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超人鬚野博士
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)身上話《みのうえばなし》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)時速百二十|節《ノット》、

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)舶来最極上の骨灰[#「骨灰」に傍点]焼だ。
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   吾輩のこと

 ……何だ……吾輩の身上話《みのうえばなし》を速記にして雑誌に掲載するから話せ……と云うのか。
 フウム。それは話さん事もないが、しかし、選《よ》りに選って又、吾輩みたいなルンペン紳士……乞食と泥棒の間《あい》の子みたいな奴の話を、雑誌に公表する必要がドコにあるのかね。吾輩以上に立派な地位あり、名誉ある人間が、天の星の如く、地の砂の如く天下に充満しているではないか。そんな奴とは正反対に、どこにでも寝る、何でも着る、何でも喰う、地位とか、家柄とか、人格とかいうものが一つも無い点に於いて天下広しと雖《いえど》も、吾輩ぐらい不名誉な人間は無いだろう。そんな薄見《うすみ》っともない人間の話が問題になるのかね一体……エエ……何だと……?
 しかし吾輩はソンナにも有名なのかノー……。
 フーム。有名にも何にも「鬚野《ひげの》博士」の名前を知らない者は日本中にタダの一人も居ない。吾輩が日本に存在しているために英国も、米国も、露西亜《ロシア》も、日本に挑戦し得ないでいる。日露戦争以後に吾輩がドンナ科学的の発明を日本の軍部に提供して、ドンナ新鋭の武器を内々で取揃えさしているか判明《わか》らないから……成る程のう……それは事実だ。毛唐《けとう》の奴等もよく知っとるのう。日露戦争の時にヨッポド懲《こ》りたと見えてアラユル密偵《スパイ》を使って吾輩の身辺《みのまわり》を探らせているらしいてや。事によると現在、海軍で作りよる一人乗、魚形水雷《ぎょけいすいらい》ボートが吾輩の発明である事を探り出しとるかも知れんのう。ナアニ、饒舌《しゃべ》っても大丈夫だよ。毛唐が真似して作っても乗る奴が一匹も居る気遣いがないし、防禦《ぼうぎょ》の方法が全く無いんだからね。時速百二十|節《ノット》、航続距離二万|海里《かいり》と云ったら大抵わかるだろう。その動力が問題なんだからね。その動力が将来の日本軍のタンク、飛行機に十倍以上の能率を上げさせるんだから恐ろしいだろう。日本国民たるもの枕を高うして可なりだ。つまり吾輩の人格が、全人類を押え付けている……吾輩が、こうしてボロマントを着て、ハキダメから拾った片チンバの護謨《ごむ》靴を引きずって、往来をウロウロしている限り世界の外交界はこの「鬚野房吉《ひげのふさきち》博士」の存在を無視する訳に行かんと考えている……吾輩を目して新興日本のマスコット……松岡全権以上の偉人として恐れ戦《おのの》いていると云うのか……。
 アッハッハッハッハッ……宜しい。大いに宜《よろ》しい。気に入ったぞ。それでは一つ吾輩の正体を明らかにして全世界三十億の蛆虫《うじむし》共をパンクさせてくれるかな。とにかく向うの草原《くさばら》へ行こう。あの大きな土管の中で話そう。イヤイヤ。原稿料なんか一文も要らん。上等の日本酒と海苔《のり》と醤油があれば宜しい。鮠《はや》の生乾《なまび》が好きなんだが、コイツはちょっと無かろうて……。

   感化院脱出

 世間の奴はよく吾輩をキチガイキチガイというが、その位のことはチャンと考えているんだよ。吾輩の過去といったって極めて簡単だ。両親の名前や顔は勿論のことそんなものが居たか居なかったかすら知らないんだから多分、精神的にも物質的にも生れながらのルンペンなんだろう。孫悟空と同じに華果山《カカサン》の金の卵から生れた事だけは確実……だろうと思うんだが……アハハ洒落《しゃれ》じゃないよ。
 それから十四の年《とし》にO市の感化院を脱出《ぬけだ》して無一文で女郎買いに行った。ドッチも喜ぶ話だから多分、無料《ただ》だろうと思って行ったのが一生のアヤマリ。女郎屋の敷居を跨《また》がないうちに吾輩の帯際《おびぎわ》を捉まえて、グイグイと引っぱり戻した奴が居る。鯉のアタリよりもチット大きいなと思って振返ってみると、タッタ今表口に立って……イラッシャイイラッシャイをやっていた豚みたいな男だ。感化院を出がけに兄貴分から注意されて来た牛太郎《ぎゅうたろう》という女郎屋の改札|掛《がかり》はコイツらしい。聞いた通りに派手なダンダラの角帯《かくおび》を締めていやがる。
「オイ、兄さん。銭《ぜに》を持っているかね」
 と云ううちにその改札屋が吾輩の襟《えり》番号をジイッと見やがった時にはギョッとしたね。アンマリ気が急《せ》いていたもんだからウッカリして引剥ぐのを忘れていたもんだが、見破られたと思ったから吾輩はイキナリ焼糞《やけくそ》になってしまった。
「馬鹿。銭があったら嬶《かかあ》を持つワイ。感化院の房公《ふさこう》を知らんケエ」
 とタンカを切ってやったら牛太の奴吾輩の襟首を掴《つか》んでギューギューと小突きまわした。序《ついで》に拳固《げんこ》を固めて吾輩の横面《よこつら》を一つ鼻血の出る程|啖《く》らわしたから、トタンに堪忍袋の緒が切れてしまった。さもなくとも燃え上るようなホルモンの遣《や》り場に困っている吾輩だ。襟首を掴んでいる牛太郎の手の甲をモリモリと噛み千切《ちぎ》りざま、持って生まれた怪力でもって二十貫ぐらいある豚野郎を入口の塩盛《しおもり》の上にタタキ付けた。それから失恋のムシャクシャ晴しに、駈付けて来た二三人の人相の悪い奴を向うに廻わして、下駄を振上げているところへ、通りかかった角力取《すもうとり》の木乃伊《ミイラ》みたいな大きな親爺《おやじ》が仲に這入《はい》って止めた。止めたといってもその親爺が無言のまま、片手に吾輩の襟首を掴んで、喧嘩の中から牛蒡《ごぼう》抜きに宙に吊るしたまま下駄を穿《は》かしてくれたので万事解決さ。相手のゴロツキ連中もこの親爺の顔を知っていたと見えて、猫みたいにブラ下がっている吾輩に向ってペコペコお辞儀していたが、可笑《おか》しかったよ。
 それからその親爺に連れられて、そこいらの河ッ縁《ぷち》の綺麗な座敷に通されてみるとイヨイヨ驚いたね。その親爺が坐っていても吾輩の立っている高さぐらいあるんだ。どこで胴体が継足《つぎた》してあるんだろうと思って荒っぽい縞《しま》のドテラを何度も何度も見上げ見下した位だ。おまけにツルツル禿《はげ》の骸骨みたいに凹《へこ》んだ眼の穴の間から舶来のブローニングに似た真赤な鼻がニューと突出ている。左右の膝に置いた手が分捕《ぶんどり》スコップ位ある上に、木乃伊《ミイラ》色の骨だらけの全身を赤い桜の花と、平家蟹の刺青《ほりもの》で埋めているからトテモ壮観だ。向い合っているうちに無料《ただ》でコンナ物を見ちゃ済まないような気がして来た。
 そこで吾輩は生れて初めて鰻の蒲焼なるものを御馳走になったが、その美味《うま》かったこと。モウ吾輩は一生涯、この親分の乾児《こぶん》になってもいいとその場で思い込んでしまったくらい感激しちゃったね。
 それからポツポツ様子を聞いてみると、その木乃伊《ミイラ》親爺の商売は見世物師《みせものし》なんだそうだ。成程と子供心に感心|仕《つかまつ》ったね。
「ヘエ。オジサンが見世物になるのけエ」
 と訊いてやったら、義歯《いれば》を抓《つま》んでいた親爺が眼を細くしてニコニコした。ピストルの頭を分捕スコップで撫でまわしながら吾輩に盃を差した。
「……マアマア。そんげなトコロじゃ。どうじゃい小僧。ワシは軽業《かるわざ》の親分じゃが、ワシの相手になって軽業がやれるケエ」
「軽業でも、手品でも、カッポレでも都踊りでも何でもやるよ。しかしオジサン。力ずくでワテエに勝てるけえ」
「アハハハ。小癪《こしゃく》なヤマカン吐《つ》きおるな。木乃伊《ミイラ》の鉄五郎を知らんかえ」
「知らんがな。どこの人かいな」
「この俺の事じゃがな」
「ああ。オジサンの事かい」
「ソレ見い。知っとるじゃろ。なあ」
「知らんてや。他人のような気もせんケンド……ワテエは強いで。砂俵の一俵ぐらい口で啣《くわ》えて行くで……」
「ホオー。大きな事を云うな。その味噌ッ歯で二十貫もある品物が持てるものかえ」
「嘘やないで。その上に両手に一俵ずつ持ってんのやで……」
「プッ……小僧……酒に酔うてケツカルな」
「ワテエ。酒に酔うた事ないてや」
「そんならこの腕に喰付いてみんかい」
 木乃伊《ミイラ》の爺さん一杯機嫌らしく、片肌を脱いで二の腕を曲げて見せると、真四角い木賃宿《きちんやど》の木枕みたいな力瘤《ちからこぶ》が出来た。指で触《さわ》ってみると鉄と同じ位に固い。
「啖付《くいつ》いても大事ないかえ」
「歯が立ったなら鰻を今《も》一パイ喰わせる……アイタタタ……待て……待てチウタラ……」
 廊下を通りかかった女中が吃驚《びっくり》したらしく襖《ふすま》を開けたが、木乃伊《ミイラ》親爺の二の腕に付いてる濡れた歯型を見ると、呆気《あっけ》に取られたまま突立っていた。
 親爺は急いで肌を入れた上から二の腕を擦《さす》った。吾輩に喰付かれたが、嬉しいらしく女中を振返ってニコニコと笑った。
「……鰻を、ま一丁持って来い。それからお燗《かん》も、ま一本……恐ろしい歯を持っとるのう。ええそれから……そこで給金の註文は無いかや……」
「無いよオジサン。毎日鰻を喰べて、女郎買いに行かしてもらいたいだけや」
 木乃伊《ミイラ》親爺は口をアングリ開《あ》いたまま、眼をショボショボさせていたが、それで話がきまったらしかった。

   少年力持

 それから後《のち》、三四年ばかりの間、吾輩は毎日毎日、お祭りの見物の中で、生命《いのち》がけの芸当をやった。金ピカの猿股《さるまた》一つになった木乃伊《ミイラ》親爺の相手になって、禿頭《はげあたま》の上に逆立ちしたり、両足を捉まえて竹片《たけぎれ》みたいにキリキリと天井へ投げ上げられたり、バスケットボールみたいに丸くなって手玉に取られたりするのであったがトテモ面白かった。吾輩みたいな身体《からだ》を不死身と云うのだろう。イクラ遣り損なって怪我《けが》をしても痛くもなければ血も出ない上に、すぐに治癒《なお》る。見物の眼に決して止まらないから便利だ。しまいには木乃伊《ミイラ》親爺がヤケになったらしく、吾輩を掴まえて死ねかしの猛烈な芸当をやらせ続けたが、どうしても死なないので驚いているらしかった。
 そればかりじゃない。吾輩は別にタッタ一人で時間つなぎに少年|力持《ちからもち》をやった。自動車に轢《ひ》かれたり、牛の角を捉まえて押しくらをしたり、石ころを噛み割ったり、錻力《ぶりき》を引裂いたりする片手間に、振袖を着た小娘に化けて……笑っちゃいけない、これでも鬚《ひげ》を剃ると惚れ惚れするような優男《やさおとこ》だぞ……手品の手伝いみたいなものを遣っているうちに、困った事が出来た。
 ……というのはホカでもない。前にも云った通り、コツコツの木乃伊《ミイラ》親爺と、その頃まではまだ紅顔の美少年だった吾輩が組んで、大車輪で演出する死物狂いの冒険軽業が、吾輩の第一の当り芸であると同時に、この一座の第一の呼物であったんだが、その芸当の最中の話だ。毎日毎日一度|宛《ずつ》、芸当の小手調べとして親爺と揃いの金ピカの猿股を穿いた丸裸体《まるはだか》の吾輩が、オヤジの禿頭の上に逆立ちをする事になっていたんだが、そいつを毎日毎日繰返しているうちに、そのオヤジの禿頭のテッペンにタッタ一本黒い、太い毛がピインと生えているのに気が付いたもんだ。
 世の中というものは妙なものだね。その黒い毛の一本が、木乃伊《ミイラ》親爺の生命《いのち》の綱で、この一座の運命の神様だった事を、その時まで夢にも気付かなかった吾輩は、その毛を見るたんびに気になって気になって仕様がないようになった。第一いつ見ても真直にピインと垂直に立っているのが不思議で仕様がない。伸びもしなければ縮みもしない。波打ちも、倒おれも、折れも曲りもしないのだから癪《しゃく》に障《さわ》る。第二に、ほかの処に生えている毛はミンナ真白いのに、この毛一本だけが黒いのだから怪《け》しからん。まるで外国の廻わし者みたいな感じだ。最後に気に入らないのは、その毛の尖端《さき》が、ちょうど避雷針みたいに、吾輩の鼻の頭と真向いになっている事で、逆立ちをするたんびにその毛を見ると、鼻の頭が思わずズーンと電気に感じて来る。何だってこのオヤジはコンナ気まぐれな毛をタッタ一本、脳天の絶頂にオッ立てているのだろうと思うと、寝ても醒めても苦になって、イライラして仕様がなくなった。しまいには毎日一度|宛《ずつ》その禿頭の上で逆立ちするのが死ぬ程イヤになって来た。
 そこで吾輩はトウトウ決心をして或る日の事、幕前の時間を見計《みはか》らって木乃伊《ミイラ》親爺に談判してみた。
「親方。ほかの芸当なら何でも我慢するが、アノ親方のアタマの上の逆立ちだけは勘弁してくれんかい」
 親方は面喰らったらしかった。赤い鼻をチョット抓《つま》んで眼を丸くした。
「何で、そんげな事を云い出したんかい」
 吾輩は頭を掻《か》いた。マサカにタッタ一本の毛が恐ろしく、逆立ちが出来ないとは云えないからスッカリ赤面してしまった。
「何でチウ事もあらへんけんど……アレ位のこと……アンマリ見易《みやす》うて見物に受けよらんけに、止めとうなったんや」
「馬鹿奴《ばかめ》え。何を吐《こ》きくさる。ワレのような小僧に何がわかるか。あの逆立ちは芸当の小手調べチウて、芝居で云うたらアヤツリ三番叟《さんばそう》や。軽業の礼式みたようなもんやけに、ほかの芸当は止めてもアレだけは止める事はならん。それともこの禿頭が気に入らん云うのか」
 と云ううちにオヤジは渋臭い禿頭を吾輩の鼻の先に突付けて平手でツルリと撫でて見せた。それにつれて頭の上の黒い毛がピインと跳ね返って吾輩の鼻の頭に尖端を向けた。トタンに吾輩の全身がズウーンとして、お尻の割れ目がゾクゾクと鳥肌だって来た。
 吾輩は、思わずその禿頭を平手で押除《おしの》けた……と思ったが、気が付いた時には、楽屋の荒板の上に横たおしにタタキ付けられていた。アトから考えると親方の虫の居処《いどころ》がその日に限って日本一悪かったらしいね。
 それから間もなく二人は、満場の喝采を浴びて見物の前に跳り出た。むろんその時はタッタ今の経緯《いきさつ》も何も忘れて、僅かの時間、親方の頭の上で辛抱する気になっていたもんだが、その中《うち》に例の通り、禿頭の上で逆立ちをしてみると……妙だったね。
 その時の気持ばっかりは今から考えてもわからないんだが、アレが魔が差したとでもいうもんだろうかね。ツイ自分の鼻の先に突立っている毛の尖端《さき》を見ると、自分では毛頭ソンナ気じゃないのに、両手がジリジリと縮んで、赤茶色の禿頭肌《はげはだ》が吾輩の唇に接近して来た。そうして、やはり何の気もなく、その禿《はげ》のマン中の黒い毛を糸切歯の間にシッカリと挟んでグイと引抜いたもんだ。
「ギャアッ……ヤラレタッ……」
 と云う悲鳴がどこからか聞こえたように思ったが、全く夢うつつだったね。吾輩の小さな身体が禿頭の上から一間ばかり鞠《まり》のようにケシ飛んで、板張の上に転がっていた。ビックリして跳ね起きてみると、直ぐ眼の前のステージの上に、木乃伊《ミイラ》の親方がステキもない長大な大の字を描いて、眼を真白く剥《む》き出したまま伸びている。ゴロゴロと喘鳴《ぜんめい》を起していたところから考え合わせるとあの時がモウ断末魔らしかったんだがね。
 アトから聞いたところによると、親方の木乃伊《ミイラ》親爺は平生から吾輩を恐ろしい小僧だ恐ろしい小僧だと云っていたそうだ。感化院から出て来たばかりの怪物だから何をするか、わからない奴だ。気に入らないと俺の咽喉笛《のどぶえ》でも何でも啖《く》い切りかねないので、毎日毎日俺に手向い出来ない事を知らせるつもりで、思い切りタタキ散らしてやるんだが、実は恐ろしくて恐ろしくて仕様がないから、ああするんだ……と云っていたそうだが、してみると吾輩が毛の根をチクリとさせたのを親方は、吾輩が例の手で禿頭のマン中へカブリ付いたものと思ったらしいね。その後の医師の診断によると、老人の過労から来る、急激な神経性の心臓|痲痺《まひ》というのだったそうだが、実に意外千万だったね。そんな馬鹿な事がといったって、木乃伊《ミイラ》の親方は、総立ちの見物人と、楽屋総出の介抱と、吾輩の泣きの涙の中《うち》に、ホコリダラケの板張りの上で息を引取ったのだから仕方がない。
 ところで問題は、それからなんだ。楽屋に運び込まれた親方の死骸に取付いてオイオイ泣いているうちに、片っ方で仲間を集めてボソボソ評議していた拳固《げんこ》の梅という奴が、いつの間にか立上って来て、何も知らない吾輩の横っ面《つら》をガアンと一つ喰らわしたもんだ。このゲンコの梅という奴は、ずっと前に大人の力持をやって相当人気を博していたもんだが、アトから来た少年力持の吾輩に人気を渫《さら》われてスッカリ腐り込んでいた奴だ。むろん糞力《くそぢから》がある上に、拳固で下駄の歯をタタキ割るという奴だったから痛かったにも何にも、眼の玉が飛び出たかと思った位だった。だから、いつもの吾輩だったら文句無しに掴みかかるところだったが、親方の死骸を見て気が弱っていたせいだったろう、起上る力も無いまま茣蓙《ござ》の上に半身を起して、仁王立《におうだ》ちになっている梅公のスゴイ顔を見上げた。見ると吾輩の周囲には、梅をお先棒にした座員の一同が犇々《ひしひし》と立ちかかっている様子だ。これは前に一度見た事の在るこの一座のマワシといって一種の私刑《リンチ》だね。それにかける準備だとわかったから、吾輩はガバと跳ね起きて片頬を押えたまま身構えた。
「……ナ……何をするのけえ」
「何をするとは何デエ。手前《てめえ》が親方を殺しやがったんだろう」
「親方の頭のテッペンから血がニジンでいるぞ」
「あしこから小さな毒針を舌の先で刺しやがったんだろう。最前|殴《は》り倒おされた怨《うら》みに……」
「ソ……そんな事ねえ……」
「嘘|吐《こ》け。俺あ見てたんだぞ……」
 吾輩は実をいうとこの時に内心|頗《すこぶ》る狼狽《ろうばい》したね。タッタ今歯で引抜いた黒い毛は、どこかへ吐き出すか嚥込《のみこ》むかしてしまっている。よしんば歯の間に残っていたにしたところが、アンナ黒い毛がタッタ一本、親方の禿頭の中央《まんなか》に生《は》えている事実を知っていたものは、事によると吾輩一人かも知れないのだから、トテモ証拠になりそうにない。のみならずコンナ荒っぽい連中は一旦そうだと思い込んだら山のように証拠が出て来たって金輪際、承知する気づかいは無いのだから、吾輩はスッカリ諦らめてしまった。コンナ連中を片端《かたっぱし》からタタキたおして、逃げ出すくらいの事は何でもないとも思ったが、親方の死骸を見ると妙に勇気が挫《くじ》けてしまった。
「……ヨシ……文句云わん。タタキ殺してくんな。……その代り親方と一所に埋めてくんな」
「……ウム。そんなら慥《たし》かに貴様が親方を殺したんだな」
「インニャ。殺したオボエは無い」
「この野郎。まだ強情張るか……」
 と云ううちに、青竹が吾輩の横っ腹へピシリと巻付いた。
「警察へ渡す前に親方のカタキを取るんだ。覚悟しろ……」
「何をッ」
 と吾輩は立上った。親方のカタキという一言が吾輩を極度に昂奮させたのだった。
 鞭《むち》だの青竹だの丸太ん棒だの、太い綱だのが雨霰《あめあられ》と降りかかって来る下を潜った吾輩はイキナリ親方の死骸を抱え上げて、頭の上に差上げた。
「サア来い」
 これには一同面喰ったらしい。獲物《えもの》が無いと思ってタカを括《くく》っていた吾輩が、前代未聞のスゴイ武器を振り翳《かざ》したのだからね。一同が思わずワアと声を揚げて後《あと》へ退《さが》った隙《すき》に吾輩は、そこに積上げて在るトランクを小楯に取って身構えた。ドイツコイツの嫌いは無い。一番最初にかかって来た奴を親方の禿頭でタタキ倒おしてやろうと思っているところへ、思いがけない仲裁が現われた。

