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近眼|芸妓《げいしゃ》と迷宮事件
夢野久作

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《》:ルビ
(例)材料《たね》

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(例)近眼|芸妓《げいしゃ》

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 俺の刑事生活中の面白い体験を話せって云うのか。小説の材料《たね》にするから……ふうん。折角《せっかく》だが面白い話なんかないよ。ヒネクレた事件のアトをコツコツと探りまわるんだから碌《ろく》な事はないんだ。何でも職務《しごと》となるとねえ。下らないイヤな思い出ばっかりだよ。
 その下らないイヤな思い出が結構。在来《ありきたり》の名探偵大成功式の話じゃシンミリしない。恐ろしく執念深いんだなあ。
 それじゃコンナのはどうだい。どうしても目星が附かないので警視庁のパリパリ連中が、みんな兜《かぶと》を脱いだ絶対の迷宮事件が一つ在るんだ。所謂《いわゆる》、完全犯罪だね。そいつが事件後丸一年目に或る芸妓《げいしゃ》のヒドイ近眼のお蔭で的確に足が付いた。すぐに犯人が捕まったってえ話はどうだい。珍らしいかね。実はこれは吾々にとっちゃ実に詰まらん失敗談だがね。探偵談なんていうのも恥かしいくらいトンチンカンな、単簡明瞭な事件なんだが……。
 なお面白い……ずるいなあ、とうとう話させられるか。
 もう古い話だ。明治四十一年てんだから日露戦争が済んだアトだ。幸徳秋水の大逆事件の前だっけね。チット古過ぎるかね。……構わんか……。
 ずいぶん古い話だがこの事件ばっかりは、どうしても忘れられない変テコな印象がハッキリ残っているんだよ。何故だかわからないが、メチャメチャになった被害者の顔とか、加害者の若い青白い笑い顔とか、その間に挟まった芸妓のオドオドした近眼とかいうものが、不思議なほどハッキリと眼に残っている。
 話の筋道は頗《すこぶ》る簡単だがね。ほかの事件と違って何だか、こう考えさせられる深刻な、シンミリしたところがあるように思うんだ。
 事の起りは在《あ》り来《きた》りの殺人事件だった。
 飯田町の或る材木屋の主人で、苗字は忘れたが金兵衛という男が、自分の家の材木置場で殺《や》られたんだ。天神様の御縁日の翌《あく》る日だったから二十六日だろう。天気のいい朝だったっけが、行ってみると非道《ひど》い殺され方でね。
 五十恰好の禿頭《はげあたま》のデップリした親爺《おやじ》で、縞《しま》の羽織に前垂《まえだれ》、雪駄《せった》という、お定《き》まりの町家《まちや》の旦那風だったが、帽子を冠らないで懐手《ふところで》をしたまま、自分の家《うち》の材木置場から、飯田橋の停車場の方へ抜けて行く途中の、鋸屑《おがくず》のフワフワ積った小径の上に、コロリと俯伏《うつぶ》せに倒れている……材木の蔭から躍り出た兇漢に、アッという間もなく脳天を喰らわされたんだね。額《ひたい》から眼鼻の間へかけて一直線に石榴《ざくろ》みたいにブチ割られて、脳味噌がハミ出している。ちょっと見たところ、出血の量が非常に少ないと思ったが、顔の下の湿った鋸屑を掘ってみると、下の方ほど真黒くドロドロになっている。死後推定時間は十時間だったと思うが、倒れたまま、動かなかったらしい。文句なしの即死だね。ところでそこまでは判明したが、その他の事が全くわからない。
