青空文庫アーカイブ

少女地獄
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)白鷹秀麿《しらたかひでまろ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)丸の内|倶楽部《くらぶ》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、底本のページと行数)
(例)[#この5文字だけ少し大きめ]
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  何んでも無い

  白鷹秀麿《しらたかひでまろ》兄[#この5文字だけ少し大きめ] 足下

                    臼杵利平[#下揃え2字上げ]

 小生は先般、丸の内|倶楽部《くらぶ》の庚戌会《こうぼくかい》で、短時間|拝眉《はいび》の栄を得ましたもので、貴兄と御同様に九州帝国大学、耳鼻科出身の後輩であります。昨、昭和八年の六月初旬から、当横浜市の宮崎町に、臼杵《うすき》耳鼻科のネオンサインを掲げておる者でありますが、突然にかような奇怪な手紙を差し上げる非礼をお許し下さい。
 姫草ユリ子が自殺したのです。
 あの名前の通りに可憐な、清浄無垢《せいじょうむく》な姿をした彼女は、貴下と小生の名を呪咀《のろ》いながら自殺したのです。あの鳩のような小さな胸に浮かみ現われた根も葉もない妄想《もうそう》によって、貴下と小生の家庭は申すに及ばず、満都の新聞紙、警視庁、神奈川県の司法当局までも、その虚構《うそ》の天国を構成する材料に織込《おりこ》んで来たつもりで、却って一種の戦慄《せんりつ》すべき脅迫観念の地獄絵巻を描き現わして来ました彼女は、遂に彼女自身を、その自分の創作した地獄絵巻のドン底に葬《ほうむ》り去らなければならなくなったのです。その地獄絵巻の実在を、自分の死によって裏書きして、小生等を仏教の所謂《いわゆる》、永劫《えいごう》の戦慄、恐怖の無間地獄に突き落すべく……。
 その一見、平々凡々な、何んでもない出来事の連続のように見える彼女の虚構の裡面《りめん》に脈動している摩訶《まか》不思議な少女の心理作用の恐しさ。その心理作用に対する彼女の執着さを、小生は貴下に対して逐一説明し、解剖し、分析して行かねばならぬという異常な責任を持っておる者であります。
 しかもその困難を極めた、一種異様な責任は本日の午後に、思いもかけぬ未知の人物から、私の双肩に投げかけられたものであります。……ですからこの一種特別の報告書も、順序としてその不可思議な未知の人物の事から書き始めさして頂きます。

 本日の午後一時頃の事でした。
 重態の脳膜炎《のうまくえん》患者の手術に疲れ切った私は、外来患者の途絶えた診察室の長椅子に横たわって、硝子《ガラス》窓越に見える横浜港内の汽笛と、窓の下の往来の雑音をゴッチャに聞きながらウトウトしておりますと、突然に玄関のベルが鳴って、一人の黒い男性の影が静かに辷《すべ》り込んで来ました。
 跳《は》ね起きてみますと、それはさながらに外国の映画に出て来る名探偵じみた風采の男でした。年の頃は四十四、五でしたろうか。顔が長く、眉が濃く太く、高い、品のいい鼻梁《はなすじ》の左右に、切れ目の長い眼が落ち窪んで鋭い、黒い光を放っているところは、とりあえず和製のシャアロック・ホルムズと言った感じでした。全体の皮膚の色が私と同様に青黒く、スラリとした骨太い身体《からだ》に、シックリした折目正しい黒地のモーニング、真新しい黒のベロア帽、同じく黒のエナメル靴、銀頭の蛇木杖《スネキウッド》という微塵《みじん》も隙のない態度風采で、診察室の扉《ドア》を後ろ手に静かに閉めますと、私一人しかいない室内をジロリと一眼見まわしながら立ち佇《どま》って、慇懃《いんぎん》に帽子を脱《と》って、中禿を巧みに隠した頭を下げました。
 軽率な私は、この人物を新来の患者と思いましたので愛想よく立ち上りました。
 「サアどうぞ」とジャコビアン張の小椅子《サイドチェア》を進めました。
 「私が臼杵です」
 しかし相手の紳士は依然として黒い、冷たい影法師のように突立っておりました。ちょっと眼を伏せて……わかっている……と言ったような表情をした切り一言も口を利《き》きませんでした。そのうちに青白い毛ムクジャラの手を胴衣《チョッキ》の内ポケットに入れて、一枚のカード型の紙片を探り出しますと、私の顔を意味ありげにチラリと見ながら、傍《そば》の小卓子《カードテーブル》の上に置いて私の方へ押し遣りました。
 そこで私は滑稽にも……サテは唖《おし》の患者が来たな……と思いながらその紙片を取り上げてみますと、意外にも下手な小学生じみた鉛筆文字でハッキリと「姫草ユリ子の行方を御存じですか」と書いて在るのです。
 私は唖然《あぜん》となってその男の顔を見上げました。背丈《せい》が五尺七、八寸もありましたろうか。
 「……ハハア。知りませんがね。だまって出て行きましたから……」
 と即答をしましたが、その刹那《せつな》に……サテハこの男が姫草ユリ子の黒幕だな。何かしら俺を脅迫しに来やがったんだな……と直感しましたので直ぐに……糞《くそ》でも啖《く》らえ……という覚悟を腹の中で決めてしまいました。しかし表面《うわべ》にはソンナ気振も見せないようにして、平凡な開業医らしいトボケ方をしておりました。……姫草ユリ子の行方を知っていないでよかった。知っていると言ったら直ぐに付け込まれて脅迫されるところであったろう……と腹の中で思いながら……。
 相手の紳士はそうした私の顔を、その黒い、つめたい執念深い瞳付《めつき》で十数秒間、凝視《ぎょうし》しておりましたが、やがてまた胴衣《チョッキ》の内側から一つの白い封筒を探り出して、恭《うやうや》しく私の前に置きました。……御覧下さい……と言う風に薄笑いを含みながら……。
 白い封筒の中味はありふれた便箋《びんせん》でしたが、文字は擬《まが》いもない姫草ユリ子のペン字で、処々汚なくにじんだり、奇妙に震えたりしているのが何となく無気味でした。[#ここから引用文、1字下げ]
 「白鷹先生
  臼杵先生
 妾《わたし》は自殺いたします。お二人に御迷惑のかからないように、築地の婦人科病院、曼陀羅《まんだら》先生の病室で自殺いたします。子宮病で入院中にジフテリ性の心臓麻痺で死んだようにして処理して頂くよう曼陀羅先生にお願いして置きます。
 白鷹先生 臼杵先生
 お二人様の妾に賜《たま》わりました御愛情と、その御愛情を受け入れました妾を、お憎しみにもならず、親身の妹同様に可愛がって頂きました、お二人の奥様方の御恩を、妾は死んでも忘れませぬでしょう。ですから、その奥様方の気高い、ありがたい御恩の万分の一でも報いたい気持から妾は、こんなにコッソリと自殺するのです。わたくしの小さい霊魂はこれから、お二人の御家庭の平和を永久に守るでしょう。
 妾が息を引き取りましたならば、眼を閉じて、口を塞《ふさ》ぎましたならば、今まで妾が見たり聞いたり致しました事実は皆、あとかたもないウソとなりまして、お二人の先生方は安心して貞淑な、お美しい奥様方と平和な御家庭を守ってお出でになれるだろうと思いますから。
 罪深い罪深いユリ子。
 姫草ユリ子はこの世に望みをなくしました。
 お二人の先生方のようなお立派な地位や名望のある方々にまでも妾の誠実《まごころ》が信じて頂けないこの世に何の望みが御座いましょう。社会的に地位と名誉のある方の御言葉は、たといウソでもホントになり、何も知らない純な少女の言葉は、たとい事実でもウソとなって行く世の中に、何の生甲斐《いきがい》がありましょう。
 さようなら。
 白鷹先生 臼杵先生
 可哀そうなユリ子は死んで行きます。
 どうぞ御安心下さいませ。
  昭和八年十二月三日              姫草ユリ子 」[#下揃え1字上げ。ここで引用文終わり]
 この手紙はすでに田宮特高課長に渡しました実物の写しで、貴下にお眼にかけたいためにコピーを取って置いたものですが、これを初めて読みました時も私は、何の感じも受けずにいる事が出来ました。依然として呆《あき》れ返ったトボケた顔で、相手の鋭い視線を平気で見返しながら問いかけました。
 「ヘエ。貴方《あなた》がこの手紙の曼陀羅先生で……」
 「そうです」
 相手は初めて口を開きました。シャガレた、底強い声でした。
 「モウ死骸は片付けられましたか」
 「火葬にして遺骨を保管しておりますが……死後三日目ですから」
 「姫草が頼んだ通りの手続きにしてですか」
 「さようです」
 「何で自殺したんですか」
 「モルフィンの皮下注射で死んでおりました。何処《どこ》で手に入れたものか知りませんが……」
 ここで相手は探るように私の顔を見ましたが、私は依然として無表情な強直を続けておりました。
 曼陀羅院長の眼の光が柔らぎました。こころもち歪《ゆが》んだ唇が軽く動き出しました。
 「先月……十一月の二十一日の事です。姫草さんはかなり重い子宮内膜炎で私のところへ入院しましたが、そのうちに外で感染して来たらしいジフテリをやりましてね。それがヤット治癒《なお》りかけたと思いますと……」
 「耳鼻科医《せんもんい》に診《み》せられたのですか」
 「いや。ジフテリ程度の注射なら耳鼻科医《せんもん》でなくとも院内《うち》で遣《や》っております」
 「成る程……」
 「それがヤット治癒りかけたと思いますと、今月の三日の晩、十二時の最後の検温後に、自分でモヒを注射したらしいのです。四日の……さよう……一昨々日の朝はシーツの中で冷たくなっているのを看護婦が発見したのですが……」
 「付添人も何もいなかったのですか」
 「本人が要《い》らないと申しましたので……」
 「いかにも……」
 「キチンと綺麗にお化粧をして、頬紅や口紅をさしておりましたので、強直屍体とは思われないくらいでしたが……生きている時のように微笑を含んでおりましてね。実に無残な気持がしましたよ。この遺書《かきおき》は枕の下にあったのですが……」
 「検屍はお受けになりましたか」
 「いいえ」
 「どうしてですか。医師法|違反《いはん》になりはしませんか」
 相手は静かに私の瞳を凝視した。いかにも悪党らしい冷やかな笑い方をした。
 「検屍を受けたらこのお手紙の内容が表沙汰になる虞《おそれ》がありますからね。同業者の好誼《よしみ》というものがありますからね」
 「成る程。ありがとう。してみると貴下《あなた》はユリ子の言葉を信じておられるのですね」
 「あれ程の容色《きりょう》を持った女が無意味に死ぬものとは思われません。余程の事がなくては……」
 「つまりその白鷹という人物と、僕とが、二人がかりで姫草ユリ子を玩具《おもちゃ》にして、アトを無情に突き離して自殺させたと信じておられるのですね……貴下は……」
 「……ええ……さような事実の有無《うむ》を、お尋ねに来たんですがね。事を荒立てたくないと思いましたので……」
 「貴方は姫草ユリ子の御親戚ですか」
 「いいえ。何《なん》でもないのですが、しかし……」
 「アハハ。そんなら貴下も僕等と同様、被害者の一人です。姫草に欺瞞《だま》されて、医師法違反を敢《あ》えてされたのです」
 相手の顔が突然、悪魔のように険悪になりました。
 「怪《け》しからん……その証拠は……」
 「……証拠ですか。ほかの被害者の一人を呼べば、すぐに判明《わか》る事です」
 「呼んで下さい。怪しからん……罪も報いもない死人の遺志を冒涜《ぼうとく》するものです」
 「呼んでもいいですね」
 「……是非……すぐに願います」
 私は卓上電話器を取り上げて神奈川県庁を呼出し、特高課長室に繋《つな》いで貰った。
 「ああ。田宮特高課長ですか。臼杵です。臼杵医院の臼杵です。先般は姫草の件につきましていろいろどうも……ところで早速ですが……お忙しいところまことにすみませんが、直ぐに病院《こちら》へお出で願えますまいか。姫草ユリ子の行方がわかったのです。……イヤ死んでいるのです。ある処で……実はその姫草ユリ子の被害者がまた一人出て来たのです。イヤイヤ。今度のは本物です。だいぶ被害が深刻なのです。築地の曼陀羅病院長と仰言《おっしゃ》る方ですが……そうです、そうです……聞いた事のない病院ですが……例の彼女一流の芝居に引っかかって医師法違反までさせられたという事実を説明しに、わざわざ僕の処に来ておられるのですが。姫草ユリ子の自殺屍体の遺骨を保管しておられると言うのですが……そうです、そうです。とんでもない話ですが事実です。今ここに待っておられるのです。是非貴方にお眼にかかりたいと言って……ああ。もしもし……もしもし……モウ曼陀羅院長は帰りかけておられます。帽子とステッキを持って慌《あわ》てて出て行かれます。アハアハ。モウ出て行きました。今、勇敢な看護婦が駈け出して見送っております。ちょっと待って下さい。僕が方向を見届けて報告しますから……あ。服装ですか。服装は一口に言うと黒ずくめのリュウとしたモーニングです。身長は五尺七、八寸。色の青黒い、外国人じみた立派な痩形《やせがた》の紳士……あ。脅迫用の手紙を忘れて行きました。アハアハ。この電話に驚いたらしいです。アハアハアハ。……あ。そうですか。それじゃお帰りがけにお寄り下さい。まだ話がありますから。イヤどうも失礼……すみませんでした。サヨナラ」
 曼陀羅院長は田宮課長の敏速な手配にもかかわらずトウトウ捕まらなかったらしく、今日の日が暮れるまで何の音沙汰もありませんでした。したがって彼氏が、彼女とどんな関係を持ったドンナ種類の人間であったか。どうして彼女の遺書《かきおき》を手に入れたか。いつから彼女の蔭身に付添って、どの程度の黒い活躍をしていたか……と言ったような事実はまだ推測出来ません。
 しかし神奈川県庁から帰りがけに病院に立ち寄って、私の提供した姫草ユリ子に関する新事実を聴き取った田宮特高課長は、容易ならぬ事件という見込を付けたらしく即刻、東京に移牒《いちょう》する意嚮《いこう》らしかったのですから、彼女の死に関する真相も遠からずハッキリして来る事と思いますが、それよりも先に小生は、一刻も早く彼女に関する事実の一切を貴下に御報告申し上げて、後日の御参考に供して置かねばならぬ責任を感じましたから、かように徹宵《てっしょう》の覚悟で、この筆を執っている次第です。今までは余りに恥かしい事ばかりなので御報告を躊躇《ちゅうちょ》しておったのですが……否……今日まで貴下と何等の御打合わせも出来なかったのが矢張《やは》り、かの不可思議な少女、姫草ユリ子の怪手腕に魅せられて脳髄を麻痺させられていたせいかも知れませぬが……。

 何よりも先に明らかに致して置きたいのは彼女……姫草ユリ子と自称する可憐の一少女が、昨春三月頃の東都の新聞という新聞にデカデカと書き立てられました特号|標題《みだし》の「謎の女」に相違ない事です。この事実は本日面会しました前記の司法当局者に、私から説明しましたので、同氏が「容易ならぬ事件」と認めて、即刻、警視庁に移牒したという理由もそこに在る事と察しられるのですが、その新聞記事によりますと(御記憶かも知れませんが)彼女は、その情夫? との密会所を警察に発見されたくないという考えから、その密会所付近の警察に自動電話をかけたものだそうです。
 「妾は只今××の××という家に誘拐、監禁されている無垢《むく》の少女です。只今、魔の手が妾の方へ伸びかかっておりますが、僅かの隙間《すき》を見て電話をかけてるのです。助けて下さい、助けて下さい」
 と言う意味の、真に迫った、息絶え絶えの声を送って、当局の自動車をとんでもない遠方の方角違いへ逐《お》い遣ってしまったのです。彼女はかようにして、それから度々警察を騒がせましたので結局、同じ女だと言う事がわかって、極度に当局を憤慨させ、新聞記者を喜ばせた……というのが事実の真相です。
 その無鉄砲とも無茶苦茶とも形容の出来ない一種の虚構《うそ》の天才である彼女が、貴下の御|懸念《けねん》になっている彼女であり、ツイこの間まで白い服を着て小生の病院内を飛び廻っておりました彼女だったことを、現在、彼女の身元引受人であった者がハッキリと主張しているのです。そうしてその主張している理由は彼女の心理状態から押して真実と認められるので、現に警察当局でもそうした主張の真実性を厘毫《りごう》も疑っていない次第です。
 それにしても渺《びょう》たる一少女に過ぎない彼女が、あらゆる通信、交通機関の横溢《おういつ》している今の世の中に、しかも眼と鼻の間とも言うべき東京と横浜に在る貴下と私の一家を、かくも長い間、お互いに怪しみ、探り合わせながら、どうしてもめぐり合う事が出来ないと言う不可思議な、気味の悪い運命に陥《おとしい》れて行くと同時に、彼女自身の運命までも葬らなければならぬほどの深刻な窮地に陥れて行くべく余儀なくされた、そのソモソモの動機は何処に在るのでしょうか。
 以下は私の日記の抜書を一つの報告文体に作り上げたものです。ですから中には彼女に関する貴下の御記憶と重複しているところもありましょう。または貴下の御人格を冒涜するような章句もありましょう。なおまた、敬語を抜きにした記録体に致しましたために、無作法に亙《わた》るような個所が出来るかも知れませんが、何卒《なにとぞ》、悪しからず御諒読《ごりょうどく》を願います。何《いず》れもその時の私の心境を率直、如実に告白致したいために、日記の記録する通りに文章を取纏《とりまと》めたものですから……。

 姫草ユリ子が私の病院に来たのは昨、昭和八年の五月三十一日……開業の前日の夕方であった。見事な、しかし心持地味なお納戸《なんど》の着物に、派手なコバルト色のパラソル、新しいフェルト草履《ぞうり》、バスケット一|個《つ》という姿の彼女がションボリと玄関に立った。
 「コチラ様では、もしや看護婦が御入用ではございませんかしら……」
 診察室の装飾に就いて家具屋と凝議《ぎょうぎ》をしていた私の姉と、妻の松子とは、顔を見合わせて彼女の勇敢さに感心したという。ちょうど二人雇っていた看護婦ではすこし手が足りないかも知れない……と話合っていたところだったので、早速、外来患者室に通して、私と三人で面会して一応の質問と観察をこころみた。
 「新聞の広告を見て来たのですか」
 「いいえ。ちょうど表の開院のお看板が電車の窓から見えましたので降りて参りました」
 「ハハア。お国はどちらですか」
 「青森県のH市です」
 「御両親ともそこにおられるのですか」
 「ハイ。H市の旧家でございます」
 「御両親の御職業は……」
 「造酒屋を致しております」
 「ほお。それじゃ失礼ですが、お実家《うち》は御裕福ですね」
 「ええ。それ程でもございませんけど……妾が東京に出る事に就きましても、両親や兄が反対したんですけど妾、自分の運命を自分で開いてみたかったんですし、それに看護婦の仕事がしてみたくてたまらなかったもんですから……」
 「それじゃ今では御両親と音信を絶っておられるんですか」
 「いいえ。いつも手紙を往復しておりますの。それからタッタ一人の兄も東京で一旗上げると言って今、丸ビルの中の罐詰《かんづめ》会社に奉公しております」
 「学校は何処をお出になったの」
 「青森の県立女学校を出ておりますの」
 「看護婦の仕事に御経験がありますか」
 「ハイ。学校を出ますと直ぐに信濃町《しなのまち》のK大の耳鼻科に入りましてズット今まで……」
 「そこを出て来た事情は……」
 「……あの。あんまり嫌な事が多いもんですから……」
 「いやな事ってドンな事ですか」
 「……申し上げられません。仕事はトテモ面白かったんですけど……」
 「ふうむ。貴女の身元保証人は……」
 「あの。下谷《したや》で髪結いをしている伯母さんに頼んでおりますの。いけないでしょうか」
 「どうして兄さんに頼まないんですか」
 「伯母さんの方がズット世間慣れておりますし、今までその家におったもんですから……きょうも、家にジッとしていないでブラブラ町を歩いて御覧、いい仕事があるかも知れないからって、その伯母さんが言いましたもんですから……」
 「お名前は……」
 「姫草ユリ子と申しますの」
 「姫草ユリ子……おいくつ……」
 「満十九歳二か月になりますの……使って頂けますか知ら……」
 これだけの問答で私等は彼女を採用する決心をしてしまった。私ばかりじゃない。妻も姉も、彼女の無邪気な、鳩のような態度と、澄んだ、清らかな茶色の瞳と、路傍にタタキ付けられて救いを求めている小鳥のような彼女のイジラシイ態度……バスケット一つを提《ひっさ》げて職を求めつつ街を彷徨《ほうこう》する彼女の健気な、痛々しい運命に、衷心《ちゅうしん》から吸い付けられてしまっていた。
 笑え……私等のセンチの安価さを……誰でもこの問答を一読しただけで、彼女の身元について幾多の矛盾した点や不安な点を発見するであろう。少なくとも一度、K大の耳鼻科に電話をかけて彼女の身元を幾分なりとも洗って見た上で雇い入れるのが常識的である事に気付くであろう。
 けれどもその時の私等はそうした軽率さを微塵も感じなかった。彼女の容姿と言葉付の吸い寄せるようなあどけなさが、彼女の周囲を渦巻きめぐっているであろう幾多の現実的な危険さに対する私等のアラユル常識を喚起《よびおこ》して、一種のローマンチックな、尖鋭な同情の断面を作って彼女に働きかけさせた事を私等は否定出来ないであろう。その翌《あく》る日、
 「ねえお姉様。あの娘《こ》が万一《もし》、看護婦が駄目だったら女中にでも使って遣りましょうよ。ねえ、可哀そうですから」
 「まあ。妾もアンタがその気ならと思っていたとこよ。追々お客様も殖《ふ》えるでしょうから」
 と二人が相談し合ったくらい姉と妻は彼女に対して乗気になっていたらしい。
 そればかりじゃない。なおその上にモウ一つ。これは私の職業意識とでも言おうか。私が彼女を見た時に、第一に眼に付いたのは彼女の鼻梁《はなすじ》であった。
 彼女は決して美人という顔立ではなかった。眼鼻立はドチラかと言えば十人並程度で、色も相当に白かったが、背丈が普通よりも低く五尺チョットぐらいであったろう。同時にその丸い顔の中心に当る小鼻が如何《いか》にも低くて、眼と鼻の間の遠い感じをあらわしていたが、それだけに彼女が人の好い、無邪気な性格に見えていた事は争われない。
 私はそうした彼女の顔立をタッタ一目見た瞬間に、彼女の小鼻に隆鼻術をやって見たくなったのであった。これくらいのパラフィンをあそこに注射すれば、これくらいの鼻にはなる。彼女の小鼻は鼻骨と密着していない、きわめて手術のし易いタチの小鼻であると思った。こうした一種の職業意識から来た愚かな魅惑が、彼女を雇い入れる決心をした私の心理の底に動いていた事も否定出来ない事実であった。

 こうした私の目的は間もなく立派に達成された。彼女は私の病院に雇われてから一週間と経たぬうちに俄然として見違えるような美少女となって、病院の廊下を飛びまわる事になった。決して自家広告をする訳ではないが、私は彼女に施した隆鼻術の効果の予想外なのに驚いたものであった。手術をして遣《や》った翌る朝、薄化粧をして「お早ようございます」と言った彼女の笑顔を見た瞬間に……これは大変な事をした。とんでもない美人にしてしまった……と肝を潰したくらいであった。
 しかし彼女に対する私達の驚異は、まだまだそれくらいの事では済まなかった。
 彼女の看護婦としての腕前は申し分ないどころの騒ぎではなかった。K大耳鼻科のお仕込みもさる事ながら、彼女は実に天才的の看護婦である事を発見させられて、衷心《ちゅうしん》から舌を巻かされたのであった。
 彼女が私の病院に来てから間もなく私がある中年紳士の上顎竇《じょうがくとう》蓄膿症の手術をした時に、初めて助手を命ぜられた彼女は、忙しく動いている私の指の間から、麻酔患者の切り開かれた上唇の間に脱脂綿をスイスイと差し込んで、溢《あふ》れ流れる血液を拭き上げて、切開部をいつも私の眼によく見えるようにして行った。その鮮やかな、狃《な》れ切った手付を見た時に私はゾッとするぐらい感心させられてしまった。永い年月の間、幾多の手術に当って来た老成の看護婦でも、こうした手術者の意図に対する敏感さと、手練の鮮やかさを滅多に持ち合わせていないであろう事を、私はシミジミ思わせられた事であった。
 しかし彼女が開業医なるものの患者に対して如何《いか》に素晴らしい理解を持っていたか。そのために私等一家が如何に彼女に感謝させられていたか。そのために病院内の仕事を、ほとんど非常識に近いところまで彼女に任かせ切っていたか、そうしてそのために、以下記述するような「謎の女」式の活躍の自由を、如何に多分に彼女に許しておったかという事実は、恐らく何人も想像の外であろうと思う。
 私は開業当時から、誰もするように仕事の時間割をきめていた。午前十時から午後一時まで、午後三時から六時迄を診察治療の時間ときめて、六時以後は直ぐに近くの紅葉坂《もみじざか》の自宅に帰って、家族と一緒に晩餐《ばんさん》を摂《と》る事にきめていたが、開業医の当然の責任として、帰ると直ぐに入院患者から何でもない苦痛のために慌《あわただ》しく病院に呼び戻される。または所謂《いわゆる》、草木も眠る丑満時《うしみつどき》に聞き分けのない患者から呼び付けられる事が何度も何度もある事を、当初から覚悟していた。これは医師として私的に非常な苦痛を感ずる事柄に相違ないのであるが、しかし出来るだけ勤めて遣《や》ろう。親切にして遣ろう。苦痛をなくするのが目的で、病気を治すのが目的じゃないのが一般入院患者の心理状態なのだから……と言ったような悟りまで開いて待ち構えていたのであるが、意外にも、私が開業以来、そんな事が一度もないので、次第に不思議に感じ始めた。あるいはまだ自宅に電話が引いてないせいではないかとも思ったが、それにしても怪訝《おか》しいと言うので、よく姉たちと話合ったものであったが、この不思議は間もなく解けた。それは実に姫草ユリ子一人の働きである事が、よく注意しているうちに判明して来た。
 彼女は麻酔の醒《さ》める頃合いとか、手術後の苦痛を訴え始める時間とか、または熱の高下と患者の体質とが関連して起る苦痛の度合いとか言うものに就いて看護婦特有の……ソレ以上の親切な敏感さを持っていた。いつも患者が何か言い出す前に先を越して手当てをしたり、予告をして慰めたりしていたものらしい。時としては勝手に患者の耳や鼻を掃除したり洗ったり、甚《はなはだ》しい時は私に断らずにモヒの注射、その他の鎮痛、麻酔手段を取った事が爾後《じご》の経過によって判明した事もあったが、しかし、それにしても患者の喜びは大したものであったらしい。ほかの看護婦に訴えてもマゴマゴしたり、躊躇《ちゅうちょ》したりしている事を彼女はグングン断行して安静に一夜を過ごさせたので、臼杵病院の姫草さんと言う名前が、私の名前よりも先に患家の間に好評を博した事は、決して不自然でなかった。無論、私が助かった事も非常なものであるにはあったが……。
 そればかりではない。

 彼女の持って生まれた魅力は事実、男女、老幼を超越したものがあった。この点では私の家族たちも唯一言「エライ」と評するよりほかに批評の言葉を発見し得ないくらい、彼女の手腕に敬服していた。
 老人は老人のように、小児は小児のように、男は男のように、女は女のようにと言ってみれば何でもない事ではあるが、そうしたあらゆる種類の患者の病状を一々親切に聞いて遣って、院長たる私を信頼させて、安心して診察、手術を受けさせて、気楽に入院させて、時としてはその家庭の内情までも聞いて遣って、同情し、励まし、慰めつつ、無事に退院させて遣る……その手際と言ったら到底、吾々凡俗の及ぶところではない。神経質な、根性のヒネクレタ老人や、ヤンチャな過敏な子供までも、モウ一から十まで姫草さん姫草さんと持ち切りで、ほかの二名の看護婦はあれどもなきが如き状態であった。アタジケない話ではあるが、患者が退院する時なぞは、院長の私のところへ謝礼をするよりも先ず姫草さんに……という傾向になってしまったもので、子供なんぞは泣いて帰らないという。ヒメちゃんと一緒に病院にいるんだと言って聞かない。そのほかの患者でも、退院して後に彼女宛に寄越す礼状の長いこと長いこと。受付兼会計係をしている姉が「十二銭も貼るほど手紙に書く事が、どうしてあるのだろう」と呆《あき》れるくらいであった。
 さらに驚くべき事実は(実は当然の帰結かも知れないが)彼女のお蔭で私の患者がメキメキと激増した事であった。この点、私の開業は非常に恵まれていたと同時に、彼女……姫草ユリ子と名のるマネキン兼マスコットに絶大の感謝を払わなければならなかった。受診に来る患者の甲乙丙丁が、何につけても姫草さん姫草さんと尋ね求める態度を見ると、ちょうど臼杵病院の中に姫草ユリ子が開業をしているようで、多少の自信を腕に持っている私も、彼女のこうした外交手腕に対しては大いに謙遜の必要を認めさせられていた次第であった。
 私は彼女に二十円の給料を払っていた。これは決して法外に安い給料とは思わなかったが最近、彼女の功績を大いに認めなければならぬ状態を認めて、姉や妻と寄々相談をしていた次第であったが、折も折、ちょうどそのさ中に、実に奇妙とも不思議とも、たとえようのない事件が彼女を中心にして渦巻《うずま》き起って、遂に今度のような物凄い破局に陥ったのであった。しかもその破局のタネは彼女自身が撒《ま》いたもので、すでに彼女が私の処に転がり込んだ最初の一問一答の中に、その種子《たね》が蒔《ま》かれていたのであった。

 彼女の郷里は青森県の酒造家で、裕福な家らしく聞いていたが、その後の彼女の朗らかな性格や、無邪気な態度を透して、そうした事実を私等は毛頭疑わなかった。
 一番最初の問答に出た彼女の兄なる人物は、彼女が来てから間もなく倉屋の黒羊羹《くろようかん》を沢山《たくさん》に持って病院に挨拶に来た。もっともそれは私が帰宅したアトの事で、誰もその兄の姿を見届けたものはいなかったが、ちょうど私が自宅で夕食を終ってから、何かしらデザートじみた物が欲しいと思っているところへ、病院の姫草ユリ子から取次電話がかかって来た。
 「先生。只今《ただいま》兄がお礼に参りましたの。先生がお好きって妾が申しましたからってね、倉屋の羊羹を持って参りましたの……イイエ。もう帰りましたの。折角お休息《やすみ》のところをお妨げしてはいけないってね。どうぞどうぞこの後とも宜《よろ》しくってね……申しまして……ホホ。そちらへお届け致しましょうか……羊羹は……」
 「ウン大急ぎで届けてくれ。ありがとう」
 と返事をしたが、恐らく甘く見られたと言ってもこの時ぐらい甘く見られた事はなかったろう。
 彼女の郷里からと言って五升の清酒と一|樽《たる》の奈良漬が到着したのは、やはり、それから間もなくの事であった。何でも郷里の人に両親から言伝《ことづけ》た品物だとかで、例によって私が帰宅後に、病院に居残っていた彼女が受け取ったという話であったが、彼女が汗を流して提《ひっさ》げて来た酒瓶と樽にはレッテルも何もなく、きわめて粗末な、田舎臭い熨斗紙《のしがみ》が一枚ずつ貼り付けて在《あ》る切りであった。一口味わってみた私は、
 「ウン。ナカナカ江戸前だな。ピインと来るね。奈良漬も三越のに負けない」
 と思わず口を辷《すべ》らしたが、恐らくそれが図星だったのであろう。樽の縄を始末していた彼女は、ただ赤面した切りでコソコソと病院に逃げ帰ったようであった。
 もっともその時に私は彼女の幸福を祈っている兄や両親の事を思い出して、相当御念入りにシンミリさせられていたから、彼女のそうしたコソコソした態度にはチットモ気付かなかった。彼女のアトを見送りながら、
 「タッタ二十円しか遣らないのになあ」
 とテレ隠しみたような冗談を言ったくらいの事であった。
 ところでここまでは誠に上出来であった。この辺で止めて置けば万事が天衣無縫《てんいむほう》で、彼女の正体も暴露されず、私の病院も依然としてマスコットを失わずにすんだ訳であったが、好事《こうず》魔《ま》多し、とでも言おうか。彼女独特のモノスゴイ嘘吐きの天才が、すこし落ち着くに連れて、モリモリと異常な活躍を始めたのは、是非もない次第とでも言おうか。
 彼女の異常な天才が、K大耳鼻科の白鷹君と私の家庭を形容の出来ない、薄気味の悪い悪夢の中に陥れ始めた原因というのは、恐らく彼女自身も気付かなかったであろう、きわめて些細な出来事からであった。

