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冥土行進曲
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)帷《カーテン》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)火焔|鋩子《ぼうし》の

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「金+示+且」、第3水準1-93-34、287-7]元《つばもと》
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       一

 昭和×年四月二十七日午後八時半……。
 下関発上り一二等特急、富士号、二等寝台車の上段の帷《カーテン》をピッタリと鎖《とざ》して、シャツに猿股《さるまた》一つのまま枕元の豆電燈を灯《つ》けた。ノウノウと手足を伸ばした序《ついで》に、枕元に掛けた紺《こん》背広の内ポケットから匕首拵《あいくちごしらえ》の短刀を取出して仰向になったまま鞘《さや》を払ってみた。
 切先《きっさき》から※[#「※」は「金+示+且」、第3水準1-93-34、287-7]元《つばもと》まで八寸八分……一点の曇もない。正宗相伝の銀河に擬《まが》う大湾《おおのだれ》に、火焔|鋩子《ぼうし》の返りが切先《きっさき》長く垂れて水気《みずけ》が滴《したた》るよう……中心《なかご》に「建武五年。於肥州平戸《ひしゅうひらとにおいて》作之《これをつくる》。盛広《もりひろ》」と銘打った家伝の宝刀である。近いうちにこの切先が、私の手の内で何人かの血を吸うであろう……と思うと一道の凄気《せいき》が惻々《そくそく》として身に迫って来る。
 私は短刀をピッタリと鞘に納めて、枕元に突込んだ。
 電燈を消して静かに眼を閉じてみると、今朝《けさ》からの出来事が、アリアリと眼の前に浮み上って来る。

 今朝……四月二十七日の午前十一時頃の事、雨の音も静かなQ大医学部、大寺内科、第十一号病室の扉《ドア》を静かに開いて、私の異母弟《おとうと》、友石友次郎《ともいしともじろう》が這入《はい》って来た。死人のような青い顔をして、私の寝台の前に突立った彼は、私の顔を真正面《まとも》に見得ないらしく、ガックリと頭を低《た》れた。間もなく長い房々した髪毛《かみのけ》の蔭からポタポタと涙を滴《た》らし初めた。
 ……妙な奴だ。私は寝台の中から半身を起した。
 私とは正反対のスラリとした痩型の弟である。永い間、私の月給に縋《すが》って、ついこの頃銀時計の医学士になって、このQ大学のレントゲン室に出勤している者であるが、タッタ一人の骨肉の兄である私の貧乏に遠慮して、今だに背広服を作り得ずに、金釦《きんボタン》の学生服のままで勤務している純情の弟……恋愛小説の挿画みたような美青年《シイクボーイ》の癖に、カフェエなんか見向きもしない糞真面目な弟……そいつが何か悪い事でもしたかのように私の前にうなだれてメソメソ泣いているから、おかしい。
 私は又、その弟と正反対に小さい時から頑丈な体格で頭が頗《すこぶ》る悪い。早稲田文学士の肩書を持ちながら柔道五段の免状を拾っているお蔭で、辛うじてこのQ大の柔道教師の職に喰い下っている武骨者であるが、ツイこの頃軽い胃潰瘍《いかいよう》の疑いで、Q大附属のこの病室に入院した。ところが、その胃潰瘍が程なく全快して、出血が止ったので念のために、この胃潰瘍が癌《がん》になっているかいないかを調べる目的でX光線《レントゲン》にかかって、レントゲン主任の内藤医学士から「異状無し」と宣告されたのでホットして帰って来て寝台に引っくり返ったばかりのところであった。その矢先に突然にレントゲン室から帰って来た弟が、私の枕元に突立ったままメソメソ泣出したのだから、面喰わざるを得ない。
「どうしたんだ一体……」
「兄さんッ。僕は……僕はホントの事を云います」
 激情に満ち満ちた声で叫んだ弟はイキナリ私の頸《くび》ッ玉に飛付いた。横頬を私の胸にスリ付けてシャクリ上げシャクリ上げ云った。
「……ナ……何だ。何をしたんだ」
「兄さんの生命《いのち》はモウ……今から二週間と持ちませんッ」
「……ナ……なあんだ。そんな事か……アハハハハ……」
 私は咄嗟《とっさ》の間に、わざとらしい豪傑笑いをした。トタンに横腹がザワザワと粟立《あわだ》って、何かしら悲痛な熱いものが、胸先へコミ上げて来るのをグッと嚥《の》み下した。
「フウーン。やっぱり胃癌だったのかい」
 弟は私の肩に縋り付いたまま青白い顔を痙攣《ひっつ》らせて私を仰いだ。
「……モット……モット恐ろしい物なんです。兄さんの心臓に大きな大動脈瘤が在るんです」
「フーム。大動脈瘤……」

 私は動脈瘤の恐ろしさを知っていた。
 俺は黴毒《ばいどく》なんかには罹《かか》らないとか何とか云って威張っている奴の血液の中にコッソリ居残っている黴毒の地下細胞菌が、ずっと後《あと》になって色んな悪戯《いたずら》をはじめる。そいつが心臓の出口の大動脈の附根に引っかかると二年か三年か経つうちにそこいらの血管がブヨブヨに弱くなって来る。本人がチットモ気付かない間にその部分の血管が、心臓から押出される血液の圧力に堪えかねて、少しずつ少しずつゴム風船のように膨れ上り初める。そいつがだんだん大きくなって肋骨《ろっこつ》の内側をコスり削って咳嗽《がいそう》を連発さしたり、声帯に伝わる神経を圧迫して声を嗄《か》らしたりし初めるのであるが、それでも本人はまだ気付かない事がある。医師も呼吸器病ぐらいに考えて呑気に構えているうちに、とうとうその瘤《こぶ》の頭が紙みたいに薄くなるまで膨れて来て、やがてボカンと破裂する。肋骨の外へパンクして胸を血だらけにして引っくり返る事もあるが、内側へパンクするとそのまま、激烈な腹膜炎を起す。さもなくとも頭の方へ血を送っている管《パイプ》の根本が破れるんだから脳髄が一ペンに参って、卒中よりも迅速に斃《たお》れてしまうという世にも恐ろしいのがこの大動脈瘤である。しかも極めて早期に発見されたもので二年。遅く発見されたものだと一二週間の寿命しかないのが今までのレコードである。滅多にない病気ではあるが、発見されたが最後、如何なる名医でも手段の施しようがない。
「……兄さんのは……非常に……ステキに大きいのです。こんな大きいのは見た事がないって内藤先生も云っておられました」
 弟は青褪めた顔でオズオズと笑った。両眼に溜まっていた涙がハラハラと両頬を伝わった。
 私は熱に浮かされたような気持になった。魂が肉体から離れたような気持で笑い笑い云った。
「アハハハハ。済まん済まん。余計な心配かけて済まん。俺の動脈瘤は満洲直輸入だ。大原大将閣下の護衛で哈爾賓《ハルピン》に行った時に、露助《ろすけ》の女から貰った病毒に違いないのだよ。アハハハ。自業自得だ。……しかし……よく云ってくれた」
 弟はモウ立っている事が出来なくなったらしい。私の頸に一層深く両手を捲付けてオロオロと泣出した。
「馬鹿。泣く奴があるか。見っともない」
 私は寝台の枕の下から白い封筒に入れた札束を取出した。念のため数えてみると十円紙幣が七十枚ある。その中から四十枚だけ数えて新聞紙に包んだ。
「いいか。ここに四百円ある。これは俺達が病気した時の用心に貯金しといた金だ。俺の葬式をした残りはお前に遣る。大寺教授と相談してどこかの病院に奉公しろ。……な……わかったか」
 弟は私が押付けた紙幣の包みを手にもとらずに大声をあげた。
「いやですいやです。兄さん。死んじゃ厭です。……生きて……生きてて下さい生きてて下さい……」
 私はとうとう混乱してしまった。セグリ上げて来る涙を奥歯で噛締《かみし》めた。静かに弟の両腕を引離して寝台の上に座り直した。
「馬鹿……俺が自殺でもすると思っているのか。馬鹿……俺は一週間でも一時間でもいい、残っている生命《いのち》を最後の最後の一秒までも大切に使うんだ。それよりも早く大寺先生の処へ行って御礼を云って来い。お蔭で癌じゃない事がわかって、兄貴が喜んでおりますと、そう云って来い。……直ぐに行って来い」
「ハイ……」
 弟は柔順《すなお》にうなずいた。寝台の枕元に掛けたタオルに薬鑵の湯を器用に流しかけて、涙に汚れた顔をゴシゴシと拭い初めた。
「それから何でも冷静にするんだぞ。どんな事があっても騒ぐ事はならんぞ」
「ハイ……」
 弟は湯気の立つタオルの中でうなずいた。