   未亡人に救われて

 それはこの頃、毎日のように正面の特別席の中央に陣取って、座員全部の眼に付いていたお客で、あれは西洋人だろうか、日本人だろうか……お嬢さんだろうか、それとも奥さんだろうかと問題のタネになっていたシロモノであったが、近付いて来たのを見ると、何というスタイルの洋装か知らないが、その頃では眼を驚かすハイカラであったろう。真赤な血のような色をした下着に、薄い、真黒い上服《うわふく》をピッタリと着込んで、丸い乳と卵型《たまごなり》のお尻をタマラナイ流線型にパチパチと膨《ふく》らましている。それが白い羽根付きの黒いお釜帽《かまぼう》からカールをハミ出させて、白靴下のハイヒールの上にスラリと反《そ》り返って、縁《ふち》無しの鼻眼鏡をかけたところは、ハンカチの箱から脱出《ぬけだ》して来たような日本美人だ。年は二十ぐらいに見えたが、実は二十五か六ぐらいだったろう。見物席からイキナリ駈上《かけあが》って来たらしく頬を真赤にしてセイセイ息を切らしていたが、吾輩が振翳《ふりかざ》している死骸なんかには眼もくれずに、ハンドバッグの中から分厚い札束を掴み出すと、みんなの鼻の先へビラビラさせて見せまわしながら、ニッコリと笑った。銀鈴のような嬌《なま》めかしい声を出したもんだ。
「……サア……皆さん。この坊ちゃんを妾《わたし》に売って頂戴。千円上げます。ちょうど今日中の上り高《だか》ぐらいあるでしょ。親方へ上げる妾の香奠《こうでん》よ。ね……いいでしょ……いけないの……。いいわ。どうしてもこの坊ちゃんを殺すと云うんなら、妾にも覚悟があるわ。御覧なさい。この小ちゃな七連発のオモチャに物を云わせますから……妾はこの坊ちゃんに惚れてるんですからね。そのつもりで話をきめて頂戴……サアサア。警察《サツ》が来ると話が元も子も無くなるわよ。サアサア。早いとこ早いとこ。オホホホホホ」
 みんなこの別嬪《べっぴん》さんに呑まれてしまったらしい。イツの間にかメイメイに持っていた獲物を取落していた。吾輩もソロッと親方の死骸を下して額の汗を拭いていた。
 こうなると話は早い。廿分と経たないうちに、金モール付《つき》赤ビロードの舞台服を着た吾輩は、今の別嬪さんと一緒に、その頃まで絶対に珍らしかった自動車に同乗して、どこか郊外の山道らしい処をグングンと走っていた。つまり吾輩はこの、日野亜黎子《ひのありこ》という金持の未亡人に買取られて、郊外の別荘に匿《かく》まわれて、その未亡人のハンドバッグボーイにまで出世したもんだ。禿頭のオモチャから一躍、別嬪のオモチャにまで出世した訳だね。
 イヤ、出世だよ。たしかに出世だよ。堕落じゃないよ。第一|昨日《きのう》までは毎日何度となくタタキ店の瀬戸物みたいに荒板の上にタタキ付けられていた奴が、今日は正反対に真綿《まわた》ずくめの椅子やクションの上でフワフワフワフワと下にも置かず歓待される訳だからね。人生は京の夢、大阪の夢だ。電光朝露《でんこうちょうろ》応作《おうさ》如是観《にょぜかん》だ。まあ聞け……そんな経緯《わけ》で吾輩は、その未亡人の手に付くと、お母さんだか妹だか訳のわからないステキな幸福に恵まれながら学問を教《おそ》わった。吾輩を立派な青年紳士に仕立てて見せるという未亡人の意気込みでね……何でもその日野亜黎子夫人の旦那様だった男は、日野|有三九《ゆうさく》という名前でチャチな探偵小説を書いて、巨万の富を積んだあげく、妻君の精力絶倫に白旗を揚げたような……そうして揚げたくないような神経衰弱の夢みたいなエタイのわからない遺書を書いてアダリン自殺を遂げた。自分が探偵小説になっちゃったというダラシのない男だったそうだが、そのお庭の片隅に立っている図書館の中には美事な寝室を作って、あらゆる科学書類、百科辞典、歴史、法律書、小説の類が山積していた奴を、吾輩は未亡人との恋愛遊戯の片手間に一字一句残らず暗記してしまったものだ。アベコベに未亡人を手玉に取ってやったワケだね。嘘だというなら大英百科全書《エンサイクロペジヤ・ブリタニカ》のドノ巻のドノ頁の第何行目に、何が書いてあるか質問してみろ。即答して見せるから……。ソレ見ろ……。
 そこで世界の大勢に通じた吾輩は科学なるものに非常な興味を感じたね。早速亜黎子未亡人に甘たれてその図書館の中に立派な実験室を作ってもらった。その実験室で吾輩は超越智《チョウエツチエ》という毛唐人が発見した脂肪の分解剤を逆に分解して、有効成分だけを取出し、そいつを応用して動植物の脂肪や油をドン底まで分析し、ダイナマイトに数十層倍する猛烈な液体火薬を作り出す事に成功した。
 その時は嬉しかったね。まるで世界を征服したような気持だった。あんまり嬉しかったもんだから吾輩はその爆薬の製法を極秘密の中《うち》に日野亜黎の名前で海軍省に投書した後《のち》に、その実際の効果を証明するために、その亜黎子未亡人と合意の上で爆薬情死を企ててやろうと考えたもんだ。むろんその時分には二人とも青春なんかドッカへ行っちゃって貧乏|屑屋《くずや》の股引《ももひき》みたいに、無意味に並んでいるだけの状態だったからね。吾輩の考えなんか知らない未亡人は、今の内閣と政党みたいに心中しましょうよ、しましょうよって毎日毎日うるさく吾輩に甘たれていたもんだから無論、異存は無かったろうよ。そこでその火薬の話を打ち明ける前に、取りあえず骨休めかたがた、吾輩は娑婆《しゃば》の見納めのつもりで或夕方のこと、下町のバアへ一杯飲みに行っているとその留守中に、その実験室が大爆発してしまったのには驚いたね。否《いや》。実験室どころじゃないんだ。二町四方もあるかと思っていた日野家の屋敷内に在る鉄筋|混凝土《コンクリート》の家作と立木なんかが、地の下数千坪の土砂や、女中や、自動車や、未亡人と一緒に大空に吹上げられてしまった……らしいんだ。その時分には酒場でグデングデンになって狸の睾丸《きんたま》の夢か何か見ていたもんだから吾輩は全く知らなかったんだ。
 むろん新聞に出ているよ。君等が生れない前の初号三段抜きだから、今で云ったら号外ものだろう。……亜黎子未亡人の前の夫、日野有三九という男は生前に非道《ひど》い神経衰弱にかかっていた者だが、自分の死後、精力絶倫の亜黎子夫人が必ず不倫の行跡に陥るべきを予想し、嫉妬の念に堪《た》えず、これに対する深刻な復讐の準備を整えていた。すなわち自分の建てた図書館内の豪華を極めた寝室に、自分の死後三年目の或る夜半に相違なく発火するように工夫した精巧な時計仕掛の爆薬を装置していたものであるが、そのような事実を夢にも知らなかった淫婦の亜黎子は、亡夫の予想通りに有名なる曲芸師の不良少年をその室《へや》に引っぱり込み不義の快楽に耽っていた結果、まんまと首尾よく亡夫の詭計《きけい》に引っかかったのが、この大爆発の真相に相違ないのである。敏腕を以て聞こえた当局も、流石《さすが》に斯様《かよう》な超特急の椿事《ちんじ》に遭遇しては呆然《ぼうぜん》として手の下しようもなく……云々……といったような事を筆を揃えて書立てていたが、流石《さすが》の吾輩もこの記事を見た時には文字通り呆然、唖然としてしまったね。日本の新聞記者が、これ程までに素晴らしい創作家だとはこの時まで気が付かなかったからね。
 ……ナアニ……あの実験室に立入る人間は亜黎子未亡人だけだからね。多分、彼女が吾輩の留守中に眼を醒まして、吾輩が作り溜めていた液体火薬に手を触れるかドウかしたんだろう。アルコールに溶いた甘ったるい、赤黄色い火薬を、ベルモットの瓶に詰めて、塩と氷に詰めて冷蔵しておいたんだから、事によると酒と間違えて未亡人が喇叭《ラッパ》を吹いたのかも知れない。そいつが腹の中の体温で発火してアレヨアレヨと驚くトタンに、三町四方の霊魂がフッ飛んだんだから思い残す事は無いだろう。もちろん吾輩もアンナに猛烈な炸裂力を持っていようとは思わなかった。分量が二倍の時には四倍の熱……四倍の時には二百五十六倍の高熱を発する事だけは知っていたがね。アトでその爆発の遺跡《あと》をコッソリと見に行った時には文字通り「人間万事夢だ」と思ったね。直径二三町、深さ二十間ぐらいの摺鉢形《すりばちがた》の穴が残っていただけだからね。それ以来何もかも夢だという事をハッキリ自覚した……女ばかりじゃない。人間万事が何一つ当てにならない事を自覚した吾輩は、越中褌《えっちゅうふんどし》の紐《ひも》が切れたみたいな人間になってしまった。する事|為《な》す事が、一つも手に附かない。面白くも可笑《おか》しくもないが、そうかといって死にたくも生きたくもないといったようなアンバイでブラリブラリやっている中《うち》に、イツの間にか現在の職業に転落して来ると又、世の中がチットずつ面白くなって来た。
 何しろ世間の人間が殆んど気附かないでいて、ステキに儲かる商売だからね。又気付いたにしたところが、滅多《めった》に手を出せる商売でもないんだがね。イイヤ。詐欺でも泥棒でも、乞食でも何でもない。そんな間《ま》だるっこいヘゲタレ商売とはタチが違うんだ。詐欺と泥棒と乞食の上を行く商売だ。毎日毎日往来を歩きながら、オール日本人の生命《いのち》の綱を握っていようという、警察でも大学でも吾輩の前には頭が上らない上に、毎日|美味《うま》い酒が飲めようというんだから大した商売だろう。
 ……そんなドエライ商売がどこに在るかって……ここに在るんだ。この破れマントのポケットの中に在るんだ。今見せてやろう。ホラこの通りだ。

   博士製造業

 何を隠そう。吾輩の職業というのは医学博士を製造するのが専門だ。
 笑っちゃイカン。世の中に何が気楽だといったって医学博士を製造する位ワケのない仕事は無いんだ。一人前の掏摸《すり》やテキ屋を作るよりもヨッポド容易《やさ》しい仕事なんだ。
 先《ま》ず博士の卵を探し出すんだ。博士の卵なんて滅多に居ないようだが、気を付けてみると虱《しらみ》の卵と同様、そこいらにイクラでも居るんだ。天下の青年、悉《ことごとく》博士の卵ならざるなしと云っていい位なんだ。
 その中でも理窟の強い奴の方が見込がある。何でも理窟の世の中だからね。「親は何故《なにゆえ》に吾々を生みたるや」ナンテいう余計な事を、一生懸命に考え詰めて、何でもカンでも理窟に合わせて終《しま》わないと鳥目だの、近眼《ちかめ》だの、神経衰弱になる位、熱心な奴ならイヨイヨ上等だ。
 その結果「親は面白半分に吾々を作りし者也」と解決を付けた奴は取敢えずアメリカあたりの文学博士になる奴で、「故に吾々は親に対して責任無し」と結論する奴はソビエット直輸入の赤い法学博士の卵だろう。「1×1=1」なるが如しと論ずる奴は多分の独逸《ドイツ》工学博士を含んだ卵で、「親は自分の老後を養わせむために吾々を生みし者也」と解釈する奴は仏蘭西《フランス》経済学博士の輸入卵と思えばいい。「その理由を発見する能《あた》わず」と叫ぶ奴はソックリそのままイギリスの哲学博士で、従って「結婚の生理的結果也」と感付いた奴が、最有力な日本の医学博士の雛《ひよ》ッ子になる訳だ。
 そんな奴に「人間に喰付かれた犬は如何なる病気を感染するか」とか「猫の失恋ヒステリーの治療法|如何《いかん》」とかいったような問題と一緒に、数十匹の犬や猫を宛《あ》てがっておくと大抵、半年、乃至《ないし》、三年ぐらいで解決して来る。「人間に喰付かれた犬は泥棒犬になる」とか「三味線に張って猫ジャ猫ジャを弾く」とかいう論文を提出して博士になる。
 ナアニ、吾輩が論文を書いてやるんじゃないよ。その研究用の犬や猫を提供するのが吾輩の本職なんだ。イヤ、笑いごとじゃないよ。そこいらの大学や医学校なんか吾輩が居なくなったら、忽《たちま》ち一切の研究が停止するんだから大したもんだろう。
 その犬や猫をどこから仕入れて来るかって。アハハ。仕入れて来るといえば立派だが、実をいうと拾って来るんだ。往来の廃物を拾い集めて、博士製造の材料に提供する商売だから非常な国益だろう。むろん鑑札も免状も、税金も何も要らない。商売往来にも何も無い。天下御免の国益事業だ。
 もちろんこの商売を公認させるには相当の骨を折っている。この商売を初めてから間もなく、警察へ引っぱられて調べられた事がある。
「イクラ無鑑札の犬でも、持主の承諾を経ないで掻《か》っ浚《さら》いをするのは怪《け》しからんじゃないか」
 とか何とか、お説教じみた事を吐《ぬ》かしおったから吾輩、一杯景気で、逆襲を喰わせてやった。
「利いた風な事を云うな。日本の警察はまだまだズッと大きな罪悪を見逃がしているんだぞ。彼《か》の活動写真屋を見ろ。あんな映画を一本作るために、映画会社が何人の男女優を絞め殺したり、八ツ切《ぎり》にしたりしているか知っているか。しかもその俳優たちは、みんな町から拾って来た良家の子女ばかりじゃないか。まして況《いわ》んや彼《か》の議会を見ろ。何百の議員の首を絞めたり、骨を抜いたり、缶詰にしたりして富国強兵の政策を決議させる。その議員というのは政党屋が、全国各地方から拾い上げて来た我利我利亡者《がりがりもうじゃ》ばかりじゃないか。吾輩が、町から拾って来た動物のクズを殺して、博士を作るくらいが何だ」
 とか何とか煙《けむ》に巻いて帰って来たが、妙なものでソレ以来スッカリ警察と心安くなってしまったもんだ。
 見たまえ。この通りマントの袖の内側全部が袋になっている。これは吾輩が自身にボロ布《ぎれ》を拾って来て縫付けたもので、このポケットは木綿の手織縞《ておりじま》だ。こっちの大きいのは南洋|更紗《さらさ》の風呂敷で、こっちのは縮緬《ちりめん》だから二枚重ねて在る。これが吾輩独特のルンペン犬の移動アパートなんだ。
 このアパート・マントを一着に及んで、これもこの通り天井に空気|抜《ぬき》の付いた流行色の山高帽を冠《かむ》って、片チンバのゴム長靴を穿《は》いてブラリブラリと市中を横行していたら、いい加減時代|後《おく》れの蘭法《らんぽう》医師ぐらいには見えるだろう。ナニ、モット恐ろしい人間に見える。
 フーム。天幕《テント》を質に置いたカリガリ博士。書斎を持たないファウストか。アハハ。ナカナカ君は見立てが巧いな。吾輩を魔法使いと見たところが感心だ。
 いかにも吾輩が犬を拾う時の腕前は、たしかに魔法だね。到る処の往来にチョコチョコしている仔犬だの、前脚に顎《あご》を乗っけて眠っている犬なぞを、通っている人間が気付かない中《うち》にサッと引掴んで、電光石火の如くこのマントの内側の袋アパートへ掴み込むんだ。
 知っているかも知れないが犬の首ッ玉を掴むには一つの秘伝があるんだ。これは熟練すると何でもないがね。犬の首ッ玉の耳の背後《うしろ》よりも少し下った処……八釜《やかま》しく云うと七個《ななつ》在る頸骨《けいこつ》の上から三つ目ぐらいの処をチョイト抓《つま》むと、ドンナ猛犬でも頭がジインとなって、この人にはトテモ敵《かな》わない。絶対服従といったような気分になるらしいね。眼を細くしてチョイと麻酔したような恰好《かっこう》で、気持よさそうに手足をダラリと垂れる。心安いブルドッグか何かを相手にして実験してみたまえ。殊に医学の実験用に使う犬だったら、そんなに大きな犬でなくて良《い》いのだから訳はないよ。そこを抓むと気持がいいと見えて、啼きもどうもしないからね。
 ところでこのアパートへ這入《はい》ると別に看板をかけている訳ではないが、長い間の老舗《しにせ》の臭いがするらしく、犬の奴が安心すると見えてワンとも云わないでジッとしている。仔犬なんかだと、別れたお母さんの臭いでもするんだろう。クンクン啼出《なきだ》す事もあるが決して出て行こうとしないから安心だ。電車に乗っても発覚しない事が実験済みなんだから平気なもんだよ。
 そんな訳で町から町をブラブラして手に入れた犬を大学や医学校へ持って行くと、博士の卵が待ちかねていて、一匹八十銭から二円五十銭ぐらいで買ってくれる。平均すると衛生学部が一番高価くて、生理や解剖が一番安いようだ。これは衛生学部だと狂犬病の実験に供して、高価《たか》い予防注射液を作る資本にするから、割に合うので、生理や解剖だと切積《きりつも》った研究費で博士になろうと思っている筍《たけのこ》連中が、単なる使い棄てに使うつもりだからだろう。勿論、学生上りだからといったって馬鹿には出来ない。相当、足元を見る奴が居るので油断が成らないが、非道《ひど》い奴になると吾輩を乞食扱いにして値切る奴が居る。
「オイ、鬚野《ひげの》先生。三十銭に負けとき給え、ドウセ無料《ただ》で拾って来たんだろう」
 そんな奴には、よく犬コロをタタキ附けてやったもんだ。横面《よこっつら》を引っ掻かれたり、眼鏡を飛ばされたりして泣面《なきっつら》になって謝罪《あやま》る奴も居た。
「篦棒《べらぼう》めえ。無代《ただ》で呉れてやるから無代で博士になれ。その代り開業してから診察料を取ったら承知しねえぞ」