 お恥かしい話ではあるが開業|※[#「※」は「つつみがまえ+夕」、28-1]々《そうそう》の好景気に少々浮かされ気味の私は、いつの間にか学生時代とソックリの瓢軽者《ひょうきんもの》に立ち帰っていた。つまらない駄洒落《だじゃれ》や、軽口や、冗談を連発して患者の憂鬱を吹き飛ばしたり、
 「オイオイ。小さい解剖刀《メス》を持って来い。小さなメスだ。お前じゃないよ。間違えるな」
 と姫草に言ったりしたが、そのたんびにユリ子はキャッキャと笑って立ち働きながら言った。
 「まあ臼杵先生は白鷹先生ソックリよ」
 「何だい。その白鷹って言うのは……俺に断らないで俺に似てるなんて失敬な奴じゃないか」
 「まあ。臼杵先生ったら……白鷹先生は、あなたよりもズットお年上で、K大耳鼻科の助教授をしていらっしゃるんですよ」
 「ワア。あやまったあやまった。あの白鷹先生かい。あの白鷹先生なら、たしかに俺の先輩だ」
 「ソレ御覧なさい。ホホホ。K大にいる時に白鷹先生は、いつも手術や診察の最中にいろんな冗談ばかり仰言って患者をお笑わせになったんですよ。鼓膜切開の時なんかは、患者が笑うと頭が動いて、トテモ危険なんですけど、白鷹先生の手術はステキに早いもんですから、患者が痛いなんて感ずる間もなく、笑い続けておりましたわ。そんなところまで臼杵先生のなさり方とソックリでしたわ」
 なぞとユリ子は、あとで言訳らしく説明するのであったが、こうした最大級の真に迫ったオベッカが私のプライドを満足させた事は言う迄もない。もちろんこれは彼女が、彼女の実家の裕福な事を証明して、彼女の暗い、醜い前身を隠そう。同時に彼女の儚《はか》ない空想を現実に満足させようとしたのと同じ心理から出た作り事で、彼女がK大耳鼻科、助教授の要職にいる人から如何に信頼を受けておったかと言う事を、具体的に証明したいばっかりの一片の虚構に過ぎなかったのであったが、しかしその時の私が、どうしてソンナ事に気付き得よう。かねてから母校の先輩として尊敬していた白鷹先生の名前を久し振りに聞いた私は、喜びの余り眼を丸くして彼女に問いかけたのであった。
 「ホオ。それじゃ白鷹先生は今でもK大におられるのかい。チットモ知らなかった」
 彼女は平気で……否……むしろ得意そうに白鷹先生の話に深入りして行った。
 「ええ、ええ。手術にかけたらトテモお上手っていう評判ですわ。妾、こちらへ参りますまで先生にドレくらい可愛がられたかわかりません。奥様からも、それはそれは真実の娘のようにして頂きましてね。今にキット良い処へ嫁付《かたづ》けて遣るって仰言って、着物なんか幾つも頂戴《いただ》いて参りましたの。今、平常《ふだん》に着ておりますのも奥さんのお若い時のを、派手になったからって下すったのですわ」
 私はスッカリ彼女の話に引っぱり込まれてしまった。蔭ながら白鷹先生に敬意を表すべく両手を揉《も》み合わせたものであった。
 「なあんだ。白鷹先生なら僕の大先輩だよ。九大にいる時分に御指導を受けたんだから、もしかすると僕の事を御存じかも知れない。いい事を聞いた。そのうちに是非一度、お眼にかかりたいもんだが……」
 「ええ、ええ。そりゃあ必定《きっと》、お喜びになりますわ。先生の事も二、三度お話の中に出て来たように思いますわ。臼杵君はトテモ面白い学生だったって、そう仰言ってね」
 「ふうん。僕は茶目だったからなあ。お宅はどこだい」
 「下六番町の十二番地。奥さんはトテモ上品でお綺麗な、九条武子様みたいな方ですわ。久美子さんと仰言ってね。先生をトテモ大切になさるんですよ。仲がよくってね……」
 「アハハハ。何でもいいから、そのうちに……きょうでもいいから一度、君から電話かけといてくれないかね。臼杵がお眼にかかりたがっているって……」
 「……まあ。妾なんかが御紹介しちゃ失礼じゃございません……?」
 「なあに構うものか。白鷹先生なら、そんな気取った方じゃないんだよ」
 そう言って私は姫草ユリ子に頭を一つ下げた。
 彼女は、そう言う私の顔をすこし近眼じみた可愛い瞳《ひとみ》でチョット見上げていたが、何故か多少、悄気《しょげ》たように俛首《うなだ》れて軽いタメ息を一つした。聊《いささ》か怨《うら》めしそうな態度にも見えたが、しかし私はソレを彼女独特の無邪気な媚態《びたい》の一種と解釈していたので格別不思議に思わなかった。
 「……でも妾……看護婦|風情《ふぜい》の妾が……あんまり失礼……」
 「ナアニ。構うもんか。看護婦が紹介したって先生は先生同士じゃないか。白鷹先生はソンナ事に見識を取る人じゃなかったぜ」
 「ええ。そりゃあ今だって、そうですけど……」
 「そんなら、いいじゃないか……僕が会いたくて仕様《しよう》がないんだから……」
 彼女は仕方がないという風に肩を一つユスリ上げた。奇妙な、泣きたいような笑い顔をニッコリとして見せながら、
 「ええ。妾でよければ……いつでも御紹介《おひきあわせ》しますけど……」
 「ウン。頼むよ。きょうでもいい。電話でいいから掛けといてくれ給え」
 それはイツモの気軽い彼女には似合わない、妙にコダワッた薄暗い応対であった。しかし間もなく平生の無邪気な快活さを取り返した彼女は、さもさも嬉しそうに……あたかも白鷹助教授と臼杵病院長を紹介する光栄を喜ぶかのようにピョンピョンと跳ね上りながら電話室へ走り込んで行った。
 その後ろ姿を見送った私は、モウ何も疑わない朗らかな気持になっていたが、何ぞ計らん。この時すでに私は彼女に一杯|喰《く》わされていたので、彼女もまた同時に、彼女の生涯の致命傷となるべき悩みの種子《たね》を彼女自身の手で萌芽させていたのであった。
 彼女の言う白鷹先生というのは、彼女の識っている白鷹先生とは性質の違った白鷹先生であった。要するに彼女の機智が、私をモデルにして創作した……私の機嫌を取るのに都合のいいように創作した一つの架空の人物に過ぎないのであった。しかもその架空の人物と彼女との親密さを私に信じさせる事によって、彼女自身の信用を高め、彼女の社会的な存在価値を安定させようと試みている一つのトリック人形でしか白鷹先生はあり得ないのであったが、軽率な私は、そのトリック式白鷹先生の存在を百二十パーセントに妄信させられていた……私と同様な気軽な、茶目式の人物と思い込んでしまったために、こんな軽はずみな事を彼女に頼んだ次第であった。
 ところが彼女のこうした不可思議な創作能力は、それからさらに百尺竿頭百歩を進めて、真に意表に出ずる怪奇劇を編《あ》み出す事になった。……と言うのは御本人の白鷹先生も御存じないK大耳鼻科の白鷹先生から、白昼堂々と電話がかかって来たのであった。
 私が開業してから、ちょうど三月目……本年の九月一日の午後三時半頃、彼女が電話口から診察室に飛んで来た。
 「先生。先生。白鷹先生からお電話です」
 大勢の患者を診察していた私は驚いて振り返った。
 「ナニ。白鷹先生から電話……何の用だろう」
 「まあ。先生ったら……この間、妾に紹介してくれって仰言ったじゃございません。ですから妾、昨日お電話でモウ一度そう申しましたの……お忙しい時間もチャンとそう言って置きましたのに……今頃お掛けになるなんて……」
 と彼女はイクラか不平そうに可愛い眉を顰《ひそ》めるのであった。こうした技巧と言ったら、それこそ独特の天才と言うべきものであったろう。実に真に迫ったものがあった。彼女と、彼女の創作した白鷹先生との親密さに就いて、微塵の疑いをさし挾む余地もないくらい真に迫ったものであった。
 電話に出ていた相手の男性……白鷹先生に非《あら》ざる白鷹先生は、彼女の説明通りに、如何にも快活らしい朗らかな声の持主であった。しかも、それがほとんど私に一言も口を利かせないまま、一気に喋舌《しゃべ》り続けた。
 「ヤア。臼杵君か。暫く。御機嫌よう。イヤ御無沙汰御無沙汰。景気はどうだい。ウンウン。姫草から聞いたよ。結構結構。ウンウン。姫草って奴はいい看護婦だろう。こっちで、あんまり良過ぎるもんだから看護婦長から憎まれてね。とんでもない濡衣《ぬれぎぬ》を着せられて追い出されちゃったんだよ。僕の妻《かない》が非常に可愛がっていたんだがね。イヤ。本人も喜んでいるよ。この間と昨日と二度電話をかけてね。君ん処《とこ》は非常に居心地がよくて働き甲斐《がい》があるってね。そう言うんだ。ウンウン。妻も聞いて喜んでいるんだ。何しろ娘みたいに可愛がっていたんだからね。ウンウン。看護婦になるって青森県を飛出したところなんかは少々馬鹿かも知れないがね。看護婦に生まれ付いているのだろう。仕事は実に申し分ないんだ。僕が保証するよ。可愛がってくれ給え。ハハハ。イヤ久し振りに君に会ってみたいんだ。どうだい。相変らず飲めるかね。ウン結構結構。……ところで君は在京の耳鼻咽喉科の医者連中がやっている庚戌会《こうぼくかい》って言うのを知っているかね。それだ。ウンウン。九州にいる時分に聞いていた。明治四十三年の庚戌の年に出来た会……ウン。それだ、ナアニ。毎月一回ずつ三日か四日の日に、みんなが寄って旧交を温めたり、不平を言い合ったりして飲んだくれる会さ。ステキに朗らかな会なんだ。それが来月は三日にきまったからね。場所は丸の内倶楽部……午後六時からなんだが、君やって来ないか。会費なんかその時次第だがイクラもかからない。ウン是非来てくれ給え。ウンウン。アハアハ。まだお眼にブラ下らないが奥さんにもよろしく……」
 と言ううちに時間が切れてしまった。私が受話器をかけると直ぐ横に彼女が立っていて、可愛らしく小首を傾《かし》げながら、
 「まあ。断《き》っておしまいになったの。あたしからもお話したかったのに……でも、どんなお話でしたの……」
 と心配らしく眼を光らしているのであった。
 「ウン。驚いたよ。恐ろしくザックバランな先生だね。少々巻舌じゃないか」
 「……でしょうね。そりゃあ面白い方よ」
 それから電話の内容を話して聞かせると、如何にも安心したらしく、さも嬉し気にピョンピョン跳ねて廊下を飛んで行くのであった。
 「ホントに白鷹先生ったらスッキリした、いい方だったわ。親切な方……妾大好き……」
 なぞと感激に満ち満ちた、軽い独言《ひとりごと》を言いながら……すこしの不自然もなく私に聞こえよがしに言いながら……。
 ところが、それから二日目の朝、私が出勤すると間もなく、平生《いつ》になく不機嫌な顔をした彼女が、揉《も》みくしゃにした便箋を手に握りながら、妙に身体をくねらして私の前に立った。可愛い下唇を反《そ》らして言うのであった。
 「ほんとに仕様のない。白鷹先生ったら。仕事となると夢中よ」
 「どうしたんだい。独りでプンプンして……」
 「いいえね。昨夜の事なんですの。白鷹先生から妾へ宛ててコンナ速達のお手紙が来たんですの。きょうの午後に平塚の患者を見舞いに行くんだが、帰りが遅くなるかも知れない。だから庚戌会へも行けないかも知れない。お前から臼杵先生によろしく申し上げてくれって言うお手紙なんですの。ほんとに白鷹先生ったら仕様のない。稼ぐ事ばっかし夢中になって……キット平塚の何とか言う銀行屋さんの処ですよ。お友達と下手糞《へたくそ》の義太夫の会を開くたんびに、白鷹先生を呼ぶんですから、それが見栄なんですよ。つまらない……」
 「アハハ。そう悪く言うもんじゃないよ。そんな健康な、金持の患者が殖《ふ》えなくちゃ困るんだ。耳鼻科の医者は……」
 「だって久し振りに先生と会うお約束をしていらっしゃるのに……」
 「ナアニ。会おうと思えばいつでも会えるさ」
 「……だって」
 と口籠りながら彼女は如何にも不平そうな青白い眼付で、私の顔を見上げた。……が……この時に私がモウ少し注意深く観察していたら、彼女のそうした不安さが尋常一様のものでなかった事を容易に看破し得たであろう。「会おうと思えばいつでも会える」と言った私の言葉が、彼女にドレ程の深刻な不安を与えたか……彼女をドンナに恐ろしい脅迫観念の無間地獄に突き落したかを、その時に察し得たであろう。……自分の実家の裕福な事を如実に証明し、同時に、自分の看護婦としての信用が如何に高いものが在るかをK大助教授、白鷹先生の名によって立証すべく苦心していた彼女……かの「謎の女」の新聞記事によって、この時すでに社会的の破滅に脅威されかけている彼女自身の自己意識を満足させると同時に、彼女自身だけしか知らない驚くべき謎に包まれている彼女の過去を、完全に偽装《カモフラージュ》しようと試みていた彼女の必死的努力は、本物の白鷹先生と私とが直接に面会する事によってアトカタもなく粉砕される事になるではないか。彼女は、彼女自身に作り上げている虚構《うそ》の天国の夢をタタキ破られて、再び人生の冷たい舗道の上に放逐されなければならなくなるではないか。こうした女性に取って、そうした幻滅的な出来事が、死刑の宣告以上に怖ろしいものである事は現代の婦人の……特に少女の心理を理解する人々の容易に首肯《しゅこう》し得るところであろう。
 事実、こうした破局に対する彼女の予防手段は、それが後、真に死物狂い式なものがあった。「厘毫の間違いが地獄、極楽の分れ目」という坊主の説教をそのままに、彼女は自分自身を陥れる、身の毛の辣立《よだ》つ地獄絵巻を、彼女自身に繰り拡げて行ったのであった。

 その九月も過ぎて、十月に入った二日の朝、彼女はまたも病院の廊下でプリンプリンと憤った態度をして私の前に立った。
 「どうしたんだい。一体……また、機械屋の小僧と喧嘩でもしたのかい」
 「いいえ。だって先生。明日は十月の三日でしょう」
 「馬鹿だな。十月の三日が気に入らないのかい」
 「ええ。だって毎月三日が庚戌会の期日じゃございません」
 「あ……そうだっけなあ。忘れていたよ」
 「まあ。そんなところまで白鷹先生とそっくり。先生は庚戌会へお出でになりませんの」
 「ウン。白鷹先生が行くんなら僕も行くよ」
 「この間お約束なすったんじゃございません」
 「イイヤ。約束なんかした記憶《おぼえ》はないよ」
 「まあ。そんならいいんですけど……」
 「どうしたんだい」
 「ツイ今しがた、白鷹先生からお電話が来ましたのよ。臼杵先生はまだ病院にいらっしゃらないのかって……」
 「オソキ病院のオソキ先生ですってそう言ったかい」
 「まあ。どうかと思いますわ。いつも午前十時頃しかいらっしゃいませんって申しましたら、きょうは風邪を引いて寝ちゃったから、庚戌会へは失敬するかも知れないって仰言るんですね。妾キッと先生とお約束なすってたのに違いないと思って腹が立ったんですよ。何とかして会って下さればいいのに……」
 「そりゃあ会おうと思えば訳はないよ。しかし妙に廻り合わせが悪いね」
 「ホントに意地の悪い。きょうに限って風邪をお引きになるなんて……妾、電話で奥さんに文句言っときますわ」
 「余計な事を言うなよ。それよりも、今から妾がお勧めして臼杵先生をお見舞いに差し出そうかと思いますけど、友喰いになる虞《おそれ》がありますから、失礼させますって、そう言っとき給え」
 「ホホホホ。またあんな事。それこそ余計な事ですわ」
 「ナアニ。そんな風に言うのが新式のユーモア社交術って言うんだ。奥さんにも宜しくってね」
 こんな訳で白鷹先生に非ざる白鷹先生に対する私の家族の感じは、姫草ユリ子を仲介として日に増し親密の度を加えて来た。のみならず、ちょうど私が箱根のアシノコ・ホテルに外人を診察に行く約束をした日の早朝に白鷹氏……否、白鷹先生ならぬ白鷹先生から電話がかかって、
 「この間はすまなかった。いつも間が悪くて君に会う機会がない。きょうは歌舞伎座の切符が二枚手に入ったから一緒に見に行かないか。午後一時の開場だから十時頃の電車で銀座あたりへ来てくれるといい。君の知っているカフェーかレストランがあるだろう」
 という話だったが、生憎《あいにく》、私が行けないと姫草が言ったとかで、あとから歌舞伎座の番組と一緒に妻と子供へと言って風月《ふうげつ》のカステラを送って来たりした。しかもその小包に添えた手紙を見ると紛《まぎ》れもない男のペン字で、相当の学力を持ったインテリ式の文句であった。だからこちらでも非常に恐縮して、折よく故郷から送って来た鶏卵素麺《けいらんそうめん》に「今度の庚戌会へは是非とも出席します」と言う意味の手紙を添えて、下六番町の白鷹先生宛に送り出したが、それは何処へ届いたやら、あるいは横浜の臼杵病院を一歩も出なかったかも知れないと思う。その手紙や小包を渡して、送り出すように命じたのが、外《ほか》ならぬ姫草ユリ子だったから……。
 ところが、それから十一月の初旬に入ると、彼女はまたも大変な失策を演じた。もちろん、それは彼女自身から見ると、いかにも巧妙な、水も洩《も》らさぬ筋書に見えたのであろうが、それがアンマリ巧妙過ぎたために、おぞましくも私等一家から、彼女自身の正体を見破られる破目に陥ったのであった。
 私の日記を翻して見ると、それはやはり十一月の三日、明治節の日であった。彼女が事を起すのは、いつも月末から初旬へかけた数日のうちで、殊に白鷹先生から電話がかかったり、手紙が来たりするのは大抵三日か四日頃にきまっているのであった。そこにこの「謎の女」の神秘さがあった事を神様以外の何人が察し得たであろう……。

 その十一月の三日のこと。シトシト雨の降り出した午前十時頃、私が病院に出勤すると、玄関の扉《ドア》の音を聞くや否や、彼女が薬局から飛び出して、私の胸に飛び付きそうに走りかかって来た。唇の色まで変ったヒステリーじみた表情をしていた。
 「まあ先生。どうしましょう。タッタ今電話がかかって来たのです。白鷹先生の奥さんが三越のお玄関で卒倒なすったんですって。そうして鼻血が止まらなくなって、今お自宅《うち》で介抱を受けていらっしゃるんですって……」
 「そりゃあ、いけないねえ。何時頃なんだい」
 「今朝、九時頃って言うお話ですの……」
 「ふうん。それにしちゃ馬鹿に電話が早いじゃないか。何だって俺んとこへ、そんなに早く知らせたんだろう」
 「だって先生。この間のお手紙に、今度の庚戌会で是非会うって、お約束なすったでしょう」
 「ウン。あの手紙を見たのかい」
 「あら。見やしませんわ。ですけどね。今度の庚戌会は大会なんでしょう。明治節ですから……」
 「ふうん。僕は知らなかったよ」
 「あら。この間、案内状が来てたじゃございません」
 「知らないよ。見なかったよ。どんな内容だい」
 「何でもね。今度の庚戌会は、ちょうど明治節だから久し振りの大会にするから東京市外の病院の方々も参加を申し込んで頂きたいって書いてありましたわ。あの案内状どこへ行ったんでしょう」
 「ふうん。そいつは面白そうだね。会費はイクラだい」
 「たしか十円と思いましたが……」
 「高価《たけ》えなあ」
 「オホホ。でも幹事の白鷹先生から、臼杵先生に是非御出席下さいってペン字で添書がして在りましたわ」
 「ふうん。行ってみるかな」
 「あたし、先生がキットいらっしゃると思いましたからね。それから後お電話で白鷹先生に、今度こそ間違ってはいけませんよって念を押したら、ウン。臼杵君からも手紙が来た。おまけに幹事を引き受けたんだから今度こそは金輪際《こんりんざい》、ドンナ事があっても行くって仰言ったんですの。そうしたらまたきょうの騒ぎでしょう。あたし口惜《くや》しくて口惜しくて……」
 「馬鹿、そんな事を口惜しがる奴があるか。何にしてもお気の毒な事だ。いい序《ついで》と言っちゃ悪いが、お見舞いに行って来て遣《や》ろう」
 「まあ先生。今から直ぐに……?」
 「うん。直ぐにでもいいが……」
 「でも先生。アデノイドの新患者が三人も来ているんですよ」
 「フーム。どうしてわかるんだい。鼻咽腔肥大《アデノイド》ってことが……」
 「ホホ。あたし、ちょっと先生の真似をしてみたんですの。患者さんの訴えを聞いてから、口を開けさせてチョット鼻の奥の方へ指先を当ててみると直ぐに肥大《アデノイド》が指に触るんですもの」
 「馬鹿……余計な真似をするんじゃない」
 「……でも患者さんが手術の事を心配してアンマリくどくど聞くもんですから……そうしたら三人目の一番小ちゃい子供の肥大《アデノイド》に指が触ったと思ったら突然《いきなり》、喰付かれたんですの……コンナニ……」
 と付根の処を繃帯した左手の中指を出して見せた。
 「……見ろ。これからソンナ出裟婆《でしゃば》った真似をするんじゃないよ」
 と戒《いまし》めてから私は平常の通り診察にかかったが、彼女は別にお見舞に行こうとする私を強《し》いて止めようとする気色も見せなかった。
 しかし午後一時から三時までの私の休息時間が来て、程近い紅葉坂の自宅に帰ろうとすると、その玄関で彼女がまたも私の前に駈け寄りながらシオシオと頭を下げた。
 「先生。すみませんけど、きょうの午後から、ちょっとお暇を頂きたいんですの」
 「うん。きょうは手術がないから出てもいいが……何処へ行くんだい」
 「あの……白鷹先生の奥様の処へ、お見舞に行きたいんですの。どうしても一度お伺いしなければ……と思いますから……」
 「うん。そりゃあ丁度いい。僕も今夜あたり行こうと思っているんだから、そう言っといてくれ給え」
 「ありがとうございます。では行って参ります」
 「気を付けて行っといでよ。お天気もモウ上るだろう」
 彼女と私とがコンナ風にシンミリとした憂鬱な調子で言葉を交した事はこの時が初めてだったように思う。何となく虫が知らせたとでも言おうか。それともこの時すでに、白鷹先生の事に関して、絶体絶命の破局にグングン追い詰められつつ在る事を自覚し過ぎるくらい、自覚していた彼女自身の内心の遣《や》る瀬《せ》ない憂鬱さが、私の神経に感じたものかも知れないが……。

 いつもの通り病院を仕舞った私は、雨上りの黄色い夕陽《ゆうひ》の中を紅葉坂の自宅に帰って、夕食を仕舞った。その序に、白鷹夫人のきょうの出来事を比較的明るい気持で喋舌《しゃべ》っていると、そのうちに黙って給仕をしていた妻の松子がフイッと大変な事を言い出した。
 「ねえあなた。姫草さんの話は、あたし、どうも変だと思うのよ」
 「……フウン……ドウ変なんだい」
 「あたしこの間からそう思っていたのよ。姫草さんが紹介した白鷹先生に、貴方がどうしてもお眼にかかれないのが、変で変で仕様がなかったのよ」
 「ナアニ。廻り合わせが悪かったんだよ」
 「いいえ。それが変なのよ。だって、あんまり廻り合わせが悪過ぎるじゃないの。あたし何だか姫草さんが細工して、会わせまい会わせまいと巧謀《たくら》んでいるような気がするの」
 「ハハハ。『どうしても会えない人間』なんて確かにお前《まい》の趣味だね。探偵小説、探偵小説……」
 ことわって置くが妻の松子は、女学校時代から「怪奇趣味」とか言う探偵趣味雑誌の耽読者で、その雑誌にカブレているせいか、頭の作用が普通の女と違っていた。麻雀《マージャン》の聴牌《てんぱい》を当てるぐらいの事はお茶の子サイサイで、職業紹介欄の三行広告のインチキを閑暇《ひま》に明かして探り出す。または電車の中で見た婦人の服装から、その婦人の収入と不釣合な生活程度を批判する……と言ったような一種の悪趣味の持主であった。だから吾が妻ながら時折は薄気味の悪い事や、うるさい事もないではなかったが、しかし、そうした妻の頭の作用《はたらき》に就いて私が内心|些《すく》なからず鬼胎《おそれ》を抱《いだ》いていた事は事実であった。
 だからこの時も姫草看護婦に対する疑いを、普通一般の嫉妬《やきもち》と混同するような気は毛頭起らなかった。また彼女の変痴気趣味が出たな……ぐらいにしか考えなかったが、それでも、そうした彼女の姫草ユリ子に対する疑いが、何かしら容易ならぬ大事件になりそうな予感だけはハッキリと感じたから、念には念を入れるつもりで私は、彼女の考えを一応、検討してみる気になった。
 「白鷹先生に、どうしても俺が会えないのが不思議と言えば不思議だが、論より証拠だ。今夜はこれから出かけて行って、是が非でも会って来るつもりだから、いいじゃないか」
 「ええ。……でもお会いになったら……何だか大変な間違いが起りそうな気がして仕様がないのよ……あたし……」
 「アハハ。二人が出会ったとたんにボイインと爆弾でも破裂するのかい」
 「ええ。そう言ったような予感がするのよ。幾度タタイても爆発しなかった分捕の砲弾が、チョイと転がったハズミに爆発して、何もかもメチャメチャになった新聞記事があったでしょ。今度の事もソレに似てるじゃないの。何だか妾、胸がドキドキするわ」
 「アハアハ。イヨイヨ以て怪奇趣味だ。しかも漫画趣味だよ。アダムスンか何かの……」
 「オホホ。もっとすごい感じよ」
 「アハハ。悪趣味だね。それでも今日会えなかったら一体どうなるんだい話は……」
 「いいえ。妾、今夜こそキット貴方が白鷹先生にお会いになれると思うのよ。そうしたら何もかもわかると思うのよ」
 「名探偵だね。どうして会えるんだい」
 「今夜の庚戌会は何処であるんでしょう」
 「やはり丸の内倶楽部さ」
 「今からそこへお出でになったらキット白鷹先生が来ていらっしゃると思うのよ」
 「馬鹿な。奥さんが病気なのに来るもんか」
 「プッ。馬鹿ね貴方。まだ信じていらっしゃるの。白鷹の奥さんの卒倒騒ぎを……」
 「信じているともさ……だからお見舞に行くんじゃないか」
 「お見舞に行くのを止して頂戴……そうして知らん顔して庚戌会へ出席して御覧なさいって言うのよ。キットほんとの白鷹先生がいらっしゃるから……」
 「……ほんとの白鷹先生。ふうん。つまり、それじゃ今迄の白鷹先生は、姫草ユリ子の創作した影人形だって言うんだね」
 「ええそうよ。何だかそんな気がして仕様がないのよ。あの娘《こ》の実家が裕福だって言うのも、当てにならない気がするし、年齢《とし》が十九だって言うのも出鱈目《でたらめ》じゃないかと思うの……」
 「驚いた。どうしてわかるんだい」
 「あたし……あの娘が病院の廊下に立ち佇まって、何かしらションボリと考え込んでいる横顔を、この間、薬局の窓からジイッと見ていた事があるのよ。そうしたら眼尻と腮《あご》の処へ小さな皺《しわ》が一パイに出ていてね。どうしても二十五、六の年増《としま》としか見えなかったのよ」
 「ふうん。何だか話がモノスゴクなって来たね。姫草ユリ子の正体がダンダン消え失せて行くじゃないか。幽霊みたいに……」
 「そればかりじゃないのよ。その横顔をタッタ一目見ただけで、ヒドク貧乏臭い、ミジメな家の娘の風付きに見えたのよ。お婆さんじみた猫背の恰好になってね。コンナ風に……」
 「怪談怪談。妖怪《おばけ》エー……キャアッと来そうだね」
 「冷やかしちゃ嫌。真剣の話よ。つまり平常《いつも》はお化粧と気持で誤魔化《ごまか》して若々しく、無邪気に見せているんでしょうけど、誰も見ていないと思って考え込んでいる時には、スッカリ気が抜けているから、そんな風に本性があらわれているんじゃないかと思うのよ」
 「ウップ。大変な名探偵が現われて来やがった。お前、探偵小説家になれよ。キット成功する」
 「まあ。あたし真剣に言ってんのよ。自烈《じれっ》たい。本当にあの人、気味が悪いのよ」
 「そう言うお前の方がヨッポド気味が悪いや」
 「憎らしい。知らない」
 「もうすこし常識的に考えたらどうだい。第一、あの娘《こ》がだね。姫草ユリ子が、何の必要があってソンナ骨の折れる虚構《うそ》を巧謀《たくら》むのか、その理由が判明《わか》らんじゃないか。今までに持ち込んで来たお土産の分量だって、生優しい金高じゃないんだからね。おまけにおりもしないモウ一人の白鷹先生を創作して、電話をかけさせたり、歌舞伎に案内させたり、カステラを送らせたり、風邪を引かしたり、平塚に往診さしたり、奥さんを三越の玄関で引っくり返らしたりなんかして……作り事にしては相当骨が折れるぜ。況《いわ》んや俺たちをコンナにまで欺瞞《だま》す気苦労と言ったら、考えるだけでもゾッとするじゃないか」
 「……あたし……それは、みんなあの娘《こ》の虚栄だと思うわ。そんな人の気持、あたし理解《わか》ると思うわ」
 「ウップ。怪しい結論だね。恐ろしく無駄骨の折れる虚栄じゃないか」
 「ええ。それがね。あの人は地道に行きたい行きたい。みんなに信用されていたいいたいと、思い詰めているのがあの娘《ひと》の虚栄なんですからね。そのために虚構《うそ》を吐《つ》くんですよ」
 「それが第一おかしいじゃないか。第一、そんなにまでしてこちらの信用を博する必要が何処に在るんだい。看護婦としての手腕はチャント認められているんだし、実家《うち》が裕福だろうが貧乏だろうが看護婦としての資格や信用には無関係だろう。それくらいの事がわからない馬鹿じゃ、姫草はないと思うんだが」
 「ええ。そりゃあ解ってるわ。たとえドンナ女《ひと》だっても現在ウチの病院の大切なマスコットなんですから、疑ったり何かしちゃすまないと思うんですけど……ですけど毎月二日か三日頃になると印形《ハンコ》で捺《お》したように白鷹先生の話が出て来るじゃないの。おかしいわ……」
 「そりゃあ庚戌会がその頃にあるからさ」
 「でも……やっぱりおかしいわ。それがキット会えないお話じゃないの……オホホ……」
 「だから言ってるじゃないか。廻り合わせが悪いんだって……」
 「だからさ。それが変だって言ってるんじゃないの。廻り合わせが悪すぎて何だか神秘的じゃないの」
 「止せ止せ。下らない。お前と議論すると話がいつでも堂々めぐりになるんだ。神秘も糞もあるもんか。白鷹君に会えばわかるんだ。……茶をくれ……」
 私は黙って夕食の箸を置いて新調のフロックと着換えた。誰しも疑わない姫草ユリ子の正体をここまで疑って来た妻のアタマを小五月蠅《こうるさ》く思いながら……。
 「とにかく今夜は是非とも白鷹君に会ってみよう。石を起し瓦をめくってもか。ハハハ。エライ事に相成っちゃったナ……」

 桜木町から二円を奮発した私が、内幸町の丸の内倶楽部へタクシーを乗り付けたのが午後の八時半頃であったろうか。実は女風情の言う通りになるのがこの際、少々|業腹《ごうはら》ではあったが、自動車に乗り込むと同時に気が変って、狭苦しい迷宮じみた下六番町あたりの暗闇を自動車でマゴマゴするよりも、解り易い丸の内倶楽部へアッサリと乗付けたい気持になったからであった。
 倶楽部の玄関で給仕に聞いてみると、
 「庚戌会は今晩でございます。七時頃から皆さんお揃いで、モウかなりプログラムが進行しております」
 という返事であった。
 私は黙って、その給仕に案内されて広やかなコルク張の階段を昇って行ったが、登って行くにつれて、階中に満ち満ちている高潮したレコードと舞踏のザワメキに気が付いた。
 私はダンスは新米ではあるが自信は相当ある。ジャズ、タンゴ、狐足《フォクストロット》、靴拭《チャルストン》、ワンステップ、何でも御座れの横浜仕込みだ。今やっているのはスパニッシュ・ワン・ステップのマルキナものらしいが、相当浮き浮きした上調子なもので、階段を上って行くうちに給仕の肩に手をかけたくなるような魅惑を感じた。
 どうも驚いた。庚戌会と言えば謹厳な学術の報告会、兼、茶話会みたようなものと思ったが、なかなかどうしてエライ景気だわい。会費の十円の意味も読めるし、幹事の白鷹君の隅に置けない手腕のほども窺われる。こんな事なら鹿爪らしいフロック・コートなんか着て来るんじゃなかった……と思ううちに待合室みたような部屋へ案内された。見ると周囲《まわり》の壁から卓子《テーブル》の上、椅子、長椅子、小卓子《サイドテーブル》の上までも帽子と外套の堆[#底本では「推」となってるが、誤植と思われる]積で一パイである。かれこれ五、六十人分はあるだろう。大会だけによく集まったものだ。
 「ここでちょっとお待ちを願います。今お呼びして参りますから……」
 といううちに給仕は右手の扉《ドア》を押して会場に入った。トタンにジャズの音響が急に大きく高まって、会場の内部がチラリと見えたが、その盛況を見ると私はアット驚いた。
 扉の向うは恐ろしく広いホールで、天井一面に五色の泡《あわ》みたようなものがユラユラと霞んでいるのは、会員の手から逃出した風船玉であった。その下を渦巻く男女は皆タキシード、振袖、背広、舞踏服なんどの五色七彩で、女という女、男という男の背中からそれぞれに幾個かの風船玉が吊り上っている。その風船玉の波が、盛り上るような音楽のリズムに合わせて、不可思議な円型の虹のように、ゆるやかに躍り上り躍り上りホール一面に渦を巻いている。桃色と水色の明るい光線の中に……と思ううちに扉がピッタリと閉じられた。
 扉が閉じられると間もなくレコードの音《ね》が止んだ。それに連れて舞踏のザワメキが中絶して、シインとなったと思う間もなく、タッタ今閉まった扉が向側から開かれて、赤白ダンダラの三角の紙帽を冠ったタキシードが五、六人ドヤドヤと雪崩《なだ》れ込んで来て、私の眼の前の長椅子に重なり合って倒れかかった。襟飾《ネクタイ》の歪んだの……カフスのズッコケたの……鼻の横に薄赤い、わざとらしい口紅《ミスプリント》の在るもの……皆グデングデンに酔っ払っているらしく、私には眼もくれずに、長椅子の上に重なり合って、お互いに手足を投げかけ合った。
 「ああ……酔っ払ったぞ。おい……酔っ払ったぞ俺あ……」
 「ああ、愉快だなあ……素敵だなあ、今夜は……」
 「ウン。素敵だ……白鷹幹事の手腕恐るベしだ。素敵だ、素敵だ……ウン素敵だよ」
 「驚いたなあ。ダンス・ホールを三つも総上げにするなんて……白鷹君でなくちゃ出来ない芸当だぜ」
 「……白鷹君バンザアイ……」
 と一人が筒抜けの大きな声を出したが、その男が朦朧《もうろう》たる酔眼を瞭《みは》って、両手を高く揚げながら立ち上ろうとすると、真先に私のいるのに気が付いたと見えて、ビックリしたらしく尻餅を突いた。尻の下に敷かれた友人の頭が虚空を掴んでいるのを構わずに、両手で膝頭を突張って、真赤なトロンとした瞳《め》で私のフロック姿を見上げ見下していたが、忽《たちま》ちニヤリと笑いながら唇を舐《な》めまわした。
 「ヘヘッ……手品が来やがった」
 「何だあ。手品だあ。何処でやってんだ」
 「それ。そこに立ってるじゃないか」
 「何だあ。貴様が手品屋か。最早《もう》、遅いぞオ。畜生。余興はすんじゃったぞオ」
 私は急に不愉快になって逃げ出したくなった。相手の不謹慎が癪に障ったのじゃない。コンナ半間な服装で、こうした処へ飛び込んで来て、棒のように立辣《たちすく》んでいる私自身が情なくて、腹立たしくなって来たのだ。しかし折角ここまで来たものを白鷹氏に会わないまま帰るのも心残りという気もしていた。
 「オイ。出来たかい、フィアンセが……」
 「ウン。二、三人出来ちゃった」
 「二、三人……嘘つきやがれ」
 「このミス・プリントを見ろ」
 「イヨオオ。おごれ、おごれ」
 「まだまだ、明日になってみなくちゃ、わからねえ。フィアンセがアホイワンセになるかも知れねえ」
 「アハハハ。ちげえねえ。解消ガールって奴がいるかんな。タキシの中で解消するってんだかんな。タキシはよいかってんで……」
 「始めやがった。モウ担《かつ》がれねえぞ」
 「ハアアア……アアア……何のかんのと言うてはみてもオ……抱いてみなけりゃあエエ……アハハ。何とか言わねえか……」
 「エエイ。近代魔術はタンバリン・キャビネット応用……タキシー進行中解消の一幕。この儀お眼に止まりますれば次なる芸当……まあずは太夫、幕下までは控えさせられまあす」
 「いよオオ――オオ(拍手)どうだいフロックの先生。雇ってくんないかい」
 私はいよいよ逃腰になってしまったが、その時に向うの扉が静かに開いたので、もしやと思って固くなっていると、最前の給仕を先に立てて、私と同じくらいに固くなった一人の紳士が入って来た。それは本格の舞踏服に白チョッキを着込んだヒョロ長い中年紳士であったが、赤白ダンダラの三角帽を右手に持って、左の掌に載[#底本では「戴」、53-9]せた名刺を、私の顔と見比べ見比べ、私の前に立ち止まると、青白い憂鬱な顔をしてジイッと見下した。
 酔っ払った長椅子の連中がシインとなった。めいめいに好奇の眼を光らして相手の紳士と、私の顔を見比べ始めた。
 私は九州帝国大学在学当時の白鷹氏の写真を一葉持っている。九大耳鼻科部長、K博士を中心にした医局全員のものである。それを白鷹氏の話が出るたんびに妻や姉に見せて、その時代の事を追懐したものであった。
 だから私はこの時に、この紳士は白鷹先生である事を直ぐに認める事が出来た。そうして長い年月の間どうしても会えなかった同氏に、かくも容易《たやす》く会えた事を、衷心から喜んでホッとした。

