青空文庫アーカイブ

二重心臓
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)哭《な》いて

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)女優|天川呉羽《あまかわくれは》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)不明の兇漢に[#1回り大きな文字]
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   不明の兇漢に[#1回り大きな文字]
    探偵劇王刺殺さる[#2回り大きな文字]
      孤児となった女優|天川呉羽《あまかわくれは》哭《な》いて復讐を誓う
[#次3行は、文字はゴシック体、罫線は全て波線]
       ┌〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┐
       │ 秘密を孕む怪悲劇 │
       └〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┘
市内大森区山王×××番地|轟《とどろき》九蔵氏(四四)は帝都呉服橋電車通、目貫《めぬき》の十字路に聳立《しょうりつ》する分離派式五層モダン建築、呉服橋劇場の所有主、兼、日本最初の探偵恐怖劇興行者、兼、現代稀有の邪妖劇名女優、天川呉羽《あまかわくれは》嬢の保護者として有名であったが、昨三日(昭和×年八月)諾威《ノルエー》公使館に於ける同国皇帝|誕辰《たんしん》の祝賀|莚《えん》に個人の資格を以《もっ》て列席後、大森山王×××番地高台に建てられたる同じく分離派風の自宅玄関、応接間に隣る自室に於て夜半まで執務中、デスク前の廻転椅子の中で、平生同氏が机上にて使用していた鋭利な英国製|双刃《もろは》の紙切ナイフを以て、真正面より心臓部を刺貫され絶命している事が、今朝十時頃に到って発見された。急報により東京地方裁判所より貝原検事、熱海《あたみ》予審判事、警視庁の戸山第一捜索課長以下鑑識課員、大森署より司法主任|綿貫《わたぬき》警部補以下警察医等十数名|現場《げんじょう》に出張し取調《とりしらべ》を行ったが、発見者である同家小間使市田イチ子の報告により真先に死骸の傍へ駈付けた天川呉羽嬢が慟哭して復讐を誓ったにも拘わらず、犯人の目星容易に附かず。目下同邸を捜索本部として全力を挙げて調査中である。
[#ここから1字下げ]
因《ちなみ》に轟九蔵氏の原籍地は神奈川県鎌倉町|長谷《はせ》二〇三となっているが、同所附近で氏の前身を知っている者は一人も居ない。大正十年頃より三四歳の娘(今の天川呉羽嬢、本名|甘木《あまき》三枝(一九)本籍地静岡県|磐田[#底本では「盤田」と誤記]《いわた》郡|見付《みつけ》町××××番地)を連れて各地を遍歴したる後《のち》上京し、株式に手を出して忽ち巨万の富を作った。その中《うち》に三枝嬢が成長し、人も知る如き美人となったのを手中の珠と慈《いつく》しみ、同嬢のために小規模ながら大森に現在の豪華な住宅を建ててやって同居し、毎日のように同嬢を同伴して各種の興行物を見に行く中《うち》に、同氏自身、興行に興味を覚え、昭和五年の春、呉服橋劇場が不況に祟られて倒産したものを、同劇場の支配人|笠圭之介《りゅうけいのすけ》氏に勧められるまにまに買収し、甘木三枝嬢こと女優天川呉羽をスターとする一座を組織し、且、新進探偵小説家江馬兆策氏を自宅の片隅に住まわせて、同氏に同劇場の脚本を一任し、巴里《パリー》グラン・ギニョール座に傚《なら》い探偵趣味、怪奇趣味の芝居で当てるつもりであったところ、当初の三四回の成功を見たのみで爾後一向に振わず、一部少数ファンの支持を除き、一般人士には早くも飽かれてしまったらしい。そのために財産の大部分を喪い四苦八苦の状態に陥ったまま今回の兇変に遭ったもので、兇行の原因等の一切も同時に秘密の奥に封殺された形になっている。勿論、遺書等も無いらしく、劇場の権利等の遺産は多分天川呉羽嬢のものとなる模様であるが、気の毒にも同嬢は肉親の父親と同様の保護者を喪い、手も足も出ない天涯の孤児となってしまったので一般の同情を集めている。

   惜しい好敵手[#2回り大きな文字]
段原興行王 談[#ゴシック体、地付き、地より2字あげ]

それは意外な事です。気の毒な事でしたね。私にとっては唯一の好敵手を死なしたようなものです。どうしてどうして。素人上りとは思えませんよ。あの種類の芝居を、あそこまでコナシ付けて来るのは尋常一様の凄腕で出来る事ではありません。私も内心で兜《かぶと》を脱いでおりました。元来轟君は金持に似合わない精悍《せいかん》な、腕力と自信の持主で、株式界にいた頃でも百折不撓の評判男だったそうです。劇界に転じても商売柄、各種の暴力団等に脅やかされた事が度々であったのをその都度、自身で面会して武勇伝式の手段で追っ払って来た位で、強気一方の人物でしたが惜しい事でしたな。天川呉羽さんの芸ですか。あれは大した天分ですね。あんな人は二人と居りませんよ。とにも角にもあの芝居だけは止めてもらいたくないものです。仏蘭西《フランス》と日本だけですからね。大東京の誇りと云ってもいいものですからね。云々。
[#ここで字下げ終わり]

       〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜[#波罫線]

 八月四日の午後四時頃、大森山王の一角、青空に輝く樫《かし》の茂みと、ポプラの木立に包まれた轟邸の玄関の豪華を極めた応接室で、接待用らしいMCCを吸いながら、この夕刊記事に額を集めていた二人の巡査が、同時に読終ったらしく顔を上げた。どちらも大森署の巡査であるが、一人は猪村《いむら》といって丸々したイガ栗頭。大兵《たいひょう》肥満の鬚男《ひげおとこ》で、制服が張千切《はちき》れそうに見える故参《こさん》格である。これと向い合って腰を卸《おろ》した文月《ふづき》というのは蒼白い瘠せこけた、貧弱そのものみたいに服のダブダブした新米巡査で、豊富な頭髪を綺麗に分けていたが、神経質な男らしくタッタ今読棄てた夕刊の記事を今一度取上げて、最初から念入りに読直し初めた。
 猪村巡査はそうした若い巡査の熱心な態度を見ると何かしらニヤリと笑った。腮《あご》一面の無精鬚をゴリゴリと撫でまわして腕時計をチョット覗いたが、やがてブカブカした緞子《どんす》張りの安楽椅子に反《そ》りかえって長々と欠伸《あくび》をした。
「ア――ッと……ここが捜索本部と発表しとるのに、新聞記者が一向遣って来んじゃないか」
「モウ朝刊の記事を取りに来る頃ですがね」
「司法主任はここを本部と見せかけて新聞記者を追払わんと邪魔ッケで敵《かな》わんというて、そのために僕をここによこしたんじゃが、サテは感付かれたかな。近頃の新聞記者はカンがええからのう」
「司法主任は、よほどこの事件を重大視しておられるのですね」
「むろん重大だよ。被害者が被害者だし、事件の裏面によほど深い秘密があるものと睨んでいるのだからね」
「それにしては新聞記事の本文がアンマリ簡単過ぎやしませんか」
「ナアニ。新聞記者にはソンナ気ぶりも匂わしちゃおらんよ。この前よけいな事を素破抜《すっぱぬ》きやがった返報に、絶対秘密を喰わせている。二三人来た早耳の連中が、夕刊の締切が近いので、それ以上聞出し得ずに慌てて帰って行った迄の事よ。しかしそれにしては良く調べとる。コチラの参考になる事が多いようだねえ」
「ヘエ。つまりこの新聞記事以外の事は、わかっていないんでしょうか」
「馬鹿な。まだまだ重大な秘密がわかっているんだよ」
 文月巡査の眼がキラキラと光った。
「……ソノ……僕はツイ今しがた、非常で呼出されて来たばっかりで何も知らないんですが。来ると同時に署長殿からモウ帰っても宜しいと云われたんで、実は面喰《めんくら》ったまま貴方《あなた》に従《つ》いて来たんですが」
「見せてやろうか……現場を……」
「ええ。どうぞ……」
「絶対に喋舌《しゃべ》っちゃイカンよ。誰にも……」
「ハイ……大丈夫です」
「よけいな見込を立てて勝手な行動を執《と》るのも禁物だよ」
「……ハイ……要するに知らん顔しておればいいのでしょう」
「……ウン……新米の連中は警察が永年鍛え上げて来た捜索の手順やコツを知らないもんだから、愚にも付かん理屈一点張りで行こうとしたり、盲目滅法《めくらめっぽう》にアガキ廻って却《かえ》ってブチコワシをやったりするもんじゃよ。こっちへ来てみたまえ。ドウセイ退屈じゃからボンヤリしとったて詰まらん。将来の参考に見せてやろう」
「ありがとう御座います」
 二人は丸腰のまま応接間をソッと出て、直ぐ隣室になっている廊下の突当りの轟氏の居室《いま》に這入《はい》った。流石《さすが》に豪華なもので東と南に向った二方窓、二方壁の十坪ばかりの部屋に、建物の外観に相応《ふさわ》しい弧型《こけい》マホガニーの事務机《デスク》、新型木製卓上電話、海岸傘《ビーチパラソル》型電気スタンド、木枠正方型|巻上《まきあげ》大時計、未来派裸体巨人像の額縁、絹紐煽風機、壁の中に嵌め込まれている木彫《きぼり》寝台の白麻垂幕《ドロンウォーク》なぞが重なり合って並んでいるほかに、綺麗に拭き込んだ分厚いフリント硝子《ガラス》の窓から千万無数に重なり合った樫の青葉が午後の日ざしをマトモに受けてギラギラと輝き込んで来る。盛んに啼いている蝉《せみ》の声も、分厚い豪奢な窓|硝子《ガラス》に遮られて遠く、微《かす》かにしか聞こえず、壁が厚いせいであろう、暑さもさほどに感じられない。近代科学の尖端が作る妖異な気分が部屋の中一パイにシンカンとみちみちしている感じである。
「この家《うち》の中は随分涼しいんですね」
「どこかに冷房装置がしてあるらしいね……ところで見たまい。被害者はこの事務机《デスク》の前の大きな廻転椅子に腰をかけていたんだ。コレ。この通り、椅子の背中に少しばかり血が附いとるじゃろう。被害者轟九蔵氏が、昨夜遅く机にかかって仕事をしている最中に、犯人が背後から抱き付いて、心臓をグッと一突き殺《や》ったらしいんだ」
「仲々|手練《てだれ》な事をやったもんですなあ」
「ピストルを使わぬところを見ると犯人も何か後暗い疵《きず》を持っていたかも知れんテヤ」
「さあ。どんなものでしょうか」
「とにかく尋常の奴じゃないよ。急所を知っとるんじゃから」
「兇器は……」
「兇器は今、署へ押収してあるが、新聞にも掲《で》ている通りこの机の上に在った鋭い、薄ッペラな両刃《もろは》のナイフだよ。僕もその死骸に刺さっとる実況を見たがね。左の乳の下から背中へ抜け通ったままになっていた。ホラこの通りこの血の塊《かた》まりの陰にナイフの刺さった小さい痕《あと》があるじゃろう」
「刺し方が猛烈過ぎやしませんか」
「むろんだとも。相当、兇悪な奴でも不意打にコレ程深くは刺し得ない筈だよ。それに死骸の表情が非常に驚いた表情じゃったし……」
「ヘエ。殺された当時の表情は、やっぱり死骸に残るものですかなあ。よく探偵小説なんかに書いてありますが」
「残るものか。僕の経験で見ると死んだ当時の表情はだんだん薄らいで、一時間も経つとアトカタもなくなるよ。僕の見た轟氏の死相《しにがお》はスッカリ弛んで、眼を半分伏せて、口をダラリと開けたままグッタリとうなだれて机の下を覗いていたよ。僕の云うのはその手足の表情だ。ハッとして驚くと同時に虚空を掴んだ苦悶の恰好が、そのまんま椅子の肱《ひじ》で支えられて硬直しておったよ。新聞記者には向うの寝台へ寝かしてから見せたがね」
「ナイフの指紋は……」
「無かったよ。犯人は手袋を穿めていたらしいんだね。それよりも大きな足跡があったんだ。モウ拭いてしまってあるが、向うの北向きの一番左側の窓から這入って来たんだね。ところでこの辺では昨夜の二時ちょっと前ぐらいから電光《いなびかり》がして一時間ばかり烈しい驟雨《しゅうう》があったんだが、その足跡は雨に濡れた形跡がない。ホコリだらけの足跡だからツマリその足跡の主は推定、零時半|乃至《ないし》一時四十分頃までの間にあの窓から這入って来た事になる。ところで又その足跡が頗《すこぶ》る珍妙なんで、皆して色々研究してみたがね。結局、地下足袋か何かの上から自動車のチュウブ類似のゴム製の袋をスッポリと穿めて、麻糸らしい丈夫なものでグルグルと巻立てた頗る無恰好な、大きな外観のものに相違ない。それもこの家の向う角の暗闇の中で準備したものに違いない事が、そこに落ちていた麻糸の切屑で推定される……という事にきまったがね」
「手がかりにはなりませんね。それじゃあ」
「ならんよ。よく郊外の掃溜や何かに棄ててある品物だからね。なかなか考えたものらしいよ。探偵劇の親玉の処へ這入るんだからね。ハハハ……」
「最初に発見したのは小間使の……エエト……何とか云いましたね……」
「市田イチ子だろう。まだ十七八の小娘だがね。サッキ僕等を出迎えていたじゃないか……気が附かなかった……ウン。その市田イチ子が今朝《けさ》十時半過ぎだったと云うがハッキリしたことはわからん。毎朝の役目で今這入って来た扉《ドア》をたたいて主人の轟氏を起しにかかったが、何度たたいても、声をかけても返事がない。部屋の中が何となく静かで気味が悪いので、台所女中の松井ヨネ子[#底本では「子」が脱落]という女から合鍵を貰って扉《ドア》を開いてみるとイキナリ現場が見えたのでアッと云うなり扉《ドア》を閉めると、その把手《ハンドル》に縋り付いたまま脳貧血を起してしまった。そいつを朋輩の松井ヨネ子[#底本では「子」が脱落]が介抱して正気付かせて、サテ、扉《ドア》の内側を覗いて見ると、思わず悲鳴を挙げたと云うね。しかも、これは気絶するどころじゃない。キチガイのように喚《わ》めき立てながら二階へ駈上って、女優の天川呉羽に報告した……というのが、あの新聞記事以前の事実なんだがね」
「それからその天川呉羽が泣いて復讐云々の光景をドウゾ……」
「ああ。あれかい。あれは今の松井という台所女中の話が洩れたもので、多少、新聞一流のヨタが混っているよ。第一呉羽嬢は泣きもドウモしなかったというんだ」
「ヘエ。泣かなかった」
「ウン。それがトテも劇的な光景なんで、傍《そば》に立って見ていた今の松井ヨネ子は自分が気絶しそうになったと云うんだ。……ちょうどその時に天川呉羽嬢はチャント外出用の盛装をして二階の自分の部屋に納まっていたそうだが、ヨネ子の報告を聞くとソッと眼を閉じて眉一つ動かさずに聞き終ったそうだ。それから幽霊のような青い顔になって静かに立上ると、音もなくシズシズと階段を降りて、まだ倒れている市田イチ子をソッと避《よ》けながら轟氏の居間に消え込んだ。あとから松井ヨネ子が、又気絶されちゃ困ると思ってクッ付いて這入るのを、呉羽嬢は見返りもせずに死骸に近付いて、血だらけの白チョッキに刺さっている短剣の※[#「※」は「木+霸」、第3水準1-86-28、122-8]《つか》の処と、轟氏の死顔を静かに繰返し繰返し見比べていた……」
「スゴイですね」
「ウン。流石は探偵劇の女優だね。大向うから声のかかるところだよ」
「冗談じゃない……」
「それから今度は今の奇怪な足跡を、自分の足の下から這入って来た窓の方向までズウッと見送ると、轟氏の魂が出て行ったアトを見送るように恭《うやうや》しく肩をすぼめて、心持ち頭を下げた」
「ヘエ。少々変テコですね」
「まあ聞き給え。それからタシカな足取で二三歩後に退《さが》って轟氏の屍体に正面すると両手を合わせて瞑目し、極めて低い声ではあったがハッキリした口調でコンナ事を祈ったそうだ。……轟さん。妾《わたし》が間違っておりました……」
「妾が間違っていた……」
「ウン……「この敵讐《かたき》はキット妾の手で……」と……それだけ云うと又一つ叮嚀に頭を下げてから傍《そば》に立っている松井ヨネ子をかえりみた。普通の声で「お前。支配人の笠《りゅう》さんと大森の警察署へ知らして頂戴ね。御飯はアトでいいから……」という中《うち》に淋しくニッコリ笑ったという」
「ヘエエッ。豪《えら》い女があるものですね。まだ若いのに……」
「ハハハ。感心したかい」
「感心しましたねえ。第一タッタそれだけの間に、犯罪の真相を見貫《みぬ》いてしまったのでしょうか。そんな事を云う位なら警察なんか当てにしなくともいいだけの自分一個の見解を……」
「アハハ。何を云ってるんだい君は……これは彼女の手なんだよ。宣伝手段なんだよ」
「宣伝手段……何のですか」
「プッ。モウすこし君は世間を知らんとイカンね。俳優生活をやっている連中は代議士と同じものなんだよ。ドンナ不自然な機会を捉《とら》まえても自分の名前を宣伝しよう宣伝しようとつとめるのが、彼等の本能なんだ。彼等は舞台や議会だけでは宣伝し足りないんだ。所謂《いわゆる》、転んでも只は起きないというのが彼等の本能みたいになっているので、この本能の一番強い奴が名を成すことを、彼等は肝に銘じているんだよ」
「驚きましたね。そんなに非道《ひど》いものでしょうか」
「論より証拠だ。天川呉羽がコンナ絶好のチャンスを見逃す筈がないんだ。果せる哉《かな》、新聞屋連中はこうした呉羽嬢の芝居に百パーセントまで引っかかってしまって、まるで呉羽嬢の宣伝のために轟氏が殺されたような記事の書き方をしているが、吾々警察官は絶対にソンナ芝居やセリフに眩惑されちゃいけないんだよ。下手な探偵小説じゃあるまいし、名探偵ぶった天川呉羽の御祈りの文句なんかを考慮に入れたり何かしたら飛んでもない間違いを起すにきまっているんだからね。誰も相手にしてやしないよ」
「成程《なるほど》ねえ。わかりました。しかし、それにしても、まだわからない事が多いようですね」
「何でも質問してみたまえ。現場に立会ったんだから知ってる限り即答出来るよ」
「第一……にですね。あの窓を明《あ》けて這入って来た犯人が、どうしてわからなかったのでしょう被害者に……」
「ウム。豪《えら》い……そこが一番大切な現実の問題なんだよ。同時に司法主任、判検事も、首をひねっているところなんだよ。あの通り窓の締りは、捻込《ねじこ》みの真鍮棒になっとるし、あの窓枠の周囲には主人の轟氏以外の指紋は一つも無い。しかも、それがあの窓に限って念入りに、ベタベタと重なり合って附いているのだから変梃《へんてこ》だよ。よっぽど特別な……或る極めて稀な場合を想像した仮説以外には、説明の附けようがないのだ」
「ヘエ。轟氏がお天気模様か何かを見たあとで締りをするのを忘れていたんじゃないですか」
「どうしてどうして。被害者は平生から極めて用心深くて、寝がけに女中に命じて水を持って来させる時に、一々締りを附けさせるし、そのアトでも自分で検《あらた》めるらしいという厳重さだ」
「それじゃ家内の者が開けて、加害者を這入らせたとでもいうのですか」
「つまりそうなるんだ……という理由はほかでもない。この事務机《デスク》の右の一番上の曳出《ひきだし》に一梃のピストルが這入っていた。それも旧式ニッケル鍍金《めっき》の五連発で、多分、明治時代の最新式を久しい以前に買込んだものらしい。弾丸《たま》も手附かずの奴が百発ばかり在ったが、それを毎日毎日手入れをしておった形跡があるのじゃから、被害者の轟氏はズット以前から何か知ら脅迫観念に囚《とら》われておったことがわかる。それが仮りに他人から怨《うらみ》を受けているものとすれば、やはりピストルと同じ位に古い因縁であったばかりでなく、毎日毎日手入れをしておかなければならぬ位ヒドイ怨みであった事が想像出来るじゃろう。ところでその轟氏が恐れている相手が、向うの窓を轟氏の手で開けさせて這入って来たのに、轟氏はそのピストルを手にしておらぬのみならず、自分で窓の締りをあけて導き入れたものとすれば、その人間は被害者の轟氏にとって、よっぽど恐ろしい人物であったという事になる」
「そんなに恐ろしい脅迫力を持った人間が、この世の中に居るものでしょうか。自分を殺しかねない相手という事が、被害者にわかっていれば尚更じゃないですか」
「そこだよ。そこに何となく大きな矛盾が感じられるからね。判検事も司法主任も相当弱っていたらしいんだが、間もなくその矛盾が解けたんだ」
「ほう……どうしてですか」
「わからんかい」
「わかりませんねトテモ。想像を超越した恐ろしい事件としか思えませんね。これは……」
「ナアニ。それ程の事件でもなかったんだよ」
「ヘエ。どうしてわかったんです」
「その事務机《デスク》の曳出《ひきだし》を全部調べたら、右の一番下の曳出から脅迫状が出て来たんだ」
「ホオー。何通ぐらい出て来たんですか」
「それがソノ……タッタ一通なんだ。僕はよく見なかったが、司法主任の横からチョット覗いてみると普通の封緘《ふうかん》ハガキに下手な金釘《かなくぎ》流でバラリバラリと書いたものじゃったよ。表書《うわがき》は単に大森山王、轟九蔵様と書いて、差出人の処書《ところがき》も日附も何もない上に、消印《スタムプ》がドウ見てもハッキリわからん。一時は良かったが近頃の郵便局の仕事はドウモ粗慢でイカンね。司法主任はスッカリ憤《おこ》っとったよ。当局に申告して消印《スタムプ》のハッキリせぬ集配局を全国に亘って調べ出してくれると云っておったが……」
