青空文庫アーカイブ

白くれない
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)中心《なかご》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)夏|肥《ぶと》りの

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)白くれない[#「くれない」に傍点]の

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いよ/\腕を磨き
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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[#以下の「残怨白紅花盛 余多人切支丹寺」は罫で囲む]

      残怨白紅花盛
       余多人切支丹寺

「ふうん読めんなあ。これあ……まるで暗号じゃないかこれあ」
 私は苦笑した。二尺三寸ばかりの刀の中心《なかご》に彫った文字を庭先の夕明りに透かしてみた。
「銘《めい》は別に無いようだがこの文句は銘の代りでもなさそうだ。といって詩でもなし、和歌《うた》でもなし、漢文でもないし万葉仮名でもないようだ。何だい……これあ……」
「へえ。それはこう読みますんだそうで……残る怨み、白くれない[#「くれない」に傍点]の花ざかり、あまたの人を切支丹《キリシタン》寺……とナ……」
 私はビックリしてそう云う古道具屋の顔を見た。狭心症にかかっているせいか、一寸《ちょっと》した好奇心でも胸がドキドキして来そうなので、便々たる夏|肥《ぶと》りの腹を撫でまわして押鎮《おししず》めた。
 幇間《ほうかん》上りの道具屋。瘠せっこちの貫七|爺《じい》は済まし返って右手を頭の上に差上げた。支那扇をパラリと開いて中禿のマン中あたりを煽ぎ初めた。私はその顔を見い見い裸刀身《はだかみ》を無造作に古鞘に納めた。
「大変な学者が出て来たぞ……これあ。イヤ名探偵かも知れんのうお前は……」
「ヘエ。飛んでもない。それにはチットばかり仔細《わけ》が御座いますんで……ヘエ。実はこの間、旦那様からどこか涼しい処に別荘地はないかと、お話が御座いましたので……」
「ウンウン。実に遣り切れんからねえ。夏になってから二貫目も殖えちゃ堪まらんよ」
「ヘヘヘ。私なんぞはお羨しいくらいで……」
「ところで在ったかい。いい処が……」
「ヘエ。それがで御座います。このズット向うの清滝ってえ処でげす」
「清滝……五里ばかりの山奥だな」
「ヘエ。市内よりも十度以上お涼しいんで夏知らずで御座います。そのお地面の前には氷のような谷川の水がドンドン流れておりますが、その向うが三間幅の県道なんで橋をお架《か》けになればお宅のお自動車《くるま》が楽に這入ります。結構な水の出る古井戸や、深い杉木立や、凝ったお庭|造《づくり》の遺跡《あと》が、山から参いります石筧《いしがけひ》の水と一所に附いておりますから御別荘に遊ばすなら手入らずなんで……」
「高価《たか》いだろう」
「それが滅法お安いんで……。まだそこいらに御別荘らしいものは一軒も御座いませんが、その界隈の地所でげすと、坪、五円でもいい顔を致しませんのに、その五六百坪ばかりは一円でも御《おん》の字と申しますんで……ヘエ。話ようでは五十銭ぐらいに負けはせぬかと……」
「プッ……馬鹿にしちゃいけない。そんな篦棒《べらぼう》な話が……」
「イエイエ。それが旦那。シラ真剣なんで……ヘエ。それがその何で御座います。今から三百年ばかり前に焼けた切支丹寺と申しますものの遺跡《あと》なんだそうで……ヘエ」
「フウム。切支丹寺……切支丹寺ならドウしてソンナに安いんだい」
「それがそのお刀の彫物の曰く因縁なんで……ヘエ。白くれない[#「くれない」に傍点]って書いて御座んしょう。その花を念のため、ここに持って参いりました。これが花でコチラが実と葉なんで……ちょと隠元豆に似ておりますが」
「ううむ。花の色は白いといえば白いが、実の恰好がチット変テコだなあ。紫色と緑色の相《あい》の子みたいじゃないか。妙にヒネクレて歪んでいるじゃないか」
「ところが実を申しますとこの花の方が問題なんで……とても凄いお話なんで……ヘエ」
 と云ううちに貫七爺は眼の球《たま》を奥の方へ引込まして支那扇を畳んだ。その表情が東京の寄席で聞いた何とかいう怪談屋の老爺《おやじ》にソックリであった。
「……ヘエ。その切支丹寺の焼跡《あと》になっております地面は、只今のところズット麓の方に住んでおりまする区長さんの名義になっておりまするが、その区長さんのお庭先に咲いておりますくれない[#「くれない」に傍点]の花と申しますのはこれなんで……ヘエ。御覧の通り葉の形から花の恰好まで白い方の分とソックリで御座いますが、ただ花の色だけが御覧の通り血のように真赤なんで……昔からくれない[#「くれない」に傍点]の花と申して珍重されていたものだそうで御座います。ヘエ。その切支丹寺でも三百年前にこの花を植えていたそうで御座いますが、その寺で惨酷《むご》い殺され方を致しました男だか、女だかが死に際にコンナ事を申しましたんだそうで……この怨みがドンナに深いか、お庭のくれない[#「くれない」に傍点]の花を見て思い知れ。紅《くれない》の花が白く咲いているうちは俺の怨みが残っていると思えってそう云ったんだそうで……でげすから只今でもその焼跡《あと》に咲いておりますくれない[#「くれない」に傍点]の花だけは御覧の通り真白なんだそうで御座います」
「プッ……夏向きの怪談じゃないか丸で……どうもお前の話は危なっかしいね。マトモに聞いてたら損をしそうだ」
「ヘエ。どんな事か存じませんが証拠は御覧の通りなんでヘエ。……でげすから村の連中は子供でもそのキリシタン寺の地内へ遊びに遣りませんそうで……あの地内でウッカリ転んだりすると破傷風になるとか、何とか申しましてナ……」
「フウム。そんな事が在るもんかなあ今の世の中に……」
「ヘエ。何だか存じませんが三百年前にその切支丹寺で、没義道《もぎどう》に殺された人間の白骨が、近所界隈の山の中から時々出て来るそうで御座います。梅雨時分になりますと、よく人魂《ひとだま》が谷々を渡りまして、お寺の方へ参りますそうで……ヘエ。手前共も怖《こ》おう御座んしたが、思い切ってその荒地の中へ立ち入りまして、スッカリ見て参じました。序《ついで》に御参考までもと存じまして、方丈の跡らしい処に咲いておりましたこの花を摘《つ》んで参いりましたんで……何しろ珍らしい、お話の種と思いましたから……ヘエ」
 貫七爺は、そう云って又眼玉を凹ました。扇を開いて汗掻いた頭を上の方から煽ぎ初めた。
 私はイクラカ薄気味わるく、その白くれない[#「くれない」に傍点]の花を抓《つま》み上げてみた。
「ふうむ。俺の知っている奴が九州大学の農学部に居るからこの紅《あか》と白の花を両方とも送ってやろう。おんなじ花が植えた処によって違った色に咲くような事実が在り得るかどうか聞いてやろう。怪談なんてものは、ちょとしたネタから起るもんだからね」
「ヘエ。それが宜しゅうがしょう。案外掘ってみたら切支丹頃の珍品が出て来るかも……」
「馬鹿。商売気を出すなよ」
「ヘヘヘ。千両箱なんぞが三つか四ツ……」
「大概にしろ。そんな事あドウでもいい。それよりも問題はこの刀身《かたな》だ」
 私は、今一度、古鞘から裸刀身《はだかみ》を引出した。
「いい刀身《かたな》だよ。磨《とぎ》は悪いがシャンとしている。中心《なかご》は磨上《すりあげ》らしいが、しかし鑑定には骨が折れるぞコイツは……」
「ヘヘヘ、……そう仰言ればもう当ったようなもんで……」
「黙ってろ……余計な文句を云うな。ふうむ。小丸気味の地蔵帽子で、五《ぐ》の目《め》の匂足《におい》が深くって……打掛疵《うちかけきず》が二つ在るのは珍らしい。よほど人を斬った刀だな。先ず新藤五《しんとうご》の上作と行くかな……どうだい」
「……ヘイ。結構でげすが、新藤五は皆様の御鑑定の行止まりなんで……ヘエ」
「零点《イヤ》なのかい……ウーム。驚いたよ。お前は知っているのかい作者《うちて》を……」
「ヘエ。存じております。この刀身《かたな》だけの本阿弥《いえもと》なんで……ヘエ」
「ムウム。弱ったよ。関でもなしと……一つ直江志津《なおえしづ》と行くかナ」
「ヘエッ。恐れ入りました。二本目当り八十点……この福岡では旦那様お一人で……」
「おだてるなよ。しかし直江志津というと折紙でも附いているのかい本阿弥《ほんあみ》さん」
「ヘヘ。……それがその……折紙と申しますのはこのお書付《かきつけ》なんで……ヘエ」
 貫七爺は懐中から新聞紙に包んだ分厚い罫紙の帳面を取出した。生|漉《ずき》の鳥の子で四五帖分はある。大分古いものらしい。
「どこに在ったんだい。そんなものが」
「ヘエ。やはり今申しました区長さんの処に御座いましたんで……何でもその区長さんと申しますのが太閤様時代からその村の名主さんだったそうで……」
「成る程。その人が地所と一所《いっしょ》にこの刀を売りに出したんだな」
「ヘエ。当主があんまり正直過ぎて無尽《むじん》詐欺に引っかかったんだそうで……」
「それじゃこの帳面は刀身《かたな》と一所に貰っといていいんだナ」
「ヘエ。どうぞ。まあ内容《なか》を御覧なすって……私どもにはトテも読めない、お家様で御座います」
「ふうむ。待て待て……」
 私は書見用の眼鏡をかけて汚染《しみ》だらけの白紙の表紙を一枚めくってみた。(註曰。以下掲ぐる文章は殆んど原文のままである。読み難《にく》い仮名を本字に、本字を仮名に、天爾遠波《てにをは》の落ちたのを直し補った程度のものに過ぎない)

    片面鬼三郎《かたつらおにさぶらう》自伝

 われ生まれて神仏を信ぜず。あまたの人を斬りて罪業を重ね、恐ろしき欺罔《ゲレン》の魔道に迷ひ入り、殺生《せつしやう》に増《まさ》る邪道に陥り行くうち、人の怨みの恐ろしさを思ひ知りて、われと、わが身を亡ぼしをはんぬ。その末期《まつご》の思ひに、われとわが罪を露《あら》はし、思ふ事包まず書残して後の世の戒めとなし、罪障懺悔のよすがともなさむとて、かくなむ。