 その頃まではどこの材木置場にも木挽《こびき》が活躍していたので、現場の周囲が随分遠くまで新らしい鋸屑だらけだ。犯人もそこを狙って仕事をしたものらしく足跡が全くわからないのには弱ったよ。いくらでも足跡が在るには在るんだが、ハッキリしたのは一つもない。屍体《したい》の近くに二個所ばかり強く踏み躪《にじ》ってあるのが兇行当時の犯人の足跡《もの》らしかったが、単に下駄じゃないという事がわかるだけで推定材料にはテンデならない。被害者の懐中物は無尽講《むじんこう》の帳面が二冊キリ。蟇口《がまぐち》も煙草|容《いれ》もない。……という極めてサッパリした現場なんだ。
 その時の現場に出張していた連中はかなり大勢だった。少々大袈裟だったかも知れないが、仕事が閑散だったせいだろう。最初に麹町《こうじまち》署から来た四五人のほかに警視庁の第一捜査係長、刑事部長、警部補、巡査、刑事が四人、鑑識課の二三人、警察医が二名、予審判事と書記というのだから、殆んど全国の警察でも一粒|選《より》の鋭い眼玉が、そこいら中を一生懸命に探しまわったもんだが、何一つ手がかりが見当らない。ただその後の屍体解剖で、額にブチ込んだ兇器が厚さ一分位、推定一尺長さ以上の一直線の重たい物体であった。ちょうど鉈《なた》の背中みたようなものだった。……という事が判明しただけだったが、しかもこの鉈の背中という説明のし方が、アトから考えるとドウモ面白くなかったね。やはりこの事件を迷宮に逐《お》い込んだ原因になっていると思うんだ。長さ一尺以上、厚さ一分位の、一直線の重たい品物というので、みんな寄って色々考えてみたが、前に鉈の背中という言葉を聞いてたもんだから、それ以外の品物をドウしても考え付かない。まさかソンナ大きな文鎮《ぶんちん》が在ろうとは思わないからねえ。一直線の重たい、手頃の金属板……文鎮……製図屋と直ぐに思い付く程、頭のいい奴は実際にはナカナカ居ないものなんだ。探偵小説にはザラに居るかも知れないがね。そこで直接の証拠物件が見当らないとなると今度は情況の証拠という段取りになるだろう。
 金兵衛の女房、店の番頭、若い者なぞを、手を分けて調べてみると、金兵衛は昨日《きのう》の夕方、夕飯を喰ってから、本郷の無尽講の計算に行って来ると云って、預っていた旧式の帳面と、九百円ばかりの金を店の金庫から取出して、イクラか這入《はい》った蟇口と一緒に懐中《ふところ》に入れた。落さないように懐手《ふところで》をしながら、帽子も何も冠《かぶ》らないままブラリと表口から出て行ったのを、女房と番頭が見ておった。それっきり昨夜《ゆうべ》は帰って来なかったが、毎月二十五日の無尽講の計算の日には、そのままどこかへ行ってしまって、帰って来ないのが通例になっていたから、みんな早く寝てしまった。
 あくる朝……つまりその二十六日の朝になって、番頭と若い衆《しゅ》が、その日の中《うち》に深川の製材所から河岸《かし》に着く筈になっている樅《もみ》板の置場を見に行くと、直ぐに屍体を発見して大騒ぎになった。殺されるような心当りは一つもない……という至極アッサリした話……。
 むろんそれから家内中の者を綿密に調べてみたが、怪しい者なんか一人も居ない。女房は締り屋の堅造《かたぞう》で、一高の優等生になっている柔順《おとな》しい一人息子の長男と一緒に、裏二階で十時頃まで小説を読んでいたが、怪しい物音や叫び声なんか一度も聞かなかった。又若い番頭は、店の表二階で焼芋を買って、十時過まで猥談をやっていたので、尚更、何も聞かんという訳でね。みんな今でいう現場不在証明《アリバイ》をチャンと持っている。金兵衛は相当ケチケチした親方らしいが、それでも人使いが上手《うま》かったのだろう。怨んでいる人間なんか一人も居ないらしいのだ。
 コイツは又迷宮入りかな……といった感じが、そんな取調《とりしらべ》の最中にピンと頭へ来たがね。
