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木魂《すだま》
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)木魂《すだま》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)五|勺《しゃく》ばかり

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)(A2-B2)[#2つの「2」は上付き小文字]
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 ……俺はどうしてコンナ処に立ち佇《ど》まっているのだろう……踏切線路の中央《まんなか》に突立って、自分の足下をボンヤリ見詰めているのだろう……汽車が来たら轢《ひ》き殺されるかも知れないのに……。
 そう気が付くと同時に彼は、今にも汽車に轢かれそうな不吉な予感を、背中一面にゾクゾクと感じた。霜《しも》で真白になっている軌条の左右をキョロキョロと見まわした。それから度の強い近眼鏡の視線を今一度自分の足下に落すと、霜混《しもまじ》りの泥と、枯葉にまみれた兵隊靴で、半分腐りかかった踏切板をコツンコツンと蹴《け》ってみた。それから汗じみた教員の制帽を冠《かぶ》り直して、古ぼけた詰襟《つめえり》の上衣《うわぎ》の上から羊羹《ようかん》色の釣鐘マントを引っかけ直しながら、タッタ今通り抜けて来た枯木林の向うに透いて見える自分の家の亜鉛《トタン》屋根を振り返った。
 ……一体俺は、今の今まで何を考えていたのだろう……。
 彼はこの頃、持病の不眠症が嵩《こう》じた結果、頭が非常に悪《わ》るくなっている事を自覚していた。殊に昨日は正午過ぎから寒さがグングン締まって来て、トテモ眠れそうにないと思われたので、飲めもしない酒を買って来て、ホンの五|勺《しゃく》ばかり冷《ひや》のまま飲んで眠ったせいか、今朝《けさ》になってみると特別に頭がフラフラして、シクンシクンと痛むような重苦しさを脳髄の中心に感じているのであった。その頭を絞るように彼は、薄い眉《まゆ》をグット引寄せながら、爪先《つまさき》に粘《ねば》り付いている赤い泥を凝視《みつ》めた。
 ……おかしいぞ。今朝は俺の頭がヨッポドどうかしているらしいぞ……。
 ……俺は今朝、あの枯木林の中の亜鉛葺《トタンぶき》の一軒屋の中で、いつもの通りに自炊の後始末をして、野良《のら》犬が這入《はい》らないようにチャント戸締りをして、ここまで出かけて来たことは来たに相違ないのだが、しかし、それから今までの間じゅう、俺は何を考えていたのだろう。……何か知らトテモ重大な問題を一生懸命に考え詰めながら、ここまで来たような気もするが……おかしいな。今となってみるとその重大な問題の内容を一つも思い出せなくなっている……。
 ……おかしい……おかしい……。何にしても今朝はアタマが変テコだ。こんな調子では又、午後の時間に居眠りをして、無邪気な生徒たちに笑われるかも知れないぞ……。
 彼はそんな事を取越苦労しいしい上衣の内ポケットから大きな銀時計を出してみると、七時四十分キッカリになっていた。
 彼はその8の処に固まり合っている二本の針と、チッチッチッチッと廻転している秒針とを無意識にジーッと見比《みくら》べていた……が……やがて如何《いか》にも淋《さび》しそうな……自分自身を嘲《あざけ》るような微苦笑を、度の強い近眼鏡の下に痙攣《けいれん》させた。
 ……ナーンだ。馬鹿馬鹿《ばかばか》しい。何でもないじゃないか。
 ……俺は今学校に出かける途中なんだ。……今朝は学課が初まる前に、調べ残しの教案を見ておかなければならないと思って、午後の時間の睡《ね》むいのを覚悟の前で、三十分ばかり早めに出て来たのだ。しかも学校まではまだ五|基米《キロ》以上あるのだから、愚図愚図《ぐずぐず》すると時間の余裕が無くなるかも知れない……だから俺はここに立佇《たちど》まって考えていたのだ。国道へ出て本通りを行こうか、それとも近道の線路伝いにしようかと迷いながら突立っていたものではないか……。
 ……ナーンだ。何でもないじゃないか……。
 ……そうだ。とにかく鉄道線路を行こう。線路を行けば学校まで一直線で、せいぜい三|基米《キロ》ぐらいしか無いのだから、こころもち急ぎさえすれば二十分ぐらいの節約は訳なく出来る……そうだ……鉄道線路を行こう……。
 彼はそう思い思い今一度ニンマリと青黒い、髯《ひげ》だらけの微苦笑をした。三角形に膨《ふく》らんだボクスの古鞄《ふるかばん》を、左手にシッカリと抱き締めながら、白い踏切板の上から半身を傾けて、やはり霜を被《かぶ》っている線路の枕木の上へ、兵隊靴の片足を踏み出しかけた。
 ……が……又、ハッと気が付いて踏み留《とど》まった。
 彼はそのまま右手をソット額《ひたい》に当てた。その掌《てのひら》で近眼鏡の上を蔽《おお》うて、何事かを祈るように、頭をガックリとうなだれた。
 彼は、彼自身がタッタ今、鉄道踏切の中央に立佇まっていたホントの理由を、ヤット思い出したのであった。そうして彼を無意識のうちに踏切板の中央へ釘付けにしていた、或る「不吉な予感」を今一度ハッキリと感じたのであった。
 彼は今朝眼を醒《さ》まして、あたたかい夜具の中から、冷《つ》めたい空気の中へ頭を突き出すと同時に、二日酔らしいタマラナイ頭の痛みを感じながら起き上ったのであったが、又、それと同時に、その頭の片隅で……俺はきょうこそ間違いなく汽車に轢き殺されるのだぞ[#「俺はきょうこそ間違いなく汽車に轢き殺されるのだぞ」に傍点]……といったようなハッキリした、気味の悪い予感を感じながら、冷たい筧《かけひ》の水でシミジミと顔を洗ったのであった。それから大急ぎで湯を湧《わ》かして、昨夜《ゆうべ》の残りの冷飯《ひやめし》を掻込《かきこ》んで、これも昨夜のままの泥靴をそのまま穿《は》いて、アルミの弁当箱を詰めた黒い鞄を抱え直し抱え直し、落葉まじりの霜の廃道を、この踏切板の上まで辿《たど》って来たのであったが、そこで真白い霜に包まれた踏切板の上に、自分の重たい泥靴がベタリと落ちた音を耳にすると、その一|刹那《せつな》に今一度、そうした不吉な、ハッキリした予感と、その予感に脅《おび》やかされつつある彼の全生涯とを、非常な急速度で頭の中に廻転させたのであった。そうしてそのまま踏切を横切って、大急ぎで国道を廻《ま》わろうか。それとも思い切って鉄道線路を伝って行こうかと思い迷いながらも、なおも石像のように考え込んでいる自分自身の姿を眼の前に幻視しつつ、そうした気味の悪い予感に襲われるようになった、そのソモソモの不可思議な因縁《いんねん》を考え出そう考え出そうと努力しているのであった。

 彼がこうした不可思議な心理現象に襲われ初めたのは昨日《きのう》今日《きょう》の事ではなかった。
 昨年の正月から二月へかけて彼は、最愛の妻と一人子を追い継ぎに亡くしたのであったが、それからというものは彼は殆《ほと》んど毎朝のように……きょうこそ……今日こそ間違いなく汽車に轢《ひ》き殺される……といったような、奇妙にハッキリした予感を受け続けて来たものであった。しかし、それでもそのたんびに頭の単純な彼は、一種の宿命的な気持ちを含んだ真剣な不安に襲われながらも、踏切の線路を横切るたんびに、恐る恐る左右を見まわし見まわし、国道伝いに往復したせいであったろう。夕方になると、そんな不安な感じをケロリと忘れて、何事もなく山の中の一軒屋に帰って来るのであった。そうして無けなしの副食物《おかず》と鍋飯《なべめし》で、貧しい夕食を済ますと、心の底からホッとした、一日の労苦を忘れた気持ちになって、彼が生涯の楽しみにしている「小学算術教科書」の編纂《へんさん》に取りかかるのであった。
