青空文庫アーカイブ

文芸的な、余りに文芸的な
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)若《も》し厳密に云ふとすれば

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)勿論|唯《ただ》身辺雑事を

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「弓+椁のつくり」、第3水準1-84-22]

〔〕:アクセント分解された欧文をかこむ
(例)〔Du:ntzer〕 等の理想主義者たちは
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https://www.aozora.gr.jp/accent_separation.html
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     一 「話」らしい話のない小説

 僕は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。従つて「話」らしい話のない小説ばかり書けとも言はない。第一僕の小説も大抵は「話」を持つてゐる。デツサンのない画は成り立たない。それと丁度同じやうに小説は「話」の上に立つものである。(僕の「話」と云ふ意味は単に「物語」と云ふ意味ではない。)若《も》し厳密に云ふとすれば、全然「話」のない所には如何《いか》なる小説も成り立たないであらう。従つて僕は「話」のある小説にも勿論尊敬を表するものである。「ダフニとクロオと」の物語以来、あらゆる小説或は叙事詩が「話」の上に立つてゐる以上、誰か「話」のある小説に敬意を表せずにゐられるであらうか? 「マダム・ボヴアリイ」も「話」を持つてゐる。「戦争と平和」も「話」を持つてゐる。「赤と黒と」も「話」を持つてゐる。……
 しかし或小説の価値を定めるものは決して「話」の長短ではない。況《いはん》や話の奇抜であるか奇抜でないかと云ふことは評価の埒外《らちぐわい》にある筈《はず》である。(谷崎潤一郎は人も知る通り、奇抜な「話」の上に立つた多数の小説の作者である。その又奇抜な「話」の上に立つた同氏の小説の何篇かは恐らくは百代の後にも残るであらう。しかしそれは必しも「話」の奇抜であるかどうかに生命を託してゐるのではない。)更に進んで考へれば、「話」らしい話の有無《うむ》さへもかう云ふ問題には没交渉である。僕は前にも言つたやうに「話」のない小説を、――或は「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない。しかしかう云ふ小説も存在し得ると思ふのである。
「話」らしい話のない小説は勿論|唯《ただ》身辺雑事を描いただけの小説ではない。それはあらゆる小説中、最も詩に近い小説である。しかも散文詩などと呼ばれるものよりも遙《はる》かに小説に近いものである。僕は三度繰り返せば、この「話」のない小説を最上のものとは思つてゐない。が、若し「純粋な」と云ふ点から見れば、――通俗的興味のないと云ふ点から見れば、最も純粋な小説である。もう一度画を例に引けば、デツサンのない画は成り立たない。(カンデインスキイの「即興」などと題する数枚の画は例外である。)しかしデツサンよりも色彩に生命を託した画は成り立つてゐる。幸ひにも日本へ渡つて来た何枚かのセザンヌの画は明らかにこの事実を証明するのであらう。僕はかう云ふ画に近い小説に興味を持つてゐるのである。
 ではかう云ふ小説はあるかどうか? 独逸《ドイツ》の初期自然主義の作家たちはかう云ふ小説に手をつけてゐる。しかし更に近代ではかう云ふ小説の作家としては何びともジユウル・ルナアルに若《し》かない。(僕の見聞する限りでは)たとへばルナアルの「フイリツプ一家の家風」は(岸田国士氏の日本訳「葡萄《ぶだう》畑の葡萄作り」の中にある)一見未完成かと疑はれる位である。が、実は「善く見る目」と「感じ易い心」とだけに仕上げることの出来る小説である。もう一度セザンヌを例に引けば、セザンヌは我々後代のものへ沢山の未完成の画を残した。丁度ミケル・アンヂエロが未完成の彫刻を残したやうに。――しかし未完成と呼ばれてゐるセザンヌの画さへ未完成かどうか多少の疑ひなきを得ない。現にロダンはミケル・アンヂエロの未完成の彫刻に完成の名を与へてゐる!……しかしルナアルの小説はミケル・アンヂエロの彫刻は勿論、セザンヌの画の何枚かのやうに未完成の疑ひのあるものではない。僕は不幸にも寡聞《くわぶん》の為に仏蘭西《フランス》人はルナアルをどう評価してゐるかを知らずにゐる。けれども、わがルナアルの仕事の独創的なものだつたことを十分に[#「十分に」に傍点]は認めてゐないらしい。
 ではかう云ふ小説は紅毛人《こうまうじん》以外には書かなかつたか? 僕は僕等日本人の為に志賀直哉氏の諸短篇を、――「焚火《たきび》」以下の諸短篇を数へ上げたいと思つてゐる。
 僕はかう云ふ小説は「通俗的興味はない」と言つた。僕の通俗的興味と云ふ意味は事件そのものに対する興味である。僕はけふ往来に立ち、車夫と運転手との喧嘩《けんくわ》を眺めてゐた。のみならず或興味を感じた。この興味は何であらう? 僕はどう考へて見ても、芝居の喧嘩を見る時の興味と違ふとは考へられない。若《も》し違つてゐるとすれば、芝居の喧嘩は僕の上へ危険を齎《もたら》さないにも関《かかは》らず、往来の喧嘩はいつ何時《なんどき》危険を齎らすかもわからないことである。僕はかう云ふ興味を与へる文芸を否定するものではない。しかしかう云ふ興味よりも高い興味のあることを信じてゐる。若しこの興味とは何かと言へば、――僕は特に谷崎潤一郎氏にはかう答へたいと思つてゐる。――「麒麟《きりん》」の冒頭の数頁は直《ただ》ちにこの興味を与へる好個《かうこ》の一例となるであらう。
「話」らしい話のない小説は通俗的興味の乏しいものである。が、最も善い意味では決して通俗的興味に乏しくない。(それは唯「通俗的」と云ふ言葉をどう解釈するかと云ふ問題である。)ルナアルの書いたフイリツプが――詩人の目と心とを透して来たフイリツプが僕等に興味を与へるのは一半はその僕等に近い一凡人である為である。それをも亦通俗的興味と呼ぶことは必しも不当ではないであらう。(尤《もつと》も僕は僕の議論の力点を「一凡人である」と云ふことには加へたくない。「詩人の目と心とを透して来た一凡人である」と云ふことに加へたいのである。)現に僕はかう云ふ興味の為に常に文芸に親しんでゐる大勢の人を知つてゐる。僕等は勿論動物園の麒麟に驚嘆の声を吝《を》しむものではない。が、僕等の家にゐる猫にもやはり愛着《あいぢやく》を感ずるのである。
 しかし或論者の言ふやうにセザンヌを画の破壊者とすれば、ルナアルも亦小説の破壊者である。この意味ではルナアルは暫く問はず、振《ふ》り香炉《かうろ》の香を帯びたジツドにもせよ、町の匂ひのするフイリツプにもせよ、多少はこの人通りの少ない、陥穽《かんせい》に満ちた道を歩いてゐるのであらう。僕はかう云ふ作家たちの仕事に――アナトオル・フランスやバレス以後の作家たちの仕事に興味を持つてゐる。僕の所謂《いはゆる》「話」らしい話のない小説はどう云ふ小説を指してゐるか、なぜ又僕はかう云ふ小説に興味を持つてゐるか、――それ等は大体上に書いた数十行の文章に尽《つ》きてゐるであらう。

     二 谷崎潤一郎氏に答ふ

 次に僕は谷崎潤一郎氏の議論に答へる責任を持つてゐる。尤もこの答の一半は(一)[#「(一)」は縦中横]の中にもないことはない。が、「凡《およ》そ文学に於て構造的美観を最も多量に持ち得るものは小説である」と云ふ谷崎氏の言には不服である。どう云ふ文芸も、――僅々《きんきん》十七字の発句《ほつく》さへ「構造的美観」を持たないことはない。しかしかう云ふ論法を進めることは谷崎氏の言を曲解するものである。とは言へ「凡そ文学に於て構造的美観を最も多量に持ち得るもの」は小説よりも寧《むし》ろ戯曲であらう。勿論最も戯曲らしい小説は小説らしい戯曲よりも「構成的美観」を欠いてゐるかも知れない。しかし戯曲は小説よりも大体「構成的美観」に豊かである。――それも亦実は議論上の枝葉に過ぎない。兎《と》に角《かく》小説と云ふ文芸上の形式は「最も」か否かを暫く措《お》き、「構成的美観」に富んでゐるであらう。なほ又谷崎氏の言ふやうに「筋の面白さを除外するのは、小説と云ふ形式が持つ特権を捨ててしまふ」と云ふことも考へられるのに違ひない。が、この問題に対する答は(一)[#「(一)」は縦中横]の中に書いたつもりである。唯「日本の小説に最も欠けてゐるところは、此の構成する力、いろいろ入り組んだ筋を幾何学的に組み立てる才能にある」かどうか、その点は僕は無造作に谷崎氏の議論に賛することは出来ない。我々日本人は「源氏物語」の昔からかう云ふ才能を持ち合せてゐる。単に現代の作家諸氏を見ても、泉鏡花氏、正宗白鳥氏、里見|※[#「弓+椁のつくり」、第3水準1-84-22]《とん》氏、久米正雄氏、佐藤春夫氏、宇野浩二氏、菊池寛氏等を数へられるであらう。しかもそれ等の作家諸氏の中にも依然として異彩を放つてゐるのは「僕等の兄」谷崎潤一郎氏自身である。僕は決して谷崎氏のやうに我々東海の孤島の民に「構成する力」のないのを悲しんでゐない。
 この「構成する力」の問題はまだ何十行でも論ぜられるであらう。しかしその為には谷崎氏の議論のもう少し詳しいのを必要としてゐる。唯|次手《ついで》に一言すれば、僕はこの「構成する力」の上では我々日本人は支那人よりも劣つてゐるとは思つてゐない。が、「水滸伝《すゐこでん》」「西遊記《さいいうき》」「金瓶梅《きんぺいばい》」「紅楼夢《こうろうむ》」「品花宝鑑《ひんくわはうかん》」等の長篇を絮々綿々《じよじよめんめん》と書き上げる肉体的力量には劣つてゐると思つてゐる。
 更に谷崎氏に答へたいのは「芥川君の筋の面白さを攻撃する中《うち》には、組み立て[#「組み立て」に傍点]の方面よりも、或は寧ろ材料[#「材料」に傍点]にあるかも知れない」と云ふ言葉である。僕は谷崎氏の用ふる材料には少しも異存を持つてゐない。「クリツプン事件」も「小さい王国」も「人魚の歎き」も材料の上では決して不足を感じないものである。それから又谷崎氏の創作態度にも、――僕は佐藤春夫氏を除けば、恐らくは谷崎氏の創作態度を最も知つてゐる一人であらう。僕が僕自身を鞭《むちう》つと共に谷崎潤一郎氏をも鞭ちたいのは(僕の鞭に棘《とげ》のないことは勿論谷崎氏も知つてゐるであらう。)その材料を生かす為の詩的精神の如何《いかん》である。或は又詩的精神の深浅である。谷崎氏の文章はスタンダアルの文章よりも名文であらう。(暫く十九世紀中葉の作家たちはバルザツクでもスタンダアルでもサンドでも名文家ではなかつたと云ふアナトオル・フランスの言葉を信ずるとすれば)殊《こと》に絵画的効果を与へることはその点では無力に近かつたスタンダアルなどの匹儔《ひつちう》ではない。(これも又連帯責任者にはブランデスを連れてくれば善い。)しかしスタンダアルの諸作の中に漲《みなぎ》り渡つた詩的精神はスタンダアルにして始めて得られるものである。フロオベエル以前の唯一のラルテイストだつたメリメエさへスタンダアルに一籌《いつちう》を輸《ゆ》したのはこの問題に尽きてゐるであらう。僕が谷崎潤一郎氏に望みたいものは畢竟《ひつきやう》唯この問題だけである。「刺青《しせい》」の谷崎氏は詩人だつた。が、「愛すればこそ」の谷崎氏は不幸にも詩人には遠いものである。
「大いなる友よ、汝は汝の道にかへれ。」

     三 僕

 最後に僕の繰り返したいのは僕も亦今後|側目《わきめ》もふらずに「話」らしい話のない小説ばかり作るつもりはないと云ふことである。僕等は誰も皆出来ることしかしない[#「出来ることしかしない」に傍点]。僕の持つてゐる才能はかう云ふ小説を作ることに適してゐるかどうか疑問である。のみならずかう云ふ小説を作ることは決して並み並みの仕事ではない。僕の小説を作るのは小説はあらゆる文芸の形式中、最も包容力に富んでゐる為に何でもぶちこんでしまはれるからである。若し長詩形の完成した紅毛人の国に生まれてゐたとすれば、僕は或は小説家よりも詩人になつてゐたかも知れない。僕はいろいろの紅毛人たちに何度も色目を使つて来た。しかし今になつて考へて見ると、最も内心に愛してゐたのは詩人兼ジヤアナリストの猶太人《ユダヤじん》――わがハインリツヒ・ハイネだつた。
[#地から2字上げ](昭和二年二月十五日)

     四 大作家

 僕は上に書いた通り、頗《すこぶ》る雑駁《ざつぱく》な作家である。が、雑駁な作家であることは必しも僕の患《わづら》ひではない。いや、何びとの患ひでもない。古来の大作家と称するものは悉《ことごと》く雑駁な作家である。彼等は彼等の作品の中にあらゆるものを抛《はふ》りこんだ。ゲエテを古今の大詩人とするのもたとひ全部ではないにもせよ、大半はこの雑駁なことに、――この箱船の乗り合ひよりも雑駁なことに存してゐる。しかし厳密に考へれば、雑駁なことは純粋なことに若《し》かない。僕はこの点では大作家と云ふものにいつも疑惑の目を注いでゐる。彼等は成程一時代を代表するに足るものであらう。しかし彼等の作品が後代を動かすに足るとすれば、それは唯彼等がどの位純粋な作家だつたかと云ふ一点に帰してしまふ訣《わけ》である。「大詩人と云ふことは何でもない。我々は唯純粋な詩人を目標にしなければならぬ」と云ふ「狭い門」(ジツド)の主人公の言葉も決して等閑《とうかん》に附することは出来ない。僕は「話」らしい話のない小説を論じた時、偶然この「純粋な」と云ふ言葉を使つた。今この言葉を機縁にし、最も純粋な作家たちの一人、――志賀直哉氏のことを論ずるつもりである。従つてこの議論の後半はおのづから志賀直哉論に変化するであらう。尤も時と場合により、どう云ふ横道に反《そ》れてしまふか、それは僕自身にも保証出来ない。

