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巡査辞職
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)深良一知《ふからいっち》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一村|挙《こぞ》って

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)顳※[#「※」は「需+頁」、108-4]《こめかみ》
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   前   篇


「草川の旦那さん。大変です。起きて下さい。モシモシ。起きて下さい。私は深良一知《ふからいっち》です」
 暑い暑い七月の末の或る早朝であった。山奥の谷郷《たにさと》村駐在所の国道に面したホコリだらけの硝子戸《ガラスど》をケタタマシク揺《ゆす》ぶりながら、一人の青年が叫んだ。
 それは見るからにここいらの貧乏百姓の児《こ》と感じの違った、インテリじみた色の白い鼻筋のスッキリとした美しい青年であった。青々と乱れた頭髪が、白い額の汗に粘り付いていたが、神経の激動のために、その濃い眉《まゆ》がピクピクと波打って、赤い小さな、理智的な唇がワナワナとわななきながらも、その睫毛《まつげ》の長い黒い瞳は、いい知れぬ恐怖のためであろう。半面を蔽《おお》うた髪毛《かみのけ》の蔭から白いホコリの溜った硝子戸の割れ目を凝視したまま、奇妙にヒッソリと澄んでいた。慌てて走って来たものと見えて、手拭《てぬぐい》浴衣《ゆかた》の寝巻に帯も締めない素跣足《すはだし》が、灰色の土埃にまみれている。
 ……と……駐在所の入口になっている硝子戸が内側からガタガタと開《あ》いて、色の黒い、人相の悪い顔に、無精鬚《ぶしょうひげ》を蓬々《ぼうぼう》と生した、越中褌《えっちゅうふんどし》一つの逞ましい小男が半身を現わした。
「どうしたんか」
「アッ。草川の旦那さん」
 草川巡査は睡《ねむ》そうな眼をコスリコスリ青年の顔を見直した。
「何だ。一知じゃないかお前は……」
「はい。あの……あの……両親が殺されておりますので……」
「何……殺されている? お前の両親が……」
「はい。今朝《けさ》、眼が醒めましたら、台所の入口と私の枕元に在る奥の間《ま》の中仕切《なかしきり》が開け放しになっておりましたから、ビックリして奥の間の様子を見に行ってみますと、お父さんと、お母《っか》さんが殺されております。蚊帳《かや》が釣ってありますので、よくわかりませんが、枕元の畳と床の間のあいだが一面、血の海になっております」
「いつ頃殺されたんか。今朝か……」
「……わかりません。昨夜《ゆんべ》……多分……殺された……らしう御座います」
「泣くな――。たしかに死んでいるのだな」
「……ハイ……ツイ、今しがた、神林医師《かんばやしせんせい》を起して、見に行ってもらいましたが……まだ行き着いて御座らぬでしょう」
「うむ。一寸《ちょっと》待て……顔を洗って来るから」
 草川巡査は、裸体《はだか》のまま直ぐに裏口へ出て、冷たい筧《かけひ》の水で顔を洗った。それから大急ぎで蚊帳と寝床を丸めて押入に投込んで、机の上に散らばっていた高等文官試験準備用の参考書や、問題集を二三冊、手早く重ねて片付けると今一度、駐在所の表口へ顔を出した。
「一知……」
「ハイ」
「こっちへ這入《はい》れ、足は洗わんでもええから……」
 二人は駐在所の板の間に突立ったまま向い合った。草川巡査の小さな茶色の瞳は、モウ神経質にギロギロと輝き出していた。
「何時頃殺されたんか。わかっとるか」
 一知は潤《うる》んだ大きな眼をパチパチさせた。
「……わかりません。昨夜《ゆんべ》十二時頃寝ましたが、今朝起きてみますと、モウ殺されておりましたので……蚊帳越しですからよくわかりませんが、二人とも寝床の中からノタクリ出して、頭が血だらけになっております……」
「それを見ると直《すぐ》に走って来たのだな」
「ハ……ハイ……」
 暗い駐在所の板の間に立った一知は涙ながらも恐ろしそうに身震いした。そうして突然に大きな嚏《くしゃみ》を一つしたが、それは汗が乾きかけたせいであったろう。
 草川巡査は無言のまま点頭《うなず》いた。傍《かたわら》の警察専用の電話に取付いて烈しくベルを廻転させると、静かな落付いた声で、五里ばかり離れている×市の本署へ、聞いた通りの事実を報告した。……と……向うから何か云っているらしい……。
「……ハ……ハイ。まだ、それ以上の事実はわかりませんので……ハイ。報告して参りました者は深良一知と申しまして村の模範青年です……ハイ。被害者の養子です。ハイ。元来《もともと》、この村の区長の次男であったのですが、今年の二月に深良家……被害者の処へ養子に行った者です。まだ籍は入れていないようですが、ナア一知……お前はまだ籍を入れておらんじゃろ……ウン……そうじゃろ、ハイハイ……何ですか……ハイハイ……その深良家と申しますのは村からチョット離れた小高い丘の上に在ります一軒家で、村の者は皆、深良屋敷深良屋敷と云っております。村でも一番の大地主で、この辺でも指折の富豪です。殺されたというのは、その老夫婦ですが……イヤイヤこの頃この国道にはソンナ浮浪人は通らないようです。以前はよくルンペンらしい者の姿を見かけましたが。ハ……ハイ。承知しました。私はこれから直ぐに現場へ参ります。ハ……お待ちしております」
 草川巡査は手早く帽子を冠《かぶ》って、官服のズボンに両脚を突込んで上衣《うわぎ》を引っかけた。編上靴《あみあげぐつ》をシッカリと搦《から》み付けて、勝手口から佩剣《はいけん》を釣り釣り出て来ると、国道とは正反対の裏山に通ずる小径《こみち》伝いにサッサと行きかけたので、表通りで待っていた一知青年は、慌てて追っかけて来た。
「アッ。こんな方へ行くのですか。山道はまだ濡れておりますよ。草川さん……」
 草川巡査も何やらハッとしたらしく、そういう一知の何かしら狼狽した、オドオドした眼付きを振返ると、ちょっと立止まって、その顔を穴のあく程凝視したので、一知は見る見る真青になって、唇をワナワナと震わした。しかしその時にフッと気を変えた草川巡査は、
「ウン。人目に付くと五月蠅《うるさい》からね」
 と何気なく云い棄てて露っぽい小径の笹の間を蹴分《けわ》け蹴分け急いで行った。

 元来この谷郷《たにさと》村は、こうした山奥に在り勝ちな、一村|挙《こぞ》って一家といったような、極めて平和な村だったので、高文《こうぶん》の試験準備をしている草川巡査は最初、大喜びで赴任したものであったが、そのうちに彼の竹を割ったような性格がだんだんと理解されて来るにつれて、村の者から無上の信用と尊敬を受けるようになった。それに連れて村の納税や、衛生の成績がグングン良くなるばかりでなく、以前は山向うの隣県へ逃込もうとして、よくこの村を通過していた前科者などが、今では草川巡査の眼が光っているためにチットモ通らなくなった……という噂まで立つようになっていた。そこへ起った今度の事件なので、草川巡査は最初からチョット一つタタキノメされたような感じで、一種異様な興奮――緊張味を感じているのであった。
 しかも草川巡査を興奮させ緊張させた原因は、単にそれだけではなかった。モットモット大きい、恐ろしく深刻な事件の予感が、美青年、深良一知の声を聞いた一|刹那《せつな》から黒い嵐雲《らんうん》のように草川巡査の全神経に圧しかかって来たのであった。
 深良屋敷の老夫婦が、非業な死に方をするに違いないという事は、ズット以前から村中の人々が一人残らず心の片隅で予感していたところであった。……今に見ろ。ロクな死に方をしないから……といって深良屋敷を呪咀《のろ》わない村の人間は恐らく今までに一人も居なかったであろうと思われるくらい深良屋敷は、村中の怨恨《うらみ》の焦点になっていたもので、その意味からいうと、この村の人々は一人残らず今度の事件の嫌疑者か共犯者と考えてもいい……といったような極端に神秘的な因縁が、今度の事件に絡《から》まっているのであった。それがこうして突然に実現されたのだから万一、村の人々にこの事が知れ渡ったら、皆、今更のようにハッと顔を見合わせて、お互い同志を疑い合うであろう。それと同時に草川巡査にとっては、想像も及ばない探査の困難な殺人事件……村民全部が嫌疑者……といったような極度の神秘的な深みを持った迷宮事件を押付けられたようなもので、ちょうど横綱と顔を合わせた褌担《ふんどしかつ》ぎみたような自分の力の微弱さを、今更のように思い知らずにはいられないのであった。
[#ここから1字下げ、本文とはアキナシ]
 ……これが俺の失敗のタネになりはしないか……永い間の高文の試験準備で、疲れ切っている俺のアタマは、こうした現実の出来事に向かないくらい弱々しく、過敏になっているのではないか……。
 ……とにも角《かく》にも、どこまでも慎重に……慎重に取りかからねばならぬ……あくまでもヘマをやってはならぬ……。
[#ここで字下げ終わり]
 といったような、武者振いがまだ具体的に現われて来ない前のような神秘的な戦慄《せんりつ》に、草川巡査は襲われて仕様がないのであった。そうしてそのドキドキした予感を中心にして、深良屋敷の惨劇を裏書きしているらしい色々な過去の前兆が、眩《まぶ》しいくらい明るい、又はジメジメと薄暗い木立の中を押分けて行く草川巡査の、勉強に疲れた記憶力の中に、今更のようにマザマザと浮み上って来るのであった。

