青空文庫アーカイブ

僕は
芥川龍之介

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)彼是《かれこれ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)自己|嫌悪《けんを》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]
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[#ここから4字下げ]
誰でもわたしのやうだらうか?――ジュウル・ルナアル
[#ここで字下げ終わり]

 僕は屈辱を受けた時、なぜか急には不快にはならぬ。が、彼是《かれこれ》一時間ほどすると、だんだん不快になるのを常としてゐる。
     ×
 僕はロダンのウゴリノ伯を見た時、――或はウゴリノ伯の写真を見た時、忽ち男色《だんしよく》を思ひ出した。
     ×
 僕は樹木《じゆもく》を眺める時、何か我々人間のやうに前後《まへうし》ろのあるやうに思はれてならぬ。
     ×
 僕は時々暴君になつて大勢《おほぜい》の男女《なんによ》を獅子《しし》や虎に食はせて見たいと思ふことがある。が、膿盆《のうぼん》の中に落ちた血だらけのガアゼを見ただけでも、肉体的に忽ち不快になつてしまふ。
     ×
 僕は度たび他人のことを死ねば善《よ》いと思つたことがある。その又死ねば善いと思つた中には僕の肉親さへゐないことはない。
     ×
 僕はどう云ふ良心も、――芸術的良心さへ持つてゐない。が、神経は持ち合せてゐる。
     ×
 僕は滅多《めつた》に憎んだことはない。その代りには時々軽蔑してゐる。
     ×
 僕自身の経験によれば、最も甚しい自己|嫌悪《けんを》の特色はあらゆるものに※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]《うそ》を見つけることである。しかもその又発見に少しも満足を感じないことである。
     ×
 僕はいろいろの人の言葉にいつか耳を傾けてゐる。たとへば肴屋《さかなや》の小僧などの「こんちはア」と云ふ言葉に。あの言葉は母音《ぼいん》に終つてゐない、ちよつと羅馬字《ロオマじ》に書いて見れば、Konchiwaas と云ふのである。なぜ又あの言葉は必要もないSを最後に伴《ともな》ふのかしら。
     ×
 僕はいつも僕一人ではない。息子《むすこ》、亭主、牡《をす》、人生観上の現実主義者、気質上のロマン主義者、哲学上の懐疑主義者|等《とう》、等、等、――それは格別|差支《さしつか》へない。しかしその何人かの僕自身がいつも喧嘩するのに苦しんでゐる。
     ×
 僕は未知《みち》の女から手紙か何か貰つた時、まづ考へずにゐられぬことはその女の美人かどうかである。
     ×
 あらゆる言葉は銭のやうに必ず両面を具へてゐる。僕は彼を「見えばう」と呼んだ。しかし彼はこの点では僕と大差のある訣《わけ》ではない。が、僕自身に従へば、僕は唯「自尊心の強い」だけである。
     ×
 僕は医者に容態を聞かれた時、まだ一度も正確に僕自身の容態を話せたことはない。従つて※[#「言+墟のつくり」、第4水準2-88-74]《うそ》をついたやうな気ばかりしてゐる。
     ×
 僕は僕の住居《すまひ》を離れるのに従ひ、何か僕の人格も曖昧《あいまい》になるのを感じてゐる。この現象が現れるのは僕の住居を離れること、三十|哩《マイル》前後に始まるらしい。
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 僕の精神的生活は滅多《めつた》にちやんと歩いた[#「歩いた」に傍点]ことはない。いつも蚤のやうに跳ねる[#「跳ねる」に傍点]だけである。
     ×
 僕は見知越しの人に会ふと、必ずこちらからお時宜《じぎ》をしてしまふ。従つて向うの気づかずにゐる時には「損をした」と思ふこともないではない。[#地から1字上げ](大正一五・一二・四)



底本:「芥川龍之介作品集第四巻」昭和出版社
   1965(昭和40)年12月20日発行
※底本の「羅馬字《ロオてじ》」は、「羅馬字《ロオマじ》」にあらためました。
入力:j.utiyama
校正:かとうかおり
1999年1月27日公開
2003年10月20日修正
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