 父母の御名は許し給ひねかし。
 われは肥前唐津の者。門地高き家の三男にて綽名を片面鬼三郎となん呼ばれたる者也。
 後陽成天皇の慶長十三年三月生る。寛永六年の今年五月に死するなれば足かけ二十五年の一生涯なり。
 わが事を賞むるも愚かしけれど、われ生得みめ容《かたち》、此上《こよ》なく美はしかりしとなり。されども乳母の粗忽とか聞きぬ。三歳の時、囲炉《ゐろり》に落ちしとかにて、右の半面焼け爛《たゞ》れ、偏《ひと》へに土塊《つちくれ》の如く、眉千切れ絶え、眥《まなじり》白く出で、唇、狼の如く釣り歪みて、鬼とや見えむ。獣とか見む。われと鏡を見て打ち戦《をのゝ》くばかりなり。
 されば名は体を顕《あら》はし、姿は心を写すとかや。われ生ひ立つに連れて、ひがみ強く、言葉に怨みあり。われながら、わが心の行末を知らず。両親に疎まれ、他人にあなづられて、心の僻《ひが》み愈々|増《まさ》り募《つの》るのみなりしが、たゞ学問と、武芸の道のみは人並外れて出精し、藩内の若侍にして、わが右に出づる者無し。もとより柔弱なる兄等二人の及ぶ処に非ず。一年《ひとゝせ》、御城内の武道試合に十人を抜きて、君侯の御佩刀《みはかせ》、直江志津《なほえしづ》の大小を拝領し、鬼三郎の名いよ/\藩内に振ひ輝きぬ。
 さる程に此事を伝へ聞きし人々、おのづから、われに諛《へつら》ひ寄り来るさへをかしきに、程なく藩の月番家老よりお召出《めしだし》あり。武芸学問、出精抜群の段御賞美あり。年頃ともならば別地を知行し賜はるべし。永く忠勤を抽《ぬき》ん出《づ》可き御沙汰を賜はりしこそ笑止なりしか。
 もとより、われは一握り程の碌米《ろくまい》の為に、忠勤を抽出《ぬきんで》んとて武芸、学問を出精せるに非ず。半面鬼相にもあれ、何にもあれ。美しき女を数多《あまた》侍らせ、金殿玉楼に栄燿の夢を見つくさむ事、偏《ひと》へにわが学問と武芸にこそよれ。容貌《おもて》、醜しとあれば疎み遠ざかり、あざみ笑ひ、少しの手柄あれば俄かに慈《いつく》しみ、へつらひ寄る、人情紙の如き世中《よのなか》に何の忠義、何の孝行かある。今に見よ。その肝玉を踏み潰し、吠面《ほえづら》かゝし呉れむと意気込みて、いよ/\腕を磨きければ二十一歳の冬に入りて指南役甲賀昧心斎より柳生流の皆伝を受くるに到りぬ。
 此時、われに縁談あり。藩内二百石の馬廻り某氏《なにがしうぢ》の娘御《むすめご》にしてお奈美殿となん呼べる今年十六の女性なりしが、御家老の家柄にして屈指の大身なる藤倉大和殿夫婦を仲人に立て、娘御の両親も承知の旨答へ来りし体《てい》、何とやらむ先方より話を進め来りし気はひなり。
 われ何となく心危ぶみて、自身に藤倉大和殿御夫婦を訪《おとな》ひ、お奈美殿は藩内随一の御|綺倆《きりやう》とこそ承れ。いまだ一度の御見合ひを遂げざるに御本人の御心|如何《いかゞ》あらむ。相手の婿がねが某《それがし》なる事、屹度、御承知に相違御座なきやと尋ねし処、藤倉殿申さるゝ様。奈美女殿の母親は当家より出でたるものにて、奈美女と、われ等夫婦とは再従妹《またいとこ》の間柄に当れり。何条《なんでう》粗略なる事致すべき。殊に奈美女は孝心深き娘なり。両親さへ承知すれば何の違背かあるべき。這《こ》は決して仲人口《なかうどぐち》に非ず。申さば御身のお手柄とも見らるべし。左様なる事、若き人の口出しせぬものぞかし。一切をわれ等に任せて安堵されよと言葉をつくしたる説明《ことわけ》なり。われも強ひて抗《あらが》ひ得ずして、成り行く儘に打ち任せつゝ年を越えぬ。
 かくて兎も角も其夜となり、式ども滞《とゞこほり》なく相済み、さて嫁女と共に閨《ねや》に入るに、彼《か》の嫁女奈美殿、屏風の中にひれ伏してシミ/″\と泣き給ふ体《てい》なり。われ胸を轟かしつゝ、今宵の婿がね、此の片面鬼三郎なりし事、兼ねてより御承知なりしやと尋ねしに、奈美殿、涙ながらに頭を打振り給ひて、否とよ。何事も妾《わらは》は承り侍らず。何事も母上様がと云ひさして又も、よゝとばかり泣き沈まるゝ体なり。因《ちなみ》に奈美殿の母親は継母《まゝはゝ》なり。しかもお生家《さと》が並々ならぬ大身なる処より、嬶《かゝあ》天下の我儘一杯にて、継子|苛《いぢ》めの噂もつぱら[#底本では「もっぱら」]なる家なり。されば最初よりかゝる事もやあらむと疑ひ居りし我は、恥かしさ、口措《くちを》しさ総身にみち/\て暫時《しばし》、途方に暮れ居たりしが、やがて嫁女奈美殿の前に両手を支《つか》へつ。此の粗忽はわが不念《ぶねん》より起りし事なり。平に許させ給ふべしと、詫言するとひとしく立上り、奥の間にて喜びの酒酌み交し居りし仲人、藤倉大和殿夫婦を右、左に斬り倒ふし、うろたへ給ふ両親をかへりみて、われ乱心したりとばし思召《おぼしめ》されなよ。今一人斬るべき者の候間、そを見てわが心を知らせ給へ。孝不孝はかへりみる処に非ず。虚偽は男子の禁物なり。鬼三郎の一念、今こそ思ひ知り給へやと云ひ棄てゝ走り出で、奈美殿の両親の家を訪《おとな》ひ、驚きて迎へに出で来る継母御を玄関先に引捕へて動かせず。静かに鬼三郎の云ふ事を聞き給へ、義理の娘が憎《に》くさの余り、生家方《さとかた》の威光を借りて、かゝる縁談を作り上げ、吾を辱かしめ給ひしに相違あるまじ。その御自慢のお家柄、藤倉殿御夫婦は唯今討果したるばかりなり。性根を据ゑて返答し給へ。如何に/\と問ひ詰むるに、黙然として答無し。すなはち一刀の下に首を打落して玄関に上り、物蔭にて打|戦《をのゝ》き給ふ奈美殿の父御を探し出し、やよ。岳父御《しうとご》よ。よく聞き給へ。此度の事は泰平の御代に武道を忘れ、縁辺の手柄を頼《たより》に出世を望み給ひし御身の柔弱より出でし事ぞかし。今夜斬りし三人の顔触れを見給はゞ奈美殿の清浄潔白は証明《あかし》立つ可し。安心して引取り給へ。われは生涯、女を絶ち、おとなしき娘御の孝心に酬いまゐらすべし。さらば/\と云ひ棄てゝ其の家を出で、夜もすがら佐賀路に入り、やがて追ひ縋り来りし数多の捕手《とりて》を前後左右に切払ひつゝ山中に逃れ入り、百姓の家に押入りて物を乞ひ、押借り強盗なんどしつゝ早くも長崎の町に入りぬ。

