青空文庫アーカイブ

私の生ひ立ち
與謝野晶子

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)黒繻子《くろじゆす》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)満|三歳《みつつ》になつて

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)いろ/\なことを
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私の生ひ立ち 一

 学校へ行く私が、黒繻子《くろじゆす》の襟《えり》の懸つた、茶色地に白の筋違《すぢか》ひ雨《あめ》と紅《べに》の蔦の模様のある絹縮《きぬちゞみ》の袢纏《はんてん》を着初めましたのは、八歳《やつつ》位のことのやうに思つて居ます。私はどんなにこの袢纏が嫌ひでしたらう。芝居で与一平《よいちべい》などと云ふお爺《ぢい》さん役の着て居ますあの茶色と一所《いつしよ》の茶なんですものね。それは私の姉《ねえ》さんの袢纏だつたのを私が貰つたのだつたらうと思ひます。十一違ひと九つ違ひの姉《ねえ》さんの何方《どちら》かが着て居ましたのは恐らく私の生れない時分だつたらうと思ひます。大阪へ出て古着を安く買つて来るのがお祖母《ばあ》さんの自慢だつたやうですから、それも新しい切地《きれぢ》で私の家《うち》へ買はれて来た物でないと認めるのが当然だと思ひます。で袢纏の絹縮は其《その》頃から二十年位前に織られて染められて呉服屋の店へ出されたものであらうと今から思へば思はれます。私はこの袢纏を二冬程《ふたふゆほど》着て居たやうに思ひます。私はこの時分程同級生にいぢめられたことはありません。私が鳳《ほう》と云ふ姓なものですから、
「鳳さんほほづき。」
「鳳さんほうらく。」
 私をめぐつて起る声はこの嘲罵より外《ほか》にありませんでした。
「鳳さんほほづき、ほう十郎、ほらほつたがほうほ。」
 塀の上や木の枝の上から私に浴びせかけて、かう云ふのは男の同級生でした。私が学校の黒い大門を入りますと、もう半町程向うにある石段の辺《あた》りではほほづき、ほうらくの姦《かしま》しい叫びが起るのでしたから、私がこの悲い目に逢ふのも、一つは茶色のかうした目立つた厭な色の袢纏を着て居るからであると、朝毎《あさごと》に思はないでは居られませんでした。私は手織縞《ておりじま》の袢纏を着た友達を羨んで居ました。けれど私は絹縮の袢纏がぼろぼろに破れてしまひますまで、そんな話は母にしませんでした。私の母は店の商売の方に気を配らなければならないことが余りにあつて十分と沈着《おちつ》いて私達と向ひ合つて居るやうなことはありませんでした。また私とは違つて継母《まゝはゝ》に育てられて居る私の姉達が、いろ/\なことを一人々々が心一つに忍んだ淋しい日送りをして居るのを見て居《を》りますから、私も苦しいことを辛抱し通すのが人間の役目であると云ふやうに思つて居たらしいのです。私に始終意地悪ばかりをした水谷《みづたに》と云ふ男の子の顔は今でも思ひ出す時があつて気持ちが悪くなります。朝早くその子が登校して居ない間に私が行つて、教場の薄暗い隅の方などに隠れて居れば比較的無事なのですが、私の家《うち》は朝の忙しい商売で、学校へ子供達を出すのも大方は時間かつ/\なのでしたから、どうしても私は水谷のひどい罵《のゝし》りを受けた後《あと》でなければ先生のお顔を見られませんでした。水谷は頭に腫物《おでき》の跡が充満《いつぱい》ある、何時《いつ》も口から涎《よだれ》の伝はつて居る厭な厭な子でした。そして水谷は子供のくせに千筋縞《せんすぢしま》の双子織《ふたこおり》の着物を着て居ました。帯は黒い毛繻子《けじゆす》のくけ帯を貝《かひ》の口《くち》に結んで居ました。紺木綿《こんもめん》の前掛をして居ました。

 これも二年生位の時、先生は修身《しうしん》の話をしておいでになりましたが、
「あなた方、此処《ここ》に三羽のひよこがあるとしまして、二羽のひよこは今人から餌《ゑ》を貰つて食べて居ます。一羽のひよこはそれを見てます。さうするとその一羽のひよこはどんなことを思つて居ると思ひますか。解《わか》つている人は手をお挙げなさい。」
とお云ひになりました。手を挙げたのは僅に三人でした。私はもとよりその中ではありません。一番の子と二番の子と三番の浅野《あさの》はんがそれです。
「浅野はん。」
と先生は指名をなさいました。私はこのむづかしい問題を説き得たと云ふ浅野はんをえらい人であると思つて、後《うしろ》に居るその人の顔を振返つて眺めました。
「私も欲しいと思ひます。」
 浅野はんはかう云つただけです。先生は可否をお云ひにならずに、外《ほか》の二人を立たせて答をお聞きになりました。
「私も欲しいと思ひます。」
 皆この言葉を繰り返しただけです。私はつまらないことを考へる人達だと三人を思ひました。一羽のひよこが何を思つて居たかは、人間の子供の私達にさう容易《たやす》く解る筈《はず》はないが、何と云つてもそんな簡単なものでないと思つたのです。
「さうです。それに違ひありません。」
と先生はお云ひになりました。私はそれにも関らず一羽のひよこの真実《ほんたう》の心持が解りたいとばかり幾年か思ひ続けました。浅野はんの名はそのために今も頭に残つて居るのです。

 私は満|三歳《みつつ》になつて直《す》ぐ学校へ遣《や》られました。ですから遊びの方に心を引かれることが多くて、字を習ふ方のことを情けなく思つて居ました。私と同年《おないどし》の竹中《たけなか》はんが私の家《うち》へ遊びに来る約束をしてくれました。その日になりますと私は嬉しさに学校へ行く気になれませんでした。母がどんなに勧めても、私に附いて居る小い女中が促しても、私は今日は家《うち》で竹中はんと遊ぶのだとばかり云つて、学校へ出ようとはしませんでした。あなたがどんなに遊ばうと思つても、竹中はんは学校へおいでになるから、午後《ひるから》でなければ遊ばれませんよ、と女中が云ひましても、私はじつとして待つて居れば、楽しい時間の来ることが早いと云ふやうに信じて居るものですから、我儘《わがまゝ》を云ひ張つて、お盆にお菓子を充満《いつばい》載せたのを持つて来させて、隠居所の二階の八畳に女中と二人で座つて居ました。そして時々|欄干《てすり》の所へ行つて下の街を眺めました。それは竹中はんの影が見えないかと思ふからでした。そのうちに私はだん/\淋しい、心持になつて来ました。悔恨の悲みはもう私の胸にいつばいに広がつて居ました。竹中はんがおいでになつてから開けますと女中は云つて、庭向の方の雨戸はまだ閉めたまゝなのです。暗い縁側の方を向いて、こんな我儘をした私はもう本宅《おもや》へ行つて母にも姉にも逢はれないと云ふやうなことばかりを思ひました。そして昨日《きのふ》の約束は、双方の女中同志がしてくれたものの、竹中はんは真実《ほんたう》に来てくれるのだらうかと云ふ不安も感じないでは居られませんでした。欄干《てすり》の所へ倚《よ》つて見ますと、本宅《おもや》の煙突は午《ひる》近くなつてます/\濃い煙を吐くやうになり、窓の隙間から男女《なんによ》の雇人《やとひにん》の烈しく働いて居る姿の見えるにつけて、私は我儘者、不勉強者であると云ふことばかりが思われるのでした。色の白い細面《ほそおもて》の美くしい竹中はんが、女中と並んで十一時半頃に東の方から歩いて来るのを見ました時、私の胸にはどんなに高い動悸が打つたでせう。私の居る二階の下まで来ました時、竹中はんは上を一寸《ちよつと》見上げたまゝで、ずつと通つて行つてしまひました。失望して居る私に女中は午後《ひるから》を待てとも云ひませんでした。私も黙つて居ました。竹中はんは決して遊びに来てくれはしないとその刹那に感じました通り、その人とそれきり遊んだ覚えはありません。私はそれから満|五歳《いつつ》までは、学校通ひを止《や》めさせようと云はれて家《うち》に置かれて居ました。


私の生ひ立ち 二 狸の安兵衛/お歌ちやん

狸の安兵衛

 私の小い頃に始終家に出入りして居た車夫は、友吉《ともきち》と安兵衛《やすべゑ》の二人でした。安兵衛は狸の安兵衛と云はれて居ました。私はその人を真実《ほんたう》の狸とも思つて居ませんでしたが、人間とは少し違ふもののやうに思つて居ました。安兵衛は肱《ひぢ》に桃色をした花の刺青《いれずみ》がしてありました。友吉は顔に黒子《ほくろ》が幾つもある男でした。私の家《うち》ではどう云ふ理由《わけ》でか友吉の方を重んじて居ました。父と母が外出する時には、必ず父は友吉の方の車に乗りました。母が女中を供にして行く時には、女中が安兵衛の車に乗せられました。この二人の男は、ある時相談をして車夫を廃《や》めて新しい事業を起すことにしました。私は父母の前で、その計画に就《つ》いて度々友吉の語つて居るのを聞きました。今から思つて見ますと、そんなことは大阪あたりで誰かの既にもうして居たことで、友吉等はその模倣者であつたのでせう。それは青や赤で塗つた箱馬車に子供を乗せて、一つの町を一廻《ひとまは》りして、降ろす時に豆と紙旗を与へるのでした。馬は真実《ほんたう》のでなく、紙ばかりでやはり赤や青で塗られたものでした。もとより自動車ではありませんから、誰かが押して歩いたものと思はれます。友吉と安兵衛は、揃ひの赤い洋服を着て居ました。友吉は御者台《ぎよしやだい》に居て喇叭《らつぱ》を吹いて居ました。安《やす》は後《うしろ》の板の上に立つて居ました。乗車賃は一銭位でしたらう。豆は三角の紙袋に入つて居ました。私は営業者の好意で、初めてから三日目位に、無賃でその馬車に乗せられました。ですから町々の辻を幾つ乗り越しても、乗車賃のかさむ心配はいらないのでした。私は入口の隅に腰を掛けて居ました。安兵衛の顔の近く見える方が心丈夫だつたのです。私の親しい同《おなじ》町内の子供達が、皆旗を貰つて馬車からばら/\と帰つて行き、薄見知《うすみし》りの顔の交つた隣町の子供等にも別れ、終《しま》ひには誰一人|馴染《なじみ》のない子供等の中に、私だけが交つて行くことになつたのです。窓から外を眺めますと、人通りの少くて町幅の広い寺町《てらまち》に来て居ました。友吉はぱつぱつぱつ、ぱぱつ、ぱぱつと喇叭を吹きました。どんなにその音が私に悲しかつたでせう。車が停《とま》つた時に、安兵衛は私の淋しい顔を見て、
「嬢やん、豆あげまひよか。」
と云ひました。
「ちつとも欲しいことない。帰りたいのや。」
 涙がほろほろと零《こぼ》れました。
「いきまへんな。一番終ひに送つたげまつせ。」
 私は仕方なしに点頭《うなづ》いて居たのでせう。私の家《うち》のある方を背にして、車は南へ南へと行きました。私はそれきりその馬車に乗つた覚えはありません。何でも大人達の話で聞くと、友吉と安兵衛の仕事は一月《ひとつき》も続かなかつたのださうでした。損を余程沢山したとかも聞きました。二人はまた同時に車夫に帰つて、私の家《うち》の父や番頭の大阪行を引いて来た後《あと》を、銀場《ぎんば》の板《いた》の間《ま》で向ひ合つて食事などをして居ました。この二人が運んで行くのに余る大阪行の人数である時には、がた馬車がよく雇はれて来ました。私はその時分満|四歳《よつつ》位だつたと思ひます。私と弟とが母と姉の中に腰を掛けた馬車の中の向側には、妹を抱いた乳母《うば》や女中が居ました。親類の小母《をば》さんなども居ました。私の家の大阪行には、必ず決つた様式がありました。春であるなら遅い早いにかゝはらず、牡丹《ぼたん》で名高い吉助園《きちたすゑん》と云ふ植木屋へ最初に行くのです。それから上本町《うへほんまち》の博物場へ廻るのです。中《なか》の島公園《しまこうゑん》へも行くのです。そして浪華橋《なにはばし》の下の生洲《いけす》の網彦《あみひこ》と云ふ川魚料理の船で、御飯を食べて帰るのでした。こと、こと、ことと浪華橋の下駄の音がする時に、私等は船の障子を開けて、淀川《よどがは》の水をちやぶちやぶと手で弄《もてあそ》ぶのが、どんなに楽いことでしたらう、その頃の私等に。