 しかし何しろ九百何円の金がなくなっている以上、殺人強盗という見込みなんだから事が重大だ。しかも、よっぽど前から金兵衛の日常の癖や何かを研究して知っている人間で、相当の腕力と元気のある奴だ。殊に日が暮れているとはいえ人家や、電車道に近い薄明るい処で、これだけの思い切った仕事を遣《や》っ付《つ》けている以上、生やさしい度胸ではない。事によると前科者かも知れない……という理窟から遠い親戚や無尽講の関係者、又は九段下界隈の前科者や無頼漢《ごろつき》なぞを出来るだけ念入りに洗ってみたが、これとても疑わしい奴は一人も居ない。その中でも、二十五日の晩に、湯島天神の境内に集まっていた無尽講の世話人連中は、肝腎の帳面と金を持っている金兵衛が来ないので、その晩の九時頃になって、飯田町の金兵衛の家《うち》に電話をかけた。すると女房の声で、もう着く頃だという返事だったので、夜中過ぎる頃迄酒を飲みながら待っていたが、それでも来ない。そこでモウ一度電話をかけてみたが、今度は誰も起きて来ないらしいので、殺されているとは夢にも知らずに、明日《あした》、金兵衛の処に押しかけて行く事にきめて皆ブツブツ云い云い帰って寝た。大方金兵衛は九百円の金を、ほかの事に廻わしたので、金策に奔走したままどこかへ引っかかっているんじゃないかと云う者も居たが、イヤ、金兵衛さんはお金の事ばかりはトテモ几帳面だから帳面を預けたんだ。そんな事をする気づかいは絶対にない。どうもおかしい……と云う者も居た。すると又……イヤ、金兵衛はこの頃、築地のどことかに妾《めかけ》を置いているという話だから何とも知れない、なぞ云う者が出て来てワイワイ云い合いながら別れた……という腹蔵のない連中の話なんだ。
 ここで金兵衛の妾の話が出たので、直ぐに飛び付くように金兵衛の素行調べに移った訳だが、その妾というのは検番を調べてまわると直ぐに判然《わか》った。芳町《よしちょう》の芸妓《げいしゃ》で取って二十五になる愛吉というのが……本名はたしか友口愛子といったっけが、去年……明治四十年の暮に金兵衛から引かされて、築地三丁目の横町で、耳の遠い養母《おふくろ》と一緒に小さな煙草屋を遣っている。二階が押入、床の間附の六畳で、下が店の三畳に、便所に台所という猫の額みたいな造作《ぞうさく》でね。引かされたといっても自前になっただけで、お座敷はやっぱり勤めさせられていた。稼ぎ高は時々金兵衛が来てキチンキチンと計算する。台所のコマゴマした買物帳までも調べるという。ナカナカ抜目のないガッチリした親爺だったのだね。
 ところが又その愛吉の愛子という女がイクラか馬鹿に近い位、温柔《おとな》しい女なので、或る待合の女将《おかみ》が不憫がって、結局その方が行末のためだろうというので、金兵衛に世話したという話だったが、非道《ひど》い奴で、金兵衛は愛子の人の好いのに付込んで、稼ぎ高を丸々取上る上に、お客まで取らせていたというんだから呆れたね。算盤《そろばん》の強い奴には敵《かな》わないね。
 それから今度は捜索の手が、愛子の素姓調べに移った訳だが、そんな細かいところは面白くもないし、本筋に関係がないからヌキにしよう。とにかく愛子は某富豪華族の御落胤で、お定《さだ》まりの里子上りの養母《ははおや》に、煮て喰われようと焼いて喰われようと文句の云えない可哀相な身上であった事。三味線も踊りも、歌も駄目で、芸妓としては温柔《おとな》し過ぎる事、縹緻《きりょう》は十人並のポッチャリした方で、二十五だというのにお酌みたいに初々しい内気な女であった。それにチョットわからないが、非道《ひど》い近眼だったこと……これが一番大事な話のヤマなんだが、その近眼で人の顔をジイッと見る眼付が又、何ともいえず人なつっこい。見られた人間は、ちょっと惚れられているような感じを受ける事……アハハ。馬鹿にしちゃいけねえ。俺が自惚《うぬぼ》れた訳じゃねえんだ。誰にもそう思われたんだよ。