 長崎は異人群集の地、商売繁昌の港なり。わが如き者は日本に在りては国の災ひ也。異国に渡りて碧眼奴《あをめだま》どもを切り従へむこそ相応《ふさは》しけれと思ひ定めつ。渡船の便宜《よすが》もがなと心掛け歩《あ》りくうち、路用とても無き身のいつしか窮迫の身となりぬ。詮方《せんかた》無さに町道場に押入りて他流試合を挑み、又は支那人の家に押入りて賭場荒しなぞするうちに、やがて春となりし或る日の午の刻下りのこと諏訪山下、坂道の途中にて一人の瘠せ枯れたる唐人の若者に出会ひしに、しきりに叩頭して近付き来る。何事やらむと立佇《たちと》まれば慌しく四隣《あたり》を見まはし、鮮やかなる和語に声を秘《ひそ》めつゝ、御頼み申上げ度き一儀あり。枉《ま》げて吾が寝泊りする処まで御足労賜はりてむやと、ひたすらに三拝九拝する様なり。すなはち心得たる体にて彼《か》の唐人に誘はれ行くに、港の入口、山腹の中途に聳え立つ南蛮寺の墓地に近く、薬草の花畑を繞《めぐ》らしたる一軒の番小舎あり。その中に山の如く積み上げたる藁の束を押し分けて、いと狭き落し戸より、真暗き石段を降り行けば、やがて美くしく造り飾りたる窖《あなぐら》に出でぬ。得も云はれず芳ばしき煙、夢の如く棚引き籠もれり。
 其処までわれを誘ひ入れし若き唐人は、やがて吾を長崎随一の漢薬商、黄駝となん呼べる唐人に引合はせぬ。
 其の黄駝といへる唐人、同じく三拝九拝して、われに頼み入る処を聞けば別儀に非ず。六神丸の秘方たる人胆《ひとぎも》の採取なり。男女二十歳以上三十歳までの生胆金二枚也。二十歳以下十五歳まで金三枚也。十五歳より七歳まで五枚也。七歳以下金十枚といふ話也。
 黄駝は肥大、福相の唐人。恭しくわれに銀器の香煙を勧むるに、弁舌滑らかにして甘脂の如し。此の六神の秘方は江戸の公方、京都の禁裡の千金の御命を救ひ参らせむ為に、年々|相調《あひとゝの》へて献上仕るもの。虫螻《むしけら》と等しき下賤の者の生命《いのち》を以て、高貴の御命を延ばし参ゐらせむ事、決して不忠の道に非ず。貴殿の御武勇を以て此事を行ひ賜はらば一代の御栄燿《ごええう》、正に思ひのまゝなるべしと、言葉をつくして説き勧むるに、われ、香煙の芳香《にほひ》にや酔ひたりけむ。一議に及ばず承引《うけひ》きつ。其夜は其の花畑の下なる怪しき土室《あなぐら》にて雲烟、恍惚の境に遊び、天女の如き唐美人の妖術に夢の如く身を委せつ。
 眼ざめ来れば、身は南蛮寺下の花畑の中に在り。茫々|乎《こ》として万事、皆夢の如し。わが曾て岳父御《しうとご》に誓ひし一生|不犯《ふぼん》の男の貞操は、かくして、あとかたも無く破れ了んぬ。
 われ此時、あまりの浅ましさに心|挫《くじ》け、武士の身に生れながら、生胆《いきぎも》取りの営業《なりはひ》を請合ひし吾が身の今更におぞましく、情なく、長崎といふ町の恐ろしさをつく/″\と思ひ知りければ、今は片時も躊躇《ためら》ふ心地せず。そのまゝ南蛮寺を後にして、諏訪神社の石の鳥居にも背《そがひ》を向け、足に任せて早岐の方を志す。山々の段々畠に棚引く菜種、蓮花草の黄に紅に、絶間なく揚る雲雀《ひばり》の声に、行衛も知らぬ身の上を思ひ続けつゝ、幾度となく欠伸し、痴呆《うつけ》の如くよろめき行く様《さま》ひとへに吾が生胆《いきぎも》を取られたる如し。
 さる程に不思議なる哉。いまだ左程に疲れもやらぬ正午下《ひるさが》りの頃ほひより足の運び俄かに重くなりて、後髪《うしろがみ》引かるゝ心地しつ。昨日吸ひたる香煙《かうえん》の芳ばしき味ひ、しきりになつかしくて堪へ難きまゝに、われにもあらず長崎の方へ踵《くびす》を返して、飛ぶが如く足を早むるに、夢うつゝに物思ひ来りし道程《みちのり》なれば、心覚え更に無し。今来し道を人に問ひ/\引返し行く程に、いつしか、あらぬ山路に迷ひ入りけむ、行けども/\人家見えず。されども香煙のなつかしさは刻々に弥増《いやまさ》り来りて今は心も狂はむばかり。胸轟き、舌打ち乾き、呼吸《いき》も絶えなむばかりなり。
 折ふし薪を負ひて、さがしき岩道を降り来れる山乙女あり。われ半面を扇にて蔽ひつゝ、その乙女を呼び止めて、長崎へ行く道を問ふに、乙女は恥ぢらひつゝ笠を取り、いと懇《ねんごろ》に教へ呉れぬ。彼《か》の長崎にて見し紅化粧したる天女たちとは事変り、その物腰のあどけなさ、顔容《かほばせ》のうひ/\しさ、青葉隠れの初花よりも珍らかなり。
 われ、かく思ひつゝも恭しく礼を返し、教へられし方に立去らむとせしが、又、忽ちに心変りつ。四隣《あたり》に人無きを見済まして乙女の背後より追ひ縋り、足音を聞いて振り返る処を、抜く手を見せず袈裟掛《けさが》けに斬り倒ふし、衣服を剥ぎて胸を露《あら》はし、小束《こづか》を逆手《さかで》に持ちて鳩骨《みぞおち》を切り開き、胆嚢《たんなう》と肝臓らしきものを抉《ゑぐ》り取りて乙女の前垂に包み、傍の谷川にて汚れたる手足と刀を洗ひ浄めつゝ一散に山を走り降り、胆《きも》の主《あるじ》が教へ呉れし通りに山峡の間を抜け、村里と菜種畠をよぎり行くに、やう/\にして日の暮れつ方、灯火《ともしび》美くしき長崎の町に到り着きつ。夕暗《ゆふやみ》の中に彼《か》の花畑の中の番小舎の扉を叩きぬ。
 番人の瘠せ枯れたる若き唐人、驚き喜びて迎へ入るゝに、下の土室《あなぐら》にて待兼ねたる黄駝の喜びは云ふも更なり。わが携へたる生胆を一眼見るより這《こ》は珍重なり。お手柄なり。たしかに十七八歳なる乙女の生胆なりとて、約束の黄金三枚を与へしのみかは、香煙、美酒、美肴に加ふるに又も天女の如き唐美人の数人を饗応《もてな》し与へぬ。その歓待《もてなし》、昨日にも増り(以下原文十行抹殺)。
 かくて年月を経《ふ》るうちに鉄の如くなりしわが腕の筋も、連日連夜の遊楽に疲れけむ。やう/\に弱り行く心地しつ。されども彼《か》の香烟の酔ひ醒めの心地狂ほしさはなか/\に切先《きつさき》の冴え昔に増《まさ》る心地して、血に餓うるとは是をや云ふらむ。毎日正午ともなれば人一人斬らでは止み難く、斬れば早や香煙に酔ひたる心地して、南蛮寺下の花畑に走り行く。心は現世の鬼畜、悪魔、外道に弥増《いやまさ》るやらむ。身は此世ならぬ極楽夢幻の楽しみ。阿羅岐《あらき》の蘇古珍《スコチン》酒、裸形《らぎやう》の妖女に溺れつくして狂乱、泥迷に昼夜を頒《わか》たねば、使ふに由なき黄金は徒らに積り積るのみ。すなはち人知れず稲佐の大文字山に登り行き、只《と》有る山蔭の大岩の下に埋め置きつ。早や数百金にもなりつらむと思ふ頃、その中より数枚を取り出し、丸山の妓楼に上り、心利きたる幇間に頼みて、彼《か》の香煙の器械一具と薬の数箱を価貴《たか》く買入れぬ。こは人に知らせじと思ひし、わが人斬りの噂、次第に高まり来りて、いつしか長崎奉行、水尾甲斐守の耳に入りしと覚しく、与力、手先のわれを見送る眼付き尋常ならざるに心付き、人知れず身を晦まさむ時の用意に備へたるものにぞありける。

