同時に、眼には自然と熱い涙も、にじみ出して来たのでございます。
「お父《とう》さん、勘忍《かんにん》して下さい。――」
その微笑は無言の内に、こう申していたのでございます。
「お父さん。不孝の罪は勘忍して下さい。わたしは二年以前の雪の夜《よる》、勘当《かんどう》の御詫《おわ》びがしたいばかりに、そっと家《うち》へ忍《しの》んで行きました。昼間は店のものに見られるのさえ、恥《はずか》しいなりをしていましたから、わざわざ夜《よ》の更《ふ》けるのを待った上、お父さんの寝間《ねま》の戸を叩《たた》いても、御眼にかかるつもりでいたのです。ところがふと囲《かこ》いの障子に、火影《ほかげ》のさしているのを幸い、そこへ怯《お》ず怯《お》ず行きかけると、いきなり誰か後《うしろ》から、言葉もかけずに組つきました。
「お父さん。それから先はどうなったか、あなたの知っている通りです。わたしは余り不意だったため、お父さんの姿を見るが早いか、相手の曲者《くせもの》を突き放したなり、高塀《たかべい》の外へ逃げてしまいました。が、雪明《ゆきあか》りに見た相手の姿は、不思議にも雲水《うんすい》のようでしたから、誰も追う者のないのを確かめた後《のち》、もう一度あの茶室の外へ、大胆《だいたん》にも忍んで行ったのです。わたしは囲いの障子越しに、一切《いっさい》の話を立ち聞きました。
「お父さん。北条屋《ほうじょうや》を救った甚内《じんない》は、わたしたち一家の恩人です。わたしは甚内の身に危急《ききゅう》があれば、たとえ命は抛《なげう》っても、恩に報いたいと決心しました。またこの恩を返す事は、勘当を受けた浮浪人《ふろうにん》のわたしでなければ出来ますまい。わたしはこの二年間、そう云う機会を待っていました。そうして、――その機会が来たのです。どうか不孝の罪は勘忍して下さい。わたしは極道《ごくどう》に生れましたが、一家の大恩だけは返しました。それがせめてもの心やりです。……」
わたしは宅へ帰る途中も、同時に泣いたり笑ったりしながら、倅《せがれ》のけなげさを褒《ほ》めてやりました。あなたは御存知になりますまいが、倅の弥三郎《やさぶろう》もわたしと同様、御宗門《ごしゅうもん》に帰依《きえ》して居りましたから、もとは「ぽうろ」と云う名前さえも、頂いて居ったものでございます。しかし、――しかし倅も不運なやつでございました。いや、倅ばかりではございません。わたしもあの阿媽港甚内《あまかわじんない》に一家の没落さえ救われなければ、こんな嘆きは致しますまいに。いくら未練《みれん》だと思いましても、こればかりは切《せつ》のうございます。分散せずにいた方が好《よ》いか、倅を殺さずに置いた方が好いか、――(突然苦しそうに)どうかわたしを御救い下さい。わたしはこのまま生きていれば、大恩人の甚内を憎むようになるかも知れません。………(永い間《あいだ》の歔欷《すすりなき》)
「ぽうろ」弥三郎の話
ああ、おん母「まりや」様! わたしは夜《よ》が明け次第、首を打たれる事になっています。わたしの首は地に落ちても、わたしの魂《たましい》は小鳥のように、あなたの御側へ飛んで行くでしょう。いや、悪事ばかり働いたわたしは、「はらいそ」(天国)の荘厳《しょうごん》を拝する代りに、恐しい「いんへるの」(地獄)の猛火の底へ、逆落《さかおと》しになるかも知れません。しかしわたしは満足です。わたしの心には二十年来、このくらい嬉しい心もちは、宿った事がないのです。
わたしは北条屋弥三郎《ほうじょうややさぶろう》です。が、わたしの曝《さら》し首《くび》は、阿媽港甚内《あまかわじんない》と呼ばれるでしょう。わたしがあの阿媽港甚内、――これほど愉快《ゆかい》な事があるでしょうか? 阿媽港甚内、――どうです? 好《い》い名前ではありませんか? わたしはその名前を口にするだけでも、この暗い牢《ろう》の中さえ、天上の薔薇《ばら》や百合《ゆり》の花に、満ち渡るような心もちがします。