 弟が出て行くと直ぐに私は大急行で寝巻を脱いで、永年着古した背広服に着かえた。手廻りの品々をバスケットに詰めた。夜具を丸めて大風呂敷に包んだ。その風呂敷の上にピンで名刺を止めて万年筆で小さく書いた。
「俺は行衛《ゆくえ》を晦《くら》ます。死際《しにぎわ》に一仕事したいからだ。どんな事があっても騒ぐなよ。俺の生命《いのち》がけの仕事を邪魔するなよ」

 大寺教授の自宅に「退院御礼」と書いた菓子箱を置いて博多駅前のポストに学部長宛の辞表を投込んだ私は、間もなく着いた上りの急行列車に風呂敷包を一つ提《さ》げて乗込んだ。幸い識合《しりあ》いの者に一人も出会わなかったのでホッとした。敏感な弟も、こうした私の最後の目的ばかりは察し得なかったと見える。
 私の最後の目的というのは一つの復讐であった。
 私には義理の伯父《おじ》が一人ある。名前を云ったら知っている人もあるだろう。須婆田車六《すわだしゃろく》といって日印協会の理事だ。その伯父は目下奇術師で、朝野の紳士を散々飜弄した揚句、行衛を晦《くら》ましている毒婦、雲月斎|玉兎《ぎょくと》女史とくっ付き合って、目下、銀座のどこかで素晴らしい人肉売買をやっている事を私はチャント知っている。しかも巨万の富を貯えて印度《インド》貿易に関する限り非常な潜勢力を有し、非常時の内治、外交の裡面に重大な暗躍を試みているらしい事も、私が嘗て東京で、暴力団の用心棒をやっていた関係からチャンと睨んでいる。
 伯父はそうした異国趣味のエロ商売で、日本に亡命して来る印度《インド》の志士や、潜入して来る各国のスパイ連を片端《かたっぱし》から軟化させているという噂だ。
 私の知っている事実は、そればかりでない。
 その位な伯父、須婆田車六のそうした財産は、私の父親を殺して奪い取ったものである事も、私はチャンと察しているのだ。
 私の父親は日露戦争当時から、日本の軍事探偵となって、満洲|西比利亜《シベリア》方面を跋渉《ばっしょう》しているうちに、松花江《しょうかこう》の沿岸で、素晴らしい金鉱を幾個所となく発見していた。しかし沈着な父は、それを誰にも話さずにいたが、日露戦役後、私の実母が、積る苦労のために病死すると、父は親友の須婆田車六の実姉で、須婆田弓子という若い美しい未亡人を後妻に貰った。
 それは私が子供心にも美しいと思った位であったから余程美しい評判の婦人であったろうと思う。親類たちは妙にこの婦人を白い眼で見て、「あんまり年を老《と》ってから美しい奥さんを持つと決していいことはない」などとまだ子供の私に云い聞かせていた位であったが、義母の弓子は、この上もなく私を可愛がって実の母以上につくしてくれたので、私はむしろそんな親類に反感を持って義母になついていたものであった。ところが世間の噂というものが妙に適中するものであるように、こうして親類たちの中傷の言葉が不思議にも讖《しん》をなしたのであった。要するに私たちの若い母親が余りにも美しすぎたせいであったから。
 この義母の弓子が今の弟、友次郎を生むと間もなく、父がその若い母を愛する余りに、その金鉱の事を何気なく打明けた。近いうちに軍事探偵を廃業して、ここに砂金を採りに行くのだと云って、満洲の地図に赤い印を附けてみせたものである。これがそもそもの間違いの初まりであった。
 私たちの愚かな母親弓子は当時|哈爾賓《ハルピン》の英国商人の処に奉公していた伯父に、その事を通信したらしい。伯父は直ぐに帰って来て母親からその地図を捲き上げると、哈爾賓《ハルピン》に引返して、私の父が軍事探偵である事をG・P・U《ゲーペーウー》に密告したに違いないのだ。
 間もなく砂金採掘の用意をして渡満した父は、哈爾賓《ハルピン》の市外で、露人に誘拐されて満洲里《マンチユリー》に連れて行かれる途中、列車の中で射殺されて鉄橋の下に投棄てられていたという事実が報道されている。しかもこの報道を聞いた母の弓子は流産をした上に発狂して、何も喰わずに飢死してしまった。
 抜目のない伯父は妹の弓子に一万円の生命保険をかけておいたので、その金も自分のものとしてしまった。そうして私たち兄弟に、僅か千円ばかりの葬式の費用を投与えたきり、砂金の採掘権を支那人に売渡して、印度《インド》に行ってしまった。
 私の母親弓子が発狂した時に口走った事実を綜合すると、そうした伯父の非道な所業《しごと》は全部事実と思われるばかりでない。伯父がズット以前から雲月斎玉兎女史の隠れたる後援者であった関係から、この残忍悪辣な工作は二人の共謀の仕事と疑えば疑えたのであるが、その当時、弟はまだ幼稚《ちいさ》かったし、感付いていたのは私一人だったから証拠らしいものは何一つ残っていない。だから私は今日まで……否《いな》死ぬまで弟には打明けまいと決心していたのだ。
 しかし私の生命《いのち》がアト二週間しかないとなると、すこし話が違って来る。卑怯な云い草のようであるが、伯父の過去の罪を清算してやって、私の弟を一躍巨万の富豪にしてやる冒険が、必ずしも冒険でなくなって来るのだ。

 私はいつの間にか眠ってしまったらしい。
 翌る日は久し振り汽車に乗ったせいか、無暗《むやみ》に腹が減った。ボーイに笑われる覚悟で三度目に食堂に入っていると間もなく左手に富士山が見えた。多分今生の見納めであろう富士山が……。
  富士が嶺《ね》は吾が思ふ国に生《な》り出でて
       吾が思ふごと高く清らなる
 コンナ和歌が私の唇から辷《すべ》り出た。他人の歌を暗記していたのか、私が初めて詠《よ》んだのかわからない。それ程スラスラと私の頭から辷り出た。辞世というものはコンナ風にして出来るものかも知れないと思うと思わず胸がドキンドキンとした。富士山は日本の大動脈瘤じゃないか知らん……といったような怪奇な聯想も浮かんだがコイツはどうしても歌にならなかった。

 東京駅で降りて築地の八方館という小さな宿屋に風呂敷包とバスケットを投込むと直ぐに理髪店に行った。頭を真中からテカテカに分けて、モミアゲを短かくして、鼻の下の無精鬚をチョッピリ剃り残すとスッカリ人相が変ってしまった。それから夕方になるのを待ちかねて銀座に出て、ズラリと並んでいるカフェエや酒場を新橋の方からなし崩しに漁《あさ》り初めた。絶縁同様になっている伯父の行衛《ゆくえ》を探すにはこの方法以外に方法はない……日印協会に問合わせたり、区役所を調べてまわったり、古馴染《ふるなじみ》の右傾団体から手をまわしたりして万一感付かれたらカタナシになる。電話帳に本名を出しとくような狐狸《こり》とは段違いの怪物だからウッカリした事は出来ないと思ったからだ。
 私は何とかして不意打に伯父に会わねばならぬ。ズバリと度胆《どぎも》を抜いて頭ゴナシの短時間に退引《のっぴき》ならぬところへ逐《お》い詰めてしまわねばならぬ。
 カフェ探訪の最初の晩は大馬力をかけて廻ったので十四五軒程片付いたが、それでも左側の軒並二町とは片付いてはいなかった。
 しかし私は屁古垂《へこた》れなかった。よっぽど私立探偵に頼もうかと思ったが、この問題は絶対に他人に嗅《か》がしてはいけないと思ったので、どこまでも自分自身に調べて行った。
 そのうちに金はまだイクラカ残っているがカンジン・カナメの二週間の日限が切れそうになって来た。伯父の経営する店を発見しない中《うち》に私の心臓がパンクしてしまえばソレッキリである。Q大の十一号病室で弟に残りの三百円を呉《く》れてしまって自殺した方がまだしも有意義だった……という事になる。
 二週間がアト一日となった五月十一日は折角《せっかく》晴れ続いていた天気が引っくり返って、朝から梅雨《つゆ》のような雨がシトシトと降っていた。
 何も私の大動脈瘤の寿命が四月二十七日からキッカリ二週間と、科学的に測定されている訳ではなかったけれども、起上ってみると妙に左の肋骨の下が、ドキドキドキと重苦しく突張り返って来るような気がした。
 私は見違えるほど痩せ衰えた自分の顔を洗面所の鏡の中に覗いてみた。心臓を警戒して久しく湯に這入らなかったせいか皮膚が鉛色にドス黒くなって睡眠不足の白眼が真鍮色《しんちゅういろ》に光っている。何となく死相を帯びているモノスゴサは、さながらにお能の幽霊の仮面《めん》だ。自分でも気になったので、安全|剃刀《かみそり》で叮嚀に剃って、女中からクリームとパウダを貰ってタタキ付けた。午後になると、自分の心が自分の心でないような奇妙な気持で、依然として青々と降り続ける小雨の中をフラフラと銀座に出た。
 私の仕事の範囲はもう残り少なになって来た。
 京橋際に近いとある洋品店と額縁《がくぶち》屋の間に在る狭い横路地の前を通ると、その奥に何か在りそうな気がしたので、肩を横にして一町ばかり進入してみた。
 私は間もなく漆喰《しっくい》でタタキ固めた三間四方ばかりの空地に出た。
 正面の頑丈な木の扉《ドア》に、小児の頭ぐらいの真鍮鋲《しんちゅうびょう》を一面に打ち並べた倉庫のような石造洋館が立塞《たちふさ》がっている。残りの三方は巨大なコンクリート建築の一端で正方形に囲まれている。そのビルデングの背中に高く高く突上げられた十坪ほどの灰色の平面から薄光りする雨がスイスイスイと無限に落ちて来る。
「イラッシャアイ……」
 耳の傍で突然に奇妙な声がしたので私はビックリした。
 私の眼の前……空地のマン中に、天から降ったような巨大な印度人が突立っている。
 私は一歩|退《しりぞ》いた。眼を丸くしてその印度人を見上げた。