   天狗猿教授

 ……どうしてソンナ奇抜な商売を思い付いたかって云うのか。ナアニ、吾輩が発明したんじゃない。向うから発明してくれたんだ。
 前にも話した通り吾輩は、パトロンの有閑未亡人|亜黎子《ありこ》さんの爆発昇天後、世の中が紐《ひも》の切れた越中褌《えっちゅうふんどし》みたいにズッコケてしまって何をするのもイヤになった。毎日毎日どこを当てどもなく町中をブラブラして、料理屋のハキダメを覗きまわったり、河岸縁《かしっぷち》の蟹《かに》と喧嘩したり、子供の喧嘩を仲裁したり、溝《どぶ》に落ちたトラックを抱え上げてやったりしているうちに或日の事、大学校の構内へ迷い込んだ。吾輩これでも亜黎子未亡人のお蔭で、世界有数の大学者になっているんだから、学問の臭いを嗅《か》ぐとなつかしい。どこかで学者らしい奴にめぐり会わないかなあ、会ったら一つ凹《へこ》ましてやりたいがなあ……なんかと考えながら来るともなく法医学部の裏手に来ると、紫陽花《あじさい》の鉢を置いた窓から吾輩を呼び止めた奴がある。
「オイ君君……君……ちょっと……」
 見ると相当の老人だ。顔が天狗猿《てんぐざる》みたいに真赤で、頭の毛がテリヤみたいに銀色に光っている奴をマン中から房々《ふさふさ》と二つに別けている。太眉《ふとまゆ》が真黒で髯《ひげ》は無い。そいつが鼻眼鏡をかけて白い服を着て、紫陽花の横から半身を乗出したところは何となく妖怪じみている。処女見たいな眼を細くして金歯をキラキラ光らしているから一層、気味が悪い。一見して容易ならぬ学者だという事がわかる。
「……君……一つ頼みたい事があるんだが」
 学者だけに常識が無いらしい。初対面の人間に物を頼むのに、窓越しに頼むという法は無い。吾輩も腕を組んだまま、振返って返事してやった。
「何の御用ですか」
 天狗猿がニッコリと笑った。
「君は実験用の犬屋だろう」
 吾輩は面喰らった。そんな商売が在る事を、その時がその時まで知らなかったもんだから思わず自分の姿を見まわした。成る程、煙突の掃除棒みたいな頭に底の無いカンカン帽を冠《かぶ》っている。右の袖の無い女の単物《ひとえもの》の上から、左の袖の無い男浴衣を重ねて、縄の帯を締めている。河岸の石垣の上から穿《は》いて来た赤い鼻緒の日和下駄《ひよりげた》を穿いているが、これはどうやら身投《みなげ》女の遺留品らしい。成る程、実験用の犬屋というものはコンナ姿のもんかなと思ったから黙ってうなずいた。天狗猿もうなずいてポケットを探りながら半分ばかり残っている朝日の袋とマッチを差出した。
「吸わんかね……君……」
「呉れるんですか」
「うん。君は好きだろう。歯が黒い」
 吾輩は気味が悪くなった。天狗猿の奴、吾輩を呑込んでいるらしい。
「まあ御用を承ってからにしましょう」
「アハハ。恐ろしく固苦しいんだね君は……ほかでもないがね。実は今まで僕の処に出入りしていた実験用の犬屋君が死んじゃったんだ。腸チブスか何かでね。おかげで実験が出来なくなって困っているのは僕一人じゃないらしいんだ。本職の犬殺し君に頼んでもいいんだが、生かして持って来るのが面倒臭いもんだから高価《たか》い事を吹っかけられて閉口しているんだ。君一つ引受けてくれないか。往来から拾って来るんだから訳はないよ。一匹一円平均には当るだろう。猫でもいいんだが……」
「つまり犬殺しの反対の犬生かし業ですね」
「まあ……そういったようなもんだが立派な仕事だよ。往来の廃物を利用して新興日本の医学研究を助けるんだからね。君が遣ってくれないと困るのはこの大学ばかりじゃないんだ。向うの山の中に在る明治医学校でも実験用の動物を分けてくれ分けてくれってウルサク頼んで来ているんだからね。大した国益事業だよ」
 吾輩は天狗猿の口の巧いのに感心した。丸い卵も切りようじゃ四角、往来の犬拾いが新興日本の花形なんだから物も云いようだ。
「やってみてもいいですが、資本が要りますなあ」
「フウン……資本なんか要らん筈だがなあ」
「要りますとも……犬に信用されるような身姿《みなり》を作らなくちゃ……」
「アハハ、成る程……どんな身姿かね」
「二重マントが一つあればいいです。それに山高帽と、靴と……」
「恰度《ちょうど》いい。ここに僕の古いのがある。コイツを遣ろう」
 と云ううちに最早《もう》、古山高と古マントと古靴を次から次に窓から出してくれたので、流石《さすが》の吾輩も少々|煙《けむ》に巻かれた。
「洋傘《こうもり》は要らんかね」
「モウ結構です。先生のお名前は何と仰言《おっしゃ》るのですか」
「僕かね。僕は鬼目《おにめ》という者だ。この法医学部を受持っている貧乏学者だがね」
 吾輩は思わず貰い立ての山高帽を脱いだ。鬼目博士の論文なら嘗《かつ》て亜黎子未亡人の処で読んだ事がある。その頃まで、三十年前頃までは、微々として振わなかった日本の法医学界に、指紋と足痕《あしあと》の重要な研究を輸入した科学探偵の大家だ。
「学界のためだ。シッカリ奮闘してくれ給え。君を見込んで頼むんだ」
「しかし……しかし……」
「しかし何だい。まだ欲しいものがあるかい」
「イヤ、先生はドウして僕が、この仕事に適している事をお認めになったんですか」
「アハハ、その事かい。それあ別に理由《わけ》は無いよ。君の過去を知ってるからね」
「エッ、僕の過去を……」
「僕は度々君の軽業を見た事があるんだよ。君がドコまで不死身なのか見届けてやろうと思ってね。毎日毎日オペラグラスを持って見に行ったもんだよ。だから君があの木乃伊《ミイラ》親爺を殺したホントの経緯《いきさつ》だって知っているんだよ。あの未亡人を爆発させた火薬と、バルチック艦隊を撃沈した火薬が、同しものだってことも察しているんだよ。ハハハ」
 吾輩は聞いているうちに全身が汗ビッショリになった。コンナ頭のいい恐ろしい学者が人間世界に居ようとは夢にも思わなかったので今一度シャッポを脱いで窓の前を退散した。
 人生意気に感ず。武士は己《おのれ》を知る者のために死すだ。考えてみると吾輩というこの人間の廃物を拾い上げてくれた奴は、次から次に、吾輩のために非業《ひごう》の死を遂げて行くようだ。最初が木乃伊《ミイラ》親爺、その次が有閑夫人亜黎子、いずれも吾輩と似たり寄ったりの廃物揃いであったが、今度はどうして廃物どころじゃない、日本第一の法医学者、鬼目博士と来ているんだから間誤間誤《まごまご》しているとこっちが位《くらい》負けして終《しま》うかも知れない。むろんこっちでも恩を仇《あだ》で返す了簡《りょうけん》なんか毛頭無いんだが……とにもかくにも吾輩の博士製造業……往来の犬生かし事業は、こうして天狗猿の鬼目博士から授《さず》かったものなんだ。

   ウンコ色貴婦人

 そうだよ。目下のところ、吾輩は犬が専門だよ。以前《もと》は猫もやっていたが、アイツは中々手数がかかるんだ。
 猫という奴は芸者と同様ナカナカ一筋縄では行かない。ニャアニャアいって御機嫌を取るようだが、元来は猛獣なんだからそのつもりでいないと非道《ひど》い目に会う。その猛獣一流のハッキリした個人主義を伝統していて、自分以外のもの一切を敵と心得ている奴が猫だ。物蔭から「フッ」というと間一髪の同時に身構えるという、講道館五段以上の達人だから容易な事では手に合わない。もっとも蝮《まむし》を手掴みにする商売人も居るんだから練習すると相当に掴めるんだが、持って帰るのが面倒だ、中々マントの内ポケットにジッとしてなんかいないんだから袋の口を釦《ぼたん》で止めとかなくちゃならん。
 だからコイツは釣るの一手だ。何でも構わないからコマギレを引っかけた釣針に糸を附けた奴を、人通りの無い横露路か何かで、適当な猫の隠れ場所の在る近くに結び付けておくと、奴《やっこ》さん、散歩の序《ついで》に通りかかって引っかかる。チクリと来ると吐出《はきだ》すが又、喰う。そのうちに鈎《かぎ》が舌に引っかかるんだが、引っかかったら最後、決して啼かないから妙だ。
「ミイやミイや」
 なんて抱主《かかえぬし》が探しに来てもジイッと塵箱《ごみばこ》の蔭なんかに隠れてしまうからナカナカ見付からない。頃合いを見計らって、そいつを拾ってまわると一日に五匹や六匹は間違いない。釣針に附いた糸をマントのボタンに捲付《まきつ》けておけば神妙に黙ったまま藻掻《もが》いている。
「まあまあ可愛相《かわいそう》に……コンナ非道《ひど》い事をして……ジッとしておいで、外《はず》して上げるから。イクラお肴《さかな》を盗んだってアンマリじゃないか。死んだら化けて出ておやり。憎らしい……」
 なんていうのには百の中《うち》一つも行当らない。
 もう一つ猫をやめた理由は、ドウも犬と猫との間に需要、供給の不公平があるらしい。犬の余り物の方が実際上、猫よりも遥かに多いんだ。
 俗に三味線太鼓といって三味線は猫の皮、太鼓は犬の皮ときまっているらしいが、猫の皮は日本国中、自惚《うぬぼれ》と瘡毒気《かさけ》の行渡る極み、津々浦々までペコンペコンとやっているが、太鼓の方はそうは行かない。イクラ非常時だからといったってあっちへドンドンこっちへドンドンやっていたら日本中が「お月様イクツ」になってしまう。だからワンワンの廃《すた》り物の方がニャアニャアのルンペンよりも遥かに多い訳だ。
 尤《もっと》もいくらワンワンだって、無鑑札の廃物ばかりを狙っている訳じゃない。時には必要に応じて有鑑札のパリパリを狙う事もある。コイツは極く内々の話だがトテモ珍妙な事件が在るんだ。ツイこの頃の事だ。
 今云った天狗猿博士の乾分《こぶん》で、法医学の副手をやっている男が、是非とも中位のセパードが一匹欲しい。軍用犬の毒物に対する嗅覚と、その毒物に対する解剖学上の反応を調べてみたいのだが、ナカナカ手に入らないので困っている。金は十円ぐらいまで奮発するから一つやってくれ。鬚野先生以外にお頼みする人が居ないのだから……と恐ろしく煽動《おだ》てやがったから特別を以て引受けてやった。
 そこでその副手から鋭利なゾリンゲン製の鋏《はさみ》を一挺借りて、その日一日中と、あくる日の夕方までかかって市中の屋敷町という屋敷町をホツキ歩いたが、誰でも知っている通りセパード級の犬になるとどこの家《うち》でもナカナカ外へ出さない。タマタマ出していてもゾッとする位大きな奴だったり、頑丈な男が鎖で引っぱっていたりして注文通りの奴に一度も行当らない……これでは日当にならない。ほかの雑犬《ざっぱ》を漁《あさ》って数でコナシた方が割がいい。これ位で諦らめて鋏を返してしまおうか知らんと胸算用をしいしい来るともなく、市内でも一等繁華な四角《よつかど》の交叉点《こうさてん》へ来てて、ボンヤリ立っているうちに、居た居た。生後三箇月ぐらいの手頃のセパードで、お誂《あつら》え向きに革の細い紐で引っぱられている。しかも引っぱっている奴は四十五六ぐらいに見える貴婦人だ。
 吾輩は元来、貴婦人気取の女が嫌いでね。都合よくエライ親父かエライ亭主に取当ったのを自慢にして、ほかの女とは身分が違うような面付《かおつき》をしている……その根性がイヤなんだ。貴婦人と普通の女の違いは、債券に当った奴と当らない奴だけの違いじゃないか。
 しかもその身分違いをハッキリさせるために、平民が寄付けないようなドエライ扮装を凝《こ》らしやがる。薄黒いドーナツ面《づら》へ蒟蒻《こんにゃく》の白和《しらあ》えみたいに高価《たか》いお白粉《しろい》をゴテゴテと塗りこくる。自分の鼻が慣れっこになればなるほど、強烈な香水を振りかけるから、何の事はない、塗り立てのコールタールだ。目の見えない奴は新しいポストと間違えて避《よ》けて行くだろう。気の強い奴は処女に見せかける了簡と見えて、頬ペタをベタベタと糞色《うんこいろ》に塗上げている。おまけに豚の尻《けつ》みたいな唇を鮮血色に彩《いろど》っているから、食後なんかにお眼にかかるとムカムカして来るんだ。特権階級を気取るつもりらしく、ヤタラに銀狐の剥製か何かを首に巻いているが、その銀狐の面付《つらつき》の方が、直ぐお隣の御面相よりもよっぽどシャンなんだから滑稽じゃないか。のみならず、せめてブルドッグでも召連れていれば多少の参考になるところだが、選《よ》りに選って眉目清秀のセパードなんかを引っぱっているからイヨイヨ以て助からない。

   冒険大泥棒

 その繁華な交叉点で吾輩がぶつかったのは、ちょうどその助からない種類の貴婦人だった。全体にムクムクと膨《ふく》れ返って、大水で流れて来たか、花火から落ちて来たみたいな四十五六の処女らしい身装《みなり》の奴が、ゴーストップの開くのを待っているらしく、航空郵便の横に突立って、白ペンキ色の襟首と、毒々しいウンコ色の横顔を見せている。これじゃ何ともなくともチョット悪戯《いたずら》をしてみたくなる恰好じゃないか。
 しかし吾輩は考えたよ。
 ここは恐ろしく場所が悪い。ちょっとでも通行人に気付かれたら運の尽きだと思ったが……しかしだ。「天の与うるところのものを取らずんば、取らざるに勝《まさ》る後悔あり」とね、「機会は再び来らず」という鼠小僧の遺訓を思い出したものだから一つ思い切って決行した。貴婦人が引っぱっている革の紐のたるんだところを目がけて、例の鋏でチョン切る。トタンに例の手で犬をポケットに納めるという離れ業を試みた……。
 ……つもり……だったがアニ計《はか》らんやだ。天なる哉《かな》、命《めい》なる哉だ。アニが計らずに弟が計ったものと見えて、革の紐をチョン切ったトタンに向うのゴーストップが青に変った。トタンに待構えていた貴婦人が向うへ歩き出す。トタンに手の革紐が軽くなったのに気が付いて振返る。トタンに吾輩が犬の首ッ玉を吊るしてポケットに半分納めかけている現場が見えた。トタンに失策《しま》った……と思った吾輩が、その貴婦人のヨークシャ面《づら》を睨んでニタニタと笑って見せた。トタンにその貴婦人が、鳥だか獣だか、わからない声をあげてフラフラと前へのめった。トタンに横合いから辷《すべ》って来たドッジの箱自動車《セダン》が、その貴婦人の在りもしない鼻の頭を、奇蹟的に突飛ばして停車した。トタンに貴婦人の意識にも奇蹟のブレーキが掛かったらしく両足を上にしてヒャーッと顛覆《てんぷく》する。トタンに吾輩が投出したセパードが御主人のお尻の処を嗅ぎまわって悲し気に吠え立てる。トタンに通りかかった野次馬がワアーと取巻く。そこいら中がトタンだらけになっちゃって、何がどうして、どうなったんだかテンヤワンヤわからない状態に陥ってしまった。
 これを見た吾輩はホッとしたね。この調子なら吾輩が仕出かした事とは誰も気付くまい……と思ったから何喰わぬ顔で野次馬を押分けた。その伸びちゃっている貴婦人の頭の処へ近付いて大急ぎで脈を取って見た。それから瞼《まぶた》を開いて太陽の光線を流れ込まして見ると、茶色の眼玉を熱帯魚みたいにギョロギョロさしている。たしかに、まだ生きている事がわかったので今一度ホッとしたね。
「ワア……テンカンだテンカンだ……」
「そうじゃねえ、行倒れだ」
「何だ何だ。乞食かい……」
「ウン。乞食が貴婦人を診察しているんだ」
「……ダ……大丈夫ですか」
 とドジを踏んだ運転手が、吾輩の顔を覗き込んだ。青白い銀狐みたいな青年だ。
「何だ何だ。死んだんか。怪我《けが》をしたんか」
 と馳付《はせつ》けて来た交通巡査が同時に訊いた。察するところ、運転手の方は生きている方が好都合らしく、巡査の方はこれに反して、死んだ方が工合がいいらしい口ぶりだ。面喰らったセパードは、まだ貴婦人のお尻の処を嗅ぎまわってドッチ附かずに吠えている。
「どうしたんだ。ヘタバッたのかい」
「ナアニ。鼻が千切《ちぎ》れたんだよ。キット……俺あ見てたんだが」
「ベリベリッと音がしたじゃねえか。助からねえよ。急所だから……トテモ……」
 何かと云っているところを見ると野次馬の連中も巡査と同感らしい。人生貴婦人となる勿《なか》れだ。
 しかし厳正なる医師の立場に居る吾輩は、遺憾ながら運転手君に味方しなければならない事をこの時、既に既に自覚していた。貴婦人は最早《もはや》、呼吸《いき》を吹返している。ただキマリが悪いために狸の真似をしている事実を、吾輩はチャンと診断していたのだから止むを得ない。
 吾輩はダカラ勿体《もったい》らしく咳払いを一つした。
「……エヘン……これは大丈夫助かります。大急ぎで手当をすればね。脳貧血《ヒルンアネミー》と、脳震盪《ゲヒルンエルシュテルンシ》が同時に来ているだけなんですから……」
「何かね。君は医師かね」
 と新米らしい交通巡査が吾輩を見上げ見下した。吾輩は今一つ……エヘン……と大きな咳払いをした。それから悠々と長鬚を扱《しご》いて見せた。
「そうです。大学の基礎医学で仕事をしている者です。天狗猿……イヤ。鬼目教授に聞いて御覧になればわかるです。……そんな事よりも早くこの女の手当をした方がいいでしょう。今、処方を書いて上げますから……誰か紙と鉛筆を持っておらんかね」
「ハ。……コ……ここに……」
 と云ううちにドッジの運転手が、わななく手で差出した手帳の一枚を破いた吾輩は、サラサラと鉛筆を走らせた。
「早くこの薬を買って来たまえ。間に合わないと大変な事になるぞ」
「……か……かしこまり……」……ました……と云わないうちに運転手はエンジンをかけたままの運転台に飛乗った。アッという間に全速力《フルスピード》をかけて飛出した。

   チャッカリ小僧

「……ウヌ……逃げたナ……」
 と云ううちに交通巡査も、物蔭《ものかげ》に隠しておいた自働自転車を引ずり出して飛乗った。爆音を蹴散《けち》らして箱自動車《セダン》の跡を追った。見る見るうちに街路《まち》の向うの……ズウット向うの方へ曲り曲って見えなくなってしまった。
 呆気《あっけ》に取られて見送っていた野次馬連は、そこでやっと吾に帰ったらしく、顔を見合わせてゲラゲラ笑い出した。吾輩も可笑《おか》しくなったので、血を滴《た》らし始めている貴婦人の鼻の頭を、運転手が置いて行った小さなノートブックの間から出て来た二三枚の名刺で押えてやりながらアハアハアハと笑い出した。
「奥さん奥さん。いい加減に起きて歩いたらどうです。いつまでもここに寝てたって際限がありませんよ」
 と片手で貴婦人の肩を揺り動かしてみた。
「無理だよソレア……先生。死んでんだもの……」
 皆がドッと笑い出した。貴婦人の両眼から涙がニジミ流れ始めた。人生コレ以上の悲惨事は無い。自分の死骸に対して世間の同情が全く無い事を知った美人の気持はドンナであろう。どうも弱った事になって来た。そのうちにどこかの茶目らしいクリクリ頭に詰襟服の小僧が、群集の背後《うしろ》から一枚の紙片《かみきれ》を拾って来て、吾輩の眼の前に突出した。
「先生。これあ今の紙じゃないですか」
「ウン吾輩が書いてやった処方だ。運転手が逃げがけに棄てて行ったものらしいな。交通巡査は流石《さすが》に眼が早い」
「だって先生。名刺の挟まったノートを落して行ったんじゃ何にもならないでしょう」
 鳴りを鎮《しず》めていた群集が又笑い出した。
「ウーム。豪《えら》いぞ小僧。今に名探偵になれるぞ」
「……そ……そんなんじゃありません」
「そんなら済まんがお前、その薬を買って来てくれんか。そこに落ちているこの奥さんのバッグに銭《ぜに》が這入《はい》っているだろう」
「だって……だって。そんな事していいんですか」
「構わないとも。早く買って来い。奥さんが死んじゃうぞ」
 と背後《うしろ》の方から野次馬の一人が怒鳴った。しかし小僧はなおも躊躇した。
「ちょっと待って下さい。何と読むんですか。この最初の字は……」
「うん。それはトンプクと読むんだ」
「トンプク……ああわかった。頓服《とんぷく》か……ええと……メートル酒十銭……」
「馬鹿。メントール酒と読むんだ。早く行かんか」
「待って下さい。薬屋で間違うといけねえから、その次は?」
「ナカナカ重役の仕込みがいいな貴様は……チャッカリしている。それは硼酸軟膏《ほうさんなんこう》と万創膏《ばんそうこう》と脱脂綿だ。薬屋に持って行けばわかる。早く行け、この奥さんの鼻の頭に附けるんだ」
「オヤオヤア。いけねえいけねえ。これあ駄目ですよ先生……」
「何が駄目だ」
「チャアチャア。このバッグの中には銭なんか一文も無《ね》えや。若い男の写真ばっかりだ。ウワア……変な写真が在ライ」
 と云いも終らぬうちに塵埃《ほこり》だらけになって転がっていた狸婦人が鞠《まり》のように飛上った。茶目小僧の手から銀色のバッグを引ったくるとハンカチで鼻を押えたまま一目散に電車道を横切って、向うの角のサワラ百貨店の中に走り込んで行った。アトから犬が主人の一大事とばかり一直線に宙を飛んで行ったが、その狸婦人の足の早かったこと……。
 野次馬がドッと笑い崩れた。
「ナアンダイ。聞いてやがったのか」
「向うの店で又引っくり返《けえ》りゃしねえか」
「行って見て来いよ。小僧。引っくり返《け》えってたらモウ一度バッグを開けてやれよ。中味をフン奪《だ》くって来るんだ。ナア小僧……」
「なあんでえ。買わねえ薬が利いチャッタイ」
 ワアワアゲラゲラ腹を抱えている中を、吾輩は悠々と立去った。全く助かったつもりでね。
 ところが助かっていなかった。女の一念は恐ろしいもんだ。それから間もなくの事だ……。