     五 志賀直哉氏

 志賀直哉氏は僕等のうちでも最も純粋な作家――でなければ最も純粋な作家たちの一人である。志賀直哉氏を論ずるのは勿論僕自身に始まつたことではない。僕は生憎《あいにく》多忙の為に、――と云ふよりは寧ろ無精《ぶしやう》の為にそれ等の議論を読まずにゐる。従つていつか前人の説を繰り返すことになるかも知れない。しかし又或は前人の説を繰り返すことにもならないかも知れない。……
 (一)[#「(一)」は縦中横] 志賀直哉氏の作品は何よりも先にこの人生を立派に生きてゐる作家の作品である。立派に?――この人生を立派に生きることは第一には神のやうに生きることであらう。志賀直哉氏も亦《また》地上にゐる神のやうには生きてゐないかも知れない。が、少くとも清潔に、(これは第二の美徳である)生きてゐることは確かである。勿論僕の「清潔に」と云ふ意味は石鹸ばかり使つてゐることではない。「道徳的に清潔に」と云ふ意味である。これは或は志賀直哉氏の作品を狭いものにしたやうに見えるかも知れない。が、実は狭いどころか、反《かへ》つて広くしてゐるのである。なぜ又広くしてゐるかと言へば、僕等の精神的生活は道徳的属性を加へることにより、その属性を加へない前よりも広くならずにはゐないからである。(勿論道徳的属性を加へると云ふ意味も教訓的であると云ふことではない。物質的苦痛を除いた苦痛は大半はこの属性の生んだものである。谷崎潤一郎氏の悪魔主義がやはりこの属性から生まれてゐることは言ふまでもあるまい。〔悪魔は神の二重人格者である。〕更に例を求めるとすれば、僕は正宗白鳥氏の作品にさへ屡々《しばしば》論ぜられる厭世《えんせい》主義よりも寧ろ基督《キリスト》的魂の絶望を感じてゐるものである。)この属性は志賀氏の中に勿論深い根を張つてゐたのであらう。しかし又この属性を刺戟する上には近代の日本の生んだ道徳的天才、――恐らくはその名に価《あたひ》する唯一の道徳的天才たる武者小路実篤氏の影響も決して少くはなかつたであらう。念の為にもう一度繰り返せば、志賀直哉氏はこの人生を清潔に生きてゐる作家である。それは同氏の作品の中にある道徳的|口気《こうき》にも窺《うかが》はれるであらう。(「佐々木の場合」の末段はその著しい一例である。)同時に又同氏の作品の中にある精神的苦痛にも窺はれないことはない。長篇「暗夜行路」を一貫するものは実にこの感じ易い道徳的魂の苦痛である。
 (二)[#「(二)」は縦中横] 志賀直哉氏は描写の上には空想を頼まないリアリストである。その又リアリズムの細《さい》に入つてゐることは少しも前人の後に落ちない。若しこの一点を論ずるとすれば[#「若しこの一点を論ずるとすれば」に傍点]、僕は何の誇張もなしにトルストイよりも細かいと言ひ得るであらう。これは又同氏の作品を時々|平板《へいばん》に了《をは》らせてゐる。が、この一点に注目するもの[#「この一点に注目するもの」に傍点]はかう云ふ作品にも満足するであらう。世人の注目を惹《ひ》かなかつた、「廿代一面《にじふだいいちめん》」はかう云ふ作品の一例である。しかしその効果を収めたものは、(たとへば小品「鵠沼行《くげぬまゆき》」にしても)写生の妙を極めないものはない。次手《ついで》に「鵠沼行」のことを書けば、あの作品のデイテエルは悉く事実に立脚してゐる。が、「丸くふくれた小さな腹には所々に砂がこびりついて居た」と云ふ一行だけは事実ではない。それを読んだ作中人物の一人は「ああ、ほんたうにあの時には××ちやんのおなかに砂がついてゐた」と言つた!
 (三)[#「(三)」は縦中横] しかし描写上のリアリズムは必しも志賀直哉氏に限つたことではない。同氏はこのリアリズムに東洋的伝統の上に立つた詩的精神を流しこんでゐる。同氏のエピゴオネンの及ばないのはこの一点にあると言つても差し支へない。これこそ又僕等に――少くとも僕に最も及び難い特色である。僕は志賀直哉氏自身もこの一点を意識してゐるかどうかは必しもはつきりとは保証出来ない。(あらゆる芸術的活動を意識の閾《しきゐ》の中に置いたのは十年前の僕である。)しかしこの一点はたとひ作家自身は意識しないにもせよ、確かに同氏の作品に独特の色彩を与へるものである。「焚火」、「真鶴《まなづる》」等の作品は殆《ほとん》どかう云ふ特色の上に全生命を託したものであらう。それ等の作品は詩歌にも劣らず(勿論この詩歌と云ふ意味は発句《ほつく》をも例外にするのではない。)頗《すこぶ》る詩歌的に出来上つてゐる。これは又現世の用語を使へば、「人生的」と呼ばれる作品の一つ、――「憐れな男」にさへ看取《かんしゆ》出来るであらう。ゴム球《だま》のやうに張つた女の乳房に「豊年だ。豊年だ」を唄ふことは到底詩人以外に出来るものではない。僕は現世の人々がかう云ふ志賀直哉氏の「美しさに」比較的[#「比較的」に傍点]注意しないことに多少の遺憾を感じてゐる。(「美しさ」は極彩色《ごくさいしき》の中にあるばかりではない。)同時に又他の作家たちの美しさにもやはり注意しないことに多少の遺憾を感じてゐる。
 (四)[#「(四)」は縦中横] 更に又やはり作家たる僕は志賀直哉氏のテクニイクにも注意を怠《おこた》らない一人である。「暗夜行路」の後篇はこの同氏のテクニイクの上にも一進歩を遂げてゐるものであらう。が、かう云ふ問題は作家以外の人々には余り興味のないことかも知れない。僕は唯初期の志賀直哉氏さへ、立派なテクニイクの持ち主だつたことを手短かに示したいと思ふだけである。
 ――煙管《きせる》は女持でも昔物で今の男持よりも太く、ガツシリした拵《こしら》へだつた。吸口の方に玉藻《たまも》の前《まへ》が檜扇《ひあふぎ》を翳《かざ》して居る所が象眼《ざうがん》になつてゐる。……彼は其の鮮《あざやか》な細工に暫く見惚《みと》れて居た。そして、身長の高い、眼の大きい、鼻の高い、美しいと云ふより総《すべ》てがリツチな容貌をした女には如何にもこれが似合ひさうに思つた。――
 これは「彼と六つ上の女」の結末である。
 ――代助は花瓶の右手にある組み重ねの書棚の前へ行つて、上に載せた重い写真帖を取り上げて、立ちながら、金の留金《とめがね》を外して、一枚二枚と繰り始めたが、中頃まで来てぴたりと手を留めた。其処には二十歳位の女の半身がある。代助は眼を俯《ふ》せて凝《ぢつ》と女の顔を見詰めてゐた。――
 これは「それから」の第一回の結末である。
 出門日已遠《しゆつもんひすでにとほし》 不受徒旅欺《うけずとりよのあざむくを》 骨肉恩豈断《こつにくのおんあにたたんや》 手中挑青糸《しゆちゆうせいしをとる》 捷下万仞岡[#「捷下万仞岡」に傍点] 俯身試搴旗[#「俯身試搴旗」に傍点]
 これは更にずつと古い杜甫《とほ》の「前出塞《ぜんしゆつさい》」の詩の結末――ではない一首である。が、いづれも目に訴へる、――言はば一枚の人物画に近い造形美術的効果により、結末を生かしてゐるのは同じことである。
 (五)[#「(五)」は縦中横] これは畢竟《ひつきやう》余論である。志賀直哉氏の「子を盗む話」は西鶴の「子供地蔵」(大下馬《おほげば》)を思はせ易い。が、更に「范《はん》の犯罪」はモオパスサンの「ラルテイスト」(?)を思はせるであらう。「ラルテイスト」の主人公はやはり女の体のまはりへナイフを打ちつける芸人である。「范の犯罪」の主人公は或精神的薄明りの中に見事に女を殺してしまふ。が、「ラルテイスト」の主人公は如何《いか》に女を殺さうとしても、多年の熟練を積んだ結果、ナイフは女の体に立たずに体のまはりにだけ立つのである。しかもこの事実を知つてゐる女は冷然と男を見つめたまま、微笑さへ洩らしてゐるのである。けれども西鶴の「子供地蔵」は勿論、モオパスサンの「ラルテイスト」も志賀直哉氏の作品には何の関係も持つてゐない。これは後世の批評家たちに模倣|呼《よば》はりをさせぬ為に特にちよつとつけ加へるのである。

     六 僕等の散文

 佐藤春夫氏の説によれば、僕等の散文は口語文であるから、しやべるやうに書けと云ふことである。これは或は佐藤氏自身は不用意の裡《うち》に言つたことかも知れない。しかしこの言葉は或問題を、――「文章の口語化」と云ふ問題を含んでゐる。近代の散文は恐らくは「しやべるやうに」の道を踏んで来たのであらう。僕はその著しい例に(近くは)武者小路実篤、宇野浩二、佐藤春夫等の諸氏の散文を数へたいものである。志賀直哉氏も亦この例に洩れない。しかし僕等の「しやべりかた」が、紅毛人の「しやべりかた」は暫く問はず、隣国たる支那人の「しやべりかた」よりも音楽的でないことも事実である。僕は「しやべるやうに書きたい」願ひも勿論持つてゐないものではない。が、同時に又一面には「書くやうにしやべりたい」とも思ふものである。僕の知つてゐる限りでは夏目先生はどうかすると、実に「書くやうにしやべる」作家だつた。(但し「書くやうにしやべるものは即ちしやべるやうに書いてゐるから」と云ふ循環論法的な意味ではない。)「しやべるやうに書く」作家は前にも言つたやうにゐない訣《わけ》ではない。が、「書くやうにしやべる」作家はいつこの東海の孤島に現はれるであらう。しかし、――
 しかし僕の言ひたいのは「しやべる」ことよりも「書く」ことである。僕等の散文も羅馬《ロオマ》のやうに一日に成つたものではない。僕等の散文は明治の昔からじりじり成長をつづけて来たものである。その礎《いしずゑ》を据《す》ゑたものは明治初期の作家たちであらう。しかしそれは暫く問はず、比較的近い時代を見ても、僕は詩人たちが散文に与へた力をも数へたいと思ふものである。
 夏目先生の散文は必しも他を待つたものではない。しかし先生の散文が写生文に負ふ所のあるのは争はれない。ではその写生文は誰の手になつたか? 俳人兼歌人兼批評家だつた正岡子規の天才によつたものである。(子規はひとり写生文に限らず、僕等の散文、――口語文の上へ少からぬ功績を残した。)かう云ふ事実を振り返つて見ると、高浜|虚子《きよし》、坂本|四方太《しはうだ》等の諸氏もやはりこの写生文の建築師のうちに数へなければならぬ。(勿論「俳諧師」の作家高浜氏の小説の上に残した足跡は別に勘定するのである。)けれども僕等の散文が詩人たちの恩を蒙《かうむ》つたのは更に近い時代にもない訣ではない。ではそれは何かと言へば、北原白秋氏の散文である。僕等の散文に近代的な色彩や匂を与へたものは詩集「思ひ出」の序文だつた。かう云ふ点では北原氏の外に木下|杢太郎《もくたらう》氏の散文を数へても善い。
 現世の人々は詩人たちを何か日本のパルナスの外に立つてゐるやうに思つてゐる。が、何も小説や戯曲はあらゆる文芸上の形式と没交渉に存在してゐる訣ではない。詩人たちは彼等の仕事の外にもやはり又僕等の仕事にいつも影響を与へてゐる。それは別に上に書いた事実の証明するばかりではない。僕等と同時代の作家たちの中に詩人佐藤春夫、詩人|室生犀星《むろふさいせい》、詩人久米正雄等の諸氏を数へることは明らかに僕の説を裏書きするものである。いや、それ等の作家ばかりではない。最も小説家らしい里見|※[#「弓+椁のつくり」、第3水準1-84-22]《とん》氏さへ幾篇かの詩を残してゐる筈である。
 詩人たちは或は彼等の孤立に多少の歎《たん》を持つてゐるかも知れない。しかしそれは僕に言はせれば、寧ろ「名誉の孤立」である。

     七 詩人たちの散文

 尤も詩人たちの散文は人力にも限りのある以上、大抵彼等の詩と同程度に完成してゐないのを常としてゐる。芭蕉《ばせを》の「奥の細道」もやはり又この例に洩れない。殊に冒頭の一節はあの全篇に漲《みなぎ》つた写生的興味を破つてゐる。第一「月日は百代の過客《くわかく》にして、ゆきかふ年も又旅人なり」と云ふ第一行を見ても、軽みを帯びた後半は前半の重みを受けとめてゐない。(散文にも野心のあつた芭蕉は同時代の西鶴の文章を「浅ましくもなり下《さが》れる姿」と評した。これは枯淡《こたん》を愛した芭蕉には少しも無理のない言葉である。)しかし彼の散文もやはり作家たちの散文に影響を与へたことは確かである。たとひそれは「俳文」と呼ばれる彼以後の散文を通過して来たにもしろ。

     八 詩歌

 日本の詩人たちは現世の人々にパルナスの外にゐると思はれてゐる。その理由の一半は現世の人々の鑑賞眼が詩歌に及ばないことも数へられるであらう。しかし又一つには詩歌は畢《つひ》に散文のやうに僕等の全生活感情を盛り難いことにもよる訣《わけ》である。(詩は――古い語彙《ごゐ》を用ひるとすれば、新体詩は短歌や発句《ほつく》よりもかう云ふ点では自由である。プロレツトカルトの詩はあつても、プロレツトカルトの発句はない。)しかし詩人たちは、――たとへば現世の歌人たちもかう云ふ試みをしてゐないことはない。その最も著しい例は「悲しき玩具」の歌人石川|啄木《たくぼく》が僕等に残した仕事である。これは恐らくは今日では言ひ古されてゐることであらう。しかし「新詩社」は啄木の外にもこの「オデイツソイスの弓」を引いたもう一人の歌人を生み出してゐる。「酒《さか》ほがひ」の歌人吉井勇氏は正にかう云ふ仕事をした。「酒ほがひ」の歌にうたはれたものはいづれも小説の匂を帯びてゐる。(或は心理描写の影を帯びてゐる。)大川端《おほかはばた》の秋の夕暮に浪費を思つた吉井勇氏はかう云ふ点では石川啄木と、――貧苦と闘つた石川啄木と好個《かうこ》の対照を作るものであらう。(なほ又|次手《ついで》に一言すれば、「アララギ」の父正岡子規が「明星」の子北原白秋と僕等の散文を作り上げる上に力を合せたのも好対照である。)が、これは必しも「新詩社」にばかりあつたことではない。斎藤茂吉氏は「赤光《しやくくわう》」の中に「死に給ふ母」、「おひろ」等の連作を発表した。のみならず又十何年か前に石川啄木の残して行つた仕事を――或は所謂《いはゆる》「生活派」の歌を今もなほ着々と完成してゐる。元来斎藤茂吉氏の仕事ほど、多岐多端に渡つてゐるものはない。同氏の歌集は一首ごとに倭琴《わごん》やセロや三味線や工場の汽笛を鳴り渡らせてゐる。(僕の言ふのは「一首ごと」である。「一首の中に」と言ふのではない。)若《も》しこのまま書きつづけるとすれば、僕は或はいつの間にか斎藤茂吉論に移つてしまふであらう。しかしそれは便宜上、歯止めをかけて置かなければならぬ。僕はまだこの次手に書きたいことを持ち合せてゐる。が、兎に角斎藤茂吉氏ほど、仕事の上に慾の多い歌人は前人の中にも少かつたであらう。

     九  両大家の作品

 勿論あらゆる作品はその作家の主観を離れることは出来ない。しかし仮に客観と云ふ便宜上の貼り札を用ひるとすれば、自然主義の作家たちの中でも最も客観的な作家は徳田秋声氏である。正宗白鳥氏はこの点では対蹠点《たいせきてん》に立つてゐると言つても善い。正宗白鳥氏の厭世主義は武者小路実篤氏の楽天主義と好箇の対照を作つてゐる。のみならず殆ど道徳的である。徳田氏の世界も暗いものかも知れない。しかしそれは小宇宙である。久米正雄氏の「徳田水《とくだすゐ》」と呼んだ東洋詩的情緒のある小宇宙である。そこにはたとひ娑婆苦《しやばく》はあつても、地獄の業火《ごふくわ》は燃えてゐない。けれども正宗氏はこの地面の下に必ず地獄を覗《のぞ》かせてゐる。僕は確か一昨年の夏、正宗氏の作品を集めた本を手当り次第に読破して行つた。人生の表裏を知つてゐることは正宗氏も徳田氏に劣らないかも知れない。しかし僕の受けた感銘は――少くとも僕の受けた感銘中、最も僕に迫つたものは中世紀から僕等を動かしてゐた宗教的情緒に近いものである。
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我を過ぎて汝は歎きの市《まち》に入り
我を過ぎて汝は永遠の苦しみに入る。……
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(追記。この後二三日を経て正宗氏の「ダンテに就いて」を読んだ。感慨少からず。)

     十 厭世主義

 正宗白鳥氏の教へる所によれば、人生はいつも暗澹《あんたん》としてゐる。正宗氏はこの事実を教へる為に種々雑多の「話」を作つた。(尤も同氏の作品中には「話」らしい話のない小説も少くない。)しかもその「話」を運ぶ為にも種々雑多のテクニイクを用ひてゐる。才人の名はかう云ふ点でも当然正宗氏の上に与へらるべきであらう。しかし僕の言ひたいのは同氏の厭世主義的人生観である。
 僕も亦正宗氏のやうに如何なる社会組織のもとにあつても、我々人間の苦しみは救ひ難いものと信じてゐる。あの古代のパンの神に似たアナトオル・フランスのユウトピア(「白い石の上で」)さへ仏陀《ぶつだ》の夢みた寂光土《じやくくわうど》ではない。生老《しやうらう》病死は哀別離苦と共に必ず僕等を苦しめるであらう。僕は確か去年の秋、ダスタエフスキイの子供か孫かの餓死した電報を読んだ時、特にかう思はずにはゐられなかつた。これは勿論コムミユニスト治下のロシアにあつた話である。しかしアナアキストの世界となつても、畢竟《ひつきやう》我々人間は我々人間であることにより、到底幸福に終始することは出来ない。
 けれども「金《かね》が仇《かたき》」とは封建時代以来の名言である。金の為に起る悲劇や喜劇は社会組織の変化と共に必ず多少は減ずるであらう。いや、僕等の精神的生活も幾分か変化を受ける筈である。若しかう云ふ点を力説すれば、我々人間の将来は或は明るいと言はれるであらう。しかし又金の為に起らずにゐる[#「起らずにゐる」に傍点]悲劇や喜劇もない訣ではない。のみならず金は必しも我々人間を飜弄《ほんろう》する唯一の力ではないのである。
 正宗白鳥氏がプロレタリアの作家たちと立ち場を異にするのは当然である。僕も亦、――僕は或は便宜上のコムミユニストか何かに変るかも知れない。が、本質的にはどこまで行つても、畢竟ジヤアナリスト兼詩人である。文芸上の作品もいつかは滅びるのに違ひない。現に僕の耳学問によれば、フランス語のリエゾンさへ失はれつつある以上、ボオドレエルの詩の響もおのづから明日《みやうにち》異るであらう。(尤もそんなことはどうなつても我々日本人には差支へない。)しかし一行の詩の生命は僕等の生命よりも長いのである。僕は今日も亦明日のやうに「怠惰なる日の怠惰なる詩人」、――一人の夢想家であることを恥としない。

