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一足お先に
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)曰《いわ》く

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)十|燭《しょく》の電燈が、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)[#ここから2字下げ]
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       一

[#ここから2字下げ]
……聖書に曰《いわ》く「もし汝《なんじ》の右の眼、なんじを罪に陥《おと》さば、抉《えぐ》り出してこれを棄てよ……もし右の手、なんじを罪に陥さばこれを断《き》り棄てよ。蓋《そは》、五体の一つを失うは、全身を地獄に投げ入れらるるよりは勝れり」と……。
……けれどもトックの昔に断《き》り棄てられた、私の右足の幽霊が私に取り憑《つ》いて、私に強盗、強姦《ごうかん》、殺人の世にも恐ろしい罪を犯させている事がわかったとしたら、私は一体どうしたらいいのだろう。
……私は悪魔になってもいいのかしら……。
[#ここで字下げ終わり、1行アキ]
 右の膝小僧の曲り目の処が、不意にキリキリと疼《いた》み出したので、私はビックリして跳ね起きた。何かしら鋭い刃物で突き刺されたような痛みであった……
 ……と思い思い、半分夢心地のまま、そのあたりと思う処を両手で探りまわしてみると……
 ……私は又ドキンとした。眼がハッキリと醒《さ》めてしまった。
 ……私の右足が無い……
 私の右足は股《もも》の付根の処からスッポリと消失せている。毛布の上から叩《たた》いても……毛布をめくっても見当らない。小さな禿頭《はげあたま》のようにブルブル震えている股の切口と、ブクブクした敷蒲団ばかりである。
 しかし片っ方の左足はチャンと胴体にくっ付いている。縒《よ》れ縒《よ》れのタオル寝巻の下に折れ曲って、垢《あか》だらけの足首を覗《のぞ》かせている。それだのに右足はいくら探しても無い。タッタ今飛び上るほど疼《いた》んだキリ、影も形も無くなっている。
 これはどうした事であろう……怪訝《おか》しい。不思議だ。
 私はねぼけ眼《まなこ》をこすりこすり、そこいらを見まわした。
 森閑《しんかん》とした真夜中である。
 黒いメリンスの風呂敷に包《くる》まった十|燭《しょく》の電燈が、眼の前にブラ下がっている。
 窓の外には黒い空が垂直に屹立《きった》っている。
 その電燈の向うの壁際にはモウ一つ鉄の寝台があって、その上に逞《たくま》しい大男が向うむきに寝ている。脱《ぬ》けはだかったドテラの襟元から、半出来の龍の刺青《ほりもの》をあらわして、まん中の薄くなったイガ栗頭と、鬚《ひげ》だらけの達磨《だるま》みたいな横顔を見せている。
 その枕元の茶器棚には、可愛い桃の小枝を挿《さ》した薬瓶が乗っかっている。妙な、トンチンカンな光景……。
 ……そうだ。私は入院しているのだ。ここは東京の築地の奎洋堂《けいようどう》という大きな外科病院の二等室なのだ。向うむきに寝ている大男は私の同室患者で、青木という大連《たいれん》の八百屋さんである。その枕元の桃の小枝は、昨日《きのう》私の妹の美代子が、見舞いに来た時に挿して行ったものだ……。
 ……こんな事をボンヤリと考えているうちに、又も右脚の膝小僧の処が、ズキンズキンと飛び上る程|疼《いた》んだ。私は思わず毛布の上から、そこを圧《おさ》え付けようとしたが、又、ハッと気が付いた。
 ……無い方の足が痛んだのだ……今のは……。
 私は開《あ》いた口が塞《ふさ》がらなくなった。そのまま眼球《めだま》ばかり動かして、キョロキョロとそこいらを見まわしていたようであったが、そのうちにハッと眼を据《す》えると、私の全身がゾーッと粟立《あわだ》って来た。両方の眼を拳固《げんこ》で力一パイこすりまわした。寝台の足の先の処をジイッと凝視《みつめ》たまま、石像のように固くなった。
 ……私の右足がニューとそこに突っ立っている。
 それは私の右足に相違ない……瘠《や》せこけた、青白い股の切り口が、薄桃色にクルクルと引っ括《くく》っている。……そのまん中から灰色の大腿骨《だいたいこつ》が一寸《いっすん》ばかり抜け出している。……その膝っ小僧の曲り目の処へ、小さなミットの形をした肉腫が、血の気《け》を無くしたまま、シッカリと獅噛《しが》み付いている。
 ……それはタッタ今、寝台から辷《すべ》り降りたまんまジッとしていたものらしい。リノリウム張りの床の上に足の平《ひら》を当てて、尺蠖《しゃくとりむし》のように一本立ちをしていた。そうして全体の中心を取るかのように、薄くらがりの中でフウラリフウラリと、前後左右に傾いていたが、そのうちに心もち「く」の字|型《なり》に曲ったと思うと、普通の人間の片足がする通りに、ヒョコリヒョコリと左手の窓の方へ歩き出した。
 私の心臓が二度ばかりドキンドキンとした。そうしてそのまま又、ピッタリと静まった。……と思うと同時に頭の毛が一本一本にザワザワザワザワと動きまわりはじめた。
 そのうちに私の右足は、そうした私の気持を感じないらしく、悠々と四足か、五足ほど歩いて行ったと思うと、窓の下の白壁に、膝小僧の肉腫をブッ付けた。そこで又、暫《しばら》くの間フウラリフウラリと躊躇《ちゅうちょ》していたが、今度は斜《ななめ》に横たおしになって、切っ立った壁をすこしずつ、爪探《つまさぐ》りをしながら登って行った。そうしてチョウド窓枠の処まで来ると、框《かまち》に爪先をかけながら、又もとの垂直に返って、そのまま前後左右にユラリユラリと中心を取っていたが、やがて薄汚れた窓|硝子《がらす》の中を、影絵のようにスッと通り抜けると、真暗い廊下の空間へ一歩踏み出した。
「……ア…アブナイッ……」
 と私は思わず叫んだが間に合わなかった。私の右足が横たおしになって、窓の向う側の廊下に落ちた。森閑《しんかん》とした病院じゅうに「ドターン」という反響を作りながら………………。
「モシモシ……モシモシイ」
 と濁った声で呼びながら、私の胸の上に手をかけて、揺すぶり起す者がある。ハッと気が付いて眼を見開くと、痛いほど眩《まぶ》しい白昼《まひる》の光線が流れ込んだので、私は又シッカリと眼を閉じてしまった。
「モシモシ。新東《しんとう》さん新東さん。どうかなすったんですか。もうじき廻診ですよ」
 という男の胴間声《どうまごえ》が、急に耳元に近づいて来た。
 私は今一度、思い切って眼を見開いた。シビレの切れかかったボンノクボを枕に凭《もた》せかけたまま、ウソウソと四周《あたり》を見まわした。
 たしかに真昼間《まっぴるま》である。奎洋堂病院の二等室である。タッタ今、夢の中………どうしても夢としか思えない……で見た深夜の光景はアトカタも無い。今しがた私の右脚が出て行った廊下の、モウ一つ向うの窓の外には、和《な》ごやかな太陽の光りが満ち満ちて、エニシダの黄色い花と、深緑の糸の乱れが、窓|硝子《がらす》一パイになって透きとおっている。その向うの、ダリヤの花壇越しに見える特等病室の窓に、昨日《きのう》までは見かけなかった白麻の、素晴らしいドローンウォークのカーテンが垂れかかっているのは、誰か身分のある人でも入院したのであろうか……。
 ふり返ってみると右手の壁に、煤《すす》けた入院規則の印刷物が貼り付けてある。「医員の命令に服従すべし」とか「許可なくして外泊すべからず」とか「入院料は十日目|毎《ごと》に支払うべし」とかいう、トテモ旧式な文句であったが、それを見ているうちに私はスッカリ吾《われ》に還《かえ》る事が出来た。
 私はこの春休みの末の日に、この外科病院に入院して、今から一週間ばかり前に、股の処から右足を切断してもらったのであった。それは、その右の膝小僧の上に大きな肉腫が出来たからで、私が母校のW大学のトラックで、ハイハードルの練習中にこしらえた小さな疵《きず》が、現在の医学では説明不可能な……しかも癌《がん》以上に恐ろしい生命《いのち》取りだと云われている、肉腫の病原を誘い入れたものらしいという院長の説明であった。
「ハッハッハッハッ………どうしたんですか。大層|唸《うな》っておいでになりましたが。痛むんですか」
 今しがた私を揺り起した青木という患者は、こう云って快闊《かいかつ》に笑いながら半身を起した。私も同時に寝台の上に起き直ったが、その時に私はビッショリと盗汗《ねあせ》を掻《か》いているのに気が付いた。
「……イヤ……夢を見たんです……ハハハ……」
 と私はカスレた声で笑いながら、右足の処の毛布を見た。……がもとよりそこに右足が在《あ》ろう筈は無い。ただ毛布の皺《しわ》が山脈のように重なり合っているばかりである。私は苦笑も出来ない気持ちになった。
「ハハア。夢ですか。エヘヘヘヘ。それじゃもしや足の夢を御覧になったんじゃありませんか」
「エッ……」
 私は又ギックリとさせられながら、そう云う青木のニヤニヤした鬚面《ひげづら》をふり返った。どうして私の夢を透視したのだろうと疑いながら、その脂肪光りする赤黒い顔を凝視した。

 この青木という男は、コンナ奇蹟じみた事を云い出す性質《たち》の人間では絶対になかった。長いこと大連に住んでいるお蔭で、言葉付きこそ少々|生温《なまぬる》くなっているけれども、生れは生《き》っ粋《すい》の江戸ッ子で、親ゆずりの青物屋だったそうであるが、女道楽で身代《しんだい》を左前にしたあげく、四五年前に左足の関節炎にかかって、この病院に這入《はい》ると、一と思いに股《もも》の中途から切断してもらったので、トウトウ身代限りの義足一本になってしまった。ところが、その時まで一緒に居た細君というのが又、世にも下らない女で、青木の義足がシミジミ嫌《いや》になったらしく、ほかの男と逃げてしまったので、青木の方でも占《し》めたとばかり、早速なじみの芸者をそそのかして、合わせて三本足で道行きを極《き》め込んだが、それから又、色々と苦労をしたあげくに、やっと大連で落ち付いて八百屋を開く事になった。すると又そのうちに、大勢の女を欺《だま》した天罰かして、今度は右の足首に関節炎が来はじめたのであったが、青木はそれを大連に沢山ある病院のどこにも見せずに、わざわざお金を算段して、昔なじみのこの病院に入院しに来た。……だから今度右の足を切られたら又、今の女房が逃げ出して、新しい女が入れ代りに来るに違いない。それが楽しみで楽しみで……と誰にも彼にも自慢そうにボカボカ話している。それくらい単純なアケスケな頭の持ち主である。だからタッタ今見たばかりの私の夢を云い当てるような、深刻な芸当が出来よう筈が無い。それとも、もしかしたら今、私が夢を見ているうちに、囈言《うわごと》か何か云ったのじゃないかしらん……なぞと一瞬間に考えまわしながら、独りで赤面していると、その眼の前で、青木はツルリと顔を撫でまわして、黄色い歯を一パイに剥《む》き出して見せた。
「ハッハッハッ。驚いたもんでしょう。千里眼でしょう。多分そんな事だろうと思いましたよ。さっきから左足を伸ばしたり縮めたりして歩く真似をしていなすったんですからね。ハッハッハッ。おまけにアブナイなんて大きな声を出して……」
「……………」
 私は無言のまま、首の処まで赤くなったのを感じた。
「ハッハッ。実は私《あっし》もそんな経験があるんですよ。この病院で足を切ってもらった最初のうちは、よく足の夢を見たもんです」
「……足の夢……」
 と私は口の中でつぶやいた。いよいよ煙《けむ》に捲かれてしまいながら……。すると青木も、いよいよ得意そうにうなずいた。
「そうなんです。足を切られた連中は、よく足の夢を見るものなんです。それこそ足の幽霊かと思うくらいハッキリしていて、トッテモ気味がわるいんですがね」
「足の幽霊……」
「そうなんです。しかし幽霊には足が無いって事に、昔から相場が極《きま》っているんですから、足ばかりの幽霊と来ると、まことに調子が悪いんですが……もっともこっちが幽霊になっちゃ敵《かな》いませんがね。ハッハッハッ……」
 唖然《あぜん》となっていた私は思わず微苦笑させられた。それを見ると青木は益々《ますます》乗り気になって、片膝で寝台の端まで乗り出して来た。
「しかし何ですよ。そんな足の夢というものは、切った傷口が痛んでいるうちはチットモ見えて来ないんです。夜も昼も痛いことばっかりに気を取られているんですからね。ところがその痛みが薄らいで、傷口がソロソロ癒《なお》りかけて来ると、色んな変テコな事が起るんです。切り小口《こぐち》の神経の筋が縮んで、肉の中に引っ釣《つ》り込んで行く時なんぞは、特別にキンキン痛いのですが、それが実際に在りもしない膝っ小僧だの、足の裏だのに響くのです」
 私は「成る程」とうなずいた。そうして感心した証拠に深い溜息をして見せた。青木は平生から無学文盲を自慢にしているけれども、世間が広い上に、根が話好きと来ているので、ナカナカ説明の要領がいい。
「実は私《あっし》も、あんまり不思議なので、そん時院長さんに訊《き》いたんですが、何でも足の神経っていう奴は、みんな背骨《せぼね》の下から三つ目とか四つ目とかに在る、神経の親方につながっているんだそうです。しかもその背骨の中に納まっている、神経の親方ってえ奴が、片っ方の足が無くなった事を、死ぬが死ぬまで知らないでいるんだそうでね。つまりその神経の親方はドコドコまでも両脚《りょうあし》が生れた時と同様に、チャンとくっ付いたつもりでいるんですね。グッスリと寝込んでいる時なんぞは尚更《なおさら》のこと、そう思っている訳なんですが……ですから切られた方の神経の端ッコが痛み出すと、その親方が、そいつをズット足の先の事だと思ったり、膝っ節《ぷし》の痛みだと感違いしたりするんだそうで……むずかしい理窟はわかりませんが……とにかくソンナ訳なんだそうです。そのたんびにビックリして眼を醒ますと、タッタ今痛んだばかしの足が見えないので、二度ビックリさせられた事が何度あったか知れません。ハハハハハ」
「……僕は……僕はきょう初めてこんな夢を見たんですが……」
「ハハア。そうですか。それじゃモウ治りかけている証拠ですよ。もうじき義足がはめられるでしょう」
「ヘエ。そんなもんでしょうか」
「大丈夫です。そういう順序で治って行くのが、オキマリになっているんですからね……青木院長が請合いますよ。ハッハッハ」
「どうも……ありがとう」
「ところがですね……その義足が出来て来ると、まだまだ気色のわりい事が、いくらでもオッ始まるんですよ。こいつは経験の無い人に話してもホントにしませんがね。大連みたような寒い処に居ると、義足に霜やけがするんです。ハハハハハ。イヤ……したように思うんですがね。……とにかく義足の指の先あたりが、ムズムズして痒《かゆ》くてたまらなくなるんです。ですから義足のそこん処を、足袋《たび》の上から揉《も》んだり掻いたりしてやると、それがチャント治るのです。夜なぞは外《はず》した義足を、煖房《ペーチカ》の這入った壁に立てかけて寝るんですが、大雪の降る前なぞは、その義足の爪先や、膝っ小僧の節々がズキズキするのが、一|間《けん》も離れた寝台の上に寝ている、こっちの神経にハッキリと感じて来るんです。気色の悪い話ですが、よくそれで眼を覚《さ》まさせられますので……とうとうたまらなくなって、夜中に起き上って、御苦労様に義足をはめ込んで、そこいらと思う処へ湯タンポを入れたりしてやると、綺麗に治ってしまいましてね。いつの間にか眠ってしまうんです。ハハハハ。馬鹿馬鹿しいたって、これぐらい馬鹿馬鹿しい話はありませんがね」
「ハア……つまり二重の錯覚ですね。神経の切り口の痛みが、脊髄に反射されて、無い処の痛みのように錯覚されたのを、もう一度錯覚して、義足の痛みのように感ずるんですね」
 私はこんな理窟を云って気持ちのわるさを転換しようとした。青木の話につれて、タッタ今見た自分の足の幻影が、又も眼の前の灰色の壁の中から、クネクネと躍り出して来そうな気がして来たので……しかし青木は、そんな私の気持ちにはお構いなしに話をつづけた。
「ヘヘエ。成る程。そんな理窟のもんですかねえ。私《あっし》も多分そんな事だろうと思っているにはいるんですが……ですから一緒に寝ている嬶《かかあ》がトテモ義足を怖がり始めましてね。どうぞ後生だから、枕元の壁に立てかけて寝る事だけは止《よ》してくれ……気味がわるくて寝られないからと云いますので、それから後《のち》は、冬になると寝台《ねだい》の下に別に床を取って、その中にこの義足を寝かして、湯タンポを入れて寝る事にしたんですが……ハハハハハ。まるで赤ん坊を寝かしたような恰好で、その方がヨッポド気味が悪いんですが、嬶《かかあ》はその方が安心らしく、よく眠るようになりましたよ。ハッハッハッ……でもヒョット支那人《チャンチャン》の泥棒か何かが這入《へえ》りやがって……あっちでは泥棒といったら大抵チャンチャンなんで、それも旧の師走《しわす》頃が一番多いんですが、そんな奴がコイツを見付けたら、胆《きも》っ玉をデングリ返すだろうと思いましてね。アッハッハッハッ」
 私も仕方なしに青木の笑い声に釣られて、
「アハ……アハ……アハ……」
 と力なく笑い出した。けれども、それに連れて、ヒドイ神経衰弱式の憂鬱《ゆううつ》が、眼の前に薄暗く蔽《おお》いかぶさって来るのを、ドウする事も出来なかった。