   混凝土《コンクリート》令嬢

「アラッ。鬚野《ひげの》さん……鬚野先生……センセ」
 どこからか甲高い、少々|媚《なま》めかしい声が聞こえて来た。吾輩はバッタリと立止まった。バッタリというのは月並な附け文句ではない。吾輩が立止るトタンに両脚を突込んでいる片チンバのゴム長靴が、実際にバッタリと音を立てたのだ。序《ついで》に水の沁み込んだ靴底に吸付いた吾輩の右足の裏が、ビチビチと音を立てたが、これは少々不潔だから略したに過ぎないのだ。
 吾輩は空気抜の附いた流行色の古山高帽を冠《かぶ》り直した。裸体《はだか》一貫の上に着た古い二重マントのボタンをかけた。
 通りがかりのルンペンを呼ぶのに最初「サン」附けにして、あとから一段上の先生なんかと二《ふ》た通りに呼分けるなんて油断のならぬ奴だ。況《いわ》んやそれが若い、媚《なま》めかしい声なるに於いてをや……といったような第六感がピインと来たから、特別に悠々と振返った。
 それはこの町の郊外に近い、淋しい通りに在る立派なお屋敷であった。主人はこの町の民友会の巨頭株《おおあたまかぶ》で、市会議員のチャキチャキで、ツイ四五週間前のこと、目下百余万円を投じて建設中の、市会議事堂のコンクリートを噛《かじ》り過ぎた酬《むく》いで、赤い煉瓦の法律病院に入院して、新聞と検事に背中をたたかれたたかれ財産と臓腑の清算、尻拭い中である。その奥さんは、その亭主の尻拭い紙である色々な重要書類を紛失したのを苦にして、発狂して死んでしまった……と云ったら誰でも「ああ。あの混凝土《コンクリート》野郎か」と云うであろう。
 その混凝土《コンクリート》氏こと、山木《やまき》勘九郎氏邸の前を通ると、鬱蒼《うっそう》たる樫《かし》の木立の奥に、青空の光りを含んだ八手《やつで》の葉が重なり合って覗いている。その向うにゴチック式の毒々しい色|硝子《ガラス》を嵌《は》め込んだ和洋折衷の玄関が、贅沢にも真昼さなかから電燈を点《つ》けて覗いているもう一つ向うに、コンクリートの堂々たる西洋館が聳《そび》えているところを見ると、如何にも容易ならぬ金持らしい。ちょっと忍び込んでみたくなる位である。多分、あの樫の木の闇《くら》がりが御自慢なのであろうが、混凝土《コンクリート》を喰った証拠に混凝土《コンクリート》の家を建てるのはドウカと思う。……なぞと詰まらない反感を起しながら門の前を通り過ぎようとしているところへ、その鬱蒼たる樫の木闇《こくら》がりの奥から聞こえたのが今の呼声だ。
 コンナ立派な家の中から、あんな綺麗な声で呼ばれるおぼえは無い。間違いではなかったかなと思っているところへ、門の中から花のような綺麗な、お嬢さんの姿があらわれた。
 年の頃十八九の水々しい断髪令嬢だ。黒っぽい小浜縮緬《こはまちりめん》の振袖をキリキリと着込んで、金と銀の色紙と短冊の模様を刺繍した緋羅紗《ひらしゃ》の帯を乳の上からボンノクボの処へコックリと背負い上げて、切り立てのフェルト草履の爪先を七三に揃えている恰好は尋常の好みでない。眼鼻立《めはなだち》が又ステキなもので、汽船会社か、ビール会社のポスター描《か》きが発見したら二三遍ぐらいトンボ返りを打つだろう。
 そいつがニッコリ笑うには笑ったが、よく見ると顔を真赤にして眼を潤《うる》ませている。まさか俺に惚れたんじゃあるまいが……と思わず自分の顔を撫でまわしてみたくらい、思いがけない美しい少女であった。
「何だ……吾輩に用があるのか」
「……エ……あの。ちょっとお願いしたい事が御座いますの」
 と云ううちに、しなやかな身体《からだ》をくねくねという恰好にくねらせた。しきりに顔を真赤にして自分の指をオモチャにしている。
「……ハハア。犬が欲しいんか」
 まさかと思って冷やかし半分に、そう云ってみたのであったが、案外にもお合羽《かっぱ》さんが、如何にも簡単にうなずいた。
「ええ……そうなんですの」
「ほオ――オ。お前が動物実験をやるチウのか」
「……アラ……そうじゃないんですの……」
「ふむ。どんな犬が欲しい」
「それが……あの。たった一匹欲しい犬があるんですの」
「ふむ。どんな種類の……」
「フォックス・テリヤなんですの。世界中に一匹しか居ない」
「ウワア。むずかしい註文じゃないか」
「ええ。ですからお願いするんですの」
「ふうん。どういうわけで、そんなむずかしい仕事を吾輩に……」
「それにはあの……ちょっとコミ入った事情がありますの。ちょっとコチラへお這入《はい》りになって……」
 と云ううちにイヨイヨ真赤になった。今度は平仮名の「く」の字から「し」の字に変った。打棄《うっちゃ》っておくと伊呂波《いろは》四十八文字を、みんな書きそうな形勢になって来たのには、持って生れたブッキラ棒の吾輩も負けちゃったね。今に「へ」の字だの、「ゑ」の字だのを道傍《みちばた》で書かれちゃ大変だと思ったから、悠々と帽子を取って一つ点頭《うなず》いてみせると、お合羽さんは振袖を飜えして門の内へ走り込んだ。お尻の上の帯をゆすぶりゆすぶり玄関の扉《ドア》を開いて、新派悲劇みたいな姿態《ポーズ》を作って案内したから吾輩も堂々と玄関のマットの上に片跛《かたびっこ》の護謨《ゴム》靴を脱いで、古山高帽を帽子掛にかけた。お合羽さんが自分の草履と、吾輩の靴を大急ぎで下駄箱に仕舞うのを尻目に見ながら堂々と応接間に這入った。
「失礼じゃがマントは脱がんぞ。下は裸一貫じゃから」
「ええ。どうぞ……」

   廃物豪華版

 応接間の構造は流石《さすが》に当市でも一流どころだけあって実に見事なものであった。天井裏から下った銀と硝子《ガラス》の森林みたような花電燈。それから黒|虎斑《ぶち》の這入った石造の大|煖炉《だんろ》。理髪屋式の大鏡。それに向い合った英国風の風景画。錦手大丼《にしきでおおどんぶり》と能面を並べた壁飾《かべかざり》。その下のグランド・ピアノ。刺繍の盛上った机掛。黄金の煙草容器。銀ずくめの湯の音をジャンジャン立てているサモワルに到るまで、よくもコンナに余計な品物ばかり拾い集めたものである。乞食の物置小屋じゃあるまいし……とすっかり軽蔑してしまったが……もっとも余計な品物を持っている点に於ては吾輩も負けないつもりだ。冠っている山高から、ボロ二重マント、穿いている長靴は勿論の事、その中に包まれている吾輩、鬚野房吉博士の剥身《むきみ》に到るまで一切合財が天下の廃物ならざるはなし。コンナ豪華な応接間の緞子《どんす》と真綿《まわた》で固めた安楽椅子の中に坐らせるのは勿体ないみたいなもんだが、しかし、その贅沢品の豪華版の中から生まれ出たような断髪の振袖令嬢が、その廃物ずくめのルンペンおやじに、大切な用があると仰言《おっしゃ》るんだから世の中は不思議なもんだ。一つ御免蒙って御神輿《おみこし》を卸《おろ》してみよう。そうして銀のケースの中から葉巻《ハヴァナ》を一本頂戴してみる事にしてみよう。
 断髪令嬢が素早く卓上のライタを取上げて器用に火をつけてくれた。その物腰をみるとチョット珈琲店《カフェー》の女給さんみたいな気がして、手が握りたくなったが止した。
 それから断髪令嬢は卓上のサモワルから馴れた手附で珈琲《コーヒー》を入れて、吾輩にすすめてくれたが、その容器を見ると、ここが断然カフェーでない事を覚らせられた。そこいらにザラにある珈琲茶碗じゃない。舶来最極上の骨灰[#「骨灰」に傍点]焼だ。底を覗いてみると孔雀型の刻印があるからには勿体なくもイギリスの古渡《こわた》りじゃないか。一つ取落しても安月給取の身代ぐらいはワケなく潰《つぶ》れるシロモノだ。吾輩はルンペンではあるが、有閑未亡人の侍従《ハンドバッグ》をやっていたお蔭でソレ位のことはわかる。亜米利加《アメリカ》の名探偵フィロ・ヴァンスみたいな半可通《はんかつう》とはシキが違うんだ。
「……わたくし……父が御承知の通りの身の上で御座いまして……わたくし迄も世間から見棄てられておりまして……お縋《すが》りして御相談相手になって下さるお方が一人も御座いませんの」
「フムフム……尤《もっと》もじゃ」
「みんな世間の誤解だから、心配する事はないと、父は申しておりますけど……」
 吾輩は鷹揚《おうよう》にうなずいて見せた。誤解にも色々ある。とんでもない売国奴が、無二の忠臣と誤解されている事もあれば、純忠、純誠の士が非国民と間違えられる事もある。警察に引っぱられたカフェーの女給が、華族の令嬢に見られる事もあれば、いい加減な派出婦が万引したお蔭で、貴婦人と間違えられる事もある世の中だ。吾輩なんかは乞食以下の掻攫《かっさら》いルンペンと誤解されている世界的偉人だ……と云ってやりたかったが、折角、花のような姿をして葉巻《ハヴァナ》や珈琲を御馳走してくれるものを泣かしても仕様がないと思って黙っていた。
「世間ではナカナカそう思ってくれないので御座いますの」
 吾輩は今一つうなずいた。そう云う令嬢の眼付を見ると、どうやら父親の無罪を確信しているらしい態度《ようす》である。吾輩はグッと一つ唾液《つば》を嚥《の》み込んだ。
「いったいお前の父親は、ほんとうに市会議事堂のコンクリートを噛《かじ》ったんか」
「いいえ。断然そんな事、御座いません。この家《うち》を建てた請負師の人が、偶然にかどうか存じませんが、市会議事堂を建てた人と同じ人だったもんですから、そんな誤解が起ったんです。ですから妾《わたし》、口惜《くや》しくって……」
「成る程。そんならお前の父親が、この家の建築費用をチャント請負師に払うた証拠があるんかね」
「ええ。御座いましたの。そのほかこの応接間の品物なんかを買い集めた支払いの受取証なぞを、みんな母が身に着けて持っていたので御座いますが、それがどこかで盗まれてしまいまして、その受取証や何かがみんな反対党の人達の手に渡ったらしいんですの。ですから反対党の人達は大喜びで、そんな受取証を握り潰しておいて、父がそんなものを賄賂《わいろ》に貰ったように検事局に投書したらしゅう御座いますの。ですから検事局でも、その受取証を出せ出せって責められたそうですけど、父はその事に就いて一言も返事をしなかったもんですから、とうとう罪に落ちてしまいました」
「成る程、わかった。堕落した政党屋の遣りそうな事だ」
「父は、それですから、母にその証文を入れたバッグを出せ出せって申しますけども、どうしても母が出さなかったので御座います」
「成る程。それは又おかしいな」
「ええ。でもおしまいには、とうとう母が白状致しましたわ。亡くなります二三日前の晩に、すこし気が落ち附きますと、それまで肌《はだみ》を離さずに持っていたバッグを父に渡しました。けれども中味は空《から》っぽで御座いました。その時から一週間ばかり前にどこかで自動車に突飛ばされて倒れた拍子に、そのバッグの中味を誰かに見られて奪《と》られてしまったらしいんですって……その人が反対党の手先か何かだったに違いないって母は申しておりましたが……ほんとに申訳ない、口惜しい口惜しいって申しておりましたが……」
 そう云って吾輩を見上げた令嬢の眼に一点の露が光った。ナカナカ親孝行な娘だ。今度は抱上げて頭を撫でてやりたくなった。
「そこでアンタはそのお父さんに対する世間の誤解を晴らそうと思うているわけじゃね」
「そうなんですの……駄目でしょうかしら……」
 なかなか大胆な娘らしい。決心の色を眉宇《びう》に漲《みなぎ》らしている。

   犬のダニ

「さあ。ちょっとむずかしいなあ。世間の誤解という奴は犬のダニみたいなものじゃから……」
「まあ……犬のダニ……」
「そうじゃ。犬のダニみたいに、勝手に無精生殖をしてグングン拡がって行くもんじゃからね。皮膚の下に喰込んで行くのじゃから一々針で掘った位じゃ間に合わんよ。ウッカリ手を出すとこっちの手にダニがたかって来る」
「まったくですわねえ」
「ジャガ芋の茹《ゆ》で汁で洗うと一ペンに落ちるもんじゃが」
「まあ。ジャガ芋をどう致しますの」
「アハハ。それは犬のダニの話じゃ。鉄筋コンクリートなんぞに喰い込んだダニなんちいうものはナカナカ頑強で落ちるもんじゃない。七十五日ぐらいジッと辛抱しているとダニの方がクタビレて落ちてしまう事もあるが……」
「それがその七十五日なんか待ち切れないので御座いますの。その中《うち》でも或るタッタ一人の方の誤解だけは是非とも解いてしまいませんと、わたくしの立場が無くなるんですの。……でも……それがタッタ一匹の犬から起った事なのですから……スッ……スッ……」
 令嬢の眼からポロリポロリと光る水玉が辷《すべ》り落ち初めた。
 どうも考えてみると変った娘があればあるものだ。通りがかりのルンペン親爺《おやじ》を応接間に引っぱり込んで最極上の葉巻《ハヴァナ》と珈琲《コーヒー》を御馳走して、生命《いのち》よりも大切な涙をポロポロ落して見せるなんて、だいぶ常識を外《はず》れている。ことによるとこの少女はキチガイの一種である早発性痴呆かも知れないと思った。
「ハハア。面白いワケじゃな……一匹の犬に関係している。タッタ一人の誤解が……」
「そうなんですの……そのタッタ一人の方に誤解される位なら妾死んだ方がいいわ……スッ……スッ……」
「ちょっと待ってくれい。もうすこし落付いてユックリ事情を話してみなさい」

   お惚気《のろけ》豪華版

 それから断髪令嬢がシャクリ上げシャクリ上げ話すところを聞いているうちに、やっと事情《わけ》が判明《わか》って来た。この断髪令嬢は本名を山木テル子さんという山木氏の一人娘で、エース女学校を去年卒業したばかりの才媛である。二年|前《ぜん》に前外務大臣|唖川《おしがわ》伯爵の令息で、唖川|歌夫《うたお》という外務省情報部勤務の青年と婚約が出来ているのが、父親山木|混凝土《コンクリート》氏の疑獄事件で、そのままになっているという。
 ところで、その唖川歌夫という青年外交官は、嘗《かつ》てその婚約時代に和蘭《オランダ》、独逸《ドイツ》、瑞西《スイス》を遊学してまわった事があるが、その帰朝土産に仏蘭西《フランス》は巴里《パリ》の犬の展覧会から、何万|法《フラン》か出して買って来た世界第一、無類|飛切《とびきり》というフォックス・テリヤのお手本みたような仔犬を一匹持って来て令嬢に与えた。
「式を挙げるまで、これを僕と思って可愛がって下さい」
 という婚約者のお手本みたいな甘ったるい文句附きであったが、その犬の特徴というのは、ピアノを弾き初めると妙に眼を白くして天井を見てアクビみたいな声を出して、アウーアウーと合唱する。そのほかABCのカード拾いだの、十以下の計算の答えをカードで出したりするので、令嬢はそれこそ有頂天になって、名前をUTA《ウータ》と名付けて、手の中の玉みたいに可愛がって夜は一緒に抱いて寝る。眼が醒めると、
「サア。ウーちゃん御飯をお上り」
 と頭を撫でてやる。お客様が来ると直ぐに連れて来て芸当をやらせる。お客様が感心すると抱き寄せて頬ずりをしてやる。
「ねえ、随分|怜悧《りこう》でしょ。これ唖川小伯爵から頂いたのですよ。ねえねえウーちゃん。アラアラ眼脂《めやに》が出ているわよ」
 なんかと云って嘗《な》めてやらんばかりにして見せるので大抵のお客が驚いて帰ってしまう。夜となく昼となく甘ったるい言葉ばかりかけるので実の両親までもが、朝から晩までエヘンエヘンと云っていたという。
 ところが、その父親に対する妙な風評が、次第に高まって来て、門の表札が引っぺがされたり、二階の硝子《ガラス》窓から石が飛込んで来たりし始めると間もなく、突然にそのUTA《ウータ》君が行方を晦《くら》ました。むろん逃げたものだか殺されたものだか見当が附かない。門の外に出さないのだからといって鑑札を受けていなかったのが、運の尽きであったのかも知れない。
 テル子さんはキチガイみたいになった。むろん警察に頼んだ。私立探偵も雇った。自分でも男装して父親のパッカードのオープンを運転しながら、市中を駈けまわって探したものであるが、そのうちに世間の父親に対する憎しみがだんだん高まって来ると、とうとうそのパッカードにまで石を投げる奴が出て来た。しまいには壮士みたいな奴が五六人、大手を拡げて行手に立塞《たちふさ》がったりするようになったので、流石《さすが》の断髪、男装令嬢も門外へ一歩も出られなくなってしまった。おまけに「非国民の断髪令嬢、大威張りでパッカードを乗廻す」という新聞記事で止刺刃《とどめ》を刺されてしまった。
 ところが間もなく更に、それ以上の打撃がテル子嬢の上に落ちかかった。
 その頃既に父親の山木コンクリート氏は、世間の風評に対して極度の神経過敏症に陥っていたらしい。そのUTA《ウータ》が居なくなったのは婚約者の唖川小伯爵がコッソリ盗み出したものに違いないと云い出した。俺みたいな奴の娘を名門の息子が貰う訳に行かないというので、父親の唖川前外相の指令か何かを受けた小伯爵が、人を頼んでか、又は自分自身でか盗み出したものだ。今の華族なんて奴は妙に家柄や何かを振《ふり》まわすが、その振まわす根性といったら実に軽薄なものなんだ。よしんば親は泥棒にしても子供同士は清浄無垢なものなんだ。況《いわ》んや俺の心境は明鏡止水、明月天に在り、水甕《みずがめ》に在りだ。そんな軽薄な奴の息子にかけ換えのないお前を遣る訳に行かん。
 あの医学士の羽振菊蔵《はぶりきくぞう》を見よ。彼奴《あいつ》の親爺《おやじ》の羽振|菊佐衛門《きくざえもん》は貴族院議員のパリパリで、日支銀行の頭取という財界の大立物なんだが、そんな名門|面《づら》を一度もして見せた事がないばかりでない。俺に対する世間の疑惑が高まれば高まるほど熱心に俺の世話をしているだろう。毎日のように俺に秘密の電話をかけて俺を慰めていたではないか。その伜《せがれ》の菊蔵でも同じ事。親の光りで暇潰しの外交官なんかやっている青二才とは育ちが違う。俺の悪評が高くなったこの頃になって平気でお前に婚約を申込んで来るところを見ると相当の苦労人だ。あの男は目下大学で博士号を取る準備をしているそうだから。近いうちに博士になるだろう。博士になったら、お前の婿《むこ》として恥かしくないのみならず、彼の精神が実に見上げたものだ。
 第一唖川歌夫という奴は、外交官の癖に、親譲りの無口でブッキラボーで、刑事みたいな凄い眼付きをしているから、到底外交官なんかに向かない事が、わかり切っている。これに反して羽振菊蔵の方は弁舌が爽かで、男ぶりがよくて世間の常識に富んでいるから、俺みたいな年寄と話してもチットモ退屈させないから感心してしまう。だからお前も、いい加減に諦めて、羽振の方に婚約を切りかえろ、俺は一生懸命で、お前のためばかり思っているんだぞ……とか何とかいったような訳で、混凝土《コンクリート》氏は或る夕方のこと、涙を流さむばかりにしてテル子嬢の手を握っているうちに、突然に検事局に引っぱられて、そのまま未決へ放り込まれてしまった。そのアトは父の気に入りの津金勝平《つがねかつへい》という執事みたいな禿頭《とくとう》の老人と、親よりも誰よりも八釜《やかま》しい古参の家政婦で、八木節世《やぎせつよ》という中婆さんが、家《うち》中の事を切まわしているので、テル子嬢は全然手も足も出なくなっているという。
「唖川歌夫さんは、それっきりお手紙を一本も下さらず、お電話もおかけになりません。おかけになっているかも知れませんけど、電話はイツモ家政婦の八木さんか、津金爺さんが聞いてしまって、私には知らせませんし、お手紙だって私が見る前に二人して隠しているらしい様子ですから……あたし……情なくて……悲しくて……スッ……スッ……」
 吾輩はそういう令嬢の泣声を聞きながら茫然として相手のお合羽《かっぱ》頭を眺めていた。
「フーン。で、その犬がアンタの手に帰ったらアンタはどうするつもりかね。参考のために聞いておきたいのじゃが」
「だって、そうじゃ御座いません? その犬が居ないと歌夫さんに、直ぐ来て下さいってお手紙が上げられないじゃ御座いませんか。いつでも速達を上げると直ぐに飛んで来て下すったんですからね。そうしてお出《い》でになると直ぐに犬の事をお尋ねになるんですからね」