 それよりも事件発生以来、毎日毎日警視庁の無能を新聞に敲《たた》かれながら、ジイッと辛棒して、こうした余計な事をジリジリと調べてまわる俺達の苦労が並大抵じゃなかった事だけは同情しておいてもらいたいね。新聞記者なんてものは、そんなところにはミジンも同情しないからね。読者を喜ばせるのが商売だから、むしろ「警視庁の無能曝露」とか「犯人の大成功」とか書きたい気持で、まだですかまだですかと様子を聞きに来るんだからウンザリしちまわあ。イヤな商売だよ。全く……。
 ところが又、生憎《あいにく》な事にこの事件が、だんだんと新聞の註文に嵌《は》まりそうになって来た。この筋を辿って行けばキット何かにブツカルに違いないという、俺一流のカンが当っていたかいなかったか、愛子には今まで一人の情夫らしいものも居ない。念のために今までのお客の中で、好いたらしい事を云い合った者は居ないか。チョット惚《ぼ》れでもいいから居ないかと聞いてみたが、愛子はただポカンとして頭を左右に振るばっかりだから、しまいにはこっちが負けてしまった。頭の悪い奴はコンナ場合全く苦手だよ。殊に女にはコンナ種類の返事をする者が多いから困るんだ。
 実は愛子が惚れた男がチャント居たんだ。愛子はその男に、生れて始めての恋を感じているにはいたんだが、タッタ一晩、会ったキリだし、気の弱い女だもんだから自分でもチョット惚れのつもりでほかの苦労に紛れて、そのまんま忘れていたんだ。むろん其奴《そいつ》が犯人だったのだが……まあ……急《せ》かずと聞き給え。ここが面白いところなんだ。
 そんな訳で事件当時の愛子には、これぞという心当りが全くなかったんだから手の附けようがない。そうかといって愛子の取ったお客を一々調べ上げて、足を洗ってみるというのはトテモ大変な仕事だし、第一、それほどの確かな見込を附けていた訳じゃないんだから、そのままこの方面の捜索を打切る事にした。
 そうなると自然、捜索の方針が八方|塞《ふさ》がりになる訳だから、話が一番最初のところへ逆戻りして来る。つまり否《いや》が応でも兇器を発見して、その兇器から当りを付けて行かなければならない事になって来たが、その肝腎要《かんじんかなめ》の兇器が、事件発生以来どうしても見付からないのには弱らされたね。弱るも道理か……犯人はその兇器の文鎮をチャンと仕事場に持って帰って、ニッケル鍍金《めっき》を仕直して、毎日毎日製図の仕事に使っていたんだから、コレ位馬鹿馬鹿しい話はないんだが、こっちはソンナ事とは夢にも知らない絶体絶命だ。頼みの綱はコレ一つ……兇器さえ見付かればこっちのもの……東京市中を持ちまわって、一軒一軒|虱潰《しらみつぶ》しに出所を調べてまわっても構わない覚悟で、飯田町一帯の材木置場の隅から隅まで鋸屑《おがくず》を掻きまわしたもんだ。
 笑い事じゃないんだよ。一口に迷宮事件というけれども、迷宮事件の裏面にはコンナ苦労がドレ位積み重なっているか知れないのだよ。しまいには九段下から大手あたりのお堀へかけての大捜索まで遣ってもらったが、古バケツ、底抜け薬鑵《やかん》、古下駄、破れ靴、犬猫や、傘《からかさ》の骨以外には何一つ引っかかって来ない。新聞にはその大捜索の状況を写真にまで出したが、吾々はただ、そうして笑われているような気がしたばっかりだった。
 とうとう事件発生後、三個月目に完全な迷宮入り、捜索打切の宣告を聞いた時の残念さ、無念さ……それは絶対にお役目|気質《かたぎ》とか何とかいうもんじゃなかったよ。吾々仲間の根性とでもいおうか。事件の筋道が尻切《しりきり》トンボになって、有耶無耶《うやむや》になった不愉快さといったらないね。家《うち》へ帰っても二三日は飯が不味《まず》くて嬶《かかあ》を相手に癇癪《かんしゃく》ばかり起していたもんだが……むろん初めの騒ぎが大きかっただけに、警視庁が新聞からメチャメチャに野次り倒された事は云う迄もない。しかし事実は文字通りに「警視庁の無能」「犯人大成功」なんだからチューの音《ね》も出なかった訳だよ。
 ところが、こうした徹底的な迷宮事件……手がかりのなくなった完全犯罪が、それから一年も経った後《のち》に、思いがけない愛子の非道《ひど》い近視眼のお蔭で目星が付いたんだから皮肉だろう。