     十一 半ば忘れられた作家たち

 僕等は少くとも銭のやうに必ず両面を具へてゐる。両面以上を具へてゐることも勿論決して稀ではない。紅毛人の作り出した「芸術家として又人として」はこの両面を示すものである。「人として」失敗したと共に「芸術家として」成功したものは盗人兼詩人だつたフランソア・ヴイヨンにまさるものはない。「ハムレツト」の悲劇もゲエテによれば、思想家たるべきハムレツトが父の仇《かたき》を打たなければならぬ王子だつた悲劇である。これも亦或は両面の剋《こく》し合つた悲劇と言はれるであらう。僕等の日本は歴史上にもかう云ふ人物を持ち合せてゐる。征夷《せいい》大将軍源|実朝《さねとも》は政治家としては失敗した。しかし「金槐集《きんくわいしふ》」の歌人源実朝は芸術家としては立派に成功してゐる。が、「人として」――或は何としてでも失敗したにしろ、芸術家としても成功しないことは更に悲劇的であると言はなければならぬ。
 しかし芸術家として成功したかどうかは容易に決定出来るものではない。現にラムボオを嗤《わら》つたフランスは今日ではラムボオに敬礼し出した。が、たとひ誤植だらけにもしろ、三冊(?)の著書のあつたことはラムボオの為には仕合せである。若し著書もなかつたとしたならば、……
 僕は僕の先輩や知人に二三の好短篇を書きながら、しかもいつか忘れられた何人かの人々を数へてゐる。彼等は今日の作家たちよりも或は力を欠いてゐたかも知れない。けれども偶然と云ふものはやはりそこにもあつた訣である。(若し全然かう云ふ分子を認めない作家があるとすれば、それは例外とする外はない。)それ等の作品を集めることは或は不可能に近いかも知れない。しかし若し出来るとすれば、彼等の為は暫く問はず、後人《こうじん》の為にも役立つことであらう。
「生まるる時の早かりしか、或は又遅かりしか」は南蛮の詩人の歎《なげき》ばかりではない。僕は福永|挽歌《ばんか》、青木健作、江南文三《えなみぶんざ》等の諸氏にもかう云ふ歎を感じてゐる。僕はいつか横文字の雑誌に「半ば忘れられた作家たち」と云ふシリイズの広告を発見した。僕も亦或はかう云ふシリイズに名を連ねる作家たちの一人であらう。かう云ふのは格別謙遜したのではない。イギリスのロマン主義時代の流行児だつた「僧」の作家ルイズさへやはりこのシリイズの中の一人である。しかし半ば忘れられた作家たちは必しも過去ばかりにある訣《わけ》ではない。のみならず彼等の作品は一つの作品として見る時には現世の諸雑誌に載る作品よりも劣つてゐるとは言はれないのである。

     十二 詩的精神

 僕は谷崎潤一郎氏に会ひ、僕の駁論《ばくろん》を述べた時、「では君の詩的精神とは何を指すのか?」と云ふ質問を受けた。僕の詩的精神とは最も広い意味の抒情詩である。僕は勿論かう云ふ返事をした。すると谷崎氏は「さう云ふものならば何にでもあるぢやないか?」と言つた。僕はその時も述べた通り、何にでもあることは否定しない。「マダム・ボヴアリイ」も「ハムレツト」も「神曲」も「ガリヴアアの旅行記」も悉く詩的精神の産物である。どう云ふ思想も文芸上の作品の中に盛られる以上、必ずこの詩的精神の浄火《じやうくわ》を通つて来なければならぬ。僕の言ふのはその浄火を如何に燃え立たせるかと云ふことである。それは或は半ば以上、天賦《てんぷ》の才能によるものかも知れない。いや、精進の力などは存外《ぞんぐわい》効のないものであらう。しかしその浄火の熱の高低は直ちに或作品の価値の高低を定めるのである。
 世界は不朽《ふきう》の傑作にうんざりするほど充満してゐる。が、或作家の死んだ後、三十年の月日を経ても、なほ僕等の読むに足る十篇の短篇を残したものは大家と呼んでも差支《さしつかへ》ない。たとひ五篇を残したとしても、名家の列には入るであらう。最後に三篇を残したとすれば、それでも兎《と》に角《かく》一作家である。この一作家になることさへ容易に出来るものではない。僕はこれも亦横文字の雑誌に「短篇などは二三日のうちに書いてしまふものである」と云ふウエルズの言葉を発見した。二三日は暫く問はず、締め切り日を前に控へた以上、誰でも一日のうちに書かないものはない。しかしいつも二三日のうちに書いてしまふと断言するのはウエルズのウエルズたる所以《ゆゑん》である。従つて彼は碌《ろく》な短篇を書かない。

     十三 森先生

 僕はこの頃「鴎外全集」第六巻を一読し、不思議に思はずにはゐられなかつた。先生の学は古今を貫き、識は東西を圧してゐるのは今更のやうに言はずとも善い。のみならず先生の小説や戯曲は大抵は渾然《こんぜん》と出来上つてゐる。(所謂ネオ・ロマン主義は日本にも幾多の作品を生んだ。が、先生の戯曲「生田川《いくたがは》」ほど完成したものは少かつたであらう。)しかし先生の短歌や俳句は如何に贔屓目《ひいきめ》に見るとしても、畢《つひ》に作家の域にはひつてゐない。先生は現世にも珍らしい耳を持つてゐた詩人である。たとへば「玉篋両浦嶼《たまくしげふたりうらしま》」を読んでも、如何に先生が日本語の響を知つてゐたかが窺《うかが》はれるであらう。これは又先生の短歌や俳句にも髣髴《はうふつ》出来ない訣ではない。同時に又体裁を成してゐることはいづれも整然と出来上つてゐる。この点では殆ど先生としては人工を尽したと言つても善いかも知れない。
 けれども先生の短歌や発句は何か微妙なものを失つてゐる。詩歌はその又微妙なものさへ掴《つか》めば、或程度[#「或程度」に傍点]の巧拙《かうせつ》などは余り気がかりになるものではない。が、先生の短歌や発句は巧《かう》は即ち巧であるものの、不思議にも僕等に迫つて来ない。これは先生には短歌や発句は余戯に外ならなかつた為であらうか? しかしこの微妙なものは先生の戯曲や小説にもやはり鋒芒《ほうばう》を露《あら》はしてゐない。(かう云ふのは先生の戯曲や小説を必しも無価値であると云ふのではない。)のみならず夏目先生の余戯だつた漢詩は、――殊に晩年の絶句などはおのづからこの微妙なものを捉へることに成功してゐる。(若し「わが仏尊し」の譏《そし》りを受けることを顧みないとすれば。)
 僕はかう云ふことを考へた揚句《あげく》、畢竟《ひつきやう》森先生は僕等のやうに神経質に生まれついてゐなかつたと云ふ結論に達した。或は畢《つひ》に詩人よりも何か他のものだつたと云ふ結論に達した。「澀江抽斎《しぶえちうさい》」を書いた森先生は空前の大家だつたのに違ひない。僕はかう云ふ森先生に恐怖に近い敬意を感じてゐる。いや、或は書かなかつたとしても、先生の精力は聡明の資と共に僕を動かさずには措《お》かなかつたであらう。僕はいつか森先生の書斎に和服を着た[#「和服を着た」に傍点]先生と話してゐた。方丈《はうぢやう》の室に近い書斎の隅には新らしい薄縁《うすべ》りが一枚あり、その上には虫干しでも始まつたやうに古手紙が何本も並んでゐた。先生は僕にかう言つた。――「この間柴野|栗山《りつざん》(?)の手紙を集めて本に出した人が来たから、僕はあの本はよく出来てゐる、唯手紙が年代順に並べてないのは惜しいと言つた。するとその人は日本の手紙は生憎《あいにく》月日しか書いてないから、年代順に並べることは到底出来ないと返事をした。それから僕はこの古手紙を指さし、ここに北条|霞亭《かてい》の手紙が何十本かある、しかも皆年代順に並んでゐると言つた。」! 僕はその時の先生の昂然としてゐたのを覚えてゐる。かう言ふ先生に瞠目《だうもく》するものは必しも僕一人には限らないであらう。しかし正直に白状すれば、僕はアナトオル・フランスの「ジアン・ダアク」よりも寧ろボオドレエルの一行を残したいと思つてゐる一人である。

     十四 白柳秀湖氏

 僕は又この頃|白柳秀湖《しらやなぎしうこ》氏の「声なきに聴く」と云ふ文集を読み、「僕の美学」、「羞恥心《しうちしん》に関する考察」、「動物の発性期と食物との関係」等の小論文に少からず興味を感じた。「僕の美学」は題の示すやうに正に白柳氏の美学に当り、「羞恥心に関する考察」は白柳氏の倫理学に当るものである。今後者は暫く問はず、前者をちよつと紹介すれば、美は僕等の生活から何の関係もなしに生まれたものではない。僕等の祖先は焚火を愛し、林間に流れる水を愛し、肉を盛る土器を愛し、敵を打ち倒す棒を愛した。美はこれ等の生活的必要品(?)からおのづから生まれて来たのである。……
 かう云ふ小論文は少くとも僕には現世に多いコントよりも遙に尊敬に価するものである。(白柳氏はこの小論文の末にこれは「文壇の一隅に唯物美学の呼声、若しくはそれに関する飜訳の現れる絶対以前」に書いたと註してゐる。)僕は美学などは全然知らない。況《いはん》や唯物美学などと云ふものには更に縁のない衆生《しゆじやう》である。しかし白柳氏の美の発生論は僕にも僕の美学を作る機会を与へた。白柳氏は造形美術以外の美の発生に言及してゐない。僕はもう十数年前、或山中の宿に鹿の声を聞き、何かしみじみと人恋しさを感じた。あらゆる抒情詩はこの鹿の声に、――雌を呼ぶ雄の声に発したのであらう。しかしこの唯物美学は俳人は勿論、遠い昔の歌人さへ知つてゐたかも知れない。唯叙事詩に至つては確かに太古の民のゴシツプに起源を発してゐたのであらう。「イリアツド」は神々のゴシツプである。その又ゴシツプは僕等には野蛮な荘厳《さうごん》に充《み》ち満ちた美を感じさせるのに違ひない。しかしそれは「僕等には」である。太古の民は「イリアツド」に彼等の歓びや悲しみや苦しみを感ぜずにはゐなかつたであらう。のみならずそこに彼等の心の燃え上るのを感ぜずにはゐなかつたであらう。……
 白柳秀湖氏は美の中に僕等の祖先の生活を見てゐる。が、僕等は僕等ばかりではない。アフリカの沙漠に都会の出来る頃には僕等の子孫の祖先になるのである。従つて僕等の心もちは丁度地下の泉のやうに僕等の子孫にも伝はるであらう。僕は白柳秀湖氏のやうに焚き火に親しみを感じるものである。同時に又その親しみに太古の民を思ふものである。(僕は「槍ヶ岳紀行」の中にちよつとこのことを書いたつもりである。)しかし「猿に近い吾々の祖先」は彼等の焚き火を燃やす為にどの位苦心をしたことであらう。焚き火を燃やすことを発明したのは勿論天才だつたのに違ひない。けれどもその焚き火を燃やしつづけたものはやはり何人かの天才たちである。僕はこの苦心を思ふ時、不幸にも「今の芸術といふものなど、無くなつてしまつてもよい」とは考へない。

     十五 「文芸評論」

 批評も亦文芸上の一形式である。僕等の誉《ほ》めたり貶《けな》したりするのも畢竟《ひつきやう》は自己を表現する為であらう。幕の上に映つたアメリカの役者に、――しかも死んでしまつたヴアレンテイノに拍手を送つて吝《をし》まないのは相手を歓ばせる為でも何でもない。唯好意を、――惹《ひ》いては自己を表現する為にするのである。若し自己を表現する為とすれば、……
 小説や戯曲も紅毛人の作品に或は遙かに及ばないかも知れない。が、批評も亦紅毛人の作品に遜色《そんしよく》のあるのは確かである。僕はかう云ふ荒蕪《くわうぶ》の中に唯正宗白鳥氏の「文芸評論」を愛読した。批評家正宗白鳥氏の態度は紅毛人の言葉を借りれば、徹頭徹尾ラコニツクである。のみならず「文芸評論」は必ずしも文芸評論ではない。時には文芸の中の人生評論である。しかも僕は巻煙草を片手に「文芸評論」を愛読した。時々石のごろごろした一本道を思ひ出しながら、その又一本道の日の光に残酷な歓びを感じながら。

     十六 文学的未開地

 イギリスは久しく閑却してゐた十八世紀の文芸に注目してゐる。それは一つには大戦の後には誰も陽気なものを求めてゐるからであらう。(僕は私《ひそ》かに世界中同じではないかと思つてゐる。同時に又大戦の為に打撃を受けない日本さへいつかこの流行に感染してゐるのも不思議なものだと思つてゐる。)しかし又一つには閑却してゐた為に文学者たちの研究に材料を与へ易い為もある訣である。雀は米のない流しもとへは来ない。文学者たちも同じことであらう。従つて等閑に附せられることはそれ自身発見されることになる訣である。
 これは日本でも同じことである。俳諧寺|一茶《いつさ》は暫く問はず、天明以後の俳人たちの仕事は殆ど誰にも顧みられてゐない。僕はかう云ふ俳人たちの仕事も次第に顕《あらは》れて来ることと思つてゐる。しかも「月並み」の一言では到底片づけられない一面も次第に顕れて来ることと思つてゐる。
 等閑に附せられると云ふことも必しも悪いことばかりではない。

     十七 夏目先生

 僕はいつか夏目先生が風流漱石山人になつてゐるのに驚嘆した。僕の知つてゐた先生は才気|煥発《くわんぱつ》する老人である。のみならず機嫌の悪い時には先輩の諸氏は暫く問はず、後進の僕などは往生だつた。成程天才と云ふものはかう云ふものかと思つたこともないではない。何でも冬に近い木曜日の夜、先生はお客と話しながら、少しも顔をこちらへ向けずに僕に「葉巻をとつてくれ給へ」と言つた。しかし葉巻がどこにあるかは生憎《あいにく》僕には見当もつかない。僕はやむを得ず「どこにありますか?」と尋ねた。すると先生は何も言はずに猛然と(かう云ふのは少しも誇張ではない。)顋《あご》を右へ振つた。僕は怯《お》づ怯《お》づ右を眺め、やつと客間の隅の机の上に葉巻の箱を発見した。
「それから」「門」「行人《かうじん》」「道草」等はいづれもかう云ふ先生の情熱の生んだ作品である。先生は枯淡《こたん》に住したかつたかも知れない。実際又多少は住してゐたであらう。が、僕が知つてゐる晩年さへ、決して文人などと云ふものではなかつた。まして「明暗」以前にはもつと猛烈だつたのに違ひない。僕は先生のことを考へる度に老辣無双《らうらつぶさう》の感を新たにしてゐる。が、一度身の上の相談を持ちこんだ時、先生は胃の具合も善かつたと見え、かう僕に話しかけた。――「何も君に忠告するんぢやないよ。唯僕が君の位置に立つてゐるとすればだね。……」僕は実はこの時には先生に顋を振られた時よりも遙かに参らずにはゐられなかつた。

     十八 メリメエの書簡集

 メリメエはフロオベエルの「マダム・ボヴアリイ」を読んだ時、「超凡の才能を浪費してゐる」と言つた。「マダム・ボヴアリイ」はロマン主義者のメリメエには実際かう感ぜられたかも知れない。しかしメリメエの書簡集(誰かわからない女に宛てた恋愛書簡集)はいろいろの話を含んでゐる。たとへばパリから書いた二番目の書簡に、――
 ルウ・サン・オノレエに貧しい女が一人住んでゐた。彼女は見すぼらしい屋根裏の部屋を殆ど一度も離れなかつた。それから又十二になる娘を一人持つてゐた。その少女は午後からオペラへ勤め、大抵真夜中に帰つて来るのだつた。或夜のこと、娘は門番の部屋へ下りて来て「蝋燭《らふそく》に火をつけて貸して下さい」と言つた。門番の女房は娘のあとから屋根裏の部屋へ昇つて行つた。するとあの貧しい女は死骸になつて横たはつてゐた。のみならず娘は古トランクから出した一束の手紙を燃やしてゐた。「お母さんは今夜死にました。これはお母さんが死ぬ前に読まずに焼けと言つてゐた手紙です」――娘は門番の女房にかう言つた。娘は父の名も知らなければ母の名も知らなかつた。しかも生活の途《みち》と言つては唯せつせとオペラへ勤め、猿になつたり、悪魔になつたり、ほんの端役《フイギユラント》を勤めるだけだつた。母親は最後の教訓に「いつまでも端役《はやく》でゐるやうに、又善良でゐるやうに」と言つた。娘は今でもこの教訓通り、善良な端役《フイギユラント》に終始してゐる。
 もう一つ次手《ついで》に田舎の話を引けば、今度はカンヌから書いた書簡に、――
 グラツスに近い或農夫が一人、谷底に倒れて死んでゐた。前夜にそこへ転《ころ》げ落ちたか、抛《はふ》りこまれたかしたものである。すると同じ仲間の農夫が一人、彼の友だちに殺人犯人は彼自身であると公言した。「どうして? なぜ?」「あの男は俺の羊を呪つたやつだ。俺は俺の羊飼ひに教はり、三本の釘《くぎ》を鍋の中で煮てから、呪文《じゆもん》を唱へてやることにした。あの男はその晩に死んでしまつたのだ。」……
 この書簡集は一八四〇から一八七〇――メリメエの歿年に亘《わた》つてゐる。(彼の「カルメン」は一八四四の作品である。)かう云ふ話はそれ自身小説になつてゐないかも知れない。しかしモオテイフを捉へれば、小説になる可能性を持つてゐる。モオパスサンは暫く問はず、フイリツプはかう言ふ話から幾つも美しい短篇を作つた。僕等は勿論|樗牛《ちよぎう》の言つたやうに「現代を超越」など出来るものではない。しかも僕等を支配する時代は存外短いものである。僕はメリメエの書簡集の中に彼の落ち穂を見出した時、しみじみかう感ぜずにはゐられなかつた。
 メリメエはこの誰かわからない女へ手紙を書きはじめた時分から幾つも傑作を残してゐる。それから又死んでしまふ前には新教徒の一人になつてゐる。これも亦僕にはニイチエ以前の超人崇拝家だつたメリメエを思ふと、多少の興味のないこともない。

