青空文庫アーカイブ
本所両国
芥川龍之介
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)大溝《おほどぶ》
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(例)比較的|大勢《おほぜい》住んでゐた
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(例)薄甘《うすあま》い※[#「均のつくり」、第3水準1-14-75]ひを
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)じめ/\した
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「大溝《おほどぶ》」
僕は本所界隈《ほんじよかいわい》のことをスケツチしろといふ社命を受け、同じ社のO君と一しよに久振《ひさしぶ》りに本所へ出かけて行つた。今その印象記を書くのに当り、本所両国《ほんじよりやうごく》と題したのは或は意味を成してゐないかも知れない。しかしなぜか両国は本所区のうちにあるものの、本所以外の土地の空気も漂《ただよ》つてゐることは確かである。そこでO君とも相談の上、ちよつと電車の方向板《はうかうばん》じみた本所両国といふ題を用ひることにした。――
僕は生れてから二十歳頃までずつと本所《ほんじよ》に住んでゐた者である。明治二三十年代の本所は今日《こんにち》のやうな工業地ではない。江戸二百年の文明に疲れた生活上の落伍者《らくごしや》が比較的|大勢《おほぜい》住んでゐた町である。従つて何処《どこ》を歩いてみても、日本橋《にほんばし》や京橋《きやうばし》のやうに大商店の並んだ往来《わうらい》などはなかつた。若しその中に少しでも賑やかな通りを求めるとすれば、それは僅《わづか》に両国《りやうごく》から亀沢町《かめざわちやう》に至る元町《もとまち》通りか、或は二《に》の橋《はし》から亀沢町に至る二《ふた》つ目《め》通り位なものだつたであらう。勿論その外《ほか》に石原《いしはら》通りや法恩寺橋《ほふおんじばし》通りにも低い瓦屋根《かはらやね》の商店は軒《のき》を並べてゐたのに違ひない。しかし広い「お竹倉《たけぐら》」をはじめ、「伊達様《だてさま》」「津軽様《つがるさま》」などといふ大名屋敷はまだ確かに本所の上へ封建時代の影を投げかけてゐた。……
殊に僕の住んでゐたのは「お竹倉《たけぐら》」に近い小泉町《こいづみちやう》である。「お竹倉」は僕の中学時代にもう両国停車場や陸軍|被服廠《ひふくしやう》に変つてしまつた。しかし僕の小学時代にはまだ「大溝《おほどぶ》」に囲まれた、雑木林《ざふきばやし》や竹藪の多い封建時代の「お竹倉」だつた。「大溝」とはその名の示す通り、少くとも一間半あまりの溝《どぶ》のことである。この溝は僕の知つてゐる頃にはもう黒い泥水をどろりと淀《よど》ませてゐるばかりだつた。(僕はそこへ金魚にやる孑孑《ぼうふら》を掬《すく》ひに行つたことをきのふのやうに覚えてゐる。)しかし「御維新《ごゐしん》」以前には溝よりも堀に近かつたのであらう。僕の叔父《をぢ》は十何歳かの時に年にも似合はない大小を差し、この溝の前にしやがんだまま、長い釣竿《つりざを》をのばしてゐた。すると誰か叔父の刀にぴしりと鞘当《さやあ》てをしかけた者があつた。叔父は勿論むつとして肩越しに相手を振り返つてみた。僕の一家一族の内にもこの叔父程負けぬ気の強かつた者はない。かういふ叔父はこの時にも相手によつては売られた喧嘩を買ふ位の勇気は持つてゐたのであらう。が、相手は誰かと思ふと、朱鞘《しゆざや》の大小を閂差《くわんぬきざ》しに差した身の丈《たけ》抜群の侍《さむらひ》だつた。しかも誰にも恐れられてゐた「新徴組《しんちようぐみ》」の一人《ひとり》に違ひなかつた。かれは叔父を尻目《しりめ》にかけながら、にやにや笑つて歩いてゐた。叔父は彼を一目みたぎり、二度と長い釣竿の先から目をあげずにゐたとかいふことである。
僕は小学時代にも「大溝《おほどぶ》」の側を通る度にこの叔父《をぢ》の話を思ひ出した。叔父は「御維新」以前には新刀無念流《しんたうむねんりう》の剣客《けんかく》だつた。(叔父が安房《あは》上総《かづさ》へ武者修行に出かけ、二刀流の剣客と仕合をした話も矢張《やは》り僕を喜ばせたものである。)それから「御維新」前後には彰義隊《しやうぎたい》に加はる志を持つてゐた。最後に僕の知つてゐる頃には年とつた猫背《ねこぜ》の測量技師だつた。「大溝《おほどぶ》」は今日《こんにち》の本所《ほんじよ》にはない。叔父も亦《また》大正の末年《ばつねん》[#「ばつねん」は正しいか?]に食道癌《しよくだうがん》を病んで死んでしまつた。本所の印象記の一節にかういふことを加へるのは或は私事に及び過ぎるであらう。しかし僕はO君と一しよに両国橋を渡りながら、大川《おほかは》の向うに立ち並んだ無数のバラツクを眺めた時には実際烈しい流転《るてん》の相《さう》に驚かない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。僕の「大溝」を思ひ出したり、その又「大溝」に釣をしてゐた叔父を思ひ出したりすることも必《かならず》しも偶然ではないのである。
両国
両国《りやうごく》の鉄橋は震災前《しんさいぜん》と変らないといつても差支《さしつか》へない。唯鉄の欄干《らんかん》の一部はみすぼらしい木造に変つてゐた。この鉄橋の出来たのはまだ僕の小学時代である。しかし櫛形《くしがた》の鉄橋には懐古の情も起つて来ない。僕は昔の両国橋に――狭い木造の両国橋にいまだに愛惜《あいじやく》を感じてゐる。それは僕の記憶によれば、今日《こんにち》よりも下流にかゝつてゐた。僕は時々この橋を渡り、浪《なみ》の荒い「百本杭《ひやつぽんぐひ》」や芦《あし》の茂つた中洲《なかず》を眺めたりした。中洲に茂つた芦は勿論、「百本杭」も今は残つてゐない。「百本杭」もその名の示す通り、河岸《かし》に近い水の中に何本も立つてゐた乱杭《らんぐひ》である。昔の芝居は殺《ころ》し場《ば》などに多田《ただ》の薬師《やくし》の石切場《いしきりば》と一しよに度々この人通りの少ない「百本杭」の河岸《かし》を使つてゐた。僕は夜は「百本杭」の河岸《かし》を歩いたかどうかは覚えてゐない。が、朝は何度もそこに群《むら》がる釣師の連中を眺めに行つた。O君は僕のかういふのを聞き、大川《おほかは》でも魚《さかな》の釣れたことに多少の驚嘆を洩《も》らしてゐた。一度も釣竿を持つたことのない僕は「百本杭」で釣れた魚の何《なん》と何《なん》だつたかを知つてゐない。しかし或夏の夜明けにこの河岸《かし》へ出かけてみると、いつも多い釣師の連中は一人《ひとり》もそこに来てゐなかつた。その代りに杭の間《あひだ》には坊主《ばうず》頭の土左衛門《どざゑもん》が一人《ひとり》俯向《うつむ》けに浪に揺すられてゐた。……
両国橋《りやうごくばし》の袂《たもと》にある表忠碑も昔に変らなかつた。表忠碑を書いたのは日露役《にちろえき》の陸軍総司令官|大山巖《おほやまいはほ》侯爵である。日露役の始まつたのは僕の中学へはひり立てだつた。明治二十五年に生れた僕は勿論日清役のことを覚えてゐない。しかし北清《ほくしん》事変の時には大平《だいへい》といふ広小路《ひろこうぢ》(両国)の絵草紙《ゑざうし》屋へ行《ゆ》き、石版刷《せきばんずり》の戦争の絵を時々一枚づつ買つたものである。それ等の絵には義和団《ぎわだん》の匪徒《ひと》や英吉利《イギリス》兵などは斃《たふ》れてゐても、日本兵は一人も斃れてゐなかつた。僕はもうその時にも矢張《やは》り日本兵も一人位《ひとりくらゐ》は死んでゐるのに違ひないと思つたりした。しかし日露役の起つた時には徹頭徹尾|露西亜《ロシア》位悪い国はないと信じてゐた。僕のリアリズムは年と共に発達する訣《わけ》には行《ゆ》かなかつたのであらう。もつともそれは僕の知人なども出征してゐた為めもあるかも知れない。この知人は南山《なんざん》の戦《たたかひ》に鉄条網《てつでうまう》にかかつて戦死してしまつた。鉄条網といふ言葉は今日《こんにち》では誰も知らない者はない。けれども日露役の起つた時には全然在来の辞書にない、新しい言葉の一つだつたのである。僕は大きい表忠碑を眺め、今更のやうに二十年|前《ぜん》の日本を考へずにはゐられなかつた。同時に又ちよつと表忠碑にも時代錯誤に近いものを感じない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。