「中味にはドンナ事が書いてあったんですか」
「ただコレだけ書いてあった。大正十年三月七日……芝居ではないぞ……と……」
「大正十年三月七日……芝居じゃない……」
「ウン。そうだ。それから泣いている娘……だか何だかわからんが、世間からは娘と同様に見られとるからそのつもりで話するが……その娘の甘木《あまき》三枝こと天川呉羽嬢を呼出して、その脅迫状を見せるとコンナ字体についてはチットモ記憶がない。文句の意味も何の事やらカイモクわからぬ。前にコンナ手紙が来たような事実も記憶しておらんと云う」
「成る程。……そこでサッキの呉羽嬢のお祈りの文句に触れてみたかったですな。何か参考になる事を喋舌《しゃべ》らして……」
「ウン司法主任がチョット触れていたよ。ちょうどその時に、女中を訊問していた刑事の梅原君が、その事に就いて取あえず報告したもんだからね……すると果せる哉《かな》だ。……あれは妾《わたし》があの時|口惜《くや》し紛れにそう申しましただけの事で、女の妾に何がわかりましょう。犯人が出て行った方向を拝みましたのは、そうすると遠くに居る犯人が何となくドキンドキンとして思わぬ失策を仕出かすという迷信が、外国の芝居に使ってありましたのでツイ、あんな事を致しまして……と真赤になって弁解しておった。だから、つまり目的は宣伝に在ったのだね。これは彼等の本能なんだから、深く咎めるには当らないよ。司法主任も検事も苦笑しておったよ」
「ソレッキリですか」
「イヤ……それから呉羽嬢はコンナ事を云い出しおった。……ハッキリとは申上られませんが、轟はこの四五日前から何だかソワソワしていたように思います。今までドンナ悲況に陥っておりましても、私を見ると直ぐにニコニコして何か話かけたりしておりましたものが、この頃はソンナ気振《けぶり》も見せませぬ。ただ緊張した憂鬱な、神経質な顔をして、私が何か云おうとしましてもチラチラと瞬《またた》きした切り自分の部屋へ逃込んで行きます。もちろん、その原因は私にはわかりかねますが、轟の劇場関係と、財産[#底本では「財閥」と誤記]関係の仕事は皆、呉服橋劇場の支配人の笠圭之介《りゅうけいのすけ》さんが一人で仕切って受持っておられます。大正十年の三月七日といえば、私が三つの年の事ですから、何事も記憶に残っておりませぬ。私はその三つの年に何かの事情で、年老《としお》いた両親の手から引取られて轟の世話になって来ておりますので、それから今年までの二十年間、轟は独身のまま私を育てるために色々と苦労をしておりますが、詳しい話は存じませんと巧妙に逃げおった」
「何か隠している事があるんじゃないですか」
「それがないらしいのだ。劇場主なんちういうものは一般の例によると相当複雑な生活をしているもんじゃが、今の呉羽嬢や、女中達や、支配人の笠圭之介の話なんかを綜合すると、この被害者ばかりは特異例なんだ。轟九蔵氏に限って非常に簡単明瞭な日常生活である。劇場付の女優に手を出したり、花柳の巷《ちまた》を泳ぎまわったりするような不規則は絶対にした事がない……という証言だ。全くの独身生活者で、ただ娘分の三枝を、世界一の探偵劇スターとして売出す事以外に楽しみはなかったらしいのだ」
「ヘエ。面白いですね。そうした変態的な男と女と二人切りの生活が、全くの裏表なしに継続出来るものでしょうか」
「アハハ。ナカナカ君は疑い深いなあ。まあこっちへ来たまえ。ユックリ話そう」
 二人は又、応接間へ引返して申合わせたように又もMCCを抓《つま》んだ。
「美味《うま》い煙草だなあ。一本イクラ位するもんかなあ。二十銭ぐらいしはせんか」
「イヤ。そんなにはしないでしょう。二十銭出せば葉巻が二本来ますからね」
 二人は互いちがいにコバルト色の煙を吹上げ初めた。
「君は天川呉羽と轟九蔵の性関係を疑っとるのじゃろう」
 文月巡査が忽ち赤くなったが、そのまま微笑してうなずいた。
「ハハハ。ナカナカ隅に置けんのう君も……」
「やはり……その……何かあるんですか」
「ところが今のところ、何も疑わしいところがないんだよ」
「十分……十二分に疑ってみる必要があると思いますなあ。事によると今度の事件の核心はそこいらに在るかも知れませんからねえ」
「御高説もっともじゃが……まあ聞き給え。こうなんだよ。二人の日常生活を説明すると……これは二人の女中の陳述を綜合したものじゃが……先ず毎朝九時に娘の呉羽が先に起きて湯に這入る。女優としてはかなり早起の組だね。それから一時間ばかりかかって化粧をして、着物を着かえて出て来る」
「女中も何も手伝わないのですか」
「ウン。手伝わせるどころか、湯殿の入口をガッチリと鍵かけて、誰が来ても這入らせないそうだが、これは何か呉羽嬢が、天川一流ともいうべき秘密の化粧法を知っておって、それを他人に盗まれない用心じゃという話じゃが……」
「それは女中の話でしょう」
「そうじゃ。……一方に天川呉羽嬢に云わせると私は自分の肌を他人に見られるのが死ぬより嫌いです。無理にでも見ようとする人があったら、私は今でも自殺します……といううちにモウ、ヒステリーみたいに顔を歪《ゆが》めて眉をピリピリさせおったわい。ハハハ」
「すこし云う事が極端ですね。何か身体《からだ》に刺青《ほりもの》でもしているのじゃないでしょうか」
「そんな事かも知れんね……ところでそうやって浴室から出て来た呉羽嬢の姿を見ると、何度出合うてもビックリするくらい美しい。青々とした濃い眉が生え際に隠れるくらいボーッと長い。睫《まつげ》が又西洋人のように房々と濃い。眼が仏蘭西《フランス》人形のように大きくて、眦《まなじり》がグッと切れ上っている上に、瞳がスゴイ程真黒くて、白眼が、又、気味の悪いくらい青澄《あおず》んで冴え渡っている。その周囲を、死人《しびと》色の青黒い、紫がかったお化粧でホノボノと隈取って、ダイヤのエース型の唇を純粋の日本紅で玉虫色に塗り籠めている……」
「ハハハ。どうも細かいですなあ」
「女中がソウ云いおったのじゃからなあ……オット忘れておった。鼻がステキだと云うのだ。芝居のお殿様の鼻にでもアンナ立派な鼻はない。女の鼻には勿体ないと女中が云いおったがね。ハハハ……女じゃからそこまで観察が出来たもんじゃ。そいつが四尺近くもあろうかと思われる長い髪を色々な日本髪に結うのじゃそうなが、髪結いの手にかけると髪毛《かみのけ》が余って手古摺《てこず》るのでヤハリ自分で結うらしい」
「してみると入浴の一時間は長くないですな。寧《むし》ろ短か過ぎる位ですな」
「何でも呉羽は早変りの名人だけに、余程手早く遣るらしい。それからこの頃だと紅色の燃え立つような長|襦袢《じゅばん》に、黒っぽい薄物の振袖を重ねて、銀色の帯をコックリと締め上げて、雪のようなフェルト草履《ぞうり》を音もなく運んで浴室から出て来ると、とてもグロテスクで、物すごくて、その美くしさというものは、ちょうどお墓の蔭から抜け出た蛇の精か何ぞのような感じがする。恐怖劇の女優というが、真昼さなかに出合うてもゾーッとするのう……ハハハ……これは勿論、吾輩の感想じゃが……」
「見たいですねえ。ちょっと……そんなタイプの女は想像以外に見た事がありません」
「ハハハ。そのうち帰って来るからユックリと見るがええ。しかし惚れちゃイカンゾ」
「……相すみません……洋装はしないのですか」
「ウム。時々洋装もするらしいが、その洋装はやはり旧式で、帽子の大きい袖の長い、肌の見えぬ奴じゃそうなが、よく似合うという話じゃよ」
「ヘエ。それから今チョット不思議に思ったのですが、その呉羽嬢は湯殿の中からイキナリ盛装して出て来るのですか」
「そうらしいのう」
「妙ですね。そうすると平生着《ふだんぎ》というものを持たない事になりますね。……つまり外に出てから着かえはしないのですか……普通の女のように……」
「ハハハハ。ナカナカ君も細かいのう。探偵小説の愛読者だけに妙なところへ気が付くのう。そこまでは未だ調べが届いておらん」
「残念ですなあ。そこが一番カンジン、カナメのところかも知れないのに……」
「まあ話の先を聞き給え。それから十時頃に、その呉羽嬢が浴室を出ると、女中が主人の轟九蔵を起しに行くが、コイツが又一通りならぬ朝寝坊でナカナカ起きない。それをヤット起して湯に入れると間もなく朝飯《あさはん》になる。それから十二時か一時頃になって支配人の笠圭之介が遣って来て三人寄って紅茶か、ホット・レモンを飲みながら業務上の打合わせをする。時には三人で大議論をオッ初める事もあるが大抵のことは呉羽嬢の主張が通るらしい」
「その支配人の笠という男はドンナ人間ですか」
「僕に負けんくらい巨大《おおき》な赭顔《あからがお》の、脂《あぶら》の乗り切った精力的な男だ。コイツも独身という話じゃが」
「何だかヤヤコシイようですね。呉服橋劇場の首脳部の三人が揃いも揃って独身となると……」
「ところがこの笠という男は有名な遊び屋でね。それも頗《すこぶ》る低級に属しとる。つまらない女ばかり引っかけまわって、この大森の砂風呂なんかによく来るので、自然吾々の仲間にも顔が通っている。臨検してみると「ヤア君か」といったアンバイでね。ハハハ。話すと面白い男だよ。誰でも初めて劇場で合うとこの男を劇場主の轟と間違える位、立派な風采じゃがね。そいつが来てその日の事務の打合わせが済むと、一時か二時頃から三人同伴で劇場や、新聞社に行く事もあれば、別々に行く事もある。帰って来るのは大抵夜中の十二時前後で、その時も三人別々だったり一緒じゃったりするが、早い奴から湯に這入って軽い夕食を摂る。笠支配人はいつも麦酒《ビール》を飲んで少々ポッとしたところで自動車を呼んで丸の内のアパートへ帰る……かドウか、わからないがね。残った二人の中《うち》で主人の轟は事務室の片隅の寝台へ寝る。呉羽嬢は二階の別室に寝るのじゃが、その時に呉羽嬢は寝室の鍵をやはりガッチリと掛けて、その上から今一つ差込の閂《かんぬき》まで卸すとモウ誰が来ても開けない。もっとも寝がけに睡眠剤を服《の》むらしいがね」
「轟氏の方は……」
「呉羽嬢が「おやすみ」を云うたアトで三十分か一時間ぐらい手紙を書いたり何か仕事をするのが習慣になっとるらしいが、その時には必ず浴衣《ゆかた》に着換えている。そうしてこれも何か知らん薬を服《の》んでから寝るらしいがね」
「当日も変った事はなかったんですね」
「イヤ。あったんだ。しかもタッタ一つ奇妙な事があったんだ。少々神秘的なことが……」
「ヘエ。神秘的と云いますと……」
「それが面白いのだ。この家の女中はズット以前……この家が建った当時から二人きりに定《き》まっている。こう見えてもこの家は案外広くないのだ。部屋らしい部屋はタッタ四|室《ま》しかない上に、万事がステキに便利に出来ているからね……ところで一番古く、建った当時から居るのが今云うた松井ヨネ子という二十六になる逞ましい肉体美の醜女《オッペシャン》だ。コイツが田舎出の働き者で、家の内外の掃除から、花畠の世話まで少々荒っぽいが一人で片付ける。しかも轟九蔵と天川呉羽の性生活について非常な興味を持っているらしく、そいつがわかるまでは断然お暇を貰わないつもりですとか何とか、吾々の前で公々然と陳述する位、痛快な女なんだ。何でもどこか極めて風俗の悪い村から来ているらしく、万事心得た面構えをしているが、しかし遺憾ながら、まだ二人の関係については突詰めた事を一つも掴んでいないので、ああした年頃の未婚の女にあり勝ちな悩みをこの問題一つに集中しているらしいんだね。この問題に限ってチョット突《つっ》つくと直ぐに止め度もなくペラペラと喋舌《しゃべ》り出しやがるんだ。どう見ても普通の親娘《おやこ》じゃありません……と熱烈に主張するんだ」
「なるほど面白いですね」
「ところが今一人居る市田イチ子というのは、やはり田舎からのポット出だが、今年十八になったばっかり。つまりそうした好奇心の一番強い真盛りの娘ッ子で、やっと一昨日《おとつい》来たばっかりのところへ、先輩のヨネ子からこの話を散々聞かされた訳だね。それから呉羽嬢の初のお目見得をしてみると、あんまり美しいのでビックリした拍子に呉羽嬢の姿がブロマイドみたいに眼の底に沁[#底本では「泌」と誤記]《し》み付いてしまって、日が暮れたら怖くて外へ出られなくなった。夜具を引っ冠ると眼の前にチラ付いてスッカリ冴えてしまった……」
「アハハハ。形容が巧いですね」
「イヤ。笑いごとじゃない。その娘が自身に白状したんだ。ところへ昨夜の事、女中部屋の扉《ドア》の真向いに当る廊下の突当りで、主人の居間の扉《ドア》がガチャリと開《あ》いた音がしたので、ハッと眼を醒まして無意識の裡《うち》に起き上り、鍵穴からソッと覗いてみると、いつも寝間着姿で仕事をしていると聞いていた主人が、チャント洋服を着ている。今しがた帰って来て、イチ子自身がホコリを払ってやった時の通りの黒いモーニングと白チョッキと荒い縞のズボンを穿いている……つまり今朝《けさ》の屍体が着ていたのと同じものだね。のみならず主人の背後の扉《ドア》の蔭からチラリと動いた赤いものが見えた。大きな蛇が赤い舌を出した恰好に見えたのでギョッとして、頭から布団を冠ってしまったが、あとから考えると、それはお嬢様の振袖と、絽《ろ》の襦袢《じゅばん》の袖だったに違いないと云うんだ。……何でもその時に女中部屋の時計がコチーンコチーンと二時を打つのを夜着《よぎ》の中で聞いたというがね」
「ははあ……重大な暗示《ヒント》ですなあ。それは……」
「暗示《ヒント》? 何の暗示だというのだね」
「イヤ。別に暗示《ヒント》という訳では[#底本では「は」が脱落]ありませんが、しかし、それはソンナに遅くまで、轟九蔵氏と天川呉羽嬢があの事務室に居た証拠として考えてはいけないでしょうか」
「そうすると君は天川呉羽が轟九蔵を殺したというのかね。それだけの事実で……」
「イヤ。そんな怪談じみた想像説は、この場合成立しませんが、ツイ今しがた参りました奇妙なゴムチューブの足跡が、呉羽嬢と九蔵氏が一所《いっしょ》に居った時に這入って来たものか、それとも相前後して出入りしたものとすれば、ドチラが後か先かという事が、この事件を解決する重大な鍵となって来ましょう」
「ウーム。自然そういう事になるね」
「ところがその足跡の主が這入って来て、出て行ったのが、お話の通り二時以前としますかね。雨が降り出してから帰った形跡はないのでしょう」
「ウム。ない」
「それから呉羽嬢が居たのが二時頃としますとドチラにしても二時以後は呉羽嬢がタッタ一人、轟氏の傍に居た事になります。そうすると二時頃までピンピンしていた轟氏を殺したものは絶対に呉羽嬢以外には……」
「アハハハハ。イヤ。名探偵名探偵。その通りその通り。寸分間違いない話だが……そこが探偵小説と実際と違うところなんだよ。つまり君がアンマリ名探偵過ぎるんだ」
「……名探偵過ぎるって……」
「つまり君はアンマリ考え過ぎているんだよ。犯人の目星はモウ付いているんだからね。寝呆《ねぼ》けた小娘の眼で見た事なんか相手にせんでモット常識的に考えんとイカン」
「常識的と云いますと……」
「まあ聞き給え。こうなんだ。呉羽嬢は無論そんな真夜中に起きて、そんなに盛装なんかして九蔵氏の部屋に這入った覚えなぞ、今までに一度もないと云い張るんだ」
「それあそうでしょう」
「女中の市田イチ子の奴も、今になって考えてみますと何だか、自分の眼が信じられないような気がします。あれは私がトロトロした間《ま》に見た夢なのかも知れません……なんかとアイマイな事を云い出しやがるし……」
「云うかも知れませんね。そんな事をウッカリ証言したら、アトで呉羽嬢に何をされるか解りませんからね」
「君。想像は禁物だよ。チャンとした拠点《よりどころ》のある証言を基礎として考えなくちゃ……」
「モウ、それだけですか。変った事は……」
「……アッ……それから今一つチョット変った事がある。何でもない事だが、君一流の想像を複雑に[#底本では「に」が脱落]させる材料には持って来いだろう。ほかでもない……今朝《けさ》、呉羽嬢の起きるのが約一時間ばかり遅れたんだそうだ。これも市田イチ子の証言だがね」
「ヘエ。いよいよ以て聞捨てになりませんね」
「ウン。平生《いつも》は女中に起されなくとも、キッチリ九時には起きて来た呉羽嬢が、今朝《けさ》に限って九時半頃まで起きないので、ヨネとイチの二人の女中が顔を見合わせたそうだ。どうかしたんじゃないかというので二人がかりで起しに行ってみたらグーグー寝ている気はいがする。それを猛烈に戸をたたいたり、叫んだりしてヤット起したりしたら、不承不承に起きて来た。真白い羽二重《はぶたえ》のパジャマを引っかけながら、どうも昨夜、催眠剤《おくすり》を服《の》み過ぎたらしいと云い云い湯に這入ったというんだ」
「ヘエ……わからないなあ」
 と云ううちに文月巡査は、眼前《めのまえ》の机《テーブル》の上に身体《からだ》を投げかけて両肱を突いた。シッカリと頭を抱え込むと、溜息と一所に云った。
「スッカリわからなくなっちゃった」
「何がわからんチューのか……ええ?」
「……もし、それが事実なら、やっぱり呉羽嬢が九蔵氏を殺したのじゃない。不思議な足跡の主……つまり九蔵氏を脅迫した奴が殺したんだ」
「ホオ。なかなか明察だね。どうしてわかる」
 若い文月巡査の蒼白い額はジットリと汗ばんでいた。眼の前の空間を睨んで、魘《うな》されているような空虚な声を出した。
「呉羽嬢と、その犯人とは連絡がある……九蔵氏を殺した犯人が無事に逃げられるように、わざと朝寝をして、事件の発覚を遅らした……」
「ワッハッハッハッハ。イカンイカン。イクラ名探偵でも、そう神経過敏になっちゃイカン。世の中には偶然の一致という事もあれば、疑心暗鬼という奴もあるんだよ。シッカリし給え。アハアハアハ……」
 文月巡査は夢を吹き飛ばされたように眼をパチクリさして猪村巡査の顔を見た。吾《われ》に帰って頭の毛を叮嚀に撫で付け初めた。
「しかし……それは事実でしょう……」
「おおさ。無論事実だよ。しかもよく在勝《ありが》ちの事実さ。しかも、それよりもモット重大な事実があるんだから呉羽嬢の寝過し問題なんかテンデ問題にならん」
「ドンナ事実です」
「今話した支配人の笠圭之介ね。その笠支配人が台所女中のヨネからの電話で、丸の内のアパートから自動車で飛んで来たのが、今日の十二時チョット前だった。それから主人の死体や何かを吾々立会の上で調べている中《うち》に、机の上に小切手帳が投出してあるのに気が附いた。調べてみると、昨日《きのう》の日附で堀端《ほりばた》銀行の二千円の小切手を誰かに与えている事がわかった。そこで万が一にもと気が付いて、堀端銀行に問合わせてみると、今朝《けさ》の事だ。堀端銀行が開くと同時に二千円を引出して行った者が居るという。それは絽《ろ》の羽織袴に、舶来パナマ帽の立派な紳士であった。色の黒い、背の高い、骨格の逞しい肥った男で、眉の間と鼻の頭に五分角ぐらいの万創膏《ばんそうこう》を二つ貼っていたので、店員は最初何がなしに柔道の先生と思っていた。それだけに至極|沈着《おちつ》いているようであったが、しかし這入ってから出るまで一言も口を利かず、何気もない挙動の中に緊張味がみちみちて、油断のない態度であった。尚、新しいフェルトの草履を穿いて、同じく上等の新しい籐《とう》のステッキを握っていたという」
「それが犯人だと云うんですか」
「むろんそうだよ。その報告を聞いた笠支配人は、その小切手を誰も触らないように、紙に包んで保存しておいてくれと頼んで、直ぐにその旨を吾々に報告したがね」
「ナカナカ心得た男ですなあ」
「ウン。近頃の素人は油断がならんよ。つまりその犯人は轟九蔵氏に脅迫状をタタキ附けた後《のち》に、九蔵氏が約束通り事務室で待っているところへ、窓を開けさして這入って来た。それから二千円の小切手を書かせ、後難を恐れて不意打に刺殺《さしころ》し、発覚しない中《うち》に金を受取って行衛《ゆくえ》を晦《くら》ましたという事になるんだね。つまり九蔵氏が……もしくは轟家の連中が、普通よりも寝坊である事を熟知している犯人は、朝早くならば大丈夫と思って、堂々と金を受取りに行ったと思われるんだ。何でもない事のようじゃが今の眉の間と、鼻の頭に貼った五分角ぐらいの万創膏が、アトで研究してみると実に手軽い、しかも恐ろしい効果のある変相術じゃったよ。余程、甲羅《こうら》を経た奴でないとコンナ工夫は出来ん。君もアトで実験してみたまえ、万創膏の貼り方と位置の工合で、同一人でも丸で見違える位、印象が違うて来るからなあ。おまけに運動家らしく肩でも振って行けば、誰でも柔道の先生ぐらいに思うて疑う者は居らんからなあ」
「その小切手に指紋はないでしょうか」
「ドッサリ附いている筈だよ。今調査中じゃが、小切手を書いたこの家《や》の主人のもの、受取った犯人のもの、銀行員のものと些《すくな》くとも三通りは附いている筈だよ。銀行に来た犯人は手袋を穿めていなかったんだからね。笠支配人は到って腰の低い、ペコペコした人間じゃが、流石《さすが》に鋭いところがあると云って、皆感心しておったよ」
