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大阪万華鏡
吉行エイスケ

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)拘引《こういん》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)上海造幣|厰《しょう》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)ひらめ[#「ひらめ」に傍点]
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     1

 北浜の父の事務所から、私は突然N署に拘引《こういん》された。
 私がN署の刑事部屋に這入ると、そこには頭髪を切った無表情な少女のかたわらに、悄然《しょうぜん》と老衰した彼女の父が坐っていた。その周囲を刑事たちが取まいて、中年過ぎた警部によって私たちは取調べられた。
 戯《ざ》れ絵のように、儀礼的な刑事部屋で、あぐらをかいた白毛のまじった老警部が私に言った。
「――チタ子の父から、君を誘拐罪として告訴状を提出しているのだが、君とチタ子とはどんな関係なんだ。」
 私はその訊問に対して率直に答えた。
「――チタ子とは数日前、私が夙川《しゅくがわ》の舞踊場の踊りの帰路を立寄ったR酒場で会ったのです。彼女は自分の勤めている官省のN課長とやってきました。洋モスの着物に、紅帯を締めて、さげ髪に紅色のリボンを結んでいるのを見て、最初は一日恋愛の女学生かと思ったのです。チタ子は同伴のN課長が酒場に註文した甘美な混合酒を飲みながら、彼女は課長に、ヤルー衣裳店に註文した衣裳代を支払ってくれるように懇願しました。するとしばらくN課長は、ご自慢だとみえる黒髭《くろひげ》をひねっていましたが、漸《ようや》く幾枚かの紙幣を男法界《おとこほっかい》が女に烙印《らくいん》でも捺《お》すように与えて、チタ子をある処へ誘ったようでしたが、彼女は商人的な寝床が気に入らないらしく、これを拒絶すると、翌日の夜を仮約束していました。するとN課長は不満そうに立上って、彼女を置いて帰って行きました。チタ子はひどく憂鬱そうな顔をして狭苦しいいすに埋《うずも》れていましたが、私が、自分の席へ誘うと、黙々として私の卓子《テーブル》にやってきて、
 ――失礼ですが、妾《わたし》を天下茶屋の家まで送ってください。
 と、彼女が言いました。私はすこし酔っていましたが、チタ子に請われるままに、タクシーで家まで彼女を送りました。そして別れるとき私はチタ子に接吻をしたのですが、それについて彼女は、
 ――あなた、忘れてはいやだわ。と、言うのでした。
 翌朝、夙川のアパートメントの独身部屋をノックする音で私は眼ざめました。私はチェンバーメイドが新聞でも持ってきたのだと思ったのですが、這入ってきたのはチタ子でした。彼女は黙々として寝台の枕もとに立っていましたが、しばらくすると寒さのため震えながら私の××に這入ってきました。」
 チタ子の父が苦しそうに咳をした。贅沢な機械でも見るやうに刑事たちが彼女を見たが、チタ子は憂鬱そうに、胯《また》火鉢した男の破れた靴下をみつめていた。
「――午後から神戸へ阪急電車で私はチタ子を連れて行きました。私は海岸通りの女理髪店で、彼女に断髪するように勧めてみました。チタ子は断髪にしたうなじを紺色の海にむかってこころよさそうに左右に振って見せました。私は元町通りの海外衣裳問屋で極彩色の身の廻りのものを二、三買ってチタ子に与えました。そこから私は彼女を連れて、白首女の蝟集《いしゅう》する裏町へ行って、チョップ・ハウスのサルーンで、一夜そこの踊子たちの仲間入を彼女にさせました。チタ子はホルマリンの臭のする、平気で汚い紙幣と交換される踊子たちの貞操帯の中で、私と他愛もないことを喋りながら一夜を明かしました。
 翌日になって再びチタ子は私のアパートを訪れてきて、当分、私から離れたくないと言ったのです。既に私はチタ子の淡々とした気もちが好きなっていましたので、別に不快は感じませんでしたが、一応帰宅をすすめてみました。すると彼女は家庭と自分とは独立していると主張するので、私はチタ子と同棲生活を始めたのです。」
 すると万年筆と手帳とを持った警部は、チタ子にむかって訊問した。
「――お前は、彼が唯今言ったことを認めるのか。」
 チタ子は、その問いにたいして明瞭に答えた。
「――この人の言った通りです。それに妾のしたことは、妾、格別わるいこととは思っていません。」
 刑事が失神したように蒼褪《あおざ》めた彼女の父と、チタ子を別室に連れて行った。老警部が私に言った。
「――君は彼女と結婚する意志はないか?」
「――結婚する必要がありません。」と、私がそれに答えた。
 警部が黙々として去ると、他の刑事がにやにやわらいながら部屋に這入ってくると、
「――おい、うまくやっているぜ。告訴は取り下げるそうだ。だが、今後は断然あの娘とつきあってはならん、君は帰ってよろしい。」
 私は立上ると、輪廓のない調書のなかで、
「――あの娘さえ承知なら、絶対につきあいません。」と言葉をかえした。
 すると刑事は一枚の調査を私に手渡ししながら、
「――おい、しっかりしろ、あの娘はとんでもない阿魔《アマ》だぞ。その調書をよく読んでみるんだ。」
 警察の門を出て、私は卑猥《ひわい》にわらった刑事の顔を思い出しながら、渡されたチタ子が女としての売行表《リスト》とも思われる一枚の紙片を読んだ――佐田チタ子、女事務員。十七歳。女学校は中途退学。十五歳のとき某氏に自ら身を委《まか》したことを告白す。なお、某氏との関係はいまもつづいていることを告白す。その間、某私立大学生、某会社員、某教師等々と関係したことを告白せり――。

