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執達吏
與謝野寛

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)是《これ》と云つて

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一|通《とほり》で無い

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)[#ここから1字下げ]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)其日其日《そのひ/\》
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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    (壱)

眞田保雄の事を此の十年来何かに附けて新聞雑誌で悪く書く。保雄は是《これ》と云つて私行上に欠点のある男でも無く、さりとて文学者としての彼の位置が然《さ》う文壇の憎悪を買ふ程に高くも無い。其の癖新体詩家である保雄は不断相応に後進の韻文作家を引《ひき》立てゝ、会を組織する、雑誌を発行する、其等の事に金銭と労力を費《つひや》して居る事は一|通《とほり》で無い。彼が高利貸に七八千円の債務を負うて此の八九年間首の廻らぬのも全く後進の為に柄に無い侠気を出すからだ。彼とても芸妓《げいしや》と飲む酒の甘《うま》い事は知つて居やう、併《しか》し一度でも然《さ》う云ふ場所へ足を向けた事の無いのは友人が皆不思議がつて居る。彼は一月《ひとつき》前迄費用の掛らぬ市外の土地を撰《えら》んで六円五拾銭の家賃の家に住んで居た。彼は何等の極《きま》つた収入も無い身の上だ。是《これ》が小説家であるなら今時|駆出《かけだ》しの作家でも一箇月に三拾円や五十円は取るのだもの、文壇の人に成つて拾年以上も経て居る。保雄が毎|月《げつ》の生活《くらし》に困る様な事も無からうが、新体詩は然《さ》う買つて呉れる所も無いから保雄の方でも自分から進んで売らうとは仕無《しな》い、偶《たまた》ま雑誌社からでも頼まれゝば書くが、其《それ》とても一週間近く掛つて苦心した作が新聞小説家の一回分の稿料の半分にも成るのぢや無い。で保雄はいつも貧乏で加之《おまけ》に高利貸の催促に苦《くるし》められて居る。
保雄の妻美奈子は有名なる歌人だ。もとは大坂の町家《ちやうか》の娘で芝居の変《かは》り目には両親《ふたおや》が欠かさず道頓堀へ伴《つ》れて行《ゆ》く程であつたが、保雄の妻と成つて以来《このかた》良人《おつと》と一緒に貧しい生活に堪へて里家《さと》から持つて来た丈の衣類は皆子供等の物に縫ひ換へ、帯と云ふ帯は皆売払つて米代に為《し》て、自分は洗洒《あらひざら》しの襤褸《ぼろ》の下《さが》る様な物|計《ばか》り着て居る。四人の子供が交代に病気をするので其の介抱疲れや、新聞社と雑誌社から頼まれて夜分遅くまで投書の和歌を添削する所から其の安眠不足などの所為《せゐ》で、近年|滅切《めつき》り身体《からだ》が痩せこけて顔色も青褪《あをざ》めて居る。妻の此の生活に疲れた状《さま》が保雄の心には気の毒で成らぬけれども、此の境遇から救ひ出す方法も附か無いので腑甲斐《ふがひ》ない良人《をつと》だと心の内で泣乍《なきなが》ら已《や》むを得ず其日其日《そのひ/\》を無駄に送るより外は無かつた。実際妻が身体《からだ》を壊す迄働いて月々|纔《わづか》に得《う》る参拾伍六円の収入が無かつたなら眞田の親子六人は疾《と》くに養育院へでも送られて居たであらう。此の妻の収入があるので米代と薪炭《しんたん》費丈は先《ま》づ支へる事が出来た。其上妻は暇の無い中から時々小説とかお伽噺とか女子書翰文とか自分の歌集とかを作つて、其の原稿料で家賃の滞《とゞごほ》りや薬価《やくか》や牛乳代の足《た》しにする。保雄も会の方から会員の謝礼を毎|月《げつ》合せて拾五円から弐拾円位貰はぬでは無いが、会の雑誌の費用に出して仕舞《しま》ふから一|文《もん》半銭自分の身に附くのでは無かつた。
『貴方《あなた》、なんとか御考《おかんがへ》が附きませんか。』
美奈子は去年の夏の末頃到頭|堪《こら》へ切れ無いで斯《か》う言ひ出した。
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『浪人を止めて己《おれ》の身売《みうり》を為《し》ても宣《い》いが、評判の善《よ》くない己《おれ》の事だから世話の仕手《して》も有るまいて。』
[#ここで字下げ終わり]
神経質の妻は眉と眉との間を顰《しか》めて、
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『そんな事を仰《おつしや》るもので無い、貴方《あなた》を勤人《つとめにん》におさせ申す位なら私、こんな襤褸《ぼろ》を下《さ》げて苦労は致しません。』
『ぢやあ、何《ど》うすれば宣《よ》い。』
『いつか仰《おつしや》つた様に雑誌を満百号限りお廃《よ》し遊せな。それは貴方《あなた》に取つても私に取つても残念ですけれど。』
『実は己《おれ》も然《さ》う考へて居る。会員には済まん様なものだが、眞田家の親子六人、命を賭けて迄維持せねば成らぬ事も有るまい。会員の中には詩の実力の定《さだま》つた連中が大分にある。今|己《おれ》の雑誌が無く成つても此の八九年間に蒔いた種はいつか芽を吹くだらう。』
[#ここで字下げ終わり]
斯《か》う相談を決めて其年の十一月に保雄は満百号の記念号限り雑誌を廃《や》めて仕舞《しま》つた。新聞雑誌の文芸記者の中には稀に保雄が永年の苦闘に同情して雑誌の廃刊を惜《をし》んだ記事を掲げた人もあつたが、大抵は冷笑的口調で、保雄の雑誌は五年|前《ぜん》に既に生命を亡《うしな》つて居たのだ、今日《こんにち》の廃刊は遅過《おそすぎ》るなどゝ書いた。