お歌ちやん

 お照《てる》さんは向ひの仏師屋《ぶつしや》の子で、私より二つの歳上《としうへ》でしたが、背丈は私の方が高いのでした。お春《はる》さんはその人の姉《ねえ》さんでした。隣の藍玉屋《あゐだまや》には、より江《え》さんと云ふ子がありました。それは私に同年《おないどし》でした。その姉《ねえ》さんが茂江《しげえ》さんで、そのもう一つ上が幾江《いくえ》さんでした。斜向《すぢむか》ひの角の泉勇《いづゆう》と云ふ仕立屋の子は、お歌《うた》ちやんと、名を云ひました。お歌ちやんは優しくて女のやうな気のする兄《にい》さんと、菊石《あばた》の顔にある嫂《あによめ》に育てられて居るのでした。両親はもうありませんでした。私が学校へ行き初めた頃、力にしたのはこのお歌ちやんでした。小い姉がお歌ちやんによく頼んで置いたと云つてくれませんでしたら、七歳《なゝつ》になつて再入学をしました私は、また学校を恐がつたかも知れません。お歌ちやんは三歳《みつつ》位は私より大きい子供でした。前髪と後毛を円《まる》く残したあとを青々と剃つた頭をして居ました。私は毎朝お歌ちやんを誘ひに寄りました。
「お歌ちやん、おていらへ。」
 かう呼ぶのです。寺子屋へ行く子供等の習慣《ならはし》が、まだ私の小い頃にまで残つて居たのです。私はお歌ちやんの家《うち》へもよく遊びに行きました。苔で青くなつた石の手水鉢《てうづばち》に家形《やかた》の置いてあるのがある庭も、奥の室《ま》も、静かな静かなものでしたが、店の方には若いお針子《はりこ》が大勢来て居ましたから、絶えず笑ひ声がするのでした。恥しがりの私も、遠慮がちなお歌ちやんも、その仕事場へは一度も行つたことがありませんでした。私の小い姉も、其処《そこ》へ稽古に来て居ました。仏師屋のお春さんや藍玉屋の茂江さんは、よくお歌ちやんをいぢめました。私はある時どうしたのかいぢめる連中に交つて居ました。私の家《うち》の軒下にお春さんが参謀長のやうに立つて居て、泉勇のお歌ちやんの居る窓の下へ、いろいろとお歌ちやんの悪口を云つて遣《や》らせるのです。私は通りを横ぎつて向ふへ走つて行き、歌のやうなことを云ふのが唯《たゞ》面白かつたのです。このことが姉から母に聞えまして、母は私をひどく叱りました。
「お歌ちやんのやうないい子に、意地わるをするやうな子は、子やない。」
とも云はれました。私が悪いことと知りながらした罪に就《つ》いて、また可《か》なり大きい後悔をしないでは居られませんでした。お歌ちやんに詫《あやま》りますと、
「そんなこと云ひなはらんでもええ。」
と云つて私の肩を撫でてくれました。ある日姉が、
「お歌ちやんが死にやはつた。」
と私に話しました。悲しく思つたに違ひありませんが、その時の心持などはよく覚えません。お歌ちやんは、十歳《とを》だつたと云ふことです。
「薄倖《ふしあはせ》なお歌ちやん。」
「賢い子やつた。」
 誰も皆かう云つてました。お歌ちやんが居なくなつてから、私はどうしてもお照さんや茂江さんの仲間へ入つて遊んで貰はなければなりませんでした。その中で意地悪でない人は、私と同年《おないどし》のより江さんだけでした。


私の生ひ立ち 三 お師匠さん/屏風と障子/西瓜燈籠

お師匠さん

 藤間《ふぢま》のお師匠さんは私の家の貸家《かしや》に居ました。その隣には私の母の両親が隠居をして居ました。私はそれから間もなく死別れたその母方の祖父の顔は、唯《たゞ》白髪《しらが》を長くして後撫《うしろな》でにした頭つきと、中風《ちゆうぶ》になつて居たために何時《いつ》も杖を突いて居たその腰つき位が記憶にあるだけですが、お師匠さんの顔ははつきりと覚えて居ます。大きい目や、油ぎつたやうな色をした広い額や、薄い髪の生際《はえぎは》やは、今も電車の中などで類似の顔に逢ふと思ひ出されるのです。私はお師匠さんに何年程|踊《をどり》を習つて居たのでせう、それとも幾月と云ふ程だつたのでせうか。舞扇《まひあふぎ》を使ひ壊して新しく買ふことはかなり幾度もありました。私の大きくなつてからはありませんでしたが、その頃舞扇を売つて居た家の店のことなども私はよく覚えて居ます。新しくて美しい飾りのしてある店でした。私が扇屋へ行く使《つかひ》の丁稚《でつち》に随《つ》いて行つた時、丁稚の渡す買物帳を其処《そこ》の手代《てだい》が後《うしろ》の帳場へ投げました。そしてかちかちと音をさせて扇箱から出した五六本の扇が私の丁稚に渡されました。私はその扇が母の前へ持つて来られて、開いて見せて貰ふのがどんなに楽みだつたか知れません。私は稽古|朋輩《ほうばい》の持つて居るやうな塗骨《ぬりぼね》の扇が欲しいと心に願つて居たのでした。私はさうして塗骨の銀の扇の持主になりました。絵は桜の花で、四分通りの地が薄紅《うすべに》につぶされて居ました。母は舞扇が買はれる度に、扇の上に切地《きれぢ》で縁を附けるのが好きでした。好きと云ふよりもせねばならないこととして母はさうしたのです。扇が畳目《たゝみめ》から早く切れて破扇《やれあふぎ》になるのを惜んだのです。けれどその体裁は極めてよくないものでした。扇を襟《えり》の間にさした時、私の扇は他人の三倍もかさがありました。銀地の扇に母の附けた縁は紫のめりんすでした。私が生地骨《きぢぼね》で赤地の扇に金銀の箔の絵を置いたのを持つて居たこともありました。絵は御簾《みす》にそれも桜で、裏に蝶が二つ白抜きで附いて居ました。それには桃色の縁がとられてました。桔梗《ききやう》の花の扇は大阪の誰かから貰つた物でした。
「かうして縁を取りやはるとよう持つんだつせ、この嬢やんのお母《かあ》はんの新案だつせ。」
 お師匠さんは私の扇を弟子入に来る子の母親などに開いて見せたりしました。私はそれを恥しく思ひました。
 師匠の家のさらへ講に私が踊ることになつたのは「流しの枝」と云ふ曲でした。私は黒地の友染《いうぜん》の着物を着て出ました。模様の中に赤い巴《ともゑ》のあつたことを覚えて居ます。丁度《ちやうど》その日に私の家ではお祖母《ばあ》さんが報恩講《ほうおんかう》と云ふ仏事を催して多勢の客を招いて居ました。私はそれを余所《よそ》にして踊の場へ行くのが厭《いや》だつたのでした。私は楽屋でお膳のないのを悲みながら、煮魚のむしつたので夕飯を食べさせられました。この時も大勢の弟子の中でお師匠さんは私を一番大事にしてくれました。踊の済んだ時に、もうこれでいゝと思つた心持と、地方《ぢかた》の座を背にして、扇を膝に当てながら歌の起るのを待つて居た記憶はありますが、その間の気分などは皆忘れてしまひました。
 お師匠さんはお酒が好きでしたが、そんなことが病の原因《もと》になつて、死んでしまはれたのではないでせうか。

屏風と障子

 西洋好《せいやうずき》の私の父は西洋から来た石版画《せきばんゑ》で屏風が作らせてありました。私はその絵の中で一番端にはられた、青い服に赤いネクタイをした子供の泣いて居る絵がどんなに嫌ひだつたか知れません。これは阿呆《あはう》な子で、学校へ行くのが厭だと云つて居るのですと老婢《らうひ》はよく私に教へました。さう云はれます度に私は身慄《みぶる》ひがしました。またその横に、母親に招かれて笑ひながら走り寄つて来る子供の絵もありました。私はそれを家中で大騒ぎをされて可愛がられて居る弟のやうな子だと思つて居ました。口の傍《そば》に厭な線を充満《いつぱい》寄せて泣いて居る子の方は、人から見て自分になぞらへられるのではあるまいかと思ふやうなひがみを私は意識せずに持つて居たかも知れません。和蘭陀《オランダ》の風車《かざぐるま》小屋の沢山並んだ野を描いた褐色の勝つた風景画は誰が悪戯《いたづら》をしたのか下の四分通りが引きちぎられてました。私の父はまた色硝子《いろがらす》をいろいろ交ぜた障子を造つて縁《えん》へはめました。廊下にもはめました。欄間《らんま》もそれにしました。一家の者が開閉《あけたて》の重い不便さを訴へるので、父は仕方なしにそれを浜の道具蔵へしまはせてしまひました。けれど欄間だけは長く其儘《そのまゝ》でした。私は欧州へ見物に行きました時、古い大寺のかずかずを巡つたのでしたが、その色硝子で飾られた窓の明りを仰ぎます度に、私は父のことや幼い日のことが思はれるのでした。

西瓜燈籠

 これはもう大分《だいぶ》大きくなつてからのことです。藤間のお師匠さんの所へ通つて居た頃から云へば、五年も後《のち》の十歳《とを》か十一の時の夏の日に、父が突然私のために西瓜燈籠《すいくわどうろう》を拵《こしら》へてやらうと云ひ出しました。どんなに嬉しかつたか知れません。老婢は早速八百屋へ走つて行つて、ころあひの小い西瓜を選《え》つて買つて来ました。父は私にどんな模様がいゝかと尋ねましたが、私は何でもいゝと云つて居ました。出来上りましたのは一面に匍《は》つた朝顔の花の青白く光つて透き通る美しさの限りもなく思はれる燈籠でした。その晩軒に吊して置きますと通る人で振返つて賞めて行かないものはない程でした。父は翌日また弟に馬の絵を彫つた燈籠を作つてやりました。その夜の涼台《すゞみだい》の上には朝顔のとそれが並んで吊されました。三|疋《びき》の馬が勢よく飛び上つて居る図がらの好《い》いのを、また街を通る人々が賞めて行きました。私は少し自分のがけなされたやうな悲みを感じました。三日目に父は妹のために楓の葉と短冊を彫つた燈籠を作りました。それは朝顔などの線の細い模様とちがつて、くつきりと浮き出したやうな鮮明《あざやか》さは何にも比べやうもない美しいものでした。三つの燈籠はまたその夜涼台の上に吊されました。老婢が気を附けて、萎《しな》びぬやうにと井戸端の水桶の中に、私の燈籠は前夜もその前夜も入れられてあつたのですが、それにも関らず青白かつた彫跡《ほりあと》は錆色《さびいろ》を帯び、青い地は黒い色になつて居るのです。形も小くなり丸かつたものが細長いものに変つて居るのです。私は生れて初めて老《おい》と云ふことと死と云ふことをその夜の涼台で考へました。早く生れたものは早く老い、早く死ぬとそれ程のことですがどんなに悲しく遣瀬《やるせ》ないことに思はれたでせう。私はそれを足つぎをして下《おろ》さうとはせずにそのまゝ眺めて居ました。
 次の年には父は誰のとも決めずに流《ながれ》を鮎の上る燈籠を西瓜で彫つてくれました。私はその時にはもう生命《いのち》の悲みなどは忘れて、早く自分も何かの絵を西瓜に彫つて、燈籠を作るやうになりたいとばかり思つてました。