     2

 美貌な街であった。
 頸《くび》に捲《ま》きつくようにタクシーが市街を埋めて、私の側を通り過ぎた。高楼の鎧戸《よろいど》がとざされると、サキソフォンが夜の花のようにひらいて、歩きながら白粉を鼻につける夜の女が、細路地の暗《やみ》の中から、美しい脚をアスファルトの大通りにえがきだした。
 私は父の経営している、北浜にある貿易商会を出て、心斎橋から戎橋筋《えびすばしすじ》を道頓堀に向かってあるいていた。戎橋河畔の新京阪電車の広告塔のヘッド・ライトが、東道頓堀の雑鬧《ざっとう》が奏でる都会の嗄《かす》れ声に交錯して花合戦の幕が切っておとされた。
 鑑札のない女たちも、新貨幣のおかげで夜の脇腹《わきっぱら》から彼女の蠱《まどわ》しい横顔を藍色の夜にあらわした。河水に向って明滅する大電気時計が赤色に染められて、水上警察の快速巡航船が、女の小指のような尾を引いて光の纏綴《てんてつ》の下を通り過ぎるとき、美人茶屋のグランド・コンサートが聞こえてきた。
 お茶屋のボンボリの仄《ほの》白い光の中から、芝居小屋にかかげられた幟《のぼり》の列を俯瞰《ふかん》する。そこから中座の筋むかい、雁治郎飴の銀杏返《いちょうがえ》しに結った娘さんから、一|鑵《かん》、ゆいわたを締めつけるように買ってきた包みのなかから、古典の都市がちらちら介在する。
 芝居裏の二枚看板、ちゃちなぽん引にうっかりつれこまれようとして、あわてて羽織|芸妓《げいぎ》の裾のもとをかいくぐって、食傷路地に出てくると、鶴源の板前が瑪瑙《めのう》色に塗った魚類の食楽地獄だ。立並んだ軽便ホテルの裏街から、ホテルの硝子《ガラス》戸ごしに見える、アカダマの楼上のムーラン・ルージュが風をはらんでいる。
 反対に宗右衛門町では、弦歌のなかで、河合屋芸妓の踏む床の足音がチャルストンの音律となり、はり半のすっぽんの霊に幻怪な世界を展開している。
 私は西道頓堀の縁切路地の付近にある、古典書にまじって、横文字のマルクス経済学書もあろうと思われる、古本大学の淫書の前に立っていた。