 去る程に其の春の末つ方の事なりけり。何の故にかありけむ。此の長崎にて切支丹の御検分《おんあらため》ことのほか厳しくなり、丸山の妓楼の花魁《おいらん》衆にまで御奉行、水尾様御工夫の踏絵の御調べあるべしとなり。当日の模様、物珍らしきまゝに、われも竹矢来の外の群集に打ちまじりて見物するに、今しも丸山一の大家、初花楼《はつはなろう》の太夫職にして、初花《はつはな》といふ今年十六の全盛なる少女が、厳めしき検視の役人の前にて踏絵を踏む処なりとて人々、息も吐《つ》きあへず見守り居る体《てい》なり。
 初花太夫は全盛の花魁姿。金襴、刺繍の帯、裲襠《うちかけ》、眼も眩ゆく、白く小さき素足痛々しげに荒莚《あらむしろ》を踏みて、真鍮の木履《ぼくり》に似たる踏絵の一列に近付き来りしが、小さき唇をそと噛みしめて其の前に立佇《たちと》まり、四方より輝やき集まる人々の眼を見まはし、恐ろし気に身を震はして心を取直し居る体なり。
 傍の下役人左右より棒を構へ、声を揃へて大喝一声、
「踏めい……踏み居らぬか」
 と脅やかすに初花は忽ち顔色蒼白となりつ。そを懸命に踏み堪《こら》へて、左褄高々と紮《から》げ、脛《はぎ》白《しろ》き右足を擡《もた》げて、踏絵の面《おもて》に乗せむとせし一刹那、
「エイツ……」
 と一声、足軽の棒に遮り止められ、瞬く間に裲襠を剥ぎ取られて高手小手に縄をかけられつ。母《かゝ》しやま/\と悲鳴を揚げつゝ竹矢来の外へ引かれ行けば、並居る役人も其の後よりゾロ/\と引上げ行く模様《さま》、今日の調べはたゞ初花太夫一人の為めなりし体裁《ていたらく》なり。
 われ不審晴れやらず。思はず傍《かたはら》を顧るに派手なる浴衣着たる若者あり。われと同じき思ひにて茫然と役人衆の後姿を見送れる体《てい》なり。われ其の男に向ひて独言《ひとりごと》のやうに、
「絵を踏まむとせしものを、何故に切支丹なりとて縛《いまし》めけむ」
 とつぶやきしに彼《か》の若者、慌しく四周《あたり》を見まはし、首を縮め、舌を震はせつゝ教へけるやう、
「御不審こそ理《ことわり》なれ。彼《か》の初花楼の主人|甚十郎兵衛《じんじろべゑ》と申す者。吾家《わがや》には切支丹を信ずる者一人も候はずとて、役人衆に思はしき袖の下を遣はざりしより、彼《か》の様なる意地悪き仕向けを受けたるものに候。あはれ初花太夫は母御の病気を助け度さに身を売りしものにて、この長崎にても評判の親孝行の浪人者の娘に候。之《これ》に引比べて初花楼の主人甚十郎兵衛こそ日本一の愚者にて候へ。すこしばかりの賄賂《まひなひ》を吝《を》しみし御蔭にて憐れなる初花太夫は磔刑《はりつけ》か火焙《ひあぶ》りか。音に名高き初花楼も取潰しのほか候まじ」
 と声をひそめて眼をしばたゝきぬ。此の若者の言葉、生粋の長崎弁にて理解し難かりけれど、わが聞取り得たる処は、おほむね右の通りなりき。
 さて其|後《のち》、程もなく初花楼の初花太夫が稲佐の浜にて磔刑《はりつけ》になるとの噂、高まりければ、流石《さすが》の鬼畜の道に陥りたるわれも、余りの事に心動きつ。半信半疑のまゝ当日の模様を見物に行くに、時は春の末つ方、夏もまだきの晴れ渡りたる空の下、燕飛び交ふ稲佐の浜より、対岸《むかうぎし》の諏訪様のほとりまで、道といふ道、窓といふ窓、屋根といふ屋根には人の垣を築きたるが如く、その中に海に向ひて三日月形に仕切りたる青竹の矢来に、警固、検視の与力、同心、目附、目明《めあかし》の類、物々しく詰め合ひて、毬棒《いがばう》、刺叉《さすまた》林の如く立並べり。その中央の浪打際に近く十本の磔柱《はりつけばしら》を樹《た》て、異人五人、和人五人を架け聯《つら》ねたり。異人は皆黒服、和人は皆|白無垢《しろむく》なり。
 時|恰《あたか》も正午に近く、香煙に飢ゑたる、わが心、何時《いつ》となく、くるめき弱らむとするにぞ、袂に忍ばせたる香煙の脂《あぶら》を少しづゝ爪に取りて噛みつゝ見物するに、異人たちは皆、何事か呪文の如き事を口ずさみ、交る/\天を傾《あふ》ぎて訴ふる様、波羅伊曾《はらいそ》の空に在《ま》しませる彼等の父の不思議なる救ひの手を待ち設くる体なり。されども和人の男女達はたゞ、うなだれたるまゝにて物云はず。早や息絶えたる如く青ざめたるあり。たゞ五人の中央に架《か》けられたる初花太夫が、振り乱したる髪の下にてすゝり上げ/\打泣く姿、此上もなく可憐《いぢ》らしきを見るのみ。その左の端に蓬たる白髪を海風に吹かせつゝ低首《うなだ》れたるは初花の母親にやあらむと思ひしに、果せる哉。時刻となり。中央の床几より立上りたる陣羽織物々しき武士が読み上ぐる罪状を聞くに、初花の母親が重き病床より引立てられしもの也。又、初花の右なる男は初花楼の楼主。左なる二人の女は同楼の鴇手《やりて》と番頭新造にして、何《いづ》れも初花の罪を庇《かば》ひし科《とが》によりて初花と同罪せられしものなりと云ふ。初花楼に対するお役人衆の憎しみの強さよと云ふ矢来外の人々のつぶやき、ため息の音、笹原を渡る風の如くどよめく有様、身も竦立《よだ》つばかりなり。
 やがて捨札《つみとが》の読上げ終るや、矢来の片隅に控へ居りし十数人の乞食ども、手に/\錆びたる槍を持ちて立上り来りアリヤ/\/\/\と怪しき声にて叫び上げつゝ初花太夫を残したる九人の左右に立ち廻はり、罪人の眼の前にて鑓《やり》先をチヤリ丶/\と打ち合はし脅やかす。これ罪の最《もつとも》重きものを後に残す慣はしにて、かくするものぞとかや。
 その時、今まで弱げに見えたる初花、磔刑柱《はりつけばしら》の上にて屹度《きつと》、面《おもて》を擡《もた》げ、小さき唇をキリ/\と噛み、美しく血走りたる眥《まなじり》を輝やかしつゝ乱るゝ黒髪、颯《さつ》と振り上げて左右を見まはすうち、魂切《たまぎ》る如き声を立てゝ何やら叫び出《いだ》せば、海を囲《かこ》める数万の群集、俄《にはか》にピツタリと鳴りを静め、稲佐の岸打つ漣の音。大文字山を越ゆる松風の音までも気を呑み、声を呑むばかりなり。
「皆様……お聞き下さりませ。
 わたくしは此の長崎で皆様の御ひいきを受けました初花楼の初花と申す賤しい女で御座りまする。
 今年の今月今日、十六歳で生命《いのち》を終りまする前に、今までの御ひいきの御礼を皆様に申上げまする。
 なれども私は亡きあとにて皆様の御弔ひを受けやうとは存じませぬ。たとひ、どのやうな悪道、魔道に墜《お》ちませうとも此の怨みを晴らさうと存じまする。
 皆様お聞き下されませ。
 わたくしは切支丹ゆゑに殺されるのでは御座いませぬ。大恩ある母上様を初め、御いつくしみ深い御楼主様、鴇母様《おばしやま》、新造様《あねしやま》までも皆、お役人衆のお憎しみの為めに、かやうに磔刑《はりつけ》にされるので御座りまする。
 私は日本《ひのもと》の女で御座りまする。父母《ちゝはゝ》に背《そむ》かせ、天子様に反《そむ》かせる異人の教へは受けませぬ。タツタ一人……タツタ一人の母様《かゝしやま》の御病気を治療《ような》し度いばつかりに、身を売りましたのが仇になつて……そこにお出でになる御役人|衆《しゆ》のお言葉に靡きませなんだばつかりに……かやうに日の本の恥を、外《と》つ国《くに》までも晒すやうな……不忠、不孝なわたくし……」
 苦痛の為にかありけむ。初花の言葉は此処にて切れ/″\に乱れ途切れぬ。
 石の如くなりて聞き居りし役人|輩《ども》は此時、俄かに周章狼狽し初めたるが、そが中にも、罪状を読み上げたりし陣羽織の一人は、采配持つ手もわなゝきつゝ立上り、
「それ非人|輩《ども》……先づ其の女から」
 と指図すれば「あつ」と答へし憎くさげなる非人二人、初花の磔刑柱《はりつけばしら》の下に走り寄り、槍を打ち合はする暇もなく白無垢の両の脇下より、すぶり/\と刺し貫けば鮮血さつと迸り流るゝ様、見る眼も眩《くら》めくばかり、力余りし槍の穂先は両肩より白く輝き抜け出でぬ。
 あはれ初花は全く身に大波を打たせ、乱髪を逆立《さかだ》たせ渦巻かする大苦悶、大叫喚のうちに、
「……母《かゝ》しやま……済みませぬツ」
 と云ふ。その言葉の終りは唐紅《からくれなゐ》の血となりて初花の鼻と唇より迸り出づる。
 続いて残る九人の生命《いのち》が相次ぎて磔刑柱《はりつけばしら》の上に消え行く光景《ありさま》を、眼も離さず見居りたるわれは、思はず総身水の如くなりて、身ぶるひ、胴ぶるひ得堪へむ術《すべ》もあらず。わなゝく指にて裾を紮《から》げ、手拭もて鉢巻し、脇差の下緒《さげを》にて襷《たすき》十字に綾取る間もあらせず。腕におぼえの直江志津を抜き放ち、眼の前なる青竹の矢来を戞矢《かつ》々々と斬り払ひて警固のたゞ中に躍り込み、
「初花の怨み。思ひ知れやつ」
 と叫ぶうち手近き役人を二三人、抜き合せもせず斬伏《きりふ》せぬ。
 素破《すは》。狼藉よ。乱心者よと押取《おつと》り囲む毬棒《いがばう》、刺叉《さすまた》を物ともせず。血振ひしたるわれは大刀を上段に、小刀を下段に構へて嘲《あざ》み笑ひつ、
「やおれ役人|輩《ども》。よつく承れ。
 役人の無道を咎むる者無きを泰平の御代とばし思ひ居るか。かほどの無道の磔刑《はりつけ》を、怨み悪《にく》む者一人も無しとばし思ひ居るか。
 われこそは生肝取りの片面鬼三郎よ。汝等が要らざる詮議立てして、罪も無き罪人を作る閑暇《ひま》に、わが如き大悪人を見逃がしたる報いは覿面《てきめん》。今日、此のところに現はれ出でたる者ぞ。これ見よやつ」
 と叫ぶとひとしく名作、直江志津の大小の斬れ味鮮やかに、群がり立つたる槍襖《やりぶすま》を戞矢《かつし》々々と斬り払ひ、手向ふ捕手《とりて》役人を当るに任せて擲《なぐ》り斬り、或は海へ逐《お》ひ込み、又は竹|矢来《やらい》へ突込みつゝ、海水を朱《あけ》に染めて闘へば、四面数万の見物人は鯨波《げいは》を作つて動揺《どよ》めき渡る。さて逃ぐる者は逃ぐるに任せつつ、死骸狼藉たる無人の刑場を見まはし、片隅に取り残されたる手桶|柄杓《ひしやく》を取り上げ、初花の磔刑柱《はりつけばしら》の下に進み寄りて心静かに跪き礼拝しつ。
「やよ。初花どの。霊あらば聞き給へ。御身の悪念は此の片面鬼三郎が受継ぎたり。今の世の悪念は後の世の正道たるべし。痛はしき母上の御霊《みたま》と共に、心安く極楽とやらむへ行き給へ。南無幽霊頓性菩提」
 と念じ終つて柄杓の水を、血にまみれたる初花の総身に幾杯となく浴びするに、数万の群集の鬨《とき》を作つて湧き返る声、四面の山々も浮き上るばかりなり。
 さて、わが身も心ゆくまで冷水を飲み傾くるに、其の美味《うま》かりし事今も忘れず。折ふし向岸の諏訪下の渡船場《わたし》より早船にて、漕ぎ渡し来る数十人の捕吏《とりて》の面々を血刀にてさし招きつゝ、悠々として大文字山に登り隠れ、彼《か》の大判小判の包みと、香煙の器具一式とを取出して身に着け、鞘を失ひし脇差を棄てゝ身軽となり、兼ねてより案内を探り置きし岨道《そばみち》伝ひに落ち行く。
 かくて其夜は人里遠き山中に笹原の露を片敷きて、憐れなる初花の面影と共寐しつ。明くれば早くも肥前一円に蜘蛛手の如く張り廻されし手配りを、彼方《かなた》に隠れ、此方《こなた》に現はれ、昼|寝《い》ね、夜起きて、抜けつ潜りつ日を重ね行くうちに、いつしか思ひの外なる日田《ひた》の天領に紛れ入りしかば、よき序《ついで》なれと英彦山《ひこさん》に紛れ入り、六十六部に身を扮装《やつ》して直江志津の一刀を錫杖に仕込み、田川より遠賀《をんが》川沿ひに道を綾取《あやど》り、福丸といふ処より四里ばかり、三坂峠を越えて青柳の宿《しゆく》に出でむとす。
 既に天下のお尋ね者となりし身の尋常の道筋にては逃るべくもあらず。青柳より筑前領の大島に出で、彼処《かのところ》より便船を求めて韓国《からくに》に渡り、伝へ聞く火賊《くわぞく》の群に入りて彼《か》の国を援け、清《しん》の大宗の軍兵に一泡噛ませ呉れむと思ひし也。
 人の運命より測り知り難きはなし。
 われ、かく思ひて其の夜すがら三坂峠を越え行くに、九十九折《つゞらをり》なる山道は、聞きしに勝る難所なり。山気漸く冷やかにして夏とも覚えず。登り/\て足下を見れば半刻ほど前に登り来りし道、蜿々として足下に横たはれり。飴色の半月低く崖下に懸れるを見れば、来《こ》し方《かた》、行末《ゆくすゑ》の事なぞ坐《そゞ》ろに思ひ出でられつ。流るゝ星影、そよぐ風音にも油断せずして行く程に何処《いづこ》にて踏み迷ひけむ。さまで広からぬ道は片割月の下近く、山畠の傍なる溜池のほとりに行き詰まりつ。引返さむとして又もや道をあやまりけむ。山道次第に狭まり来りて、猪、鹿などの踏み分けしかと覚ゆるばかり。山又山伝ひに迷ひめぐりて行くうちに、二十日月いつしか西に傾き、夜もしら/″\と明け離るれば、遥か眼の下の山合《やまあひ》深く、谷川を前にしたる大きやかなる藁屋根あり。浅黄色なる炊煙ゆる/\立昇りて半《なかば》眠れるが如き景色なり。
 扨《さて》は人家ありけるよと打喜び、山|岨《そば》の道なき処を転ぶが如く走り降り、やゝ黄ばみたる麦畑を迂回《まは》りつゝ近付き見るに、これなむ一宇の寺院にして、山門は無けれど杉森の蔭に鐘楼あり。前庭の洒掃《さいさう》浄らかにして一草一石を止めず。雨戸を固く鎖《とざ》したる本堂の扁額には霊鷲山《りやうじゆさん》、舎利蔵寺《しやりざうじ》と大師様の達筆にて草書したり。方丈の方へ廻り行くに泉石の按配、尋常《よのつね》ならず。総|檜《ひのき》の木口|数寄《すき》を凝《こ》らし、犬黄楊《いぬつげ》の籬《まがき》の裡《うち》、自然石の手水鉢《てうづばち》あり。筧《かけひ》の水に苔|蒸《む》したるとほり新しき手拭を吊したるなぞ、かゝる山中の風情とも覚えず。又、方丈の側面の小庭に古木の梅あり。その形豆に似て、真紅の花を着けたる蔓草、枝々より梢まで一面に絡み付きて方丈の屋根に及べるが、流石《さすが》に山里の風情を示せるのみ。
 われ此等《これら》の風情を見て何となく不審に堪へず。一めぐりして庫裡《くり》の辺《ほとり》より、又も前庭に出で行かむとする時、今の籬の裡《うち》なる手水鉢の辺《あたり》に物音して人の出で来る気はひあり。此《この》寺の和尚にやあらん。如何なる風体の坊主にやと件《くだん》の蔓草の葉蔭より覗き見るに、出で来るものは和尚に非ず。籬《まがき》の隙間より洩れ来るは色白く、眉青く、前髪より水も滴らむばかりの色若衆の、衣紋《えもん》仇《あだ》めきたる寝巻姿なり。白魚の如き指をさしのべて筧の水を弄《もてあそ》ぶうちに、消ゆるが如く方丈に入り、内側より扉をさし固むる風情なり。
 われ余りの事に呆れ果て、茫然と佇みて在りしが、物好きの心俄かに高まり来りて止み難くなりつ、何気なく前庭に出づるに、早くも起き出でし寺男と思《おぼ》しく、骨格逞ましく、全身に黥《いれずみ》したる中老人が竹箒を荷《かつ》ぎて本堂の前を浄め居り。
 われ其《その》男に近づきて慇懃《いんぎん》に笠を傾け、これは是《こ》れ山路に踏み迷ひたる六部也。あはれ一飯の御情に預り、御本堂への御つとめ許し賜はらば格別の御|利益《りやく》たるべしと、念珠、殊勝|気《げ》に爪繰《つまぐ》りて頼み入りしに彼《か》の寺男、わが面体《めんてい》の爛れたるをつく/″\見て、まことの非人とや思ひけむ、他意も無げにうち黙頭《うなづ》きつ。此処《ここ》は筑前国、第四十四番の札所《ふだしよ》にして弘法大師の仏舎利《ぶつしやり》を納め給ひし霊地なり。奇特の御結縁なれば和尚様の御許しを得む事|必定《ひつぢやう》なるべし。暫く待たせ給へとて竹箒を投げ棄て庫裡の方へ入り行きぬ。