       二

 体重三十貫近くもあろうかと思われる太刀《たち》山さながらの偉大な体格だ。頭の上に美事なターバンを巻付けているので一層物々しく、素晴らしく見える。太い毒々しいゲジゲジ眉の下に茶色の眼が奥深く光って、鼻がヤタラに高い。ダブダブの印度服に、無恰好なゴム長靴を穿いて一瞬間私を胡乱《うろん》臭そうな眼付で見たが、やがて頭をピョコリと下げて見せた。
 私は何だかここいらに伯父の巣窟がありそうに思えたので、その印度人に握手する振りをして十円札を一枚握らせると、印度人は私の気前のいいのに驚いたらしい。
 毛ムクジャラの両手を胸に当てて、最高級の敬礼をした。直ぐ背後《うしろ》に在る真鍮鋲の扉《ドア》を押して開いて、私を迎え入れるべくニッコリと愛嬌笑いをした。
 扉《ドア》の内側は豪華なモザイクのタイルを張詰めた玄関になっていた。そのタイルの片隅に横たえられた長椅子にタキシードを着た屈強の男が三人、腕組みをして並んでいたが一眼で用心棒という事がわかる。その中の一人が印度人の眼くばせを受けると慌てて立って釘のように折れ曲りながら私に一礼した。右手の地下室に通ずる扉《ドア》を開いて、私を導き入れると、ピシャンと背後《うしろ》から扉《ドア》を閉じた。
 私は青い光りに照されているマット敷の階段を恐る恐る降りて、突当りの廻転|扉《ドア》をくぐると忽ち真暗になってしまったが、間もなくその暗闇の中から、冷たい小さな女の手が出て来て、私の左手をシッカリと握った。ヒヤリヒヤリと頬に触れる木葉《きのは》の間を潜り抜けながら奥の方へ引張り込んでいった。
 私は恐ろしく緊張させられてしまった。早稲田在学当時、深夜の諏訪の森の中で決闘した当時の事を思い出させられたので……。
 ところが、そうした樹の茂みの中を、だんだんと奥の方へ分入ってみると驚いた。決闘どころの騒ぎでない。
 詳しい事実は避けるが、さながらに極楽と云おうか、地獄と形容しようか。活動写真あり。浴場あり。洞窟あり。劇場あり……そんなものを見まわしながら生汗《なまあせ》を掻いて行くうちに、やがて蛍色の情熱的な光りに満ち満ちた一つのホールに出た。棕梠《しゅろ》、芭蕉、椰子樹《やしじゅ》、檳榔樹《びんろうじゅ》、菩提樹《ぼだいじゅ》が重なり合った中に白い卓子《テーブル》と籐椅子《とういす》が散在している。東京の中央とは思えない静けさである。
 私は何がなしにホッとしながら護謨樹《ゴムじゅ》の蔭にドッカリと腰を据えた。そこで今まで私の手を引いて来た女の顔をシッカリと見た。
 女はオズオズと私の前にプレン・ソーダのコップを捧げていた。
 栗色の夥しい渦巻毛《うずまきげ》を肩から胸まで波打たせて、黄色い裾の長いワンピース式の印度服を着ている。灰色の青白い光沢を帯びた皮膚に、濃い睫毛《まつげ》に囲まれた、切目の長い二重瞼《ふたえまぶた》、茶色の澄んだ瞳。黒く長い三日月眉。細《ほっそ》りと締まった顎。小さい珊瑚《さんご》色の唇。両耳にブラ下げた巨大な真珠……それが頬をポッと染めながら大きな瞬きをした。何となく悲しく憂鬱な、又は恥かし気な白い歯の光りだ。印度人に相違ないが、恐しく気品のある顔立ちだ。
 私は指の切れる程冷めたいソーダ水のコップを受取った。
「君の名は何ての?」
「アダリー」
 女の両頬と顎に浮いた笑凹《えくぼ》が出来た。頬が真赤になって瞳が美しく潤んだ。私は又、驚いた。どう見ても処女である。コンナ処に居る女じゃない。
「いつからこの店に出たの」
「今日から……タッタ今……」
「今まで何をしていたの」
「妹のマヤールと一緒に日本の言葉習っておりましたの」
「どこに居るの、そのマヤールさんは……」
「二階のお母さんの処に居ります」
「フウン……お父さんはどこに居りますか」
 私の言葉が自然と叮嚀《ていねい》になった。
「私たちのお父さん、印度に居ります」
「イヤ。そのお母さんの旦那様です。わかりますか」
「わかります。私の印度に居るお父様が、西洋人から領地を取上げられかけた時に、私たち姉妹《きょうだい》を買い取って、お父様を助けて下すった方でしょ」
「そうです。その方の名前は何と云いますか」
「二階のお母さんの旦那様です。須婆田さんと云います」
 私の胸は躍った。
「そうそう。その須婆田さんです。どこに居られますか。その須婆田さんは……」
「表に居なさいます」
「表に……? 表のどこに……」
「印度人になって立っていなさいます」
「アッ。あの印度人ですか。僕は真物《ほんもの》かと思った」
「須婆田さんはホントの印度人です」
「成る程成る程。貴女《あなた》はそう思うでしょう。スゴイ腕前だ。それじゃ十円上げますから僕の云う事を聞いて下さい」
「嬉しい。抱いて頂戴……」
 と叫ぶなりアダリーは私の首に両腕を巻き付けた。異国人の体臭が息苦しい程私を包んだ。誰に仕込まれた嬌態か知らないが私は急に馬鹿馬鹿しくなった。
「馬鹿……ソレどころじゃないんだ。入口へ案内してくれ給え」
「……あの……会わないで下さい。どうぞ……」
 アダリーは早くも私の顔色から何か知ら危険な或るものを読んだらしい。
「イヤ。心配しなくともいいんだよ。お前を身請《みうけ》するのだ」
「……ミウケ……」
「そうだ。お前を俺が伯父さんから買うのだ」
「エッ。ホント……?」
「ホントだとも。俺は果物屋の主人なんだ。お前を店の売子にするんだ。いいだろう」
「嬉しい。妾《わたし》歌を唄います」
「歌なんか唄わなくともいい。二階のお母さんていうのは雲月斎玉兎っていう奇麗な人だろう」
「イイエ。違います。ウノコ・スパダっていう人です」
「おんなじ事だ」
 こんな会話をしているうちにアダリーは私を導いて、暗い地下室の階段を登り詰めた。右手に狭い暗い木の階段が在る。ちょうど玄関の用心棒連が腰をかけている背後《うしろ》らしい。
「二階へ行くのはこの階段だろう」
「ハイ。あたしここより外へは出られません」
「ヨシ。あの部屋に帰って待ってろ。今に主人の須婆田さんが呼びに行くから……」