私の生ひ立ち 四 夏祭

夏祭

 お正月の済んでしまつた頃から、私等はもうお祓《はらひ》が幾月と幾日《いくか》すれば来ると云ふことを、数へるのを忘れませんでした。お祓の帯、お祓の着物と云ふことは、呉服屋が来て一家の人々の前に着物を拡《ひろ》げます度に、私等|姉妹《きやうだい》に由《よ》つてさゝやかれました。大祓祭《おほはらひまつり》は摂津《せつつ》の住吉《すみよし》神社の神事の一つであることは、云ふまでもありませんが、その神輿《みこし》の渡御《とぎよ》が堺《さかひ》のお旅所《たびしよ》へある八月一日の前日の、七月三十一日には、和泉《いづみ》の鳳村《おほとりむら》にある大鳥《おほとり》神社の神輿の渡御が、やはり堺のお旅所へありますから、誰もお祓と云ふことを、この二日にかけて云ふのです。住吉さんのお渡り、大鳥さんのお渡りと一日一日を分けては、かう云ふのです。それで七月三十日から、もうお祓の宵宮祭《よみやまつり》になるわけなのです。大阪であつても、私の郷里であつても、彼方《あちら》の地方の人は、万人共通に何事かの場合に着る着物の質の標準と云ふものが決まつて居ます。それで宵宮の日には、大抵の人は其《その》年新調した浴衣《ゆかた》の中の、最も善いものを着るのです。唯《たゞ》一枚よりその夏は拵《こしら》へなかつたものは、大人でも子供でも、その日まで着ずにしまつて置くのです。
 浴衣を着て涼台《すゞみだい》へ出ますと、もう祭提灯《まつりちやうちん》で街々が明くなつて居ます。私の町内の提灯は、皆|冑《かぶと》の絵がかいてあるのでした。隣町は大と云ふ字、そのまた隣町は鳥居《とりゐ》と玉垣《たまがき》の絵だつたと覚えて居ます。私は正月の来る前の大三十日《おほみそか》の日よりも、この宵宮の晩の方が、どれ程嬉しかつたか知れません。紀州の和歌山から、国境の峠を越して来る祭客の中に交つて来る少女《をとめ》達、大阪から来る親類の少女《をとめ》達、其等《それら》は何《いづ》れも平常《ふだん》に逢ふことが稀で、大方は一年振で祭に出逢ふ人達なのですから、その一|行《かう》一|行《かう》が、明日から明後日《あさつて》へかけて、続続家へ着くことを想像するだけでも嬉しいのでした。何事に就《つ》きましても、正月からもう指折《ゆびをり》数へて毎日引き寄せたく思つた日が、いよいよ目の前に現はれて来るのですもの、来たらじつと捉《とら》へて放つまいと云ふやうに気が上《あが》るのです。大人達も皆嬉し相《さう》で、その夜は例よりも、長く長く涼台が門《かど》に出されてあります。一度|蚊帳《かや》の中へ入つても、祭の当日の話が大人達の中に余りはづみ上ると、また帯をして外へ飛び出したくなつたり私はしました。そしていよ/\大鳥さんの日になります。私の家のやうな商買をして居ない人の所では、朝からもうお祭のことばかりをして居ていゝのですが、私の家などは、さうは行かないのです。得意先の注文の殊に多いのがさうした日の常ですから、午前中は私も店の手伝ひに、勇気を出して働かねばなりませんでした。丁稚《でつち》に交つて水餅《みづもち》を笹の葉へ包んだりすることも、手早にせねばなりませんでした。けれどもその騒ぎは、何時《いつ》の間にか土蔵《くら》から屏風や、燭台や、煙草盆や、碁盤やを運び出す忙しさに変つて居るのが例でした。幕が門《かど》に張られ、黒と白の石畳みになつた上敷《うはしき》が店に敷かれ、その上へ毛氈《もうせん》が更に敷かれ、屏風が立てられますと、私等は麻のじんべゑ姿がきまり悪くなりまして、半巾《はんはゞ》の袖を胸で合せて、早く湯の湧くやうにして欲しいと女中に頼みました。そのうち空の雷鳴が遠くから次第に近い所へ寄つて来るやうに響いて、地車《だんじり》の音がして来ます。大海浜《だいかいはま》、宿院浜《しゆくゐんはま》、熊野浜《くまのはま》などと組々の名の書いた団扇《うちは》を持つて、後鉢巻《うしろはちまき》をした地車《だんじり》曳きの子供等が、幾十人となく裸足《はだし》で道を通ります。風呂に入りますと、浴槽《ゆぶね》の湯が温泉でも下に湧き出して居るやうに、地車《だんじり》の響で波立ちます。大鳥さんの日の着物は、大抵紺地か黒地の透綾上布《すきやじやうふ》です。襦袢《じゆばん》の袖は桃色の練絹《ねりぎぬ》です。姉は水色、母は白です。男作《をとこづく》りと云つて小い時から、赤気の少い姿をさせられて居る私等のやうな子のさせられる帯は、浅黄繻子《あさぎじゆす》と大抵決まつて居ました。襦袢の襟《えり》もそれです。頭はおたばこぼんですから、簪《かんざし》の挿しやうもありません。そして私等はその年方々の取引先から贈られました団扇の中で一番気に入つたのをしまつて置いたそれを持つて、新しい下駄を穿《は》いて門《かど》へ出ます。何方《どちら》を向いても桟敷欄干《さじきてすり》に緋毛氈の掛けられた大通りは、昨日《きのふ》と同じ道であるとも思はれないのでした。友も連立つてまた其処《そこ》此処《ここ》の友の家を訪ねる私等の得意さは、天へも上《のぼ》つた程なのです。正月から待ちに待つた日が来たのだからと、心の中では云ふものがありました。私等は時々家を覗きに来ます。それは余所《よそ》からのお客が、もう幾人殖えたかと見るのが楽みなのです。四五時頃には、もう大鳥さんの太鼓の音が、どん、どおん、と南の方に聞え出します。祭列は四町程で尽きます。続いて神輿も通ります。全堺の町が湧き立つやうな騒ぎになるのは、この時から後《のち》なのです。いよいよ大鳥さんの渡御が済んで、人々は真実《ほんたう》のお祓の宵宮の心もちにこの時からなるからです。誰も眠る者などはないと云ふのはこの晩のことでした。家の中には幾十となく燭台が点《とも》されますが、外を通る人々の手に手にした灯《ひ》の明りの方が、更に幾倍した明さを見せて居ました。魚の夜市が初まると云ふので、誰も皆浜辺の方を向いて歩いて行くのです。私の家《うち》のお客様は、皆その夜市を見に行きます。私等は翌朝の住吉|詣《まう》での用意をさせられます。汽車があつても祭の各町を眺めて通るのが面白いために、住吉までを車で行くのが多いのでした。夜明の社《やしろ》の御灯《みあかし》の美くしさ、ほのぼのと晴れる朝霧の中の、神輿倉の七八つも並んだ神輿の金のきらきらと光つて居るのを見る快さは、忘れられないものです。蓮池の蓮を見たり、鯉に餌《ゑ》を遣《や》つたりしますことも、何時《いつ》も程落ついては出来ません。気が急いで大和川《やまとがは》を渡る時も、川上の景色、川口の水の色を眺めたりすることも出来ません。朝御飯を食べますともう住吉踊が来ます。
   すみようしさんまいの
と拍子ごとに云ふ踊で、姿は白衣《びやくえ》に腰衣《こしごろも》を穿いた所化《しよけ》を装つて居るのです。踊手は三人程で、音頭とりが長い傘をさして真中に立ち、その傘の柄を木で叩くのが拍子なのです。私等はこの時には大鳥さんの宵宮の晩に着た浴衣を着て居ます。昼間浴衣を着て人の怪まないのは夏中でこの日だけ位なものです。この日も晴着に着替へますのは、やはり二三時頃のことです。縮緬《ちりめん》が多く着られます。薄色の透綾も着られます。錦《にしき》の帯、繻珍《しゆちん》の帯が多くしめられます。緋縮緬や水色縮緬のしごきがその帯の上から多く結ばれます。けれども私等のやうな男作りの子は割合軽々とした姿で居ます。扇を今日は皆持ちます。子供心にあらゆる諸国の人が集つたかと思はれた程この日には遠い田舎《ゐなか》からも見物に出て来る人で道が埋つてしまひます。私等はもう昨日のやうに、芝居の花道を歩くやうに、大道を練つて歩くことも出来ないのです。だんだんと街々の騒ぎは高くなつて行きます。新柚《しんゆ》の香が台所から立ちます。祭列を見るのは夜の十時頃です。海のやうに灯の点つた町を通るのでありながら、やはり夜のことですから、お稚児《ちご》さんの顔などは灰白《はひじろ》く見えるだけです。馬上の鼻高《はなだか》さんの赤い面も黒く見えるのです。私は刻々不安が募つて行きます。それは今日に変る明日の淋しい日の影が目に見えるからです。


