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爆弾太平記
夢野久作

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)斎木《さいき》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)二百二十|日《か》だよ。

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「┐」を全角大とした、屋号を示す記号、240-14]
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 ……ああ……酔うた酔うた。
 ……どうだ斎木《さいき》……モ一つ行こう。脊髄癆《カリエス》ぐらい酒を飲めば癒るよ。ちょっとも酔わんじゃないか君は……。
 ナニ……恐ろしい暴風雨《しけ》だ?……。
 ウン。近来珍らしい二百二十|日《か》だよ。夜半《よなか》過ぎたら風速四十|米突《メートル》を越すかも知れん。……おまけにここは朝鮮最南端の絶影島《まきのしま》だ。玄海灘と釜山《ふざん》の港内を七分三分に見下ろした巌角《がんかく》の上の一軒家と来ているんだからね。一層風当りがヒドイ訳だよ。……世界の涯に来たような気がする……ハハハ。しかしこの家《うち》なら大丈夫だよ。その覚悟で建てた赤|煉瓦《れんが》の温突《おんどる》式だからね。憚《はばか》りながら酒樽と米だけは、ちゃんとストックして在るんだ。十日や十五日シケ続けたって驚かないよ。ハハハ……。
 イヤ。よく来てくれた。吾輩の竹馬の友といったら、今では君一人なんだからね。もう一人居た福岡県知事の佐々木が、ツイこの間死んでしまったからね……ウン。太っ腹ないい男だったが、可愛相な事をしたよ。何でも視察旅行の途中で、自動車もろ共、谷へ落ちたというんだが、人間、何で死ぬか知れたもんじゃないね。……しかも、その跡に残ったタッタ一人の君が二十年振りに、貴重な静養休暇を利用して、この天涯の素浪人、轟雷雄《とどろきなるお》の隠れ家を叩きに来ようとは思わなかったよ。
 イヤ……実に意外だった。君の顔を見た瞬間に、故郷の禿山《はげやま》が彷彿《ほうふつ》として眼前に浮んだね。イヤ。禿《は》げているから云うんじゃない……アハハハ。今夜はこの風を肴《さかな》に飲み明かそうじゃないか。お互いに「頭禿げてもお酒は止まぬ」組だったじゃないか。ハッハッハッ。風が凪《な》いだら一つ東莱《とうらい》温泉へ案内しよう。あすこでモウ一度|俗腸《ぞくちょう》を洗って、大いに天下国家を……。
 ナニ……吾輩が首になった原因を話せと云うのか……。
 ハハハハ。それあ話しても宜《え》え。吾輩としては俯仰《ふぎょう》天地に愧《は》じない事件で首を飛ばされたんだから、イクラ話しても構わんには構わんが、しかしだ。君はホントウに吾輩の云う事を事実と信じて聞いてくれるかね。エエ……?……。
 イヤ。失敬失敬。それはわかっとる。重々わかっとる。君が吾輩を信じてくれる事はトコトンまで疑わんが、しかしそれでも吾輩の休職の裏面に潜む事件の真相なるものが、到底、常識では信ぜられんくらい悽愴《せいそう》、惨憺《さんたん》、醜怪、非道を極めたものがあるから、特に念を押す訳だよ。
 手早い話が、吾輩の首をフッ飛ばした事件の真相を突込んで行くと一つのスバラシイ復讐事件にブツカッて来るんだ。しかもその事件の主人公というのは、吹けば飛ぶような貧乏|老爺《おやじ》に過ぎないのに、その相手というと南朝鮮各道の検事、判事、警察署長、その他の有力者六十余名というのだから容易じゃないだろう。……のみならず、その復讐事件の真相なるものをモウ一つ奥の方へ手繰《たぐ》って行くと、現在、内地朝鮮の官界、政界、実業界に根強い勢力を張り廻わしている巨頭株の首を珠数《じゅず》繋ぎにしなければならぬという、日本空前の大疑獄が持ち上って来る事、請合いだ。……しかもソイツが又、全国の爆薬取締に関する重大秘密から、社会主義者、不逞鮮人の策動に引っかかって行く。もしくは張作霖《ちょうさくりん》、段祺瑞《だんきずい》を中心とする満洲、支那政局の根本動力にまで影響するかも知れんという……実に売国奴以上に戦慄すべき彼等、巨頭株連中の非国家的行為が、真正面から蜂の巣を突っついたように、曝露《ばくろ》して来るかも知れないんだが……それでも構わんか……君は……。
 もちろんこれは吾輩一流の酔った紛れの大風呂敷じゃないんだぜ。相手が普通の人間なら兎も角だ。農商務大臣と製鉄所長官の首を一度に絞めて、前内閣を引っくり返した堅田《かただ》検事総長から、懐刀《ふところがたな》と頼まれている斎木検事正のお耳に、この話が這入《はい》ったとなると問題だろう。メッタにお聞き棄てにならん事を、知って知り抜いて饒舌《しゃべ》りよるのじゃが宜《え》えか。
 アッハッハッハッハッ。イヤ。決してオベッカじゃないよ。持ち上げよるでも何でもない。シラ真剣の打明け話だ。……フウン。多分ソンナ事じゃろうと思うてワザワザ訪ねて来た……ウンウン。流石《さすが》は商売人だけある。アハハハ。イヤ。馬鹿にしとる訳じゃない。そんなら尚の事、話し甲斐《がい》があるんだ。……実は吾輩もこの問題に就《つ》いては千秋の遺恨を含んでいるんだからね。今云った朝野の巨頭連は、馬鹿正直な吾輩一人を蹴落して、自分等の不正事実を蔽い隠そうと試みているのだ。吾輩の事業の隠れたる後援者であった山内正俊閣下が、去年の十一月に物故されて以来、吾輩が木から落ちた猿同然、手も足も出なくなっている事を、彼奴《あいつ》等はチャンと知っていやがるんだ。彼奴《きゃつ》等の肉を裂き、骨をしゃぶっても飽き足りない思いを抱きながら吾輩は、この釜山港口、絶影島《まきのしま》の一角に隠れて、自分の食う魚を釣っていたんだ。
 ナニ……何だって。君の今度の旅行は、そのための秘密調査が目的だ……? 温泉巡りとは真赤な偽り……脊髄カリエスの静養休暇は検事総長と打合わせた芝居に過ぎん……?
 ……エエッ……何という。ホントウかいそれあ。ヘエ――ッ……。
 こいつは一番、驚いたね。いくら何でも、チイット炯眼《けいがん》過ぎやせんか……それは……。
 何を隠そう吾輩は現在、この事件に関する詳細な報告書をあの机の上に書きかけとるんだ。しかしこれほどの怪事件はチョイトほかに類例が無いし、問題が又ドエラク大きいもんだから、あの報告書が出来上っても、どこへ出したら宜《え》えかチョット見当が附かんで困っておったところだが……まさかソコを探知して受取りに来たんじゃあるまいな……君は……。
 フウン。そうだろう。そこまでは知らなかった筈だ。
 ……フウン……しかし奇怪な投書が検事総長の処へ来ている……ヘエ。どんな投書だ……。
 何だ。持って来ているのか。ドレドレ見せ給え……。
 ……ヤッ……これは血書じゃないか。しかも立派な美濃紙が十枚以上在る。大変な努力だぞ。これは……投函局が佐賀県の呼子《よぶこ》か……おかしいな。あすこにも吾輩の乾児《こぶん》が居るには居るが……大正九年八月十五日……憂国の一青年より……堅田検事総長閣下……フーム。無論、吾輩が書いたんじゃないよ。書体を見ればわかる。……ウーム……と……。
「私ハ貴官ノ正シイ御心ヲ信ジテコノ手紙ヲ書キマス。
 水産翁、轟雷雄先生ガ免職ニナリマシタ裡面ニハ、国家ノタメニナラヌ重大秘密ガアリマス。大正八年十月十四日ノ午後一時カラ二時ノ間ニ、××デ警察署長ガ三人ト、判事ヤ検事ガ四人ト、松島|見番《けんばん》ノ芸妓《げいしゃ》二名ガ殺サレタ事件ノ原因ヲ調ベテ下サイ。貴官ノホカニ、コノ真相ヲ調ベ切ル人ハアリマセン。
 貴官ガコノ事件ヲ、本気デ調査サレタ事ガワカリマシタラ私ガ貴官ノ御宅ニ出頭シテ、真相ヲオ話シシマス。何トナレバ右ノ九人ノ人間ガ死ンダ事件ノ裏面ニ潜ム恐ロシイ爆弾売買ノ真相ヲオ話シ出来ルモノハ、私一人シカ居リマセンカラ。
 モシ貴官ガ今年一パイ、コノ問題ヲ調ベズニ打チ棄テテオカレタナラバ、貴官モ爆弾売リノ仲間ト認メマス。ソウシテ私ハ別ノ手段デ、モットモット皆サンニ、思イ知ラセマス。ドウゾドウゾ国家ノタメニ御調ベヲ願イマス」
 ウーム。検事総長を威嚇した訳だな。
 ……成る程……この投書は二十歳内外の不規則な学問をした青年が、字引引き引き一生懸命に書いたものらしいという見込だね。ウム。「芸妓」とか「爆弾」とかいう難しい文字が特に、活字の通りに正しく書いてあるので推定した……成る程なあ。感心なもんだな。ウーム……それからタッタ一語だけ使ってある「調べ切る」という言葉が「調べ得る」という意味で使った九州北部の方言であるところから察すると、この青年は国家問題に昂奮し易い福岡県下の出身かも知れぬと云うんだね。……賛成だ。吾輩|双手《もろて》を挙げて賛成するね。お互いに福岡生れだから、こうした青年の気持ちがよくわかるんだよ。とにかく生命《いのち》がけのスゴイ奴に違いない。そこでこの投書を信用して、君が出張して来たという訳か、吾輩の心当りを探るべく……。
 何……まだ話がある……。ハハア……書いた奴の詮索は後廻しか。事実の有無が何より先に問題だと云うんだね。如何にも如何にも……そこで朝鮮総督府へ公文書で問合わせた。成る程……そういった司法官や芸妓が同月、同日の殆んど同時刻に死傷する程の事件ならば、総督府でも知らない筈はないからな。面白い面白い……そうしたらドンナ回答が来た……。ナニ……。
「管轄違いだ。返答の限りに非《あら》ず」
 と突放して来た。怪《け》しからんじゃないか。……回答した奴は何者だ。フウン。わからんというのか。ただ総督府の太鼓判がベッタリと捺《お》してあるだけだ。……いよいよ以《もっ》て怪しからんじゃないか。
 ハハア。その手が例の「朝鮮モンロー主義」だというのか。ハッハッ。「朝鮮モンロー主義」はよかったね。……フーン……朝鮮の奴等はそんなに威張るのかなあ。燈台|下《もと》暗しで知らなかった。……フーン……内地の官庁から朝鮮に這入って来たものは、いつもこの式で、書類でも人間でもピンピン撥ね付ける。事務上の連絡が全く取れないが、総督府が独立した官制になっているのだからドウにも手のつけようがない……ヘエー……そうかなあ。……吾輩なんかは絶対にソンナ方針じゃなかったよ。内地から来たものは特に優遇する方針だったから、チットモ気が付かなかったがね……だから首になったんだ……成る程。そうかも知れん。ハッハッハッ……。
 それあ君等としちゃ癪《しゃく》に触《さわ》ったろう。特に司法関係の仕事は内鮮《ないせん》に跨《またが》った問題が多いんだからね。一々その手で撥ねられちゃあ遣り切れないだろうよ。成る程。……債券や紙幣の偽造が、朝鮮に逃げ込むと捕まらなくなるのはそのためだ。遺恨骨髄に徹している……成る程。それあそうだろう。
 そこでこっちもグ――ッと来たから、
「内地に於ける銃砲火薬類取締上、調査の必要あり。至急回答ありたし」
 と当てズッポーで威《おど》かしてやったら、今度は方向を違えた釜山警察署から報告が来た。……ハハア……総督府の奴、物騒と見て取って責任を回避しおったな。卑怯な奴だ。……その報告書がコレか……成る程。総督府宛の内容のものを、そのままコッピーにして送って来た訳だな。ウンウン。朱線を引いた処が要点か。
「……如何なる方面より風聞せられしものなるや判明せざれど、右類似の事件は当署管内に於て確かに発生せし事|有之《これあり》……」
 ……いかにも、コイツは多少名文らしいね。チョイト絡んで来たところが気に入ったよ。
「去る大正八年十月十四日、午後一時頃、釜山公会堂に於て、轟総督府技師の「爆弾漁業」に関する講演中、同技師が見本として提出したる二個の漁業用爆弾が過って炸裂し、傍聴者たりし判検事、署長等(氏名を略す)七名の死者を出したる事件あり。(芸妓《げいしゃ》二名の死傷は訛伝《かでん》也)……」
 プッ……馬鹿な。朝鮮官吏の低能と来たら底が知れない。コンナ事でお茶が濁せたらお慰みだ。警察の発表なら誰でも信用すると思っているんだから恐ろしい。そこで……と……。
「……右は前記轟技師の不注意より起りしものなりしと同時に、当局の威信に関する事故なりしを以て、秘密裡に善後の処置を為《な》し、轟技師の休職を以て万事の落着を見たり。……右御回答申上候」
 アッハッハッハッハッ。イヤ巧《たく》んだり拵《こし》らえたり。インチキ、ペテン、ヨタも亦《また》、甚しい。朝鮮官吏の腐敗堕落が、ここまで甚しかろうとは……ナニ。そんな事情もアラカタ察していた。なるほど……総督府が、釜山署と慣れ合いで事実を隠蔽すると同時に、責任を回避しているものと睨《にら》んだ……従ってこの事件は、総督府にもコタエル程度の重大事件だったに相違ない……その通りその通り。命中率、正《まさ》に百二十パアセントだよ。朝鮮モンロー主義をギューといわせる事この一挙に在りか。ハハハハ。愉快愉快。そう来なくちゃ面白くない。
 そこで直ぐに君の部下を釜山に密行さした。ウムウム。その部下が釜山に着くと、何よりも先に松島遊廓に上って散財した。ハハハハ。ナカナカ洒落《しゃれ》とるじゃないか……成る程。それからその翌《あく》る日、帰りしなに、コッソリ公会堂に立寄って、内部の様子を一眼見ると、その朝の連絡船で東京に引返して、釜山署の報告はインチキに相違なしという復命をした……ヘエッ……こいつは驚いた。どうしてわかったんだ。タッタそれだけの仕事で……。
 ハハア。その男の調査によると松島|見番《けんばん》で二人の芸妓《げいしゃ》が変死したのは事実だった……正にその通りだ。それを警察が強制して失綜届を出させている。葬式も法事も許さない。芸妓屋《おきや》と親元は泣きの涙で怨んでいるが、泣く児《こ》と地頭《じとう》に勝たれない。ソレッキリの千秋楽になっている……ソイツも正にその通りだ。……のみならず問題の公会堂を覗いてみると建った時のまんま修理した形跡が無い。十人近くの人間が爆死する位なら建物の損害が出ない筈はなかろう……というのか。
 ……ウム。エライッ……。
 豪《えら》いもんだなあ。そんなにも頭が違うものかなあ内地の役人は……そこで検事総長と打合わせた結果、極《ごく》秘密裡に君が遣って来て、直接、吾輩の口から真相を聴く段取りになった……ウムッ。有難いっ。痛快だっ。イヤ多謝《コウマブソ》……多謝《コウマブソ》……とりあえず一杯|献《い》こう。
 君の着眼は正に金的《きんてき》だったよ。
 朝鮮モンロー主義……売国巨頭株の一掃……手に唾して俟つべしだ。とりあえず前祝《まえいわい》に大白《たいはく》を挙げるんだ。