「……ところで……その支配人と女優の呉羽は今どこに居るのですか」
「犯人の星が附いて嫌疑が晴れたので、直ぐに大森署へ来て、署長の手で諒解を得てもらって、二人とも大喜びでそのまま呉服橋劇場へ飛んで行ったのが二時半頃じゃったかなあ。今が劇場の生死の瀬戸際というんでね。何でもこの記事が夕刊に出たら、満都の好奇心を刺戟して劇場が一パイになるかも知れないと云ってね。少々慌て気味で二人とも出て行ったよ」
「少々薄情のようですね。そこいらは……劇場関係の人間はアラユル階級の中でも一番薄情だっていう事ですが……この夕刊を見たら誰でも今夜は休場だと思うかも知れないのに……」
「それは、わからないよ。見物人という奴は劇場関係者《こやもの》よりもモット薄情な、モット好奇心の強い人種だからね。何でも亡き轟氏の魂はあの劇場に残っているに違いないのだから、今日の芝居を中止しないのが、せめてもの孝行の一つですと、眼を真赤にして云っていたがね。呉羽嬢は……」
「今何を演《や》っているのですか」
「何を演《や》っているか知らんが……アッ。そうそう。大森署へ切符を置いて行きおったっけ……新四谷怪談とか云っていたが……」
「ヘエ。そうするとアトはその犯人を捕まえるダケですね」
「そうだよ。相当スゴイ奴に違いないよ」
「そうすると疑問として残るのは……」
「疑問なんか残らんじゃないか」
「イヤ。これは僕が勝手に考えるんですがね。第一は被害者の轟九蔵氏が、その犯人を迎え入れた心理状態……」
「それは犯人を取調べればわかるじゃろ」
「第二が、その屍体に現われた無抵抗、驚愕の状態……」
「無抵抗とは云いはしないよ」
「けれども事実上、無抵抗だった事はわかっているでしょう。そんな場合には無抵抗の表情と驚愕の表情とは同時に表現され得るものですし、同じ意味にも取れない事はないでしょう。のみならず、そうした被害者の犯人に対する気持は机の曳出《ひきだし》に在ったピストルを取出さずに、犯人を迎え入れた事実によって、二重三重に裏書きされていやしませんか。犯人が被害者に対して、殺意を持っていなかった事を、被害者自身も洞察して、信じ切っていたらしい事も想像され得るじゃないですか」
「ううむ。そういえばソウ考えられん事もない。ナカナカ君は頭がええんだな」
「……そ……そんな訳じゃないですが……それから事件当夜の二時頃に主人の部屋に居た呉羽嬢の行動に関する秘密……」
「……あ……そいつはドウモ当てにならんよ。何度も云う通り市田イチ子の陳述がアイマイじゃから……」
「アトからアイマイになったんでしょう。ですから一層的確な意味になりはしませんか」
「中々手厳しいね。僕が訊問されとるようだ」
「ハハハ。いや。そんな訳じゃないですが……アトは轟九蔵氏の絶命時間の推測です。昨夜何時頃という……」
「ハハハ。二時以後だったら断然、呉羽嬢をフン縛るつもりかね……君は……」
「その方が間違いないと思います」
 そう云う文月巡査の顔からは血の気がなくなっていた。背筋へ氷を当てられたような笑い顔をしながら三本目のMCCへわななくマッチを近付けた。そうした昂奮を気持よさそうに眺めやった猪村巡査は、毛ムクジャラの両手をノウノウと後頭部に廻した。
「ところがその絶命の時間がモウわかっているんだよ。サッキ本署へ電話をかけてみたら、一時間ばかり前に大学から通知が来たそうだ」
「ナ……何時頃ですか」
「今朝《けさ》の三時半、乃至、四時半頃だというんだ」
 文月巡査の手からマッチと煙草が落ちた。猪村巡査の顔を凝視したまま唇をわななかした。
「ハハハ。よっぽど驚いたらしいね。ハハハ。小説や新聞の読者に云わせたら、女優を縛った方が劇的で面白いかも知れんがね。そうは行かんよ。犯人と轟九蔵氏との間には、何か知らん重大な秘密がある。だから一度出て行った犯人は轟九蔵氏の密告を恐れて引返し、推定の時刻に兇行を遂げて立去ったものとしたらドウだい。探偵小説にならんかね。ハハハハハ……」
 笑殺された文月巡査は、いかにも不満そうに落ちた煙草を拾い上げると、腕を組んで椅子の中に沈んだ。眼の前の空気を凝視して、夢を見るようにつぶやいた。
(探偵小説……小説としても……事実としても……何だか間違《まちがい》ダラケのような危なっかしい気がしますなあ。ホントの犯人は別に在りそうな気が……)
「困るなあ。君にも……何でもカンでも迷宮みたいに事情がコンガラガッていなくちゃ満足が出来ない性分だね。犯人が意外のところに居なくちゃ納まらないんだね君は……」
「ええ。どうせ僕はきょう非番ですから、実地見学のつもりでお願いして、ここに連れて来て頂いたんですから、あらゆる角度に視角を置いてユックリ考えてみたいと思いまして……」
「考え過ぎるよ君あ……事実はモット簡単なんだよ」
「ドウ簡単なんですか」
「犯人はモウ泥を吐いているんだよ」
「ゲッ。捕まったんですかモウ……犯人が……」
「知らなかったかね」
「早いんですねえ……ステキに……」
「ハハハ。驚いたかい。……とはいうものの僕も少々驚いたがね。きょうの正午過ぎに上野駅で捕まったよ。大工道具を担いでいたそうだが、どうも挙動が怪しいというので、押えようとすると大工道具を投棄てるが早いか驀地《まっしぐら》に構内へ逃込んだ。そいつが又驚くべき快速で、グングン引離して行くうちに、なおも追い迫って来る連中を撒くために走り込んで来た上り列車の前を、快足を利用して飛び抜けようとしたハズミに、片足が機関車のライフガードに引っかかって折れてしまった。運の悪い奴さ。まだ非常手配《ズキ》がまわっていない中《うち》だからね。呉羽嬢の御祈祷が利いたのかも知れないがね……ハハハ……。そこへ大森署から電話をかけた司法主任が様子を聞いて、もしやと思って駈付けてみると、そいつが有名な生蕃《せいばん》小僧という奴で、堀端《ほりばた》銀行の二千円をソックリそのまま持っていた。小切手と鑑識課の指紋がバタバタと調べ上げられる。電光石火眼にも止まらぬ大捕物だったね。満都の新聞をデングリ返すに足るよ。何でも十年ばかり前に静岡から信越地方を荒しまわった有名な殺人強盗だったそうだ」
「……殺人強盗……」
「そうだ。そいつが負傷したまま大森署へ引っぱって来られるとスラスラと泥を吐いたもんだ。如何にも私は轟九蔵を殺しました。私はあの女優の天川呉羽の一身上に関する彼奴《きゃつ》の旧悪を知っておりましたので、昨夜の一時半頃、あそこで面会しまして、二千円の小切手を書かせて立去りましたが、アンマリ呉《く》れっぷりがいいので、万一|密告《さし》あしめえかと思うと、心配になって来ましたから、今度は自動電話をかけて待っているように命じて引返し、十分に様子を探ってから堂々と玄関の締りを外させ、スリッパを揃えさせて上り込み、九蔵と差向いになって色々と下らない事を話合っているうちに、どうも彼奴《きゃつ》の眼色《めいろ》が物騒だと思いましたから、私一流の早業で不意打にやっつけました。それがちょうど三時半頃だったと思います。そのまま窓から飛出してしまいましたが……恐れ入りました……」
「……ナアアンダイ……」
「アハハハ。恐れ入ったかい。ハハハ。モウ文句は申しません。潔く年貢を納めますと云ったきり口を噤《つぐ》んでしまったのには少々困ったね。その轟九蔵との古い関係についても固くなって首を振るばかり……しかし現場《げんじょう》の説明から、殺す挙動《しぐさ》まで遣って見せたが、一分一厘違わなかったね。野郎、商売道具の足首を遣《や》られたんでスッカリ観念したらしいんだね」
「それにしても恐ろしくアッサリした奴ですね。首が飛ぶかも知れないのに……」
「殺人強盗の中にはアンナ性格の奴が時々居るもんだよ。ちょうど来合せた呉羽嬢と笠支配人にも突合わせてみたが、どちらも初めてと見えて何の感じも受けないらしい。ただ犯人が呉羽嬢に対して、すみませんすみませんと頭を二度ばかり下げただけで調べる側としては何の得るところもなかった」
「それからドウしたんです」
「どうもしないさ。推定犯人が捕まって自白した以上、警察側ではモウする事がないんだからね。君等と同じに非常召集をした連中がポツポツ来るのを追返してしまった。笠支配人と呉羽嬢も司法主任からの説明を聞いて大喜びで劇場に行ってしまった。それでおしまいさ。アハハハハ……」
「なあアんだい……」
 猪村巡査は高笑いしいしい立上った。文月巡査の背後にまわってダブダブの制服の背中を一つドシンとどやし付けた。
「ハハハ。馬鹿だな君は……そんなに探偵小説にカブレちゃイカンよ」
 文月巡査は首筋まで真赤になってしまった。眼を潤ませながら真剣になって弁明した。
「……コ……これは僕の趣味なんです。ボ……僕の巡査志願の第一原因は、やっぱりメチャクチャに探偵小説を読んだからなんです」
「馬鹿な。探偵小説なんちういうものは何の役にも立つもんじゃない。その証拠に探偵作家は実地にかけると一つも役に立たん。自分の作り出した犯人でなければ絶対にヨオ捕まえんというじゃないか……」
 文月巡査は残念そうに深いタメ息をした。瞑想的な、幾分気取った恰好でMCCの煙を吐いた。
「ああ……タタキ附《つけ》られちゃった」
「アハ……御苦労さんだ。トウトウ犯人を取逃しちゃったね。フフフ……」
「どうも貴方《あなた》は意地が悪いんですなあ。早くそう云って下されあコンナに頭を使うんじゃなかったのに……」
「そんなに頭を使ったかね」
「……どうも変だと思いましたよ。笠支配人と呉羽嬢に対する嫌疑がチットモ掛らないまま芝居へ行っちゃったんですからね」
「当り前だあ。その時にはモウ犯人の爪印《つめいん》が済んでいたかも知れん」
「ヘエ。それじゃあ……」
 と文月巡査が妙な顔になってキョロキョロした。
「ここが捜索本部と仰言ったのは……」
「ナアニ。あれあ嘘だよ。君が探偵小説キチガイで、まだ一度も実地にブツカッタ事がないって云ってたから、ちょっとテストをやってみた迄よ。ちょうど今日は僕も非番だったから笠支配人に頼まれて、ここで[#底本では「ここへ」と誤記]留守番をしてやる約束をしたもんだからね。キット退屈するに違いないと思って君をペテンにかけて引っぱって来たわけさ。どうだい面白かったかい」
「ああ。つまんない……」
「アハハ。そう憤《おこ》るなよ。モウ暫くしたら夕食が出るだろう。その中に呉羽嬢が帰って来たら一度見とくもんだよ。奥さんにいいお土産だ」
「……相すみません……僕はまだ未婚です」
「おほほう。そうかい。そいつは失敬した。そんなら丁度いい。夕飯を喰ってから一つステキな美人を見せてやろう」
「ヘエ。まだ美人が居るんですか。この家に……」
「いや。この家じゃないがね。ツイこの裏庭の向う側なんだ。呉服橋劇場の脚本書きでね。江馬《えま》[#底本では「司馬《しま》」と誤記]何とかいう人相の悪い男が、妹と二人で住んでいるんだ」
「アッ。江馬[#底本では「司馬」と誤記]兆策が居るんですか。コンナ処に……」
「何だ。君は知っとるのかいあの男を……」
「探偵小説を読む奴でアイツを知らない者は居ないでしょう。相当のインテリと見えますが、非常な醜男《ぶおとこ》のオッチョコチョイ、一流の激情家の腕力自慢というところから、よくゴシップに出て来ます。芝居に関係している事は初耳ですが、田舎ダネの下らない探偵小説を何とかかんとかといってアトカラアトカラ本屋へ持込むので有名ですよ。彼奴《あいつ》の小説を読むよりも、写真に出ている彼奴《あいつ》の顔を見ている方が、よっぽどグロテスクで面白い……」
「その妹の事は知らないかい」
「妹が居る事も知りません」
「その妹というのが、真実の兄妹[#底本では「兄弟」と誤記]《きょうだい》には相違ないんだが、音楽学校出身の才媛で、兄貴とはウラハラの非常に品のいい美人なんだ。何でも、死んだ轟氏がパトロンで兄妹の学費を出してやったという話だが、その妹と轟氏との関係の方がダイブ怪しいらしい」
「ああ。もうソンナ怪しい話はやめて下さい。ウンザリしちゃった」
「イヤ。今度の事件とは関係のない、全然別の話なんだ。何でもその歌姫《ソプラノ》を轟氏が可愛がっているお蔭で、兄貴までもが御厄介になっているらしいという、松井ヨネ子[#底本では「子」が脱落]の話だがね」
「ウルサイ奴ですね。アノ飯焚女《めしたきおんな》は……」
「おお。女中といやあ今の小間使の市田イチ子もチョットういういしい、踏める顔だよ。紹介してやろうか。今に茶を持って来るから……」
「イヤ。モウ結構です。僕は帰ります」
「まあいいじゃないか。ユックリし給え。君は女が嫌いかい」
「探偵小説があれば女は要りません」
「そんな事を云うもんじゃないよ。まあ見て行けよ。別嬪《べっぴん》の顔を……」
「イヤ。帰ります。お邪魔をするといけませんから……」
「アハハハハ。コイツはまいった……」

 ちょうどその時分であった。呉服橋劇場五階に在る呉羽嬢の秘密休憩室で、呉羽嬢自身と、笠支配人とが向い合って腰をかけていた。
 その秘密休憩室というのは、平生劇場用の小道具等を蔵《しま》っておく五階屋根裏の大きな倉庫の片隅を、ボロボロになった金屏風や、川岸の書割なぞで二間四方ばかりに仕切って、これも小道具の塵埃塗《ほこりまみ》れの長椅子と、歪《いびつ》になった籐椅子《とういす》を並べて、楽屋用の新しい座布団を敷いただけのもので、リノリウムの床とスレスレの半円窓の近くにカラカラに乾いた枯水仙の鉢が置いてあるのが、薄暗い裸電球の下で、そうした書割や金屏風と向い合って、奇妙に物凄い、荒れ果てた気分を描きあらわしていて、今にも巨大な一つ目小僧の首か何かが……ウワア……とそこいらから転がり出しそうな感じがする。
 しかし、それでも女優の呉羽にとっては、華々しい楽屋よりもこの部屋の方がズッと落付いて、気分が休まるらしかった。劇場そのものの人気はあまり立たなかったが、それでも彼女個人としての人気は、全国の女優群を断然抜いていて、三階の彼女の楽屋では訪問客を凌ぎ切れないために、彼女はよくこの物置の片隅の秘密室へ休憩に来るのであった。
 フロックコートの笠支配人はかなりの緊張した態度でイビツになった籐椅子の上にかしこまっている。これに対した彼女は派手な舞台用の浴衣《ゆかた》一枚に赤い細帯一つのシドケない恰好で、肉色の着込みを襟元から露わしたまま傍《かたわら》の長椅子に両足を投出しているが、モウ話に飽きたという恰好で、大きな古渡《こわたり》珊瑚《さんご》の簪《かんざし》を抜いて、大丸髷の白い手柄の下を掻いていた。
「それじゃクレハさん。貴女《あなた》と轟さんの間には何も関係はないんですね。普通の関係以外には……」
 呉羽は見向きもしなかった。
「何とでも考えたらいいじゃないの……イクラ云ったってわからない。どうしてソンナに執拗《しつこ》くお聞きになるの。下らない事を……」
「下らない事じゃないんです。これには深い理由があるのです……その……その……」
「アッサリ仰言いよ。モウ直《じき》、次の幕が開《あ》くんですよ」
「この次の幕は……ですね。貴女は、そのまんまの姿で出て、亭主役の寺本蝶二君に槍で突かれるだけの幕じゃないですか。まだ二十四五分時間があります」
「ええ。でもそれあ妾の時間よ。貴方のために取ってある時間じゃないわよ」
「恐ろしく手酷しいですな今夜は……下へ行くと新聞記者がワンサと[#底本では「と」が脱落]待ちうけているんですよ。犯人の逮捕を警察で発表したらしいんですからね。どうしても僕じゃ承知しないんです。貴女《あなた》でなくちゃ……」
「新聞記者の方が五月蠅《うるさ》くないわ。貴方の質問よりも……」
「そう邪慳に云うものじゃありません。だからよく打合わせとかなくちゃ……その……これはこの劇場の運命と重大な関係のある話なんですよ。この劇場の運命は貴女《あなた》の御返事一つにかかっていると云ってもいいんです」
「勿体振る人あたし嫌い……」
「いいですか……ビックリしちゃ不可《いけ》ませんよ」
「余計なお世話じゃないの……ビックリしようとしまいと……早く仰言いよ」
「それじゃ云いますがね……貴女《あなた》はね……」
「あたしがね……」
「この頃毎晩女中が寝静まってしまってから……轟さんの処へ押かけて行って、結婚したい結婚したいって仰言るそうじゃないですか……ハハハ……どうです……吃驚《びっくり》したでしょう……」
 呉羽は見る見る中《うち》に硝子《ガラス》瓶のように血の気を喪った。屹《き》っと身を起して笠支配人の真正面に正座して、唇をキリキリと噛んだまま睨み付けた。心持ち青味を利かした次の幕のメーキャップが一層物凄く冴え返った。カスレた声が切れ切れに云った。
「……それを……どうして……知ってらっしゃる」
 笠支配人は鬼気を含んだ相手の美くしさに打たれたらしかった。テラテラした脂顔《あぶらがお》の光りを急に失くして、両手をわなわなと握合わせながら腰を浮かした。
「……そ……それは……ソノ……轟さんから聞きました。四五日……前の事です。轟さんは、思案に余って御座ったらしく、私に二度ばかりコンナ話をされたのです。劇場《ここ》の地下食堂で轟さんと二人切りになった時です」
 呉羽が深くうなずいた。すこし張合が抜けたらしかった。
「あなたが探り出した訳じゃないんですね」
「そうです。轟さんから直接に聞いたのです。クレハは俺を見棄てて結婚しようと思っている。しかし俺はあのクレハを度外視《ぬきに》してこの劇場をやって行く気は絶対にない。クレハの結婚は俺にとって致命傷だ。俺はドンナ事があってもクレハの結婚を許す気にならん……とこう云われたのです」
「……………」
「そうして昨日《きのう》、二人で自動車で出かける時に又コンナ事を云われたのです……クレハの奴、飛んでもない人間と結婚しようと思っている。あんな奴と結婚したら、クレハ自身ばかりじゃない俺までも破滅しなくちゃならん。俺とクレハの一生涯の恥を晒《さら》すことになるんだ。今夜こそ彼女《あいつ》の希望をドン底までタタキ潰してくれる。たとい打殺《うちころ》しても二度とアンナ希望を持たせないようにするつもりだ……と非常に昂奮していられましたがね」
 呉羽は笠支配人の話の中《うち》に、それこそホントウにタタキ附けられたように椅子の中へ埋もれ込んだ。肩を窄《すぼ》めて眼を伏せたまま深い深いふるえたタメ息をした。
「一体あなたがその結婚したいと仰言る相手は誰なのですか。私は直接に貴女《あなた》のお口から聞きたいのですが、ドナタなのですか一体……面白い相手ならば私も一口、御相談相手になって上げたい考えですがね」
「……………」
 相手が参っている姿をマトモに見た笠支配人は、思わずニンガリと笑った。頬杖を突いて身を乗出したいところであったろうが、卓子《テーブル》が無いので仕方なしに腕を組んでグッと反身《そりみ》になった。なおなお呉羽を脅やかして、勝利の快感に酔いたい恰好であった。
「……仰言れないでしょうね。こればかりは……ヘヘヘ。しかしコチラにはちゃんとわかっておりますよ。ヘヘヘ。お隠しになっても駄目ですよ……あなたのお父さん……だか、赤の他人だか知りませんが轟九蔵さんはその時に、こんなような謎を云い残しておられるのです。そのクレハの結婚の相手というのがアンマリ意外なので俺は全くタタキ付けられてしまったんだ。ほかでもないあの脚本書きの江馬[#底本では「司馬」と誤記]兆策の妹のミドリなんだ。つまり同性愛という奴で、あの女に対してクレハの奴がとても深刻な愛を感じているんだね。俺はこの頃、毎晩仕事に疲れて、アタマがジイインとなって、何もかも考えられなくなっているところへ、クレハの奴が又こんなような飛んでもない変テコな問題を持込んで来やがるもんだから、いよいよ考え切れなくなって君に……つまり私にですね……相談をかけてみるんだが、一体、俺はドウしたらいいんだろう……クレハの奴は幼少《ちいさ》い時から無残絵描きの父親の遺伝を受けていると見えてトテモ片意地な、風変りな性格の奴であったが、その上にこの頃、あんな芝居ばかりさせられて来たもんだから根性がイヨイヨドン底まで変態になってしまっているらしいのだ。あのミドリさんと同棲して、お姉さんお姉さんと呼ばれて暮すことが出来さえすれば妾はモウ死んでも構わない。これを許して下されば妾は新しい生命に蘇って、モットモットすごい芝居を、モットモット一生懸命で演出して、今の呉服橋劇場の収入を三倍にも五倍にもしてみせる。そうしてミドリさん兄妹《きょうだい》を洋行させて頂けるようにする……今みたいな人間離れのしたモノスゴイ芝居ばかりさせられながら、何の楽しみも与えられない月日を送っていると妾はキット今にキチガイになります。今でも芝居の途中で、そこいらに居る役者たちの咽喉《のど》笛に、黙って啖付《くいつ》いてみたくなる事がある位ですが、ホントウに啖付《くいつ》いてもよござんすか……ってスゴイ顔をして轟さんにお迫りになったそうですね」
「……………」