 深良屋敷というのは村外《むらはず》れの国道から二三町北へ曲り込んだ、小高い丘の上の雑木林に囲まれた小さな一軒家であった。もっともズット以前の明治三十年頃までは、深良家の先祖代々が住んでいた巨大な母家《おもや》が、雑木林の下の段の平地に残っていたが、それが現在の牛九郎爺さんの代になると、極端な労働《アラシコ》嫌いの算盤《そろばん》信心で、経費が掛るといって、その一段上の雑木の中に在るタッタ三|室《ま》しかない現在の離家《はなれ》に移り住むようになった。同時に牛九郎爺さんはその巨大な母家をアトカタもなく取片付けて隣村の大工に売払い、数多い雇人《やといにん》をタタキ放し同様にして追出してしまい、有る限りの田畑《でんぱた》をソレゾレ有利な条件で小作に附け、納まりの悪い小作人の所有の田畑は容赦なく法律にかけて、自分の名前に書換えて行った。それに又、配偶《つれあい》のオナリという女が亭主に負けない口達者のガッチリ者で、村の女房達が第一の楽しみにしている御大師様や、妙法様の信心ごとの交際《つきあい》なぞには決して出て来ない。のみならず臍繰金《へそくりがね》を高利に廻して、養蚕《ようさん》や米の収穫後になると透《す》かさずに自分で出かけて、ピシピシと取立てたりするようになったので、深良屋敷の老夫婦に対する村中の気受《きうけ》がイヤでも悪くなって来るばかりであった。
「今に見ておれ。あの夫婦は碌《ろく》な死にようはせぬから……信心をせぬような犬畜生にはキット天道《てんとう》様の罰《ばち》が当る」
 とか何とか蔭口を云う者が方々に出て来るようになったが、勿論それ位の事に驚くような牛九郎夫婦ではなかった。殊に住んでいる場所が場所だけに、村の人々の気持と全然かけ離れた別人種扱いにされながらも、平気で我利我利亡者《がりがりもうじゃ》に甘んじて、極めてヒッソリと暮しているのであった。
 しかし、それでも、その丘の上一帯の森の木立は、流石《さすが》に昔の大きな深良屋敷の構えの面影を止《とど》めていた。夜になるとさながらに巨大な城砦か、神秘的な島影のように真黒々と星空に浮出して、昔ながらに貧弱な村の風景を威儼《いげん》していたので、小さな住居《すまい》に不似合な深良屋敷の名称も、自然、昔のまんまに残っているのであった。
 その深良屋敷の老夫婦の間にはマユミという娘がタッタ一人あった。しかも、それが非常な美人だったので「深良小町」の名が近郷近在に鳴り響いているのであったが、可哀相な事にそのマユミは学問上で早発性痴呆という半分生れ付みたような薄白痴《うすばか》であった。大まかな百姓仕事や、飯爨《めしたき》や、副食物《おかず》の世話ぐらいは、どうにかこうにか人間並に出来るには出来たが、その外《ほか》の読み書き算盤《そろばん》はもとより、縫針なんか一つも出来なかった。妙齢《としごろ》になっても畑の仕事の隙《ひま》さえあれば、蝶々を追っかけたり、草花を摘んだりしてニコニコしている有様なので、世話の焼ける事、一通りでなかったが、それを母親のオナリ婆さんが、眼の中に入れても痛くない位可愛がって、振袖を着せたり、洟汁《はな》を※[#「※」は「てへん+(嚊−口)」、89-3]《か》んでやったりしているのであった。
 しかし何をいうにも、そんな状態《ありさま》なので、誰一人婿に来る者が無いのには両親とも弱り切っていた。のみならず所謂《いわゆる》、白痴美というのであろう。その底無しの無邪気な、神々《こうごう》しいほどの美しさが、誰の目にもたまらない魅力を感じさせたので、さもなくとも悪戯《いたずら》好きな村の若い者は皆申合わせたように「マユミ狩」と称して、夜となく昼となく深良屋敷の周囲をウロ附いたものであった。マユミの白痴をいい事にして入れ代り立代り、間《ま》がな隙《すき》がな引っぱり出しに来るので、そのために両親の老夫婦は又、夜《よ》の眼も寝ない位に苦労をして追払わなければならなかった。
 しかしその中にタッタ一人、このマユミにチョッカイを出しに来ない青年が居た。それはこの谷郷村の区長、乙束《おとづか》仙六という五十男の次男坊であった。村では珍らしく中学校まで卒業した、一知という男で、村の青年は皆、学者学者と綽名《あだな》を呼んで別扱いにしている今年二十三歳の変り者であった。
 ちょうどその頃、一知の父親の乙束仙六は、養蚕の失敗に引続く信用組合の公金|拐帯《かいたい》の尻を引受けて四苦八苦の状態に陥り、東京で近衛《このえ》の中尉を勤めている長男の仙七の血の出るような貯金までも使い込んでいる有様で、心労の結果ヒドイ腎臓病と神経衰弱に陥って寝てばかりいる状態《さま》は、他所《よそ》の見る目も気の毒な位であったが、しかし次男坊の一知は、そんな事を夢にも気付かないらしく、自分勝手の呑気な道楽仕事にばかり熱中していた。
 その道楽仕事というのは、中学時代から凝《こ》っていたラジオで、幾個《いくつ》も幾個も受信機を作っては毀《こわ》し作っては毀しするので、彼の勉強部屋になっている区長の家《うち》の納屋の二階は、誰にもわからない器械器具の類で一パイになっていた。村の人々は、
「聴かぬためのラジオなら、作らん方が好《え》え。学者馬鹿たあ、よう云うたる」
 と嘲笑し、両親も持て余して、好きにさせているという、一種の変り者で、いわばこの村の名物みたようになっているのが、この一知青年であった。
 だからその一知が、牛九郎老夫婦の眼に止まって婿養子に所望されると、両親の乙束区長夫婦は一議にも及ばず承知した。一知もラジオ弄《いじ》りさえ許してもらえれば……という条件附で承知したもので、その纏まり方の電光石火式スピードというものは、万事に手緩《てぬる》い村の人々をアッと云わせたものであったが、それから又間もなく一知は、この村の習慣《しきたり》になっている物々しい婿入りの儀式を恥しがったものか、それともその式の当夜の乱暴な水祝《みずいわい》を忌避《いや》がったものか、双方の両親が大騒ぎをして準備を整えている二月の末の或る夜の事、自分の着物や、書物や、色々な器械屑なんぞを、こっそりとリヤカーに積んで、深良屋敷へ運び込み、そのまま何と云われても出て行かないで頑張り通し、双方の両親たちを面喰わせ、村中を又もアッと云わせたものであった。
 そうしてそれから後《のち》、小高い深良屋敷を囲む木立の間から眩しい窓明りと共に、朗らかなラジオの金属音が、国道添いの村の方へ流れ落ち初めたのであった。
「イッチのラジオが、やっとスウィッチを入れたバイ」
 と青年達は甘酸っぱい顔をして笑った。
 しかし谷郷村の人々の驚きは、まだまだ、それ位の事では足りなかった。

 深良《ふから》屋敷の若い夫婦は、新婚|匆々《そうそう》から、猛烈な勢いで働き出したのであった。今まで肥柄杓《こえびしゃく》一つ持った事のない一知が、女のように首の附根まで手拭で包んだ、手甲脚絆《てっこうきゃはん》の甲斐甲斐しい姿で、下手糞ながら一生懸命に牛の尻を追い、鍬《くわ》を振廻して行く後から、薄白痴《うすばか》のマユミが一心不乱に土の上を這いまわって行くのを、村の人々は一つの大きな驚異として見ない訳に行かなかった。
 一知は間もなく両親に無断で、小作人と直接談判をして、麦を蒔《ま》いた畠を一町歩近くも引上げて、ドシドシ肥料を遣り始めた。村の人々はその無鉄砲に驚いていたが、その丹精が一知夫婦だけで立派に届いて、見事に実った麦が丘の下一面に黄色くなって来ると、最後まで冷笑していた牛九郎老夫婦も、流石《さすが》に吃驚《びっくり》したらしい。養子夫婦の親孝行のことを今更のように村中に吹聴してまわり始めた。一知の掌《てのひら》が僅かの間に石のように固くなっている事や、娘のマユミが一知と二人ならば疲れる事を知らずに働く事なぞを繰返し繰返し喋舌《しゃべ》って廻るので村の人々は相当に悩まされた。
 ところが不思議な事に、そんな序《ついで》に話がラジオの事に移ると、何故かわからないが牛九郎夫婦は、あまり嬉しくない顔色を見せた。殊にそのラジオ嫌いの程度はオナリ婆さんの方が非道《ひど》いらしかった。
「まあ結構じゃ御座んせんか。毎晩毎晩何十円もする器械で面白いラジオを聞いて……」
 なぞと挨拶にでも云う者が居るとオナリ婆さんは、きまり切って乱杙歯《らんぐいば》を剥出《むきだ》してイヤな笑い方をした。片足を敷居の外に出しながら、すこし勢込んで振返った。
「ヘヘヘ。あれがアンタ玉に疵《きず》ですたい。承知で貰うた婿じゃけに、今更、苦情は云われんけんど、タッタ三|室《ま》しかない家《うち》の中が、ガンガン云うて八釜《やかま》しうてなあ……それにあのラジオの鳴りよる間が、養子殿の極楽でなあ。夫婦で台所に固まり合うて、何をして御座るやら解らんでナ。ヘヘヘヘ……」
 あとを見送った人々は取々《とりどり》に云った。
「何なりと難癖を附けずにゃいられんのが、あの婆さんの癖と見えるなあ。ハハハ」
 それから後《のち》、そのオナリ婆さんが一知の畠仕事に附いてまわって、色々と指図をしているのを見て、
「ソレ見い。何のかのと云うても一知の働らき振りはあの婆さんの気に入っとるに違いないわい。そこで慾の上にも慾の出た婆さんが、出しゃばって来て、あの上にも一知を怠けさせまいと思うて要らぬ指図をしよるに違いない。あれじゃ若夫婦もたまらんわい」
 と云ったり、それから後、深良屋敷のラジオがピッタリと止んで、日が暮れると間もなく真暗になって寝静まるのを見た人々が、
「あれは一知がラジオの械器を毀《こわ》したのじゃないらしい。婆さんが費用を吝《お》しんで止めさせたものに違いない。一知さんも可哀そうにのう。タッタ一つの楽しみを取上げられて」
 と同情した位の事であった。
 然《しか》るにその一知夫婦の苦心の麦の収穫が、深良屋敷の算盤に乗った頃から、まだ一個月と経たぬ今朝《けさ》になって、その牛九郎夫婦が殺されている……というのは、普通の場合の意外という以上の意外な意味が籠《こも》っているように思われるのであった。だから、これは非常に簡単明瞭な、偶発的な事件か、もしくは一筋縄で行かない深刻、微妙な事件に相違ない……といったような予感が、今朝《けさ》、最初に一知の美しい顔を見た瞬間から、ヒシヒシと草川巡査の疲れた神経に迫って来たのであった。ありふれた強盗、強姦、殺人事件にばかりぶつかって最初から犯人のアタリを附けてかかる流儀に慣れ切っている草川巡査は、この事件に限って、実際、暗黒の中を手探りで行くような気迷いを感じながら、駐在所を出たものであった。
 ところが、それから間もなく草川巡査が、山の中の近道へ廻り込んだ時に、深良一知青年が、背後《うしろ》から叫んだ声を聞くと、そのトタンに草川巡査の心気が一転したのであった。勉強疲れで過敏になっている草川巡査の神経の末梢に、一知青年の叫び声は、あまりに手強く、異常に響いたのであった。それは無論、深良一知が偶然に発した叫び声で、別段に深い意味も何も無い驚きの声に相違ないのであったが。これが所謂、第六感というものであったろうか。何故という事なしに、
「犯人はドウヤラこの一知らしい」
 という直感が、草川巡査の脳髄のドン底にピインと来たのであった。それも、やはり何の理由も根拠も無い。ただそんな風に感じただけの感じであったが、それでもそうした無意識の叫びの中に、一知の心理の奥底に横たわっている普通とは違った或る種の狼狽と恐怖心が、偶然にも一パイに露出しているのを、病的に過敏になっている草川巡査の神経の末梢がピッタリと捕えたのであろう。一知を従えて山の中を分けて行く僅《わずか》の間《ま》に「コイツが犯人に相違ない」という確信が、草川巡査の脳髄の中へグングンと高潮して来るのを、どうする事も出来なくなった。それに連れて草川巡査の意識の中には、
 ――何という図々《ずうずう》しい奴だろう――
 ――絶体絶命の動かぬ証拠を押える迄は、俺は飽く迄も知らん顔をしてくれよう――
 といったような極度に意地の悪い考えと、
 ――コンナ柔和な、美しい、親孝行で評判の模範青年に疑いをかけたりするのは、俺のアタマがどうかなっているせいじゃないか知らん――
 ――万一、実際の証拠が揚がらないとすれば、コンナにも美しい、若い夫婦の幸福を出来る限り保護してやるのが、人間としての常識ではないか――
 といったような全然、相反《あいはん》する二つの考えが、草川巡査の神経の端々を組んず、ほぐれつ、転がりまわり初めたのであった。