 不思議……そうだねえ。ちょっと聞くと、ずいぶん不思議な、神秘的な話に聞えるだろう。ところが事実は何でもない。何ともいえない人情に絡んだ憐れな話なんだ。
 ちょうどそれから丸一年経った明治四十二年の、やはり四月の中頃の事だった。むろん次から次に起る事件に逐《お》われて、金兵衛殺しなんか忘れている時分だったが……。
 雨はショボショボ降るし、事件も何もなし……というので、仲間と一緒に警視庁の溜りで雑談をしていると、給仕が面会人を取次いで来た。
「築地の友口愛子……大至急お眼に掛りたい……」
 と云って小さな名刺を一枚渡した。
 トタンにドキンとしたね。一年前の苦心をズラリと思い出しながら慌てて立上ったよ。コンナ場合に、コンナ調子でヒョッコリ面会を求めに来る事件の中の女は十中八九、何かしら重大な手がかりを持って来るものなんだ。
 仲間に冷やかされながら例の面会室に来てみると、疑いもない愛子がチャント丸髷《まるまげ》に結《ゆ》った野暮《やぼ》ったい奥様風で、椅子に腰をかけている。よほど心配な事があると見えて、顔色が真青に窶《やつ》れている。おまけに妙にオドオドした眼付でこっちを見る表情に、昔のような人なつこい愛くるしさがアトカタもないようだ。
 占《し》めた……と思いながら何喰わぬ顔で話を聞いてみると、愛子は金兵衛に死別《しにわか》れてから、芸妓《げいしゃ》を廃業《やめ》て、義理の母親《おふくろ》と一緒に煙草屋専門で遣ってみた。すると近所の会社員や、工場の職人たちが盛んに買いに来てくれるので、結構やって行ける事がわかった。しかし一方に養母《おふくろ》が、芝居と、信心と、寝酒の道楽を初めて、死んだ金兵衛の伝でグングン臍繰《へそくり》をカスリ取る上に、良い縁談をみんな断ってしまうので、愛子は朝から晩まで店の稼ぎと所帯の苦労に逐《お》われて、この頃はスッカリ窶《やつ》れてしまった……というような話で……つまり愛子は生れてから死ぬまで絞り取られるように出来ていた女なんだね。……それから愛子はオズオズと一通の手紙を出して、これを読んでくれと云うんだ。
 俺は何かの脅迫状じゃないかと思って半分失望しいしい、その手紙を開いてみたら大違いだった。便箋三枚に製図用の紫インキで綺麗に、細かく、ベタ一面に書いてあるんだ。参考品の中に保存してあるがね。見せてやろうか……ウン……こっちへ来てみたまえ。この手紙だ。
[#ここから1字下げ、1行アキ]
「前文御めん下さい。僕は貴女《あなた》に感謝しなければなりません。昨日《きのう》偶然に僕と、貴女とあすこで二人|切《きり》になった事を、貴女は記憶しておられるでしょう。あの時、貴女の横に腰をかけていたのは警視庁の思想犯係の刑事だったのです。そう気付いた時に僕はモウ絶体絶命の立場にいる事を知りました。貴女の前の御主人の事を根掘り、葉掘り聞いた僕の顔を貴女は記憶しておられる筈でしたから。
 そればかりでなく僕は、貴女が苦労に窶《やつ》れておられる姿を見てシミジミと自分の罪を思い知りました。すぐにも名乗ろうかと思いながら躊躇《ちゅうちょ》しておりましたが、その時に貴女は以前の通りの愛情の籠った眼でジイッと僕を見られただけで、そのまんま知らん顔をしておられました。貴女が僕に、どうかして無事に逃げてくれと云っておられる無言の気持がよくわかりました。
 ああ。あの時の気持。僕の感謝の気持を、どうしたら貴女にお伝え出来ましょう。
 貴女の前の御主人金兵衛は悪魔だったのです。貴女のそうした涙ぐましい純潔な心ばかりでなく、貴女の清浄な肉体、血液までも絞りつくそうとしている悪魔だったのです。ですから僕は、あの悪魔を懲《こ》らして貴女を救い出し、同時に僕の外国|行《ゆき》の旅費を作ろうと決心してしまったのです。それから一個月ばかりの間金兵衛を跟《つ》けまわして、とうとう完全なチャンスを掴んだのです。しかし外遊はしませんでした。金兵衛から奪ったお金は皆、党の運動資金に費《つか》ってしまいました。