     十九 古典

 僕等は皆知つてゐることの外は書けない。古典の作家たちも同じだつたであらう。プロフエツサアたちは文芸評論をする時、いつもこの事実を閑却してゐる。尤もこれは一概にプロフエツサアたちばかりとは言はれないかも知れない。しかしそれは兎も角も、僕は晩年に「あらし」を書いたシエクスピイアの心中に同情に近いものを感じてゐる。

     二十 ジヤアナリズム

 もう一度佐藤春夫氏の言葉を引けば、「文章はしやべるやうに書け」と云ふことである。僕は実際この文章をしやべるやうに書いて行つた。が、いくら書いて行つても、しやべりたいことは尽きさうもない。僕は実にかう云ふ点ではジヤアナリストであると思つてゐる。従つて職業的ジヤアナリストを兄弟であると思つてゐる。(尤も向うから御免だと言はれれば、黙つて引き下る外はない。)ジヤアナリズムと云ふものは畢竟《ひつきやう》歴史に外ならない。(新聞記事に誤伝があるのも歴史に誤伝があるのと同じことである。)歴史も又畢竟伝記である。その又伝記は、小説とどの位異つてゐるであらう。現に自叙伝は「私《わたくし》」小説と云ふものとはつきりした差別[#「はつきりした差別」に傍点]を持つてゐない。暫くクロオチエの議論に耳を貸さずに抒情詩等の詩歌を例外とすれば、あらゆる文芸はジヤアナリズムである。のみならず新聞文芸は明治大正の両時代に所謂文壇的作品に遜色のない作品を残した。徳富|蘇峰《そほう》、陸羯南《くがかつなん》、黒岩|涙香《るゐかう》、遅塚《ちづか》麗水等の諸氏の作品は暫く問はず、山中未成氏の書いた通信さへ文芸的には現世に多い諸雑誌の雑文などに劣るものではない。のみならず、――
 のみならず新聞文芸の作家たちはその作品に署名しなかつた為に名前さへ伝はらなかつたのも多いであらう。現に僕はかう云ふ人々の中に二三の詩人たちを数へてゐる。僕は一生のどの瞬間を除いても、今日の僕自身になることは出来ない。かう云ふ人々の作品も(僕はその作家の名前を知らなかつたにしろ)僕に詩的感激を与へた限り、やはりジヤアナリスト兼詩人たる今日の僕には恩人である。僕を作家にした偶然はやはり彼等をジヤアナリストにした。若し袋に入れた月給以外に原稿料のとれることを幸福であるとするならば、僕は彼等よりも幸福である。(虚名などは幸福にはならない。)かう云ふ点を除外すれば、僕等は彼等と職業的に何の相違も持つてゐない。少くとも僕はジヤアナリストだつた。今日もなほジヤアナリストである。将来も勿論ジヤアナリストであらう。
 しかし諸大家たちは暫く問はず、僕はこのジヤアナリストたる天職にも時々うんざりすることは事実である。
[#地から2字上げ](昭和二年二月二十六日)

     二十一 正宗白鳥氏の「ダンテ」

 正宗白鳥氏のダンテ論は前人のダンテ論を圧倒してゐる。少くとも独特な点ではクロオチエのダンテ論にも劣らないかも知れない。僕はあの議論を愛読した。正宗氏はダンテの「美しさ」には殆ど目をつぶつてゐる。それは或は故意にしたのであらう。或は又自然にしたのかも知れない。故上田|敏《びん》博士もダンテの研究家の一人だつた。しかも「神曲」を飜訳しようとしてゐた。が、博士の遺稿を見れば、イタリア語の原文によつたものではない。あの書き入れの示すやうにケエリイの英吉利《イギリス》訳によつたのである。ケエリイの英吉利訳によりながら、ダンテの「美しさ」を云々《うんぬん》するのは或は滑稽に堕ちるのであらう。(僕も亦ケエリイの外は読んだことはない。)しかしダンテの「美しさ」はたとひケエリイの英吉利訳だけ読んでも、幾分か感ぜられるのは確かである。……
 それから又「神曲」は一面には晩年のダンテの自己弁護である。公金費消か何かの嫌疑《けんぎ》を受けたダンテはやはり僕等自身のやうに自己弁護を必要としたのに違ひない。しかしダンテの達した天国は僕には多少退屈である。それは僕等は事実上地獄を歩いてゐる為であらうか? 或は又ダンテも浄罪界の外に登ることの出来なかつた為であらうか?……
 僕等は皆超人ではない。あの逞《たくま》しいロダンさへ名高いバルザツクの像を作り、世間の悪評を受けた時には神経的に苦しんだのである。故郷を追はれたダンテも亦神経的に苦しんだのに違ひない。殊に死後には幽霊になり、彼の息子に現れたと云ふことは幾分かダンテの体質を――彼の息子に遺伝したダンテの体質を示してゐるであらう。ダンテは実際ストリントベリイのやうに地獄の底から脱け出して来た。現に「神曲」の浄罪界は病後の歓びに近いものを持つてゐる。……
 しかしそれ等はダンテの皮下一寸に及ばないことばかりであらう。正宗氏はあの論文の中にダンテの骨肉を味はつてゐる。あの論文の中にあるのは十三世紀でもなければ伊太利《イタリイ》でもない。唯僕等のゐる娑婆《しやば》界である。平和を、唯平和を、――これはダンテの願ひだつたばかりではない。同時に又ストリントベリイの願ひだつた。僕は正宗氏のダンテを仰がずに[#「仰がずに」に傍点]ダンテを見た[#「見た」に傍点]ことを愛してゐる。ベアトリチエは正宗氏の言ふやうに女人よりもはるかに天人に近い。若しダンテを読んだ後、目《ま》のあたりにベアトリチエに会つたとしたならば、僕等は必ず失望するであらう。
 僕はこの文章を書いてゐるうちにふとゲエテのことを思ひ出した。ゲエテの描いたフリイデリケは殆ど可憐《かれん》そのものである。が、ボンの大学教授ネエケはフリイデリケの必しもさう云ふ女人でないことを発表した。〔Du:ntzer〕 等の理想主義者たちは勿論この事実を信じてゐない。しかしゲエテ自身もネエケの言葉の偽《いつは》りでないことを認めてゐる。のみならずフリイデリケの住んでゐた Sesenheim の村も亦ゲエテの描いたのとは違つてゐたらしい。Tieck はわざわざこの村を尋ね、「後悔した」とさへ語つてゐる。ベアトリチエも亦同じことであらう。けれどもかう云ふベアトリチエはベアトリチエ自身を示さないにもせよ、ダンテ自身を示してゐる。ダンテは晩年に至つても、所謂「永遠の女性」を夢みてゐた。しかし所謂「永遠の女性」は天国の外には住んでゐない。のみならずその天国は「しないことの後悔[#「しないことの後悔」に傍点]」に充ち満ちてゐる。丁度地獄は炎の中に「したことの後悔[#「したことの後悔」に傍点]」を広げてゐるやうに。
 僕はダンテ論を読んでゐるうちに鉄仮面の下にある正宗氏の双眼の色を感じた。古人は「君看双眼色《きみみよさうがんのいろ》 不語似無愁《かたらざればうれひなきににたり》」と言つた。やはり正宗氏の双眼の色も、――しかし僕は恐れてゐる。正宗氏は或はこの双眼も義眼であると言ふかも知れない。

     二十二 近松門左衛門

 僕は谷崎潤一郎、佐藤春夫の両氏と一しよに久しぶりに人形芝居を見物した。人形は役者よりも美しい。殊《こと》に動かずにゐる時は綺麗《きれい》である。が、人形を使つてゐる黒ん坊と云ふものは薄気味悪い。現にゴヤは人物の後に度たびああ云ふものをつけ加へた。僕等も或はああ云ふものに、――無気味な運命に駆《か》られてゐるのであらう。……
 けれども僕の言ひたいのは人形よりも近松門左衛門である。僕は小春《こはる》治兵衛《ぢへゑ》を見てゐるうちに今更のやうに近松を考へ出した。近松は写実主義者西鶴に対し、理想主義者の名を博してゐる。僕は近松の人生観を知らない。近松は或は天を仰いで僕等の小を歎いてゐたであらう。或は又天気模様を考へては明日の入りを気遣つてゐたであらう。しかしそれは今日では誰も知らないことは確かである。唯近松の浄瑠璃《じやうるり》を見れば、近松は決して理想主義者ではない。理想主義者では――理想主義者とは一体何であらう? 西鶴は文芸上の写実主義者である。同時に又人生観上の現実主義者である。(少くとも作品によれば)しかし文芸上の写実主義者は必ずしも人生観上の現実主義者ではない。いや、「マダム・ボヴアリイ」を書いた作家は文芸上にも又ロマン主義者だつた。若し夢を求めることをロマン主義と呼ぶとすれば、近松も亦ロマン主義者であらう。しかし又一面にはやはり逞《たくま》しい写実主義者である。「小春治兵衛」の河内屋《かはちや》から鴈治郎《がんぢらう》の姿を抹殺せよ。(この為には文楽を見ることである。)そのあとに残るものは何でもない、人生の隅々へ目の届いた写実主義的戯曲である。成程そこには元禄時代の抒情詩もまじつてゐるのに違ひない。が、この抒情詩を持つてゐるものをロマン主義者と呼ぶとすれば、――ド・リイル・ラダンの言葉に偽りはない。僕等は阿呆でないとすれば、いづれもロマン主義者になる訣である。
 元禄時代の戯曲的手法は今日よりも多少自然ではない。しかし元禄時代以後の戯曲的手法よりもはるかに小細工を用ひないものである。かう云ふ手法に煩《わづら》はされないとすれば、「小春治兵衛」は心理描写の上には決して写実主義を離れてゐない。近松は彼等の官能主義やイゴイズムにも目を注いでゐる。いや、彼等の中にある何か不思議なものにも目につけてゐる。彼等を死に導いたものは必ずしも太兵衛《たへゑ》の悪意ではない。おさん親子の善意も亦やはり彼等を苦しませてゐる。
 近松は度々日本のシエクスピイアに比せられてゐる。それは在来の諸家の説よりも或は一層シエクスピイア的かも知れない。第一に近松はシエクスピイアのやうに殆ど理智を超越してゐる。(ラテン人種の戯曲家モリエエルの理智を想起せよ。)それから又戯曲の中に美しい一行を撒《ま》き散らしてゐる。最後に悲劇の唯中にも喜劇的場景を点出してゐる。僕は炬燵《こたつ》の場の乞食坊主を見ながら、何度も名高い「マクベス」の中の酔つ払ひの姿を思ひ出した。
 近松の世話ものは高山樗牛以来、時代ものの上に置かれてゐる。が、近松は時代ものの中にもロマン主義者に終始したのではない。これも亦多少シエクスピイア的である。シエクスピイアは羅馬《ロオマ》の都に時計を置いて顧みなかつた。近松も時代を無視してゐることはシエクスピイア以上である。のみならず神代《かみよ》の世界さへ悉《ことごと》く元禄時代の世界にした。それ等の人物も心理描写の上には存外|屡《しばしば》写実主義的である。たとへば「日本振袖始《にほんふりそではじめ》」さへ、巨旦《こたん》蘇旦《そたん》兄弟の争ひは全然世話もの中の一場景と変りはない。しかも巨旦の妻の気もちや父を殺した後の巨旦の気もちは恐らくは現世にも通用するであらう。まして素戔嗚《すさのを》の尊《みこと》の恋愛などは恐れながら有史以来少しも変らない××である。
 近松の時代ものは世話ものよりも勿論|荒唐無稽《くわうたうむけい》である。しかしその為に世話ものにない「美しさ」のあつたことは争はれない。たとへば日本の南部の海岸に偶然漂つて来た船の中に支那美人のゐる場景を想像せよ。(国姓爺合戦《こくせんやかつせん》)それは僕等自身の異国趣味にも未だに或満足を与へるであらう。
 高山樗牛は不幸にもこれ等の特色を無視してゐる。近松の時代ものは世話ものよりも必しも下にあるものではない。唯僕等は封建時代の市井《しせい》を比較的身近に感じてゐる。元禄時代の河庄《かはしやう》は明治時代の小待合に近い。小春は、――殊に役者の扮する小春は明治時代の芸者に似たものである。かう云ふ事実は近松の世話ものに如実《によじつ》と云ふ感じを与へ易い。しかし何百年か過ぎ去つた後、――即ち封建時代の市井さへ夢の中の夢に変つた後、近松の浄瑠璃をふり返つて見れば、僕等は時代ものの必ずしも下にゐないことを見出すであらう。のみならず時代ものは一面にはやはり世話ものと同時代の大名の生活を描いてゐる。しかもその世話ものほど如実と云ふ感じを与へないのは封建時代の社会制度の僕等を大名の生活とは縁の遠いものにしてゐる為である。九重《ここのへ》の雲の中にいらせられる御一人さへ不思議にも近松の浄瑠璃《じやうるり》を愛読し給うた。それは近松の出身によるか、或は又市井の出来事に好奇心を持たれた為かも知れない。しかし近松の時代ものに元禄時代の上流階級を感じられなかつたとも限らないのである。
 僕は人形芝居を見物しながら、こんなことを考へてゐた。人形芝居は衰へてゐるらしい。のみならず浄瑠璃も原作通りに語つてゐないと云ふことである。しかし僕には芝居よりもはるかに興味の深いものだつた。

     二十三 模倣

 紅毛人は日本人の模倣に長じてゐることを軽蔑してゐる。のみならず日本人の風俗や習慣(或は道徳)の滑稽であることを軽蔑してゐる。僕は堀口|九万一《くまいち》氏の紹介した「雪さん」と云ふフランス小説の梗概《かうがい》を読み、(「女性」三月号所載)今更のやうにこの事実を考へ出した。
 日本人は模倣に長じてゐる。僕等の作品も紅毛人の作品の模倣であることは争はれない。しかし彼等も僕等のやうにやはり模倣に長じてゐる。ホイツスラアは油画の上に浮世画を模倣をしなかつたか? いや、彼等は彼等同志もやはり模倣し合つてゐる。更に又過去に溯《さかのぼ》れば、大いなる支那は彼等の為にどの位先例を示したであらう? 彼等は或は彼等の模倣は「消化」であると云ふかも知れない。若し「消化」であると云ふならば、僕等の模倣も亦「消化」である。同じ水墨《すゐぼく》を以てしても、日本の南画は支那の南画ではない。のみならず僕等は往来の露店に言葉通り豚カツを消化してゐる。
 しかも模倣を便宜とすれば、模倣するのに勝ることはない。僕等は先祖伝来の名刀を揮《ふる》ひながら、彼等のタンクや毒|瓦斯《ガス》と戦ふ必要を認めないものである。しかも物質的文明はたとひ必要のない時にさへ、おのづから模倣を強《し》ひずには措かない。現に古代には軽羅《けいら》をまとつた希臘《ギリシヤ》、羅馬《ロオマ》等の暖国の民さへ、今では北狄《ほくてき》の考案した、寒気に堪へるのに都合の善い洋服と云ふものを用ひてゐる。
 僕等の風俗や習慣の彼等に滑稽に見えるのもやはり少しも不思議ではない。彼等は僕等の美術には――殊に工芸美術にはとうに多少の賞讃をしてゐる。それは唯|目《ま》のあたりに見ることの出来る為と言はなければならぬ。僕等の感情や思想などは、必ずしも容易に見えるものではない。江戸末期の英吉利《イギリス》公使だつた Sir Rutherford Alcock は灸《きう》を据《す》ゑてゐる子供を見、如何に僕等は迷信の為にみづから苦めてゐるかと嘲笑した。僕等の風俗や習慣の中に潜んだ感情や思想は今日でも、――小泉|八雲《やぐも》を出した今日でもやはり彼等には不可解である。彼等は僕等の風俗や習慣を勿論笑はずにはゐられないであらう。同時に又彼等の風俗や習慣もやはり僕等には可笑《をか》しいのである。たとへばエドガア・ポオは酒飲みだつた為に(或は酒飲みだつたかどうかと云ふ為に)永年死後の名声を落してゐた。「李白《りはく》一斗詩百篇」を誇る日本ではかう云ふことは可笑しいと云ふ外はない。この互に軽蔑し合ふことは避け難い事実とは云ふものの、やはり悲しむべき事実である。のみならず僕等は僕等自身の中にもかう云ふ悲劇を感じないことはない。いや、僕等の精神的生活は大抵は古い僕等に対する新しい僕等の戦ひである。
 しかし僕等は彼等よりも幾分か彼等を了解してゐる。(これは或は僕等には寧《むし》ろ不名誉なことかも知れない。)彼等は僕等に一顧《いつこ》も与へてゐない。僕等は彼等には未開人である。しかも日本に住んでゐる彼等は必ずしも彼等を代表するものではない。恐らくは世界を支配する彼等のサムプルとするにも足りないものであらう。が、僕等は丸善のある為に多少彼等の魂を知つてゐることは確かである。
 なほ又|次手《ついで》につけ加へれば、彼等も亦本質的にはやはり僕等と異つてゐない。僕等は(彼等も一しよにした)皆世界と云ふ箱船に乗つた人間獣の一群である。しかもこの箱船の中は決して明るいものではない。殊に僕等日本人の船室は度《たび》たび大地震に見舞はれるのである。
 堀口九万一氏の紹介は生憎《あいにく》まだ完結してゐない。のみならず氏の加へる筈の批評も載つてゐないのである。が、僕はそれだけにも、ふとこんなことを考へた為にとりあへずペンを走らせることにした。