 ナニ……その売国巨頭株の姓名を具体的に云ってくれ……よし云おう。ビックリするな。
 貴族院議員、正四位、勲三等、子爵、赤沢事嗣《あかざわことつぐ》……これが金毛九尾の古狐で、今度の事件の一番奥から糸を操っている黒頭巾《くろずきん》だ。君等がよく取逃がす呑舟《どんしゅう》の魚《うお》という奴だ。……ハッハッ知らなかったろう。彼奴《きゃつ》の若い時は例の郡司大尉の隠れたる後援者で、東洋切っての漁業通だという事を、誰にも感付かせないように、極力警戒しているんだからね。北洋工船、黒潮漁業の両会社は彼奴《あいつ》の臍繰《へそく》り金《がね》で動いていると云っていい位だ。……その次が現在大阪で底曳大尽《そこひきだいじん》と謳《うた》われている荒巻珍蔵《あらまきちんぞう》……発動機船底曳網の総元締だ。知っているだろう。それから京城の鶏林《けいりん》朝報社長、林逞策《りんていさく》。あれで巨万の富豪なんだよ。代議士|恋塚《こいづか》佐六郎……三保の松原に宏大な別荘を構えている……アレだ。お次は大連《たいれん》の貿易商で満鉄の大株主|股旅由高《またたびよしたか》。それから最後の大物が、現民友会の幹事長、兼、弗箱《どるばこ》と呼ばれている釜松秀五郎《かままつひでごろう》、逓信次官、雲田融《くもたとおる》……と……まあザットこれ位にしておこう。どうだい。驚いたか。
 こいつ等の仕事の正体かね。無論、話すとも。話さなくてどうするもんか。君は吾輩唯一の竹馬の友だ。廃物同様の吾輩の話が、君等の仕事の参考になるのは、吾輩の無上の光栄とし、且つ欣快とするところだ。況《いわ》んや君の手によって、極度の乱脈に陥っている現下の銃砲火薬取締が廓清されると同時に、今云った連中にこの遺恨を報ずる事が出来たとすれば、吾輩の本懐、何をかこれに加えんだ。吾輩の一身なんかドウなったって構わない。
 ウンウン。実にお誂向《あつらいむ》きのところに来てくれたよ。註文したって無い大暴風雨《おおしけ》に取巻かれた一軒屋だ。聴いている者は飯爨《めした》きの林《りん》だけだ。ウン。あの若い朝鮮人だよ。彼奴《あいつ》なら聴いても差支えないどころか、吾輩の話のタッタ一人の証人なんだ。吾輩が死んでも、彼奴《あいつ》の報告を聞けば一目瞭然なんだ。年は若いが、生《なま》やさしい奴じゃないんだよ彼奴《あいつ》は……追々《おいおい》わかるがね……ウン。
 ところでドウダイ。モウ一パイ……ウン話すから飲め。脊髄癆《カリエス》なんてヨタを飛ばした罰《ばち》だ。落ち付いてくれなくちゃ話が出来ん。
「酒を酌んで君に与う君自ら寛《ゆる》うせよ
 人情の翻覆《はんぷく》波瀾に似たり」
 だろう……お得意の詩吟はどうしたい。ハハハハ。お互いに水産講習所時代は面白かったナア……。
 ウン面白かった。
 しかし君は途中で法律畑へ転じたもんだから、吾輩がタッタ一人、頑張って水産界へ深入りした。……少々脱線するようだがここから話さないと筋道が通らないからね……しかも内地の近海漁業は二千五百年来発達し過ぎる位発達して、極度の人口過剰に陥っている。残っている仕事はお互い同志の漁場の争奪以外に無いというのが、維新後の水産界の状態だった。
 然《しか》るにこれに反して朝鮮はどうだ。南鮮沿海の到る処が処女漁場で取巻かれているじゃないか。況んや露領|沿海州《えんかいしゅう》に於てをやだ。……これに進出しないでドウなるものか。日本内地三千万の人口過剰を如何《いかん》せん……というのが吾輩の在学当時からの持論だったが……ウン。君も散々《さんざん》聞かされた……そこで卒業と同時に、火の玉のようになって日本を飛び出して朝鮮に渡ったのが、ちょうど水産調査所官制が公布された明治二十六年の春だったが、その時の吾輩の資本というのが、牛乳配達をして貯蓄した十二円なにがしと、千金丹《せんきんたん》二百枚の油紙包みと来ているんだから、正に押川春浪《おしかわしゅんろう》の冒険小説だろう。
 ……ウン……そこでモウ一つ脱線するが、その頃の朝鮮人が千金丹を珍重する事といったら非常なものだった。君は千金丹を記憶しているだろう。甘草《かんぞう》に、肉桂粉《にっけいふん》に薄荷《はっか》といったようなものを二寸四方位の板に練り固めて、縦横十文字に切り型を入れて金粉や銀粉がタタキ付けてある。無害無効の清涼剤だが、その一枚を三十か四十かに割った三角の一片を出せば、かなりの富豪が三拝九拝して一晩泊めてくれる。一枚の三分の一でも呉れようもんなら、その頃の郡守といって、県知事以上の権威を持った大名役人が、逆立ちをしながら沿岸を案内してくれるというのだから、まるでお伽話《とぎばなし》だろう。おまけに吾輩は内地の騎兵軍曹の古服を着て、山高帽に長靴、赤|毛布《ゲット》に仕込杖《しこみづえ》……笑っちゃいけない。ちょうどその頃、先輩の玄洋社連が、大院君を遣付《やっつ》けるべく、烏帽子《えぼし》直垂《ひたたれ》で驢馬《ろば》に乗って、京城に乗込んでいるんだぜ。……その吾輩が長髯《ちょうぜん》を扱《しご》きながら名刺を突き出すと、ハガキ位の金縁を取った厚紙に……日本帝国政府視察官、医典博士、勲三等、轟雷雄《チョツデヨンウウン》……と一号活字で印刷してある。意訳すると豪胆、勇壮、この上なしの偉人という名前なんだから、大抵の奴が眼を眩《ま》わしたね。最小限|華族《ヤンパン》ぐらいには、到る処で買冠《かいかぶ》られたもんだ。
 この勢いで北は図満江《とまんこう》の鮭から、南は対州《つしま》の鰤《ぶり》に到るまで、透きとおるように調べ上げる事十年間……今度は内地に帰って、水産講習所長の紹介状を一本、大上段に振り冠《かぶ》りながら、沿海の各県庁、水産試験場、著名の漁場漁港を巡廻し、三寸|不爛《ふらん》の舌頭《ぜっとう》を以て朝鮮出漁を絶叫する事、又、十二年間……折しもあれ日韓合併の事成るや、大河の決するが如き勢をもって朝鮮に移住する漁民《りょうみん》だけが、前後を通じて五十万という盛況を見つつ今日《こんにち》に及んだ。歴代の統監、総督の中でも山内正俊大将閣下は、特に吾輩の功績を認めて、一躍、総督府の技師に抜擢《ばってき》し、大佐相当官の礼遇を賜う事になった。苟《いやし》くも事、朝鮮の産業に関する限り、米原《まいばら》物産伯爵、浦上水産翁と雖《いえど》も、一応は必ず、吾輩、轟技師に伺いを立てなければ、物を云う事が出来ないという……吾輩の得意想うべしだったね。
 ところでここまではよかった。ここまではトントン拍子に事が運んだが、これから先が大変な事になった。引くに引かれぬ鞘当《さやあ》てから、日本全国を潜行する無量無辺の不正ダイナマイトを正面に廻わして、アアリャジャンジャンと斬結《きりむす》ぶ事になった。しかもソイツが結局、吾輩タッタ一人の死物狂い的白熱戦になって来たんだから遣り切れない。
 或は吾輩一流の野性が祟《たた》ったのかも知れないがね。
 そのソモソモの狃《な》れ初《そ》めというのは、実につまらないキッカケからだった。
 今も云う通り吾輩は、総督府のお役人になってしまった。一介の漁師としては正に位、人臣を極めるところまで舞い上って来た訳だが、サテ、そうなってみるとドウモ調子が面白くない。朝鮮|緘《おど》しの金モール燦然《さんぜん》たる飴売《あめう》り服や、四角八面のフロックコートを一着に及んで、左様《さよう》然らばの勲何等|風《かぜ》を吹かせるのが、どう考えても吾輩の性に合わなかったんだね。正直正銘のところ山内閣下から轟……轟といって可愛がらるよりも、五十万の荒くれ漁夫《りょうし》どもから「おやじおやじ」と呼び付けられる方が、ドレ位嬉しいかわからない。この心境は知る人ぞ知るだ。トウトウ思い切ってこうした心事を、山内さんの前で露骨に白状したら、山内さんあのビリケン頭に汗を掻いて大笑《おおわらい》したよ。……あんなに笑ったのを見た事が無いと、同席の藁塚《わらづか》産業課長が云っておったがね。
 その結果、現官のままの吾輩を中心にして東洋水産組合というものが認可されて本拠を釜山《ふざん》の魚市場に近い岩角《がんかく》の上に置いた。費用は五十万の漁民《りょうみん》から一戸当り毎年二十銭ずつ、各道の官庁から切ってもらって、半官半民的に漁民の指導保護、福利増進に資すると同時に北は露領沿海州から、西は大連《たいれん》沖、支那海まで進出して宜しいという鼻息を、総督から内々《ないない》で吹き込まれた……というと実に素晴らしい、堂々たる事業に相違ない。吾輩の生命《いのち》の棄て処が出来たというので、躍り上って喜んだものだが、サテ実際に仕事を初めてみると、何より先に驚ろかされたのは組合費が集まらない事だった。
 アタジケナイ話だが、一年の一戸当りがタッタ二十銭とはいうものの、税金と違って罰則が無い。おまけに遣りっ放しの海上生活者が相手なんだから徴収困難は最初《てん》から覚悟していたが、半分以下に見て七千円の予算が、その又半分も覚束《おぼつか》ない。吾輩の本俸手当を全部タタキ込んでも建物の家賃と、タッタ一人の事務員の月給と、小使の給料に足りないのだから屁古垂《へこた》れたよ……実際……。
 ところが一方に吾輩が総督府を飛出して、水産組合を作ったという評判は、忽《たちま》ちの中に全鮮へ伝わったらしいんだね。到る処から「おやじおやじ」の引張り凧《だこ》だ。……行ってみると漁場《りょうば》の争奪、漁師の喧嘩、発動機船|底曳《そこひき》網の横暴取締り、魚市場の揉め事、税金の陳情なぞ、あらん限りのイザコザを持ち掛けて来る上に、序《ついで》だからというので子供の名附親から、嫁取り、婿取りの相談、養子の橋渡し、船の命名進水式、金比羅《こんぴら》様、恵比須《えびす》様の御勧請《ごかんじょう》に到るまで、押すな押すなで殺到して来る。その忙《せわ》しい事といったらお話にならない。
 しかし吾輩は嬉しかった。何をいうにも内地から遥々《はるばる》の海上を吾輩が自身に水先案内《パイロテージ》して、それぞれの漁場に居付かせてやった、吾児《わがこ》同然の荒くれ漁師どもだ。その可愛さといったら何ともいえない。経費なんかはどうでもなれという気になって、東奔西走しているうちに妙なものだね。到る処の漁村の背後に青々《せいせい》、渺茫《びょうぼう》たる水田が拡がって行った。同時に漁獲がメキメキと増加して、総督府の統計に上る鯖《さば》だけでも、年額七百万円を超過するという勢いだ。その又一方に組合費の納入成績はグングン下落して、何とも云いもしないのに、タッタ一人の事務員が尻に帆をかけるという奇現象を呈する事になったが、それでも吾輩喜んだね。鮮海漁業の充実期して待つべし……更に金鞭《きんべん》を挙げて沿海州に向うべし……というので大白を挙げて万歳を三唱しているところへ、思いもかけないドエライ騒動が持ち上って来た。ウッカリすると折角《せっかく》、根を張りかけた鮮海の漁業をドン底までタタキ付けられるかも知れない大暴風《おおあらし》が北九州の一角から吹き初めたもんだ。
 ……というのはほかでもない。海上の大秘密……爆弾漁業の横行だった。
 ところで又一つ脱線するが、ここいらで所謂《いわゆる》、漁業界の魔王、爆弾漁業の正体と、その横行の真原因を明らかにしておかないと困るのだ。世間に知られていない……永いこと官憲の手によって暗《やみ》から暗《やみ》に葬られて来た事実だが、実は今夜の話の興味の全部を裏書する重大問題だからね。
 何だ……大いに遣ってくれ。非常に参考になる……ウン遣るよ。徹底的にやるよ。君なんか無論初耳だろうが、実に戦慄すべき国家問題だからね。
 由来海上の仕事には神秘とか、秘密とかいう奴が、滅法矢鱈《めっぽうやたら》に多いものだが、その中でもこの爆弾漁業という奴は、超特級のスゴモノなんだ。
 何故かというと一般社会ではこの爆弾漁業横行の原因を、利益が大きいから……とか何とかいう単純な、唯物的な理由でもってアッサリ片づけているようだが、永年、漁夫《りょうし》の中を転がりまわって、半風子《しらみ》を分け合った吾輩の眼から見ると、その奥にモウ一つ深い心理的な理由があるのだ。すなわち一言にして蔽《おお》うと、この爆弾漁業なるものこそ、吾が日本の国民性に最も適合した漁業法……怪《け》しからんと云ったって事実なんだから仕方がない。イザ戦争となると直ぐに肉弾をブッ付ける。海では水雷艇の突撃戦に血を湧かしたがる。油断すると爆薬を積んだ飛行機を敵艦にブッ付けようかという、万事、極端まで行かなければ虫が納まらないのを、大和魂《やまとだましい》の精髄と心得ている日本人だ。……最初は九州の炭坑地方の河川で、慰み半分に工業用ダイナマイトを使って極く内々で遣っていた奴が、こいつは面白いというので玄海|洋《なだ》に乗り出すと、見る見る非常な勢いで氾濫し始めた。
 君等は気が付かなかったかも知れんが、明治四十年前後まで、関西の市場に大勢力を占めていた対州鰤《たいしゅうぶり》という奴が在った。魚市場《せりば》へ行ってみると、黒い背甲《せこう》を擦剥《すりむ》いて赤身を露《だ》した奴がズラリと並んで飛ぶように売れて行ったものだが、これは春先から対州《たいしゅう》の沿岸を洗い初める暖流に乗って来た鰤の大群が、沿岸一面に盛り上る程、押合いヘシ合いしたために出来たコスリ傷だ。いわば対州鰤の一つの特徴になっていたくらい盛んなものだった。
 ところが、それほど盛大を極めていた鰤の周遊が、爆弾漁業の進出以来、五六年の中《うち》に絶滅してしまった。勿論、対州の官憲が、在住漁民と協力して極力取締を励行したものだが、何をいうにも相手が爆弾を持っている連中だから厄介だ。間誤間誤《まごまご》すると鰤の代りに、こっちの胴体が飛ばされてしまう。殉職した警官や、藻屑《もくず》になった漁民《りょうみん》が何人あるかわからない……といった状態で、アレヨアレヨといううちに、対州鰤をアトカタもなくタタキ付けた連中が、今度は鋒先を転じて南鮮沿海の鯖を逐《お》いまわし始めた。
 彼奴《きゃつ》等が乗っている船は、どれもこれも申合わせたように一丈かそこらの木《こ》ッ葉船《ぱぶね》だ。一挺の櫓と一枚か二枚の継《つ》ぎ矧《は》ぎ帆《ほ》で、自由自在に三十六|灘《なだ》を突破しながら、「絶海遥かにめぐる赤間関」と来る。そこで眼ざす鯖の群れが青海原に見えて来ると、一人は艫《とも》にまわって潮銹《しおさび》の付いた一挺櫓を押す。一人は手製の爆弾と巻線香を持って舳先《へさき》に立ち上るのだ。このバッテリーの呼吸がうまく合わないと、生命《いのち》がけのファインプレイが出来ないのだ。
 手製の爆弾というのは何でもない。炭坑夫が使うダイナマイト……俗にハッパという奴だ。ビンツケみたいにネバネバした奴を二三本握り固めて、麻糸でギリギリギリと巻き立てて手鞠《てまり》ぐらいの大きさになったら、それで出来上りだ。ここまでは誰でも出来るが、そいつを左手に持ちながら立ち上って、波の下に渦巻く魚群を見い見い導火線《くちび》を切る。この導火線《くちび》の寸法なるものが又、彼奴《きゃつ》等の永年の熟練から来ているので、所謂、教化別伝の秘術という奴だろう。魚群の巨大《おおき》さや深さによって咄嗟《とっさ》の間に見計《みはか》らいを付けるのだからナカナカ難かしい。……その導火線《くちび》を差込んだ爆薬を右手に持ち換えて……左利きの奴も時々居るそうだが……片手に火を付けた巻線香を持ちながら、両方の切り口を唇に近付ける。背後《うしろ》を振り返って、
「ソロソロ漕げ……ソロソロ……ソロソロ……」
 と呼吸を計《はか》っているうちに、鯖の群れ工合を見て導火線《くちび》の切口と、線香の火をクッ付けて……フッ……と吹く。……シュッシュッと……来た奴をモウ一度、見計らって一気に投げる。はるかの水面に落ちて泡を引きながらグングン沈む。水面下に大渦を巻いている鯖の大群の中心に来たと思う頃、ビシイインという震動が船に来て、波の間から電光形の潮飛沫《しおしぶき》が迸《ほとばし》る。……ソレッ……というので漕ぎ付けるとサア浮くわ浮くわ。何しろ何十万ともわからない魚群の中心で破裂するんだからタマラない。五六間四方ぐらいは背骨が切れる。臓腑が吹き出す。十四五間四方ぐらいは急激|脳震盪《のうしんとう》を起して引っくり返る。その外側の二十間四方ぐらいの奴は眼をまわして、あとからあとから海面が真白になる程浮き上る。その中を漕ぎまわる。掬《すく》う。漕ぐ。掬う。瞬くうちに船一パイになったら、残余《あと》はソレキリ打っちゃらかしだ。勿体《もったい》ないが惜しい事はない。タカダカ三円か五円ソコラの一発だからね。マゴマゴして巡邏船《じゅんらせん》にでも見付かったら面倒だ。
 それあ危険な事といったら日本一だろう。その導火線を切り損ねて、手足や頭を飛ばした奴が又、何百何千居るか知れないんだが、そんなのは公々然と治療も出来なければ葬式も出せない。十中八九は水葬礼だが、これとても惜しい生命《いのち》じゃないらしい。
 論より証拠……春鯖から秋鯖の時季にかけて、南朝鮮の津々浦々をまわって見たまえ。到る処に白首《しらくび》の店が、押すな押すなで軒を並べて、弦歌《げんか》の声、湧くが如しだ。男も女も、老爺《じじい》も若造《わかぞう》も、手拍子を揃えて歌っているんだ。
「百円|紙幣《さつ》がア  浮いて来たア
 百円|紙幣《さつ》がア  浮いて来たア
 ドオンと一発  掴み取りイ
 浮いたア浮いたア  エッサッサア

 浮いたア浮いたア  エッサッサア
 お前が抱かれて くれるならア
 片手や片足   何のそのオー
 首でも胴でも  スットコトン
 明日《あす》の生命《いのち》が  スットコトン
 スットコスットコスットコトン