 太陽はまだ地平線を出たばかりなのに、草川巡査と一知が分けて行く森の中には蝉《せみ》の声が大浪を打っていた。その森を越えた二人は無言のまま、直ぐ鼻の先の小高い赤土山の上にコンモリと繁った深良屋敷の杉の樹と、梅と、枇杷《びわ》と、橙《だいだい》と梨の木立に囲まれている白い土蔵の裏手に来た。草川巡査はあとからあとから湧き起って、焦げ付くように消えて行く蝉の声のタダ中に、昨夜《ゆうべ》のままの暗黒を閉め切ってあるらしい奥座敷の雨戸をグルリとまわった時に、云い知れぬ物凄い静けさを感じたように思ったが、やがて半分|開《あ》いたままの勝手口まで来ると、その暗い台所の中で、何かしていた美しい嫁のマユミが、頭に冠っていた白い手拭を取って、ニコニコしながら顔を出した。
「あら……お出《い》でなされませ」
 と叮嚀《ていねい》にお辞儀をしたが、その笑顔を見ると、まだ両親が殺されている事を少しも知らないでいるらしい。極めて無邪気な、人形のような美しい微笑を浮かべていたので、こんな事に慣れ切っていた草川巡査が、何故ともなく慄然《ぞっ》とさせられた。
「マユミさんはまだ何も知らんのかね」
 と草川巡査は眼を丸くしたまま小声でそう云って背後《うしろ》を振返ってみた。汗を拭いていた一知青年が、急に暗い、魘《おび》えたような眼付をしてうなずいたのを見ると、草川巡査も何気なく点頭《うなず》いてマユミを振返った。
「マユミさん。今、神林先生が来はしなかったかね」
 マユミはいよいよ美しく微笑んだ。
「アイ。見えました」
「その時にマユミさんは起きておったかね」
「イイエ。良う寝ておりました。ホホ。神林先生が起して下さいました」
「ウム。何か云うて行きはしなかったかね」
「アイ。云うて行きなさいました。巡査さんを呼んで来るから、お茶を沸かいておけと云って走って出て行きなさいました。それで……アノ……ホホホ……」
「何か可笑《おか》しい事があるかね」
「……アノ……その入口に引っかかって転んで行きなさいました……ホホホホホホ……」
「うむ。ほかには何とも、神林先生は云うて行かなかったかね」
 マユミは美しい眼を、すこし上に向けて考えていたが、やがて大きく一つ点頭《うなず》いた。
「アイ。云うて行きなさいました。アノ奥座敷へはドンナ事があっても、行く事はならんと云うて行きなさいました」
「それでマユミさんは奥座敷へ行かなかったのかね」
「アイ。まだ二人とも寝ていんなさいます」
「ウム。アンタは昨夜《ゆうべ》、良う睡ったかね」
「アイ。一番先に寝てしまいました。ホホホ……」
「ハハハ。そうかそうか。よしよし……」
 台所に這入りかけていた草川巡査は、そういうマユミの無邪気な笑顔を見ているうちにフッと気が変った。何故ともなくスルリと身を引いて、タッタ一人で家の周囲をグルリと一廻《ひとめぐ》り巡回してみたが、それはやはり職務のために緊張し易い警官特有の第六感の作用であったかも知れない。特に地面の上の足跡や、雨戸の合わせ工合、木立の間の下草の乱れなぞを、極めて注意深く見てまわったものであったが、何一つコレはと気付くようなところが無かった。
 しかしその中《うち》に家《うち》の外側を七分通り巡《まわ》って、ちょうど台所の裏手に当っている背戸《せど》の井戸|端《ばた》まで来ると、草川巡査はピタリと足を佇《と》めた。佩刀《サアベル》をシッカリと握ったまま、その井戸端の混凝土《タタキ》の向側に置いてある一個の砥石《といし》に眼を付けた。
 それはマン丸く茂った山梔木《くちなし》の根方の、ちょっと人眼に附きにくい処に、極めて自然な位置に投出されている相当大きな天草砥石であった。一面に咲揃うた白い山梔木の花が、そこいら中に甘ったるい芳香を漂わしていたが、その灰色の砥石の周囲に、雨の力で跳ねかかっている地面から一続きの泥が、何か強い力で打たれたようにボロボロと剥落しているばかりでなく、その砥石の全体が、一分か五厘かわからないが一方にズレ寄っている形跡が、ハッキリと土の上に残っていた。
 ……これは何か重たい刃物か何かの柄《え》を、抜けないように嵌込《すげ》た証拠らしいぞ……そう思い思い草川巡査は、自分が犯人であるかのように青褪めた、緊張した表情で、そこいらを見まわした。台所で一知が茶漬を掻込《かっこ》んでいるらしい物音に耳を澄ますと、直ぐに跼《しゃが》んで、片手で砥石を持上げてみた。砥石の下には頭をタタキ潰された蚯蚓《みみず》が一匹、半死半生に変色したまま静かに動いていた。草川巡査は、その蚯蚓を凝視しながら、砥石をソッと元の通りに置いた。
 そこへ飯を喰い終った一知が、帯を締め締め、草履《ぞうり》を穿《は》いて出て来たので、草川巡査は素知らぬ顔をして台所の入口へ引返して来た。
「殺した奴はどこから這入って来たんか」
「ここから這入って来たものと思います」
 一知は、入口の敷居を指した。学問があるだけに言葉附がハッキリしていた。気分もモウすっかり落付いているらしく、平生《いつも》の通りに潤んだ、悲し気な瞳《め》を瞬《まばた》いていた。
「この引戸が半分、開放《あけはな》しになっておりました」
 草川巡査は一知青年と二人で暗い台所に這入った。継ぎ嵌《は》めだらけの引戸の締りを内側から検《あらた》めてみた。
「成る程、ここの帰りはこの掛金を一つ掛けただけだな」
「ハイ。その掛金の穴へ、あの竈《へっつい》の長い鉄火箸《ひばし》を一本刺しておくだけです」
「昨夜《ゆんべ》も刺しておいたのか」
「ハイ。シッカリと刺しておいたつもりでしたが、今朝《けさ》見ますとその鉄火箸《ひばし》は、この敷居の蔭に落ちておりました」
 その板戸の継ぎ嵌めだらけの板片《いたぎれ》を一つ一つに検めていた草川巡査は、
「よし。昨夜《ゆうべ》の通りに今一度、内側から締めてみい」
「ハイ……」
 一知が内側から戸を閉めて、掛金を掛けて、火箸をゴクゴクと挿込む音がした。すると草川巡査は、その継嵌《つぎはめ》の板片の中の一枚を外から何の苦もなくパックリと引離して、そこから片手を突込んで鉄火箸《ひばし》を引き抜いて、掛金を外《はず》した。その板片と火箸を両手に持ったまま引戸を静かに押開いて、ノッソリと土間へ這入って来ると、その土間の真中に突立っている一知の真青な顔を無言のままニコニコと見上げ見下した。
 一知の額には生汗がジットリと浮出していた。西洋の女のように白い唇をわななかして、今にも気絶しそうに眼をパチパチさせた。それを見ると草川巡査の微笑が一層深くなった。
「馬鹿だな。……この板を打付けた釘の周囲《まわり》が、スッかり腐っているじゃないか。これがわからなかったのか……今まで」
 一知は寝巻の袖で汗を押拭い押拭いペコペコと頭を下げた。
「……すみません……すみません……」
 草川巡査は手に持った板片の釘痕《くぎあと》を合わせて、スッポリと元の板戸の穴へ嵌込《はめこ》みながら、なおも微笑を深くした。
「馬鹿だよお前は……俺に謝罪《あやま》っても何もならんじゃないか。ええ。一軒の家《うち》の主人《あるじ》となったら……ことにコンナ一軒家の中で、年|老《と》った両親や、沢山のお金の運命を受持っている若い人間は、モウすこし戸締りや何かに気を付けんとイカンじゃないか。お蔭でコンナ間違いが出来たじゃないか……ええ?……」
 一《ひ》と縮みになった一知は、一生懸命に気を取直そうとしているらしく、無言のまま何度も何度も襟元をつくろい直した。
「足跡も何も無かったんか。そこいらには……」
「……ハ……ハイ。ありま……せんでした。山の下から……この踏石を踏んで来たもの……かも知れません」
 一知は先に立って表に出た。国道から曲り込んで、深良屋敷へ上って来る赤土道に、一尺置ぐらいに敷並べてある四角い花崗岩《みかげいし》の平石《ひらいし》を、わななく手で指した。草川巡査はうなずいた。腰を屈《かが》めて、その敷石の二つ三つを前後左右から透してみた。
「足跡も何も無い……ところでお前達は昨夜《ゆうべ》ドコに寝とったんか」
「この台所に寝ておりました」
「何も気付かなかったんか……それでも……」
 何を思い出したのか一知が、突然に真赤になって自分の影法師を凝視した。その赤い横頬と、青い襟筋が朝日に照されて、女のように媚《なま》めかしかった。
「マユミさんと一緒に寝とったんか」
 一知は首筋まで真赤になった。井戸端で水を汲んでいるマユミの背後《うしろ》姿をチラリと見た。
「いいえ。彼女《あいつ》は毎晩、両親の吩付《いいつけ》で直ぐ向うの中《なか》の間《ま》に寝る事になっておりますので……」
「ホントウか。大事な事を聞きよるのだ」
「ホントウで御座います。一緒に寝た事は……今までに……一度も……」
 そう云う中《うち》に一知は興奮したらしく早口になりかけたが、忽ちサッと青くなって口籠った。云うのじゃなかった……といった風に唇をギュッと噛んで、忙しく眼瞬《まばた》きをした。その顔を草川巡査は穴の明く程凝視したので、一知はイヨイヨ青くなって頸低《うなだ》れた。
「フウム。妙な事を云うのう……マッタクか……それは……」
 一知は怨《うら》めしそうな、悲痛な顔を上げて草川巡査の顔を見たが、その瞳《め》には一パイに涙が溜っていた。
「ハイ……しかし……それは……今度の事と……何の関係も無い事です」
「うむうむ。そうかそうか。それでラジオの音に紛れてマユミさんと一緒に寝よったんか。ハハハ」
 一知は頸低れたまま涙をポトポトと土間へ落した。微《かす》かにうなずいた。
「アハハハ。イヤ。そんな事はドウでも良《え》え。お前達が寝《ね》よる位置がわかれば良《え》えのじゃが……ところで、それにしても怪訝《おか》しいのう。二人とも犯人の通り筋に寝ておったのに、二人とも気付かなかったんか」
 一知が深いタメ息をしいしい顔を上げた。
「ハイ。私が気付きませんければ……彼女《あいつ》は死人と同然で……寝ると直ぐにグウグウ……」
 と云う中《うち》に又、赤い顔になって頸低れた。
「フム。毎晩、何時頃に寝るのかお前達は……」
「両親達はラジオを聴いてから一時間ばかりで寝附きますから、私たちが寝付くのはドウしても十二時過になっておりました。もっともこの頃は九時か十時ぐらいに寝ているようです。ラジオを止めましたから……」
「何故ラジオを止めたのかね」
「養母《おっか》さんが嫌いですから……」
 と云う中《うち》に一知は又も無念そうに唇を噛んだ。
「ふうむ。惨酷《ひど》いお養母《っか》さんじゃのう。起きるのは何時頃かね」
「大抵|今朝《けさ》ぐらいに起きます」
「夜業《よなべ》はせぬのか……藁《わら》細工なぞ……」
「致しません。時々小作米とか小遣の帳面を枕元の一|燭《しょく》の電燈で調べる位のことで、直ぐに寝てしまいます」
「老人《としより》というものはナカナカ寝付かれぬものというが、やっぱりソンナに早く寝てしまうのか……」
「さあ。私はよく存じませぬが……疲れて寝てしまいますので……」
 その時に井戸端で二人の問答を聞いていたマユミが、草川巡査の顔を振返った。何が可笑しいのか突然にゲラゲラと笑ったので、草川巡査は又もゾッとさせられた。