 しかし彼は、そうした不思議な心理現象に襲われる原因を、彼自身の神経衰弱のせいとは決して思っていなかった。むしろ彼が子供の時分から持っている一種特別の心理的な敏感さが、こうした神秘的な予感の感受性にまで変化して来たものと思い込んでいた。
 ……という理由は、ほかでもなかった。
 彼は、そうした意味で彼自身が、一種特別の奇妙な感受性の持主に相違ない……と信じ得る色々な不思議な体験を、十分……十二分に持っていたからであった。
 彼は元来、年老いた両親の一人息子で、生れ付きの虚弱児童であったばかりでなく、一種の風変りな、孤独を好む性質《たち》であったので、学校に行っても他の生徒と遊び戯《たわむ》れた事なぞは殆《ほと》んど無かった。その代りに学校の成績はいつも優等で、腕白連中に憎まれたり、いじめられたりする場合が多かったので、学校が済んで級長の仕事が片付くと、逃げるように家に帰って、門口から一歩も外に出ないような状態であった。
 けれども極く稀《まれ》にはタッタ一人で外に出ることも無いではなかった。それはいつでも極く天気のいい日に限られていて、行く先も山の中にきまり切っていた。……という理由は外《ほか》でもない。彼は生れつき山の中が性《しょう》に合っているらしいので、現在でもわざわざ学校から懸け離れた山の中の一軒屋に住んで、不自由な自炊生活をしている位であるが、こうした彼の孤独好きの性癖は既に既に、彼の少年時代から現われていたのであろう。青い空の下にクッキリと浮き立った山々の木立を、お縁側から眺めていると、子供心に呼びかけられるような気持になった。一方に彼の両親も亦《また》、引っこみ勝ちな彼の健康のために良いとでも思ったのであろう。そんな時には喜んで外出を許してくれたので、彼は中学校の算術教程とか、四則三千題とかいったようなものを一二冊ふところに入れて、近所の悪たれどもの眼を避けながら、程近い郊外を山の方へ出かけたものであった。
 それは十や十一の子供としてはマセ過ぎた散歩であったが、それでも山好きの彼にとっては、この上もない楽しみに違いなかった。彼はそうした散歩のお蔭で、そこいらの山の中の小径《こみち》という小径を一本残らず記憶《おぼ》え込んでしまっていた。どこにはアケビの蔓《つる》があって、どこには山の芋《いも》が埋まっている。人間の顔によく似た大岩がどこの藪《やぶ》の中に在って、二股《ふたまた》になった幹の間から桜の木を生やした大|榎《えのき》はどこの池の縁に立っているという事まで一々知っていたのは恐らく村中で彼一人であったろう。
 ところで彼は、そんな山歩きの途中で、雑木林の中なんぞに、思いがけない空地を発見する事がよくあった。それは大抵、一|反歩《たんぶ》か二反歩ぐらいの広さの四角い草原で、多分屋敷か、畠《はたけ》の跡だろうと思われる平地であったが、立木や何かに蔽《おお》われているために幾度も幾度も近まわりをウロ付きながら、永い事気付かずにいるような空地であった。そのまん中に立ちながら、そこいら中をキョロキョロ見まわしていると、山という山、丘という丘が、どこまでもシイーンと重なり合っていて、彼を取囲《とりかこ》む立木の一本一本が、彼をジイッと見守っているように思われて来る。足の下の枯葉がプチプチと微《かす》かな音を立てて、何となく薄気味が悪くなる位であった。
 そんな処を見付けると彼は大喜びで、その空地の中央の枯草に寝ころんで、大好きな数学の本を拡げて、六ケ《むずか》しい問題の解き方を考えるのであった。むろん鉛筆もノートも無しに空間で考えるので、解き方がわかると、あとは暗算で答を出すだけであったが、両親から呼ばれる気づかいは無いし、隣近所の物音も聞こえないのだから、頭の中が硝子《がらす》のように澄み切って来る。それにつれて家《うち》ではどうしても解けなかった問題が、スラスラと他愛《たあい》もなく解けて行くので、彼はトテモ愉快な気持になって時間の経《た》つのを忘れていることが多かった。
 ところが、そんな風に数学の問題に頭を突込んで一心になっている時に限って、思いもかけない背後《うしろ》の方から、ハッキリした声で……オイ……と呼びかける声が聞こえて、彼をビックリさせる事がよくあった。それは、むろん父親の声でもなければ先生の声でも、友達の声でもない。誰の声だか全くわからなかったが、しかし非常にハッキリしていた事だけは事実であった。ダシヌケに大きな声で……ウオイ……という風に……。だから彼はビックリして跳《は》ね起きながら振り返ってみると誰も居ない。雑木林がカーッと西日に輝いて、鳥の声一つ聞こえないのであった。
 それは実に不思議な、神秘的な心理現象であった。最初のうち彼は、そんな声を聞くたんびに髪の毛がザワザワとしたものであったが、しかし、それは一時的の神経作用といったようなものではなかったらしく、その後も同じような……又は似たような体験を幾度となく繰返したので、彼はスッカリ慣れっこになってしまったのであった。
 彼が、やはり数学の問題を考え考えしながら、山の中の細道をどこまでもどこまでも歩いて行くと、いつからともなく向うの方から五六人か七八人位の人数《にんず》でガヤガヤと話しながら、こっちの方へ来る声が聞こえ初める。むろんその道が一本道になっていることを彼は知っているし、遣《や》って来る連中は大人に違いないのだから、その連中に行遭《ゆきあ》ったら、道傍《みちばた》の羊歯《しだ》の中へでも避けてやる気で、やはり数学の問題を考え考え一本道を近付いて行くと、不思議なことにどこまで行ってもその話声の主人公の大人たちに行き遭わない。何だか可笑《おか》しい。変だな……と思ううちに、その細い一本道はおしまいになって、広い広い田圃《たんぼ》を見晴らした国道の途中か何かにヒョッコリ出てしまうのであった。ちょうど向うから来ていた大勢の人間が、途中で虚空《こくう》に消え失《う》せたような気持であった。
 それは決して気のせいでもなければ神経作用とも思えなかった。たしかに、そんな声が聞こえるのであった。ちょうど一心に考え詰めているこちらの暗い気持と正反対の、明るいハッキリした声が聞こえて来るので、気にかけるともなく気にかけていると、そのうちに何かしらハッと気が付くと同時に、その声もフッツリと消え失せるような場合が非常に多いのであった。
 しかし元来が風変りな子供であった彼は、そんな不可思議現象を、ソックリそのまま不可思議現象として受入れて、山に行くのを気味悪がったり、又は両親や他人に話して聞かせるような事は一度もしなかった。そのうちに大きくなったら解《わ》かる事と思って、自分一人の秘密にしたまま、忘れるともなく次から次に忘れていた。そうして彼は、それから後、中学から高等学校を経て、大学から大学院まで行ったのであるが、そのうちに彼の両親は死んでしまった。それから妻のキセ子を貰《もら》ったり、太郎という長男が生まれたり、又は学士から、小学教員になりたいというので、色々と面倒な手続きをして、ヤットの思いで現在の小学校に奉職する事が出来たりしたものであったが、それ迄の間というもの学校の図書館や、人通りの無い国道や、放課後の教室の中なぞでも、幾度となくソンナような知らない声から呼びかけられる経験を繰返したのであった。
 しかし彼は、そんな体験を他人に話したことは依然として一度も無かった。ただそのうちにだんだんと年を取って来るにつれて、時々そんな事実にぶつかるたんびに、いくらかずつ気味が悪るくなって来たことは事実であった。……こんな体験を持っている人間は事に依《よ》ると俺ばかりじゃないかしらん。……他人がこんな不思議な体験をした話を、聞いたり読んだりした事が、今までに一度も無いのは何故《なぜ》だろう。……俺は小さい時から一種の精神異状者に生れ付いているのじゃないか知らん……なぞと内々《ないない》で気を付けるようになったものである。