 それより何事を語らひたりけむ。やゝ暫くありて本堂の中に大きやかなる足音聞こえつ。やがて本堂の正面の格子扉《かうしど》を音荒らかに開きたる者を見れば、年の頃五十には過ぎしと思はるゝ六尺豊かの大入道の、真黒き関羽《くわんう》鬚を長々と垂れたるが、太く幅広き一文字眉の下に炯々《けい/\》たる眼光を輝やかして吾を見上げ見下す体なり。やがて莞爾として打ち笑ひ、六部殿、庫裡の方よりお上りなされよ。御勤めも去る事ながら夜もすがらの御難儀、定めし御空腹の事なるべし。昨夜の残りの粟飯なりとまゐらせむと云ふ。その音吐《おんと》朗々として、言葉癖、尋常ならず。一眼にて吾が素性を見貫《みぬ》きたるものの如くなり。
 されども、われ聊《いさゝ》かも悪びれず。言葉の如く庫裡に入りて笈《きふ》を卸し、草鞋《わらぢ》を脱ぎて板の間に座を占め、寺男の給仕する粟飯を湯漬《ゆづけ》にして、したたかに喰ひ終り、さて本堂に入りて持参の蝋燭を奉り、香を焚きて般若心経、観音経を誦《じゆ》する事各一遍。つく/″\本尊の容態《ようだい》を仰ぎ見るに驚く可し。一見尋常一様の観世音菩薩の立像の如くなるも、長崎にて物慣れし吾《わが》眼には紛《まぎ》れもあらず。光背の紋様、絡頸《らくけい》の星章なんど正しく聖母マリアの像なり。さてはと愈々《いよ/\》心して欄間《らんま》の五百羅漢像をかへり見るに、これ亦一つとして仏像に非ず。十二使徒の姿に紛れも無し。かゝる山間の、人の通ふとも見えぬ小径の奥に立て籠もり、禁断の像を祭り居る今の和尚は、よも一筋縄にかゝる曲者《くせもの》にはあらじ。よし/\吾に詮術《せんすべ》あり。吾を敵《かたき》とせば究竟の敵《かたき》とならむ。又味方とするならば無二の味方となるべしと心に深く思ひ定めつ。何喰はぬ面もちにて殊勝気に礼拝し終り、さて和尚に請《しやう》じらるゝまゝに庫裡に帰りて板の間に荒|菰《こも》を敷きつゝ和尚と対座し辞儀を交して煎茶を啜《すす》るに、和尚座を寛《くつろ》げ、われにも膝を崩させて如何にも打解けたる体にもてなし、旅の模様を聞かせよと云ふ。
 われ些《すこ》しも躊躇せず。われは御覧の通り、面相の醜きより菩提心を起して仏道に入りし者なりとて、空言《そらごと》真事《まごと》取り交ぜて、尋常の六部らしく諸国の有様を物語るに、聞き終りし和尚は関羽鬚を長々と撫で卸しつ。呵然として大笑して曰《いわ》く。こは面白き御仁に出で会ひたるものかな。われ平生より人の骨相を見るに長《た》け、界隈の人に請はるゝまゝに、その吉凶禍福を占ひ、過去現在未来の運命を説くに一度も過《あやま》つ事なし。今、御辺の御人相を見るに、只今の御話と相違せる事、雲泥も啻《たゞ》ならず。思ふ事、云はで止みなむも腹ふくるゝ道理。的中《あた》らずば許し給へかし。御辺は廻国の六十六部とは跡型《あとかた》も無き偽り。もとは唐津藩の武士にして本名は知らず。片面鬼三郎にて通りし人也。嫁女の事より人を殺《あや》め、長崎に到りて狼藉の限りをつくされしが、過ぐる晩春の頃ほひ、丸山初花楼の太夫、初花の刑場を荒らし、天地の間《かん》、身を置くに所無く、今日《こんにち》此処《このところ》に迷ひ来られし人と覚《おぼ》し。如何にや。わが眼識。誤りたるにやと嘲笑《あざわら》ひて、威丈高《ゐたけだか》にわれを見下したる眼光、鬼神も縮み上る可き勢なり。
 されども、われ些しも驚きたる頗色《けしき》をあらはさず。莞爾として笑み返しつ。如何にも驚き入つたる御眼力。多分お上より触れまはされし人相書を御覧《ごらう》じたるものなるべし。半面の鬼相包むべくもあらず。如何にも吾こそは片面鬼三郎と呼ばるゝ日本一の無調法者に候。さりながら、われ長崎に居りたる甲斐に、唐人の秘法を習ひ覚え、家相を見るに妙を得たり。すなはち此の寺の相を観《み》るに、是《こ》れまことの天台宗の寺に非ず。本尊は聖母マリアにして羅漢は皆十二使徒なり。美しき稚児《ちご》を養ひて天使に擬《なぞら》ふる御辺の御容体は羅馬《ローマン》加特里克《カトリク》か、善主以登《ゼスイト》か。いづれにしても禁断の邪教、切支丹《キリシタン》婆天蓮《バテレン》の輩《ともがら》に相違あるまじと云ひ放つ。その言葉の終らぬうちに和尚の血相忽然として一変し、一間ばかり飛び退《しさ》りて、懐中《ふところ》に手を入れしと見る間に、金象眼したる種子島《たねがしま》の懐中《ふところ》鉄砲を取出し、わが胸のあたりに狙ひを付くる。しかも眼を定めてよく見れば、長崎にて噂にのみ聞きし南蛮新渡来の燧器械付《ひうちぎかいつき》、二|聯筒《れんづゝ》なり。使ひ狃《な》れたる和尚の物腰、体の構へ、寸毫の逃るゝ隙も見えざりけり。
 さては此の和尚。天台寺の住寺とは佯《いつは》り。まことは切支丹《キリシタン》婆天蓮《バテレン》の徒《ともがら》と思ひしが、それも佯《いつは》り。そのまことは、かゝる山中に潜み隠れ居る山賊夜盗の首領なりしかと今更に肝を消しつ。片面鬼三郎生年二十四歳、此処に生命《いのち》を終るかと観念の眼を閉ぢむとする折しもあれ、和尚の背後、方丈に通ふ明障子《あかりしやうじ》の半《なかば》開きたる間より紫色の美しき物影チラ/\と動けり。最前見たる色若衆《いろわかしゆ》と思《おぼ》しく半面をあらはして秘かに打ち笑《ゑ》みつ。手真似にて斬れ/\。その鉄砲は無効々々《だめだめ》と手を振る体なり。
 扨《さて》は天の助くる処か。心は神業《かみわざ》。運命は悪魔のわざとこそ聞け。一か八かと思ふ間あらせず。背後の上り框《かまち》に立架《たてか》けたる錫杖取る手も遅く、仕込みたる直江志津の銘刀抜く手も見せず。真正面より斬りかゝる。その時、和尚の手中の火打《ひうち》種子島《たねがしま》、パチリと音せしのみにて轟薬発せず。その毛だらけなる熊の如き手首、種子島を握りたるまゝ、わが切尖《きつさき》にかゝりて板の間へ落ち転《ころ》めけば、和尚悪獣の如き悲鳴を揚げ、方丈の方《かた》へ逃げ行かむとするに、彼《か》の若衆、隔ての障子を物蔭より詰めやしたりけむ。一寸も動かず。驚き周章《あわ》てゝ押破らむとする和尚の背後より跳《をど》りかゝり、左の肩より大袈裟がけに切りなぐり、板の間に引き倒ふして止刺刀《とゞめ》を刺す。
 われ、生れて初めての強敵を刺止《しと》めし事とて、ほつと一息、長き溜息しつゝ、あたり見まはす折しもあれ最前の若衆、血飛沫《ちしぶき》乱れ流れたる明障子《あかりしやうじ》を颯《さつ》と開きて走り寄り、わが腰衣《こしごろも》に縋り付きつゝ、やよ鬼三郎ぬし。わらはを見忘れ給ひしかと云ふ。驚きて振上げし血刀を控へつゝ、よく/\見れば這《こ》は如何に。故郷唐津にて三々九度の盃済ましたるまゝ閨《ねや》の中より別れ来りし彼《か》の花嫁御お奈美殿にぞありける。
 こは夢か。まぼろしか。如何にして斯《か》かる処に居給ふぞ。此の和尚は御身の如何なる縁故《えにし》に当る人ぞと畳みかけて問ひ掛くるに、その時、お奈美殿の落付きやう尋常ならず。そのお話は後より申上ぐべし。まづ/\此の死骸を片付くるこそ肝要ならめ。参詣の人々の眼に止まりなば悪《あ》しかりなむ。こや/\馬十よ/\。お客様に水参ゐらせぬか。荒縄持ちて来らずやと手をたゝくに、最前の逞ましき寺男、勝手口より落付払ひて、のそ/\と入り来り、改めてわれに一礼し、柄杓《ひしやく》の水を茶碗に取りてわれにすゝめ、和尚の死骸を情容赦もなくクル/\と菰《こも》に包み、荒縄に引つくゝりて土間へ卸しつ。さて血潮にまみれたる障子と板の間を引き剥がし、裏口を流るゝ谷川へ片端《かたはし》より投込む体《てい》、事も無げなる其面《そのおも》もち。白痴か狂人かと疑はれ、無気味にも亦恐ろしゝ。
 かゝる間に若衆姿の奈美殿は、方丈の方《かた》の寝床を片付けて、われを伴ひ入り、かぐはしき新茶をすゝめつゝ語るやう。さるにても御身の唐津を立|退《の》き給ひし時、申すも恥かしき吾が不躾《ぶしつけ》、御咎めも無く、わが心根を察し賜はりて、継母と仲人への怨《うらみ》を晴らし賜はりし男らしき御仕打ち、今更に勿体なく有難く、これをしも恋心とや云ふらん。恐ろしかりし鬼三郎ぬしの御顔ばせ夜毎、日毎に頼もしく神々しく、面影に立ち優り侍《はべ》り。
 さは去りながら其折の藩内の騒動は一方ならず。御身の御両親も、わが父君も家道不取締の廉《かど》を以て程なく家碌を召し放され給ひつ。そが中に御身の御両親、御兄弟の御行末は如何《いかゞ》ありけむ。わが身は父上と共に家財を売代《うりしろ》なし、親子の巡礼の姿となりて四国路さして行く程もなく、此の山中に迷ひ入り、此の寺に一夜の宿を借り候ひぬ。
 去る程に此寺の住持なりし彼《か》の和尚は、もと高野山より出でたる真言の祈祷師にて御朱印船に乗りて呂宋《ルソン》に渡り、彼《かの》地にて切支丹の秘法を学び、日本に帰りて此の廃寺を起し、自ら住持となりし万豪|阿闍梨《あじやり》と申す者に侍《はべ》り。先程より察し給へる如く、世にも恐ろしき悪僧にして、山々の尾根/\を駈けめぐる事、わが庭内の如く、火打鉄砲にて峠々の旅人を脅やかし殺し、奪ひ取りし金銀財宝を本堂の床下に積み蓄へ、女と見れば切支丹秘法の魔薬にかけて伴ひ来り、有無を云はさず意に従へ、共々に快楽に耽《ふけ》り、やがて又、新しき女性を捕へ来れば、前なる婦人を彼《か》の寺男、馬十に与へて弄《もてあそ》ばさせ、遂には打殺させて山々谷々の窮隈々々《くゞま/\》に埋めさせ来りしもの。五月雨《さみだれ》の生暖かき夜なんどは彼方の峯、此方《こなた》の山峡《やまかひ》より人魂の尾を引きて此《この》寺の方へ漂ひ寄り来るを物ともせぬ強気者《したゝかもの》に候ひしが、妾《わらは》を見てしより如何様にか思ひ定めけむ。
 その翌《あく》る朝早く、父上は吾が身の行末を頼む由仰せ残されて四国へ旅立ち給ひぬとて、ひたすらに打泣く妾《わらは》をいたはり止めつ。今より思へば殺し参ゐらせたらむやも計り難けれど、世知らぬ乙女心のおぞましさに其《その》時は夢更《ゆめさら》心付き候はず。これはこれ切支丹の煙草|唖妣烟《オヒエム》なり。これを吸ひて睡り給はば、旅路を行き給ふ父上の御姿見ゆべしなぞ仮りて喫はせられし香はしき煙に酔ひて眠るともなく眠り候ひしが、その間に吾身は悲しくも和尚のものと成り果てはべり。
 さる程に不思議なる哉、一度《ひとたび》、吸ひし唖妣烟《オヒエム》の酔ひ心地、その日より身に泌み渡りて片時も忘るゝ能はず。妾は父上の御事、鬼三郎ぬしの御事、又は明日《あす》をも計り知られぬ身の行末の事など、跡かたもなく忘れ果てゝ此寺に留まり、和尚の心のまゝに身を任せつゝ、世にも不思議なる年月を送り侍りぬ。
 又、彼《か》の馬十と呼べる下男は此処より十里ばかり東の方、豊前小倉城下の百姓にて、宮|角力《ずまふ》の大関を取り、無双の暴れ者なりし由。仲間の出入りにて生命《いのち》危ふかりしを万豪和尚に救はれしものに侍り。和尚の与へし切支丹煙草、唖妣烟《オヒエム》を吸ひしより以来《このかた》、魂|虚洞呂《うとろ》の如くなりて心獣の如く、行ひ白痴の如し。たゞ/\牛馬の如く和尚の命に従ひて、此寺の活計《なりはひ》、走使《はしりづか》ひなぞを一心に引受け居り候ひし者。その後、妾、此寺に来りし後は、何となく妾を慕ひ居るげにて、和尚の言葉よりも、わが云ひ付けをのみ喜び尊み、事あれば水火をも辞せざる体《てい》に侍り。まことに不憫の者と存じ候へ。
 さる程に妾、虫の知らせにかありけむ。今朝《けさ》は、いつにも似ず早く眼醒めつ。御身の此寺に近付き給へるを垣間見《かいまみ》、如何はせむと思ひ惑ひ候ひしが、所詮、人間道を外れし此身。神も仏も此世には在《ま》しまさずかし。今は何ともならばなれと思ひ定めて和尚の枕元なる種子島の弾丸、轟薬を二つながら抜取り、代りに唾液《つば》にて噛みたる紙玉を詰め置き、扨《さて》、和尚を揺起して、かく/\の人、六部の姿して此寺に来ませしと、世間の噂、取り交ぜて告げ知らせしに和尚、打喜ぶ事|一方《ひとかた》ならず。好的々々《よし/\》。汝《な》が昔の恋人を血膾《ちなます》にして、汝《なれ》と共に杯を傾けむ。外道《げだう》至極の楽しみ、之《これ》に過ぎしと打笑ひつゝ起上りしが、遂に妾が計略に掛かりて、今の仕儀となり果て終りしものに侍り。
 かく浅ましく汚れし身の昔を語るも恥かしや。さるにても鬼三郎ぬし。恋は昔にかはらぬものを。かく成り果てし吾身《わがみ》をいとしと思ひ給はぬにか。御身の思召《おぼしめし》一つにて、わらはの思ひ定むる道も変りなむ。わらはの真心の程は、和尚の死骸《なきがら》を見ても眼《ま》のあたりに思ひ知り給ふべしと、思ひ詰めたる女の一念。眥《まなじり》を輝やかす美くしさ。心も眩むばかり也。
 われ喜ぶ事一方ならず。思はずお奈美殿の前にひれ伏しつ。有難し。忝し。世間の噂は皆|実正《まこと》なり。われと吾身に計り知られぬ罪業を重ねし身。天下、身を置くに処無し。流石《さすが》法体《ほつたい》の身の、かゝる処に来合はせし事、天の与ふる運命《さだめ》にやあらんずらん。われと解《ほど》きし赤縄《えにし》の糸の、罪に穢《よご》れ、血にまみれつゝめぐり/\て又こゝに結ぼるゝこそ不思議なれ。御身は若衆姿。わが身は円頂黒衣。罪障、悪業に埋もれ果つれども二人の思ひに穢れはあらじ。可憐《いとし》の女《ひと》よと手を取らむとすれば、若衆姿の奈美女、恥ぢらひつゝ払ひ除《の》け。心|急《せ》き給ふ事なかれ。まづ此方《こちら》へ入らせ給へ。見せ申すべきものありとて、われを本堂の内陣に誘ひ、壇に登りてマリア像の肩に両手をかけ、おもむろに前へ引き倒ふすに、その脚の下の蓮台と思《おぼ》しきものの辺《あたり》、左右に引き開け、階段の降り口、大きく開けたり。その下へ二人して降り行くに一度倒ふれしマリア像は自から共に立ち帰りたるらし。階段は真の闇となりて足音のみぞ、おどろ/\しくより増《まさ》りける。
 奈美女、わが手を取りて其の中を二三間ほど歩み降り行くに、土中の冷気身に泌みて知らぬ世界へ来し心地しつ。やがて彼女の手より閃めき出でし蘭法|附木《つけぎ》の火、四方に並べし胡麻《ごま》燈油の切子硝子《きりこ》燈籠《とうろ》に入れば、天井四壁一面に架け列《つら》ねしギヤマン鏡に、何千、何百となく映りはえて、二十余畳にも及ぶべき室内、さながらに白昼の如く、緞子《どんす》の長椅子、鳥毛《とりげ》の寝台、絹紗の帳《とばり》、眼を驚かすばかりなり。又青貝の戸棚に並びたるは珍駄婁《ちんだる》の媚酒、羅王中《ロワンチユン》の紅艶酒。蘇古珍《スコチン》の阿羅岐《アラキ》焼酎。ギヤマン作りの香煙具。銀ビイドロの水瓶。水晶の杯なぞ王侯の品も及ばじな。前の和尚の盗み蓄《たくは》めにやあるらむ。金銀小判大判。新鋳の南鐐銀のたぐひ花模様絨氈の床上に散乱して、さながらに牛馬の余瀝《よれき》の如し。
 そが中に突立ちたる奈美女は七宝の大香炉に白檀の一塊を投じ、香雲|縷々《るゝ》として立迷ふ中より吾をかへりみて、かや/\と笑ひつゝ、此の部屋の楽しみ、わかり給ひしかと云ふ。
 流石《さすが》のわれ言句も出でず。総身に冷汗する事、鏡に包まれし蟇《がま》の如く、心動顛し膝頭、打ちわなゝきて立つ事能はず。ともかくも一度、方丈に帰らむとのみ云ひ張りて、逃ぐるが如くマリア像の下より這ひ出でしこそ笑止なりしか。
 されどもわれ、つひに此の外道《げだう》の惑ひを免るゝ能はず。此の寺に踏み止まりて奈美女と共に昼夜をわかたず、冬あたゝかく夏涼しき土窖《つちぐら》の中に、地獄天堂を超えたる不可思議の月日を送り行くに怪しむ可し、一年《ひととせ》の月日もめぐらさぬうちに、何時《いつ》となく気力衰へ来る心地しつ。万豪和尚より習ひ覚えしといふ奈美女の優れたる竹抱、牛血、大蒜《にんにく》、人参、獣肝、茯苓草《ぶくりやうさう》のたぐひを浴びるが如く用ふれども遂に及ばず。果ては奈美女の美しく化粧せる朝夕のうしろ姿を見る事、虎狼よりも恐ろしく思はるゝやうになり来りぬ。