 私はとりあえず眼の前の白鷹先生の前額から後頭部へかけて些なからず禿《は》げていられるのに驚いた。今更に今昔の感に打たれたが、しかし姫草看護婦から聞いた印象によって、白鷹先生が非常に磊落《らいらく》な、諧謔《かいぎゃく》的な人だと信じ切っていたので、イキナリ頭を一つ下げた。
 「ヤア。白鷹先生じゃありませんか。僕は臼杵です。先日はどうもありがとうございました」
 と笑いかけながら一、二歩近寄った。言い知れぬ懐かしさと、助かったという思いを胸に渦巻かせながら……。
 ところが私はその次の瞬間に面喰らわざるを得なかった。非常に不愉快な、苦々しい表情をしいしい、微かに礼を返した白鷹先生の、謹厳この上もない無言の態度と、数歩を隔てて真正面に向い合った私は、ものの二、三分間も棒を呑んだように固くなって、突立っていなければならなかった。多分白鷹氏は、こうした私の面会ぶりがあまりにも突然で狃《な》れ狃れしいのに驚いて、面喰っておられた事と思う。況《いわ》んや久しく物も言った事のない人間にイキナリ「先日はありがとう」なぞと言いかけられたら誰だって一応は警戒するにきまっている。ことによると物慣れた氏が、幹事役だけに私を、こうしたダンス宴会荒しの所謂《いわゆる》フロック・ギャングと間違えられたものかも知れないが、その辺の消息は明らかでない。とにも角にもこうして二、三分間|睨《にら》み合ったまま立ち辣《すく》んでいるうちに、私はとうとう堪えられなくなって次の言葉を発した。
 「どうも……何度も何度もお眼にかかり損ねまして……やっとお眼にかかれて安心しました」
 こうした私の二度目の挨拶は、だいぶ固苦しい外交辞令に近づいていたように思うが、しかし白鷹氏は依然として私を見据《みす》えたまま、両手をポケットに突込んでいた。エタイのわからぬ人間に口を利くのは危険だと感じているかのように……。
 こうしてまたも十秒ばかりの沈黙が続くうちにまたも、広間《ホール》の方向で浮き上るようなツウ・ステップのレコードがワアア――ンンと鳴り出した。
 私の腋の下から氷のような冷汗がタラタラと滴《したた》った。私はまたも、たまらなくなって唇を動かした。
 「ところで……奥さんの御病気は如何《いかが》です」
 「……エ……」
 この時の白鷹氏の驚愕《きょうがく》の表情を見た瞬間に、私は最早《もう》、万事休すと思った。
 「妻《かない》が……久美子が……どうかしたんですか」
 「ええ。三越のお玄関で卒倒なすったそうで……」
 「ええッ。いつ頃ですか」
 「……今朝の……九時頃……」
 ドット言う哄笑《こうしょう》が爆発した。長椅子に腰をかけて耳を澄ましていたタキシード連が、腹を抱《かか》えて転がり始めた。笑いを誇張し過ぎて床の上にズリ落ちた者も在った。
 私は極度の狼狽《ろうばい》に陥った。失敬な連中……と思いながら私は、矢庭にその連中の顔を睨み付けたが、これは睨んだ方が無理であったろう。
 そのうちに血色を恢復した白鷹氏の唇が静かに動き出した。
 「おかしいですね。妻は……久美子は今朝から教会の会報を書くのだと言って何処へも行きません。無事に自宅《うち》におりましたが」
 「ヘエッ……嘘なんですか。それじゃ……」
 「……嘘? ……僕は……僕はまだ、何も言いませんが君に……初めてお眼にかかったんですが……」
 またドッと起る爆笑……。
 「……姫草ユリ子の奴……畜生……」
 白鷹氏は突然に眼を剥《む》き出して、半歩ほど背後《うしろ》によろめいた。……が直ぐに踏止まって、以前の謹厳な態度を取り返した。心配そうに息を切らしながら、私の顔を覗き込むようにした。
 「……姫草……姫草ユリ子がまた……何か、やりましたか」
 「……エッ……」
 私は狼狽に狼狽を重ねるばかりであった。
 「……また、何か……と仰言るんですか先生。先生は前からあの女……ユリ子を御存じなのですか」
 私は思わず発したこの質問が、如何に前後撞着した、トンチンカンなものであったかを気付くと同時に、自分の膝頭がガクガクと鳴るのをハッキリと感じた。……助けてくれ……と叫び出したい気持で、白鷹氏の次の言葉を待った。
 その時に最前のとは違った給仕が一人、階段を駆け上って来る音がした。
 「横浜の臼杵先生がお出でになりますか」
 「僕だ、僕だ……」
 私はホッとしながら振り向いた。
 「お電話です。民友会本部から……」
 「民友会本部……何と言う人だ」
 「どなたかわかりませんが、横浜からお出でになった代議士の方が、本部で卒倒されまして、鼻血が出て止まりませんので……すぐに先生にお出でが願いたいと……」
 「待ってくれ……相手の声は男か女か……」
 「御婦人の声で……お若い……」
 給仕は何かしらニヤニヤと笑った。
 「……馬鹿な……名前も言わない人に診察に行けるか。名前を聞いて来い。そうして名刺を持った人に迎えに来いと言え」
 これは私のテレ隠しの大見得と、同席の諸君に解せられたに違いないと思うが、その実、あの時の私の心境は、そんなノンビリした沙汰ではなかった。……卒倒して鼻血……という言葉がアタマにピンと来た私は、すぐに今朝ほどの白鷹婦人に関する彼女の報道を思い出したのであった。
 彼女……姫草ユリ子は、鼻血が出て止まらない場合に、耳鼻科の医師が如何に狼狽し、心配するかを、何処かで実地に見て知っていたに違いない。だから私が裏切り的に庚戌会に出席した事を、電話か何かで探り知った彼女は、狼狽の余り、おなじ日に、おなじ種類の患者を二度も私にブツケルようなヘマな手段でもって、私と白鷹氏の会見を邪魔しようと試みたものであろう。絶体[#底本では「対」となっているが、誤記と思われる、58-6]絶命の一所懸命な気持から、果敢《はか》ない万一を期したものではあるまいか。もちろん偶然の一致という事も考えられない事はないが、彼女を疑うアタマになってみると断じて偶然の一致とは思えない。私は彼女……姫草ユリ子の不可思議な脳髄のカラクリ細工にマンマと首尾よく嵌《は》め込まれかけている私の立場を、この時にチラリと自覚したように思ったのであった。
 私は一生涯のうちにこの時ほど無意味な狼狽を重ねた事はない。
 私はそのまま列席の諸君と白鷹氏にアッサリと叩頭《おじぎ》しただけで、無言のままサッサと部屋を出た。またも湧き起る爆笑と、続いて起るゲラゲラ笑いとを、華やかに渦巻くジャズの旋律と一緒にフロックの背中に受け流しながら、愴惶《そうこう》として階段を駈け降りた。通りがかりのタキシーを拾って東京駅に走りつけた。そうして気を落ち着けるために、わざと二等の切符を買って、桜木町行きの電車に飛び乗った。何だか横浜の自宅に容易ならぬ事件でも起っているような気がして……妻《かない》が愛読している探偵小説の書き振りを見ても、留守宅に大事件が起るのは十中八、九コンナ場合に限っているのだから……と言ったような想像が、別段考えるでもないのにアトからアトから頭の中に湧き起って、たまらない焦燥と不安の中に私を逐い込んで行くのであった。あの時の私の脈膊《プルス》は、たしかに百以上を打っていたに違いない。
 けれどもそこで無人の二等車の柔らかいクッションの上にドッカリと腰を卸《おろ》して、ナナの煙を一ぷく吹き上げると間もなく、私の心境にまたも重大な変化が起った。窓越しに辷《すべ》って行く銀座の、美しい小雨の中のネオンサインを見流して行くうちに、現在、何が何だかわからないままに、無意味に、止め度もなく面喰らわされているに違いない私自身を、グングンと痛切に自覚し始めたのであった。
 ……俺はなぜアンナに慌《あわ》てて飛び出して来たのだろう。なぜ、もっと突込んで姫草の事を白鷹氏に尋ねてみなかったのだろう。白鷹氏は彼女の事に就いてモットモット詳しく知っているらしい口吻《くちぶり》であったのに……もう一度白鷹氏と会えるかどうか、わからなかったのに……と気が付いたのであった。[#ここから心の呟き、1字下げ]
 ……いずれにしても白鷹氏と姫草ユリ子とが全然、無関係でない事は確実《たしか》だ。私の知っている以外に姫草ユリ子は白鷹氏に就いて何事かを知り、白鷹氏も姫草ユリ子に就いては何事かを知っているはずなのに……。[#ここで心の呟き終わり]
 そう考えて来るうちに、私の頭の中にまたもかの丸の内倶楽部の広間《ホール》を渦巻く、燃え上るようなパソ・ドブルのマーチが漂い始めた。
 私はまたも彼女を信用する気になって来た。私は彼女がコンナにまで深刻な、根気強い虚構《うそ》を作って、私たちを陥れる必要が何処に在るのかイクラ考えても発見出来なかった。それよりも事によると私は、姫草ユリ子に一杯喰わされる前に、白鷹氏に一杯かつがれているのかも知れない……と気が付いたのであった。第一、この間、電話で聞いた白鷹氏の朗らかな音調と、今日会った白鷹氏のシャ嗄《が》れた、沈んだ声とは感じが全然違っていた事を思い出したのであった。[#ここから心の呟き、1字下げ]
 ……そうだ。白鷹氏は故意《わざ》と、あんなに冷厳な態度を執《と》って後輩の田舎者である俺を欺弄《かつ》いでおられるかも知れない。アトで大いに笑おうと言う心算《つもり》なのかも知れない。東京の庚戌会に出席して斯界《しかい》のチャキチャキの連中と交際し、連絡《わたり》を付けるのは地方開業医の名誉であり、且、大きな得策でもあり得るのだから、その意味に於て優越な立場にいる白鷹氏は、キット俺が出席するのを見越して、アンナ風に性格をカムフラージしていろいろな悪戯《いたずら》をしておられるのかも知れない。
 ……そうだそうだ。その方が可能性のある説明だ。それがマンマと首尾よく図に当ったので、あんなに皆して笑ったのかも知れない。 [#ここで心の呟き終わり]
 ……と……そんな事まで考えるようになったが、これは私が元来そう言った悪戯が大好きで、懲役に行かない程度の前科者であったところから、自分に引き較べて推量した事実に過ぎなかったであろう。同時にそこには姫草ユリ子から植え付けられた白鷹氏の性格に関する先入観念が、大きく影響していた事も自覚されるのであるが、とにもかくにも事実、そんな風にでも考えを付けて気を落ち着けて置かねば、すぐに、この上もなく非常識な、恐ろしい不安がコミ上げて来て、トテも凝然《じっ》として三十分間も電車に乗っておれない気がしたのであった。それでも電車がブンブン揺れながら、暗黒の平地を西へ西へと走るのがたまらなく恐ろしくなって、途中で飛び降りてみたくなったくらい私は、一種探偵小説的に不可解な、不安な昂奮の底流に囚われていたのであった。横浜へ帰ったら、私の家族と私の病院が、姫草ユリ子|諸共《もろとも》に、何処かへ消え失せていはしまいか……と言ったような……。

 桜木町駅に着いたのは何時頃であったろうか。そこから程近い紅葉坂の自宅まで、何かしら胸を騒がせながら、雨上りの道を急いで行くと、突然に背後《うしろ》の橋の袂《たもと》の暗闇から、
 「……臼杵センセ……」
 と呼び掛ける悲し気な声が聞こえて来たので、私はちょうど予期していたかのようにギクンとして立ち佇まった。それは疑いもないユリ子の声であった。
 ユリ子は今日の午後、外出した時の通りの姿で、黒い男持の洋傘《こうもり》を持っており、夜目にも白い襟化粧をしていたが、気のせいか瞼の縁が黒くなっていたようであった。
 彼女は、その洋傘を拡げて、人目を忍ぶようにして私に寄り添った。そうして平常《いつも》の快闊さをアトカタもなくした陰気な、しかしハキハキした口調で問いかけた。
 「先生。庚戌会へお出でになりまして……?……」
 「ウン。行ったよ」
 「白鷹先生とお会いになりまして……?……」
 「……ウン……会ったよ」
 「白鷹先生お喜びになりまして……」
 「いいや。とてもブッキラ棒だったよ。変な人だね。あの先生は……」
 私は幾分、皮肉な語気でそう言ったつもりであったが、彼女はもうトックに私のこうした言葉を予期していたかのように、私の顔をチラリと見るなり、淋しそうな微笑を横頬に浮かめて見せながら点頭《うなず》いた。
 「ええ。キットそうだろうと思いましたわ。けれども先生……白鷹先生はホントウはアンナ方じゃないのですよ」
 「フーン。やっぱり快闊な男なのかい」
 「ええ。とっても面白いキサクな方……」
 「おかしいね。……じゃ……どうして僕に対してアンナ失敬な態度を執ったんだろう」
 「先生……あたしその事に就いて先生とお話したいために、きょう昼間からズットここに立って、先生のお帰りを待っておりましたのですよ。でも……お帰りが電車か自動車かわからなかったもんですからね」
 そう言ううちに彼女は二、三度、派手な縮緬《ちりめん》の袂を顔に当てたようであったが、それでも若い娘らしいキリッとした態度で、多少憤慨したらしい語気を混交《まじ》えながら、次のような驚くべき事実を語り出した。
 私はその時に彼女から聞いた白鷹先生の家庭に関する驚くべき秘密なるものを、ここに包まず書き止めて置く。これは決して白鷹先生の家庭の神聖を冒涜《ぼうとく》する意味ではない。私が同氏の人格をこの上もなく尊敬し、信頼している事実を告白するものである事を固く信じているからである。同時に姫草ユリ子の虚構《うそ》の天才が如何に驚くべく真に迫ったものがあるかを証明するに足るものがあると信ずるからである。普通人の普通の程度の虚構《うそ》では到底救い得ないであろうこうした惨憺たる破局的な場面を、咄嗟《とっさ》の間に閃いた彼女独特の天才的な虚構……十題話式の創作、脚色の技術を以て如何に鮮やかに、芸術的に収拾して行ったか。
 私は光と騒音の川のような十二時近くの桜木町の電車通りの歩道を、彼女と並んで歩きながら、彼女の語り続けて行く驚くべき真相……なるものに対して熱心に耳を傾けて行ったのであった。
 白鷹氏……きょう会った謹厳そのもののような白鷹氏は、K大耳鼻咽喉科に在職中、姫草ユリ子をこの上もなく珍重し、愛寵した。そうして宿直の夜になると、そうした白鷹氏の彼女に対する愛寵が度々、ある一線を超えようとするのであった。
 しかし無論、彼女はそれを喜ばなかった。
 彼女の念願は看護婦としての相当の地位と教養とを作り上げた上で、女医としての資格を得て、自分の信ずる紳士と結婚して、大東京のマン中で開業する……そうして相携《あいたずさ》えて晴れの故郷入りをする……と言う事を終生の目的としておったので、故なくして他人の玩弄《がんろう》となる事を極度に恐れた彼女は、遂に絶体絶命の意を決して、この事を直接に白鷹氏の令閨、久美子夫人に訴えたのであった。
 然るに久美子夫人は、彼女の想像した通り、世にも賢明、貞淑な女性であった。世の常の婦人ならばかような場合に、主人の罪は不問に付して、当の相手の無辜《むこ》の女性の存在を死ぬほど呪詛《のろ》い、憎悪《にく》しむものであるが、物わかりのよい……御主人の結局のためばかりを思っている久美子夫人は、彼女のこうした潔白な態度を非常に喜んだ。そうして彼女をこの上もなく慈《いつく》しんで、末永く自宅《うち》に置いて世話をして遣りたい。間違いのないようにという考えから、本年の二月以降、下六番町の自宅に、彼女を寝泊りさせるように取り計らったが、これに対してはさすがの白鷹氏も、一言の抗議さえ敢《あ》えてしなかったと言う。
 ところが久美子夫人の彼女に対するこうした好意が、端《はし》なくも彼女に職を失わせる原因となった。彼女の看護婦としての優秀な手腕をかねてから嫉視している上に、彼女のそうした過分の寵遇を寄ると触《さわ》ると妬《ねた》み、羨み始めた仲間の新旧の看護婦連中が、とうとう彼女を白鷹助教授の第二夫人と言ったような噂を捏造《ねつぞう》して、八釜《やかま》しく宣伝し始めたので、彼女は、久美子夫人に対して気の毒さの余り、身を退《ひ》く事をお願いすると、夫人も涙ながらに承知して、分に過ぎた心付を彼女に与えたので、ユリ子はさながらに姉と妹が生き別れをするような思いをして、下谷の伯母の宅《うち》に引き取る事になったという。それが本年の五月の初めで、それから方々職を探しているうちに臼杵病院へ落ち着いたのでホッと一息した……と言う彼女の告白であった。
 「……ですからこの間から白鷹先生が、どうしても臼杵先生にお会いにならない理由も、あたしにチャンとわかっておりましたわ。妾、きょう白鷹の奥さんにお眼にかかって、今までの気苦労を何もかもお話したのです。もしも臼杵先生と白鷹先生がスッカリ親友におなりになって、ソンナ事情がおわかりになった暁に、白鷹先生に気兼をなすった臼杵先生が、妾にお暇を下さるような事があったらどうしましょうってね……そうしたら奥様も涙をお流しになって、決して心配する事はない。これから先ドンナ事があっても臼杵先生の処を出てはなりません。そのうちに妾から臼杵先生によく頼んで上げますって言う、ありがたいお話でしたの……ですから妾、大喜びの大安心で横浜へ帰って来るには来たんですけど、きょう臼杵先生が白鷹先生にお会いになった時に、白鷹先生がドンナ態度をお執りになるか……如才ない方だから案外アッサリと御交際になるに違いないとは思うんですけど、またよく考えてみると、男の方ってものは、コンナ事にかけてはずいぶん思い切った卑怯な事をなさるものですから……まあ、御免遊ばせ。ホホ……そう思いますと、恐ろしくて恐ろしくて仕様がなくなって来たんですの。もしかすると白鷹先生は、今までの事を一つも知らないような顔をなすって、平常と違ったブッキラボーな初対面の態度で、臼杵先生を失望おさせになるかも知れない。そうして言わず語らずの間に妾の立場をないようになさるかも知れない。妾を根も葉もない虚構《うそ》吐き女のインチキ娘に見えるように、お仕向けになるかも知れない…と気が付きますと、いても立ってもおられなくなって、先生のお帰りをあすこで待っているよりほかに妾、仕様がなくなったんですの。
 ……ね……臼杵先生。先生が一番最初に白鷹先生に紹介してくれって仰言った時に、妾がスッカリ憂鬱になって、お断りしかけた事を記憶《おぼ》えてお出でになるでしょう。妾、あの時に何だかコンナ事が起りそうな気がして仕様がなかったもんですからアンナ風に躊躇したんですけど、大切な先生がアンナに熱心にお頼みになるもんですから、思い切って妾の事なんか構わないで、白鷹先生にお電話をかけたんですの。
 ……ねえ……臼杵先生。ですから白鷹先生が、どうしても貴方にお会いにならなかった理由《わけ》が、最早《もう》おわかりになったでしょう。白鷹先生は貴方が最早、妾から何もかもお聞きになっている事と思い込んでお出でになるもんですから、先生から顔を見られる事を、どうしてもお好みにならなかったんですよ。……ですから一度は是非とも会わなければならない。けれども会いたくない……と言ったような気持から、あんなような策略を何度も何度もお使いになったに違いないと思うんですの。あたし……白鷹先生の、そう言ったお気持がよくわかっていたもんですから……口惜《くや》しくって口惜しくって……。
 ……あたし……他家《よそ》のお家庭《うち》の秘密なんか無暗《むやみ》に喋舌る女じゃないのに……妾をドコまでもペシャンコのルンペンにして、世の中に浮かばれないようになさるなんて……先生のおためばっかり思って上げているのに……K大でアンナに一所懸命に働いて上げたのに……あんまり……あんまり……あんまりですわ……」
 彼女は路傍の砂利積に撒布《まい》た石灰の上に黒い洋傘《コーモリ》を投げ出して、両袂を顔に当てながら泣きジャクリ始めた。
 気が付いてみると私等二人は、いつの間にか紅葉坂の自宅の石段の下まで来て、向い合ったまま立っていた。折から通りがかりの労働者らしい者が二、三人、妙な眼付で振り返って行ったが、あの連中の眼には私等二人が何と見えたであろう。
 私はヤットの思いで彼女をなだめ賺《すか》して病院に帰らせた。しかしその時にドンナ言葉で彼女を慰めたか、全く記憶していない。万一記憶していたらドンナにか白鷹氏の憤慨に価する言い草ばかり並べていた事であろう。

 直ぐ横の石段を上って、露地の突き当りに在る自宅の玄関の古ぼけた格子扉を開いたトタンに、奥座敷のボンボン時計が一時を打った。二十分近く進んでいたにしても彼女との立ち話がずいぶん長かった事を思い出して、私は一人で赤面してしまった。そうして無事太平らしい家の中の気はいを察して、吾れ知らずホ――ッと胸を撫《な》で卸《おろ》した事であった。
 ところがその安心は要するに私の一時の糠《ぬか》喜びに過ぎなかった。電車の中で私が抱き続けて来た一種異様な鬼胎観念《しんぱい》は、やはり意外千万な意味で物の美事に的中していたのであった。
 心持ち昂奮気味で、慌しく私を出迎えた寝間着姿の姉と妻は、私の顔を見るや否や口を揃えて問いかけた。胸倉を取らんばかりに、
 「白鷹先生にお会いになって……」
 と左右から詰問するのであった。
 「ウン会ったよ」
 「姫草さんとは……」
 「今、そこまで話して来た」
 姉と妻とは顔を見合わせた。無言の二人の頬には、恐怖の色がアリアリと浮かんでいた。その顔を見ながら鼠の中折帽を脱《と》った瞬間に私は、探偵小説の深夜の一ページの中に立たされている私自身を発見したような鬼気に襲われたものであった。
 「姫草さんとドンナお話をなすったの」
 「ウム。まあお前達から話してみろ」
 「貴方から話して御覧なさいよ」
 「……馬鹿……おんなじ事じゃないか。話してみろ」
 「だって貴方……」
 「茶の間へ行こう。咽喉《のど》が乾いた」
 それから熱い番茶を飲みながら二人の女の話を聞いているうちに何と……今の今まで私の脳味噌の中に浮かみ現われていた奇妙な家庭悲劇の舞台面が、いつの間にかグルグルと一変してしまったのであった。
 私の留守中に、病気で寝ておられるはずの白鷹久美子夫人から、臼杵病院へ電話が掛ったのであった。それは約二時間前に私に面会した白鷹助教授が、すぐに下六番町の自宅へ電話をかけた結果であったらしく、非常に冷静な、同時にこの上もなく友誼的《ゆうぎてき》な口調で、白鷹夫人が私の一家に対して警告してくれたものであった。
 相手に出たのは妻の松子だったそうであるが、その時に白鷹夫人から聞いた事情なるものは、女の耳に取って真に肝も潰れるような事ばかりであったと言う。
 勿論、姫草ユリ子の言葉にも多少の真実性はあった。彼女は確かにK大耳鼻科にいた事のある姫草ユリ子と同一人には相違なかった。彼女の看護婦としての技術が、驚異に価すべくズバ抜けた天才的なものであった事も事実には相違なかったが、しかし、同時に、実に驚異に価するほどのズバ抜けた、天才的な虚構《うそ》の名人であった事も周知の事実であったと言うのである。
 すこし社会的に著名な人物なぞがK大の耳鼻科に入院すると、彼女、姫草ユリ子は彼女独特の敏捷《びんしょう》な外交手腕でもって他人を押し除けて看護の手を尽すのであった。そうしてそのような人々から一も姫草、二も姫草と言わせるように仕向けないでは措《お》かないのであった。その結果、どうして手に入れたものか、そのような患者から貰ったと言う貴重品なぞを、自慢そうに同輩に見せびらかす事が度々であったという。
 そればかりでない。彼女はそんな身分のある家族の方々のうちの誰かと婚約が出来た……なぞと平気で言い触らしたりなぞしているかと思うと、おしまいには、やはりズット以前に入院した事のある映画俳優か何かの胤《たね》を宿したから、堕胎しなければならぬ……と言ったような事を臆面もなく看護婦長に打ち明け(?)て、長い事病院を休む。そのほか医員の甲乙《たれかれ》と自分との関係を、自分の口から誠しやかに噂《うわさ》に立てる……と言った調子で、風儀を乱すことが甚しいので、とうとうK大耳鼻科長、大凪《おおなぎ》教授の好意によって諭示退職の処分をされる事になったという。
 しかし以前からメソジストの篤信者《とくしんじゃ》であった白鷹久美子夫人は、かねてから彼女のそうした悪癖に対して一種の同情を持っていた。そうして彼女の才能と行末を深く惜しんだものらしく、彼女が首になると同時に自宅に引き取って、あらん限りの骨を折って虚構《うそ》を吐《つ》かないように教育した。キリストの聖名《みな》によって彼女の悪癖を封じようと試みたものであった。
 ところが、それが彼女に取っては堪《た》まらなく窮屈なものであったらしい。とうとう無断で白鷹家を飛び出して行方を晦《くら》ましてしまったので、何処へ行ったものであろうと明け暮れ久美子夫人が気にかけているうちに突然、本年の六月の初め頃、ユリ子から電話が掛って来て、今は横浜の臼杵病院にいる。妾も、それから後、虚構を吐くのをピッタリと止めて、臼杵先生から信用されているから、以前の事は、どうぞ助けると思って秘密にして頂きたい……という極めてシオらしい話ぶりであったと言う。
 しかし彼女の性格を知り抜いている白鷹夫婦は容易に彼女の言葉を信じなかったばかりでなく、それ以来、一種形容の出来ない不安に包まれていた。またあの女が臼杵家に入り込んで、まことしやかな虚構を吐いて、臼杵家を攪乱《かくらん》しようと思っているに違いない。それにつれてK大や白鷹家の事に就いても、どんな出鱈目《でたらめ》を臼杵先生に信じさせているか解らない……という心配から、夫人が内々で妻の松子に宛てて、臼杵病院の所づけで度々、ユリ子の行状に関するさり気ない問合わせの手紙を出したそうであるが、それは多分、彼女が握り潰したものであろう、一度も返事が来なかった。
 白鷹夫人の心配は、そこでイヨイヨ昂《たか》まる事になった。これはもしかしたらあの嘘吐きの名人の言葉を真正面から信じ切っている臼杵家の連中が、白鷹家を軽蔑して全然、取り合わない事にキメているのではあるまいか。しかし、そうかと言って、あんまり執拗《しつこ》い、急迫した手段で、臼杵家に交際の手蔓《てづる》を求めるのも、こっちが狼狽しているようでおかしい……と言ったようないろいろな気兼《きがね》から、いよいよ形容の出来ない、馬鹿馬鹿しく不愉快な不安に陥って行った。殊に気の小さい、神経質な白鷹氏はユリ子の悪癖を極度に恐れているらしく、この頃では夫婦で寄ると触ると、そんな事ばかり話合っていたところへ、きょう主人が臼杵先生にお眼にかかってみると、どうも御様子が変テコだから一応、電話でお伺いしてみろ。臼杵先生は大変にソワソワして昂奮しておられるようだったが、何かまたあの女が余計な事を仕出かしたのかも知れないから、早く電話をかけといた方がいいだろう。ユリ子が取次に出るか出ないか……という主人の言葉だった……と言う久美子夫人の話で、聞いていた妻の松子は、電話口に立っておられないほど、赤面させられてしまったという。
 しかし、それでも妻の松子は、同時にタマラないほど不安な気持に包まれてしまったので、なおも勇を鼓《こ》して通話を伸ばして貰いながら、いろいろと久美子夫人に問い訊《ただ》してみると案の定……今日まで姫草ユリ子が言い立てて来た事は、一から十までと言っていいくらい、事実無根の事ばかりであった。白鷹先生の平塚往診の事実も、歌舞伎座見物の話も、当日の久美子夫人の三越の玄関での卒倒事件も、または姫草がお見舞いに伺ったという事実までも皆、彼女の驚くべき出鱈目と言う事実が判明したと言うのであった。
 私はその話を聞いているうちにグングンと高圧電気にかかって行くような感じがした。臼杵病院のマスコット。看護婦の天才。平和の鳩の生まれ変《かわり》かと思われる姫草ユリ子の純真無邪気な姿が、見る見るレントゲンにでもかけられたような灰色の醜い骸骨の姿に解消して行く光景を幻視した。同時にタッタ今、泣きながら暗闇の紅葉坂を病院の方へ降りて行ったユリ子の姿を、浮き上るようなスパニッシュ・ワンステップのリズムと一緒に思い出しつつ、私の顔を一心に凝視している姉と妻の青|褪《ざ》めた顔を見比べながら、何とも言えない不可思議な恐怖の感じを、背筋一面に匐《は》いまわらせていた。
 その時にまたも新しい茶を入れた妻の松子が、話に段落でも付けるように、長い深いタメ息を一つ吐きながらコンナ奇妙な事を言い出した。
 「ねえ貴方。姫草って言う娘《こ》は何て不思議な娘でしょう。まったく掴ませられている事がハッキリわかっているのに妾、どうしてもあの娘を憎む気になれないのよ。白鷹の奥さんも、やっぱり妾たちとオンナジ気持で、あの娘をお可愛がりになったに違いない事が、今やっとわかったのよ。今の今までお姉さんと、その事ばっかり話していたとこなのよ」

 この言葉を聞いた時に私はヤット決心が付いた。彼女……姫草ユリ子の不可思議な、底の知れない魅力……今では私の姉や妻までもシッカリと包み込んでしまっている恐るべき魔力に気が付いたので、思わずホッと溜息を吐《つ》いた。……と同時に、その美しい霧か何ぞのように蔽《おお》いかぶさって来る彼女の魔力から逃れ出る一つの手段を思い付いたので……それは少々乱暴な、卑怯に類した手段ではあったが……姉にも妻にも故意《わざ》と一言も言わないまま立ち上って、今一度、玄関に出て帽子を冠《かむ》った。妙な顔をして見送る二人に何処へ行くとも言わないで靴を穿《は》いた。そのまま勢いよく紅葉坂の往来へ飛び出したが、何と言う恐ろしい事であろう。その時、坂の下一面に涯《は》てしもなく重なり合っている黒い屋根や、明滅する広告電燈や、その上に一パイに散らばっている青白い星の光までもが皆、彼女の吐き散らかした虚構《うそ》の残骸そのもののように思われるのであった。