    (弐)[#「(弐)」は底本では、「(一)(つゞき)」]

此春《このはる》に成つて保雄の一家は市外から麹町区へ引移《ひきうつゝ》て来た。其《それ》は長男が学齢に達したので市内の小学校に入れる為と、美奈子が五人目の子を妊娠して居るので婦人科の医師や産婆の便利の善《よ》い市街《まち》に住まうと云ふのと、保雄夫婦の心では九年間の郊外生活に厭《あ》いたので、市内に住んで家が新しく成つたら心持も新しく成つて異《かは》つた創作も出来やうと思ふのと、是《これ》等の理由から六円五十銭の家賃の家を捨てゝ二十三円の高い家賃の家へ思《おもひ》切つて引移《ひきうつ》つた。去年の末に幸ひ美奈子の長篇小説が某《なにがし》新聞社へ買取られたので、其の稿料で大崎村の諸|払《はらひ》の滞《とゞこほ》りやら麹町の新居の敷金やら引越料やらを辛《やつ》と済《すま》す事が出来た。
新しい家は二階|造《づくり》で引《ひき》越した当分の気持が実に佳《い》い。此の二階の明るい書斎でならば保雄が計画して居る長篇小説も古事記を材料にした戯曲も何《ど》うやら手が附けられ相《さう》に思はれた。引《ひき》越して五六日間は板を買つて来て棚を彼処此処《あちらこちら》に附けるのも面白いし、妻が瓦斯《ぐわす》で煮沸《にたき》をするのを子供等と一緒に成つて珍らし相《さう》に眺めたり、又|招魂社《せうこんしや》の境内へ子供等を伴《つ》れて行《い》つたりするのも気が伸々《のび/\》する様であつた。[#「。」は底本では脱落]七八日目に、
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『貴方《あなた》、此の月末《げつまつ》から何《ど》うしませう。田舎と違つて大分街では生活《くらし》が掛り相《さう》ですわ。』
[#ここで字下げ終わり]
と美奈子が良人《をつと》の広い机の端に、妊婦の常《つね》として二階の上下《あがりおり》に目暈《めまひ》がする其《その》額を俯伏《うつぶ》して言つた。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
『然《さ》うだらう、家賃ばかりでも従来《これまで》の四倍から費《かゝ》るのだからな。』
『もう、お小遣も無く成つたので御座います。』
『愈々《いよ/\》初めの決心通り背水の陣だね。』
『従来《これまで》も片時呑気な間《ま》も無かつたのですけれど、まだ大崎でなら永い間土地の人に馴染《なじみ》が有りましたから大抵の買物は借りて置けましたが此処《こゝ》は何から何迄現金ですもの。』
『心配しなさんな。明日《あした》から己《おれ》が書き出す。此処《こゝ》へ来てから大分に気分も佳《い》いのだから。月末《げつまつ》には何《ど》うにか成るさ。』
『貴方《あなた》に然《さ》う苦労をおさせ申し度く無い。[#「。」は底本では脱落]私がもつと働けるなら働きたいのですけれど、何分此の身体《からだ》ですもの、来月産を済《すま》して仕舞《しま》はねば本屋廻りも出来ませんし、其《それ》に目暈《めまひ》がね、筆を持つと大変にしますの。』