私の生ひ立ち 五 嘘



 九歳《こゝのつ》位で私の居た級では継子話《まゝこばなし》が流行《はや》りました。石盤へ箱を幾つも積み重ねたやうな四階五階の家を描いて、草書の下と云ふ字のやうなものを人だとして描いて、蒲団《ふとん》[#底本では「薄団」と誤植]の中へ針を入れて置いたりする鬼のやうな継母《まゝはゝ》の話ばかりを、友達等は毎日しました。一人が話し出しますと、大抵七八つの首がその石盤を覗く、そんなかたまりが教場の彼方此方《あちこち》で出来ると云ふのが、遊び時間の光景でした。継子と本子《ほんこ》の名には、大抵おぎん小ぎんが用ゐられて居ました。私はもうそれに飽き飽きしました。今日もまた厭《いや》な話を聞かされるかと云ふやうな悲みをさへ登校する途々《みち/\》覚えました。私はもとより一度も話者《はなして》にはなりませんでした。ところが或日の昼の長い遊び時間に私は、
「今日は私がお話をして上げます。けれど絵は描きません。自分の真実《ほんたう》の話なんですから。」
 こんなことを突発的に云ひました。そしてそれから私の話したことは嘘ばかりです。私はその時もう父に伴《つ》れられまして、京都を見て来て居ました。外《ほか》の人達にはその経験がないのです。けれど皆祖父母や親達の口から、西京《さいきやう》と云ふ大きい都、美くしい都の話だけは聞いて居て、多少の憬《あこが》れを持つて居ない者はないのです。一度行つたことのある私は、その以後人の話に注意をして、京でまだ自分の知らぬ名所や区の名などを覚えたり、或いは想像して見たりすることがあつたのです。
「皆さん、私は京都に家《うち》があるのです。今迄隠して居ましたけれど。」
 誰一人|真実《ほんたう》かと問ふ者もありません。皆驚きの目を見張つて居るだけです。
「では継子なんですか。」
「ええ、けれど私は京に居ても、継母を持つてたのですよ。初めから継子ですよ。」
「可哀相なこと。」
と口々に云つて、私の背を撫でたりする人もありました。何時《いつ》の間《ま》にか外《ほか》の継子話に寄つた人達も私の傍《そば》へ皆出て来ました。
「私の家は京の三条通りなんです。横町は松原通りです。」
 松原も三条も東西の通りですが、私はこんなことを云つてました。
「そして家《うち》の左の方は加茂川《かもがは》なのです。綺麗《きれい》な川なのですよ、白い石が充満《いつぱい》あつてね、銀のやうな水が流れて居るのです。東山《ひがしやま》も西山《にしやま》も北山《きたやま》も映ります。八坂《やさか》の塔だの、東寺《とうじ》の塔だの、知恩院《ちおんゐん》だの、金閣寺《きんかくじ》だの銀閣寺《ぎんかくじ》だのがきらきらと映ります。」
「まあそんなにいゝとこだすか。」
「ええ、家《うち》の裏の木戸を開けて、石段を下りて、それから小い橋をとん/\と踏んで行くと、河原なのです。河原は夏なんか涼しくつてねえ。」
「継母は。」
「継母はこはいこはい継母でしたよ。こはいこはいこはい。」
 私はかう云つて、次に云ふことを考へなければなりませんでした。
「私の家《うち》は友染屋《いうぜんや》なのです。縮緬《ちりめん》の友染屋なのですよ。あれはね、染めた後《あと》で川で洗はなければならないのです。私なんかも洗うのですよ。ぢやあないと継母が叱りますからねえ。」
「まあえらい、洗濯をしなはつたの。」
「ええ、日に二十|反《たん》位洗つては河原へ乾《ほ》しますの。」
「雨が降つたらどうするのだす。」
「そしたら雨が降つて来たのです。困つてねえ、私は。雨の水と川が一緒になつて、縮緬が流れるでせう。私は継母に叱られますから、何でも拾はうと思つてね、ずん/\加茂川の岸を走つて追つかけたのです。走つて走つて一晩走つて居ると、伏見《ふしみ》へ来たのです。」
「拾へたのだすか。」
「いいえ。」
「まあ。」
「たうとう見失つてしまつたのでせう。継母に叱られたらどうしようと思つて私が泣いて居ると、親切なお婆さんが来てね、私をその家《うち》へ伴《つ》れて行つてくれたのですよ、私の子におなりなさいつてね。」
「まあよかつたこと。」
「けれど貧乏でね、お米ではなくて藁《わら》でお餅なんか拵《こしら》へて食べるだけなんです。」
「藁でお餅が出来《でけ》るんですか。」
「出来《でき》るんですよ。それにね豆の粉《こ》を附けてお婆さんは売りにも行くのです。清水《きよみづ》さんの滝の傍へ茶店を出してねえ。」
「清水さんは京だすか。」
「ええ、滝が三本になつて落ちて居てね、人が何時《いつ》も水を浴びてます。」
 自分の見た時がさうだつたものですから。
「その人が藁のお餅を買ふのだすか。」
「もつと外《ほか》の人も買ふのです。よく売れてね、忙しくつてね、夜分まで家《うち》へ帰れないのです。お婆さんが先に帰つて、私が後《あと》で店をしまつて帰るのでしたがね、大谷《おほたに》さんと云ふお墓のいつばいある山を通るのですから、恐くつてねえ。」
「こはいこと、まあ。」
「さうしたらある時|人取《ひとと》りが出て来たのですよ、頬かぶりして刀を差してね、それから手下が二人です。手下は槍を持つて居るのです。」
「刺されたんだすか。」
「ええ、突かれたけれど、もう癒りました。」
「何処《どこ》だすか。」
「此処《ここ》です。」
 私は脇腹を手で押へました。
「盗賊《どろぼう》は私を箱へ入れて、支那《しな》へ伴《つ》れて行かうと思ひましてねえ。乗せられたのですよ船へ、船に酔ふと苦しいものですよ。目が赤くなつて、足がひよろひよろになつてしまふのです。」
 私は酒酔《さかゑひ》と船暈《ふなゑひ》を同じやうに思つて居たのです。
「そしたらひどい浪が起つて来てね、私の乗つた船が壊れてしまつたのです。私の入れられて居た箱も割れたので、丁度《ちやうど》よかつたけれど。私はそれでもう気を失つて居たのですがねえ、今度目を開いて見ると堺《さかひ》の浜だつたのです。」
「燈台が見えたのだすか。」
「ええ、夜でしたから青い青い灯が点《とも》つて居ましたよ。」
「それから鳳《ほう》さんの子になりやはつたのだすか。」
「ええ。」
「まあ可哀相な方《かた》。」
「継子なんて、ちつとも知りまへんだした。」
「気の毒だすなあ。」
 私の傍に居る人が四五人泣き出しました。さうすると誰も誰も誘ひ出されたやうに涙を零《こぼ》しました。嘘を云つた私までが熱い涙の流るのを覚えました。


私の生ひ立ち 六 火事

火事

 ある夏の晩に、私は兄弟や従兄《いとこ》等と一所《いつしよ》に、大屋根の上の火の見台で涼んで居ました。
「お月様とお星様が近くにある晩には火事がある。」
 十歳《とを》ばかりの私よりは余程大きい誰かの口から、こんなことが云はれました。そのうち一人降り二人降りして、火の見台には私と弟の二人だけが残されました。
「籌《ちう》さん、あのお星様はお月様に近いのね。そら、あるでせう一つ。」
「さうやなあ、火事があるやら知れまへんなあ、面白い。」
「私は恐い。火事だつたら。」
「弱虫やなあ。」
 弟はかう云つてずんずん下へ降りて行きました。私はその後《あと》で唯《たゞ》一人広い広い空を眺めて、小さい一つの星と月の間を、もう少し離す工夫はないか、焼ける家の子が可哀想で、そして此処《ここ》まで焼けて来るかも知れないのであるからと心配をして居ました。
 その晩の夜中のことでした。私の蚊帳《かや》の外で、
「火事や。」
「火事、火事。」
と云ふ声が起りました。耳を澄まして見ますと、家の外をほい/\と云ふやうな駆声《かけごゑ》で走る人が数知れずあるのです。家の中にはまた彼方此方《あちこち》をばたばたと人の走り歩く音が高くして居るのです。私は何時《いつ》の間《ま》にか座つて居ました。蚊帳も一隅が外《はづ》されて三角になつて居ました。灯の明《あか》く点《とも》つた隣の茶の間で、
「袢纏《はんてん》を出しとくなはれ、早う頼みます。」
と云つて居るのは番頭でした。柳行李《やなぎかうり》から云はれた物を出して居るのは妹の乳母《うば》でした。私はまた何時《いつ》の間《ま》にか蚊帳を出て、定七《さだしち》の火事装束をする傍《そば》に立つて居ました。定七が弓張提灯《ゆみはりちやうちん》を取つて茶の間を出ようとしますと、帯のやうなものを手に持つて見せながら乳母は、
「まありやん、まありやん。」
と云ひました。私は子供心にも乳母は恐ろしさに舌が廻らなくなつて居るのであらう、待つてくれと云ふつもりであらうと思ひました。母が傍へ来まして、
「母様《かあさん》は姉様《ねえさん》のお家《うち》が危いから行つて来ます。お父様《とうさん》ももうおいでになつたのです。家《うち》は大丈夫だから安心しておいで。」
と云ひました。そのうち私は店へ歩いて行きました。土間の戸が二方とも開けられてあつて、外の通りをお祭の晩の賑やかな灯明《ひあか》りが思はれる程、沢山の人々は手に手に提灯を持つて走つて行くのでした。見舞に来て従兄と話をして居る人も三四人ありました。私は火元を二町北の半町程西寄りになつた具清《ぐせい》と云ふ酒屋であると知りました。火の見台で兄弟や奉公人の大勢が、話し合ふ声のするのをたよりに、私は暗い二階を手捜《てさぐ》りで通つて火の見台へ出ました。火の色には赤と黄と青が交つて居ました。半町四方程をつつんで真直《まつすぐ》に天を貫く勢で上つて居ました。火の子はまかれる水のやうに近い家々の上へ落ちるのでした。女中の顔も、丁稚《でつち》の顔も金太郎のやうに赤く見えました。具清の家と私の姉の家とは道を一つ隔てた地続きなのでしたから、私は姉の家の蔵が、今にも焼けるのではないかと思つて、悲んで居ました。この時もう月は落ちて上の空にはありませんでした。階下《した》へ降りますと御飯から立つ湯気の香《か》が夜の家いつぱいに満ちて匂つて居ました。これは竹村《たけむら》と云ふ姉の家へ贈る弁当の焚出《たきだ》しをして居るからなのでした。
「具清の家の人は一人も逃げて居ない。皆死んだのらしい。」
「妹さんが女中に助けられて飛び出したと云ふことを誰かが云ふてた。外《ほか》は皆死んだのやろけど。」
 こんな気味の悪いことを私は聞かないでは居られませんでした。人はことを大きく噂にするものであるとは、子供でももう知つて居ましたが、先刻《さつき》火の見で誰かが、具清は金持だから、大きい家が焼ける位のことは何でもないと云つて居たやうな、そんなのんきなことはもう思つて居られないと思ひました。
 具清の家の住居《すまゐ》と酒蔵の幾つかが焼けただけで、他家《よそ》へ火は伸びずに鎮火しました。ほい/\と門《かど》を走る人は、皆|先刻《さつき》と反対の方を向いて行くやうになりました。
「焼けた死骸に長い髪が附いて居たので娘さんと云ふことが解《わか》つた。」
「丁稚の死骸が可哀想やつた。」
 道行く人は口々にこんなことを云つて行きました。具清の家は両親のない二人の娘さんが主人だつたのです。その娘さんを番頭が余りに大切にして、家の戸閉りなどを厳重にしすぎてあつたために、誰も外へは出られなかつたのださうです。鍵を持つて居る老番頭が、最初に死んだので、外《ほか》の人はどうしやうもなかつたらしいと云ふことでした。けれど三十位の一人の女中は、妹娘さんをやつとのことで伴《つ》れ出したと云ふことでした。けれど高い塀から飛んだので、大怪我《おほけが》をして居ると云ふことでした。
 朝になつてから、私の父母は姉の家を引き上げて来ました。
「竹村さんに別条がなくておめでたう御座《ござ》います。」
と番頭が云ひますと、
「おかげでめでたいうちや。」
と父は云ふのでしたが、私は竹村の蔵が焼けてもよかつた、具清の娘さんが黒焦《くろこげ》の死骸などにならない方がよかつたと悲しがつて居ました。具清の死んだ若い女中の話も可哀想でした。前の晩に母親に送られて、実家からその主家へ帰つたのは、死に帰つたのだと云はれる丁稚も可哀想でなりませんでした。眼病をして居て逃げ惑つたらしいと云ふ若い手代《てだい》も哀れでした。具清の家は大きくて、城のやうな家なのでしたが、丁度《ちやうど》夏で酒作りをする蔵男《くらをとこ》の何百人は、播州《ばんしう》へ皆帰つて居た時だつたのださうです。娘さんの箪笥《たんす》が幾つも並んで焼けた所には、友染《いうぜん》の着物が、模様をそつくり濃淡で見せた灰になつて居たのが、幾重ねもあつたとか人は云ひました。焼跡は何年も何年も囲ひもせずそのままで置かれてありました。夏の夕方などに散歩して居ますと、焼けた壁の小山のやうになつた中から、酒の香《か》が立つやうなことも幾年かの後《のち》にまでありました。終《しま》ひには雑草が充満《いつぱい》に生えて居ました。
 火事の時分に、大阪地方ではへらへら踊《をどり》と云ふ手踊の興業が流行《はや》つて居ました。赤い頬かぶりをして袴《はかま》を穿《は》いた女が扇を持つて並んで踊をするのです。へらへら踊の女役者は云ひ合せたやうに、何処《どこ》でも堺《さかひ》の大火と云ふやうな芸題《げだい》で、具清の人々が火の中を逃げ廻つて死ぬ幕を一幕加へました。道を歩いて居て、その無惨な看板の眼に入るたびに、私は逃げて走りました。
 具清の妹さんが、忠義な女中に手を引かれて医師の家へ通ふ姿を、私は火事の後《あと》でよく見ました。美しい人でした。