 浮いたア浮いたア  エッサッサア
 百円|紙幣《さつ》がア  浮いて来たア……」
 と来るんだ。どうだい……コイツが止《や》められるかどうか考えてみたまえ。

 こうして財布の底までハタイてしまうと、明日《あす》は又「一葉の扁舟《へんしゅう》、万里の風」だ。「海上の明月、潮《うしお》と共に生ず」だ。彼等の鴨緑江節《おうりょっこうぶし》を聞き給え……。
「朝鮮とオ――
 内地ざかいのアノ日本海イ――
 揚げたア――片帆がア――アノよけれエ――ど――もオ――。ヨイショ……
 月は涯《は》てし――も――ヨッコラ波枕ヨオ――いつか又ア――女郎衆のオ――膝枕ア――」
 と来るんだから遣り切れないだろう。海国男児の真骨頂だね。
 そのうちに又、ドオンと来る。五千、一万の鯖が船一パイに盛り上る。コイツを発動機船の沖買いが一|尾《ぴき》二三銭か四五銭ぐらいの現金《ナマ》で引取って、持って来る処が下関の彦島《ひこしま》か六連島《むつれ》あたりだ。そこで一|尾《ぴき》七八銭当りで上陸して、汽車に乗って大阪へ着くとドンナに安くても十四五銭以下では泳がない。君等は二十銭以下の大鯖を喰った事があるかい。無いだろう。どの位儲かるかは、この一事を以て推して知るべしだよ。
 ところでサア……こうなると所謂《いわゆる》、資本家連中が棄てておかない。今でも××の海岸にズラリと軒を並べている※[#「┐」を全角大とした、屋号を示す記号、240-14]友《かねとも》とか◯金《まるきん》とかいう網元へ船を漕ぎ付けた漁師が、仕事をさしてくれと頼むかね……そうすると店の番頭か手代みたような奴が、物蔭へ引っぱり込んで、片手で投げるような真似をしながら「遣るか」と訊く。そこで手を振って「飛んでもない……そんな事は……」とか何とか云おうものなら、文句なしに追払いだ。誰一人雇い手が無いというのだから凄いだろう。
 そればかりじゃない。そうした各地の網元の背景には皆それぞれの金権、政権が動いているのだ。その頭株が最初に云ったような連中だが、その配下に到っては数限りもない。みんなこの爆薬の密売買だの爆弾漁業だので産を成した輩《てあい》ばかりだ。しかも彼等が爆弾漁業者……略して「ドン」と云うが、そのドン連中に渡すダイナマイトというのが、一本残らず小石川の砲兵工廠から出たものだ。梅や、桜や、松、鶴、亀の刻印を打ったパリパリなんだから舌を捲くだろう。
 どこから手に入れるかって君、聞くだけ野暮《やぼ》だよ。強《あなが》ちに北九州ばかりとは云わない。全国各地の炭山、金山、鉱山の中に、本気で試掘を出願しているのがドレ位あると思う。些《すくな》くとも半分以上はこの「ドン」欲しさの試掘願いだと云っても過言じゃない。しかもその願書の裏を手繰《たぐ》って行くと又一つ残らず、最初に云った巨頭連中の中の、どれかに引っかかって行く事は、吾輩が首を賭けて保証していいのだ。……同時に彼等巨頭連が、こうした非合法手段で巨万の富を作りつつ、一方に極力、不正漁業を奨励して天与の産業を破壊している事その事が、如何に赤い主義者や、不逞鮮人の兇悪運動を庇護、助長しているか。日本民族の将来の発展に対して、如何に甚しい障害を与えているか……という事実は、吾輩が改めて説明する迄もないだろう。
 ところが今云った巨頭連中は、そんな事なんかテンデ問題にしていないのだ。……勅令……内務省令、糞《くそ》を啖《く》らえだ。いよいよ団結を固くして、益々大資本を集中しつつ、全国的に鋭敏な爆薬取引網を作って行く。それが現在、ドレ位の大きさと深さを持っているかはあの報告書を引っぱり出す迄もない。吾輩の話だけでもアラカタ見当が付くだろう。
 そこで、こんな風に爆弾漁業が大仕掛になって横行し始めると、何よりも先にタマラないのは、云う迄もなく南鮮沿海五十万の普通漁民だ。
 しかも絶滅して行くのは鯖ばかりじゃない。全然爆薬の音を聞かされた事のない、ほかの魚群までもが、テンキリ一匹も岸に寄付かなくなるんだから事、重大だろう。

 ……ウン……それあ実際、不思議な現象なんだ。専門の漁師に聞いたって、この重大現象の理由はわからない。魚同志が沖で知らせ合うんだろう……ぐらいの説明で片附けている……いわば海洋の神秘作用と云ってもいい怪現象なんだが、コイツを科学的に研究してみると何でもない。頗《すこぶ》る簡単な理由なんだ。
 そもそも鯖とか、鰯《いわし》とかいう廻游魚類が、沿岸に寄って来る理由はタッタ一つ……その沿岸の水中一面に発生するプランクトンといって、寒冷紗《かんれいしゃ》の目にヤット引っかかる程度の原生虫、幼虫、緑草、珪草、虫藻《むしも》なぞいう微生物を喰いに来るのが目的なんだ。
 だからその寄って来る魚群を温柔《おとな》しく網で引いて取ればプランクトンはいつまでもいつまでも居残ってあとからあとから魚群を迎える事になる。発動機船の底曳網でも、かなり徹底的に、沿海の魚獲を引泄《ひきさら》って行くには行くが、それでもプランクトンだけは確実に残して行くのだ。
 ところが爆漁《ドン》と来ると正反対だ。あっちでもズドン、こっちでもビシンと爆発して、生き残った魚群の神経に猛烈な印象をタタキ込むばかりでない。そこいらの水とおんなじ位に微弱なプランクトンの一粒一粒を、そのショックの伝わる限りステキに遠い処までも一ペンに死滅させて行くんだからタマラない。……対州が何よりのお手本だ。……餌の無い海に用はないというので、魚群は年々、陸地から遠ざかって行くばかり……朝鮮海峡をサッサと素通りするようになる。年額七百万円の鯖が五百万、二百万と見る見るうちにタタキ下げられて行く。税金が納められないどころの騒ぎじゃない。小網元の倒産が踵《くびす》を接して陸続《りくぞく》する。吾輩が植え付けた五十万の漁民が、眼の前でバタバタと飢死して行くのだ。
 ここに於て吾輩は猛然として立上った。実際、臓腑《はらわた》のドン底から慄《ふる》え上ってしまったのだ。……爆弾漁業、殲滅《せんめつ》すべし。鮮海五十万の漁民を救わざるべからず……というので、第一着に総督府の諒解を得て、各道の司法当局に檄《げき》を飛ばした。続いて東京の各省の諒解の下に、北九州、山陰、山陽の各県水産試験場、南鮮の各重要諸港で、十二|節《ノット》以上の発動機船を準備してもらった奴に、武装警官を乗組ませて、ドン船と見たら容赦なく銃口を向けさせる。これは対州の警察が嘗めさせられた苦い経験から割出した最後手段だ。一方にその頃まだ鎮海《ちんかい》湾に居た水雷艇隊を動かしてもらって、南鮮沿海を櫛の歯で梳《す》くように一掃してもらう事になった。……というのは吾輩が、司令官の武重《たけしげ》中将を膝詰談判で動かした結果だったがね。
 とにかくコンナ調子で、爆弾漁業を本気で掃蕩し始めたのはこの時が最初だったものだから、その騒動といったらなかったよ。南鮮沿海に煮えくり返るような評判だった。

 ところがここに、お恥かしい事には、吾輩、元来、漁師向きに生れ附いただけあって、頭が単純に出来ているんだね。そんな風に吾輩の弁力のあらん限りを動員して、爆弾漁業と青眼に切り結んだところは立派だったが、その当の相手の爆弾漁業者《ドン》の背景に、どんな大きな力が隠れているか……彼等が何故に砲兵工廠の「花スタンプ」附きの爆薬《ハッパ》を使っているか……なぞいう事を、その頃まで夢にも念頭に置いていなかったんだから何にもならない……。要するに単純な、無鉄砲な漁師どものアバズレ仕事とばかり思い込んでいたものだから、一気に片付けるつもりで追いまわしてみると、どうしてどうして。水雷艇や巡邏船が百艘や二百艘かかったってビクともしない相手である事が、一二年経つうちに、だんだんと判明《わか》って来たもんだ。
 第一に驚かされたのは彼奴《きゃつ》等の船の数だった。石川や浜の真砂《まさご》どころではない。慶南、慶北沿海の警察の留置場が、満員するほど引っ捕えても、どこをドウしたかわからないくらい夥しい船が、抜けつ潜りつ荒しまわる。朝鮮名物の蠅と同様、南鮮沿海に鉄条網でも張り廻わさなければ防ぎ切れそうに見えないのだ。
 それから第二に手を焼いたのは、その密漁手段の巧妙なことだ。「ドーン」という音を聞き付けた見張りの水雷艇が、テッキリあの舟だというので乗付けて見ると、果せるかなビチビチした鯖を満載している。そこで「この鯖をドウして獲《と》ったか」と詰問すると澄ましたものだ。古ぼけた一本釣の道具を出して「ちょうど大群《むれ》に行き当りましたので……」という。「しかしタッタ今聞えたのは確かに爆薬《ダイナマイト》の音だ。ほかに船が居ないから貴様達に違いあるまい」と睨み付けると頭を掻《かい》てセセラ笑いながら「そんなら舟を陸に着けますから一つ調べておくんなさい」と来る。そこで云う通りにしてみると成る程、巻線香のカケラも見当らないから……ナアーンダイ……というので釈放する。
 実に張合いのない話だが、しかし考えてみると無理もないだろう。水兵や警官は漁師じゃないんだからね。爆弾船《ドンぶね》の連中が持っている一本釣の道具が、本物かそれとも胡麻化《ごまか》し用の役に立たないものかといったような鑑別が一眼で出来よう筈がない。とりあえず糸《テグス》を引切《ひっき》ってみればタッタ今まで使ったものかどうかは吾々の眼に一目瞭然なんだが……爆弾船《ドンぶね》に無くてはならぬ巻線香だって、イザという時に海に投げ込めばアトカタもない。もっとも生命《いのち》から二番目のダイナマイトはなかなか手離さないが、その隠匿《かく》しどころが亦、実に、驚ろくべく巧妙なものなんだ。帆柱を立てる腕木を刳《く》り抜いたり、船の底から丈夫な糸で吊したり、沢庵漬《たくあんづけ》の肉を抉《えぐ》って詰め込んだり、飯櫃《めしびつ》の底を二重にしていたりする。そのほか、狭い舟の中でアラユル巧妙な細工をしている上に、万一あぶないとなれば鼻の先で手を洗う振りをしながらソッと水の中に落し込む。その大胆巧妙さといったら実に舌を捲くばかりで、天勝《てんかつ》の手品以上の手練を持っているんだからトテモ生《なま》やさしい事で捕まるものでない。何しろ彼奴《きゃつ》等は対州鰤《たいしゅうぶり》時代に手厳しい体験を潜って来ているのだからね。……そこで吾輩はモウ一度、引返して、各道の判検事や警察官に、爆弾船《ドンぶね》の検挙、裁判方法を講演してまわるという狼狽のし方だ。泥棒を見て縄を綯《な》うのじゃない。追っかけながら藁《わら》を打つんだから、およそ醜態といってもコレ位の醜態はなかったね。
 ところがここで又一つ……一番最後に驚ろかされたのは、吾輩のそうした講演を聞きに来ている警察官や、判検事連中の態度だ。先生方がお役目半分に、渋々《しぶしぶ》聞きに来ている態度はまあいいとして、その大部分が本当に気乗りがしていないばかりじゃない。何となく吾輩の演説を冷笑的な気分で聞いている事が、最初から吾輩の頭にピインと来たもんだ。これは演壇に慣れた人間に特有の直感だがね……のみならず中には反抗的な態度や、嘲笑的な語気でもって質問を浴びせて来る奴が居る。しかもその質問というのが十人が十人|紋切型《もんきりがた》だ。
「一体、爆弾漁業というものは違法なものでしょうか。……巾着網《きんちゃくあみ》よりも底曳《そこひき》網の方が有利だ……底曳網よりも爆弾漁業の方が多量の収穫を挙げる……というだけの話で、要するに比較的収益が多いというだけのものじゃないですか。……だからこれを犯罪とせずに正当の漁業として認可したら却《かえ》って国益になりはしまいか。これを禁止するのは炭坑夫にダイナマイトを使うな……というのと、おなじ意味になるのじゃないですか」
 と云うのだ。……どうも法律屋の議論というものは吾輩に苦手なんでね。吾々みたいな粗笨《あら》っぽい頭では、どこに虚構《おち》が在るか見当が附かないんだ。そこで止むを得ず受太刀《うけだち》にまわって、南鮮沿海の漁民五十万の死活に関する所以《ゆえん》を懇々と説明すると、
「それならばその普通漁民も、ほかの方法で鯖を獲《と》る方針にしたらいいでしょう。朝鮮沿海に魚が居なくなったら、露領へでも南洋にでも進出したらいいじゃないですか」
 と漁業通を通り越したような無茶を云い出す。ドウセ無責任と無智をサラケ出した逃げ口上だがね。そこで吾輩が躍起《やっき》となって、
「それでも銃砲火薬類の取締上、由々《ゆゆ》しき問題ではないか」
 と逆襲すると、
「それは内地の司法当局の仕事で吾々に責任はありません」
 と逃げる。実に腸《はらわた》が煮えくり返るようだが、何を云うにもソウいう相手にお願いしなければ取締りが出来ないのだから止むを得ない。情なく情なく頭を下げて、
「とにかくソンナ事情《わけ》ですから、折角定着しかけた五十万の南鮮漁民を助けると思って、何分の御声援を……」
 と頼み入ると、彼等は冷然たるもので、
「それはまあ、総督府の命令なら遣って見ましょうが、何しろ吾々は陸上の仕事だけでも手が足りないのですからね」
 といったような棄科白《すてぜりふ》でサッサと引上げてしまう。怪しからんといったってコレ位、怪しからん話はない。無念……残念……と思いながら彼奴《きゃつ》等の退場する背後《うしろ》姿を、壇上から睨み付けた事が何度あったかわからないが、思えばこの時の吾輩こそ、大馬鹿の大馬鹿の三太郎だったのだね。
 こんな事実が度重《たびかさ》なるうちに……吾輩ヤット気が付いたもんだ。君だってここまで聞いて来れば大抵、感付いているだろう。……ウンウン。その通りなんだ。明言したって構わない。爆弾密売買の元締連中の手が朝鮮の司法関係にまで行きまわっているんだ。何しろその当時の朝鮮の官吏と来たら、総督府の官制が発布されたばかりの殖民地気分のホヤホヤ時代だからね。月給の高価《たか》いのを目標に集まって来たような連中ばかりだから、内地の官吏よりもズット素質が落ちていたのは止むを得ないだろう。……それと気が付いた吾輩は、それこそ地団太《じだんだ》を踏んで口惜しがったものだ。地団太の踏み方がチットばかり遅かったが仕方がない。
 そこでボンヤリながらもそうと気が付くと同時に吾輩は、ピッタリと講演を止めてしまって、爆弾漁業の本拠|探《さぐ》りに没頭したもんだ。先《ま》ず手頃の人間で吾輩のスパイになってくれる者は居ないか……と頻《しき》りに近まわりの人間を物色してみたが、それにしてもウッカリした奴にこの大事は明かせない。何しろ五十万人の死活問題を背負って立つだけの器量と、覚悟を持った奴でなければならない上に、ドンの背景となっている連中が又、ドレ位の大物なのか見当が付かないのだから、とりあえず佐倉宗五郎以上の鉄石心《てっせきしん》が必要だ。もちろん組合の費用は全部、費消《つか》っても構わない覚悟はきめていた訳だがそれでも多寡《たか》は知れている。それを承知で活躍する人間といったら、当然、吾輩以上の道楽|気《け》が無くちゃならんだろう……ハテ……そんな素晴らしい変り者が、この世界に居るか知らんと、眼を皿のようにして見廻わしているところへ、天なる哉《かな》、命なる哉。思いもかけない風来坊が吾輩の懐中《ふところ》へ転がり込んで来る段取りになった。
 ……ところでドウダイもう一パイ……相手をしてくれんと吾輩が飲めん。飲まんと舌が縺《もつ》れるというアル中患者だから止むを得んだろう……取調べの一手《ひとて》にソンナのが在りやせんか……アッハッハッ……。
 ナニ。この三杯酢かい。こいつは大丈夫だよ。林《りん》青年の手料理だが、新鮮無類の「北枕」……一名ナメラという一番スゴイ鰒《ふぐ》の赤肝《あかぎも》だ。御覧の通り雁皮《がんぴ》みたいに薄切りした奴を、二時間以上も谷川の水でサラシた斯界極上《しかいごくじょう》の珍味なんだ。コイツを味わわなければ共に鰒を語るに足らずという……どうだい……ステキだろう。ハハハ……酒の味が違って来るだろう。
 いよいよこれから吾輩が、林《はやし》の親仁《おやじ》を使って爆弾漁業退治に取りかかる一幕だ。サア返杯……。