 ところが、そのうちに、ちょうど十二三年ばかり前の結婚当時の事、宿直の退屈|凌《しの》ぎに、学校の図書室に這入《はい》り込んで、室の隅に積み重ねて在《あ》る「心霊界」という薄ッペラな雑誌を手に取りながら読むともなく読んでいると、思いがけもなく自分の体験にピッタリし過ぎる位ピッタリした学説を発見したので、彼はドキンとする程驚ろかされたものであった。
 それは旧|露西亜《ロシア》のモスコー大学に属する心霊学界の非売雑誌に発表された新学説の抄訳紹介で「自分の魂に呼びかけられる実例」と題する論文であったが、それを読んでみると、正体の無い声に呼びかけられた者は決して彼一人でないことがわかった。
「……何にも雑音の聞こえない密室の中とか、風の無い、シンとした山の中なぞで、或る事を一心に考え詰めたり、何かに気を取られたりしている人間は、色々な不思議な声を聞くことが、よくあるものである。現にウラルの或る地方では「木魂《すだま》に呼びかけられると三年|経《た》たぬうちに死ぬ」という伝説が固く信じられている位であるが、しかもその「スダマ」、もしくは「主《ぬし》の無い声」の正体を、心霊学の研究にかけてみると何でもない。それは自分の霊魂が、自分に呼びかける声に外《ほか》ならないのである。
 すなわち一切の人間の性格は、ちょうど代数の因子分解と同様な方式で説明出来るものである。換言すれば一個の人間の性格というものは、その先祖代々から伝わった色々な根性……もしくは魂の相乗積に外ならないので、たとえば(A2-B2)[#2つの「2」は上付き小文字]という性格は(A+B)という父親の性格と(A-B)という母親の性格が遺伝したものの相乗積に外ならない……と考えられるようなものである。ところでその(A2-B2)[#2つの「2」は上付き小文字]という全性格の中でも(A-B)という一因子《ワンファクター》……換言すれば母親から遺伝した、たとえば「数学好き」という魂が、その(A-B)的傾向……すなわち数学の研究慾に凝《こ》り固まって、どこまでも他の魂の存在を無視して、超越して行こうとするような事があると、アトに取り残された(A+B)という魂が、一人ポッチで遊離したまま、徐々と、又は突然に一種の不安定的な心霊作用を起して(A-B)に呼びかける……つまり一時的に片寄った(A-B)的性格を(A+B)の方向へ呼び戻して、以前の全性格(A2-B2)[#2つの「2」は上付き小文字]の飽和状態に立ち帰らせるべくモーションをかけるのだ。その魂の呼びかけが、そっくりそのまま声となって錯覚されるので、その声が普通の鼓膜から来た声よりズット深い意識にまで感じられて、人を驚ろかせ、怪しませるのは当然のことでなければならぬ」
 といったような論法で、生物の外見の上に現われる遺伝が、組合《くみあわせ》式、一列式、並列式、又は等比、等差なぞいう数理的な配合によって行われているところから説き初めて、精神、もしくは性格、習慣なぞいう心霊関係の遺伝も同様に、数理的の原則によって行われている事実にまで、幾多の犯罪者の家系を実例に挙げて説き及ぼしている。それから天才と狂人、幽霊現象、千里眼、予言者なぞいう高等数学的な心理の分解現象の実例を、詳細に亙《わた》って数理的に説明して在ったが、その中でも特別に彼がタタキ付けられた一節は、普通人と、天才と、狂人の心理分解の状態を、それぞれ数理的に比較研究する前提として掲げてある、次のような解説であった。
「……天才とか狂人とかいうものは詰まるところ、そうした自分の性格の中の色々な因子の中の或る一つか二つかを、ハッキリと遊離させる力が意識的、もしくは無意識的(病的)に強い人間を指して云うので、天才が狂人に近いという俗説も、斯様《かよう》に観察して来ると、極めて合理的に説明されて来るのである。……太陽を描《か》いて発狂したゴホや、モナ・リザの肖像を見て気が変になった数名の画家なぞはその好適例である。すなわち自分の魂をその絵に傾注し過ぎて、モトの通りのシックリした性格に帰れなくなったので、その結果スッカリ分裂して遊離してしまった個々別々の自分の魂から、夜も昼も呼びかけられるようになってしまったのだ。
 ……又、ベクリンという画伯は、自分に呼びかける自分の魂の姿を、骸骨がバイオリンを弾いている姿に描きあらわして不朽《ふきゅう》の名を残したものである。
 ……又、これを普通人の例に取って見ると、身体《からだ》が弱かったり、年を老《と》って死期が近付いたりした人間は、認識の帰納力とか意識の綜合力とかいったような中心主力《ドミナント》が弱って来る結果、意識の自然分解作用がポツポツあらわれ初める。時々、どこからか自分の声に呼びかけられるようになる。だから身体が弱かった場合か、又は相当年を老った人間で、正体の無い声に呼びかけられるような事があったならば、自分の死期の近づいた事に就いて慎重なる考慮をめぐらすべきである」云々《うんぬん》……。
 この論文の一節を読んだ時に彼は、思わずゾッとして首を縮めさせられた。生れ付き虚弱な上に、天才的な、極度に気の弱い性格を持っている彼が、そうした不可思議な現象に襲われる習慣を持っているのは、当然過ぎる位当然な事と思わせられた。そうしてそれ以来、普通人よりも天才とか狂人とかいう者の頭の方が合理的に動いているものではないか知らんと、衷心《ちゅうしん》から疑い出す一方に、時折り彼を呼びかけるその声が、果して自分の声だかどうだかを、的確に聞き分けてやろうと思って、ショッチュウ心掛けていたものであった。

 ところが、ここに又一つの奇蹟が現われた……というのは外でもない。その本を読んでからというもの、彼はどうしたものか、一度もそんな声にぶつからなくなってしまった事であった。ちょうど正体を看破された幽霊か何《なん》ぞのように、自分を呼びかける自分の声が、ピッタリと姿を見せなくなったので、この七八年というもの彼は忘れるともなしにソノ「自分を呼びかける自分の声」のことを忘れてしまっていた。もっともこの七八年というもの彼は、所帯を持ったり、子供は出来たりで、好きな数学の研究に没頭して、自分の魂を遊離させる機会が些《すく》なかったせいかも知れなかったが……。
 ところが又、その後になって、彼の妻と子供が死んで、ホントウの一人ポッチになってしまうと、不思議にも今云ったような心理現象が又もやハッキリと現われ出して、彼を驚かし初めたのであった。のみならずその声が彼にとっては実にたまらない、身を切るような痛切な形式でもって襲いかかりはじめたので、彼はモウその声に徹底的にタタキ付けられてしまって、息も吐《つ》かれない眼に会わせられることになったのであるが、しかも、そんな事になったそのソモソモの因縁を彼自身によくよく考え廻わしてみると、それはどうやら彼の亡くなった妻の、異常な性格から発端《ほったん》して来ているらしく思われたのであった。
 彼の亡くなった妻のキセ子というのは元来、彼の住んでいる村の村長の娘で、この界隈《かいわい》には珍らしい女学校卒業の才媛《さいえん》であったが、容貌《ようぼう》は勿論のこと、気質までもが尋常《じんじょう》一様の変り方ではなかった。彼が堂々たる銀時計の学士様でいながら、小学校の生徒に数学を教えたいのが一パイで、無理やりに自分の故郷の小学校に奉職しているのに、その横合いから又、無理やりに彼の意気組に共鳴して、一所《いっしょ》になる位の女だったので、ただ子供に対する愛情だけが普通と変っていないのが、寧《むし》ろ不思議な位のものであった。つまり極度にヒステリックな変態的|女丈夫《じょじょうふ》とでも形容されそうな型《タイプ》の女であったが、それだけに又、自分の身体《からだ》が重い肺病に罹《かか》っても、亭主の彼に苦労をかけまいとして、無理に無理を押し通して立働《たちはた》らいていたばかりでなく、昨年の正月に血を喀《は》いてたおれた時にも、死ぬが死ぬまで意識の混濁《こんだく》を見せなかったものである。ちょうど十一になった太郎の頭を撫《な》でながら、弱々しい透きとおった声で、