 私は身ぶるいを一つしながら紅葉坂を馳け降りた。来合わせたタキシーを拾って神奈川県庁前の東都日報支局に横付けて、中学時代の同窓であった同支局主任の宇東《うとう》三五郎をタタキ起して、程近い鶏肉屋《とりや》の二階に上った。そこで「面白いネタになるかも知れないが」と言うのを切出しに、彼女に関する今までの事実を逐一、包まずに説明して、一体どうしたものだろうと宇東主任の意見を聞いてみた。
 自慢の船長|髯《ひげ》をひねりひねり黙って聞いていた宇東三五郎は、やがて私の顔を見てニンガリと薄笑いをした。彼一流の率直な口調で質問した。
 「ふうん。そこで僕は君から一つ真実の告白を聞かせて貰わにゃならん」
 「何も告白する事はないよ。今の話の外には……」
 「ふうん。そんなら彼女と君との間には何の関係もないチュウのじゃな」
 「……馬鹿な……失敬な……俺がソンナ……」
 「わかった、わかった。それでわかったよ」
 宇東三五郎は突然マドロスパイプを差し上げて叫んだ。
 「わかった、わかった。赤たん赤たん」
 「えっ。赤たん……?……何だい赤たんて……」
 「赤チュウタラ赤たん。主義者《アカ》以外に、そんげな奇妙な活躍する人間はおらんがな。現在、そこいらで地下運動をやっとる赤の活動ぶりソックリたん。まだまだ恐ろしいインチキの天才ばっかりが今の赤には生き残っとるばんたん。そんげな女《おなご》をば養う置《と》くかぎり、今にとんでもない目に会うば……アンタ……」
 「うん。ヤッとわかった。その赤カンタン。しかし真逆《まさか》にあの娘が、そんな大それた……」
 「いかんいかん。それが不可《いか》んてや、そんげ風に思わせるところが、赤一流の手段の恐ろしいところばんたん。赤にきまっとる。赤たん赤たん。それ以外にソンゲな奇怪な行動をする必要がどこに在るかいな。その姫草ちゅう小娘は、君の病院を中心にして方々と連絡を保っとる有力な奴かも知れんてや」
 「ウ――ム。それはそう思えん事もないが、しかし僕の眼には、ソンナ気ぶりも見えないぜ」
 「見えちゃあタマランてや。君等のようなズブの素人に見えるくらいの奴なら、モウとっくの昔に揚げられてブランコ往生しとるてや」
 「フ――ム。そんなもんかなあ」
 「とにかくその娘ん子は吾々の手に合うシロモノじゃないわい。第一、今のような話の程度では新聞記事にもならんけにのう。今から直ぐに特高課長の自宅に行こう」
 「エッ。特高課長……」
 「ウン。しかし仕事は一切吾々に任せちくれんと不可《いか》んばい。悪うは計らわんけにのう」
 「何処だい特高課長は……遠いのかい」
 「知らんかアンタ」
 「知らんよ」
 「知らんて、君の自宅《うち》の隣家《となり》じゃないか」
 「エッ。隣家……」
 「うん。田宮ちゅう家がそうじゃ。迂闊《うかつ》やなあ君ちゅうたら……」
 「俺が赤じゃなし。気も付かなかったが……」
 「その何草とか言う小娘は、君の家よりもその隣家が目標で、君に近付きよるのかも知れんてや。それじゃから俺は感付いたんじゃが……」
 「成る程なあ。その田宮ちゅう男なら二、三度門口で挨拶した事がある。瓦斯《ガス》を引く時にね。人相の悪い巨《おお》きな男だろう」
 「ウン。それだ、それだ。知っとるならイヨイヨ好都合じゃ。直ぐに行こうで……チョット待て、支局から電話をかけて置こう」
 話はダンダンと急テンポになって来た。話のドン底が眼の前に近付いて来たようであるが、果してそのドン底から何が出て来るであろうか。
 私は何となく胸を轟かしながら宇東と一緒にタキシーに飛び乗った。

 田宮特高課長は、もうグッスリ眠っていたそうであるが、職掌柄、嫌な顔もせずに二階の客間で会ってくれた。
 長脇差の親分じみた、色の黒い、デップリとして貫禄のある田宮氏は、褞袍《どてら》のまま紫檀の机の前に端然と坐って、朝日を吸い吸い私の話を聞いてくれたが、聞き終ると腕を組んで、傍の宇東記者をかえり見た。つぶやくように言った。
 「赤じゃないかな」
 それを聞いた時、私はまたもドキンとさせられた。思わず膝を進めながら恐る恐る尋ねた。
 「赤としたらどうしたらいいでしょうか」
 田宮氏は冷然と眼を光らせた。
 「引っ括《くく》って見ましょうや」
 「……エッ……引っ括る……どうして……」
 「明朝……イヤ……今朝ですね。夜が明けたら直ぐに刑事を病院に伺わせますから、それまでその看護婦を逃がさないように願います」
 「そ……それはどうも困ります」
 と宇東三五郎が気を利かして慌ててくれた。
 「実はそこのところをお願いに参りましたので、臼杵君も開業|※[#「※」は「つつみがまえ+夕」、77-9]々《そうそう》赤の縄付を出したとあっては……」
 「アハハ。いかにも御尤《ごもっと》もですな。それじゃこう願えますまいか。明朝なるべく早くがいいですな。何かしら絶対に間違いのない用事をこしらえてその娘を外出させて下さいませんか。行先がわかっておれば尚更結構ですが」
 「……承知しました。それじゃこうしましょう。僕が南洋土産の巨大《おおき》な擬金剛石《アレキサンドリア》を一|個《つ》持っております。姉も妻もアレキサンドリアが嫌いなので、始末に困っておるのですが、それをあの娘に与《や》って、直ぐに指環に仕立るように命じて伊勢崎町の松山宝石店に遣りましょう。遅くとも九時から十時までの間には、出かける事と思いますが……十時頃から忙しくなって来ますから」
 「結構です。しかし近頃の赤はナカナカ敏感ですから、よほど御用心なさらないと……」
 「大丈夫と思います。今夜、ここへ伺った事は誰も知りませんし……それに妻《かない》がズット前、姫草に指環を一つ買って遣るって言った事があるそうですから……」
 「成る程ね。それじゃソンナ都合に……」
 「承知しました。どうも遅くまで……」

 そんな次第で私はその晩とうとう睡眠薬を服《の》まなければ睡られないような惨憺《さんたん》たる神経状態に陥ったが、後で聞いてみたら姉と妻も同様であったと言う。私から委細の話を聞いた二人は、夜が明けると直ぐに姫草ユリ子の可憐な肩の上に落ちかかるであろう恐ろしい運命が、如何に止むを得ない、同時に恐ろしいものであるかを想像しながら昂奮の余り、ロクロク睡らずに夜を明かしたそうである。松子はウトウトしたかと思うと高手小手《たかてこて》に縛り上げられて病院を引摺《ひきず》り出される姫草ユリ子の姿をアリアリと見たりしてゾッとして眼が醒めたという。姉なぞは御丁寧にも、絞首台にブラ下っている彼女の死に顔までマザマザと見届けて、何度も何度も魘《うな》されながら松子にユリ起されたと言うから相当なものであろう。
 それでも夜が明けてからの計画は百パーセントに都合よく運んだ。妻の松子が何喰わぬ顔で病院に来ると直ぐに、姫草看護婦をソッと薬局に呼び込んで、大粒のアレキサンドリアを彼女の手に握らせた態度はきわめて自然なものであった。さすがのユリ子も毛頭疑う様子もなく、衷心から嬉しそうにペコペコして私の処まで飛んで来てお礼を言ったくらいであったが、その時に私が平常《いつも》の通りのニコニコ顔で鷹揚にうなずいた態度も、いかにも名優気取であったと言う。後で姉からさんざん冷やかされたものであった。
 しかし彼女……姫草ユリ子が、十時の開診時間を気にしながら大急ぎで着物を着かえて、イソイソと病院の玄関を出て行く背後姿を見送った姉と、妻と、私の態度が、ほかの看護婦や患者の眼に付くくらい緊張していた。まるで高貴なお方のお出ましでも見送るかのように棒のように強直していたために、アトから何事ですかと皆から尋ねられたのは明らかに失態であった。況《いわ》んや姉と妻は、セグリ出て来る涙を隠すべく、慌てて洗面所へ逃げ込んだと言うのだから、滑稽《こっけい》を通り越して何の事だかわからない。
 姫草ユリ子はその儘帰って来なかった。
 姉と妻と私は、その一日中、今更のように魘《おび》えた蒼白い顔を時々見交していたものであったが、その晩一晩置いて翌る朝の八時頃、隣家《となり》の田宮特高課長の処から、尋常一年生の坊ちゃんが、私を迎いに来てくれたから、大ビクビクで着物を着換えて行ってみると、田宮氏は一昨夜の通りの褞袍姿で、横浜港内を見晴らした二階の客室に待っていた。私の顔を見ると妙に赤面したニコニコ顔で、熱い紅茶なぞをすすめてくれたが、昨日よりもズット磊落《らいらく》な調子で、投げ出したように言うのであった。
 「あれは赤ではありませんよ」
 「ヘエ……」
 と私は少々面喰って眼をパチパチさせながら坐り直した。
 「折角のお骨折りでしたがね。取り調べてみると赤の痕跡もありませんよ。……尤も郷里は裕福というお話でしたが、電話と電報と両方で問い合わせたところによりますと、実家は裕福どころか、赤貧洗うが如き状態だそうです。何でも直ぐの兄に当る二十七、八になる一人息子が、家|土蔵《くら》をなくするほどの道楽をした揚句、東京で一旗上げると言って飛び出した切り、行方を晦《くら》ましているそうで、年|老《と》った両親は誰も構い手がないままに、喰うや喰わずの状態でウロウロしているそうです。勿論あの女……何とか言いましたね……そうそうユリ子からも一文も来ないそうで、お話の奈良漬の一件や何かも彼女の虚構《うそ》らしいのです。姫草ユリ子という名前も本名ではないので、両親の苗字は堀というのだそうです。慶応の病院へ入る時に自分の友人の妹の戸籍謄本を使って、年齢《とし》を誤魔化《ごまか》して入ったと言うのですがね。本当の名前はユミ子というのですが、その堀ユミ子が十九の年に、兄の跡を逐うて故郷を飛び出してからモウ六年になると言うのですから、今年十九という姫草の年齢も出鱈目《でたらめ》でしょう。自分では二十三だと頑張っていましたがね。むろん女学校なんか出ていないと言う報告ですから、ドコまでインチキだか底の知れない女ですよアレは……」
 「ヘエ。全然赤じゃないんですね」
 「赤の連絡は絶対にありません。随分手厳しく調べたつもりですが」
 「そうするとあの女は、つまり何ですか」
 「それがですね。エヘン。それがです。つまるところあの女は一個の可哀そうな女に過ぎないのです。貴方がたの御親切衷心から感激しているのですね。一生を臼杵病院で暮したいと言っているのです。臼杵家の人達に疑われるくらいなら私、舌を噛んで死んでしまいますとオイオイ泣きながら言うのですからね」
 「ヘエー。ほんとうですか」
 「ほんとうですとも。ハハハ。けさ十時頃までに迎えに来て下さい。単に赤の嫌疑で引張ったのだが、その嫌疑が晴れたから釈放するのだ。気の毒だった……とだけ言い聞かせて、ほかの事は何も言わずに、お引き渡ししますから……臼杵先生も十分にお前を信用してお出でになるのだから、あんまり虚構を吐かないように……ぐらいの事は説諭して遣《や》ってもいいです。とにかく可哀相な女ですから、末永く置いて遣って下さい」
 「……ヘエエ。妙ですね。それじゃあの女は何の必要があって、あんな人騒がせな出鱈目を創作して、吾々に恥を掻《か》かせたんでしょう。根も葉もない事を……」
 「ええ。それはですね。その点も残らず取り調べてみましたが、要するにあの娘のつまらない性癖らしいのです。山出しの女中が自分の郷里の自慢をする程度のものらしいので、別に犯罪を構成するほどの問題じゃありません。それ以上はどうも個人の秘密に亙《わた》っておりますので取り調べかねるのですが。ハハハ。とにかく宝石を一つ御損かけてすみませんでした。どうか末永く可愛がって置いて遣って下さい。可哀相な女ですから……僕はこれから出勤しますから失礼します」
 鈍感な私は、こうした田宮氏の態度から何事も読み出し得なかった。何の気も付かない阿呆《あほう》みたいな恰好で追払われながら引き退って来た。そのままこの事を姉と妻に話して聞かせると、二人もまたいい気なもので凱歌を揚げて喜んだ。
 「ソレ御覧なさい。言わない事じゃない」
 「言わない事じゃないって、馬鹿……何とも言やしないじゃないか。最初から……」
 「いいえ。私そう思ったのよ。姫草さんに限って赤なんかじゃないと思ったんですけど、貴方が余計な事をなさるもんだから……」
 「何が余計な事だ。些《すくな》くとも姫草が虚構吐きだった事がハッキリわかったじゃないか……」
 「でもまあよかったわねえ。何でもなくて……タッタ今お姉様とお話していたのよ。姫草さんが万一無事に帰って来たら、暇を出そうか出すまいかってね。いろいろ話し合ってみた揚句、いくら何でも可哀相ですから、貴方にお願いして置いて頂こうじゃないのって……そう言っていたとこよ。……まあ。よかったわねえ。うちのマスコット……私たち二人で直ぐに迎えに行って来ますわ。ね……いいでしょう」
 二人はそれから威勢よく自動車《ハイヤ》に乗って出かけた。私に朝飯を喰わせる事も忘れたまま……。
 ユリ子は留置所の前の廊下で姉の胸に取り縋《すが》ったそうである。五つ六つの子供のように、
 「もうしません、もうしません、もうしません」
 と泣き叫んで身もだえするので二人ながら弱ったそうであるが、それほどに取り調べが峻烈だったかと思うと、姉も妻も暗涙を催したと言う。
 それから三人一緒に自動車で帰って来たが、ユリ子の襟首からは昨日の朝のお化粧がアトカタもなく消え失せていたので、姉と妻とで湯に入れて遣ったり、下着を着かえさせたりして、まるで死んだ人間が生き返ったような騒ぎをした後に、やっと私と一緒に朝の食事にありつかせたが、ユリ子はただ、
 「すみません、すみません」
 と繰り返し繰り返し泣くばっかりで飯もロクロク咽喉《のど》に通らないようであった。
 ところが彼女……姫草ユリ子……もしくは堀ユミ子の性格は、どこまで奇妙不可思議に出来上っているのであろう。
 わざわざ出勤を遅らせた私が、玄関横の客間に彼女を坐らせていろいろ取り調べの模様を聞いてみると……どうであろう。その取り調べの内容なるものが実に意外にもビックリにも、お話にならないのであった。
 スッカリ化《ばけ》の皮を剥《は》がれてしまって、見る影もなく悄然《しょんぼり》となった彼女の、涙ながらの話によると、伊勢崎署に於ける警官諸君の、彼女に対する訊問ぶりは峻烈どころの騒ぎではなかった。聞いている姉と松子が座に堪えられなくなったほどに甘ったるい、言語道断なものであった状態を、彼女はシャクリ上げシャクリ上げしながら口惜しそうに説明し始めたのであった。巨大《おおき》な鉄火鉢のカンカン起った署長室で、平服の田宮特高課長と差向いで話した時の室内の光景から、何度も何度も炭火の跳ねたところから、田宮課長の腕時計の音までも、真に迫って話すのであった。
 しかし私はこの時に限ってチットモ驚かなかった。
 私は、そんな風な話を平気で進めながら、次第次第に昂奮して、雄弁になって来る彼女の表情をジイット凝視《みつめ》ているうちに、彼女の眼付きの中に一種異様な美しい光が、次第次第に輝き現われて来るのを発見した。それは精神異常者の昂奮時によく見受けるところの純真以上に高潮した純真さ、妖美とも凄艶とも何とも形容の出来ない、色情感にみちみちた魅惑的な情欲の光であった。そうした彼女の眼の光を見守っているうちに、鈍感な私にも一切のウラオモテが次第次第に夜の明けるように首肯されて来た。彼女の不可思議な脳髄の作用によって描きあらわされて来た今日までの複雑混沌を極めた出来事のドン底から、実に平凡な、簡単明瞭な真実が、見え透いて来たのであった。
 性急《せっかち》な私は彼女の話の最中に、便所に行く振りをして、ソッと茶の間に来た。そこで真赤になって苦笑している妻の松子に耳打ちして、病院に彼女と一緒に寝起きしている看護婦を大至急で呼び寄せて、ユリ子に関する或る秘密を問い訊《ただ》してみた。
 呼ばれて来たのは田舎から出て来たままの山内という看護婦であった。何処までも正直な忠実な、いつもオドオドキョロキョロしている種類の女であったが、彼女は私たち三人の前で、真赤な両手を膝の上にキチンと重ねながら、柔道選手か何ぞのように眼を据《す》えて答えた。姫草に怨《うら》みでもあるかのように……。
 「ハイ。姫草さんの月経来潮《メンス》は正確で御座いました。毎月大抵、月の初めの四日か五日頃です。わたくし、いつも洗濯をさせられますので、よく存じております」
 これを聞いた私は一も二もなく立ち上って、洋服に着かえた。何もかも放ったらかしたまま自動車を飛ばして、県の特高課に乗り込んで、出勤したばかりの田宮課長に面会した。遠慮も会釈も抜きにして述べ立てた。
 「田宮さん。やっとわかりました。御厄介をかけましたあの姫草ユリ子と言う女は、卵巣性《オバリヤル》か、月経性《メンスツリアル》かどちらかわかりませんが、とにかく生理的の憂鬱症《デブ[#「プ」では?、85-10]レッション》から来る一種の発作的精神異常者なのです。あの女が一身上の不安を感じたり、とんでもない虚栄心を起して、事実無根の事を喋舌《しゃべ》りまわったりするのが、いつも月経前の二、三日の間に限られている理由もやっとわかりました。僕の日記を引っくり返してみれば一目瞭然です」
 「ハハア。そうでしたか。実は私の方でも経験上、そんな事ではないか知らんと疑ってもみましたが、一向、要領を得ませんでしたので……しかしどうしてソンナ事実をお調べになりましたか」
 「……ところでこれは、お互いに名誉に関する事ですから御腹蔵なくお話下さらんと困りますが、昨晩、お取り調べの際にあの女は、何か僕の事に就いて話はしませんでしたか」
 さすがに物慣れた田宮氏も、この質問を聞いた時には真赤になってしまった。
 「アハハハ。わかりましたか……貴方の処に帰ってから白状しましたか」
 「イヤイヤ。そんな事はミジンも申しませんでしたが、その代りに貴方のお取り調べの御親切だった模様を喋舌りました。実に念入りな、真に迫った説明付きで……ですからこれは怪しいと思いますと、直ぐに今朝からのお話を思い出しまして、ジッとしておられなくなりましたから飛んで参りました。非道《ひど》い奴です。あの女は……」
 イヨイヨ真赤になった田宮氏は制服のまま棒立ちになってしまった。
 「イヤ。よく御腹蔵なくお話下すった。それならばコチラからも御参考までにお話しますが、君は十月の……何日頃でしたか。午後になって箱根のアシノコ・ホテルに外人を診察しに行かれましたか」
 「ええ。行きました。石油会社の支配人を……ラルサンという老人です」
 「その時にあの女を連れて行かれましたか」
 「行くもんですか。一人で行ったのです」
 「成る程。それでユリ子はお留守中、在院していたでしょうか」
 「……サア……いたはずですが……連れて行かないのですから……」
 「ところがユリ子は、その日の午後には病院にいなかったそうです。昨夜、君の病院の看護婦に電話で問合わせてみたのですが、何でも君が出かけられると間もなく横浜駅から自動電話がかかって、直ぐに身支度をして横浜駅に来いと命ぜられたそうですが……」
 「ヘエ。驚きましたな。あの女は少々電話マニアの気味があるのです。よく電話を応用して虚構《うそ》を吐きます。そんな電話が実際にかかっているように受け答えするらしいのです」
 「とにかくソンナ訳でユリ子は、大急ぎでお化粧をして、盛装を凝《こ》らして病院を出て行ったそうです」
 「プッ。馬鹿な……盛装の看護婦なんか連れて診察に行けるもんじゃありません」
 「そうでしょう。私もその話を聞いた時に、少々おかしいと思いました。看護婦を連れて行く必要があるかないかは病院を出られる時からわかっているはずですからね」
 「第一、そんな疑わしい連れ出し方はしませんよ。ハハハ」
 「ハハハ。しかしその時のお話を随分詳しく伺いましたよ。まぼろしの谷[#「まぼろしの谷」に傍点]とか何とか言う素晴らしい浴場がそのホテルの中に在るそうですがね。行った事はありませんが……」
 「僕は聞いた事もありません。そのホテルでラルサンという毛唐《けとう》と一緒に食事はしましたがね。まだいるはずですから聞いて御覧になればわかりますが、かなりの神経衰弱に中耳炎を起しておりましたから、鼓膜切解をして置きましたが……」
 「そうですか……そのまぼろしの何とか言う湯の中の話なんかトテも素敵でしたよ。青黒い岩の間に浮いている二人の姿が、天井の鏡に映って、ちょうど桃色の金魚のように見えたって言いましたよ……ハハハハ……」
 「馬鹿馬鹿しい。いつ行ったんだろう」
 「一人で行くはずはないですがね」
 「むろんですとも……呆れた奴だ」
 「どうも怪《け》しからんですね」
 「怪しからんです……実は今朝、貴官《あなた》から、いつまでも可愛がって置いて遣《や》るように御訓戒を受けましたが、そんな風に人の名誉に拘《かか》わる事を吐きやがるようじゃ勘弁出来ません。これから直ぐにタタキ出してしまいますから、その事を御了解願いに参りましたのですが」
 「イヤイヤ。赤面の到りです。謹んでお詫び致します。どうか直ぐに逐い出して下さい。怪しからん話です」
 「怪しからんぐらいじゃありません。私の不注意からとんだ御迷惑を……」
 「しかしとんでもない奴があれば在るものですな。初めてですよ。あんなのは……」
 「そうですかねえ。あんなのは珍しいですかねえ。貴官方でも……」
 「所謂《いわゆる》、貴婦人とか何とか言う連中の中には、あの程度のものがザラにいるでしょうが、犯罪を構成しないから吾々の手にかからないのでしょうな」
 「それともモット虚構《うそ》が上手なのか……」
 「それもありましょう。つまり一種の妄想狂とでも言うのでしょうな。自分の実家が巨万の富豪で、自分が天才的の看護婦で、絶世の美人で、どんな男でも自分の魅力に参らない者はない。いろんな地位あり名望ある人々から、直ぐにどうかされてしまう……と言う事を事実であるかのように妄想して、その妄想を他人に信じさせるのを何よりの楽しみにしている種類の女でしょうな。一昨夜のお話に出た、子供を生んだという事実なんかも、彼女自身の口から出たものとすれば事実じゃないかも知れませんね。事によると彼女はまだ処女かも知れませんぜ……ハッハッ……」
 「アハハハハ。イヤ。非道《ひど》い目に会いました。どうかよろしく……」
 「さようなら……」 
 そう言って別れた帰りがけに私は、彼女の身元引受人になっている下谷の伯母の処へ電報を打った。世にも馬鹿馬鹿しい長たらしい夢から醒めたように思いながら……それでも彼女の伯母さんなる人物が、真実《ほんとう》にいるのか知らんと疑いながら……。

 彼女の伯母さんと言う髪結い職の婦人は、早くもその日の夕方にノコノコと私の自宅へ遣って来た。赤々と肥った四十恰好の、見るからに元気そうな櫛巻頭に小ザッパリとした木綿《もめん》着物で、挨拶をする精力的な声が、近所近辺に鳴り響いた。
 「……まああ……呆れた娘《こ》ですわねえ。ほんとに……いいえ。私はあの娘の伯母でも何でもないんですよ。これでもお江戸のまん中あたりで生まれたんですからね。へへへ……あたしが先立って、あの大学の耳鼻科に入って脳膜炎の手術をして頂いた時に、あの娘さんに親身も及ばぬくらい世話になったもんですからね。それが縁になってツイ転がり込まれちゃったんですの。伯母さん伯母さんて懐《なつ》かれるもんですから、仕方なしに身元引受人になっているんですがね。……いいえ。それがねえ。あの娘がいつまでもいつまでも私の家にいると近所の若い者が五月蠅《うるさ》くて困るんですよ。あの娘はホントに何て言うんでしょうねえ。妙な娘で御座んしてね。私の家に来てから二、三日と経たないうちに近所の若い衆からワイワイ騒がれるんですからね。まるで魔法使いみたいなんですよ。ですから、早く何処かへ行って頂戴。引受人にでも何でもなったげるからってね。そう言って追い出したんですけど……」
 そんな事をペラペラ喋舌《しゃべ》り立てる片手間に、彼女は足袋《たび》の塵を払い払い台所口からサッサと茶の間に上り込んで来た。そこで彼女は旧式の小さな煙草|容器《いれ》を出して、細い銀|煙管《ぎせる》を構えながら一段と声を落して眼を丸くした。私がすすめた煙草盆に一礼しながら……大変な身元引受人が出て来たのに驚いている私等三人の顔を交る交る見比べた。
 「その若い衆で思い出したんですけどね。あの娘《こ》は何でもこの間っから、東京中の新聞に大きく出た『謎の女』ってね……御存じでしょう。あの本人らしいんですよ。コレくらいの悪戯《いたずら》なら妾だって出来るわ……ってね。あの娘が若い衆にオダテられてウッカリ喋舌ったって言うんですの。それからミンナが面白半分にわいわい言って、いろいろ問い訊《ただ》してみると、どうも本人らしいので皆、気味が悪くなったんですって。あの娘が出て行ったアトで私に告口した者がいるんですよ。……ですからそう言われると私も気味が悪くなっちゃいましてね。あの娘が仕事を探しに行った留守に、預けて行った手廻りの包みの中を調べてみたら、どうでしょう。新しい小さな紙挾みの中に、あの『謎の女』の新聞記事が、幾通りも幾通りも切り抜いて仕舞って在るじゃあありませんか……いいえ。ほかの記事は一つもないんですよ。わたくしゾッとしちゃいましてね。今にドンナ尻を持ち込まれるかと思ってビクビクしていたんですよ。でもまあソレぐらいの事ですんでよござんした。ええ、ええ、引き取って参りますとも……エエ、エエ、なるたけ眼に立たないように呼び出してソッと連れて参ります。モウモウあんな風来坊の宿請《やどうけ》は致しません。マゴマゴすると身代限りをしてしまいます。……兄貴なんかいるもんですか。みんな嘘ッ八ですよ。……お宅様も災難で御座んしたわねえ。いくらかお金を遣って故郷へ帰したら後生の悪い事も御座んすまいし、怨まれる気遣いも御座んすまい。どうもお気の毒様で御座んした。一人で喋舌りまして相すみません。とんだお邪魔を致しまして……ハイ。さようなら……」
 彼女は約束通り人知れずユリ子を呼び出して連れて行ったらしい。姫草ユリ子はその夕方から私達には勿論のこと、一緒にいる看護婦たちにも気付かれないまま姿を消してしまった。そうして冒頭に書いた彼女の遺書以外に、彼女から何の音沙汰もなく、病院の方も以前の通りの繁昌を続けている。

 それでも彼女の名前を当てにして病院に尋ねて来る患者は、まだなかなか尽《つ》きない。私の病院は彼女のために存在していたのじゃないか知らんと疑われるくらいである。
 一方にその後、警官や刑事諸君が遊びに来ての話によると、彼女は向家《むかい》の蕎麦屋《そばや》にいる活弁上りの出前持を使って電話をかけさせておったものだそうで、白鷹助教授に化けて東京から電話をかけたのもその弁公だったそうである。文句は彼女がスッカリ便箋に書いて、弁公を病院の地下室に呼び込んで、何度も何度も練習させたものだそうでまた、白鷹氏の手紙も、彼女が文案をして県庁前の代書人に書かせて投凾したものだと言う事が、彼女の白状によって判明していたと言うが、そんな話を聞けば聞くほど、彼女の虚構《うそ》の創作能力と、その舞台監督的な能力が、尋常一様のものでなかった。虚構の構成に関する、あらゆる専門的……もしくは病的な知識と趣味とを彼女は持っていた。如何なる悪党、または如何なる芸術家も及ばない天才的な、自由自在な、可憐な、同時に斃《たお》れて止まぬ意気組を以て、冷厳、酷烈な現実と闘い抜いて来たか。K大病院、警視庁、神奈川県警察部、臼杵病院を手玉に取って来たか。次から次へと騒動を起させながら音も香もなくトロトロと消え失せて行った腕前の如何に超人的なものであるかを想像させられて、私はいよいよ驚愕、長嘆させられてしまった。
 それから今一つ重要な事は、それから後、いろいろと病院の内部を調査しているうちに、小型の注射器とモルヒネの瓶が一個、紛失しているのを発見した事である。しかも彼女……姫草ユリ子がそれを盗んで行く現場を、前に言った山内という山出し看護婦が見たのは、ズット以前の九月の初め頃の事だったそうであるが、その時に姫草が振り返って、[#ここから告白シーン、1字下げ]
「喋舌ったら承知しないよ」
と言って睨み付けた顔が、それこそ青鬼のように恐ろしかったので、今日まで黙っておりました……
……姫草さんのような気味の悪い、怖ろしい人はありませんでした。いつも詰まらない詰まらない、死にたい死にたいと言っておられましたので、私は恐ろしくて恐ろしくて、姫草さんが夜中に御不浄に行かれる時なぞ、後からソーッと跟《つ》いて行った事もありました。……その癖、姫草さんはトテモ横暴で、汚れ物や何かもスッカリ私に洗濯おさせになりますし、向家《むかい》のお蕎麦《そば》屋の若い人を呼ばれる時にも妾をお使いに遣られます。そうして「妾(姫草)の秘密がすこしでも臼杵先生にわかったら、妾は貴女(山内)を殺して自殺するよりほかに道がないんですからそのつもりでいらっしゃい。この病院を一歩外へ出たら妾はモウ破滅なんだから」と姫草さんは繰り返し繰り返し言っておりました。ですから私は何が何だかわからないまま姫草さんの言う通りになっておりました……[#ここで告白シーン終わり]
 と山内看護婦が眼をマン丸にして、白状した事であった。
 私はかの姫草が、その虚構《うそ》の一つ一つに全生命を賭けていた事を、この時に初めて知った。彼女の虚構が露見したら、すぐにもこの世を果敢《はか》なみて自殺でもしなければいられないくらい、突き詰めた心理の窮況に陥りつつ日を送り、夜を明かして来たのであろう。しかも、そうした冒険的な緊張味の中に彼女は言い知れぬ神秘的な生き甲斐を感じつつ生きて来たものであろう。
 彼女は殺人、万引、窃盗のいずれにも興味を持たなかった。ただ虚構を吐く事にばかり無限の……生命《いのち》がけの興味を感ずる天才娘であった。
 彼女は貞操の堕落にも多少の興味を持っていたらしい。しかし、それも具体的な堕落でなくて、虚構の堕落ではなかったか。現実的な不道徳よりも、想像の中の不倫、淫蕩の方が遙かに彼女の昂奮、満足に価してはいなかったか。彼女は肉体的には私達第三者が想像するよりも、遙かに清浄な生涯を送ったものではなかったかと想像し得る理由がある。
 彼女ほどの虚構《うそ》吐《つ》きの名人がK大以来一度も変名を用いなかった心理も、ここまで考えて来ると想像が付いて来る。それは姫草ユリ子なる名称が、彼女の清らかな、可憐な姿の感じに打って付けである事を、彼女が自覚していたばかりでない。そうした彼女の気持の清浄無垢さを誇りたい彼女の心の奥の何ものかが、こうした名前に言い知れぬ執着を感じていたせいでは、あるまいか。

 白鷹兄足下
 姫草ユリ子に関する小生の報告は以上で終りです。
 宇東三五郎は依然として彼女を、きわめて巧妙な地下運動者の一人である。彼女は表面上、単純な虚構吐き女を装いながら、思う存分の仕事を為《な》し遂げて、その恐るべき地下運動の一端さえも感付かせないまま、凱歌を上げて立ち去った稀代の天才少女である。その伯母さんなる中年婦人も、彼女と一緒に働いている有力な地下運動者の一人で、彼女の仕事に一段落を付けるべく、サクラとなって彼女を救い出しに来たものかも知れない、とさえ疑っているようであります。
 また、田宮特高課長は彼女を一種特別の才能を備えた色魔にほかならぬ。臼杵病院の付近の若い者で、彼女の名前を知らない者が一人もない事実が、あとからあとから判明して来るのを見てもわかる。だから貴下も小生も、彼女の怪手腕に翻弄されながら、彼女に同情しつつ在る最も愚かな犠牲者である……と言った風に考えているらしい事が、時折、遊びに来る刑事諸君の口吻から察しられるのですが、しかしこれは余りに想像に過ぎていると思います。換言すれば彼女に敬意を払い過ぎた観察とでも申しましょうか。
 貴下と御同様に……と申しては失礼かも知れませぬが、小生がソンナ事実を信じ得る理由を発見し得ませぬ理由を、貴下は最早十分に御首肯下さる事でしょう。
 小生は小生の姉、妻と共に告白します。小生等は彼女を爪の垢《あか》ほども憎んでおりません。
 何事も報いられぬこの世に……神も仏もない、血も涙もない、緑地《オアシス》も蜃気楼《しんきろう》も求められない沙漠のような……カサカサに乾干《ひから》びたこの巨大な空間に、自分の空想が生んだ虚構《うそ》の事実を、唯一無上の天国と信じて、生命がけで抱き締めて来た彼女の心境を、小生等は繰り返し繰り返し憐れみ語り合っております。その大切な大切な彼女の天国……小児が掻き抱いている綺麗なオモチャのような、貴重この上もない彼女の創作の天国を、アトカタもなくブチ毀《こわ》され、タタキ付けられたために、とうとう自殺してしまったであろうミジメな彼女の気持を、姉も、妻も、涙を流して悲しんでおります。隣家の田宮特高課長氏も、小生等の話を聞きまして、そんな風に考えて行けばこの世に罪人はない……と言って笑っておりましたが、事実、その通りだと思います。
 彼女は罪人ではないのです。一個のスバラシイ創作家に過ぎないのです。単に小生と同一の性格を持った白鷹先生……貴下に非ざる貴下をウッカリ創作したために……しかも、それが真に迫った傑作であったために、彼女は直ぐにも自殺しなければならないほどの恐怖観念に脅やかされつつ、その脅迫観念から救われたいばっかりに、次から次へと虚構の世界を拡大し、複雑化して行って、その中に自然と彼女自身の破局を構成して行ったのです。
 しかるに小生等は、小生等自身の面目のために、真剣に、寄ってたかって彼女を、そうした破局のドン底に追いつめて行きました。そうしてギューギューと追い詰めたまま幻滅の世界へタタキ出してしまいました。
 ですから彼女は実に、何でもない事に苦しんで、何でもない事に死んで行ったのです。
 彼女を生かしたのは空想です。彼女を殺したのも空想です。
 ただそれだけです。