「私はまだまだ色々な事を知っているのですよ。轟さんはズット前からよく云っておられました。あのミドリ兄妹は放浪者だったのを轟さんが旅行中に拾って来られたもので、兄に美術学校の洋画部を、妹に音楽学校の声楽部を卒業おさせになったものですが、兄の方の絵はボンクラで物にならず、とうとうヘボ脚本屋に転向してしまったのですが、これに反して妹の美鳥《ミドリ》の方はチョット淋しい顔で、ソバカスがあったりして割に人眼に立たない方だけれども、よく見るとラテン型の本格的な美人で、しかも声が理想的なソプラノだ。もっともあのソプラノを一パイに張切ると持って生れた放浪的な哀調がニジミ出る。涯しもない春の野原みたような、何ともいえない遠い遠い悲しさが一パイに浮き上るのが傷といえば傷だ。日本では現在、あんなようなクラシカルな声が流行《はやら》ないが、西洋に行ったら大受けだろう。俺はあの娘を洋行さしてやるのを楽しみに、ああやって家《うち》の庭の片隅に住まわせて、呉羽とも親しくさせているのだが、兄も妹も寸分違わない眼鼻を持っていながらに、どうしてあんなに甚しい美醜の差が出来るのか、見れば見る程、不思議で仕様がない。もちろん兄貴の方がアンナに醜い男だから大丈夫と思って油断していたら、思いもかけぬ妹の方へクレハの奴が同性愛を注ぎ初めたりしやがったので俺は全く面喰らっている……と仰言ったのですが、これはミンナ事実なのでしょうね。ヘヘヘ」
「……………」
 呉羽は辛うじて首肯《うなず》いた。笠支配人も一つゴックリとうなずいて膝を進めた。
「一体|貴女《あなた》が結婚したいと仰言るのは誰ですか。ハッキリ仰言って頂けませんか。この際……」
「……………」
「アノ……アノ……創作家の江馬[#底本では「司馬」と誤記]兆策じゃないのですか」
「……………」
「どうも貴女《あなた》はあの男と心安くなさり過ぎると思っておりましたが……」
 笠支配人の態度と口調が、だんだん積極的になって来るに連れて、呉羽はイヨイヨ長椅子の中へ頽折《くずお》れ込んで行った。白手柄《しろてがら》の大きな丸髷《まるまげ》と、長い髱《たぼ》と、雪のように青白い襟筋をガックリとうなだれて、見るも哀れな位|萎《しお》れ込んでいるのを見下した支配人はイヨイヨ勢付いて、ここまでノシかかるように云って来ると、又もや呉羽は突然に真白い顔を上げた。眉をキリキリと釣上げてハネ返すように云った。
「ケ……穢《けが》らわしいわよッ……ア……アンナ奴……」
「……でも……でも……」
 笠支配人は度を失った。憤激《いかり》の余り肩で呼吸をしている呉羽の見幕に辛うじて対抗しながら、真似をするように息を切らした。
「でも……でも……貴女《あなた》は……いつも御主人の眼を忍んで……あの劇作家《せんせい》と……」
「そ……それはあの凡クラの劇作家《せんせい》に、次の芝居の筋書を教えるためなのよ。次の芝居の筋書の秘密がドンナに大切なものか……ぐらいの事は、貴方だって御存じの筈じゃありませんか。……ダ……誰があんなニキビ野郎と……」
 そう云ううちに呉羽は見る見る昂奮が消え沈まったらしく、以前の通り長椅子に両脚を投出した。今度は何やら考え込んだ、一種のステバチみたような態度に変ってしまった。そうした態度の変化には何となく不自然な、わざとらしいものがあったが、しかし笠支配人は満足したらしかった。モトの通りに落付いた緊張した態度で、ジッと呉羽の横顔を凝視《みつ》めた。
「それじゃ何ですね。貴女《あなた》は、轟さんに結婚の希望を拒絶されて、立腹の余りに轟さんを殺されたんじゃないんですね」
 呉羽はサモサモ不愉快そうに肩をユスリ上げて溜息をした。
「失礼しちゃうわねホントニ。いつまで云っても、同じ事ばっかり……執拗《しつこ》いたらありゃしない。ツイ今|先刻《さっき》貴方と二人で大森署へ行って、犯人に会って来た計《ばか》りじゃないの」
「ええ。ですから云うのです。犯人が貴女《あなた》を見上げた眼が尋常じゃなかったように思うのです。双方から知らん知らんと云いながら、犯人が涙をポロポロ流して、済みません済みませんと頭を下げているのを見た貴女《あなた》が、自動車に乗ってからソッと涙を拭いていたじゃないですか」
「ホホ。あれはツイ同情しちゃったのよ。犯人はどこかで妾に惚れていたかも知れないわ。コンナ女優業《しょうばい》ですからね、ホホ。……そういえば貴方を犯人が見上げた眼付の恨めしそうで凄かったこと。何かしら深い怨みがありそうだったわよ。知らん知らんとお互いに云いながら……」
「……そんな事はない……」
「だから妾もソンナ事はない」
「そ……それじゃ話にならん……」
「ならないわ。最初から……貴方の仰言る事は最初から云いがかりバッカリよ」
「云いがかりじゃありません。つまり貴女《あなた》が結婚したいなんて仰言ったのは、轟さんに対する何かの脅迫手段で、貴女の本心じゃなかったのですね」
「貴方はそう考えていらっしゃるの」
 そう云った呉羽の態度にはどこやら真剣なところがあった。笠支配人は太い溜息をした。
「ええ……そう考えたいのです。そう考えなければタマラないのです」
「ホホホ。面白い方ね貴方は……そんな事が、どうしてこの劇場の運命と関係があるんですの」
「大いにあるんです」
 笠支配人は急に勢付いたように坐り直した。颯爽たる態度で半身を乗出して、しなやかな呉羽の全身を見まわした。
「貴女も、もう相当に苦労しておられるんですからね」
「……さあ……どうですか……」
「呉羽さん……率直に云いましょうね」
「ええ。どうぞ……」
「僕と結婚してくれませんか」
 呉羽は予期していたかのように、横を向いたまま、唇の隅で小さく冷笑した。その凄艶とも何とも譬《たと》えようのないヒッソリした冷笑が、呉羽の全身に水の流れるような美くしさを冴え返らせて行くのを見ると笠支配人は、思わずワナナキ出す唇を一生懸命で噛みしめた。ここが一生の運命の岐《わか》れ目と思い込んでいるらしい真剣味をもって、今一層グッと身を乗出しながら、男盛りの脂切《あぶらぎ》った顔を光らした。
「ね。おわかりでしょう。僕の気持は……今、貴方から拒絶されると、僕はモウこの劇場に居る気がしなくなるのです。もうもうコンナ劇場関係《こやもの》生活だの、探偵劇だのには飽き飽きしているのですからね。天命を知ったとでも云うのでしょうか。モット落付いた、人間らしいシンミリとした生活がしてみたくてたまらなくなっているのですからね」
「……………」
「但し……貴女が僕に新しい生命を与えて下さるとなれば問題は別ですがね」
 呉羽は微《かす》かにうなずいた。ヒッソリと眼を閉じたまま……。
「……ね。おわかりでしょう。そうした僕の心持は……」
 呉羽は一層ハッキリとうなずいた。
「ええ。わかり過ぎますわ」
「ね。ですから……ですから……僕と……」
 笠支配人は青くなったり赤くなったりした。こうした場面によく現われる中年男の醜態[#底本では「醜体」と誤記]を見せまいとしてハラハラと手を揉んだり解いたりした。
「ええ。それは考えてみますわ。女優なんてものはタヨリない儚《はかな》い商売ですからね」
「エッ。それじゃ……承知して……下さる……」
「まッ……待って頂戴よ……そ……それには条件があるのです。妾も……ネンネエじゃありませんからね」
 呉羽は今にも自分に飛びかかりそうな笠支配人を、片手を挙げて遮り止めた。笠支配人は誰も居ない部屋の中を見まわしながら不承不承に腰を落付けた。
「そ……その条件と仰言るのは……」
「こうよ。よく聞いて下さいね。いいこと……」
「ハイ。どんな難かしい条件でも……」
「そんなに難かしい条件じゃないのよ。ね。いいこと……たとい貴方《あなた》と妾《わたし》とが一所になったとしても、この劇場の人気が今までの通りじゃ仕様がないでしょ。ね。正直のところそうでしょ。轟家《うち》の財産だって、もうイクラも残ってやしないし……貴方も相当に貯め込んでいらっしゃるにしても遊びが烈しいからタカが知れてるわ」
 笠支配人は忽ち真赤になった。モウモウと湯気を吹きそうな顔を平手でクルクルと撫で廻した。
「ヤッ。これあ……どうも……そこまで睨まれてちゃ……」
「ですからさあ……妾だって全くの世間知らずじゃないんですから、好き好んで泥濘《ぬかるみ》を撰《よ》って寝ころびたくはないでしょ。ね。ですから云うのよ。モウ少し待って頂戴って……」
「もう少し待ってどうなるのです」
「あのね。妾もね……この劇場《こや》にも、探偵劇《しばい》にも毛頭、未練なんかないんですけどね。折角、轟さんと一所に永年こうやって闘って来たんですから、せめての思い出に最後の一旗を上げてみたいと思ってんの……」
「ヘエ。最後の一旗……」
「こうなんですの……きょうは八月の四日、日曜日でしょう。ですから今日から来月の第一土曜、九月の七日の晩まで、丸っと一《ひ》と月お芝居を休まして、座附の人達の全部を妾に任せて頂きたいんですの。費用なんか一切あなたに御迷惑かけませんからね。妾はあの役者《ひと》達を連れて、どこか誰にもわからない処へ行って、妾が取っときの本読みをさせるの」
「貴女《あなた》が取っときの……」
「ええ。そうよ。これなら請合いの一生に一度という上脚本《キリフダ》を一つ持っていますからね。その本読みをしてスッカリ稽古を附けてから帰って来て、妾の引退興行と、呉服橋劇場独特の恐怖劇の最後の興行と、劇場主轟九蔵氏の追善と、大ガラミに宣伝して、涼しくなりかけの九月七日頃から打てるだけ打ち続けたら、キット相当な純益《もの》が残ると思いますわ」
「さあ……どうでしょうかね」
「いいえ。きっと這入《アタ》ってよ。それにその芝居《キリフダ》の筋《ネタ》というのが世界に類例のない事実曝露の探偵恐怖劇なんですから……」
「事実曝露……探偵恐怖劇……」
「そうなのよ。つまり妾の一生涯の秘密を曝露《バラ》した筋なんですから……これを見たら今度の事件の犯人だって、たまらなくなって、まだ誰も知らない深刻な事実を白状するに違いないと思われるくらいスゴイ筋なんですからね……自慢じゃありませんけど……ホホホ……」
 彼女はスッカリ昂奮しているらしかった。白磁色の頬を火のように燃やし、黒曜石《こくようせき》色の瞳を異妖な情熱に輝やかしつつ、彼女の方からウネウネと身体《からだ》を乗出して来たので、たまらない息苦しい眩惑をクラクラと感じた支配人は、今更のようにヘドモドし初めた。相手の白熱的な芸術慾に焼き尽されまいとして太い溜息を何度も何度も重ねた。ハンカチで汗を拭き拭き慌て気味に問い返した。
「……ド……どんな筋書で……」
「それは……ホホホ……まだ貴方に話さない方がいいと思うわ。兎《と》に角《かく》一切貴方に御迷惑かけませんから貴方は今から九月の七日過ぎる迄、久振りに温泉か何かへ行って生命《いのち》の洗濯をしていらっしゃい。タッタ一箇月かソコラの間ですから、その間中貴方は絶対に妾の事を忘れていて下さらなくちゃ駄目ですよ。さもないと将来の御相談は一切お断りしますよ。よござんすか。仕事は一切私が自分でしますから……」
「出来ましょうか貴女に……」
「一度ぐらいなら訳ありませんわ。小さな劇場《こや》ですもの……いつもの通りの手順に遣るだけの事よ。チョロマかされたってタカが知れてますわ」
「資金《おかね》はありますか」
「十分に在ってよ。在り余るくらい……」
「意外ですなあ……どこに……」
「どこに在ってもいいじゃないの……とにかく貴方は今度だけ御客様よ。招待券の二三枚ぐらい上げてもいいわ……ホホ……神戸の後家さん親娘《おやこ》でも引っぱってらっしゃい」
「ジョ……冗談じゃない」
「そうよ。冗談じゃないのよ。真剣よ……妾……それまで処女を棄てたくないんですからね」
「ショ……ショジョ……」
「まあ何て顔をなさるの。妾が処女じゃないとでも仰言るの。ずいぶん失礼ね」
「イヤ。ケ……決してソンナ訳では……」
「そんなら温柔《おとな》しく妾の云う事をお聞きなさい。そうしてモウ時間ですからこの室[#「この室」に傍点]を出て行って頂戴……」

 事件当夜……八月四日の呉服橋劇場は、非常な不入りであった。その日の夕刊を見た人々は皆、当然の休場を予想していたらしく、毎日の定収入になっている[#底本では「よっている」と誤記]御定連の入りすらも半分以下で、最終幕《オオギリ》の前に「当劇場主轟九蔵氏急死に就き勝手ながら整理のため向う一箇月間休場いたします」の立看板を舞台中央の幕前に出した時には、無礼にも拍手した奴が居た。
「ああ。もうこの芝居も、これでおしまいか」と云って今更|名残《なごり》惜しげに表の絵看板を振返る者さえ居た。
 その時にスター女優天川呉羽は、劇作家、江馬兆策と一所に銀座裏のアルプスという山小舎式の珈琲《コーヒー》店の二階で、向い合っていた。白ずくめの洋装をした呉羽は中世紀の女王のようにツンとして……。タキシードの兆策はその従僕のように、巨大な木の切株を中に置いて竹製の腰掛にかかっている。帳場の煤《すす》けたラムプを模した電燈の蔭に、向うむきに坐った見すぼらしい鳥打帽の男がチビリチビリとストローを舐《しゃぶ》っているほかには誰も居ない。部屋の中をチラリと見まわした呉羽は、切株のテーブルの上に肘を突いて兆策の耳に顔を近付けた。兆策も熱心にモジャモジャの頭を傾けた。低い声が部屋中にシンシンと途切《とぎ》れ散る。
「江馬さん。よござんすか。これは妾の一生の秘密よ。今度、轟さんが殺された原因がスッカリわかる話よ」
「えッ。そ……そんな秘密が……まだあるんですか」
「ええ。トテモ大変な秘密なのよ。今月の十五日迄にこの秘密をアンタに脚色してもらって、来月の初め頃にかけて妾自身が主演してみたいと思っているんですから、そのつもりで聞いて頂戴よ」
「……かしこ……まりました」
「ですけどね。この話の内容は、芝居にすると相当物騒なんですから、警視庁へ出すのには筋の通る限り骨抜きにした上演脚本《あげほん》を書いて下さらなくちゃ駄目よ。興行差止《チリンチリン》なんかになったら、大損をするばかりじゃない。妾の計劃がメチャメチャになってしまうんですからね。是非ともパスするように書いて頂戴よ。もちろん日本の事にしちゃいけないの。西洋物の飜案《やきなおし》とか何とかいう事にして、鹿爪《しかつめ》らしい原作者の名前か何か付けて江馬兆策脚色とか何とかしとけばいいでしょ。その辺の呼吸は万事おまかせしますわ」
「……しょうち……しました」
「出来たら直ぐにウチの顧問弁護士の桜間さんに渡して頂戴……」
「支配人じゃいけないんですか」
「ええ。妾の云う通りにして頂戴……笠さんじゃいけない訳は今わかりますから……」
「……で……そのお話というのは……」
「……もう古い事ですわ。明治二十年頃のお話ですからね。畿内の小さな大名植村|駿河守《するがのかみ》という十五万石ばかりの殿様の御家老の家柄で、甘木丹後《あまきたんご》という人の末ッ子に甘木|柳仙《りゅうせん》という画伯《えかき》さんがありました」
「どこかで聞いた事があるようですな」
「ある筈よ。ホホ。柳遷《りゅうせん》とか柳川《りゅうせん》とか色々|署名《サイン》していたそうですが、その人が御維新後のその頃になって、スッカリ喰い詰めてしまって、東海道は見付《みつけ》の宿《しゅく》の等々力《とどりき》雷九郎という親分を頼って来て、町外れの閑静な処に一軒、家《うち》を建ててもらって隠棲しておりました。静岡、東京、名古屋、京阪地方にまでも絵を売りに行って相当有名になっておりましたが、その中でも古い錦絵の秘密画とか、無残絵とか、アブナ絵とかを複写するのが上手で、大正の八九年頃には相当のお金を貯めて、小さいながら数奇《すき》を凝らした屋敷に住むようになっていたそうです」
「それで思い出しました。僕はその絵を見た事があります。たしか四条派だったと思いますが……」
「ね。あるでしょう……その柳仙夫婦の間に、その頃三つか四つになる三枝という女の児《こ》がありました。父親が五十幾つかの老年になって出来た子供なのでトテモ可愛がって、ソラ虫封じ、ソラ御開運様といった風に色々の迷信の中《うち》に埋めるようにして育てたものだそうですが、それがアンマリ利き過ぎたのでしょう。今の妾みたいな人間になってしまったのです」
「結構じゃないですか」
「……まあ聞いて頂戴……その大正の十年ごろ静岡あたりを中心にして東海道から信州へかけて荒しまわっていた殺人強盗で、本名を石栗虎太、又の名を生蕃《せいばん》小僧というのが居りました。生蕃みたいに山の中へ逃込むとソレッキリ捕まらない。人を殺すことを何とも思っていないところから、そう呼ばれていたのだそうです。その生蕃小僧がこの柳仙の一軒屋に眼を付けたのですね。……どうしてもモノにしようと思って色々様子を探ってみたんだそうですが、その柳仙の一軒屋というのは、見付の人家から二三町も離れていて、呼んでも聞こえないばかりでなく、四方八方に森や、木立や、小径がつながり合っていて、盗賊《かせぎ》には持って来いの処だったのですが、しかし、何よりもタッタ一つ、一番恐ろしい番犬がこの柳仙の家をガッチリと護衛《まも》っている事が、最初から判明《わか》っているのでした。……その番犬というのは見付の町で、土木の請負をやっている等々力親分の一家でした。
 その頃見付の宿で、等々力雷九郎親分の後を嗣《つ》いでいたのが等々力久蔵という、生蕃小僧と同じ位の年頃の若い親分でした。もっとも大正十年頃の事ですから、昔ほどの勢力はなかったのでしょう。そこいらの田舎銀行や、大百姓の用心棒ぐらいの仕事しかなかったのでしょう。その上に、その若親分の久蔵というのも、昔とは違った帝大出の法学士で、弁護士の免状まで持っていたインテリだったそうですが、乾分《こぶん》に押立てられてイヤイヤながら渡世人の座布団に坐り、新婚早々の若い、美しい奥さんと二人で、街道筋を見渡していたものですが、この若親分の久蔵というのが、十手捕縄を預っていた雷九郎親分の血を引いたものでしょう。親分生活は嫌いながらにあの辺切っての睨み上手の、捕物上手で、云ってみれば田舎のシャロック・ホルムズといったような名探偵肌の人だったのでしょう。すこし手口の込んだ泥棒でも這入ると、警察より先に久蔵親分の処へ知らせて来るというのです。流れ渡りの泥棒なんぞは、みんな等々力親分の縄張りを避けて通った。ウッカリ久蔵親分の眼の届く処で仁義の通らぬ仕事なんかすると、警察よりも先に手を廻されて半殺しの目に会わされるという評判で、生蕃小僧にとっては、この久蔵親分の眼がイの一番に怖くて怖くてたまらなかったのだそうです。
 そこで生蕃小僧は意地になってしまって、どうしてもこの等々力巡査をノックアウトしてやろうと思って色々と智恵を絞ったのでしょう。とうとう一つのスゴイ手を考え付いたのです……ちょっと生蕃小僧という名前だけ聞くと人相の悪い、恐ろしい人間に思えるようですが、それは刃物《ドス》が利くのと、脚力《ノビ》が利くところを云ったもので、実は普通の人とチットモ変らない男ぶりのいい虫も殺さない恰好で、おまけに腰が低くて愛嬌がよかったもんですから行商人なんかになるとマルキリ本物に見えたそうです。ですから生蕃小僧はそこを利用してその頃|流行《はや》っていた日本一薬館の家庭薬売《オッチニ》に化けて大きな風琴を弾き弾き見付の町を流しまわっているうちに、等々力の若親分の身のまわりをスッカリ探り出してしまいました。
 ……何でも等々力若親分の若い奥さんというのは、近くの村の百姓の娘で、持って生れた縹緻美《きりょうよ》しと伝法肌《でんぽうはだ》から、矢鱈《やたら》に身を持崩していたのを、持て余した親御さんと世話人が、情《じょう》を明かして等々力の若親分に世話を頼んだものだそうですが、何ぼ等々力の親分のお声がかりでも、こればっかりは貰い手がないので、何となく顔が立たないみたいな事になって来たものだそうです。そこで……ヨシキタ……そんなら一番俺がコナシ付けてくれよう。俺の傍《そば》へ引付けておいたら、そう無暗《むやみ》に悪あがきも出来ないだろうというので、乾児《こぶん》たちの反対を押切って、立派な婚礼の式を挙げたものだそうですが、これが等々力親分の一生の身の過《あやま》りでした。というのは、その若い奥さんの伝法肌というのが、若い女のチョットした虚栄心が生んだ浅智恵から来たものだったのでしょう。若親分から惚れられているなと思うと、早速亭主を馬鹿にしちゃって、主人の留守中に、何かしら近所の噂にかかるような事をしていたのでしょう。ですから、そんな事を聞き出した生蕃小僧はスッカリ喜んじゃったのですね。大胆にもオッチニの金モール服のまま、他所《よそ》から帰って来る若親分を、町外れの草原《くさはら》で捕まえて面会したのだそうです。そうして奥さんの不行跡《ふしだら》を自分一人が知っている事のように洗い泄《ざら》い並べ立てて脅迫しながら、済まないがここのところを暫くの間、眼をつむってもらえまいか。稼ぎ高を山分けに致しますから……とか何とか厚顔《あつか》ましい事を云って、柔らかく固く相談をしますと、不思議にも若親分が、青い顔をして暫く考えた後《のち》に、黙って承知したんだそうです。モトモト久蔵親分は、好きで渡世人になった訳じゃないし、法律の一つも心得ているだけに、東京へ出て一旗上げたい上げたいと思いながら、因縁に引かれ引かれて足を洗いかねているところへ、最愛の女房《おかみさん》から踏み付けにされちゃったのですからスッカリ気を腐らしたのでしょう。そうして生蕃小僧に別れると直ぐに久蔵親分は、甘木柳仙の処を尋ねて、すみませんがモウお雛様がお片付きのようですから、御宅のお嬢さんを又、暫く私に貸して頂けますまいか。久し振りに抱《だ》っこして寝たいですからと申込みました……久蔵親分は若い人に似合わない子供好きで、見付の子供は皆オジサンオジサンと云って懐《なつ》いていたそうです。わけてもこの柳仙の処の子供は、特別に可愛がっていたせいでしょう。まるで親のように懐《なつ》いておりましたし、それまでにも度々そんな事がありましたので、柳仙夫婦は快く子供の着物を着かえさしたりお菓子や寝床まで風呂敷に包んで、若親分に渡してやったそうです。