「……太郎や。お前はね。これからお父さんの云付《いいつ》けを、よく守らなくてはいけないよ。お前がお父さんの仰言《おっしゃ》る事を肯《き》かなかったりすると、お母さんがチャンとどこからか見て悲しんでおりますよ。お父さんが、いつもよく仰言る通りに、どんなに学校が遅くなっても鉄道線路なんぞを歩いてはいけませんよ」
 なんかと冗談のような口調で云い聞かせながら、微笑しいしい息を引き取ったもので、それはシッカリした立派な臨終であった。
 彼はだからその母親が死ぬと間もなく、お通夜《つや》の晩に、忘れ形見の太郎を引き寄せて、涙ながらに固い約束をしたものであった。
「……これから決して鉄道線路を歩かない事にしような。お前はよく友達に誘われると、イヤとも云いかねて、一所に線路伝いをしているようだが、あんな事は絶対に止《や》める事に仕様《しよう》じゃないか。いいかい。お父さんも決して鉄道線路に足を踏み入れないからナ……」
 といったようなことをクドクドと云い聞かせたのであった。その時には太郎もシクシク泣いていたが、元来|柔順《すなお》な児《こ》だったので、何のコダワリもなく彼の言葉を受け入れて、心からうなずいていたようであった。
 それから後というものは彼は毎日、昔の通りに自炊をして、太郎を一足先に学校へ送り出した。それから自分自身は跡片付《あとかたづけ》を済ますと大急ぎで支度を整えて、吾児《わがこ》の跡を逐《お》うようにして学校へ出かけるのであったが、それがいつも遅れ勝ちだったので、よく線路伝いに学校へ駈《か》け付けたものであった。
 けれども太郎は生れ付きの柔順《すなお》さで、正直に母親の遺言を守って、いくら友達に誘われても線路を歩かなかったらしく、毎日毎日国道の泥やホコリで、下駄《げた》や足袋《たび》を台なしにしていた。一方に彼は、いつもそうした太郎の正直さを見るにつけて……これは無論、俺が悪い。俺が悪いにきまっているのだ。だけど学校は遠いし、余計な仕事は持っているしで、モトモト自炊の経験はあったにしても、その上に母親の役目と、女房の仕事が二つ、新しく加わった訳だから、登校の時間が遅れるのは止《や》むを得ない。だから線路を通るのは万《ばん》止むを得ないのだ……。
 なぞといったような云い訳を毎日毎日心の中で繰り返しているのであった。当てもない妻の霊に対して、おんなじような詫《わ》びごとを繰返し繰返し良心の呵責《かしゃく》を胡麻化《ごまか》しているのであった。
 ところが天罰|覿面《てきめん》とはこの事であったろうか。こうした彼の不正直さが根こそげ曝露《ばくろ》する時機が来た。しかし後から考えるとその時の出来事が、後に彼の愛児を惨死させた間接の……イヤ……直接の原因になっているとしか思われない、意外|千万《せんばん》の出来事が起って、非常な打撃を彼に与えたのであった。
 それはやはり去年の正月の大寒中で、妻の三七日が済んだ翌《あく》る日の事であったが…………………………………………。
 ……ここまで考え続けて来た彼は、チョット鞄を抱え直しながら、もう一度そこいらをキョロキョロと見まわした。
 そこは線路が、この辺《へん》一帯を蔽《おお》うている涯《は》てしもない雑木林の間の空地に出てから間もない処に在る小川の暗渠《あんきょ》の上で、殆《ほと》んど干上《ひあが》りかかった鉄気水《かなけみず》の流れが、枯葦《かれあし》の間の処々《ところどころ》にトラホームの瞳に似た微《かす》かな光りを放っていた。その暗渠の上を通り越すと彼は、いつの間にか線路の上に歩み出している彼自身を怪しみもせずに、今まで考え続けて来た彼自身の過去の記憶を今一度、シンシンと泌《し》み渡る頭の痛みと重ね合わせて、チラチラと思い出しつづけたのであった。
 そのチラチラの中には純粋な彼自身の主観もあれば、彼の想像から来た彼自身に対する客観もあった。暖かい他人の同情の言葉もあれば、彼の行動を批判する彼自身の冷《つ》めたい正義観念も交《まざ》っていたが、要するにそんなような種々雑多な印象や記憶の断片や残滓《ざんさい》が、早くも考え疲れに疲れた彼の頭の中で、暈《ぼ》かしになったり、大うつしになったり、又は二重、絞り、切組《きりくみ》、逆戻り、トリック、モンタージュの千変万化《せんぺんばんか》をつくして、或《あるい》は構成派のような、未来派のような、又は印象派のような場面をゴチャゴチャに渦巻きめぐらしつつ、次から次へと変化し、進展し初めたのであった。そうして彼自身が意識し得なかった彼自身の手で、彼のタッタ一人の愛児を惨死に陥れて、彼をホントウの独《ひとり》ポッチにしてしまうべく、不可抗的な運命を彼自身に編み出させて行った不可思議な或る力の作用を今一度、数学の解式のようにアリアリと展開し初めたのであった。

 それは大寒中には珍らしく暖かい、お天気のいい午後のことであった。
 彼は二三日前から風邪を引いていて、その日も朝から頭が重かったので、いつもの通り夕方近くまで居残って学校の仕事をする気がどうしても出なかった。だから放課後一時間ばかりも経《た》つと、やはり、何かの用事で居残っていた校長や同僚に挨拶《あいさつ》をしいしい、生徒の答案を一パイに詰めた黒い鞄を抱え直して、トボトボと校門を出たのであった。
 ところで校門を出てポプラの並んだ広い道を左に曲ると、彼の住んでいる山懐《やまふところ》の傾斜の下まで、海岸伝いに大きな半円を描いた国道に出るのであったが、しかし、その国道を迂廻《うかい》して帰るのが、彼にとっては何よりも不愉快であった。……というのは距離が遠くなるばかりでなく、この頃《ごろ》著しく数を増した乗合《のりあい》自動車やトラック、又は海岸の別荘地に出這入《ではい》りする高級車の砂ホコリを後から後から浴びせられたり、又は彼を知っている教え子の親たちや何かに出会ってお辞儀をさせられるたんびに、彼の頭の中にフンダンに浮かんでいる数学的な瞑想《めいそう》を破られるのが、実にたまらない苦痛だからであった。
 ところがこれに反して校門を出てから、草の間の狭い道をコッソリと右に曲ると、すぐに小さな杉森の中に這入って、その蔭に在る駅近くの踏切に出る事が出来た。そこから線路伝いに四五町ほど続いた高い堀割の間を通り抜けると、百分の一内外の傾斜線路《レベル》を殆《ほと》んど一直線に、自分の家の真下に在る枯木林の中の踏切まで行けるので、その途中の大部分は枯木林に蔽《おお》われてしまっていたから、誰にも見付かる気遣《きづか》いが無いのであった。
 ところで又、彼はその校門の横の杉森を出て、線路の横の赤土道に足を踏み入れると同時に、はるか一里ばかり向うの山蔭に在る自分の家《うち》と、そこに待っているであろう妻子の事を思い出すのが習慣のようになっていた。その習慣は去年の正月に彼の妻が死んだ後までも、以前と同じように引続いていたのであったが、しかし彼は、その愚かな心の習慣を打消そうとは決してしなかった。むしろそれが自分だけに許された悲しい権利ででもあるかのように、ツイこの間《あいだ》まで立ち働らいていた妻の病み窶《やつ》れた姿や、現在、先に帰って待っているであろう吾児《わがこ》の元気のいい姿を、それからそれへと眼の前に彷彿《ほうふつ》させるのであった。山番小舎のトボトボと鳴る筧《かけひ》の前で、勝気な眼を光らして米を磨《と》いでいる妻の横顔や、自分の姿が枯木立の間から現われるのを待ちかねたように両手を差し上げて、
「オーイ。お父さーン」
 と呼びかける頬《ほっ》ペタの赤い太郎の顔や、その太郎が汲込《くみこ》んで燃やし付けた孫風呂の煙が、山の斜面を切れ切れに這《は》い上って行く形なぞを、過去と現在と重ね合わせて頭の中に描き出すのであった。もっとも時折は、黒い風のような列車の轟音《ごうおん》を遣《や》り過したあとで、枕木の上に立ち止まって、バットの半分に火を点《つ》けながら、