 この事を御報告申し上げて、御安心を願いたいためにこの手紙を書きました。

 A・C《コカイン》のスプレーで睡魔を防ぎながらヤットここまで書いて参りましたが、もう夜が白《しら》けかかって脳味噌がトロトロになりましたから擱筆《かくひつ》します。
 彼女が死んだ後までも小生等を抱き込んで行こうとした虚構《うそ》の流転も、それから貴下に対する小生の重大な責任もこの一文と共に完全に……何でもなく……アトカタもなく終焉を告げて行く事になります。
 さようなら。
 彼女のために祈って下さい。



  殺人リレー

     第一の手紙

 山下智恵子様 みもとに
  ミナト・バスにて  友成《ともなり》トミ子より

 お手紙ありがとうよ。
 女車掌になりたいって言う貴女《あなた》の気もち、よくわかりましたわ。
 百姓の生活はつまらない。
 青空や雲を見てタメ息なんかしてはいけない。東京の方へ行く赤、青、白の筋の付いた汽車を見送ってボンヤリなんかしていたら、なおさらいけない。汗でも涙でも、うつむいて土の中に落して行かなければ、百姓仲間の裏切者みたいに両親や兄弟から睨《にら》まれる。土から生まれて、土まみれのボロを着て、真黒い、醜い土くれのようなお婆さんになって、土の中に帰るだけ……。
 ほんとうだわね。同情しますわ。
 ですけども女車掌になんか成っちゃ駄目よ。ほかの仕事はあたし知りませんけど、女車掌だけはホントウにダメなのよ。お百姓なんかよりもモットモットつまらない、そうしてモットモット恐ろしい、イヤな仕事なのよ。
 女車掌の運命なんてものは、往来に散らかっている紙キレよりもモットモット安っぽいものなのよ。女車掌になってみると、すぐにわかるわ。
 早い話が、お百姓の娘でいると、お婿さんは純真な村の青年の中から御両親が選んで下さるでしょ。都合よく行くと好きな人とも一緒になれるでしょう。
 ですけど女車掌になると、そんな幸福を最初からアキラメていなければならないのです。会社の重役さんとか、役員さんとか、自動車係りの巡査さんの言う事は、どんなにイヤな事でもおとなしく聞いて置かないと、直ぐに首になるのです。何とかカントかナンクセを付けて追い出されてしまうのです。私みたいに身よりタヨリのない孤児《みなしご》の女はなおさら、そうなのです。ですから賢い人はなるたけお白粉を塗らないようにして給料の上らないのは覚悟の前で、眼に立たないように、影にまわってばっかり働いているのです。その馬鹿馬鹿しい息苦しさったらないのですよ。
 そうして、そればっかりじゃないのよ。
 あたし御存じの通り親も兄弟もない孤児ですから、女給にでも交換手にでも何でもなれるんでしたけど、女運転手が勇カンでスタイルがいいと思って、そのお稽古のつもりで女車掌になったんですけど……望み通りに運転手になって、お金を儲けたって、それから先は何の目的もないんですからねえ。孝行をする親も、可愛がる弟もないんですからねえ。つまんないわ。毎日毎日、何の目的《めあて》も楽しみもないカラッポの世の中を、切れるような風に吹かれたり、ゴミダラケの太陽に焼かれたりして、生命《いのち》がけで駈けずりまわるようなもんよ。酔ったお客にヒヤカサレたり、コワイ巡査に手を握られたり、キザな運転手に突っつかれたりするたんびに、心の底の底まで淋しくて、悲しくて、つまらなくなる商売よ。ウント速力を出した時、何かに行き当ってメチャメチャになってくれるといいと、ソンナ事ばっかし考えさせられる商売よ。
 ごめんなさいね。貴女のおためを思えばこそホントの事を言うんですから、怒らないで頂戴ね。そればっかしじゃないのよ。
 モットモット恐ろしい事があるのよ。
 この先に入れといた月川|艶子《つやこ》さんのお手紙を読んでちょうだい。文句をソックリその通りに写して置きましたから。
 この手紙は妾の大事な手紙です。恐ろしい殺人事件の秘密のショウコになるかも知れない手紙ですから、このまんま貴女に上げるわけに行かないのです。そのわけもお読みになればわかるわ。
 月川ツヤ子さんは妾の小学校の同級生なの。お父さんと一緒に浜松のベンキョウ・バス会社で、あたしと同じに女車掌をつとめている人よ。今年十九。身体《からだ》は小さいけど、とてもシャンなの。妾と違って気の弱い親切な人。あたしの昔からの親友。字もモット上手なんですけど。

       月川ツヤ子さんの手紙[#両側に傍線]

 友成トミ子さん
 ごぶさたしました。お変りありませんか。
 トツゼン変な事を書いてすみませんけど、私このごろある人に殺されそうな気がするのです。
 このごろ私のいる勉強乗合自動車会社に、新高《にいたか》って言う新しい運転手さんが来ましたの。それはナポレオンによく似た冷たい顔をした背の高い人です。運転がトテモ上手で、スタイルがよくて、骨身を惜しまず働くのでグングン昇給して行く人です。
 その人が来てから三か月目に、私をお嫁にくれって、私のお父さんに申し込みました。二週間ばかり前の事です。
 会社の工場に勤めている私のお父さんは、気が進まないけど、新高さんを可愛がっている会社の専務取締役の人が仲に立っているのでイヤとは言えないのだが、お前はドウかって尋ねられた時に、妾はすぐに承知してしまいました。新高さんなら前から嫌いじゃなかったんですからね。
 ごめんなさいね。あなたに御相談しないで承知してしまったこと。
 でも妾、最初ビックリしましたわ。どうして新高さんが、妾のような女を貰う気になったのだろうと思いましてね。
 新高という人はシンカラ無口の人らしいのです。待合室に来ても、ほかの運転手のように女車掌に甘ったるい事を言ったり、妙な眼付きをした事なんか一度もないのです。並んで腰かけている私たちを見向きもしないで、スパリスパリ煙草ばかり吹かしているのです。
 そうかと思うとダシヌケに、ヤンチャを言っているお客さんの子供を抱き上げて、頬擦りをしてキャッキャと笑わせたり、十銭で三つぐらいの一番|高価《たか》いお蜜柑を一円ばかりも買って来て、黙って私たちにバラ撒《ま》いたままプイッと外へ出て行ってしまったりしてトテモ気まぐれな人なのです。
 そうかと思うとまた運転台で、バットを吸い吸いモノスゴイ速力を出しながら、ステキに朗らかな澄み切った声で、
 エーエ。二度とオー惚れエーまいイ運転手のオ――畜生めエ――
 敷き逃げエ――したア――ままア――知らぬウ――顔オ――
 なんて歌って、満員のお客をゲラゲラ笑わしたりするのです。その癖、遊びに行った話はチットモ聞きません。いつもお金をポケットの中でジャラジャラ言わせているのですよ。ですから会社の重役さんがスッカリ信用してしまったらしいのです。
 私も男らしい固い人と思い込んで、何もかも言うなりになってしまったんです。そうして正式に結婚式を挙げるばかりになっていたのです。
 そうしたらね。きょう東京の青バスにいる妾の親友の松浦ミネ子さんからダシヌケにお手紙が来たのです。それがトテモびっくりする事だったのです。
 「貴女の会社に新高竜夫って言う運転手が来たらダンゼン御用心なさい。
 新高竜夫って言う人は東京中の運転手の中でも一番男ぶりのいい、一番恐ろしい評判の悪い人です。
 新高って言う人は青バスにいるうちに幾人も幾人も女車掌を引っかけて内縁を結んで、その人に倦《あ》きると片端から殺して、何処かへ棄てて来るらしいんですって……。けれどもその遣り方が上手なので、まだ一度も疑われた事のない不思議な不思議な怖い怖い人なのです。こんな噂《うわさ》が立っているのは、あたし達、女車掌の仲間だけらしいのです。
 それでもこの頃になって、警視庁の眼が、だんだん強く新高さんの近まわりに光り出したので、新高さんはコッソリ青バスをやめて、何処かへ行ってしまったのです。
 どこか田舎のバスへ落ちて行ったろうって言う噂ですから、貴女の会社へ来るような事でもあったらゼッタイに御用心なさい。
 よけいな事かも知れませんけど、心配ですから、ちょっとお知らせします」
 と言ったような意味の事が鉛筆で走り書きにしてある。そんな手紙が来たのです。
 妾ビックリしてしまいましたわ。
 ですけども私、馬鹿正直なもんですから、この手紙をお父さんに見せないで、イキナリ新高さんに見せて遣ったのです。だって私モウ新高さんと関係が出来てしまったんですから、そうするのが当り前じゃないでしょうか。
 新高さんは青い顔をしてその手紙を読んでしまいました。そうしてクシャクシャに丸めて、火鉢に投げ込んで焼いてしまいました。
 「馬鹿だな……お前は……コンナ事を人にシャベッたら承知しないぞ」
 と言って舌なめずりをしながら、ジロリと私を睨んだ新高さんの顔付きの恐ろしかったこと。顔の肉の下から骸骨がムキ出しに、ギョロッと出て来たかと思ったくらいスゴかったわよ。芝居でも活動でもアンナ怖いスゴい顔は見た事なかったわ。
 私はその時にシンカラふるえ上がってしまって、ミネ子さんのお手紙に書いてある事がウソか本当か尋ねる事が出来なくなりました。そうして新高さんの顔を見て涙をポロポロ流していたら、新高さんはニッコリ笑って私の肩をタタキました。
 「アハハ。お前を殺そうてんじゃないよ。コンナ噂の手紙なんかホントにする奴があるもんか。馬鹿だな。お前は……」
 と優しく背中を撫でてくれたのです。その時に妾は何だか新高さんに殺されそうな感じがしてならなかったのですよ。でも新高さんなら殺されてもいいような気もちになったもんですから、そのまんま黙っているのです。
 この事はお父さんにも誰にも言わないつもりですけど、トミ子さんにだけ書いときますわ。
 ね。私の事を忘れないでね。
 私と新高さんとで楽しい家庭を持っても笑わないでね。心から祝福してね。さよなら。
                    浜松勉強バスにて  ツヤ子より[#下揃え2字上げ]

 これがツヤ子さんから来た最後の手紙だったのよ。
 ね。智恵子さん。この手紙を書いたツヤ子さんは、それから一週間も立たないうちに死んじゃったのよ。そうして博多でお葬式があったのよ。
 ツヤ子さんの遺骨を持ってお帰りになったお父さんのお話を聞いたら、ツヤ子さんはバス代用の新フォードに新高さんと一緒に乗って行くうちに、お客が満員になったので左側のステップに立っていなすったんですって。そうしたら暗闇の中で向うから来たトラックがライトを消さなかったので、新高さんのハンドルが急に左に寄り過ぎて、ツヤ子さんの身体が電柱にブツカッたって言うのよ。左の肩と、腕と、アバラの骨がグザグザになっていたんですってさあ。
 ドオオンて大きな音がしたって言う乗合《のりあい》のお客さんの話だったんですってさあ。ツヤ子さんのお父さんは「ツヤ子の運が悪いのです。あんな商売をさせたのが悪かったのです。トラックの番号は新高運転手が見といたそうですが、訴えても問題になりませんし、誰を怨むところもありません。タカの知れた女の子一匹です。広い世間の眼から見たら虫ケラ一匹のねうちも御座いますまい。それでもお客さんの生命に代ったのですから、私ももうトックに諦めております。会社からはその月の給料のほかに十円くれました。助かったお客様なんか見向きもしませんが、安いもんですなあ。よその人を敷いたのなら三百円ぐらい出しますが、葬式代にも足りません。もっとも、それぐらいに安く見積もらなきゃあ、若い人間をアンナに大勢、あぶない仕事には使われますまい」と言うていなさったわ。
 怖いわねえ。妾黄色いバラの花をドッサリ仏様に上げたわ。
 デモこの話を聞いた時に妾もうツクヅク女車掌がイヤになってしまったのよ。雲雀《ひばり》の鳴く田圃《たんぼ》で、お父さんやお母さんのお手伝いをしていなさる智恵子さんが浦山《うらやま》しくなったわ。
 わたしの言っている意味がおわかりになって?
 女車掌というものがドンナに嫌らしい、淋しい、恐ろしい、ツマラナイ運命を持っているものかおわかりになって?
 呉々《くれぐれ》も女車掌なんて止して頂戴。ね。
 サヨナラ。お身体をお大切にね。

     第二の手紙

 智恵子さん。大変よ。
 この前のお手紙に書いた新高運転手が来たのよ。妾たちのいるミナト・バス会社へ就職して来たの。そうして妾にプロポーズしたのよ。今度は私が殺される番よ。
 でも心配しないで頂戴。妾シッカリしているんですから。ナカナカ殺されやしないから……。
 新高運転手は東京の青バスが思わしくないから、勝手に暇を貰ってこっちへ来たって言うのよ。もうウソを言っているのよ。
 でもツヤ子さんを殺した新高運転手に違いないのよ。ナポレオンみたいな男らしい冷めたい顔をして黙りこくってセッセと働いているの。古いチューブと針金でフェンダーを作るのがトテモ上手よ。そうかと思うと上等のバナナを妾たちに配ったり、チューブを切り抜いた魚だのお馬だのをお客さんの赤チャンに遣ったりしてトテモ気マグレなのよ。みんな新高さん新高さんってチヤホヤしているんですけど、妾ソレと気が付いた時にゾッとしちゃったわ。
 それからツヤ子さんの仇敵《かたき》と思って、いつもジロジロ様子を見ていてやったわ。また、誰か殺しに来たに違いないと思って……。
 そうしたらね、妾がソンナ眼で見ているのを新高さんは何かしら感ちがいしたらしいの。博多発十一時の折尾行きの最終発を待合室で待っているうちに、お客が一人もいないので、いいチャンスと思ったのでしょう。新高さんは黄色いバラの花を一本持って入って来て、妾の手に握らせたの。妾ギクンとしちゃったわ。だってバラの花は死んだツヤ子さんの一番好きな花だったんですもの。
 妾が何かしら胸が一パイになりながら、ありがとうって言ったら、
 「トミチャン。今夜、折尾の僕の下宿に来ないか」
 ってダシヌケに言うじゃないの。つめたい真面目な顔をしてね。女を口説くような眼付きじゃなかったわ。英雄的な男らしい眼付きだったわ。
 その眼付きを見たトタンに妾は決心しちゃったわ。喜び勇んで、
 「ええ。行ってもいい」
 って言っちゃったわ。でもずいぶん息苦しかったわ。
 智恵子さん、ビックリしちゃ嫌よ。妾スッカリ新高さんが好きになっちゃったのよ。これこそホントに生命がけの恋よ。そうして、それと一緒にドウかしてツヤ子さんの仇敵を取って遣りたくなったのよ。新高さんを取っちめて、ヒイヒイあやまらせた揚句に、自殺させるかドウカしたら、どんなにか愉快だろうと思ってしまったのよ。
 コンナ風に文句に書いてみると、妾の言う事はムジュンしているでしょう。けれどもその時の気もちは、チットモムジュンしていなかったのよ。あの時ぐらい妾の胸が大きな希望で一パイになった事はなかったのよ。行く末に何の希望もないカラッポの妾の胸が、大きな、生き生きした幸福で一パイになったように思ったわ。
 妾は文字通りに喜び勇んで、新高さんの下宿に行ったの。そうして一から十まで新高さんの言うなりになって遣ったの。ちっとも恐ろしくなかったわ。新高さんもモウすっかり欺《だま》されて夢中になっていなすったわ。
 ソウ……妾、無茶かも知れないわ。でも無茶でもいいわ。今に見ていらっしゃい。妾の冒険が成功するか、しないか。
 そう思う時、妾の胸がドキドキするもので一パイになってしまうのよ。妾は今、妾の人生が破裂しそうなくらい張り切っているのよ。
 誰が何と言ったって妾は、この冒険に向ってマイ進するわ。          サヨナラ[#「サヨナラ」は下揃え2字上げ]

     第三の手紙

 智恵子さん。
 女なんて弱いものね。
 妾、新高さんにスッカリ征服されちゃったの。この前のお手紙に書いたような冒険心が、いつの間にか弱って来たらしいの。
 新高さんも毎日毎日妾を可愛がるのが楽しみになって来たらしいの。世帯の事だの、まだ生まれもしない赤ん坊の事ばかり妾に話すの……妾はソンナ時に黙っているんですけど、これから先ドレぐらい続くかわからない長い長い新高さんとの同棲生活のコースが、希望も何もない灰色にズーッと続いているのが見えて来たの。昔の通りの平凡なトミ子の心に……それがただ人妻となっただけのトミ子の心に帰りそうになって来たの。妾が大切に大切に隠していたツヤ子さんの手紙を焼いてしまおうかと思った事が何度あるかわからないの。
 新高さんを殺す気なんか爪の垢ほどもなくなっちゃったのよ。智恵子さんに笑われても仕方がないわ。
 いったいこれはどうした事なんでしょう。妾の一生はこのまんまで平々ボンボンのままおしまいになるのでしょうか。新高さんと一緒になった最初の時のアノ張千切《はちき》れるようなモノスゴイ希望はいったい何処へ行ってしまったのでしょう。
 妾はコンナつもりで結婚したはずじゃなかったのよ。妾はこのまんまパンクしたタイヤみたいになって、何処までも何処までも転がって行かなければならないのでしょうか。
 店の先にブラ下がっている派手なメリンスのキレが眼に付いて眼に付いて仕様がなくなったのよ。赤ん坊の着物にはドンナのがいいかと思ってね。
 どうぞどうぞ笑って頂戴。人生なんてコンナものかも知れないわ。

     第四の手紙

 大変な事が起ったのよ。智恵子さん。あたし、死《な》くなったツヤ子さんとおんなじお手紙を貴女に書くわ。
 あたし近いうちに殺されそうなの。
 新高さんが妾のバスケットの中からツヤ子さんの手紙を発見したらしいのよ。新高さんはソンナ事をオクビにも出さないんですけどね。何だか心の底にヨソヨソしい処が出来て来たようなの。そのクセ妾を可愛がる事は前よりもズット強くなったから変じゃないの。おれ達は幸福だ、幸福だってこの頃、急に言い出したからおかしいじゃないの。何かわけがあると思わずにはいられないのよ。まだ一緒になってから一週間も経たないのにさあ。
 そればっかりじゃないの。きのうコンナ事があったの。夜の九時の折尾行きに乗って行く途中の事なのよ。
 妾たちのミナト・バスでもバス代りに一九三二年型のシボレーのオープンを使っているの。そのシボレーの折尾行きが例の通り満員しちゃったので、妾がステップに立って、新高さんが運転して行くうちに、妾はフッと気が付いて、筥崎《はこざき》の踏切を出ると直ぐにダンマリで後部《リーヤ》のスぺヤタイヤの横にまわって、荷物を乗せるデッキの上に立っていたの。
 夜の九時頃よ。小雨が降って真暗だったわ。
 そうしたら多々羅の村中の狭い処で、向うからバスが来たと思うと、急にスピードをかけた新高さんが、ハンドルをものすごくグーッと左に取って、道傍の電柱にスレスレに走り抜けて行ったの。万一妾がモトの通り前の左側のステップに立っていたらキット払い落されてぐたぐたにタタキ付けられたに違いないのよ。
 妾ゾオッとしちゃったわ。ツヤ子さんの手紙を見られた事が、その時にハッキリとわかったのよ。わかり過ぎて髪の毛一本一本が逆立ちしたくらいだったわ。
 そうしたら新高さんはまた、間もなく松崎の広い下り坂で、鉄砲玉のようなスピードになった時、向うから来た自転車を除けるふりをしいしいギューッと左に取って、車体の左側を、あぶなく松の樹にコスリ付けながら飛ばして行ったの。その時に妾はまたハッキリと新高さんが妾を殺そうとしている事を感じたのよ。
 けれども、ちっとも手応えがない上に、妾がウンともスンとも言わないもんですから、新高さんは不思議に思ったらしいの。香椎《かしい》の踏切の前に来ると運転台から、
 「オーイ。トミちゃん」
 と呼ぶじゃないの。
 「ハアイ」
 て妾、後部から出来るだけ朗らかな声で返事して遣ったら直ぐに、
 「……馬鹿ア……前へ来ないかア……汽車を見てくれい。十時一分の上りが来る頃だあ」
 て言い言いスピードを落したの。妾はモウ一度朗らかに、
 「ハアイ」
 って返事しいしい前の踏切に馳け出して、
 「汽車オーライ」
 って両手を上げたの。あそこは家の蔭から急に鉄道踏切に乗り上げるばっかりじゃない。午後八時過は踏切番がいないので、慣れないトラックが二、三度引っかけられた事のあるトテモあぶない処なのよ。新高さんはチャント汽車の時間表を知っていて、御自慢のナ[#「カ」では?、112-1]ルダンの腕時計を見い見い運転して来て、大丈夫と思ったら、妾が「オーライ」と車の中から言っただけで一気に突き抜ける処なのよ。それにこの時に限って御念入りにスピードを落して妾を呼ぶんですから妾、おかしくなっちゃったわ。
 香椎でお客が三人降りたので、妾はビッショリ濡れたまままた、運転台に新高さんと並んで坐ったのよ。けども新高さんは別に何も言わなかったわ。ただ、
 「寒かったろう」
 とタッタ一言、低い声で言った切りステキなスピードを出して、香椎から一時間足らずのうちに折尾に着いたの。そうして二人してボデーを洗う間、一言も言わないまんまで家へ帰って、やはり黙りこくって二人でお酒を飲む間じゅう、睨み合いみたいになっていたの。新高さんは、いつも無口なんですけど、この時ばっかりは特別に、何ともカンとも言えない変な工合だったのよ。
 そうしたら新高さんがイヨイヨ寝る段になったら、お酒がまわったせいもあるでしょう。ダシヌケにいろんな冗談を言い出したの。それは無口の新高さんに全く似合わない冗談だったの。下は乞食《こじき》から、一番上は将軍様までいろんな階級の人のラブシーンを、新派や歌舞伎のいろんな俳優の声色《こわいろ》を使ってやったりするの。それは上手で面白かってよ。新高さんにあんな芸当があるとは思わなかったわ。ですから妾も思わず釣込まれて、腹を抱《かか》えて笑ってしまったのよ。
 けれども、それがまた、今朝になってみたら、何もかも空っぽになったような気がするの。人間の気持って妙なものね。こうして一日、仕事を休まして貰って、まだ降っている嵐模様の雨越しに、向家の屋根のペンペン草だの、ずっと向うに並んで揺れているポプラの並木だの、下り列車から吹き散って行く黒い烟だのを見ていると、それがみんな妾の運命みたいに思われて来て、考えても考えても考え切れない、淋しい淋しい気持になって来るの。
 すぐ眼の下のトタンの屋根をバタバタとたたいて行く雨の音を聞いていると、ツイ眼の中に熱い涙が一パイ溜まって、死ぬほどつまらない、張合いのない気持になってしまうの。こんな情ない、悲しい妾の気持は智恵子さんに訴えるほかないわ。何とかしなければならないと思いながら、どうにもならないじゃないの。
 妾、タッタ今、死んだツヤ子さんの形見の手紙を焼いたばかりのところなの。ツヤ子さんのアノ恐ろしい手紙を焼きたいばっかりに今日一日休まして貰ったようなもんよ。
 何もかも運命よ。
 運命にまかせるよりほかに仕方がないわ。神様なんてこの世にないんですから。
 智恵子さん。ミジメなトミ子のために泣いてちょうだい。

     第五の手紙

 智恵子さんありがとうよ。
 妾がコンスイしているうちに、お見舞に来て下すったんですってね。綺麗な花を沢山《たくさん》にありがとう。まだ妾の枕元に咲きほこっていますわ。感謝しますわ。
 あたし、あれから一週間というもの何も知らなかったのよ。高い熱のためにウンウン言っていたんですって。頭のマン中の骨が割れて、それが悪くなりかけて出た熱なんですって。七針とか縫ったのをまたほどいて、洗い直したんですって。
 どうして助かったんだか妾にもハッキリわからないのよ。でもこの頃になって、一人で起きたり坐ったり出来るようになったら、すこしずつ思い出して来たようよ。
 何でもこの前に貴女にお手紙書いてから間もなくの事よ。いつもの通り新高さんと妾のバッテリでシボレーに乗って、博多から折尾へ行く途中十時半チョット前と思う頃、香椎の踏切にかかったの。ヒドイ吹き降りで一人もお客のない晩だったわ。二百二十日か二十一日の晩でしたからね。
 踏切にかかる少し前で、左側の松と百姓家の間から上り列車の長い長いアカリがグングン走って来るのが見えたんですけど、妾は平気で、
 「……汽車アオーラアーイ」
 って長く引っぱって叫んだようよ。
 なぜソンナに恐ろしい嘘言《うそ》をついたのか、その時の気持がどうしてもわからないんですけど、真暗な雨風の中をすごいスピードで走る自動車の中で、すっかり憂鬱になっていた妾が、新高さんと一緒に死んだ方がいいような気持になっていたせいでしょう。
 その列車は熊本とか鹿児島とかから出た臨時列車で、満州に行く団体の人を一パイに乗せていたんですって。ちょうど博多発、上り十時一分の終列車が通り過ぎたばかりの処でしたから、十一時の下り列車ばかりを用心していた新高さんは、妾の言う事を本当にしたんでしょう。思い切りスピードを出して踏切を突切って国道沿いに右手へ急カーブを切ろうとしたの。そのテイルのデッキに列車のライフ・ガードが引っかかって、逆トンボ返りにハネ飛ばされて、タイヤを上にして堤《どて》の下へ落ちていたって言う話よ。
 新高さんは、厚い硝子の破片が脇腹の中へ刺さってモグリ込んだために、手当てが間に合わなかったんですって。列車の後部車掌の加古川さんて言う人が馳け付けて来て、背後《うしろ》から抱き起した時に、ウッスリ眼を開いて、息苦しい声で、
 「シマッタ。ヤラレタ……ツヤ子の怨みだ……畜生……ツヤ子だ、ツヤ子だ、ツヤ子だ」
 って言った切りコトキレたって言う話よ。その後部車掌の加古川さんがワザワザ妾を見舞いに来て話して下すったの。
 そのお話を聞いた時に、妾は思わずニッコリ笑っちゃったわ。身体《からだ》中の血がスウーと暖かくなって、今にもかけ出せそうな元気で一パイになってしまったわ。新高さんはツヤ子さんの仇敵《かたき》を妾に取られた事をハッキリとわかって死んだんですからね。
 そう思うと妾は、涙がアトカラアトカラ流れて困っちゃったわ。何も知らない加古川さんと看護婦さんが、スッカリ同情しちゃってね。いろいろ慰めて下すったんですけど何もなりゃしないわ。妾は神様に感謝して喜んで泣いているのに、悲しんではいけない、身体に障《さわ》る障るって言うんですもの。妾その時にツクヅク思ったわ。女なんて滅多に慰めて遣るもんじゃないって。何を泣いているか知れたもんじゃないんですからね。
 その車掌さんと看護婦さんの話を聞くと、妾はメチャメチャになったボデーの下に伏せられて、顔をシッカリと両手で隠して、手足をマン丸く縮めていたので、みんな感心したって言う話よ。キット衝突する前から、そうしていたのでしょう。
 昨日臨床訊問て言うのがあったのよ。警察だの裁判所の人らしいイカツイ顔をした人が五、六人妾の寝台の廻りを取り巻いていろんな事を質問するの。ずいぶん怖かったわ。
 妾が大きな声でストップって言ったけど新高さんが構わずに踏切を突切ったって言ったら、皆うなずいていたわ。新高さんのイツモの運転ぶりを知っていたのでしょう。香椎の踏切には自動信号機が是非とも必要だなんて話合っていたわ。
 新高さんと内縁関係があるという話だが、ホントウかって鬚《ひげ》の生えた人が聞いたから、妾、ありますって言ってやったの。顔も何も赤くならなかったと思うわ。皆顔を見合わせて笑っていたようよ。そうしたら四十ぐらいの刑事巡査らしい、色の黒い骸骨みたいな男が、凹《くぼ》んだ眼を大きくギョロギョロさせながら、
 「夫婦心中じゃないか」
 って言ったの。そうして白い歯をむき出して笑ったから妾ギョットしちゃったわ。でも妾、頑固に頭を振ったもんだから、間もなくみんな帰って行ったわよ。
 刑事なんて案外アタマのいいものね。その刑事の顔を思い出してもドキンとするわ。
 妾、神様に感謝しているのよ。ヤケクソの妾が一緒に死ぬつもりでオーライって言ったのに、新高だけ殺して、妾だけ助けて下すったんですもの。
 あたし頭の怪我がなおったらまた、ミナト・バスへ出て女車掌をつとめるわ。そうして今度こそ一生止めないわ。そうして女運転手になるわ。日本一の女運転手に……。妾これは神様の命令だと思っているの。
 結婚なんか一生しないわ。妾は最早《もう》、女の一生の分ぐらい何もかもわかっちゃったんですからね。新高さんが生き返って来ない限り、ほかの男の人には用はないつもりよ。
 新高さんの事がその時の新聞に大きく出ていたわ。「恐るべき色魔の殺人リレー」って言う標題でね。死んだ新高運転手は、東京の青バスを出てから後ズットお尋ね者になっていた女殺しの嫌疑者だった事が、死んだアトからわかったんですって。そうして新高は東京でも一度トラックと正面衝突をして、コチラの女の助手が即死したのに、自分だけ不思議に助かった事があるが、その時の説明のし方がよかったお蔭で無事に放免された経験の持ち主である。だから今度もホントウは内縁関係の女車掌と一緒に自動車を汽車に轢《ひ》かして、自分だけ飛び降りるつもりだったかも知れないって書いてあったわ。智恵子さんも多分、お読みになったでしょう。
 アレみんなウソよ。新聞社と警察の作り事よ。妾に同情し過ぎているのよ。会社でも大層、妾の身の上に同情しているそうよ。おかしいわね。
 でも妾、平気よ。世の中ってソンナもんよ。神様の裁判だけが正しいのよ。
 ですから、あたし智恵子さんだけにホントの事をお知らせするわ。
 これから後ドンナ事があっても女車掌なんかになっちゃ駄目よ。
 妾みたいな女になっちゃダメよ。

     第六の手紙

 智恵子さん。貴女に最後のお手紙を上げますわ。
 あたしこのお手紙を出した後で、何処かへ行って自殺しますの。死骸は誰にも見せないようにしたいのですから、どうぞ探さないで下さい。
 すみませんけど新高さんと妾の写真も、着物も、貯金の帳面も、印形も、世帯道具や何やかやも、みんな一|纏《まと》めにして、貴女のアテ名で送り出して置きました。
 どうぞ貧しい人達に分けて上げて下さい。
 小学校に寄付して下すってもいいわ。小さなオルガンぐらい買うだけあるでしょう。
 あの色の黒い骸骨みたいな刑事さんの言葉はやっぱりホントウだったのです。今やっとわかりました。
 妾は新高さんと夫婦心中をしてみたかったのです。そうして出来るなら自分だけ生き残ってみたかったのです。
 そうして、それがその通りになったのです。
 ですから妾はホントウを言うと夫殺しだったのです。けれども新高はツヤ子さんの怨みの一念に取り殺されたと思って死んだのでしょう。妾のシワザとは夢にも思わないままだったのでしょう。新高はやっぱり妾を心から愛していたのでしょう。
 そう気が付いた妾はモウいても立ってもいられません。
 そればかりじゃないのです。妾のお腹に新高の赤ちゃんが出来ていたのです。それがこの頃になって、新高さんの事を思い出すタンビに心臓の下の方でビクリビクリと躍り出すのです。この児が生まれたら妾どうしましょう。
 妾は、妾と一緒に呪咀《のろ》われたこの児も殺してしまいます。
 妾は夫殺しの吾児殺しです。
 貴女にだけ白状して死にますわ。許して下さい。ミジメなトミ子の一生涯のお願いです。
 女車掌なんかになってはいけません。――さよなら――



  火星の女

   県立高女の怪事[#2ポイント大きな字で]
     ミス黒焦事件[#1ポイント大きな字で]
       噂は噂を生んで迷宮へ

     本日記事解禁[#細い線でぐるりと囲む]

 去る三月二十六日午前二時ごろ、市内大通六丁目、県立高等女学校内、運動場の一隅に在る物置の廃屋《あばらや》より発火し、折柄の烈風に煽《あお》られ大事に致らむとする処を、市消防署長以下の敏速なる活躍により、同廃屋を全焼したるのみにて校舎には何等の損害なく消止め、一同|安堵《あんど》の胸を撫下《なでおろ》した事は既報の通りである。然るにそれから間もない二十六日の早暁に到り、その焼跡から、男女の区別さえ鑑別出来ない真黒焦の屍体が発掘されたため、又々大騒ぎとなった事実がある。しかも該屍体を大学に於て解剖に付した結果、二十歳前後の少女の屍体にして、特に腰部の燃焼十分なるような燃料を配置したる形跡あり。その結果、警察側にては色情関係の殺人放火事件と見込を付け、容易ならぬ事件と認め、右に関する記事の掲載を差止め、極度の緊張裡に厳重なる調査を開始したが、爾後《じご》一週間に到るも犯人は勿論、当該屍体の身元すら判明せず。噂《うわさ》は噂を生んで既に迷宮入りを伝えられ、必死の努力を続行中なる司法当局の威信さえも疑われむとする状態に立到っていたが、その後、当局にては何等か見る処があるらしく、今《こん》一日、突然に右記事を解禁するに到った。これは当局に於て、動かすベからざる重大な端緒を掴《つか》んだ証左と考えられ、従って右事件の真相が社会に公表されるのも遠い将来ではないと信じ得べき理由がある。

   他殺放火の疑い十分[#2ポイント大きな字で]
     但、例の放火魔では無いらし[#1ポイント大きな字で]

 右事件は依然として当局の調査続行中のため、今も尚、一切を秘密に付せられているが、事件発生直後本社の探聞し得たる処によれば、現場、県立高女の物置|廃屋《あばらや》は、平生何人も出入せず、且《かつ》、火気に遠隔《えんかく》した処なるを以て、放火の疑い十分ではあるが、校舎そのものの焼却を目的とする例の放火魔とは全然、手口が違っている。且、現場には硝子《ガラス》瓶ようのものの破片散乱せるも、同所が元来物置小舎なりしため、服毒用の瓶等とは速断し難い。また焼死体の血液採取が不可能な結果、抗毒素、一酸化炭素等の有無《うむ》も判明せず、従ってその処女なるや否や、又は過失の焼死なるや否やも決定し難い模様であるが、しかし現場の状況、及、屍体の外観等より察して他殺の疑いは依然として動かず。既報の通り色情関係の結果、演出された悲惨事《ひさんじ》ではないかと疑わるる節も多い。尚同校は去る三月十九日以来春季休暇中の事とて、寄宿舎には残留生徒一名もなく、泊込の小使老夫婦、及、当夜の宿直員にも一応の取調は行われたけれども怪しむべき点なく、さりとて変態性欲的な浮浪者が、高き混凝土《コンクリート》塀《べい》を繞《めぐ》らしたる同校構内に校外の少女を同伴し来るが如きは可能性の少ない一片の想像に過ぎず。且、その形跡もない事が認められている。尚、右記事の解禁後は捜索の方針が全然一変するらしいから、或《あるい》は意外の方向から意外の真相が暴露されるかも知れない。