 ……それから若親分は自宅へ帰ると、直ぐに乾児《こぶん》どもを呼集め、その大勢の眼の前に、若い奥さんと世話人を呼付けてアッサリ離別を申渡しましたので、二人ともグーの音《ね》も出ないで荷物を片付けてスゴスゴと田舎へ帰りました。それを見送った若親分は……ほんとに済まない事をした。俺の顔ばかりでなくお前たちの顔まで潰してしまった。俺はモウ決心を固めているのだからこの際何も云うてくれるなと云って乾児《こぶん》の中《うち》の一人に自分の席を譲り、その場で、お別れの酒宴を初めました。
 ……一方に柳仙夫婦の一軒屋へ生蕃小僧が忍び入って、夫婦と女中の三人を惨殺し、家中《うちじゅう》を引掻きまわして逃げて行ったのは、ちょうどその暁方《あけがた》の事だったそうです。ところで生憎《あいにく》か仕合わせかわかりませんが、その時に柳仙の手許に在ったお金はお小遣の余りの極く少しで、銀行の通帳や貴重品なんかは見付の町に在った心安い貯蓄銀行の金庫に預けてありましたので、お金以外の品物を決して盗らない事にしている生蕃小僧にとってはトテも損な稼ぎだったのでしょう。ところが、それとはウラハラに久蔵若親分はステキに、うまい事をしてしまいました。多分柳仙の家《うち》に残っていた印形《いんぎょう》を利用するか何かしたのでしょう。それにしてもドンな風に胡麻化《ごまか》したものか知りませんが、当然、その娘のものになる筈の何万かの財産と、かなり大きな生命保険を受取ると、そのまま行衛《ゆくえ》を晦《くら》ましてしまったものだそうです。
 ……ね……もうおわかりになったでしょう。柳仙夫婦がこの世に残したものの中でも一番大きい、美味《おい》しいことは、みんな久蔵若親分のものになってしまったのですからね……あとからこの事を知った生蕃小僧が、それこそ地団太を踏んで今の轟九蔵を怨んだのは無理もありませんわね。ですから轟がドンナに巧妙に姿を晦《くら》ましても生蕃小僧はキット発見《みつけ》出して脅迫して来るのでした。俺が捕まったらキット貴様も抱込んで見せるとか、当り前の復讐では承知しないぞ……とか何とか云っていたそうですが、しかし轟はセセラ笑っておりました。彼奴《きゃつ》の怨みは藪睨みの怨みだ。俺は別に生蕃小僧をペテンにかけるつもりじゃなかったんだ。ただお前が可愛くてたまらなかったばかりに、万一の事が気にかかってアンナ事をしただけの話なんだ。もちろん生蕃小僧がアンナに早く仕事にかかろうとは思わなかったし、奥さんの事を片付けてサッパリしてから柳仙に注意もしようし、手配もするつもりでいたんだから、柳仙夫婦が、あのまんま無残絵になってしまったのはヤハリ天命というものだったろう。
 ……柳仙が国禁の絵を描いている事はトックの昔から睨んでいた。しかしイクラ忠告をしても止めないばかりでなく、県内の有力者の勢力なんかを利用して盛んに高価《たか》い絵を売り拡げて行くので、俺は実をいうとホントウに柳仙の厚顔《あつかまし》さを憎んでいた。ナンノ柳仙を見付から追出すくらい何でもなかったんだが、ただお前の可愛さにカマケていたばかりなんだ。それから先の事は自然の成行《なりゆき》で、大和の国に居る柳仙の親類なんかは一人も寄付かなかったんだから仕方がない。生蕃小僧から怨まれる筋合いなんか一つもないばかりでなく、俺はお前を無事に育て上げるために、生命《いのち》がけで闘わなければならない身の上になってしまった。俺が朝鮮に隠れてピストルの稽古をして来た事を、生蕃小僧が知っていなかったら、俺もお前もトックの昔に生蕃小僧にヤッツケられていたろう。
 ……ところが、それから後《のち》、四五年経つと流石《さすが》の生蕃小僧も諦らめたと見えて、バッタリ脅迫状を寄越さなくなった。彼奴《あいつ》から脅迫状が来るたんびに俺はすこしずつ金を送ってやる事にしていたんだから不思議な事と思ったが、もしかすると自分の怨みが藪睨みだったのに気付いたのかも知れない。それとも病気で死ぬかどうかしたのじゃないかと思うと、俺は急に気楽になって本当の活躍を初め、今の地位を築き上げたものなんだが、その十幾年後の今日《こんにち》になって突然に又生蕃小僧から脅迫状が来はじめたのだ。しかも俺にとっては実に致命的な意味を含んだ脅迫状が……」
「エッ……チョチョチョット待って下さい」
 江馬兆策は感動のあまり真白になった唇を震わした。
「そ……それもホントなんですか」
「ホホホ……みんな真実《ほんとう》なのよ。最初から……まだまだ恐ろしい事が出て来るのよ。これから……」
「……………」
「シッカリして聞いて頂戴よ。是非とも貴方に脚色して頂いて、大当りを取って頂きたいつもりで話しているんですからね」
「……………」
「……その脅迫状というのは、最初は極く簡単なものだったのです。一週間ばかり前に来たのは普通の封緘葉書で金釘流で『大正十年三月七日を忘れるな……芝居じゃないぞ』といっただけのものだったそうですが、それから後に二三回引続いて来たものは、相当長い文句のチャンとした書体で、とてもとても恐ろしい……私達の致命傷と云ってもいい文句でしたわ」
「……ど……ど……ドンナ……」
「ホホホ。アンタ気が弱いのね。そんなに紙みたいな色にならなくたっていいわ。あのオ……チョイト……ボーイさん。ウイスキー・ソーダを一つ……大至急……」
 江馬兆策はホッと溜息をした。顔中に流るる青白い汗をハンカチで拭いた。
「ホホホ。落付いてお聞きなさいよ。モウ怖いことなんかないんですからね。犯人が捕まって片付いちゃったアトなんですから……」
「でも……でも……まだ疑問の余地が……」
「ええええ。まだまだ沢山に在るのよ。モットモット大きな、深い疑問が残っているのを誰も気付かずにいるのよ。轟さんの心臓にあのナイフが突刺さったホントの理由が、わかる話よ」
「エエッ。それじゃホントの犯人が……別に……」
「居るか居ないかは貴方のお考えに任せるわ。そこがこの脚本のヤマになるところよ。いい事……その長い脅迫状の文句はこうなのです。その脅迫状はあたし自分の部屋の鏡台の秘密の曳出《ひきだし》にチャント仕舞っているのですから、あとからお眼にかければわかるわ……轟九蔵と甘木三枝は、戸籍面で見ると親子関係になっていない。女優の天川呉羽は轟九蔵の養女でも何でもないのだから、つまるところ轟九蔵は甘木三枝の財産を横領している事になる。それのみか、轟九蔵と天川呉羽とは事実上の夫婦関係になっている事を、俺は最近になって探り出しているのだ。その上にその呉羽こと三枝という女は、ズット以前から劇作家江馬兆策と関係している……」
「ワッ……ト飛んでもない……アッツ……」
 江馬兆策は突然真赤になって手を振ったトタンに、たった今来たウイスキー・ソーダの飲みさしを切株のテーブルの上に引っくり返した。それを給仕が急いで拭こうとしたナプキンを慌てた兆策が引ったくって拭いた。
「ホホホ。馬鹿ねえ貴方は……わかり切っている事を妾の前で打消さなくたっていいじゃないの……ホホ……」
 兆策はモウすっかり混乱してしまったらしい。濡れたナプキンで上気した自分の顔を拭き拭き給仕にソーダのお代りを命じた。しかし給仕は笑わないで、腰を低くして、恭《うやうや》しくナプキンを貰って行った。
「……ね。ですから妾あなたに考えて頂こうと思ってお話するのよ。貴方はいつもソンナ問題ばかりを研究していらっしゃるんですから、妾の話をお聞きになったらキット犯人を直覚して下さると思うのよ。轟九蔵を殺したのは生蕃小僧じゃない。あの支配人の笠圭之介……」
「エッ……ナ何ですって……そんな事が……」
 江馬兆策が中腰になった。しかし呉羽は冷然と落付いていた。
「あたし……それが今日わかったのよ。あの笠圭之介がね。ツイ今さっきの夕方の幕間に妾をあの五階の息つき場へ呼んでね。よもや誰も知るまいと思っていた脅迫状の中味とおんなじ事を云って妾を脅迫したのよ。轟さんと妾の関係や貴方と妾の関係を疑ったような事を云ってね……ですから妾ヤット気が付いたのよ、今捕まっているのはホンモノの生蕃小僧じゃない。ドッサリお金を掴ませられているイカサマの生蕃小僧で、公判になったらキット供述を引っくり返すに違いない。だから本物の生蕃小僧はアノ支配人の笠圭之介……」
「フ――ム――」
 江馬兆策が頭を抱えて椅子の中に沈み込んだ。眼をシッカリと閉じて、モジャモジャした頭の毛の中へ十本の爪をギリギリ喰い込ませた。
「……ね……こんな事があるのですよ。今もお話した通り、生蕃小僧の脅迫状が来なくなってから轟がホントウに活躍を初めたのが大正十四年頃でしょう。それからあの呉服橋劇場を買ったのが昭和三年の秋ですから、その間に三四年の開きがあるわけでしょう。その間に生蕃小僧が悪い仕事をフッツリと止めて、あの呉服橋劇場の支配人になり済ますくらいの余裕はチャントあるでしょう。生蕃小僧があんなにムクムクと肥って、丸きり見違えてしまっている事も、考えられない事じゃないでしょう。そこで生蕃小僧は上手に轟さんに取入るか、又は影武者の生蕃小僧に脅迫状を出させるか何かしてあの劇場《こや》を買わせたのよ。そうしてあの劇場の経営を次第次第に困難に陥れて、轟さんの爪を剥いだり、骨を削ったりしながら待っている中《うち》に、妾が年頃になったのを見澄まして轟さんを片付けて、タッタ一人になった妾を脅迫して自分のものにしようと巧《たく》らんだ……と考えて来ると、芝居としても、実際としても筋がよく透るでしょう。何の事はない新式の巌窟王よ……ね……」
「……………」
「その中《うち》でタッタ一つ邪魔気《じゃまっけ》なのは貴方です。江馬さんです……ね。貴方は天才的な探偵作家ですから普通の人だったら夢にも想像出来ない事をフンダンに考えまわしておられる方です。ですから万一、今のようなお話をお聞きになった暁には、いつドンナ処から自分の正体を看破《みやぶ》られるかわからない。警戒の仕様がないでしょう」
「……………」
 江馬兆策は頭の毛を掴んだままソッと両眼を見開いた。その両眼は重大な決心に満ち満ちた青白い、物凄い眼であった。わななく指をソロソロと頭から離して、そこいらを見まわすと、ウイスキー曹達《ソーダ》に濡れた切株の端に両手を突いて立上った。呉羽の希臘《ギリシャ》型の鼻の頭をピッタリと凝視して徐《おもむ》ろに唇を動かした。
「……貴女は名探偵です……」
 呉羽も調子を合わせるようにヒッソリとうなずいた。大きな眼をパチパチさせた。
「……ですから……貴方にお願いするのです。今から笠支配人の様子を探って下さい。そうしてイヨイヨ生蕃小僧の本人に違いないという事がわかったら……」
「……コ……殺してしまいます」
 江馬兆策の両眼が義眼《いれめ》のように物凄くギラギラと光った。
「イケマセン」
 呉羽は真剣に手を振った。
「……ナ……ナゼ……何故ですか」
「復讐の手段は妾に任せて下さい。両親の仇《かたき》……轟の仇です……」
「……………」
「それでね貴方にその脅迫状の束を全部《みんな》さし上げます。それをイヨイヨとなったら笠に突付けて云って御覧なさい。お前はお前の書いた文句を忘れてやしまい。呉羽さんを脅迫した言葉も忘れてやしないだろうって……ね……」
「……………」
「それからね。貴方の活躍の期限を来月の十日までに切っておきます。来月の十日になっても笠に泥を吐かせる事が出来なかったら一先ず帰っていらっしゃい。よござんすか。費用は脅迫状の束と一緒に、明日《あす》の午後に差上げます」
「イヤ。費用なんか一文も要りません」
「いいえ。いけません。他人の間は他人のようにしとくもんです」
「エッ……他人……」
「ええ。そう。今じゃ全くの赤の他人でしょう。ですからそのつもりでいらっしゃい。それからの御相談は、何もかも来月の十日|過《すぎ》にお願いしますわ」
 ハッと感激に打たれた江馬は深海魚のように眼を丸くして呉羽の顔を凝視した。口をアングリと開けて棒立ちになっていたが、やがてクシャクシャ頭をガックリとうなだれると、涙をポトポトと落しながら口籠もった。
「かしこ……まりました」
 そうして、なおも感激に堪え切れないらしく、兵隊のようにクルリと身を飜すと、非常な勢いでホールを出て行った。百雷の落ちるような凄じい音を立てて階段を駈け降りて行った。
「……ホホ……確証を掴んだシャロック・ホルムズ……義憤に駈られたアルセーヌ・ルパン、ホホホホホハハハハハ……」

 星だらけの空を真黒く区切った樫の木立の中に燈火《ともしび》を消した轟家は人が居るか居ないか、わからない位ヒッソリとしている。表門に貼付けた「不幸中に付家人一切面会謝絶」と書いた白紙が在るか無いかの風にヒラヒラと動いているきりである。
 これに反してお庭の隅の常春藤《きづた》に蔽われたバンガロー風の小舎には燈火《ともしび》がアカアカと灯《とも》って、しきりに人影が動いている。
 非常な勢いで帰って来た江馬兆策が、妹の出したお茶も飲まない無言のまま、ガタンピシンと戸棚を引開けて、あらん限りの服、帽子、靴、ズボン吊、トランクを引ずり出して旅支度を初めたのを、妹の美鳥《みどり》がしきりに心配して止めているのであった。
「まあ……お兄様ったら……気でもお違いになったの……」
「感謝《コオマプソ》感謝《コオマプソ》。心配しなくたっていいんだ。気も何も違ってやしない」
「だってイツモのお兄様と眼の色が違うんですもの……まるで確証を握ったシャロック・ホルムズか義憤に猛り立つアルセエヌ・ルパンみたいよ。ホホホ。どうなすったの……一体」
「黙って見てろったら。非常な重大事件だから……お前が関係しちゃイケナイ問題なんだから絶対に局外中立の態度で、黙って見てなくちゃイケナイ重大事件なんだからね」
「わかっててよ。それ位の事……轟さんのお家《うち》の事でしょう」
「そうなんだよ。ホントの犯人がわかりそうなんだよ。そいつを僕が突止める役廻りになったんだよ」
「だからウイスキー曹達《ソーダ》を、お引っくり返しになったの……」
「ゲッ……お前見てたのかい」
「ホホホホ。ビックリなすったでしょ」
 兆策は自然木の椅子にドッカと尻餅を突いた。気抜けしたように溜息をして取散らした室内を見まわすと、醜い顔に不釣合な大きな眼をパチパチさせた。
「……ど……どうして聞いたんだい。タッタ今帰って来たばかりなのに……」
 美鳥は淋しく笑いながら向い合った椅子に腰を降ろした。
「何でもないことよ。妾だって今度の轟さんの事件ではずいぶん頭を使っているんですもの。ホントの犯人が誰だか色々考えているうちに、万一貴方が疑われるような事になったらドウしようと思って一生懸命に考えまわしていたのよ」
「フーン。どうして二人に嫌疑がかかるんだい」
「お兄さん御存じないの。昨夜《ゆんべ》十二時頃、轟さんと呉羽さんとが、支配人の眼の前で大喧嘩をなすった事を……」
「知らなかったよ。俺はその頃お前と二人で、ここで茶を飲んでいたんだから」
「ええ。そうよ。ですから妾も知らなかったんですけどね。小間使のイチ子さんが今朝《けさ》になって、その事をおヨネさんに話したんですって……そうしたらおヨネさんがビックリしちゃってね。その喧嘩の話は決して喋舌《しゃべ》っちゃイケナイって云ってねあの女《ひと》、自分がオセッカイのお喋舌《しゃべり》のもんですから、イチ子さんにシッカリと口止めをしといてから、わざわざやって来てソッと私に知らしてくれたのよ。こちらでも気《け》ぶりにも出さないようにして下さいってね。おかアしな女《ひと》よ。おヨネさんたら……ホホホ。あたし最初、何の事だかわかんなかったわ」
「ああ。その話かい。今朝《けさ》、台所で暫くボソボソやっていたのは……一体何の喧嘩だい。轟さんと呉羽さんと言い争った原因というのは……」
「妾たち二人を追い出すとか出さないとかいう話よ」
「ナニ……俺たちを追い出す……?……」
「ええ。そうなんですって。何故だかわかんないんですけど」
「……ケ……怪《け》しからん。俺は今まであの轟をずいぶん助けてやっているのに……」
「……そんな事云ったって駄目よ。御恩比べなんかすると馬鹿になってよ」
「馬鹿は最初から承知しているんだ。向うはホンの些《ちっ》とばかりの金を出してくれただけだ。それに対してこちらは、お金で買えない天才を提供しているじゃないか。しかも有らん限りの生命《いのち》がけで……」
「お兄さん馬鹿ね。そんな事云ったって誰も相手にしやしませんよ」
「一体ドッチが俺たちを追い出すと云うんだ」
「轟さんが追い出すって云うのを呉羽さんが、理由なしにソンナ事をしてはいけないってね。泣いて止めていらっしたそうよ」
「当り前だあ」
「当り前だかドウだか知りませんけどね。もしソンナ話があったのを妾たちが聞いたって事が警察にわかったら大変じゃないの。お兄さんの極端に激昂し易い性格は、みんな知っている事だし、あの家《うち》の案内は残らず御存じだし……万一、疑いがかかったら大変と思ってね妾ずいぶん心配したのよ」
「馬鹿な……俺はソンナ馬鹿じゃない」
「だって今みたいに昂奮なさるじゃないの……話がわかりもしない中《うち》に……」
「……ウウン……それあ……そうだけど……」
「……ね……ですから妾は直ぐにアリバイの説明の仕方や何かについて考えたわ。……ずいぶん苦心したことよ」
「そんな事は苦労する迄もないじゃないか。昨夜《ゆうべ》はチャントここに寝てたんだから……」
「まあ。そんなアリバイが成立する位なら苦心しやしないわ。お兄さんたら探偵作家に似合わない単純な事を仰言るのね。でもその寝ていらっしゃるところを誰か他所《よそ》の人が夜通し寝ないで見ていなくちゃ駄目じゃありませんか。妹の妾が証明したんじゃ証明にならないんですからね。それ位の事は御存じでしょう。貴方だって……」
「ウム。そんならドンナアリバイを考えたんだい」
「それがなかなか考えられないのよ。ですからね。今夜、貴方がお帰りになったら、よく相談しましょうと思って待っていたら、イツモの十一時になってもお帰りにならないでしょ。劇場《こや》の方へ電話をかけてみたら、もうお芝居はトックにハネちゃって、呉羽さんと二人でお帰りになったって云うでしょう。ですからテッキリあのアルプスに違いないと思って電話をかけたらテッキリなんでしょう。ですからその電話に出たボーイさんに頼んであすこの受話機を……ちょうど貴方の背後《うしろ》に在る木の空洞《うつろ》の中の卓上電話を外しっ放しにして受話機を貴方の方に向けておいてもらったのよ。ですから貴方と呉羽さんのお話が何もかも筒抜けに聞えたのよ。あの家《うち》はいつもシーンとしているんですからね」
「エライッ。名探偵ッ……握手して下さいッ」
「馬鹿ね。お兄さま……あの女《ひと》の云う事、信用していらっしゃるの……」
「あの女《ひと》って誰だい」
「誰って彼女《あのひと》以外に誰も居なかったじゃないの……」
「呉羽さんが僕と結婚してもいいって話かい」
「ええ。あれは絶対に信用なすっちゃ駄目よ」
「エッ……どうして……」
「どうしてったって呉羽さんは、お兄さんと結婚してもいいって事をハッキリ仰言りやしなかったわ」
「……………」
 兆策は額を押えて椅子に沈み込んだ。
「フ――ム。そうかなあ……」
「そうよ。彼女《あのひと》の話は陰影がトテモ深いんですから、用心して聞かなくちゃ駄目よ。たといソンナ事をハッキリ仰言ったにしても、それあ嘘よ……キット……」
「どうしてわかるんだい。そんな事が……お前に……」
「女の直感[#底本では「直観」と誤記]よ。……第三者の眼よ……」
「それだけかい……」
「それだけでも十分じゃないの。あたし……あの呉羽って女《ひと》……キット深刻な変態心理の持主だと思うわ」
「直感でかい」
「いいえ。色んな事からそう思えるのよ。第一あの女《ひと》は貴方がホントに好きなんじゃない。妾が好きなのよ……それも死ぬほど……」
「ナ何だって……真実《ほんと》かいそれあ……」
 兆策は飛上らんばかりにして坐り直した。
「シッ。大きな声を出しちゃ嫌よ。外に聞こえるから……ホントなのよ。間違いないのよ。あの女《ひと》は、妾と近しくなりたいために、お兄さんと心安くしていらっしゃるのよ。あの女《ひと》がお兄さんを見送っている眼と唇に気をつけていると、トテモ他所他所《よそよそ》しい冷めたさを含んでいるのよ。お兄さまを冷笑しているとしか思えない事さえあるわ。あたし何度も何度も見たわ」