 ……コツコツ……コツコツコツ……
 とノックする音……。
「オ――イ」
 と青木が大きな声で返事をすると同時に、足の先の処の扉《ドア》が開《あ》いて、看護婦の白い服がバサバサと音を立てて這入って来た。それはシャクレた顔を女給みたいに塗りこくった女で、この病院の中でも一番生意気な看護婦であったが、手に持って来た大きな体温器をチョットひねくると、イキナリ私の鼻の先に突き付けた。外科病院の看護婦は、荒療治を見つけているせいか、どこでもイケゾンザイで生意気だそうで、この病院でも、コンナ無作法な仕打ちは珍らしくないのであった。だから私は温柔《おとな》しく体温器を受け取って腋《わき》の下に挟んだ。
「こっちには寄こさないのかね」
 と横合いから青木が頓狂《とんきょう》な声を出した。すると出て行きかけた看護婦がツンとしたまま振り返った。
「熱があるのですか」
「大いにあるんです。ベラ棒に高い熱が……」
「風邪でも引いたんですか」
「お気の毒様……あなたに惚れたんです。おかげで死ぬくらい熱が……」
「タント馬鹿になさい」
「アハハハハハハハハ」
 看護婦は怒った身ぶりをして出て行きかけた。
「……オットオット……チョットチョット。チョチョチョチョチョチョット……」
「ウルサイわねえ。何ですか。尿器ですか」
「イヤ。尿瓶《しびん》ぐらいの事なら、自分で都合が出来るんですが……エエ。その何です。チョットお伺いしたいことがあるんです」
「イヤに御丁寧ね……何ですか」
「イヤ。別に何てこともないんですが……あの……向うの特別室ですね」
「ハア……舶来の飛び切りのリネンのカーテンが掛かって、何十円もするチューリップの鉢が、幾つも並んでいるのが不思議と仰有《おっしゃ》るのでしょう」
「……そ……その通りその通り……千里眼千里眼……尤《もっと》もチューリップはここから見えませんがね。あれは一体どなた様が御入院遊ばしたのですか」
「あれはね……」
 と看護婦は、急にニヤニヤ笑い出しながら引返《ひっかえ》して来た。真赤な唇をユの字型に歪《ゆが》めて私の寝台の端に腰をかけた。
「あれはね……青木さんがビックリする人よ」
「ヘエ――ッ。あっしの昔なじみか何かで……」
「プッ。馬鹿ねアンタは……乗り出して来たって駄目よ。そんな安っぽい人じゃないのよ」
「オヤオヤ……ガッカリ……」
「それあトテモ素敵な別嬪《べっぴん》さんですよ。ホホホホホ……。青木さん……見たいでしょう」
「聞いただけでもゾ――ッとするね。どっかの筥入娘《はこいりむすめ》か何か……」
「イイエ。どうしてどうして。そんなありふれた御連中じゃないの」
「……そ……それじゃどこかの病院の看護婦さんか何か……」
「……プーッ……馬鹿にしちゃ嫌《いや》よ。勿体《もったい》なくも歌原男爵の未亡人《びぼうじん》様よ」
「ゲ――ッ……あの千万長者の……」
「ホラ御覧なさい。ビックリするでしょう。ホッホッホ。あの人が昨夜《ゆんべ》入院した時の騒ぎったらなかってよ。何しろ歌原商事会社の社長さんで、不景気知らずの千万長者で、女盛りの未亡人で、新聞でも大評判の吸血鬼《バンパイア》と来ているんですからね」
「ウ――ン。それが又何だってコンナ処へ……」
「エエ。それが又大変なのよ。何でもね。昨日《きのう》の特急で、神戸の港に着いている外国人の処へ取引に行きかけた途中で、まだ国府津《こうづ》に着かないうちに、藤沢あたりから左のお乳が痛み出したっていうの……それでお附きの医者に見せると、乳癌《にゅうがん》かも知れないと云ったもんだから、すぐに自動車で東京に引返して、旅支度《たびじたく》のまんま当病院《ここ》へ入院したって云うのよ」
「フ――ン。それじゃ昨夜《ゆんべ》の夜中だな」
「そうよ。十二時近くだったでしょう。ちょうど院長さんがこの間から、肺炎で寝ていらっしゃるので、副院長さんが代りに診察したら、やっぱし乳癌に違いなかったの。おまけに痛んで仕様《しよう》がないもんだから、副院長さんの執刀で今朝《けさ》早く手術しちゃったのよ。バンカインの局部麻酔が利かないので、トウトウ全身麻酔にしちゃったけど、それあ綺麗な肌だったのよ。手入れも届いているんでしょうけど……副院長さんが真白いお乳に、ズブリとメスを刺した時には、妾《わたし》、眼が眩《くら》むような思いをしたわよ、乳癌ぐらいの手術だったら、いつも平気で見ていたんだけど……美しい人はやっぱし得ね。同情されるから……」
「フ――ム、大したもんだな。ちっとも知らなかった。ウ――ム」
「アラ。唸《うな》っているわよこの人は……イヤアね。ホホホホホホ」
「唸りゃしないよ。感心しているんだ」
「だって手術を見もしないのにサア……」
「一体|幾歳《いくつ》なんだえその人は……」
「オホホホホホ。もう四十四五でしょうよ。だけどウッカリすると二十代ぐらいに見えそうよ。指の先までお化粧をしているから……」
「ヘエ――ッ。指の先まで……贅沢だな」
「贅沢じゃないわよ。上流の人はみんなそうよ。おまけに男妾《おとこめかけ》だの、若い燕《つばめ》だのがワンサ取り巻いているんですもの……」
「呆《あき》れたもんだナ。そんなのを連れて入院したんかい」
「……まさか……。そんな事が出来るもんですか。現在《いま》附き添っているのは年老《としと》った女中頭が一人と、赤十字から来た看護婦が二人と、都合四人キリよ」
「でもお見舞人で一パイだろう」
「イイエ。玄関に書生さんが二人、今朝《けさ》早くから頑張っていて、専務取締とかいう頭の禿《はげ》た紳士のほかは、みんな玄関払いにしているから、病室の中は静かなもんよ。それでも自動車が後から後から押しかけて来て、立派な紳士が入れ代り立ち代り、名刺を置いては帰って行くの」
「フ――ン、豪気なもんだナ。ソ――ッと病室を覗くわけには行かないかナ」
「駄目よ。トテモ。妾《わたし》達でさえ這入れないんですもの………。あの室に這入れるのは副院長さんだけよ」
「何だってソンナに用心するんだろう」
「それがね……それが泥棒の用心らしいから癪《しゃく》に障《さわ》るじゃないの。威張っているだけでも沢山なのにサア」
「ウ――ム。シコタマ持ち込んでいるんだな」
「そうよ。何しろ旅支度のまんまで入院したんだから、宝石だけでも大変なもんですってサア」
「そんな物あ病院の金庫に入れとけあいいのに……」
「それがね。あの歌原未亡人っていうのは、日本でも指折りの宝石キチガイでね。世界でも珍らしい上等のダイヤを、幾個《いくつ》も仕舞い込んだ革のサックを、誰にもわからないように肌身に着けて持っているんですってさあ」
「厄介な道楽だナ。しかし、そんなものを持っている事がどうしてわかったんだ」
「それがトテモ面白いのよ。誰でも全身麻酔にかかると、飛んでもない秘密をペラペラ喋舌《しゃべ》るもの………っていう事を歌原未亡人は誰からか聞いて知っていたんでしょう。副院長さんが、それでは全身麻酔に致しますよって云うと直ぐにね。懐《ふところ》の奥の方から小さな革のサックを出して、これを済みませんが貴方の手で、病院の金庫に入れといて下さいって云ったのよ。そうして全身麻酔にかかると間もなく、そのサックの中の宝石の事を、幾度も幾度も副院長に念を押して聞いたのでスッカリ解っちゃったのよ」
「フ――ン。じゃ副院長だけ信用されているんだナ」
「ええ。あんな男前の人だから、未亡人《おくさん》の気に入るくらい何でもないでしょうよ」
「ハハハハハ嫉《や》いてやがら……」
「嫉けやしないけど危いもんだわ」
「何とかいったっけな。エート。胴忘《どうわす》れしちゃった。副院長の名前は……」
「柳井《やない》さんよ」
「そうそう。柳井博士、柳井博士。色男らしい名前だと思った。……畜生。うめえ事をしやがったな」
「オホホホ。あんたこそ嫉いてるじゃないの」
「ウ――ン。羨しいね。涎《よだれ》が垂れそうだ。一目でもいいからその奥さんを……」
「駄目よ。あんたはもう二三日うちに退院なさるんだから……」
「エッ。本当かい」
「本当ですとも。副院長さんがそう云っていたんだから大丈夫よ」
「フ――ン。俺が色男だもんだから、邪魔っけにして追払《おっぱら》いやがるんだな」
「プーッ。まさか。新東さんじゃあるまいし……アラ御免なさいね。ホホホホ……」
「畜生ッ。お安くねえぞッ」
「バカねえ。外《ほか》に聞こえるじゃないの。それよりも早く大連の奥さんの処へ行っていらっしゃい。キット、待ちかねていらっしゃるわよ」
「アハハハハ。スッカリ忘れていた。違《ちげ》えねえ違《ちげ》えねえ。エヘヘヘヘ……」
 看護婦は眼を白くして出て行った。