   焼失した物置は[#1ポイント大きな字で]
     以前の作法教室
       校長は引責謹慎中

 因《ちなみ》に焼失したる県立高女の廃屋《あばらや》は純日本建、二階造の四|室《ま》で、市内唯一の藁葺《わらぶき》屋根として同校の運動場、弓術道場の背後、高き防火壁を繞《めぐ》らしたる一隅に在り。嘗《かつ》て同校設置の際、取毀《とりこわ》されたる民家のうち、校長|森栖《もりす》氏の意見により、同校生徒の作法|稽古場《けいこば》として取残されたものであるが、その後、同校の正門内に卒業生の寄付に係る作法実習用の茶室が竣工《しゅんこう》したため、自然不要に帰し、火災直前までは物置として保存されおり、階上階下には運動会用具その他、古|黒板《こくばん》、古|洋燈《ランプ》、空瓶、古バケツ、古籐椅子等が雑然として山積されていた。その階下に屍体を横たえて放火したものらしく、しかも火勢が非常に猛烈であったため、腹部以下の筋肉繊維は全然、黒き毛糸状に炭化して骨格に絡《から》み付き、凄惨《せいさん》なる状況を呈していたと言う。尚同校長森栖礼造氏は熱心なる基督《キリスト》教信者で、教育事業に生涯を捧ぐるため独身生活を続け、同校創立以来、三十年の間校長の重責に任じて一度の失態もなく、表彰状、位記、勲章等を受領する事枚挙に遑《いとま》あらず、全県下に於ける模範的の名校長として令名ある人物にして、事件当日は市内三番町の下宿に在ったが、急を聞いて逸早《いちはや》く現場に馳付け、御聖影を取出し、教職員を指揮して重要書類を保護させ、防火に尽力せしめた沈着勇敢な態度は人々の賞讃する処となったが、事後、三番町の下宿に謹慎《きんしん》して何人にも面会せず、怏々《おうおう》[#底本では「快々」、123-9]として窶《やつ》れ果てているので、謹厳小心な同校長の平生を知っている人々は皆、その態度に同情している。右につき去る三月二十八日、教務打合せのため、同校長を訪問した同校古参女教員、虎間《とらま》トラ子女史は同校長の言として左の如き消息を洩《も》らしたと言う。[#次の段落1字下げ]
目下その筋で取調中の事ゆえ、差出た事は言われぬが、自分としてはコンナ不思議な事はないと思う。同廃屋は校内に在るが、午後六時以後は宿直の職員と小使の老夫婦以外には校門の出入を厳重に禁止している。これは自分が特に注意している処であるが、何者が侵入して来てあのような事を仕出かしたものであろう。自分や学校に怨《うら》みを抱くような者の心当りもない。むろん学校関係の者とも思われぬので実に心外千万な奇怪事と言うよりほかはない。万事は当局の調査によって判明する事と思うが、とにもかくにもかような怪事件が校内に於て発生した以上、校内の取締に就いて何処かに遺漏《いろう》が在《あ》ったものと考えなければならぬ。その責任は当然自分に在るのだからかように謹慎しているのだ。云々《うんぬん》。

   森栖校長失踪[#2ポイント大きな字で]
       消え失せた遺書と不可[#1ポイント大きな字で]
       思議な女文字の手紙[#1ポイント大きな字で]

 去る三月二十六日、県立高女校内に発生したミス黒焦事件以来、謹慎の意を表して三番町の下宿に引籠っていた名校長、森栖礼造氏は、新生徒入学式の前日なる昨一日夕方頃より突然に失踪《しっそう》した事が、校務打合せのため同下宿を訪問した同校女教諭虎間トラ子女史によって発見された。既報の如く森栖校長はミス黒焦事件以来痛く神経を悩ましていたものの如く三番町の下宿に引籠り、鬚《ひげ》蓬々《ほうほう》として顔色|憔悴《しょうすい》していたが、事件発生後一週間目に当る去る三十一日夜、何処《いずこ》よりか一通の女文字の手紙が同氏宛配達されて以来、何故《なにゆえ》か精神に異状を来たしたものらしく、同下宿の女将《おかみ》渡部スミ子の許に来り、無言のまま涙を流して頻《しき》りに叩頭し、又は二階より往来へ向け放尿しつつ大笑するなど、些《すこ》しも落着かず、夜半に大声を揚げて怒号し、彼奴《あいつ》だ。彼奴だ。黒焦は彼奴だ。火星だ火星だ。悪魔だ悪魔だ。などと取止めもなき事を口走り、女将スミ子を驚かした由《よし》で、その翌日の三月一日は疲労のためか終日|臥床《がしょう》して一食も摂《と》らず。同夜十時頃、前記虎間トラ子教諭が訪問した際も、依然として就床しいるものと思い、女将スミ子が起しに行きたるに夜具の中は藻抜《もぬけ》の空《から》となり、枕元に破封されたる長文の女文字の手紙と並べて虎間女史に宛てたる遺書が置かれたるを発見したるより大騒ぎとなり、県当局、警察当局、同校職員総動員の下に同校長の行方捜索を開始したが、今朝に到るまで同校長の所在は不明で、ただ目下、同校内玄関前に建設の予定にて、東都彫塑、朝倉星雲氏の手にて製作中と伝えられおりし同校長の頌徳寿像《しょうとくじゅぞう》の、塵埃《ちり》と青錆とに包まれたる青銅胸像が、白布に包まれたるまま同下宿、森栖氏専用の押入中より転がり出で、人々を驚かしたのみである。因《ちなみ》に、同校長の枕頭に在った二通の手紙はその後、混雑に紛れて何人にか持去られたるものの如く、女将スミ子、及、虎間女教諭もその行方を知らず。二人とも内容を関知せざる由にて、前記銅像の件と共に森栖氏の失踪に絡《から》まる不可思議の出来事として、関係者の注意を惹《ひ》いている。のみならず前記森栖氏の口走りたる言葉より推《お》して、右二通の手紙は或はミス黒焦事件の秘密を暴露する有力なる参考材料なりしやも計り難く、これを衆人注視の中に持去りたる神変不思議の人物こそ、ミス黒焦事件の有力なる嫌疑者に非ずやとの疑い、関係者間に漸次《ぜんじ》高まりつつ在り。万事は森栖校長の行方と共に判明すべしとて、その方の捜索に全力を挙げている模様である。尚同校長を見知りおる駅員の言に依れば、同校長らしき鬚蓬々たる無帽の人物、大阪までの切符を買いて終列車に乗込みたる形跡ありとの事にて、その方面にも手配が行われている由。

   県立高女メチャメチャ[#2ポイント大きな字で]
     森栖校長発狂![#2ポイント大きな字で]
       虎間女教諭縊死![#1ポイント大きな字で]
      川村書記大金拐帯![#2ポイント大きな字で]
        黒焦事件の余波か?[#1ポイント大きな字で]

 【大阪電話】 昨報失踪したる県立高等女学校長森栖礼造氏は失踪後、大阪に向いたる形跡ある旨、本紙の逸早《いちはや》く報道したる処なるが果然、同校長は昨三日早朝、大阪市北区中之島付近の往来に泥塗れの乱れたるフロック姿を現わし、出会う人毎に「火星の女は知りませんか」「ミス黒焦が来てはおりませんか」「甘川歌枝は何処におりますか」「何もかも皆嘘です」「事実無根の中傷です中傷です」なぞと、あらぬ事のみ口走りおりたるを一先ず中之島署に保護し、当市警察に照会し来たるを以て、開校間際の多忙を極めおりし教頭、小早川《こばやかわ》教諭は、十一時の列車にて取りあえず大阪に急行した。然《しか》るに同教諭出発後、教頭次席、山口教諭指揮の下に引続き開校準備に忙殺されいるうち、同校職員便所に於て、同校古参女教諭、虎間トラ子(四十二)が縊死《いし》しおる事が、掃除に行きし小使に発見されて、一同を狼狽《ろうばい》させおるうち、同じく開校準備のため出勤しおりし同校書記にして、森栖校長と共に三十年来、同校の名物となりおりし傴僂《せむし》男、川村|英明《ひであき》(五十一)が同様に、いつの間にか姿を消している事が、出張の警官により気付かれたので、念のため取調べてみると、意外にも同校の金庫中に保管して在った森栖校長の銅像建設費五千余円、及、校友会費八百二十円の通帳が紛失しおり、預金先、勧業銀行に問合わせたる処、正午近き頃、川村書記が同銀行に来り、右預金の殆《ほとん》ど全額を引出し、愴惶《そうこう》たる態度で立去りたる旨判明、なお市外十軒屋に居住しおりし同人妻ハル(四十七)も家財を遺棄し、旅装を整え、相携《あいたずさ》えて行方を晦《くら》ましたる形跡ある旨、次から次に判明したるより、騒ぎは一層輪に輪をかけて大きくなり、同校全職員の訊問、取調が開始され、同校の授業開始は当分困難と認めらるる状態に立到った。因に縊死した虎間女教諭と、逃亡した川村書記とは平生より、森栖校長を神の如く崇拝しており、二人とも同校長の行方を最も真剣に気にかけていた由であるから、この際、最も喜んで安心すべきであるのに、同校長の行方判明と聞くや否や、互いにかかる矛盾したる行動に出でたことは、重ね重ねの奇怪事と言うべく、何等か裏面に重大なる秘密の伏在せるを想像し得べき理由がある。なお発狂せる森栖校長が大阪にて口走りたる甘川歌枝という女性は、同校の今年度卒業生にして、運動競技の名手であったが、かねてより「火星さん」という綽名《あだな》あり。卒業後間もなく大阪の某新聞社に就職しおりたるものにて、森栖校長は発狂後、同女の行方を尋ねつつ同地方に行きたるものらしく、従ってミス黒焦事件と甘川歌枝とは、何等か密接の関係あるやも計り難く、目下当局に於ても慎重に調査中である。

   森栖校長の帽子[#2ポイント大きな字で]
   十字架上に[#2ポイント大きな字で]
     持主不明の花簪と共に市内[#1ポイント大きな字で]
     天主教会にて発見さる[#1ポイント大きな字で]

       前廂に残る疑問の歯型

 県立高等女学校は既報の如く、去る三月二十六日の怪火以来、ミス黒焦、校長の失踪、同発狂、虎間女教諭の縊死《いし》、川村書記の大金|拐帯《かいたい》等の怪事件を連続的に惹起し、まだ怪火の正体さえ判明せざるうちに、同校と県、警察当局とを未曾有《みぞう》の昏迷の渦巻に巻込んでいるが、更に又、最近に前記森栖校長の信仰|措《お》かざりし天主教会内にて、意想外の怪事件を派生し、関係者一同を層、一層の昏迷に陥《おとしい》れている。今《こん》五日午前十時頃、市内海岸通二丁目四十一番地四角、天主教会にては日曜日の事とて、平常の如く信者の参集を待ち、祈祷会を開催すべく、礼拝堂正面の祭壇の扉を開きたるに、正面、祭壇の中央に安置されたる銀の十字架上に、見慣れぬ黒の山高帽と、赤き小米桜に銀のビラビラを垂らしたる花簪《はなかんざし》が引っかけ在るを発見し、大いに驚きて取卸し検査したるに、該山高帽子の内側の署名により、同教会の篤信者、森栖校長の所持品なる事判明。尚、花簪の所有者は目下の処不明なるも、その儘、山高帽子と共に付近派出所を経て警察署に届出たので、警察にては緊張しおりし折柄とて棄置難しとなし、時を移さず同教会に出張し、参集者の出入を禁じて、厳重なる調査を遂げたるに、同教会、礼拝堂の内部に怪しむべき点一か所[#底本で「か」は小さい文字、129-5]もなく、同日、同礼拝堂に一番最初に(九時頃)入来りたる信者某女も、最初より祭壇の扉に接近したる者を認めなかったと言うので、手を空しくして引上げた。然るに右山高帽を警察署に持帰り、詳細に亙《わた》りて調査したるに、前廂《まえびさし》にシッカリと噛締めたる門歯と犬歯の痕跡あり。しかも、それは極めて強健なる少年の歯型なる事が、専門家の意見により確定したので、又も新しいセンセーションを巻起すこととなった。すなわち推定されたる教会侵入の怪少年が、果して県立高女校の怪火事件以後の、各種の奇怪事と連鎖的な関係を持っているものとすれば、虎間女教諭の縊死、川村|傴僂《せむし》書記の逃亡以来、右二人を前記各種事件の黒幕的人物に非ずやと疑いおりし人々も、ここに於て推定の根拠を失いたる訳にて、そのいずれが真なるやを考察するは全然不可能なるものの如く、関係当事者一同は又もや五里霧中に放り出された状態に陥っている。

   意外! 黒焦犯人は[#2ポイント大きな字で]
    県視学の令嬢?[#2ポイント大きな字で]
       母と共に行方を晦ます[#1ポイント大きな字で]
       父視学官は引責覚悟

 昨報、市内海岸通、天主教会内の帽子|花簪《はなかんざし》事件以来、警察当局にては既報ミス黒焦事件に対する有力なる探査のヒントを得たるらしく、当時、最初に同教会内に入来りたる某女こと、殿宮《とのみや》アイ子(十九)という少女を同教会内別室に伴い、厳重なる取調を行いたる模様なるが、右取調続行の都合上、同午後三時頃、前記アイ子に一応帰宅を許したるに、同女は大胆にも厳重なる監視の目を潜《くぐ》りつつ、重病に臥《ふ》しおりたる母親を伴い、一通の遺書ようのものを同女の父、殿宮愛四郎氏宛に残して、何処《いずく》へか姿を晦《くら》ましてしまった。この重大なる失態に就いて、警察当局は何故《なにゆえ》か口を緘《かん》して一言も洩らさず、且、捜索の手配をした模様もないのは返す返すも奇怪千万の事と言うべきであるが、人も知る如く、同女の父、殿宮愛四郎氏は本県の視学官にして、現中央政界の大御所とも言うべき大勲位、公爵、殿宮|忠純《ただすみ》老元帥の嫡孫に当っているが、意外の悲劇に直面して悲歎に暮れつつも、該遺書内容の重大性に鑑《かんが》み、家門の名誉のため、引責辞職の決心せる旨、往訪の記者に語った。[#次の行より、1字下げ]
「何とも申訳ありません。しかし娘が殺人放火なぞ言う大それた罪を犯し得ようとは、どうしても思われません。火星の女こと甘川歌枝と、娘のアイ子が県立高女在校中、無二の親友であったと言うようなお話も、只今初めて承《うけたま》わった位の事です。むろん二人の間に恋の遺恨なぞ言うような忌《い》まわしい事実があったかどうか、思い当る節《ふし》もありませんので唯、驚いているばかりです。その筋の注意もある事ですし、娘の将来の幸福のためにもかような事はなるべく世間に発表したくありませんから、どうぞここまでのお話のお積りで御聴取を願います。……何故《なにゆえ》に母だけを同伴して家出しましたか、そのような原因も目下のところ不明です。今日まで何等の秘密も風波もなく暮して来ました妻子に、突然に、思いがけなく棄てられた私は、ただ途方に暮れるばかりです。妻のトメも娘のアイ子も相当の貯えを持っている筈ですから、当分の生活には困らないでしょう。何処へ参りましたか心当りは全く御座いません。むろん私は引責致したい考えでおりますが、しかし、これとても正式に公表される迄は、やはりこの談話と一緒に御内聞に願います。云々」
 尚令嬢アイ子の遺書の内容は左の通りである。

 お父様。永々お世話様になりました。お母様とアイ子は、お父様にこの上の御迷惑をおかけ申したく御座いませんために、そうしてこの上にお母様を悲しませて、御病気を重く致したく御座いませんために、今日限りお暇《いとま》を致します。つつしんで今日迄の御恩を御礼申します。
 母校の出来事の全部は、わたくしの到らなかった責任で御座います。焼死された方は甘川歌枝さんで、自殺に相違御座いません事を私が保証致します。わたくしが今すこし早く甘川歌枝さんの自殺の決心に気付いておりましたならば、今度のような事は一つも起らないですみましたものを、残念な事を致しました。なお本日、森栖校長先生のお帽子と、何処かの舞妓さんの花簪《はなかんざし》を十字架にかけました者が、わたくしに相違御座いません事は、その理由と一緒に、警官の方に白状致して置きました。なお警官の方は、お父様の事について思いがけない事をいろいろとお尋ねになりましたが、何も存じませんから、お答えせずに置きました。警官の方は自殺されました甘川歌枝さんの投書によって、お父様の裏面の御生活を詳しく御存じの様子ですから、御参考のために申し添えて置きます。
 しかし、わたくしは決して自殺なぞ致しません。何処かでお母様の御病気が十分にお癒《なお》りになるまで安静に御介抱申し上げたいばっかりに家出致したので御座いますから、この上ともにわたくし共の行方を決して御探し下さいませんように……。なお、わたくしが、かような奇怪な行動をとりました理由も、申すまでもなく決して御探《おさぐ》りになりませんように、幾重にもお願い致します。その方がお父様にも私にも幸福と思いますから……。
 何卒《どうぞ》お身体《からだ》をお大切に……。
                    アイ子[#下揃え2字上げ]
 父上様[#1字さげ、終わり]
 因《ちなみ》に右、殿宮アイ子は県立高女在学中、同校の明星と呼ばれた美人で、成績抜群の名誉を担《にな》っていた才媛である。

     ―――――――――――――――

  森栖校長先生
                    火星の女 より[#下揃え2字上げ]

 私は嬉しくて嬉しくて仕様がありません。こうして校長先生に復讐する事が出来るのですから……。
 私がホントウに火星の女でしたら、それこそ天の上まで飛び上って喜ぶかも知れません。
 私の死体は多分、誰ともわからない真黒焦になって発見されるでしょう。そうして新聞に大騒ぎをして書かれるでしょう。
 私は、私のお友達に頼みました。
 「私がこの手紙を書き始めました二十四日の午後からキッチリ一週間目の三十一日の夕方に、この手紙を速達で校長先生の処へ出して頂戴ね」
 ……と……そうして校長先生が、私の黒焦屍体を御覧になっても……そうしてこの手紙をお読みになっても反省なさらずに、知らん顔をなすったり、平気で誤魔化《ごまか》して行こうとしたりなさる御模様があったら、念のために書いて置きましたほかの一通を警察署へ出して頂きます。そうして、それでもこの事件の真相が世間へ発表されず、校長先生と棒組んで、浅ましい恥知らずな事をしておられる方々が、校長先生と御一緒にこの事件を暗から暗に葬ろうとしてお出でになる御模様がわかりましたならば、そんな関係と新聞記事を封じ込んだ、これと同じモウ一通のコピーを抜からないようにある方面へ廻わして、ズット遅れてから発表して下さるようにお願いして在るのです。私の黒焦屍体に絡《まつ》わる校長先生の責任をどこまでも明らかにする手順がチャント付いているのです。その私のお友達の方は頭のいい、決心の強いお方ですから、この最後の一通を押えられるようなヘマな事は決してなさらないでしょう。
 私は、私の一生涯を、無駄に黒焦にしたくは御座いません。
 私は、校長先生と御一緒に、腐敗《ふはい》、堕落しております現代の自分勝手な、利己主義一点張の男性の方々に、一つの頓服薬《とんぷくやく》として「火星の女の黒焼」を一服ずつ差し上げたいのです。黒焼流行の折柄ですから万更《まんざら》、利《き》き目のない事は御座いますまい。
 ――火星の女の黒焼――
 なんと珍しいお薬では御座いませんか。もしかすると埃及《エジプト》の木乃伊《ミイラ》の一片よりも高価なものでは御座いますまいか。
 召上ったお心持は如何で御座いますか。
 定めし清々なすって、お心の隅から隅までスウッとなすった事で御座いましょう。
 ホホホホホ。ホホホホホホホ……。
 その私……黒焦になった火星の女の復讐を、こうして手伝って下さる私の親友が、どなたかと言うような事は、お考えにならない方がいいでしょう。万一それが御判明《おわかり》になっても、ただビックリなさるばかりで、手の出しようがないので、お困りになるだけの事でしょう。
 その方は、私のような通りがかりの出来事で先生を恨んでお出でになるのでは御座いません。その方は、肺病でお寝みになっておられる実のお母様と、校長先生に誘惑されて無情な放蕩《ほうとう》ばかりしてお出でになる義理のお父様に仕えながら、そんな事情を世間へ洩《も》らさないために、女中も置かないで、黙って楽しそうに立ち働いてお出でになる、世にも珍しい親孝行なお方です。そうして、その方のお母様をソンナ運命に陥れた悪魔を、いつも心探しに探しておられた方です。ですからその方は、私からその悪魔の名前をお聞きになると直ぐに、お母様の讐敵《かたき》を取りたい……義理のお父様の隠れ遊びをお諌《いさ》めになりたいばっかりに、私の頼みを無条件で引き受けて下すったのです。
 言葉を換えて申しますと、そのお母様のお心がお優しいために、その方は校長先生に対して思い切った手段を執る事がお出来にならないのです。ですから私がその方の代りに黒焦になって上げた……みたいな事情《わけ》なのです。おわかりになりまして……私の黒焦の意味が……。
 ……いいえ。校長先生に対する私たちの怨恨《うらみ》は、私たち二人が二人とも黒焦になってしまっても、まだまだ飽き足りないでしょう。
 おわかりになりまして……こうして私の復讐を手伝って下さる方が、どんな方だか……。
 自惚れの強い校長先生は、まだ御自分の知恵を固く信じてお出でになるかも知れません。その方が、そんなにまで深く先生を恨んでお出でになる事なぞ、まだお気付にならないかも知れませんが、それでもこの手紙を御覧になってお出でになるうちには、だんだんとおわかりになるでしょう。
 くり返して申します。校長先生は、ただ黙って黒焦少女の復讐をお受けになるほかはないのです。それが眼に見えぬ正義の制裁と思し召して、黒焦少女の要求通りに、御自分の罪を正直に発表して、社会からコッソリ姿をお消しになるよりほかに方法はありません事を覚悟して頂きます。
 ですけどもこの手紙を書いております私……黒焦少女の正体が何者かと言う事は、もはやお察しになっておりましょう。そうしてあの気の弱い、涙もろい火星の女が、どうしてコンナ恐ろしい無茶な事をするのだろうと思って、慄《ふる》え上ってお出でになるでしょう。

 森栖校長先生……。
 先生は私の恩師です。男性の年長者です。早くから奥様とお子さんをお亡《な》くしになってから熱心な基督《キリスト》教信者となって、教育事業に生涯を捧げると言っておられる立派なお方です。そうして世間から教育家の模範と言われて、度々表彰を受けてお出でになるステキに偉いお方なのです。
 そのようなお方に、たといどのような迫害を受けましょうとも、復讐をしようなぞとたくらむのは、正しい事でないと思う方があるかも知れませぬ。
 けれども森栖先生……。
 私は先生がお名付けになった通り、火星の女です。普通の女とは違います。ですから人間世界の男性の横暴……男性にだけ許されている悪徳に、一つ思い切った反逆をして見せて世間の人をビックリさせてみたくなったのです。女性のための五・一五事件を起して、この世界が男性のためばかりの世界でない事を思い知らせてみたくなったのです。
 ことに先生のような男性の悪徳の代表者みたいな方が、模範教育家として、千人に近い若い女性を指導して行かれると言うような事は、日本に生まれた私に取ってトテモ堪えられない事なのです。
 私がドンナ生い立ちの、どんな思想を持った女だったか、校長先生は御存じでしたか知ら……。校長先生のお手がちょっと私に触れましただけで、間もなく黒焦になって校長先生を呪咀《のろ》わなければならなくなった私の、深刻な運命のお話をお聞きになりましても、校長先生は真実《ほんとう》に心からビックリなさいますか知ら。御自分たち……男性にだけ御都合のいい道徳観念と、そんなような常識ばかりを発達さしておられる日本の男性の方に、火星の女の使命が、おわかりになりますか知ら……。
 でも私は説明しなければなりません。さもないと私の致しました事を、つまらない感情の爆発から来た、一時的のお芝居ぐらいに思って軽蔑なさるといけませんから……。私は、私の黒焦死体の呪咀《のろい》がどんなに真剣な気持のものですか……私たちの怨《うら》みの内容が、どんなに深刻な、残虐《ざんぎゃく》無道な校長先生のなさり方に対する反抗であるかを、この手紙で証明しなければなりません。
 火星の女の名誉のために……。
 そうして黒焦少女の誓いのために……。

 私は小さい時からノッポと呼ばれておりました。今の母が生みました腹違いの妹が二人ありますが、二人とも普通の背恰好の女ですのに、どうして私ばかりがコンナ身体に生まれ付きましたのか不思議でなりません。もっとも実父の話によりますと、私が生まれました当時は六百|匁《め》あるかなしの、普通よりもズット小さな、月足らずみたような虚弱な赤ん坊だったと申しますが、それが五ツ六ツの頃からグングン伸び始めました。初めて小学校へ入りました時にチャプリン鬚《ひげ》の受持の先生が私を見て思わず、
 「ホオ――。大きいなあア――」
 と笑われましたが、私は子供ながらそのチャプリン鬚の先生の笑い顔に一種の恥辱を感じました。私が、私自身に就いて恥辱を感じましたのはこの時が初めてだったと思います。
 私はそれから後、いろいろな意味で、こうした恥辱を受け続けて参りました。
 その小学校の校長先生も私を初めて見られた時に同じような……それでも気の毒そうな笑い顔をされました。そうして私の名前を直ぐに記憶《おぼ》えられました。それから後、ちょっと来られた視学官の方も、すぐに私の名前を記憶して行かれたようですが、それは私の成績が作文と、習字と、図画と、体操を除いては、級の中で一番|末席《びり》だったせいばかりではなかったように思います。
 私の名前は、すぐに全校の生徒に知れ渡りました。
 「ノッポの甘川歌枝ん坊――オ……
 梯子《はしご》をかけてエ――髪結うてエ」
 と上級の男生徒が遠くから笑ったりしました。私は気の弱い児《こ》でしたから最初のうちは泣いて学校に行かないと申しましたが、そのうちにダンダン慣れて来て、どんなにヒドイ事を言われても淋しく笑って振り返る事が出来るようになりました。
 私が一番モテたのは運動会の時でした。
 私は二年生ぐらいの時から、六年の男子の中の一番早い生徒でも負かすくらい走れましたので「後世《こうせい》畏《おそ》る可《べ》し」という標題と一緒に、私の写真が新聞に出たこともありますが、その真夏の太陽の下で撮られた私のシカメ顔がまた、あんまり可笑《おか》しいと言って、私の両親までが腹を抱《かか》えて笑いましたので、私は二、三日、鏡ばかり見てはコッソリ泣き泣き致しましたが、あの時の情なかった私の思い出を話しましても、どなたが同情して下さいましたでしょう。もう一度腹を抱えてお笑いになるばかりだったでしょう。
 私はまだ物心付かないうちから、人に笑われるために生まれて来た、醜い、ノッポの私自身を知りつくさなければならなかったのでした。
 私が尋常六年頃から新体詩や小説を読み耽《ふけ》るようになったのは、そんな悲しさや淋しさが積り積ったせいではなかったかと思います。つまり私は皆様のお蔭で、人並はずれて早くから淋しい、一人ポッチの文学少女になってしまったのでしょう。

 県立女学校に入ってからは、そんなに露骨な侮辱を受けませんでした。けれどもそこにはモットモット深刻な恥辱と嫌悪が私を待っておりました。
 同級のうちでも私と正反対に一番美しい、一番よく出来る、或るタッタ一人を除いたほかの人々は、先生も同級の人達もみんな私に優しい言葉一つかけて下さいませんでした。みんな妙に私から遠くに離れて、奇妙な、冷たい笑い顔をして、私を見ておられるように感じました。御自分たちの御|綺倆《きりょう》と、学校の成績ばかりを一所懸命に争ってお出でになる方には、私が何となく劣等な、片輪者のように思われたのでしょう。私とお話なさるのを一種の恥辱か何ぞのように考えておられるようでしたが、それでも対抗のテニス、バレーボール、ランニングなぞが近付いて来ますと、先生も級友も、上級の生徒さんまでもが皆、私の周囲《まわり》に寄ってたかってチヤホヤされるのでした。私を神様か何ぞのように大切にかけて、生卵や果物なぞを特別に沢山《たくさん》下すって御機嫌を取りながら、否応なしに競技に引っぱり出されるのでした。私がノッポの、醜い姿を恥かしがっている気持なんかチットも察せずに……貴女は全校の名誉です……とか何とか繰り返し繰り返し言われるのでした。
 けれどもその競技がすんだあくる日になりますと、最早、誰一人私を見向いて下さらないのでした。私という生徒がいたことすらも忘れておられるかのように遠|退《の》いてしまわれるのでした。
 私は私が他校の選手と闘ってグングン相手を圧倒したり、引き離したりして行きます時に、手をたたいて狂喜される先生や生徒さん達の声からまでも、たまらない程の侮辱を感ずるようになって来ました。私は便所の中で下級生の人達がコンナ会話をしているのを聞きました。
 「スゴイわねえ火星さん」
 「まあ……誰のこと……火星さんて……」
 「あら……御存じないの。甘川歌枝さんの事よ。あれは火星から来た女だ。だから世界中のドンナ選手が来たって勝てるはずはないんだって、校長先生が仰言ったのよ。だから皆、この間っから火星さん火星さん言ってんのよ」
 「まあヒドイ校長先生……でも巧い綽名《あだな》だわねえ。甘川さんのあのグロテスクな感じがよく出てるわ」
 それでも気の弱い私は又も、欺《だま》されたり持ち上げられたりして、年に何度かの競技に引張り出されるのでした。心のうちにある冷たい空虚を感じながら……。
 学校の運動場のズット向うの、高い防火壁に囲まれた片隅に、物置小舎になっている廃屋《あばらや》があります。モトは学校の作法教室だったそうですが、今では壁も瓦も落ちて、ペンペン草が一パイに生えて、柱も階段も白蟻《しろあり》に喰われて、畳が落し穴みたいにブクブクになっております。
 私は課業の休みの時間になりますと、よく便所の背面《うしろ》から弓の道場の板囲いの蔭に隠れて、あの廃屋の二階に上りました。あそこに置いて在るボロボロの籐の安楽椅子に身を横たえて、上半分骨ばかりになった雨戸越しに、防火壁の上の青い青い空をジイッと眺めるのを一つの楽しみのようにしておりました。そうして私の心の奥底に横たわっている大きな大きな冷たい冷たい空虚と、その青空の向うに在る、限りも涯《はて》しもない空虚とを見比べて、いろいろな事を考えるのが習慣のようになっておりました。それも最初は、自分の片輪じみた大きな姿を運動場に暴露《さら》したくない気持から、そうしたのでしたが、後には、それが誰にも話すことの出来ない私の秘密の楽しみになってしまいました。
 私の心の底の底の空虚と、青空の向うの向うの空虚とは、全くおんなじ物だと言う事を次第次第に強く感じて来ました。そうして死ぬるなんて言う事は、何でもない事のように思われて来るのでした。
 宇宙を流るる大きな虚無……時間と空間のほかには何もない生命の流れを私はシミジミと胸に感ずるような女になって来ました。私の生まれ故郷は、あの大空の向うに在る、音も香もない虚無世界に違いない事を、私はハッキリと覚《さと》って来ました。
 大勢の人々は、その時間と空間の大きな大きな虚無の中で飛んだり、跳ねたり、泣いたり笑ったりしておられるのです。同窓の少女たちは、めいめいに好き勝手な雑誌や、書物や、活動のビラみたようなものを持ちまわって、美しい化粧法や、編物や、又はいろいろなローマンチックな夢なんぞに憧憬《あこが》れておられます。甘い物に集まる蟻のように、または、花を探しまわる蝶のように幸福に……楽しそうに……。
 私にはソンナものがスッカリ無意味に見えて来ました。私の心のうちの虚無の流れと、宇宙の虚無の流れが、次第次第にシックリとして来ました。そうして私は放課後、日の暮れるまでも、あの廃屋《あばらや》のボロボロの籐椅子の上に身体を伸ばして、何となくニジミ出て来る淋しい淋しい涙で私自身を慰めるのが、何よりの楽しみになって来ました。
 けれども、そうした私の秘密の楽しみは間もなく大変な事で妨げられるようになりました。
 あの半分腐れかかって、倒れかかって、いろいろなガラクタと、白蟻と、ホコリで一パイになっている廃屋は、ちょうどあの海岸通りの四角にスックリと立っている、赤煉瓦《あかれんが》の天主教会が校長先生のいろいろな美徳のホームでありましたように、ずっと以前から校長先生のいろいろな悪徳の巣になっているのでした。校長先生が模範教育家としての体面をあらゆる方面に保たれながら、その裏面に、いろいろなお金や女性たちに対して、想像も及ばない悪知恵を働かしてお出でになるためには、あの廃屋が是非とも必要なのでした。……ですから校長先生は、どうしてもあの廃屋を取り毀《こわ》すことをお好みにならなかったのでしょう。「藁《わら》屋根は防火上危険だから」と言って、警察から八釜《やかま》しく言って来ても、物置の建築費がないからと言って、県の当局の方を長いことお困らせになったのでしょう。
 そんな因縁の深い、悪徳の巣の中とは夢にも知らないで、毎日毎日修養に来ておりました私の愚かさ……その私のグラグラの籐椅子の下から間もなく、どんな悪魔の羽ばたきが聞こえて来ましたことか。そうしてその悪魔の羽ばたきは私を、逃げようにも逃げられないこの世の地獄の中へ、どんなに無慈悲にタタキ落して行きましたことか……。こんなに黒焦になってでも清算しなければ清算し切れないほどの責め苦の中へ、私を追い込んで行きました事か……。
 その羽ばたきの主は、真黒い毛だらけの熊みたような校長先生と、眼も口もない真白な頭を今一つ背中に取付けておられる川村書記さん……それから今一人、後から出てお出でになる虎間トラ子先生……ヨークシャ豚のように醜いデブちゃん……私たちの英語の先生……この三人があの廃屋に人知れず巣喰っていた悪魔なのでした。