 僕は貴女の思想から見ればドンナに咀《のろ》われても足りない人間です。貴女の御主人の仇敵です。社会の公敵です。貴女の不運の原因を作った人間です。それを貴女は知らん顔をして見のがして下すったのです。
 ああ。貴女はあの、タッタ一夜の純情を、一年後の今日までも僕に対して注いで下すったのです。僕を愛していて下すったのです。
 僕は生れて初めて貴女によって人間の純情の貴さを知ったのです。唯物主義一点|張《ばり》の血も涙もない生涯を送ろうと思っていた僕の信念が、貴女のお蔭で根柢からグラ付き初めたのです。
 僕はキチガイになりそうです。
 僕はモウ二度と貴女にお眼にかからない処へ逃げて行きます。裏切者にならないために、貴女の純真な、切ない愛情をタッタ一つ抱いて、満腔《まんこう》の感謝を捧げて死んで行きたいために。
 僕は裏切者となって、貴女と結婚して、貴女をエタイのわからない不幸な運命に陥れるに忍びません。
 どうぞ幸福に幸福に暮して下さい。
             淋しい社会主義者より[#行末より2字上げ]
  友 口 愛 子 様
 この手紙は直ぐに焼いて下さい。貴女の御親切に信頼します。
[#ここで字下げ終わり、1行アキ]
 この手紙を読み終ると直ぐに、これは一刻も猶予ならんと思って立上りかけた……が……又思い直して腰を落付けた。この手紙を持って来た愛子の態度が、あんまり不思議なので……自分に好いている男を一人死刑にするような遣り方なのに……正直者の愛子がソンナ残酷な事をする筈はないと思ったので、念のために今一度訊問してみる気になった。社会主義者一流の計略じゃないかしらんという疑いも起ったからね。
「ふうむ。愛子さん……」
「ハイ……」
「あんたはこの手紙の主《ぬし》に心当りがあるのかね」
 ビックリしたように眼をパチパチさせた愛子は丸髷を軽く左右に振った。
「いいえ。ちっとも存じません。何を書いてあるのか読めないものですから。字があんまり細かくて……」
 俺は唖然となってしまった。
「ナアンダ。まだ読んでいないのかい」
 愛子は丸髷に手を遣りながら淋しく笑った。
「ハイ。コンナような手紙が、よく男の方から参りますので、そのたんびに母親《おっかさん》に読んでもらっておりますが、この手紙の文句ばっかりは、わからないと母親《おっかさん》が云うもんですから……処々《ところどころ》拾い読みしてもらってもチンプンカンプンですから……ただ金兵衛さんの名前が所々《ところどころ》に書いてあって、社会主義者が死ぬっていうような事が書いてあるって云うもんですから、何だか怖くなりまして……ほかの方に読んで頂くのは剣呑《けんのん》だって母親《おっかさん》が云うもんですから、大急ぎで貴方に読んで頂きに……」
 俺は思わず一|丈《じょう》ばかりの溜息を吐《つ》いたよ。滑稽な気持ちなんかミジンも感じなかったから不思議だよ。これ程の恐ろしい作用《はたらき》を現わした愛子の、何も知らないでオドオドしている近眼を暫くの間茫然と見詰めていたね。
「ふうむ。あんたはこの手紙で見ると、金兵衛さんが死ぬる一個月《ひとつき》ぐらい前に、どこかの待合で、若いお客と差しでシンミリした事があるんだね」
 愛子の顔色が見る見る真青になった。この前に訊問した事をドウやら思い出したらしいんだ。それから又、忽ち耳の附け根まで赤くなったが俺の顔を見ながらオズオズと点頭《うなず》いたものだ。
「ね。あるだろう。思い出したろう」
 愛子はいよいよ真赤になって俯向《うつむ》いてしまった。俺は胸をドキドキさせながら彼女に対して訊問の秘術を尽し初めたが、彼女は手もなく釣り込まれてポツポツ話し出した。