 玄関には最前の通り用心棒らしいタキシード男が三人、腰をかけて腕を組んでいたが、外へ出て行こうとする私の顔を見ると三人が三人とも一種の怯《おび》えたような顔をして見送った。そうして扉《ドア》の把手《ハンドル》に手をかけると三人が三人とも恐しそうに中腰になりかけたが、直ぐに又腰を卸《おろ》した。妙な奴だと思ったが間もなくその怯《おび》えている理由が判然《わか》った。
 樫の木らしい重たい玄関の扉《ドア》を内側からソーッと開くと、忽ち怒号の声が外から飛込んで来た。
 最前の巨大な印度人が扉《ドア》を背にして突立っている。その前の四五歩ばかり隔った濡れたタタキの上に、背広服にレインコートの壮漢が五六人こっちを向いて立ちはだかっている。その中央に仁王立になっている無帽の巨漢は太い黒塗のステッキを右手に構えている。一目でわかる暴力団員である。近頃流行のエロ退治で、この家を脅迫に来たものに違いない。
 印度人は私を振返る余裕もないらしい。右手に小さな銀色のピストルを持ち、左手に分厚い札束を抓《つま》んで軽く上下に振り動かしている。その頭の上の真暗い空間からは、銀色の小雨が依然として引っきりなしに降り注いで、場面を一層物凄くしている。
 暴力団の中央の無帽の巨漢がステッキを左手に持ち換えた。右手を上衣のポケットに突込みながら怒鳴った。
「天に代って貴様等を誅戮《ちゅうりく》に来たんだ。日印××なぞといって銀座街頭で南洋女の人肉売買をしているんだ。ちゃんとネタが上っているんだぞ」
 それは真に怒髪《どはつ》天を衝《つ》くといった形相だった。
 しかしこれに反して印度人の態度は見上げたものだった。よしんばそれが卑怯、無残な伯父の変装であるにしても、私は今更に伯父の性格を見直さなければならないかな……と思ったほど堂々たるものがあった。六人もの生命《いのち》知らずの壮漢を向うに廻しながら、鬚《ひげ》だらけの横頬で微笑しているらしかった。
「ヘヘヘ。大きな声はやめて下さい。貴方がたのお世話で商売しておりません」
 ステッキの巨漢が怒りのためにサッと青くなった。ほかの五人もその背後《うしろ》からジリジリと詰め寄った。
「ナ……何だっ。貴様はこの家の主人か」
「主人ではありませぬ、印度の魔法使いです」
「魔法使い……?……」
「そうです……わたしの指が触《さ》わると何もかもお金になるのです。お金にならないものは皆、血になるのです。ヘヘヘ……」
「……………………」
 スッカリ気を呑まれたらしく生命《いのち》知らずの連中が六人とも顔を見交《みかわ》して眼を白黒さした。この印度人が尋常の人間でない事を感付いたらしい。私はイヨイヨ伯父に違いないと思った。スッカリ感心してしまった。
「……サア……どうです。一体いくら欲しいのですか。君等は……」
「……サ……三千円出せ」
「アハハハ。そんなに出せませぬ。今ここに八百五十円あります」
「畜生……そんな目腐《めくさ》れ金《がね》で俺達が帰れると思うか」
「ヘヘヘ。ここはビルデングの奥です。わかりましたか。ここはビルデングの奥ですよ。ピストルを撃っても往来までは聞えません。どんな取引でも出来ます。サア……お金か……血か……どちらがいいですか」
「血だッ……」
 と叫ぶと同時にステッキを提げた巨漢が右のポケットから黒い拳銃《ピストル》を取出した。
 その一|刹那《せつな》、私は印度人の前に大手を拡げて立塞《たちふさ》がった。……と思う間もなく背後《うしろ》の扉《ドア》から飛出したらしい、黄色いワンピースを着たアダリーが私の前に重なり合って突立った。私と印度人を庇護《かば》うつもりらしかった。
 巨漢は面喰ったらしい。ピストルを持ったまま一歩|背後《うしろ》に退《さが》った。
 しかし私はソレ以上に面喰った。背後《うしろ》からアダリーを引抱えて、横に突き退《の》けようとしたが、これが私の大きな過失《エラー》であった。その一瞬間、鼻の先の巨漢の右手から茶色の光りの一直線が迸って印度人の巨体が無言のままドタリと仰向けに倒れた。ウームと唸りながら両足を縮めた。
 アダリーを扉《ドア》の間に閉め込んだ私は、その倒れた印度人の側に突立った。失望とも混乱とも憤懣とも、何ともかとも云いようのない感情の渦巻の中に喘《あえ》ぎ喘ぎ突立っていた。云い知れぬ絶望感のために危うく自制力を失いかけていた。鼻の先に巨漢がノシノシと近付いて来た。
「何だ貴様は……」
 私は冷然と笑った。その私の前後左右に勢《いきおい》を得た暴力団員が立塞がった。私を取逃がすまいとするかのように……。
 その隙《すき》に巨漢は、素早く身を屈《かが》めて印度人の手から紙幣の束を奪い取ろうとした。私は思わずカッとなった。イキナリ馳寄ってその巨漢の右手を靴の先で蹴飛ばした。紙幣が散乱してビショビショに濡れた漆喰《しっくい》の平面に吸付いた。
「……ウヌッ……」
 と怒髪天を衝いた巨漢が、私の耳の上に一撃加えようとするのを、私はヘッドスリップ式に首を屈《ま》げたが、その隙《すき》に両腕を強く振ると、左右の二人が肩の関節を外して悲鳴を上げた。同時に正面の巨漢がピストルを握ろうとした右手を逆に掴んで背負うと、ポキンという音と共に、右の上膊の骨を外した巨漢が、眼の前のタタキの上にモンドリ打って伸びてしまった。
 その手からピストルを奪い取って膝を突いたまま見まわすと、ほかの連中は巨漢を残して狭い路地口を押合いヘシ合い逃げて行った。その後から背後《うしろ》の扉《ドア》を飛出したタキシードと用心棒連が、何やら怒号しながら追うて行ったのを見ると私は急に可笑《おか》しくなった。
 アトを見送った私は倒れた印度人の死骸に向って頭をチョット下げた。
「自業自得です。成仏《じょうぶつ》して下さい」
 と黙祷すると、落散った紙幣を、一枚一枚悠々と拾い集めてポケットに入れた。それから背後《うしろ》の扉《ドア》を押して玄関の横から狭い木の階段をスルスルと馳上《かけあが》って二階へ出た。

