青空文庫アーカイブ

梅原良三郎氏のモンマルトルの画室
與謝野寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)左隣《ひだりどなり》

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぐん/\と昇つて行く。
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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僕は僕の下宿の路次の
僕の薄暗い穴から出た。
そして直ぐ左隣《ひだりどなり》の家の
硝子戸をそつと押して入《はい》つた。
階下の廊《らう》の左側《ひだりがは》の室《しつ》から
門番《コンシエルジユ》のお上《かみ》の顔《かほ》が僕《ぼく》を見《み》て微笑《ほヽえ》んだ、
僕の顔も微笑《ほヽえ》んだ。
僕は直《す》ぐ狭い中庭へ出た。
四方を高い建物で劃《しき》られて、
井戸の底へ落ち込んだやうな処だ。
正面に入口の石段があつて、
此中庭から此家の六層の階段が始まる。
僕は之を昇らうとする度に
何時も、入口の石段で
ちよいと軽く気を入れながら、
立ち止りもせずに
ぐん/\と昇つて行く。
階段を一つ曲《まが》る毎《ごと》に
狭い中庭へ向いて附いた硝子窓が
だん/\明るさを増して、
僕に地上からせり出しつつあると云ふ意識を
確かにさせる。
其れは悪るくない感じだ。
そして、第五の階段にさしかかると
僕の脚が少し重く、
僕の動悸が少し高く、
僕の呼吸が少し疾《はや》くなる。
すると、僕に潜在して居る日本的《にほんてき》突喊性《とツくわんせい》が
のつそりと眼を覚して、
殆ど一呼吸《ひといき》で、
足早にあとの二《ふた》つの階段を昇らせる。
今日も僕は同じ経過を取つた。
扉《とびら》の上から
海老茶色の鈴《すヾ》の索《さく》が下《さが》つて居る。
何時見ても
長い紐鶏頭《ひもけいとう》の花を吊《つる》したやうだ。
僕は太《ふと》い呼吸《いき》を気持《きもち》よく吐きながら、
静かに索《さく》を握《にぎ》つて二度引いた。

扉《とびら》が内から開《あ》いた。
「ボン・ジュウル、」
「ボン・ジュウル、」
「描《か》いて居るんぢやないの」、
「いいや、モデルが来ないから」、
二人は手を握《にぎ》つた。
友は何時《いつ》ものやうに、
薄地《うすぢ》の紺の仕事服《しごとふく》の上へ、
褪《さ》めて落ちついた緋《ひ》の色の大幅《おほはヾ》の襦子を
印度の袈裟のやうに、
希臘の衣《きぬ》のやうに、
左の肩から右の脇へ巻いて居る。
そして又何時ものやうに、
愛着的な、優雅な、
細心な、
そして凛々《りり》しい表情と態度とが
おゝ我が友よ、僕をして
ナルシスの愛と美を想はせる。

三方を塞《ふさ》いだ、
天井の高い、
そして広々《ひろ/″\》とした画室《アトリエ》は
大岩窟の観がある。
そして大きな画架、
青い天鷺絨張りのモデル台、
卓《たく》、置暖炉《おきストオブ》、花瓶《はながめ》、
肱掛椅子《フオオトイユ》、いろ/\の椅子、
紙片、画布《トワル》、其等の物が雑然と人り乱れ、
麝香撫子と、絵具と、
酒と、テレピン油《ゆ》とが
匂ひの楽《がく》を奏《ジユエ》する中《なか》に、
壁から、隅々《すみ/″\》から、
友の描《か》いた
衣《きぬ》を脱がうとする女、
川に浴する女
仰臥の女、匍ふ女、
赤い髪の女、
太い腕《かひな》の女、
手紙を書く女、
編物をする女、
そして画架に書きさした赤い肌衣《コルサアジユ》の女、
其等の裸体、半裸体の女等と、
マントンの海岸、
ブルタアニユの「愛の森、」
ゲルンゼエ島の牧場、村道、岩の群《むれ》、
グレエの森、石橋、
其等の風景と、
赤い菊、赤い芍薬、
アネモネの花、薔薇、
林檎と蜜柑、
梨、
其等の静物とが
見とれる如く、あまえる如く、
誘《さそ》る如く、
熱い吐息《といき》を彼れに投げ掛ける如く、
彼れの一挙一動に目を放さぬ如く、
我が美くしいナルシスの画家を取巻いて居る。
そして一方《いつぽう》の
南向《みなみむき》の窓の硝子越しに、
四月の巴里が水色に霞んで、
低く、低く、海のやうに望まれる。
正面に近く脂色《やにいろ》をしたのがオペラだ、
左に遠く、ちいさく、日を受けて
うすもも色をしたのがノオトル・ダムだ。
僕はモンマルトルの中腹の、
六階の画室《アトリエ》に居ることを忘れて、
ふと巴里の空《そら》の上を飛んで居る気がした。

友は壁のあなたの厨《くりや》から
珈琲《カツフエ》を煮て持つて来た。
そして稿本《マヌスクリイ》を手にしながら
「聞いてくれたまへ」と会釈《ゑしやく》して、
日本文に新しく訳した「エディプ王」を読み上げた。
水晶質の明るい声が
老優ムネ・シュリイの調子で昂《たか》まり、震《ふる》へる。



底本:「科学と文芸」交響社
   1915(大正4)年10月号
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にをあらためました。
※底本の署名には、「よさの・ひろし」とあります。
入力:武田秀男
校正:門田裕志
2003年1月24日作成
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