忘れもしない二年|前《ぜん》の冬、ちょうどある大雪の夜《よる》です。わたしは博奕《ばくち》の元手《もとで》が欲しさに、父の本宅へ忍びこみました。ところがまだ囲いの障子《しょうじ》に、火影《ほかげ》がさしていましたから、そっとそこを窺《うかが》おうとすると、いきなり誰か言葉もかけず、わたしの襟上《えりがみ》を捉《とら》えたものがあります。振り払う、また掴《つか》みかかる、――相手は誰だか知らないのですが、その力の逞《たくま》しい事は、到底ただものとは思われません。のみならず二三度|揉《も》み合う内に、茶室の障子が明《あ》いたと思うと、庭へ行燈《あんどん》をさし出したのは、紛《まぎ》れもない父の弥三右衛門《やそうえもん》です。わたしは一生懸命に、掴《つか》まれた胸倉《むなぐら》を振り切りながら、高塀の外へ逃げ出しました。
しかし半町《はんちょう》ほど逃げ延びると、わたしはある軒下《のきした》に隠れながら、往来の前後を見廻しました。往来には夜目にも白々《しろじろ》と、時々雪煙りが揚《あが》るほかには、どこにも動いているものは見えません。相手は諦《あきら》めてしまったのか、もう追いかけても来ないようです。が、あの男は何ものでしょう? 咄嗟《とっさ》の間《あいだ》に見た所では、確かに僧形《そうぎょう》をしていました。が、さっきの腕の強さを見れば、――殊に兵法にも精《くわ》しいのを見れば、世の常の坊主ではありますまい。第一こう云う大雪の夜《よ》に、庭先へ誰か坊主《ぼうず》が来ている、――それが不思議ではありませんか? わたしはしばらく思案した後《のち》、たとい危《あぶな》い芸当にしても、とにかくもう一度茶室の外へ、忍び寄る事に決心しました。
それから一時《いっとき》ばかりたった頃《ころ》です。あの怪しい行脚《あんぎゃ》の坊主《ぼうず》は、ちょうど雪の止んだのを幸い、小川通《おがわどお》りを下《くだ》って行きました。これが阿媽港甚内《あまかわじんない》なのです。侍《さむらい》、連歌師《れんがし》、町人、虚無僧《こむそう》、――何にでも姿を変えると云う、洛中《らくちゅう》に名高い盗人《ぬすびと》なのです。わたしは後《あと》から見え隠れに甚内の跡をつけて行きました。その時ほど妙に嬉しかった事は、一度もなかったのに違いありません。阿媽港甚内! 阿媽港甚内! わたしはどのくらい夢の中《うち》にも、あの男の姿を慕っていたでしょう。殺生関白《せっしょうかんぱく》の太刀《たち》を盗んだのも甚内です。沙室屋《しゃむろや》の珊瑚樹《さんごじゅ》を詐《かた》ったのも甚内です。備前宰相《びぜんさいしょう》の伽羅《きゃら》を切ったのも、甲比丹《カピタン》「ぺれいら」の時計を奪ったのも、一夜《いちや》に五つの土蔵を破ったのも、八人の参河侍《みかわざむらい》を斬り倒したのも、――そのほか末代にも伝わるような、稀有《けう》の悪事を働いたのは、いつでも阿媽港甚内《あまかわじんない》です。その甚内は今わたしの前に、網代《あじろ》の笠を傾けながら、薄明るい雪路を歩いている。――こう云う姿を眺められるのは、それだけでも仕合せではありませんか? が、わたしはこの上にも、もっと仕合せになりたかったのです。
わたしは浄厳寺《じょうごんじ》の裏へ来ると、一散《いっさん》に甚内へ追いつきました。ここはずっと町家《ちょうか》のない土塀《どべい》続きになっていますから、たとい昼でも人目を避けるには、一番|御誂《おあつら》えの場所なのですが、甚内はわたしを見ても、格別驚いた気色《けしき》は見せず、静かにそこへ足を止めました。しかも杖《つえ》をついたなり、わたしの言葉を待つように、一言《ひとこと》も口を利《き》かないのです。わたしは実際恐る恐る、甚内の前に手をつきました。しかしその落着いた顔を見ると、思うように声さえ出て来ません。
「どうか失礼は御免下さい。わたしは北条屋弥三右衛門《ほうじょうややそうえもん》の倅《せがれ》弥三郎《やさぶろう》と申すものです。――」
わたしは顔を火照《ほて》らせながら、やっとこう口を切りました。
「実は少し御願いがあって、あなたの跡を慕《した》って来たのですが、……」