 ナニ。林《はやし》のおやじ……? ウン。あの若い朝鮮人……林《りん》の親父《おやじ》だよ。まだ話さなかったっけな……アハハハ。少々酔ったと見えて話が先走ったわい。
 何を隠そうあの林《りん》という青年は朝鮮人じゃないんだ。林友吉《はやしともきち》という爆弾漁業者《ドン》の一人息子で、友太郎という立派な日本人だ。彼奴《あいつ》の一身上の事を話すと、優に一篇の哀史が出来上るんだが、要するに彼奴《あいつ》のおやじの林友吉というのは筑後|柳河《やながわ》の漁師だった。ところが若いうちに、自分の嬶《かかあ》と、その間男《まおとこ》をした界隈切っての無頼漢《ゴロツキ》を叩き斬って、八ツになる友太郎を一人引っ抱えたまま、着のみ着のままで故郷を飛出して爆弾漁業者《ドン》の群に飛び込んだという熱血漢だ。
 ところがこの友吉という親仁《おやじ》が、持って生れた利かぬ気の上に、一種の鋭い直感力を持っていたらしいんだね。いつの間にか爆薬密売買《ドンヤ》の手筋を呑み込んでしまって、独力で格安な品物を仕入れては仲間に売る。彼等仲間で云う「抜け玉」とか「コボレ」とかいう奴だ。そうかと思うと沖買いの呼吸《コツ》を握り込んで「売るなら買おう」「買うなら売るぞ」「捕るなら腕で来い」といったスゴイ調子で南鮮沿海を荒しまわる事五年間……忰《せがれ》の友太郎も十歳《とお》の年から櫓柄《ろづか》に掴まって玄海の荒浪を押し切った。……親父《おやじ》と一所に料理屋へも上った……というんだから相当のシロモノだろう。
 然るにコイツが、ほかの爆弾《ドン》連中の気に入らなかった……というよりも、彼等の背後から統制している巨頭連の眼障《めざわ》りになって来た……と云った方が適切だろう。
 忘れもしない明治四十五年の九月の五日だった。吾輩がこの絶影島《まきのしま》の裏手の方へ、タッタ一人で一本釣に出た帰り途《みち》にフト見ると、遥かの海岸の浪に包まれた岩の上に、打ち上げられたような人間一人横たわっている。その上に十二三ぐらいの子供が取り縋《すが》って泣いている様子だから、可怪《おか》しいと思い思い、危険を冒《おか》して近寄ってみると、倒れているのは瘠せコケた中年男だが、全身紫色になった血まみれ姿だ。そこでいよいよ驚きながら、何はともあれ子供と一所《いっしょ》に舟へ収容して、シクシク泣いている奴に様子を聞いてみると、こんな話だ。
「……ウチの父さんが昨日《きのう》、この向うでドンをやっていたら、どこからか望遠鏡で覗いていた水雷艇に捕まって、釜山の警察に引っぱって行かれた。……その時にウチはメチャクチャに泣き出して、父《とっ》さんの頸にカジリ付いて、イクラ叱られても離れなかった。……そうしたら警察の奥の方から出て来た紋付袴《もんつきはかま》の立派な人が、ウチ達をジロジロ見て、警部さんに許してやれと云うたので、タッタ一晩、警察に寝かされただけで、きょうの正午《ひる》過ぎに釈放《はな》された上に、舟まで返してもろうた。父《とっ》さんは大層喜んで、お前の手柄だと云って賞めてくれた。
 ……そうしたら又……釜山の南浜から船に乗って、絶影島《まきのしま》を廻ると間もなく、荒くれ男を大勢載せた、正体のわからない発動機船《ポンポン》が一艘、どこからか出て来て、父《とっ》さんを捉まえて踏んだり蹴ったりしたから、ウチもその中の一人の向う脛に噛み付いてやったら、一気に海へ蹴込《けこ》まれてしもうた。……ウチの父《とっ》さんは、平生《いつも》から小型《ちいさ》な、鱶捕《ふかど》りの短導火線弾《ハヤクチ》を四ツ五ツと、舶来の器械|燐寸《まっち》を準備《ようい》していた。これさえ在れば発動機船《ポンポン》の一艘二艘、物は言わせんと云うとったのに、釜山の警察で取上げられてしもうたお蔭で負けてしもうた。それが残念で残念で仕様がない。
 ……そのうちに発動機船《ポンポン》は、父《とっ》さんの身体《からだ》を海に投込んでウチ達の舟を曳いたまま、どこかへ行ってしもうた。その時に波の間を泳いでいたウチは直ぐに父《とっ》さんの身体《からだ》に取り付いて、頭を抱えながら仰向き泳ぎをして、一生懸命であの岩の上まで来たけれど、向うが絶壁《きりぎし》で登りようがない。そのうちに汐《しお》がさして来て、岩の上が狭くなったから、どこかへ泳いで行くつもりで、父《とっ》さんの耳に口を当て、「待っておいで……讐敵《かたき》を取ってやるから」と云うていた。そうしたら先生が来て助けてくれた。……ウチは今年十二になる。ドンは怖くない。面白い……」
 というのだ。ウン。とてもシッカリした奴なんだ。第一そういう面魂《つらだましい》が尋常じゃなかったよ。お乳母日傘《んばひがさ》でハトポッポーなんていった奴とは育ちが違うんだからね……。
 ……ウンウン。そうなんだ。つまり彼等仲間の所謂「私刑《ノメシ》」に処せられた訳だ。その紋付袴の男が誰だったか、今だに調べてもいないが、むろん調べる迄もない。林友吉の頭脳《あたま》と仕事ぶりを警戒していた、釜山の有力者の一人に相違ないのだ。そいつが友吉親子の顔を見知っていたので、それとなく貰い下げて追い放した奴を、外海《そとうみ》で待伏せていた配下の奴が殺《や》ったものに違いないね。……もっとも友吉おやじがその筋の手にかかったのはこの時が皮切りだったから、或《あるい》は余計な事でも饒舌《しゃべ》られては困る……という算段《つもり》だったかも知れないがね……。
 とにかく、そんな訳で舟を漕ぎ漕ぎ友太郎の話を聞いて行くうちにアラカタの事情《ようす》がわかると吾輩大いに考えたよ。……待て待て……この子供を育て上げて、この復讐心を利用しながら爆薬漁業の裏道を探らせたら、存外面白い成績が上がるかも知れん。かなり気の永い話だが五年や十年で絶滅する不正爆薬ではあるまいし、急がば廻われという事もある。それにはこの死骸を極《ごく》秘密裡に片付けて、忰を日蔭物《ひかげもの》にしないようにしなければならぬ。普通の墓地に葬って墓を建ててやらねばならぬが、何とか名案は無いものか……と色々考えまわしているうちに釜山港に這入った。そこで夕暗《ゆうやみ》に紛れて本町一丁目の魚市場の蔭に舟を寄せると、吾輩の麦稈帽《むぎわらぼう》を眉深《まぶか》に冠せた友吉の屍体を、西洋手拭で頬冠りした吾輩の背中に帯で括《くく》り付けた。片手に友太郎の手を索《ひ》いて、程近い渡船場|際《ぎわ》の医者の家へ辿り付いたものだが、その苦心といったらなかったよ。夕方になると市が立って、朝鮮人がゾロゾロ出て来る処だからね。
 ところで又、その医者というのが吾輩の親友で、鶴髪《かくはつ》、童顔、白髯《はくぜん》という立派な風采の先生だったが、トテモ仕様のない泥酔漢《のんだくれ》の貧乏|老爺《おやじ》なんだ。そいつが吾輩と同様|独身者《ひとりもの》の晩酌で、羽化登仙《うかとうせん》しかけているところへ、友吉の屍体を担《かつ》ぎ込んで、何でもいいから黙って死亡診断書を書いてくれと云うと、鶴髪童顔先生フラフラの大ニコニコで念入りに診察していたが、そのうちに大声で笑い出したものだ。
「……アッハッハッハッ。折角持って来なすったが、これは死亡診断を書く訳にいかんわい。まだ脈が在るようじゃ。アッハッハッハッハッ……」
 という御託宣だ。……馬鹿馬鹿しい。何を吐《ぬ》かす……とは思ったが、忰が飛び上って喜ぶし、呑兵衛《のんべえ》ドクトルも、
「……拙者が請合って預かろう。行くか行かんか注射をしてみたい……」
 と云うから、どうでもなれと思って勝手にさしておいたら……ドウダイ。二日目の朝になったら眼を開いて口を利くようになった。
 傷口も処々乾いて来た。熱も最早《もう》引き加減……という報告じゃないか。呑兵衛先生、案外の名医だったんだね。おまけに忰の友太郎が又、古今無双の親孝行者で、二晩の間ツラリ[#「ツラリ」に傍点]ともしない介抱ぶりには、流石《さすが》のワシも泣かされた……という老|医師《ドクトル》の涙語りだ。
 そこで吾輩もヤット安心して、組合の仕事に没頭しているうちに、忘れるともなく忘れていると、二三週間経つうちに、それまでチョイチョイ吾輩の処へ飲みに来ていた老|医師《ドクトル》がパッタリと来なくなった。……ハテ。可笑《おか》しい……もしや患者の容態が変ったのじゃないか知らん。それとも呑兵衛先生御自身が、中気《ちゅうき》にでもかかったのじゃないか知らん……考えているうちに、急に心配になって来たから、チットばかりの金《かね》を懐中《ふところ》に入れて、医院《せんせい》の門口《かどぐち》から覗き込んでみると、開いた口が三十分ばかり塞がらなかった。
 鬚《ひげ》だらけの脱獄囚みたいな友吉おやじと、鶴髪童顔、長髯の神仙じみた老ドクトルが、グラグラ煮立《にえた》った味噌汁と虎鰒《とらふぐ》の鉢を真中に、片肌脱ぎか何かの差向いで、熱燗《あつかん》のコップを交換しているじゃないか。おまけに酌をしている忰の友太郎を捕まえて、
「……野郎。この事を轟の親方に告口《つげぐち》しやがったらタラバ蟹《がに》の中へタタキ込むぞ」
 と怒鳴っているのには腰を抜かしたよ。医者が医者なら病人も病人だ。世の中にはドンナ豪傑がいるか知れたものじゃない。……むろん吾輩の方から低頭平身して仲間に入れてもらったが、その席上で友吉おやじは吾輩の前に両手を突いて涙を流した。
「……もうもうドン商売は思い切りました。これを御縁に貴方の乾児《こぶん》にして、小使でも何でもいい一生を飼殺しにして下さい。忰を一人前の人間に仕立てて下さい。給金なんぞは思いも寄らぬ。生命《いのち》でも何でも差出します」
 という誠意満面の頼みだ。
 吾輩が、そこで大呑込みに呑込んだのは云うまでもない。
 そこで今まで使っていた鮮人に暇を出して、鬚だらけの友吉おやじを追い使う事になったが、そのうちに機会を見て、吾輩の胸中を打明けてみると、友吉おやじ驚くかと思いの外《ほか》平気の平左でアザ笑ったものだ。
「……へへへ……そのお話なら私がスパイになるまでも御座いません。とりあえず私が存じておりますだけ饒舌《しゃべ》ってみましょう。それで足りなければ探っても見ましょうが……」
 と云うのでベラベラ遣り出したのを聞いている中《うち》に吾輩ふるえ上ってしまったよ。この貧乏な瘠せおやじが、天下無双の爆薬密売買とドン漁業通の上に、所謂、千里眼、順風耳《じゅんぷうじ》の所有者だという事をこの時がこの時まで知らなかったんだからね。
 とりあえず匕首《あいくち》を咽喉《のど》元に突付けられたような気がしたのは、対州から朝鮮に亘るドン漁業の十数年来の根拠地が、吾輩の足元の釜山|絶影島《まきのしま》だという事実だった。
「……それが虚構《うそ》だと云わっしゃるなら、この窓の処へ来て見さっせえ。あの向うに見える絶影島のズット右手に立派な西洋館が建っておりましょう。あの御屋敷は、先生の御親友で釜山一番の乾物問屋の親方さんのお屋敷と思いますが、あの西洋館の地下室に詰まっている乾物の中味をお調べになった事がありますかね」
 と来たもんだ。
 燈台|下《もと》暗しにも何にも、吾輩はその親友と前の晩に千芳閣で痛飲したばかりのところだったから、言句《ことば》も出ずに赤面させられてしまった。
「……お気に障《さわ》ったら御免なさいですが、林友吉は決してお座なりは申しまっせん。日本内地から爆薬《ハッパ》を、一番安く踏み倒おして買うのが、あのお屋敷なんです。アラカタ一本七十五銭平均ぐらいにしか当りますまい。お顔と財産が利いている上に現金払いですから、安全な事はこの上なしですがね。
 ……爆弾《ハッパ》の出先は何といっても九州の炭坑《やま》が第一です。一本十銭か十五銭ぐらいで坑夫に売るのですが、その本数を事務所で誤間化《ごまか》して一本三十銭から五十銭で売り出す……ズット以前の取引ですと手頃の柳行李《やなぎこうり》に一パイ詰めた奴を、どこかの横路次で、顔のわからない夕方に出会った鳥打帽子のインバネス同志が右から左に、無言《だんまり》で現金《げんナマ》と引き換える……だから揚げられても相手の顔は判然《わか》らん判然らんで突張り通したものですが、今ではソンナ苦労はしません。電車や汽車の中で大ビラに鞄《かばん》を交換するのです。……売る奴は大抵炭坑関係かその地方の人間で、買う奴は専門の仲買いか、各地の網元の手先です。そんな連中の鞄の持ち方は、仲間に這入っていると直ぐにわかりますからね。以心伝心で、傍に寄って来て鞄を並べておいてから、平気な顔で煙草の火を借りる。一所《いっしょ》に食堂に行って話をきめる。途中の廊下で金を渡して、駅に着いてから相手の鞄を片手に……左様《さよう》なら……と来るのが紋切型《もんきりがた》です。三等車で遣ってもおなじ事ですが、決して間違いはありません。一度でもインチキを遣った奴は、永い日の目を見た例《ためし》がありませんからね。
 ……そんな仲買連中は若松や福岡にもポツリポツリ居るには居ります。しかしそんな爆薬のホントウに集まる根城というのが、四国の土佐海岸だという事は、いかな轟《とどろき》先生でも御存じなかったでしょう。今の貴族院の議員になって御座る赤沢という華族様の生れ故郷と申上げたら、おわかりになりましょうが、昔から爆弾《ドン》村と云われた処で、今の赤沢様が、その総元締をして御座るのです。その又、総元締の配下になって御座る大元締というのが、やはり日本でも指折りの豪《えら》い人達ばっかりですが、その人達の手から爆弾《ドン》村へ集まって来た爆薬が、チッポケな帆舟《ほまえ》に乗って宇和島をまわって、周防灘から関門海峡をノホホンで通り抜けます。昨日《きのう》の朝の西南風《にしばえ》なら一先ず六連沖《むつれおき》へ出て、日本海にマギリ込みましょう。それから今朝《けさ》の北東風《きたこち》に片尻をかけて、ちょうど今時分、釜山沖へかかる順序ですが……ホーラ御覧なさい。あの馬山《ばさん》通いの背後《うしろ》から一艘、二艘……そのアトから追付いて来る足の速いのも……アノ三艘の片帆の中で、どれでもええから捕まえて、船頭と話して御覧なさい。四国|訛《なま》りじゃったら舟の中に、一|梱《こり》や二|梱《こり》の爆薬《ハッパ》は請合います。松魚《かつお》の荷に作ってあるかも知れませんが、あの乾物屋さんに宛てた送り状なら税関でも大ビラでしょう。荷物を跟《つ》けてみたら一ぺんにわかる事です。
 ……そのほかに爆薬《ハッパ》の出る処は、大連《たいれん》と上海《シャンハイ》ですが、上海のは大きい代りに滅多に出ません。おまけに英国か仏蘭西製《フランスでき》の上等品で、高価《たか》い上に使い勝手が違うのが疵《きず》です。大連のはやはり日本の桜印か松印ですが、これは大連から逆戻りして来る分量よりも、奥地へ這入る分量の方がヨッポド大きい。……どこへ落ち付くのか用が無いから探っても見ませんが、大連、営口《えいこう》から、満洲の奥地へ這入る爆薬《ハッパ》は大変なものです。その中の一箱か二箱がタマに抜け出して朝鮮へ来るので、ドウカすると内地のものより安い事があります。これは支那の兵隊か役人が盗んで来たものだそうですが、それだけに油断も出来ません。非道《ひど》い奴になると玉蜀黍《とうもろこし》の喰い殻に油を浸《した》した奴を、柳行李一パイ百円ぐらいで掴まされた事があるそうです。
 ……ところでイヨイヨ朝鮮内地に来ますと、ソンナ爆薬《ハッパ》の集まる処が、この釜山の外に二三箇所あります。
 ……慶北の九龍浦《きゅうりゅうほ》は何といっても釜山の次でしょう。もっとも釜山に来た爆薬《ハッパ》は、あのお屋敷の地下室に這入るだけですが、九龍浦の方はチット乱暴で、人里離れた海岸の砂の中に埋めて在るのです。私が今度、こんな目に会いましたのも、多分、この案内を嗅ぎ付けた事を知って、釜山の方へ手《ズキ》をまわしたのでしょう。
 ……それから九龍浦の次は浦項《ほこう》と江口《こうこう》で、ここは将来有力な爆薬《ハッパ》の根拠地《たまり》になる見込みがあります。この三個所は釜山と違って、巡査か警部補ぐらいが駐在している処ですから、丸め込むにしても大した手数はかからんでしょう。裁判所の連中でも、みんな美味《うま》い事をしておりますので、その地方地方での一番の有力者が皆、爆薬《ドン》の元締になっているのですから世話が焼けません。……そのほか四五月頃の巨文島《きょぶんとう》、五、六、七月頃の巨済島《きょさいとう》入佐村《いりさむら》、九、十、十一月の釜山、方魚津《ほうぎょしん》、甘浦《かんぽ》、九龍浦、浦項、元山《げんざん》方面へ行って御覧なさい。先生のように爆薬漁業《ドン》を不正漁業なんて云っている役人は一人も居りませんよ。ドン大明神様々というので、駐在巡査でも一身代《ひとしんだい》作っている者が居る位です。尋常に巾着《きんちゃく》網や、長瀬《ながせ》網を引いている奴は、馬鹿みたようなもんで……ヘエ……。
 ……そのほかに爆薬の出て来る処は無いか……と仰言《おっしゃ》るのですか。ヘエ。それあ在るという噂は確かに聞いておりますが、本当か虚構《うそ》かは私も保証出来ません。つまりそこ、ここの火薬庫の主任が、一生一代の大きなサバを読んで渡すことがあるそうで、古い話ですが大阪や、目黒の火薬庫の爆発はその帳尻を誤魔化《ごまか》すために遣ったものだとも云います。そのほか大勢で火薬庫を襲撃した事件も在ると申しますがドンナものでしょうか。新聞には出ていたそうですが……。
 ……そんな大物の捌《は》け口が、ドン方面ばっかりで無い事は保証出来ます。露西亜《ロシア》や、支那に売込んで行く様子も、この眼で見たんですからいつでも現場に御案内致しますが、しかし値段のところはちょっと見当が付きかねます。何でも長城《ちょうじょう》から哈爾賓《ハルピン》を越えると爆薬《ハッパ》の値段が二倍になる。露西亜境の黒龍江《こくりゅうこう》を渡ると四倍になるんだそうですが、これは拳銃《ピストル》でも何でも、禁制品《やかましいもの》はミンナ同じ事でしょう。売国行為だか何だか存じませんが、儲かる事は請合いで……エヘヘヘヘヘヘ……」
 黙って聞いていた吾輩は、この笑い声を聞くと同時に横ッ腹からゾーッとして来たよ。話の内容がアンマリ凄いのと、思い切りヒネクレた友吉|親仁《おやじ》の、平気な話ぶりに打たれたんだね。吾輩はその時にドッカリと椅子にヘタバリ込んだ。腕を組んで瞑目沈思したもんだ。気を落付けようとしたが武者振いが出て仕様がなかったもんだ。
 しかしその中《うち》に机《テーブル》を一つドカンと敲《たた》いて決心を据えると吾輩は、友吉親子を連れてコッソリと××を脱け出した。何よりも先に対岸の福岡県に馳け付けて旧友の佐々木知事を説伏《ときふ》せて、出来たばっかりの警備船、袖港丸《しゅうこうまる》を試運転の名目で借り出した。速力十六|節《ノット》という優秀な密漁船の追跡用だったが、まだ乗組員も何も定《き》まっていなかった。こいつに油と食糧を積込んで、友吉親子に操縦法を仕込みながら西は大連、営口から南は巨済島、巨文島、北は元山、清津《せいしん》、豆満江《とまんこう》から、露領沿海州に到るまで要所要所を視察してまわること半年余り……いかな太っ腹の佐々木知事も内心大いに心配していたというが、それはその筈だ。電報一本、葉書一枚行く先から出さないのだからね。大いに謝罪《あやま》ってガチャガチャになった船を返すと、その足で釜山に引返して、友吉親子もろ共に山内閣下にお目にかかった。むろん官邸の一室で、十時|過《すぎ》に勝手口から案内されたもんだが、思いもかけない藁塚《わらづか》産業課長が同席して、吾輩と友吉おやじの視察談を、夜通しがかりに聞き取ってくれたのには感謝したよ。友吉親子一代の光栄だね。
 その結果、藁塚産業課長が急遽《きゅうきょ》上京して、内務省、司法省、農商務省、陸海軍省と重要な打合わせをする。その結果、朝鮮各道の警察、裁判所に厳重な達示が廻わって、銃砲火薬類取締の粛正、不正漁業徹底|殲滅《せんめつ》の指令が下る。しかも総督府から指導のために出張した検事正や、警視連の指《ゆびさ》す処が一々不思議なほど図星《ずぼし》に中《あた》る。各地の有力者が続々と検挙される。その留守宅の床下や地下室、所有漁場の海岸の砂ッ原、岩穴の奥、又は妾宅の天井裏や泉水の底なぞから、続々証拠物件が引上げられるという、実に疾風迅雷式の手配りだ。ここいらが山内式のスゴ味だったかも知れないがね。
 それあ嬉しかったとも……吹けば飛ぶような吾々の報告が物をいい過ぎる位、いったんだからね。
 しかしソンナ事はオクビにも出せない。むろん総督府の方でも御同様だったに違いないが、その代りに今後、爆薬漁業の取締に就《つ》いて、万事、漁業組合長、轟技師の指導を受くべし……といったような命令が、各道の官庁にまわったらしい。吾輩の講演を依頼する向きがソレ以来、激増して来たのには面喰った。一時は、お座敷がブツカリ合って遣り繰りが付かないほどの盛況を逞《たくましゅう》したもんだ。流石《さすが》のドン様ドン様連中も、最早《もはや》イケナイと覚悟したらしいんだね。実に現金な、浅墓《あさはか》な話だとは思ったが、しかし悪い気持ちはしなかったよ。とにもかくにもソンナ調子で南鮮沿海からドンの声が消え失せてしまった。それに連れて沿岸から遠ざかっていた鯖の廻遊が、ダンダンと海岸線へ接近し初めたので、漁師連中は喜ぶまいことか……轟様轟様……というので後光がさすような持て方だ。
 吾輩の得意、想うべしだね。「ソレ見ろ」というので友吉おやじと赤い舌を出し合ったが、これというのも要するに、あの呑兵衛|老医師《ドクトル》のお蔭だというので、三人が寄ると触ると、大白《たいはく》を挙げて万歳を三唱したものだ。
 ハッハッ……その通りその通り。どうも吾輩の癖でね。じきに大白を挙げたくなるから困るんだ。汝《なんじ》元来一本槍に生れ付いているんだから仕方がない。スッカリ良い気持になって到る処にメートルを上げていたのが不可《いけ》なかった。思いもかけぬ間違いから自分の首をフッ飛ばすような大惨劇にぶつかる事になった。ドン漁業に対する吾輩の認識不足が、骨髄に徹して立証される事になったのだ。
 ……どうしてって君、わからんかね……と……云いたいところだが、そういう吾輩も実をいうと気が付かなかった。朝鮮沿海からドンの音が一掃されたので、最早《もはや》大願成就……金比羅《こんぴら》様に願ほどきをしてもよかろう……と思ったのが豈計《あにはか》らんやの油断大敵だった。ドンの音は絶えても、内地の爆弾取締りは依然たる穴だらけだろう。ちっとも取締った形跡が無いのだ。藁塚産業課長の膝詰《ひざづめ》談判が、今度は「内地モンロー主義」にぶつかっていた事実を、ドンドコドンまで気付かずにいたのだ。
 その証拠というのは外でもない。山内さんが内地へ引上げて内閣を組織されるようになった大正五年以後、折角《せっかく》、引締まっていた各道の役人の箍《たが》がグングン弛《ゆる》んで来たものらしい。それから間もなく大正八年の春先になると、一旦、終熄《しゅうそく》していた爆弾《ドン》漁業がモリモリと擡頭して来た。……一度|逐《お》い捲くられた鯖の群れが、岸に寄って来るに連れて、内地から一直線に満洲や咸鏡北道《かんきょうほくどう》へ抜けていた爆薬が、モウ一度南鮮沿海でドカンドカンと物をいい出すのは当然の帰結だからね。おまけに今度は全体の遣口《やりくち》が、以前よりもズット合理的になって来たらしく、友吉|親仁《おやじ》の千里眼、順風耳《じゅんぷうじ》を以てしてもナカナカ見当が付けにくい。……これは後から判明した話だが、彼奴《きゃつ》等は一時南鮮の孤島、欲知《ほっち》島の燈台守を買収してここを爆弾の溜りにしていた事がある。しかも燈台の上から高度の望遠鏡で、水雷艇や巡邏船を監視して、色々な信号を発していた……というのだから、如何にその仕事が統制的で、大仕掛であったかが想像されるだろう。
 然るに、ソンナ程度にまでドン漁業が深刻化しつつ擡頭して来ている事を、夢にも知らなかった吾輩はアタマから呑んでかかったものだ。……懲《こ》り性《しょう》もない鼠賊《チョコマン》ども……俺が居るのを知らないか。来るなら来い。タッタ一ヒネリだぞ……というので、腕に縒《より》を掛けて釜山一帯の当局連中を鞭撻にかかったものだが、その手初めとして取りあえず慶尚南道《けいしょうなんどう》の有志、役人、司法当局四十余名を釜山公会堂に召集して、爆弾漁業|勦滅《そうめつ》の大講演会を開く事になった。これに各地方の有力者二十余名、臨時傍聴者三百余名を加えた有力この上もない聴衆を向うに廻わして吾輩が、連続二日間の爆弾演説をこころみる……というのだから、吾輩の意気、応《まさ》に衝天《しょうてん》の概《がい》があったね。