 こゝに不思議なるは、彼《か》の寺男の馬十なり。
 彼《か》の男、毎日|未《ひつじ》の刻より申《さる》の刻に到る間の日盛りは香煙を吸ふと称して何処へか姿を消しつ。そのほかは常に未明より起き出で、田畠を作り、風呂を湧かし、炊爨《すいさん》の事を欠かさず。雨降れば五六里の山道を伝ひて博多に出で、世上の風評を聞き整へ、種々《くさ/″\》の買物のほかに奈美女の好む甘き菓子、珍らしき干物《ひもの》、又は何処《いづこ》より手に入れ来るやらむ和蘭《オランダ》の古酒なんどを汗みづくとなりて背負ひ帰るなんど、その忠実々々《まめ/\》しさ。身体の究竟《くつきやう》さ。まことに奈美女の為ならば生命《いのち》も棄て兼ねまじき気色なり。
 さはさりながら奇怪千万にも馬十は、われを主人とは思ひ居らざるにやあらんずらん。わが云ひ付けし事は中々に承《う》け引かず。わが折入つて頼み入る事も、平然と冷笑《あざわら》ふのみにして、捗々《はか/″\》しき返答すら得せず。奈美女の言葉添なければ動かむともせざる態《さま》なり。われ其の都度に怒気、心頭に発し、討ち捨て呉れむと戒刀《かいたう》を引寄せし事も度々なりしが、さるにても彼を失ひし後の山寺の不自由さを思ひめぐらして辛くも思ひ止まる事なりけり。
 然るに此の山寺に来てやゝ一年目の今年の三月に入り、わが気力の著じるく衰へ来りしより以来《このかた》、彼の馬十の顔を見る毎に、怪しく疑ひ深き瞋恚《しんに》の心、しきりに燃え立ちさかりて今は斯様《かう》よと片膝立つる事|屡々《しば/\》なり。後は何ともならばなれ。わが気力の衰へたるは、此《この》程、久しく人を斬らざる故にやあらんずらん。さらば此《この》男の血を見たらむには、わが気力も昔に帰りてむかなぞ、日毎に思ひめぐらし行くうちに此の三月の中半《なかば》の或る日の事なりき。
 頬冠りしたる彼《か》の馬十、鍬を荷《かつ》ぎてわが居る方丈の背面《うしろ》に来り、彼《か》の梅の古木の根方を丸く輪形に耕して、豆のやうなる種子を蒔き居り。その上より下肥《しもごえ》を撒きかけて土を覆ひまはるに、その臭き事限りなく、その仕事の手間取る事、何時《いつ》果つべしとも思はれず。
 われ思はず方丈の窓を引き開きて言葉鋭く、何事をするぞと問ひ詰《なじ》りしに、馬十かたの如く振り返り、愚かしき眼付にてわれを見つめつゝ、もや/\と嘲《あざ》み笑ふのみ。頓《とみ》には応《いら》へもせず。やがて不興気なる面《おも》もちにて黄色なる歯を剥き出し、低き鼻尻に皺を刻みつ。這《こ》は和蘭陀《オランダ》伝来のくれなゐ[#「くれなゐ」に傍点]の花の種子を蒔くなり。此等《これら》の秘蔵の種子《たね》にして奈美殿の此上《こよ》なく好み給ふ花なり。此《この》村の名主の家のほか他所《よそ》には絶えて在る事無し。此処《こゝ》に蒔き置けば、夏の西日を覆ひ、庭の風情ともなるべきぞや。去年の春、此処《こゝ》へ迷ひ来給ひし時、見知り給ひしなるべし。毎年の事なり。暫く辛棒し給へ。臭くとも他人の垂れしものには非《あら》ざるべしと云ふ。扨《さて》は彼《か》の時の珍花の種子を此《この》男の取置きしものなりしかと思ひけれども、何とやらむ云ひ負けたる気はひにて心納まらず。小賢《こざか》しき口返答する下郎かな。腹の足しにもならぬ花の種子を蒔きて無用の骨を折らむより此《この》間、申し付けし庫裡《くり》の流し先を掃除せずや。飯粒、茶粕の類《たぐ》ひ淀み滞《とゞこほ》りて日盛りの臭き事|一方《ひとかた》ならず。半月も前に申付けし事を今以て果さぬは如何《いか》なる所存にか。主人に向ひて口答へする奴。その分には差し置かぬぞと睨《ね》め付くれば、彼《か》の馬十首を縮めて阿呆の如く舌を出し。われはお奈美様をこそ主人とも慕ひ、女神様とも仰ぎ来つれ。御身の如き片輪《かたは》風情の迷ひ猫を何条《なんでう》主人と思はむや。御身が此の馬十を憎み、疑ひ咀《のろ》へる事を、われ早くより察し居れり。打ち果さむとならば打ち果し給へ。万豪和尚様の御情にて生き伸び来りし此の生命《いのち》。何の惜しむ処かあらむ。たゞ後にて後悔し給はむのみと初めて吐きし雑言《ざふごん》に今は得堪へず。床の間の錫杖取る手も遅く直江志津を抜き放ち、縁側より飛び降りむとせしに、背後の庫裡の方よりあれよとばかり、手を濡らしたる奈美女走り出で、逸早《いちはや》くわれを遮り止めつ。涙を流して云ひけるやう。こは乱心し給へるか。馬十亡き後、如何にしてわれ等が命を繋《つな》ぎ候べき。御身此頃、俄かに心弱り給へるは、左様の由無き事ども思ひ続け給へる故ぞかし。人を斬り度くば峠々に出でゝ旅人をも待ち給へかし。馬十ばかりは此寺の宝物なり。われ等が為には無二の忠臣に候はずや。身に代へて斬らせ参らする事あらじと云ふうちに、馬十と怪しげなる眼交《めくば》せして左右に別れ、われ一人を方丈に残して立去りぬ。
 さて其の後、二人とも何処《いづこ》にか行きけむ。声も無く、足音もきこえず。半刻《はんとき》あまりの間、寺内、森閑として物音一つせず。谷々に啼く山鶯の声のみ長閑《のどか》なり。
 わが疑心又もや群り起り、嫉妬の心、火の如くなりて今は得堪へず。錫杖の仕込刀《しこみ》を左手《ゆんで》に提げて足音秘めやかに方丈を忍び出で、二人を求めて跣足《はだし》のまゝ本堂の周囲を一めぐりするに、本堂の階段の下に微かながら泥の跳ね上りし痕跡《あと》あり。其処より床下へ匐ひ入り行くに積み並べたる炭俵の間に、今まで知らざりし石の階段あり。その階段の下より嗅ぎ慣れし白檀の芳香、ゆるやかに薫じ来る気はひあり。
 われ心に打ちうなづき、薄|湿《じめ》りせる石階のほの暗きを爪探《つまさぐ》りて、やゝ五六段ほど降《くだ》り行きしと思ふ処に扉と思《おぼ》しき板戸あり。その中央に方五寸ほどの玻璃《はり》板を黒き布にて蔽ひたるが嵌《は》め込み在り。いか様、窖《あなぐら》の中の様子を外より覗くたよりと為せる体《てい》なり。彼《か》の馬十が覗きしものにかあらむと心付けば、今更におぞましさ限り無く、身内に汗ばむ心地しつ。われも其の真似をするが如く、息を凝らして覗き見るに、忽然《たちまち》、神気逆上して吾が心も、わが心ならず。一気に扉を押し破りて窖《あなぐら》の中に躍り入り、呀《あ》つと逃げ迷ふ奈美女の白き胴体を、横なぐりに両断し、総身の黥《いれずみ》を躍らせて掴みかゝる馬十の両腕を水も堪まらず左右に斬り落す。続いて足を払はれし馬十は、歯を剥き眼を怒らして床上に打ち倒ふれつ。振り上ぐるわが刀を見上げつゝ吠え哮《た》けるやう。おのれ横道者。おぼえ居れ。奈美女は最初よりわが物なり。前の和尚と汝は間男なりし事を知らずや。この年月、奈美女の情により養はれ来りし恩を仇にする外道の中の外道とは汝が事ぞや。神や仏は、あらずもがな。人の一念残るものか残らぬものか今に見よ。此怨み、やはか返さでやはあるべき。その証拠に今日植ゑしくれなゐ[#「くれなゐ」に傍点]の花を今年よりは真白く咲かせて見せむ。彼《か》の花の白く咲かむ限り、此の切支丹寺に、われ等の執念残れりと思へ。此の怨み晴れやらぬものと思へと狼の吠ゆるが如く喚《わ》めき立つるを、何を世迷言《よまひごと》云ふぞ、と冷《あざ》笑ひつ。此世は此世限り。人間の死後に魂無き事、犬猫に同じきを知らずや。汝等男女こそ覿面《てきめん》の因果応報、思ひ知らずやと云ひも終らず、馬十の脳天を唐竹割にし、奈美女の死骸を打重ねて止刺刀《とゞめ》を刺し、その上より部屋の中の珍宝、奇具を片端《かたはし》より覆へして打重ねたるまゝ本堂の下を潜りて外に出で、血刀と衣服を前なる谷川に洗ひ浄めて、悠々と方丈に帰り来りぬ。
 去る程に其の日の残る半日の暮れつ方まで、われは只管《ひたすら》に恍惚として夢の中なる夢の醒めたる心地となり、何事も手に附かず、夕餉《ゆふげ》の支度するも倦《ものう》く、方丈の中央《まんなか》に仰向《あふの》きに寝《い》ね伸びて、眠るともなく醒むるとも無くて在りしが、扨《さて》、夜に入りて雨の音しめやかに、谷川の水音|弥増《いやまさ》るを聞くに付け、世にも不思議なる身の運命、やう/\に思ひ出でられつ。床に入りても眼《まなこ》、冴え/″\として眠むられず。
 眠むられぬまゝに思ふやう。神も仏も在《ま》しまさぬ此世に善悪のけぢめ求むべき様なし。たゞ現世の快楽《けらく》のみこそ真実ならめ。人の怨み、誹《そし》りなぞ、たゞ過ぎ行く風の如く、漂ふ波にかも似たり。人間万事あとかたも無きものとこそ思ひ悟りて、腕にまかせ、心に任せて思はぬ快楽《けらく》を重ね来りしわれなりしか。その行末の楽しみの相手なりし者を討ち果したらむ今は、わが身に添ひたる、もろ/\の大千世界を打ち消して涯てしも無き虚空に、さまよひ出でし心地しつ。明日よりは何を張合《はりあひ》に生きむと思へば、世にも哀れなるわが姿の、今更のやうに面影に立つさへ可笑し。
 やよ鬼三郎よ。明日より何方《いづかた》へ行かむとするぞ。汝が魂、何処《いづこ》にか在る。今までの生涯は夢なりしか。現《うつゝ》なりしか。まこと人の心に神も仏も無きものか。人の怨み、わが身の罪業を思ひ知りて神仏の御手に縋《すが》らむと思はずや。天地の大を以て見れば、さしも強豪、無敵の鬼三郎も多寡《たか》の知れたる一匹の蛆虫《うじむし》。何処《いづこ》より蠢《うご》めき来り。何処《いづこ》へ蠢めき去らむとするぞ。やよ鬼三郎。何処《いづこ》へ行くぞと。大声にて叫ぶ声、われとわが耳に入りて夢醒むれば、何時《いつ》の間にかまどろみけむ。夜は白々と明け離れて、向山《むこやま》の杉の梢に鴉の啼く声|頻《しき》り也。
 われは、それより力無く起き上り、本堂下の窖《あなぐら》に入りて、男女の屍体を数段に斬り刻み、裏山の雑木林の彼処《かしこ》此処《こゝ》に埋め終りつ。さて残りたる米を粥に作りて何の味《あじは》ひも無く腹を満たし、梅干、塩、味噌なぞを嘗めながら、日もすがら為す事も無く方丈に閉《た》て籠もり、前の和尚の使ひ残したる罫紙を綴ぢ、今までの事を斯様《かやう》に書き綴り行く程に思ひの外に筆進まず。二月がほど日を送り、早くも梅雨上りの若芽萌え立つ今日の日はめぐり来りぬ。