 あの廃屋の二階を、私が大切な瞑想《めいそう》の道場としている事を夢にも御存じない校長先生と、傴僂《せむし》の老人の川村書記さんとは、いつも学期末の近付いた放課後になると、職員便所の横のカンナの葉蔭から、通行禁止の弓道場の板囲いの蔭伝いに仲よく連立って、コッソリと入って来られるのでした。そうして私の寝ている籐椅子の直ぐ真下の、八畳敷のゴミクタの中に坐って、いろいろな事を御相談なさるのでした。あんまり度々校内に居残って書記さんと密談なんかなさると、居残りや宿直の先生たちに妙な意味で見咎《みとが》められるかも知れないし、学校の外でも世間の人目がうるさいと言ったようなデリケートな教育家の立場をよく御存じの校長先生に取って、あの廃屋は何と言う便利この上もない密談の場所でしたろう。
 二階と違って階下は、破れたなりに硝子戸と雨戸が二重に閉まっているのですから、すこしくらい大きな声でも滅多に外へ洩れませんが、その代りに、大抵のヒソヒソ話でも、二階で息を殺している私の耳へ筒抜けに聞こえて来るのでした。そうしてそのお話というのは大抵、校友会費に関係した事ばかりで、お二人でその誤魔化《ごまか》し方を熱心に研究なさるのでした。
 私は学校のグランド・ピアノが三千五百円と帳面に付いているのに、ほんとうは中古の五百円である事を聞きました。卒業生の寄付で出来た正門の横の、作法室の建物や備付品が、表向きは一万二千円となっているのに、内実は七千何百円とかですんでいる入り割りもわかりました。それから校長先生が、校友会費を流用して、川村さんの弟さんの名前でゲンブツという相場をなすって、お金を儲けて、傴僂の川村さんと山分けにしていられるようなお話も聞きました。
 それからそのゲンブツのお金にお困りになった後始末のために、校長先生はかねてから準備しておられた、世にも奇妙な金儲の方法を川村さんにお打ち明けになるのをチャント聞いてしまいました。
 もちろん、それは校長先生が川村さんから突込まれて白状なすった事ですが、校長先生はかねてから、校長先生の人格をこの上もなく崇拝しておられる熱烈な基督教信者で、私たち五年生の英語を教えておられた虎間トラ子先生に言いふくめて、校長先生の銅像を建ててはどうかと提議おさせになりました。そうして全職員先生の御賛成の下《もと》に全国に散らばっている卒業生たちや、在校生の家庭から寄付をお集めになりましたところが、それが大変な反響を呼びまして、既に五千円余りのお金が川村書記さんの手許に集まっているのでした。
 ですから有志の人達は、申すまでもなく今一息奮発して校長先生の銅像を立像にしたいという御希望でしたが、校長先生は、何故かわかりませんけれども立像を非常にお嫌いになりまして、「私は胸像で沢山《たくさん》である。私は元来銅像を立てられるような人物でない。立像などとは以ての外である」と大変な剣幕で、固く固く主張されましたので、仲に挾まった川村書記さんは大層お困りになっているのでした。
 けれども校長先生がその立像をお嫌いになるホントウの理由を聞いてみますと又、世にも馬鹿らしい内幕なのでした。
 校長先生の胸像はモウ二、三年前にチャンと出来上って校長先生のお宿の押入の片隅に、白い布片《きれ》に包まれたまま、ホコリと緑青《ろくしょう》だらけになって転がっているのでした。その背中の下の方には現在の帝室技芸員で、帝展の審査員として日本一の有名な彫塑家、朝倉星雲氏のお名前がハッキリと彫り込んで在るのでした。
 すばしこい川村書記さんは、どうかしてその事を探《さぐ》り出されたのでしょう。何かの序《ついで》にコッソリと上京して朝倉星雲先生にお眼にかかって、その彫塑の由来をお尋ねになると、何も御存じない星雲先生はアッサリとお答えになったそうです。
 「ハア。あれですか。あれは私が森栖先生への御恩返しの一端にもと思って作ったものです。先般……三年ばかり前でしたか、ある温泉場から森栖先生のお手紙が来まして、頼みたい仕事があるから来てくれという文面でしたから早速行ってみますと、自分の胸像を作ってくれとのお頼みです。森栖先生は私の母方の伯父で、私が中学を出るまで学費を出して下すった大恩人ですから何条、否やを申しましょう。早速その温泉場付近の瓦焼場から理想的な土を取って来て一週間ばかりで胸像を作り上げ、薬品店にあるだけの石膏を買い集めて型を取りまして東京に持ち帰り、自分で監督して鋳造させまして、そのまま何処の展覧会へも出さずに、直接に森栖先生のお手許へ送り届けたものですが……そうですか。それではまだ建たずにいるのですか。……ヘエ……そうですか。イヤイヤ。失礼ですが謝礼などは一文も頂戴しようとは思っておりません。森栖先生のような徳望の高いお方のお姿を私のような者の手で故郷に残す機会を得ました事は、実に願ってもない名誉です。万一それが御校の校庭に据わるような場合に、土台工事とか、台石とかの仕事に就いて御用がありましたならば、何卒《どうぞ》御遠慮なく私にお知らせを願います。決して御迷惑はかけませんから、私が自費でお伺いして、玉垣とか、植込みの工合とか言うものを、出来るだけ御経済になるように指図させて頂きたいと思います。職人任せに致しますと、銅像とのウツリが悪くなって、何もかも打毀《ぶちこわ》しになる虞《おそれ》がありますから……」
 これは傴僂の川村さんが、星雲先生の口真似をなすったのを、私がまた口真似を致したお話ですが、この話を聞いた川村書記さんは、校長先生の腕前のスゴイのに今更のように感心してしまわれました。そうして案外に寄付が集まり過ぎたお蔭で、銅像が立像になりそうになって来たので、すっかり面喰って弱っておられる校長先生の味方になる決心をされました。
 ……この頃では相当の人の手にかけて銅像を建てるとなると、胸像一つでも五千円や一万円はかかる。立像になれば二、三万円ぐらいは費用を見積らなければならない事。だから胸像だけでもまだまだ寄付金額が足りない……。
 と言ったような事なぞをコソコソと説明してまわって、とうとう立像説を打毀し、もう出来上っている胸像を使って集まっている五千何百円の大部分を二人で山分けにする計画を完成して、校長先生をホッとおさせになったのでした。そのあげくに川村さんはあの廃屋の中でこう言われました。
 「そこで来る三月の二十二日に今度の卒業生の謝恩会があります。その時に優等生に代表させて寄付金の金額を先生に捧げさせます。そこでその金を今一度、私にお預けになって、銅像建設に関する一切の事務を川村書記に任せると一言仰言って下さい。そこで私が壇上に上って、ちょうど有名な朝倉星雲先生が郷土の出身だから、製作方をお頼みする事にした。星雲先生は喜んで引き受けられたから、遠からず出来上って来るはずとか何とか報告して拍手させてしまえばもうこっちのものです。細工は粒々《りゅうりゅう》仕上げを御覧《ごろう》じです」

 しかし私があの廃屋の中で聞いたお話は、そんなような仲のよいお話ばかりではありませんでした。時にはお二人ともかなり強い声で言い争われた事が、二度や三度ではありませんでした。そうしてそのお蔭で前に書きましたような、この学校のいろいろな秘密がだんだんとわかって来たのですが、しかしその揚句《あげく》はいつも校長先生の方が折れて、仲直りをなさるのでした。
 「よしよし。ようわかった。帳面の責任は結局、君一人の責任になる訳だからね。無理は言わんよ。……いや。わかったわかった。わかったよ……。それじゃこれから二人で仲直りに、面白い処へ行こうか。あの温泉ホテルの三階なら、誰にも見つからないぜ君……」
 「イヤ。もう今日は遅いですからモット近い処にしましょうや」
 「なあにタクシーで飛ばせば訳はないよ。近い処はお互いの顔を知っとるからいかん。温泉ホテルの三階がええ。君はあの妓《こ》を連れて来たまえ。自由に享楽の出来るステキな処だぜ。知事や県視学も内々でチョイチョイ来るよ。吾輩の新発見なんだ」
 「ヘエッ。そんなに贅沢《ぜいたく》な処ですか」
 「贅沢にも何にもスッカリ南洋式になっている、享楽の豪華版なんだ。勘定は受持つから是非彼女を引張って来たまえ」
 「ヘヘヘ。恐れ入ります」
 「イヤ。彼女は面白いよ。だいぶ変っているよ。僕も今夜はモット若いのを連れて行く」
 と言うようなお話も、何かの因縁のように、不思議と私の耳の底に残っておりました。
 そのようなお話を取集めて考えてみますと、校長先生は、御自分の名誉と地位を利用して、学校をお金儲けの道具に使ってお出でになるのでした。そうして、そんなようなお金を使って、どこか秘密の場所で、お友達を集めて遊んでお出でになるのでした。
 けれども私はチットモ驚きませんでした。
 私は涙もろい気の弱い女の癖に、そんな恐ろしい、浅ましいお話を聞くのが面白くて面白くて仕様がないのでした。そうして、とうとうたまらない好奇心に駆られました私は、そんなお話を聞いた後に二、三度、学校の帰りに温泉鉄道に乗って、温泉ホテルを見に行って来ました。どんな人が来て、どんな事をする処かスッカリ見定めて来ましたが、そんな事を見たり聞いたりするのが又、何よりの修養になるのでした。つまり、そんな風にどこどこまでも浅ましい世間の様子がわかって参りますうちに、私の心のうちに拡がっております虚無の流れがイヨイヨハッキリ鏡のように澄み渡って来るのでした。
 私は世間に対してこの上もなくシッカリと強くなって来ました。どんなに笑われても軽蔑されても、私は平気で微笑し返すことが出来るようになりました。世間の人々が……この地球全体までが、大きな虚無のうちに生み付けられておる小さな虫の群れに見えて来ました。そうして、そんな虚無の中で、平気で悪い事をする虫ならば、こちらも平気でヒネリ潰して遣っても構わないような気持になって来ました。……女新聞記者になったら面白かろう……なぞと空想したのもその時分の事でした。
 虚無なんて事を考える女は、女として価値《ねうち》のない女でしょうか。同窓の人達は皆私を「火星の女」とか「男女《おとこおんな》」とか綽名を付けておられたようです。何だか私の顔を見るたんびに、気味わるそうに溜息を吐いておられるようでした。御自分たちが、私のような女に生まれなかった事を、安心しておられたようにも思えましたが、違っておりましたでしょうか。
 私の両親も私の顔を見るたんびに溜息ばかり吐いておりました。親としての興味を全くなくしたような絶望的な眼で私を見ておりましたが、そんな気持も私は察し過ぎるくらい、察しておりました。
 忘れもしません。今年の三月十七日、私たちの卒業式のあった日の午後の事でした。私は式から帰って来て、制服を平常《ふだん》着に脱ぎかえております間に、茶の間で話しております両親の言葉を聞くともなく聞いて終《しま》いました。
 「あれが片付かんと、妹二人を縁付ける訳に行かんからのう」
 「そうですねえ。寧《いっそ》のこと病気にでもなって、死んででもくれればホットするのですが、あれ一人は一度も病気もしませんし……」
 「ハハハ。生憎なもんじゃ。片輪なら片輪で又、ほかの分別もあるがのう」
 こんな会話を聞きました時の私の気持……世間的には随分、気の強い女になったつもりでおりながらも、内心ではまだ、ありとあらゆる愛情というものに、焦げ付くほどの執着を持っておりました私が、人間としての最後の愛からまでも見離されておることを、ハッキリと知りました時の私のたまらなさ……そうした会話の中に満ち満ちているある冷たい憎しみが、親としての愛情の変形に過ぎない事は十分にわかっていながらも、自殺するよりほかに行く道のない立場に置かれている私自身を暗示された時の、私の悲しみ……いつまでも火星の女ではすまして行かれない、絶体絶命の私の立場……それでも気が弱くて、とても自殺なんか出来そうにない女のセツナイ悲しみが、男性の方にお解《わか》りになりましょうか。
 私はこの涯てしもない空虚の中に身を置く処がなくなったのです。
 私は只今のような両親の話を洩れ聞きました夕方、御飯を戴きますと間もなく、お友達と活動を見に行くと申しまして、お母様から買って頂いたまま、まだ一度も袖を通した事のない銘仙《めいせん》の、馬鹿馬鹿しいくらい派手な表現派模様の袷《あわせ》を着まして、妹たちに気付かれないようにソッと家を抜け出しました。学校の裏門の横の空地に在るポプラの樹の蔭から、コンクリートの塀を乗り越えて、校庭の便所の蔭に飛び降りました。それくらいのことは私に取って何でもなかったのです。
 私は、それから久し振りに今一度、あの廃屋《あばらや》の二階の籐椅子の上にユックリと袖を重ねて、あの懐かしい、淋しい空を眺めながら、静かな静かな虚無の思い出に立ち帰りましょうと思って、新しいフェルト草履《ぞうり》を気にしいしい、人影のない、星ばかり大きい校庭の夕暗の中を、あの廃屋に近付いたのです。そうしてあの階下の土間の暗闇の中に、そっと片足を入れたのです。

 その暗闇の中から突然に出て来た毛ムクジャラの男の両腕に、私はシッカリと抱締められて終《しま》ったのでした。そうして思いもかけない切ない愛の言葉を、生まれて初めて囁《ささや》かれたのでした。
 「……よく来て下さいました。ありがとう御座います。ほんとによく来て下さいました。この独身者《ひとりもの》の憐れな年寄の悩みを救って下さるのは貴女《あなた》お一人です。貴女なしには私は生きて行けなくなったのです。どうぞこの独身者の淋しい教育家を憐れんで下さい……ね……ね。お互いにタッタ一人の淋しい気持は、わかり合っておるのですから……ね……ね……ね……」
 そのお声が……そのお言葉が……たしかに校長先生のソレとわかりました時の、私の驚きはドンナでしたろう。
 私の全身が、心臓の動悸と一緒に石になってしまったようでした。
 ……どうして私がここに来ることを御存じでしたろう……とその刹那《せつな》に思うことは思いましたが、考えてみますと職員室の一番左の窓から裏門が透かして見える事を思い出しましたから、多分何かの御用事で職員室へ来ておられた校長先生が私の姿をお見付けになって、先まわりをなすって弓術道場の板塀の蔭から来られたのではないか知らん……なぞと混乱した頭で考えた事でした。もともとお人好の私は、あんなような場合でも、出来るだけ校長先生のなさる事を善意に解釈しようしようと本能的に努力していたのでしょう、そんなような先生のお言葉にもさほどの不自然さを感じませんでしたばかりでなく、何よりも先に校長先生がこんな思いがけない非常識な事をなさるのはよくよくの事だろうと気が付きますと、私の持前の気弱さからどうしても逆《さか》らってはいけないような気持になりながら、暗黒の中で両腕を握られたまま、固くなって俛首《うなだ》れておりました。
 ああ……意気地のない私……私はあの時にチョットでも声を立てたりすると、世間の名高い校長先生の御名誉と地位の一切合財をすっかりめちゃめちゃにして終《しま》うであろう恐ろしさに包まれて、身動き一つ出来なくなっていたのでした。
 ……ああ……可哀そうな私……「お互いに淋しい心はわかっている」と仰言った校長先生のお言葉に私は、われにもあらず打たれてしまったのでした。どうしても逃れる事の出来ない運命に囚《とら》われてしまったような物悲しい気持になってしまったのでした。
 ……ああ……馬鹿な私……不覚な私。校長先生が評判の通りの聖人でない。ほかの女の方とここで会う約束をしておられた……その女の方と私とを間違えておられる事を、あの時にどうした訳かミジンも察し得ずにいたのでした。多分、私の心の奥底に残っておりました尊敬の心が、校長先生を疑う事を許さなかったのでしょう。
 ……ああ……浅墓《あさはか》な私……私は校長先生のお金に関する醜いお仕事の数々を知り過ぎるくらい、存じておりました。けれども女性に対しては、どこまでも潔白なお方と信じ切っていたのでした。よしんば馬鹿騒ぎをなさる事はあっても、校長先生お一人は、男性としての貞操を何処までも、お亡くなりになった奥様に対して守ってお出でになる感心なお方とこの時までも思い込んでいたのでした。その聖人同様の校長先生にコンナ秘密の悩みがあるとは何と言うお気の毒な事であろう。私にソレを打ち明けて下さるとは何と言う勿体《もったい》ない事であろう……としみじみ考えておりますうちに私はもう、何もかもわからなくなるほど悲しくなって、泣けて泣けて仕様がなくなりました。ただメチャメチャに悲しい思い出を頭の中に渦巻かせながら、校長先生のお胸にグッタリと取り縋っておりました。
 そのうちに時間がグングン流れて行きました。
 ……ああ……けれども、それは何と言う悲しい、浅ましい一刹那の夢で御座いましたろう。
 間もなく入って来られました虎間トラ子先生……私たちがデブさんと言っておりましたあの古参の英語の先生に、私がドンナに非道《ひど》い目に会わされました事か。そうして真暗闇の中で、どんなに一所懸命の力を出して虎間先生を突飛ばして廃屋の外へ逃げ出しましたことか。
 そうして一旦《いったん》コンクリート塀の外へ飛び出してから、直ぐにまた、弓の道場の間に忍び込んで、あの廃屋の横の切戸の隙間に耳を近付けて、ドンナに真剣に、お二人の口争いに耳を傾けておりましたことか。
 その時に校長先生が、どんなに狼狽《ろうばい》してお出でになったことか。お顔色こそわかりませんでしたが多分、真青になっておられたことでしょう。暗黒に狃《な》れて来た眼でソッと覗いてみますと、運動会用の大きな張子の達磨《だるま》様のお尻の間に平突張《へいつくば》って、威丈高になっていられる虎間先生の前に両手を突いて、半泣きの声を出しながら、どんなにペコペコと謝罪《あやま》られましたことか。
 「いいえ、間違いとは言わせません。貴方は妾ばかりじゃない。コンナ風にして何人も何人も女を欺《だま》してお出でになるのです。私は何もかも知っているのですよ。成績の悪い生徒の点数を良くして遣《や》ると仰言って、その生徒やお母さん達に貴方が何を要求してお出でになるかも、よく存じておりますのですよ。貴方の商売道具は、貴方のポケットの中に在る全校の生徒の試験問題ですからね。貴方の下宿のお二階に尋ねて来られた生徒さんとお母さんのお名前は皆、私のノートに書き止めて御座いますよ。貴方の下宿のお神[#「女将」では?、156-3]さんが、こんな事に就いて口の固い理由《わけ》も、妾はズット以前から詳しく存じているのですよ。ホホホ……。
 そればっかりじゃ御座いませんよ。今の五年の優等生の殿宮アイ子さんは、貴方の実のお子さんではありませんか。イイエ。お隠しになっても駄目です。毎日毎日お顔を見ているうちにはハッキリとわかって参ります。メンデルの法則って恐ろしいものじゃありませんか。女の児は父親に男の児は母親に似るってほんとうですわね。よく御覧なさい。貴方に生写《いきうつ》しじゃありませんか。貴方は、貴方が妊娠させて卒業おさせになったトメ子さん……舞坂トメ子さんの気の弱いのに付け込んで、欺したり賺《すか》したりして、あの色男の好色漢の殿宮小公爵の処へ媒酌なすったのでしょう。そうしてその殿宮の甘ちゃんに遊び事で取り入って、どこどこまでも温柔《おとな》しい、日本婦人式に謹しみの深い天使のような殿宮夫人を、二重にも三重にも苦しめ苛責《さい》なむのを、一つの秘密の楽しみにしてお出でになったのでしょう……イイエ。貴方はソンナ性格の方なのです。御自分の無良心な、二重人格式の性格の人知れぬ強さを、どこどこまでも深刻に楽しみ、誇って行こうとしておられる、変態趣味的に極端な個人主義の凝固《こりかた》まりなのです。
 こんな事を知っているのは今のところ妾と舞坂トメ子さん……今の殿宮夫人と二人だけで、御本人のアイ子さんもまだ、お気づきにならないようです。ただ一途に貴方の事を立派な人格の校長さんとばかり思い込んで尊敬してお出でになるようです。そうした有難い舞坂トメ子さんの心遣いが貴方におわかりになりますか。私と舞坂さんとは、二人でこの学校の寄宿舎にいた時分から、大切な大切な親友だったのですからね。その大切な大切な舞坂さんをお泣かせになったのが貴方ですから、どうして知らないでおられましょう。……私はソンナ処から貴方の御生活に興味を持って、いろいろと苦心しながら、貴方に近付く機会を狙っていたのですからね。ね、おわかりになったでしょう。女の一心というものは怖いものですよ。オホホ……。
 いいえいいえ。妾は黙っておる訳には参りません。私は在来《ありきた》りの手も力もない日本式の女性とは違うんですからね。意地になったらドコドコまでも意地になって行ける自信を持った女ですからね。自慢では御座いませんが、女の腕一つで男の子を二人育てて来た女ですからね。一通り世間の事は知り抜いている女ですよ……貴方が二十年前に、あの天使のように美しい舞坂さんを抱き締めて仰言った愛の言葉を発表する方法を存じておりますよ。どうぞどうぞこの淋しい独身者《ひとりもの》を憐れんで下さい……とね。ホホホ……」
 それから先の問答は、気が顛倒《てんとう》しておりましたせいか一々記憶に止まっておりません。けれども、かいつまんで申しますと、校長先生の一所懸命の御弁解で、虎間先生はやっと間違いの原因を納得されました。そうして虎間先生を奏任待遇にすることと昇給させる事を条件として、校長先生の過ちを許して上げると言う事で、お話が折合った模様で御座いました。
 それに引き続いて今度は、私の口を塞《ふさ》ぐ方法に就いてヒソヒソと話し合っておられたようでした。クスクス笑いの声と一緒に「大阪」とか「廃物利用」とか言ったような言葉がチラチラと洩れて来たようでしたが、大部分はほとんど聞こえませんでした。他人に言えと仰言ってもコンナ秘密をお喋舌《しゃべ》りするような私ではないのにと思い思い、胸を一パイにして聞いておりました。そうして最後にお二人はコンナ問答をされました。
 「よう御座いますか森栖さん。万一、貴方が奏任待遇と昇給のお約束をお忘れになると、貴方が大変な御損をなさる事になるのですよ。妾はもうこの春に二人の子供が大学と専門学校を一緒に卒業するばっかりになっておりますし、一生喰べるくらいの貯えは今でも持っているのですから、世間からドンナ事を言われても怖い事はありません。ただこの上の欲には二人の息子の結婚費用と恩給を稼がせて頂けばいいのですから……どんな事でも発表出来るのですからね。よう御座いますか、森栖さん」
 「ヘエヘエ。決して忘れません。たしかに承知致しました。ああ意外な間違いで心配しました」
 「それにしてもあの娘《こ》は、どうしてここに入って来たのでしょう。気色《きしょく》の悪い……」
 これだけ聞きますと、私はソッと切戸から離れました。弓道場の蔭の防火壁の横から外へ出て、裏門際の共同便所で髪毛《かみのけ》と顔を念入りに直して、コッソリと自宅へ帰りました。

 その晩は頭の中がツムジ風のように渦巻いて、マンジリとも出来ませんままに、左右の手首がシビレるほどシッカリと胸を抱き締めて、夜を明かしました。死刑の宣告を受けた人間でも、あんなにまで夜の明けるのを恐れはしなかったでしょう。
 あくる朝になりますと私は、身体中が変にダルくってしようがないのに気付きました。激しいトレイニングの後で嘔《は》きたくなる時のような疲れを感じて、窓の外の太陽の光が妙に黄《きな》臭くて、起き上ろうとすると眼がクラクラして堪りませんので、生まれて初めて終日、床に就いておりましたが、あれは多分、烈しい神経の打撃からだったのでしょう。両親には風邪気味と申しましたので、夕方になって、近所に住んでおられる大学の助教授さんとか言う、若いお医者さんを呼んでくれましたが、別に何処と言って悪い処は御座いませんし、熱も何もなくて、脈も変っていなかったので御座いましょう。お医者様はしきりに不思議がって、首を傾《かし》げておられました。そうして私の左手からすこしばかり血を取ってお帰りになりましたが、あの血の一滴が、校長先生と私とをコンナ破目に陥れる重要な血だった事を、あの時の混乱していた私が、どうして気付き得ましょう。
 その次の次の朝……あれから四日目の朝早くでした。私はやっと、平常に近い静かな気持になって眼を醒《さ》ます事が出来ました。それは前の晩に若いお医者様から頂いた睡眠薬のお蔭だったのでしょう。私は寝間着のままお庭に出て、ユーカリの樹の梢に輝く青い青い朝の空を、ゆっくりと見上げる事が出来ました。
 けれども、その時の私の悲しゅう御座いましたこと……。
 校長先生。私は人から何と言われても、やっぱり女だったのです。
 それが道ならぬ、忌《いま》わしい事と知りつつも私は、校長先生をお怨み申し上げる気持に、どうしてもなり得なかったのでした。それよりも、そんな道ならぬ忌わしい事をなさらなければならぬ校長先生の弱い、卑怯なお心が、その時の私にはこの上もなく御痛わしいものに思えて仕様がなくなっていたのでした。そうしてそのお痛わしい、淋しい校長先生を、仮令《たとい》どのような忌わしい方法ででもお救い申し上げて、正しい、明るい道にお帰りになるようにお諌《いさ》め申し上げるのが、私のような女に授けられた道ではないのでしょうか。それが私の持って生まれた運命なのではないでしょうか……とさえ思うようになっておりました。私には、
 「この憐れな、淋しい老人を救ってくれ」
 と仰言ったお言葉が、校長先生の真実のお心から出たお言葉のように思えて仕様がなかったのでした。たとい、それが間違って私に仰言ったお言葉であったにしても……。
 私はもう、私の知らない間に虚無ではなくなっていたのです。校長先生の御蔭で、女としての純情に眼ざめ始めていたのです。
 ……底の知れないほど愚かな私……。

 「大阪に行かんか」
 と父から相談をかけられたのはその朝食前《あさごはんまえ》の、応接間での出来事でした。いつもですと私の事に就いては、ずいぶん冷淡でした私の継母も、この相談には深い興味を持っておりましたらしく、眼を光らして私の傍の椅子に参りました。
 倹約家の父は珍しく金口を吹かしながら、いつになくニコニコした口調《くちょう》で申しました。
 「お前は新聞記者になりたいって言った事があるだろう」
 「ええ。そんな事を考えた事もありましたわ」
 「写真も嫌いじゃなかったろう」
 「ええ大好きですわ」
 父は、私がいろいろな新聞や雑誌に投書したり、写真サロンに入選したりしている事を知っているのに、どうしてコンナ事を改まって尋ねるのだろうとチョッと不思議に思いました。
 「……だから、ちょうどいいと思うんだがね。大阪の新聞社で女の運動記者を欲しがっているんだ。女学校の運動部を訪ねてまわって、話を聞いたり、写真を撮ってまわったりするのが仕事だそうだがね。昨日わざわざ森栖校長先生が俺の役所(営林所)に訪ねて来られて、お前が承知してくれさえすれば、先方では願ったり叶ったりだと言っている。洋行も出来るようにして遣《や》ると言っているそうだから、コンナ良い口はまたとないと思う。俸給は百円でボーナスは三月分だそうだが、御承知ならば私が大阪へ電話をかけるから、直ぐにも出発出来るだろうって言う事だがね……」
 と言うお話でした。
 私はあの時に、よくあれだけ落ち着いておられたと思います。実際、三、四日前の廃屋の中の出来事よりも、この時に父から聞きました大阪行きのお話の方が、ガア――ンと私をタタキ潰したのでした。
 私はこの時ほど、私の気持を裏切られた事はありませんでした。校長先生が私を大阪へ遣ろうとしておられる……と言う事が、私を絶望的に悲しませたのです。
 「……考えさして下さい」
 と返事をするうちに私はもう涙で胸が一パイになってしまいました。何故だかわからないままシクシクとシャクリ上げ始めました。
 それを見ました父はまた、椅子の上から一膝進めて申しました。
 「これぐらい、有難い事はないじゃないか……大学を卒業した男の学士様でさえ三十円、二十円の口がない世の中だよ。考える事なんかないじゃないか……それとも何かい。お前には、どうしても大阪へ行けない理由《わけ》でも在るのかい」
 私は後にも前にも、あんなに厳粛な父の声を聞いた事は一度もないのでした。ですから思わず顔を上げて両親の顔を見まわしますと、両親は父の言葉付以上に、大罪人でも訊問しているかのように厳粛な、剛《こ》わばった顔をして、白々と私を凝視しておりましたので、私はいよいよビックリしてしまいました。
 それでも私は何の気も付かずに頭を左右に振りながら申しました。
 「いいえ。別に何にも、そんな理由はありませんわ。ただもう二、三日考えさして頂きたいだけなのです。一生の事ですから……」
 両親はこの時にチラリと異様な白い眼を見交したように思います。それから父は改まった咳払いを一つしました。
 「ふうむ。それならば尋ねるが、お前は何か私たちに隠している事が在るのじゃないかい。そのために大阪に行かれないのじゃないかい」
 私はハッと胸を衝《つ》かれましたが、すぐに気を落ち着けて、何気なく頭を左右に振りました。ため息を一つしながら……。
 「いいえ。何も……」
 「それじゃ……お前は再昨日《おとつい》の晩、何処へ行っていたのだえ」
 継母が氷のように冷たい静かな声で、横合いから申しました。
 私は音のない雷に打たれたようにドキンとしながら、ガックリと俛首《うなだ》れてしまいました。多分、私の顔は死人のように青|褪《ざ》めていたことでしょう。ただもう気がワクワクして胸がドキドキして、身を切るような涙がポタポタと寝間着の膝の上に滴るばかりでした。
 ……私の破滅は校長先生の破滅……校長先生の破滅は私の破滅……私の破滅……校長先生の破滅……何もかも破滅……現在タッタ今破滅しかけているのだ。……そうして、どんな事があっても破滅させてはならないのだ。白状してはいけないのだ。私と校長先生とは二人きりでこの秘密を固く固く抱き合って、底も涯てしもない無間地獄の底へ、何処までも何処までも真逆様に落ちて行かなければならないのだ。……と……そんなような事ばかりをグルグルグルと扇風機のように頭の中で考えまわしているうちに、私の全身をめぐっております血液が、みんな涙になって頭の中一パイにみちみちて、あとからあとから眼の中に溜って、ポタポタと流れ出して行くように思いました。それにつれて私の心臓と肺臓が、涯てしもない虚空の中で互い違いに波打って狂いまわる恐ろしさに、声も立てられないような気持になって行きました。
 その私の耳元に、父の鋭い、冴え返った声が聞こえました。
 「隠してもわかっているぞ。一昨日お医者様が取って行かれたお前の血清を、大学で検査された結果、お前がもう処女でないことがわかってしまったんだぞ」
 継母が私の直ぐ横で、長い長いため息をしました。赤の他人よりもモットモットつめたい、もっともっと赤の他人らしい溜息を……。
 「一昨日、お前を診《み》て下さった……昨夜《ゆうべ》も診に来て下すった先生は、その方の研究で墺太利《オーストリー》まで行って来られた有名な医学博士だったのだぞ。どんな言い訳をしても通らない、科学上の立派な証拠を……俺は……俺は……眼の前に突き付けられたのだぞ……」

 ……何と言う恐ろしい科学の力……。
 私がもう清浄な身体《からだ》でないこと……自分でもそうは思われないくらいの儚《はか》ない一刹那の出来事……それがタッタ一滴の血液の検査でわかるとは……。
 ……何と言う残酷な科学の審判……。
 私はモウ何の他愛もなく絨氈《じゅうたん》の上に……両親の足元に泣き崩《くず》れてしまいました。
 絶体絶命になった私……。
 父は私に是が非でも相手を打ち明けよと迫りました。決して無理な事はしない。キット添わせて遣る。お前の事をソンナにまで思って下さる人がおられる事を俺達が気付かなかったのが悪かったのだ。どんな相手でもいいから打ち明けよ。親の慈悲というものを知らぬか……と両親とも涙を流して迫りましたが、私は死ぬほど泣かされながら、とうとう頑張り通してしまいました。校長先生のお名前を打ち明けるような空恐ろしい事が、どうしても私には出来なかったのです。
 私は生まれて初めて親の命令に背《そむ》いたのです。親様の慈悲を裏切ったのです。校長先生の御名誉のために……。私はどうしてあの時に狂人にならなかったのでしょう。
 それから私はその日の正午頃になってヘトヘトに泣き疲れたまま、寝床に入りました。アダリンを沢山《たくさん》に服《の》んで、青|褪《ざ》めた二人の妹に見守られながらグッスリと眠ってしまいました。このままで死んでしまえばいいと思いながら……。