 大正八年……昨年の十月十四日……そうだ。山内さんが死なれる前の月の出来事だ。その第一|日《じつ》の午前十時から「爆弾漁業の弊害」という題下に、堂々三時間に亘った概論を終ると、満場、割るるが如き大喝采だ。そのアトから各地の有力者の中《うち》でも代表的な五六名が、吾輩の休憩室に押掛けて来て頗《すこぶ》る非常附きの持上げ方だ。
「……イヤ感佩《かんぱい》致しました。聴衆の感動は非常なものです。先生の御熱誠の力でしょう。三時間もの大演説がホンノちょっとの間《ま》にしか感じられませんでした。当局連中もスッカリ感激してしまって、今更のように切歯扼腕《せっしやくわん》しているような次第で……私共も一度はドンで年貢を納めさせられた前科者《ナッポンサラミン》ばかりですが、今日の御演説を承りまして初めて眼が醒めました。何でもカンでも轟先生が朝鮮に御座る間は悪い事は出来んなア……とタッタ今も話しながらこっちへ参りましたような事で……アハハハ……イヤ、恐れ入ります。……ところでここに一つ無理な御相談がありますが御承諾願えますまいか。……というのは、ほかでもありません。本日集まっている当局連中の中には、先生の御講演を一度以上拝聴している者が多いのです。……ですから取締方法なぞを詳しく承わっているにはいるのですが、しかし遺憾ながら爆弾漁業なるものの遣り方を実際に見た者が生憎《あいにく》、一人も居ないのです。そのために先生の御高説を拝聴しましても、何となく机上の空論といったような感じに陥り易い。……何とかしてその遣り方を実地に見せて頂きながら、御講演を承る事が出来たら……ちょうど先生が海の上で、水産学校の卒業生を捉《つか》まえて御指導になるような塩梅《あんばい》式にですね……お願い出来たら、それこそ本格にピッタリと来るだろう。将来どれ位、実地の参考になるか知れん……という註文を受けましたものですから、まことに道理《もっとも》千万と思いまして、実は御相談に伺った次第ですが……如何《いかが》でしょうか。ちょうど申分のない凪《な》ぎ続きですし、明日《あす》の上天気も万に一つ外れませんし……乗船は御承知の博多通いで甲板《デッキ》の広い慶北丸が、船渠《ドック》を出たばかりで遊んでおりますから、万一御許しが願えましたら、私共が引受けて万般の準備を整えたい考えでおります。……それから実演をする人間ですが、これは只今、釜山署に四人ばかり現行犯がブチ込んで在りますから、あの連中に遣れと云ったら、遣らんとは申しますまい……その方が聴き手の方でも身が入りはしますまいか」
 という辞令の妙をつくした懇談だ。
 ところで吾輩もこの相談にはチョッコン面喰《めんくら》ったね。コンナ計劃が違法か、違法でないかは、希望者が司法官連中と来ているんだから、先ず先ず別問題としても、そうした思い附きの奇抜さ加減には取敢《とりあ》えず度肝《どぎも》を抜かれたよ。殺人犯を捕える参考のために、人殺しの実演を遣らせるようなもんだからね。……しかし何をいうにもこの談判委員を承った連中というのが、人を丸める事にかけては専門の一流揃いと来ているんだ。如何にも研究熱の旺盛な余りに出たらしい脂切《あぶらぎ》った口調で、柔らかく、固く持《もち》かけて来たもんだから吾輩ウッカリ乗せられてしまった。……少々演説が利き過ぎたかな……ぐらいの自惚《うぬぼ》れ半分で、文句なしに頭を縦に振らせられてしまったが……しかし……というので吾輩の方からも一つの条件を持ち出したもんだ。
「……というのは、ほかの問題でもない。その爆弾漁業の実演者についてこっちにも一つ心当りがあるのだ。その人間はズット以前にドンを遣っていた経験のある人間だが、当局の諸君は勿論の事、一般の漁業関係の諸君が、その人間の過去を絶対に問わない約束をするなら、その生命《いのち》がけの仕事に推薦してみよう。現在ではスッカリ改心して、実直な仕事をしているばかりでなく、素敵もない爆弾漁業通だから将来共に、君等のお役に立つ人間じゃないかと思うが……」
 と切り出してみた。これはかねてから日蔭者《ひかげもの》でいた林友吉を、どうかして大手を振って歩けるようにして遣りたいと思っていた矢先だったから、絶好の機会《チャンス》と思って提案した訳だったがね。
 するとこの計略が図に当って、忽《たちま》ちのうちに警察、裁判所連の諒解を得た。……それは一体どんな人間だ……と好奇の眼を光らせる連中もいるという調子だったから、吾輩、手を揉み合わせて喜んだね。早速横ッ飛びに本町の事務室に帰って来て、小使部屋を覗いてみると、友吉|親仁《おやじ》は忰と差向いでヘボ将棋を指している。そいつを捕まえてこの事を相談すると、喜ぶかと思いのほか、案外極まる不機嫌な面《つら》を膨《ふく》らましたもんだ。
「それはドウモ困ります。私は日蔭者で沢山なので、先生のために生命《いのち》を棄てるよりほかに何の望みもない人間です。あんなヘッポコ役人の御機嫌を取って、罪を赦《ゆる》してもらう位いなら、モウ一度、玄海灘で褌《ふんどし》の洗濯をします。まあ御免蒙りまっしょう」
 というニベもない挨拶だ。将棋盤から顔も上げようとしない。このおやじ[#「おやじ」に傍点]がコンナ調子になったら梃《てこ》でも動かない前例があるから弱ったよ。
「しかし俺が承知したんだから遣ってくれなくちゃ困るじゃないか。今更、そんな人間はいなかったとは云えんじゃないか」
 とハラハラしながら高飛車をかけて見ると、おやじはイヨイヨ面《つら》を膨らました。
「それだから先生は困るというのです。アノ飲み助のお医者さんも云い御座った。先生は演説病に取付かれて御座るから世間の事はチョットもわからん。しかしあの病気ばっかりは薬の盛りようがないと云って御座ったがマッタクじゃ。……一体先生は、アイツ等が本気で爆漁実演《ドン》を見たがっていると思うていなさるのですか」
 と手駒を放り出して突っかかって来た。イヤ。受太刀《うけたち》にも何にも吾輩、返事に詰まってしまったよ。実をいうと二日間の講演をタッタ三時間に値切られてしまった不平が、まだどこかにコビリ付いていたんだからね。こう云われると頭が妙に混線してしまった。そのまま眼をパチパチさせていると、おやじはイヨイヨ勢い込んで突っかかって来る。
「……先生は駄目だよ。演説バッカリ上手で、カンが働らかんからダメだ。その役人連中の云い草一つで、チャンと向うの腹が見え透いているじゃありませんか。……ツイこの間も云うたでしょう。今度初まった爆弾漁業《ドン》の仕事ぶりが、どうも私の腑《ふ》に落ちんところがある。この前のドン退治の時と違うて検挙の数がまことに少ないし、評判もサッパリ立たん。その癖に、下関《しものせき》から上がる鯖の模様を船頭連中に問うてみるとトテモ大層なものじゃ……昔の何層倍に当るかわからんという。値段も五六年前の半分か、三分の一というから生やさしい景気じゃない。不思議な事もあればあるもの……理屈がサッパリわからんと思うとったが、わからんも道理じゃ。彼奴《きゃつ》等はこの前に懲《こ》りて、用心に用心を踏んで仕事に掛かってケツカル。朝鮮中の役所という役所の当り当りにスッカリ手を廻わして、仲間外れの抜け漁業《ドン》ばっかりを検挙させよるから、吾々の眼に止まらんです。……今来ているそこ、ここの有力者というのは、一人残らずそのドン仲間の親分株で、役人連中は皆、薬のまわっとるテレンキューばっかりに違いありません。そいつ等《ら》が、先生に睨まれんように、わざと頬冠りをして聞きに来とるに違いないのです。それじゃケニ先生の演説が聞きともないバッカリに、そげな桁行《けたはず》れの註文を出しよったのです。……それが先生にはわかりませんか……」
 と眼の色を変えて腕を捲くったもんだ。
 今から考えるとこの時に、このおやじの云う事を聞いていたら、コンナ眼にも会わずに済んだんだね。……このおやじの千里眼、順風耳《じゅんぷうじ》のモノスゴサを今となって身ぶるいするほど思い知らされたものだが、しかしこの時には所謂《いわゆる》、騎虎《きこ》の勢いという奴だった。そういう友吉おやじを頭から笑殺してしまったものだ。
「アハハハ。馬鹿な。それは貴様一流の曲り根性というものだ。お前は役人とか金持ちとかいうと、直ぐに白い眼で見る癖があるから不可《いか》ん。……よしんば貴様の云うのが事実としても尚更の事じゃないか。知らん顔をして註文通りにして遣った方が、こっちの腹を見透かされんで、ええじゃないか。……アトは又アトの考えだ。……とにかく今度の仕事は俺に任せて云う事を聴け。承知しろ承知しろ……」
 と詭弁まじりに押付けたが、そうなると又、無学おやじだけに吾輩よりも単純だ。云う事を云ってしまった形でションボリとなって、
「それあ先生が是非にという命令なら遣らんとは云いません。腕におぼえも在りますから……」
 と承知した。するとその時に廿歳《はたち》になっていた忰《せがれ》の友太郎も、親父《おやじ》が行くならというので艫櫓《ともろ》を受持ってくれたから吾輩、ホッと安心したよ。友太郎はその時分まで、南浜《なんひん》鉄工所に出て、発動機の修繕工《つくろい》を遣る傍《かたわ》ら、大学の講義録を取って勉強していたもんだが、それでも櫓柄《ろつか》を握らしたらそこいらの船頭は敵《かな》わなかった。よく吾輩の釣のお供を申付けて見せびらかしていた位だったからね。
 そこでこの二人を連れて、釜山公会堂に引返して、判事や検事連に紹介したが見覚えている者は一人も居なかった。……断っておくが友吉おやじは、再生以来スッカリ天窓《テッペン》が禿げ上ってムクムク肥っていた上に、ゴマ塩の山羊髯《やぎひげ》を生やしていたものだから、昔の面影はアトカタも無かったのだ。又忰の友太郎も十二の年から八年も経っていたのだから釜山署で泣いた顔なぞ記憶している奴が居よう筈はない。そこで釜山署に押収しておった不正ダイナマイトを十本ばかり受取った友吉親子は早速準備に取りかかる。吾輩も、午後の講演をやめて明日の実地講演の腹案にかかった。……先ずドンを実演させて、捕った魚の被害状態をそれぞれ程度分けにして見せる。これは魚市場から間接にドン犯人を検挙するために必要欠くべからざる智識なんだ。それから爆薬製作の実地見学という、つまり逆の順序プログラムだったが、実をいうと吾輩もドン漁業の実際を見るのは、生れて初めてだったから、細かいプログラムは作れない。臨機応変でやっつける方針にきめていた。
 一方に各地の有志連は慶北丸をチャーターして万般の準備を整える。一方に吾輩を千芳閣に招待して御機嫌を取ったりしているうちに、その日は註文通りの静かな金茶色に暮れてしまった。