 草川巡査は妙な顔をしたまま靴を脱いで、台所の板の間に上った。以前の母家《おもや》から持って来たものであろう。家に不似合な大きな戸棚の並んでいる間から、中《なか》の間《ま》に通う三|尺間《じゃくま》を仕切っている重たい杉の開戸《ひらきど》を、軍隊手袋《ぐんて》を嵌《は》めた両手で念入りに検査した。それは真鍮製のかなり頑固な洋式の把手《とって》で、鍵穴の附いた分厚い真鍮板が裏表からガッチリと止めてある。それが、やはりこの家《うち》に不似合なものの一つに見えた。
「この把手はお前が取付けたんか」
「いいえ。養母《おっか》さんが取付けたのだそうです。一軒家だから用心に用心をしておくのだと云って、養母《おっか》さんが自分で町から買うて来て、隣村の大工さんに附けてもろうたのだそうです」
「そうするとこの家《うち》に引移った当時の事だな」
「よく知りませんがヨッポド前だそうです」
「フム。毎晩この鍵を掛けて寝るのか」
「ハイ。私が寝ると、養母《おっか》さんが掛けに来ます」
「そうすると鍵は養母《おっか》さんが持って、寝ている訳じゃのう」
「ハイ……そうらしう御座います」
「うむ。惨酷《ひど》い事をするのう」
 そう云って草川巡査は、うなだれている一知の顔を見たが、暗いので顔色はよくわからなかったけれども、モウ肩を震わして泣いているらしかった。寝巻浴衣の袖で眼を拭い拭い潤んだ声で云った。
「……あきらめて……おります……」
 草川巡査は、そのまま暫く考え込んでいたが、やがて軽いタメ息をしてうなずいた。
「ふうむ。成る程のう……しかしこれ位の鍵を一つ開ける位、窃盗常習犯にとっては何でもないじゃろう」
 そう云って、今一度タメ息をしいしい一知青年をかえりみた。
「……一緒に来てみい。奥座敷へ……」

 閉め切った古い雨戸の隙間と、夥しい節穴から流れ込む朝の光りに薄明るくなっている奥座敷に来てみると、成る程無残な状態《ありさま》であった。滅多にコンナ事に出会わない村医の神林先生が周章《あわて》て逃げ出して行ったのも、無理がなかった。
 古ぼけた蚊帳《かや》の中で、別々の夜具に寝ていた老夫婦は、殆んど同時に声も立て得ぬ間に絶息したものらしい。父親の牛九郎の方は仰臥《あおむ》けしたまま、禿上った前額部の眉の上を横筋違《よこすじか》いに耳の近くまでザックリと割られて、鶏《にわとり》の内臓みたような脳漿《のうみそ》がハミ出している。また姑のオナリ婆さんは俯伏《うつぶ》せになって、枕を抱えて寝ていたらしく、後頭部を縦に割付けられていたが、これは髪毛《かみのけ》があるので血が真黒に固まり付いている上に、二人の枕元の畳と蒲団の敷合わせが、血餅《けっぺい》でつながり合って、小さな堤防のように盛上っていた。いずれも極めて鋭利な重たい刃物で、アッと云う間もない唯|一撃《ひとう》ちに片付けられたものと見えた。蚊帳には牛九郎老人の枕元に血飛沫《ちしぶき》がかかっているだけで、ほかに何の異状も認められないところを見ると、二人の寝息を窺《うかが》った犯人は、大胆にも電燈を灯《つ》けるか何かして蚊帳の中に忍び入って、二人の中間に跼《しゃが》むか片膝を突くかしたまま、右と左に一気に兇行を遂げたものらしい。何にしても余程の残忍な、同時に大胆極まる遣口《やりくち》で、その時の光景を想像するさえ恐ろしい位であった。
 草川巡査は持って来た懐中電燈で、部屋の中を残る隈なく検査したが、何一つ手掛になりそうなものは発見出来なかった。ただ老夫婦の枕元に古い、大きな紺絣《こんがすり》の財布が一個落ちていたのを取上げてみると、中味は麻糸に繋いだ大小十二三の鍵と、数十枚の証文ばかりであった。草川巡査はその財布をソッと元の処へ置きながら指《ゆびさ》した。
「これが盗まれた金の這入《はい》っていた袋だな」
「……そう……です……」
 と云ううちに一知は今更、おそろしげに身を震わした。
「現金はイクラ位、這入っていたのかね」
「明日《あした》……いいえ、今日です。きょう信用組合へ入れに行く金が四十二円十七銭入っていた筈です。麦を売って肥料を買った残りです」
「お前はその現金を見たんか」
「いいえ。私はこの家《うち》へ来てから一度も現金を見た事はありません。私が附けた田畑の収穫の帳面尻をハジキ上げて、イクライクラ残っていると、台所から呶鳴《どな》りますと、養母《おっか》さんが寝床の中で銭を数えてから、ヨシヨシと云います。それが、帳尻の合っております証拠で……いつもの事です」
「そうかそうか。成る程……」
 その時に一知の背後《うしろ》の中《なか》の間《ま》でマユミがオロオロ泣出している声が聞えた。両親の不幸がやっとわかったらしい。
 その時に又、遥か下の国道から、自動車のサイレンが聞えて来たので、草川巡査は慌てて靴を穿いて表に出た。花崗岩《みかげいし》の敷石を飛び飛び赤土道を降りて、到着した判検事一行の七名ばかりを出迎えた。
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   後   篇


 太陽はいつの間にか高く昇って、その烈々たる光焔の中に大地を四十五度以上の角度から引き包んでいた。その眼の眩《くら》むような大光熱は、山々の青葉を渡る朝風をピッタリと窒息させ、田の中に浮く数万の蛙《かわず》の鼻の頭を一つ一つに乾燥させ、地隙《ちげき》を這い出る数億の蟻《あり》の行列の一匹一匹に青空一面の光りを焦点作らせつつジリジリと真夏の白昼《まひる》の憂鬱を高潮させて行った。
 この夏限りに死ぬというキチガイじみた蝉《せみ》の声々が、あっちの山々からこっちの谷々へと、真夏の雲の下らしい無味乾燥なオーケストラを荒れまわらせ、溢れ波打たせて、極端な生命の狂噪と、極端な死の静寂との一致を、亀裂だらけの大地一面に沁み込ませて行くのであった。
 その小高い丘の木立の中に、森閑《しんかん》と雨戸を鎖《とざ》した兇行の家……深良《ふから》屋敷を離れた草川巡査は、もうグッタリと疲れながら、町から到着した判検事の一行を出迎えるべく、佩剣《はいけん》の柄《つか》を押え押え国道の方へ走り降りて行った。