 さる程にわれ、今朝の昧爽《まだき》より心地何となく清々《すが/\》しきを覚えつ。小暗《をぐら》きまゝに何心なく方丈の窓を押し開き見るに、思はず呀《あつ》と声を立てぬ。
 此間馬十が植ゑ蒔きし梅の根方のくれなゐ[#「くれなゐ」に傍点]の種子、いつの間にか芽を吹きにけむ。窓の上の屋根に打ちかぶさるばかりに茂り広ごりたるが、去年《こぞ》の春見しが如き、血の色せる深紅の花は一枝も咲き居らず。屍肉の如く青白き花のみ今を盛りと咲き揃ひ居りしこそ不思議なりしか。
 此時のわが驚き、いか計《ばか》りなりけむ。彼《か》の馬十が末期に叫びし言の葉を眼の前に思ひ知りて、白日の下、寒毛竦立《かんまうしようりつ》し、心気打ち絶えなむ計《ばか》りなりしか。
 さてこそ人の怨みは此世に残るものよ。神も仏もましますものよと思へばいとゞ空恐ろしく、思はず本堂によろめき入りて御本尊の前に両手を合はせ。何事のおはしますかは知らず。申訳無く面目無し。かしこき天地の深く大なる心を凡夫の身勝手にて推《お》し計《はか》りしことのおぞましさよ。此上に生き長らへて罪業を重ねむより、死して地獄の苛責に陥《お》ち、今までの罪の報いを受けむこそ中々に心安けれ。一念《いちねん》弥陀仏《みだぶつ》、即滅《そくめつ》無量《むりやう》罪障《ざいしやう》と聞けど、わが如き極重悪人の罪を救はれざらむ事、もとより覚悟の前ぞかし。南無《なむ》摩里阿《マリア》如来《によらい》。南無摩里阿如来と両手を合はせて打泣き/\方丈に帰り来りつ。さて流るゝ涙を堰《せ》きあへず。迫り来る心を押し鎮めて此文を認《したゝ》め終りぬ。
 われ今より彼《か》の窖《あなぐら》に炭俵を詰めて火を放ち、割腹してそが中に飛入り、寺と共に焼け失せて永く邪宗の門跡を絶たむとす。たゞ此の文と直江志津の一刀のみは鐘楼の鐘の下に伏せ置き、後日の証拠《あかし》とし、世の疑ひを解かむ便《よすが》とせむ心算《つもり》なり。
 なほ刀の中心《なかご》に刻みし歌は、わが詠みしものを下の村の鍬鍛冶《くはかぢ》に賃して刻ませしもの也。唐津藩に齎《もた》らし賜はらば藩公の御喜びあるべく、此文の偽《いつはり》ならざる旨も亦明らかなるべしと思ひ計《はか》りてなせし事なり。歌の拙《つた》なきを笑ひ給ふ事なかれ。
  のこる怨み白くれなゐの花盛り
      あまたの人をきりしたん寺
  寛永六年五月吉日
                         鬼三郎しるす[#地より2字上げ]