 兆策は血の気《け》の失せかけた頬と額を、新しいハンカチでゴシゴシと力強く拭いた。
「フーム。それじゃ、お前を好いている事は、どうしてわかったんだい」
「あたし、お兄さんの前ですけどね。あの女《ひと》がこの頃、怖くて仕様がないのよ。……あの女《ひと》はね。妾を好いていると云った位じゃ足りないで、心の底から崇拝しているらしいのよ。トテモおかしいのよ。妾がズット前にあの女《ひと》の部屋に忘れて行った黄色いハンカチを大切に仕舞《しま》っておいて、何度も何度も接吻してんのよ。妾が偶然に行き合わせた時に、周章《あわ》てて隠しちゃったんですけど、そのハンカチにあの人の口紅のアトが残ってベタベタ附いているのが見えたわ」
「ウフッ。気色の悪《わ》りい……ホントかいそれあ」
「お兄さんに嘘を吐《つ》いたって仕様がないじゃないの。いつでもあの女《ひと》の妾を見ている眼の視線は、妾の横頬にジリジリと焦げ付くくらい深刻なのよ」
「ヘエッ。驚いたね。それじゃ……つまり同性愛だね」
「そんなものらしいのよ。持って生まれた性格を舞台の上でイタメ附けられている荒《すさ》んだ性格の人に多いんですってね。呉羽さんなんか尚更《なおさら》それが烈しいのでしょう。ですから妾……お兄さんの事さえなけあこの家《うち》を逃出そうと思った事が何度も何度もあるくらい気味が悪かったんですけどね……ロッキー・レコード会社から専属になってはドウかってね、或る親切な人から何度も何度も云って来ているんですけど、断っちゃってジイッと我慢し通してんのよ」
「馬鹿……何だって断るんだ。そんな美味《うま》い口を……」
「だって妾が二百円取ってお兄様を養うよりも、妾がお兄さまの百円の御厄介になっている方が嬉しいんですもの……」
「うむ。そうかッ……感謝するよ……」
 兆策はモウ眼を真赤にしていた。
「でも……トテモ息苦しいのよ。だって同性愛なんて日本にだけしかない事でしょう。朝鮮《おくに》ではソンナ話、聞いたこともないんですから、ドウしたらいいのかわかんないんですもの。呉羽さんと同じ位に妾が呉羽さんを好きにならない限り、どうする事も出来ないじゃないの。女蛇に魅入られたようなタマラナイ気持になるだけよ。それがトテモ底強い魅力を持って迫って来るんですから尚更《なおさら》、息苦しくなって来るのよ」
「手紙も何も来ないのかい呉羽さんから……」
「イイエ。そんなもの一度も来たことないわ。妾が現実にそう感じているだけなの」
「フ――ム。そうすると……どうなるんだい……ボ……僕は……」
「アラ泣いていらっしゃるの……お兄様は……」
「泣いてやしないよ。怖いんだよ。僕は……」
「チットモ怖いことないわ。お兄様はただあの女《ひと》に欺されていらっしゃればいいのだわ。あの女《ひと》は、まだ轟さんを殺した犯人について疑っていらっしゃるのでしょう……ね……そうでしょう。ですから貴方に頼んで探してもらおうと思っていらっしゃるんですから、その通りにしてお上げになったらいいでしょう」
「何だか訳がわからなくなっちゃった。つまり僕はあの女《ひと》の云うなりになっていればいいんだね」
「ええ。そうよ。こっちがあの女《ひと》を疑っているソブリなんかチットも見せないようにしてね。そうしていらっしゃる中《うち》にはヒョットしたらあの女《ひと》だって、お兄様をお好きにならないとも限らないわ」
「タヨリないなあ。お前の云う事は……モット確《しっか》りした事を云っとくれよ」
「だって将来《さき》の事なんかわかんないんですもの……貴方みたいに正直に、何もかも真《ま》に受けて、青くなったり、赤くなったり……」
「オイオイオイ。電話で顔色がわかるかい」
「アラッ。バレちゃったのね。トリックが……」
「トリック。何だいトリックって……」
「ホホホ。何でもないのよ。あたし今夜あなたのアトから直ぐに家《うち》を閉めて出かけたのよ。だってコンナ時にはトテモたった一人でお留守番なんか出来ないんですもの。家《うち》の中には貴方の原稿以外に貴重品なんか一つも無いでしょう。……それからね。序《ついで》に途中で寄道をしてロッキー・レコードへ寄って契約して来ちゃったわ。一個月二百円で……」
「ゲエッ。ほんとかい……それあ……」
「ええ。だって轟さんが死んじゃったら妾たちだって相当の覚悟をしなくちゃならないんでしょう。契約書見せましょうか……ホラ……」
「ウウムム。ビックリさせるじゃないかヤタラに……」
「世話してくれた人トテモ喜んでたわ。妾の声は西洋人がヤタラに賞めるんですってさあ。この間テストした時に……ですからモウ誰の世話にならなくとも大丈夫よ。轟さんから受けた御恩を呉羽さんにお返しするだけよ」
「お前はたしかに俺より偉いよ。今夜という今夜こそ完全にまいった」
「ホホホ。まだエライとこ在るのよ」
「ナナ何だい一体……」
「当てて御覧なさい」
「わからないね」
「さっきの電話の話ウソよ」
「ヘエッ。何だって……」
「アラッ。まだわかっていらっしゃらないのね」
「だって、まだ何も聞きやしないじゃないか、トリックの事……」
「自烈度《じれった》いお兄さんたらないわ。あのね……あたし今夜貰った契約の前金で変装して今夜のお芝居見に行ったのよ。そうして貴方と呉羽さんのアトを跟《つ》けてアルプスへ行って、お二人の話を横からスッカリ聞いてたの……鳥打帽を冠って色眼鏡をかけて、レインコートの襟を立てて煤《すす》けたラムプの下にいたから、わからなかった筈よ。あすこのマダムはやっぱり朝鮮《おくに》の人で、ズット前から心安いのよ。ロッキー・レコードの支配人の第二号なんですからね。今度の話もあのマダムが世話してくれたのよ」
「驚いた……驚いた……驚いた……」
「まだビックリなさる事があってよ。あの笠っていうお爺さんね」
「可哀そうに、お爺さんは非道《ひど》いよ」
「あの笠圭之介って人を貴方はホントの犯人と思っていらっしゃる?」
「さあ。わからないね。当ってみない事には……」
「そう。それじゃ当って御覧なさい。あの人ならお兄様に対して無暗《むやみ》な事はしない筈ですから……」
「何だいまるで千里眼みたような事を云うじゃないかお前は……事件の真相を残らず知ってるみたいじゃないかお前は……」
「ええ。知ってるかも知れないわ……でも、それは今云ったら大変な事になって、何もかもわからなくなるから、云わない方がいいと思うわ」
「ふうむ。そんなに云うなら強《し》いて尋ねもしないが、しかしそのわかったって云うのは、犯人に関係した事かい……それとも事件全体に……」
「ええ。そう事件全体の一番ドン底に隠されている最後の秘密よ。トテモ神秘的な……そうして芸術的にも深刻な秘密よ。それさえハッキリとわかれば妾は自分の一生涯を棄てても、その秘密の犠牲になって上げていいわ」
「オイオイ。物騒な事を云うなよ……オヤッ。美《み》いちゃん……泣いているのか」
「……だって……アンマリ可哀そうなんですもの……その秘密の神秘さと、芸術的な深さの前には妾の一生なんか太陽の前の星みたいなんですもの……」
「いよいよ以《もっ》て謎だね」
「ええ。どうせ謎よ。この世の中で一番醜い一番美しい謎よ。それさえ解れば今度の事件の真相が一ペンにわかるわ」
「いよいよわからないね。何だか知らないけど、わからない方がよさそうな気がする」
「ええ。妾もよ。わかったら大変よ」
「いったいいつからソンナ事を感付いたんだい」
「ヤット今夜感付いたのよ。あの女《ひと》と貴方のお話を聞いているうちに……」
「……ど……どんな事だい。それは……」
 兆策が突然に立上った勢がアンマリ凄まじかったので、妹の美鳥も思わず立上ってしまった。そうして少し涙ぐんだまま頬を真赤に染めた。
「あの女《ひと》がね……貴方と向い合って話している横顔を、暗いところからコンパクトの鏡に写してジイッと見ている中《うち》に、妾、胸がドキドキ[#底本では「ドキドキドキ」と誤記]して来たのよ……鏡ってものは魔者ね……やっぱり……」
 兄妹は見る見る青ざめて行く顔を見合わせた。
「ふうん。どうして胸がドキドキしたんだい」
 美鳥はいよいよ涙ぐんだようになって、うつむいた。紅茶を入れかけたままの白いエプロンの端を弄《もてあそ》び弄び耳まで赤くなってしまった。口籠もり口籠もり云った。
「呉羽さんはアンマリ……アンマリ美し過ぎると思ったの……」

 あくる日も引続いた上天気であった。
 夜が明けると、思い切って早起して、いつもの通りに凝《こ》った和装の身支度を済ました女優呉羽嬢は、直ぐに轟家の顧問弁護士、桜間法学士を呼付けた。既に自分の名前になっている自宅の建築と地面を抵当に入れて堀端銀行から一万八千円の金を引出し、その中《うち》から三千円を分けて江馬|兄妹《きょうだい》を呼出し、桜間弁護士立会の上で手渡ししてキチンとした受取を入れさせた。それから弁護士を除いた三人で桐ヶ谷の火葬場にタクシーを乗付け、轟九蔵氏の遺骨を受取って来て故人の自室に安置し、附近の寺から僧侶を招いて読経してもらった。
 焼香の時に一番先に仏前に立った呉羽は、長い事手を合わせて、何か口の中でブツブツと祈りながら肩を震わして泣いていたが、その態度がアンマリ真剣だったので江馬|兄妹《きょうだい》は勿論、女中のおヨネまでも眼を潤ませていた。ところが故意か偶然かわからないけれども、そのおしまいがけになって呉羽の祈っている呟やき声に、何とも云えない気味の悪い底力が這入って来て、シンとした西洋|室《ま》の中にハッキリと沁《し》み透り初めたので皆真青になって顔を見合わせた。
「……何もかも……貴方も……わたくしも……二十年前から間違って来ておりました……わたくしは、それを自分の手で公表さして頂きとう御座います……正しい姿に改めさせて頂きとう御座います……すべての間違った恩も怨みも……一掃さして頂きとう御座います……どうぞ成仏なすって下さい……南無阿弥陀仏……」
 それから彼女は、まだ僧侶達が帰らない中《うち》に呼びつけのタキシーの高級車を呼んで、弦《つる》を離れた矢のように飛出て行った。一直線に帝国ホテルに乗付けて、東洋一の興行師と呼ばれているトキワ興行社長の段原《だんばら》万平氏に面会し、呉服橋劇場をタッタ五万円で来る九月十日限り売渡す約束をしてしまった。
 それから呉羽は又一直線に自宅に引返して桜間弁護士を自分の寝室に呼寄せ、留守の事や契約の事なぞを色々と細かに頼んで後《のち》、呉服橋劇場専属の俳優二十七名の中《うち》から選出《よりだ》した男女優僅に十余名を眼立たぬように変装させて、コッソリと上野駅を出発し、どこへか姿を消してしまったという事が、轟氏殺害犯人の逮捕に引続いて各新聞に報道され、満都の好奇心を聳動《しょうどう》した。しかし、それもホンノちょっとの間の事で、世間の人はいつの間にかそんな事を忘れるともなく忘れていた。
 とはいえ呉服橋劇場の探偵劇と異妖劇の味を心から愛好していた一部の尖端都会人は、事実、火の消えたような淋しさを感じていたらしい。折ふし場末の活動館にかかった面白くも何ともない独逸《ドイツ》の怪奇映画「笑う心臓」というのが連日、割れるような大入りを占めたのを見ても、そうした怪奇モノに飢えている都会人の心裡がアリアリと裏書きされていた。実際、敏感な文壇の人々や劇評家、芸術家の中《うち》には「呉服橋劇場を救え」とか「邪妖劇と都会人」とか「怪奇劇と女優」とかいったような「クレハ嬢礼讃」を中心とする文章を来月号の雑誌に投稿すべく、熱心に執筆していた人々も、実際に居たのであった。ところが、こうした一種の純真な意味の都会人の憂鬱は、それから間もない一箇月目に物の美事に粉砕されてしまった。東京市中でも有力な十大新聞の九月四日の朝刊の全面広告を見た人々は皆アッと驚かされたのであった。
 その全面広告の中央には五寸四方ぐらいの呉羽嬢の丸髷姿の写真が、薄い小さな唇の片隅から白い歯をすこしばかり洩らした、妖美な笑いを凝固させており、その周囲に一寸角から初号、一号活字ぐらいの赤や黒の大活字が重なり合って踊りまわっていた。「呉服橋劇場蘇える」「新劇場主[#底本では「王」と誤記]天川クレハ嬢主演」「邪妖探偵劇――二重心臓」「原作エドガア・アラン・ポーの秘稿」「最近仏国|巴里《パリー》市場に於て二百万|法《フラン》を以てグラン・ギニョール座専属パオロ・オデロイン夫人の手に落札せられしもの」「斯界第一人者江馬兆策先生翻案脚色」「凄絶、怪絶、奇絶、快絶、妖美無上」「九月七日午後五時開場六時開演」「特等(指定)十円」「普通五円、三円、前売せず」等々々……それから中一日置いて六日と七日の朝刊には又、奇妙な事に、都下著名新聞の「轟氏殺害事件」に関する記事を一々抄録して掲載し、その最下段に四号活字で次のような説明を付けていた。
[#ここから1字下げ]
「諸君はこの劇を見る前に想起して頂きたい。今日から約一箇月前の八月三日の夜、前当劇場主を殺害した不思議な犯人のことを……。その当時、敏捷なその筋の手配により、事件後数時間を出でずして捕まった犯人生蕃小僧こと、本名石栗虎太は、まだ轟氏殺害の理由について一言も供述せず、従って一切はまだ巨大な疑問符の蔭に蔽い隠されている現情であるが、偶然にも当日興行される大天才ポー原作の『二重心臓』に用いられている物凄いトリックは、創作後百年を経過した今日に於て、この満天下を震駭した犯行の大疑問符を、遺憾なく抹消するに足る意外千万な鍵を指示している事を筆者は明言して憚らない者である。復活呉服橋劇場第一夜の演題にこの神秘邪妖探偵劇『二重心臓』を筆者が推選した理由は実に懸ってこの一事に潜在しているので、現代社会の裏面の到る処に波打っているであろう邪妖怪『二重心臓』の鼓動が、如何にしてこの奇怪なる大犯罪事件を描き現わしたかという真相、経過を諸君の眼前に展開しあらわす時、諸君の脈搏を如何に乱打させ、諸君の血管を如何に逆流させ、全身を粟立たせ、頭髪を竦立《しょうりつ》せしめるであろうか。凄愴感、妖美感に昏睡せしむるであろうかは、筆者の想像の及ぶところでないであろうことをここに謹んで付記しておく。九月 日 江馬兆策識」[#『江馬兆策識」』は地付き]
[#ここで字下げ終わり]
 なおそうした記事の中央に在る血潮の滴る形をした真赤な?符《ぎもんふ》[#ルビは「?符」に掛かる]の輪の中に髪を振乱した呉羽嬢がピストルを真正面に向けて高笑いしている姿が荒い網目版で印刷してあった。

「まあ。お兄さま」
「おお。美鳥《みいちゃん》。御機嫌よう」
「まあ……今夜の入場者《いり》タイヘンじゃないの。コワイみたいじゃないの――」
「ウン。呉服橋劇場空前のレコードだよ」
「あたし此席《ここ》へ来るのに死ぬ思いしてよ。正面の特等席て云ったんですけど、入口から這入ろうとすると押潰されそうになるんですもの。ヤット寺本さんに頼んで楽屋口から入れてもらったのよ……ああ暑い……ずいぶんお待ちになって……」
「イヤ。ツイ今しがたここへ来たんだ」
「あら。お兄様ずいぶん日にお焼けになったのね」
「ヤット気が付いたのかい。フフフ。これあ温泉焼けだよ。紫外線の強いトコばかり廻っていたからね。お前は元気だったかい」
「ええ。モチよ。あたし四五日前から神戸に行ってたのよ。そうして今朝《けさ》、家《うち》へ帰ってから、貴方の電報を見てビックリしてここへ来たのよ」
「神戸へ何しに行ったんだい」
「それが、おかしいのよ。六甲のトキワ映画ね。あそこから大至急で秘密に来てくれってね。あのアルプスの主婦《ママチャン》の妹さん……御存じでしょう。会計をやってらっしゃる貴美子さん……いつも妾達《わたしたち》によくして下さる。ね……あの人に頼まれたもんですからね。貴美子さんと二人で行ってみたらトテモ大変な目に会わされちゃったのよ」
「何か唄わせられたのかい」
「それが又おかしいのよ。着くと直ぐに美容院の先生みたいな人が妾を捕まえて、お湯に入れて、お垂髪《さげ》に結わせて、気味の悪いくらい青白いお化粧をコテコテ塗られちゃったのよ」
「ハハア。スクリン用のお化粧だよ。それじゃあ……エキストラに雇われたんだね」
「ええ。そうらしいのよ。筋も何もわからないまんまに、美術学校のバンドを締めさせられて、学校の教壇みたような処へ立たされて『蛍の光』を日本語で歌わせられたの……そうして三分ばかりして歌が済んじゃったら監督みたいな汚ない菜葉《なっぱ》服の人が穴の明《あ》いたシャッポを脱いでモウ結構です。アリガトウ……って云ったきりドンドン他の場面を撮り初めるじゃないの。おまけに皆《みんな》して妾をジロジロ見ているでしょう。貴美子さんはソコイラに居ないし、帰り道は知らないし、妾、どうしていいかわからなくなっちゃって、モウ些《すこ》しで泣出すところだったのよ」
「馬鹿だね。エキストラなんかになるからさ」
「そうしたらね。その中《うち》にどこからかヒョックリ出て来た貴美子さんが、妾をモウ一度お湯に入れて、身じまいを直させている中《うち》に、頬ペタに赤|痣《あざ》のある五十位の立派な紳士の人が、セットの中で、妾に近付いて来てね。妾に名刺を差出しながら、どうも飛んだ失礼を致しました。こちらへドウゾと云ってね。妾と貴美子さんを自動車へ乗せてミカド・ホテルへ連れて行ってサンザ御馳走をして下すった上にね。京都や大阪や奈良あたりを毎日毎日、御自分の高級車で同乗して、見物させて下すったのよ。どこか貴方とお兄様とで、別荘をお建てになりたい処があったら、御遠慮なく仰言って下さいって……トテモお兄さまの脚本を賞めてらしたわ」
「オイオイ。お前ドウカしてやしないかい」
「イイエ。ほんとの話なのよ。そうして帰りがけにトテも立派なリネンの洋服と、ダイヤの指輪と、舶来の帽子とハンドバッグと、靴と、トランクと、一等寝台の切符と……」
「チョット待ってくれ美鳥《みいちゃん》……イヨイヨおかしい。美鳥《みいちゃん》は僕の留守に、竈《へっつい》の神様へ唾液《つばき》を吐きかけるか何かしたんだね」
「アラ。そんならお帰りになってから品物をお眼にかけるわ。また、そのほかにお金を千円頂いたのよ」
「タッタ三分間でかい」
「ええ。ここに持ってるわ」
「馬鹿。いい加減にしろ」
「あら。お聞きなさいったら……それから帰って来てロッキーの支配人にお眼にかかって、そんなお話をしたら……貴美子の奴、飛んでもないイタズラをしやがる……ってね。真青になって聞いてらしったわ。そうしてイキナリ私の前に手を突いて、どうもありがとう御座いました。よく帰って来て下さいました。あの人にかかっちゃ叶いません。どうぞ、これから後《のち》トキワ映画へお這入りになるような事がありましても、私の方の契約だけは、お約束通りにお願い致します……ってペコペコあやまってんの。ツイ今サッキの事よ。あたし何の事だか、わかんなくなっちゃったわ」
「その名刺、ここに持ってんのかい」
「ええ。ここに在るわ。段原っていう人よ。あたしどこかで聞いた事があるように思うんですけど……」
「エッ……段原……それあお前アノ興行王じゃないか……東洋一の……」
「アラッ。そうそう……あたし写真ばっかり見てたから気が付かなかったんだわ。あの人に妾見込まれたのか知ら……」
「……ウーム。大変な事になっちゃったね」
「あたしドウしましょう」
「ところで本職のロッキー・レコードの方の成績はドウダイ……」
「それが又おかしいのよ。故郷《おくに》の小唄ばかり入れさせられるのよ。故郷《おくに》の発音を西洋人が聞くとトテモ音楽的なんですってさあ。他の人が歌ったんじゃ駄目なんですって……」
「妙だね。ウッカリすると、そいつもやっぱりメード・イン・ジャパンのお蔭かも知れないぜ」
「そうかも知れないわ。でもね、妾の唄った『島の乙女』の裏表が七千枚ずつ二度も亜米利加《アメリカ》へ出たそうよ。ですから妾、今月はトテモホクホクよ」
「……驚いたね。アンマリ早くエラクなり過ぎて恐しいみたいじゃないか」
「そうしてお兄様の方の成績はドウ?」
「お前とウラハラだ。何もかも滅茶滅茶さア」
「まあ。でも無事にお帰りになってよかったわ」
「いや。まだわからないよ。無事だかどうだか」
「どうしてコンナに早くお帰りになったの……九月の十日過に帰るって仰言ったのに……」
「どうしてってあの今月四日の新聞を見たからさ。急に心配になって来たからね」
「……アラ……妾もよ。ずいぶん心配しちゃったわ。だってお兄様が熱海からお送りになった、今度のお芝居の脚本を弁護士の桜間さんにお渡しする前にチョット盗み読みしていたでしょう。あの脚本でアンナ大袈裟な広告をするなんて、ずいぶんヒドイと思ったわよ。呉羽さんの身上話《みのうえばなし》まる出しなんですもの。ポーの原作でも何でもありゃしない」
「ウン。僕が心配したのもソレなんだよ。立派な広告詐欺だからね。おまけにお前、あの脚本は呉羽さんの命令で全部骨抜きだろう。今度の事件の核心に触れているところなんかコレンバカリもありあしない。何でもカンでも上演脚本《アゲホン》がパスさえすれあ、それでいいって云うんだからその通りに書いておいたのさ。それから直接に桜間弁護士に立山から長い電報を打って様子を聞いてみると、あの脚本にはロクに眼も通さないまま、呉羽さんが出発しちゃったという返事だろう。弱ったよ全く。ドンナ本読みをしてドンナ稽古を附けているんだか丸きり見当が付かないんだからね。笠のオヤジの生蕃小僧問題なんかホッタラかしちゃって、座員の寺本に電報を打って、この特等席を二つ取ってもらって、その返事を見てから大急ぎで帰って来たんだがね。その途中で美鳥《みいちゃん》にあの電報を打ったのさ」