『お前に此上《このうへ》心配や労働をさせて成るものか、其れは己《おれ》から云ふ事だ。己《おれ》は此の八九年間雑誌の為にすつかり囚《とら》へられて居たが、雑誌が無く成つて見りや暇が出来たのだから、是《これ》からは来客を断つても書く積《つもり》だ。此処《こゝ》へ来てからの生活向《くらしむき》は己《おれ》の責任にして置いて呉れ。』
[#ここで字下げ終わり]
良人《をつと》は斯う確乎《きつぱり》と云ふけれど、世間の人々は良人《をつと》を誤解して何の縁故も無い人迄が毛嫌ひして居る。良人《をつと》の書くと云ふ小説の原稿を何処《どこ》の雑誌社で買つて呉れると云ふ当《あて》は全く無い。其れを知らぬ程の良人《をつと》では無いが、持前《もちまへ》の負嫌《まけぎら》ひな気象と妻を労《いたは》る心とから斯う確乎《きつぱり》した事を云ふのであると美奈子は思つて居る。
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『貴方《あなた》は未《ま》だ雑誌の方の払ひも残つてますから、あの方の御《ご》心配もお有り成さるのね。』
『うむ、急に遣らなくても可《い》いさ。月賦にでもすれば。』
『会員の方が会費を寄越《よこ》して下されば、あの方は何《ど》うにか成るのですが。』
『寄越《よこ》さ無いかい。』
『雑誌が無くなつた所為《せい》でせうが、今年に成つて三月《みつき》の間に僅か十円ばかし。』
『寄越《よこ》さ無いのが当前《あたりまへ》だ。』
[#ここで字下げ終わり]
保雄は昔から、自分の様な者が詩を添削して遣るのに仮令《たとへ》五十銭にしろ謝礼として会費を学生に出さすと云ふ事を心苦しく思つて居る。其れで会費を納めぬ会員の方が多数であるけれども催促がましい事を為《し》無い。而《そう》して会費を納める人も納めぬ人も分け隔て無く其|作物《さくぶつ》を批判し添削して遣つて居る。其方が保雄の心は安らかなのである。保雄は一面詩人を以て任ずると共に一面に後進の詩人の教育者を以て任じて居る丈あつて、彼の率ゐる梅花会《ばいくわくわい》の会員から有望な青年文学者を出して居る事も少く無い。保雄には幾分でも自分の感化を受けて然《さ》う云ふ青年文学者の出るのが唯《たゞ》一|図《づ》に嬉しいので、永年《ながねん》の苦労も、分《ぶん》に過ぎた負債も、世間の自分に対する悪評も然程《さほど》苦には成ら無かつた。斯う云ふ保雄の美点は二三の先輩と妻の美奈子と五六の門下生との外に知る者が無い。門下の中にも少し目鼻が附き掛けると、利巧な連中は文界の継児《まゝこ》である保雄と交《まじは》る事が将来の進路に不利だと見て取つて其《それ》と無く遠《とほざ》かる者も少く無かつたが、保雄は却《かへ》つて其の連中の独立し得るに至つた事を喜んで別段|憤《いきどほ》る色も見せ無かつた。