この表忠碑の後《うしろ》には確か両国劇場《りやうごくげきぢやう》といふ芝居小屋の出来る筈になつてゐた。現に僕は震災|前《ぜん》にも落成しない芝居小屋の煉瓦壁《れんぐわべい》を見たことを覚えてゐる。けれども今は薄汚《うすぎた》ない亜鉛葺《トタンぶ》きのバラツクの外《ほか》に何も芝居小屋らしいものは見えなかつた。もつとも僕は両国の鉄橋に愛惜《あいじやく》を持つてゐないやうにこの煉瓦建《れんぐわだて》の芝居小屋にも格別の愛惜を持つてゐない。両国橋の木造だつた頃には駒止《こまと》め橋《ばし》もこの辺に残つてゐた。のみならず井生村楼《ゐぶむらろう》や二州楼《にしうろう》といふ料理屋も両国橋の両側に並んでゐた。その外《ほか》に鮨屋《すしや》の与平《よへい》、鰻屋《うなぎや》の須崎屋《すさきや》、牛肉の外《ほか》にも冬になると猪《しし》や猿を食はせる豊田屋《とよだや》、それから回向院《ゑかうゐん》の表門に近い横町《よこちやう》にあつた「坊主《ぼうず》軍鶏《しやも》」――かう一々数へ立てて見ると、本所《ほんじよ》でも名高い食物屋《くひものや》は大抵《たいてい》この界隈《かいわい》に集つてゐたらしい。
「富士見の渡し」
僕等は両国橋《りやうごくばし》の袂《たもと》を左へ切れ、大川《おほかは》に沿つて歩いて行つた。「百本杭《ひやつぽんぐひ》」のないことは前にも書いた通りである。しかし「伊達様《だてさま》」は残つてゐるかも知れない。僕はまだ幼稚園時代からこの「伊達様」の中にある和霊《われい》神社のお神楽《かぐら》を見に行つたものである。なんでも母などの話によれば、女中の背中におぶさつたまま、熱心にお神楽をみてゐるうちに「うんこ」をしてしまつたこともあつたらしい。しかし何処《どこ》を眺めても、亜鉛葺《トタンぶ》きのバラツクの外《ほか》に「伊達様」らしい屋敷は見えなかつた。「伊達様」の庭には木犀《もくせい》が一本秋ごとに花を盛《も》つてゐたものである。僕はその薄甘《うすあま》い※[#「均のつくり」、第3水準1-14-75]ひを子供心にも愛してゐた。あの木犀も震災の時に勿論灰になつてしまつたことであらう。
流転《るてん》の相の僕を脅《おびやか》すのは「伊達様《だてさま》」の見えなかつたことばかりではない。僕は確かこの近所にあつた「富士見《ふじみ》の渡《わた》し」を思ひ出した。が、渡し場らしい小屋は何処《どこ》にも見えない。僕は丁度《ちやうど》道ばたに芋《いも》を洗つてゐた三十前後の男に渡し場の有無《うむ》をたづねて見ることにした。しかし彼は「富士見の渡し」といふ名前を知つてゐないのは勿論、渡し場のあつたことさへ知らないらしかつた。「富士見の渡し」はこの河岸《かし》から「明治病院」の裏手に当る向う河岸《がし》へ通《かよ》つてゐた。その又向う河岸は掘割りになり、そこに時々|何処《どこ》かの家《うち》の家鴨《あひる》なども泳いでゐたものである。僕は中学へはひつた後《のち》も或親戚を尋ねる為めに度々《たびたび》「富士見の渡し」を渡つて行つた。その親戚は三遊派《さんゆうは》の「五《ご》りん」とかいふもののお上《かみ》さんだつた。僕の家《うち》へ何かの拍子《ひやうし》に円朝《ゑんてう》の息子《むすこ》の出入《しゆつにふ》したりしたのもかういふ親戚のあつた為めであらう。僕は又その家の近所に今村次郎《いまむらじらう》といふ標札を見付け、この名高い速記者(種々の講談の)に敬意を感じたことを覚えてゐる。――
僕は講談といふものを寄席《よせ》では殆《ほとん》ど聞いたことはない。僕の知つてゐる講釈師は先代の邑井吉瓶《むらゐきつぺい》だけである。(もつとも典山《てんざん》とか伯山《はくざん》とか或は又|伯龍《はくりゆう》とかいふ新時代の芸術家を知らない訣《わけ》ではない。)従つて僕は講談を知る為めに大抵《たいてい》今村次郎《いまむらじらう》氏の速記本に依つた。しかし落語《らくご》は家族達と一しよに相生町《あひおひちやう》の広瀬《ひろせ》だの米沢町《よねざはちやう》(日本橋《にほんばし》区)の立花家《たちばなや》だのへ聞きに行つたものである。殊に度々《たびたび》行つたのは相生町の広瀬だつた。が、どういふ落語を聞いたかは生憎《あいにく》はつきりと覚えてゐない。唯|吉田国五郎《よしだくにごろう》の人形芝居を見たことだけは未《いま》だにありありと覚えてゐる。しかも僕の見た人形芝居は大抵《たいてい》小幡小平次《こばたこへいじ》とか累《かさね》とかいふ怪談物だつた。僕は近頃大阪へ行《ゆ》き、久振《ひさしぶ》りに文楽《ぶんらく》を見物した。けれども今日《こんにち》の文楽は僕の昔見た人形芝居よりも軽業《かるわざ》じみたけれん[#「けれん」に傍点]を使つてゐない。吉田国五郎の人形芝居は例へば清玄《せいげん》の庵室《あんしつ》などでも、血だけらな[#「血だらけな」の誤り?]清玄の幽霊は大夫《たいふ》の見台《けんだい》が二つに割れると、その中から姿を現はしたものである。寄席《よせ》の広瀬も焼けてしまつたであらう。今村次郎氏も明治病院の裏手に――僕は正直に白状すれば、今村次郎氏の現存してゐるかどうかも知らないものの一人《ひとり》である。
そのうちに僕は震災|前《ぜん》と――といふよりも寧《むし》ろ二十年|前《ぜん》と少しも変らないものを発見した。それは両国駅の引込み線を抑《おさ》へた、三尺に足りない草土手《くさどて》である。僕は実際この草土手に「国亡びて山河《さんか》在り」といふ詠嘆を感じずにはゐられなかつた。しかしこの小さい草土手にかういふ詠嘆を感じるのはそれ自身僕には情《なさけ》なかつた。
「お竹倉」
僕の知人は震災の為めに何人もこの界隈《かいわい》に斃《たふ》れてゐる。僕の妻の親戚などは男女九人の家族中、やつと命を全《まつた》うしたのは二十《はたち》前後の息子《むすこ》だけだつた。それも火の粉を防ぐ為めに戸板をかざして立つてゐたのを旋風の為めに捲《ま》き上げられ、安田家《やすだけ》の庭の池の側へ落ちてどうにか息を吹き返したのである。それから又僕の家へ毎日のやうに遊びに来た「お条《でう》さん」という人などは命だけは助かつたものの、一時は発狂したのも同様だつた。(「お条さん」は髪の毛の薄い為めに何処《どこ》へも片付かずにゐる人だつた。しかし髪の毛を生《は》やす為めに蝙蝠《かうもり》の血などを頭へ塗《ぬ》つてゐた。)最後に僕の通《かよ》つてゐた江東《かうとう》小学校の校長さんは両眼とも明《めい》を失つた上、前年にはたつた一人の息子を失ひ、震災の年には御夫婦とも焼け死んでしまつたとか言ふことだつた。僕も本所《ほんじよ》に住んでゐたとすれば、恐らくは矢張《やは》りこの界隈《かいわい》に火事を避けてゐたことであらう。従つて又僕は勿論、僕の家族も彼等のやうに非業《ひごふ》の最後を遂げてゐたかも知れない。僕は高い褐色の本所会館を眺めながら、こんなことをO君と話し合つたりした。
「しかし両国橋《りやうごくばし》を渡つた人は大抵《たいてい》助かつてゐたのでせう?」
「両国橋を渡つた人はね。……それでも元町《もとまち》通りには高圧線の落ちたのに触《ふ》れて死んだ人もあつたと言ふことですよ。」
「兎《と》に角《かく》東京中でも被服廠《ひふくしやう》程|大勢《おおぜい》焼け死んだところはなかつたのでせう。」
かういふ種々の悲劇のあつたのはいづれも昔の「お竹倉《たけぐら》」の跡である。僕の知つてゐた頃の「お竹倉」は大体「御維新《ごゐしん》」前《ぜん》と変らなかつたものの、もう総武《そうぶ》鉄道会社の敷地の中《うち》に加へられてゐた。僕はこの鉄道会社の社長の次男の友達だつたから、妄《みだ》りに人を入れなかつた「お竹倉」の中へも遊びに行つた。そこは前にも言つたやうに雑木林《ざふきばやし》や竹藪のある、町中《まちなか》には珍らしい野原だつた。のみならず古い橋のかかつた掘割りさへ大川《おほかは》に通じてゐた。僕は時々空気銃を肩にし、その竹藪や雑木林の中に半日を暮らしたものである。溝板《どぶいた》の上に育つた僕に自然の美しさを教へたものは何よりも先に「お竹倉」だつたであらう。僕は中学を卒業する前に英訳の「猟人日記《れふじんにつき》」を拾ひ読みにしながら、何度も「お竹倉」の中の景色を――「とりかぶと」の花の咲いた藪の陰《かげ》や大きい昼の月のかかつた雑木林の梢《こずゑ》を思ひ出したりした。「お竹倉」は勿論その頃には厳《いかめ》しい陸軍被服廠や両国駅に変つてゐた。けれども震災後の今日《こんにち》を思へば、――「卻《かへ》つて并州《へいしう》を望めば是《これ》故郷」と支那人の歌つたのも偶然ではない。