「道理で……あたし、ちょっと意味がわからなかったわ。だって『スグテラモトニデンワセヨ』っていうんですもの。あたしアンナ女たらしの役者の人に会わなくちゃならないのかと思ってヒヤヒヤしちゃったわ」
「美鳥《みいちゃん》は相変らずお固いんだね」
「笠さんは今、どこに居らして?」
「モウ帰って来ている筈だがね。越中の立山に居たんだが」
「アラ。マア。あんな処へ……」
「ウン。どうやらお前の予言が当ったらしいんだ。俺は呉羽さんから良《い》い加減ドンキホーテ扱いにされていたらしいんだ」
「まあ……どうして……」
「どうしてって馬鹿な話さ。笠支配人は何でもないんだよ。僕があの脚本を書上げると直ぐに、彼奴《あいつ》に取りかかってやったんだ。犯人は貴様だろう……って威嚇《おどか》し付けてやったら、一ペンに青くなっちゃってね。色々弁解しやがるんだ。下らないアリバイなんか出しやがってね……そのうちにドウモ此奴《こいつ》は生蕃小僧なんて恐れられるようなスゴイ人物じゃないらしいって感じがして来たんだ。しかし、それでも猫を冠っているんじゃないかと思って、色々変相して附け狙っていると、彼奴《あいつ》め殺されるとでも思ったのか、素早く俺の変装を看破して、アッチ、コッチの温泉を逃げまわりやがるんだ。アイツは余っ程、温泉が好きなんだね。しかも行く先々で彼奴《あいつ》の狒々老爺《ひひおやじ》振りを見せ付けられてウンザリしちゃったよ。まったく……」
「妾も大方ソンナ事でしょうと思ってたわ」
「そのうちに今月の五日になって、立山温泉で東京の新聞のアノ広告を見ると正直のところ、二人ともビックリしちゃったんだね。これは大変だ。飛んでもない事が初まらなけあいいがと気が付くトタンに、二人とも何となく呉羽さんに一パイ喰わされて、睨めっこをさせられているような気がし初めたんだね。そこでドッチからともなく二人が寄り合って、ザックバランに膝を突き合わせて話合ってみると、ドウモ呉羽さんの二人に云った言葉尻が怪しい。これはこの興行の邪魔にならないように、吾々二人を東京から遠ざける計略じゃなかったのか……呉羽さんは、こうして吾々二人が承知しそうにない無鉄砲な興行を、自分一人でやっつける了簡《りょうけん》じゃないのか……という事になって来ると、まさかとは思いながら二人とも急に不安になって来たもんだから、大急ぎで勝手な汽車に乗って帰ることに話をきめたもんだ」
「ずいぶん鈍感ねえ。お二人とも……」
「そう云うなよ。呉羽さんの腕が凄いんだよ」
「それからドウなすって……」
「ところがサテ……帰って来てみると俳優たちは一人残らず口止めをされていると見えて、芝居の筋なんか一口も洩らさない。それから考えて楽屋裏の大道具を覗いてみると、まだハッキリはわからないが、ドウモ僕の註文した場面とは違うような道具が出て来るらしいので、イヨイヨ心配になって来た。だから藪蛇かも知れないとは思ったがツイ今しがたの事だ。此席《ここ》へ来る前に警視庁の保安課へ寄って、興行係の片山っていう心安い警部に会って、済まないがモウ一度あの上演本《あげほん》を見せてもらえまいかって頼むとドウダイ。イキナリ僕の手をシッカリと握って離さないじゃないか……あの筋書はどこから手に入れた……って眼の色を変えて聞くんだ。俺あギョッとしちゃったよ。まったく……」
「……そうでしょうねえ……ホホ……」
「片山警部の話はこうなんだ……あの二通の上演脚本《あげほん》は八月の十五日に願人《ねがいにん》の桜間っていう弁護士から受取って、九月の三日に許可したものだが、その九月六日……昨日《きのう》の朝の事だ、新聞の広告を見た大森署の司法主任の綿貫警部補っていうのがヒョッコリと警視庁へ遣って来て、あの『二重心臓』の上演脚本《あげほん》を見せてくれと云うのだ。お安い御用だというので見せてやると、読んでいる中《うち》に綿貫警部補の顔が真青になって来た。……済まないが、ほんのチョットでいいからこの脚本《ほん》を貸してもらえまいかという中《うち》に、引ったくるようにポケットに突込んで、無我夢中みたいに自動自転車《オートバイ》に飛乗って帰った」
「……まあ怖い……」
「それから夕方になって汗だくだくの綿貫警部補が、礼を云い云い返しに来た時の話によると大変だ……あの筋書は、この間死んだ轟九蔵氏と、犯人以外に一人も知っている筈がない。きょうが今日まで犯人に、あの筋書と同じような事実について口を割らせようと思って、どれ位、骨を折ったかわからないんだが、あの上本《あげほん》が手に這入ったお蔭で犯人がヤット口を割った。多分作者が、死んだ轟氏から秘密厳守の約束か何かで聞いていた話だろうと思って、まだ大森署に置いてある犯人に、あの筋書を読んで聞かせて、間違っている処を訂正させた序《ついで》に、呉羽さんの興行の話を聞かせてやったら、ドウダイ突然に顔色を変えて、その興行を差止めて下さいと怒鳴り出したもんだ。折角の私の苦心が水の泡になりますと云うんだそうだ」
「生蕃小僧がそう云うの……」
「ウン。怖い顔から涙をポロポロこぼして泣きながら、私の一生のお願いで御座います。ドウセ死刑になります身体《からだ》に思い残す事はありませぬが、こればっかりはお情です。どうぞやドウゾお助けを願います。さもなければここで舌を噛んで死にます……と云って、しまいにはオデコを板張に打ち附けて、顔中を血だらけにして、キチガイのように暴れまわりながら哀願するんだそうだ」
「……まあ……何て気味の悪い……」
「……だから綿貫司法主任が、そんならその貴様の苦心というのは何だって聞いてみたら、こればっかりは御勘弁を願います。とにかくそのお芝居ばっかりは、お差し止めにならないと大変な事になります。さもなければ、そのお芝居の初まる前にモウ一度天川呉羽さんに会わして下さい。お願いですお願いですと滅法《めっぽう》矢鱈《やたら》に駄々《だだ》を捏《こ》ねて聴かないのには往生した。死刑囚にはよくソンナ無理な事を云って駄々《だだ》を捏ねる者が居るそうだがね。それにしても何が何だか訳がわからないもんだから、昨日《きのう》から大騒ぎをして僕の行衛《ゆくえ》を探していたところだった……という、その保安課の片山警部の話なんだ」
「まあ……それからドウなすって……」
「僕も何が何だか、わからなくなっちゃったからね。ナアニ、あの脚本はやはりお察しの通り轟さんから生前に聞いた通りの事を勧善懲悪式に脚色しただけのものなんです。それじゃ今から大森署へ行って、司法主任に会って、よく相談して来ましょう……と云って、逃げるように警視庁を飛び出して来たのがツイ二時間ばかり前なんだ。それから危ないと思ってここに来て、楽屋裏に隠れていたんだ。ウッカリ捕まると、芝居が見られなくなると思ったからね」
「まあ。それでヤット訳がわかったわ。あのね、警察の人にはドンナ事があっても呉羽さんから聞いたって仰言っちゃ駄目よ」
「勿論さ。轟さんから直接に聞いた事にするつもりだが、それでも今夜、この芝居を見たら直ぐにも大森署へ行ってみなくちゃならん。犯人にも会わなくちゃなるまいかとも思っているんだが、とにかくこの芝居の演出を見た上でないと、カイモク方針が立たないんだ」
「どうして犯人がソンナにこの芝居を怖がるのでしょう。どうせ死刑になる覚悟なら、それより怖いものはない筈でしょうに……」
「さあ。ソンナ事はむろん、わからないね」
「それにしても今夜の場内《いり》スゴイわね。この中に生蕃小僧の人気が混っていると思うと、妾何だか気味が悪いわ。みんな死刑を見に来たような顔ばかり並んでいるようで……」
「ウン。これが又、僕の心配の一つなんだ。あの広告じゃ、たしかにインチキの誇大広告だからね。第一ポオの原作っていうのからして大ヨタなんだから……僕が夢にも思い付かなかった作り事なんだからね。今夜の演出がわかったらキット興行差止《チリンチリン》を喰うにきまっている」
「アラ。今夜のお芝居も駄目になるの」
「イヤ。そんな事はないだろう。ドンナに無茶な芝居を演《や》ったって、思想や風教や政治向に関係してない限り、その場で臨席の警官から差止められるような事は、今までに一度も例がないんだからね……問題は明日《あす》の芝居なんだが」
「呉羽さんは今晩一晩でウント売上げようと思っていらっしゃるんじゃないの。罰金覚悟で……」
「そうかも知れんね」
「そんならトテモ凄い興行師じゃないの」
「ウン。しかも、そればかりじゃないんだよ。あの女《ひと》は世界に類例のない偉大な女優であると同時に、劇作と犯罪批評の天才だよ。……同時に悪魔派の詩人かも知れないがね」
「あたし何だかドキドキして来たわ」
「暑いからだろう」
「イイエ。呉羽さんの天才が怖くなって来たのよ。ドンナ演出をなさるかと思って……」
 こんなヒソヒソ話が進行しているのは一階正面中央の特等席であった。旅疲れのままで、一層、醜くくなった職工風の江馬兆策と、青白いワンピースに、タスカンのベレー帽をチョッと傾けた、女学生みたいに初々《ういうい》しい美鳥の姿は、世にも微笑ましいコントラストを作っているのであった。

 呉服橋劇場内は、文字通りの殺人的大入であった。あまりの大入りなので観客席の整理が不可能になったらしい。外廊《そとろう》から舞台の直前まで身動き出来ない鮨詰《すしづめ》で、一階から三階までの窓を全部|明放《あけはな》し、煽風機、通風機を総動員にしても満場の扇《うちわ》の動きは止まらないのに、切符売場の外ではまだワアワアと押問答の声が騒いでいるのであった。
 定刻の六時に五分前になると場内から拍手の洪水が狂騰した。その真正面の幕前の中央に、若い背の高い燕尾服の男が出て来て、恭《うやうや》しく観客に一礼して後《のち》、何事か喋舌《しゃべ》り出したからであった。それも最初の間はさながらにこうした未曾有《みぞう》の満員状態を面白がっているような盲目的な拍手に蔽われて、言葉がよく聞き取れなかったが、その中《うち》に群集のドヨメキが静まると、やがて若々しい朗らかな声が隅々までハッキリと反響し初めた。
「あら。アレ寺本さんじゃない?」
「ウム。以前《もと》はロッキー専属のテノルで相当のところだったよ」
「いい声ね……」
「ええ。ところで早速では御座いますが、今晩のお芝居の興味の中心と申しますのは、広告にも掲載致しました通り、前の当劇場主、故、轟九蔵氏を殺害致しました犯人の、まことに古今に類例のない恐ろしい心境を脚色し、的確にして且つ、意外千万な真犯人を指摘致しますところに在りますので、特に、最後の一幕と申しまするのは、このたび新しい当劇場主と相成りました天川呉羽嬢の独白、独演と相成っているので御座います。ふつつかながら斯界《しかい》に於きまして、仏蘭西《フランス》のパオロ・オデロイン夫人と相並んで、邪妖探偵劇の二|明星《みょうじょう》とキワメを附けられております天才女優、天川呉羽嬢が、その最後の独白、独演において、どのような物凄い演出を行い、この二重心臓の舞台面を、どのように戦慄的なクライマクスにまで導きますかという筋書は、遺憾ながら当の本人の天川呉羽嬢以外に、作者、座員一同の誰もが一人として存じておりませぬ事を、前以てお含みまでに申上げておきます。……すなわち今晩御来場の皆様は、過般、満都の諸新聞に報道されました探偵劇王、轟氏の遭難の実情を、一方《ひとかた》も残らず御存じの事として演出致しますので、従ってその遭難の実情に関する説明は、勝手ながら略さして頂きます。そうしてここにはただ斯様《かよう》な、予期致しませぬ過分の御ひいきのために、万一プログラムを差上げ落しました方が、おいでになりはしまいかと存じますから、そのような方々の、単なる御参考と致しまして、極めて心理的に構成されております各幕の内容を短簡に申上げさして頂くに止めます。
 第一幕……探偵劇王殺害事件の遠因――兇賊生蕃小僧と等々力久蔵親分活躍の場面。二場。
 第二幕……探偵劇王殺害の動機、及、殺害の現場《げんじょう》。二場。
 第三幕……探偵劇王の後継者、天川呉羽嬢、独白、独演。真相説明の場。一場。――以上――」
 満場割れむばかりの拍手が起ったが今度は直ぐにピッタリと静まった。舞台の片隅で冷たいベルの音が断続する中《うち》に、幕が静かに揚り初めたからであった。
 一階から三階までの窓は全部、いつの間にか閉されていた。場内はたまらない薄暗さと、蒸暑さに埋もれていたが、それでも何千の人が作る氷のような好奇心が、場内一パイに冴え返っていたせいであったろう。扇《おうぎ》の影一つ動かない深海の底のような静寂さが、一人一人の左右の鼓膜からシンシンと沁[#底本では「泌」と誤記]《し》み込んで来るのであった。
 第一幕、第一場は、静岡県見付の町外れの国道に面する草原《くさはら》の場面であった。その草原の中央の平石に腰をかけている若親分、等々力久蔵の前に、金モール服の薬売人《オッチニ》に化けた生蕃小僧こと、石栗虎太が胡座《あぐら》をかいて、ポケットの中からピストルを突付け、等々力久蔵の妻君の不行跡を曝露し、嘗て、或る処で、自分が等々力の妻君から貰ったという紫水晶の簪《かんざし》を見せびらかしつつ、甘木柳仙宅襲撃の仕事を見逃がしてくれるように頼み込む。等々力久蔵は暫く考えてから承諾の証拠に、紫水晶の簪を受取り、生蕃小僧と別れる。それから生蕃小僧が立去って後《のち》に、妻と世話人を草原に呼んで来て、証拠の簪を突付け、厳そかに離別を申渡し、涙を払いながら決然として立去る。木立の蔭からその光景を窺っていた生蕃小僧が立出で、腕を組んだまま物凄い冷笑を浮かべて等々力久蔵の後姿を見送り、
「トテモ追出しゃあしめえと思ったが……この塩梅《あんばい》では愚図愚図しちゃいられねえぞ」
 と独りでうなずきながら立去る場面《ところ》であった。
 続いて舞台がまわると甘木柳仙自宅の場で、等々力久蔵が柳仙夫婦から娘の三枝を借受け、それとなく三枝に左様ならを云わせ、思入れよろしくあって退場する。そのままの場面で日が暮れると生蕃小僧が忍び入り、柳仙夫婦を惨殺し、家《うち》中を探しまわって僅少の小遣銭を奪い、等々力久蔵に計られたかなと不平満々の捨科白《すてぜりふ》を残して立去るところであった。
 幕が締ると皆ホッとして囁き合った。
「ねえお兄様。イクラか書換えてあって?」
「ウン。それが不思議なんだ。この幕は大体から見て僕が書下した通りなんだ。あんな大道具をどこに蔵《しま》って在ったんだろう……ただ柳仙夫婦の殺されの場がすこし違うようだね。あんな風に老人の柳仙が頭からダラダラ血を流して拝むところなんぞはなかったよ。キット睨まれると思ったからカゲにしておいたんだがね」
「警察の人は来ているんでしょうか」
「来ていても今晩は何も云わないのが不文律みたいになっているから大丈夫だよ。その代り明日《あす》になるとキット差止めるとか何とか威かして来るにきまっているんだ。もっとも呉羽さんは、それを覚悟の前で演《や》ってるのかも知れないがね」
「……でも轟さんと呉羽さんの前身だけは今の幕で想像が付くワケね」
「ナアニ。みんな芝居だと思って見ているんだから、そんな余計な想像なんかしないだろう」
「そうかしら……でもポオの原作なんて誰も思やしないわよ。あれじゃ……」
「フフフ。黙ってろ。幕が開《あ》くから……オヤア……これあ西洋|室《ま》だ……おれア日本|室《ま》にしといた筈だが……」
「……シッシッ……」
 第二幕の第一場は大森の天川呉羽嬢邸内、轟九蔵氏自室の場面であった。部屋の構造から品物の配置、主人轟九蔵氏の扮装に到るまで、すべて実物の通りで、窓の外に咲き誇っている満開の桜までも、寸分違わない枝ぶりにあしらってある。
 その東の窓際の寝椅子に、着流しの轟九蔵氏が長くなっている足先の処に、美術学校の制服を着た、イガ栗頭の江馬兆策に扮した俳優が腰をかけている。その前に音楽学校のバンドを締めた美鳥ソックリの少女が姿勢正しく立って、美鳥のレコードを蔭歌にして独唱をしている体《てい》。それを轟氏が、如何にも幸福そうに眼を細くして聞いている。
「うらわかき吾が望み 青々と晴れ渡り
 かがやかに雲流る 大空よああ大空よ」
「うらわかき吾が思い はてしなく澄み渡り
 すずろかに風流る 大空よああ大空よ」
「ウム。なかなか立派な声になった。学校というものは有難いものだ」
 兄妹《きょうだい》同時に頭を下げる。
「ありがとう御座います」
「ああ。御苦労だった、お蔭でいい心持になった……ウム。それからなあ。きょうは久し振りに娘の三枝と一所に夕食を喰べるのじゃから、お前たちも来て一所に喰べてくれ」
 二人顔を見合わせて喜ぶ。
「ハハハ。嬉しいか」
「ありがとう御座います」
「おじさま。ありがと」
「うむ。なかなか言葉が上手になったな。もう日本人と変らんわい。ハハハ。どうだい。お前たちは日本と朝鮮とドッチが好きかね」
「僕日本の方が好きです」
「何故日本が好きかね」
「朝鮮には先生みたいに外国人を可愛がる人が居りません」
「ハハハ。外国人はよかったな。美鳥はどうだい」
「あたし豆満江《とまんこう》がもう一ペン見とう御座いますわ」
「うむうむ。その気持はわかるよ。あの時分はお前達と雪の中で、ずいぶん苦労したからなあ」
「おじ様が毎日|鮭《さけ》を捕えて来て、あたし達に喰べさして下さいましたわね」
「アハハハ。ところでお前たちは、あれから毎日毎日三枝と兄妹《きょうだい》みたようにして暮して来ているが、これから後《のち》も、このおじさんに万一の事があった時に、今までの通りに仲よくして暮して行けるかね。参考のために聞いておきたいが……」
「出来ます。僕、呉羽さん大好きです」
「美鳥はどうだい」
「わたくし……好きです……トテモ。ですけど……何だか怖《こ》おう御座いますわ」
「ナニ怖い。どうして……」
 美鳥、恥かし気にしなだれる。轟氏もキマリ悪るそうに顔を撫でて笑う。
「怖いことなんかチットモないんだよ。アレは負けん気が強いし、小さい時から世の中のウラばかり見て来とるから、あんな風になったんだよ。ホントは実に涙もろい、純情の強い人間なんだよ」
「呉羽さんはエライ女《ひと》ですよ。何でも御存じですからね。悪魔派の新体詩だの、未来派の絵の批評が出来るんだから僕、驚いちゃった」
「ウム。わしの感化を受けとるかも知れん。わしも元来は平凡な、涙もろい人間と思うが、あんまり早くエライ人間になろうと思うて、自分の性格を裏切った人生の逆コースを取って来たために、物の見え方や聞こえ方が、普通の人間と丸で違ってしもうた。悪魔のする事が好きで好きで叶《かな》わん性格になってしもうた。ハハハ。怖がらんでもええぞ美鳥……お前たち兄妹《きょうだい》に対しては俺はチットモ悪魔じゃない。平凡な平凡な涙もろい人間だ……その平凡な平凡な人間に時々立帰ってホッと一息したいために、お前達を養っているのだ……イヤ詰まらん事を云うた。それじゃ又、晩に来なさい。夕飯の準備が出来たら女中を迎えに遣るから……」
「おじさま……さようなら……」
「先生……さようなら……」
「ああ。さようなら……」
 二人が退場すると轟氏|呼鈴《よびりん》を押し、這入って来た女中に三枝を呼んで来るように命じ、そのまま寝椅子に長くなる。
 大きな桃割《ももわれ》。真赤な振袖。金糸ずくめの帯を立矢《たてや》の字に結んだ呉羽がイソイソと登場する。
「あら……お父様。お呼びになったの」
「……うむ。こっちへお出で……」
「……嬉しい。又、どこかのお芝居へ連れてって下さるの」
 と呉羽嬢が甘たれかかるのを抱きあげて身を起した轟氏は立上って、入口の扉《ドア》に鍵を卸《おろ》し、窓のカアテンを閉《とざ》して異様に笑いながら寝椅子に帰り、呉羽の身体《からだ》を抱き上げる。
「きょうは、私の方からお前にお願いがあるんだよ」
 と少し真面目に帰りながら、二人の身の上話を初め、前の幕の通りの事を簡略に物語り、二人が真実の親子でない事を明らかにする。
 その一言一句に肩をすぼめ、眼を閉じて魘《おび》えながらも、不思議なほど冷然と聞いていた呉羽は、やがて冷やかな黒い瞳をあげて微笑する。
「それで妾にお願いって仰言るのはドンナ事なの……」
 轟氏は忽ちハラハラと涙を流し、熱誠を籠めた態度で、呉羽の両手を握る。
「……オ……俺は、お前を一人前に育て上げてから、両親の讐仇《かたき》を討たせようと思って、そればっかりを楽しみの一本槍にして、今日まで生きて来たんだ」
「……まあ……そんな事……どうでもよくってよ。今までの通りに可愛がって下されば、あたしはそれでいいのよ」
「……ウウ……そ……それは……その通りだ。……と……ところがこの頃になって……俺は……俺に魔がさして来たんだ。もちろん最初の目的は決して……決して忘れやしない。必ず……必ず貫徹させて見せる。生蕃小僧は、お前の一生涯の讐敵《かたき》だから、この間お前が頼んだように、誰にもわからない処で、一番恐ろしい……一番気持のいい方法で讐敵《かたき》を取らしてやる決心をして、現在、極秘密の中《うち》に、この家の地下室でグングン準備を進めているところだが………」