「ハイ。やっと思い出しました。それは二十七八の若旦那風の人でした。待合ではオオさんと云っておりましたが、お名前は大深さんと云いましたか……お召物からお金遣いまでサッパリした方で、いいえ。手は両方とも職工らしくない、白い綺麗な手でした。お酒が少しばかりまわりますと、親切に色々と妾《あたし》の身上《みのうえ》をお尋ねになりましたので、何もかも真個《ほんと》の事をスッカリ話しました。金兵衛さんの事までもスッカリ……毎月二十五日が本郷の無尽講《むじん》の寄合なので、帳面とお金を持って行かれる。その帰りに電車で妾《あたし》の所へ見える事まで話しました。その若い方は何でも、信州の或るお金持の御養子さんで、東京へ来て高等工業学校へ這入ったが、養家が破産したために学校へ行けなくなった。それから色々苦労をして稼ぎながら、築地の簿記の夜学校へ這入っているうちに、半年振りに養家の残りの財産が自分のものになったから、煙草を買うたんびに思っていた君を名指しにして遊びに来た。これから時々来るから……といったようなお話で、お宅は芝の金杉という事でしたが……それはそれは御親切な……」
「……ふうん。それから、シッポリといい仲になったって訳だね」
 愛子は又耳元まで赤くなった。涙を一しずくポロリと膝の上に落した。
「うんうん。わかっているよ。だからあの時も、そのお客の事を俺に話さなかったんだね」
 愛子は丸髷を、すこしばかり左右に振った。シクリシクリと歔《しゃく》り上げ初めた。
「そうかそうか。そのお客だけがタッタ一人好いたらしい人だった事を、あの時は思い出さなかったんだね」
 愛子は微かに震えながら頭を下げた。多分|謝罪《あやま》っているつもりだったのだろう。俺は一膝乗り出した。
「そこでねえ。話は違うが、昨日《きのう》アンタはどこか、電車か何かの中で三人切りになった事があるかね。ほかの二人は男だった筈だが……」
 愛子はビックリしたように顔を上げた。
「どうして御存じ……」
「アハハ。この手紙に書いてあるじゃないか。どこだい、それは……」
「昨日《きのう》、伯父さんの法事をしに深川へまいりました」
「アッ。月島の渡船《わたし》に乗ったんだね。成る程成る程。その時にアンタと一緒に乗っていた二人の男の風体《ふうてい》を記憶《おぼ》えているかね」
 愛子は恐ろしそうに身体《からだ》を竦《すく》めた。俺が社会主義者の事でも調べていると思ったんだろう。例の黒眼勝《くろめがち》の眼をパチパチさせながら唇を震わした。
「妾は眼が悪う御座いますので、三尺も離れた方の風体《ごようす》はボーッとしか解りませんが……」
「わからなくともいいからアラカタの風采でいいんだ。二人とも紳士風だったかね」
「いいえ。一人は青い服を着た職工さんで、もう一人は黒い着物を着た番頭さんのような方でした」
「その職工みたいな男の人相は……」
 彼女はいよいよ恐ろしそうに椅子の中に縮み込んだ。
「あの……鳥打帽を……茶色の鳥打帽を眉深《まぶか》く冠っておられましたので、よくわかりませんでしたが、モウ一人の方はエヘンエヘンと二つずつ咳払いをして、何度も何度も唾をお吐きになりました」
「アハハ。そうかそうか、それは色の黒い、茶の中折《なかおれ》を冠った、背の高い男だったろう。金縁《きんぶち》の眼鏡をかけた……」
 愛子はビックリして顔を上げた。
「……どうして……御存じ……」
 俺は直ぐに呼鈴《よびりん》を押して給仕を呼んだ。
「オイ。給仕、控室の石室《いしむろ》君にチョット来てもらってくれ」
「かしこまりました」
 石室刑事は直ぐに来た。
「何だ何だ……ウンこの婦人かい。昨日《きのう》月島の渡船場《わたし》で一緒に乗ったよ。どうかしたんかい……ナニ。一緒に乗った職工かい、ウン知ってるよ。深川の紫塚《むらつか》造船所の製図引で大深泰三《おおふかたいぞう》という男だよ。社会主義者の嫌疑で一度調べた事がある。高等工業にいたとかいうがチョットお坊ちゃん風のいい男だよ。昨日《きのう》は俺の顔を見忘れていたんだろう。知らん顔をしていたっけが」