    (参)

 『阿父《おとう》さん、斯う云ふ人が来ました。』
と云つて長男の勇雄《いさを》が持つて来た名刺を見ると、東京区裁判所執達吏鈴木達彌と印刷してある。保雄と美奈子とは黙つて顔を見合せた。と案内も待たずにどんどんと二階へ上つて来たのは、鼠色の褪《さ》めて皺の寄つた背広を着た執達吏と、今一人は黒の綿入《めんいり》のメルトンの二重|廻《まはし》を来た山田と云ふ高利貸であつた。
『先生、お久振《ひさしぶり》で。』
と云つて笑顔もせずに二重|廻《まはし》の儘で山田は座《すわ》つた。保雄は山田の態度が癪《しやく》に障《さは》つたので、
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『まあ其の上のを取ら無いか、其れぢや挨拶が出来無い。』
『まだ寒いですからなあ。』
[#ここで字下げ終わり]
と言ひ乍ら山田は渋々《しぶ/″\》二重|廻《まはし》を脱いだ。下にはまがひ[#「まがひ」に傍点]の大島|絣《がすり》の羽織と綿入《わたいれ》とを揃へて着て居る。美奈子は挨拶もせずに下へ下《お》りて行つた。執達吏は折革包《をりかばん》から書類と矢立《やたて》とを出した。
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『君は五年も遣つて来無かつたね。』
『はい、大分長く遠慮して居ましたが、先生は太相《たいさう》御《ご》運が直つたと聞いたから頂戴せずに居ては冥加《みやうが》が悪いと思つて。』
『僕は相変らずだ、運が直る所《どころ》か、益々惨憺たるものだ。』
『いや、然《さ》うで無いて、余程《よつぽど》貯蓄《たま》つたちふぢや有りませんか。』
『何処《どこ》にそんな評判があるのだい。』
『博覧会を当込《あてこみ》に大分土地を買収なさつたつて。』
『とんでも無い事だ。併《しか》し僕には珍らしい縁喜《えんぎ》の善《よ》い噂だ。然《さ》う云ふ身分に成れば結構だが。』
『先生は隠しても日本中で知つてまさあ。[#「。」は底本では脱落]新聞にも出てましたぜ。』
『ふふん、それは素敵だ。』
[#ここで字下げ終わり]
執達吏は書類を保雄の前に出して、
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『何《いづ》れ御《ご》示談に成りませうが、私の職務ですから成規《せいき》の通《とほり》に執行致しませう。』
『御《ご》苦労様です。差押へて呉れ給へ。何も有りや為《し》無いよ。』
[#ここで字下げ終わり]
執達吏は先《ま》づ床の間の古書類を目録に記入した。
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『古事記伝、大部なものですな。春あけぼの抄、万葉考、えいと、元享釈書。』
[#ここで字下げ終わり]
執達吏の読上げて居る書籍は此春《このはる》郷里の兄から頒《わ》けて呉れた亡父の遺物である。保雄は父の遺骸を鬼に喰はれて居る様な気が為《し》た。額、座蒲団、花瓶《はなかめ》、書棚、火鉢、机と一順二階の品《しな》を押《おさ》へ終ると、執達吏と債権者は下へ降りた。保雄も尾《つ》いて降りたが、美奈子は末の娘の児《こ》を抱いて火鉢の前に目を泣き脹《はら》して座つて居た。[#「。」は底本では脱落]
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『己《おれ》が銭を蓄《た》めて土地を買占めたと云ふ事が新聞に出た相だが、お前は読ま無かつたか。』
『読売の「はなしのたね」に出て居ましたよ。』
『然《さ》うか。其れで此の人達が来られたんだがね。』
[#ここで字下げ終わり]
保雄は相変らず自分に対する新聞雑誌記者の無責任な悪戯《いたづら》は己《や》まないのだなと思つた。茶の間の前桐の箪笥の前に立つた山田は、
『立派な箪笥だ。』
と云つた。最初美奈子が里から持つて来た幾棹かの箪笥を、八年前に競売せられてから去年の春迄一本の箪笥も無かつたのであるが、美奈子の妹が不自由だらうと云ふので、箪笥の代《しろ》にせよと五十円の金子《かね》を送つて呉れた。最初の金子《かね》は雑誌の費用に遣《つか》つて仕舞《しま》つたので、其れと感|附《づ》いた妹は又一年程の後《のち》に二度目の五十円を送つて呉れたが、美奈子は其の金子《かね》をも大部分|生活《くらし》の方に遣い込んで妹が上京して来た時余り体裁《きまり》が悪いので、言訳《いひわけ》計《ばか》りに古道具屋を探して廉物《やすもの》を買つて来たのが此の箪笥であつた。執達吏は抽出《ひきだし》に手を掛けたが明《あ》か無いので、
『鍵がありますか。』
と保雄を顧みた。
『ここに。』
と言つて美奈子は帯の間から鍵を出して良人《をつと》に手渡した。其れが如何にも苦しく怨《うら》めし相な目附であつた。

    (四)