 私は情なくなった。こんな下等の病院の、しかも二等室に入院《はい》った事を、つくづく後悔しながら仰向けに寝ころんだ。体温器を出して見ると六度二分しか無い。二三日前から続いている体温である。……ああ早く退院したい……外の空気を吸いたい……と思い思い眼をつぶると、眼の前に白いハードルが幾つも幾つも並んで見えた。私にはもう永久に飛び越せないであろうハードルが……。
 私はすっかりセンチメンタルになりながら、切断された股《もも》の付け根を、繃帯《ほうたい》の上から撫でて見た。そうして眠るともなくウトウトしていると、突然に又もや扉《ドア》の開《あ》く音がして、誰か二三人這入って来た気はいである。
 眼を開いて見るとタッタ今噂をしていた柳井副院長が、新米《しんまい》らしい看護婦を二人従えて、ニコニコしながら近づいて来た。鼻眼鏡をかけた、背のスラリと高い、如何《いか》にも医者らしい好男子であるが、柔和な声で、
「どうです」
 と等分に二人へ云いかけながら、先ず青木の脚の繃帯を解《と》いた。色の黒い毛ムクジャラの脛《すね》のあたりを、拇指《おやゆび》でグイグイと押しこころみながら、
「痛くないですな……ここも……こちらも……」
 と訊《き》いていたが、青木が一つ一つにうなずくと、フンフンと気軽そうにうなずいた。
「大変によろしいようです。もう二三日模様を見てから退院されたらいいでしょう。何なら今日の午後あたりは、ソロソロと外を歩いてみられてもいいです」
「エッ。もういいんですか」
「ええ。そうして、痛むか痛まないか様子を御覧になって、イヨイヨ大丈夫ときまってから、退院されるといいですな。御遠方ですから……」
 青木は乞食みたいにピョコピョコと頭ばかり下げたが、よっぽど嬉しかったと見える。
「お蔭様で……お蔭様で……」
 そう云う青木を看護婦と一緒に、尻目にかけながら副院長は、私の方に向き直った。そうして一《ひ》と通り繃帯の下を見まわると、看護婦がさし出した膿盤《のうばん》を押し退《の》けながら、私の顔を見て、女のようにニッコリした。
「もうあまり痛くないでしょう」
 私は無愛想にうなずきつつ、ピカピカ光る副院長の鼻眼鏡を見上げた。又も、何とはなしに憂鬱《ゆううつ》になりながら……。
「体温は何ぼかね」
 と副院長は傍《そば》の看護婦に訊いた。
 私は無言のまま、最前《さっき》から挟んでおいた体温器を取り出して、副院長の前にさし出した。
「六度二分。……ハハア……昨日《きのう》とかわりませんな。貴方も経過が特別にいいようです。スッカリ癒合《ゆごう》していますし、切口の恰好も理想的ですから、もう近いうちに義足の型が取れるでしょう」
 私はやはり黙ったまま頭を下げた。われながら見すぼらしい恰好で……。「罪人は、罪を犯した時には、自分を罪人とも何とも思わないけれど、手錠をかけられると初めて罪人らしい気持になる」と聞いていたが、その通りに違いないと思った。手術を受けた時はチットもそんな気がしなかったが、タッタ今義足という言葉を聞くと同時に、スッカリ片輪《かたわ》らしい、情ない気もちになってしまった。
「……何なら今日の午後あたりから、松葉杖を突いて廊下を歩いて見られるのもいいでしょう。義足が出来たにしましても、松葉杖に慣れておかれる必要がありますからね」
「……どうです。私《あたし》が云った通りでしょう」
 と青木が如何にも自慢そうに横合いから口を出した。外出してもいいと聞いたので、一層浮き浮きしているらしい。
「新東さんは先刻《さっき》から足の夢を見られたんですよ」
 私は「余計な事を云うな」という風に、頬を膨《ふく》らして青木の方を睨《にら》んだが、生憎《あいにく》、青木の顔は、副院長の身体《からだ》の蔭になっているので通じなかった。
 その中《うち》に副院長は青木の方へ向き直った。
「ハーア。足の夢ですか」
「そうなんです。先生。私《あっし》も足が無くなった当時は、足の夢をよく見たもんですが、新東さんはきょう初めて見られたんで、トテも気味を悪がって御座るんです」
「アハハハハ。その足の夢ですか。ハハア。よくソンナ話を聞きますが、よっぽど気味がわるいものらしいですね」
「ねえ先生。あれは脊髄《せきずい》神経が見る夢なんでげしょう」
「ヤッ……こいつは……」
 と柳井副院長は、チョット面喰ったらしく、頭を掻いて、苦笑した。
「えらい事を知っていますね貴方は……」
「ナアニ。私《あっし》はこの前の時に、ここの院長さんから聞かしてもらったんです。脊髄神経の中に残っている足の神経が見る夢だ……といったようなお話を伺ったように思うんですが」
「アハハハハ。イヤ。何も脊髄神経に限った事はないんです。脳神経の錯覚も混《まじ》っているでしょうよ」
「ヘヘーエ。脳神経……」
「そうです。何しろ手術の直後というものは、麻酔の疲れが残っていますし、それから後の痛みが非道《ひど》いので、誰でも多少の神経衰弱にかかるのです。その上に運動不足とか、消化不良とかが、一緒に来る事もありますので、飛んでもない夢を見たり、酷《ひど》く憂鬱になったりする訳ですね。中にはかなりに高度な夢遊病を起す人もあるらしいのですが……現にこの病院を夜中に脱《ぬ》け出して、日比谷あたりまで行って、ブッ倒れていた例がズット前にあったそうです。私は見なかったですけれども……」
「ヘエ、そいつあ驚きましたね。片っ方の足が無いのに、どうしてあんなに遠くまで行けるんでしょう」
「それあ解りませんがね。誰も見ていた人がないのですから。しかし、どうかして片足で歩いて行くのは事実らしいですな。欧洲大戦後にも、よく、そんな話をききましたよ。甚《はなは》だしいのになると或る温柔《おとな》しい軍人が、片足を切断されると間もなく夢中遊行を起すようになって、自分でも知らないうちに、他所《よそ》のものを盗んで来る事が屡《しばしば》あるようになった。しかも、それはみんな自分が欲しいと思っていた品物ばかりなのに、盗んだ場所をチットモ記憶しないので困ってしまった。とうとうおしまいには遠方に居る自分の恋人を殺してしまったので、スッカリ悲観したらしく、その旨《むね》を書き残して自殺した……というような話が報告されていますがね」
「ブルブル。物騒物騒。まるっきり本性が変ってしまうんですね」
「まあそんなものです。つまり手でも足でも、大きな処を身体《からだ》から切り離されると、今までそこに消費されていた栄養分が有り余って、ほかの処に押しかける事になるので、スッカリ身体《からだ》の調子が変る人があるのは事実です」
「ナアル程、思い当る事がありますね」
「そうでしょう。ちょうど軍縮で国費が余るのと同じ理窟ですからね。手術前の体質は勿論、性格までも全然違ってしまう人がある訳です。神経衰弱になったり、夢中遊行を起したりするのは、そんな風に体質や性格が変化して行く、過渡時代の徴候《ちょうこう》だという説もあるくらいですが……」
「ヘエ――。道理で、私は足を切ってから、コンナにムクムク肥りましたよ。おまけに精力がとても強くなりましてね。ヘッヘッヘッ」
 副院長は赤面しながら慌てて鼻眼鏡をかけ直した。同時に二人の看護婦も、赤い顔をしいしい扉《ドア》の外へ辷《すべ》り出た。
「しかし……」
 と副院長は今一度鼻眼鏡をかけ直しながら、青木の冗談を打ち消すように言葉を続けた。
「しかし御参考までに云っておきますが、そんな夢中遊行を起す例は、大抵そんな遺伝性を持っている人に限られている筈です。殊に新東君なぞは、立派な教養を持っておられるんですから、そんな御心配は御無用ですよ。ハッハッハッ。まあお大切になさい。体力が恢復すれば、神経衰弱も治るのですから……」
 副院長はコンナ固くるしいお世辞を云って、自分の饒舌《しゃべ》り過ぎを取り繕《つくろ》いつつ、気取った態度で出て行った。
 私はホッとしながら毛布にもぐり込んだ。徹底的にタタキ付けられた時と同様の残酷《みじめ》さを感じながら……。

       二

 午食《ごしょく》が済むと、青木が寝台の隅で、シャツ一貫になって、重たい義足のバンドを肩から斜《はす》かいに吊り着けた。その上からメリヤスのズボンを穿《は》いて、新しい紺飛白《こんがすり》の袷《あわせ》を着ると、義足の爪先にスリッパを冠せてやりながら、大ニコニコでお辞儀をした。
「それじゃ出かけて参ります。今夜は片っ方の足が、どこかへ引っかかるかも知れませんが、ソン時は宜《よろ》しくお頼み申しますよ。アハハハハハ。お妹さんのお好きな紅梅焼を買って来て上げますからナ。ワハハハハ」
 と訳のわからない事を喋舌《しゃべ》って噪《はし》ゃいでいるうちに、ゴトンゴトンと音を立てて出て行った。
 青木の足音が聞えなくなると私もムックリ起き上った。タオル寝巻を脱いで、メリヤスのシャツを着て、その上から洗い立ての浴衣《ゆかた》を引っかけた。最前看護婦が、枕元に立てかけて行った、病院|備《そな》え付《つけ》の白木の松葉杖を左右に突っ張って、キマリわるわる廊下に出てみた。
 云う迄もなく、コンナ姿をして人中に出るのは、生れて始めての経験であった。だから扉《ドア》を締めがけに、片っ方の松葉杖の所置に困った時には、思わず胸がドキドキして、顔がカッカと熱くなるように思ったが、幸い廊下には誰も居なかったので、十歩も歩かないうちに、気持がスッカリ落ち着いて来た。
 私は生れ付きの瘠《や》せっぽちで、身軽く出来ている上に、ランニングの練習で身体《からだ》のコナシを鍛え上げていたので、松葉杖の呼吸を呑み込むくらい何でもなかった。敷詰《しきつ》めた棕梠《しゅろ》のマットの上を、片足で二十歩ばかりも漕《こ》いで行って、病院のまん中を通る大廊下に出た時には、もう片っ方の松葉杖が邪魔になるような気がしたくらい、調子よく歩いていた。その上に、久し振りに歩く気持よさと、持って生れた競争本能で、横を通り抜けて行く女の人を追い越して行くうちに、もう病院の大玄関まで来てしまった。
 その玄関は入院しがけに、担架《たんか》の上からチラリと天井を見ただけで、本当に見まわすのは今が初めてであった。花崗石《みかげいし》と、木煉瓦と、蛇紋石と、ステインドグラスと、白ペンキ塗りの材木とで組上げた、華麗荘重なゴチック式で、その左側の壁に「御見舞受付……歌原家」という貼札がしてある。その横に、木綿の紋付きを着た頑固そうな書生が二人、大きな名刺受けを置いたデスクを前にして腰をかけているが、その受付のうしろへ曲り込んだ廊下は、急に薄暗くなって、ピカピカ光る真鍮《しんちゅう》の把手《ノッブ》が四つ宛《ずつ》、両側に並んでいる。その一番奥の左手のノッブに白い繃帯が捲いてあるのが、問題の歌原未亡人の病室になっているのであった。
 私はそこで暫《しばら》く立ち止まっていた。ドンナ人間が歌原未亡人を見舞いに来るかと思ったので……けれどもそのうちに、受付係の書生が二人とも、ジロジロと私の顔を振り返り初めたので、私はさり気なく引返して、右手の廊下に曲り込んで行った。
 その廊下には、大きな診察室兼手術室が、会計室と、外来患者室と、薬局とに向い合って並んでいたが、その薬局の前の廊下をモウ一つ右に曲り込むと、手術室と壁|一重《ひとえ》になった標本室の前に出るのであった。
 私はその標本室の青い扉《ドア》の前で立ち止まった。素早く前後左右を見まわして、誰も居ない事をたしかめた。胸をドキドキさせながら、出来るだけ静かに真鍮の把手《ハンドル》を廻してみると、誰の不注意かわからないが、鍵が掛かっていなかったので、私は音もなく扉《ドア》の内側に辷り込む事が出来た。
 標本室の内部は、廊下よりも二尺ばかり低いタタキになっていて、夥《おびただ》しい解剖学の書物や、古い会計の帳簿類、又は昇汞《しょうこう》、石炭酸、クロロホルムなぞいう色々な毒薬が、新薬らしい、読み方も解らない名前を書いた瓶と一所に、天井まで届く数層の棚を、行儀よく並んで埋めている。そうしてソンナ棚の間を、二つほど奥の方へ通り抜けると、今度は標本ばかり並べた数列の棚の間に出るのであったが、換気法がいいせいか、そんな標本特有の妙な臭気がチットモしない。大小数百の瓶に納まっている外科参考の異類|異形《いぎょう》な標本たちは、一様に漂白されて、お菓子のような感じに変ったまま、澄明なフォルマリン液の中に静まり返っている。
 私はその標本の棚を一つ一つに見上げ見下して行った。そうして一番奥の窓際の処まで来ると、最上層の棚を見上げたまま立ち止まって、松葉杖を突っ張った。
 私の右足がそこに立っているのであった。
 それは最上層の棚でなければ置けないくらい丈《たけ》の高い瓶の中に、股《もも》の途中から切り離された片足の殆《ほと》んど全体が、こころもち「く」の字型に屈《かが》んだままフォルマリン液の中に突っ立っているのであった。それは最早《もう》、他の標本と同様に真白くなっていたし、足首から下は、棚の縁に遮《さえぎ》られて見えなくなっていたが、その膝っ小僧の処に獅噛《しが》み付いている肉腫の形から、全体の長さから、肉付きの工合なぞを見ると、どうしても私の足に相違なかった。そればかりでなく、なおよく瞳を凝《こ》らしてみると、その瓶の外側に貼り付けてある紙布《かみきれ》に、横文字でクシャクシャと病名らしいものが書いてある中に「23」という数字が見えるのは、私の年齢《とし》に相違無い事が直覚されたのであった。
 私はソレを見ると、心の底からホッとした。
 何を隠そう私は、これが見たいばっかりに、わざわざ病室を出て来たのであった。午前中に同室の青木だの、柳井副院長だのから聞かされた「足の幽霊」の話で、スッカリ神経を攪《か》き乱された私は、もう二度と「足の夢」を見まい……今朝《けさ》みたような気味のわるい「自分の足の幻影」にチョイチョイ悩まされるような事になっては、とてもタマラナイ……とスッカリ震え上がってしまったのであった。……のみならず私は、この上に足の夢を見続けていると、そのうちに副院長の話にあったような、片足の夢中遊行を起して、思いもかけぬ処へ迷い込んで行って、飛んでもない事を仕出《しで》かすような事にならないとも限らないと思ったのであった。……私たち兄妹《きょうだい》は、早くから両親に別れたし、親類らしい親類も別に居ないのだから、私の血統に夢遊病の遺伝性が在《あ》るかどうか知らない。しかし、些《すくな》くとも私は、小さい時からよく寝呆《ねぼ》ける癖があったので、今でも妹によく笑われる位だから、私の何代か前の先祖の誰かにソンナ病癖《びょうへき》があって、それが私の神経組織の中に遺伝していないとは、誰が保証出来よう。しかも、その遺伝した病癖が、今朝《けさ》みたような「足の夢」に刺戟《しげき》されて、極度に大きく夢遊し現われるような事があったら、それこそ大変である。否々《いないな》……今朝《けさ》から、あんな変テコな夢に魘《うな》されて、同室の患者に怪しまれるような声を立てたり、妙な動作をしたりしたところを見ると、将来そんな心配が無いとは、どうして云えよう。天にも地にもタッタ一人の妹に心配をかけるばかりでなく、両親がやっとの思いで残してくれた、無けなしの学費を、この上に喰い込むような事があったら、どうしよう。
 私は今後絶対に足の夢を見ないようにしなければならぬ。私は自分の右足が無いという事を、寝た間《ま》も忘れないようにしなければならぬ義務がある。
 それには取りあえず標本室に行って、自分の右足が立派な標本になっているソノ姿を、徹底的にハッキリと頭に印象づけておくのが一番であろう。
「貴方の足に出来ている肉腫は珍らしい大きなものですが……当病院の標本に頂戴出来ませんでしょうか。無論お名前なぞは書きませぬ。ただ御年齢《おとし》と病歴だけ書かして頂くのですが、如何《いかが》でしょうか……イヤ。大きに有り難う。それでは……」
 と院長が頭を下げて、特に手術料を負けてくれた位だから、キット標本室に置いて在るに違い無い。その自分の右足が、巨大な硝子筒《がらすとう》の中にピッタリと封じ籠《こ》められて、強烈な薬液の中に涵《ひた》されて、漂白されて、コチンコチンに凝固させられたまま、確かに、標本室の一隅に蔵《しま》い込まれているに相違無い事を、潜在意識のドン底まで印象させておいたならば、それ以上に有効な足の幽霊封じ[#「足の幽霊封じ」に傍点]は無いであろう。それに上越《うえこ》す精神的な「足禁《あしど》め」の方法は無いであろう。
 こう決心すると私は矢も楯《たて》もたまらなくなって、同室の青木が外出するのを今か今かと待っていたのであった。そうしてヤット今、その目的を遂《と》げたのであった。果して足の幽霊封じ[#「足の幽霊封じ」に傍点]に有効かドウカは別として……。