私の生ひ立ち 七 狐の子供

狐の子供

 三阪《みさか》先生は私を三年級から四年級へ掛けて教へて下すつた先生でした。人一倍|羞恥《はにかみ》の強い私には、小学校から女学校を通じて十幾年間に、真底から馴れて愛して頂くことが出来たのは、この先生だけでした。その優しい三阪先生を上に頂いて居《を》ります時に、私は思ひ出しても不快な脅迫者を前に置いた日送りをして居ました。先生はもとより夢にも御存じのないことです。それはまだ三年生の時のことでした。時間が来て教場へ入るために砂利の敷かれた前の庭で私等は列を作るのでしたが、その時まで運動に夢中になつて居る人達なのですから、それがかなり入り乱れて混雑なものになるのです。私はある日のその時に友達の足を踏みました。その人は靴を穿《は》いて居て私は草履穿《ざうりばき》だつたのです。
「あつ、痛《い》た、鳳《ほう》さん。」
 はつと思つてその人の顔を見ますと、それは柴田《しばた》と云ふ子でした。
「ひどい、これ見なはれ。」
 私がおづおづと柴田の前へ出した足を見ますと、それ程強く踏んだとも感じませんでしたのに、靴の先の釘が少し上へ上つて居ました。
「御免なさいな。」
と私は頭を下げました。
「先生。」
と柴田は先生をお呼びして、そして私の不都合を訴へました。こんなに迄と云つてその靴の先も見せました。
「靴がそんなになる程とは少しひどい。」
と先生は私を見てお云ひになりました。けれどもそれは唯《ただ》原告を宥《なだ》めるのに有効なために私へお云ひになつただけでしたから、私自身は罰らしい苦しい気持でお受けしませんでした。私はそのために一層柴田さんに済まない気がしたのでしたから、時間後に更に詫《あやま》らうとしました。
「堪忍《かに》して上げない。」
と柴田は云ふのですから私は仕方がないとそんな場合には思はなければなりませんのに、要のない努力をして心を貫かうとしました。
「ほんなら私の云ふこと聞きまつか。」
「聞きます。何んでも。」
 かう云ひながらも私は限りない不安を感じて居ました。
「あんた毎日おやつを貰ふでせう、お菓子やなんぞ。」
「はあ。」
「それを残して置いてその翌日《あくるひ》学校へ持つて来て私に頂戴《ちやうだい》。毎日よ。」
「はあ。」
 私はよくも考へずに認諾を与へてしまひました。
 私はその日からおやつを半分より食べられないことになりました。半紙で小く包んで翌朝学校へ持つて行つて柴田に渡しました時、その人はどんなに喜んだか知れません。私は半月程の後《あと》にもう義務は済んだかと思ひますので、
「もう堪忍《かに》して下さつて。」
と問ひました。
「もうお菓子を持つて来るのが厭《いや》なんだつか。」
 柴田は恐い顔をした。
「厭と云ふのぢやありませんけれど。」
「鳳さん、私が先生に云ふたらあんた困ることがありますよ。」
「何です。」
「あんた学校へお菓子を持つて来ていゝのだすか。あんたはそないに悪いことしてなはるやないか。」
 私は貢物のやうにして毎日柴田の手へ運んで居る物は、学校で厳禁されて居るものであると云ふことを此《この》時まで気附かずに居たのでせう。どんなに柴田のこの脅迫は私を苦しめたものであつたか知れません。私はものもよう云はずにじつと相手の顔を眺めて居ました。
「悪いことしてなはるのやろ。先生に知れたらどないなことになるか知つてますか。」
 私は泣き出しました。そしたら柴田は背《せな》を撫でました。
「泣かんでもええわ。私云へへんわ。あんたさへもつと何時《いつ》迄もお菓子をくれたなら。」
「また学校へ持つて来るのですか。」
 私は呆れながら云ひました。
「かうしますわ、これから私が毎日あんたの家《うち》へ貰ひに行くわ。三時半頃にきつと拵《こしら》へておいとくなはれ。」
「さう、そんならよろしいわ。」
 私はまたうまうまとこんな約束をさせられてしまひました。
 三時半頃に私が店へ出てのれんの間から外を見て居ますと色の白いひどい吊目の口の前へでた、丁度《ちやうど》狐のお面のやうな、柴田はにこ/\笑ひながら川端筋《かはばたすぢ》を東から出て来るのでした。電信柱の横で私から紙包を受取ると、狐の子供はまた飛ぶやうに帰つて行くのでした。
 一月《ひとつき》も立つて後《のち》に私はまた新しい苦痛に合はなければなりませんでした。私と柴田の秘密を何時《いつ》の間《ま》にか知つた人が出て来たのです。それは和田《わだ》と云ふ人でした。
「あんたは柴田さんに毎日お菓子を上げてなはるんだすな。」
 私は黙つて居ました。
「隠しても知つてます。あんたあんな人にお菓子なんぞ取られてないで私におくなはれ。そやないと先生に云ふ。」
 これもまた脅迫者だつたのです。
「柴田さんには初めに私が悪いことをしたのでしたから。」
「私にさへくれゝば柴田さんがあんたに意地悪をしても私があんたに附いて上げる。」
「かうしませう、私、柴田さんとあなたの二人に上げませう。」
 心弱い私はまたこんな約束をしてしまひました。それから後《のち》の私はもうお菓子も果物も見るだけでした。柴田の方ではもうちやんと和田のことを知つて居ました。そして私への要求がだん/\烈しくなつて来ました。
「お金を包へ入れて頂戴。」
 かう柴田はある時云ひました。私はまたこれを行ふ道を考へねばなりませんでした。私はお祖母《ばあ》さんなどに貰つてありましたお金の中の銅貨を、二三枚だけ更に小銭に変へて貰ひました。毎日二|厘《りん》づつ柴田の菓子包へ入れてやりました。私は自分は弱者で強いものにいぢめられて居るのであるとは思ひながら、お銭《ぜに》の入つた包などを貰ひに来るのは、丁度年越しの晩の厄払ひの乞食のやうで、下等な子供であると狐の子供に対する侮蔑は、もとより十分持つて居ました。和田もお銭を入れてくれと云ひ出しました。これも必然の結果のやうに私は思つてゐました。その三月《みつき》程のうちに私は心理的にいろ/\の経験をしました。ある日、
「私は今日までのことが悪かつたと思ひますから先生に自分から申してお詫びをしますからさう思つて下さい。」
 私はかう柴田に云ひました。私にはもうそれを云ひ出すだけの勇気が出来て居たのです。その時柴田が許してくれと云ふのにどんなに骨を折つたでせう。
 私は女学校へ行つて居る頃に、一度街で柴田に逢ひました。柴田は島田を結《ゆ》つて居ましたが顔は昔のあの顔でした。


私の生ひ立ち 八 たけ狩

たけ狩

 和泉《いづみ》の山の茸狩《たけがり》の思ひ出は、十二三の年になりますまで四五年の間は一日も忘れることが出来なかつた程の面白いことでした。他家《よそ》の子には唯事《たゞごと》のやうなそんなことも、遊山《ゆさん》などの経験の乏しい私には、珍しくて嬉しくてならなかつたのです。誰も誰も堺《さかひ》の子供が親達や身内の人に伴はれてする春の浜行きも、私は殆どしたことがありませんでした。私は友染《いうぜん》の着物なども着ないうちに、身体《からだ》の方が大きくなつてしまふことが多かつたのです。
 あの茸狩は牡丹《ぼたん》模様の紫地の友染に初めて手を通した時です。帯は緋繻子《ひじゆす》の半巾帯《はんはゞおび》でした。大戸は下されたままで、横町《よこまち》に附いた土間の四枚の戸が開けられ、外に待つて居る車の傍《そば》へ歩んで出ました頃、まだ街は真暗でした。四時頃だつたと後《のち》に母は云つてました。真先《まつさき》の車は父で、それには弟が伴はれて乗つて居ました。私は母の膝の横に居ました。お菊《きく》さんと云ふ知つた女の人と、その子のお政《まさ》さん、私の従兄《いとこ》二人、兄、番頭、その外《ほか》の人は忘れましたが何でも十何輌と云ふ車でした。両側の家の軒燈《けんどう》のまたたいて居る大道《だいだう》を、南へ南へと引いて行かれるのでした。湊《みなと》の橋を渡りますと正面に見える大きい家で鶏《にはとり》が啼《な》きました。何時《いつ》の間《ま》にか私は母に倚《よ》りかかつて眠りました。
「これ、これ大鳥様《おほとりさま》のお社《やしろ》だよ。」
 肩を叩かれて私が目を見上げますと左手に大きい鳥居《とりゐ》があるのでした。母は車上で手を合せて拝《はい》をして居ました。まだ薄暗いのですが、奥の方へ立ち並んで燈籠の胴が、ほのぼの白く木《こ》の間《ま》から見えました。その暁《あかつき》の大鳥神社の鳥居の大きかつたことは、全《まる》で人間世界を超越したもののやうに九歳《こゝのつ》の私には思はれたのです。帰りには上までもつとよく眺めませうと通つてしまつた後《あと》では思つて居ました。自身の行く山の名も村の名も私はよく知らないのです。今でも知りません。何《いづ》れ国境の山なのでせうが、紀州境ひなのか、河内《かはち》境ひなのか知りませんでした。道の細くなつたり、坂になつた所になりますと私等は車を降りて歩きました。ある丘のやうになつた村では、従兄が母に命令《いひつ》かつて湯葉《ゆば》を買ひに行きました。それから薪屋《まきや》の金右衛門《きんゑもん》さんの家までは、もう半里程だつたやうに思ひます。畑の間の路が少し広がつたと思ひますと、もう其処《そこ》が私の行く家の座敷の庭だつたのです。車を降りた所に縁側があるのでせう、座蒲団《ざぶとん》の並んだ畳が見えるのでせう、私は驚きました。門口《かどぐち》をくぐらないで直ぐ道からお座敷になつて居る家などを、町家育ちの私は初めて見たのです。
「何処《どこ》に松茸が出来て居るのでせう。」
と私はお政さんにそつと云つたりして居ました。
「山までは十町程御座います。」
と金右衛門さんは人々に云つて居ました。お茶を飲んで居ますと縁側の前へ村の子供が大勢集つて来ました。母は袋から用意して来たらしい餅菓子を出して、その子等へ二つづつ程分けて遣《や》りました。どんなに田舎《ゐなか》の子は喜んだでせう。私は初めて母のするいいことを見たと云ふやうにその時は思ひました。下駄を藁草履《わらざうり》に穿《は》き変へて、山へと云つて伴はれた時は、天へ上《のぼ》るやうな気分になつて居ました。
「此処《ここ》から上つて頂くのです。」
 かう金右衛門さんに云はれました時、私はその絶壁のやうな山を、どんなに驚いた目で見上げたでせう。何かの木のやゝ細い幹を持つて伝ひ歩きをするやうにして人々は上りました。私などは一番|後《あと》だつたのでせう、傍《そば》にはお菊さんとお政さんが居ました。二三|間《げん》上ると松葉を上に被《かぶ》つた松茸が一本苔から出て居ました。
「あつ。」
と云つたのは三人|一所《いつしよ》でしたが、
「さあおとりやす。」
と譲つてくれましたのが、私にはもの足りませんでした。そのうちもう私は私、お政さんはお政さんと、いくらでも松茸の取ることの出来る所へ来ました。山の外側から内側の窪んだ所へ入つたのでせう。従兄の声や番頭の声がとんきやうに渓々《たに/\》から聞えて来ました。物を云つて山響《やまびこ》の答へるのを聞くのも面白く思はれました。松茸は取つても取つてもあるのですもの、嬉しさは何とも云ひやうがありません。母が何処《どこ》に居るか、弟がどうして居るかとも私は思つて見る間がありませんでした。
「お茶ですよ。」
と呼ぶ声が何処《どこ》からとなしに聞えて来ましたので、私等は暗い木の中から少し上の明るい、幾分道のやうになつた所へ出て来ました。後《うしろ》や横から一人来、二人来して呼び声の起つて居る所を皆がさして行きました。其処《そこ》は山の最も高い所と云ふことでしたが外輪の一角なのです。呼んで居た人、席を二三枚の毛布《けつと》で作つて居る人は、皆金右衛門さんの家の下男でした。大きい松の木の下で、瓦を囲つて枯枝を焚いた上には大きい釜が掛けられてあつて、松茸御飯の湯気がぶうぶうと蓋の間から、秋の青空めがけて上つて居るのでした。其処《そこ》へまた下男の一人は大きい重箱二つを一荷にして舁《かつ》いで来ました。
「さあお子様《こさん》方、お子さん方。」
と呼ばれて毛布《けつと》の上へ草履を脱いで上つた私達は、お重の中のお萩《はぎ》をお皿なしに箸で一つ一つ摘んで食べようとしました。小い従兄は、
「あツ辛《から》。」
と云つて、後《うしろ》向いて木の間から渓の方へ食べかけたお萩の餅を捨てました。塩餡《しほあん》だつたのです。私も面白半分に、
「辛い。」
と真似をして捨てましたが、悪いことをしたと直ぐ思ひました。松茸の御飯や、お汁や、それから堺から待つて来た料理やでおいしいお昼飯は食べましたが、父やその外《ほか》の人の酒宴《さかもり》が、何時《いつ》果てるとも見えませんのが困ることと思はれました。松の木の間からは遠い村里や、続きに続いた山脈の青が眺められました。心が悲しいやうな寂しいやうなものになつて居るのでしたから、弟を誘つたり、従兄を呼んだりして、もう一度松茸を捜しに行くこともしたくないのでした。金右衛門さんの指図で、私等はやつと山を下りることになりました。蜜柑畑へ更に伴はれるのです。酒宴《さかもり》の所で踊《をどり》を見せたりして居たお政さんも一所に行くことになりました。大人達は外《ほか》の道から帰ると云ふことでした。低い山に見渡す果てもない程に多くの蜜柑の木が植つて居ました。青い中に星のやうな斑点が蜜柑に出来た頃です。
「いくらでもおとりなさい。」
と云はれても誰も皆十五六よりは手に持てませんでした。手拭《てぬぐひ》の端へ包んで田舎者のやうに肩へ掛けて歩くのが、どんなに面白く思はれたでせう。しかも私のなどは帰り途《みち》の細い道で、大かたはころ/\と落ちてしまひました。今度の路は金右衛門さんの家の正面でなしに、座敷の左手の庭へ附いて居るのでした。其処《そこ》には鳥兜《とりかぶと》の紫の花が沢山咲いて居ました。