 ……又きょうも、おんなじ事を考えているな。イクラ考えたって、おんなじ事を……。
 と自分で自分の心を冷笑した事もあった。そうして四十を越してから妻を亡くした見窄《みすぼ》らしい自分自身の姿が、こころもち前屈《まえかが》みになって歩いて行く姿を、二三十|間《けん》向うの線路の上に、幻覚的に描き出しながらも……。
 ……もっともだ。もっともだ。そうした儚《はか》ない追憶に耽《ふけ》るのは、お前のために取残《とりのこ》されているタッタ一つの悲しい特権なのだ。お前以外に、お前のそうした痛々しい追憶を冷笑し得《う》る者がどこに居るのだ……。
 と云いたいような、一種の憤慨に似た誇りをさえ感じつつ、眼の中を熱くする事もあった。そうして全国の小学児童に代数や幾何《きか》の面白さを習得さすべく、彼自身の貴い経験によって、心血を傾けて編纂《へんさん》しつつある「小学算術教科書」が思い通りに全国の津々浦々《つづうらうら》にまで普及した嬉しさや、さては又、県視学の眼の前で、複雑な高次方程式に属する四則雑題を見事に解いた教え子の無邪気な笑い顔なぞを思い出しつつ……云い知れぬ喜びや悲しみに交《かわ》る交《がわ》る満たされつつ、口にしたバットの火が消えたのも忘れて行く事が多いのであった。
「……オトウサン……」
 という声をツイ耳の傍で聞いたように思ったのはソンナ時であった……。
「……………………」
 ハッと気が付いてみると彼は、その日もいつの間にか平生《へいぜい》の習慣通りに、線路伝いに来ていて、ちょうど長い長い堀割の真中《まんなか》あたりに近い枕木の上に立佇《たちど》まっているのであった。彼のすぐ横には白ペンキ塗《ぬり》の信号柱が、白地《しろじ》に黒線の這入《はい》った横木を傾けて、下り列車が近付いている事を暗示していたが、しかし人影らしいものはどこにも見当らなかった。ただ彼のみすぼらしい姿を左右から挟んだ、高い高い堀割の上半分に、傾いた冬の日がアカアカと照り映《は》えているその又上に、鋼鉄色の澄み切った空がズーッと線路の向うの、山の向う側まで傾き蔽《おお》うているばかりであった。
 そんなような景色を見まわしているうちに彼は、ゆくりなくも彼の子供時代からの体験を思い出していた。
 ……もしや今のは自分の魂が、自分を呼んだのではあるまいか。……お父さん……と呼んだように思ったのは、自分の聞き違いではなかったろうか……。
 といったような考えを一瞬間、頭の中に廻転させながら、キョロキョロとそこいらを見まわしていた。……が、やがてその視線がフッと左手の堀割の高い高い一角に止まると、彼は又もハッとばかり固くなってしまった。
 彼の頭の上を遥かに圧して切り立っている堀割の西側には、更にモウ一段高く、国道沿いの堤《どて》があった。その堤の上に最前から突立って見下していたらしい小さな、黒い人影が見えたが、彼の顔がその方向に向き直ると間もなく、その小さい影はモウ一度、一生懸命の甲高《かんだか》い声で呼びかけた。
「……お父さアーん……」
 その声の反響がまだ消えないうちに彼は、カンニングを発見された生徒のように真赤になってしまった。……線路を歩いてはいけないよ……と云い聞かせた自分の言葉を一瞬間に思い出しつつ、わななく指先でバットの吸いさしを抓《つま》み捨てた。そうして返事の声を咽喉《のど》に詰まらせつつ、辛《かろ》うじて顔だけ笑って見せていると、そのうちに、又も甲高い声が上から落ちて来た。
「お父さアン。きょうはねえ。残って先生のお手伝いして来たんですよオ――。書取りの点をつけてねえ……いたんですよオ――……」
 彼はヤットの思いで少しばかりうなずいた。そうして吾児《わがこ》が入学以来ズット引続いて級長をしていることを、今更ながら気が付いた。同時にその太郎が時々担当の教師に残されて、採点の手伝いをさせられる事があるので……ソンナ時は成るたけ連れ立って帰ろうね……と約束していた事までも思い出した彼は、どうする事も出来ないタマラナイ面目なさに縛られつつ、辛《かろ》うじて阿弥陀《あみだ》になった帽子を引直しただけであった。
「……オトウサーアアーンン……降りて行きましょうかアア……」
 という中《うち》に太郎は堤の上をズンズンこちらの方へ引返《ひきかえ》して来た。
「イヤ……俺が登って行く……」
 狼狽《ろうばい》した彼はシャガレた声でこう叫ぶと、一足飛びに線路の横の溝を飛び越えて、重たい鞄を抱え直した。四十五度以上の急斜面に植え付けられた芝草の上を、一生懸命に攀《よ》じ登り初めたのであった。
 それは労働に慣れない彼にとっては実に死ぬ程の苦しい体験であった。振返るさえ恐しい三|丈《じょう》あまりの急斜面を、足首の固い兵隊靴の爪先《つまさき》と、片手の力を便りにして匐《は》い登って行くうちに、彼は早くも膝頭《ひざがしら》がガクガクになる程疲れてしまった。崖《がけ》の中途に乱生した冷《つ》めたい草の株を掴《つか》むたんびに、右手の指先の感覚がズンズン消え失せて行くのを彼は自覚した。反対に彼の顔は流るる汗と水洟《みずばな》に汚れ噎《む》せて、呼吸《いき》が詰まりそうになるのを、どうする事も出来ないながらに、彼は子供の手前を考えて、大急ぎに斜面を登るべく、息も吐《つ》かれぬ努力を続けなければならなかった。
 ……これは子供に唾《つば》を吐いた罰《ばち》だ。子供に禁じた事を、親が犯した報いだ。だからコンナ責苦《せめく》に遭《あ》うのだ……。
 といったような、切ない、情ない、息苦しい考えで一杯になりながら、上を見る暇もなく斜面に縋《すが》り付いて行くうちに、疲れ切ってブラブラになった足首が、兵隊靴を踏み返して、全身が草のようにブラ下がったままキリキリと廻転しかけた事が二三度あった。その瞬間に彼は、眼も遥かな下の線路に大の字|形《なり》にタタキ付けられている彼自身の死骸を見下したかのように、魂のドン底までも縮み上らせられたのであったが、それでもなお死物狂《しにものぐる》いの努力で踏みこたえつつ大切な鞄を抱え直さなければならなかった。
「あぶない。お父さん……お父さアン……」
 と叫ぶ太郎の声を、すぐ頭の上で聞きながら……。
 ……堤《どて》の上に登ったら、直ぐに太郎を抱き締めてやろう。気の済むまで謝罪《あやま》ってやろう……。そうして家《うち》に帰ったら、妻の位牌《いはい》の前でモウ一度あやまってやろう……。
 そう思い詰め思い詰め急斜面の地獄を匐《は》い登って来た彼は……しかし……平たい、固い、砂利《ざり》だらけの国道の上に吾児《わがこ》と並んで立つと、もうソンナ元気は愚かなこと、口を利く力さえ尽き果てていることに気が付いた。薄い西日を前にして大浪を打つ動悸《どうき》と呼吸の嵐の中にあらゆる意識力がバラバラになって、グルグルと渦巻いて吹き散らされて行くのをジイーッと凝視《みつ》めて佇《たたず》んでいるうちに、眼の前の薄黄色い光りの中で、無数の灰色の斑点《はんてん》がユラユラチラチラと明滅するのを感じていた。それからヤット気を取り直して、太郎に鞄を渡しながら、幽霊のようにヒョロヒョロと歩き出した時の心細かったこと……。そのうちに全身を濡《ぬ》れ流れた汗が冷え切ってしまって、タマラナイ悪寒《おかん》がゾクゾクと背筋を這《は》いまわり初めた時の情なかったこと……。

 彼は山の中の一軒屋に帰ると、何もかも太郎に投げ任せたまま直ぐに床を取って寝た。そうしてその晩から彼は四十度以上の高い熱を出して重態の肺炎に喘《あえ》ぎつつ、夢うつつの幾日かを送らなければならなかった。
 彼はその夢うつつの何日目かに、眼の色を変えて駈《か》け付けて来た同僚の橋本訓導の顔付を記憶していた。その後から駈け付けて来た巡査や、医者や、村長さんや、区長さんや、近い界隈《かいわい》の百姓たちの只事《ただごと》ならぬ緊張した表情を不思議なほどハッキリ記憶していた。のみならずそれが太郎の死を知らせに来た人々で……。