 私のこうした心配は局外者から見たら、どんなにか馬鹿馬鹿しい限りであろう。あんまり神経過敏になり過ぎていると云って、笑われるに違い無いであろう事を、私自身にも意識し過ぎるくらい意識していた。だから副院長に話したら訳なく見せてもらえるであろう自分の足の標本を、わざわざ人目を忍んで見に来た位であったが、しかし、そうした私の行動がイクラ滑稽《こっけい》に見えたにしても、私自身にとっては決して、笑い事ではないのであった。この不景気のさ[#「さ」に傍点]中《なか》に、妹と二人切りで、利子の薄い、限られた貯金を使って、ドウデモコウデモ学校を卒業しなければならないという、兄らしい意識で、いつも一パイに緊張して来た私は、もう自分ながら同情に堪《た》えないくらい神経過敏になり切っていた。妹に話したら噴《ふ》き出すかも知れないほど、臆病者になり切っていたのであった。それはもうこの時既に、逸早《いちはや》く私の心理に蔽《おお》いかかっていた、片輪者《かたわもの》らしいヒガミ根性のせいであったかも知れないけれども……。
 そう思い思い私は、変り果てた姿で、高い処に上がっている自分の足を見上げて、今一つホーッと溜息をした。
 その溜息はホントウの意味で「一足お先《さ》きに」失敬した自分の足の行方を、眼の前に見届けた安心そのもののあらわれに外《ほか》ならなかった。同時に、これからは断然足の夢を見まい……両脚のある時と同様に、快活に元気よくしよう……片輪者のヒガミ根性なぞを、ミジンも見せないようにして、他人《ひと》様に対しよう……放ったらかしていた勉強もポツポツ始めよう。そうして妹に安心させよう……と心の底で固く固く誓い固めた溜め息でもあった。
 私はアンマリ長い事あおむいて首が痛くなったので、頭をガックリとうつ向けて頸《くび》の骨を休めた。そのついでに、足下の棚の低い瓶の中に眠っている赤ん坊が、額《ひたい》の中央から鼻の下まで切り割られた痕《あと》を、太い麻糸でブツブツに縫い合わせられたまま、奇妙な泣き笑いみたような表情を凝固させているのを見返りながら、ソロソロと入口の扉《ドア》の前に引返《ひっかえ》した。そこで耳を澄まして扉《ドア》を開くと、幸い誰も居ない様子なので、大急ぎで廊下へ出た。そうして元来た道とは反対に、賄場《まかないば》の前の狭い廊下から、近道伝いに自分の室《へや》に帰ると、急にガッカリして寝台の上に這い上った。枕元に松葉杖を立てかけたまま、手足を投げ出して引っくり返ってしまった。

 久しく身体《からだ》を使わなかったせいか、僅かばかりの散歩のうちに非常に疲れてしまったらしい。私は思わずグッスリと眠ってしまった。しかし余り長く眠ったようにも思わないうちに眼を醒ますと、いつの間にか日が暮れていて、窓の外には青い月影が映っている。その光りで室《へや》の中も薄明《うすあか》くなっているが、青木はまだ帰っていないらしく、夜具を畳んだままの寝台の上に、私の松葉杖が二本とも並べて投げ出してある。大方、私が眠っているうちに看護婦が来て、室《へや》の掃除をしたものであろう。
 いったい何時頃かしらんと思って、枕元の腕時計を月あかりに透かしてみると驚いた……四時をすこしまわっている。恐ろしくよく寝たものだ。ことによると時計が違っているのかも知れないが、それにしても病院中が森閑《しんかん》となっているのだから、真夜中には違い無いであろう。とにかく用を足して本当に寝る事にしようと思い思い、もう一度窓の外を振り返ると、その時にタッタ今まで真暗《まっくら》であった窓の向うの特等病室の電燈が、真白に輝き出しているのに気が付いた。こっちの窓一パイに乱れかかっているエニシダの枝|越《ごし》に、白いドローンウォークの花模様が、青紫色の光明を反射さしているのがトテモ眩《まぶ》しくて美しかった。
 私はその美しさに心を惹かるるともなく、ボンヤリと見惚《みと》れていたが、そのうちに又、奇妙な事に気が付いた。
 気のせいか知れないけれども、病院中がヒッソリと寝鎮《ねしず》まっている中に、玄関の方向から特等室の前の廊下へかけては、何かしらバタバタと足音がしているようである。そう思って見ると、その特等室の眩《まぶ》しい電燈の光りまでもブルブルと震えているようで、人影は見えないけれども室《へや》の中まで何かしら混雑しているらしい気はいが感じられるようである。……もしかしたら歌原未亡人の容態が変ったのかも知れない……と思ううちに、どこか遠くからケタタマしく自動車の警笛《サイレン》が聞えて、素晴らしい速度《スピード》でグングンこっちへ近付いて来た。そうして間もなく病院の前の曲り角で、二三度ブーブーと鳴らしながらピッタリと止まった。……と思って見ているうちに、今度は特等室の電燈がパッと消えた。ドローンウォークの花模様のネガチブをハッキリと、私の網膜に残したまま……。
 その瞬間に……サテは歌原未亡人が死んだのだな……と私は直覚した。そうして……タッタ今死体を運び出して、自宅へ持って行くところだな……と考え付いた。
 私はそう考え付きながらタッタ一人、腕を組んで微笑した……が……しかし……ナゼこの時に微笑したのか自分でもよく解らなかった。多分、一昨日の夜中から昨日《きのう》の昼間へかけて、さしもに異常なセンセーションを病院中に捲き起した歌原未亡人……まだ顔も姿も知らないまんまに、私の悪夢の対象になりそうに思われて、怖くて怖くて仕様がなかったその当の本人が、案外手もなく、コロリと死んでしまったらしいので、チョット張り合い抜けがしたのが可笑《おか》しかったのであろう。それと同時に、介抱が巧く行かなかった当の責任者の副院長が、嘸《さぞ》かし狼狽しているだろうと想像した、嘲《あざけ》りの意味の微笑も交《まじ》っていたように思う。とにかくこの時の私が、妙に冷静な、悪魔的な気分になりつつ、寝台から辷り降りたことは事実であった。それから悠々と片足をさし伸ばして、寝台の下のスリッパを探すべく、暗い床の上を爪先で掻きまわしたのであったが、不思議な事に、この時はいくら探してもスリッパが足に触れなかった。私は昨日《きのう》が昨日《きのう》まで、片っ方しか要らないスリッパを、両方とも、寝台の枕元の左側にキチンと揃えておく事にしていたのだから、ドッチかに探り当らない筈は無いのであったが……。
 そんな事を考えまわしているうちに私は、何かしら、ドキンドキンとするような、気味のわるい予感に襲われたように思う。そうして尚も不思議に思い思い、慌てて片足をさし伸ばして、遠くの方まで爪先で引っ掻きまわしているうちに又、フト気が付いた。これは寝がけに松葉杖を突いて来たのだから、ウッカリして平生《いつも》と違った処にスリッパを脱いだものに違い無い。それじゃイクラ探しても解らない筈だと、又も微苦笑しいしい電燈のスイッチをひねったが……その途端に私はツイ鼻の先に、思いもかけぬ人間の姿を発見したので、思わずアッと声を上げた。寝台のまん中に坐り直して、うしろ手を突いたまま固くなってしまった。
 それは入口の扉《ドア》の前に突っ立っている、副院長の姿であった。いつの間に這入って来たものかわからないが、大方私がまだ眠っているうちに、コッソリと忍び込んだものであろう。霜降りのモーニングを着て、派手な縞のズボンを穿《は》いているが、鼻眼鏡はかけていなかった。髪の毛をクシャクシャにしたまま、青白い、冴え返るほどスゴイ表情をして、両手を高々と胸の上に組んで、私をジイと睨み付けているのであったが、その近眼らしい眩しそうな眼付きを見ると、発狂しているのではないらしい。鋭敏な理智と、深刻な憎悪の光りに満ち満ちているようである。
 臆病者の私が咄嗟《とっさ》の間《ま》に、これだけの観察をする余裕を持っていたのは、吾ながら意外であった。それは多分、眼が醒めた時から私を支配していた、悪魔的な冷静さのお蔭であったろうと思うが、そのまま瞬《またた》きもせずに相手の瞳を見詰めていると、柳井副院長も、私に負けない冷静さで私の視線を睨み返しつつ、タッタ一言、白い唇を動かした。
「歌原未亡人は、貴方《あなた》が殺したのでしょう」
「……………」
 私は思わず息を詰めた。高圧電気に打たれたように全身を硬直さして、副院長の顔を一瞬間、穴の明《あ》くほど凝視した……が……その次の瞬間には、もう、全身の骨が消え失せたかと思うくらい力が抜けて来た。そのままフラフラと寝床の上にヒレ伏してしまったのであった。
 私の眼の前が真暗になった。同時に気が遠くなりかけて、シイイインと耳鳴りがし初めた……と思う間もなく、私の頭の奥の奥の方から、世にもおそろしい、物すごい出来事の記憶がアリアリと浮かみ現われ初めた……と見るうちに、次から次へと非常な高速度でグングン展開して行った。……と同時に私の腋《わき》の下からポタポタと、氷のような汗が滴《したた》り初めた。
 それはツイ今しがた、私が起き上る前の睡眠中に起った出来事であった。
 私はマザマザとした夢中遊行を起しながら、この室をさまよい出て、思いもかけぬ恐ろしい大罪を平気で犯して来たのであった。しかも、その大罪に関する私の記憶は、普通の夢中遊行者のソレと同様に、夢遊発作のあとの疲れで、グッスリと眠り込んでいるうちに、あとかたもなく私の潜在意識の底に消え込んでしまっていたので、ツイ今しがた眼を醒ました時には、チットモ思い出し得ずにいたのであったが……そのタマラナイ浅ましい記憶がタッタ今、副院長の暗示的な言葉で刺戟されると同時に、いともアザヤカに……電光のように眼まぐるしく閃《ひら》めき現われて来たのであった。
 それは確かに私の夢中遊行に違い無いと思われた。