 地下室の豪華|絢爛《けんらん》さに比べると二階はさながらに廃屋みたような感じである。窓が多くて無闇《むやみ》に明るいだけに、粗末な壁や、ホコリだらけの板張が一層浅ましい。
 私は一渡り前後左右を見まわすと、その廊下の突当りに向って突進した。
 事務室に居るという雲月斎玉兎女史こと、本名須婆田ウノ子を逃さないためだ。
 廊下の突当りに事務室と刻んだ真鍮板を打付けた青ペンキ塗《ぬり》の扉《ドア》がある。その扉《ドア》を開こうとすると、黄色のワンピース……アダリーが、イキナリ私の右腕に飛付いてシッカリと獅噛《しが》み付いた。涙を一パイ溜めた眼で私を見上げた。
「アナタの伯母さんを殺してはイケマセン……」
 私は愕然《がくぜん》となった。唖然となった。私の心の奥底の秘密を、どうしてアダリーが知っているのだろう。
 私の舌が狼狽の余り縺《もつ》れた。
「馬鹿……ホントの……ホントの伯母さんじゃない。毒婦だ」
 アダリーはイヨイヨシッカリと私の腕に絡み付いた。栗色の頭髪《かみ》を強く左右に振った。
「チガイマス……善い人です。私たちの恩人です」
 私は呆れた。同時に狼狽した。左手に握っていた八百五十円の札束をイキナリ、アダリーのワンピースの襟元に押込んだ。
「さ……これを遣る。放してくれ」
「アッ。イケマセン」
 とアダリーは叫んで、慌てて札束を取出そうとした。その隙《すき》に私はアダリーを振離して青ペンキ塗《ぬり》の扉《ドア》の中に飛込んだ……が……思わずアッと声を立てた。
 そこは意外千万にも真紅と黄金の光りに満ち満ちた王宮のような居室であった。嘗《かつ》て何かの挿画で見た路易《ルイ》王朝式というのであったろう……緋色《ひいろ》の羅紗《らしゃ》に黄金色の房を並べた窓飾《カーテン》や卓子被《テーブルクロス》、白塗《しろぬり》に金銀宝石を鏤《ちりば》めた豪華な椅子や卓子《テーブル》がモリモリ並んでいる。その入口に面した向側の大暖炉の上に巨大な鏡が懸かって、血相の変った私の顔がハッキリと映っている。
 煙突の掃除棒みたようにクシャクシャに乱立した頭髪。青黒く痙攣した顔面筋肉。引き歪《ゆが》められた古背広。ネクタイ。ワイシャツ。動脈瘤の妖怪然たる決死の姿……。
 部屋の中には誰も居ない。大暖炉の横の紫檀《したん》の台の上に両手をブラ下げて天を仰いだ裸体の少年像(後から聞いたところによるとこれはロダンの傑作の青銅像で雲月斎玉兎女史の巴里《パリー》土産《みやげ》であったという)がタッタ一つ立っているきりである。部屋の中に満ち満ちた香水の芳香がシンカンと静まり返って気が遠くなりそうである。
「ホホホホホホホホホ」
 思いがけない方向から思いがけない女の笑い声が聞えたので、私はビックリした。その方向に向き直ってキッと身構えた。
 部屋の右手の隅に七宝細工かと思われる贅沢な寝台が在る。金糸でややこしい刺繍の紋章を綾取《あやど》った緋色の帷帳《カーテン》がユラユラと動いたと思うとサッと左右に開いた。その中の翡翠《ひすい》色の羽根布団を押除《おしの》けて一つの驚くべき幻影がムクと起上った。
 玉虫色の夜会服を着た妖艶花のような美人……噂に聞いた……ブロマイドで見た……銀幕で見た……否。それ以上に若い、匂やかな生き生きした艶麗さ……私は、私の大動脈瘤が描きあらわす一つの幻覚ではないかと思った。コンナ素晴らしい幻影が見えるのは、黴毒が頭に来ているせいじゃないか知らんと思ったくらい蠱惑《こわく》的な姿であった。
「オホホホホホ。初めてお眼にかかります。妾《わたし》は伯父様に御厄介になっております玉兎で御座います」
 私は背後《うしろ》の低い緞子《どんす》の肘掛椅子に尻餅を突いた。クッションに跳ね返されて辷《すべ》り落ちそうになったので慌てて坐り直した。
「ホホ。最前からの御様子はここから拝見しておりました。お美事なお手の中《うち》に感心致しておりました。失礼ですけど……あのアダ子や……アダ子や……」
「ハイ……」
 返事の声と殆ど同時に私の横手の扉《ドア》が静かに開《あ》いた。耳の横に新しいフリージャの花を飾ったアダリーが、湯気の立つ赤黒い液体を湛えた青い茶碗を二つ載せた銀盆を目八分に捧げて這入って来た。印度風の礼式であろうか。頭の上に押し戴くように一礼しいしい私の前の小|卓子《テーブル》に載せた。
 扉《ドア》の外での切羽詰まった態度はどこへやら、今までの事はどこを風が吹くかという落附きぶりを見せながらアダリーは両手を胸に当てて最敬礼をしいしい立去った。
 その背後《うしろ》姿を扉《ドア》の外へ見送っているうちに私はやっと吾に帰った。同時に余りにも白々しい二人の冷静さに、たまらない怒気が腹の底から煮えくり返って来るのを、どうする事も出来なかった。
 二人は自分達の夫であり、主人である伯父の死体が玄関前に横たわっているのを知っておりながら平気で私を取巻いて、この上もなく冷血な芝居をしている。アダリーが私を扉《ドア》の外に引止めたのは、毒婦玉兎女史に何かしら準備の余裕を与えようとしていたものに相違ない。
 私は、そう気が付くと同時に颯《さっ》と緊張した。
「オホホホ。まあ落付いて下さい。どうぞ印度のお紅茶を一つ……実はあなたに御相談したいことがありますの」
「この上に落付く必要はないです。眼が見えます。耳が聴《きこ》えます。どんな御相談ですか」
「……まあ……随分性急ですね、友太郎さんは……」
 だしぬけに名前を呼ばれて、私はビックリした。しかし、それを顔には出さず、咳払いをした。
「止むを得ません。時日がないですから」
「まあ……時間がない、どうしてですか」
「僕はもう二三日中に死ぬのです。大動脈瘤に罹《かか》っているんです」
「まあ……大動脈瘤と申しますと……」
「前月の二十七日にQ大学で心臓をレントゲンにかけてもらったのです。そうしたら僕の心臓の大動脈の附根に巨大《おおき》な動脈瘤というものがある事が発見されたのです。その時にもう二週間の寿命しかないと、宣告されたのですから、僕の寿命は今日、明日のうちなのです」
 私がそう云ううちに、伯母の化粧した顔色が眼に見えて変化して来た。幾十歳の老婆のように皮膚が張力を失い、唇がわななき、眼の中に一パイ涙ぐんで来た。カップを持つ手がわなわなとふるえ出した。
「ですから御相談に来たのです。……サア……弟をどうしてくれますか」
「そ……それはもう妾《わたし》が引受けて……」
「口先ばかりではいけませんよ伯母さん。僕の眼の前でチャンとした方法を立てて下さい」
「待って……待って下さい。伯父様に一度御相談しないと……」
「馬鹿……その手を喰うと思うか。……この毒婦……」
「エッ、妾が……毒婦ですって……」
「毒婦だ毒婦だ……貴様は俺の伯父を唆《そその》かして、俺の両親の財産を横領させた上に生命《いのち》までも奪ってしまったろう……」
「アッ……そ……それは大変な貴方の思い違いです」
「ナ……ナニを今更ツベコベと……覚悟しろ……」
「アレッ……」
 と叫ぶと同時に玉兎女史は、私の振上げた短刀の刃先をスリ抜けて、寝台の中に飛込んだ。玉虫色の羽根布団を頭から引っ冠ったが、私はこの羽根布団の下の人の形の胸のあたり眼がけて、グサッと短刀を突込んだ。
 だが、不思議や羽根布団がビシャンコになってしまった。慌てて羽根布団をマクリ上げて下を覗いて見た私は、アッと叫んで立竦《たちすく》んだ。羽根布団の下は真赤な血に染ったシーツばかりである。そのシーツの中央には何かあって手を突込んでみると、下はからになっているらしい。こころみに両手で引明けてみると三尺ばかり下には階段があって、青い電燈が点《とも》っているのが見える。
 私は一杯食わされたのだ。雲月斎玉兎女史一流の手品で逃げられてしまったのだ。が、腹を立てても追附く話でない。私は血に染んだ短刀を掴んだまま、ぼうっとしかけたが、落着いて見ると、表の方で時ならぬ声がする。
 立って寝台の向うの窓から覗いて見たが、騒がしい筈だ。狭い路地口には真黒い警官がつめかけていて、この家の周囲《まわり》は蟻《あり》の這い出る隙《すき》もないくらい厳重にとりかこまれているようである。例の用心棒連はその押し合いへし合いしている中に数珠《じゅず》つなぎになってうなだれている。そのほかに、地下室で騒いでいた紳士、半裸体の女優、活動写真技師、女給なぞが、次から次に引っぱり出されて来る。十坪ばかりの空地が芋を洗うように雑沓して来る。
 そのうちに背後《うしろ》の扉《ドア》が開《あ》いた音がしたので、ハッとして振向くと、顎紐をかけた警官が二三人ドヤドヤと這入って来た。皆殺気立った形相をしていたが、振返った私の血だらけの右手を見ると、イキナリ二三梃のピストルを突きつけた。
「動くな。貴様だろう。犯人は……」
 私は静かに寝台の上に突立った。
「そうです。お手数はかけません」
「死骸はどこに隠した……この家《うち》の主人の死骸を……」
「知りません」
 私は内心唖然とした。警官が片附けたのでなければ消え失せるよりほかになくなりようがない筈だ。
「おのれ……白《しら》を切るか」
 というなり、先に立った警官が飛びかかって来た。私は咄嗟《とっさ》の間に身を飜して寝台の中へ飛び込んだ。ストンと音がして、身体《からだ》が階段の上に落ちるとすぐに、跳ね起きて階段を駈け降りた。
 馳け降りると一つの扉《ドア》にぶつかった。ぶつかるとすぐに押開いて中にはいると、頑丈な閂《かんぬき》が取付けてあるのを発見したので、これ幸いとガッチリ引っかけた。私はやっと落着いて、胸の動悸をしずめて真闇《まっくら》になったトンネルを手捜《てさぐ》りで歩き出した。どこへ行くかわからないまま……。