「コンナ大層な病人に、屍体を見せてええか悪いか」
「知らせたら病気に障《さわ》りはせんか」
 といったような事を、土間の暗い処でヒソヒソと相談している事実や何かまでも、慥《たし》かに察しているにはいた。けれども彼は別に驚きも悲しみもしなかった。おおかたそれは彼の意識が高熱のために朦朧《もうろう》状態に陥っていたせいであろう。ただ夢のように……。
 ……そうかなあ……太郎は死んだのかなあ……俺も一所にあの世へ行くのかなあ……。
 と思いつつ、別に悲しいという気もしないまま、生ぬるい涙をあとからあとから流しているばかりであった。
 それからもう一つその翌《あく》る日のこと……かどうかよくわからないが、ウッスリ眼を醒《さ》ました彼は囁《ささ》やくような声で話し合っている女の声をツイ枕元の近くで聞いた。ちょうどラムプの芯《しん》が極度に小さくして在ったので、そこが自分の家であったかどうかすら判然《はっきり》しなかったが、多分介抱のために付添っていた、近くの部落のお神さん達か何かであったろう。
「……ホンニまあ。坊ちゃんは、ちょうどあの堀割のまん中の信号の下でなあ……」
「……マアなあ……お父さんの病気が気にかかったかしてなあ……先生に隠れて鉄道づたいに近道さっしやったもんじゃろうて皆云い御座《ござ》るげなが……」
「……まあ。可愛《かあい》そうになあ……。あの雨風の中になあ……」
「それでなあ。とうとう坊ちゃんの顔はお父さんに見せずに火葬してしまうたて、なあ……」
「……何という、むごい事かいなあ……」
「そんでなあ……先生が寝付かっしゃってから、このかた毎日坊ちゃんに御飯をば喰べさせよった学校の小使いの婆《ばあ》さんがなあ。代られるもんなら代ろうがて云うてなあ。自分の孫が死んだばしのごと歎《なげ》いてなあ……」
 あとはスッスッという啜《すす》り泣きの声が聞こえるばかりであったが、彼はそれでも別段に気に止めなかった。そうした言葉の意味を考える力も無いままに又もうとうとしかけたのであった。
「橋本先生も云うて御座ったけんどなあ。お父さんもモウこのまま死んで終《しま》わっしゃった方が幸福《しやわせ》かも知れんち云うてなあ……」
 といったようなボソボソ話を聞くともなく耳に止めながら……自分が死んだ報《しら》せを聞いて、口をアングリと開いたまま、眼をパチパチさせている人々の顔と、向い合って微笑しながら……。
 けれどもそのうちに、さしもの大熱が奇蹟的に引いてしまうと、彼は一時、放神状態に陥ってしまった。和尚《おしょう》さんがお経を読みに来ても知らん顔をして縁側に腰をかけていたり、妻の生家から見舞いのために配達させていた豆乳《とうにゅう》を一本も飲まなかったりしていたが、それでも学校に出る事だけは忘れなかったと見えて、体力が出て来ると間もなく、何の予告もしないまま、黒い鞄を抱え込んでコツコツと登校し初めたのであった。
 教員室の連中は皆驚いた。見違えるほど窶《やつ》れ果てた顔に、著しく白髪《しらが》の殖えた無精髯《ぶしょうひげ》を蓬々《ぼうぼう》と生やした彼の相好《そうごう》を振り返りつつ、互いに眼と眼を見交《みかわ》した。その中にも同僚の橋本訓導は、真先《まっさき》に椅子《いす》から離れて駈け寄って来て、彼の肩に両手をかけながら声を潤《うる》ませた。
「……ど……どうしたんだ君は。……シシ……シッカリしてくれ給《たま》え……」
 眼をしばたたきながら、椅子から立ち上った校長も、その横合いから彼に近付いて来た。
「……どうか充分に休んでくれ給え。吾々《われわれ》や父兄は勿論のこと、学務課でも皆、非常に同情しているのだから……」
 と赤ん坊を諭《さと》すように背中を撫《な》でまわしたのであったが、しかし、そんな親切や同情が彼には、ちっとも通じないらしかった。ただ分厚い近眼鏡の下から、白い眼でジロリと教室の内部《なか》を見廻わしただけで、そのまま自分の椅子に腰を卸《おろ》すと、彼の補欠をしていた末席の教員を招き寄せて学科の引継《ひきつぎ》を受けた。そうして乞食のように見窄《みすぼ》らしくなった先生の姿に驚いている生徒たちに向って、ポツポツと講義を初めたのであった。
 それから午後になって教員室の連中から、
「無理もない」
 というような眼付きで見送られながら校門を出るとそのまま右に曲って、生徒たちが見送っているのも構わずにサッサと線路を伝い初めたのであった。……又も以前の通りの思出《おもいで》を繰返しつつ、……自分の帰りを待っているであろう妻子の姿を、木《こ》の間《ま》隠れの一軒屋の中に描き出しつつ……。
 彼はそれから後、来る日も来る日もそうした昔の習慣を判で捺《お》したように繰返し初めたのであったが、しかしその中にはタッタ一つ以前と違っている事があった。それは学校を出てから間もない堀割の中程に立っている白いシグナルの下まで来ると、おきまりのようにチョット立止まって見る事であった。
 彼はそうしてそこいらをジロジロと見廻しながら、吾児《わがこ》の轢《ひ》かれた遺跡らしいものを探し出そうとするつもりらしかったが、既に幾度も幾度も雨風に洗い流された後なので、そんな形跡はどこにも発見される筈が無かった。
 しかし、それでも彼は毎日毎日、そんな事を繰り返す器械か何ぞのように、おんなじ処に立ち佇《ど》まって、くり返しくり返しおんなじ処を見まわしたので、そこいらに横たわっている数本の枕木の木目や節穴、砂利の一粒一粒の重なり合い、又はその近まわりに生えている芝草や、野茨《のいばら》の枝ぶりまでも、家に帰って寝る時に、夜具の中でアリアリと思い出し得るほど明確に記憶してしまった。そうして彼はドンナニ外《ほか》の考えで夢中になっている時でも、シグナルの下のそのあたりへ来ると、殆《ほと》んど無意識に立佇《たちど》まって、そこいらを一渡り見まわした後でなければ、一歩も先へ進めないようにスッカリ癖づけられてしまったのであった……何故《なぜ》そこに立佇まっているのか、自分自身でも解らないままに、暗い暗い、淋《さび》しい淋しい気持ちになって、狃染《なじ》みの深い石ころの形や、枕木の切口の恰好《かっこう》や、軌条の継目の間隔を、一つ一つにジーッと見守らなければ気が済まないのであった……………………。
「お父さん」
 というハッキリした声が聞こえたのは、ちょうど彼がそうしている時であった。
 彼はその声を聞くや否や、電気に打たれたようにハッと首を縮めた。無意識のうちに眼をシッカリと閉じながら、肩をすぼめて固くなったが、やがて又、静かに眼を見開いて、オズオズと左手の高い処を見上げた。寂《さび》しい霜枯《しもが》れの草に蔽《おお》われた赤土の斜面と、その上に立っている小さな、黒い人影を予想しながら……。
 ところが現在、彼の眼の前に展開している堀割の内側は、そんな予想と丸で違った光景をあらわしていた。見渡す限り草も木も、燃え立つような若緑に蔽われていて、色とりどりの春の花が、巨大な左右の土の斜面の上を、涯《は》てしもなく群がり輝やき、流れ漾《ただよ》い、乱れ咲いていた。線路の向うの自分の家を包む山の斜面の中程には、散り残った山桜が白々と重なり合っていた。朗《うら》らかに晴れ静まった青空には、洋紅色《ローズマダー》の幻覚をほのめかす白い雲がほのぼのとゆらめき渡って、遠く近くに呼びかわす雲雀《ひばり》の声や、頬白《ほおじろ》の声さえも和《なご》やかであった。
 ……その中のどこにも吾児《わがこ》らしい声は聞こえない……どこの物蔭にも太郎らしい姿は発見されない……全く意外千万な眩《ま》ぶしさと、華やかさに満ち満ちた世界のまん中に、昔のまんまの見窄《みすぼ》らしい彼自身の姿を、タッタ一つポツネンと発見した彼……。