 ところが翌《あく》る朝になってみると又、驚いた。勿論、新聞記事には一行も書いて無かったが、向うの本桟橋の突端に横付けしている慶北丸が新しい万国旗で満艦飾をしている。五百|噸《トン》足らずのチッポケな船だったが、まるで見違えてしまっている上に、デッキの上は丸で宴会場だ。手摺《てすり》からマストまで紅白の布で巻き立てて、毛氈《もうせん》や絨壇《じゅうたん》を敷き詰めた上に、珍味|佳肴《かこう》が山積して在る。それに乗込んだ一行五十余名と一所《いっしょ》に、地元の釜山はいうに及ばず、東莱《とうらい》、馬山《ばさん》から狩り集めた、芸妓《げいしゃ》、お酌、仲居《なかい》の類いが十四五名入り交って足の踏む処もない……皆、船に強い奴ばかりを選《よ》りすぐったものらしく、十時の出帆前から弦歌の声、湧くが如しだ。
 友吉親子が漕いで行く小舟に乗って、近づいて行った吾輩は、この体態《ていたらく》を見て一種の義憤を感じたよ。……何とも知れない馬鹿にされたような気持ちになったもんだが、しかし今更、後へ引く訳には行かない。不承不承にタラップへ乗附けると忽《たちま》ち歓呼の声湧くが如き歓迎ぶりだ。すぐに甲板《デッキ》へ引っぱり上げられて先ず一杯、先ず一杯と盃責めにされる。モトヨリ内兜《うちかぶと》を見せる吾輩ではなかったので、引つぎ引つぎ傾けているうちに、忘れるともなく友吉親子の事を忘れていた。
 そのうちに慶北丸はソロリソロリと沖合いに出る。美事な日本晴れの朝凪《あさな》ぎで、さしもの玄海灘が内海《うちうみ》か外海《そとうみ》かわからない。絶影島《まきのしま》を中心に左右へ引きはえる山影、岩角《がんかく》は宛然たる名画の屏風《びょうぶ》だ。十月だから朝風は相当冷めたかったが、船の中はモウ十二分に酒がまわって、処々《ところどころ》乱痴気騒《らんちきさわ》ぎが初まっている。吾輩の講演なんかどこへ飛んで行ったか訳がわからない状態だ。……そのうちに吾輩はフト思い出して……一体、友吉親子はドウしているだろうと船尾へまわってみると、船の艫《とも》から出した長い綱に引かれた小舟の上に、チョコナンと向い合った親子が、揺られながらついて来る。何か二人で議論をしているようにも見えたが、吾輩が、
「オーイ。酒を遣ろうかあア……」
 と怒鳴ると友吉|親仁《おやじ》が振り返って手を振った。
「……要りませえん。不要《ブウヨウ》不要。それよりもこっちへお出《い》でなさあアイ」
 と手招きをしている。その態度がナカナカ熱心で、親子とも両手をあげて招くのだ。
「いかんいかん。こっちはなア……お前達の仕事を見ながら、講演をしなくちゃならん」
 と怒鳴ったが、コイツがわからなかったらしい。忰の友太郎がグイグイ綱を手繰《たぐ》って船を近寄せると、推進機《スクリュウ》の飛沫《しぶき》の中から吾輩を振り仰いで怒鳴った。
「……先生……先生……講演なんかお止めなさい。おやめなさい。あんな奴等に講演したって利き目はありません。それよりも御一所《ごいっしょ》に鯖を捕って釜山へ帰りましょう。黙ってこの綱を解けば、いつ離れたかわかりませんから……」
 というその態度がヤハリ尋常じゃなかったが、しかし遺憾ながら、その時の吾輩には気付かれなかった。
「イヤ。ソンナ事は出来ん。向うに誠意がなくとも、こっちには責任があるからなア。……ところで仕事はまだ沖の方で遣るのか」
「ええもうじきです、しかし暫く器械の音を止めてからでないと鯖は浮きません。どっちみち船から見えんくらい遠くに離れて仕事をするんですからこっちへ入らっしゃい。大切《だいじ》な御相談があるのです……どうぞ……先生……お願いですから……」
「馬鹿な事を云うな。行けんと云うたら行けん。それよりもなるべく船の近くで遣るようにしろ。器械の方はいつでも止めさせるから……」
「器械はコチラから止めさせます。どうぞ先生……」
 と云う声を聞き捨てて吾輩は又、甲板《デッキ》に引返して行ったが、この時の友太郎の異様な熱誠ぶりを、知らん顔をしてソッポを向いていた友吉|親仁《おやじ》の態度を怪しまなかったのが、吾輩|一期《いちご》の失策だった。或《あるい》はイクラかお神酒《みき》がまわっていたせいかも知れないがね。
 ところで甲板《デッキ》に引返してみると船はモウ十四海里も西へ廻っていて、絶影島は山の蔭になってしまっていた。そのうちに機械の音がピッタリと止まったから、扨《さて》はここから初めるのかな……と思って立上ると、飲んでいる連中も気が附いたと見えて、我勝ちに上甲板や下甲板の舷《ふなべり》へ雪崩《なだれ》かかって来た。
「どこだどこだ。どこに鯖がいるんだ」
 とキョロキョロする者もいれば、眼の前の山々に猥雑な名前を附けながら活弁マガイの潰れ声で説明するヒョーキン者もいる。中には芸者を舷《ふなばた》へ押し付けてキャアキャア云わしている者もいた。
 その鼻の先の海面へ、友吉おやじの禿頭《はげあたま》が、忰に艫櫓《ともろ》を押させながら、悠々と廻わって来た。見ると赤ん坊の頭ぐらいの爆弾と、火を点《つ》けた巻線香を両手に持って、船橋に立っている吾輩の顔を見い見い、何かしら意味ありげにニヤニヤ笑っている。忰の方は向うむきになっていたので良くわからなかったが、吾輩が見下しているうちに二度ばかり袖口で顔を拭いた。泣いているようにも見えたが、多分、潮飛沫《しおしぶき》でもかかったんだろうと思って、気にも止めずにいたもんだ。
 ……しかし……そのせいでもあるまいが、吾輩はこの時にヤット友吉おやじの態度を、おかしいと思い初めたものだ。
 第一……前にも云った通り吾輩はドンの実地作業を生れて初めて見るのだから、詳しい手順はわからなかったが、それでも友吉おやじの持っている爆弾が、嘗《かつ》て実見した押収品のドンよりもズット大きいように感じられた。……のみならず、まだ魚群も見えないのに巻線香に火を点《つ》けているのが、腑に落ちないと思ったが、しかし何しろ初めて見る仕事だからハッキリした疑いの起しようがない。これが友吉おやじ一流の遣り方かな……ぐらいに考えて一心に看守《みまも》っているだけの事であった。
 一方、甲板《デッキ》の上では「シッカリ遣れエ」という酔っ払いの怒号や、ハンカチを振りながらキーキー声で声援する芸妓《げいしゃ》連中の声が入乱れて、トテモ煮えくり返るような景気だ。そのうちに慶北丸の惰力がダンダンと弛《ゆる》んで来て、小船の方が先に出かかると、友吉おやじは忰に命じて櫓を止めさせた。……と思ううちに、その舳先《へさき》に仁王立ちになった向う鉢巻の友吉おやじが、巻線香と爆弾を高々と差し上げながら、何やら饒舌《しゃべ》り初めた。
 船の中が忽ちピッタリと静かになった。吾輩も、友吉おやじが吾輩の代りになって講演を初めるのかと思って、ちょっと度肝《どぎも》を抜かれたが、間もなく非常な興味をもって、皆と一緒に傾聴した。
 友吉おやじの塩辛《しおから》声は、少々上ずっていたが、よく透った。ことに頭から日光を浴びたその顔色は頗《すこぶ》る平然たるもので、寧《むし》ろ勇気凜々たるものがあった。
「……皆さん……聞いておくんなさい。私はこの爆弾《ハッパ》を投げて、生命《いのち》がけの芸当をやっつける前に、ちょっと演説の真似方を遣らしてもらいます。白状しますが私は今から十四年ほど前に、柳河で嬶《かかあ》と、嬶の間男《まおとこ》をブチ斬ってズラカッタ林友吉というお尋ね者です。……それから後《のち》五年ばかりというものこのドン商売に紛れ込みまして、海の上を逃げまわっておりましたが、その間に警察署とか裁判所とか、津々浦々の有志とか、お金持ちとかいう人達が、吾々に生命《いのち》がけの仕事をさせながら、どんなに美味《うま》い汁を吸うて御座るかという証拠をピンからキリまで見てまわりました。爆弾《ハッパ》の隠匿《かく》し処《どこ》などもアラカタ残らず、探り出してしまったものです。
 ……それが恐ろしかったので御座んしょう。警察と裁判所と、有志の人達が棒組んで、この私を袋ダタキにして絶影島の裏海岸に捨てて下さった御恩バッカリは今でも忘れておりません。そう云うたら思い当んなさる人が皆さんの中にも一人や二人は御座る筈ですが。へへへへへへへへへへ……」
 この笑い声を聞くと同時に、船の中で「キャ――ッ」という弱々しい叫びが起って、一人の仲居《なかい》が引っくり返った。その拍子に近まわりの者が、ちょっとザワ付いたように見えたが、又もピッタリと静かになった。……友吉の気魄に呑まれた……とでも形容しようか……。相手が恐ろしい爆弾を持っているので、蛇に魅入《みい》られた蛙《かえる》みたような心理状態に陥っていたものかも知れない。
 友吉おやじの顔色は、その悲鳴と一所に、益々冷然と冴え返って来た。
「……アンタ方は、ええ気色な人達だ。罪人を捕まえて生命《いのち》がけの仕事をさせながら、芸者を揚げて酒を飲んで、高見《たかみ》の見物をしているなんて……お役人が聞いて呆れる。私は轟先生の御命令じゃから不承不承にここまで来るには来てみたが、モウモウ堪忍袋の緒が切れた。持って生れたカンシャク玉が承知せん。
 ……アンタ方は日本の役人の面《つら》よごしだ。……ええかね。……これはアンタ方に絞られたドン仲間の恩返しだよ。コイツを喰らってクタバッてしまえ……」
 と云ううちに爆弾の導火線を悠々と巻線香にクッ付けて、タッタ一吹きフッと吹くとシューシューいう奴を片手に、
「へへへへ……」
 と笑いながら船首の吃水線《きっすいせん》下に投げ付けた。……トタンに轟然たる振動と、芸者連中の悲鳴が耳も潰れるほど空気を劈《つんざ》いた。それを見上げた友吉おやじは又も、
「へへへへへへへ……」
 と笑いながら、今一つの爆弾を揚板《あげいた》の下から取出して導火線に火を点《つ》けた。それを頭の上に差し上げて、
「……コレ外道サレッ……」
 と大喝しながら投げ出したと思ったが、その時遅く彼《か》の時早く、シューシューと火を噴《ふ》く黒い爆弾《たま》がおやじの手から三尺ばかりも離れたと見るうちに、眼も眩《くら》むような黄色い閃光がサッと流れた。同時に灰色の煙がムックリと小舟の全体を引っ包んだ中から、友吉おやじの手か、足か、顔か、それとも舷《ふなべり》か、板子か、何だかわからない黒いものが八方に飛び散ってポチャンポチャンと海へ落ちた。そうしてその煙が消え失せた時には、半分|水船《みずぶね》になった血まみれの小舟が、肉片のヘバリ付いた艫櫓《ともろ》を引きずったまま、のた打ちまわる波紋の中に漂っていた。

 不思議な事に吾輩は、その間じゅう何をしていたか全く記憶していない。危険《あぶな》いとも、恐ろしいとも何とも感じないまま船橋《ブリッジ》の上から見下ろしていたものだ。恐らく側に立っていた船長も同様であったろうと思う。……友吉おやじの演説をハッキリと聞いて、二つの爆弾が炸裂するのを眼の前に見ていながら、一種の催眠術にかかったような気持ちで、両手をポケットに突込んだなりに、棒のように硬直していたように思う。ただ、その石のように握り締めた両手の拳《こぶし》の間から、生温《なまぬ》るい汗がタラタラと迸《ほとば》しり流れるのをハッキリと意識していたものだが、「手に汗を握る」という形容はアンナ状態を指したものかも知れん。
 船の甲板《デッキ》は、むろん一瞬間に修羅場《しゅらじょう》と化していた。今の今まで、抱き合ったり、吸付き合ったりしていた男や女が、先を争って舷側に馳け付けた。そこへ誰だかわからないが非常汽笛を鳴らした者がいたので一層騒ぎが深刻化してしまった。
 船体はいつの間にか十度ばかり左舷に傾いて、まだまだ傾きそうな動揺を見せていたが、そのために酔った連中の足元がイヨイヨ定まらなくなったらしい。折重なって辷《すべ》り倒れる。その上から狼藉《ろうぜき》していた杯盤がガラガラガラと雪崩《なだれ》かかる。その中を押し合い、ヘシ合い、突飛ばし合いながら両舷のボートに乗移ろうとする。上から上から這いかかり乗りかかる。怪我《けが》をする。血を流す。嘔吐《は》く。気絶する。その上から踏み躙《にじ》る。警官も役人も有志も芸妓《げいしゃ》も有ったもんじゃない。皆血相の変った引歪《ひきゆが》んだ顔ばかりで、醜態、狼狽、叫喚、大叫喚の活地獄《いきじごく》だ。その上から非常汽笛が真白く、モノスゴク、途切《とぎ》れ途切れに鳴り響くのだ。
 左右の舷側に吊した四隻のカッター端舟《ボート》はセイゼイ廿人も乗れる位のもので在ったろうか。一|艘《そう》毎に素早い船員が飛乗って、声を嗄《か》らして制止しているが耳に入れる者なんか一人も居ない。我勝ちに飛乗る、縋《すが》り付く、オールを振廻すという状態で、あぶなくて操作が出来ない。そのうちに左舷の船尾から猛烈な悲鳴が湧き起ったから、振り返ってみると、今しも人間を山盛りにして降りかけた端舟《ボート》が、操作を誤って片っ方の吊綱《ロープ》だけ弛《ゆる》めたために、逆釣《さかづ》りになってブラ下がった。同時に満載していた人間がドブンドブンと海へ落ちてしまったのだ。海の深さはそこいらで十五六|尋《ひろ》も在ったろうか……。
 それを見た瞬間に吾輩はヤット我に返った……これは俺の責任……といったような感じにヒドク打たれたように思う。
 傍を見ると船長が吾輩と同じ恰好でボンヤリと突立っている。肩をたたいて見たが、唖然《あぜん》として吾輩を振り返るばかりだ。船橋《ブリッジ》の下の光景に気を呑まれていたんだろう。
 吾輩はその横で背広服を脱いで、メリヤスの襯衣《シャツ》とズボン下だけになった。メリヤスを一枚着ていると大抵な冷《つ》めたい海でも凌《しの》げる事を体験していたからね。それから船橋《ブリッジ》の前にブラ下げて在った浮袋《ブイ》を一個《ひとつ》引っ抱えて上甲板へ馳け降りた。船尾から落ちた連中を救《たす》けて水舟に取付かせてやるつもりだった。それからボートの前の連中を整理して狼狽させないようにしようと思い思いモウ一つ下甲板へ馳け降りると、その階段の昇り口の暗い処でバッタリとこの船の運転士に行き会った。よく吾輩の処へ議論を吹っかけに来る江戸ッ子の若造《わかぞう》で、友吉とも心安い、来島《くるしま》という柔道家だったが、これも猿股一つになって、真黒な腕に浮袋を抱え込んでいた。
「……あっ……轟先生。ちょうどいい。一所《いっしょ》に来て下さい」
 と云ううちに吾輩を引っぱって、客室の横の階段から廊下伝いに混雑を避けながら、誰も居ない船首へ出た。その時に非常汽笛がパッタリと鳴り止んだので、急に淋しく、モノスゴクなったような気がしたが、そこで改めて来島の顔を見ると、眼に泪《なみだ》を一パイ溜め、青い顔をしている。友太郎の事を考えているのだろうと思ったが、しかし二人とも口には出さなかった。来島は落付いて云った。
「……轟先生……損害は軽いんです。汽笛《ふえ》なんか鳴らしたから不可《いけ》なかったんです。……傾《かし》いだ原因はまだ判然《わか》りませんが、船底の銅版《あか》と、木板《いた》の境い目二尺に五尺ばかりグザグザに遣られただけなんです。都合よく反対に傾《かし》いだお蔭で、モウ水面に出かかっているんですから、外から仕事をした方が早いと思うんです。済みませんが先生、この道具袋《フクロ》を持って飛込んでくれませんか。水夫も火夫もみんなポンプに掛り切っていて手が足りないんですから……浮袋《ブイ》を離してはいけませんよ。仕事が出来ませんから……いいですか……」
 吾輩は一も二もなくこの若造の命令に従って海に飛込んだ。イザとなると覚悟のいい奴には敵《かな》わないね。