総武《そうぶ》鉄道の工事の始まつたのはまだ僕の小学時代だつたであらう。その以前の「お竹倉」は夜《よる》は「本所《ほんじよ》の七《なな》不思議」を思ひ出さずにはゐられない程もの寂しかつたのに違ひない。夜は?――いや、昼間さへ僕は「お竹倉」の中を歩きながら、「おいてき堀」や「片葉《かたは》の芦《あし》」は何処《どこ》かこのあたりにあるものと信じない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。現に夜学に通《かよ》ふ途中、「お竹倉」の向うに莫迦囃《ばかばや》しを聞き、てつきりあれは「狸囃《たぬきばや》し」に違ひないと思つたことを覚えてゐる。それはおそらくは小学時代の僕|一人《ひとり》の恐怖ではなかつたのであらう。なんでも総武鉄道の工事中にそこへ通《かよ》つてゐた線路工夫の一人《ひとり》は宵闇の中に幽霊を見、気絶してしまつたとかいふことだつた。
「大川端」
本所《ほんじよ》会館は震災|前《ぜん》の安田家《やすだけ》の跡に建つたのであらう。安田家は確か花崗石《くわかうせき》を使つたルネサンス式の建築だつた。僕は椎《しひ》の木などの茂つた中にこの建築の立つてゐたのに明治時代そのものを感じてゐる。が、セセツシヨン式の本所会館は「牛乳デイ」とかいふものの為に植込みのある玄関の前に大きいポスタアを掲《かか》げたり、宣伝用の自動車を並べたりしてゐた。僕の水泳を習ひに行つた「日本游泳協会」は丁度《ちやうど》この河岸《かし》にあつたものである。僕はいつか何かの本に三代将軍|家光《いへみつ》は水泳を習ひに日本橋《にほんばし》へ出かけたと言ふことを発見し、滑稽に近い今昔《こんじやく》の感を催さない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。しかし僕等の大川《おほかは》へ水泳を習ひに行つたと言ふことも後世《こうせい》には不可解に感じられるであらう。現に今でもO君などは「この川でも泳いだりしたものですかね」と少からず驚嘆してゐた。
僕は又この河岸《かし》にも昔に変らないものを発見した。それは――生憎《あいにく》何《なん》の木かはちよつと僕には見当《けんたう》もつかない。が、兎《と》に角《かく》新芽を吹いた昔の並《な》み木の一本である。僕の覚えてゐる柳の木は一本も今では残つてゐない。けれどもこの木だけは何かの拍子《ひやうし》に火事にも焼かれずに立つてゐるのであらう。僕は殆《ほとん》どこの木の幹に手を触《ふ》れて見たい誘惑を感じた。のみならずその木の根元には子供を連れたお婆《ばあ》さんが二人|曇天《どんてん》の大川を眺めながら、花見か何かにでも来てゐるやうに稲荷鮨《いなりずし》を食べて話し合つてゐた。
本所会館の隣にあるのは建築中の同愛《どうあい》病院である。高い鉄の櫓《やぐら》だの、何階建かのコンクリイトの壁だの、殊《こと》に砂利《じやり》を運ぶ人夫《にんぷ》だのは確かに僕を威圧するものだつた。同時に又工業地になつた「本所の玄関」といふ感じを打ち込まなければ措《お》かないものだつた。僕は半裸体の工夫《こうふ》が一人《ひとり》、汗に体を輝かせながら、シヤベルを動かしてゐるのを見、本所全体もこの工夫のやうに烈しい生活をしてゐることを感じた。この界隈《かいわい》の家々の上に五月|幟《のぼり》の翻《ひるがへ》つてゐたのは僕の小学時代の話である。今では、――誰も五月|幟《のぼり》よりは新しい日本の年中行事になつたメイ・デイを思ひ出すのに違ひない。
僕は昔この辺にあつた「御蔵橋《おくらばし》」と言ふ橋を渡り、度々《たびたび》友綱《ともづな》の家《うち》の側にあつた或友達の家《うち》へ遊びに行つた。彼も亦《また》海軍の将校になつた後《のち》、二三年|前《ぜん》に故人になつてゐる。しかし僕の思ひ出したのは必《かならず》しも彼のことばかりではない。彼の住んでゐた家のあたり、――瓦屋根の間《あひだ》に樹木《じゆもく》の見える横町《よこちやう》のことも思ひ出したのである。そこは僕の住んでゐた元町《もとまち》通りに比《くら》べると、はるかに人通りも少なければ「しもた家《や》」も殆《ほとん》ど門並《かどな》みだつた。「椎《しひ》の木《き》松浦《まつうら》」のあつた昔は暫《しばら》く問はず、「江戸の横網《よこあみ》鶯の鳴く」と北原白秋《きたはらはくしう》氏の歌つた本所《ほんじよ》さへ今ではもう「歴史的|大川端《おほかははた》」に変つてしまつたと言ふ外はない。如何《いか》に万法《ばんぱふ》は流転《るてん》するとはいへ、かういふ変化の絶え間《ま》ない都会は世界中にも珍らしいであらう。
僕等はいつか工事場らしい板囲《いたかこ》ひの前に通りかかつた。そこにも労働者が二三人、せつせと槌《つち》を動かしながら、大きい花崗石《くわかうせき》を削《けづ》つてゐた。のみならず工事中の鉄橋さへ泥濁りに濁つた大川の上へ長々と橋梁《はしげた》を横たへてゐた。僕はこの橋の名前は勿論、この橋の出来る話も聞いたことはなかつた。震災は僕等の後《うしろ》にある「富士見《ふじみ》の渡し」を滅してしまつた。が、その代りに僕等の前に新しい鉄橋を造らうとしてゐる。……
「これは何《なん》といふ橋ですか?」
麦藁帽を冠《かぶ》つた労働者の一人《ひとり》は矢張《やは》り槌を動かしたまま、ちよつと僕の顔を見上げ、存外《ぞんぐわい》親切に返事をした。
「これですか? これは蔵前橋《くらまえばし》です。」
「一銭蒸汽」
僕等はそこから引き返して川蒸汽《かはじようき》の客になる為に横網《よこあみ》の浮き桟橋《さんばし》へおりて行つた。昔はこの川蒸汽も一銭蒸汽と呼んだものである。今はもう賃銭も一銭ではない。しかし五銭出しさへすれば、何区でも勝手に行《ゆ》かれるのである。けれども屋根のある浮き桟橋は――震災は勿論この浮き桟橋も炎《ほのほ》にして空へ立ち昇《のぼ》らせたのであらう。が、一見した所は明治時代に変つてゐない。僕等はベンチに腰をおろし、一本の巻煙草に火をつけながら、川蒸汽の来るのを待つことにした。「石垣にはもう苔《こけ》が生えてゐますね。もつとも震災以来四五年になるが、……」
僕はふとこんなことを言ひ、O君の為に笑はれたりした。
「苔の生えるのは当り前であります[#「であります」に傍点]。」
大川《おほかは》は前にも書いたやうに一面に泥濁《どろにご》りに濁つてゐる。それから大きい浚渫船《しゆんせつせん》が一艘|起重機《きぢゆうき》を擡《もた》げた向う河岸《がし》も勿論「首尾《しゆび》の松」や土蔵《どざう》の多い昔の「一番堀《いちばんぼり》」や「二番堀《にばんぼり》」ではない。最後に川の上を通る船も今では小蒸汽《こじようき》や達磨船《だるまぶね》である。五大力《ごだいりき》、高瀬船《たかせぶね》、伝馬《てんま》、荷足《にたり》、田船《たぶね》などといふ大小の和船も何時《いつ》の間《ま》にか流転《るてん》の力に押し流されたのであらう。僕はO君と話しながら、「※[#「さんずい+元」、第3水準1-86-54]湘日夜東《げんしやうにちやひがし》に流れて去る」といふ支那人の詩を思ひ出した。かういふ大都会の中の川は※[#「さんずい+元」、第3水準1-86-54]湘《げんしやう》のやうに悠々と時代を超越してゐることは出来ない。現世《げんせい》は実に大川《おほかは》さへ刻々に工業化してゐるのである。
しかしこの浮き桟橋の上に川蒸汽を待つてゐる人々は大抵《たいてい》大川よりも保守的である。僕は巻煙草をふかしながら、唐桟柄《たうざんがら》の着物を着た男や銀杏《いてふ》返しに結《ゆ》つた女を眺め、何か矛盾に近いものを感じない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。同時に又明治時代にめぐり合つた或懐しみに近いものを感じない訣《わけ》には行かなかつた。そこへ下流から漕《こ》いで来たのは久振《ひさしぶ》りに見る五大力《ごだいりき》である。艫《へさき》の高い五大力の上には鉢巻をした船頭《せんどう》が一人《ひとり》一丈余りの櫓《ろ》を押してゐた。それからお上《かみ》さんらしい女が一人|御亭主《ごていしゆ》に負けずに竿を差してゐた。かういふ水上生活者の夫婦位妙に僕等にも抒情詩《ぢよじやうし》めいた心もちを起させるものは少ないかも知れない。僕はこの五大力を見送りながら、――その又五大力の上にゐる四五歳の男の子を見送りながら、幾分か彼等の幸福を羨《うらや》みたい気さへ起してゐた。