       三

 私は割り切れない不思議な出来事の数々を考え考え暗闇《くらやみ》の中を二三町ほど手捜《てさぐ》りに歩いて行った。
 この上もない卑怯者と思い込んでいた伯父が、この上もなく勇敢に死んで行った事実。その死体が、いつかの間に消え失せた事実。アダリーが私の正体を知っている不思議さ。伯母が私の名前を知っている不思議さ。伯父の死に無関心な伯母とアダリーの白々しい芝居。この伯母が、私の動脈瘤に寄せた深刻な同情……それからあの寝台のトリック……この抜け穴……理窟に合わない事ばかりだ。夢に夢見るような不思議な事ばかりだ。よく私の心臓がパンクしなかった事と思う。今日か明日《あす》に運命が迫っているのに……など思い思い手捜《てさぐ》りをして行くうちに、又一つの階段にぶつかった。螺旋《らせん》型になっているようだ。それを二三十段登り詰めてからマッチを摺《す》ると、回転|扉《ドア》らしいものにぶつかった。上下に手の汚れが附いている。下の方を押してみると案の定クルリと廻転して、美事なアパートの一室に出た。――窓から覗くと下は銀座一丁目の往来だ。
 部屋の片隅の洋服掛に美事なタキシードが掛けてあって、その上下にベロア帽とカンガルー皮の靴と銀頂のスネーキウッドの杖が置いてある。
 私はあの玉兎女史の血でよごれた古背広を脱いで、躊躇もなく大急ぎでその服と着かえた。帽子を冠る時に女の髪の臭いがプーンとしたので、これはあの毒婦雲月斎の変装用だなと気が付いた。帽子の大きいのと靴の小さいのには閉口したが、それでもどうにか胡魔化《ごまか》した。着換えてしまってみると、右のポケットに精巧な附髭《つけひげ》と黒い鼈甲縁《べっこうぶち》の色眼鏡があるのを探り当てたので、早速それを応用した。手鏡に写してみるとどうみても一流の芸術家だ。
 往来へ出ると同時に私は直ぐ横の煙草屋の飾窓《ショーウインド》の前に立った。その飾窓《ショーウインド》の横側に斜《ななめ》に嵌《は》め込んである鏡を覗いて今一度私の変装姿を印象すべく……。
 ところが、その中に私は自分の姿を認める前に驚くべきものを発見してしまった。すぐ私の背後《うしろ》に立止まって凝《じ》っと覗いているサラリーマンらしい中年紳士の肩越しに、銀座の往来の断面が三分の二ほど映っている。この往来を電車と並行して来る美事な旧式パッカードの箱自動車の中に並んでいる――燕尾服の紳士と夫人らしい夜会服、それがソックリ伯父と玉兎女史に見えたのだ。
 私は銀座の真中で幽霊に会った気持になった。急にタマラナク恐ろしくなって脱兎のように電車道へ出た。
「危いッ!」
 と車掌が怒鳴るのも聞かずに走って来た電車に飛乗った。尾張町に来ると又飛降りた。
 そのまま何気なく築地の八方館に帰ろうと思って木挽橋《こびきばし》の袂《たもと》まで来たが、河向うを見るとハッと立停まった。河向うの八方館の入口から出て来たばかりの二三人の警官が、河岸《かし》に立って左右をキョロキョロと見まわしている。ああ、私の正体がその筋から看破されているばかりでない、宿屋まで突止められているとは、何という機敏さであろう。弟にも知らせずに九州から来た私の正体が、どこから、どうしてわかったのであろう。――ただ呆然と佇んでいる私の耳に、魔者の声のようなラジオが聞えて来た。
「……引続いて今晩の最終九時半のニュースを申上げます。今晩銀座×丁目二十四番地、印度人シャイロック・スパダ氏経営に依るカフェー・クロコダイルで世にも恐しい且つ奇怪なギャング事件が勃発致しました。襲撃致しましたのは過般銀座銀行を襲撃して満都を驚かしました国粋団の一味で、カフェー・クロコダイルの入口に立っておりました印度人シャイロック・スパダ氏を射殺し、尚も奥へ乱入しようと致しましたが、急を聞いて馳付《かけつ》けた警官のために三人ほど捕縛されてしまいました。
 同時に該《がい》カフェー・クロコダイルの醜い営業振りが悉く当局の手によって暴露される事になりましたが、詳細な点はまだ、発表を停められておりますから悪しからず御諒察を願います。
 但し、ここに一つの不思議な事と申しまするのは、その愛国団の一味のほかに今一人、一人の兇漢が、カフェー・クロコダイルの中に忍び込んでいたことで御座います。その兇漢は、混雑に紛れて同カフェーの二階に馳上り、二階事務室に潜んでいたスパダ氏の情人、有名な雲月斎玉兎女史を刺殺して地下道から逃亡しました。しかも最も不思議な事に、その怪漢の悪戯《いたずら》でもございましょうか、スパダ氏の死体と玉兎女史の死骸が警官の出動と同時にかき消す如く消え失せました事で、そのために当局では事件の真相が判明せず、些からず困惑している模様で御座います。
 しかし、その兇徒の人相風采は目撃者の説明によって詳細判明しておりますから遅くも明夜までには逮捕される見込みで目下東京市中は非常警戒網が張られているところであります。……以上……」
 私はふらふらと真暗い材木|積《づみ》の蔭からソロソロと歩き出して、向側の車道に片足をかけようとした。この時、左の方から疾走して来たパッカードのオープンが烈しい警笛を鳴らしながら、行きすぎた。危く轢《ひ》かれ損なった私は慌てて歩道の上に飛び上って振り返ったが、思わずアッと声を揚げた。
 そのパッカードの中に黄色いルームに照らされて並んでいたのは疑いもなく私の弟と、アダリーではなかったか。しかも弟はリュウとした紺と茶縞の――彼の好きだと云っていた柄のサックコートに青光りするカンカン帽を冠っていた。アダリーは小さな黒い鉄兜《てつかぶと》形の婦人帽に灰色の皮膚をクッキリと際立《きわだ》たせた卵色の散歩服、白靴下、白靴。二人とも胸に揃いの黄金色のバラの花をさしていたではないか。そうして二人とも驚いた風で私を見ると同時に互いに相手の膝を押えて制し合った。
 ああ、私が九州を出て来て以来の出来事は何もかも一続きの悪夢の連続ではないか知らん。私は依然として東海道線の寝台車の中に睡っているのじゃないかしらん。否、弟が私の動脈瘤を宣告した事からして、私が常々心配していた事が夢となって現われたものに過ぎないので、私はまだQ大の十一号病室の寝台に横たわったまま、こうして悪夢から醒め得ないで藻掻《もが》いているのじゃないかしらん。
 私は何が何やらわからなくなったままスタスタと歩き出した。同時に左右の踵《かかと》に処々靴ズレが出来たらしくヒリヒリと痛みだしたのを感じた。
 だが、私は東京市中の交番の配置がこれ程までに巧妙に出来ていようとは思わなかった。
 私は曾て長い事、東京に住んでいたし、東京の裏面にもかなり精通しているつもりであるが、交番の前を通り抜けずに東京市外に出る事が絶対に不可能である事を、この時に生れて初めて知った。それ程に東京市中の交番の配置は巧妙に出来ているのであった。
 私は行く先々に白い交番が新しく新しく出来て行くのじゃないかと思い思い、抜け裏を潜ったり交番の前を電車の陰になって走ったりして、ヤッとの思いで両国の川縁《かわぶち》まで来た。もうここから先へは一歩も行けない。行けば橋の袂の交番にぶつかる。河岸から小舟を雇っても水上署の眼を逃れる事は出来ない。多分河口には鋭い眼が光っている事であろう。
 私は進退|谷《きわ》まった。目的を遂げずに罪人となって町を逍迷《さまよ》った揚句《あげく》行く先がなくなるとは何という不運な私であろう。
 私は悠々と流るる河の水を眺めた。星の光りと、灯の明《あかり》と入り乱れて夢のように美しい。コンナ時に人間はふいと死ぬ気になるものか……と思いながら……。
「旦那。行きますか」
 不意に私の背後《うしろ》で柔和な男のような声がしたので私はびっくりして振返った。美事な流線型の箱自動車が待っている。
 私は黙って飛乗ったが、乗ってみると驚いた。運転手は女で、粗い縞の鳥打帽。バックミラー越しにチラリと見えたその下に私と同じの黒色鏡がかかって、ヤモリ色をしているその顔が私をチラリとニッコリと笑った。
「ドチラへ参りましょうか」
「どこでもいい、郊外へ出てくれ」
「エッ郊外……」
 女運転手が可愛い眉をひそめた。どこかで見たような女だとは思ったが、この時はどうしても思い出せなかった。
「郊外は駄目なのかい」
「いいえ。何ですか、きょうは銀座で騒ぎがありましたのでね。非常線が張ってあるんです。私は横浜の免状を持っておりますし、車も横浜のですから帰れるには帰れるんですが。旦那が無事に通れますかどうか」
「アハハハ、馬鹿にするない、俺が殺したんじゃあるまいし」
 女運転手はニヤリと冷たく笑った。
「何とも知れませんわねえ。……でもあなたさえよかったら、方法があるんですが……」
「……フーム。どうするんだい」
「その腰かけの下へ寝るんです」
「何……この下へ……」
 私はソロソロ動き出して車の中で立上って座席のクッションを持上げてみた。
 ……何と……座席の下はチャント革張りの寝床になって、空気枕さえ置いてある。四方が金網張りで、空気が、自由に出入りするようになっているところを見ると、この車は尋常の車でない。そう気が付くと同時に私は一瞬間色々な想像を頭の中で急転さしたが、この際躊躇している場合でないと思った。
 で、思い切ってこの中にモグリ込んで、紙幣《さつ》をひっぱりだした。
「ホラ十円遣る」
「ありがとう御座います。後から頂きます」
 といううちに運転手は猛然とスピードを出した。ブンブンいうエンジンの音を聞いているうちに、疲れ切った私はとうとうウトウトしかけて行った。眠ってはならぬと思いながら。