私の生ひ立ち 九 堺の市街

堺の市街

 私はこの話のおしまひに私の生れた堺《さかひ》と云ふ街を書いて置きたく思ひます。堺は云ふまでもなく茅渟《ちぬ》の海に面した和泉国《いづみのくに》の一小都市です。堺の街|端《はづ》れは即ち和泉の国端れになつて居る程に、和泉の最北端にあるのです。摂津《せつつ》の国とは昔は地続きでしたが、今は新大和川《しんやまとがは》と云ふ運河が隔てになつて居ます。大和橋《やまとばし》はそれにかかつた唯一の橋です。水に流されて仮橋《かりばし》になつて居たことが二度程ありました。仮橋は低くて水と擦《す》れ擦《す》れでしたから、子供心にはその方を渡るのが面白かつたのでした。河原の蘆《あし》や月見草は橋よりもずつと高く伸びて両側から小い私の髪にさはる程でした。私には年に一度その河原でお弁当を食べる日がありました。それは蚊帳《かや》の洗濯に伴《つ》れて行つて貰ふ日のことです。五張《いつはり》、六張《むはり》の蚊帳を積んだ車の上に私等の兄弟は載せられます。下男やら店の丁稚《でつち》やらがそれを引いて行きますが、さすがに大通りは通らずに、六軒筋《ろくけんすぢ》と云つて両側に酒屋の蔵ばかりの建ち並んだ細い道を行きます。それでも道で人に逢ふと、
「するがやはんの蚊帳洗濯や。」
 かう云はれるのでした。一|行《かう》には母などは居ません。手伝ひ人の小母《をば》さん位が重《おも》な人で、女中や雇ひお婆さんなどばかりです。綺麗な水のしやぶしやぶと云ふ音と人々の笑ひさゞめく声と河原の白い砂と川口の向うに見える武庫《むこ》の連山が聯想されます。街の東の仕切になつて居るのは農人町川《のうにんまちがは》です。これは運河と言ふよりも溝の大きいやうなもので、黒い泥の所々にぶく/\と泡立つ水が溜つた臭い厭《いや》な所です。然《しか》しそれには関りもない広い快い田圃《たんぼ》はどの街筋の出口にもかかつた土橋や石橋の直ぐ向うに続いて居ます。河内《かはち》の生駒山《いこまやま》や金剛山《こんがうざん》の麓まで眺める目はものに遮られません。南は国境の葛城《かつらぎ》山脈になつて居ます。近い所には大仙陵《だいせんりよう》が青色の一かたまりになつて居ます。後《うしろ》を向いて街の方を見ますと、ずつと北の方に浅香山《あさかやま》の丘が見え、妙国寺《めうこくじ》の塔が見え、中央に開口《あぐち》神社の塔が見えます。私等が実を拾つて遊ぶ廻り二三|丈《ぢやう》もある開口神社の大木の樟《くす》が塔よりも高く見えます。塔は北にあるのも南のも三重屋根です。私はある時友達と一所《いつしよ》に、田圃へ螽斯《いなご》を取りに行つて狐に化された風《ふう》をしました。初めは戯談《じようだん》でしたのですが、皆がもうそれにしてしまふので仕方なしに続けてお芝居をして居ました。私は最初赤いしぶと花をいくつもいくつも取つてお煙草盆《たばこぼん》に結《ゆ》つた髪へ挿しました。
「皆さんも私と一所にあの御殿へ行きませうね。」
と云つて、御陵《ごりよう》の樋《ひ》の口《くち》に続いた森を指さしたりしました。私だけは父が迷信を極端に排斥したものですから、狐や狸のばかし話は嘘であると信じて居るのですが、友達は一人残らず住吉《すみよし》参りをした吉《きつ》つあんの話を真実《ほんたう》のことと思つて居たやうです。私もお菓子を持つて居るから狐が化すといけないと云つて、それを捨てる人、蜜柑は大丈夫だらうと云つて一旦捨てたのを拾ふ人、そんなことはをかしかつたのですが、榎茶屋《えのきちやや》の植木屋に親類のある人が水を汲んで来てくれたのを見まして、私は初めて悪いと思つて誤りました。天王様《てんわうさま》のお社《やしろ》は町から十町程離れてあるのです。堺の人の多くが春の花見をしに行く処です。山桜が社前に十二三本と、後《うしろ》の池を廻つて八重の桜が十本程もある位に過ぎないのですから、まあ大家《たいけ》の庭にも、ある程の春色とも云ふべきものなのですが、其《その》頃の和泉河内の野を一様の金色《こんじき》にして居る菜の花の香にひたらうとするのには好《い》い場所です。其処《そこ》を一町程北西へ隔つた所に方違《かたたがへ》神社があります。方《かた》ちがひさんと堺の人は皆云つてます。立春の日に鶴の羽を髪に挿した女達の参詣する所です。方違神社から真直《まつすぐ》に田圃の中を通つた道を町へ入つて来ますと、其処《そこ》は大小路《おほせうぢ》と云つて堺で一番広い町幅を持つた東西の道路になつて居ます。柳の木が並木とは云へないほどちらほらと植わつて居ます。大小路の東西十町の真中を十字形に通つた南北の通《とほり》が大道《だいだう》と云はれる所です。北は大和橋に続いて居ます。和歌山県の方へ大阪から続いた国道です。大小路の西の堀割《ほりわり》に掛つた吾妻橋《あづまばし》を渡ると、其処《そこ》には南海鉄道の停車場があるのです。堀割の水はもう海へ近い所ですから、引潮の頃にはまるでありませんが、さし潮になると小船をふかふかと動かすやうな浪も立つて居ます。停車場の横に泉洲紡績《せんしうばうせき》の工場があります。赤錬瓦塀の上に地獄のやうな硝子《がらす》かけを立てた厭な所です。夕方と朝に髪へ綿くづを附けた哀れな工女が街々から通つて行く所は其処《そこ》なのです。その前は新田《しんでん》と云つて、埋立地の田畑になつて居ます。停車場から南へ行くと堀割が折れて海へでる所にかかつた勇橋《いさみばし》に出ます。此処《ここ》から北西へかけての海辺を北坡戸《きたばと》と云ふのです。橋の南を真面に行きますと大浜《おほはま》の海岸通になります。旭館《あさひくわん》と云ふ富豪の遊場所《あそびばしよ》の石垣の長いのを通り越すと、もう漁師の家や貝細工を売る小家《こいへ》が並んで居ます。真直に真直に行けば海の中へ突出た燈台に出るまでその道は続いて居ます。昔は大きな船の入つた港だつた堺の海は、新大和川が川上の大和から無遠慮に砂を押し流して来るので、年々に浅くなるばかりで、今は貝を拾ふのに適した波らしい波も立たない所になつたのです。海辺には松も何も生えて居ません。大津《おほつ》の崎が淡路《あはぢ》とすれすれになつて見える遠い景色を好《い》いと見て居るだけの所です。旅館の建ち並んだ後《うしろ》に昔のお台場《だいば》があります。品川のと同じ式で唯《たゞ》海の中にないだけです。春は菫《すみれ》が沢山咲いて居ます。旭館の隣で、何とか云ふ名の小い丘の下に附いた道を曲つて街へ入つて来ますと、其処《そこ》の大道の角に私の家《うち》があります。大道をまた一町南へ行きますと宿院《しゆくゐん》と云ふ住吉神社のお旅所《たびしよ》があります。私の通つた小学校は宿院小学校と云つて、その境内《けいだい》の一部にあるのです。芝居や勧工場《くわんこうば》があつて、堺では一番繁華な所になつて居るのです。小学校の横を半町も東へ行きますと寺町《てらまち》へ出ます。大小路に次ぐ大きい町幅の所で、南へ七八町伸びて居ますが、寺ばかりと云つてよい程の街ですから静かです。向うの突当りが南宗寺《なんしゆうじ》です。千利久が建てたと云ふ茶室があります。私など少し大きくなりましてからは、折々お茶の会に行つたりしました。その隣は大安寺《だいあんじ》で私の祖母の墓があつたのでしたが、今では父も母も其処《そこ》へ葬られてしまひました。旧《もと》は納屋助左衛門《なやすけざゑもん》と云ふ人の家だつたのださうです。南宗寺の智禅庵《ちぜんあん》の丘の下を東から堀割が廻つて流れて居まして海へ出るやうになつて居ます。其《その》海辺は出島《でじま》と云ひます。もとより漁師ばかりが住んで居る所です。蘆が沢山生えて居る所です。蘆原《あしはら》とも云ひます。堀割の向う岸からはもう少しづつ松が生えて居まして、ずつと向うが浜寺《はまでら》の松原になるのです。木綿《もめん》を晒す石津川《いしづがは》の清い流もあります。私はこんな所に居て大都会を思ひ、山の渓間《たにま》のやうな所を思ひ、静かな湖と云ふやうなものに憧憬して大きくなつて行きました。