両国橋《りやうごくばし》をくぐつて来た川蒸汽はやつと浮き桟橋へ横着けになつた。「隅田丸《すみだまる》三十号」(?)――僕は或はこの小蒸汽に何度も前に乗つてゐるのであらう。兎《と》に角《かく》これも明治時代に変つてゐないことは確かである。川蒸汽の中は満員だつた上、立つてゐる客も少くない。僕等はやむを得ず舟《ふね》ばたに立ち、薄日《うすび》の光に照らされた両岸の景色を見て行くことにした。尤《もつと》も船《ふな》ばたに立つてゐたのは僕等二人に限つた訣《わけ》ではない。僕等の前には夏外套《なつぐわいたう》を着た、顋髯《あごひげ》の長い老人さへやはり船ばたに立つてゐたのである。
川蒸汽は静かに動き出した。すると大勢《おほぜい》の客の中に忽ち「毎度御やかましうございますが」と甲高《かんだか》い声を出しはじめたのは絵葉書や雑誌を売る商人である。これも亦《また》昔に変つてゐない。若し少しでも変つてゐるとすれば、「何ごとも活動ばやりの世の中でございますから」などと云ふ言葉を挾《はさ》んでゐることであらう。僕はまだ小学時代からかう云ふ商人の売つてゐるものを一度も買つた覚えはない。が、天窓《てんまど》越しに彼の姿を見おろし、ふと僕の小学時代に伯母《をば》と一しよに川蒸汽へ乗つた時のことを思ひ出した。
乗り継ぎ「一銭蒸汽」
僕等はその時にどこへ行つたのか、兎《と》に角《かく》伯母《をば》だけは長命寺《ちやうめいじ》の桜餅を一籠《ひとかご》膝《ひざ》にしてゐた。すると男女の客が二人《ふたり》、僕等の顔を尻目《しりめ》にかけながら、「何か※[#「均のつくり」、第3水準1-14-75]ひますね」「うん、糞臭《くそくさ》いな」などと話しはじめた。長命寺の桜餅を糞臭いとは、――僕は未《いま》だに生意気《なまいき》にもこの二人を田舎者《ゐなかもの》めと軽蔑したことを覚えてゐる。長命寺にも震災以来一度も足を入れたことはない。それから長命寺の桜餅は、――勿論今でも昔のやうに評判の善《い》いことは確かである。しかし※[#「飮のへん+稻のつくり」、第4水準2-92-68]《あん》や皮にあつた野趣《やしゆ》だけはいつか失はれてしまつた。……
川蒸汽は蔵前橋《くらまへばし》の下をくぐり、廐橋《うまやばし》へ真直《まつすぐ》に進んで行つた。そこへ向うから僕等の乗つたのとあまり変らない川蒸汽が一艘|矢張《やは》り浪《なみ》を蹴つて近づき出した。が、七八間隔ててすれ違つたのを見ると、この川蒸汽の後部には甲板《かんぱん》の上に天幕《テント》を張り、ちやんと大川《おほかは》の両岸の景色を見渡せる設備も整つてゐた。かういふ古風な川蒸汽も亦《また》目まぐるしい時代の影響を蒙《かうむ》らない訣《わけ》には行《ゆ》かないらしい。その後《あと》へ向うから走つて来たのはお客や芸者を乗せたモオタアボオトである。屋根船や船宿《ふなやど》を知つてゐる老人達は定めしこのモオタアボオトに苦々《にがにが》しい顔をすることであらう。僕は江戸趣味に随喜《ずゐき》する者ではない。従つて又モオタアボオトを無風流《ぶふうりう》と思ふ者ではない。しかし僕の小学時代に大川に浪を立てるものは「一銭蒸汽」のあるだけだつた。或はその外《ほか》に利根川《とねがは》通ひの外輪船《ぐわいりんせん》のあるだけだつた。僕は渡し舟に乗る度に「一銭蒸汽」の浪の来ることを、――このうねうねした浪の為に舟の揺《ゆ》れることを恐れたものである。しかし今日《こんにち》の大川の上に大小の浪を残すものは一々数へるのに耐へないであらう。
僕は船端《ふなばた》に立つたまま、鼠色に輝いた川の上を見渡し、確か広重《ひろしげ》も描《か》いてゐた河童《かつぱ》のことを思ひ出した。河童は明治時代には、――少くとも「御維新《ごゐしん》」前後には大根河岸《だいこんがし》の川にさへ出没してゐた。僕の母の話に依れば、観世新路《くわんぜじんみち》に住んでゐた或男やもめの植木屋とかは子供のおしめを洗つてゐるうちに大根河岸《だいこんがし》の川の河童に腋《わき》の下をくすぐられたと言ふことである。(観世新路に植木屋の住んでゐたことさへ僕等にはもう不思議である。)まして大川にゐた河童の数《かず》は決して少くはなかつたであらう。いや、必《かならず》しも河童ばかりではない。僕の父の友人の一人《ひとり》は夜網《よあみ》を打ちに出てゐたところ、何か舳《とも》へ上《あが》つたのを見ると、甲羅《かふら》だけでも盥《たらひ》ほどあるすつぽんだつたなどと話してゐた。僕は勿論かういふ話を尽《ことごと》く事実とは思つてゐない。けれども明治時代――或は明治時代以前の人々はこれ等の怪物を目撃《もくげき》する程この町中《まちなか》を流れる川に詩的恐怖を持つてゐたのであらう。
「今ではもう河童《かつぱ》もゐないでせう。」
「かう泥だの油だの一面に流れてゐるのではね。――しかしこの橋の下あたりには年を取つた河童の夫婦が二匹|未《いま》だに住んでゐるかも知れません。」
川蒸汽は僕等の話の中《うち》に廐橋《うまやばし》の下へはひつて行つた。薄暗い橋の下だけは浪の色もさすがに蒼《あを》んでゐた。僕は昔は渡し舟へ乗ると、――いや、時には橋を渡る時さへ、磯臭《いそくさ》い※[#「均のつくり」、第3水準1-14-75]《にほひ》のしたことを思ひ出した。しかし今日《こんにち》の大川の水は何《なん》の※[#「均のつくり」、第3水準1-14-75]も持つてゐない。若し又持つてゐるとすれば、唯泥臭い※[#「均のつくり」、第3水準1-14-75]だけであらう。……
「あの橋は今度出来る駒形橋《こまかたばし》ですね?」
O君は生憎《あいにく》僕の問に答へることは出来なかつた。駒形《こまかた》は僕の小学時代には大抵《たいてい》「コマカタ」と呼んでゐたものである。が、それもとうの昔に「コマガタ」と発音するやうになつてしまつた。「君は今|駒形《こまかた》あたりほとゝぎす」を作つた遊女も或は「コマカタ」と澄んだ音を「ほとゝぎす」の声に響かせたかつたかも知れない。支那人は「文章は千古の事」と言つた。が、文章もおのづから※[#「均のつくり」、第3水準1-14-75]を失つてしまふことは大川の水に変らないのである。
柳島
僕等は川蒸汽を下りて吾妻橋《あづまばし》の袂《たもと》へ出、そこへ来合せた円タクに乗つて柳島《やなぎしま》へ向ふことにした。この吾妻橋から柳島へ至る電車道は前後に二三度しか通つた覚えはない。まして電車の通らない前には一度も通つたことはなかつたであらう。一度も?――若し一度でも通つたとすれば、それは僕の小学時代に業平橋《なりひらばし》かどこかにあつた或|可也《かなり》大きい寺へ葬式に行つた時だけである。僕はその葬式の帰りに確か父に「御維新《ごゐしん》」前《ぜん》の本所《ほんじよ》の話をして貰つた。父は往来《わうらい》の左右を見ながら、「昔はここいらは原ばかりだつた」とか「何《なん》とか様《さま》の裏の田には鶴が下りたものだ」とか話してゐた。しかしそれ等の話の中でも最も僕を動かしたものは「御維新」前には行き倒れとか首縊《くびくく》りとかの死骸を早桶《はやをけ》に入れ、その又早桶を葭簀《よしず》に包んだ上、白張《しらは》りの提灯《ちやうちん》を一本立てて原の中に据《す》ゑて置くと云ふ話だつた。僕は草原《くさはら》の中に立つた白張の提灯を想像し、何か気味の悪い美しさを感じた。しかも彼是《かれこれ》真夜中《まよなか》になると、その早桶のおのづからごろりと転げるといふに至つては、――明治時代の本所はたとひ草原には乏しかつたにもせよ、恐らくまだこのあたりは多少|所謂《いはゆる》「御朱引《ごしゆび》き外《そと》」の面《おも》かげをとどめてゐたのであらう。しかし今はどこを見ても、唯電柱やバラツクの押し合ひへし合ひしてゐるだけである。僕は泥のはねかかつたタクシイの窓越しに往来《わうらい》を見ながら、金銭を武器にする修羅界《しゆらかい》の空気を憂鬱に感じるばかりだつた。