「旦那様……まいりました」
 耳元で呼ぶ声がする。
「オイ来た」
 反射的に私は身を起した。女運転手は冷笑しいしい、クッションの下から這い出した私の腕をとらえて、コンクリート造りの大きな西洋館に連れ込んだ。
 表柱の標札を見ると天洋ホテル、伊勢崎町と書いてある。いつの間にか横浜へ来たのだ。
 女運転手は私を二階の十二号の特等室に案内した。
「ちょっとここでお待ちになって下さい」
 と云ったまま、サッサと出て行ってしまった。靴を脱いで、私はスッカリ眼が冴えたままベットの上に長くなった。豆の出来た足を揉み揉み女運転手が帰って来るのを待った。
 十分……二十分……三十分……。
 私はイヨイヨ彼女が来ない事がわかると又もジリジリと緊張して来た。さてはイヨイヨインチキホテルだな。この俺を捕まえて変な真似をしやがったら、それこそ運の尽きだぞ。どっちにしても冥土の道連れだ。東京で失敗した埋め合わせだ。どうするか見やがれ……といったような気もちで手を伸ばすと枕元のベルを二つ三つ押してみた。
 翌日出帆の上海《シャンハイ》行汽船の白切符を買って来いと命じて、私はその上海行きの長崎丸という汽船に乗って盛広《もりひろ》の短刀と一緒に一切の事実を告白した遺書を残して、海中へ飛込む計劃である。万が一にも助からないようにピストルで頭を撃って……するとすぐ扉《ドア》をノックして十四五の可愛い顔のボーイが這入って来た、眼をマン丸くしてお辞儀をした。
「何か御用ですか」
 私はすっかり張合が抜けてベットに長くなって寝たまま金を渡した。
 切符を買って来たボーイは妙にニコニコしながら両手を揉んだ。
「御夕食後御退屈ならホテルのダンスホールにおいでになりませんか。すぐこの下ですが」
 私は十二分の好奇心をもって、夕食もソコソコに階下のダンスホールにいって見た。そこで何事か起るに違いないといったような予感に打たれたが、しかしダンスホールには何等変った事がなかった。しかも東京の騒動が利いていたせいか、踊る客人は極めて僅少で、ただ一人若い医者らしいスマートな男が、一人で噪《はしゃ》いで踊っているのを、大勢の女がヤンヤと持て囃《はや》しているだけであった。その男は皮膚が薄赤くて髪毛《かみのけ》と眉毛が黄色く薄い男であったが、あんまり朗らかで愉快そうに見えるから、私は云い知れぬなつかし味をおぼえながら眺めているところへ、一おどり踊り終ったその男は、桃色に染った口をハンカチで拭き拭きすぐ私の傍《そば》の安楽椅子へ来てドッカリと腰をかけた。
「やー、どうも失礼しました」
 ヒョッコリと私に向って頭を下げた。何のわだかまりもない風付《ふうつ》きで私にシャンパンのコップをすすめた。
「ありがとう御座います。しかし頂きません」
 私がこう云って頭を下げると相手の男は見る見る妙な顔になって、私を見た今までの快活さはどこへやら、暫くの間ジイッと顔の筋力を剛《こわ》ばらせて、不思議な事に私の顔を凝視している様子であったが、やがてホッとため息しいしい大きく一つうなずいた。
「ハハアー、貴方は心臓がお悪いですな」
 私の心臓が大きく一つドキンとした。
「エッ……ど……どうしておわかりになりますので……」
「アハハ、お顔色でわかります。大動脈瘤でしょう」
「……………」
 私はもうすこしで気絶するところであった。その私の眼の前へ、男は名刺を差出した。受取って見ると、「レントゲン専門医学士|古木亘《ふるきわたる》」と明朝体で印刷してある。私はこの男の肉眼までが、レントゲンで出来ているのじゃないかと疑った。
「ハハアー。レントゲン専門の方で……」
「そうです。大動脈瘤なら私の処へ毎日のように押しかけて参りますので、皮膚のキメを一眼見るとわかる位になれているのです。皆無事に助かる人が多いのでね。押すな押すなという景気です、ハハハ……」
 古木学士はポカンと口を開けている私を見い見い言葉を続けた。
「イヤ。何でもない治療法なんです。私の秘薬でね、ブシリンという植物質のアルカロイドがあるのです。この薬を飲んでいるうちに血管がスグと柔らかくなって血圧が低くなるので、容易にパンクしないのです。ですから、その薬を差上げながら動脈瘤の病源である黴毒を根治するために、六百六号を注射しておりますと、動脈瘤がだんだん小さくなって、普通の丈夫な血管に回復するのです。しかもその膨れていた処には、丈夫な石膏の壁が残るために、二度とそこからはパンクしなくなるのです。私の処に見えた患者で助からなかった人は十人に一人しかありませんよ」
 私は世にも意気地もなく椅子から辷《すべ》り降りた。
「どうぞ、僕に、その薬を頂かして下さいませぬか。お助け下さいませぬか」
「アハハ。お易い御用です。まあおかけ下さい。この薬です。カプセルに這入っている白い粉末ですが、アイヌが矢尻に塗るブシという毒薬から採った薬です。これをお飲みになれば少くとも二十四時間はどんな劇烈な運動をしても心臓はパンクしません。……オイ! オーイ! この方にプレンソーダを一杯持って来て差上げろ」
 私は夢に夢みるような気持になった。
「しかし……先生のような方が……どうしてコンナ処に……」
「アッハッハッハッハッ。貴方の御運が強いのですね。……実はコンナ処へでも来て息を抜かなくちゃ遣り切れないほど儲かりますのでね。ハッハッ」
「やはり……その動脈瘤の治療で……」
「ナアーニ。動脈瘤の方はタカが知れておりますよ。例の深透レントゲンが大繁昌でね。有閑マダムや有閑令嬢の秘密をワンサ握っているもんですからね。コレで商売が繁昌する世の中はロクな世の中じゃありませんよ。ハッハッハッ」
 私はソーダ水に酔払ったような気持になった。私は古木学士に手を引かれてダンスホールに出た。女を三人も縋り付かせて水車の如く廻転さしてみせた。それから女どもに取巻かれて古木学士と抱き合いながら踊っているうちに、部屋中の灯《ひ》が突然虹のようにギラギラと輝き出したように見えた。それにつれて口の中が妙に黄臭《きなくさ》くなって来たので、毒を飲まされたのかと思ったが、もう遅かった。誰か五六人の手でシッカリと背中を抱えられているのを感じたきり何もかもわからなくなってしまった。