 ところが、それから引続いた来島の働らき振りには吾輩イヨイヨ舌を捲かされたもんだよ。溺れている人間なんか見向きもしない。一生懸命で、上からブラ下げた綱に縋《すが》りながら、船の横っ腹に取付いて、穴の周囲にポンポンポンと釘を打ち並べると、八番ぐらいの銅線を縦横十文字《じゅうおうむじん》に引っかけまわした。その上から帆布《キャンバス》を当てがって、片っ方から順々に大釘で止めて行く……最後に残った一尺四方ばかりの穴から猛烈に走り込む水を、針金に押し当てがった帆布《キャンバス》で巧みにアシライながら遮り止めてしまった。その上からモウ二枚|帆布《キャンバス》を当てがって、周囲《まわり》をピッシリ釘付けにして、その上からモウ一つ、流れていた櫂《オール》を三本並べながら、鎹釘《かすがい》で頑丈にタタキ付けてしまった。どこで研究したものか知らないが、百人ばかりの生命《いのち》の親様だ。思わず頭が下がったよ。
 その吾々が仕事をしている二三|間《げん》向うには、端舟《ボート》の釣綱《つりつな》が二本、中途から引っ切れたままブラ下がっていた。切れ落ちたボートは人間を満載したまま一度デングリ返しを打った奴が、十間ばかり離れた処に漂流していたが、その周囲には人間の手が、干大根《ほしだいこん》を並べたようにビッシリと取付いている。……にも拘わらず、その尻の切れた二本の綱には、上から上から取付いてブラ下がって来る人間が、重なり重なり繋がり合っているのだ。芸者、紳士、警官、お酌、判事、検事、等々々といった順序に重なり合った珍妙極まる人間の数珠玉《じゅずだま》なんだ。しかもその一つ一つが「助けてくれ助けてくれ」と五色《ごしき》の悲鳴をあげているのだから、平生なら抱腹絶倒の奇観なんだが、この時はドウシテ……その一人一人が絶体絶命の真剣なんだから遣り切れない。巡査の握り拳《こぶし》の上に芸者のお尻がノシかかって来る。仲居《なかい》の股倉が有志の肩に馬乗りになる。「降りちゃ不可《いか》ん降りちゃ不可ん」と下から怒鳴っているんだから堪《たま》らない。ズルリズルリと下がって来るうちに、見る見る綱が詰まって来てポチャンポチャンと海へ陥《お》ち込む。そのまま、
「……アアッ……ああッ……」
 と藻掻《もが》き狂いながらブクブクブクと沈んで行く。その表情のムゴタラシサ……それを上から見い見いブラ下がっている連中の悲鳴のモノスゴサといったらなかったよ。
 そんな光景を見殺しにしながら仕事をしていた吾輩は、仕事が済むとモウ矢も楯《たて》もたまらない。道具袋を海にタタッ込んで、抜手を切って沖合いの小舟に泳ぎ付いた。血だらけの櫓柄《ろづか》を洗って、臍《へそ》に引っかけると水舟のまま漕ぎ戻して、そこいらのブクブク連中をアラカタ舷《ふなべり》の周囲に取付かせてしまったので、とりあえずホッとしたもんだ。
 その間に来島は本船に上って、帆布《キャンバス》で塞いだ穴の内側から、本式にピッタリと板を打付けた。一層|馬力《ばりき》をかけて水を汲み出す一方に、在《あ》らん限りの品物を海に投込む。ボートの連中を艙口《ハッチ》から収容すると、今度は船員が漕ぎながら人間を拾い集める。綱を持った水夫を飛込ましてブカブカ遣っている連中を拾い集める。上って来た奴は片《かた》っ端《ぱし》から二等室に担ぎ込んで水を吐かせる。摩擦する。人工呼吸を施すなどして、ヤットの事で取止めた頭数を勘定してみると、警官、役人、有志、人夫を合わせて、七名の人間が死んでいる。そのほかに芸妓《げいしゃ》二名の行方がわからない……という事が判明した。これは男連中が腕力に任せて先を争った結果で、同時に女を見殺しにした事実を雄弁に物語っているのだ。お酌や仲居が一人も飛込まないで助かったのは、お客や姉さん等に対して遠慮勝ちな彼等の平生の癖が、コンナ場合にも出たんじゃないかと思うがね。イヤ。冗談じゃないんだ。危急の場合に限って平生の習慣が一番よく出るもんだからね。
 ところがその中《うち》に西寄りの北風が吹き初めて、急に寒くなったせいでもあったろうか。死骸を並べた二等室の広間に青い顔をして固まり合っていた、生き残りの連中が騒ぎ初めた。当てもないのに立ち上りながら異口《いく》同音に、
「……帰ろう帰ろう。風邪を引きそうだ……」
「船長を呼べ船長を呼べ……」
 とワメキ出したのには呆れ返ったよ。イクラ現金でもアンマリ露骨過ぎる話だからね。片隅で屍体の世話を焼いていた丸裸の来島運転士も、これを聞くと顔色を変えて立上ったもんだ。あらん限りの醜態を見せ付けられてジリジリしていたんだからね。
「……何ですって……帰るんですって……いけませんいけません。まだ仕事があるんです」
「……ナンダ……何だ貴様は……水夫か……」
「この船の運転士です。……船の修繕はもうスッカリ出来上っているんですから、済みませんがモウ暫く落付いていて下さい。これから屍体の捜索にかかろうというところですからね」
「……探してわかるのか……」
「……わからなくたって仕方がありません。行方不明の屍体を打っちゃらかして、日の暮れないうちに帰ったら、貴方がたの責任問題になるんじゃないですか。……モウ一度探しに来るったって、この広ッパじゃ見当が付きませんよ」
 と詰め寄ったが、裁判所や、警察連中は、何を憤《おこ》っているのか、白い眼をして吾輩と来島の顔を見比べているばかりであった。すると又その中《うち》に大勢の背後《うしろ》の方で、
「……アア寒い寒い……」
 と大きな声を出しながら、四|合瓶《ごうびん》の喇叭《ラッパ》を吹いていた一人が、ヒョロヒョロと前に出て来た。トロンとした眼を据えて、
「……何だ何だ。わからないのは芸妓《げいしゃ》だけじゃないか。芸妓なんぞドウでもいい……」
 とウッカリ口を辷らしたから堪《た》まらない。隅ッ子の方に固まっていた雛妓《おしゃく》が「ワッ」と泣き出す……トタンに来島の血相が又も一変して真青になった。
「……何ですか貴方は……芸妓《げいしゃ》なんぞドウでもいいたあ何です」
「……バカア……好色漢《すけべえ》……そんな事を云うたて雛妓《おしゃく》は惚れんぞ……」
「……惚れようが惚れまいがこっちの勝手だ。フザケやがって……芸妓《げいしゃ》だって同等の人間じゃねえか。好色漢《すけべえ》がドウしたんだ……手前《てめえ》等あ役人の癖に……」
 と云いさしたので吾輩は……ハッ……としたが間に合わなかった。二三人の警官と有志らしい男が一人か二人、素早く立上って来島と睨み合った。しかし来島は眉一つ動かさなかった。心持ち笑い顔を冴え返らしただけであった。
「……何だ……貴様は社会主義者か……」
「……篦棒《べらぼう》めえ人道主義者だ……このまんま帰れあ死体遺棄罪じゃあねえか。不人情もいい加減にするがいい……手前《てめえ》等あタッタ今までその芸妓《げいしゃ》を……」
「黙れ黙れッ。貴様等の知った事じゃない。吾々が命令するのだ。帰れと云ったら帰れッ……」
「……ヘン……帰らないよ。海員の義務って奴が在るんだ。芸妓《げいしゃ》だろうが何だろうが……」
「……馬鹿ッ……反抗するカッ……」
 と云ううちに前に居た癇癪持ちらしい警官が、来島の横ッ面《つら》を一つ、平手でピシャリとハタキ付けた。トタンに来島が猛然として飛かかろうとしたから、吾輩が逸早《いちはや》く遮《さえぎ》り止めて力一パイ睨み付けて鎮《しず》まらした。来島は柔道三段の腕前だったからね。打棄《うっちゃ》っておくと警官の一人や二人絞め倒おしかねないんだ。
 そのうちに来島は、吾輩の顔を見てヒョッコリと頭を一つ下げた。そのまま火の出るような眼付きで一同を見まわしていたが、突然にクルリと身を飜《ひるがえ》すと、入口の扉《ドア》をパタンと閉めて飛び出して行った。吾輩もそのアトから、何の意味もなしに飛出して行ったが、来島の影はどこにも見えない。船橋《ブリッジ》に上って見ると船はもう轟々と唸りながら半回転しかけていた。
 その一面に白波を噛み出した曇り空の海上の一点を凝視しているうちに吾輩は、裸体《はだか》のまんま石のように固くなってしまったよ。吾輩の足下に大波瀾を捲き起して消え失せた友吉親子と、無情《つれ》なく見棄てられた二人の芸妓《げいしゃ》の事を思うと、何ともいえない悽愴たる涙が、滂沱《ぼうだ》として止《とど》まるところを知らなかったのだ。……

 ……ドウダイ……これが吾輩の首無し事件の真相だ。君等の耳には最《もう》、トックの昔に這入っている事と思っていたんだが……秘密にすべく余りに事件が大き過ぎるからね。
 ウンウンその通りその通り。朝鮮の内部で喰い止めて内地へ伝わらないように必死的の運動をしたものに相違ないね。司法官連中にも弱い尻が在るからな。旅費日当を貰って聴きに来た講演をサボって、芸者を揚げて舟遊山《ふなゆさん》をした……その酒の肴に前科者を雇って、生命《いのち》がけの不正漁業を実演させたとなったら事が穏やかでないからな。
 ナニ、吾輩に対する嫌疑かい。
 それあ無論かかったとも。……かかったにも何にも、お話にならないヒドイ嫌疑だ。人間の運命が傾き初めると意外な事ばかり続くものらしいね。
 その翌《あく》る朝の事だ。善後の処置について御相談したい事があるからというので、釜山|府尹《ふいん》官舎の応接間に呼び付けられてみると、どうだい。昨日《きのう》の事件は吾輩と、友吉おやじと、慶北丸の運転士来島とが腹を合わせた何かの威嚇手段じゃないか。その背後には在鮮五十万の漁民の社会主義的、思想運動の力が動いているのじゃないかというので、根掘り葉掘り訊問されたもんだ。どこから考え付いたものか解からんが馬鹿馬鹿し過ぎて返事も出来ない。よっぽど面喰って、血迷っていたんだね。……しかもその入れ代り立代り訊問する連中の中心に立った人間というのが誰でもない。昨日《きのう》、イの一番に芸妓《げいしゃ》を突飛ばして船尾のボートに噛《かじ》り付いた釜山の署長と予審判事と検事の三人組と来ているんだ。或は一種の責任問題から、この三人が先鋒に立たされたものかも知れないがね。……その背後には慶北、全南あたりの司法官が五六名、容易ならぬ眼色を光らしている。表面は事件の善後策に関する相談と称しながら、事実は純然たる秘密訊問に相違なかったのだ。
 吾輩は勿論、癪《しゃく》に障《さわ》ったから、都合のいい返事を一つもしてやらなかった。当り前なら法律と算盤《そろばん》の前には頭を下げる事にきめている吾輩だったが、あの時には、前の日に死んだ友吉おやじのヒネクレ根性が、爆薬の臭気《におい》とゴッチャになって、吾輩の鼻の穴から臓腑へ染《し》み渡っていたらしいね。
「吾輩の講演を忌避して、船遊山《ふなゆさん》を思い立ったのは誰でしたっけね」
 と空っトボケてやったもんだ。
 すると誰だか知らない検事か判事みたような男が背後《うしろ》の方から、
「それでも友吉親子を推薦したのは貴下《あなた》ではなかったか」
 と突込んで来たから、わざとその男の顔を見い見い冷笑してやった。
「……ハハハ……その事ならアンマリ突込まれん方が良くはないですか。実は昨晩、弁護士に調べさせてみますと、友吉の前科はズット以前に時効にかかっていたものだそうです。私は法律を知らないのですが……それでなくとも拘留中の現行犯人を引出して、犯罪の実演をさせるよりは無難だろうと思って、実は、あの男を推薦した次第でしたが……それでも貴方がたの法律眼から御覧になると、現行犯を使った方が合理的な意味になりますかな……」
 と乙《おつ》に絡んで捻《ね》じ返してくれた。吾れながら感心するくらい頭がヒネクレて来たもんだからね……ところが流石《さすが》は商売柄だ。これ位の逆襲には凹《へこ》まなかった。
「そんな事を議論しているのじゃない。友吉おやじに、あんな乱暴を働らかした責任は当然ソッチに在る筈だ。その責任を問うているのだ」
 と吾輩の一番痛いところを刺して来た。その時には吾輩、思わずカッとなりかけたもんだ……が、しかしここが大事なところと思ったから、わざと平気な顔で空を嘯《うそぶ》いて見せた。
「……成る程……その責任なら当方で十分十二分に負いましょうよ。……しかし爆弾を投げさせた心理的の動機はこの限りに非《あら》ずだから、そのつもりでおってもらいたいですな。無辜《むこ》の人間に生命《いのち》がけの不正を働らかせながら、芸妓《げいしゃ》を揚げて高見《たかみ》の見物をしようとした諸君の方が悪いにきまっているのだから……諸君は友吉おやじの最後の演説を記憶しておられるだろう……」
 と云って満座の顔を一つ一つに見廻わしたら、一名残らず眼を白黒させていたよ。
「……しかし……あれは元来……有志連中が計画したもので……」
 と隅の方から苦しそうな弁解をした者がいたので、吾輩は思わず噴飯《ふんぱん》させられた。
「……アハハ。そうでしたか。ちっとも知りませんでした。……しかし拙者が拝見したところでは、有志の連中には余り酔った者はいなかったようである。実際に泥酔して乱痴気《らんちき》騒ぎを演じたのは諸君ばかりのように見受けたが、違っていたか知らん。序《ついで》にお尋ねするが一体、諸君は講演の第二日の報告を、何と書かれるつもりですか。参考のために承っておきたい。まさか公会堂で演説中に爆弾が破裂したとも書けまいし……困った問題ですなあ……これは……」
 と冷やかしてやった。ところがコイツが一等コタエたらしいね。イキナリ、
「……ケ……怪《け》しからん……」
 と来たもんだ。眼先の見えない唐変木《とうへんぼく》もあったもんだね。
「……そ……そんな事に就いては職務上、君等の干渉を受ける必要はない。君はただ訊問に答えておればいいのだ」
 と頭ごなしに引っ被《かぶ》せて来た。……ところが又、こいつを聞くと同時に、最前《さっき》から捻じれるだけ捻じれていた吾輩の神経がモウ一《ひ》と捻じりキリキリ決着のところまで捻じ上ってしまったから止むを得ない。モウこれまでだ。談判破裂だ……と思うと、フロックの腕を捲くって坐り直したもんだ。
「……ハハア……これは訊問ですか。面白い……訊問なら訊問で結構ですから、一つ正式の召喚状を出してもらいましょうかね。その上で……如何にも吾輩が最初から計画してやった仕事に相違ない……という事にして、洗い泄《ざら》い泥水を吐き出しましょうかね。要するに諸君の首が繋がりさえすれあ、ほかに文句はないでしょう……」
 と喰らわしてやったら、連中の顔色が一度にサッと変ったよ。
「……エヘン……吾輩は多分、終身懲役か死刑になるでしょう。君等のお誂《あつら》え向きに饒舌《しゃべ》ればね……ウッカリすると社会主義者の汚名を着せられるかも知れないが、ソレも面白いだろう。日本民族の腸《はらわた》が……特に朝鮮官吏の植民地根性が、ここまで腐り抜いている以上、吾輩がタッタ一人で、いくらジタバタしたって爆弾漁業の勦滅《そうめつ》は……」
「……黙り給えッ……司直に対して僭越だぞ……」
「何が僭越だ。令状を執行されない以上、官等《かんとう》は君等の上席じゃないか……」
 と開き直ってくれたが、その時に横合いから釜山署長が、慌てて割込んで来た。
「……そ……それじゃ丸で喧嘩だ。まあまあ……」
「……喧嘩でもいいじゃないか。こっちから売ったおぼえはないが、ドウセ友吉おやじの鬱憤晴らしだ」
「……そ……そんな事を云ったらアンタの不利になる……」
「……不利は最初から覚悟の前だ。出る処へ出た方がメチャメチャになって宜《い》い……」
「……だ……だからその善後策を……」
「何が善後策だ。吾輩の善後策はタッタ一つ……漁民五十万の死活問題あるのみだ。お互いの首の五十や六十、惜しい事はチットモない。真相を発表するのは吾輩の自由だからね」
「そ……それでは困る。御趣旨は重々わかっているからそこをどっちにも傷の附かんように、胸襟《きょうきん》を開いて懇談を……」
「それが既に間違っているじゃないか。死んだ人間はまだ沖に放《ほう》りっ放《ぱな》しになっているのに何が善後策だ。その弔慰の方法も講じないまま自分達の尻ぬぐいに取りかかるザマは何だ。況《いわ》んや自分達の失態を蔽《おお》うために、孤立無援の吾輩をコケ威《おど》しにかけて、何とか辻褄《つじつま》を合わさせようとする醜態はどうだ」
「……………」
「ソッチがそんな了簡《りょうけん》ならこっちにも覚悟がある。……憚りながら全鮮五十万の漁民を植え付けて来た三十年間には、何遍、血の雨を潜ったかわからない吾輩だ。骨が舎利《しゃり》になるともこの真相を発表せずには措かないから……」
「……イヤ。その御精神は重々、相わかっております。誤解されては困ります。爆弾漁業の取締りに就いて今後共に一層の注意を払う覚悟でおりますが、しかし、それはそれとしてとりあえず今度の事件だけに就いての善後策を、今日、この席上で……」
 とか何とか云いながら上席らしい胡麻塩《ごましお》頭の一人が改まって頭を下げ初めた。それに連れて二三人頭を下げたようであったが、内心ヨッポド屁古垂《へこた》れたらしいね。しかし吾輩はモウ欺されなかった。
「……待って下さい。その交換条件ならこっちから御免を蒙りましょう。陛下の赤子《せきし》、五十万の生霊を救う爆弾漁業の取締りは、誰でも無条件で遣らなければならぬ神聖な事業ですからね。今後、絶対に君等のお世話を受けたくない考えでいるのです。……ですから君等の職権で、勝手な報告を作って出されたらいいでしょう。……吾輩は忙がしいからこれで失礼する」
「……まあまあ……そう急《せ》き込まずと……」
「いいや失敬する。安閑と君等の尻拭いを研究している隙《ひま》はない。……何よりも気の毒なのは死んだ二人の芸者だ。林友吉や、お互いの災難は一種の自業自得に過ぎないが、芸妓《げいしゃ》となるとそうは行かん。何も知らないのに巻添えを喰わされたばかりじゃない。面倒臭いといって沖に放り出されて鯖の餌食にされたんだから、気の毒も可愛想も通り越している。君等には関係のない事かも知れんが、これから行って大いに弔問してやらなくちゃならん。……もっとも今更、線香を附けてやったって成仏《じょうぶつ》出来まいとは思うがね。ハッハッハッハッハッ……」
 といった調子で、今まで溜まっていた毒気を一度に吹っかけながら退場してくれた。……ハハハハ。イヤ。痛快だったよ。何の事はない役人連中、蚊《か》を突っついて藪《やぶ》を出した形になった。おまけにアトから聞いてみると、当日来なかった連中の中の十人ばかりが風邪を引いて、宿屋に寝ていたというのだから吾輩イヨイヨ溜飲を下げたもんだよ。
 とはいうものの……白状するが吾輩は、そのアトから直ぐに有志連中が調停に来るものと思って、実は手具脛《てぐすね》を引いて待っていたもんだ。……来やがったらドウセ破れカブレの刷毛序《はけつい》でだ。思い切り向う脛《ずね》を掻っ払ってくれようと思って、一週間ばかり心待ちに待っていたがトウトウ来ない。可怪《おか》しいと思って様子を探っていると、これも慌てて海に飛び込んだ頭株の四五人が、ヒドイ風邪を引いて寝てしまった。しかも、その中《うち》の一人は急性肺炎……モウ一人は心臓麻痺でポックリ死んでしまったので、それやこそ……死んだ友吉の祟りだ。友吉風《ともきちかぜ》友吉風というので何ともない奴までオゾ毛を慄《ふる》って蒲団《ふとん》を引っ冠《かぶ》っているという……実に滑稽なお話だが、とにかくソレくらい恐ろしかったんだね。友吉たるもの以《もっ》て瞑《めい》すべしだろう。……もっとも一方から考えてみると有志連中は懲役に行っても職業《しょうばい》を首にされる心配はない。だから役人連中に泣き付かれない限り調停に立つ必要もない。又、泣き付かれたにしたところが、二度と吾輩を丸め込む見込みはない……というないないの三拍子が揃っているんだから、知らん顔をして寝ていたんだろう。……但《ただし》新聞社には遺憾なく手を廻わしたものと見えて、一行も書かなかった。だから結局、死んだ奴が死に損という事になった訳だ。
 不人情なものさね。
 しかし真剣なところが「友吉風邪」ぐらいの事で癒える吾輩の腹ではなかった。
 芸者や友吉は成仏しても、吾輩が成仏出来ない。吾輩が観念しても五十万人の怨みを如何《いかん》せんだ。……ドウするか見ろ……というので事件の翌《あく》る日から毎日事務所に立て籠もって向う鉢巻でこの報告書を書き初めたもんだが、サテ取りかかってみるとナカナカ容易でない。演説の方なら十時間でも一気|呵成《かせい》だが、文章となると考えばかりが先走って困るんだ。おまけに唯一の参考書類兼|活字引《いきじびき》ともいうべき友吉おやじが居ないんだからね。ヤタラに興奮するばかりで紙数がチットも捗《はか》どらない。
 その間に有志連中の方では如才なく事を運んだらしい。吾輩との妥協を絶望と見て取って暗々裡《あんあんり》に事件を揉み消すと同時に、同じような手段でもって総督府の誰かを動かしたものと見える。吾輩の本官を首にした上に、各道で好意的に手続きをしていた組合費の徴収をピッタリと停止してしまった。実に陰険、悪辣《あくらつ》な報復手段だ。山内さんが生きて御座《ござ》ったらコンナ事にはならないんだがね。せめてもの便《たよ》りになる、藁塚産業部長までも中風で、郷里の青森県に寝て御座《ござ》るんだから吾輩、陸に上った河童《かっぱ》も同然だった。もっとも恩給を停止されなかったのが、せめてもの拾い物だったかも知れないが……ハッハッ……。