僕等は「橋本《はしもと》」の前で円タクをおり、水のどす黒い掘割り伝ひに亀井戸《かめゐど》の天神様《てんじんさま》へ行つて見ることにした。名高い柳島《やなぎしま》の「橋本」も今は食堂に変つてゐる。尤《もつと》もこの家は焼けずにすんだらしい。現に古風な家の一部や荒れ果てた庭なども残つてゐる。けれども磨《す》り硝子《ガラス》へ緑いろに「食堂」と書いた軒燈《けんとう》は少くとも僕にははかなかつた。僕は勿論「橋本」の料理を云々《うんぬん》するほどの通人《つうじん》ではない。のみならず「橋本」へ来たことさへあるかないかわからない位である。が、五代目|菊五郎《きくごろう》の最初の脳溢血《なういつけつ》を起したのは確かこの「橋本」の二階だつたであらう。
掘割りを隔てた妙見様《めうけんさま》も今ではもうすつかり裸になつてゐる。それから掘割りに沿うた往来《わうらい》も、――僕は中学時代に蕪村《ぶそん》句集を読み、「君|行《ゆ》くや柳緑に路長し」といふ句に出合つた時、この往来にあつた柳を思ひ出さずにはゐられなかつた。しかし今僕等の歩いてゐるのは有田《ありた》ドラツグや愛聖館《あいせいくわん》の並んだ、せせこましいなりに賑かな往来である。近頃|私娼《ししやう》の多いとか云ふのも恐らくはこの往来の裏あたりであらう。僕は浅草《あさくさ》千束町《せんぞくまち》にまだ私娼の多かつた頃の夜《よる》の景色を覚えてゐる。それは窓ごとに火《ほ》かげのさした十二階の聳えてゐる為に殆《ほとん》ど荘厳な気のするものだつた。が、この往来はどちらへ抜けても、ボオドレエル的色彩などは全然見つからないのに違ひない。たとひデカダンスの詩人だつたとしても、僕は決してかう云ふ町裏を徘徊《はいくわい》する気にはならなかつたであらう。けれども明治時代の諷刺《ふうし》詩人《しじん》、斎藤緑雨《さいとうりよくう》は十二階に悪趣味そのものを見|出《いだ》してゐた。すると明日《みやうにち》の詩人たちは有田ドラツグや愛聖館にも彼等自身の「悪の花」を――或は又「善の花」を歌ひ上げることになるかも知れない。
萩寺あたり
僕は碌《ろく》でもないことを考へながら、ふと愛聖館《あいせいくわん》の掲示板《けいじばん》を見上げた。するとそこに書いてあるのは確かかういふ言葉だつた。
「神様はこんなにたくさんの人間をお造りになりました。ですから人間を愛していらつしやいます。」
産児制限論者は勿論、現世《げんせい》の人々はかういふ言葉に微笑しない訣《わけ》にはゆかないであらう。人口過剰に苦しんでゐる僕等はこんなにたくさんの人間のゐることを神の愛の証拠《しようこ》と思ふことは出来ない。いや、寧《むし》ろ全能の主《しゆ》の憎しみの証拠とさへ思はれるであらう。しかし本所《ほんじよ》の或|場末《ばすゑ》の小学生を教育してゐる僕の旧友の言葉に依れば、少くともその界隈《かいわい》に住んでゐる人々は子供の数《かず》の多い家ほど反《かへ》つて暮らしも楽《らく》だと云ふことである。それは又どの家の子供も兎《と》に角《かく》十か十一になると、それぞれ子供なりに一日の賃金を稼《かせ》いで来るからだと云うことである。愛聖館《あいせいくわん》の掲示板にかういふ言葉を書いた人は或はこの事実を知らなかつたかも知れない。が、確かにかういふ言葉は現世の本所《ほんじよ》の或場末に生活してゐる人々の気持ちを代辯することになつてゐるであらう。尤《もつと》も子供の多い程暮らしも楽だといふことは子供自身には仕合せかどうか、多少の疑問のあることは事実である。
それから僕等は通りがかりにちよつと萩寺《はぎでら》を見物した。萩寺も突つかひ棒はしてあるものの、幸ひ震災に焼けずにすんだらしい。けれども萩の四五株しかない上、落合直文《おちあひなほぶみ》先生の石碑を前にした古池の水も渇《か》れ渇《が》れになつてゐるのは哀れだつた。ただこの古池に臨んだ茶室だけは昔よりも一層もの寂《さ》びてゐる。僕は萩寺の門を出ながら、昔は本所《ほんじよ》の猿江《さるえ》にあつた僕の家の菩提寺《ぼだいじ》を思ひ出した。この寺には何《なん》でも司馬江漢《しばかうかん》や小林平八郎《こばやしへいはちらう》の墓の外《ほか》に名高い浦里時次郎《うらざとときじろう》の翼比塚《ひよくづか》[#「比翼塚」の誤り?]も残つてゐたものである。僕の司馬江漢を知つたのは勿論余り古いことではない。しかし義士の討入りの夜《よ》に両刀を揮《ふる》つて闘つた振り袖姿の小林平八郎は小学時代の僕等には実に英雄そのものだつた。それから浦里時次郎も、――僕はあらゆる東京人のやうに芝居には悪縁の深いものである。従つて矢張《やは》り小学時代から浦里時次郎を尊敬してゐた。(けれども正直に白状すれば、はじめて浦里時次郎を舞台の上に見物した時、僕の恋愛を感じたものは浦里よりも寧《むし》ろ禿《かむろ》だつた。)この寺は――慈眼寺《じげんじ》といふ日蓮《にちれん》宗の寺は震災よりも何年か前に染井《そめゐ》の墓地《ぼち》のあたりに移転してゐる。彼等の墓も寺と一しよに定めし同じ土地に移転してゐるであらう。が、あのじめ/\した猿江《さるえ》の墓地は未《いま》だに僕の記憶に残つてゐる。就中《なかんづく》薄い水苔《みづごけ》のついた小林平八郎の墓の前に曼珠沙華《まんじゆしやげ》の赤々と咲いてゐた景色は明治時代の本所《ほんじよ》以外に見ることの出来ないものだつたかも知れない。
萩寺《はぎでら》の先にある電柱(?)は「亀井戸《かめゐど》天神《てんじん》近道」といふペンキ塗りの道標《だうへう》を示してゐた。僕等はその横町《よこちやう》を曲《まが》り、待合《まちあひ》やカフエの軒を並べた、狭苦しい往来《わうらい》を歩いて行つた。が、肝腎《かんじん》の天神様へは容易《ようい》に出ることも出来なかつた。すると道ばたに女の子が一人《ひとり》メリンスの袂《たもと》を翻《ひるがへ》しながら、傍若無人《ばうじやくぶじん》にゴム毬《まり》をついてゐた。
「天神様へはどう行《ゆ》きますか?」
「あつち。」
女の子は僕等に返事をした後《のち》、聞えよがしにこんなことを言つた。
「みんな天神様のことばかり訊《き》くのね。」
僕はちよつと忌々《いまいま》しさを感じ、この如何《いか》にもこましやくれた十《とを》ばかりの女の子を振り返つた。しかし彼女は側目《わきめ》も振らずに(しかも僕に見られてゐることをはつきり承知してゐながら)矢張《やは》り毬《まり》をつき続けてゐた。実際支那人の言つたやうに「変らざるものよりして之を見れば」何ごとも変らないのに違ひない。僕も亦《また》僕の小学時代には鉄面皮《てつめんぴ》にも生薬屋《きぐすりや》へ行つて「半紙《はんし》を下さい」などと言つたものだつた。
「天神様」
僕等は門並《かどな》みの待合《まちあひ》の間《あひだ》をやつと「天神様《てんじんさま》」の裏門へ辿《たど》りついた。するとその門の中には夏外套を着た男が一人《ひとり》、何か滔々としやべりながら、「お立ち合ひ」の人々へ小さい法律書を売りつけてゐた。僕は彼の雄辯に辟易《へきえき》せずにはゐられなかつた。が、この人ごみを通りこすと、今度は背広を着た男が一人最新化学応用の目薬《めぐすり》と云ふものを売りつけてゐた。この「天神様」の裏の広場も僕の小学時代にはなかつたものである。しかし広場の出来た後《のち》にもここにかかる世見物小屋《みせものごや》[#「見世物小屋」の誤り?]は活《い》き人形や「からくり」ばかりだつた。
「こつちは法律《はふりつ》、向うは化学――ですね。」
「亀井戸《かめゐど》も科学の世界になつたのでせう。」
僕等はこんなことを話し合ひながら、久しぶりに「天神様」へお詣りに行つた。「天神様」の拝殿は仕合せにも昔に変つてゐない。いや、昔に変つてゐないのは筆塚《ふでづか》や石の牛も同じことである。僕は僕の小学時代に古い筆を何本も筆塚へ納めたことを思ひ出した。(が、僕の字は何年たつても、一向《いつかう》上達する容子《ようす》はない。)それから又石の牛の額へ銭を投げてのせることに苦心したことも思ひ出した。かう云ふ時に投げる銭は今のやうに一銭銅貨ではない。大抵《たいてい》は五厘銭か寛永通宝《くわんえいつうはう》である。その又穴銭の中の文銭《ぶんせん》を集め、所謂《いはゆる》「文銭の指環《ゆびわ》」を拵《こしら》へたのも何年|前《まへ》の流行であらう。僕等は拝殿の前へ立ち止まり、ちよつと帽をとつてお時宜《じぎ》をした。