 ……彼がその時に、どんなに奇妙な声を立てて泣き出したか……それから、どんなに正体もなく泣き濡《ぬ》れつつ線路の上をよろめいて、山の中の一軒屋へ帰って行ったか……そうして自分の家《うち》に帰り着くや否や、箪笥《たんす》の上に飾ってある妻子の位牌《いはい》の前に這《は》いずりまわり、転がりまわりつつ、どんなに大きな声をあげて泣き崩れたか……心ゆくまで泣いては詫《わ》び、あやまっては慟哭《どうこく》したか……。そうして暫《しばら》くしてからヤット正気付いた彼が、見る人も、聞く人も無い一軒屋の中で、そうしている自分の恰好の見っともなさを、気付き過ぎる程気付きながらも、ちっとも恥かしいと思わなかったばかりでなく、もっともっと自分を恥かしめ、苛《さい》なみ苦しめてくれ……というように、白木《しらき》の位牌を二つながら抱き締めて、どんなに頬《ほお》ずりをして、接吻《せっぷん》しつつ、あこがれ歎いたことか……。
「……おお……キセ子……キセ子……俺が悪かった。重々悪かった。堪忍《かんにん》……堪忍してくれ……おおっ。太郎……太郎太郎。お父さんが……お父さんが悪かった。モウ……もう決して、お父さんは線路を通りません……通りません。……カ……堪忍して……堪忍して下さアアア――イ……」
 と声の涸《か》れるほど繰返し繰返し叫び続けたことか……。

 彼は依然として枯木林の間の霜《しも》の線路を渡りつづけながら、その時の自分の姿をマザマザと眼の前に凝視した。その瞼《まぶた》の内側が自《おの》ずと熱くなって、何ともいえない息苦しい塊《かた》まりが、咽喉《のど》の奥から、鼻の穴の奥の方へギクギクとコミ上げて来るのを自覚しながら……。
「……アッハッハ……」
 と不意に足の下で笑う声がしたので、彼は飛び上らむばかりに驚いた。思わず二三歩走り出しながらギックリと立ち佇《ど》まって、汗ばんだ額《ひたい》を撫《な》で上げつつ線路の前後を大急ぎで見まわしたが、勿論、そこいらに人間が寝ている筈は無かった。薄霜を帯びた枕木と濡《ぬ》れたレールの連続が、やはり白い霜を冠《かぶ》った礫《こいし》の大群の上に重なり合っているばかりであった。
 彼の左右には相も変らぬ枯木林が、奥もわからぬ程立ち並んで、黄色く光る曇り日の下に灰色の梢《こずえ》を煙らせていた。そうしてその間をモウすこし行くと、見晴らしのいい高い線路に出る白い標識柱《レベル》の前にピッタリと立佇《たちど》まっている彼自身を発見したのであった。
「……シマッタ……」
 と彼はその時口の中でつぶやいた。……あれだけ位牌《いはい》の前で誓ったのに……済まない事をした……と心の中で思っても見た。けれども最早《もはや》取返しの付かない処まで来ている事に気が付くと、シッカリと奥歯を噛《か》み締めて眼を閉じた。
 それから彼は又も、片手をソッと額に当てながら今一度、背後《うしろ》を振り返ってみた。ここまで伝って来た線路の光景と、今まで考え続けて来た事柄を、逆にさかのぼって考え出そうと努力した。あれだけ真剣に誓い固めた約束を、それから一年近くも過ぎ去った今朝《けさ》に限って、こんなに訳もなく破ってしまったそのそもそもの発端の動機を思い出そうと焦燥《あせ》ったが、しかし、それはモウ十年も昔の事のように彼の記憶から遠ざかっていて、どこをドンナ風に歩いて来たか……いつの間に帽子を後ろ向きに冠《かぶ》り換えたか……鞄を右手に持ち直したかという事すら考え出すことが出来なかった。ただズット以前の習慣通りに、鞄を持ち換え持ち換え線路を伝って、ここまで来たに違い無い事が推測されるだけであった。…………しかしその代りに、たった今ダシヌケに足の下で笑ったものの正体が彼自身にわかりかけたように思ったので、自分の背後《うしろ》の枕木の一つ一つを念を入れて踏み付けながら引返し初めた。すると間もなく彼の立佇《たちど》まっていた処から四五本目の、古い枕木の一方が、彼の体重を支えかねてグイグイと砂利《ざり》の中へ傾き込んだ。その拍子に他の一端が持ち上って軌条の下縁とスレ合いながら……ガガガ……と音を立てたのであった。
 彼はその音を聞くと同時に、タッタ今の笑い声の正体がわかったので、ホッと安心して溜息《ためいき》を吐《つ》いた。それにつれて気が弛《ゆる》んだらしく、頭の毛が一本一本ザワザワザワとして、身体《からだ》中にゾヨゾヨと鳥肌が出来かかったが、彼はそれを打消すように肩を強くゆすり上げた。黒い鞄を二三度左右に持ち換えて、切れるように冷《つ》めたくなった耳朶《みみたぼ》をコスリまわした。それから鼻息の露《つゆ》に濡《ぬ》れた胡麻塩髯《ごましおひげ》を撫《な》でまわして、歪《ゆが》みかけた釣鐘マントの襟《えり》をゆすり直すと、又も、スタスタと学校の方へ線路を伝い初めた。いつも踏切の近くで出会う下りの石炭列車が、モウ来る時分だと思い思い、何度も何度も背後《うしろ》を振り返りながら……。

 彼は、それから間もなく、今までの悲しい思出《おもいで》からキレイに切り離されて、好きな数学の事ばかりを考えながら歩いていた。彼自身にとって最も幸福な、数学ずくめの冥想《めいそう》の中へグングンと深入りして行った。
 彼の眼には、彼の足の下に後から後から現われて来る線路の枕木の間ごとに変化して行く礫石《バラス》の群れの特徴が、ずっと前に研究しかけたまま忘れかけている函数論や、プロバビリチーの証明そのもののように見えて来た。彼は又、枕木と軌条が擦れ合った振動が、人間の笑い声に聞こえて来るまでの錯覚作用を、数理的に説明すべく、しきりに考え廻わしてみた。それは何の不思議もない簡単な出来事で、考えるさえ馬鹿馬鹿しい事実であったが、しかしその簡単な枕木の振動の音波が人間の鼓膜に伝わって、脳髄に反射されて、全身の神経に伝わって、肌を粟立《あわだ》たせるまでの経路を考えて来ると、最早《もはや》、数理的な頭ではカイモク見当の付けようの無い神秘作用みたようなものになって行くのが、重ね重ね腹が立って仕様がなかった。人間が機関車に正面すると、ちょうど蛇《へび》に魅入《みい》られた蛙《かえる》のように動けなくなって、そのまま、轢《ひ》き殺されてしまうのも、やはり脳髄の神秘作用に違い無いのだが……。一体脳髄の反射作用と、意識作用との間にはドンナ数理的な機構の区別が在るのだろう……。
 ……突然……彼の眼の前を白いものがスーッと横切ったので、彼は何の気もなく眼をあげてみた。……今頃白い蝶《ちょう》が居るか知らんと不思議に思いながら……けれどもそこいらには蝶々らしいものは愚か、白いものすら見えなかった。
 彼はその時に高い、見晴らしのいい線路の上に来ていた。
 彼の視線のはるか向うには、線路と一直線に並行して横たわっている国道と、その上に重なり合って並んでいる部落の家々が見えた。それは彼が昔から見慣れている風景に違い無いのであったが、今朝《けさ》はどうした事かその風景がソックリそのまんまに、数学の思索の中に浮き出て来る異常なフラッシュバックの感じに変化しているように思われた。その景色の中の家や、立木や、畠《はたけ》や、電柱が、数学の中に使われる文字や符号……√,=,0,∞,KLM,XYZ,αβγ,θω,π……なんどに変化して、三角函数が展開されたように……高次方程式の根《こん》が求められた時の複雑な分数式のように……薄黄色い雲の下に神秘的なハレーションを起しつつ、涯《は》てしもなく輝やき並んでいた。形《かた》に表わす事の出来ないイマジナリー・ナンバーや、無理数や、循環《じゅんかん》少数なぞを数限りなく含んで……。
 彼は、彼を取巻く野山のすべてが、あらゆる不合理と矛盾とを含んだ公式と方程式にみちみちている事を直覚した。そうして、それ等《ら》のすべてが彼を無言のうちに嘲《あざけ》り、脅《おび》やかしているかのような圧迫感に打たれつつ、又もガックリとうなだれて歩き出した。そうしてそのような非数理的な環境に対して反抗するかのように彼は、ソロソロと考え初めたのであった。
 ……俺は小さい時から数学の天才であった。