 ……フト気が付いてみると私は、タオル寝巻に、黒い革のバンドを捲き付けて、一本足の素跣足《すはだし》のまま、とある暗い廊下の途中に在る青ペンキ塗りの扉《ドア》の前に、ピッタリと身体《からだ》を押し付けていた。そうして廊下の左右の外《はず》れにさしている電燈の光りを、不思議そうにキョロキョロと見まわしているところであった。
 その時に私はチョット驚いた。……ここは一体どこなのだろう。俺は松葉杖を持たないまま、どうしてコンナ処まで来ているのだろう。そもそも俺は何の用事があってコンナペンキ塗りの扉《ドア》の前にヘバリ付いているのだろう……と一生懸命に考え廻していたが、そのうちに、廊下の外れから反射して来る薄黄色い光線をタヨリに、頭の上の鴨居《かもい》に取り付けてある瀬戸物の白い標札を読んでみると、小さなゴチック文字で「標本室」と書いてあることがわかった。
 それを見た瞬間に私は、私の立っている場所がどこなのかハッキリとわかった。……と同時に私自身を、この真夜中にコンナ処まで誘い出して来た、或るおそろしい、深刻な慾望の目標が何であるかという事を、身ぶるいするほどアリアリと思い出したのであった。
 私はソレを思い出すと同時に、暗がりの中で襟元をつくろった。前後を見まわしてニヤリと笑いながら、タオル寝巻の片袖で、手の先を念入りに包んで、眼の前の青ペンキ塗りの扉《ドア》に手をかけたが、昼間の通りに何の苦もなく開《あ》いたので、そのまま影法師のように内側へ辷り込んで、コトリとも云わせずに扉《ドア》を閉め切る事が出来た。
 向うの窓の磨硝子《すりガラス》から沁《し》み込む、月の光りに照らし出されたタタキの上は、大地と同様にシットリとして冷めたかった。私はその上を片足で飛び飛び、向うの棚の端まで行ったが、その端の方に並んでいる小さな瓶の群の中でも、一番小さい一つを取り上げて、中を透かしてみると、何も這入っていないようである。キルクの栓を開けて嗅《か》いでみても薬品らしい香気が全く無い。
 私はその瓶を片手に持ったまま、室の隅に飛んで行って、そこに取り付けてある手洗場の水でゆすぎ上げて、指紋を残さないように龍口栓《コック》の周囲まで洗い浄めた。それからその瓶を懐中《ふところ》に入れて、又も一本足で小刻みに飛びながら棚の向う側に来たが、ちょうど下から三段目の眼の高さの処に並んだ、中位の瓶の中でも、タッタ一つホコリのたかっていない紫色のヤツを両袖で抱え卸《おろ》して、月あかりに透かしてみると、白いレッテルに明瞭な羅馬《ローマ》字体で「CHLOROFORM」……「十ポンド」[#「十ポンド」は横書き]と印刷してあった。
 その瓶の中に七分通り満たされている透明な、冷たい麻酔薬の動揺を両手に感じた時の、私の陶酔《とうすい》気分といったら無かった。この気持ちよさを味わいたいために、私はこの計画を思い立つのだと考えても、決して大袈裟《おおげさ》ではないくらいに思った。
 私はその瓶を大切に抱えたまま、ソロソロと月明りの磨硝子《すりガラス》にニジリ寄った。窓の框《かまち》に瓶の底を載せて、パラフィンを塗った固い栓を、矢張り袖口で捉えて引き抜いた。顔をそむけながら、その中の液体を少し宛《ずつ》小瓶の中に移してしまうと、両方の瓶の栓をシッカリと締めて、大きい方を元の棚に返し、小さい方を内懐《うちぶところ》に落し込んだ……が……その濡れた小瓶が、臍《へそ》の上の処で直接に肌に触れて、ヒヤリヒヤリとするその気持ちよさ……。
 それから私はソロソロと扉《ドア》の処へ帰って来て、聴神経を遠くの方まで冴え返らせながら、ソット扉《ドア》を細目に開いてみると、相変らず誰も居ない。病院中は地の底のようにシンカンと寝静まっている。
 私の心は又も歓喜にふるえた。心臓がピクンピクンと喜び踊り出した。それを無理に押ししずめて廊下に出ると、ゼンマイ人形のようにピョンピョン飛び出したが、鍛えに鍛えた私の趾《あしゆび》の弾力は、マットを敷いた床の上に何の物音も立てないばかりでなく、普通人が歩くよりも早い速度で飛んで行くのであった。
 私の胸は又も躍った。
 片足の人間がコンナに静かに、早い速度で飛んで行けるものとは誰が想像し得よう。これは中学時代からハードルで鍛え上げた私にだけ出来る芸当ではなかろうか。これならドンナ罪を犯しても知れる気づかいは無いであろう。……逃げる早さだって女なぞより早いかも知れないから、自分の病室に帰って来て寝ておれば、誰一人気づかないであろう。……俺は片足を無くした代りに、ドンナ悪事をしても決して見付からない天分を恵まれたのかも知れない……なぞと考えまわすうちに、モウ玄関の処まで来てしまった。
 ……これは拙《まず》かった。こっちへ来てはいけなかった。やはり一先ず自分の病室に帰って、裏の廊下伝いに行かなければ……と私はその時に気が付いたが、そう思い思い壁の蔭からソッと首をさし伸ばしてみると、いい幸いに重症患者が居ないと見えて、玄関前の大廊下には人っ子一人影を見せていない。玄関の正面に掛かった大時計が、一時九分のところを指しながら……コクーン……コクーン……と金色の玉を振っているばかりである。
 その大きな真鍮《しんちゅう》の振り子を見上げているうちに、私の胸が云い知れぬ緊張で一パイになって来た。
 ……グズグズするな……。
 ……ヤッチマエ……ヤッチマエ……。
 と舌打ちする声が、廊下の隅々から聞えて来るように思ったので、我れ知らずピョンピョンと玄関を通り抜けて、向うの廊下のマットに飛び乗って行った。そうして昼間見た特等一号室の前まで来ると、チョットそこいらを見まわしながら、小腰を屈《かが》めて鍵穴のあたりへ眼を付けたが、不思議な事に鍵穴の向うは一面に仄白《ほのじろ》く光っているばかりで、室内の模様がチットモわからない。変だなと思って、なおよく瞳を凝《こ》らしてみると何の事だ。向う側の把手《ハンドル》に捲き付けてある繃帯の端ッコが、ちょうど鍵穴の真向うにブラ下がっているのであった。
 私はこの小さな失敗に思わず苦笑させられた。しかし又、そのお蔭で一層冷静に返りつつ、扉《ドア》の縁と入口の柱の間の僅かな隙間《すきま》に耳を押し当てて、暫《しばら》くの間ジットしていたが、室《へや》の中からは何の物音も聞えて来ない。一人残らず眠っている気はいである。
「一般の入院患者さん達よ。病院泥棒が怖いと思ったら、ドアの把手《ハンドル》を繃帯で巻いてはいけませんよ。すくなくとも夜中《やちゅう》だけは繃帯を解いて鍵をかけておかないと剣呑《けんのん》ですよ。その証拠は……ホーラ……御覧の通り……」
 とお説教でもしてみたいくらい軽い気持ちで……しかし指先は飽《あ》く迄も冷静に冴え返らせつつソーッと扉《ドア》を引き開いた。その隙間から室《へや》の中を一渡り見まわして、四人の女が四人ともイギタナイ眠りを貪《むさぼ》っている様子を見届けると、なおも用心深く室《へや》の中にニジリ込んで、うしろ手にシックリと扉《ドア》を閉じた。

 私は出来るだけ手早く仕事を運んだ。
 室《へや》の中にムウムウ充満している女の呼吸と、毛髪と、皮膚と、白粉《おしろい》と、香水の匂いに噎《む》せかえりながら、片手でクロロフォルムの瓶をシッカリと握り締めつつ、見事な絨毯《じゅうたん》の花模様の上を、膝っ小僧と両手の三本足で匍《は》いまわった。第一に、歌原男爵未亡人の寝床の側《そば》に枕を並べている、人相のよくないお婆さんの枕元に在る鼻紙に、透明な液体をポタポタと落して、あぐらを掻《か》いている鼻の穴にソーッと近づけた。しかし最初は手が震えていたらしく、薬液に濡れた紙を、お婆さんの顔の上で取り落しそうになったので、ヒヤリとして手を引っこめたが、そのうちにお婆さんの寝息の調子がハッキリと変って来たのでホッと安心した。同時にコレ位の僅かな分量で、一人の人間がヘタバルものならば、俺はチットばかり薬を持って来過ぎたな……と気が付いた。
 その次には厚い藁蒲団《わらぶとん》と絹蒲団を高々と重ねた上に、仰向けに寝ている歌原未亡人の枕元に匍《は》い寄って、そのツンと聳《そび》えている鼻の穴の前に、ソーッと瓶の口を近づけたが、何だか効果が無《なさ》そうに思えたので、枕元に置いてあった脱脂綿を引きち切って、タップリと浸《ひた》しながら嗅《か》がしていると、ポーッと上気《じょうき》していたその顔が、いつとなく白くなったと思ううちに、何だか大理石のような冷たい感じにかわって来たようなので、又も慌てて手を引っこめた。
 それから未亡人の向う側の枕元に、婦人雑誌を拡げて、その上に頬を押し付けている看護婦の前に手を伸ばしながら、チョッピリした鼻の穴に、夫人のお流れを頂戴させると、見ているうちにグニャグニャとなって横たおしにブツ倒れながら、ドタリと大きな音を立てたのには胆《きも》を冷やした。思わずハッとして手に汗を握った。すると又それと同時に、入口の近くに寝ていた一番若い看護婦が、ムニャムニャと寝返りをしかけたので、私は又、大急ぎでその方へ匍い寄って行って、残りの薬液の大部分を綿に浸《ひた》して差し付けた。そうしてその看護婦がグッタリと仰向けに引っくり返ったなりに動かなくなると、その綿を鼻の上に置いたままソロソロと離れ退《の》いた。……モウ大丈夫という安心と、スバラシイ何ともいえない或るものを征服し得た誇りとを、胸一パイに躍らせながら……。
 私は、その嬉しさに駆られて、寝ている女たちの顔を見まわすべく、一本足で立ち上りかけたが、思いがけなくフラフラとなって、絨毯の上に後手《うしろで》を突いた。その瞬間にこれは多分、最前から室《へや》の中の息苦しい女の匂いに混っている、麻酔《ますい》薬の透明な芳香に、いくらか脳髄を犯されたせいかも知れないと思った。……が……しかし、ここで眼を眩《ま》わしたり何かしたら大変な事になると思ったので、モウ一度両手を突いて、気を取り直しつつソロソロと立ち上った。並んで麻酔している女たちの枕元の、生冷《なまつめ》たい壁紙のまん中に身体《からだ》を寄せかけて、落ち付こう落ち付こうと努力しいしい、改めて室《へや》の中を見まわした。