 やがて、淫書の扉がひらくと、濛々《もうもう》とした紫煙のなかの客間《サルーン》から、現実の微細《デリケート》な享楽地帯が眼前にパノラマのようにあらわれた。この部屋の電気炉を囲んで談笑する紳士淑女諸君のうちから、著名な数人を読者に紹介すると、
  綽  名    履  歴    名  前
恋の一杯売《ラブ オン ドラフト》[#「恋の一杯売」にルビ]――外国帰りの女政客――西紅葉
性の一杯売《セキジュアリティオンドラフト》[#「性の一杯売」にルビ]――外国帰りの女実業家――太田ミサ子
こけっとり おん どらふと――×映画社人気女優――生江幸子
酒の一杯売《ビア オン ドラフト》[#「酒の一杯売」にルビ]――酒の密輸で成金になった商人――福井貂田
思想の一杯売《イズム オン ドラフト》[#「思想の一杯売」にルビ]――マルクス主義者――林田三郎
 くさった歯齦《はぐき》のにおいがした。しかし、しばらくして私はそのにおいが支那の隠画《ネガチブ》に塗られた香料であることがわかるのである。部屋の空気が女の温度を感じさせた。室内の浮気な釦穴《ばたんあな》が、多数の男性によってつくられた鋳型《いがた》のように、慇懃《いんぎん》に藤椅子にもたれていた。
 茶卓のクロース皮膚の汚点《しみ》をつけて、無上の快楽については妥協政治で解決する弾力のある男女がおか惚《ぼれ》同士のように話しつづけた。
 豹《ひょう》の皮のはられた藍色の壁に向って、スモオキングを着た男たちが、自分の影に向かって挨拶をしていた。だが、諸君。よく見ているとこの男はいたずらに自分の影にむかって挨拶をしているのではなかった。人造人間の弾機《ばね》によって、そのたびに粋なナイト・ドレスをつけた夜の女が、写真に絵姿となってあらわれるのだ。
 耳底に女の好物でものこるように、交響楽によって嗜色人の踊がはじまると、軍隊的な組織も粋な衣服にかくれて、部屋にいる人間の甘い唾液のなかを、安南の××がとおりぬけるのだ。女政客も、女実業家も、映画女優も、成金も、文学者も男性を象徴した酒杯に満ちた、白色の酒で唇をぬらした。
 唐突に、鋸《かんな》くずのような幕が切っておとされて、野蛮な四重奏が苛立《いらだ》たしく鳴りだした。最初、私にあたえられた令嬢社交界のような音律の苦痛が、しだいにエクスタシイに私を誘った。

     3

 堂島ホテル附近にある、夜間薬品店の売子の売行表《リスト》と、商業的な饒舌《じょうぜつ》は、女の温度にたいしてひどく慇懃《いんぎん》なのだ。
 午前0時を過ぎると、死体のように冷やかな銀行街から、大江村を渡って、鬢《びん》にほつれるある女が夜間薬品店にあらわれると、灯籠《とうろう》道でもあるくように蒼ざめて、淀川の水面に赤いレッテルの商標を投じた。
 金貸遊戯室の、立縞《たてじま》の短いスカートの女が毛皮の襟に顔をうずめて、夜会バッグにしまった三角形の××を彼女の墓誌銘にして、梅田方面に立ち去った。
 まもなく、カバーをかけたタクシーが夜間薬品店のまえでとまると、なかから、林田三郎が仕掛花火のように商館にかけこんだ。磨かれた車窓に、西紅葉の横顔がスプリングのついた船舶に乗船する女のように輝いていた。
 通過記録計《パーシーメーター》がまた一転廻すると、太田ミサ子が、情夫のアメリカ人を連れて、中之島の方面から並木道をつたってあらわれた。
 福井貂田が、水晶宮にいたひらめ[#「ひらめ」に傍点]のような女と出現して、しこたまゴム製品を買ってどこかへ消えたころ、私は生田幸子の胸にある真紅の徽章、彼女のエメラルドの海峡から浮びあがって自動扉のスイッチを押して、売品窓からソファに背広のまま仰向けに寝ころんだ売子を敲《たた》き起すと、タヴラ・スゴ六のように、七分の運と三分の医術に身を委託する。独逸《ドイツ》製のサイコロを買うと、そもまま歔欷《すすりな》くように円筒状の夜の大阪を感じていた。