     二十四 代作の弁護

「古代の画家は少からず傑出した弟子を持つてゐる。が、近代の画家は持つてゐない。それは彼等の金の為に、或は高遠な理想の為に弟子を教へる為である。古代の画家の弟子を教へたのは代作をさせるつもりだつた。従つて彼等の技巧上の秘密も悉《ことごと》く弟子に伝へたのである。弟子の傑出したのも不思議ではない。」――かう云ふサミユエル・バツトラアの言葉は一面には真実を語つてゐる。天賦の才はその為にばかり勿論生まれて来るものではない。しかし又その為に促されることも多いであらう。僕はこの頃フロオベエルのモオパスサンを教へるのにどの位深切を尽《つく》したかを知つた。(彼はモオパスサンの原稿を読んでやる時、連続した二つの文章の同じ構造であるのさへやかましく言つた。)しかしそれは何びとにも望むことの出来るものではない。(弟子に才能のある場合にしても)
 今日の日本は芸術さへ大量生産を要求してゐる。のみならず作家自身にしても、大量生産をしない限り、衣食することも容易ではない。しかし量的向上は大抵質的低下である。すると古人の行つたやうに弟子に代作させることも或は幾多の才人を生ずることになるかも知れない。封建時代の戯作者《げさくしや》は勿論、明治時代の新聞小説家も全然この便法を用ひなかつたのではなかつた。美術家は、――たとへばロダンはやはり部分的[#「部分的」に傍点]には彼の作品を弟子に作らせてゐたのである。
 かう云ふ伝統を持つた代作は或は今後は行はれるかも知れない。のみならずそれは必ずしも一時代の芸術を俗悪にするとも限らないのである。弟子はテクニイクを修《をさ》めた後、勿論独立しても差支ない。が、或は二代目、三代目と襲名《しふめい》することも出来るであらう。
 僕はまだ不幸にも代作して貰ふ機会を持つてゐない。が、他人の作品を代作出来る自信は持つてゐる。唯一つむづかしいことには他人の作品を代作するのは自作するよりも手間どるに違ひない。

     二十五 川柳

「川柳《せんりう》」は日本の諷刺詩である。しかし「川柳」の軽視せられるのは何も諷刺詩である為ではない。寧ろ「川柳」と云ふ名前の余りに江戸趣味を帯びてゐる為に何か文芸と云ふよりも他のものに見られる為である。古い川柳の発句《ほつく》に近いことは或は誰も知つてゐるかも知れない。のみならず発句も一面には川柳に近いものを含んでゐる。その最も著しい例は「鶉衣《うづらごろも》」(?)の初板にある横井|也有《やいう》の連句であらう。あの連句はポルノグラフイツクな川柳集――「末摘花《すゑつむはな》」と選ぶ所はない。
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安どもらひの蓮のあけぼの
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 かう云ふ川柳の発句に近いことは誰でも認めずにゐられないであらう。(蓮は勿論造花の蓮である。)のみならず後代の川柳も全部俗悪と云ふことは出来ない。それ等も亦封建時代の町人の心を――彼等の歓びや悲しみを諧謔《かいぎやく》の中に現してゐる。若しそれ等を俗悪と云ふならば、現世の小説や戯曲も亦同様に俗悪と云はなければならぬ。
 小島政二郎氏は前に川柳の中の官能的描写を指摘した。後代は或は川柳の中の社会的|苦悶《くもん》を指摘するかも知れない。僕は川柳には門外漢である。が、川柳も抒情詩や叙事詩のやうにいつかフアウストの前を通るであらう、尤も江戸伝来の夏羽織か何かひつかけながら。
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心より詩人わが
喜ばむことを君知るや。
一人だに聞くことを
願はぬ詞《ことば》を歌はしめよ。
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     二十六 詩形

 お伽噺《とぎばなし》の王女は城の中に何年も静かに眠つてゐる。短歌や俳句を除いた日本の詩形もやはりお伽噺の王女と変りはない。万葉集の長歌は暫《しば》らく問はず、催馬楽《さいばら》も、平家物語も、謡曲も、浄瑠璃も韻文《ゐんぶん》である。そこには必ず幾多の詩形が眠つてゐるのに違ひない。唯別行に書いただけでも、謡曲はおのづから今日の詩に近い形を現はすのである。そこには必ず僕等の言葉に必然な韻律のあることであらう。(今日の民謡と称するものは少くとも大部分は詩形上|都々逸《どどいつ》と変りはない。)この眠つてゐる王女を見出すだけでも既に興味の多い仕事である。まして王女を目醒《めざ》ませることをや。
 尤も今日の詩は――更に古風な言葉を使へば、新体詩はおのづからかう云ふ道に歩みを運んでゐるかも知れない。又今日の感情を盛るのに昨日の詩形は役立たないであらう。しかし僕は過去の詩形を必ずしも踏襲《たふしふ》しろと言ふのではない。唯それ等の詩形の中に何か命のあるものを感ずるのである。同時に又その何かを今よりも意識的に[#「意識的に」に傍点]掴《つか》めと言ひたいのである。
 僕等は皆どう云ふ点でも烈しい過渡時代に生を享《う》けてゐる。従つて矛盾に矛盾を重ねてゐる。光は――少くとも日本では東よりも西から来るかも知れない。が、過去からも来る訣《わけ》である。アポリネエルたちの連作体の詩は元禄時代の連句に近いものである。のみならず数等完成しないものである。この王女を目醒まさせることは勿論誰にも出来ることではない。が、一人のスウインバアンさへ出れば――と云ふよりも更に大力量の一人の「片歌の道守り」さへ出れば……
 日本の過去の詩の中には緑いろのものが何か動いてゐる。何か互に響き合ふものが――僕はその何かを捉へることは勿論、その何かを生かすことも出来ないものの一人であらう。しかしその何かを感じてゐることは必ずしも人後に落ちないつもりである。こんなことは文芸上或は末の末のことかも知れない。唯僕はその何かに――ぼんやりした緑いろの何かに不思議にも心を惹《ひ》かれるのである。

     二十七 プロレタリア文芸

 僕等は時代を超越することは出来ない。のみならず階級を超越することも出来ない。トルストイは女の話をする時には少しも猥褻《わいせつ》を嫌はなかつた。それは又ゴルキイを辟易《へきえき》させるのに足るものだつた。ゴルキイはフランク・ハリスとの問答の中に「わたしはトルストイよりも礼儀を重んじてゐる。若しトルストイを学んだとしたらば、彼等はそれをわたしの素性《すじやう》の為と――百姓育ちの為と解釈するであらう」と正直に衷情《ちゆうじやう》を話してゐる。ハリスは又その言葉に「ゴルキイの未だに百姓であることはこの点に――即ち百姓育ちを羞《は》ぢる点に露はれてゐる」と註してゐる。
 中産階級の革命家を何人も生んでゐるのは確かである。彼等は理論や実行の上に彼等の思想を表現した。が、彼等の魂は果して中産階級を超越してゐたであらうか? ルツテルは羅馬加特力《ロオマカトリツク》教に反逆した。しかも彼の仕事を妨げる悪魔の姿を目撃した。彼の理智は新しかつたであらう。しかし彼の魂はやはり羅馬加特力教の地獄を見ずにはゐられなかつたのである。これは宗教の上ばかりではない。社会制度の上でも同じことである。
 僕等は僕等の魂に階級の刻印を打たれてゐる。のみならず僕等を拘束するものは必ずしも階級ばかりではない。地理的にも大は日本から小は一市一村に至る僕等の出生地も拘束してゐる。その他遺伝や境遇等も考へれば、僕等は僕等自身の複雑であることに驚嘆せずにはゐられないであらう。(しかも僕等を造つてゐるものはいづれも僕の意識の中に登つて来るとは限らないのである。)
 カアル・マルクスは暫らく問はず、古来の女子参政権論者はいづれも良妻を伴つてゐた。科学上の産物さへかう云ふ条件を示してゐるとすれば、芸術上の作品は――殊に文芸上の作品はあらゆる条件を示してゐる訣《わけ》である。僕等はそれぞれ異つた天気の下やそれぞれ異つた土の上に芽を出した草と変りはない。同時に又僕等の作品も無数の条件を具へた草の実である。若し神の目に見るとすれば、僕等の作品の一篇に僕等の全生涯を示してゐるのであらう。
 プロレタリア文芸は――プロレタリア文芸とは何であらう? 勿論第一に考へられるのはプロレタリア文明の中に花を開いた文芸である。これは今日の日本にはない。それから次に考へられるものはプロレタリアの為に闘ふ文芸である。これは日本にもないことはない。(若しスウイツルでも隣国だつたとすれば、或はもつと生まれたであらう。)第三に考へられるはコムミユニズムやアナアキズムの主義を持つてゐないにもせよ、プロレタリア的魂を根柢にした文芸である。第二のプロレタリア文芸は勿論第三のプロレタリア文芸と必ずしも両立しないものではない。しかし若し多少でも新しい文芸を生ずるとすれば、それはこのプロレタリア的魂の生んだ文芸でなければならぬ。
 僕は隅田川の川口に立ち、帆前船《ほまへせん》や達磨船《だるません》の集まつたのを見ながら今更のやうに今日の日本に何の表現も受けてゐない「生活の詩」を感じずにはゐられなかつた。かう云ふ「生活の詩」をうたひ上げることはかう云ふ生活者を待たなければならぬ。少くともかう云ふ生活者にずつと同伴してゐなければならぬ筈である。コムミユニズムやアナアキズムの思想を作品の中に加へることは必ずしもむづかしいことではない。が、その作品の中に石炭のやうに黒光りのする詩的荘厳を与へるものは畢竟《ひつきやう》プロレタリア的魂だけである。年少で死んだフイリツプは正にかう云ふ魂の持ち主だつた。
 フロオベエルは「マダム・ボヴアリイ」にブウルジヨアの悲劇を描き尽した。しかしブウルジヨアに対するフロオベエルの軽蔑は「マダム・ボヴアリイ」を不滅にしない。「マダム・ボヴアリイ」を不滅にするものは唯フロオベエルの手腕だけである。フイリツプはプロレタリア的魂の外にも鍛《きた》へこんだ手腕を具へてゐる。するとどう云ふ芸術家も完成を目ざして進まなければならぬ。あらゆる完成した作品は方解石のやうに結晶したまま、僕等の子孫の遺産になるのである。たとひ風化作用を受けるにしても。

     二十八 国木田独歩

 国木田独歩は才人だつた。彼の上に与へられる「無器用」と云ふ言葉は当つてゐない。独歩の作品はどれをとつて見ても、決して無器用に出来上つてゐない。「正直者」、「巡査」、「竹の木戸」、「非凡なる凡人」……いづれも器用に出来上つてゐる。若《も》し彼を無器用と云ふならば、フイリツプも亦無器用であらう。
 しかし独歩の「無器用」と云はれたのは全然理由のなかつた訣ではない。彼は所謂戯曲的に発展する話を書かなかつた。のみならず長ながとも書かなかつた。(勿論どちらも出来なかつた[#「出来なかつた」に傍点]のである。)彼の受けた「無器用」の言葉はおのづからそこに生じたのであらう。が、彼の天才は或は彼の天才の一部は実にそこに存してゐた。
 独歩は鋭い頭脳を持つてゐた。同時に又柔かい心臓を持つてゐた。しかもそれ等は独歩の中に不幸にも調和を失つてゐた。従つて彼は悲劇的だつた。二葉亭四迷《ふたばていしめい》や石川啄木も、かう云ふ悲劇中の人物である。尤も二葉亭四迷は彼等よりも柔かい心臓を持つてゐなかつた。(或は彼等よりも逞《たくま》しい実行力を具へてゐた。)彼の悲劇はその為に彼等よりもはるかに静かだつた。二葉亭四迷の全生涯は或はこの悲劇的でない悲劇の中にあるかも知れない。……
 しかし更に独歩を見れば、彼は鋭い頭脳の為に地上を見ずにはゐられないながら、やはり柔かい心臓の為に天上を見ずにもゐられなかつた。前者は彼の作品の中に「正直者」、「竹の木戸」等の短篇を生じ、後者は「非凡なる凡人」、「少年の悲哀」、「画の悲しみ」等の短篇を生じた。自然主義者も人道主義者も独歩を愛したのは偶然ではない。
 柔い心臓を持つてゐた独歩は勿論おのづから詩人だつた。(と云ふ意味は必しも詩を書いてゐたと云ふことではない。)しかも島崎|藤村《とうそん》氏や田山|花袋《くわたい》氏と異る詩人だつた。大河に近い田山氏の詩は彼の中に求められない。同時に又お花畠に似た島崎氏の詩も彼の中に求められない。彼の詩はもつと切迫してゐる。独歩は彼の詩の一篇の通り、いつも「高峰の雲よ」と呼びかけてゐた。年少時代の独歩の愛読書の一つはカアライルの「英雄論」だつたと云ふことである。カアライルの歴史観も或は彼を動かしたかも知れない。が、更に自然なのはカアライルの詩的精神に触れたことである。
 けれども彼は前にも言つたやうな鋭い頭脳の持ち主だつた。「山林に自由存す」の詩は「武蔵野」の小品に変らざるを得ない。「武蔵野」はその名前通り、確かに平原に違ひなかつた。しかしまたその雑木林は山々を透かしてゐるのに違ひなかつた。徳富|蘆花《ろくわ》氏の「自然と人生」は「武蔵野」と好対照を示すものであらう。自然を写生してゐることはどちらも等しいのに違ひない。が、後者は前者よりも沈痛な色彩を帯びてゐる。のみならず広いロシアを含んだ東洋的伝統の古色を帯びてゐる。逆説的な運命はこの古色のある為に「武蔵野」を一層新らしくした。(幾多の人びとは独歩の拓《ひら》いた「武蔵野」の道を歩いて行つたであらう。が、僕の覚えてゐるのは吉江|孤雁《こがん》氏一人だけである。当時の吉江氏の小品集は現世の「本の洪水」の中に姿を失つてしまつたらしい。が、何か梨の花に近い、ナイイヴな美しさに富んだものである。)
 独歩は地上に足をおろした。それから――あらゆる人々のやうに野蛮な人生と向ひ合つた。しかし彼の中の詩人はいつまでたつても詩人だつた。鋭い頭脳は死に瀕《ひん》した彼に「病牀録《びやうしやうろく》」を作らせてゐる。が、かう云ふ彼は一面には「沙漠の雨」(?)と云ふ散文詩を作つてゐた。
 若し独歩の作品中、最も完成したものを挙げるとすれば、「正直者」や「竹の木戸」にとどまるであらう。が、それ等の作品は必しも詩人兼小説家だつた独歩の全部を示してゐない。僕は最も調和のとれた独歩を――或は最も幸福だつた独歩を「鹿狩り」等の小品に見出してゐる。(中村星湖氏の初期の作品はかう云ふ独歩の作品に近いものだつた。)
 自然主義の作家たちは皆精進して歩いて行つた。が、唯一人独歩だけは時々空中へ舞ひ上つてゐる。……