 本署からは剛腹で有名な巨漢《おおおとこ》の司法主任|馬酔《あせび》警部補と、貧相な戸山警察医のほかに、刑事が二名ばかり来ていた。検事の名前は鶴木《つるき》といって五十恰好の温厚そうな童顔|禿頭《とくとう》の紳士、予審判事は綿貫《わたぬき》という眼の鋭い、痩せた長身の四十男で、一見したところ、役柄が入れ違っているかのような奇妙な対照を作っていた。そのアトから腎臓病で腫《むく》んだ左右の顳※[#「※」は「需+頁」、108-4]《こめかみ》に梅干を貼った一知の父親の乙束《おとづか》区長が、長い頬髯《ほおひげ》を生した村医の神林先生や二三人の農夫と一緒に大慌てに慌てて走り上って来たが、物々しい一行の姿にスッカリ魘《おび》えてしまったらしく、一人も家の中に這入《はい》ろうとする者は無かった。今更の事のようにメソメソ泣きながら出迎えた一知夫婦と一緒に、一言も口を利かないまま、井戸端の混凝土《タタキ》の上に並んで突立って、検事や、予審判事や、警官連の行動をオドオドと見守ってばかりいた。
 一行の取調は極めて簡単であった。
 一行は既に区長の処へ立寄るか何かして色々の話を聞いて来ているらしく、馬酔司法主任が途中で一知をチョット物蔭へ呼んで、何かしら二三質問をしただけで、草川巡査の報告なぞは検事の耳に入る迄もなく、例によって例の如き司法主任の独断の前に一蹴《いっしゅう》され、冷笑されてしまったらしい。
 疑いもない強盗殺人で、新夫婦が熟睡して気付かぬ間に演ぜられた兇行に相違ない。そんな例は今までにも随分多い事が経験上わかっている。むろん高飛をする前科者か何かが旅費に窮するか何かしての所業《しわざ》であろう。淋《さび》しい一軒家で、相当の資産家である事は人の噂でもわかるし、毎晩夕方に点《とも》しているという五十|燭《しょく》の電燈も、国道を通りかかった者の注意を相当に惹《ひ》く筈である。足跡の無いのは敷石ばかりを踏んで出入したせいに相違ない……という事になったらしい。泣きの涙でいる新夫婦が、司法主任や刑事たちからシキリに慰められながら、何度も何度もお辞儀をするのにつれて、父親の区長や村民たちまでもがペコペコと頭を下げ初めた。事実、世にも美しい若い夫婦が、手を取合って泣いている姿は一同の同情を惹くのに充分であった。
 草川巡査が区長と連立って、大急ぎで深良屋敷から降りて行くと、その背後を見送るようにして検事、判事、司法主任の三人が門口を出て行った。そうして昔の母屋を取払った遺跡《あと》が広い麦打場になっている下の段の肥料|小舎《ごや》の前まで来ると、三人が向い合って立停って、小声で打合せを始めた。肥料小舎の背後を豊富な谷川の水が音を立てて流れているので、三人の声は三人以外の誰の耳にも這入らなかった。
「捜査本部はどこにするかね」
「駐在所でいいでしょう。電話がありますから。刑事を一人残しておいて、必要に応じて出張する事にしたいと思います。自動車で約一時間ぐらいで来られますから……」
「うむ。それがいいでしょう。実をいうと例の疑獄の方で儂《わし》も忙しくて、これにかかり切る訳にも行かんでのう……ところでアタリは附きましたかな……」
「色々想像が出来ますねえ。犯人は区長と、一知と、ルンペンと、前科者と……」
「ハハア。しかし今のところどれも考えられんじゃないですか、この場合……第一区長は見たところ相当な好人物に見えるじゃないですか。村の者のコソコソ話によると、区長は村のために自分一人が犠牲になって死物狂いに努力しおる名区長じゃというし、息子の一知も区長が或る計画の下に養子に遣ったものでは決してない。先方《こちら》からの望みであったというし、目下区長が全責任を負うて心配している信用組合の破綻を救うために、村民の決議で村有の山林原野を抵当にした、相当有利な条件の借金話が、区長と死んだ深良老人との間に都合よく進行しているという話じゃから、その裏の裏の魂胆でも無い限りは、区長へ嫌疑をかけるのは無意味じゃないかと思うです。深良爺さんが死ぬと区長は大きな損をする訳ですからナ」
「私は最初、一知に疑いをかけておりました。外から這入った形跡が全然見当らないのですからね。草川巡査も、只今のお話を知らなかったらしく、私と同意見で、一知に疑いをかけているらしい口吻《くちぶり》でしたが、しかし、私が最前ちょっと一知を物蔭に呼んで、心当りは無いかと尋ねてみますと、一知はモウ、そんな意味で草川巡査に疑いをかけられている事をウスウス感付いているらしいのです。眼に涙を一パイ溜めながら……私はまだこの家の籍に這入ってはおりませんが、仮りにも義理の両親を殺して、実父の財政が間違いなく救われる事になりますならば、喜んでこの罪を引受けましょう……とキッパリ申しておりました」
「フーム、田舎者としては立派すぎる返事ですなあ。すこし頭が良過ぎるようじゃが……」
「あの青年はこの村でも有数のインテリだそうです」
「そうらしいですな。殊にあの養子はこの村でも一番の堅造《かたぞう》という話ですな」
「草川巡査もそう云うておりました。あの別嬪《べっぴん》の嬶《かかあ》も好人物過ぎる位、好人物という話です」
「ウム。あの若い夫婦は大丈夫じゃろう。実父の区長のためになる事でなければ、そう急《せ》いて老夫婦を殺す必要も無い筈じゃから……しかし通りかかりのルンペンにしては遣り口が鮮やか過ぎるようじゃなあ」
「……今度の兇行の動機は怨恨《えんこん》関係じゃないでしょうか。金品《かね》を奪ったのは一種の胡麻化手段《カモフラージ》じゃないですかな」
「……というと……」
「マユミの縁組問題です……ずいぶん美人のようですからね」
「それも考えられるな。今の一知という青年と同年輩で、マユミに縁組を申込んで、老人夫婦に断られた者は居らんかな」
「十分に調べさせてみましょう」
「何にしても問題は兇器だ。アッ……草川君が帰って来た。また恐ろしく大勢連れて来たな。ハハハ……中々気が利いている」
「ナアニ。この村は青年が一致しているのでしょう」
 青年団の兇器捜索は間もなく開始された。中にも草川巡査の指揮振りは実に手に入《い》ったもので、鶴木検事は一々感心しながら見物していた。青年連中の草川巡査に対する尊敬ぶりは、ちょうど小学校の生徒が、受持の教師に対する通りで、骨身を惜《おし》まず、夢中になって活躍するのであった。日盛りの蝉の声々が大海原の暴風を思わせる村の四方の山々を通抜ける幾筋もの小径を基線にして、次第次第に捜索の範囲が拡大されて行った。青年ばかりでなく村の大人たちまでも、この前代未聞の惨劇を描き出した未知の兇器に対する、たまらない好奇心に駈られて、強烈な真夏の光線を交錯させている草や、木や、石の投影に胸を躍らせ、呼吸を魘《おび》えさせながら、そうして如何にも大事件らしく呼び交す感傷的な叫び声の中に、色々の鳥や、虫の影を飛立たせながら、眼も眩むほどイキレ立つ大地の上を汗にまみれて匐《は》いまわった。
 しかし日暮方まで何等の得るところも無かった。
 ヘトヘトに疲れた草川巡査が、青年達を国道の上に呼集めた時には、判検事の一行はモウ引上げていた。二人の被害者の屍体《したい》も、蒲団に包んだ上から荒菰《あらごも》で巻いて、町から呼んだ自動車に載せて、解剖のため、大学へ運び去られたアトであった。
 兇器が発見されないために、犯人を検挙する手がかりが全く無い事になった。
 近まわりの村々を刑事がまわって、行動の疑わしい者や、変った出来事を一々調べ上げたが、元来、朴実《ぼくじつ》な人間たちと、平和な村政で固まっている村々には、二三羽の鶏《にわとり》の紛失や、一尺か二尺の地境《ちざかい》の喧嘩が問題になっている位のことで、前科者らしい者は勿論、素行の疑わしい者すら居なかった。それやこれやで、八月の末になると、もう事件が迷宮に入りかけて来た。
 ……やはり久しくこの辺を通らなかった兇悪な前科者が、通りがかりに遣付《やっつ》けた仕事だろう……。
 といったような噂が一時、村の人々の間で有力になった。それにつれて滑稽にも村中の戸締りが俄《にわか》に厳重になったものであったが、しかしそれとても別にコレといった拠《よ》りどころの無い、空想じみた噂に過ぎなかったらしい。警察方面で、そんな方面に力を入れた形跡も無いうちに、刑事たちがパッタリ寄附かなくなったので、村の人々も安心したように口を噤《つぐ》んでしまった。そうして日に増し事件の印象を忘れ勝ちになって行くのであった。
 もっともその間じゅう草川巡査は、毎日毎日電話でコキ使われていた。兇器が発見されないかとか、新しい聞込みは無いかとか、区長の財政状態はドウなったかとか、一知は相変らず働いているかとか、もう少し責任を負って仕事をしろとか、叱言《こごと》じみた事ばかり聞かされたので頗《すこぶ》る不平らしく見えたが、しかし、それでも極めて忠実に命令を遵奉しているにはいた。
 一方に深良家の新夫婦は、老人夫婦の死骸の後始末が附いた後《のち》、極めて幸福な新生涯に入ったらしかった。父親の乙束《おとづか》区長が、よろぼいよろぼい借金の後始末に奔走しているのを一知は依然として知らぬ顔をしているかのように見えた。或は乙束区長が、自分自身の財政に行詰った余り、一知と謀《しめ》し合わせて、深良家の財産を引っぱり出そうとしたところから起った間違いではないかと、心の片隅で疑っていた所謂世間知り[#「世間知り」に傍点]も、村人の中に一人や二人、居ないではなかったが、しかし、そうした区長の窶《やつ》れ果てた顔と、何も知らない赤ん坊のような一知の、世にも幸福そうな顔色とは、そうした疑惑を一掃するのに十分であったらしい。
 老夫婦が惨死した深良屋敷の奥座敷は、山伏の神祓《おはら》いで浄められて、新しい畳が青々と敷き込まれた。その上に土蔵の中から取出された見事な花|茣蓙《ござ》が敷詰められて、やはり土蔵の奥から持出された古い質草らしい、暑苦しい土佐絵《とさえ》の金屏風《きんびょうぶ》が建てまわされた。そうしてその土蔵の背後に在る畠境いの塵捨場《ごみすてば》には、珍らしい缶詰の殻や、西洋菓子の空箱や、葡萄酒の瓶なぞがアトからアトから散らかるようになった。そうして眼に痛い程明るい五十|燭《しょく》や百燭の電燈と、賑やかなラジオの金属音が、又もや毎晩毎晩丘の上から流れ落ち初めて、村の家々を羨ましがらせ、且《かつ》、悩ました。どうかすると十二時頃まで、奇妙な支那の歌声や、器楽の音なぞが、チイチイガアガア鳴り響くのであったが、それに気が付くたんびに村の人々は顔を見合わせた。
 しかし、それでも夜が明けると一知夫婦はキチンキチンと仕事に精を出し、墓参りを怠らなかった。忌日忌日の法事も若いのに似合わず念入りに執行《とりおこな》って、村中の仁義|交誼《こうぎ》を怠らない気《け》ぶりを見せた。
 これに反して草川巡査は日に増し憂鬱になって行った。心の奥底で何事かを煩悶しているらしく、高文の受験準備をやめてしまったばかりでない。夜通し眠らないような力無い鬱陶《うっとう》しい眼付をしてヒョロヒョロと巡回して歩く姿が、次第に村の者の眼に付くようになった。顔には無精鬚が茫々と伸び、頬がゲッソリと痩せこけて、眼ばかり、奥深く底光りするようになった。夕方なぞ見窶《みすぼ》らしい平服で散歩するふりをして駐在所を出ると、わざと人目を忍んだ裏山伝いに、丘の上の深良屋敷の近くに忍び寄って、木蔭の暗がりに身を潜めつつ、新夫婦の仲のよい生活ぶりをコッソリと覗《のぞ》いている……といったような噂がいつとなく村中のヒソヒソ話に伝わり拡がった。ことに依ると深良屋敷の老夫婦殺しは、草川巡査かも知れん……なぞと飛んでもない事を云う者すら出て来るようになった。
 その中《うち》に秋口になって、山々の木立に法師蝉《ほうしぜみ》がポツポツ啼き初める頃になると、深良屋敷の一知夫婦が揃いの晴れやかな姿で町へ出て、生れて初めての写真を撮った。無論それは二人の新婚の記念にするのだと云っていたが、その写真が出来て来たのを、区長の家で偶然に見せてもらった草川巡査は、何故かわからないが非常に緊張した、寧《むし》ろ悲痛な表情で一心に凝視していた。その写真屋の名前を何度も何度も見直してシッカリと記憶に止《とど》めてから、妙に剛《こわ》ばった笑い顔で鄭重に礼を云って区長の家を出た。何かしきりに考えながらも足取だけは小急ぎに国道へ出たが、ちょうど通りかかった乗合自動車《バス》を見ると、急に手を挙げて飛乗って町へ出た。記憶している名前の写真屋を直ぐに尋ね当てて、極く内々で一知夫婦の写真の焼増を一枚頼んだ。
 するとちょうど助手の不注意で一枚余分に焼いたのが在ったので、草川巡査は久し振りに満足そうな笑顔を洩《もら》した。引ったくるようにその一枚を貰って、その足で鶴木検事を裁判所に訪問し、折柄、宣告を澄ましたばかりの検事に裁判所の応接室で面会をすると、その写真を手渡ししながら自分の見込をスッカリ打明けた。
 意気込んでいる草川巡査の吶弁《とつべん》を、法服のまま静かに聞き終った禿頭《とくとう》、童顔の鶴木検事は草川巡査の質朴を極めた雄弁にスッカリ釣込まれてしまったらしい。草川巡査と同じように憂鬱な顔になって、両腕を深々と胸の上に組んだ。
「つまりその砥石《といし》の上で刃物の柄《え》を撞着《どうづ》いて、抜けないようにしたと云うのですな」
「そうです。そのほかに今申上げましたようなラジオや、戸締りに関する一件もありますので、テッキリ犯人と睨んでいるのですが」
「どうも……意外千万な推測ですな」と検事は苦り切って腕を組み直した。「……只今では最後の懸案として、あの区長の動静について注意しているのですが」
「ハイ。私も署長からその指令を受けましたので十分に注意して見ましたが、区長は絶対に、そんな事の出来る人間ではありませぬ。むしろ自分の息子を養子に遣った家から補助を受けたりする事を潔しとしない、純粋な性格の男です。目下、東京で近衛の中尉をしております長男からも、その一知から金を借りない趣旨に賛成の旨を返事して来ております。のみならず昨日の事です。その長男の手紙と同時に勧業銀行から破産宣告に関する通知が来ているのを私は見て参りました」
「フーム。してみると区長に嫌疑はかけられぬかな」
「ハイ。区長は絶対の無罪と信じます。少くとも区長と犯人との間柄は、赤の他人以上に無関係です」
「しかし君は、そうした犯人に関する意見を、何故《なぜ》に司法主任の馬酔《あせび》君に話さなかったのですか。その方が正当の順序じゃないですか」
 草川巡査はギクンとしたらしく言葉に詰まった。しかし、やがて冷い渋茶を一パイ飲むと、やはり持って生れた吶弁で、
「こんな事は今度の事件と全然、関係の無い、私の一身上のお話ですが……」
 と恐縮しいしい自分が谷郷村に赴任した理由を詳しく話し出した。
「そんな理由《わけ》で……私のような下級官吏の口から申上るのは僭越ですが、昔から田舎の都会に根を張っております政党関係の因縁の根強さは、到底、私どもの想像に及びません位で、それに……私は元来、極く田舎の貧乏寺の僧侶の子で御座いまして、父親の名跡《あと》を継ぐために、曹洞宗の大学を出るだけは出ました者ですが、現在の宗教界の裏面の腐敗堕落を見ますとイヤになってしまいまして、いっその事直接に実社会のために尽そうと考えて、檀家の人々が止めるのも聴かずに巡査を志願致しましたような偏屈者で御座いますから、そんな因縁の固まりみたような地方の警察署ではトテモ不愉快で仕事が出来ません。云う事、為す事が皆、上長の機嫌に触《さわ》りますので……もっとも只今では政党の関係は無くなりましたが、昔の有力者という者が残っておりまして、近づいて参ります選挙でも、警察の力を利用して、勝手な事をしてやろうと腕に捩《より》をかけて待っているような情勢《ありさま》であります」
「フムフム。それはモウよくわかっているが……」
「ですから、私のような偏屈者が警察に居りますと、何としても邪魔になりますらしいので、私が高等文官の試験準備を致しておりますのを良い事にして、田舎の方が勉強が出来るからと云って谷郷村へ逐《お》いやられてしまったのです」
「……成る程」
「……ですから今のような事実を説明しましても、上長に憎まれております私ですからナカナカ取上げてもらえまいと思いました。現に署長は、私が捜索を怠けておりますために、事件の眼鼻が附かないものと考えておられるようで、電話で度々お叱りを受けております。実際を御存じないものですから……」
「ふうむ。しかしそのような事実を、今日が今日まで私に黙っておられたのは何故ですか」
 鶴木検事の口調がダンダン裁判口調になって来た。草川巡査も、新しい西洋手拭《タオル》で汗を拭き拭きイヨイヨ吶弁になって来た。
「……その……今申しました犯人の性格をモット深く見究《みきわ》めたいと思いましたので……つまり犯人は都会の上流や、知識階級に多い変質的な個人主義者に違いないと思ったのです。もちろん最初の中《うち》は、そんなような感情や、理智の病的に深い人間が、あんな田舎に居ようとは思いませんでしたので……それに村民の評判がステキにいいものですから、出来る限り慎重に致したいと考えましたので……」
「成る程……」
「……そ……それにあの砥石の位置が、暗闇《やみ》の中で見えるか、見えないかが確かめて見とう御座いましたので……あの惨劇の晩は一片の雲も無い晴れ渡った暗夜《やみよ》で御座いましたが、その翌る晩から曇り空や雨天が続きまして、それが晴れると今度は月が出て来るような事で、まことに都合が悪う御座いました。それであの晩と同じような雲の無い暗夜《やみよ》が来るのを辛抱強く待っておりますうちに、やっと四五日前の晩に実験が出来ました。つまり台所の入口に立ちますと、あの砥石が井戸端の混凝土《タタキ》と一緒にハッキリと白く暗《やみ》の中に浮いて見える事がわかりました。もっとも、それはただ小さな白い、四角い平面に見えているだけで、砥石だか何だかわかりませんが、それを砥石と認め得る人間はあの家の者より他に無い筈です」
「いかにも……それは道理《もっとも》な観察ですが、しかし万一兇器としても単に柄《え》を嵌込《すげ》るだけの目的ならば、附近にシッカリした花崗岩《みかげいし》の敷石が沢山に在るのに、何故あんな暗い処に在る石を選んだものでしょうか。……それから今一つ、兇器の柄がシッカリ嵌《はま》っていない事を、犯人は最初から気附かずにいたものでしょうか。どうでしょうか。そのような点はドウ考えますか」
「それは……恐らく加害者が、兇行間際の緊張した気持から、新しい兇器の柄に不安を感じた結果、何かでシッカリと柄を打込むべく外へ出たものであろうと考えます。ところがあの小高い深良屋敷の台所に近い敷石の上を動く人影は、木《こ》の間《ま》隠れではありますが空を透《とお》しておりますために、雨天でない限りは、どんな暗夜《やみよ》でも下の国道から透《すか》して見え易い事を、用心深い犯人がよく知っていたに違いありませぬ。ですから軒下の暗闇づたいに近付いて行けるあの真暗い背戸の山梔木《くちなしのき》の樹蔭《こかげ》に在る砥石を選んだものではないかと考えます。あそこならば物音が、奥座敷へ聞えかねますから……」
「イヤ。よろしい。熱心にやって下すった事を感謝します。それでは今のお話のオナリ婆さんの変態的な性格についてですね……どんな風にオナリ婆さんが、一知夫婦を窘《いじ》めたかに就《つ》いてですね……出来るだけ秘密に……そうしてモット具体的に確かめられるだけ確かめておいて下さい。こちらはこの写真によって直ぐに調査を進行させますから……」
「……ハ……ありがとう御座います」
 草川巡査は三拝九拝せんばかりにして裁判所を出た。乗合自動車《バス》に乗って日の暮れぬ中《うち》に谷郷村に帰った。