「太鼓橋《たいこばし》も昔の通りですか?」
「ええ、――しかしこんなに小さかつたかな。」
「子供の時に大きいと思つたものは存外《ぞんぐわい》あとでは小さいものですね。」
「それは太鼓橋《たいこばし》ばかりぢやないかも知れない。」
僕等は暖簾《のれん》をかけた掛け茶屋越しにどんより水光りのする池を見ながら、やつと短い花房を垂らした藤棚《ふぢだな》の下を歩いて行つた。この掛け茶屋や藤棚もやはり昔に変つてゐない。しかし木の下や池のほとりに古人の句碑の立つてゐるのは僕には何か時代錯誤を感じさせない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。江戸時代に興つた「風流」は江戸時代と一しよに滅んでしまつた。唯僕等の明治時代はまだどこかに二百年間の「風流」の※[#「均のつくり」、第3水準1-14-75]《にほひ》を残してゐた。けれども今は目《ま》のあたりに、――O君はにやにや笑ひながら、恐らくは君自身は無意識に僕にこの矛盾を指《さ》し示した。
「カルシウム煎餅《せんべい》も売つてゐますね。」
「ああ、あの大きい句碑の前にね。――それでもまだ張《は》り子《こ》の亀の子は売つてゐる。」
僕等は、「天神様」の外へ出た後、「船橋屋《ふなばしや》」の葛餅《くずもち》を食ふ相談をした。が、本所《ほんじよ》に疎遠《そゑん》になつた僕には「船橋屋」も容易に見つからなかつた。僕はやむを得ず荒物屋《あらものや》の前に水を撒《ま》いてゐたお上《かみ》さんに田舎《ゐなか》者らしい質問をした。それから花柳病《くわりうびやう》の医院の前をやつと又船橋屋へ辿《たど》り着いた。船橋屋も家は新《あら》たになつたものの、大体は昔に変つてゐない。僕等は縁台《えんだい》に腰をおろし、鴨居《かもゐ》の上にかけ並べた日本アルプスの写真を見ながら、葛餅を一盆《ひとぼん》づつ食ふことにした。
「安いものですね、十銭とは。」
O君は大いに感心してゐた。しかし僕の中学時代には葛餅も一盆《ひとぼん》三銭だつた。僕は僕の友だちと一しよに江東梅園《かうとうばいゑん》などへ遠足に行つた帰りに度たびこの葛餅を食つたものである。江東梅園も臥龍梅《ぐわりゆうばい》と一しよに滅びてしまつてゐるであらう。水田《すゐでん》や榛《はん》の木のあつた亀井戸《かめゐど》はかう云ふ梅の名所だつた為に南画《なんぐわ》らしい趣《おもむき》を具へてゐた。が、今は船橋屋の前も広い新開の往来《わうらい》の向うに二階建の商店が何軒も軒を並べてゐる。……
錦糸堀
僕は天神橋《てんじんばし》の袂《たもと》から又円タクに乗ることにした。この界隈《かいわい》はどこを見ても、――僕はもう今昔《こんじやく》の変化を云々《うんぬん》するのにも退屈した。僕の目に触れるものは半《なか》ば出来上つた小公園である。或は亜鉛塀《トタンべい》を繞《めぐ》らした工場である。或は又見すぼらしいバラツクである。斎藤茂吉《さいとうもきち》氏は何かの機会に「ものの行《ゆ》きとどまらめやも」と歌ひ上げた。しかし今日《こんにち》の本所《ほんじよ》は「ものの行き」を現してゐない。そこにあるものは震災の為に生じた「ものの飛び[#「飛び」に傍点]」に近いものである。僕は昔この辺に糧秣廠《りやうまつしやう》のあつたことを思ひ出し、更にその糧秣廠に火事のあつたことを思ひ出し、如露亦如電《によろやくによでん》といふ言葉の必《かならず》しも誇張でないことを感じた。
僕の通《かよ》つてゐた第三中学校も鉄筋コンクリイトに変つてゐる。僕はこの中学校へ五年の間《あひだ》通《かよ》ひつづけた。当時の校舎も震災の為に灰になつてしまつたのであらう。が、僕の中学時代には鼠色のペンキを塗つた二階建の木造だつた。それから校舎のまはりにはポプラアが何本かそよいでゐた。(この界隈《かいわい》は土の痩《や》せてゐる為にポプラア以外の木は育ち悪《にく》かつたのである。)僕はそこへ通つてゐるうちに英語や数学を覚えた外《ほか》にも如何《いか》に僕等人間の情け無いものであるかを経験した。かう云ふのは僕の先生たちや友だちの悪口《わるぐち》を言つてゐるのではない。僕等人間と云ふうちには勿論僕のこともはひつてゐるのである。たとへば僕等は或友だちをいぢめ、彼を砂の中に生き埋めにした。僕等の彼をいぢめたのは格別理由のあつた訣《わけ》ではない。若し又理由らしいものを挙げるとすれば、唯彼の生意気《なまいき》だつた、――或は彼は彼自身を容易に曲《ま》げようとしなかつたからである。僕はもう五六年|前《ぜん》、久しぶりに彼とこの話をし、この小事件も彼の心に暗い影を落してゐるのを感じた。彼は今は揚子江《やうすこう》の岸に不相変《あひかはらず》孤独に暮らしてゐる。……
かう云ふ僕の友だちと一しよに僕の記憶に浮んで来るのは僕等を教へた先生たちである。僕はこの「繁昌記《はんじやうき》」の中に一々そんな記憶を加へるつもりはない。けれども唯|一人《ひとり》この機会にスケツチしておきたいのは山田《やまだ》先生である。山田先生は第三中学校の剣道部と云ふものの先生だつた。先生の剣道は封建《ほうけん》時代の剣客《けんかく》に勝《まさ》るとも劣らなかつたであらう。何《なん》でも先生に学んだ一人《ひとり》は武徳会の大会に出、相手の小手《こて》へ竹刀《しなひ》を入れると、余り気合ひの烈《はげ》しかつた為に相手の腕を一打ちに折つてしまつたとか云ふことだつた。が、僕の伝へたいのは先生の剣道のことばかりではない。先生は又食物を減じ、仙人《せんにん》に成る道も修行してゐた。のみならず明治時代にも不老不死の術に通じた、正真紛《しやうじんまぎ》れのない仙人の住んでゐることを確信してゐた。僕は不幸にも先生のやうに仙人に敬意を感じてゐない。しかし先生の鍛煉《たんれん》にはいつも敬意を感じてゐる。先生は或時博物学教室へ行《ゆ》き、そこにあつたコツプの昇汞水《しようこうすゐ》を水と思つて飲み干《ほ》してしまつた。それを知つた博物学の先生は驚いて医者を迎へにやつた。医者は勿論やつて来るが早いか、先生に吐剤《とざい》を飲ませようとした。けれども先生は吐剤と云ふことを知ると、自若《じじやく》としてかう云ふ返事をした。
「山田次郎吉《やまだじろきち》は六十を越しても、まだ人様《ひとさま》のゐられる前でへど[#「へど」に傍点]を吐くほど耄碌《まうろく》はしませぬ。どうか車を一台お呼び下さい。」
先生は何《なん》とか云ふ法を行ひ、とうとう医者にもかからずにしまつた。僕はこの三四年の間《あひだ》は誰からも先生の噂を聞かない。あの面長《おもなが》の山田先生は或はもう列仙伝《れつせんでん》中の人々と一しよに遊んでゐるのであらう。しかし僕は不相変《あひかはらず》埃《ほこり》臭い空気の中に、――僕等をのせた円タクは僕のそんなことを考へてゐるうちに江東橋《かうとうばし》を渡つて走つて行つた。
緑町、亀沢町
江東橋《かうとうばし》を渡つた向うもやはりバラツクばかりである。僕は円タクの窓越しに赤錆《あかさび》をふいた亜鉛《トタン》屋根だのペンキ塗りの板目《はめ》だのを見ながら、確か明治四十三年にあつた大水《おほみづ》のことを思ひ出した。今日《こんにち》の本所《ほんじよ》は火事には会つても、洪水に会ふことはないであらう。が、その時の大水は僕の記憶に残つてゐるのでは一番|水嵩《みづかさ》の高いものだつた。江東橋《かうとうばし》界隈《かいわい》の人々の第三中学校へ避難したのもやはりこの大水のあつた時である。僕は江東橋を越えるのにも一面に漲《みなぎ》つた泥水の中を泳いで行《ゆ》かなければならなかつた。……
「実際その時は大変でしたよ。尤《もつと》も僕の家《うち》などは床《ゆか》の上へ水は来なかつたけれども。」
「では浅い所もあつたのですね?」
「緑町《みどりちやう》二丁目――かな。何《なん》でもあの辺は膝位《ひざくらゐ》まででしたがね。僕はSと云ふ友だちと一しよにその露地《ろぢ》の奥にゐるもう一人《ひとり》の友だちを見舞ひに行つたんです。するとSと云ふ友だちが溝《どぶ》の中へ落ちてしまつてね。……」
「ああ、水が出てゐたから、溝《どぶ》のあることがわからなかつたんですね。」
「ええ、――しかしSのやつは膝まで水の上に出てゐたんです。それがあつと言ふ拍子《ひやうし》に可也《かなり》深い溝だつたと見え、水の上に出てゐるのは首だけになつてしまつたんでせう。僕は思はず笑つてしまつてね。」