 ……今もそのつもりでいる。
 ……だから教育家になったのだ。今の教育法に一大革命を起すべく……児童のアタマに隠れている数理的な天才を、社会に活《い》かして働かすべく……。
 ……しかし今の教育法では駄目だ。全く駄目なんだ。今の教育法は、すべての人間の特徴を殺してしまう教育法なんだ。数学だけ甲でいる事を許さない教育法なんだ。
 ……だから今までにドレ程の数学家が、自分の天才を発見し得ずに、闇から闇に葬《ほうむ》られ去ったことであろう。
 ……俺は今日まで黙々として、そうした教育法と戦って来た。そうして幾多の数学家の卵を地上に孵化《ふか》させて来た。
 ……太郎もその卵の一つであった。
 ……温柔《おとな》しい、無口な優良児であった太郎は、俺が教えてやるまにまに、彼独特の数理的な天才をスクスクと伸ばして行った。もう代数や幾何の初等程度を理解していたばかりでなく、自分でLOGを作る事さえ出来た。……彼が自分で貯《た》めたバットの銀紙で球を作りながら、時々その重量と直径とを比較して行くうちに、直径の三乗と重量とが正比例して増加して行く事を、方眼紙にドットして行った点の軌跡《きせき》の曲線から発見し得た時の喜びようは、今でもこの眼に縋《こび》り付いている。眼を細くして、頬《ほっ》ペタを真赤にして、低い鼻をピクピクさせて、偉大なオデコを光らしているその横顔……。
 ……けれども俺は太郎に命じて、そうした数理的才能を決して他人の前で発表させなかった。学校の教員仲間にも知らせないようにしていた。「又余計な事をする」と云って視学官連中が膨《ふく》れ面《つら》をするにきまっていたから……。
 ……視学官ぐらいに何がわかるものか。彼奴等《きゃつら》は教育家じゃない。タダの事務員に過ぎないのだ。
 ……ネエ。太郎、そうじゃないか。
 ……彼奴《やつら》の数学は、生徒職員の数と、夏冬の休暇に支給される鉄道割引券の請求歩合と、自分の月給の勘定ぐらいにしか役に立たないのだ。ハハハ……。
 ……ネエ。太郎……。
 ……お父さんはチャント知っているんだよ。お前が空前の数学家になり得る素質を持っていることを……アインスタインにも敗けない位スゴイ頭を持っていることを……。
 ……しかし、お前自身はソンナ事を夢にも知らなかった。お父さんが云って聞かせなかったから……だから残念とも何とも思わなかったであろう。お父さんの事ばかり思って死んだのであろう……。
 ……だけども……だけども……。
 ここまで考えて来ると彼はハタと立ち停まった。

 ……だけども……だけども……。
 というところまで考えて来ると、それっきり、どうしてもその先が考えられなかった彼は、枕木の上に両足を揃《そろ》えてしまったのであった。ピッタリと運転を休止した脳髄の空虚を眼球のうしろ側でジイッと凝視しながら……。
 それは彼の疲れ切って働けなくなった脳髄が、頭蓋骨《ずがいこつ》の空洞の中に作り出している、無限の時間と空間とを抱擁《ほうよう》した、薄暗い静寂であった。どうにも動きの取れなくなった自我意識の、底知れぬ休止であった。どう考えようとしても考えることの出来ない……。
 彼は地底の暗黒の中に封じ込められているような気持になって、両眼を大きく大きく見開いて行った。しまいには瞼《まぶた》がチクチクするくらい、まん丸く眼の球《たま》を剥《む》き出して行ったが、そのうちにその瞳の上の方から、ウッスリと白い光線がさし込んで来ると、それに連れて眼の前がだんだん明るくなって来た。
 彼の眼の前には見覚えのある線路の継目と、節穴の在る枕木と、その下から噴き出す白い土に塗《まみ》れた砂利の群れが並んでいた。
 そこは太郎が轢《ひ》かれた場所に違い無いのであった。
 彼は徐《おもむ》ろに眼をあげて、彼の横に突立っているシグナルの白い柱を仰いだ。黒線の這入《はい》った白い横木が、四十五度近く傾いている上に、ピカピカと張り詰められている鋼鉄色の青空を仰いだ。そうして今一度、吾児《わがこ》の血を吸い込んだであろう足の下の、砂利の間の薄暗がりを、一つ一つに覗《のぞ》き込みつつ凝視した。その砂利の間の薄暗がりから、頭だけ出している小さな犬蓼《いぬたで》の、血よりも紅《あか》い茎の折れ曲りを一心に見下していた。
 ……だけども……だけども……。
 という言葉によって行き詰まらせられた脳髄の運転の休止が、又も無限の時空を抱擁《ほうよう》しつつ、彼の頭の上に圧《の》しかかって来るのを、ジリジリと我慢しながら……どこか遠い処で、ケタタマシク吹立《ふきた》てていた非常汽笛が、次第次第に背後に迫って来るのを、夢うつつのように意識しながら……。
 ……だけども……だけども……。
 と考えながら彼は自分の額《ひたい》を、右手でシッカリと押え付けてみた。
 ……だけども……だけども……。
 ……今まで俺が考えて来た事は、みんな夢じゃないか知らん。……キセ子が死んだのも、忰《せがれ》が轢《ひ》き殺されたのも……それからタッタ今まで考え続けて来た色々な事も、みんな頭を悪るくしている俺の幻覚に過ぎないのじゃないか知らん。神経衰弱から湧《わ》き出した、一種のあられもないイリュージョンじゃないかしらん……。
 ……イヤ……そうなんだそうなんだ……イリュージョンだイリュージョンだ……。
 ……俺は一種の自己催眠にかかってコンナ下らない事を考え続けて来たのだ。俺の神経衰弱がこの頃だんだん非道《ひど》くなって来たために、自己暗示の力が無暗《むやみ》に高まって来たお蔭でコンナみじめな事ばかり妄想するようになって来たのだ。
 ……ナアーンダ。……何でもないじゃないか……。
 ……妻のキセ子も、子供の太郎も、まだチャンと生きているのだ。太郎はモウ、とっくの昔に学校に行き着いているし、キセ子は又キセ子で、今頃は俺の机の上にハタキでも掛けているのじゃないか。あの大切な「小学算術」の草案の上に……。
 ……アハハハハハハ……。
 ……イケナイイケナイ。こんな下らない妄想に囚《とら》われていると俺はキチガイになるかも知れないぞ……。
 ……アハ……アハ……アハ……。
 彼はそう思い思い、スッカリ軽い気持になって微笑しいしい、又も上半身を傾けて、線路の上を歩き出そうとした。するとその途端に、思いがけない背後から、突然非常な力で……グワーン……とドヤシ付けられたように感じた。そうしてタッタ今、凝視していた砂利《バラス》の上に、何の苦もなく突き倒されたように思ったが、その瞬間に彼は真黒な車輪の音も無い廻転と、その間に重なり合って閃《ひら》めき飛ぶ赤い光明《こうみょう》のダンダラ縞《じま》を認めた。……と思ううちに後頭部がチクチク痛み初めて、眼の前がグングン暗くなって来たので、二三度大きく瞬《まばたき》をしてみた。
 ……お父さんお父さんお父さんお父さんお父さん……。
 と呼ぶ太郎のハッキリした呼び声が、だんだんと近付いて来た。そうして彼の耳の傍まで来て鼓膜の底の底まで泌《し》み渡ったと思うと、そのままフッツリと消えてしまったが、しかし彼はその声を聞くと、スッカリ安心したかのように眼を閉じて、投げ出した両手の間の砂利の中にガックリと顔を埋めた。そうしてその顔を、すこしばかり横に向けながらニッコリと白い歯を見せた。
「……ナアーンダ。お前だったのか……アハ……アハ……アハ……」



底本:「夢野久作全集8」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年1月22日第1刷発行
底本の親本:「瓶詰地獄」春陽堂
   1933(昭和8)年5月15日発行
※「気持」「気持ち」の不統一は底本のママとした。「初め」は「始め」が正しいと思われるが、これも底本のママとした。
入力:柴田卓治
校正:柳沢成雄
2001年4月19日公開
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