 翌日になると、早速、鶴木検事の手が動き出した。
 青年深良一知の顔だけの拡大写真が幾枚となく複製された。それを携えた刑事や警官が、町中の、ありとあらゆる金物店について調査を進めた結果、ちょうど七月十五日の氏神祭の日のこと、写真にソックリの学生風の青年が、乗馬|倶楽部《くらぶ》の者だと云って新しい藁切庖丁《わらきりぼうちょう》を一|梃《ちょう》買って行った。学生に不似合な買物だったので店員が皆不思議がっていた……という店が二日目の夕方になってヤット発見された。
 その翌日になると又も思い出したように本署から来た二名の刑事と、草川巡査が、谷郷村の青年を招集して、大々的な兇器捜索を開始したので、忘れられかけていた事件の当初の恐怖的な印象が今一度、村の人々の頭に喚起《よびおこ》されたが、その最中《さなか》に突然、一知青年が自宅から本署へ拘引されて行ったので、村の人々は青天の霹靂《へきれき》のように仰天した。腎臓病の青膨れのまま駈着《かけつ》けて来た父親の乙束区長がオロオロしているマユミを捉《つかま》えて様子を訊《き》いてみたが薩張《さっぱ》り要領を得ない。仕方なしに山の中で兇器捜査に従事している草川巡査に縋《すが》り付いて、何とかして息子を救う方法は無いものかと泣きの涙で尋ねたが、これも腕を組んで、眼を閉じて、頭を左右に振るばかりである。もとより拘引の理由なぞを洩しそうな態度《ようす》ではないので、手も力も尽き果てた区長は大急ぎで町へ出て弁護士の家へお百度詣りを始めた。
 一方に拘引された一知は全く驚いた顔をしていた。
 厳重な取調を受けても一から十まで「知りませぬ」「わかりませぬ」の一点張りで、女のようにヒイヒイ哭《な》くばかりであった。その中《うち》に問題の藁切庖丁を売った店の番頭が呼出されて来て、一知の顔を見せられると、たしかにこの人に相違ないと明言し、当日持っていた蟇口《がまぐち》の恰好や、学生らしくない言葉癖まで思い出した立派な証言をして帰ったので、係官一同はホッと一息しながら、直ぐに起訴の手続を取った。
 しかし一知は、それでも頑張った。
「私は誰にも怨恨を受ける記憶はありませぬ。しかし藁切庖丁の一件はたしかに私を罪に陥れるためのトリックです。それがわからないのは、貴方《あなた》がたのお調べが足りないからです。在りもしない藁切庖丁で、どうして人を殺すことが出来ますか」
 とまで強弁した。