僕等をのせた円タクはかう云ふ僕等の話の中《うち》に寿座《ことぶきざ》の前を通り過ぎた。画看板《ゑかんばん》を掲げた寿座は余り昔と変らないらしかつた。僕の父の話によれば、この辺、――二つ目通りから先は「津軽《つがる》様」の屋敷だつた。「御維新《ごゐしん》」前《まへ》の或年の正月、父は川向うへ年始に行《ゆ》き、帰りに両国橋《りやうごくばし》を渡つて来ると、少しも見知らない若侍《わかざむらひ》が一人《ひとり》偶然父と道づれになつた。彼もちやんと大小をさし、鷹《たか》の羽《は》の紋のついた上下《かみしも》を着てゐた。父は彼と話してゐるうちにいつか僕の家《うち》を通り過ぎてしまつた。のみならずふと気づいた時には「津軽様」の溝《どぶ》の中へ転げこんでゐた。同時に又若侍はいつかどこかへ見えなくなつてゐた。父は泥まみれになつたまま、僕の家《うち》へ帰つて来た。何でも父の刀は鞘走《さやばし》つた拍子《ひやうし》にさかさまに溝の中に立つたと云ふことである。それから若侍に化《ば》けた狐は(父は未《いま》だこの若侍を狐だつたと信じてゐる。)刀の光に恐れた為にやつと逃げ出したのだと云ふことである。実際狐の化けたかどうかは僕にはどちらでも差支《さしつか》へない。僕は唯父の口からかう云ふ話を聞かされる度にいつも昔の本所《ほんじよ》の如何《いか》に寂しかつたかを想像してゐた。
僕等は亀沢町《かめざはちやう》の角《かど》で円タクをおり、元町《もとまち》通りを両国へ歩いて行つた。菓子屋の寿徳庵《じゆとくあん》は昔のやうにやはり繁昌《はんじやう》してゐるらしい。しかしその向うの質屋《しちや》の店は安田《やすだ》銀行に変つてゐる。この質屋の「利《り》いちやん」も僕の小学時代の友だちだつた。僕はいつか遊び時間に僕等の家《うち》にあるものを自慢《じまん》し合つたことを覚えてゐる。僕の友だちは僕のやうに年とつた小役人《こやくにん》の息子《むすこ》ばかりではない。が、誰も「利《り》いちやん」の言葉には驚嘆せずにはゐられなかつた。
「僕の家《うち》の土蔵《どざう》の中には大砲《おほづつ》万右衛門《まんゑもん》の化粧廻《けしやうまは》しもある。」
大砲《おほづつ》は僕等の小学時代に、――常陸山《ひたちやま》や梅《うめ》ヶ谷《たに》の大関だつた時代に横綱を張つた相撲《すまふ》だつた。
相生町
本所《ほんじよ》警察署もいつの間《ま》にかコンクリイトの建物に変つてゐる。僕の記憶にある警察署は古い赤|煉瓦《れんぐわ》の建物だつた。僕はこの警察署長の息子《むすこ》も僕の友だちだつたのを覚えてゐる。それから警察署の鄰《となり》にある蝙蝠傘屋《かうもりがさや》も――傘屋の木島《きじま》さんは今日《こんにち》でも僕のことを覚えてゐてくれるであらうか? いや、木島さん一人《ひとり》ではない。僕はこの界隈《かいわい》に住んでゐた大勢《おほぜい》の友だちを覚えてゐる。しかし僕の友だちは長い年月《としつき》の流れるのにつれ、もう全然僕などとは縁のない暮らしをしてゐるであらう。僕は四五年|前《まへ》の簡閲点呼《かんえつてんこ》に大紙屋《おほがみや》の岡本《をかもと》さんと一しよになつた。僕の知つてゐた大紙屋は封建時代に変りのない土蔵《どざう》造りの紙屋である。その又薄暗い店の中には番頭や小僧が何人も忙《いそが》しさうに歩きまはつてゐた。が、岡本さんの話によれば、今では店の組織も変り、海外へ紙を輸出するのにもいろいろ計画を立ててゐるらしい。
「この辺もすつかり変つてゐますか?」
「昔からある店もありますけれども、……町全体の落ち着かなさ加減はね。」
僕はその大紙屋《おほがみや》のあつた「馬車通り」(「馬車通り」と云ふのは四《よ》つ目《め》あたりへ通ふガタ馬車のあつた為である。)のぬかるみを思ひ出した。しかしまだ明治時代にはそこにも大紙屋のあつたやうに封建時代の影の落ちた何軒かの「しにせ」は残つてゐた。僕はこの馬車通りにあつた「魚善《うをぜん》」といふ肴屋《さかなや》を覚えてゐる。それから又|樋口《ひぐち》さんといふ門構への医者を覚えてゐる。最後にこの樋口さんの近所にピストル強盗|清水定吉《しみづさだきち》の住んでゐたことを覚えてゐる。明治時代もあらゆる時代のやうに何人かの犯罪的天才を造《つく》り出した。ピストル強盗も稲妻《いなづま》強盗や五寸|釘《くぎ》の虎吉《とらきち》と一しよにかう云ふ天才たちの一人《ひとり》だつたであらう。僕は彼の按摩《あんま》になつて警官の目をくらませてゐたり、彼の家の壁をがんどう返しにして出没を自在にしてゐたことにロマン趣味を感じずにはゐられなかつた。これ等の犯罪的天才は大抵《たいてい》は小説の主人公になり、更《さら》に又|所謂《いわゆる》壮士芝居の劇中人物になつたものである。僕はかういふ壮士芝居の中に「大悪僧《だいあくそう》」とか云ふものを見、一場《ひとば》々々の血なまぐささに夜も碌々《ろくろく》眠られなかつた。尤《もつと》もこの「大悪僧」は或はピストル強盗のやうに実在の人物ではなかつたかも知れない。
僕等はいつか埃《ほこり》の色をした国技館《こくぎくわん》の前へ通りかかつた。国技館は丁度《ちやうど》日光《につくわう》の東照宮《とうせうぐう》の模型《もけい》か何かを見世物《みせもの》にしてゐる所らしかつた。僕の通《かよ》つてゐた江東《かうとう》小学校は丁度《ちやうど》ここに建つてゐたものである。現に残つてゐる大銀杏《おほいてふ》も江東小学校の運動場の隅に、――といふよりも附属幼稚園の運動場の隅に枝をのばしてゐた。当時の小学校の校長の震災の為に死んだことは前に書いた通りである。が、僕はつい近頃やはり当時から在職してゐたT先生にお目にかかり、女生徒に裁縫《さいほう》を教へてゐた或女の先生も割《わ》り下水《げすゐ》に近い京極《きやうごく》子爵家(?)の溝《どぶ》の中に死んだことを知つたりした。この先生は着物は腐れ、体は骨になつてゐるものの、貯金帳だけはちやんと残つてゐた為にやつと誰だかわかつたさうである。T先生の話によれば、僕等を教へた先生たちは大抵《たいてい》は本所《ほんじよ》にゐないらしい。僕は比留間《ひるま》先生に張り倒されたことを覚えてゐる。それから宗《そう》先生に後頭部を突かれたことを覚えてゐる。それから葉若《はわか》先生に、――けれども僕の覚えてゐるのは体罰《たいばつ》を受けたことばかりではない。僕は又この小学校の中にいろいろの喜劇のあつたことも覚えてゐる。殊に大島《おほしま》と云ふ僕の親友のちやんと机に向つたまま、いつかうんこ[#「うんこ」に傍点]をしてゐたのは喜劇中の喜劇だつた。しかしこの大島|敏夫《としお》も――花や歌を愛してゐた江東小学校の秀才も二十《はたち》前後に故人になつてゐる。……
国技館の隣《とな》りに回向院《ゑかうゐん》のあることは大抵《たいてい》誰でも知つてゐるであらう。所謂《いはゆる》本場所の相撲《すまふ》も亦《また》国技館の出来ない前には回向院《ゑかうゐん》の境内《けいだい》に蓆張《むしろば》りの小屋をかけてゐたものである。僕等はこの義士の打ち入り以来、名高い回向院を見る為に国技館の横を曲つて行つた。が、それもここへ来る前にひそかに僕の予期してゐたやうにすつかり昔に変つてゐた。
回向院
今日《こんにち》の回向院《ゑかうゐん》はバラツクである。如何《いか》に金《きん》の紋《もん》を打つた亜鉛葺《トタンぶ》きの屋根は反《そ》つてゐても、硝子《ガラス》戸を立てた本堂はバラツクと云ふ外《ほか》に仕かたはない。僕等は読経《どきやう》の声を聞きながら、やはり僕には昔|馴染《なじ》みの鼠小僧《ねずみこぞう》の墓を見物に行つた。墓の前には今日《こんにち》でも乞食《こじき》が三四人集つてゐた。が、そんなことはどうでも善《よ》い。それよりも僕を驚かしたのは膃肭獣《をつとせい》供養塔と云ふものの立つてゐたことである。僕はぼんやりこの石碑を見上げ、何かその奥の鼠小僧の墓に同情しない訣《わけ》には行《ゆ》かなかつた。
鼠小僧《ねずみこぞう》治郎太夫《ぢろだいふ》の墓は建札《たてふだ》も示してゐる通り、震災の火事にも滅びなかつた。赤い提灯《ちやうちん》や蝋燭《らふそく》や教覚速善《けうかくそくぜん》居士《こじ》の額《がく》も大体昔の通りである。尤《もつと》も今は墓の石を欠かれない用心のしてあるばかりではない。墓の前の柱にちやんと「御用のおかたにはお守《まも》り石をさし上げます」と書いた、小さい紙札も貼《は》りつけてある。僕等はこの墓を後ろにし、今度は又墓地の奥に、――国技館の後ろにある京伝《きやうでん》の墓を尋ねて行つた。