       四

 フッと眼をさますと私は見慣れない病院の一室に寝ている。緑色の壁と薄紫のカアテンに囲まれた静かな、暗い、窖《あなぐら》のような病室だ。カアテンの間から明るい青空の光りが流れ込んで、寝台の枕元から私の顔の真上に垂れ下っているスイトピーを美しく輝かしている。鼻が痲痺しているせいか芳香がしないようである。そのうちに身体《からだ》中がビッショリと汗を掻いて来た。身体《からだ》をモジモジと動かしてみると、フランネルか何かの寝巻を着ているようである。
「……アッ……」
 という小さな叫び声が私の枕元から聞えたので、ビックリして振り返ってみると、栗色の髪をグルグル巻にした黄色いワンピースの少女、眼の大きい、唇の赤い、鼻の高い、憂鬱な檳榔樹《びんろうじゅ》色の少女だ。
「アダリー」
 アダリーは返事の代りに大きな瞬きを一つした。印度人特有の表情の一つであろう。
「きょうは何日……」
「……五月……ジュ……サンニチ……」
「エッ……十三日……ほんとか……」
「……ホント……です……」
 と云ううちにアダリーは壁際の小|卓《テーブル》の上に置いてある新聞を取って見せた。私は引ったくるようにして日附を見た。東京昼夜新聞一万八千二十一号昭和九年五月十三日……日露国交好転……欧洲再び戦乱の兆。
「ここはどこ……」
「古木レントゲン病院……」
 私は唖然となった。しかし間もなく吾に帰ると飛び上って叫んだ。
「オイ大変だ大変だ……先生……古木先生を呼んで来てくれ」
 私の吃驚《びっくり》し方《かた》があんまりひどかったものでアダリーも驚駭《びっくり》したらしい。両手を頭の上に差上げ差上げアヤツリ人形のように両膝を高く揚げながら駈け出して行った。
 予定の日数よりも三日ほど生き伸びている。心臓に手を当ててみると、相も変らずハッキリした流れをトクントクンと打っている。……冗談じゃない。
 訳がわからぬまま、クシャクシャになった頭を掻きまわしたり、鬚だらけになった顎をゴリゴリ撫でまわしたりしているところへ扉《ドア》をノックして、古木先生が悠然として這入って来た。
「ヤア。醒めましたか。頭が痛くないですか」
「そう云われてみると成る程頭が痛いし、胸がすこしムカムカするようだ。イヤ、大丈夫です。先頃はどうも……」
「アハハ。イヤ失礼しました。ビックリなすったでしょう。無断でコンナ処へ連れて来たもんですから」
「実は驚いているんです。どうしたんですか、一体これは……」
「先ずこれを御覧なさい」
 古木先生はすこし真面目になって背後《うしろ》を振返った。古木先生の白い服の蔭に隠れていたアダリーが丸い筒を差出した。古木先生は、その筒の蓋をスポンと抜いて、中から黒い大きなセルロイドみたような正方形の紙を出した。空の方向に差し出して私に透かしてみせた。それは大きな医学用写真フイルムであった。人間の肋骨らしいものが黒く波打って並んでいる下の方に、白い雲みたようなものがボーとボヤケている。
「この白いものが貴方の心臓なのです」
「僕の心臓……」
「そうです。よく御覧下さい。ここが心臓の右心室でここが左心室です。ここから出た大動脈がコンナにグルリと一うねりして重なり合っているでしょう。おわかりになりますか」
「わかります。ゴムの管みたいに『の』の字形に曲って重なり合っているようですね」
「そうですそうです。僕はこの写真を撮るためにあなたに痲酔を利かせてこの病院に運び込んだのです。そうしてあの晩のうちに五枚ばかり瞬間写真を撮ってみたのですが、その中でも一番ハッキリ撮れたのがこの一枚です」
「ヘエッ。何のために……」
「何のためって、貴方の伯父さんに頼まれたのですよ」
「エッ。僕の伯父さん。あの須婆田の……まだ生きているのですか」
「ええ御健在ですとも。伯母さんの玉兎女史と一緒に昨夜《ゆうべ》印度へ御出発になりましたよ。銀洋丸で……」
 私は眼をパチパチさした。古木学士はいよいよ眼を細くして反身《そりみ》になった。学士の肩の蔭で、アダリーも可笑《おか》しいのを我慢しながらうつむいている気配である。
「何だか……僕にはわかりません」
「アハハハ……。僕にも深い御事情はわかりませんが、貴方の伯母様ですね。雲月斎玉兎嬢ことウノ子さんは未《ま》だ興行界を引退なさらない前からいつも私の処へ来て深透レントゲンをやっておられたのです。つまり美容の目的から出た産児制限ですね。貴方だから包まずにお話出来ますが、私は貴方の伯母様の御蔭で大学を出て、この病院を開きましたもので、この部屋は伯母様が御入院なさる時のおきまりのお部屋だったのです」
 私は今一度室内の調度を見廻した。路易《ルイ》王朝好み、ロダンのトルソー、セザンヌの静物画……。
「わからない。不思議だ――奇遇だ……」
「イヤ。奇遇じゃないのです。貴方が伯父様と伯母様の計略におかかりになったのです」
「計略に僕が……」
「そうです。私はよく存じております。伯父様と伯母様はよく右翼団体から狙われておいでになるので、いつも防弾衣《ぼうだんぎ》を着ておられたのです。伯母様は又お得意の魔術をもってイザとなるとカラクリ寝台の中に逃げ込まれるので、いつも犯人が掴まってしまうのです。それを貴方は御存じないものですから伯父様と伯母様が、最早《もはや》おなくなりになったものと思い違いなすったのでしょう」
 私は生れて以来コンナに赤面させられた事はなかった。お前は馬鹿だよ……と云われたよりもモット深刻な恥辱を感じた。
「ちょうど四月二十九日の夜《よ》の事です。私は伯母様からお電話がかかりまして、銀座のセイロン紅茶店へ参りまして伯父様と伯母様とに、貴方の弟御さんからスッカリ御事情を承りましたが……」
「エッ。僕の弟……どうして」
「貴方が福岡を御出発なさるのを停車場で発見されて、跡をつけて御上京なすって、伯父さんと伯母さんに一切を打ち明けて御相談になったアトに、伯父様と伯母様は東京中の私立探偵を動員して貴方の御宿を探らせてやっと判明したのが、五月の十一日の午後、貴方が一足違いで築地の八方館をお出かけになった後《あと》でした。そこで伯父様と伯母様はチャント心構えをして待っておいでになるところへ、意外の出来事から貴方の伯父様に対するお気持がわかったので、伯父様は非常に喜ばれました。伯母様も貴方の弟思いの御心持にスッカリ同情されましたが、一足違いで貴方を取逃がされたのを非常に残念がり、八方に部下を飛ばして貴方の行衛《ゆくえ》を探しておられると、両国橋の方向へ行かれる貴方を発見した者が、電話で知らせた。そこで兼ねてから男装して付いていたアダリーさんが直ぐに自動車を飛ばして……」
「アッ。それではあの運転手がアダリー……」
 アダリーは真赤になって古木学士の蔭に隠れた。
「アハハハ。貴方も馴染甲斐《なじみがい》のない人ですね。アダリーさんの顔を見忘れるなんて……しかしアダリーさんも……むろん私も……お話を聞いて感心しました。あなたの勇敢さと大胆さと熱意に打たれて伯父様と伯母様は何とかして救ける道はないかというので、私に治療をお願いになったのです。それで私は、わざと貴方に感付かれないように横浜の天洋ホテルでお眼にかかったのです。あの時に申上げたのは皆私の駄法螺《だぼら》だったのですが……」
「エッ駄法螺《だぼら》。あれはみんな嘘で……」
 私は又暗い気持になりかけたが、古木学士はそうした私の悲哀を吹き飛ばすように笑った。
「ハッハッ、御心配なさらずとまあお聞きなさい。私はその時に伯母様から貴方をこの病院に入れて三日間睡らせておいてくれろ。その間支度を整え印度へ逃げるからという御命令でね。で、その治療の結果を私が御報告申し上げたらお二方《ふたかた》ともスッカリ御安心で……」
「……安心……」
「ハイ……御安心で昨夜《ゆうべ》御出発になった許《ばか》りです。委細はこの手紙に書いておくからという事で……」
 古木学士は白い治療着のポケツから白い横封筒を取出して私に渡した。見忘れもせぬ伯父の筆である。
『前略。俺の過去の罪悪を知っているのはお前一人だ。そのお前が俺の生命《いのち》を救ってくれた。お前達二人は俺の良心だ。目的のために手段を択《えら》まなかった俺は罪悪を恐れる余りお前達二人を遠ざけていたことを詫びる。その詫びの印にお前の弟の友次郎へ私たちの財産の半分を残しておく。お前の気性はよくわかっている。両親の墓にこの旨を伝えてくれ。委細は麹町区大手三番の弁護士金井角蔵氏に会って聞け。俺達夫婦はまだ死にたくない。国家のために重大な仕事が残っているから印度へ去る。俺達夫婦が生きている間は日英の外交が破裂する心配はないと思え。外交の事は、お前達のような単純な書生にはわからぬ。気に入らないかも知らないがアダリーをよろしく頼む。まだ無垢の印度貴族の娘だ。そして直ちにQ大に復職せよ。柔道教師の本分を守れ。アダリーの身分の証明書と財産目録はやはり金井弁護士の処に在る』
「そうして……そうして……」
 私は真青にふるえながら古木学士の顔を見た。
「そうして……そうして僕の動脈瘤はどうなったのです」
「アハハハ。動脈瘤じゃありませんよ。その写真の通り血管の蜿《うね》りが重なり合ったものに過ぎないのです。珍らしいものですが、よく動脈瘤と間違えて騒がれるシロモノです。貴方の運動があんまり烈しかったので、血管が圧迫に堪えかねて伸びたのですね。トテも丈夫な血管ですよ、貴方のは……貴方はキット長生き……」
 私は後の説明が聞えなかった。ただアダリーがキアーッと叫んだ悲鳴が聞えただけである。気が遠くなって寝台の上に引っくり返ってしまったのだから……。



底本:「夢野久作全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年10月22日第1刷発行
入力:柴田卓治
校正:渥美浩子
2001年4月2日公開
2003年8月10日修正
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