箪笥の上の抽出《ひきだし》からは保雄の褻《け》にも晴《はれ》にも一着しか無い脊広が引出された。去年の暮、保雄が郷里の講習会に聘《へい》せられて行つた時、十二年|振《ぶり》に初めて新調したものだ。其の洋服代も美奈子が某《ばう》新聞社へ売つた小説の稿料の中から支払つたので妻が夜《よ》の目も眠らずに働いた労力の報酬の片端である。又一枚しか無い保雄の大島の羽織が抓《つま》み出された。是《これ》は亡くなつた美奈子の父の遺品《かたみ》だ。保雄も美奈子も八九年間に一枚の着物すら新調した事は無いのである。保雄が執達吏の目録を覗《のぞ》いて見ると、
[#ここから2字下げ、折り返して3字下げ]
一、大島紬羽織一点見積代金参円
一、霜降セル地脊広一着見積代金二円
[#ここで字下げ終わり]
と書かれた。縁《えん》の方へ廻つて八歳《やつつ》に成る兄と六歳《むつつ》に成る弟とが障子の破れから覗《のぞ》いて居る。
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『兄《にい》さん、今度は僕と兄《にい》さんの抽出《ひきだし》ですよ。』
[#ここで字下げ終わり]
『新聞社から差押に来たんだ。』
兄の勇雄《いさを》は父と母の話を聞き噛《かぢ》つて此んな事を言つて居る。悪い所をば小供等に見せる事だと両親《ふたおや》は心の内で思つたが、差押に慣れた幼い二人は存外平気である。[#「。」は底本では脱落]
『兄《にい》さん、まだ箪笥へ紙を張らないのね。』
『あとで張るんだらう。』
『二人とも門口《かどぐち》で遊べ。』
と保雄は怒鳴《どな》つた。二番目の抽出《ひきだし》からは二人の男の子の着類《きるゐ》が出て来た。皆洗ひ晒しの木綿物の単衣《ひとへ》計《ばか》りであつた。三番目の抽出《ひきだし》から出たのは二人の女《をなご》の子の物|計《ばか》りで、色の褪《さ》めたメリンスの単衣《ひとへ》が五六枚、外へ此《こゝ》の双生児《ふたご》の娘が生れた時、美奈子が某《なにがし》書店に頼んでお伽噺を書かせて貰つて其の稿料で拵《こしら》へた、緋の羽二重に花菱の定紋《ぢやうもん》を抜いた一対の産衣《うぶぎ》が萎《な》へばんでは居《を》るが目立つて艶《なまめ》かしい。最後の抽出《ひきだし》には来月生れると云ふ小児《こども》の紅木綿の着物や襁褓《むつき》が幾枚か出て来た。次の間から眺めて居た美奈子は堪《こら》へ兼ねてわつ[#「わつ」に傍点]と泣き伏した。何も知らぬ腹の中の児《こ》迄が世に出ぬ先から既に着るべき物を剥《は》がれて行《ゆ》くのが母親の心に何《ど》れ丈悲しい事であらう。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
『おい、然《そ》う感動するな。平気で居《を》れ。身体《からだ》に障《さは》るから。』
[#ここで字下げ終わり]
執達吏は其の産衣《うぶぎ》をも襁褓《むつき》をも目録に記入した。何物をも見|逃《のが》さじとする債権者の山田は押入《おしいれ》の襖子《からかみ》を開けたが、其処《そこ》からは夜具《やぐ》の外に大きな手文庫が一つ出て来た。文庫の中には保雄と美奈子の十年前の恋の手紙が充満《いつぱい》収めてある。保雄は焚《や》いて仕舞はうと言つた事もあつたが、美奈子は良人《をつと》と自分との若い血汐も魂《たましひ》も元気も皆|之《これ》に籠《こも》つてあると思つて、如何に二人が貧苦に痩せ衰へても、又如何に二人が襤褸《ぼろ》を下《さ》げて生活《くら》しても、此の文庫の中を開けさへすれば永劫変らぬ二人の若々しい本体は何時《いつ》でも見られるものだと極《き》めて、良人《をつと》にも手を触れさせぬ程大切にして居るのである。
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
『それはお銭《あし》に成るものぢや有りませんよ。』
[#ここで字下げ終わり]
美奈子は凛《りん》とした甲走《かんばし》つた声で云つた。執達吏と山田とは文庫を一寸《ちよつと》開けて見て
『書類ですな。』
と言つて蓋をした。保雄は偶《ふ》とキイツの遺《のこ》した艶書が競売に附せられた事を思《おもひ》出して、自分達の艶書は未《ま》だ銭《ぜに》に成るには早いと独り苦笑した。
門前には誰か来客があるらしい。
『お父《とう》様は。』
と訊《き》くと、兄の勇雄が、
『お在宅《うち》ですよ。』
『お客様ですか。』
[#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]
『新聞社から役人が来て差押をして居るの。』
『僕達の着物も、母《かあ》さんのも、阿父《おとう》さんの物も。』
[#ここで字下げ終わり]
と弟の満雄《みつを》が言ひ足して居る。保雄は出掛けて行つて二人の小供を叱る勇気も無かつた。[#地から1字上げ](完)



底本:「読売新聞」読売新聞東京本社
   1909(明治42)年3月14日〜17日連載
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の旧字を新字にをあらためました。
※底本の総ルビを、パラルビにあらためました。
入力:武田秀男
校正:門田裕志
2003年1月23日作成
青空文庫作成ファイル:
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