     二十九 再び谷崎潤一郎氏に答ふ

 僕は谷崎潤一郎氏の「饒舌録《ぜうぜつろく》」を読み、もう一度この文章を作る気になつた。勿論僕の志も谷崎君にばかり答へるつもりではない。しかし私心を挾《さしはさ》まずに議論を闘はすことの出来る相手は滅多に世間にゐないものである。僕はその随一人を谷崎潤一郎氏に発見した。これは或は谷崎氏は難有《ありがた》迷惑であると云ふかも知れない。けれども若し点心《てんしん》並みに僕の議論を聞いて貰へれば、それだけでも僕は満足するのである。
 不滅なるものは芸術ばかりではない。僕等の芸術論も亦不滅である。僕等はいつまでも芸術とは? 云々のことを論じてゐるであらう。かう云ふ考へは僕のペンを鈍《にぶ》らせることは確かである。けれども僕の立ち場を明らかにする為に暫く想念《イデエ》のピンポンを弄《もてあそ》ぶとすれば、――
 (1)[#「(1)」は縦中横] 僕は或は谷崎氏の言ふやうに左顧右眄《さこうべん》してゐるかも知れない。いや、恐らくはしてゐるであらう。僕は如何なる悪縁か、驀地《まつしぐら》に突進する勇気を欠いてゐる。しかも稀にこの勇気を得れば、大抵何ごとにも失敗してゐる。「話」らしい話のない小説などと言ひ出したのも或はこの一例かも知れない。しかし僕は谷崎氏も引用したやうに「純粋であるか否かの一点に依つて芸術家[#「芸術家」に傍点]の価値は極《き》まる」と言つたのである。これは勿論「話」らしい話のない小説を最上のものとは思つてゐない云々の言葉とは矛盾しない。僕は小説や戯曲の中にどの位純粋な芸術家の面目のあるかを見ようとするのである。(「話」らしい話を持つてゐない小説――たとへば日本の写生文脈の小説はいづれも純粋な芸術家の面目を示してゐるとは限つてゐない。)「詩的精神云々の意味がよく分らない」と言つた谷崎氏に対する答はこの数行に足りてゐる筈である。
 (2)[#「(2)」は縦中横] 谷崎氏の所謂《いはゆる》「構成する力」は僕にも理解出来たやうに感じてゐる。僕も亦日本の文芸に――殊に現世の文芸にかう云ふ力の欠けてゐることを必しも否《いな》むものではない。しかし若し谷崎君の言ふやうにかう云ふ力の現れるのは必しも長篇に限らないとすれば、前に僕の挙げた諸作家もやはりかう云ふ力を持ち合せてゐる。尤もこれは比較的な問題であるから、或標準の上に立つて有無《うむ》を論じても仕かたはないであらう。なほ又僕の志賀直哉氏に及ばないのを「肉体的力量の感じの有無にある」と云ふのは全然僕には賛成出来ない。谷崎氏は僕自身よりも更に僕を買ひ冠《かぶ》つてゐる。「僕等は僕等自身の短所を語るものではない。僕等自身語らずとも他人は必ず語つてくれるものである。」――メリメエは彼の書簡集の中にかう云ふ老外交家の言葉を引用した。僕も亦この言葉を少くとも部分的に守るつもりである。
 (3)[#「(3)」は縦中横] 「ゲエテの偉いのはスケールが大きくて猶且《なほかつ》純粋性を失はないところにある」と言ふ谷崎氏の言葉は中《あた》つてゐる。これは僕にも異存はない。しかし雑駁《ざつぱく》である大詩人はあつても、純粋でない大詩人はない。従つて大詩人を大詩人たらしめるものは、――少くとも後代に大詩人の名を与へしめるものは雑駁であることに帰着してゐる。谷崎氏は「雑駁な」と云ふ言葉を下品に感じてゐるのであらう。それは僕等の趣味の相違である。僕はゲエテに「雑駁な」と云ふ言葉を与へた。しかしそこには必しも「騒々しい感じ」を含んでゐない。若し谷崎氏の語彙《ごゐ》に従ふとすれば、「包容力の大きい」と云ふ言葉と同意味にしても善いのである。唯この「包容力の大きい」と云ふことは古来の詩人を評価する上に余り重大視されてゐはしないであらうか? ボオドレエルやラムボオを大詩人とする一群はユウゴオの上に円光をかけない。僕は彼等の心もちに少からず同情してゐる。(元来ゲエテは僕等の嫉妬を煽動する力を具へてゐる。同時代の天才に嫉妬を示さない詩人たちさへゲエテに欝憤《うつぷん》を洩らしてゐるのは少くない。しかし僕は不幸にも嫉妬を示す勇気もないものである。ゲエテは伝記の教へる所によれば、原稿料や印税の外にも年金や仕送りを貰つてゐた。彼の天才は暫く問はず、その又天才を助長した境遇や教育も暫く問はず、最後に彼のエネルギイを生んだ肉体的健康も暫く問はず、これだけでも羨しいと思ふものは恐らくは僕一人に限らないであらう。)
 (4)[#「(4)」は縦中横] これは谷崎氏に答へるのではない。僕等二人の議論の相違は「おのおの体質の相違になりはしないか」と云ふ谷崎氏の言葉に対し、ちよつと感慨を洩らしたいのである。谷崎氏の愛する紫式部は彼女の日記の一節に「清少納言こそ、したり顔にいみじう侍《はべ》りける人。さばかり賢《さか》しだち、まなかきちらして侍るほども、よく見れば、まだいと堪へぬことおほかり。かく人にことならんと思ひ好める人は、かならず見おとりし、行く末うたてのみ侍れば、……もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじく、あだなるさまにもなるに侍るべし。そのあだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らん」と云ふ言葉を残した。僕は男根隆々たる清家《せいけ》の少女を以て任ずるものではない。けれどもこの文章を読み、(紫式部の科学的教養は体質の相違に言及するほど進歩してゐなかつたにしろ)はるかに僕を戒《いまし》めてゐる谷崎氏を感じずにはゐられなかつた。今再び谷崎氏に答へるのに当り、かう云ふ感慨を洩らすのは議論の是非を暫く問はず、「饒舌録」の文章のリズムの堂々としてゐる為ばかりではない。往年深夜の自動車の中に僕の為に芸術を説いた谷崎潤一郎氏を思ひ出したからである。

     三十 「野性の呼び声」

 僕は前に光風会に出たゴオガンの「タイチの女」(?)を見た時、何か僕を反撥するものを感じた。装飾的な背景の前にどつしりと立つてゐる橙《だいだい》色の女は視覚的に[#「視覚的に」に傍点]野蛮人の皮膚の匂を放つてゐた。それだけでも多少|辟易《へきえき》した上、装飾的な背景と調和しないことにも不快を感じずにはゐられなかつた。美術院の展覧会に出た二枚のルノアルはいづれもこのゴオガンに勝《まさ》つてゐる。殊《こと》に小さい裸女の画などはどの位シヤルマンに出来上つてゐたであらう。――僕はその時はかう思つてゐた。が、年月の流れるのにつれ、あのゴオガンの橙色の女はだんだん僕を威圧し出した。それは実際タイチの女に見こまれたのに近い威力である。しかもやはりフランスの女も僕には魅力を失つたのではない。若し画面の美しさを云々《うんぬん》するとすれば、僕は未《いまだ》にタイチの女よりもフランスの女を採りたいと思つてゐる。……
 僕はかう云ふ矛盾に似たもの[#「矛盾に似たもの」に傍点]を文芸の中にも感じてゐる。更に又諸家の文芸評論の中にもタイチ派とフランス派とのあるのを感じてゐる。ゴオガンは、――少くとも僕の見たゴオガンは橙色の女の中に人間獣の一匹を表現してゐた。しかも写実派の画家たちよりも更に痛切に表現してゐた。或文芸批評家は――たとへば正宗白鳥氏は大抵[#「大抵」に傍点]この人間獣の一匹を表現したかどうかを尺度にしてゐる。が、或文芸批評家は、――たとへば谷崎潤一郎氏は大抵[#「大抵」に傍点]人間獣の一匹よりも人間獣の一匹を含んだ画面の美しさを尺度にしてゐる。(尤も諸家の文芸評論の尺度は必しもこの二者に限つてゐない。実践道徳的尺度もあれば、社会道徳的尺度もあることは確かである。しかし僕はそれ等の尺度に余り興味を持つてゐない。のみならず持つてゐないことも不思議ではないと信じてゐる。)勿論タイチ派は必しもフランス派と両立しないものではない。両者の差別はこの地上に生じた、あらゆる差別のやうに朦朧《もうろう》としてゐる。が、暫く両端を挙げれば、両者の差別のあることだけは兎に角一応は認めなければならぬ。
 所謂ゲエテ・クロオチエ・スピンガアン商会の美学によれば、この差別も「表現」の一語に霧のやうに消えてしまふであらう。しかし或作品を仕上げる上には度《たび》たび僕等を、――或は僕を岐路に立たせることは事実である。古典的作家は巧妙にもこの岐路を一度に歩いて行つた。彼等に僕等群小の徒の及ぶことの出来ないのは恐らくはそこにあるのであらう。ルノアルは、――少くとも僕の見たルノアルはかう云ふ点ではゴオガンよりも古典的作家に近いのかも知れない。けれども橙色の人間獣の牝《めす》は何か僕を引き寄せようとしてゐる。かう云ふ「野性の呼び声」を僕等の中に感ずるものは僕一人に限つてゐるのであらうか?
 僕は僕と同時代に生まれた、あらゆる造形美術の愛好者のやうにまづあの沈痛な力に満ちたゴオグに傾倒した一人だつた。が、いつか優美を極めたルノアルに興味を感じ出した。それは或は僕の中にある都会人の仕業だつたかも知れない。同時に又ルノアルを軽蔑する当時の愛好者の傾向につむじ[#「つむじ」に傍点]を曲げたこともない訣《わけ》ではなかつた。けれども十年あまりたつて見ると、――立派に完成したルノアルは未だに僕を打たない訣ではない。しかしゴオグの糸杉や太陽はもう一度僕を誘惑するのである。それは橙色の女の誘惑とは或は異つてゐるかも知れない。が、何か切迫したものに言はば芸術的食慾を刺戟されるのは同じことである。何か僕等の魂の底から必死に表現を求めてゐるものに。――
 しかも僕はルノアルに恋々《れんれん》の情を持つてゐるやうに文芸上の作品にも優美なものを愛してゐる。「エピキユウルの園」を歩いたものは容易にその魅力を忘れることは出来ない。殊に僕等都会人はその点では誰よりも弱いのである。プロレタリア文芸の呼び声も勿論僕を動かさないのではない。が、それよりもこの問題は根本的に僕を動かすのである。純一無雑になることは誰にも恐らくは困難であらう。しかし兎に角外見上でも僕の知つてゐる作家たちの中にはこの境涯にゐる人もない訣ではない。僕はいつもかう云ふ人々に多少の羨望《せんばう》を感じてゐる。……
 僕は誰かの貼《は》つた貼り札によれば、所謂「芸術派」の一人になつてゐる。(かう云ふ名称の存在するのは、同時に又かう云ふ名称を生んだ或|雰囲気《ふんゐき》の存在するのは世界中に日本だけであらう。)僕の作品を作つてゐるのは僕自身の人格を完成する為に作つてゐるのではない。況《いはん》や現世の社会組織を一新する為に作つてゐるのではない。唯僕の中《うち》の詩人を完成する為に作つてゐるのである。或は詩人兼ジヤアナリストを完成する為に作つてゐるのである。従つて「野性の呼び声」も僕には等閑に附することは出来ない。
 或友人は森先生の詩歌に不満を洩らした僕の文章を読み、僕は感情的に森先生に刻薄《こくはく》であると云ふ非難を下した。僕は少くとも意識的には森先生に敵意などは持つてゐない。いや、寧《むし》ろ森先生に心服してゐる一人であらう。しかし僕の森先生にも羨望を感じてゐることは確かである。森先生は馬車馬のやうに正面だけ見てゐた作家ではない。しかも意力そのもののやうに一度も左顧右眄《さこうべん》したことはなかつた。「タイイス」の中のパフヌシユは神に祈らずに人の子だつたナザレの基督《キリスト》に祈つてゐる。僕のいつも森先生に近づき難い心もちを持つてゐるのは或はかう云ふパフヌシユに近い歎息を感じてゐる為であらう。

     三十一 「西洋の呼び声」

 僕はゴオガンの橙色の女に「野性の呼び声」を感じてゐる。しかし又ルドンの「若き仏陀」(土田|麦僊《ばくせん》氏所蔵?)に「西洋の呼び声」を感じてゐる。この「西洋の呼び声」もやはり僕を動かさずには措《お》かない。谷崎潤一郎氏も谷崎氏自身の中に東西両洋の相剋《さうこく》を感じてゐる。しかし僕の「西洋の呼び声」と云ふのは或は谷崎氏の「西洋の呼び声」とは多少異つてゐるかも知れない。僕はその為に僕の感じる「西洋」のことを書いて見ることにした。
「西洋」の僕に呼びかけるのはいつも造形美術の中からである。文芸上の作品は――殊に散文は存外この点では痛切ではない。それは一つには僕等人間は人間獣であることに東西の差別の少ない為であらう。(最も手近な例を引けば、某医学博士の或少女を凌辱《りようじよく》したのは全然神父セルジウスの百姓の娘に対したのと異らない男性の心理である。)それから又僕等の語学的素養は文芸上の作品の美を捉へる為には余りに不完全である為であらう。僕等は、――少くとも僕は紅毛人《こうまうじん》の書いた詩文の意味だけは理解出来ないことはない。が、僕等の祖先の書いた詩文――たとへば凡兆《ぼんてう》の「木の股のあでやかなりし柳かな」に対するほど、一字一音の末に到るまで舌舐《したな》めずりをすることは出来ないのである。西洋の僕に呼びかけるのに造形美術を通してゐるのは必しも偶然ではないかも知れない。
 この「西洋」の底に根を張つてゐるものはいつも不可思議なギリシアである。水の冷暖は古人も言つたやうに飲んで自知する外に仕かたはない。不可思議なギリシアも亦同じことである。僕は最も手短かにギリシアを説明するとすれば、日本にもあるギリシア陶器の幾つかを見ることを勧めるであらう。或は又ギリシア彫刻の写真を見ることを勧めるであらう。それ等の作品の美しさはギリシアの神々の美しさである。或は飽くまでも官能的な、――言はば肉感的な美しさの中に何か超自然と言ふ外はない魅力を含んだ美しさである。この石に滲《し》みこんだ麝香《じやかう》か何かの匂のやうに得体《えたい》の知れない美しさは詩の中にもやはりないことはない。僕はポオル・ヴアレリを読んだ時、(紅毛の批評家は何と言ふか知れない。)ボオドレエルの昔からいつも僕を動かしてゐたかう云ふ美しさに邂逅《かいこう》した。しかし最も直接に[#「最も直接に」に傍点]僕にこのギリシアを感じさせたのは前に挙げた一枚のルドンである。……
 ギリシア主義とヘブライ主義との思想上の対立はいろいろの議論を生じてゐる。が、僕はそれ等の議論には余り興味を持つてゐない。唯街頭の演説に耳を傾けるやうに聞いてゐるだけである。しかしこのギリシア的な美しさはかう云ふ問題に門外漢の僕にも「恐しい」と言つても差支へない。僕はここにだけ――このギリシアにだけ僕等の東洋に対立する「西洋の呼び声」を感じるのである。貴族はブウルヂヨアに席を譲つたであらう。ブウルヂヨアも亦プロレタリアに早晩席を譲るであらう。けれども西洋の存する限り、不可思議なギリシアは必ず僕等を、――或は僕等の子孫たちを引き寄せようとするのに違ひない。
 僕はこの文章を書いてゐるうちに古代の日本に渡つて来たアツシリアの竪琴《たてごと》を思ひ出した。大いなる印度は僕等の東洋を西洋と握手させるかも知れない。しかしそれは未来のことである。西洋は――最も西洋的なギリシアは現在では東洋と握手してゐない。ハイネは「流謫《るたく》の神々」の中に十字架に逐《お》はれたギリシアの神々の西洋の片田舎に住んでゐることを書いた。けれどもそれは片田舎にもしろ、兎に角西洋だつたからである。彼等は僕等の東洋には一刻も住んではゐられなかつたであらう。西洋はたとひヘブライ主義の洗礼を受けた後にもしろ、何か僕等の東洋と異つた血脈を持つてゐる。その最も著しい例は或はポルノグラフイイにあるかも知れない。彼等は肉感そのものさへ僕等と趣《おもむき》を異にしてゐる。
 或人々は千九百十四五年に死んだドイツの表現主義の中に彼等の西洋を見出してゐる。それから又或人々は――レムブラントやバルザツクの中《うち》に彼等の西洋を見出してゐる人々も勿論多いことであらう。現に秦豊吉《はたとよきち》氏などはロココ時代の芸術に秦氏の西洋を見出してゐる。僕はかう云ふ種々の西洋を西洋ではないと言ふのではない。しかしそれらの西洋のかげにいつも目を醒ましてゐる一羽の不死鳥――不可思議なギリシアを恐れてゐるのである。恐れてゐる?――或は恐れてゐるのではないかも知れない。けれども妙に抵抗しながら、やはりじりじりと引き寄せられる動物的磁気に近いものを感じない訣《わけ》には行かないのである。
 僕は若《も》し目をつぶれるとすれば、かう云ふ「西洋の呼び声」には目をつぶりたいと思つてゐる。しかし目をつぶることは必しも僕の自由にはならない。僕はつい四五日前の夜に室生犀星氏や何かと一しよに久しぶりにパイプを啣《くは》へながら、若い人たちと話してゐる中に十年余りも忘れてゐたボオドレエルの一行を思ひ出した。(それは僕には実験心理的にも興味のある事実だつたのに違ひない。)それから不可思議な荘厳に満ちた一枚のルドンを思ひ出した。
 この「西洋の呼び声」もやはり「野性の呼び声」のやうに僕をどこかへつれて行かうとしてゐる。アポロに対するデイオニソスに彼の偶像を発見した「ツアラトストラ」の詩人は幸福だつた。現世の日本に生まれ合せた僕は文芸的にも僕自身の中に無数の分裂を感ぜざるを得ない。それも或は僕一人に、――何ごとにも影響を受け易い僕一人に限つてゐることであらうか? 僕はこの不可思議なギリシアこそ最も西洋的な文芸上の作品を僕等の日本語に飜訳することを遮《さまた》げてゐるのではないかと思つてゐる。或は僕等日本人の正確に理解することさへ(語学上の障害は暫らく問はず)遮げてゐるのではないかと思つてゐる。一枚のルドンは、――いや、いつかフランス美術展覧会に出てゐたモロオの「サロメ」(?)さへかう云ふ点では僕に東西を切り離した大海を想はせずには措《お》かなかつた。この問題を逆にすれば、紅毛人の漢詩を理解しないのも当然であると言はなければならぬ。僕は大英博物館に一人の東洋学者のゐることを聞き噛《かじ》つてゐる。しかし彼の漢詩の英訳は少くとも僕等日本人には原作の醍醐味《だいごみ》を伝へてゐない。のみならず彼の漢詩論も盛唐を貶《おと》して漢魏《かんぎ》を揚《あ》げたのは前人の説を破つてゐるにもせよ、やはり僕等日本人には容易に首肯することは出来ないのである。ピカソは黒んぼの芸術に新らしい美しさを発見した。けれども彼等の東洋的芸術に――たとへば大愚良寛の書に新らしい美しさを発見するのはいつであらう。