私の見た少女 南さん

南さん

 南《みなみ》みち子さんは丈の短い襟掛羽織《えりかけばおり》を着た人でした。今から三十年に近い昔の其《その》頃の風俗は、総ての子供が冬はさうした形の襟掛羽織を着て居たに違ひありませんのに、私が特に南さんの羽織の短かさばかりを、その人のなつかしさと共に何時《いつ》も思ひ出さずに居ないのは、南さんの着た羽織は誰のよりも綺麗《きれい》なものだつたからだらうと思ひます。外《ほか》の子は双子《ふたこ》や綿秩父《めんちゝぶ》や、更紗《さらさ》きやらこや、手織木綿《ておりもめん》の物を着て居ます中で、南さんは銘仙《めいせん》やめりんすを着て居ました。藍《あゐ》がちな紫地に小い紅色の花模様のあつたものや、紺地に葡萄茶《えびちや》のあらい縞《しま》のあるものやを南さんの着て居た姿は今も目にはつきりと残つて居ます。それに南さんは色の飽《あく》まで白い、毛の濃い人でしたから、どんなものでも似合つて見えたのであらうと思はれます。目の細い、鼻の高い、そしてよく締《しま》つた口元で、唇の紅《あか》い人でした。南さんは大分《だいぶ》に大きくなるまでおけし頭でした。併《しか》し私がまだおたばこぼんを結《ゆ》つて居た時分に、南さんはおけしの中を取つて蝶々髷《てふ/\まげ》に結つて居ました。ですからもう差櫛《さしぐし》が出来たり、簪《かんざし》がさせたり、その時分から出来たのでした。南みち子と言ふ一人の生徒を羨まないのは、学校の中でも極めて小い組の人達だけだつたであらうと思ひます。どの先生も南さんを大事な生徒としておあつかひになるのでしたが、生駒《いこま》さんと云ふ校長先生にはそれが甚しかつたやうでした。私の小学校は千人近い生徒を収容して居て、大きい校舎を持つて居ましたが、その応接室は卓《ていぶる》を初め卓掛《ていぶるか》け、書物棚、花瓶までが南家の寄附になるものだと校長が生徒を集めて云つてお聞かせになつたこともありました。南さんは家の通称を孫太夫《まごだいふ》と云ふ大地主の一人娘だつたのです。南さんの家のある所は堺《さかひ》の街ではなく向村《むかふむら》と云ふのですが、それはいくらも遠い所ではなく、ほんの堀割《ほりわり》一つで街と別になつて居る村なのです。南さんの家は薄黄《うすき》の高い土塀の外を更に高い松の木立がぐるりと囲つて居ました。また庭の中には何蓋松《なんがいまつ》とか云ふ絵に描いたやうな松の木や、花咲く木の梢《こずゑ》の立ち並んで居るのが外から見えました。野からその南さんの家の見えますことは一二|里《り》の先へ行つても同じだらうと思はれる程大きいものでした。私の同級生の幾人かは日曜日毎に南さんの家へ遊びに行きました。私はそんな人達から一尺程の金魚の沢山沢山居ると云ふ池やら、綺麗な花の咲いた築山《つきやま》やら、梯子段《はしごだん》の幾つにも折曲つたと云ふ二階や、中二階、離座敷の話をして貰ふのが楽みでした。けれど私は人並を越した恥しがりでしたから一度も自身で行つて見たことはありません。南さんには何時《いつ》も一人の女中が附いて居ました。その時分の生徒が茶番《ちやばん》さんと云つた小使《こづかひ》の部屋で女中はお嬢さんのお人形を造つたりして何時《いつ》も待つて居ました。帯をだらりに結んで、白丈長《しろたけなが》を掛けた島田の女中は四五年の間|何時《いつ》も変らぬ同じ人だつたやうに思つてましたが、真実《ほんたう》は幾度か変つた別の女中だつたのかも知れません。
ある時に先生は、
「あなた方|室暖《まぬく》めと云ふものを知つて居ますか。」
と云ふことから暖炉《すとーぶ》の話をして下さいましたが、
「南さんのお家《うち》にだけはあるでせう。」
 こんなことをお云ひになりました。私はこの時受くべき理由なき侮辱を私達は受けたと胸が鳴りました。ところが、
「私の家《うち》にそんなもの御座いません。先生。」
 かう淡泊に南さんの答へたのを聞いて、私は瞬間の厭《いや》な心持が一掃されました。私はそれから一層南さんをなつかしく思ふやうになりました。その学校では、何か式をしたりするときには、先生から生徒へ、
「皆さんのお家《うち》の庭に花が咲いて居ましたら、それを少しづつ持つて来て下さい。」
 こんな注文をなさいました。堺は古い昔から商業地になつて居まして、店や工場を重《おも》にして建築した家が多いのですから、庭はあつて常磐木《ときはぎ》の幾本かは大抵の大きい家にはあるとしても、底花の木や草花を養ふ日光が入りやうもありませんから、こんな時に生徒は花屋へ駆け附けるより外《ほか》の方法はなかつたのです。母に頼んで五|銭《せん》程の支出をして貰ひまして菊の花の二三本、春なら芍薬《しやくやく》の一つぐらゐを持つて行くやうな人ばかりでしたが、そんな時に南さんの家からは大きい車に花の切枝《きりえだ》を積んで下男に学校へ曳かせて来ました。南さんは行者久《ぎやうじやきう》さんと云ふ盲目《めしひ》で名高い音曲《おんぎよく》の師匠の弟子の一人でした。小いうちから琴も三味線も胡弓《こきゆう》も上手だつたのです。その師匠の大ざらへに沢山|刺繍《ぬひ》のした着物を着た南さんが三四人の附添ひと一緒に舞台へ行くのを会場の廊下で見ました時、私は南さんをお姫様のやうな人だと思ひました。学校の成績《せいせき》も私より南さんの方が確かに好《よ》かつたと思つて居ます。南さんは私によく、
「私の府会議員の叔父さんはおどけものですよ。私をからかつてばかりいらつしやるのですよ。」
「そのお方の家《うち》は何処《どこ》。」
「私の家《うち》の中よ、別になつて居ますけれど。それからね、その叔母さんもあるのですよ、その人はものを云はない人よ。叔母さんは母様《かあさん》が私を大阪へ伴《つ》れていらつしやる時には本家へ来て留守番をして下さるの。」
 こんな話をして聞かせました。またその父や母に就《つ》いての暖い噂も始終聞かせてくれました。兄弟のない一人子《ひとりご》と云ふものの羨しさを私の子等と一緒に思ふことが多かつたのです。お金持でなくても一人子なら好《い》いとも思ひました。私などは一月《ひとつき》のうち三言も父が言葉を掛けてくれるやうなことは稀有だつた程ですから物足りなかつたのです。私と南さんは女学校でも一緒の教場に居ました。此処《ここ》では小学生の私がお姫様のやうに思つて居ました南さんよりも更に綺麗な着物を着たり、華やかな風采をもつた友達が多く出来ましたけれど、やはり私の一番なつかしい人は南さんでした。朝は時間を云ひ合せて街角で出合つて登校をして、帰りも必ず一緒に校門を出ました。杏《あんず》の木の下の空井戸《からゐど》の竹簀《たけず》の蓋にもたれて昼の休時間は二人で話ばかりして過しました。
「大阪に梅《うめ》の助《すけ》と云ふ役者があるの、綺麗な顔ですよ。この間《あひだ》ね、お小姓《こしやう》になつたの、桃色のお振袖《ふりそで》を着てましたよ。」
 かう一度南さんの噂に出ました役者はそれから間もなく死んだと云ふことです。私等は十五の歳《とし》に女学校を卒業しましたが、南さんはそのまゝお下《さが》りになり、私は補習科に残りましたから、淋しく物足らない思ひをすることも屡《しば/\》ありました。後《のち》に聞きますと一人子だと羨んだ南さんは養父母に育てられて居た人だつたのださうです。議員の叔父さんと云ふのが真実《ほんたう》のお父様だつたのださうです。


私の見た少女 楠さん

楠さん

 楠《くすのき》さんは真宗寺《しんしゆうでら》の慈光寺《じくわうじ》の娘さんでした。私はかう書き初めて其《その》頃楠さんの年齢《とし》はいくつぐらゐであつたのであらうと思つて見ますが解《わか》りません。これは忘れたのではなくて、私と楠さんが一級の中で最も親しかつた時にも知らずに過ぎたことだつたのです。唯《た》だ私より年上であつたことを云つて置きませう。私の居ました堺《さかひ》女学校と云ひますのは小学校の四年級から直ぐに入れる程度の学校でしたが、本科と裁縫科の二つに分けられて居ました。裁縫科の生徒は一週間のうち三四度本科の教場で修身《しうしん》と家政の講話だけを私等と一緒になつて聞くのでした。どう云ふわけか裁縫科の生徒は本科の生徒に比べて大人らしくなつて居ました。ですから最も初めに楠さんと逢ひました時の私がおけし頭であつたのに比べて楠さんは大きい銀杏返《いてふがへ》しにも結《ゆ》つて居ました。楠さんは裁縫科の生徒だつたのです。顔だけを見知つて居まして私と楠さんは物を一言云つたこともないままで二年生になつてしまひました。丁度《ちやうど》其《その》頃高等師範をお出になつた遠山《とほやま》さんと云ふ方が東京から私等の先生になりに来て下さいました。遠山先生はおいでになつて間もなく修身の時間に、今日は裁縫科の方に希望を述べるとお云ひになりまして、
「あなた方は裁縫を重《おも》に習つてお家《うち》の手助けを早く出来るやうになるのを楽みにしておいでになるのでせうが、私は少しあなた方に考へて頂きたいことがあるのです。女は裁縫をさへ上手にすれば好《い》いと思ふのは昔風な考へで、世界にはいろいろな国があつて知慧の進んだ人の多いこと、日本もそれに負けて居てはならないと云ふことを思ふことの出来る人なら、智慧を磨くための学問の必要はないなどとは思へない筈《はず》だと思ひます。」
 こんなことからお説き出しになつて、一身上の事情が本科を修めてもいい人なら皆本科にお変りなさいと云ふことをお云ひになりました。その次の週に今迄本科の教場で誰かの空席を借りて講義を聞いた裁縫科の生徒の二人が私達の机の傍《そば》に自席を持つやうになりました。その一人は楠さんでした。感心な方《かた》だと思ひながらも人一倍はにかみの強い私は楠さんに特に接近をしようとも思ひませんでした。今一人の人のことは忘れてしまひましたが楠さんは其《その》次の学期試験に一番になりました。其《その》時の皆の嫉妬はひどいものでした。楠さんは気の毒なやうに憎まれました。私は楠さんの年齢《とし》を自分達よりも六つ七つも上のやうに噂をする者があつても、そんな筈はないと理性で否定をして居ました。遠山先生の所へ学科の復習をして頂きに行つたと云ふことを聞いた時にはまた、そんなことも必要ならしてもさしつかへはない、楠さんは自己のために善を行つたのだと判断をしました。席順で並べられてあつた机も私のと楠さんのとは極く近かつたのですから、其《その》時分から私は楠さんと交際をし初めました。或時私は楠さんに、
「今月のせわだ文学と云ふ雑誌に面白いことが載つて居ました。」
 こんなことを云ひました。
「せわだ文学、せわだ文学。」
と楠さんは首を傾けました。
「早いと云ふ字と、稲と云ふ字と、田と云ふ字を書くのです。」
「それではわせだ文学でせう。」
「それをせわだ文学と読むのですよ。」
「さうでしたか、私はわせだ文学だと思つてました。さう読むのでしたかねえ。」
「さうらしいですよ。」
 私はそれから裁縫の教場へ入りましたが、早稲田をせわだと云つた自分の説に不安の起つて来るのを感じました。私の頬はもう熱くなつて居ました。誤つたと思ふよりも先に恥を感じたのです。早く実の出来る稲は早稲《わせ》ではないか、それに田が附いて居るからわせだなのだ、私は最初にふと誤つた読癖《よみぐせ》を附けてしまつて誤りを知らずに居たので。楠さんの云つたことが正しいのだ、楠さんにはそれが解つて居るのに私を反省させるために譲つてお置きになつた、真実《ほんたう》に楠さんに済まないと思ひました私は、裁縫の教場では私等よりずつと高い級に居る楠さんの所へ走つて行きました。
「楠さん、先刻《さつき》の雑誌の名はやつぱし早稲田《わせだ》文学でしたわ。」
 大決心をして詫びようと思ひましたことも口ではこれだけより云へませんでした。私はそれから少し経つてからある日曜に寺町の大安寺《だいあんじ》へお祖母《ばあ》さんのお墓参りをしました時に楠さんを訪ねて行きました。その慈光寺の門には金の大きい菊水《きくすい》の紋が打たれて居て、其《その》下に売薬の古い看板がかゝつて居ました。
「お上りなさいな。本なんか出して遊びませう。」
 暗くて広い庫裏《くり》の土間の上り口で楠さんは頻りに勧めてくれましたが、友人の家と云ふ所へ其《その》時初めて行つた私は思ひ切つて楠さんの居間へ通ることをようしませんでした。向うの室《へや》で機《はた》を織つておいでになつた楠さんの母様《かあさん》も出て来て私をいたはつて下さいました。
「では庭ででも遊びませう。」
と云ふ楠さんに伴はれて私は鐘樓の横やら本堂の前やらの草木の花の中を歩きました。今思へばそれ程のこともありませんが其《その》頃の私には慈光寺の庭程美しい趣の多い所はないやうに思はれました。
「私の姉《ねえ》さんは薔薇があれば香水を拵《こしら》へると云つてます。」
 こんなことを私が云ひますと、
「薔薇の花を切つて上げませうか。」
と楠さんは云ひました。私は驚異の目を見張て、
「お父様《とうさん》のお花を切つてもいいのですか、あなたが。」
と云ひました。
「いゝのですとも。ちつとも叱られませんよ。」
「まあ。」
 私は楠さんの得て居る自由を羨まずには居られませんでした。私のために鋏《はさみ》を取つて来て薔薇の花をしよきしよきと切つて落しました。鉢植のも花壇のも高い木に倚《よ》つて咲いたのも好《い》いのは皆切つてくれました。赤いのなどは香《か》が悪いと云つて白や薄黄や薄水色やばかりを切つてくれました。其《その》日私が姉の前で開きました包から百ばかりの薔薇の出ました時の心もちは今思ひ出しましても興奮される程嬉しいことでした。二人がお茶の稽古に行きます日、その初《はじめ》に師家へ納めます金のことで、
「束脩《そくしう》と云ふのでせう。」
と楠さんは云ひ、私はまた、
「脩束《しうそく》ぢやなかつたかしら。」
 こんな間違ひを云つた記憶もあります。河井酔茗《かはゐすいめい》さんなどの仲間へ私を紹介した人もそれから幾年か後《のち》の楠さんでした。