「……アラッ……ホント……」
「ホントウだとも。もっとも二……二三年ぐらいはかかる見込だがね。骨が折れるから……」
「嬉しい。楽しみにして待っていますわ」
「……と……ところがだ。この頃になったら、その上に……も……もう一つの別の目的が……オ……俺の心に巣喰い初めたのだ。そそ……その目的を押付けようとすればする程……その思いが募って……弥増《いやま》して来て……もうもう一日も我慢が……で……出来なくなって来たんだ」
「まあ。そのモウ一つの目的ってドンナ事?」
「オ……俺は……お前をホントウに俺のものにしたくなったのだ。ああ……」
 轟氏は涙を滝のように流し、両手を顔に当てる。呉羽は本能的に飛退《とびの》いて、傍《そば》の椅子を小楯に取り冷やかに笑う。
「まあ。あなた馬鹿ね。あたし今でも貴方のものじゃないの。この上に妾にどうしろって仰言るの……」
「ウ……嘘でもいいから……オ……俺の妻になったつもりで……俺に仕えてくれ」
「あら。厭な人。あなた妾を恋して、いらっしゃるのね」
 轟氏は寝椅子からズルズルと辷《すべ》り落ちてペッタリと両手を床に支える。乞食のようにペコペコと頭を下げる。
「そ……そうなんだ。タ……助けると思ってこの俺の思いを……」
 呉羽、椅子の背中に掴まったまま、仕方なさそうに身を反《そ》らして高笑いする。
「ホホホホホホホホホホホ可笑《おか》しな方ね。ホホホホホホホホ……」
 その笑い声の中に電燈が消えて、場内が真暗になっても、笑い声は依然として或は妖艶に、或は奇怪に、又は神秘的にそうして忽ちクスグッタそうに満場を蠱惑《こわく》しいしい引き続いている。
 そのうちにソノ笑い声が次第に淋しそうに、悲しそうに遠退《とおの》いて行って、やがてフッツリと切れるトタンに舞台がパッと明るくなり、第二幕の第二場となる。
 呉羽の姿は見えず。黒っぽいモーニングコートに縞《しま》ズボン白|胴衣《チョッキ》の轟氏がタダ独りで、事務机の前の廻転椅子に腰をかけて、金口《きんぐち》煙草を吹かしながら一時二十五分を示している正面の大時計を見ている。左側のカアテンを引いた窓|硝子《ガラス》の外に電光がしきりに閃めくと、窓の前の桜がスッカリ青葉になっているのが見える。その電光の前に覆面の生蕃小僧が現われコツコツと窓|硝子《ガラス》をたたく。
 轟氏が立って行って開けてやると両足を棒のように巻いた生蕃小僧が、手袋を穿めた片手にピストルを持って這入って来る。
「ハハハ。よく約束を守ったな」
 轟氏は用意の小切手を生蕃小僧に与える。
「この次は真昼間、玄関から堂々と這入って来い。夜は却《かえ》って迷惑だ」
「卑怯な事をするんじゃあんめえな」
「俺も轟九蔵だ。貴様はモウ暫く放し飼いにしとく必要があるんだ。今日は特別だが、これから毎月五百円|宛《ずつ》呉れてやる。些くとも二三年は大丈夫と思え」
「そうしていつになったら俺を片付けようというんだな」
「それはまだわからん。貴様の頭から石油をブッ掛けて、火を放《つ》けて、狂い死《じに》させる設備がチャントこの家の地下室に出来かけているんだ。俺の新発明の見世物だがね……グラン・ギニョールの上手を行く興行だ。その第一回の開業式に貴様を使ってやるつもりだが……」
「そいつは有り難い思い付きだね。しかし断っておくが、俺はいつでも真打《しんうち》だよ。前座は貴様か、貴様の娘でなくちゃ御免蒙るよ」
「それもよかろう。しかしまだ見物人が居らん。一人頭千円以上取れる会員が、少くとも二三十人は集まらなくちゃ、今まで貴様にかけた経費の算盤《そろばん》が取れんからな。とにかく油断するなよ」
「ハハハ。それはこっちから云う文句だ。貴様が金を持っている限り、俺は貴様を生かしておく必要があるんだ。俺はまだ自分の弗箱《ドルばこ》に手を挟まれる程、耄碌《もうろく》しちゃいねえんだからな……ハハンだ」
「文句を云わずにサッサと帰れ。俺は睡いんだ」
 轟氏、生蕃小僧が出て行った窓をピッタリと閉め、床の上の足跡を見まわし、葉巻に火を付けながら何か考え考え歩きまわっている中《うち》に、微かな電鈴の音を聞き付け、
「ハテナ。電話かな」
 とつぶやきながら廊下へ出て行く。入れ代って大きな白い手柄の丸髷に翡翠《ひすい》の簪《かんざし》、赤い長襦袢、黒っぽい薄物の振袖、銀糸ずくめの丸帯、白足袋《しろたび》、フェルト草履《ぞうり》という異妖な姿の呉羽が、左手の扉《ドア》から登場し、奇怪な足跡に眼を附け、一つ一つに窓際まで見送って引返し、机の上の小切手帳を覗き込んで何やら首肯《うなず》き、唇をキッと噛んで部屋の中をジロジロ見まわしながら考えている中《うち》に突然、ポンと手を打合わせてニッコリ笑い、残忍な眼付で入口の扉《ドア》を振返りつつ、机の上の短剣型ナイフを取上げて素早く帯の間に隠すところへ、電話をすました轟氏が帰って来て悠々と扉《ドア》を閉め、立っている呉羽と向い合ってギョッとする。
「ナ……何だ……何だ今頃……何か用か……」
「ハイ。きょう……昼間にお願い致しました事の、御返事を聞かして頂きに参りましたの」
「美鳥と結婚したいという話か」
「ええ……貴方の眼から御覧になったら、飼って在る小鳥が、籠の中から飛出したがっている位の、詰まらないお話かも知れませんけども……妾……あたしこの頃、急にそうして、今までの妾の間違った生活を清算したくてたまらなくなりましたの」
「ならん……そんな馬鹿な事は……俺の気持ちも知らないで……」
「ホホ。お憤《いきどお》りになったのね。ホホ。それあ今日までの永い間の貴方のお志は何度も申します通り、よくわかっておりますわ。……ですけど……あたしだって血の通っている人間で御座いますからね。最初から貴方のお人形さんに生れ付いている犬猫とは違いますからね。もうもう今までのような間違った、不自然な可愛がられ方には飽き飽きしてしまいましたわ」
「……カカ……勝手にしろ。馬鹿。俺のお蔭で生きているのが解らんか」
「どうしても、いけないって仰言るの……」
「ナランと云うたらナラン……」
 と云い捨てて廻転椅子に腰をかけ、事務机の上を片付け初める。
「オヤ。紙小刀《かみきり》が無い。鞘《さや》はここに在るんだが……お前知らんか……」
「存じませんわ。ソンナもの……」
「彼品《あれ》はトレード製の極上品なんだ。解剖刀《メス》よりも切れるんだから無くなると危険《あぶな》いんだ。鞘に納めとかなくちゃ……」
「よござんすわ。あたし、どうしても美鳥さんと結婚してみせるわ。キットこの家《うち》で美鳥さんに子守唄《ララバイ》を唄わせて見せるわ」
「……………………」
「何と仰言ったって美鳥さんを逐出《おいだ》させるような残酷な事は、断じて、断じてさせないわ」
「……勝手にしろッ。コノ出来損ないの……カカ片輪者《かたわもの》の……ババ馬鹿野郎ッ……」
「ネエ。いいでしょう……ねえ。ねえエ……あたしだってモウ……年頃なんですものオ……」
 と云ううちに轟氏の背後から廻転椅子ごしに甘えかかるようにして頬をスリ寄せながら、帯の間から短剣を取出し、白い腕の蔭に隠して轟氏の胸に近付け、不意に両手で握って力任せにグッと刺す。
「ガッ……ナ何を……するッ……ガアッ……ムムムムム……」
 その時に硝子《ガラス》窓の外から、最前の生蕃小僧が覆面の顔を覗かせる。電光イヨイヨ烈しくなる。
 呉羽は虚空を掴んだままの轟氏の両手を避けながら、刺さっている刃物の十字形の※[#「※」は「木+霸」、第3水準1-86-28、218-7]《つか》を、鼻紙で用心深く拭い上げ、事務机の一番下の曳出《ひきだし》から生蕃小僧の脅迫状を探し出して、その中《うち》の一枚を元に返しながら懐中し、曳出《ひきだし》の表面に残っている指紋に呼吸《いき》を吐きかけ吐きかけ念入りに鼻紙で拭き取っている中《うち》に、窓|硝子《ガラス》をコツコツとたたく音を聞付け、ハッとして振返る。
 窓の外の生蕃小僧、覆面を除き、白い歯を露《あら》わしつつ眼を細くして笑い、ここを開けよという風に手真似をする。呉羽はわななく手で曳出《ひきだ》しからピストルを取出し、襦袢の袖に包み、引金に指をかけながら近付き、やはり襦袢の袖でネジを捻じって窓を開ける。生蕃小僧は外に立ったまま依然として笑いながら声をひそめる。
「呉羽さん。相変らず綺麗ですなあ」
「……………………」
「私《あっし》ゃこれで貴女《あなた》の生命《いのち》がけのファンなんだよ。ドンナに危《ヤバ》い思いをしても、貴女《あなた》の芝居ばっかりは一度も欠かした事はないし、ブロマイドだって千枚以上|蓄《た》めているんだぜ。ハハ」
「……………………」
「しかし、心配しなくともいいんだよ。どうもしやせんから……あっしはねえ……」
「……………………」
「あっしはね。モウ御存じかも知れんが、貴女《あなた》や、その轟さんとは相当、古いおなじみなんだ。あっしを手先に使って、貴女の御両親を殺させた、その轟九蔵って悪党に古い怨恨《うらみ》があるんでね。タッタ今二千円をイタブッて出て行ったばっかりのところなんだが……どうも彼奴《あいつ》の呉れっぷりが美事なんでね。万一、警察《さつ》へ密告《さし》やしめえかと思って、途中の自働電話から彼奴《あいつ》を呼出して、もう一度用事が出来たからと云っておいて、引返してみたら、約束しておいた玄関の扉《と》が開かない。おかしいなと思って、ここへ来て様子を見ているうちに、何もかも見てしまったんだがね……ヘヘヘ……何も心配しなくたっていいんだよ。呉羽さん。ちょうど、あっしが思っていた通りの事をアナタが遣ってくんなすったんだから、お礼を云いてえくれえのもんだ。お蔭であっしも奇麗サッパリと思い残すことがなくなりましたよ。ヘヘヘ……どうも、ありがとうがんす」
「……………………」
「ヘヘヘ。だから万一あっしが検挙《あげ》られたって、決して今夜の事あ口を割りやしません。アンタのしなすった事は、何もかもアッシが背負《しょ》って上げます。ドウセ首が百|在《あ》ったって足りねえ身体《からだ》なんだからね。ハハハ」
「……………………」
 呉羽はピストルを取落しヨロヨロと後退《あとじさ》りして踏止まり、両袖を胸に抱き締めて一心に生蕃小僧の顔を見詰める。
「ハハハ。その代りにねお嬢さん。万が一にも、あっしが無事に逃走了《ふけおお》せたら、どこかで、タッタ一度でもいいから、あっしの心を聞いて下さいよ……ね……」
「……………………」
 生蕃小僧はうなだれたまま神に祈るようにつぶやく。遠雷の音……。
「しかし、それあ、あっしみてえな人間にとっちゃ、及びもねえ事かも知れねえ。だから万一御用を喰っちまえあ、貴女《あなた》の罪を背負って行くのがタッタ一つの楽しみでさ。ヘヘヘ。あっしみてえな人間の心あ貴女《あなた》みてえな女《ひと》でなくちゃあ理解《わか》ってもれえねえからな」
「……………………」
 生蕃小僧はチョット涙を拭いてニヤニヤと笑った。
「ヘヘヘ。それからね。チット未練がましい長文句になって済まねえが、明日《あす》の朝は、せめてアッシにお線香でも上げるつもりで、出来るだけ朝寝しておくんなさいね。その轟九蔵の死骸がアンマリ早く見付かっちゃ困るんだ。銀行へ行ってお金を受取らなくちゃなりませんからね。いいかね。お頼ん申しますよ」
 と云う中《うち》に姿は闇の中に消えて、声だけが朗らかに残った。
「……オットット……その窓は、そのまんま開け放しといた方がいいね。閉め切っとくと、オマハンの首に縄がかかるんだ。ハハハハハハ……」
 やがてバラバラと雨の音……烈しい電光……。
 あとを見送った呉羽はホッとため息した。そうしてニッコリとあざみ笑いをしいしい入口の扉《ドア》の把手《ハンドル》を、袖口でシッカリと拭い上げてから、舞台正面、中央の青ずんだフットライトの前まで来ると、大きな眼をパチパチさせてビックリしたように場内一面の観衆を見まわした。……すると……その背後の天井裏から新調らしい、真白い緞子《どんす》の幕がスルスルと降りて来て、一切の舞台面を霧のように蔽い隠した。
「ヒヒヒヒヒヒヒヒヒホホホホホホホホホハハハハハ……」
 底の抜けるほど朗らかな、明るい呉羽の笑い声が、満場におののき渡った。
 トタンに場内の片隅から、低いけれどもケタタマシイ、慌てた声が起った。
「芝居だよ芝居だよ。タカが芝居じゃないか。ビクビクするな。シッカリしろ……シッカリして舞台を……アッ。いけねえいけねえ。脳貧血脳貧血。チョット誰か……来て……」
 そうした若い男の声が、一層モノスゴク場内を引締めた。
 しかしその声の方向を振り向いて見る者すら居なかった。場内はさながらに数千の人間を詰めた巨大な花氷のように冷たく凝固してしまっていた。その中《うち》に呉羽の笑い声が今一度華やかに、誇りかに閃めき透り初めた。
「ホホホホホホハハハハハハ……。いかがで御座います皆様……おわかりになりまして? 轟九蔵を殺したのは私だったので御座いますよ。皆様からこれほどの身に余る御引立を受けまして、轟九蔵からあれほどまで可愛がられておりました私だったので御座いますよ。ホホホハハハハハ……。
 ……その殺しましたホントの理由と申しますのは……どうぞ恐れ入りますが今晩のお芝居を、第一幕から今一度繰り返して御考え下さいまし。当劇場の探偵劇を御ひいき下さいます皆様は、すぐに御察し下さることと存じます。
 ……私は、父の甘木柳仙が老年になってから生まれました長男だったので御座います。そうして只今も取って十九歳に相成ります甘木三枝と申す男の子なので御座います。ハハハハホホホホホ……私の実父の柳仙は旧弊な人間で御座いましたので、老人の一人子は、その子供の性を反対に取扱って育てますと……女の児《こ》は男の児《こ》の通りに……又男の児《こ》は女の児《こ》の通りにして育てますと、無事に成長させる事が出来る……とよくソンナ事を申します迷信から、わざわざ私を女の児《こ》という事にして三枝という名前を附けて役場に届けまして、それから何もかも女の児《こ》として育てられながら、だんだんと大きくなってまいりますうちに、私自身でも、自分が男だか、女だかわからない位、声から姿までも……心までも女らしくなってしまったので御座います。只今、こう申しております中《うち》にも皆様はまだ私を一人前の女と信じ切っておいでになる方が、かなり大勢おいでになる事で御座いましょう。ホホホホホホハハハハハハハハハ……。
 ……ところがツイこの頃になりまして、そうした女性的な習慣に埋もれておりました私の心が、いつの間にか男性として眼醒《めざ》め初めたので御座います。そうして今晩のお芝居で、お眼にかけました通りに、あの轟九蔵の執拗《しつこ》い変態的な[#底本では「変態的の」と誤記]愛がたまらなく厭《いや》になりまして、あの純真なソプラノ歌手の美鳥さんと一所になりたいばっかりに、止むに止まれない切ない気持から、あのような無鉄砲な事を仕出かしまして、満都の皆様方に、お詫の致しようもないお心づかいを、おさせ申したので御座います。そうしてその上にも因果な事には、女としての私に恋|焦《こが》れておりましたあの兇悪無残の殺人鬼、生蕃小僧が、女性としての私を恋する余りに、それこそ生命《いのち》がけで私の罪悪をカバーしてくれましたお蔭で、やっと今日まで娑婆《しゃば》に生き永らえまして、おなつかしい皆様に今一度、斯様《かよう》な舞台姿で、お目にかかる事が出来たので御座います」
「芝居だ芝居だ」
「スゴイスゴイ……」
「ああ……たまらねえ」
 満場の人々のタメ息が一瞬間笹原を渡る風のように渦巻きドヨめいて直ぐに又ピッタリと静まった。
「……けれども皆様お聞き下さいまし。私は、こうして大罪を犯してしまいますと、今一度、夢から醒めたような気持になってしまいました。静かに自分自身を振り返る事が出来るようになりました。男性として眼醒めました私は、今度は男性としての良心に眼醒め初めたので御座います。私のような鬼とも獣《けだもの》とも、又は蛇だか鳥だかわかりませぬような性格の人間が、あの女神のように清らかな美鳥さんに恋をするのは間違っている。私のこの血腥い呼吸が、ミジンも曇りのないアノ美鳥さんのお顔にかかってはいけない。私のこの爛《ただ》れ腐った指が、あの美鳥さんの清浄無垢の肉体《おからだ》にチョットでも触れるような事があってはならぬということを深く深く思い知りましたので、そうした私の心持を、ホンノ少しばかりでもいい、美鳥さんに理解《わか》って頂きたいばっかりに、このお芝居を思い付いたので御座います。……で御座いますからこのお芝居の終り次第に、私の持っておりますものの全部を、心ばかりの贐《はなむけ》として、私の顧問を通じて美鳥さんに受取って頂く準備がモウちゃんと出来ているので御座います。……美鳥さんは私のこうした気持をキット受け入れて下さる事と信じます。そうしてあの可哀そうな殺人鬼、生蕃小僧の罪名が、すこしでも軽くなるように、心から世話して下さるに違いないと思います」
「シバイダ……シバイダ……」
「ホホホホ……まったくで御座いますわねえ。この世は何もかもお芝居で御座いますわねえ……。ですから私も、こうして最後のお芝居を打たして頂きまして、私の一生涯を貫いておりますこのノンセンスこの上もない怪奇探偵、邪妖劇の幕を閉じさして頂くので御座います。……生蕃小僧と手に手を取って絞首台へ登るような作りごとはモウどうしても出来なくなったからで御座います。私は、私の真実にだけ生きて行きたくなったからで御座います。
 ……おなつかしい皆様……お名残り惜しゅう御座いますが天川呉羽は、もうコレッキリ永久に皆様の前から消失《きえう》せなくてはなりませぬ。
 ……では皆様……さようなら……御機嫌よう御過し下さいませ」
 低く低く頭を下げた天川呉羽の、大きな水々しい前髪の蔭から玉のような涙がハラハラと滴り落ちるのが、フットライトに閃めいて見えた。
「シバイダ……シバイダ……」
「……バ馬鹿ッ……芝居じゃないゾッ……芝居じゃないんだぞッ……ト止めろッ……」
 突然に叫び出した浴衣がけの若い男が一人、最前列の左側の見物席から、高い舞台の板張に飛付いて匍い上ろう匍い上ろうと藻掻《もが》き初めた。それを冷然と流し目に見た天川呉羽は、慌てず騒がず、内懐《うちふところ》に手を入れて、キラリと光るニッケルメッキ五連発の旧式ピストルを取出した。自分の白い富士額の中央に押当ててシッカリと眼を閉じた……と思う中《うち》に、
 ……轟然一発……。
 美しい半面をサット真紅に染めた呉羽は、ニッコリと笑って両手を合わせた。背後の白幕に虹のような血飛沫《ちしぶき》を残しながら、フットライトの前にヒレ伏した。
 トタンにヤット見物席から匍い上った浴衣がけの男が、飛び上るように呉羽の身体《からだ》に取付いた。綺麗に分けた髪を振乱したまま正面に向って悲壮な声で叫んだ。
「ダ誰か来てくれッ。芝居じゃないゾッ」
 それは大森署の文月巡査であった。その中《うち》に幕の横や下から笠支配人を先に立てた四五人が馳寄《はせよ》って来て、呉羽の身体《からだ》を無造作に、向って左の方へ抱え上げて行った。
 冷やかなベルの音に連れて、天井裏から真紅の本幕が静々と降り初めた。その幕の中央には眼も眩ゆい黄金色の巨大な金文字で「天川呉羽嬢へ」「段原万平」と刺繍してあった。
 万雷の落ちるような大拍手、大喝采が場内を狂い渦巻いた。ビュービューと熱狂的な指笛を鳴らす者さえ居た。
 そうして先を争う蛆虫《うじむし》の大群のようにゾロゾロウジャウジャと入口の方向へ雪頽《なだ》れ初めた。
「シバイダ……シバイダ……」
「ドコマデモ徹底的な写実劇だ」
「スゴイスゴイ深刻劇だ」
「……バカ……そんなのないよ。怪奇心理劇てんだよコレア……」
「ああスゴかった」
「ステキだった」
「あすこまで行こうたあ思わなかった」
 そうして又、思い出したように方々から振返って拍手の嵐を送るのであった。
 しかし、その大勢の中にタッタ二人だけ、拍手しない者が居た。それは正面、特等席の中央に居る江馬|兄妹《きょうだい》であった。
 江馬兄妹はそこに作り附けられている人形使節か何ぞのように、無表情な両眼を一パイに見開いて、幕が降りてしまった舞台の中央を凝視していた。満場の人影が残らず消え失せてしまった後までもまだ揃って頬を硬ばらせたまま瞬《まばたき》一つせず、身動き一つしないまま一心に真紅の幕を凝視していた。



底本:「夢野久作全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年10月22日第1刷発行
※校正に当たって誤字脱字の可能性がある点については、「夢野久作全集5」三一書房、1975(昭和50)年6月15日第1版第4刷発行を参照しました。
入力:柴田卓治
校正:kazuishi
2001年7月24日公開
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