     三十二 批評時代

 批評や随筆の流行は即ち創作の振はない半面を示したものである。――これは僕の議論ではない。佐藤春夫氏の議論である。(「中央公論」五月号所載)同時に又三宅|幾三郎《いくさぶらう》氏の議論である。(「文芸時代」五月号所載)僕は偶然|軌《き》を一にした両氏の議論に興味を感じた。両氏の議論は中《あた》つてゐるであらう。今日の作家たちは佐藤氏の言ふやうに疲れてゐるのに違ひない。(尤も「僕は疲れてゐない」と主張する作家は例外である。)或は休みない制作の為に、(世界に日本の文壇ほど濫作《らんさく》を強ひる所はない。)或は又身辺の雑事の為に、或は又争ひ難い年齢の為に、或は又、――事情はいろいろ変つてゐるにしても、兎に角多少は疲れてゐるであらう。現に紅毛の作家たちの中にも晩年には批評のペンを執つて閑を潰《つぶ》したものも少くはなかつた。……
 佐藤氏はこの批評時代に一層根本的なものに触れることを必要であると力説してゐる。三宅氏の「第一義的の批評」を要求するのも恐らくは佐藤氏と大差ないであらう。僕も亦各人の批評のペンにも血の滴《したた》ることを望んでゐる。何を批評上では第一義的とするか?――それは各人各説かも知れない。その又各人各説であることに所謂「真の批評」の出現する事実上の困難はあるのかも知れない。しかし僕等は各人各説でも兎に角僕等の信条や疑問を叩きつける外はないのである。現に正宗白鳥氏は「文芸評論」や「ダンテに就いて」の中に立派にかう云ふ仕事をした。正宗氏の議論は批評的に多少の欠点を数へ得るかも知れない。しかし後代の人々はいつかラツサアレも言つたやうに、「我々の過失を咎《とが》めるよりも我々の情熱を諒《りやう》とするであらう。」
 三宅氏は又「批評をも全々(原)小説家の手に委《ゆだ》ねておく事は、寧ろ文学の進歩発展を渋滞《じふたい》させる恐れがある」と言つてゐる。僕はこの言葉を読んだ時、「詩人は彼自身の中に批評家を持つてゐる。が、批評家は彼自身の中に詩人を持つてゐるとは限らない」と云ふボオドレエルの言葉だつた。実際詩人は彼自身の中に批評家を持つてゐるのに違ひない。が、その批評家は彼の批評を「批評」と云ふ文芸上の或形式に完成する力をもつてゐるかどうか?――それは又おのづから別問題である。三宅氏の所謂「真の批評家」の出現することを望むものは必しも僕ばかりに限らないであらう。
 唯日本のパルナスは或|因襲《いんしふ》に捉《とら》はれてゐる。たとへば詩人室生犀星氏の小説や戯曲を作る時にはそれ等は決して余技ではない。しかし小説家佐藤春夫氏の時々詩を作る時にはそれは不思議にも余技である。(僕はいつか佐藤氏自身の「僕の詩は決して余技ではない」と憤慨してゐたのを覚えてゐる。)若し「小説家万能」の言葉に相当する事実を数へるとすれば、これこそ正にその一つであらう。小説家兼批評家の場合もやはりこの事実と同じことである。僕は「鴎外全集」第三巻を読み、批評家鴎外先生の当時の「専門的批評家」を如何に凌駕《りようが》してゐるかを知つた。同時に又かう云ふ批評家のない時代の如何に寂しいものであるかを知つた。若し明治時代の批評家を数へるとすれば、僕は森先生や夏目先生と一しよに子規|居士《こじ》を数へたいと思つてゐる。東京の悪戯《いたづら》つ児《こ》斎藤|緑雨《りよくう》は右に森先生の西洋の学を借り、左に幸田先生の和漢の学を借りたものの、畢《つひ》に批評家の域にはいつてゐない。(しかし僕は随筆以外に何も完成しなかつた斎藤緑雨にいつも同情を感じてゐる。緑雨は少くとも文章家だつた。)けれどもそれは余論である。……
 批評家だつた森先生は自然主義の文芸の興つた明治時代の準備をした。(しかも逆説的な運命は自然主義の文芸の興つた時代には森先生を反自然主義者の一人にした。それは或は森先生の目はもつと遠い空を見てゐたからかも知れない。しかし兎に角明治二十年代にゾラやモオパスサンを云々した森先生さへ反自然主義者の一人になつたのは逆説的であると言はなければならぬ。)僕は若し当代も批評時代と呼ばれるとすれば、――三宅氏は「我々は来る可き日本文学の隆盛期に対して、殆ど絶望を感じないか」と言つてゐる。若し仕合せにもこの言葉は三宅氏一人の感慨だつたとすれば、――僕等はどの位安んじて新来の作家たちを待てるであらう。或は又どの位不安になつて新来の作家たちを待てるであらう。
 所謂「真の批評家」は籾《もみ》を米から分つ為に批評のペンを執るであらう。僕も亦時々僕自身の中にかう云ふメシア的欲望を感じてゐる。しかし大抵は僕自身の為に――僕自身を理智的に歌ひ上げる為に書いてゐるのに過ぎない。批評も亦僕にはその点では殆ど小説を作つたり発句《ほつく》を作つたりするのと変らないのである。僕は佐藤、三宅両氏の議論を読み、僕の批評に序文をつける為にとりあへずこの文章を艸《さう》することにした。
 追記。僕はこの文章を書き終つた後、堀木|克三《よしざう》氏の啓発を受け、宇野浩二氏の批評の名に「文芸的な、余りに文芸的な」を使つてゐることを知つた。僕は故意に宇野氏の真似をしたのでもなければ、なほ更プロレタリア文芸に対する共同戦線などにするつもりではない。唯文芸上の問題ばかりを論ずる為に漫然とつけたばかりである。宇野氏も恐らくは僕の心もちを諒《りやう》としてくれることであらう。

     三十三 「新感覚派」

「新感覚派」の是非を論ずることは今は既に時代遅れかも知れない。が、僕は「新感覚派」の作家たちの作品を読み、その又作家たちの作品に対する批評家たちの批評を読み、何か書いて見たい欲望を感じた。
 少くとも詩歌は如何なる時代にも「新感覚派」の為に進歩してゐる。「芭蕉は元禄時代の最大の新人だつた」と云ふ室生犀星氏の断案は中《あた》つてゐるのに違ひない。芭蕉はいつも文芸的にはいやが上にも新人にならうと努力をしてゐた。小説や戯曲もそれ等の中に詩歌的要素を持つてゐる以上、――広い意味の詩歌である以上、いつも「新感覚派」を待たなければならぬ。僕は北原白秋氏の如何に「新感覚派」だつたかを覚えてゐる。(「官能の解放」と云ふ言葉は当時の詩人たちの標語だつた。)同時に又谷崎潤一郎氏の如何に「新感覚派」だつたかを覚えてゐる。……
 僕は今日の「新感覚派」の作家たちにも勿論興味を感じてゐる。「新感覚派」の作家たちは、――少くともその中の論客たちは僕の「新感覚派」に対する考へなどよりも新らしい理論を発表した。が、それは不幸にも十分に僕にはわからなかつた。唯「新感覚派」の作家たちの作品だけは、――それも僕にはわからないのかも知れない。僕等は作品を発表し出した頃、「新理智派」とか云ふ名を貰つた。(尤も僕等の僕等自身この名を使はなかつたのは確かである。)しかし「新感覚派」の作家たちの作品を見れば、僕等の作品よりも或意味では「新理智派」に近いと言はなければならぬ。では或意味とは何かと言へば、彼等の所謂感覚の理智の光を帯びてゐることである。僕は室生犀星氏と一しよに碓氷《うすひ》山上の月を見た時、突然室生氏の妙義山を「生姜《しやうが》のやうだね」と云つたのを聞き、如何にも妙義山は一塊の根生姜にそつくりであることを発見した。この所謂《いはゆる》感覚は理智の光を帯びてはゐない。が、彼等の所謂感覚は、――たとへば横光利一氏は僕の為に藤沢|桓夫《たけを》氏の「馬は褐色の思想のやうに走つて行つた」(?)と云ふ言葉を引き、そこに彼等の所謂感覚の飛躍のあることを説明した。かう云ふ飛躍は僕にも亦全然わからない訣《わけ》ではない。が、この一行は明らかに理智的な聯想の上に成り立つてゐる。彼等は彼等の所謂感覚の上にも理智の光を加へずには措かなかつた。彼等の近代的特色は或はそこにあるのであらう。けれども若し所謂感覚のそれ自身新しいことを目標とすれば、僕はやはり妙義山に一塊の根生姜を感じるのをより新しい[#「より新しい」に傍点]としなければならぬ。恐らくは江戸の昔からあつた一塊の根生姜を感じるのを。
「新感覚派」は勿論起らなければならぬ。それも亦あらゆる新事業のやうに(文芸上の)決して容易に出来るものではない。僕は「新感覚派」の作家たちの作品に、――と云ふよりも彼等の所謂「新感覚」に必しも敬服し難いことは前に書いた通りである。が、彼等の作品に対する批評家たちの批評も亦恐らくは苛酷に失してゐるであらう。「新感覚派」の作家たちは少くとも新らしい方向へ彼等の歩みを運んでゐる。それだけは何びとも認めなければならぬ。この努力を一笑してしまふのは単に今日「新感覚派」と呼ばれる作家たちに打撃を与へるばかりではない。彼等の今後の成長の上にも、引いては彼等の後に来る「新感覚派」の作家たちのしつかりと目標を定める上にもやはり打撃を与へるであらう。それは勿論日本の文芸を伸び伸びと進歩させる所以ではあるまい。
 しかし何と呼ばれるにもせよ、所謂「新感覚」を持つた作家たちは必ず今後も現れるであらう。僕はもう十年あまり前、確か久米正雄氏と一しよに「草土社《さうどしや》」の展覧会を見物した後、久米氏の「この庭の檜《ひ》の木《き》を見ても、『草土社』的に見えるのは不思議だよ」と感心してゐたことを覚えてゐる。「草土社」的に見えるのは正に十年あまり以前の所謂「新感覚」の為に外ならなかつた。かう云ふ所謂「新感覚」を明日の作家たちに期待するのは必しも僕の早計ばかりではあるまい。
 若し真に文芸的に「新しいもの」を求めるとすれば、それは或はこの所謂「新感覚」の外にないかも知れない。(新しいことなどは何でもないと云ふ議論は勿論この問題の埒外《らちぐわい》にある訣である。)所謂「目的意識」を持つた文芸さへ「目的意識」そのものの新旧を暫く問はないとすれば、(たとひ新旧を問つたとしても、バアナアド・シヨウの現れたのは千八百九十年代である。)実は大勢の前人の歩いて行つた道である。況《いはん》や僕等の人生観は、――恐らくは「いろは骨牌《がるた》」の中に悉《ことごと》く数へ上げられてゐることであらう。のみならずそれ等の新旧は文芸的な――或は芸術的な新旧ではない。
 僕は所謂「新感覚」の如何に同時代の人々に理解されないかを承知してゐる。たとへば佐藤春夫氏の「西班牙犬《スペインいぬ》の家」は未だに新しさを失つてゐない。況や同人雑誌「星座」(?)に掲げられた頃はどの位新しかつたことであらう。しかしこの作品の新しさは少しも文壇を動かさずにしまつた。僕は或はその為に佐藤氏自身さへこの作品の新しさを――引いてはこの作品の価値を疑つてゐはしなかつたかと思つてゐる。かう云ふ事実は日本以外にも勿論未だに多いことであらう。しかし殊に甚《はなはだ》しいのは僕等の日本ではないであらうか?

     三十四 解嘲

 僕は何度も繰り返して言ふやうに「筋のない小説」ばかり書けと言つてゐる訣《わけ》ではない。従つて何も谷崎潤一郎氏と対蹠点《たいせきてん》に立つてゐる訣ではない。唯かう云ふ小説の価値も認めて貰ひたいと言つてゐるのである。若し全然認めない論者があるとすれば、その論者こそ真に論敵である。僕は谷崎氏と議論を上下する上に誰にも僕の肩を持つて貰ひたくない。(同時に又谷崎氏の肩を持つて貰ひたくないことも勿論である。)僕等の議論の是非を弁ずるのでないことは僕等自身誰よりも知つてゐるつもりである。僕はこの頃雑誌の広告などに僕の「筋のある[#「ある」に傍点]小説」さへ「筋のない[#「ない」に傍点]小説」と云ふ名をつけられてゐるのを見、俄《には》かにこの文章を作ることにした。「筋のない小説」とはどう云ふものかも容易に理解しては貰はれないらしい。僕は僕の弁じられるだけは弁じた。又二三の僕の知人は正当に僕の説を理解してゐる。あとはもう勝手にしろと言ふ外はない。

     三十五 ヒステリイ

 僕はヒステリイの療法にその患者の思つてゐることを何でも彼でも書かせる――或は言はせると云ふことを聞き、少しも常談《じやうだん》を交へずに文芸の誕生はヒステリイにも[#「にも」に傍点]負つてゐるかも知れないと思ひ出した。虎頭燕頷《ことうえんがん》の羅漢《らかん》は暫く問はず、何びとも多少はヒステリツクである。殊に詩人たちは余人よりもはるかにヒステリツクな傾向を持つてゐるであらう。このヒステリイは三千年来いつも彼等を苦しめつづけた。彼等の或ものはその為に死し、又彼等の或ものはその為にとうとう発狂してしまつたであらう。が、彼等はその為に彼等の喜びや悲しみを一生懸命にうたひ上げた。――かうも決して考へられないことはない。
 若し殉教者《じゆんけうしや》や革命家の中に或種のマゾヒストを数へ得られるとすれば、詩人たちの中にもヒステリイの患者は必しも少くはないであらう。「書かずにはゐられぬ心もち」は、即ち樹下の穴の中へ「王様の耳は馬の耳」と叫んだ神話中の人物の心もちである。若しこの心もちがなかつたとしたならば、少くとも「痴人の告白」(ストリントベリイ)などは生まれなかつたのに違ひない。のみならずかう云ふヒステリイは往々一時代を風靡《ふうび》してゐる。「ウエルテル」や「ルネ」を生んだのもやはりこの時代的ヒステリイであらう。更に又全ヨオロツパを挙げて十字軍に加はらせたのも、――しかしそれは「文芸的な、余りに文芸的な」問題ではないかも知れない。癲癇《てんかん》は古来「神聖な病」と云ふ名を与へられてゐる。するとヒステリイもことによれば、「詩的な病」と呼ばれるであらう。
 ヒステリイを起してゐるシエクスピイアやゲエテを想像するのは滑稽である。従つてかう云ふ想像をするのは彼等の大を傷けると思はれるかも知れない。が、彼等の大を成すものはこのヒステリイの外にある彼等の表現力そのものである。彼等の何度ヒステリイを起したかは心理学者には或は問題であらう。しかし僕等の問題は表現力そのものに存してゐる。僕はこの文章を作りながら、ふと太古の森の中に烈しいヒステリイを起してゐる無名の詩人を想像した。彼は彼の部落の人々の嘲笑の的になつたであらう。けれどもこのヒステリイの促進した彼の表現力の産物だけは丁度地下の泉のやうに何代も後に流れて行つたであらう。
 僕はヒステリイを尊敬してゐるのではない。ヒステリツクになつたムツソリニは勿論国際的に危険である。けれども若し何びともヒステリイを起さなかつたとしたらば、僕等を喜ばせる文芸上の作品はどの位数を減じたであらう。僕は唯この為にヒステリイを弁護したいと思つてゐる。いつか女人の特権になつた、――しかし事実上何びとにも多少の可能性のあるヒステリイを。
 前世紀の末も文芸的には確かに時代的ヒステリイに陥《おちい》つてゐた。ストリントベリイは「青い本」の中にこの時代的ヒステリイに「悪魔の所為」の名を与へてゐる。悪魔の所為か善神の所為かは勿論僕の知る所ではない。しかし兎に角詩人たちはいづれもヒステリイを起してゐた。現にビルコフの伝記によれば、あの逞しいトルストイさへ半狂乱になつて家出したのは、つい近頃の新聞に出てゐた或女人のヒステリイ患者と殆ど寸分も変つてゐない。