   ルンペン道

「イヤ。わかったわかった。よくわかった。なかなか困難な註文のようじゃが、やってみるかな一ツ……」
「あら……どうぞお願いしますわ」
 テル子嬢が立上った。振袖を床の上に引《ひき》ずってお辞儀をした。吾輩もやおら立上った。
「……しかし……もう一つお尋ねしておきたいことがあるがな」
「ハイ。何なりと……」
「そのアンタの母さんが自動車でお怪我《けが》をしなさった時の模様が、聞いておきたいのじゃが」
「それが、よくわからないので御座います。母はただ口惜しい口惜しいと申しましてキチガイのように泣いてばかりおりまして……母は元来、非道《ひど》いヒステリーで御座いまして、お医者様から外出を停められていたので御座いますが、ちょうど一月ばかり前のこと、あんまり屋内《うち》にばかり引っ込んでいてはいけないからと申しまして、セパードを連れて散歩に出かけますと間もなく、顔のマン中へ脱脂綿と油紙を山のように貼り付けて帰って参りましたのでビックリ致しました。何でもゴーストップが開《あ》いたので、犬を引いたまま横断歩道に出ようとすると、横合いから待ち構えていたらしい箱自動車が出て来て妾《わたし》を突飛ばした。その自動車の中から髯だらけの怖い顔をした紳士が降りて来て、気味の悪い顔でニタニタ笑いながら、私を診察しいしい、まわりを取巻いている見物人をワイワイ笑わせていた。その隙《すき》に、その紳士が、妾のハンド・バッグの中味を検《あらた》めて大切な書類を攫《さら》って行ったものらしい。あの髯だらけのルンペンみたいな紳士が、きっと反対党の廻し者か何かだったに違いない。口惜しい口惜しいと云って寝床の中で身もだえをしておりますうちに、非道い発作が起りまして、『妾はコンナ非道い侮辱を受けた事はない。仇《かたき》を取って来るから』と云って駈け出しそうになりますので皆《みんな》して押え付けようとしましたが、どうしても静まりません。却《かえ》って非道くなってしまって、弓のようにそり反《かえ》りますので、そのまま神田の脳病院に入れて、寝台へ革のバンドで縛付けておきますと、その革のバンドを抜けようとして藻掻《もが》いた揚句《あげく》、どこかへ内出血を起して、その自家中毒とかで突然に……亡くなりまして……」
「成る程。どうもエライ騒ぎじゃったな。不幸ばかり重なって……」
「……ですから一層のこと歌夫さんがお懐かしくて仕様が御座いませんの。コンナ時にこそ居て下さると、どんなにか力になるでしょうと思いながら、それも出来ませんし」
「イヤ。わかったわかった。よくわかった。とにかく吾輩が引受けた。直ぐに今から活動を開始するじゃ。それではこれで帰ろう……いや構わんでくれ。左様《さよう》なら……」
 吾輩は一人で喋舌《しゃべ》りながら慌てて帽子を冠って、長靴を穿《は》いて玄関を飛出した。往来に出て真青な空を仰ぐとホッとした。「アハハハハ……」と思わず一人で高笑いした。冗談じゃない、テル子嬢の母親を殺し、父親を未決監にブチ込んだ人間は誰でもない、この吾輩という事になっているらしい。直接に殺さなくとも責任は十分こっちにあるらしい。母親の云う事はテンヤワンヤのゴチャゴチャだらけであるが、それでも吾輩の笑い顔だけはハッキリと記憶に残して死んでいるらしいのだから頗《すこぶ》る気味が悪い。しかも女というものは、思い違いでも何でも構わない、一度そんな風に思い込んでしまうと、アトでいくら間違っていることが判明《わか》っても決して素直に承認する動物でない。女に思い込まれたのと、暴力団に附け狙われたのと、新聞に書かれたのと、スッポンに喰い付かれたのとは、如何なる場合でも運の尽きである。ありもしない事を勝手に口惜しがって死んだ場合でも、遠慮なく閻魔《えんま》大王から幽霊の鑑札を受けて娑婆《しゃば》に引返して来る位の決心を、女というものはフンダンに持っているのだから厄介だ。
 のみならず何を隠そう、一個月ばかり前にテル子嬢の大事なフォックス・テリヤを盗んで大学の博士の卵に売付《うりつ》けたのは、誰あろう、この吾輩なのだ。家人の隙《すき》を窺ったものであろう。チョコチョコと門の中から出て来て吾輩に向って尻尾《しっぽ》を振っている可愛らしいテリアに鑑札のないのを見て……この野郎、これくらい立派な家で鑑札を受けていないナンテ手はない、怪《け》しからん野郎だ、引っ攫《さら》ってやれ……といったような気持でポケットに入れたのが吾輩の運の尽きであった。そのテリアたった一匹のために、お人形さんみたいな快活、明敏な令嬢が、破鏡の悲劇に陥ろうとしている。冗談じゃない。この責任が負わずにおられるもんか。
 他人にわかりさえしなければ、どんな事をしてもいいというのが現代の上流社会の紳士道らしいが、吾々の所謂《いわゆる》ルンペン道ではそうは行かん。五千円のダイヤでも無代《ただ》では貰わない。チャンと二銭払うのが屑屋の仁義になっているじゃないか。

   UTA《ウータ》ヤアイ

 世の中に行きがかりぐらい恐ろしいものはない……と吾輩は賑やかな電車通りに出て考えた。井伊の掃部《かもん》様は桜田門なんか通らなかったら首無し大名なんかにならないで済んだであろうし、キリストやクレオパトラだって今の世に生まれていたら柊林《ハリウッド》あたりのステージで抱合って、監督をハラハラさしているかも知れない。俺だって十四の年に女郎買いに行ったのが振り出しで、いつの間にかコンナ犬攫《いぬさらい》のルンペンに……まあそんな事はドウでもいい。とにかく偶然ぐらい恐ろしいものは世の中にない。
 ところで問題は眼の前の仕事だ。……出来るだけ美味《うま》い酒が飲めるような結論の方向へひっぱって行きたいものだが……差当って先ず、何といっても問題のフォックス・テリヤUTA《ウータ》を探し出すのが目下の急務だろう。
 ところで面白い事に吾輩はそのテリアUTA《ウータ》を売付けた相手の顔をチャンと記憶しているんだ。誰でもない、大学の耳鼻科の教室で研究している羽振菊蔵という医学士だ。今の令嬢の話に出て来た通りの、いやにノッペリした気障《きざ》な野郎だが、そいつの手にUTA《ウータ》が渡っているんだから冗《くど》いようだが偶然は恐ろしい。むろん羽振医学士は、そんな事とは夢にも知らない筈だし……イヤ、知っているかも知れないが、知っておれば尚更のこと、もうトックの昔に実験にかけて殺してしまっているかも知れない。
 吾輩は思わず急ぎ足になった。タクシー代は勿論、電車賃もない、昨夜《ゆんべ》飲んでしまったんだから……。

   喜劇? 悲劇?

 実にいい天気だった。
 いい天気だと往来を歩いている犬が多いもんだ。そいつを五六匹も攫《さら》って大学へ持って行けば八両や十両の仕事には直ぐになる。行きつけの居酒屋「樽万《たるまん》」で銘酒「邯鄲《かんたん》」の生《き》一本がキューと行ける筈なのに、要らざる処を通りかかって要らざる用事を引受けた御蔭《おかげ》で、千里|一飛《ひとと》び、虎小走り一直線に大学へ行かねばならぬ。
 断髪令嬢が、婚約中の愛人から貰った小犬を、そんな事とは知らない吾輩が攫って大学校の博士の卵に売飛ばしたバッカリに、その断髪令嬢に対して重大な責任が出来てしまった。その小犬を取返して、断髪令嬢の破れかけたハートを修繕しなければならぬ責任を、否応《いやおう》なしに負わされてしまった。しかもその大切な小犬を実験用に買った奴が、その令嬢の愛人の恋仇《こいがたき》と来ているんだから話がヤヤコシイ。首尾よく犬が取返せるか、返せないか。この恋が成立するかしないかという重大な責任が、千番に一番の兼ね合いで、吾輩の双肩にかかって来た訳だ。
 棒も歩けば犬に当るとはこの事だ。
 考えてみると馬鹿馬鹿しい話だ。そんな責任をイケ洒唖洒唖《しゃあしゃあ》と吾輩に負わした彼《か》の断髪令嬢は二三時間前まで、全く見ず識らずの赤の他人だったのだ。ドコの馬の骨だか牛の骨だか、訳のわからない同士だったのだ。人間、返す返すも行きがかりぐらい恐ろしいものは無い。
 探偵小説では偶然の出来事を書くと面白くないというがこれは恋愛物語なんだから構わないだろう。しかも喜劇になるか、悲劇になるかは一に吾輩の手腕一つにかかっているんだから、何の事はない、実物応用の実際小説だ。世界歴史と同様今にドンナ事が始まるかわからない。舞台監督兼主役の吾輩からして一寸先は真暗闇《まっくらやみ》だ。
 先ず断髪令嬢山木テル子の愛人、唖川歌夫の恋敵、羽振キク蔵君にブツカル訳だが、サテ、どんな機嫌様《きげんさま》にぶら下るか……。

   半死の小犬

 サア来た。大学医学部の実験動物飼育室に来た。イヤ、どうも暑いの何のって……二重マントの袖で汗を拭い拭いしてみたが明るい外界からイキナリ、暗い飼育室に来たもんだから梟《ふくろ》みたいに何も見えない。何ともいえない劇毒薬の蒸発するような動物臭が腸《はらわた》のドン底まで沁《し》み込んで行く。世界の終りかと思えるようなエタイのわからない悲鳴が、あとからあとから耳の穴に渦巻き込む。勿体なくも市内第一流の桃色ローマンスの糸の切端《きれはし》がコンナ処に落込んでいようなんて誰が想像し得よう。先《ま》ず一息入れて落付いてみる事だ。
 居る居る。猫だの犬だのモルモットだのがウジャウジャ居る。雛《ひよ》ッ子を育てるような金網の籠に犬は犬、猫は猫と二三匹か四五匹|宛《ずつ》入れた奴がズーッと奥の方まで並んでいる。鶏《にわとり》も居るし小羊も居る。奥の方から羽二重《はぶたえ》を引裂くような声が聞こえる処を見ると、猿を飼っている贅沢な奴が居るらしい。まさか青二才の博士の卵が、猿の睾丸《きんたま》を使って若返り法を研究しているのじゃあるまい。
 そんな動物連中の排泄物や、体臭や、猛烈に腐敗した食餌の落零《おちこぼ》れの発酵|瓦斯《がす》で、気が遠くなるほど臭い上に、ギャアギャアワンワンニャーニャーガンガン八釜《やかま》しい事|夥《おびただ》しい。その中でも犬の鳴声が圧倒的に大多数なのは吾輩の努力が与《あずか》って力がある訳で、心強いことこの上なしだ。その金網籠の一つ一つに、それぞれ所有主《もちぬし》の木札が附いている奴へ、番人が、それぞれに餌《え》を遣っている。この番人が犬や猫へ遣る御馳走をチョイチョイ抓《つま》んでいる事実を知っているのは吾輩だけかも知れないが、しかし又、こいつが居ないと、博士の卵連中が、研究室とかけ持ちで動物の世話をしなくちゃならないのだから文句は云えない。吾輩みたいに無代価で攫《さら》って来たシロモノを売りつける癖の附いた人間から見れば、この金網の番人なぞは、よっぽど尊敬していい訳だ。だから吾輩はいつでも出会うたんびに山高帽をチョッと傾けて敬意を表する事にしている。上には上があると思ってね。
 ところでその金網籠に附けた木札を覗きまわってみると在った在った。ハブリと片仮名で書いた木札を附けた犬の籠が片隅に十ばかり固まっている。どうも恐ろしく犬ばかり集めたもんだと思ったが、よく見るとドレモコレモ見覚えのある犬ばかりだ。果然、羽振医学士閣下は吾輩の上華客《じょうとくい》だった事を思い出した。ブルテリヤ、狆《ちん》、セッター、エアデル、柴犬なぞ。飼犬の豪華版みたいだが心配する事はない。どれもこれも純粋種なんか一匹も居ないのだからヤヤコシイ。いい加減というよりも寧《むし》ろミジメな位の混合種ばかりが、尻尾振り合うも他生の縁という訳でギャンギャンキャンキャン吠え合っていたものだが、そいつが吾輩の顔を見ると一斉に吠えるのを止めて、尻尾を振り振り金網に立ちかかって来た。
 吾輩は胸が一パイになった。タッタ二時間、三時間のおなじみでもチャント記憶しているから感心なものだ。勿論、吾輩の顔や風態を見覚えている訳ではなかろう。亜歴山《アレキサンデル》大王は身体に薔薇《ばら》の臭いがしたという位で、吾輩みたいな偉人の体臭は、犬にとっても忘れられないものがあると見える。
 その中にタッタ一匹、歓迎の意を表しない奴が居る。隅っ子の特別の金網に入れられて息も絶え絶えに屁古垂《へこた》れている汚ならしいフォックス・テリヤだ。見忘れもしないこの間、山木|混凝土《コンクリート》氏の玄関前から掻《か》っ攫《さら》った一件だ。

   色男医学士

 吾輩はツカツカとその金網に近づいてブルブル震えている犬《やつ》を抱き上げた。犬さえ見付かれや他に用は無い。持って帰って山木テル子嬢に引渡せばいい……と思って抱き直すトタン犬の肋骨がゾロッと手に触ったのでゾッとしてしまった。見るとアンマリ弱り方が甚しい。骨と皮ばかりになっている上に、鼻の頭がカラカラに乾いてしまって、瞳孔の開いた眼脂《めやに》だらけの眼で悲しそうに吾輩を見上げているが尻尾を振る元気も無いらしい。一体これはどうした事かと、明るい窓の下へ持って行ってよく見ると、弱っている筈だ。咽喉《のど》を切り開いて金属製の鵯笛《ひよぶえ》みたいなものを嵌《は》め込まれている。その小さいブリキ板の中央の穴からスウスウと呼吸をしているのが如何にも苦しそうだ。よくジフテリヤに罹《かか》った子供が、咽喉が腫《は》れ塞《ふさ》がって咽喉切開の手術をされたあとに嵌めてもらっているアレだ。こうした錻力《ぶりき》製の呼吸孔の事を医学用語ではカニウレと云うのだが、和訳したら金属製咽喉笛とでもなるのかな。
 さてはこのフォックス・テリヤ氏、UTA《ウータ》君はジフテリヤにでも罹《かか》ったのかな。そうとすればこの容態ではトテモ助からない。おまけに熱も相当に在るようだが……弱ったな。黙って持って行くつもりだったが、コンナ容態では持って帰るうちにグウタになっちまうかも知れない。ハテ、何とか方法は無いものか……と、ガタガタ震えている犬を抱えてシキリに考えているところへ、背後から音もなく猫のように忍び寄って来て、吾輩の肩にソット手を置いた奴が居る。振返ってみると、タッタ今考えていた当の本人の羽振医学士だ。悪いところへ来やがったと思ったが、しかし何度会ってもいい男だ。毛唐《けとう》で破廉恥脳《バレンチノ》という女たらしの映画俳優が居たがソイツによく肖《に》ている。頭をテカテカに分けて白い診察服を着込んでいる恰好はモウ立派な博士様だ。
「……今日は……鬚野先生。いい犬が見付かりましたかね」
「イヤ、今日は駄目だ。それよりもこの犬はドウしたんかい。ジフテリヤでもやったんかい」
「アッ、この犬ですか」
「知っとるのかい、この犬を……」
「存じております。一ケ月ばかり前に頂戴しましたフォックス・テリヤで……」
「そうじゃない。この犬がどこの家の犬だか知っとるのかと云うんだよ……君が……」
「……………」
 羽振医学士の顔がサット青くなった。どうやら知っているらしい眼の玉の動かし方だ。
「知らん筈はないじゃろう。あの家《うち》の犬ということを」
「存じません。ドコの犬だか……貴方がどこかからかお持ちになったのですから……」
「この犬は山木テル子さんの犬だよ」
「ヘエ、山木テル子さん……存じませんな、ソンナ方……」
「ナニ知らん……」
「ハイ、まったく……その……」
「ウン、キット知らんか……」
「……ぞ……ぞんじません。そんな方……まったく……」
 博士の卵が汽車の信号みたいに青くなったり赤くなったりした。しかし汽車の信号でも何でもモウ相場がきまっている。自分が結婚を申込んだ女の名前を忘れるようなウンテレガンが在るもんじゃない。コイツは多分、この犬の名前がウータといって、自分の恋敵《こいがたき》、唖川歌夫からテル子嬢に贈ったものである事もチャンと知っていやがるに違いない。そいつを承知でコンナ非道《ひど》い眼に合わせて、いい気持になっている事が吾輩にわかったら事が面倒だと思って、障《さわ》らぬキチガイ祟《たた》りなし式に、最初から警戒しいしい口を利いているのだろう。コンナ誠意のない奴にあの親孝行無双の断髪令嬢を遣る訳には断然イカン。
「フン、知らんなら知らんでええ。その代りにこの犬の病気を出来るだけ早く治癒《なお》せ」
「アッ。そ……そいつはドウモ……」
「出来んと云うのか」
 吾輩の見幕を見た羽振医学士がブルブル震え出した。すこしずつ後退《あとしざ》りをし始めた。
「ハ……ハイ。それはソノ……結核の第三期にかかっておりますので……ハイ……」
「変な事を云うな。最初から第三期か」
「イエ。その最初が初期で……その次が第二期で……」
「当り前の事を云うな。篦棒《べらぼう》めえ。最初から結核だったのか、この犬は」
「ソ……それがソノ……実験なんで……」
「何の実験だ……」
「それがソノ……今までジフテリヤにかかって手遅れになりますと、咽喉切開をして、その切開した部分へコンナ風にカニウレを嵌めます。ところがそのカニウレの穴から呼吸をすると色々な呼吸器病にかかる事がありますので……」
 アンマリ真面目腐って講釈をするもんだから吾輩はちょっと嘲笑《あざわら》ってみたくなった。