 正直のところ、この時ぐらい狼狽した事はなかったね。社会主義者なんていうのは、見掛によらない敏感なもので、逃足の非常に早いものだという事がこの時分からわかっていたからね。
「ウン直ぐに行こう。重大犯人だ。君も一緒に来てくれ。詳しい事はアトから話す。アッ……いけない。愛子さん愛子さん」
 愛子はウンと気絶したまま椅子から床の上へ転がり落ちてしまった。残忍な話だが、俺はその時に思わず微笑したよ。この気絶は彼女の話の真実性を全部裏書きしたようなものだったからね。
 警察医が来て愛子を介抱している間に、俺達は紫塚造船所に乗込んで、机の曳出《ひきだし》を片付けている最中の大深を、有無を云わさず引っ捕えた。大深はその頃芽生えかけていた社会主義者のチャキチャキで幸徳秋水の崇拝者だった。目的のためには手段を択まずという訳で、露西亜《ロシア》へ行く旅費を得るために、製図屋仲間の評判から愛子の旦那の金兵衛に眼を附けて、愛子の口から様子を探ると、仕事用のニッケル鍍金《めっき》の四角い鉄棒を持って熱心に跟《つ》けまわしている中《うち》に、屏風《びょうぶ》を建てまわしたような材木置場で、絶好の機会に恵まれたので断然、絶対安全な兇行を遂げたんだね。
 しかし大深はタッタ一度の馴染《なじみ》なもんだから愛子の近眼に気付いていなかったし、愛子の方も、そんな事までは打明けなかったんだね。だから愛子の例の通りの潤んだ、惚れ惚れとした眼付きでジイッと見られた時に、スッカリ感違いをしてしまったんだね。元来が主義にカブレた青二才で、ホントの悪党じゃなかったもんだから、ほんの一時の自惚《うぬぼ》れから身を滅ぼしてしまった訳だ。
 手錠をかけたアトで例の手紙を見せると大深は、青い顔になってうなずいた。
「馬鹿だなあ……この手紙を他人《ひと》に見せるなんて……もっとも俺の方がよっぽど馬鹿だったんだが……アハハハ……」
 と空虚《うつろ》な高笑いをしたっけ。実にサッパリしたいい度胸だったが、聞いてる吾々は笑おうにも笑えない気持がしたよ。
 むろん癪《しゃく》に障っていたから大深の就縛は新聞社には知らせなかった。そのまま暗《やみ》から暗《やみ》へと死刑になってしまったが、可哀そうなのは愛子で、それから後《のち》チョイチョイ大深へ差入れなんかをしていたらしい。そうして彼が死刑になった事が新聞に出た晩に、自宅の台所で首を縊《くく》って死んでしまった。
 遺書も何もなかったので原因はわからないが、自分の口一つから金兵衛を殺し、又大深を殺した事がわかったので、すっかり悲観して思い詰めてしまったんじゃないかと思う。
 何……君にはわかっている……?
 愛子は最初、大深に初恋を感じていたのを自分でも気付かずにいたんだ。それがあの手紙を見て焦《こ》げ付くほど燃え上った。そうして大深の死刑と一緒にこの世が暗闇《くらやみ》になった。
 ふうん。恐ろしい間《ま》だるっこい惚れ方をしたもんじゃないか。惚れていた事がわかるまでに人間を二人も殺してさあ。
 ふうん。ほんとうに純真な、内気な女なんてソンナもんだ、そこがこの話のスゴイところだ……小説になるところだっていうのかね。
 アハハ。成る程ねえ……。



底本:「夢野久作全集10」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年10月22日第1刷発行
※本作品中には、今日では差別的表現として受け取れる用語が使用されています。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、あえて発表時のままとしました。(青空文庫)
入力:柴田卓治
校正:ちはる
2000年12月18日公開
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