 室《へや》のまん中には雪洞《ぼんぼり》型の電燈が一個ブラ下って、ホノ黄色い光りを放散していた。それはクーライト式になっていて、明るくすると五十|燭《しょく》以上になりそうな、瓦斯《ガス》入りの大きな球《たま》であったが、その光りに照し出された室内の調度の何一つとして、贅沢でないものはなかった。室《へや》の一方に輝き並んでいる螺鈿《らでん》の茶棚、同じチャブ台、その上に居並ぶ銀の食器、上等の茶器、金色《こんじき》燦然《さんぜん》たる大トランク、その上に置かれた枝垂《しだ》れのベコニヤ、印度《いんど》の宮殿を思わせる金糸《きんし》の壁かけ、支那の仙洞《せんとう》を忍ばせる白鳥の羽箒《はぼうき》なぞ……そんなものは一つ残らず、未亡人が入院した昨夜から、昨日《きのう》の昼間にかけて運び込まれたものに相違ないが、トテモ病院の中とは思えない豪奢《ごうしゃ》ぶりで、スースーと麻酔している女たちの夜具までも、赤や青の底眩《そこまば》ゆい緞子《どんす》ずくめであった。
 そんなものを見まわしているうちに、私は、タオル寝巻一枚の自分の姿が恥かしくなって来た。吾《わ》れ知らず襟元を掻き合せながら、男爵未亡人の寝姿に眼を移した。
 白いシーツに包んだ敷蒲団を、藁蒲団の上に高々と積み重ねて、その上に正しい姿勢で寝ていた男爵未亡人は、麻酔が利いたせいか、離被架《リヒカ》の中から斜《はす》かいに脱け出して、グルグル捲きの頭をこちら向きにズリ落して、胸の繃帯を肩の処まで露《あら》わしたまま、白い、肉付きのいい両腕を左右に投げ出した、ダラシない姿にかわっている。ムッチリした大きな身体《からだ》に、薄光りする青地の長襦袢《ながじゅばん》を巻き付けているのが、ちょうど全身に黥《いれずみ》をしているようで、気味のわるいほど蠱惑《こわく》的に見えた。
 その姿を見返りつつ私は電球の下に進み寄って、絹房《きぬぶさ》の付いた黒い紐《ひも》を引いた。同時に室《へや》の中が眩しいほど蒼白くなったが、私はチットも心配しなかった。病室の中が夜中に明るくなるのは決して珍らしい事ではないので、窓の外から人が見ていても、決して怪しまれる気遣いは無いと思ったからである。
 私はそのまま片足で老女の寝床を飛び越して、男爵未亡人の藁布団に凭《も》たれかかりながら、横坐りに坐り込んだ。胸の上に置かれた羽根布団と離被架《リヒカ》とを、静かに片わきへ引き除《の》けて、寝顔をジイッと覗き込んだ。
 麻酔のために頬と唇が白味がかっているとはいえ、電燈の光りにマトモに照し出されたその眼鼻立ち、青い絹に包まれているその肉体の豊麗さは何にたとえようもない。正《まさ》にあたたかい柔かい、スヤスヤと呼吸する白大理石の名彫刻である。ラテン型の輪廓美と、ジュー型の脂肪美と併せ備えた肉体美である。限り無い精力と、巨万の富と、行き届いた化粧法とに飽満《ほうまん》した、百パーセントの魅惑そのものの寝姿である……ことに、その腮《あご》から頸《くび》すじへかけた肉線の水々《みずみず》しいこと……。
 私はややもするとクラクラとなりかける心を叱り付けながら、未亡人の枕元に光っている銀色の鋏《はさみ》を取り上げた。それは新しいガーゼを巻き付けた眼鏡型の柄《え》の処から、薄っペラになった尖端《せんたん》まで一直線に、剣《つるぎ》のように細くなっている、非常に鋭利なものであったが、その鋏を二三度開いたり、閉じたりして切れ味を考えると間もなく、未亡人の胸に捲き付けた夥《おびただ》しい繃帯を、容赦なくブスブスと切り開いて、先ず右の方の大きな、まん丸い乳房を、青白い光線の下に曝《さら》し出した。
 その雪のような乳房の表面には、今まで締め付けていた繃帯の痕跡《あと》が淡紅色の海草のようにダンダラになってヘバリ付いていたが、しかし、私は溜息をせずにはいられなかった。
 この女性が、エロの殿堂のように唄われているのは、その比類の無い美貌のせいではなかった。又はその飽く事を知らぬ恋愛技巧のせいでもなかった。この女性が今までに、あらゆる異性の魂を吸い寄せ迷い込ませて来たエロの殿堂の神秘力は、その左右の乳房の間の、白い、なめらかな皮肌《ひふ》の上に在る……底知れぬ×××××と、浮き上るほどの××××××を、さり気なくほのめき輝かしているミゾオチのまん中に在る……ということを眼《ま》のあたり発見した私は、それこそ生れて初めての思いに囚《とら》われて、思わず身ぶるいをさせられたのであった。
 それから私は、瞬《またた》きも出来ないほどの高度な好奇心に囚《とら》われつつ、未亡人の左の肩から掛けられた繃帯を一気に切り離して、手術された左の乳房を光線に晒《さら》した。
 見ると、まだ※[#「※」は「火へん+欣」、第3水準1-87-48、64-5]衝《きんしょう》が残っているらしく、こころもち潮紅《ちょうこう》したまま萎《しな》び潰《つぶ》れていて、乳首と肋《あばら》とを間近く引き寄せた縫い目の処には、黒い血の塊《かたまり》がコビリ着いたまま、青白い光りの下にシミジミと戦《おのの》きふるえていた。
 私は余りの傷《いた》ましさに思わず眼を閉じさせられた。
 ……片っ方の乳房を喪った偉大なヴィナス……
 ……黄金の毒気に蝕《むし》ばまれた大理石像……
 ……悪魔に噛《か》じられたエロの女神……
 ……天罰を蒙《こうむ》ったバムパイヤ……
 なぞという無残な形容詞を次から次に考えさせられた。
 けれども、そんな言葉を頭に閃《ひら》めかしているうちに又、何とも知れない異常な衝動がズキズキと私の全身に疼《うず》き拡がって行くのを、私はどうする事も出来なくなって来た。この女の全身の肉体美と、痛々しい黒血を噛み出した乳房とを一所にして、明るい光線の下に晒《さら》してみたら……というようなアラレモナイ息苦しい願望が、そこいら中にノタ打ちまわるのを押し止《とど》めることが出来なくなったのであった。
 私はそれでもジッと気を落ち着けて鋏を取り直した。軽い緞子《どんす》の羽根布団を、寝床の下へ無造作に掴み除《の》けて、未亡人の腹部に捲き付いている黒繻子《くろじゅす》の細帯に手をかけたのであったが、その時に私はフト奇妙な事に気が付いた。
 それは幅の狭い帯の下に挟まっている、ザラザラした固いものの手触《てざわ》りであった。
 私はその固いものが指先に触れると、その正体が未《ま》だよくわからないうちに、一種の不愉快な、蛇の腹に触ったような予感を受けたので、ゾッとして手を引っこめたが、又すぐに神経を取り直して両手をさしのばすと、その緩《ゆる》やかな黒繻子の帯を重なったまま引き上げて、容赦なくブツリブツリと切断して行った。そうしてその下の青い襦袢の襟に絡まり込んでいる、茶革《ちゃがわ》のサック様のものを引きずり出したが、その二重に折り曲げられた蓋《ふた》を無造作に開いて、紫|天鵞絨《びろうど》のクッションに埋《うず》められた宝石行列を一眼見ると、私はハッと息を呑んだ。……生れて初めて見る稲妻色の光りの束……底知れぬ深藍色《しんらんしょく》の反射……静かに燃え立つ血色の焔《ほのお》……それは考える迄もなく、男爵未亡人の秘蔵の中でも一粒|選《え》りのものでなければならなかった。生命《いのち》と掛け換えの一粒一粒に相違なかった。
 私はワナナク手で茶革の蓋を折り曲げて、タオル寝巻の内懐《うちぶところ》に落し込んだ。そうしてジッと未亡人の寝顔を見返りながら、堪《たま》らない残忍な、愉快な気持ちに満たされつつ、心の底から押し上げるように笑い出した。
「……ウフ……ウフ……ウフウフウフウフウフ……」

 それから私がドンナ事を特一号室の中でしたか、全く記憶していない。ただ、いつの間にか私は一糸も纏《まと》わぬ素《す》っ裸体《ぱだか》になって、青白い肋《あばら》骨を骸骨のように波打たせて、骨だらけの左手に麻酔薬の残った小瓶を……右手にはギラギラ光る舶来の鋏を振りまわしながら、瓦斯《ガス》入り電球の下に一本足を爪立てて、野蛮人のようにピョンピョンと飛びまわっていた事を記憶しているだけである。そうしてその間じゅう心の底から、
「ウフウフウフ……アハアハアハ……」
 と笑い続けていた事を、微《かすか》に記憶しているようである……。……が……しかし、それは唯それだけであった。私の記憶はそこいらからパッタリと中絶してしまって、その次に気が付いた時には奇妙にも、やはり丸裸体《まるはだか》のまま、貧弱な十|燭《しょく》の光りを背にして、自分の病棟付きの手洗場の片隅に、壁に向って突っ立っていた。そうして片手で薄黒いザラザラした壁を押さえて、ウットリと窓の外を眺めながら、長々と放尿しているのであったが、その時に、眼の前のコンクリート壁に植えられた硝子《ガラス》の破片に、西に傾いた満月が、病的に黄色くなったまま引っかかっている光景が、タマラナク咽喉《のど》が渇いていたその時の気持ちと一緒に、今でも不思議なくらいハッキリと印象に残っているようである。
 私はその時にはもう、今まで自分がして来た事をキレイに忘れていたように思う。そうしてユックリと放尿してしまうと、電球の真下の白いタイル張りの上に投げ出してある白いタオル寝巻きと、黒い革のバンドを取り上げて、不思議そうに検《あら》ためていた事を記憶《おぼ》えている。……俺はドウしてコンナに丸裸になったんだろう……と疑いながら……。しかし私は子供の時分から便所に這入る時に限って、冬でも着物を脱いで行く習慣があったので、多分夢うつつのうちに、そうした習慣を繰り返したのだろうと考え付くと、格別不思議にも感じなくなったように思う。そうして別に深い考えも無しに、どこかへ汚れでも着いていはしないかと思って、一通り裏表を検《あらた》めて、バンドと一緒に二三度力強くハタイただけで、元の通りにキチンと着直した。それから片隅の手洗場のコックを捻《ねじ》って、勢よく噴《ふ》き出る水のシブキに噎《む》せかえりながら、ゴクゴクと腹一パイになるまで呑んだ。それから、そのあとで丁寧《ていねい》に手を洗ったのであったが、それとても平生よりイクラカ念入りに洗った位の事で、左右の掌《てのひら》には何の汚染《よごれ》も残っていなかったように思う。そうしてヤットコサと自分の室に帰ると、いつもの習慣通り、寝がけに枕元に引っかけておいた西洋手拭で、顔と手を拭いたが、その時にはもう死ぬ程ねむくなっていたので、スリッパを穿《は》かずに出かけていたことなぞは、ミジンも気付かないまま、倒れるように寝台に這い上ったのであった。

 私の記憶はここで又中絶してしまっている。そうしてタッタ今眼を醒ましても、まだその記憶を思い出さずにいた。……昼間からズーッと眠り続けたつもりでいたのであったが、そうした深い睡眠と、甚だしい記憶の喪失が、私の恐ろしい夢中遊行から来た疲労のせいであったことは、もはや疑う余地が無かった。しかも、そうしたタマラナイ、浅ましい記憶の全部を、現在眼の前で、副院長に図星《ずぼし》を差された一|刹那《せつな》に、電光のような超スピードで、ギラギラと恢復《かいふく》してしまった私は、もう坐っている力も無いくらい、ヘタバリ込んでしまったのであった。
 ……相手はソンナ実例を知りつくしている、医学博士の副院長である。私の行動を隅から隅まで、研究しつくして来ているらしい人間である。神の審判の前に引き出されたも同然である……。
 ……と……そんな事までハッキリと感付いてしまうと、私の腸《はらわた》のドン底から、浅ましい、おそろしい、タマラナイ胴ぶるいが起って来た。どうかして逃れる工夫は無いかと思い思い……その戦慄を押さえ付けようとすればする程、一層烈しく全身がわななき出すのであった。

       三

 その時に副院長の、柔かい弾力を含んだ声が、私の頭の上から落ちかかって来た。
「そうでしょう。それに違い無いでしょう」
「……………」
「歌原男爵夫人を殺したのは貴方に違い無いでしょう」
 私は返事は愚《おろか》、呼吸をする事も出来なくなった。寝台の上にひれ伏したまま胴震いを続けるばかりであった。
 副院長はソット咳払いをした。
「……あの特等室の惨事が発見されたのは、今朝《けさ》の三時頃の事です。隣家《となり》の二号室の附添《つきそい》看護婦が、あの廊下の突当りの手洗い場に行きかけると、あの室《へや》の扉《ドア》が開《あ》いて、眩《まぶ》しい電燈の光りが廊下にさしている。それで看護婦はチョット不思議に思いながら、室《へや》の中を覗いたのですが、そのまま悲鳴をあげて、宿直の宮原君の処へ転がり込んで来たものです。私はその宮原君から掛かった電話を聞くとすぐに、中野の自宅からタクシーを飛ばして来たのですが、その時にはもう既に、京橋署の連中が大勢来ていて、検屍《けんし》が済んでしまっておりましたし、犯人の手がかりを集められるだけ集めてあったらしいのです。ですから私は現場《げんじょう》に立ち会っていた宮原君から、委細の報告を聞いた訳ですが、その話によりますと歌原男爵未亡人はミゾオチの処を、鋭利なトレード製の鋏で十サンチ近くも突き刺されている上に、暴行を加えられていた事が判明したのです。それから入口の近くに寝ていた看護婦も、麻酔が強過ぎたために、無残にも絶息している事が確かめられましたが、その上に犯人は、未亡人が大切にしていた宝石|容《い》れのサックを奪って逃走している事が、間もなく眼を醒ました女中頭の婆さんの証言によって判明したのだそうです。
 ……しかし、犯人が、それからどこへドウ踪跡《そうせき》を晦《くら》ましたかという事は、まだ的確に解っていないらしいのです。……室《へや》の中には分厚い絨毯《じゅうたん》が敷いてあるし、廊下は到る処にマットが張り詰めてありますから、足跡なぞは到底、判然しないだろうと思われるのですが、しかし、それでも警察側では犯人が夕方から、見舞人か患者に化《ばけ》て、この病院の中に紛れ込んでいたもので、出て行きがけには、明け放しになっていた屋上庭園から、玄関の露台に降りて、アスファルト伝いに逃走したものと見込みを付けているらしく、そんな方面の事を看護婦や医員に聞いておりましたそうです。私が来ました時にも官服や私服の連中が、屋根の上から、玄関のまわりを熱心に調査していたようです。
 ……一方に歌原家からは、身内の人が四五人駈け付けて来ましたので、その筋の許可を得て、夫人の死体を引き渡したのが、今から約三十分ばかり前の事ですが……むろん確かな事はわかりませんけれども、その筋では、余程大胆な前科者か何かと考えているらしく、敷布団《しきぶとん》の血痕や、雪洞《ぼんぼり》型の電球|蔽《おお》いに附着しているボンヤリした血の指紋なぞを調べながら「おんなじ手口だ」と云って肯《うなず》き合ったり「田端だ田端だ」と口を辷《すべ》らしていた……というような事実を聞きました。チョウド一週間ばかり前のこと、田端で同じような遣《や》り口の後家さん殺《ごろし》があった事が、大きく新聞に書き立ててあったのですから、その筋では事によると、同じ犯人と睨《にら》んでいるのかも知れません。
 ……併し私はまだ、それでも不安心のように思っておりますうちに、丁度玄関で帰りかけている旧友の予審判事に会いましたので、私はいい幸いと思いまして、特に力強く証言しておきました。歌原未亡人がこの病院に這入ったのは、まだ昨夜の事で、新聞にも何も出ていないのだから、これは多分、兼ねてから未亡人を付け狙っていた者が、急に思い付いて実行した事であろうと思う。この病院の現在患者は、皆相当の有産階級や知識階級である上に、動きの取れない重症患者や、身体《からだ》の不自由な者ばかりで、こんな無鉄砲な、残忍兇暴な真似の出来るものは一人も居ない筈である……と……」
 私は頭をシッカリと抱えたまま、長い、ふるえた溜息をした。それは今の話を聞いて取りあえず、気が遠くなる程安心すると同時に、わざわざこんな事を私に告げ知らせに来ている、副院長の心を計《はか》りかねて、何ともいえない生々《なまなま》しい不安に襲われかけたからであった。……だから……私はそう気付くと同時に、その溜息を途中で切って、続いて出る副院長の言葉を聞き澄ますべく、ピッタリと息を殺していた。
「……新東さん。御安心なさい。貴方は私がオセッカイをしない限り、永久に清浄な身体《からだ》でおられるのです。すくなくとも社会的には晴天白日の人間として、大手を振って歩けるのです。……けれども貴方御自身の良心と同時に、私の眼を欺《あざむ》く事は出来ないのですよ。いいですか。……私は特一号室の出来事を耳にすると同時に、何よりも先に貴方の事を思い出しました。昨日の午前中に、貴方を回診した時の事を思い出したのです。あの夢遊病の話を聞いておられた貴方の、異様に憂鬱な表情を思い出したのです。そうして誰よりも先に貴方に疑いをかけながら、自動車を飛ばして来たのです。……そうして歌原未亡人の死体を家人に引き渡すとすぐに、病室の取片付《とりかたづ》け方を看護婦に命じて、新聞記者が来ても留守だと答えるように頼んでから、コッソリと裏廊下伝いにこの室《へや》に来て、貴方の寝台のまわりを手探りで探したのです。盗まれた茶皮のサックがどこかに隠して在りはしまいかと思って。
 ……ところで私は先ず第一に、あなたの枕元に在る、その西洋手拭いを掴んでみたのですが、果せる哉《かな》です。タッタ今手を拭いたように裏表から濡れておりました。貴方がズット以前から熟睡しておられたものならば、そんな濡れ方をしている筈はないのです。それから私は気が付いて、あの向うの二等病室づきの手洗い場に行ってみましたが、手洗い場の龍口栓《コック》は十分に締まっていない上に、床のタイルの上に水滴が夥《おびただ》しく零《こぼ》れておりました。多分貴方は、コンナ事は怪しむに足りない。よくある事だからと思って、故意《わざ》とソンナ風にして血痕を洗われたのかも知れませんが、私の眼から見るとそうは思われません。血痕という特別なものを、そこで洗い落された貴方が、貴方自身の心の秘密を胡麻化《ごまか》すためにそうされたので、頭のいい、技巧を弄《ろう》し過ぎた洗い方だとしか思われないのです。
 ……私はそれから正面に三つ並んでいる大便所を、一つ一つに開いてみましたが、あの一番左側の水洗式の壺の中に、キルクの栓が一個浮いているのを見逃しませんでした。マッチを擦《す》ってみると、その水の表面にはホコリが一粒も浮いていない。つまり最近に流されたものである事を確かめて、イヨイヨ動かす事の出来ない確信を得ました。貴方はあの特一号室から出て来て、この室《へや》に品物を隠された後《のち》に、あすこに行って手足の血痕を洗い落されました。そうして愚《おろか》にも、麻酔に使われた硝子《ガラス》の小瓶を、水洗式の壺に投げ込んで打ち砕いたあとで、水を放流されたまでは、誠に都合よく運ばれたのですが、その軽いコルクの栓が、U字型になっている便器の水堰《みずせき》を超え得ないで、烈しい水の渦巻きの中をクルクル回転したまま、又もとの水面に浮かみ上がって来るかどうかを見届けられなかったのは、貴方にも似合わない大きな手落ちでした。明日《あす》にも私が警官に注意をすれば、あの便所の中から瓶の破片を発見する事は、さして困難な仕事ではないだろうと思われます。……どうです。私がお話しする事に間違いがありますか」
 私は私の身体《からだ》の震えがいつの間にか止まっているのに気が付いた。そうして私が丸ッキリ知らない事までも、知っているように話す副院長の、不可思議な説明ぶりに、全身の好奇心を傾けながら耳を澄ましている私自身を発見したのであった。
 ……何だか他人の事を聞いているような気持になりながら……。