       ×          ×          ×

 それから十四五日経ってから例の古道具屋の貫七|爺《じい》が又遣って来た。骨だらけの身体《からだ》に糊の利いた浴衣、絽《ろ》の羽織を引っかけて扇をパチパチいわせている姿は如何にも涼しそうである。
 私は夏肥りに倦《たる》み切った身体《からだ》を扇風器に預けていた。
「あの白い花の正体がおわかりになりましたでしょうか」
「ウン。わかったよ。九大農学部に僕の友人が居ると云ったね」
「ヘエヘエ。たしか加藤博士様とか」
「馬鹿。そんな事云やしないぜ。第一博士じゃない。富士川といって普通の学士だがね。所謂万年学士という奴だ。植物の名前なら知らないものはないという」
「ヘイ。エライもので御座いますな」
「そいつにあの花を送って調べさしてやったら、いくら研究しても隠元豆に相違ないと云うんだ」
「ヘエッ。どちらが隠元豆なんで……」
「どっちも隠元豆なんだ」
「テヘッ。飛んだ変幻豆でげすな」
「洒落にもならない話だよ。もっとも隠元豆にも色々あるそうで、何十通りとか変り種がある。その中でもあの紅《あか》い方のは、昔から観賞植物になっていたベニバナ・インゲンという奴で、白い方のが普通の隠元豆なんだが、素人眼《しろうとめ》には花の色を見ない限りちょっと区別が付きにくいという」
「成る程。奇妙なお話もあればあるものでげすな。ヘエ」
「まったくだよ。そこでその富士川って学士も念のために、わざわざ清滝の切支丹寺まで行って調べて来たんだそうだが、すっかり野生になっているので、いよいよ紅花隠元《べにばないんげん》に似ていたという。吾々が見たってわからない筈だよ」
「ヘエッ。どうしてソレが又、入れ代ったんで……」
「何でもない事さ。君はこの書付を読んだかい。鬼三郎の一代記を……」
「ヘエ。初めと、おしまいの方をちっとばかり拝見致しましたが」
「ウン、この中に書いてある寺男の馬十という奴が、近いうちに主人公の鬼三郎に殺される事を知っていたんだね。だから今の紅花隠元を蒔くふりをして実は普通《あたりまえ》の隠元豆を蒔いといたんだよ。ちゃんとわかっている」
「ヘエ。驚きましたね。しかし旦那様。酔狂な死に方をする奴が、あればあるもので御座いますねえ」
「それあ今だって在るよ。班長殿から死ねと云われましたと遺書を残して自殺する兵隊も居る位だからね。こんな風にヒネクレていた奴なら遣りかねないだろう。好いた女と一所に殺されて、後に祟りを残すなんて仕事が、馬十の痴呆《ほう》けた頭には、たまらなく楽しみだったかも知れないね」
「ヘエヘエ。成る程ナ。しかし旦那様。その切支丹の跡を御別荘にお求めになりますか。如何でげしょうか。実はまだ区長さんの処に下駄を預けておりまするが」
「まあ見合わせようよ。折角だが……この刀を抜いて見ただけでも妙に涼しくなって、ゾクゾクして来るようだからね。ハッハッハッハッハッハッ……」



底本:「夢野久作全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年10月22日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:ちはる
2001年4月11日公開
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