     三十六 人生の従軍記者

 僕は島崎藤村氏のみづから「人生の従軍記者」と呼んでゐたことを覚えてゐる。が、近頃又広津|和郎《かずを》氏の同じ言葉を正宗白鳥氏にも加へてゐると云ふことを仄聞《そくぶん》した。僕は両氏の用ひられる「人生の従軍記者」と云ふ言葉をはつきり知つてゐない訣ではない。それは恐らくは近来の造語「生活者」に対する意味を持つてゐるのであらう。けれども若し厳密に言へば、苟《いやし》くも娑婆界《しやばかい》に生まれたからは何びとも「人生の従軍記者」になることは出来ない。人生は僕等に嫌応《いやおう》なしに「生活者」たることを強ひるのである。嫌応なしに生存競争を試みさせなければ措かないのである。或人びとは自ら進んで勝利を得ようとするであらう。それから又或人びとは冷笑や機智や詠嘆の中に防禦的態度をとるであらう。最後に或人びとはどちらも格別はつきりした意識を持たずに「世を渡る」であらう。しかしいづれも事実上はやむにやまれない「生活者」である。遺伝や境遇の支配を受けた人間喜劇の登場人物である。
 彼等の或ものは勝ち誇るであらう。彼等の或ものは又敗北するであらう。但しどちらも寿命のある限りは、――僕等は皆ペエタアの言つたやうに確かに「いづれも皆執行猶予中の死刑囚である」。この執行猶予の間を何の為に使ふかは僕等自身の自由である。自由である?――しかしそこにもどの位の自由のあるかは疑はしいであらう。僕等は実に種々雑多の因縁を背負つて生まれてゐる。その又種々雑多の因縁は必しも僕等自身さへ悉《ことごと》く意識するとは定まつてゐない。古人はとうにこの事実を Karma の一語に説明した。あらゆる近代の理想主義者たちは大抵このカルマに挑戦してゐる。しかし彼等の旗や槍は畢《つひ》に彼等のエネルギイを示したのにとどまるばかりだつた。彼等のエネルギイを示すことはそれ自身勿論意味を持つてゐる。単に近代の理想主義者たちばかりではない。僕等はカアネギイのエネルギイにも力丈夫に感ずることは確かである。若し力丈夫に感じないとすれば、誰も実業家や政治家の立志譚《りつしだん》は読みたがりはしないであらう。しかしカルマはその為に少しも脅威を失つたのではない。カアネギイのエネルギイを生んだものはカアネギイの背負つて来たカルマである。僕等は皆僕等のカルマの為に頭を下げる外はないであらう。若し僕等に、――少くとも僕に「あきらめ」の天恵の下るとすれば、それは唯ここにだけある訣である。
 僕等は皆多少の「生活者」である。従つて逞ましい「生活者」にはおのづから敬意を生ずるものである。即ち僕等の永遠の偶像は戦闘の神マルスに帰らざるを得ない。カアネギイは暫く問はず、ニイチエの「超人」も一皮|剥《は》いで見れば、実にこのマルスの転身だつた。ニイチエのセザアル・ボルヂアにも讃嘆の声を洩らしたのは偶然ではない。正宗白鳥氏は「光秀と紹巴《せうは》」の中に「生活者」中の「生活者」だつた光秀に紹巴を嘲《あざけ》らせてゐる。(かう云ふ正宗白鳥氏の「人生の従軍記者」と呼ばれるのは正に逆説的であると云はなければならぬ。)これは一光秀の嘲笑ではない。僕等は何も考へずにいつもかう云ふ嘲笑を放つてゐるのである。
 僕等の悲劇は、――或は喜劇はこの「人生の従軍記者」にとどまり難いことに潜んでゐる。しかも僕等「生活者」のカルマを背負つてゐることに潜んでゐる。けれども芸術は人生ではない。ヴイヨンは彼の抒情詩を残す為に「長い敗北」の一生を必要とした。敗るる者をして敗れしめよ。彼は社会的習慣即ち道徳に背くかも知れない。或は又法律にも背くことであらう。況や社会的礼節には人一倍余計に背く筈である。それ等の約束に背いた罰は勿論彼自身に背負はなければならぬ。社会主義者バアナアド・シヨウは彼の「医者のデイレンマ」の中に不徳義な天才を救ふよりも平凡な医者を救ひ上げることにした。シヨウの態度は少くとも合理的であると言はなければならぬ。僕等は博物館の硝子戸《ガラスど》の中に剥製《はくせい》の鰐《わに》を見ることを愛してゐる。しかし一匹の鰐を救ふよりも一匹の驢馬を救ふことに全力を尽すのに不思議はない。動物愛護会も未だ嘗《かつて》猛獣毒蛇を愛護するほど寛大ではないのはこの為であらう。が、それは人生に於ける、言はば Home Rule の問題である。もう一度ヴイヨンを例に引けば、彼は第一流の犯罪人だつたものの、やはり第一流の抒情詩人だつた。
 或女人は「わたしの一家に天才のないことは仕合せです」と言つた。しかもその「天才」と云ふ言葉は少しも皮肉な意味を持つてゐなかつた。僕も亦僕の一家に天才のないことに安んじてゐる。(勿論僕のかう云ふのは天才の属性に背徳性を数へてゐる訣でも何でもない。)田園や市井の人々には古今の天才たちよりも「生活者」の美徳を具へてゐるものも多いであらう。紅毛人は「人として」の名のもとに度《たび》たび古今の天才たちの中にも「生活者」の美徳を数へてゐる。が、僕はこの新らしい偶像崇拝も信用してゐない。「芸術家として」のヴイヨンは暫く問はず、「芸術家として」のストリントベリイは僕等の愛読に価してゐる。しかし「人として」のストリントベリイは、――恐らくは僕の尊敬する批評家XYZ君よりもはるかにつき合ひ悪《にく》いことであらう。従つて僕等の文芸上の問題はいつも畢《つひ》に「この人を見よ」ではない。寧ろ「これ等の作品を見よ」である。尤も「これ等の作品を見よ」と言つても、何世紀かは大河のやうにこれ等の作品を見る前に流れ去つてしまふであらう。しかもその又何世紀かは或は一本の藁《わら》のやうにこれ等の作品を忘却の中へずんずん押し流してしまふであらう。若し芸術至上主義を信じないとすれば、(かう云ふ信仰を持つてゐることは必ずしも食ふ為に書いてゐることと矛盾しない。少くとも食ふ為にばかり[#「にばかり」に傍点]書いてゐない限りは。)詩を作るのは古人も言つたやうに田を作るのに越したことはない。
 僕は島崎藤村氏は勿論、正宗白鳥氏も「人生の従軍記者」でないことを信じてゐる。如何に両大家の才力を以てしても、古来一人もゐなかつたものに忽ちなつてしまふ道理はない。僕等は皆僕等の中に「光秀と紹巴《せうは》」とを持ち合せてゐる。少くとも僕は僕自身に関することには多少の紹巴になる代りに僕以外の人々に関することには多少の光秀になる傾向を持ち合せてゐる。従つて僕の中《うち》の光秀は必ずしも僕の中の紹巴を嘲笑しない。けれども幾分か嘲笑したい心もちのあることは確かである。

     三十七 古典

「選ばれたる少数」とは必しも最高の美を見ることの出来る少数かどうかは疑はしい。寧ろ或作品に現れた或作者の心もちに触れることの出来る少数であらう。従つてどう云ふ作品も、――或は又どう云ふ作品の作者も「選ばれたる少数」以外に読者を得ることの出来るものではない。が、それは「選ばれざる多数の読者」を得ることと少しも矛盾してゐないのである。僕は「源氏物語」を褒《ほ》める大勢の人々に遭遇した。が、実際読んでゐるのは(理解し、享楽してゐるのを問はないにもせよ)僕と交つてゐる小説家の中《うち》ではたつた二人、――谷崎潤一郎氏と明石敏夫氏とばかりだつた。すると古典と呼ばれるのは或は五千万人中|滅多《めつた》に読まれない作品かも知れない。
 しかし万葉集は源氏物語よりもはるかに大勢に読まれてゐる。それは必しも万葉集の源氏物語を抜いてゐる所以《ゆゑん》ではない。のみならず又両者の間に散文と韻文と云ふ掘割りの横はつてゐる所以でもない。単に万葉集中の作品は一つ一つとり離して見れば、源氏物語よりもずつと短いからである。元来東西の古典のうち、大勢の読者を持つてゐるものは決して長いものではない。少くとも如何に長いにもせよ、事実上短いものの寄せ集めばかりである。ポオは詩の上にこの事実に依つた彼の原則を主張した。それからビイアス(Ambrose Bierce)は散文の上にもやはりこの事実に依つた彼の原則を主張した。僕等東洋人はかう云ふ点では理智よりも知慧に導かれ、おのづから彼等の先駆をなしてゐる。が、生憎《あいにく》彼等のやうに誰もかう云ふ事実に依つた理智的建築を築いたものはなかつた。若しこの建築を試みるとすれば、長篇源氏物語さへ少くとも声価を失はない点では丁度善い材料を与へたであらうに。(しかし東西両洋の差はポオの詩論にも見えないことはない。彼は彼是《かれこれ》百行の詩を丁度善い長さに数へてゐる。十七音の発句などは勿論彼には「エピグラム的」の名のもとに排斥されることであらう。)
 あらゆる詩人の虚栄心は言明すると否とを問はず、後代に残ることに執《しふ》してゐる。いや、「あらゆる詩人の虚栄心は」ではない。「彼等の詩を発表した、あらゆる詩人の虚栄心は」である。一行の詩も作らずに彼自身の詩人であることを知つてゐる人々もないことはない。(彼等は大小は暫く問はず、彼等の詩的生涯の上に最も平和だつた詩人たちである。)しかし性格や境遇の為に兎に角韻文か散文かの詩を作つてしまつた人々だけに詩人の名を与へるとすれば、あらゆる詩人たちの問題は恐らくは「何を書き加へたか」よりも「何を書き加へなかつた[#「なかつた」に傍点]か」にある訣であらう。それは勿論原稿料による詩人たちの生活に不便である。若し不便であるとすれば、――封建時代の詩人、石川|六樹園《ろくじゆゑん》は同時に又宿屋の主人だつた。僕等も売文と云ふことさへなければ、何か商売を見つけるかも知れない。僕等の経験や見聞《けんもん》もその為に或は広まるであらう。僕は時々売文だけでは活計を立てることの出来なかつた昔に多少の羨《うらやま》しさを感じてゐる。しかしかう云ふ現世も亦後代には古典を残してゐるであらう。勿論食ふ為に書いたものも古典にならないと限つた訣ではない。(若し或作家の姿勢として見れば、唯「食ふ為に書いてゐる」のは最も趣味の善い姿勢である。)唯アナトオル・フランスの言つたやうに後代へ飛んで行く為には身軽であることを条件としてゐる。すると古典と呼ばれるものは或はどう云ふ人々にも容易に読み通し易いものかも知れない。

     三十八 通俗小説

 所謂《いはゆる》通俗小説とは詩的性格を持つた人々の生活を比較的に俗に書いたものであり、所謂芸術小説とは必しも詩的性格を持つてゐない人々の生活を比較的詩的に書いたものである。両者の差別は誰でも言ふやうにはつきりしてゐないのに違ひない。けれども所謂通俗小説中の人々は確かに詩的性格の持ち主である。これは決して逆説ではない。若し逆説的であるとすれば、かう云ふ事実そのものの逆説的に出来てゐる為である。唯何びとも青年時代には多少彼の性格の上に詩的陰影を落し易い。しかしそれは年をとるのにつれ、次第に失はれてしまふのである。(抒情詩人はこの点では実に永遠の少年である。)従つて所謂通俗小説中の人々は老人ほど滑稽に陥り易い。(但しこの所謂通俗小説は探偵小説や大衆文芸を含んでゐない。)
 追記。この文章を草し終つた後、僕は新潮座談会に出席した為に鶴見|祐輔《いうすけ》氏の啓発を受け、所謂通俗小説と紅毛人の所謂 Popular novel との差別を考へ出した。僕は所謂通俗小説論はポピユラア・ノヴエルには通用しない。ベンネツト(Arnold Bennett)は彼のポピユラア・ノヴエルに Fantasies の名を与へてゐる。それは事実上あり得ない世界を読者の為に広げて見せるからであらう。かう云ふ意味は必しも幻怪の気のあると云ふ意味ではない。唯人物なり事件なりの上に文芸的に[#「文芸的に」に傍点]真の刻印を打つてゐない世界と云ふ意味であらう。

     三十九 独創

 現世は明治大正の芸術上の総決算をしてゐる。なぜかは僕の知る所ではない。何の為かも僕には不可解である。しかし現代日本文学全集と云ひ、明治大正文学全集と云ふ文芸上の総決算は勿論、明治大正名作展覧会も亦やはり絵画上の総決算である。僕はこれ等の総決算を見、如何に独創と云ふことの困難であるかと云ふことを感じた。古人の糟粕《さうはく》を嘗《な》めないなどとは誰でも易々と放言し易い。が、彼等の仕事を見ると、(或は仕事を見てもかも知れない。)今更のやうに独創と云ふことの手軽に出来ないのを感じるのである。
 僕等はたとひ意識しないにもせよ、いつか前人の蹤《あと》を追つてゐる。僕等の独創と呼ぶものは僅かに前人の蹤を脱したのに過ぎない。しかもほんの一歩位、――いや、一歩でも出てゐるとすれば、度たび一時代を震《ふる》はせるのである。のみならず故意に叛逆すれば、愈《いよいよ》前人の蹤を脱することは出来ない。僕は義理にも芸術上の叛逆に賛成したいと思ふ一人である。が、事実上[#「事実上」に傍点]叛逆者は決して珍らしいものではない。或は前人の蹤を追つたものよりも遙かに多いことであらう。彼等は成程叛逆した。しかし何に叛逆するかをはつきりと感じて[#「感じて」に傍点]ゐなかつた。大抵彼等の叛逆は前人よりも前人の追従者に対する叛逆である。若し前人を感じてゐた[#「感じてゐた」に傍点]とすれば、――彼等はそれでも反叛《はんぱん》したかも知れない。けれどもそこには必然に前人の蹤を残してゐるであらう。伝説学者は海彼岸《かいひがん》の伝説の中に多数の日本の伝説のプロトタイプを発見してゐる。芸術も亦|穿鑿《せんさく》して見れば、やはり粉本《ふんぽん》に乏しくない。(僕は前にも言つたやうに必しも作家たちは彼等の粉本を用ひてゐないことを意識してゐなかつたことを信じてゐる。)芸術の進歩も――或は変化も如何に大人物を待つたにもせよ、一足飛びには面目を改めないのである。
 しかしこの遅い歩みの中にも多少の変化を試みたものは僕等の尊敬に価してゐる。(菱田春草《ひしだしゆんさう》はこの一人だつた。)新時代の青年たちは独創の力を信じてゐるであらう。僕はそのいやが上にも信じることを望んでゐる。多少の変化はそこ以外にどこにも生じて来るものではない。昔から世界には前人の造つた大きな花束が一つあつた。その花束へ一本の花を※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2-13-28]《さ》し加へるだけでも大事業である。その為には新らしい花束を造る位の意気込みも必要であらう。この意気込みは或は錯覚かも知れない。が、錯覚と笑つてしまへば、古来の芸術的天才たちもやはり錯覚を追つてゐたのであらう。
 唯この意気込みにもはつきりと錯覚を認めるものは不幸である。はつきりと錯覚を認めるものは?――しかし彼等も亦おのづから多少の錯覚を持つてゐるかも知れない。僕はかう云ふ問題には何とも言はれない一人である。けれども明治大正の芸術上の総決算を見、如何に独創と云ふことの容易に出来ないかを感じずにはゐられなかつた。明治大正名作展覧会を観た人々はいろいろの画の可否を論じてゐる。しかし少くとも僕一人は可否を論じてゐる余裕さへない。

     四十 文芸上の極北

 文芸上の極北は――或は最も文芸的な文芸は僕等を静かにするだけである。僕等はそれ等の作品に接した時には恍惚《くわうこつ》となるより外に仕かたはない。文芸は――或は芸術はそこに恐しい魅力を持つてゐる。若しあらゆる人生の実行的側面を主とするとすれば、どう云ふ芸術も根柢には多少僕等を去勢する力を持つてゐるとも言はれるであらう。
 ハイネはゲエテの詩の前に正直に頭を垂れてゐる。が、円満具足したゲエテの僕等を行動に駆りやらないことに満腔《まんかう》の不平を洩らしてゐる。これは単にハイネの気もちと手軽に見て通ることの出来るものではない。ハイネはこの「ドイツ・ロマン主義運動」の一節の中《うち》に芸術の母胎へ肉迫してゐる。あらゆる芸術は芸術的になるほど、僕等の情熱(実行的な)を静まらせてしまふ。この力の支配を受けたが最後、容易にマルスの子になることは出来ない。そこに安住出来るものは――純一無雑の芸術家たちは勿論、阿呆たちもやはり幸福である。しかしハイネは不幸にもかう云ふ寂光土《じやくくわうど》を得られなかつた。
 僕はプロレタリアの戦士諸君の芸術を武器に選んでゐるのに可也《かなり》興味を持つて眺めてゐる。諸君はいつもこの武器を自由自在に揮《ふる》ふであらう。(勿論ハイネの下男ほども揮ふことの出来ないものは例外である。)しかし又この武器はいつの間にか諸君を静かに立たせるかも知れない。ハイネはこの武器に抑へられながら、しかもこの武器を揮つた一人である。ハイネの無言の呻吟は或はそこに潜んでゐたであらう。僕はこの武器の力を僕の全身に感じてゐる。従つて諸君のこの武器を揮ふのも人ごとのやうには眺めてゐない。就中《なかんづく》僕の尊敬してゐる一人はかう云ふ芸術の去勢力を忘れずにこの武器を揮つて貰ひたいと思つてゐた。が、それは仕合せにも僕の期待通りになつたやうである。
 他人は或はかう云ふことも一笑に附してしまふであらう。それは僕も覚悟の前である。僕の見る所は浅いかも知れない。よし又浅くなかつたにしろ、十年前の経験は一人の言葉の他人には容易にのみこまれないのを教へてゐる。しかし僕は兎も角も人並みに努力をつづけながら、やつとこの芸術の去勢力の大きいことに気づき出した。従つて唯これだけのことでも僕にはやはり一大事である。文芸の極北はハイネの言つたやうに古代の石人と変りはない。たとひ微笑は含んでゐても、いつも唯冷然として静かである。
[#地から2字上げ](昭和二年二月―七月)



底本:「現代日本文学大系 43 芥川龍之介集」筑摩書房
   1968(昭和43)年8月25日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年2月2日公開
2004年3月16日修正
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