 その翌る日の三月二十二日は、私たち二十七回卒業生の、校長先生に対する謝恩会が催される日でした。
 ああ謝恩会……私に取って何と言うミジメな、悲しい、恐ろしい謝恩会でしたろう。
 私はまだ睡眠剤から醒め切れないような夢心地で、死ぬにしても生きるにしても、どちらにしても考えようのないような考えを、頭の中一パイに渦巻かせながら、今一度、母校の正門を潜りました。
 もう一度校長先生のお顔を見たい。どんな顔をなすって私を御覧になるか……と……それ一つを天にも地にもタッタ一つの心頼みにして……。
 いつもの通り古ぼけたフロックコートを召して、玄関に立ってお出でになった校長先生は、やはりいつもの通りに、私を御覧になるとニッコリされました。それは平常の通りの気高い、慈悲深い校長先生のお顔でした。
 「……やあ……甘川さんお早よう。貴女にちょっとお話がありますがね。まだ時間がありますから……」
 と落ち着いた声で仰言って、私の手を引かんばかりにして正面の階段を昇って、二階の廊下のズッと突き当りの空いた教室の片隅に、私をお連れ込みになりました。そうして、やはりこの上もない御親切な、気高い、慈悲深い顔をなすって、
 「どうです。お父さんからのお話を聞かれましたか。大阪へ行く決心が付きましたか」
 と仰言って、もう一度ニッコリされました。
 その校長先生のお顔は、二、三日前の御記憶なんかミジンも残っていないお顔付きでした。柔和なお顔の皮膚がつやつやしく輝いて、神様のような微笑がお口のまわりをさまようておりました。……あの晩の事は夢じゃなかったのか知らん……あたしは何かしらとんでもない夢を見て、こんなに思い詰めているのじゃなかったか知らん……とさえ思ったくらいでした。
 それでも私は、考えようのないような考えで頭の中を一パイに混乱させながらも、キッパリと大阪行きをお断りしたように思います。その時には別段に嬉しくも、悲しくも、腹立たしくも何ともなかったようですが、多分、私の脳髄がまだシビレていたせいでしたろう。
 しかし校長先生は、お諦めになりませんでした。
 「これは貴女のおためですから……この就職口さえ御承諾になれば、貴女にはキットいい御縁談が申し込んで来る事を、お約束出来るのですから……運動好きの若い紳士が、その新聞社に待っておられるのですから……」
 とか何とか仰言って、いよいよ親切を籠《こ》めて、繰り返し繰り返しお説教をなさいましたが、その言葉のうちにうなだれて聞いておりました私が、そっと上目づかいをして見ました時の、校長先生のお眼の光の冷たかったこと……人間を喰べるお魚のような青白い、意地の悪い、冷酷な光が冴え返っておりましたこと……。
 その何とも言えない無情な、冷やかなお眼の色を見ました一刹那に、私はモウ少しで……悪魔……と叫んで掴みかかりたいような気持になりましたので、こっそりと一つ溜息をして、頭を下げてしまいました。何もかもメチャメチャにしてしまいたい私の気持が、私自身に恐ろしゅう御座いましたので……。
 その時に校長先生のお言葉が……お話の初めの時よりもずっと熱烈な……祈るようなお声が、私の耳元に響きました。
 「……ね……甘川さん。考えて下さいよ。貴方は万が一にも大阪にお出でにならぬとすれば、貴方の御両親やお妹さん達に、どれだけの精神的な御迷惑をおかけになるか御存じですか。貴女を今のままにしておいては将来、家庭をお作りになって、満足な御生涯をお送りになる可能性が些ない事になると仰言って、御両親が夜《よ》の目も寝ずに心配してお出でになるのですよ。これは私が心から申し上ることです、貴女は一体、将来をどうなさるおつもりですか。これほどに貴女のおためを思っておる私の心が、おわかりにならないのですか」
 その校長先生らしい……この上もない人格者らしい威厳と温情の籠もっているらしいお言葉つきの憎らしゅう御座いましたこと。私は今一度カッとなって、何もかもブチマケてしまいたい衝動に駈《か》られましたが、しかしその時には最早《もう》、私の決心が据わっておりましたので、身体中をブルブルとわななかせながら、我慢してしまいました。
 「校長先生のお心はよくわかっております。けれどもモウ二、三日考えさして下さい。決して先生のお心にそむくような事は致しませんから……」
 これは私が生まれて初めて吐いた嘘言《うそ》でした。
 この時に私が決心しておりました事は、先生のお心に背くどころでなかったのでした。もしこの時に私が致しておりました決心の内容が、ホンの一部分でも校長先生にお察しが付きましたならば、校長先生はその場で気絶なすったかも知れません。
 私は先生の平気な、石のようにガッチリしたお顔色を見ておりますうちに、トテモ人間並の手段では校長先生を反省させる事が出来ないと深く深く思い込みました。私が火星から来た女なら校長先生は土星から降ってお出でになった超特級の悪魔に違いないと気が付きましたから、ドンナ事があっても間違いない……そうして先生をドン底まで震え上らせる手段を考えなければならぬ……殺して上げるくらいでは追い付かない……この地球表面上が、校長先生に取っては生きても死んでもおられない、フライ鍋《なべ》よりも恐ろしい処にしてしまわなければならないと固く固く決心してしまったのでした。
 私は微笑を含みながら静かに立ち上って教室を出ました。そうすると入口で様子を聞いておられたらしい虎間デブ子先生にバッタリ出会いましたが、私はモウすっかり落ち着いておりましたから、何も知らん顔で丁寧にお辞儀をして階段を降りて行きました。あとで校長先生と虎間先生が何か御相談をしてお出でになるようでしたが、そんな事はもう問題ではありませんでした。
 階下の待合室になっている裁縫室に入って行きました私は、卒業生仲間のお話の中に交って一緒に笑ったり、お菓子を頂いたり何かして一時間余りを過しましたが、私があんなに打ち解けて皆様と一緒に愉快そうに燥《はしゃ》いだ事は生まれて初めてだったでしょう。その間じゅう私は、自分のノッポも、醜さも、火星の女である事も何もかも忘れて、何となく皆さんとお名残が惜しい気持が致しますままに、出来るだけ大勢のお友達と顔を見合って、笑い合って、手を取り合ってなつかしみ合ったのですが、あの一時間こそは私の一生涯のうちでも、やっと人間らしい気持のした、一番楽しい一時間だったのでしょう。

 それから間もなく始まった謝恩会の模様を、私はすこし詳しく書かなければなりません。それはこの世に又とない校長先生の悪徳を、眼も眩《くら》むほど美しく、上品に飾り立てた芝居だったのですから。それは私以外の人達が一人も気付いてお出でにならない……そうして同時にタッタ一人私だけを苛責《いじ》め、威かすために執行《とりおこな》われた、世にも恐ろしい、長たらしい拷問《ごうもん》だったのですから……。
 最初に全校の生徒の「君が代」の合唱がありましたが、その純真な、荘厳この上もない音律《リズム》の波を耳に致しておりますうちから私は、もう身体中がゾクゾクして、いても立ってもおられないくらい空恐ろしい、今にも逃げ出したいような気持になってしまいました。……心のドン底から震え上らずにはおられない……「君が代の拷問」……。
 それからその次に、父兄代表として視学官の殿宮さんが壇上にお立ちになった時の演説のお立派でしたこと。校長先生の御高徳を、極《ご》く極く詰まらない事までも一つ一つ挙げて、説明して行かれた時の満場の厳粛でしたこと……。
 校長先生の銅像の寄付金の事に就いて、教頭の小早川先生が報告をなすった後に、卒業生代表の殿宮アイ子さん……まだ何も御存じないアイ子さんが、集まったお金の全額の目録を捧げられた時の、校長先生の平気な、すこし嬉しそうなお顔……。
 それから川村書記さんの事務報告に続いて、校長先生が感謝の演説をなされました。そのお言葉の涙ぐましかったこと……その真情の籠もっていたこと……そのお姿の神々《こうごう》しかったこと……そうして、そうでありましただけ、それだけにその演説の意味が、どんな詩人でも思い付かないくらいに悪魔的でしたこと……。
 「私は自分の子というものを一人も持ちません。ですから、いつも皆様を私のホントウの子供と思っております。……この五年の間にお名前から、お顔から、お心持までも一々記憶して、何の疵《きず》もない玉のように清浄に育って行かれる皆様のお姿を、心の底まで刻み付けているのであります。その皆様をこの浪風の荒い、不正不義に満ち満ちた世の中に送り出す、その最後のお別れの日の今日只今、私がどうして平気でおられましょう。どうして感慨なしにおれましょう。それが繊弱《かよわ》い、美しい、優しい皆様でありますだけ、それだけに、雄々しい吾児を戦場に見送る母親の気持よりもモットモット切ない思いで胸が一パイになるのであります。
 ……申すまでもなく人生は戦場であります。この社会は現在、あらゆる素晴らしい科学文明の力で、かくも美しく飾り立てられているのでありますが、しかしその内実はドンナものかと考えてみますと、ちょうど野生の動植物の世界……ジャングルとか原始林とか、阿弗利加《アフリカ》の暗黒地帯とか言うものの中と同様に、精神的にも物質的にも、お互い同士が『喰うか喰われるか』の恐ろしい生存競争場であります。その止むに止まれぬ生存競争から生み出される、あらゆる不正不義な意味の社会悪が到る処に『喰うか喰われるか』の意味で満ち満ちているのでありますからして、わけても心の優しい、うら若い皆様に取りましては、是非善悪に迷われるような深刻な、危険な、恐ろしい立場が、到る処に待ち受けている事を、今から覚悟していて頂かねばなりません。
 ……度々申しますように、今日までの人類文化の歴史は、男性のための文化の歴史であります。そうしてその男性の歴史というものは個人個人同士の腕力の闘争史から、団体同士の武力の競争時代を経過して参りまして、只今は金銭の闘争時代に入っております。すなわち弓矢鉄砲と名づくる武器が、金銭と名づくる武器に代っただけの時代であります。それでありますからして昔の武力闘争時代に於て、戦争のため、すなわち敵に打ち勝つためには、如何なる奸悪《かんあく》無道な所業といえども、止むを得ない事として許されておりましたのと同様に、現在の社会に於ても、金銭と、これに伴う名誉、地位のためには、法律に触れず、他人に知れない限り、如何なる悪辣《あくらつ》、非人道をも、どしどし行って差支えないと考えられているのであります。もっと極端に申しますと現在の世界は、国際関係に於ても、個人関係に於ても、平気で良心を無視し、人道を蹂躙《じゅうりん》し得るほどの、残忍、冷血な者でなければ、絶対に勝利者となる事の出来ない世の中と申しても大した間違いはないと考えられるのであります。
 ……すなわち現代の男性は、金銭の武器をもって戦うところの、暗黒闘争時代の闘士であります。無良心、無節操なる暴力とか策略とか言うものを平気で、巧みに行ない得る男性が勝者となり、支配者となりまして、そんな事の出来ない善人たちが、劣敗者、弱者となり下って行く証拠が、日常到る処に眼に余るほど満ち満ちているのであります。……ですから世界中が優しい、美しい、平和を愛好する婦人たちの心によって支配される時代は、まだまだ遙かの遠い処に在ると申さねばなりません。
 ……ですから皆様は、婦人に生まれられた事を喜ばなければなりません。御存じのお方もありましょうが、太閤記の浄瑠璃《じょうるり》で、主君を攻め殺して天下を取ろうとする明智光秀が、謀反《むほん》に反対する母親や妻女を『女子供の知る事に非ず』と叱り付けております。あの時代でも只今でも同じ事で、婦人はそのような、醜い、邪悪な、生存競争の全部を、世界始まって以来男性に任せ切りで、自分たちは皆申し合わせたように美と愛の生活を独占して参りました。その純真、純美な愛の心によって、料理、裁縫、育児の事にのみいそしんで、その家庭生活を美化し、平和化し、子孫を正しい、美しい心に教育する事ばかりに努力して来ました。そうして次第次第に腕力、武力の野蛮な闘争の世界を克服して、昔の人の想像も及ばぬ幸福安楽な、今日の文明世界を生み出して参りました。
 ……ですから皆様は決して恐るる事はありません。私は皆様に平和を尚《たっと》ぶ心を植え付け、忍従と美を愛する心掛をお教え致しました。皆様はこの心をもって、男性が作る残酷な、血も涙もない、厚顔無恥な悪徳の世界と戦わなければならぬ使命を、まだ歴史のない大昔以来、心の底から本能的に伝統してお出でになるのであります。ですから、その皆様の、美しい、優しい平和と忍従を尚ぶ本能のまにまに、この世界を一日も早く浄化し、良心化して、人類相互の心からなる平和の世界……婦人の美徳によってのみ支配される世界を一日も早く、育て上げられるように、毎日毎日全力を揚げて働いてお出でになりさえすれば、それでよろしいのであります。
 ……それは決して困難な事でも、わかり難い事でもありません。家庭に於ける婦人の美しい本能……清らかな愛情は、この男性と戦う唯一、無敵の武器であります。どんなに気の荒い、血も涙もない男性でも、この婦人の底知れぬ忍従と、涯てしもない愛情によって護られた家庭の中に在っては、底の底から安心して平和を楽しむ心になるのであります。そうして知らず知らずのうちに大きな感化を、その心の奥底に植付けられて行くのであります。家庭内に争議を起す婦人は災なる哉《かな》。……どうか皆様は一日も早く健全な家庭を持たれて、潔白な、正直なお子さんを大勢育て上げられて、来たるべき日本国を出来るだけ清らかに、朗らかに、正しく、強くされん事を、私は衷心から希望して止まないのであります。
 ……私はこの希望一つのために、生涯を棄《す》ててこの事業に携わっておる者であります。……繰り返して申します。皆様は私の心の子供であります。この子供たちをかような尊い戦いのために、今日只今から社会に送り出す私の心持……お別れに臨《のぞ》んで……」
 校長先生のお話がここまで参りました時に、満場から湧き起った拍手のたまらない渦《うず》巻き……それから暫《しばら》くの間続いたススリ泣きと溜息……。
 それから卒業式の時と同様に唄い出されました、涙ぐましい「螢の光」……。
 ああ。何と言う感激にみちみちた光景でありましたろう。何という神々しい校長先生のお姿でありましたろう。

 その謝恩会がすみますと直ぐに私は、帰り道の途中に在る殿宮視学官様のお宅をお訪ねしました。そうして学校一の美人で、学校一の優等生と呼ばれてお出でになる殿宮アイ子様にお眼にかかりまして、大切な秘密のお話がありますからと申しまして、二人きりで応接間に閉じこもりました。
 殿宮アイ子さんは在学中、私の大切な大切な愛人《アミ》だったのです。お友達のうちで詩というもののホントウにおわかりになる方はアイ子さんお一人だったのです。誰も知りませんけれども、時々コッソリとお眼にかかった事が何度あるかわかりませんので、あの物置のアバラ家の二階で、虚無のお話をし合ったのも一度や二度ではなかったのです。けれども、こうしてお宅を訪問した事はこの時が初めてだったのです。
 殿宮アイ子さんはホントにシッカリした方でした。私の話をお聞きになっても、驚きも泣きもなさらないで、美しい唇をシッカリと噛みしめ、張りのある綺麗なお眼を真赤にして輝かしながら、私の長い長いお話をスッカリ受け入れて下さいました。そうして私のお話がすみますと、やっと少しばかりの涙を眼頭にニジませながら、思い詰めたキッパリした口調で言われました。美しい美しい静かなお声でした。
 「……ありがとうよ。歌枝さん。お蔭で今まで私にわからなかった事がスッカリわかりましたわ。私が初めて知りました真実《ほんと》のお父さん……森栖校長先生を反省さして下さる貴女《あなた》の御親切に私からお礼を言わして下さいましね。貴女のなさる復讐《ふくしゅう》は、どんな風になさるのか存じませんけど、貴女の仰言る通りに、誰にもわからないようにその人を反省させるだけの意味の復讐なら、大変にいい事だと思いますわ。その方法は貴女にお任せしますわ。どんな方法でも私は決してお恨み申しますまい。そうして、それでもお父様……校長先生が反省なさらない時には、貴女から下すったお手紙を、きっと貴女のお指図通りに出しますわ。ええ、中味を見ないで……誰にも……母にも秘密を明かしませんから、どうぞ御安心下さい。私は貴女をドコまでも信じて行きますわ。……私は貴女に思う存分に恨みを晴らして頂くよりほかに父の……父の罪の償《つぐな》い方法《かた》を知らないのですから……。
 ……ですけど……それはそれとして、大阪へお出でになったらキットおたよりを下さいましね……どうぞ……ね」
 そう言ってアイ子さんはタッタ一しずく涙をポトリと落されました。そうしてその涙を拭おうともしないまま走り寄って来て、私の手をシッカリと握り締められました。千万無量の意味の籠《こ》もった握手……。
 それで私の下準備《したごしらえ》は終りました。

 私が大阪に行く事を承知しました時の両親の喜びようと、わざわざ訪ねてお出でになった校長先生のお賞《ほ》めになりようは、それはそれは大変なものでした。そうしてその時に私が持ち出しました無理なお願い……大阪へ行く事を誰にも知らせないで、タッタ一人で出立したい。大阪の新聞社の支局へも挨拶しないまま、今から直ぐに出発したいという我ままな願いも、そんなに八釜《やかま》しく仰言らずに承知して下さいました。
 けれども私は大阪へ行きませんでした。
 謝恩会のあったその日の夕方に、新しい洋装とハンドバッグ一つと言う身軽い扮装《いでたち》で、両親に別れを告げて、家を出るには出ましたが、その足で直ぐに殿宮視学のお宅をお訪ねして、イヨイヨ大阪へ行きますからと言って、無理にアイ子さんを誘い出しました私は、一緒に西洋亭へ上りまして、二人で思い切り御馳走を誂《あつら》えて、お別れの晩餐《ばんさん》を取りました。それから二人でモダン写真館へ行って記念写真を撮りますと、あそこの写真館のサロンで二人で抱き合って長い長い接吻を致しましたが、二人とも涙に濡れて、お互いの顔が見えないようになってしまいました。
 それから私の計画をチットモ御存じのないアイ子さんが是非とも見送ると言って停車場へ見えましたので、仕方なしに大阪へ行くふりをして汽車に乗るには乗りましたが、直ぐに途中の駅から自動車で引き返して、この町の外れのある淋しい宿屋へ泊り込みました。そうして近くの古着屋から買って来ました黒い背広に、黒の鳥打帽、黒眼鏡と言う黒ずくめの服装で、男のような歩き方をしながら、一所懸命に校長先生のアトを跟《つ》け始めました。手に提げた学生用の手提袋には長い丈夫な麻縄と、黒|繻子《じゅす》の覆面用の風呂敷と、旧式の手慣れたコダックと、最新式の小型発光器《フラッシュランプ》と、蝋マッチと、写真の紙を切るための安全|剃刀《かみそり》の刃を入れておりましたが、これは前の晩に宿屋の屋根で使い方を研究して置きました、練習ずみの品々で、校長先生に取っては、ピストルよりも、毒|瓦斯《ガス》よりも、何よりも恐ろしい私の復讐の武器なのでした。
 そんな事とは夢にも御存じなかったのでしょう。却って私を大阪へ追払ってモウ一安心とお思いになったのでしょう。校長先生は謝恩会のあった翌る日の二十四日の夕方に、何処かへ出張なさるような恰好で、真面目なモーニングに山高帽を召して、書類入れのボックス鞄なぞを大切そうに抱えて、下宿をお出ましになると、夕暗《ゆうやみ》の町伝いを小急ぎに郊外へ出て、天神の森の方へ歩いて行かれました。……サテは……と胸を躍らせながら一心にアトを跟《つ》けて行きますと、果して天神の森には二人の和服の紳士の方が待っておられました。……スラリとした影とズングリ低いのと……それが近付いてみますと、やはり私の想像通りに傴僂《せむし》の川村書記さんと、好男子殿宮視学さんに違いない事がわかりました時の私の喜びはどんなでしたろう。
 森の外の国道には、室内照明《ルーム》を消した幌自動車が、三人の若い芸妓《げいしゃ》さんを乗せて、ヒッソリと待っておりました。それに気が付きました私は、手提袋を腰に結び付けて、黒い風呂敷で手早く覆面をしますと、三人が自動車に乗り込まれるとほとんど同時に夕暗に紛《まぎ》れながら、スペヤ・タイヤの処へ飛付いて、小さく跼《かが》まりながら揺られて行きました。そうしてその自動車の行先が、私の想像通りに温泉ホテルである事がわかりました時の、私の安心と満足……冒険心と好奇心……それはどんなにかドキドキワクワクしたものでしたろう。私の復讐は何もかも最初から、温泉ホテルを目標にして、研究して、計画しておったものですから……。そうして、それがもう第一日の一番最初から、ぐんぐん思い通りに、運んで行き始めたのですから……。
 けれども私が一寸《ちょっと》した思い付きから、あんな悪戯《いたずら》をしました時に、自動車の中の方々が、どんなにかビックリなすった事でしょう。
 あの自動車がシボレーのオープンでありました事は、ほんとに天の助けだったかも知れません。その上に私が、偶然に、安全剃刀の刃を用意しておりましたのは、これこそ一つの奇蹟だったかも知れません。ガタガタする車体の中で、メチャメチャに燥《はしゃ》いでお出でになった三人は、私が安全剃刀の刃で、後窓《アイホール》の周囲《まわり》をUの字型に切抜くのをチットモお気付きになりませんでした。
 その穴から片手を突込みました時に、校長先生は、一番左の一番可愛らしい舞妓《まいこ》さんの背後から抱き付いてお出でになりましたが、その舞妓さんの花簪《はなかんざし》と、阿弥陀に被《かぶ》っておられた校長先生の山高帽を奪い取って、自動車から飛び降りて逃げだした時に、私の足の力がどんなにか役に立ちましたことか……若い運転手さんが「泥棒、泥棒」と叫びながら一所懸命で追い掛けて来るには来ましたが、日が暮れて間もない平坦な国道ですもの……。
 右手に花簪を、左手に手提鞄を抱えて、帽子をシッカリと口に咥《くわ》えた私は、そんなに息切れもしないうちに、グングンと追跡者を引き離してしまいました。そうして町へ引き返して、ビックリしておられる殿宮アイ子さんをソッと呼び出して、私の仕事の中で思いがけない拾いものをした事をお知らせして、心から喜び合う事が出来ました。
 ですからあの山高帽子と花簪は、今でも殿宮アイ子さんのお手許に在るはずです。この手紙を御覧になりましたらば、直ぐにアイ子さんの処へ受け取りに行って御覧なさいませ。どのような劇的シインが展開するか存じませんけれども……。

 けれども私のほんとうの目的の仕事はまだまだ残っておりました。それくらいの事で反省なさる校長先生ではないことを、よく存じておりますからね。
 「愛子さん……校長先生がホントウに後悔をなすって、お母さんにもお詫びをなすったら、この帽子と花簪を上げて頂戴……それでももし校長先生が受け取りにお出でにならなかったら、この二つの品物は、お母様と御相談なすって、お好きなようにして頂戴……」
 そう申し残しますと私は直ぐに別の箱自動車《セダン》を雇って一直線に温泉ホテルに向いました。
 ……ああ……温泉ホテル……あの有名な温泉ホテルこそは、私が校長先生に復讐を思い立つ前から、好奇心に馳られて、何度も何度も学校の帰りに温泉鉄道に乗って行って、裏から表から眺めまわして、詳しく探検していた家でした。そうして今度の仕事……私の一生涯を棄ててかかった仕事は、この家以外の処では絶対に成し遂げられない事を深く深く見込んでいる処なのでした。
 私は校長先生の御一行が、後へ引き返されるような事は多分なさらないであろう事を信じておりました。幌自動車の後窓《アイホール》を切り抜いて、あんな悪戯《いたずら》をして行った曲者が、何を目的にした者かと言う事が、あの時のお三人におわかりになるはずはありません。況《ま》して最早《もう》、とっくの昔に大阪に着いているはずの私が、あんな事をしたとお気付になるはずはない。そうして折角三人も揃って思い立たれた今夜の計画を、これくらいの事にビックリしてお中止《やめ》になるはずもない。ただアラビヤン・ナイトのような不思議な災難に驚かれて、ワヤワヤとお騒ぎになっただけで、そのまま先を急いでお出でになったであろう事を、私は九分九厘まで信じておりました。
 ですから私は温泉ホテルの前をすこし行き過ぎた湯の川橋の袂《たもと》で自動車を止めて貰いました。
 それから狭い横露地伝いに私は、温泉ホテルの三階の横に出まして、あすこの暗い板塀の蔭で長いこと耳を澄ましておりますうちに、高い高い三階の窓から、明るい光線と一緒に微かに洩《も》れて来る校長先生の笑い声を耳に致しました私は、ホット安堵の胸を撫でおろしました。それから直ぐに、音を立てないように板塀を乗り越して、非常|梯子《ばしご》伝いに三階の非常口まで来ますと、あそこから丈夫な銅《あかがね》の雨|樋《とい》伝いに、軒先からクルリと尻上りをして屋根の上に出ましたが、さすがの私……火星の女も、その尻上りをした時に、はるか眼の下の暗黒の底の、石燈籠に照された花崗岩《みかげいわ》の舗道をチラリと見下しました時には、思わず冷汗が流れました。
 そんな苦心をして、やっとの思いで目的の赤瓦屋根の絶頂に匐《は》い上りました私は、口に啣《くわ》えて来ました手提の中から取り出した細引のマン中を屋根の中心に在る避雷針の根元に結び付けて、その端を自分の胴中に巻き付けて手繰《たぐ》りながら、急な赤煉瓦の勾配を降りて行きました。そうして屋根の端の雨樋の処から顔だけ出して、直ぐ下の廻転窓越しに、部屋の中を覗き込んで見たのでした。
 温泉ホテルの三階は、全体が一つの眺望用のサロンみたいになっているのでした。雨模様で蒸暑かったせいでしたろう。窓の上側が全部、開放して在りましたので、内部《なか》の様子が隅から隅まで手に取るように一目で見えました。
 私は、私の想像以上だったあの時の、あの部屋の中の有様を書く勇気を持ちません。ただ必要なだけ書いて置きます。
 大きな棕梠《しゅろ》竹や、芭蕉《ばしょう》や、カンナの植木鉢と、いろいろな贅沢《ぜいたく》な恰好の長椅子をあしらった、金ピカずくめの部屋の中では、体格の立派な殿宮視学さんと、ゾッとするような白光りする背中の瘤《こぶ》を露出《むきだ》した川村書記さんと、禿頭の熊みたような毛むくじゃらの校長先生が、自動車で連れてお出でになった三人の若い婦人のほかに、土地《ところ》の芸妓《げいこ》さんでしょう、年増《としま》の二人と、都合五人の浅ましい姿の婦人たちを相手に、有頂天の乱痴気騒ぎをやってお出でになりました。獣とも人間ともわからない姿と声で躍ったり、跳ねたり、転がりまわり、匐《は》いまわり、笑いまわり、泣きまわってお出でになりました。
 私は暫くの間、茫然とそんな光景を見恍《みと》れておりました。
 「現代の文明は男性のための文明」と仰言った校長先生の演説のお言葉を思い出しながら、こうした妖怪じみた人間と美人たちの乱舞を生まれて初めて眼の前に見て、気が遠くなるほど呆れ返っておりましたが、やがて吾に帰りました私は、屋根の端に身を逆様にしながら、落ち着いてコダックの焦点を合わせました。そうして、わざと蝋マッチを一本パチンと擦ったアトで、皆様がこちらをお向きになった瞬間を見澄まして、発光器《フラッシュ》を燃やしましたが、強い、青白い光線はズッと向うの広間の向う側までも達したように思いました。
 私が発光器《フラッシュランプ》を眼の下の深い木立の中へ投げ棄てますと、長椅子の上で遊び戯《たわむ》れておりました婦人たちの中にはキャア――ッと叫んで着物を着ようとした人もおったようでした。
 「何だったろう、今のは……」
 「恐ろしく光ったじゃないか」
 「パチパチと言ったようだぜ」
 「星が飛んだんだろう」
 「馬鹿な。今夜は曇っているじゃないか」
 「イヤ。星でも雲を突き抜いて流れる事があります。光が烈しいですから、直ぐ鼻の先のように見える事があります。私は一度見ましたが……小さい時に……」
 「今夜は何か知らん妙な事のある晩だな」
 「ちょうど窓の直ぐ外のように見えたがのう」
 そう言って校長先生が、ノソノソと窓の処へ近付いてお出でになるようでした。
 その瞬間にスッカリ面白くなりました私は、またも一つの悪戯《いたずら》を思い付きました。
 写真機と手提袋を深い雨|樋《どい》の中へ落し込んだ私は、手早く髪毛《かみのけ》を解いて、長く蓬々《ほうほう》と垂らしました。ワイシャツの胸を黒い風呂敷で隠しますと、思い切って身体《からだ》の半分以上を屋根の端から乗り出しました。長い髪毛を逆様に振り乱しながら、息苦しいくらい甲高い、悲し気な声で叫びました。
 「森栖先生エ――エ――エエエ……」
 部屋の中から流れ出る明るい電燈の光線で、窓の外の私の顔を発見された校長先生は、窓の枠《わく》に掴《つか》まったまま眼を真白く見開いて私をお睨みになりました。浅ましい丸裸体のまま、あんぐりと開いた口の中から、白い舌をダラリと垂らしておられました。その恰好がアンマリ可笑しかったので、私は思わず声高く笑い出しました。
 「……ホホホ……ハハハハハハ……ヒヒヒヒヒヒ……」
 部屋の中が、私の笑い声に連れて総立ちになりました。
 「あれエ――ッ……」
 「きゃあア――あッ……」
 「……誰か来てエ――ッ……」
 と口々に悲鳴をあげながら逃げ迷うて、他人の着物を引抱えながら馳け出して行く女《ひと》……そのまま入口の方へ転がり出る女《ひと》……気絶したまま椅子の上に伸びてしまう人……倒れる椅子……引っくり返る卓子《テーブル》……壊れるコップや皿小鉢……馳けまわる空瓶の音……。
 ……真夜中に三階の屋根の軒先から、逆様に髪毛を垂らして笑っている女の首を御覧になったら、誰でも人間とは思われないでしょう……。
 それが間もなくシインと鎮《しず》まりますと、あとには校長先生と同じに、私と睨み合ったまま、棒立ちになっておられる殿宮視学さんと、川村書記さんが残りました。その世にも滑稽《こっけい》な姿のお三人の顔を見廻わしますと、私は今一度、思い切った高い声で、心の底から笑いました。
 「ホホホホホ……オホホホホホホ……私が誰だか、おわかりになりまして……?……校長先生……殿宮さん……川村さん……火星の女ですよ……オホホホホホホホホ……イヒヒヒヒヒヒヒヒ……アハハハハハハハハ……」
 校長先生は眼の玉を白くして、舌をダラリと垂らしたまま、大地震に会った仏像のように、仰向け様にドターンと引っくり返ってお終《しま》いになりました。それをほかのお二人は見向きもなさらないまま、私の顔を睨み詰めて棒立ちになっておられるようでしたが、私はそのまま綱を手繰ってモトの屋根の絶頂に帰りました。四つん匐《ば》いになったまま、ほおっ……と一つ溜息をして気を落ち着けました。
 私はもうその時に、立ち上れるかどうかわからないくらい、疲れている事に気が付きましたが、しかし、いつまでも休んでおる事は出来ませんでした。逃げた芸妓さん達が、着物を着てからホテルの人に知らせたものと見えまして、下の方で誰だかガヤガヤと騒ぎまわる声がしました。それに連れて古ぼけた非常|提灯《ちょうちん》の光が二つ三つ、眼の下はるかのお庭の中に走り出て来たようでしたが、私はちっとも慌てませんでした。
 大切な写真機を入れた手提袋をシッカリと口に啣《くわ》えますと、避雷針に結び付けた綱を放ったらかしたまま、屋根の絶頂に立ち上って登って来た時と反対側の突端に来ました。そこで雲の間から洩れ出した美しい星影を仰ぎました時に、私は何故かしら胸が一パイになって、眼の中に涙が溜まって困りました。そのまま屋根の斜面を馳け降りて、闇の庭の舗道に飛び降りて、死んでしまいたいような衝動に馳られましたが、下の方から非常梯子を登って来るオドロオドロしい足音を耳にしますとまた、気を取り直しまして、直ぐ足の下から引っぱって在るラジオのアンテナ伝いに、隣りの棟《むね》の二階の屋根に降り立ちました。それからその屋根に近い大きな松の樹の枝に飛び付いて板塀の外へ降りました。それから田圃《たんぼ》の中の畦道《あぜみち》を横千切りに近道をして走りながら、一直線に温泉鉄道の停車場へ来て、やっとこさと終電車に間に合って、一時間経たないうちに町の宿屋へ帰って参りました。
 宿の私の部屋にはチャント床が取ってありました。その枕元に苦い苦いお薬のように出切った、つめたいお茶が置いてありましたので、私は坐る間もなくガブガブと二、三杯、立て続けに飲みましたが、その美味《おい》しゅう御座いましたこと……最前、温泉ホテルの屋根の上で、死にたくなった時とは正反対に、勇気が百倍して来たように思いました。

 その晩のフィルムの現像は百パーセントに都合よく行きました。小さいフィルムではありますが、浅ましい姿の三人の男性と五人の女性がビックリしてこちらを向いておる光景が、とてもハッキリと感じておりまして、引き伸ばしてみる迄もありませんでしたので、こんな事ならば、あんなに骨を折って、帽子だの花簪だのを後日の証拠に奪い取るような冒険をしなくともよかったのにと、一人で可笑しくなってしまいました。そうしてその晩から翌る日の正午近くまで私は、大満足のうちに骨を休めました。
 きょうの正午《おひる》過ぎに起き上りました私は、直ぐに全速力でこの手紙を書き始めました。こんなに長い手紙を三通も書いておりますうちには真夜中になるか、もしかすると夜が明けてしまうかも知れませんが、それでも私は構いません。夜の明けないうちに昨夜の写真を焼き付けて三、四枚ずつ、手紙の中に入れられるようにして置きます。
 私はこの手紙を三通とも別々の宛名の封筒に入れて、お頼みした通りの順序に出して下さるように書添えたものを同封にして、明二十六日の晩、町中が寝鎮まっている時刻に、愛子さんのお宅の郵便受|筥《ばこ》に入れて置きます。
 それからズット以前に、学校の化学教室から盗んで置きました××××と脱脂綿と、昨日買って置きました△△△△と△△△とを持って、あの母校の思い出の廃屋《あばらや》に忍び込みます。
 あそこに積んで在る藁《わら》と、竹と、紙ずくめの運動会用具を積み重ねて、△△△△を振りかけます。それから裸蝋燭を△△△△に濡れた畳の上にジカに置いて、二十分もしたらそこいら中が火の海になるようにして置きます。それから××××をタップリと浸した綿で顔を蔽《おお》うて、積み重ねた燃料の下に潜り込むつもりです。私は揮発油を嗅いでも、すぐにフラフラになる性分ですから××××を沢山《たくさん》に嗅いだら、まだ火事にならないうちに麻酔し過ぎて、ほんとうに死んでしまうかも知れません。
 森栖校長先生……。
 私はこうして貴方から女にして頂いた御恩をお返し致します。それと一緒に、私の愛する心からの愛人、殿宮アイ子さんに、ほんとうの意味の親孝行をさせて上げたいのです。私はこうして、すべてを清算しなければ、モトの虚無に帰る事が出来ないのです。
 どうぞ火星の女の置土産、黒焦少女の屍体をお受け取り下さい。
 私の肉体は永久に貴方のものですから……ペッペッ……。



底本:「少女地獄」角川文庫、角川書店
   1976(昭和51)年11月30日初版発行
   1990(平成2)年2月20日26版発行
入力:ryoko masuda
校正:もりみつじゅんじ
2000年1月12日公開
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