 その時に副院長は又一つ咳払いをした。そうして多少得意になったらしく、今迄より一層|滑《なめら》かに、原稿でも読むようにスラスラと言葉を続けた。
「……警察の連中はたしかに方針を誤っているのです。十中八九までこの事件を、強力犯《ごうりきはん》係の手に渡すに違い無いと思われます。その結果、この事件は必然的に迷宮に入って、有耶無耶《うやむや》の中《うち》に葬られる事になるでしょう。……しかし、かく申す私だけは、専門家ではありませんが、警察の連中に欠けている医学上の知識を持っている御蔭《おかげ》で、この事件の真相をタヤスク看破する事が出来たのです。この事件が当然智能犯係の手に廻るべきものである事を、一目で看破してしまったのです。
 ……この事件は時日が経過するに連れて、非常に真相のわかり難《にく》い事件になるでしょう。……何故かというとこの事件は、すくなくとも三重の皮を冠っているのですからね……その表面から見ると疑いも無い普通の強窃盗《ごうせっとう》事件ですが、その表面の皮を一枚めくって、事件の肉ともいうべき部分を覗いてみますと、極めて稀有《けう》な例ではありますが、夢遊病者が描き現わした一種特別の惨劇と見る事が出来るのです。夢中遊行者の行動は必ずしもフラフラヨロヨロとした、たよりのないものばかりに限られている訳ではありませんからね。普通人のようにシッカリした足取りで、普通人以上に巧妙な智慧を使って、複雑深刻を極めた犯罪を遂行《すいこう》する事があると、記録にも残っているくらいですが正《まさ》にその通りです。貴方は、貴方特有の強健な趾《あしゆび》と、アキレス腱の跳躍力を利用して、この事件を遂行されたに違い無いのです。あなた独得の明敏な頭脳と、スバラシク強健な足の跳躍力とを一緒にして、この惨劇を計画されたに相違無いのです。あなたは標本室の薬液を盗んで、四人の女を眠らせて、この兇行を遂げられたのです。そうして夫人の懐中《かみいれ》を奪って、この室《へや》に帰って、その懐中《かみいれ》を寝床の下に隠してから、知らぬ顔をして便所に行かれたのでしょう。そこで血痕を残らず洗い浄めた後《のち》に、初めて安心して眠られたのでしょう」
 私は又も、肋骨《あばらぼね》が疼《うず》き出す程の、烈しい動悸に囚われてしまった。今の今まで他人の事のように思って耳を傾けていた事件の説明が、急角度に私の方に折れ曲って来たので……そうして身動きも出来ない理詰《りづめ》の十字架に、ヒシヒシと私を縛り付け初めたので……。
「……貴方は最早《もう》、それで十分に犯罪の痕跡を堙滅《いんめつ》したと思っていられるかも知れませんが……しかし……もし……万が一にも私が、あの標本室に残された、貴方の重大な過失を発《あば》き立てたらドウでしょう。あなたが持って行かれた、あの小さな瓶のあとに残っている薄いホコリの輪と、クロロホルムの瓶の肩に、不用意に残された仔指《こゆび》らしい指紋の断片とを、司法当局の前に提出したらどうでしょう。……さもなくとも直接事件の調査に立ち会った宿直の宮原君が、警官から当病院内の麻酔薬の取扱方について質問された時に「それは平生《いつも》、標本室の中に厳重に保管してある。しかもその標本室の鍵は、この通り、宿直に当ったものが肌身離さず持っているのだから、盗み出される気遣《きづかい》は絶対に無い」と答えていなかったらどうでしょう。そればかりでなく、その後で、警官たちが他の調査に気を取られている隙《すき》に、宮原君が念のため先廻りをして、標本室の扉《ドア》に鍵が、掛かっているかどうかを確かめていなかったとしたら、どうでしょう。……あすこから麻酔薬を盗み出したものが確かにいる。……その人間の仔指《こゆび》の指紋はコレダという事を警官に突き止められたとしたら、ソモソモどんな事になったでしょうか」
「……………」
「……あなたはそれでも、すべてを夢中遊行のせいにして、知らぬ存ぜぬの一点張りで押し通されるかも知れませんね。又、司法当局も、あなたの平常の素行から推して、今夜の兇行を貴方の夢中遊行から起った事件と見做《みな》して、無罪の判決を下すかも知れませんネ。しかし……しかし、多分、その裁判には私も何かの証人として呼び出される事と思いますが……又、呼び出されないにしても、勝手に出席する権利があると思うのですが……その裁判に私が出席するとなれば、断じてソンナ手軽い裁判では済みますまいよ。どの方面から考えても、貴方は死刑を免れない事になるのですよ。……私は事件の真相のモウ一つ底の真相を知っているのですから……」
 ……私は愕然《がくぜん》として顔を上げた。
 私は今の今まで私の胸の上に捲き付いて、肉に喰い込むほどギリギリと締まって来た鉄の鎖が、この副院長の最後の言葉を聞くと同時に、ブッツリと切れたように感じたのであった。そうして吾《われ》を忘れて、まともに副院長の顔を見上げた……その唇にほのめいている意地の悪い微笑を……その額に輝いている得意満面の光りを、臆面もなく見上げ見下す事が出来たのであった。……事件の真相の底……真相の底……私の知らないこの事件の真相の奥底……と、二三度心の中《うち》で繰返してみながら……。そうして、
 ……この男は、まだこの上に、何を知っているのだろう……。
 と疑い迷っているうちに、又もグッタリと寝台の上に突っ伏して、重ね合わせた手の甲に額の重みを押し付けたのであった。ヘトヘトに疲れた気持ちと、グングン高まって来る好奇心とを同時に感じながら……。
 その時に副院長は、すこし音調を高くして言葉を継いだ。恰《あたか》も私を冷やかすかのように……。
「……あなたはエライ人です。あなたはこんな仕事に対する隠れたる天才です。あなたは昨日《きのう》の朝、足の夢を見られると同時に……そうしてあの有名な宝石|蒐集狂《しゅうしゅうきょう》の未亡人が、入院した事を聞かれると同時に、この仕事の方針を立てられたのです。……否……あなたはズット前から、何かの本で夢遊病の事を研究しておられたもので、足の夢を見られたというのも、あなたがこの事件に就いて計画された一つの巧妙なトリックだったかも知れないのです。
 ……その証拠というのは、特別に探すまでもありません。昨夜の出来事の全部が、その証拠になるのです。貴方は、あなたが遂行された歌原未亡人惨殺事件の要所要所に、夢遊病の特徴をハッキリとあらわしておられるのです。……雪洞《ぼんぼり》型の電燈の笠にボヤケた血の指紋をコスリ付けられたところといい、一等若い、美しい看護婦の唇の上に、わざとクロロフォルムの綿を置きっ放しにして、殺してしまわれた残忍さといい……その綿は馬鹿な警官が、大切な証拠物件として持って行ったそうですが……そのほか男爵未亡人の枕元に在った鼻紙と、その上に置いて在った硝子《ガラス》製の吸呑器《すいのみき》を蹴散《けち》らしたり、百|燭《しょく》の電燈を点《つ》けっ放《ぱな》しにして出て行ったり、如何にも夢遊病者らしい手落ちを都合よく残しておられます。その中でも特に、男爵未亡人の着物や帯をムザムザと切断したり、繃帯を切り散らして、手術した局部を露出したり、最後に又、その兇行に使用した鋏を、モウ一度深く胸の疵口《きずぐち》に刺し込んだまま出て行かれたりしているところは、百パーセントに夢中遊行者特有の残忍性をあらわしておられるのです。曾《かつ》て専門の書類でそんな実例を読んだ事のある私とても、この事件に対する貴方の準備行為を見落していたならば……ただ、事件そのものだけを直視していたならば、物の見事に欺かれていたに違い無いと思われるほどです。あなたの天才的頭脳に飜弄《ほんろう》されて、単純な夢遊病の発作と信じてしまったに違い無いと思って、人知れず身ぶるいをしたくらいです」
「……………」
「……どうです。私がこの以上にドンナ有力な証拠を握っているか、貴方にわかりますか。この惨劇の全体は、夢遊病の発作に見せかけた稀《まれ》に見る智能犯罪である。貴方の天才的頭脳によって仕組まれた一つの恐ろしい喜劇に過ぎないと、私が断定している理由がおわかりになりますか」
「……………」
「……フフフフフ。よもや知るまいと思われても駄目ですよ、私は何もかも知っているのですよ。……貴方は昨日の午後のこと、同室の青木君が外出するのを待ちかねて、この室《へや》を出られたでしょう。そうしてあの特一号室の様子を見に、玄関先まで来られたでしょう。それから標本室へ行って、麻酔薬の瓶が在るかどうかを確かめられたでしょう。貴方はあの標本室の中に、いろんな薬瓶が置いてあるのを前からチャント知っておられたに違い無いのです。……そうでしょう……どうです……」
「……………」
「……ウフフフフフ、私がこの眼で見たのですから、間違いは無い筈です。それは貴方の巧妙な準備行為だったのです。私があの時に、あなたの散歩を許さなければコンナ事にはならなかったかも知れませんが、貴方は巧みに偶然の機会を利用されたのです。そうしてこの犯行を遂《と》げられたのです」
「……………」
「……私の申上げたい事はこれだけです。私は決して貴方を密告するような事は致しません。私は貴方がW文科の秀才でいられる事を知っていますし、亡くなられた御両親の学界に対する御功績や、現在の御生活の状態までも、ある人から承って詳しく存じている者です。このような事を計画されるのは無理も無いと同情さえして上げているのです。ですからこそ……こうしてわざわざ貴方のために、忠告をしに来たのです」
「……………」
「……もう二度とコンナ事をされてはいけませんよ。人を殺すのは無論の事、かり初《そ》めにも貴重品を盗んだりされてはいけませんよ。貴方の有為な前途を暗闇にするような事をなすっては、第一あなたの純真な……お兄さん思いのお妹さんが可哀想ではありませんか。あの美しい、お兄様|大切《だいじ》と思い詰めておられる、可哀想なお妹さんの前途までも、永久に葬る事になるではありませんか」
 副院長は声を励《はげ》ましてこう云いながら、ポケットに手を突っ込んだ。そうして薄黒い懐中《かみいれ》みたようなものを取り出すと、掌《てのひら》の中で軽々と投げ上げ初めた。
「……いいですか。これはタッタ今、あなたの寝台のシーツの下から探し出した、歌原未亡人の宝石入りのサックです。この事件と貴方とを結び付ける最後の証拠です。同時に貴方の夢中遊行が断じて夢中[#「夢中」に傍点]の遊行[#「遊行」に傍点]ではなかった、極めて鋭敏な、且《か》つ、高等な常識を使った計画的な殺人、強盗行為に相違無かった事を、有力に裏書する証人なのです。もう一つ詳しく説明しますと、この中に在る宝石や紙幣の一つ一つを冷静に検査して行かれた貴方の指紋は、そのタッタ一ツでも間違いなく、貴方を絞首台上に引っぱり上げる力を持っているでしょう……それ程に恐ろしい唯一無上の証拠物件なのです。……ですから……コンナものを貴方が持っておられると大変な事になりますから、とりあえず私がお預かりして行くのです。もう間もなく、あの特等病室の汚れた藁蒲団《わらぶとん》を、人夫が来て片付ける筈ですから、その時に私が立ち会って、寝床の下から出て来たようにして報告しておいたらドンナものかと考えているところですが……むろんその前にこの中の指紋をキレイにしておかなければ何もなりませんが……ドチラにしても死んだ人には気の毒ですが、今更取返しが付かないのですから、後はこの病院の中から縄付きなどを出さないようにしなければなりません。すぐに病院の信用に響いて来ますからね……いいですか。……忘れてはいけませんよ。今夜の事はこの後《のち》ドンナ事があっても、二度と思い出してはいけない……他人に話してはならない。勿論お妹さんにも打ち明けてはいけません……という事を……」
 そう云ううちに副院長は、ジリジリと後しざりをした。そうして扉《ドア》のノッブに凭《よ》りかかったらしく、ガチャリと金属の触れ合う音がした。