この墓地も僕にはなつかしかつた。僕は僕の友だちと一しよに度たびいたづらに石塔を倒し、寺男や坊さんに追ひかけられたものである。尤《もつと》も昔は樹木《じゆもく》も茂り、一口に墓地と云ふよりも卵塔場《らんたふば》と云ふ気のしたものだつた。が、今は墓石《ぼせき》は勿論《もちろん》、墓を繞《めぐ》つた鉄柵《てつさく》にも凄まじい火の痕《あと》は残つてゐる。僕は「水子塚《みづこづか》」の前を曲り、京伝《きやうでん》の墓の前へ辿《たど》り着いた。京伝の墓も京山《きやうざん》の墓と一しよにやはり昔に変つてゐない。唯それ等の墓の前に柿か何かの若木が一本、ひよろりと枝をのばしたまま、若葉を開いてゐるのは哀れだつた。
僕等は回向院《ゑかうゐん》の表門を出、これもバラツクになつた坊主《ばうず》軍鶏《しやも》を見ながら、一《ひと》つ目《め》の橋へ歩いて行つた。僕の記憶を信ずるとすれば、この一つ目の橋のあたりは大正時代にも幾分か広重《ひろしげ》らしい画趣を持つてゐたものである。しかしもう今日《こんにち》ではどこにもそんな景色は残つてゐない。僕等は無慙《むざん》にもひろげられた路《みち》を向う両国《りやうごく》へ引き返しながら、偶然「泰《たい》ちやん」の家《うち》の前を通りかかつた。「泰ちやん」は下駄屋《げたや》の息子《むすこ》である。僕は僕の小学時代にも作文は多少|上手《じやうず》だつた。が、僕の作文は、――と云ふよりも僕等の作文は、大抵《たいてい》は所謂《いはゆる》美文だつた。「富士の峯白くかりがね池の面《おもて》に下《くだ》り、空仰げば月|麗《うるは》しく、余が影法師黒し。」――これは僕の作文ではない。二三年|前《まへ》に故人になつた僕の小学時代の友だちの一人《ひとり》、――清水昌彦《しみづまさひこ》君の作文である。「泰ちやん」はかう云ふ作文の中にひとり教科書の※[#「均のつくり」、第3水準1-14-75]《にほひ》のない、活き活きした口語文を作つてゐた。それは何《なん》でも「虹《にじ》」といふ作文の題の出た時である。僕は内心僕の作文の一番になることを信じてゐた。が、先生の一番にしたのは「泰ちやん」――下駄屋「伊勢甚《いせじん》」の息子|木村泰助《きむらたいすけ》君の作文だつた。「泰ちやん」は先生の命令を受け、彼自身の作文を朗読《らうどく》した。それは恐らくは誰よりも僕を動かさずにはおかなかつた。僕は勿論「泰ちやん」の為に見事に敗北を受けたことを感じた。同時に又「泰《たい》ちやん」の描《ゑが》いた「虹」にありありと夕立ちの通り過ぎたのを感じた。僕を動かした文章は東西に亘《わた》つて少くはない。しかしまづ僕を動かしたのはこの「泰ちやん」の作文である。運命は僕を売文の徒にした。若し「泰ちやん」も僕のやうにペンを執《と》つてゐたとすれば、「大東京|繁昌記《はんじやうき》」の読者はこの「本所《ほんじよ》両国《りやうごく》」よりも或は数等美しい印象記を読んでゐたかも知れない。けれども「泰ちやん」はどうしてゐるであらう? 僕は幾つも下駄の並んだ飾り窓の前に佇《たたず》んだまま、そつと店の中へ目を移した。店の中には「泰ちやん」のお母さんらしい人が一人《ひとり》坐つてゐる。が、木村泰助君は生憎《あいにく》どこにも見えなかつた。……
方丈記
僕「今日は本所《ほんじよ》へ行つて来ましたよ。」
父「本所もすつかり変つたな。」
母「うちの近所はどうなつてゐるえ?」
僕「どうなつてゐるつて、……釣竿屋の石井《いしゐ》さんにうちを売つたでせう。あの石井さんのあるだけですね。ああ、それから提灯屋《ちやうちんや》もあつた。……」
伯母《をば》「あすこには洗湯《せんたう》もあつたでせう。」
僕「今でも常磐湯《ときはゆ》と云ふ洗湯はありますよ。」
伯母「常磐湯と言つたかしら。」
妻「あたしのゐた辺《へん》も変つたでせうね?」
僕「変らないのは石河岸《いしがし》だけだよ。」
妻「あすこにあつた、大きい柳は?」
僕「柳などは勿論焼けてしまつたさ。」
母「お前のまだ小さかつた頃には電車も通つてゐなかつたんだからね。」
父「上野《うへの》と新橋《しんばし》との間《あひだ》さへ鉄道馬車があつただけなんだから。――鉄道馬車と云ふ度に思ひ出すのは……」
僕「僕の小便をしてしまつた話でせう。満員の鉄道馬車に乗つたまま。……」
伯母「さうさう、赤いフランネルのズボン下をはいて、……」
父「何、あの鉄道馬車会社の神戸《かんべ》さんのことさ。神戸さんもこの間《あひだ》死んでしまつたな。」
僕「東京電燈の神戸《かんべ》さんでせう。へええ、神戸さんを知つてゐるんですか?」
父「知つてゐるとも。大倉《おほくら》さんなども知つてゐたもんだ。」
僕「大倉|喜八郎《きはちらう》をね……」
父「僕も[#「僕も」に傍点]あの時分にどうかすれば、……」
僕「もうそれだけで沢山《たくさん》ですよ。」
伯母「さうだね。この上損でもされてゐた日には……」(笑ふ)
僕「『榛《はん》の木《き》馬場《ばば》』あたりはかたなしですね。」
父「あすこには葛飾北斎《かつしかほくさい》が住んでゐたことがある。」
僕「『割《わ》り下水《げすゐ》』もやつぱり変つてしまひましたよ。」
母「あすこには悪《わる》御家人《ごけにん》が沢山《たくさん》ゐてね。」
僕「僕の覚えてゐる時分でも何かそんな気のする所でしたね。」
妻「お鶴《つる》さんの家《うち》はどうなつたでせう?」
僕「お鶴さん? ああ、あの藍問屋《あゐどんや》の娘さんか。」
妻「ええ、兄《にい》さんの好きだつた人。」
僕「あの家《うち》どうだつたかな。兄さんの為にも見て来るんだつけ。尤《もつと》も前は通つたんだけれども。」
伯母「あたしは地震の年以来一度も行つたことはないんだから、――行つても驚くだらうけれども。」
僕「それは驚くだけですよ。伯母《をば》さんには見当《けんたう》もつかないかも知れない。」
父「何しろ変りも変つたからね。そら、昔は夕がたになると、みんな門を細目《ほそめ》にあけて往来《わうらい》を見てゐたもんだらう?」
母「法界節《ほふかいぶし》や何かの帰つて来るのをね。」
伯母「あの時分は蝙蝠《かうもり》も沢山《たくさん》ゐたでせう。」
僕「今は雀さへ飛んでゐませんよ。僕は実際|無常《むじやう》を感じてね。……それでも一度行つてごらんなさい。まだずんずん変らうとしてゐるから。」
妻「わたしは一度子供たちに亀井戸《かめゐど》の太鼓橋《たいこばし》を見せてやりたい。」
父「臥龍梅《ぐわりゆうばい》はもうなくなつたんだらうな?」
僕「ええ、あれはもうとうに。……さあ、これから驚いたと云ふことを十五回だけ書かなければならない。」
妻「驚いた、驚いたと書いてゐれば善《い》いのに。」(笑ふ)
僕「その外《ほか》に何も書けるもんか。若し何か書けるとすれば、……さうだ。このポケツト本の中にちやんともう誰か書き尽してゐる。――『玉敷《たましき》の都の中に、棟《むね》を並べ甍《いらか》を争へる、尊《たか》き卑《いや》しき人の住居《すまひ》は、代々《よよ》を経《へ》てつきせぬものなれど、これをまことかと尋《たづ》ぬれば、昔ありし家は稀《まれ》なり。……いにしへ見し人は、二三十人が中に、僅に一人《ひとり》二人《ふたり》なり。朝《あした》に死し、夕《ゆふべ》に生まるるならひ、ただ水の泡《あわ》にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、何方《いづかた》より来りて、何方《いづかた》へか去る。』……」
母「何だえ、それは? 『お文様《ふみさま》』のやうぢやないか?」
僕「これですか? これは『方丈記《はうぢやうき》』ですよ。僕などよりもちよつと偉かつた鴨《かも》の長明《ちやうめい》と云ふ人の書いた本ですよ。」
[#地から1字上げ](昭和二年五月)
底本:「芥川龍之介全集 第四巻」筑摩書房
1971(昭和46)年6月5日初版第1刷発行
1971(昭和46)年10月5日初版第5刷発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:j.utiyama
校正:もりみつじゅんじ
1999年8月23日公開
2004年3月16日修正
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