     4

 夜のヴェールが剥《は》がれて、灰色の壁にもたれて一夜を過した失業者が、赤と黒の市場の魚のように起きあがると、高楼にあらわれた三色旗の天気予報旗をものぐさそうに眺めた。
 割引電車の青い労働帽の炎のような太陽が燃えて、世が明けわたると、半開のビルデングの鎧戸《よろいど》を汚れた袴をはいた女事務員がくぐり、表情の失せた勤め人たちが、破れたわい襯衣《シャツ》から栄養不良の皮膚をのぞかせて鏡のように磨かれた石造の建物に吸いこまれた。
 天満天神に朝|詣《まい》りした五花街の女たちが、ふたたび睡《ねむ》るころ、北浜|界隈《かいわい》は車だまりから人力車が一掃されて、取引市場をとりまいた各商店では、踊子がつけた腰の鈴のように電話が絶えまなく鳴り渡った。
 私がホテルの寝床からそのまま父の輸出綿花事務所へやってくると、夜の疲労をぬりかくした、濃化粧したタイピストが電話機の電鍵《でんけん》を敲《たた》くように、昨夜の記憶を白紙にうずめていた。
 昨今の上海《シャンハイ》投機の気まぐれで、銀塊《ぎんかい》相場を有史以来の崩壊に導いた、その余波のためにこの輸出綿花事務所は不況のどん底にいた。何故、この女タイピストの指の悪戯《いたずら》をよささないわけに行かなくなったかと云うに、銀塊急落の最も大きい原因は、印度《インド》でおこなわれた幣制の改革と、支那商人の思惑のとばっちりからであった。
 反|蒋介石《しょうかいせき》派の激化と、東支鉄にからんだ露支《ロシ》間の葛藤、南京政府の幣制の改革にたいする商人の思惑は、対支商談におけるワシントン政府の経済政策が、帝国主義戦争の一つの徴《しるし》として、ワシントン当局者のからくりによって時局が平穏のうちに解決されると、南京政府は中央銀行を設け、上海造幣|厰《しょう》を開いた。めずらしく支那内地に戦争がなかったので銀需要の思惑は、これらの悪材料のために前後不覚となり惨落となった。
 北浜界隈も、支那財界の大混乱のために、対支商談は不況のどん底に陥ってしまった。
 私はビルデングの窓のカーテンをひらいた。向いのN万ビルのマネキン事務所には、アメリカン・スタイルの女たちが地面にカードをひろげたように、緋の絨氈《じゅうたん》の上でお化粧を始めていた。
 私は仕事机に坐ると朝刊をひらいた。すると、そこには附近に商店を持った大相場師のSが、いよいよ起訴されたこと、またしても近頃流行する、都会女の自殺が写真入で報道されていた。金融界の乾《いぬい》の手輩としてN・R漁業権を背景として、政党と政党の対立に山師の貫祿を見せた彼も、内閣が更迭《こうてつ》すると疑獄事件のうずのなかに、不治の病を発してしまった。
 内閣が変って、金解禁とともに現金通貨に需要が減退して、金融市場は、遊資のために市場金利においてコール貸日歩の急落、国債、市債の抬頭《たいとう》等の変化を見せたが、国内における購買力の減少は、街から街に黄濁の切断面をつくった。
 この界隈の連合委員会の事業振興の決議案にもかかわらず、閑散とした取引市場をとりまいて、日一日と失業者と、彼らの飢えが生産余剰と反比例して街の広場に堆積《たいせき》して行った。
 女タイピストが薔薇の花のついたガーターを、私の眼前で、わざと見えるような位置に脚をくんで、五色のおらんだ煙草をくわえた真紅な唇をゆがめると、細い橋を、熟練した工兵のように室内に吐き出した。
 この社長室に父が出現するにはまだ一時間の猶予があったので、韻律を踏むように、私は彼女に近づくと、
「――君は不景気に処する道を知っていますか? それとも、君は他の女と異った意見をもっていますか。」
「――商業地の真ん中で、水入らずにそんな謎のような話をするものじゃありませんわ。あなたのような方は、この銀安を遁《のが》さず上海《シャンハイ》にでも行って金貨のありがたさを味わってくるんだわ。今朝の新聞では日本向カワセ相場は九六|両《テール》四分の三、千の寝床を得るのはお安いとこが経済ってものだわ。」
 摩天楼《まてんろう》の鏡の面からつやぶきんをとるために、私は、藍色のカーテンで市街に向ってひらいた窓を閉ざすと、
「――それよりか、君のコオセット・ボタンがいくつあるか計算さしてもらいたいもんだね。」
「――あなたは図《ず》う/\しいのね。」
 コミックの女のように肩をゆすって彼女は立ち上ると、部屋の把手《ハンドル》をあらあらしく廻した。
「――少し待ってくれ。スカートの短い女の前で自殺する男にたいするご意見は?」
 陽気に、口笛を吹いて女タイピストが踵《きびす》をかえした。
「――妾だったら、自殺するかわりに結婚するわよ。」
「――政府じゃないが緊縮してまでもか。」
「――あら、快楽のためにはフォードだってかまわない、山間を疾駆《しっく》するじゃありませんか。」