 その音を聞くと同時に、ベッドの上にヒレ伏したままの私の心の底から、形容の出来ない不可思議な、新しい戦慄《せんりつ》が湧き起って、みるみる全身に満ちあふれ初めた。それにつれて私は奥歯をギリギリと噛み締めて、爪が喰い入る程シッカリと両手を握り締めさせられたのであった。
 しかし、それは最前のような恐怖の戦慄ではなかった。
 ……俺は無罪だ……どこまでも晴天白日の人間だ……
 という力強い確信が、骨の髄までも充実すると同時に起った、一種の武者振るいに似た戦慄であった。
 その時に副院長が後手《うしろで》で扉《ドア》のノッブを捻《ねじ》った音がした。そうして強《し》いて落ち付いた声で、
「……早く電燈を消してお寝《やす》みなさい。……そうして……よく考えて御覧なさい」
 という声が私を押さえ付けるように聞えた。
 途端《とたん》に私は猛然と顔を上げた。出て行こうとする副院長を追っかけるように怒鳴った。
「……待てッ……」
 それは病院の外まで聞えたろうと思うくらい、猛烈な喚《わ》めき声であった。そう云う私自身の表情はむろん解らなかったが、恐らくモノスゴイものであったろう。
 副院長は明かに胆《きも》を潰《つぶ》したらしかった。不意を打たれて度を失った恰好で、クルリとこっちに向き直ると、まだ締まったままの扉《ドア》を小楯《こだて》に取るかのように、ピッタリと身体《からだ》を寄せかけて突っ立った。電燈の光りをまともに浴びながら、切れ目の長い近眼を釣り上らして、瞬きもせずに私の顔を睨み付けた。
 その真正面《まっしょうめん》から私は爆発するように怒鳴り付けた。
「犯人は貴様だ……キ……貴様こそ天才なんだゾッ……」
 副院長の身体《からだ》がギクリと強直した。その顔色が見る見る紙のように白くなって来た。扉《ドア》のノッブに縋《すが》ったままガタガタとふるえ出していることが、その縞《しま》のズボンを伝わる膝のわななきでわかった。
 こうした急激の打撃の効果を、眼の前に見た私はイヨイヨ勢を得た。
 その副院長の鼻の先に拳固《げんこ》を突き付けたまま、片膝でジリジリと前の方へニジリ出した。
 ……と同時に洪水のように迸《ほとばし》り出る罵倒《ばとう》の言葉が、口の中で戸惑いし初めた。
「……キ……貴様こそ天才なのだ。天才も天才……催眠術の天才なのだ。貴様は俺をカリガリ博士の眠り男みたいに使いまわして、コンナ酷《むご》たらしい仕事をさせたんだ。そうして俺のする事を一々蔭から見届けて、美味《うま》い汁だけを自分で吸おうと巧《たく》らんだのだ。……キット……キットそうに違い無いのだ。さもなければ……俺の知らない事まで、どうして知っているんだッ……」
「……………」
「……そうだ。キットそうに違い無いんだ。貴様は……貴様は昨日《きのう》の正午《ひる》過ぎに、俺がタッタ一人で午睡《ひるね》している処へ忍び込んで来て、俺に何かしら暗示を与えたのだ……否《いや》……そうじゃない……その前に俺を診察しに来た時から、何かの方法で暗示を与えて……俺の心理状態を思い通りに変化させて、こんな事件を起すように仕向けたのだ。そうだ……それに違い無いのだ」
「……………」
 ……バタリ……と床の上に何か落ちる音がした。それは副院長の手から、床の上の暗がりに辷り落ちた、茶革の懐中《かみいれ》の音に相違無かった。
 しかし私はその方向には眼もくれなかった。のみならず、その音を聞くと同時にイヨイヨ自分の無罪を確信しつつ、メチャクチャに相手をタタキ付けてしまおうと焦燥《いらだ》った。
「……そうなんだ。それに違い無いのだ。俺に散歩を許したのは誰でもない貴様なんだ。標本室の扉《ドア》の鍵をコッソリと開《あ》けておいたのも貴様だろう、クロロフォルムの瓶をあすこに置いたのも貴様かも知れない。……男爵未亡人を凌辱《りょうじょく》したのも貴様に違い無い。そうして残虐を逞《たく》ましくして茶革の懐中《かみいれ》を奪って、俺の処へ……イヤ……イヤ……そうじゃない。そうじゃないんだ。……俺は決して嘘は云わない。俺は今夜偶然に夢中遊行を起したのだ。そうしてあの室《へや》に行って、四人の女を麻酔さして、未亡人の繃帯と帯とを切ったに違い無いのだ。けれども、それ以上の事は何もしていなかった……それ以上犯罪に属する仕事は……みんな貴様がした事なんだ。宿直員の話でも、その宝石に残っている俺の指紋の一件でも、ミンナ貴様の出まかせの嘘ッパチなんだ。貴様はただ偶然に、昨日《きのう》の昼間、標本室に這入って行く俺の姿を見付けたに過ぎないんだ。それから今夜も、歌原未亡人の容態を監視するつもりか何かで、この病院に居残っているうちに、又も偶然に、俺の夢中遊行を見付けたので、あとからクッ付いて来て様子を見届けているうちに思い付いて、スッカリ計画を立ててしまったのだ。そうして俺が出て行ったあとでソノ計画通りにヤッツケて、一切の罪を俺に投げかけて、俺の口を閉《ふさ》ごうという巧《たく》らみの下《もと》に、わざわざこの室《へや》まで押しかけて来て……イヤッ……ソ……そうじゃないんだッ……。そ……そんな事じゃないんだッ……」
 私は突然に素晴らしいインスピレーションに打たれたので、片膝を叩《たた》いて飛び上った。
 私は私自身が徹底的に絶対無限に潔白である事を、遺憾《いかん》なく証明し得るであろう、そのインスピレーションを眼の前に、凝視したまま、躍り上らむばかりに喚《わ》めき続けた。
「……オ……俺は何にもしていないんだ。昨日《きのう》の夕方からこの室《へや》を出ないんだぞッ……チ畜生ッ……コ……この手拭は貴様が濡らしたんだ。その茶革のサックも貴様が持って来たんだ。そうして貴様はやっぱり催眠術の大家なんだッ」
「……………」
「俺はこの事件と……ゼ絶対に無関係なんだ……。俺は貴様の巧妙な暗示にかかって、昨日《きのう》の午後から今までの間、この寝台の上で眠り続けていたんだ。そうして貴様から暗示された通りの夢を見続けていたんだ。夢遊病者が自分で知らない間《ま》に物を盗んだり、人を殺したりするという実例を貴様から話して聞かせられた……その通りの事を自分で実行している夢を見続けていたのだ。そうして丁度いい加減のところで貴様から眼を醒まさせられたのだ……それだけなんだ。タッタそれだけの事なんだ……」
「……………」
「しかも、そのタッタそれだけの事で、俺は貴様の身代りになりかけていたんだぞ。貴様がした通りの事を、自分でしたように思い込ませられて、貴様の一生涯の悪名《おめい》を背負い込ませられて、地獄のドン底に落ち込ませられかけていたんだぞ。罪も報《むく》いも無いまんまに……本当は何もしないまんまに……エエッ。畜生ッ……」
 私の眼が涙で一パイになって、相手の顔が見えなくなった。けれども構わずに私は怒鳴り続けた。
「……ええっ……知らなかった……知らなかった。俺は馬鹿だった。馬鹿だった。貴様が俺に夢遊病の話をして聞かせた言葉のうちに、こんなにまで巧妙な暗示が含まれていようとは、今の今まで気が付かなかった。エエッ……この悪魔……外道《げどう》ッ……」
 私はここ迄云いさすと堪《た》まらなくなって、片手で涙を払い除《の》けた。
 そうして、なおも、相手を罵倒すべく、カッと眼を剥《む》き出したが……そのままパチパチと瞬《まばた》きをして、唾液をグッと呑み込んだ。呆れ返ったように自分の眼の前を見た。
 いつの間に取り上げたものか、私の松葉杖の片ッ方が、副院長のクシャクシャになった髪毛《かみのけ》の上に振り翳《かざ》されている。二股になった撞木《しゅもく》の方が上になって、両手で握り締められたままワナワナと震えている。……その下に、全く形相の変った相手の顔があった。……放神したようにダラリと開いた唇、真赤に血走ったまま剥《む》き出された両眼、放散した瞳孔、片跛《かたびっこ》に釣り上った眉。額の中央にうねうねと這い出した青すじ……悪魔の表情……外道の仮面……。
 その上に振り上げられた松葉杖のわななきが、次第次第に細かい戦慄にかわって行った。今にも私の頭の上に打ち下されそうに、みるみる緊張した静止に近づいて行くのを私は見た。
 私はその杖の頭を見上げながら、寝床の上をジリジリと後《あと》しざって行った。片手をうしろに支えて、片手を松葉杖の方向にさし上げながら、大きな声を出しかけた。
「助けて下さア――イ」
 ……と……。けれどもその声は不思議にも、まだ声にならないうちに、大きな、マン丸い固りになって、咽喉《のど》の奥の方に閊《つか》えてしまった。
 ……何秒か……何世紀かわからぬ無限の時空が、一パイに見開いている私の眼の前を流れて行った。
 ………………………………………………。

「……お兄さま……お兄様、お兄様……オニイサマってばよ……お起きなさいってばよ……」
 ………………………………………………。
 ……私はガバと跳《は》ね起きた。……そこいらを見まわしたが、ただ無暗《むやみ》に眩《まぶ》しくて、ボ――ッと霞んでいるばかりで何も見えない。その眼のふちを何遍も何遍も拳固《げんこ》でコスリまわしたが、擦《こす》ればこする程ボ――ッとなって行った。
 その肩をうしろから優しい女の手がゆすぶった。
「お兄様ってば……あたしですよ。美代子ですよ。ホホホホホ。モウ九時過ぎですよ。……シッカリなさいったら。ホホホホホホ」
「……………」
「お兄様は昨夜《ゆうべ》の出来ごと御存じなの……」
「……………」
「……まあ呆れた。何て寝呆助《ねぼすけ》でしょう。モウ号外まで出ているのに……オンナジ処に居ながら御存じないなんて……」
「……………」
「……あのねお兄様。あのお向いの特等室で、歌原男爵の奥さんが殺されなすったのよ。胸のまん中を鋭い刃物で突き刺されてね。その胸の周囲《まわり》に宝石やお金が撒き散らしてあったんですって……おまけに傍《そば》に寝ていた女の人達はみんな麻酔をかけられていたので、誰も犯人の顔を見たものが居ないんですってさ」
「……………」
「……ちょうど院長さんは御病気だし、副院長さんは昨夜《ゆうべ》から、稲毛の結核患者の処へ往診に行って、夜通し介抱していなすった留守中の事なので、大変な騒ぎだったんですってさあ。犯人はまだ捕《つか》まらないけど、歌原の奥さんを怨《うら》んでいる男の人は随分多いから、キットその中《うち》の誰かがした事に違い無いって書いてあるのよ。妾《わたし》その号外を見てビックリして飛んで来たの……」
 妹の声が次第に怖《おび》えた調子に変って来た。
 するとその向うからモウ一つ大きな、濁《にご》った声が重なり合って来た。
「アハハハハハハ。新東さん。今帰りましたよ。あっしも号外を見て飛んで帰ったんです。ヒョットしたら貴方じゃあるめえかと思ってね、アハハハハハ。イヤもう表の方は大変な騒ぎです。そうしたら丁度玄関の処でお妹さんと御一緒になりましてね……ヘヘヘヘ……これはお土産ですよ。約束の紅梅焼です。お眼ざましにお二人でお上んなさい」
「……アラマア……どうも済みません。お兄さまってば、お兄さまってば、お礼を仰有《おっしゃ》いよ。こんなに沢山いいものを……まだ寝ぼけていらっしゃるの……」
「アハハハハ……ハ。又足の夢でも御覧になったんでしょう……」
「……まあ……足の夢……」
「ええ。そうなんです。足の夢は新東さんの十八番《おはこ》なんで……ヘエ。どうぞあしからずってね……ワハハハハハハハ」
「マア意地のわるい……オホホホホ……」
「…………………………………………」



底本:「夢野久作全集8」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年1月22日第1刷発行
底本の親本:「瓶詰地獄」春陽堂
   1933(昭和8)年5月15日発行
※本作品中には、今日では差別的表現として受け取れる用語が使用されています。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、あえて発表時のままとしました。(青空文庫)
入力:柴田卓治
校正:山本奈津恵
2001年6月16日公開
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