 谷郷村では草川巡査の評判が一ペンに引っくり返ってしまった。
 犯人は居ないものと決めてしまっていた村の人々は、殆んど一人残らず一知に同情して、草川巡査を憎むようになった。タッタ一人深良屋敷に取残されていたマユミを乙束区長が引取って世話をするようになってからは一層、村民の憎しみが、草川巡査の上に深くなって行ったところへ、町からたまたま来た刑事までもが……これは草川巡査と鶴木検事の一代の大|縮尻《しくじり》かも知れない……などと言葉を濁して行ったりしたので、村の連中は最早《もはや》、一知の無罪を信じ切って疑わないようになって来た。しまいには……草川巡査はズット以前から巡廻の途中で、いつも深良屋敷へ寄道をする事にきめていた。そうしてマユミがタッタ一人で留守をしているのを見ると、無理往生をさせる事にきめていたのだ。この間、区長さんがその事を問うてみたら、マユミさんが泣いて合点合点《がてんがてん》していた……などと真《まこと》しやかに云い触らす者さえ出て来た。
 そんな噂に取巻かれた草川巡査は、前にも増して痩せ衰えて行った。何度行っても得るところの無い深良屋敷の空家の周囲をグルグルと巡廻したり、肥料小舎の入口にボンヤリと突立って、天井裏を見上げていたりした。又は山の中の小さな石の祠《ほこら》を引っくり返し、お狐様の穴に懐中電燈を突込んだりして、寝ても醒めても兇器の捜索に夢中になっていた。その中《うち》に九月の末になって、やっと開始された兇器捜索を目的の溜池乾《ためいけほし》で、草川巡査はあんまり夢中になり過ぎたのであろう。一人の青年の働き方が足りないといって泥だらけの平手で殴り付けたりしたので、可哀相に今度は草川巡査が発狂したという評判まで立てられるようになった。……にも拘《かか》わらず草川巡査の狂人に近い熱心な努力は近郷近在の溜池をまで残る隈なく及んだのであったが、それでも兇器らしいものすら発見出来なかったので、事件の神秘性は、いよいよ高まって行くばかりであった。
 草川巡査は自分でも自分の精神状態を疑うようになった。或る晩の十時過の事。睡《ね》むられぬままに着のみ着のままで、人通りの絶えた国道に出た。
 大空の星の光りは夏と違ってスッカリ澄み切っていた。そこには深良屋敷の方向から匐《は》い上って来た銀河が一すじ白々と横たわっていたが、その左右には今まで草川巡査が気付かなかった星霧《せいむ》や、星座や、星雲が、恰《あたか》も人間の運命の神秘さと、宇宙の摂理の広大不可思議を暗示するかのように……そうして草川巡査の一個人の智恵の浅薄さ、微小さを冷笑するかのようにギラギラと輝き並んでいた。その下に真黒く横たわる谷郷村の盆地を冷やかに流れ渡る夜風に背中を向けた草川巡査は、来るともなく深良屋敷に通ずる国道添いの丁字路《ていじろ》の処まで来ると突然、頭の上の天の河の近くで思い出したように星が一つスウーと飛んだ。
 草川巡査は何かしらハッとして立停まった。モウ一つ飛ばないかナ……などと他愛ない事を考えながら、何の気もなく星空を見い見い歩き出すトタンに深良屋敷に通ずる道路の中央に埋めて在る平たい花崗岩《みかげいし》の第一枚目に引っかかって、物の見事にモンドリを打った。
「……アッ……痛いっ」
 ジメジメした地面の上に横たおしにタタキ附けられた草川巡査は、暫くそのままで凝然《じっ》としていた。転んだ拍子に何かしらスバラシイ思付きが頭の中に閃《ひら》めいたように思ったので、それを今一度思い出すべくボンヤリと鼻の先の暗闇を凝視していた。……が……やがて、ムックリと起上るとそのまま、衣服の汚れも払わないで国道の上をスタスタと町の方へ歩き出した。半分駈け出さんばかりの前ノメリになって五里の道をヨロメキ急いで町へ出ると、前から知っている検事官舎の真夜中の門を叩いた。

 熟睡していた鶴木老検事は、ようようの事で起上った。何事かと思って睡《ね》むい眼をコスリコスリ応接間に出て来たのを見ると、草川巡査は如何にも急《せ》き込んでいるらしく、挨拶も何もしないまま質問した。
「……イ……一知は……テ……手紙を書きませんでしょうか」
 鶴木検事は、見違える程|窶《やつ》れて形相の変った草川巡査の顔を、茫然と凝視した。汗とホコリにまみれて、泥だらけの浴衣《ゆかた》にくるまっている哀れな姿を見上げ見下しながら、静かに頭を左右に振った。
「……書いて……おりませんでしょうね。一知は……一度も……どこへも」
 検事は依然として無言のままうなずいた。そこへ夫人らしい人がお茶を酌《く》んで来たが、草川巡査は棒立ちに突立ったまま見向きもしなかった。
「……そ……それを……手紙を出すことを許して頂けませんでしょうか……一知に……」
「……誰に宛てて……書かせるのかね」
 腰をかけて茶を飲んだ老検事がやっと口を利いた。
「妻のマユミは無学文盲ですから……父親の乙束区長の方へ、手紙を出してもいいと、仰言《おっしゃ》って頂きたいのですが……そうしてその手紙を検閲なさる時に、私に見せて頂きとう御座いますが……」
「ハハア。何の目的ですか……それは……」
「兇器を発見するのです」
「成る程……」
 鶴木検事の顔に著しい感動の色が浮んだ。
「ウム。これは名案だ。今まで気が付かなかったが……ナカナカ君は熱心ですなあドウモ。どこから思い付いたのですか。そんな事を……」
 草川巡査は答えなかった。鶴木検事の顔を正視してビクビクと咽喉《のど》を引釣らせていたが、そのままドッカリと椅子に腰を卸《おろ》すと、応接机の上に突伏してギクギクと欷歔《すすりなき》し始めた。
 検事は子供を労《いたわ》るように立上って、草川巡査の背中を撫でた。
「サアサア。早く帰り給え。人目に附くと悪い。……自動車を呼んで上げようか」

       ―――――――――――――
[#ここから1字下げ、本文とは1行アキ]
 お父さん。色々御心配かけて済みません。僕は絶対的に青天白日です。村の人も僕の潔白を認めて下さると弁護士さんから聞きました、どれ位心強いかわかりません。マユミも引取って下さった由、何卒《なにとぞ》何卒よろしくお願い申上ます。この御恩は死んでも忘れません。
 弁護士さんのお話によると僕はもう近い中《うち》に無罪放免になるそうですから帰ったら直ぐに働きます。この不名誉を拭い清めて、草川巡査を見返してやります。
 ですから何もかも元の通りにして構わずに置いて下さい。蜜柑の消毒や、堆肥小舎の積みかえなぞもそのままにしておいて下さい。
 マユミにもこの事を、よく云い聞かせておいて下さい。呉々《くれぐれ》も宜《よろ》しくお頼み申します。
 どうぞ御病気を大切にして下さい。
               左様なら。
                 一知より[#行末より2字上げ]
  父 上 様
[#ここで字下げ終わり]
       ―――――――――――――

 この手紙を見た鶴木検事は、直ぐに警察署へ電話をかけて重要な指令を下した。
 その翌日のこと、事件当初の通りの係官の一行と、草川巡査と、区長と、村の青年たちの眼の前で、今まで誰も疑わなかった深良屋敷の肥料小舎の堆肥が徹底的に引っくり返されると、一番下の凝混土《コンクリート》に接する処の奥の方から、半腐りになったメリヤスの襯衣《シャツ》に包んだ、ボロボロの手袋と、靴下と、赤錆《あかさび》だらけの藁切庖丁が一梃出て来た。その三品《みしな》を新聞紙に包んで押収した係官の一行の背後姿《うしろすがた》を、区長も、青年も土のように血の気を喪《うしな》ったまま見送っていた。