   惜しい鼻柱

「フウム。このカニウレを嵌《は》めた奴は人間でも犬猫でもこの通りチョット高襟《はいから》に見えるから、一つ流行《はや》らしてやろうかと思っていたところじゃが、そんなに有害なものかのう」
「人間の鼻というものは実に都合よく出来ておりますもので……」
「当り前だ。バレンチノだって鼻で持っているんだ。羽振先生だってそうだろう」
 羽振先生、思わず自分の鼻を撫でた。聊《いささ》かバレンチノを自覚していると見える。
「その……当り前でして……鼻の穴の一番前に鼻毛がありまして、その奥に粘膜があります。それから咽頭を通って空気を吸込みますので、その間に色々な黴菌《ばいきん》や、塵埃《ほこり》が、鼻毛や粘膜に引っかかって空気がキレイになります上に、適当な温度と湿気を含んで、弱い、過敏な咽喉を害しないように出来ておりますので……」
「ウン。成る程のう……ところで加賀の国の何代目かの殿様は、家老や奥女中から笑われるのも構わずに鼻毛を一寸以上伸ばして御座ったという話だが、アレは君が教えたのか」
 バレンチノが長い、ふるえたタメ息をした。
「ヘエ。存じませんが……そんな方……」
「よく知らん知らんと云うのう。それじゃ鼻毛のよく伸びる奴は、大てい女好きで長生きをするものだが……俺なんかは無論、例外だが……アレはやっぱりホルモンの関係じゃないのか」
「サア、わかりませんが。研究中ですから……」
「そんな研究ではアカンぞ」
「ヘエ、相済みません」
「俺に謝罪《あやま》ったって始まらんが……それからドウしたんだ今の話は……」
「ヘエ、何のお話で……」
「アタマが悪いのう君は……イクラか蓄膿症の気味があるんじゃないか君は……それともアデノイドか……」
「そんな事は絶対に御座いません」
「成る程、君はその方の専門だったね、失敬失敬。今の鼻毛の話よ。鼻毛は健康の礎《もとい》……ホルモンのメートルだという……」
「ヘエ、そうなんで……ところがその咽喉に有害な黴菌や塵埃を含んだ乾燥したつめたい空気をこのカニウレから直接に吸込みますと、直ぐに咽喉を害しますので、そこへ色々な黴菌がクッ付いて病気を起します。この犬なぞも御覧の通り切開手術をしてやりますと間もなく結核を感染しまして……」
「成る程。それが実験なのか」
「左様《さよう》で。切開手術の練習にもなります」
「フン。余計なオセッカイずくめだな。君の実験は……」
「どうも相済みません」
「よくあやまるんだな君は……ところでこの犬結核はドウなるんだ」
「ハイ。いよいよカニウレが有害な事がわかれば、その次には羽振式のカニウレを作りまして、決してソンナ心配のないように致しますので……」
 羽振学士の顔色が、ダンダンよくなって来た。
「ふうむ。ソレ位の事で博士になれるのか」
「なれる……だろうと思いますので……」
「うむ。マアなるつもりでセイゼイ鼻毛を伸ばすがいい。ところで改めて相談するが、この犬の結核を何とかして治癒《なお》す訳には行かんのか」
「さあ。コイツは一寸《ちょっと》なおりかねます」
「博士になれる位なら、犬の結核ぐらいは何でもなく治癒せるじゃろう」
「ハハハ。なんぼ博士になりましても、コンナ重態の奴はドウモ……」
「モトモト君が結核にしたんじゃないか……この犬は……」
「……そ……それはそうですけれども、治癒すとなりますとドウモ……」
「ふうむ。そんなら君は病気にかける方の博士で、治癒す方の博士じゃないんだな」
「……そ……そんな乱暴なことを……モトモト実験用に買った犬ですから僕の勝手に……」
「……黙れ……」
「……………」
「いいか。耳の穴をほじくってよく聞けよ。貴様は空呆《そらとぼ》けているようだが、貴様がこの頃、婚約を申込んでいる山木のテル子嬢はなあ、この犬を洋行土産に呉れた唖川歌夫……知っているだろう、貴様の恋敵に対して済まないと云って、泣きの涙で日を暮らしているんだぞ。その犬が自宅《うち》に居ないと歌夫さんに来てもらえないと云って瘠《や》せる程苦労しているんだぞ。その真情に対しても貴様はこの犬を全快させる義務があるんじゃないか。貴様は貴様の愛する女の犬を結核に罹《かか》らせてコンナに骨と皮ばかりに瘠せ衰えさせるのが気持がいいのか。それともこの犬が偶然に手に入ったのを幸いに、知らん顔をして実験にかけて弄《なぶ》り殺しに殺して、唖川小伯爵と山木テル子嬢の中を永久に割《さ》こうという卑劣手段を講じているのか」
「……そ……そんな乱暴な……メチャクチャです。貴方の云う事は……ボ……僕と……そ……そのテル子嬢とは……マ……全く無関係……」
「ナニ卑怯なッ……」
 吾輩は思わず犬を放り出して羽振学士の横面《よこつら》を力一パイ啖《く》らわせた。和製バレンチノが一尺ばかり飛上って、傍の猫の籠の上にブッ倒れて、そのままグッタリと伸びてしまった。その拍子に鉄網《かなあみ》の蓋が開いて、猫が二三匹ハヤテのように外へ飛出した。
 吾輩はその猫と一緒に動物飼養場を飛出した。
 アトから聞いたところによると羽振学士は、大切な鼻の骨が砕けて重態に陥ったので、早速、直ぐ近くの大学耳鼻科へ担《かつ》ぎ込んで、お手の物で修繕したので、間もなくモトの鼻以上の立派な鼻をオッ立ててピンピン歩き出したという事であるが、考えてみると殴った場所が悪かった。モット取返しの附かない処で、鼻柱を引っ剥《ぺが》しておけばよかった。アンナ卑怯な奴が博士になったら何をするかわからない。

   街頭劇名監督

 少々荒療治ではあったが山木断髪令嬢の愛犬|UTA《ウータ》を中心として渦巻くピンク色ローマンスの半分は、これで片付いたようなもんだ。
 吾々のルンペン道は甚だ簡明|直截《ちょくせつ》である。
 名誉や金銭に縛られて心にもない妥協をしたり苟合《こうごう》したり、腐敗したり、堕落したりして、純真な恋を踏み蹂《にじ》ったり、引歪《ひきゆが》めたり、売物買物にしたりする紳士淑女たちの所謂《いわゆる》、社交道徳なんていうものとは根柢《シキ》が違うんだ。アッパカットか……キッスか……この二つ以外に行く道はないんだ。天道様《てんどうさま》と青天井以外に頭を下げる者がないから自然、物事がそうなるんだ。清浄潔白なもんだ。
 吾輩はそうしたルンペン道の代表者である。ユキアタリ・バッタリ映画、オール・トーキー、天然色、浮出し、街頭ローマンスの名監督である。純真|生一本《きいっぽん》の恋以外には取上げない運命の神様である。だからその純真生一本の盲目の恋だったらイツ何時《なんどき》でも引受る。身分が何だ。財産が何だ。名誉が何だ。そんなものは犬に喰われろだ。丸裸になって青天井の下で抱き合えだ。……アハハハハ……と笑い出したら、そこいらで遊んでいた子供連がバラバラと軒の下へ逃込んだ。アハハ。少々キチガイじみていたかな。

   裸体女四五人

 ところで少々腹が北山になって来た。どこかで飯を喰って、将来の方針をトックリと一つ考えてみる事にしよう。何をいうにも羽振学士をナグリ飛ばして、肝腎カナメのUTA《ウータ》を放《ほ》ったらかして万事を絶望状態に陥れて来たばかりのところで、将来の筋書がまだチットモ出来ていないんだから困る。野球なら満塁《フルベース》ツースリーというところだろう。ここで飯を喰って考えなくちゃ嘘だ。
 篦棒《べらぼう》めえ、キチガイだって腹は減るんだ。猿の出世したのが人間で、人間の立身したのがキチガイで、キチガイの上が神様なんだから、まだ全智全能とまでは行きかねる吾輩だ。腹が減って相談相手が欲しくなるのは当り前だ。
 どこか美味《うま》そうな安いものを売っている店はないか知らんとそこいらを見まわしたが、何しろ学校の近くだから見渡す限り本屋、文具屋、牛乳店、雑貨商みたいなものばかりだ。腹の足しになりそうな店なんか一軒もない。
 ところがそこから二三十歩あるく中《うち》に……見付かった。狭い横路地のズッと奥の行止りの処に赤い看板が見える。近寄ってみると真赤な硝子《がらす》に金文字で「御支那料理」「上海亭《シャンハイてい》」と書いて在る。どうせインチキの支那料理だろうと思って近寄ってみると豈計《あにはか》らんや、インチキでない証拠に、店の張出し窓の処にワンタン十銭、シウマイ十銭、チャアシュウ十銭、支那ソバ五十銭と書いた木札を立てて実物が陳列して在る。その上の棚に色んな形の洋酒の瓶がズラリと並んでいるが、コイツも本物とすれば大したものだ。
 吾輩の咽喉《のど》がキューと鳴った。先ず劈頭《へきとう》のヒットを祝するつもりで一杯傾けるかナ。
 表の硝子扉《がらすど》を押して中に這入ると真暗だ。おまけにシインとしていて鼠一匹動かない。コンナ飲食店はお客が這入ると直ぐに黄色い声で「イラッシャイ」と来ないと這入る気にならないもんだ。ドンナ名医でも病室に這入ると直ぐに「イカガデス」とニッコリしない奴は、病人の方でホッとしないもんだ……何《なん》かと考えながらアンマリ静かなので不思議に思って、直ぐ横の自由|蝶番《ちょうつがい》になった扉をグーッと押開くと驚いた。
 瓦斯《がす》ストーブの臭気が火事かと思うほどパアッと顔を撲《う》った。
 同時に耳の穴に突刺さるような超ソプラノが、一斉に「キャーッ」と湧起《わきおこ》ったと思うと、若い女の白い肉体が四ツ五ツ、揚板をメクられた溝鼠《どぶねずみ》みたいに、奥の方へ逃込んで行った。
 お客様を見てキャーッと云う手はない。しかもダンダン暗がりに慣れて来た眼でそいつ等の後姿を見ると、揃いも揃った赤い湯もじ一貫の丸裸体《まるはだか》で髪をオドロに振乱しているのには仰天した。真昼《まっぴる》さ中《なか》から化物屋敷に来たような気持になってしまった。
 部屋の中は天井から床まで赤ずくめで、赤漆塗《あかうるしぬり》の卓が四ツ五ツ排列して在る間に、赤唐紙張《あかとうしばり》の屏風《びょうぶ》が仕切ってある。その片隅の大きな瓦斯暖炉の前の空隙《すきま》に、籐《とう》の安楽椅子が五ツ六ツ並んで、五月だというのに瓦斯の火がドロドロと燃えている。
 四壁に沁み込んだ脂肪と薬味の異臭が引切りなしに食慾をそそる。
 やっぱり支那料理屋かな。

   クシャミ行列

 めんくらった吾輩がポカンとなったまま部屋のマン中に突立っていると、奥の方の料理部屋らしい処で声がする。向うでは聞こえないつもりらしいが、よく聞こえる。今の女連中の声だ。
「……表の扉《と》をナゼ掛けとかなかったの」
「困るわねえ。今頃来られちゃ」
「ああ怖かった。まるで熊みたい……ビックリしちゃったわ」
「まだ居るの」
「ええ。あそこに突立ってギョロギョロ睨《にら》みまわしているわよ」
「イヤアねえ。何でしょう、あの人……」
「あれルンペンよ。物貰いよ」
「誰か一銭遣って追払って頂戴よ」
「だってこの恰好じゃ出られやしないわ」
「お神さんどこに居んの」
「二階に午睡《ひるね》してんのよ」
「お初ちゃん呼んで頂戴……一銭遣って頂戴って……ね……」
「早くしないと何か持ってかれるわよ。早くさあ」
 と云ううちにミシミシと二階へ上って行く足音がする。
 きょうは妙な日だ。
 百万長者の娘に平身低頭されて、支那料理屋の女に泥棒扱いにされる。
「ああ寒《さむ》……急に寒くなっちゃった」
「ストーブの傍に居たからよ」
「……おお寒い。風邪を引いちゃった。ファックシン」
「あたしも寒くなっちゃった。ヘキスン……ヘッキスン……」
「ハックシン……フィックシイン。風邪が伝染《うつ》ったよ」
「ファ――――クショォ――ン。ウハァ――クショ――ン……コラ……」
「ホホホ。乱暴な嚏《くしゃみ》ねえ。アンタのは……」
「ああ。涙が出ちゃった」
「まだ洗濯物……乾かないか知ら……」
「一度に洗濯するのは考えもんよ」
「だって隙《ひま》がなけあ仕方がないわ」
「あんまりお天気が良過《よす》ぎたのが悪かったんだわ」
 二階から二人ばかり足音が降りて来た。
「呆れたねえ。何故表の扉《と》をシッカリ締めとかなかったの……折角《せっかく》ヒトが良《い》い気持ちで寝てたのに……フィックシイン……」
 と云う女将《おかみ》らしい声がして、コック部屋兼帳場の入口の浅黄色の垂幕の蔭から、色の青黒い、眦《まなじり》の釣上った、ヒステリの妖怪《おばけ》じみた年増女の顔が覗いたと思うと、茫然として突立ている吾輩とピッタリ視線を合わせた。
「アラッ……先生じゃ御座いませんの……まあ……お珍らしい……よくまあ」
 と云ううちに浅黄色の垂幕を紮《から》げて出て来た。生々しい青大将色の琉球|飛白《がすり》を素肌に着て、洗い髪の櫛巻《くしまき》に、女たちと同じ麻裏の上草履《うわぞうり》を穿《は》いている。コンナ粋な女に識合いはない筈だがと、吾輩が首をひねっているにも拘《かか》わらず、女将は狃《な》れ狃れしく近寄って来て、溢《あふ》るるばかりの愛嬌を滴《したた》らしながら椅子をすすめた。

   拳骨辻占

「まあ……どうも飛んだ失礼を致しまして……場所慣れない若いものばかりなもんですから……お見外《みそ》れ申しまして……さあどうぞ……ほんとにお久し振りでしたわねえ。御無沙汰ばかり……」
「馬……馬鹿云え。お珍らしいって俺あ初めてだぞ。お前みたいな人間には生れない前から御無沙汰つづきなんだぞ……テンデ……」
「オホホホホホホホ……」
 女将の嬌笑が暗い部屋に響き渡った。その背後《うしろ》の浅黄幕《あさぎまく》の間から、ビックリ人形じみた女たちの顔が、重なり合って覗いている。
「オホホホ……恐れ入ります。まったくで御座いますよ先生。この町中の水物屋《みずものや》で、先生のお顔を存じ上げない者は御座いませんよ」
「ハハア。俺に似た喰逃《くいにげ》の常習犯でも居るのか……」
「まあ、御冗談ばかり……それどころでは御座いませんよ先生。先生のお払いのお見事な事は皆、不思議だ不思議だって大評判で御座いますよ」
「ううむ。扨《さて》は夜稼《よかせ》ぎ……という訳かな」
「そればかりでは御座いませんよ。いつも一杯めし上ると声色《こわいろ》使いや辻占《つじうら》売り、右や左なんていう連中にまで、よくお眼をかけ下さるので、そのような流し仲間では先生のお姿を拝んでいるので御座いますよ。先生は福の神様のお生れ変りで、いつもニコニコしておいでになるから縁起《えんぎ》がよいと申しましてね。どこの店でも心の中で先生のお出でを願っているので御座いますよ先生……」
「……ああ、いい気持ちだ。汗ビッショリになっちゃった。本気にするぜオイ……」
「嫌《いや》で御座いますよ先生。私がまだ十一か十二の時に、両親の病気を介抱しいしいコチラの遊廓で辻占を売っておりました時分に……」
「アッ。君はあの時の孝行娘さんかえ。これあ驚いた。そういえばどこやらに面影が残っている。非道《ひど》いお婆さんになったもんだね」
「まあ。お口の悪い……でも先生はあの時からチットも御容子《おようす》がお変りになりませんわね。昔の通りのお姿……」
「アハハ。貴様の方がヨッポド口が悪いぞ。変りたくとも変れねえんだ」
「アラ。そんな事じゃ御座いませんわ」
「おんなじ事じゃないか」
「……でも、そのお姿を見ますとあの時の事を思い出しますわ。『ウーム。貴様が新聞に出ていた孝行娘か。こっちへ来い。美味《うま》いものを喰わせてやる』と仰言《おっしゃ》って、お煙草盆に結《ゆ》った私の手をお引きになって、屋台のオデン屋へ連れてってお酌をおさせになるでしょう。それから私の手をシッカリ掴んで廓の中をよろけ廻りながら御自分で大きな声をお出しになって『河内《かわち》イ――瓢箪山《ひょうたんやま》稲荷《いなり》の辻占ア――ッと……ヤイ。野郎……買わねえか』と云う中《うち》に通りすがりの御客を、お捕まえになるでしょう。あんな怖い事は御座いませんでしたわ。『何をパチクリしていやがるんだ篦棒《べらぼう》めえ。マックロケのケエの手習草紙みたいな花魁《おいらん》の操《みさお》に、勿体ない親御様の金を十円も出しやがる位なら、タッタ二銭でこの孝行娘の辻占を買って行きやがれ。ドッチが無垢《むく》の真物《ほんもの》だか考えてみろ。ナニイ、五十銭玉ばっかりだア。嘘を吐《つ》け。蟇口《がまぐち》を見せろ。ホオラ一円札があるじゃないか。コイツを一枚よこせ。釣銭なんかないよ。お釣が欲しかったら明日《あした》の朝、絹夜具の中で花魁から捻《ね》じ上げろ。ナニ、高価《たけ》え?……シミッタレた文句を云うな。勿体なくも河内瓢箪山稲荷の辻占だ。罰が当るぞ畜生。運気、縁談、待人、家相、病人、旅立の吉凶《よしあし》、花魁の本心までタッタ一円でピッタリと当る。田舎一流|拳骨《げんこつ》の辻占だ。親の罰より覿面《てきめん》にアタル……この通り……ポコーン……』とか何とか仰言って、買ってくれた人の横ッ面《つら》を……」
「ハハハ。そんな事があったっけなあ。酔払っていたものだから忘れてしまったわい」

   支那料理

「あれから私いろいろと苦労致しましたわ。両親に死別れてから芸妓《げいしゃ》になったり、落語家《はなしか》の兄さんとくっ付いて料理屋を始めたり、それから上海に渡って水商売をやったりして、いくらか大きく致しておりますうちに、上海の戦争で亭主の行方がわからなくなりますし、御贔屓《ごひいき》の旦那様からは見放されるしでね。いくらかスコ焼けになりまして……先生にお隠ししたって始まりませんから、真実《ほんと》のところを申上げるんですけど……私を見放した人には怨《うら》みが残っておりますし、ここに居ります娘さん達が、私から離れませんものですから、一つ乗るか反《そ》るかで日本へ帰りまして、やっと二三箇月前にこんな横ッチョへ店を開きましたのに、モウ先生がお出で下さるなんて縁起がいいどころじゃ御座いませんわ。あたしゃ嬉しくって嬉しくって、胸がモウ一パイ……」
 と云ううちに吾輩の胸へ縋《すが》り付きメソメソ泣き出した。
「いい加減にしろよ。若い女たちが見てるじゃないか。モウ一遍俺の手に縋って辻占を売りに出る年でもあるめえ」
「……これからもドウゾこの店の事を、よろしくお頼み申上ます……誰も……どなたも……相談相手になって下さる方がないのですから」
「フウム、成る程。そういえば何もかも新しいようだナ。何だってコンナ処に支那料理屋なぞ作ったんだ」
「ホホホ。恐れ入ります。どうも表通りにはいい処が御座いませんので、それに支那料理なんて申しますと、どうも横町じみた処が繁昌いたしますようで……」
「イカニモなあ、ところでホントに支那料理が在るのか」
「オホホ。御冗談ばかり。チャント御座いますわ」
「怪しいもんだぜ。真昼間《まっぴるま》、表を閉めて、女将さんが二階でグウグウ午睡《ひるね》をしている支那料理といったら大抵、相場はきまってるぜ」
「ホホ。相変らずお眼鏡で御座いますわねえ。どうぞ御遠慮なく御贔屓に……ヘヘヘヘ……」
「変な笑い方をするなよ。今日は飯を喰いに来たんだ。腹が減って眼が眩《くら》みそうなんだよ」
「……まあ……気付きませんで……御酒《ごしゅ》はいかが様で……」
「サア。酒を飲むほど銭《ぜに》があるかどうか」
「ホホホ。御冗談ばかり。いつでも結構で御座いますわ。見つくろって参りましょうね」
「ウム。早いものがいいね。それから今のお嬢さん達もこっちへ這入って火に当らせたらどうだい。相手は俺だから構うことはない。裸体《はだか》ズレがしているルンペン様だから恥かしい事はないよ。素裸体《すっぱだか》の方が気楽でいいんだ。序《ついで》に生命《いのち》の洗濯をさしてやろう。面白い話があるんだから……」
「オホホ。あの子たちは今日お天気がいいもんですから、お客の少ない昼間のうちに申合せて着物のお洗濯をしているのですよ。その着換えが御座いませんので、仕方なしにゆもじ一つでストーブへ当っておりますところへ、先生が入《い》らっしたもんですから、ビックリして逃げて行ったので御座いますよ。ホホホ。でもねえ、まさか先生の前に裸体で出られやしませんからね、若い女ばかりですから……」
「馬鹿云え。先祖譲りの揃いの肉襦袢《にくじゅばん》が何が恥かしいんだ。俺だってこの二重マントの下は褌《ふんどし》一つの素っ裸体なんだぞ。構わないからみんなこっちへ這入らせろ」
「ホホホホホホホホホ。かしこまりました」
 女将は嬌笑しいしいイソイソとコック部屋へ引上げると間もなくポーンと瓦斯焜炉《がすこんろ》へ火の這入る音がした。この家《うち》の支那料理は女将が自身で作ると見える。序《ついで》にヒソヒソと女達へお説教をしている声がハッキリと聞えて来る。
「サアサアみんな先生の処へ行っといで。あの先生を知らないのかい。鬚野先生と云って有名な方だよ。トテモさっぱりしたお方なんだよ。弱い女や貧乏人の味方ばっかりしておいでになる福の神様なんだよ。先生に顔を見覚えて頂くだけでキットいい事があるんだよ」
「だって女将さん……」
「何ぼ何だってこのままじゃあんまりだわ」
 吾輩は隙《す》かさず立上って怒鳴った。
「ナアニ構わん構わん。そのまんまでこっちへ這入れ。お前たちと話してみたいんだ。俺が今引受けている素敵なローマンスの話をして、お前たちの意見を聞いてみたいんだ。這入れ這入れ。這入ってくれ。風邪を引くぜ」
「……ほら……ね。あんなに仰言るんだから構わないんだよ。あの先生は人間離れした方なんだから。恥かしい事なんか無いんだよ」
「さあさあイラハイイラハイ。大人は十銭、子供は五銭、ツンボは無代償《ただ》。吾輩がこれから自作の歌を唄って聞かせる。ルンペンの歌だ。裸ん坊の歌だ。昭和十年の超人の歌だ。エヘンエヘン。さあさあ這入って来たり這入って来たり。
 ああああああああア
 歌が聞きたけあア――野原へお出《い》でエ――
 青空の歌ア――恋の歌ア――
 あああああああア
 生命《いのち》棄てたけア――満洲へお出でエ――
 遠い野の涯エ――河の涯エ――
 アハハハハ。どうだい。いい声だろう。出て来なけあ、まだまだイクラでも唄ってやるぞ。ハハハハハ」
 ソッと聞いていた女たちが、一人一人恐る恐る眼をマン丸にして這入って来た。吾輩の歌に感心したらしく、気抜けしたような恰好で、吾輩の周囲《まわり》を取巻きながら、椅子に腰を卸《おろ》した。
 そうして一心に吾輩の姿を見上げている半裸の若い女たちの姿を見まわすと吾輩は、森の妖精《ニンフ》に囲まれた半獣神《パン》みたような気持になった。
「いい声ねえ。おみっちゃん」
「上海《しゃんはい》にだって居ないわ」
「惜しいわねえ。コンナに町をブラブラさして……ホホ」
 ……ソレ見ろ……と吾輩はすこし得意になった。イキナリ椅子から立上って山高帽を冠り直したもんだ。
「エエ。こちらはJORK東京放送局であります。只今……エート……只今午後二時二十七分から、支那料理が出来上ります。空腹のお時間を利用して、昼間演芸放送を致します。演題は『街頭歌二曲』、最初は野尻雪情《のじりせつじょう》氏作『銀座の霧』、次は南原黒春《みなみはらこくしゅん》氏作『赤い帽子』、デタラメ・レコード会社専属鬚野房吉氏作曲、自演……了々軒ストーブ前から中継放送……誰だい手をタタク奴は。
    銀 座 の 霧
 夜の銀座にふる霧は ほんに愛《いと》しや懐かしや
 敷石濡らし灯《ひ》を濡らし 可愛いあの娘《こ》の瞳《め》を濡らす
 夜の銀座にふる霧は ほんに嬉しや恥かしや
 帽子を濡らし靴濡らし 握り合わせた手を濡らす