甚内はただ頷《うなず》きました。それだけでも気の小さいわたしには、どのくらい難有《ありがた》い気がしたでしょう。わたしは勇気も出て来ましたから、やはり雪の中に手をついたなり、父の勘当《かんどう》を受けている事、今はあぶれものの仲間にはいっている事、今夜父の家《うち》へ盗みにはいった所が、計《はか》らず甚内にめぐり合った事、なおまた父と甚内との密談も一つ残らず聞いた事、――そんな事を手短《てみじか》に話しました。が、甚内は不相変《あいかわらず》、黙然《もくねん》と口を噤《つぐ》んだまま、冷やかにわたしを見ているのです。わたしはその話をしてしまうと、一層膝を進ませながら、甚内の顔を覗《のぞ》きこみました。
「北条一家《ほうじょういっか》の蒙《こうむ》った恩は、わたしにもまたかかっています。わたしはその恩を忘れないしるしに、あなたの手下《てした》になる決心をしました。どうかわたしを使って下さい。わたしは盗みも知っています。火をつける術《すべ》も知っています。そのほか一通りの悪事だけは、人に劣《おと》らず知っています。――」
しかし甚内は黙っています。わたしは胸を躍らせながら、いよいよ熱心に説き立てました。
「どうかわたしを使って下さい。わたしは必ず働きます。京、伏見《ふしみ》、堺《さかい》、大阪、――わたしの知らない土地はありません。わたしは一日に十五里歩きます。力も四斗俵《しとびょう》は片手に挙《あが》ります。人も二三人は殺して見ました。どうかわたしを使って下さい。わたしはあなたのためならば、どんな仕事でもして見せます。伏見の城の白孔雀《しろくじゃく》も、盗めと云えば、盗んで来ます。『さん・ふらんしすこ』の寺の鐘楼《しゅろう》も、焼けと云えば焼いて来ます。右大臣家《うだいじんけ》の姫君も、拐《かどわか》せと云えば拐して来ます。奉行の首も取れと云えば、――」
わたしはこう云いかけた時、いきなり雪の中へ蹴倒《けたお》されました。
「莫迦《ばか》め!」
甚内《じんない》は一声叱ったまま、元の通り歩いて行きそうにします。わたしはほとんど気違いのように法衣《ころも》の裾《すそ》へ縋《すが》りつきました。
「どうかわたしを使って下さい。わたしはどんな場合にも、きっとあなたを離れません。あなたのためには水火にも入ります。あの『えそぽ』の話の獅子王《ししおう》さえ、鼠《ねずみ》に救われるではありませんか? わたしはその鼠になります。わたしは、――」
「黙れ。甚内は貴様なぞの恩は受けぬ。」
甚内はわたしを振り放すと、もう一度そこへ蹴倒しました。
「白癩《びゃくらい》めが! 親孝行でもしろ!」
わたしは二度目に蹴倒された時、急に口惜《くや》しさがこみ上げて来ました。
「よし! きっと恩になるな!」
しかし甚内は見返りもせず、さっさと雪路《ゆきみち》を急いで行きます。いつかさし始めた月の光に網代《あじろ》の笠《かさ》を仄《ほの》めかせながら、……それぎりわたしは二年の間《あいだ》、ずっと甚内を見ずにいるのです。(突然笑う)「甚内は貴様なぞの恩は受けぬ」……あの男はこう云いました。しかしわたしは夜《よ》の明け次第、甚内の代りに殺されるのです。
ああ、おん母「まりや様!」わたしはこの二年間、甚内の恩を返したさに、どのくらい苦しんだか知れません。恩を返したさに?――いや、恩と云うよりも、むしろ恨《うらみ》を返したさにです。しかし甚内はどこにいるか? 甚内は何をしているか?――誰にそれがわかりましょう? 第一甚内はどんな男か?――それさえ知っているものはありません。わたしが遇《あ》った贋雲水《にせうんすい》は四十前後の小男です。が、柳町《やなぎまち》の廓《くるわ》にいたのは、まだ三十を越えていない、赧《あか》ら顔に鬚《ひげ》の生えた、浪人だと云うではありませんか? 歌舞伎《かぶき》の小屋を擾《さわ》がしたと云う、腰の曲った紅毛人《こうもうじん》、妙国寺《みょうこくじ》の財宝《ざいほう》を掠《かす》めたと云う、前髪の垂れた若侍、――そう云うのを皆甚内とすれば、あの男の正体《しょうたい》を見分ける事さえ、到底《とうてい》人力には及ばない筈です。そこへわたしは去年の末から、吐血《とけつ》の病に罹《かか》ってしまいました。
どうか恨《うら》みを返してやりたい、――わたしは日毎に痩《や》せ細りながら、その事ばかりを考えていました。するとある夜わたしの心に、突然|閃《ひらめ》いた一策があります。「まりや」様! 「まりや」様! この一策を御教え下すったのは、あなたの御恵みに違いありません。ただわたしの体を捨てる、吐血《とけつ》の病に衰え果てた、骨と皮ばかりの体を捨てる、――それだけの覚悟をしさえすれば、わたしの本望は遂げられるのです。わたしはその夜《よ》嬉しさの余り、いつまでも独り笑いながら、同じ言葉を繰返していました。――「甚内の身代《みがわ》りに首を打たれる。甚内の身代りに首を打たれる。………」