 そこで吾輩は断然思い切ってこの絶影島《まきのしま》の一角にこの一軒屋を建てて自炊生活を初めた。妻子を持たない吾輩にとっては格別の苦労じゃないからね。ここで本腰を入れて報告を書く決心をしたもんだが、書けば書くほど、朝鮮官吏の植民地根性が癪《しゃく》に障《さわ》って来る。同時にこの素晴らしい爆薬の取次網を蔽《おお》うべく、内地、朝鮮の有力者連中が、如何に非国家的な黒幕を張り廻わしているかが、アリアリと吾輩の眼底に映じて来た。友吉おやじの云い遺《のこ》した言葉が、マザマザと耳に響いて来て、ペンを持つ手がブルブルと震え出すようになった。……そうだよ。或《あるい》は酒精中毒《アルチュウ》から来た一種の神経衰弱かも知れないがね。しまいにはボンヤリしてしまって、ワケのワカラナイ泪《なみだ》ばかりがボロボロ落ちて来るんだ。コンナ事ではいけないと思って、焦《あ》せれば焦せるほど筆がいう事を聞かなくなるんだ。呑兵衛《のんべえ》老医《ドクトル》も心配して、
「そいつは立派な動脈硬化じゃ。萎縮腎《いしゅくじん》も一所に来ているようじゃ。漢法に書痙《しょけい》という奴があるがアンタのは酒痙じゃろう。今に杯が持たれぬようになるよ。ハハハハ。とにかく暫く書くのを止めた方が宜《え》え。そうなるとイヨイヨ気が急《せ》くのが病気の特徴じゃが、そこで無理をしよると脳髄《のうずい》の血管がパンクする虞《おそ》れがある。そうなったら万事休すじゃ。拙者もアンマリ飲みに来んようにしよう」
 といったアンバイで、気の毒そうに威《おど》かしやがるんだ。
 そこで吾輩も殆んど筆を投《とう》ぜざるを得なくなった。刀折れ、矢|竭《つ》きた形だね。
 ……蒼天蒼天……吾輩の一生もこのまんま泣き寝入りになるのか。回天の事業、独力を奈何《いかん》せん……と人知れず哀号《アイゴー》を唱えているところへ又、天なる哉《かな》、命《めい》なる哉と来た。……彼《か》の林《りん》青年……友吉の忰の友太郎が今年の盂蘭盆《うらぼん》の十二日の晩に、ヒョッコリと帰って来たのには胆《きも》を潰したよ。
 ちょうどその十二日の正午過ぎの事だった。友吉の大好物だった虎鰒《とらふぐ》を、絶壁《がけ》の下から投上げてくれた漁師《やつ》があったからね。今の呑兵衛|老医《ドクトル》と、非番だった慶北丸の来島運転士を、その漁師に言伝《ことづけ》て呼寄せると、この縁側で月を相手に一杯やりながら、心ばかりの弔意を表しているところだった。何とかカンとか云っているうちに呑兵衛ドクトルもずるずるべったりに座り込んだ訳だ。
 むろん話といったら外にない。友吉おやじで持ち切りだ。
「結局、友吉おやじは諦めるとしても、あの忰の友太郎だけは惜しかったですね」
 と来島が暗涙を浮かめて云った。
「……ウン。吾輩も諦らめ切れん。あの時に櫓柄へヘバリ付いていた肉の一片《ひときれ》をウッカリ洗い落してしまったが、あれは多分、友太郎のだったかも知れない。今思い出しても涙が出るよ」
 呑兵衛ドクトルも眼を赤くして関羽鬚《かんうひげ》をしごいた。
「……ハハア……それは惜しい事じゃったなあ。あの子供の親孝心には拙者も泣かされたものじゃったが……その肉を拙者がアルコール漬にして保存しておきたかったナ。広瀬中佐の肉のアルコール漬がどこぞに保存して在るという話じゃが……ちょうど忠孝の対照になるからのう……」
「飛《と》んでもない。役人に見せたら忠と不忠の対照でさあ。僕を社会主義者と間違える位ですからね……ハハハハ……」
「ウン……間違えたと云やあ思い出すが、吾輩に一つ面目《めんもく》ない話があるんだ。あんまり面目ないから今まで誰にも話さずにいたんだが……ホラ……吾輩と君とで慶北丸の横ッ腹《ぱら》を修繕してしまうと、君は直ぐに綱にブラ下ってデッキに引返したろう。吾輩は沖の水舟を拾うべく、抜手を切って泳ぎ出した……あの時の話なんだ。実際、この五十余年間にあの時ぐらい、ミジメな心理状態に陥った事はなかったよ」
「……ヘエ。溺れかかったんですか」
「……馬鹿な……溺れかかった位なら、まだ立派な話だがね……」
「……ヘエッ。どうしたんですか……」
「……その小舟に泳ぎ付く途中で、何だか判然《わか》らないものが水の中から、イキナリ吾輩の左足にカジリ付いたんだ。ピリピリと痛いくらいにね」
「……ヘエ。何ですかそれは……」
「何だかサッパリわからなかったが、ちょうどアノ辺に鱶《ふか》の寄る時候だったからね。ここへ来たら大変だぞ……と泳ぎながら考えている矢先だったもんだから仰天したよ。咄嗟《とっさ》の間にソレだと思って狼狽したらしい。ガブリと潮水を呑まされながら、死に物狂いに蹴放《けはな》して、無我夢中で舟に這い上ると、ヤット落付いてホッとしたもんだが……」
「……結局……何でしたか……それあ……」
「……ウン。それから釜山の事務所に帰って、銭湯《せんとう》に飛込むと、何か知らピリピリと足に泌《し》みるようだから、おかしいなと思い思い、上框《あがりかまち》の燈火《あかり》の下に来てよく見ると……どうだ。その左の足首の処に女の髪が二三本、喰い込むようにシッカリと巻き付いて、シクリシクリと痛んでいるじゃないか……しかも、そいつを抓《つま》み取ろうとしても、肉に喰い込んでいてナカナカ取れない。……吾輩、思わずゾッとして胸がドキンドキンとしたもんだよ。多分、水面下でお陀仏《だぶつ》になりかけていた芸者の髪の毛だったろうと思うんだが、今思い出しても妙な気持になる。……女という奴は元来、吾輩の苦手なんだがね。ハハハハ……」
 といったような懐旧談で、頻《しき》りに悽愴《すご》がってシンミリしている鼻の先へ、庭先の月見草の中から、白い朝鮮服を着て、長い煙管《きせる》を持った奴がノッソリと現われて来たもんだ。
 三人はその時にハッとさせられたようだった。しかし、そのうちに長い煙管が眼に付くと、
 ……ナアンダ朝鮮《ヨボ》公か……コンナ処まで浮かれて来るなんて呑気な奴も在るもんだ。アッチへ行け。|何も無い《オブソ》|何も無い《オブソ》。
 というので手を振って見せたが動かない。そのうちに気が付いて見るとそれが擬《まが》いもない友太郎だったのにはギョッとさせられたよ。噂をすれば影どころじゃない。テッキリ幽霊……と思ったらしい。三人が三人とも坐り直したもんだ。
 ……ハハハ……ナアニ。聞いて見たら不思議でも何でもないんだ。
 何よりも先に××沖で例の一件を遣付《やっつ》けた時の話だが……慶北丸に引かれた小船で、沖へ揺られて行く途中で早くも親父《おやじ》の顔を見て取った友太郎がハッとしたものだそうだ。そこでもしやと思って親父の図星《ずぼし》を刺してみると果して「その通りだ。モウ勘弁ならん」と冷笑している。……これはいけない。こうなったら取返しの附かない親父だと思うには思ったが、何ぼ何でも吾輩の一身が案じられたもんだから一生懸命に親父の無鉄砲を諫《いさ》めにかかったが……モウ駄目だった。
「……ナアニ。心配するな。轟先生の泳ぎは神伝流の免許取りだから一所《いっしょ》に沈む気遣いはない。アトで拾い上げて大急ぎで釜山に帰るんだ。そのうちに先生を説伏《ときふ》せて組合の巡邏船、鶏林丸に食糧と油を積んで、その夜《よ》の中《うち》にズラカッてしまう。真直《まっすぐ》に露領沿海州へ抜けて俺の知っている海岸で冬籠りの準備をする。春になったら砂金|採《と》りだ。誰も寄り付けない絶壁の滝壺の中に一パイ溜まっているのを、お前と二人で見た事が在るだろう。……あすこへ行くんだ……あの瀑布《たき》の上の方を爆薬《ドン》でブチ壊して閉塞《ふさ》いでしまえばモウこっちのもんだ。儲かるぜそれあ……轟先生は元来、正直過ぎるからイカン。役人の居る処はドウセイ性に合わん事を御存じないんだ。あんな人を一生貧乏さしといては相済まん。……朝鮮はモウ嫌じゃ嫌じゃ。西比利亜《シベリア》が取れたら沿海州へ行くと口癖に云うて御座ったから、コレ位、宜《え》え機会《おり》はない。モウ西比利亜には日本軍がワンワン這入っとるから喜んで御座るにきまっとる……それでも嫌なら今の中《うち》に貴様もデッキに上っとれ。……俺が一人で遣っ付けてくれる。轟先生の演説ぐらいで正気附く野郎等じゃない……」
 という見幕だったのでトテも歯の立てようがなかった。しかし、それでも折角の先生の苦心がこれで打切りになるのか……親父《おやじ》の一代もコレ切りになるのか……といったような事を色々考えているうちに胸が一パイになってしまった。
 ところが虫が知らせたのであろう。そう思っているうちにその言葉が遺言になってしまった。自分も一所に海へタタキ込まれてしまったが、間もなく正気に帰ってみると、水船の舷側にヘバリ付いてブカブカ遣っていることがわかった……ちょうど向側《むこうがわ》だったから甲板《デッキ》の上から見えなかったんだね。おまけにどこにも怪我《けが》一つしたような感じがしない。
 そこでコンナ処に居ては険呑《けんのん》だと気が付いたから、出来るだけ深く水の底を潜って、慶北丸の左舷の艙口《ハッチ》から機関室に潜り込んだ。そこいらに干して在った菜《な》ッ葉服《ぱふく》を着込んで、原油《オイル》と粉炭を顔に塗付《ぬりつ》けると知らん顔をしてポンプに掛かっていたが、混雑のサナカだったから誰にもわからなかった。スレ違った来島にも気付かれないで、無事に釜山へ帰り着いた……そこで又、吾輩の処へ帰ったら物騒だと考えたから、そのままドン仲間に紛れ込んで、海上を流浪する事十箇月……その片手間に親の讐敵《かたき》だというので、潜行爆薬《モグリハッパ》の抜け道を探るべく、あらん限りの冒険をこころみていたが、お蔭で字が読めるようになっていた上に、朝鮮語と、柳河語と、東京弁が自由自在に利いたので非常に便利な事が多かった。
 すると又そのうちに吾輩がタッタ一人で、淋しい絶影島《まきのしま》の離れ家に引込んだ話を風の便りに聞いたので、これには何か仔細《わけ》が在りそうだ。まだ帰るにはチット早いが、ソーッと様子を見てやろうと思って、一番お得意の朝鮮人に化けて帰って来てみると、なつかしい三人の声が聞こえて来る。それが一つ残らずあの世から聞いているような話ばかりなのでタマラなくなってここへ出て来ました。こうなったら、愈々《いよいよ》先生と死生を共にするばかりです。朝鮮人に化けていたら一所に居ても大丈夫でしょう。親父《おやじ》と同様に使って下さい。ドンナ事でも致しますから親父の讐仇《かたき》を討たして下さい……という涙ながらの物語りだ。どうだい。今時には珍らしい青年だろう。

 この青年と、吾輩の半|出来《でき》の報告書を一所にして提供したら、いい加減お役に立つだろう。この二つを拠所《どだい》にして君が霊腕を揮《ふる》ったらドンの絶滅期して俟《ま》つべしじゃないか。
 ウンウン。彼《か》の青年を君が引受けてくれると云うのか。ウンウン。そいつは有難い。東京の夜学校に通わしてくれる。……死んだ親父《おやじ》がドレ位喜ぶか知れないぜ。
 この密告書はアイツの筆跡《て》に相違ないよ。ここに来て吾輩の窮状を見ると間もなく書上げて、識合《しりあ》いの船頭に頼んで、呼子《よぶこ》から投函さしたものに違いないんだ。コイツが君の手にかかって物をいうとなれば、友吉おやじイヨイヨ以て瞑すべしだ。コレ位大きな復讐《はらいせ》はないからね。
 ああ愉快だ。胸が一パイになった。アハハハ。笑わないでくれ。吾輩決して泣き上戸じゃないつもりだが……オイオイ友。友。友太郎……そこに居るか。チョット出て来い。遠慮する事はない。来いと云うたらここへ来い。アトを閉めて……サア来た……どうだい。立派な青年だろう。今では吾輩の忰みたようなもんだ。御挨拶しろ。御挨拶を……この人が吾輩の親友……有名な斎木検事正だ。ハハハハ。驚いたか。貴様の血で書いた手紙が御役に立ったんだ。そのためにわざわざ斎木君が来てくれたんだ。貴様の親父《おやじ》の仇敵《かたき》を討ちに……。
 ……何だ何だ。泣く奴があるか……馬鹿……いくつになるんだ。……サア。こっちへ来てお酌をしろ。笑ってお酌をしろといったら。貴様も日本男児じゃないか……アハハハ……。
 斎木君……一杯受けてくれ給え……吾輩も飲むよ。……風速実に四十|米突《メートル》……愉快だ。実に愉快だ。飲んで飲んで飲み死んでも遺憾はないよ……。
「今日《こんにち》、君を送る、須《すべから》く酔いを尽すべしイ……明朝、相憶《あいおも》うも、路《みち》、漫々たりイ……じゃないか、アハハハハ……」



底本:「夢野久作全集6」ちくま文庫、筑摩書房
   1992(平成4)年3月24日第1刷発行
底本の親本:「氷の涯」春秋社
   1935(昭和10)年5月15日発行
※底本の「名画の屏風《じょうぶ》」を、「名画の屏風《びょうぶ》」に改めました。
入力:柴田卓治
校正:土屋隆
2003年12月13日作成
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