    赤 い 帽 子
 この世は枯れ原ススキ原 ボーボー風が吹くばかり
 赤い帽子を冠ろうよオ――
 赤い帽子が真実《ほんとう》の タッタ一つの泣き笑い
 道化踊りを踊ろうよオ――
 ああくたびれた」
「お待遠《まちどお》様。やっとお料理が出来ました。御酒《ごしゅ》は何に致しましょうか。老酒《ラオチュ》、アブサン、サンパンぐらいに致しましょうか」
「ウワア。そんなに上等の奴はイカン。第一|銭《ぜに》が無い」
「オホホ。恐れ入ります。御心配なさらなくともいいんですよ。[#「いいんですよ。」は底本では「いいんすよ。」]これはJORKからのお礼ですから」
「そんなに煽《おだ》てると今度は踊りたくなるぞ」
「どうぞ今日はお願いですから御存分に皆を遊ばしてやって下さいまし。さあさあお前達は何をボンヤリしているの……お酌をして上げなくちゃ」
「アハハハ。これあ愉快だ。裸一貫のお酌は天《あま》の岩戸《いわと》以来初めてだろう」
「妾《わたし》にもお盃を頂かして下さい」
「オイ来た。ところでお肴《さかな》に一つ面白い話があるんだが聞かしてやろうか」
「相済みません。先生にお酌を願って……どうぞ伺わして下さい」
「ウム。スレッカラシの君が聴いてくれるとあればイヨイヨありがたい。アハハ、憤《おこ》るなよ。スレッカラシというのは世間知りという意味だよ」
「面白いお話って活動のお話ですか」
「そんなチャチなんじゃない。ありふれた小説や芝居とは違うんだ。みんな現在、お前さんたちの眼の前で……この吾輩の椅子の上で進行中の事件なんだ。しかも、そこいらの活動のシナリオよりもズット面白い筋書が現在こうして盃を抱えながら進行しているんだから奇妙だろう――」
「まあ。それじゃ妾たちもその事件の中で一役買っているので御座いますか」
「もちろんだとも。しかもその筋書の中でも一番重要な役廻りを受持って、これから吾輩を主役としたスバラシイ場面を展開すべく、タッタ今活動を始めたばかりなんだ。モウ逃げようたって逃げる事が出来なくなっているんだ」
「まあ。否《いや》で御座いますよ先生、おからかいになっちゃ……気味の悪い……」
「イヤ。断然、真剣なんだ。まあ聞け……コンナ訳だ」
 吾輩はそこで今朝《けさ》からの出来事を出来るだけ詳しく話して聞かせた。
「どうだい。みんなわかったかい。だから詰まるところこうなるんだ。今度の事件は一切合財、みんな偶然の出鱈目《でたらめ》ばかりで持ち切っているんだ。吾輩が断髪令嬢の御秘蔵の犬と知らずに掻《か》っ払《ぱら》ったのも偶然なら、その犬を断髪令嬢の恋敵《こいがたき》の医学士の所へ持って行って売付けたのも偶然だ。しかもその犬が世界に二匹と居ない名犬だったのも偶然なら、その犬が肺病の第三期にかかったのも偶然。そこへ羽振医学士が又、偶然に来合わせて、吾輩が振りまわす拳固《げんこ》を高い鼻の頭で受け止めたのも偶然だ。つまるところ、そこに神様の思召《おぼしめし》が働いているに違いないと思うんだが、ドウダイ議員諸君……」
 議員諸君が顔と顔を見合わせ始めた。
「まあ……羽振っていう人は、あのウチへ来る医学士さんじゃないの……男ぶりのいい……ねえ女将《おかみ》さん」
「あのバレンチノさんよ。ね、お神さん。キットそうよ」
 女将が眼を白くして首肯《うなず》きながら襟元を突越した。椅子の上から一膝《ひとひざ》進めた。
「まあ。只今の先生のお話は、みんな本当で御座いますの」
「何だ。今まで作りごとだと思って聞いていたのかい」
「……ド……どこに居りますの。その医学士は……憎らしい」
「オットット、そう昂奮するなよ。何も直接にお前たちと関係のある話じゃないだろう」
「それが大ありなんですよ、馬鹿馬鹿しい」
 と女将が大見得《おおみえ》を切った。
「ふうん。女将さんと関係があるのかい」
「あるどころじゃないんですよ、阿呆《あほ》らしい。あの羽振といったらトテモ非道《ひど》いカフェー泣かせなんですよ。男ぶりがいいのと、医学士の名刺に物をいわせて、方々のカフェーを引っかけまわって、この家《うち》にだっても最早《もう》、二百円ぐらい引っかかりがあるんですよ。新店《しんみせ》だもんですから、スッカリ馬鹿にされちゃったんですよ。口惜しいったらありゃしない」
「フーム。そんな下等な奴だったのかい、アイツは……そんならモット手非道《てひど》く頬桁《ほおげた》をブチ壊してやれあよかった」
「そして……ド、どこに居るんですか」
「多分、耳鼻咽喉科かどっかに入院しているだろう」
「……あたし行って参りますわ。直ぐそこですから……ちょっと失礼……」
「ちょっと待て……」
「いいえ、棄てておかれません。今まで何度となく勘定書を大学に持って行ったんですが、どこに居るかサッパリわかりませんし……タマタマ姿を見付けても案内のわからない教室から教室をあっちへ逃げ、こっちに隠れしてナカナカ捕まらないのですよ。入院していれあ何よりの幸いですから……ちょっと失礼して行ってまいります」
「ま……ま……待て……待てと云ったら……いい事を教えてやる。確実に勘定の取れる方法を教えてやる。アイツは現金なんか持ってやしないよ」
「それはそうかも知れませんわねえ」
 女将は、すこし張合抜けがしたように椅子へ引返した。
「それよりもねえ、彼奴《あいつ》の親父の処へ勘定を取りに行くんだ」
「まあ。彼奴の家《うち》を御存じですの……それがわからないお蔭で苦労しているんですよ。誰なんですか一体、羽振さんの親御さんは……」
「知らないのかい」
「存じませんわ。教えて下さいな」
「あの有名な貴族院議員さ」
「まあああああ――アアア」
 五六人の女が部屋の空気を入れ換えるくらい大きな溜息をした。そのマン中に女将は頭を下げた。
「ありがとう御座います鬚野先生……ありがとう御座います。それさえ解れば千人力……」
「ま……ま……まあ早まるな。相手の家はわかっても、なかなかお前たち風情《ふぜい》が行って、おいそれと会ってくれるような門構えじゃないよ。万事は吾輩の胸に在る。それよりも落付いて一杯|注《つ》げ……ああいい心持になった。どうも婆《ばばあ》のお酌の方が実があるような気がするね」
「お口の悪い。若い女でも実のあるのも御座いますよ。ここに並んでおります連中なんか、上海でも相当の手取りですからね」
「アハハハ。あやまったあやまった。お見外《みそ》れ申しました。イヤ全くこんな酒宴《さかもり》は初めてだ」
「日本は愚か、上海にも御座いませんよ」
「ところでどうだい。最前からの話の筋の中で、羽振医学士の方は、吾輩の拳骨一挺で簡単に型が付いた訳だが、今一人居る断髪令嬢の許嫁《いいなずけ》の小伯爵、唖川歌夫の方はドウ思うね、諸君。その親孝行の断髪令嬢のお婿《むこ》さんに見立てて、差支え無いだろうか。吾輩は赤ゆもじ議員諸君の御意見通りに事を運びたいのだが……」
「ほんとに貴方は神様みたいなお方ですわねえ。何もかも見透して……」
「ところが、今度の事件に限って吾輩は、すこし取扱いかねているのだ。未だその断髪令嬢の涙ながらの話を聞いただけなんでね。唖川小伯爵がドンナ人間だか一つも知らずにいるんだ。そこへ取りあえず羽振医学士にぶつかって、コイツはイケナイと気が付いたから、筋書の中から叩き出してしまった訳なんだが、しかし、これから先がどうしていいかわからないので困っているんだ」
「まったくで御座いますわねえ、わたくし共でも、見当が付きかねますわ」
「ウム。だから実は君等にこうして相談してみる気になったもんだがね、一つ考えてくれよ。いいかい。この吾輩が詰まるところ運命の神様なんだ。そうして君等の指図通りにこの事件の運命を運んでみようと思ってこうして相談を打《ぶ》っているんだ。ドンナ無理な筋書でも驚かない。ドンナ無鉄砲な場面でも作り出して見せようてんだから、一つ大いに意見を出してもらいたいね」
「……センセー……ホントに妾《わたし》たちの考え通りにして下さる?」
 吾輩の横に腰をかけていた一番若い、美しい、切前髪《きりまえがみ》の娘が瞳《め》を光らして云った。
「するともするとも。キットお前達の註文通りに筋書を運んで見せるよ。実物を使って実際に脚色して行くという斬新奇抜、驚天動地の世界最初の実物創作だ。喜劇でも悲劇でもお望み次第に実演させて見せる……」
「でもねえ先生……」
 女将の横に居る肥《ふと》っちょの一番肉感的な女が、細長い眉を昂《あ》げて、薄い唇を飜した。
「あたし疑問が御座いますわ」
「あたしもよ……どうも初めっからお話が変なのよ」
「あら、あたしもよ」
「ほう、みんな吾輩の話に疑問があるって云うんだな。ふうむ、面白い。念のために断っておくが、俺はチットばかりアルコールがまわりかけている。しかしイクラ酔っ払っても、話を間違えた事は一度も無い男だぞ」
「アラ、先生。そうじゃないんですよ。先生のお話がヨタだなんて考えてるんじゃありませんわ。先生のお話が真実百パーセントとして聞いても、あたし達の常識が受け入れられないところがあるから……」
「ウワア、こいつは驚いた。恐しく八釜《やかま》しいのが出て来た。何かい、君は弁護士試験か、高文試験でも受けた事があるのかい」
「そんなことありませんわ。これだけ五人でお給金を貯《た》めて上海の馬券を買って、スッカラカンになったことがあるだけですよ」
「イヤ、これはどうもオカカの感心、オビビのビックリの到りだ。君等にソレだけの見識があろうとは思わなかった」
「まったくこの五人は感心で御座いますよ。上海でこの店が駄目になりかけた時に、五人が腕に撚《より》をかけて、旦那を絞り上げて日本へ帰る旅費から、この店を始める費用まで作ってくれたので御座いますよ」
「……吾輩……何をか云わんやだ。この通りシャッポを脱ぐよ。君等こそプロレタリヤ精神の生《き》ッ粋《すい》だ。日本魂の精華だ。人間はそうなくちゃならん。その精神があれば日本は亡びてもこの了々亭だけは残るよ」
「そんな事どうでもいいじゃありませんか先生。それよりも今のお話ですね」
「うんうん。どこが怪しい」
「怪しいって先生……その唖川歌夫っていう人も、いい加減気の知れない人ですけど、そのコンクリート市会議員の断髪令嬢っていうのが、一番怪しい人物だと思いますわ」
「ふうむ。これは驚いた。何で怪しい。この事件の女主人公《ひろいん》が怪しいとは言語道断……」
「あたし久し振りに日本に帰って来たんですから、今の女の人の気持はよくわかりませんけどね、ソンナに内気な親孝行な人が、そんな年頃になるまで断髪しているものでしょうか……許嫁の人から貰った犬が居なくなったといって泣くような人が……」
「フウウム、これは感心したな。ナカナカ君等の観察は細かい。そこまでは考えなかった」
「ええ、きっと眉唾もんよ、そのお嬢さんは……」
「あたし日本の断髪嬢嫌いよ、テンデ板に附いていないんですもの。汚ない腕なんか出して……」
「アハハ、これあ手厳しい」
「当り前よ。腕を出すんなら子供の時分から腕を手入れしとかなくちゃ駄目よ。イクラ立派な肉附きの腕だっても、葉巻のレッテルみたいな種痘《ほうそう》のアトが並んでいたり、肘《ひじ》の処のキメが荒いくらいはまだしも、馬の踵《かかと》みたいに黒ずんで固くなって捻《つね》っても痛くも何ともないナンテいう恐ろしいのを丸出しにしているのは、国辱以外の何ものでもアリ得ないと思うわ」
「ヒヤア、これは恐れ入った。国辱国辱、正に国辱。銀座街頭の女はみんな落第だ」
「上海の乞食女《やち》にだってアンナのは一人も居やしないわ。どんな男でもあの肘の黒いトコを見たら肘鉄《ひじてつ》を喰わない中《うち》に失礼しちゃうわ」
「断髪だってそうよ。櫛目のよく通る日本人の髪を切るなんてイミ無いわ」
「まあ待て待て。脱線しちゃ困る。ほかの断髪嬢ならトモカク、あのテル子嬢の断髪なら、お母さん譲りだけあってナカナカ板に附いているぞ」
「おかしいわねえ。そんなお母さんだったら娘さんはイヤでも反感を起して日本髪に結《ゆ》うものだけど……妾《わたし》ならそうするわ」
「ちょいと先生。その伯爵様っていうのも妾、何だか怪しいと思うわ。先生のお話の通りだったら」
「フウン。容易ならん事がアトカラアトカラ持上って来るんだな、これあ。どこが怪しい、名探偵君……」
「だって、そんな冷淡な許嫁なんか恋愛小説にだって無いわ。せいぜい一日に一度ぐらいは訪ねて来なくちゃ嘘よ」
「それにねえ先生。その断髪令嬢のお父さんのコンクリート氏が引っぱられてからというもの、一度もそのお河童《かっぱ》さんの処に訪ねて来ないなんて、よっぽどおかしいわ」
「ねえ先生。これを要するにですねえ、先生」
 女将はボオッと来ているらしい。しきりに舌なめずりをして眼を据えた。
「ウフウフ。これを要しなくたっていいよ」
「いいえ。是非ともこれを要する必要が御座いますわ。どうも先生の仰言《おっしゃ》る実物創作の筋書っていうのは、カンジンの材料《テーマ》が二割引だと思いますわ」
「ヒヤッ。材料《テーマ》とおいでなすったね。どこでソンナ文句を仕入れたんだい」
「あたしの二代前の亭主が小説家だったんですもの。自然主義の大将とか何とか云われていたんですけど、創作なんか一度もしないで、実行の方にばかり身を入れちゃって、とうとう行方知れずになったんですからね。材料《テーマ》って言葉は、その悲しい置土産なんですの」
「ふむ。自然主義なら吾輩にもわかるが、とにかくこの創作を完成しなくちゃ話にならん」
「駄目よ先生。そんな創作無いわよ。モウすこし人物を掘下げてみなくちゃ。中心になっているお河童さんの恋愛だって、本物だかどうだか知れたもんじゃないわ」
「ウーン。そういえば何だか吾輩も不安になって来た。一つ探偵し直しに行ってみるかな」
「どこから探偵し直しをなさるの」
「さあ。そいつが、まだ見当が附いていないんだ。もう一度あのお河童令嬢に会ってもいい。犬のお悔みを申上げてお顔色拝見と出かけるかな」
「駄目よお、先生。又|欺《だま》されに行くだけよ。第一印象でまいっていらっしゃるんですからね、先生は……」
「ねえ先生。思い切って小伯爵のお父さんか、お母さんに会って御覧になってはどうでしょう。そうして何も彼《か》も打明けて、意見を聞いて御覧になっては如何《いかが》でしょう」
「よし。それじゃ方針がアラカタきまったから出かける事にしよう」
「まあお待ちなさいよ。そんな恰好で入《い》らっしたって会えやしませんよ。伯爵なんてシロモノは……今電話をかけて来ますから……自動車を奢《おご》って上げますからね」
「エッ。自動車を奢る?」
「ええ。羽振の居所を教えて下すった、お礼ですよ。……まあ聞いていらっしゃい」
 女将が何かしらニコニコ笑って立上った。コック部屋の横の帳場に坐り込むと、電話帳を調べてから念入りにダイヤルをまわした。
 特別に品のいいオリイブ色の声を出した。
「モシモシ、モシモシイ。唖川伯爵様のお宅でいらっしゃいますか。ハイハイ、コチラはねえ、アノこちらはねえ、大学前の自働電話で御座いますがねえ……ハイハイ。私はねえ、唖川様の若様を存じ上げております女で御座いますがねえ……」

   貞操オン・パレード

「あのモシモシ……私は或る女で御座いますがねえ。ホホホ。それは申上げかねますがねえ。アノ若様は……そちらの小伯爵様は只今、御在宅でいらっしゃいますか。……ハイハイ。あの三週間ばかり前から御不在……あら、左様《さよう》でいらっしゃいますか……どうも相《あい》すみません。こちらはアノ。その若様の代理で御座いますがねえ。ハイ間違い御座いません。それでお電話を差上るので御座いますが……その若様の御身《おみ》の上について大切な御報告を申上げたい事が御座いますので……ハイハイ。どうぞ恐れ入りますが伯爵様へ直接にお取次をお願い致したいので御座いますが……ハイハイ。かしこまりました……」
 女将は平手で電話口を蔽《おお》いながら、吾輩をかえり見てニタリと笑った。
「何だ小伯爵は失踪してるのかい」
「ええ。そうらしいんですよ。唖川《おしがわ》家は大変な騒ぎらしいんですよ。今出て来た三太夫《さんだゆう》の慌て方といったらなかったわ」
「ウム。よく新聞記者に嗅付《かぎつ》けられなかったもんだな」
「まったくですわねえ。でもコッチの思う壺ですわ」
「ウム。面白い面白い。その塩梅《あんばい》では秘密探偵か何かがウンと活躍しているだろう」
「ウチ鬚野先生をスパイじゃないかと思ったわ」
「シッシッ」
 女将が又電話口で話を始めたので皆シインとなった。
「あの……伯爵様で御座いますか。お呼立ていたしまして、ハイハイ。かしこまりました。それでは直ぐにこれからお伺い致します。イエイエ。決して御心配なことは御座いません。何もかもお眼にかかりますれば、すっかりおわかりになりますことで……あの誠に恐れ入りますが、わたくしお宅を存じませんから、そちらのお自動車を至急に大学の正門前にお廻し下さいませんでしょうか。あそこでお待ちして手をあげますから、ハイハイ。お自動車は流線スターの流線型セダン。かしこまりました。では御免遊ばしまして……」
「巧いもんだなあ。流石《さすが》は凄腕だ。上海仕込みだけある。流線スターといったら、東京に一つか二つ在る無しの高級車だぜ」
「アラ、乗ってみたいわねえ」
「ウフ。乗せてやるから一緒に来い」
「あたしも乗りたいわ」
「ウム。みんな来い。モウ着物は乾いたろう」
「アラ、厭な先生、乾《ほ》してんのは普段着よ。晴着はチャント仕舞ってあるわよ」
「ヨオシ。出来るだけ盛装して来い。貞操オン・パレードだ」
 女たちが鬨《とき》の声を揚げて喜んだ。
「鶴子さん。アンタはね、洋装がいいわ。出来るだけ毒々しくお化粧しておいでよ。伯爵様にお目見えするんですから……」
「アラ、女将さん。あたし怖いわ」
「怖いことあるもんですか。その方がいいのよ。妾《わたし》に考えがあるんですから……」
 鶴子というのは一番最初に吾輩に口を利いた一番若い美しい娘であった。
「まあ先生。ソンナに酔払って大丈夫?」
「大丈夫だとも。酔っている真似は難かしいが、酔わない真似なら訳はないんだ。キチンとしていれあいいんだからね」