     5

 ところが、
 午後になると――資産家。重役。月給取。靴磨き。タイピスト。薄給の教員。それ等の人間が急行列車桜、高速力巡航船、ホテル、トーキー常設館、オフィス、レストラン、冬期競馬場、少女歌劇場、それらの場所にいたあらゆる階級人が、驚愕《きょうがく》する事件が勃起《ぼっき》した。
 それはアメリカ資本主義に崩壊の徴《しるし》があらわれたことであった。何もののために――プロレタリアの巨弾によってであろうか? ところが、アメリカにおけるプロレタリア自身、パニックの最中において米国産業組織の同伴者であった。すると、犯人の武装を解除して見よう。
 犯人は英国の大銀行団と、その背後のフイナンシャーであった。
 後日になって、倫敦《ロンドン》のサンデー・ビクトリアル紙は左の如く当日の模様について述べた。
(ウォール街は、過去において吸いあげポンプと化していた。世界の資本を呑みこみ、その跡に到るところ空洞を生ぜしめた。倫敦市場のみでもその地理書をひもとくまでもなく、一日数万の米国株式の売買があった。巴里《パリー》、伯林《ベルリン》、ブラッセル、アムステルダム、何《いず》れも電信の速力は一杯にウォール街に資金を流入した。大西洋北岸の富の余剰《よじょう》はいまや米国株式に変形したと歎《たん》じさせた。このウォール街にも遂《つい》に破局があった。財界|平衡則《へいこうそく》に反した信用のインフレーションは英蘭《イングランド》銀行の利下げとともにその崩落の道をたどった。云々。)
 英国金融資本が、米国産業資本に強靭《きょうじん》な波瀾《はらん》をまきおこしたために、米国資本を背景とした商工都市大阪は、ウォール街を恐怖がおそうと同時に、赤鼻女の野暮なアメリカの衣裳をつけて財界の迷路に立った。
 また、銀塊《ぎんかい》相場を暴落させた、ワシントンの要路の背景にあったものは、誰か。
 一九二六年、恐慌状態にあった銀塊市場にたいして、英領|印度《インド》において組織された印度貨幣金融委員会が、一九二七年三月二十七日、三億五千万オンスの銀持高をもって、ルーピーの新貨幣制を決定した。その背後にあって英国当局者は銀売、金買いの機微な策略によって今日を期していた。
 資本主義戦争の尖端《せんたん》を行くもの、これも、犯人は英国であった。
 突然、電鈴が私の耳に亀甲町にある、綿花綿布倉庫会社の事業停止による賃金不払のため、従業員のストライキを報《し》らせた。

 だが、諸君。
 これは何んのためのストライキだ。

     6

 夜になって襲来した暴風雨が、街から灯火を奪った。
 午後と、午前の境界にもかかわらず、ラジオが、倫敦から放送される歌謡を伝播《でんぱ》していたのを疾風のなかで私は嚥《の》み下した。ココア色の女の皮膚に雷紋の入墨をしたような夜更けであった。
 皺《しわ》だらけの私の寝室をノックする音がして、暗闇から出た女の手が、楕円形の天井をみつめていた私の目前で葡萄蔓《ぶどうづる》のようにからんで、青いリノリウムのうえにMELINSの扱帯《しごき》が夜光虫のように円をつくると、私は、断截された濡れた頭髪を腕の中に感じて、いつのまにか恋愛のマッフのなかに、ひとときの安息を求めた。
「――妾、あなたくらい好きな人ないわ。」
 と、チタ子が言った。



底本:「吉行エイスケ作品集」文園社
   1997(平成9)年7月10日初版発行
   1997(平成9)年7月18日第2刷発行
底本の親本:「吉行エイスケ作品集II 飛行機から堕ちるまで」冬樹社
   1977(昭和52)年11月30日第1刷発行
※底本には「吉行エイスケの作品はすべて旧字旧仮名で発表されているが、新字新仮名に改めて刻んだ。このさい次の語句を、平仮名表記に改め、難読文字にルビを付した。『し乍ら→しながら』『亦→また』『尚→なお』『儘→まま』『…の様→…のよう』『…する側→…するかたわら』『流石→さすが』。また×印等は当時の検閲、あるいは著者自身による伏字である。」との注記がある。
入力:霊鷲類子、宮脇叔恵
校正:大野晋
2000年6月13日公開
青空文庫作成ファイル:
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