甚内の身代りに首を打たれる――何とすばらしい事ではありませんか? そうすれば勿論わたしと一しょに、甚内の罪も亡《ほろ》んでしまう。――甚内は広い日本《にっぽん》国中、どこでも大威張《おおいばり》に歩けるのです。その代り(再び笑う)――その代りわたしは一夜の内に、稀代《きだい》の大賊《たいぞく》になれるのです。呂宋助左衛門《るそんすけざえもん》の手代《てだい》だったのも、備前宰相《びぜんさいしょう》の伽羅《きゃら》を切ったのも、利休居士《りきゅうこじ》の友だちになったのも、沙室屋《しゃむろや》の珊瑚樹《さんごじゅ》を詐《かた》ったのも、伏見の城の金蔵《かねぐら》を破ったのも、八人の参河侍《みかわざむらい》を斬り倒したのも、――ありとあらゆる甚内の名誉は、ことごとくわたしに奪われるのです。(三度《さんど》笑う)云わば甚内を助けると同時に、甚内の名前を殺してしまう、一家の恩を返すと同時に、わたしの恨《うら》みも返してしまう、――このくらい愉快な返報《へんぽう》はありません。わたしがその夜《よ》嬉しさの余り、笑い続けたのも当然です。今でも、――この牢《ろう》の中でも、これが笑わずにいられるでしょうか?
わたしはこの策を思いついた後、内裏《だいり》へ盗みにはいりました。宵闇《よいやみ》の夜《よ》の浅い内ですから、御簾《みす》越しに火影《ほかげ》がちらついたり、松の中に花だけ仄《ほの》めいたり、――そんな事も見たように覚えています。が、長い廻廊《かいろう》の屋根から、人気《ひとけ》のない庭へ飛び下りると、たちまち四五人の警護《けいご》の侍に、望みの通り搦《から》められました。その時です。わたしを組み伏せた鬚侍《ひげざむらい》は、一生懸命に縄《なわ》をかけながら、「今度こそは甚内を手捕りにしたぞ」と、呟《つぶや》いていたではありませんか? そうです。阿媽港甚内《あまかわじんない》のほかに、誰が内裏《だいり》なぞへ忍びこみましょう? わたしはこの言葉を聞くと、必死にもがいている間《あいだ》でも、思わず微笑《びしょう》を洩らしたものです。
「甚内は貴様なぞの恩にはならぬ。」――あの男はこう云いました。しかしわたしは夜《よ》の明け次第、甚内の代りに殺されるのです。何と云う気味《きみ》の好《よ》い面当《つらあ》てでしょう。わたしは首を曝《さら》されたまま、あの男の来るのを待ってやります。甚内はきっとわたしの首に、声のない哄笑《こうしょう》を感ずるでしょう。「どうだ、弥三郎《やさぶろう》の恩返しは?」――その哄笑はこう云うのです。「お前はもう甚内では無い。阿媽港甚内はこの首なのだ、あの天下に噂の高い、日本《にっぽん》第一の大盗人《おおぬすびと》は!」(笑う)ああ、わたしは愉快です。このくらい愉快に思った事は、一生にただ一度です。が、もし父の弥三右衛門《やそうえもん》に、わたしの曝《さら》し首を見られた時には、――(苦しそうに)勘忍して下さい。お父さん! 吐血の病に罹《かか》ったわたしは、たとい首を打たれずとも、三年とは命は続かないのです。どうか不孝は勘忍して下さい、わたしは極道《ごくどう》に生まれましたが、とにかく一家の恩だけは返す事が出来たのですから、………
[#地から1字上げ](大正十一年三月)
底本:「芥川龍之介全集4」ちくま文庫、筑摩書房
1987(昭和62)年1月27日第1刷発行
1993(平成5)年12月25日第6刷発行
底本の親本:「筑摩全集類聚版芥川龍之介全集」筑摩書房
1971(昭和46)年3月〜1971(昭和46)年11月
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1998年12月19日公開
2004年3月10日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。
前のページに戻る 青空文庫アーカイブ