   禿頭変色

 吾々一行の姿を他人が見たら何と云うだろう。
 葬式自動車みたいな巨大な箱車の中《うち》に、令嬢だか、女給だか、籠抜娼妓《かごぬけしょうぎ》だか、マダム・バタフライだか、何が何やらエタイのわからない和洋服混交の貞操オン・パレードがギッチリ鮓詰《すしづ》めになっているその中央に、モダン鍾馗《しょうき》大臣の失業したみたいな吾輩が納まり返っているんだから、何の事はない一九三五年式大津絵だろう。
 その一団を乗せた流線型セダンが音もなく辷《すべ》り出すと、吾輩は急に睡くなってグーグーと居睡りを始めた。自分の鼾《いびき》の音が時々ゴウゴウと聞こえる。女たちのクスクス笑う声を夢うつつに聞いている中《うち》に自動車がピッタリと止まったので、吾輩は慌てて女たちの膝を跨《また》いで一番先に飛降りて扉をパタンと締めた。
「お前たちはこの中で暫く待ってろ。吾輩が談判の模様によって呼込んでやるから……」
 と云い棄てるなりフラフラしながら玄関の石段を上った。待っていたらしい唖川家の家令だか三太夫だか人相の悪い禿頭《はげあたま》が、吾輩の姿を見ると眼を剥《む》き出して睨み付けた。睨み付けるのも無理はない。オリイブ色の声なんかどこを押したって出そうな面構えじゃない。たしかに人間が違っているに相違ないのだから……。
「貴方は……何ですか……」
「老伯爵閣下に会いに来た人間だ」
「……ナニ……」
 と云うなり禿頭が腕をまくった。柔道の心得か何かあるらしい。吾輩の胸をドシンと突いたが、吾輩微動だにしなかった。向うに柔道の心得があればコッチにルンペンの心得がある。相手が用人棒だろうが何だろうが、身構えたら最後、金城鉄壁、動く事でない。
「……か……閣下は貴様のような人間に御用はない」
「ハハハ、そっちに用がなくともこっちにあるんだ」
「ナ……何の用だ……」
「貴様のような人間に、わかる用事じゃない。人柄を見て物を云え。何のために頭が禿げているんだ」
 禿頭の色が紫色に変った。慌てて背後《うしろ》の扉《ドア》にガッチリと鍵をかけた。
「会わせる事はならん」
「八釜《やかま》しい」
 と云うなりその紫色の禿頭を平手で撫でてやったら、非常に有難かったと見えて、羽織袴のまんま玄関の敷石の上に引っくり返ってしまった。その間に吾輩は巨大な真鍮張《しんちゅうば》りの扉《ドア》に両手をかけてワリワリワリドカンと押し開《あ》けた。そこから草原《くさはら》みたいな柔らかな絨壇の上に上って、背後《うしろ》をピッタリと締切ると、外でワンワンワンとブルドッグの吠える声と、自動車の中で女たちの悲鳴を揚げて脅える声が入り交って聞えて来た。ブルドッグという奴はいつでも気の利かない動物らしい。

   癇癪くらべ

 そんな事はドウデモ宜《い》い。吾輩はグングンと廊下に侵入した。暗い廊下の左右に並んでいる部屋を一つ一つ開いて検分して行く中《うち》に、一番奥の一番立派な部屋の中央に、巨大なロココ式ガラス張りのシャンデリヤが点《とも》っているのを発見した。
 そのシャンデリヤの下に斑白《はんぱく》、長鬚《ちょうしゅ》のガッチリした面《つら》つきの老爺《おやじ》が、着流しのまま安楽椅子に坐って火を点《つ》けながら葉巻を吹かしている。写真で見たことのある唖川伯爵だ。七十幾歳というのに五十か六十ぐらいにしか見えない。嘗《かつ》ての日露戦争時代に、陸海軍大臣がハラハラするくらい激越な強硬外交を遣《や》っ付《つ》けた男で、この男の一喝に遭《あ》うといい加減な内閣は一《ひ》と縮みになったものだから痛快だ。成る程、掛矢《かけや》でブンなぐっても潰れそうもない面構えだ。取敢えず敬意を表するために、吾輩は山高帽を脱ぎながらツカツカと進み寄って、恭《うやうや》しく頭を下げた。
「……キ……貴様は……何か……」
 まるで頭の上に雷が落ちたような声だ。頭を上げて見ると伯爵は安楽椅子から立上って、吾輩を真白な眼で睨み付けている。露国の蔵相、兼、外相ウイッテ伯を縮み上らせた眼だ。しかし吾輩は、わざと哄笑してみせた。
「アハハハ、私は鬚野房吉というルンペンです」
「……ナ……何だルンペンとは……」
「ルンペンというのは独逸《ドイツ》語です。独逸語で襤褸《ぼろ》の事をルンペンというところから、身なりとか根性とかがボロボロに落ちぶれた奴の事をルンペンというようになったのです。御存じありませんか。日本にも勲章を下げて、立派な家《うち》に住まったルンペンが、イクラでも居りますよ」
 伯爵は立腹の余り口が利けなくなったらしい。葉巻をガチガチと噛んで、鬚をビクビク震わせている。
 吾輩は、すこし気の毒になったから、心持ち言葉を柔《やわら》げた。
「伯爵閣下、実は今日お伺い致しました理由は、ほかでは御座いません。御令息の唖川歌夫君の事についてです」
「黙れっ……黙れっ……吾輩の家庭の内事は吾輩が決定する。貴様等如きの世話は受けんッ……」
 吾輩はここに到ってカンシャク玉が破裂した。この老爺《おやじ》は外交問題と家庭の内事をゴッチャにしている。ドンナ豪《えら》い人間でも、自分の妻に関する事を他人から話出されたら一応は頭を下げて傾聴すべきものだ。
「ええこの馬鹿野郎。貴様等如きとは何だ。吾輩はこれでも一個独立の生計を営む日本国民だぞ。聊《いささ》かの功績を云い立てにして栄位、栄爵を頂戴して、無駄飯を喰うのを光栄としているような国家的厄介者とは段式が違うんだぞ。日露戦争の時には俺の発明した火薬が露助《ろすけ》にモノをいったんだぞ。日本の医学は吾輩の努力の御蔭《おかげ》で、今日の隆盛を来《きた》しているんだ。しかも吾輩は国家に何物をも要求しない。毎日毎日この通りのボロ一貫で、途《みち》に落ちたものを拾って喰ってるんだ。苟《いやしく》も君のためや、親子兄弟、妻子朋友のためになる事ならば無代償で働くのが日本国民だ。伯爵が何だ。正三位が何だ。そんな乾《ひ》からびた木乃伊《みいら》みたいな了簡だから、伜《せがれ》が云う事を聴かないで家《うち》を飛出すのだぞ」

   女将の凄腕

 多分顔負けしたんだろう、伯爵閣下は、よろよろとよろめいて背後《うしろ》の椅子にドシンと尻餅を突いた。病み犬が逃げ吠えするように、モノスゴイ眼で吾輩を睨んだ。
「黙れ、伜は家風に合わん女を貰おうとしたから余が承知しなかったのじゃ。出て行けと云うたのじゃ」
「へへ。伜は喜んだろう。コンナ店曝《たなざら》しの光栄を引継いで、一生無駄飯を喰うのを自慢にするような腐った根性は今の若い者は持たないのが普通だぞ。又コンナ家《うち》に嫁入って来て、コンナ家風に合うような女だったら、虚栄心だらけのお茶っピイか。魂のない風船娘にきまっているんだ」
 吾輩がここで滔々《とうとう》と現代女性観を御披露しようとするところへ背後の扉《ドア》がガチャリと開《あ》いて、思いもかけぬ警官が二人威儀を正して這入《はい》って来た。伯爵閣下に恭《うやうや》しく敬礼すると、物をも言わず吾輩のマントの両袖を掴んだものだ。多分正気付いた家令が電話でもかけたんだろう。
「何をするんだ」
 と吾輩は二人の顔を振返ったが、二人とも吾輩を知らない新顔の警官らしい。やはり無言のまま無理やりに吾輩を引っぱって行こうとしたが、そのはずみに吾輩のマントの両袖がスッポリと千切《ちぎ》れて、二人の巡査が左右に尻餅を突いた。吾輩は思わず噴出《ふきだ》した。
「アハハハハ。飛んだ景清《かげきよ》のシコロ引きだ。これが泥棒だったらドウなるんだい。ハハハハハ」
「ホホホホホホホホホホ」
「ほほほほほほほほほほほ」
 思いがけない大勢のなまめかしい声が聞こえたので、ビックリして振返ってみると、自動車の中に待たせておいた連中がゾロゾロと這入って来た。洋装、和装、頬紅、口紅、引眉毛《ひきまゆげ》取り取りにニタニタ、ヘラヘラと笑い傾《こ》けながら、荘厳を極めたロココ式の応接間に押し並んだところは、どう見ても妖怪だ。その妖怪中の妖怪とも見るべき上海亭の女将は、唖然となっている警官を尻目にかけながら、しゃなしゃなと歩み出て恭しく伯爵閣下に一礼した。
「オホホホ、ずいぶんお久し振りで御座いましたわねえ、伯爵様。先年北支那の王魁石《おうかいせき》さんと秘密に上海でお会いになった時には、手前共の処を大層|御贔屓《ごひいき》下さいまして、ありがとう御座いました。あの時に御引立に預りました娘たちを御覧遊ばせ、皆もうコンナに大きくなりまして御座いますよ。あれから間もなく私どもは上海を引上げまして、コチラの大学前に、店を開きましたので、その中《うち》に一度は御挨拶に出なくちゃならないならないと存じながら、ついつい御無沙汰致しておりましたが、今日は又思いがけなく、コチラの若様の事で、是非ともお伺いしなければならぬ事が出来ましたので、序《つい》でと申しては何で御座いますが、みんな引連れて御伺い致しましたような事で御座います。オホホホホホ」
 老伯爵は棒立ちに突立ったまま、[#「、」は底本では「。」]眼を白黒させて唾液《つばき》を嚥《の》んだ。吾輩も余りの事に、棒立ちに突立ったまま、唾液《つばき》を嚥まざるを得なくなった。

   言語道断

「私が若様を存じ上げていると申しましたら不思議に思召《おぼしめ》すで御座いましょう。ところが若様は流石《さすが》にチャキチャキの外交官でおいで遊ばすのですから抜け目は御座いません。伯爵様が、私どもの店を御贔屓になっております事を、よく御存じでね。外務省の御用で上海へお出でになるたんびにお父様の御遺跡を御覧になりたいと仰言《おっしゃ》って私どもの処へお立寄りになりましたので、私どもでも特別念入りに御世話申上げましたところが、大層|御意《ぎょい》に叶《かな》いましたらしく、ずっと引続いて今日まで御引立を蒙《こうむ》っているので御座いますよ。ホホホホホホホホ。
 ……そう致しましたらね。私どもがコチラへ参りましてからの事で御座いますよ。若様が、わざわざ私どもの処へお運び下さいまして、コンナ御相談をなさるので御座います。……自分が仏蘭西《フランス》から帰った後《のち》に、山木という市会議員のお嬢さんのテル子さんと仰言る方と婚約していたら、その山木さんが疑獄で別荘にお出でになったとかで、伯爵様が、そのお嬢様との婚約を諦めてしまえ、羽振さんからの婚約の申込を受けろと仰言って、どうしても御承知にならない。一方にそのお嬢様のおウチではお母様が脳の御病気で入院なすって、当分お帰りになる見込がなくなった上に、お父様のお妾《めかけ》さんだか何だかわからない女が、図々しく家政婦とか何とかいって乗込んで来てお嬢様のテル子さんを邪魔にするので、テル子様は泣きの涙で暮しておいでになるのが若様としては見ちゃいられないが、これはドウしたらいいだろうと仰言って、私に御相談が御座いました」
「ううむ。怪《け》しからん奴だ。親に相談すべき事を……ううむ」
 と老伯爵が唸った。こうなると伯爵もへったくれもあったものじゃない。父親としての面目までも、丸潰れの型なしだ。しかし女将《おかみ》は一切お構いなしで、持って生まれた一瀉千里《いっしゃせんり》のペラペラを続けた。
「ホホホホホホホ、ほんとに怪《け》しからないお話で御座いますよ。こうした行き違いのソモソモがどこから始まっておりますか、私どもは無学で御座いますから、わかりませんが、とにかくこれは容易ならない伯爵家の大事件と存じましてね。万一このようなお話が、外へ洩れるような事があっては大変と存じましたから、わたくしの一存で、色々と苦心致しました揚句、山木さんのお留守居の人達に承知させまして、手前共の店に居ります娘たちの中《うち》で一番お嬢様によく肖《に》ておりますツル子と申します女優の落第生を、山木さんの処へ換え玉に入れて世間体《せけんてい》をつくろいまして、お嬢様を私の処へお匿《かく》まい申上げました。そう致しまして外務省から病気休暇をお取りになったコチラの若様と御一緒に、お好きの処へ新婚旅行にお出し申しましたが、もう十分にワインド・アップがお済みになって、東京のどこかへお帰りになっている筈で御座いますよ。近頃のお若い方は何でもスピードアップなさるのがお好きで御座いますからね」
「ううむ。いよいよ以てケシカラン……」

   伯爵ネギリ倒し

「ホホホ。そう致しましたら何しろタッタ一人のお世継の事で御座いますから、伯爵様がキット若様をお探しになるに違いない、その御心配の潮時を見計《みはか》らいまして、私がコチラへお伺い致しまして、万事のお話を拝聴致しまして、失礼では御座いますが御家の御為になりますように取計らいたいと存じた次第で御座いますがね。まことに怪《け》しからぬ御恩報じとは存じましたが、無学な私どもの才覚には、ほかに致しようが御座いませんでしたのでね、ホホホ」
「……………」
「ところが、そのうちに私の処から換え玉に這入っておりましたツル子と申します女が退屈の余りで御座いましょう。ツイ芝居気を出しましてね。お嬢さん生活の退屈|凌《しの》ぎに、そのテル子さんの大切な犬が盗まれているのを、この鬚野先生に取返して下さるようにお頼みしたところから事が起りまして、とどのつまり、鬚野先生が私どもの処へ偶然お乗込みになって、こちらの小伯爵様とそのテル子嬢を御一緒にするかどうかっていう御相談がありましたから、これは何よりの事と存じまして、こうしてお伺い致しました次第で御座いますが、如何で御座いましょうか。この御縁談を御承知下さいませんでしょうか。新聞種になんかおなりになりませぬ中《うち》に、御承知になりました方が、御身分柄お得じゃないかと考えるので御座いますが、どのようなもので御座いましょうか」
 今度は吾輩が驚いた。老伯爵の次には吾輩がペシャンコになってしまった。これ程手厳しく一パイ喰わされた事は未だ曾てない。彼《か》の断髪令嬢が真赤な掴ませものであろうとは……そうして真実に一切を支配している運命の神様がこの吾輩でも何でもなかった。この上海亭の女将《おかみ》であったろうとは……。
 況《いわ》んや老伯爵に到っては徹底的にペシャンコになってしまったらしい。真青になって椅子の中に沈み込んでしまったのは気の毒千万であった。左右を見ると二人の警官はいつの間にか部屋を辷《すべ》り出てしまっている。
 そこで吾輩は改めて老伯爵の前に進み出た。
「どうです伯爵閣下。御名誉とか、お家柄とかいうものばかり大切がって、切れば血の出る若い生命の流れを軽蔑なさるからコンナ事になるのです。伜には内兜《うちかぶと》を見透《みす》かされる、女将には冷やかされる……」
「アラ、冷やかしなんかしませんわ。勿体ない」
「これぐらい冷やかしゃ沢山だ……」
 老伯爵はポロリポロリと涙を流し始めた。頬の肉をヒクリヒクリと引釣《ひきつ》らせながら、哀願するように女将の顔を見上げた。
「いや、わしが悪かった。わしが悪かった。ところで伜はどこに居る」
 こうなると老人はみじめだ。何よりも先に考えるのは我児《わがこ》の事だ、ここまで来ると、ルンペンも華族もタダの人間だ。
「ホホホ御安心遊ばせ、伯爵様。若様は最前から……」
 と云ううちに部屋の入口に並んでいる女たちを押分けて、スマートな旅行服の青年が颯爽《さっそう》と這入って来た。
「お父様、只今。お話は最前から廊下で承っておりました。御心配かけて相済みません。上海亭から別の自動車で追っかけて来ておりました」
「おお帰ったか」
 老伯爵の両眼から新しい涙が溢れ出した。
「そうして……その……花嫁はドコに居る」
 女将が振返って、背後《うしろ》に並んでいる五人の女を見渡した。するとその中から顔を真赤にした洋装の一人がおずおずと進み出て、老伯爵に向って一礼した。最前上海亭で一番最初に吾輩に質問を試みた鶴子だ。唇と頬ペタを紅《べに》ガラ色に塗って、見事な腕を肩の上から露出しているところは誰が見ても街の女としか思えない。
 老伯爵は眼を剥《む》いた。眼を剥く筈だ。花嫁が淫売姿で堂上方《どうじょうがた》へ乗込むなんて手は開闢《かいびゃく》以来なのだから……。
「アハハハハ成る程。これじゃイクラ探してもわからないじゃろう。イヤ、お嬢さん、知らんで失礼したの……」
 吾輩がシャッポを脱ぐと、令嬢も嫣然《にこやか》にお礼を返した。
「わたくしこそ……でも色々と御親切に、ありがとう御座いましたわ」

   土管の中へ

「イヤ、名優名優。吾輩の前で、あれ程、シラを切っていた腹芸には感服した。その調子なら立派な伯爵夫人としての役もつとまるに違いない。ナアニ華族社会の女なんてものは偶然に取り当った地位を自慢にして、自分以外の女を如何にして軽蔑しようか、蹴落《けおと》そうかという事ばかり寝ても醒めても忘れていない下等動物でしかあり得ないのだからね。しかもその御主人の栄位栄爵というのも、先祖が関ヶ原あたりで豊臣家に裏切った手柄で、徳川将軍から貰った大名の地位が変形したものに過ぎないのだからね。これに反して市会議員となると何もかも独力で成り上ったのだから堂々たるものだ。その点からいうと華族なんぞより身分が上だ。唖川のお父さん、この花嫁を仇《あだ》やおろそかに思うてはなりませぬぞ」
 小伯爵が横合いから吾輩の手を握った。
「イヤ、鬚野先生……どうもありがとう。実はあの上海亭の二階で貴方のお話を聞いているうちによっぽど飛出してお礼を申上げようかと思ったんですが、万一貴方が、親爺の廻し者だったら大変と思って……プッ……」
 小伯爵は慌てて口に手を当てた。眼を丸くして老伯爵をかえりみた。老伯爵が不承不承に疎《まば》らな歯を露《あら》わして笑った。
「アハアハアハ。何でも宜《え》え。これから仲よくしてくれい」
 吾輩は黙ってシャッポを脱いで、袖のないマントの肩で風を切って、豪華な応接間を出て行きかけた。
 安心したので急に酔いが上がって来たものらしい。フラフラしながら扉《ドア》にぶつかった。
「おお、鬚野君。まあええじゃろ、ゆっくりして下さい。一パイ差上げるから」
「先生。御ゆっくりなさいませよ」
「イヤ、モウ運命の神様は辞職だ。アトは女将によろしく頼むわい」
「そう云わずとこの家《うち》に泊って行ってはドウかな」
「この家は暑いです。イヤ、若夫婦万歳」
 吾輩は廊下の空間を泳ぐようにフラフラしながら表に出ると、流線スターのセダンが待っていたので、その中に転げ込んだ。動き出すと運転手が聞いた。
「どちらへ……参りましょうか」
「帝国ホテルだ。……その帝国ホテルの裏手の空地になあ……その空地に並んでいる土管の右から三番目の入口へ着けてくれい。ああ、愉快だ。赤い帽子を冠ろうよオだ。アッハッハッハッ。皆さん左様なら……」



底本:「夢野久作全集5」ちくま文庫、筑摩書房
   1991(平成3)年12月4日第1刷発行
※本作品中には、身体的・精神的資質、職業、地域、階層、民族などに関する不適切な表現が見られます。しかし、作品の時代背景と価値、加えて、作者の抱えた限界を読者自身が認識することの意義を考慮し、底本のままとしました。(青空文庫)
入力:柴田卓治
校正:かとうかおり
2000年12月6日公開
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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