 兇器は甚しく錆ていたので血痕の検出が不可能であった。
 しかしそれを突付けられた一知は思わず、
「……シマッタ……やられた……」
 と叫んで悲し気に冷笑した切り、文句なしに服罪してしまった。そうして顔色一つ変えずに兇行の顛末を白状した。
 一知は中学時代からマユミを恋していた。そうしてマユミを中心にした自分の一生涯の幸福の夢を色々と描いていたが、しかし生れ附き内気な、臆病者の一知はそんな事をオクビにも出さずに、どうかしてマユミを吾《わ》が物にしたいと明け暮れ考えまわしているだけであった。だからほかの青年達と一緒になってマユミを張りに行って、マユミやその両親達の信用を失うような軽率な事は決してしなかった。一知の幸運の獲得手段はドコまでも陰性で消極的であった。
 その一知の幸福の夢を掻き破るものは、いつもマユミの両親たちであった。一知がマユミと一緒になって世にも幸福な日を送っている幻想を描いている最中に、いつも横合いから現われて来て、その幸福を攪乱《かきみだ》し、冷笑し、罵倒し、その幻想の全体を極めて不愉快な、索然たるものにしてしまうのはマユミの父親の頑固な恰好をした禿頭《とくとう》と、母親の狼《おおかみ》みたような乱杙歯《らんぐいば》の笑い顔であった。一知はマユミの両親が極度に浅ましい吝《けち》ん坊《ぼ》であると同時に、鬼とも獣《けもの》とも譬《たと》えようのない残酷な嫉妬焼《やきもちや》きである事を、ずっと以前から予想していた。
 一知はマユミとの幸福な生活を夢想する前に、何よりも先《ま》ずマユミの両親をこの世から抹殺する手段を考えなければならなかった。
 ところでマユミの両親をこの世から抹殺する手段といったら、二人を殺すよりほかに方法が無い事は、わかり切った事実であった。しかし内気な一知は、そんな大それた事が出来ない彼自身である事を、知り過ぎる位知っていた。
 その中《うち》に一知はラジオに夢中になり始めた。それは一知が生得《うまれつき》の器械イジリが好きであったせいでもあったろうが、そのラジオの器械を製作しているうちに一知は一つの素晴らしい思い付きをした事に気付き始めた。夜遅くまでラジオを鳴らしておきさえすれば、どんなにマユミと仲よくしていても、焼餅を焼かれる心配は無いだろうと心付いた。それは全くタヨリない、愚かしい思い付きに相違なかったが、しかし、まだ若い一知にとっては天来の福音とも考えていい素敵な思い付きに相違なかった。
 それ以来一知はいよいよラジオの製作に夢中になった。礦石《こうせき》をやめて真空球にして、一球一球と次第にその感度を高め、その声を大きくする事に、たまらない興味を持つようになった。もちろん、それとても云う迄もなく、若い一知が、マユミを中心として描きつづける幸福な幻想に附随した儚《はか》ない興味みたようなものに外ならなかったが、それでも一知は何喰わぬ顔をして明け暮れ器械イジリに熱中して、マユミなんか問題にしないような態度を示していた。それが思い通りに図星に当り過ぎる位当ったので、その時の一知の喜びようというものは躍上《おどりあが》りたい位であった。そうしてとうとう思いに堪えかねて、式の日取が待ち切れずに押かけて行ったものであったが、さて行ってみると案外にも何一つとして想像していたような幸福が得られないのに驚いた。のみならずそこには想像以上の悩ましい地獄と、想像以下の浅ましい生活が待っている事が判明《わか》ったので、一知は実に失恋した以上に深刻な打撃にタタキ付けられてしまったのであった。
 深良屋敷の老夫婦は一知が予想していた以上に嫉妬深かった。その中《うち》でもオナリ婆さんの嫉妬《やきもち》振りは正気の沙汰とは思えない位で、乱暴にも一知が来た晩からマユミと同じ部屋に寝る事を絶対に許さなかった。
 同時に老人夫婦は極端に勘定高かった。マユミの婿に来る者が無い。後を継がせる子孫が無い。私達夫婦はこの上もない不幸者だとか何とか、あれほど村中の人々に愚痴を並べまわっていた老夫婦は、そうした悩みを一知が来ると同時に忘れてしまったらしく、一家の経済の足しにならないような養子は、養子としての資格が無い……なぞいう事を公々然と一知の親類の前で宣言した。もちろんラジオだけは最初からの約束があるので、その当座の中《うち》は何とも云わなかったが、それでも何も知らない娘のマユミが珍らしさの余りに、一知が操《あやつ》っているラジオを覗きに行ったりするのが、オナリ婆さんの嫉妬をタマラなく刺戟したらしかった。いつも目敏《めざと》くマユミを監視して、一知に聞えよがしに訓戒した。
 ……アノ一知は貧乏者の借金持ちの子で、お前とは身分が違うのを、お前のお守《もり》と、家《うち》の田畠の番人に雇うてあるのだよ。いわばこの家《うち》の奴隷《おいはくり》で、尋常《あたりまえ》に雇うとお金を出さなければならないから、養子という事にしただけの人間だよ。だから、まだ籍も何も入れてない赤の他人で、一生懸命に働いて行くうちに、私達が死ねば、お礼にお前と、この家の財産《しんだい》を遣る口約束がしてあるだけの人間だよ。
 ……といったような言葉を日に増し手厳しく実行に移して来た。それは永年自分達夫婦が、金銭の奴隷として屈従しつくして来た不愉快さ、憂鬱さ、又は年老《としお》いてタヨリになる児《こ》を持ち得ない物淋しさ、情なさ、自烈度《じれった》さを、たまらない嫉妬心と一緒に飽く事なく新しい犠牲……若い、美しい一知に吹っかけて、どこまで行っても張合いのない……同時に世間へ持出しても絶対に通用しない自分達の誇りを満足させ、気を晴らそうとしているに相違ないのであった。そうして夜になると一知を、わざと蚊帳《かや》の無い台所に寝かし、マユミを中《なか》の間《ま》の蚊帳の中に寝させて、境目の重たい杉扉《すぎど》にガッチリと鍵をかけたものであった。するとマユミも亦《また》マユミで、何だかわからないまま両親の吩付《いいつ》けを固く守って、一知が時折コッソリと泣いて頼むのも聞かずに、一度も鍵を外してやらなかったので、一知は悩ましさの余りに昼の間じゅう死に物狂いに働いて、日が暮れると同時に前後不覚に眠るより他に自ら慰める方法が無くなった。そうして楽しみといっては唯、昼間のあいだ働いている最中だけ、マユミと一緒にいられる。どうかした場合に麦畑の中で汗ばんだ手を握り合う事が出来る位の事であった。又、勘定高い老夫婦も、そうした事を許しておけば一知が仕事に身を入れるに違いない事を想像して、黙認していたものであったが、後《のち》にはそれすらオナリ婆さんの感情に触《さわ》るらしく、自分自身で指図をするといって、朝早くから日の暮れる迄畑に出て来て、眼を皿のようにして二人の一挙一動を監視し始めたために、一知はとうとう辛抱がし切れなくなった。何度となく逃出そう逃出そうと決心しながらも、マユミへの愛情に引かされて、それも出来ないままに、毎日毎夜煩悶の極、一種の神経衰弱に陥ったのであろう。とうとう恐ろしい殺意を決するに到った。
 オナリ婆さんは老人に有り勝ちな一種の脅迫観念に囚《とら》われていたらしかった。オナリ婆さんは村中の人々が自分達の因業さを怨み抜いている事を、知り過ぎる位知っていて、夜になると必要以上に戸締りを厳重にして、一歩も外へ出ないようにしていた。その態度は明らかに村中の人々を自分の敵に廻している気持をあらわしていたもので、しかもその村人の中《うち》でも若い、元気な一知が自分の家の中に寝ているのを、さながらに敵のまわし者が入り込んで来ているかのように恐れて警戒していたのであった。
 もちろんオナリ婆さんは最初から一知に対してソンナ気持を持っていた訳ではなかったが、その中《うち》に一知の鳴すラジオの音が、次第次第に高まって行く中《うち》に、オナリ婆さんのそうした恐怖的な妄想もだんだんと大きく深刻になって来て、しまいには一知が自分達を殺す目的でラジオを担《かつ》ぎ込んだものに違いないとさえ思うようになった。
「なあ爺さん。あのラジオの音の恐ろしい事なあ。あの音のガンガン鳴り続けいる中《うち》なら、妾《わたし》たちがドンナに無残《むご》い殺されようをしても村の人には聞えやせんでなあ。一知は村の者から頼まれて、私たちを殺しに来た奴かも知れんと思うがなあ。あのラジオを止めさせん中《うち》はドウモ安心ならんと思うがなあ」
 この話をマユミから洩れ聞いた一知は、即座に決心してしまった。それは一知にとって絶体絶命の最後の楽しみを奪われる宣言に外ならなかったからであった。
 ちょうどその頃のこと。ラジオで三晩続けて探偵小説の講話があって、絶対に発見されない殺人の手段なぞに関する話が、色々な例を引いて放送されたので、一知は村中の人々の怨みを一人で代表しているような気持ちになって、全身を耳にして傾聴した。そうしてラジオの器械を研究する以上の熱心さを以て夜となく昼となく考え抜いた結果、これなら大丈夫と思われる一つの成案を得た。
 一知は先ず勝手口の継《つ》ぎ嵌《は》め戸《ど》の、一枚の板の釘の頭に、手製の電池に残っている硫酸を注意深く塗附けて出来るだけ自然に近い状態に腐蝕させ、その板を自由自在に取外せるようにした。それから垣根用の針金を買いに行くと称して野良着のまま町へ出て、兼ねてから誤魔化《ごまか》しておいた小遣いで古い学生服を買って野良着の上から巧みに着込み、新しい藁切庖丁と安いメリヤスの襯衣《シャツ》と軍隊手袋と、安靴下を買い集めると、町外れで学生服を脱いで、マユミに遣る反物や菓子と一緒に持って帰り、取敢えず学生服を焼肥《やきごえ》と一緒に焼棄て、兇器と襯衣《シャツ》を押入の奥に隠しておいた。そうして一家が寝鎮《ねしず》まった十二時頃を見計って杉扉《すぎど》の鍵を開けたが、想像の通り、器械イジリに慣れている一知にとって、旧式の鍵を外すくらいは何でもない事であった。それから暫く奥座敷の寝息を窺って、誰も目醒めない様子を見澄してから、丸裸体《まるはだか》となって新しいメリヤスの襯衣《シャツ》に着かえ、軍隊手袋と靴下を穿《うが》ってサテ藁切庖丁を取出してみると、新しい柄《え》ですこしグラつくようである。そこで草川巡査が察したように、勝手口から外に出て、山梔《くちなし》の蔭の砥石に柄を打つけて抜けないようにすると、何度も何度も両手で振ってみて練習をしたが、中学時代に撃剣を遣っていた御蔭であったろう。スブリをかけている中《うち》に、さしもの重たい藁切庖丁が、さまで重たく感じないようになった。
 それから大胆にも奥座敷の電燈を灯けて一気に兇行を遂げ、血にまみれた兇器と襯衣《シャツ》や何かを一纏めにして、兼ねてから空隙《すきま》を作っておいた堆肥の下に鍬《くわ》の柄で深々と突込み、アトをわからないように崩し塞ぎ、附近の小川で顔や頭や手足を洗い清め、そのまま寝巻を着て寝床に潜り込んだが、又気がついて起上り、敷石の上を匍《は》いながら、顔を洗った小川の縁に来て、何か痕跡が残っていないかと、星明りに透かしてみたが、その時の方が余程恐ろしくて、寝床へ這入ってからもスッカリ眼が冴えてしまった。
 そんな事で神経が相当疲れていたのであろう。翌る朝、草川巡査に報告に行った時には、まさかこんな田舎の駐在所に居る屁《ヘ》ッポコ巡査に、看破《みやぶ》られるような心配はあるまい。又、町からドンナ名探偵が来ても、深良屋敷の恐ろしい秘密と、そこから起った自分の犯行の動機ばかりは、自分が口を割らない限り誰にも気づかれる筈はないとタカを括《くく》って、安心し切っていたものであったが、その草川巡査が、思いもかけない方向に自分を連れて行こうとしたので、何という事なしにドキンとさせられてしまった。思わず大きな声をかけたものであったが、あの時に自分でも不思議なくらいビックリしたお蔭で、自分の神経がドウカなってしまったものらしい。その草川巡査の取調べが全然予想と違った順序で、極めて、注意深く事件の核心に突込んで来るらしい事に気がつくと、もう恐ろしくて恐ろしくてたまらなくなって、飯を喰ってみてもナカナカ気持が落つかなかった。勝手口の引戸を調べられた時からしてモウ答弁がシドロモドロになって来たので、九分九厘まで運命と諦めてしまったものであった。中《なか》の間《ま》の杉戸の鍵に注意を向けられたり、老母の枕元の財布の位置まで観察されたりした時には、正直のところもうイケないと思った。取調の途中で何も知らない筈のマユミが無意味にケラケラと笑った時などは、よく気絶しなかったと思うくらい真剣になって、アトからアトから湧起って来る胴震いを我慢していたもので、あの時ぐらい怖しかった事は一生を通じて一度も無かった。
 だから、それから後は只ドコまでも運命と闘って見る気で、マユミとの生活を楽しむよりほかに何も考えないようにして来た。マユミと一緒に撮った写真も、だから万一の場合のお名残《なごり》の気持で撮ったものに過ぎなかった。
 だからこの世に思い残す事はモウ一つも無い……云々と……。
 一方に草川巡査も静かに考えてみると、一知に疑いをかけるようになった気持のソモソモは、事件の起った朝、駐在所を出て何の気もなく裏山伝いに行こうとした時の一知の驚きの声であったように思われる。あの不自然な、必要以上の不安を暗示した音調の中に、犯人としての自己意識がニジミ出していたのが、無意識の中《うち》に頭にコビリついていたのであろう。
 それから深良屋敷に来た時に、あの砥石に気がつくと忽ち、犯人の目星がピッタリとついたような気がした。この事件の真相がドンナに複雑深刻を極めたものであろうとも、その一切の秘密を解く鍵は、この砥石一つで沢山だ……という確信を得たように思った。

 一知はそれから後《のち》タッタ一度裁判にかけられた後に、未決監で首を縊《くく》って自殺してしまった。その結果深良家の財産は乙束区長が保管する事になったが、それでも、すこし良くなりかけた区長の病気が、一知の死後にブリ返して来て、泣きの涙のまま永病《ながわずら》いの床に就いてしまった。
 住み人《て》の無くなった深良屋敷は、それから間もない晩秋の大風で倒れてしまった。村の人々は……お蔭で青空が広くなったようだ……といって胸を撫で卸《おろ》している。
 マユミは区長の家で女中代りに働いているが、別段悲しそうな顔もしていないという。
 草川巡査は間もなく部長に昇進して、県警察部勤務を命ぜられる事になったが、同巡査はその前に辞職して故郷の山寺に帰ってしまった。惜し気もなく頭を丸めて父の僧職を嗣ぎ、村の公共事業なぞの世話を焼き始めた。
「あの時の辛かった事を思うと今でもゾッとして夢のような気持になる。理窟ではトテモ説明出来ないが自分はあの時以来、世の中が何となく厭《いや》になった。ドウセ罪亡ぼしに坊主になる運命であったのだろう。如何に憎むべき罪人とはいえ、あの若い、美しい夫婦の幸福の絶頂と、あの正直一遍の区長の苦しみのドン底とを束にして、一ペンにタタキ潰した事を思うと、とてもタマラない気持になる。この気持は人間世界の理窟では清算出来るものでない。だから鶴木検事も同情して、私の辞職を許して下すったのだ」
 とよく人に語っている。



底本:「夢野久作全集4」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年9月24日第1刷発行
※本作品中には、今日では差別的表現として受け取れる用語が使用されています。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、あえて発表時のままとしました。(青空文庫)
入力:柴田卓治
校正:小林繁雄
2000年5月25日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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