私の見た少女 おさやん

おさやん

 おさやんと私は従妹《いとこ》です。真実《ほんたう》の名前は龍野《たつの》さくと云ふのです。私とおさやんは同年《おないどし》でしたけれども、おさやんは三月に生れて私は十二月に生れたからまあ一歳《ひとつ》違ひのやうなものだと私の母であるおさやんの叔母が何時《いつ》も云ひますのを、私は小い時分から真似して其《その》通りのことを云つて居ました。それにおさやんは龍源《たつげん》の叔母の子として一番大きい子で、私は兄弟の中で末つ子に近い方でしたから、一方は大人びて私は子供々々しくて三月と十二月の違ひばかりでなくおさやんは私を妹あつかひにして居ました。おさやんの家は酒屋でした。なつかしい、気の好《い》い遊び相手だつたおさやんを思ひますとまづ目に山のやうに高い大きい酒樽《さかだる》の並んだ幻影《まばろし》が見えます。光線を多く取つてない私の郷里などの古い建築法で造られた家は、中の土間へ入ると冬でも夏でも冷々《ひや/\》とした風が裾から起つて来るのでした。中浜通りの小林寺町《せうりんじちやう》と云ふ所にそのおさやんの家はありました。私は大抵の場合自分の家の「べい」と私が極く小い時分から私だけの特殊な呼名を附けて居た老いた女中と一所《いつしよ》に龍源へ行きました。もう一人の叔母の家がその二三町先にありまして、私は其処《そこ》へ行つた帰りを龍源へ寄るのが例でした。黒くなつた大きい酒屋看板を遠くから見て私の小い胸は先づ轟《とゞろ》いたものです。而《しか》し私は恥しがりの子でしたから鹿喰《しゝくひ》と云ふ叔母の家ででも龍源ででも余り座敷へ上つて遊ぶやうなことはありませんでした。鹿喰では金魚池の傍《そば》まで庭口から行つて見るだけで、龍源の家ででもお雛様の時の外《ほか》は大抵遊ぶのは裏庭の蔵の蔭で、筵《むしろ》を敷いて小樽を幾つも並べたり、二つの樽に板を渡したりした上で玩具《おもちや》を弄《もてあそ》んで居たのでした。おさやんと私の小学校はもとより違つて居ました。おさやんは晴々とした顔で、色の白い目の大きい口元の美くしい人形のやうな少女でした。友染《いうぜん》の着物に白茶錦《しらちやにしき》の帯を矢《や》の字《じ》結《むす》びにして、まだ小い頃から蝶々髷《てふ/\まげ》やら桃割《もゝわれ》を結《ゆ》つて、銀の薄《すゝき》の簪《かんざし》などを挿して、住吉祭《すみよしまつり》の神輿《みこし》の行列を私の家へ見物に来て居る時などは人が皆表の道に立留つておさやんを眺めました。私は髪もお煙草盆《たばこぼん》で、縞《しま》の着物に水色の襟《えり》を重ねて黒繻子《くろじゆす》の帯をさせられて居ました。私と私の妹とおさやんの三人で堺《さかひ》の街の北の西の端の海船《かいせん》と云ふ所へ、それも夏祭などのおよばれに行つて居ますと、同じ堺でも其処等辺《そこらへん》の人は私等を見知つて居ませんから、
「兄弟やらうけれど、姉《ねえ》さんが一番|綺麗《きれい》な子やな。」
などと云つたりして居ました。おさやんは私の母から私よりも大切なのかと思ふ程に可愛《かは》ゆがられて居ました。おさやんは庭から帰るやうなことをせずに私の家では家の人のやうに用の手伝ひなどをして居ました。
 私はおさやんに関りのあることで恥しいことをお話ししなければなりません。私の七歳《ななつ》か八歳《やつつ》ぐらゐの時に、私の母の両親は極く近い所にある私の家の借家を隠居所にして居ました。龍源の叔母はよくおさやんを伴《つ》れて其《その》隠居所へ来て居ました。私もよく其処《そこ》へ行つて居ました。其《その》時分に女の子が江戸紫《えどむらさき》の無地の帯をすることが流行《はや》つて居たと見えまして、或時二人は自身達の帯の色が同じであることを発見して喜びました。けれどもおさやんのは縮緬《ちりめん》で私のはメリンス地でした。二人はまた其《その》事にも気が附いて来ました。けれど何とも口に出しては云ひませんでした。それは今した喜びを直ちに打ち壊すやうなものであると思つたからでした。二人は其《その》日に限つてお祖母《ばあ》さんが入れて上げようと云ふものですから隠居所のお湯に入りました。そして上つて出た時に、私は縮緬の方のおさやんの帯が一寸《ちよつと》して見たくなりました。もとより意識して私はおさやんの帯で貝《かひ》の口《くち》を結んで後《うしろ》へ廻しましたそしておさやんの気の附かないうちにまた解いて置かうと思つて居ます所へもうおさやんが出て来ました。私は顔が真紅《まつか》になつてどうすることも出来ませんのでしたがおさやんはしらずに着物の紐をしめたりなどして居ました。
「それあんたの帯。」
「……」
「私の帯やわ。」
「………」
「かへしとくなはれ。」
 私は黙つたまゝ帯を解いておさやんに渡しましたが悲しくてなりませんでした。恥しくてなりませんでした。淋しい心持がしてなりませんでした。三十年経つた今でもおさやんの方の帯をして後《うしろ》へ廻してから前の方を撫でて見た時の縮緬の手触りがまた忘れられもしません。
 女学校へ入つたらおさやんと私は一所の教場になるのだとよく二人で云ひ会つて居ましまたが、おさやんは町の裁縫師匠の処へ縫物子《ぬひものこ》になつて行くことになりましたから二人は終《しま》ひまで一所の学校へは通へませんでした。それからも月のうちに一度二度は逢つて居ましたがだんだん昔のやうに心から笑ひ会つたり泣き会つたりすることが出来なくなつて来ました。それは二人の考へが余程離れたものになつて居たからです。そのうちおさやんの家が蔵を壊して其処《そこ》で緞通《だんつう》を織り初めたと云ふことを出入の人などが噂しました。
「お気の毒なことだす。龍源さんでは嬢さんも職工と一所に緞通を織つておいでになります。お悧好《りかう》な方《かた》だすよつてもう機持《はたも》ちにおなりになつて、一本おきの二本などと大きい声で云つておいでになるのが聞えます。嬢はんはさうして朝から晩まで働いておいでになります。」
 私はこれを聞いて悲しがりました。逢つた時に慰めようと思つて居ましたが、私の家《うち》へ来てはゆめにもそんなことをして居るとおさやんは云はないのですから、私の方から云ひ出すことも出来ませんでした。そして芝居の噂などばかりをおさやんはしました。私はおさやんの家の蔵のある六軒筋《ろくけんすぢ》の道から二本おきの幾本などと云ふおさやんの声を聞いて見ようかともよく思ひました。かなり感傷的になつて居ましたから其《その》声を聞いて泣いて見たいやうな気があつたらしく思はれます。其《その》時分からおさやんの美くしさは月々減じて行くやうに見えました。私にはそれも悲しいことであつたに違ひありません。私はおさやんが私よりも醜くなつて来たと聞くことが厭《いや》でなりませんでした。龍源の叔父が中浜《なかはま》の家を売ると言ふことで親類達が私の家などに寄つて相談して居るのを聞きまして、親類の人が皆可愛ゆがつて居たおさやんの家のさうなるのを誰か一人でも助けてやる人はないのかなどと思つて大人を憎くさへ思ひました。おさやんは手紙などをちつとも書かない人ですからどうして此頃《このごろ》は居るのか私は知りません。もう堺には居ないのでせうか、気の好《い》い遊び相手だつたおさやん。


私の見た少女 山太郎のおみきさん

山太郎のおみきさん

 私がこれまで少女時代のことを書きまして、初めて見た美しい友達と云ふやうなことがもう誰かのことに云つてありましたら、それはそれを書いた時の思ひ違ひで、私の小さい時に初めて知つた優しい美くしい少女は加賀田《かがた》おみきさんの外《ほか》にはありません。二人は何時《いつ》頃から一所《いつしよ》の組になつたのでせう、それはもう余程小さい頃のことで、何年級制にならない何級制だつた頃のことかと思ひます。其《その》時分の私は外《ほか》にお友達があることは全《まる》で知らないやうに、学校の遊び時間には加賀田さんとばかり遊んで居ました。
 加賀田さんの家《うち》は堺《さかひ》の最も旧《ふる》い家でした。山太郎《やまたらう》とその家のことを呼んで居ました。 余りに勧められまして、私は或時初めての友人訪問に加賀田さんの家《うち》へ行きました。玄関へ加賀田さんが出て来て、上れと云はれて憶《おく》し心を隠して其《その》人に随《つ》いて行きますと、幾室かを通つてそれから出た所は明るい庭の前でした。その縁側は一|間《けん》以上もある幅で、そして何処《どこ》まで行けばしまひになるのか一寸《ちよつと》解《わか》らないやうに思はれるほど長く続いて居るのです。築山《つきやま》も池も花の植つた所も子供の目には見渡し切れなく思はれました。自分などの家と此処《ここ》との懸隔が余りに甚しいので、初めの廊下を曲つて更にまた折れた所の廊下がまた長く、然《しか》も庭の向うにはまだ幾棟かの建物があるのですから、それを見まして、心細いやうな一種の悲哀を覚えまして、
「私もう帰ります。帰りたくなつて来ました。」
と私は云ひました。
「何故《なぜ》。」
と加賀田さんは失望したやうに云ひました。
「何故でも帰りたくなつたの。」
「私の部屋がまだ遠いからだすか。帰りには彼方《あちら》から行けば直ぐ玄関へ出られます。」
と云はれましたけれど、私は、
「また来ますから今日は帰らせて下さいな。」
と云ひ通して、何千石かの酒の造られる匂ひの何処《どこ》からとなくする加賀田さんの家《うち》を出て来ました。それから間《ま》もなしに、加賀田さんが私の家へ来てくれたことがありました。私はそれまで外の方《かた》の処へ行つたことも尠《すくな》い代りに友達を家に迎へたのもこれが初めでした。ですからこんな時にはどうして遊ぶものか、友達も自分も面白いやうにするのはどうするのかが私の経験のないことで解らないのです。街の中の狭い家ですから庭などは四|坪《つぼ》か五坪位よりもないのですからどうしても室内で何かをしなければならないのです。人形を並べたり、小切《こぎれ》を出して見せたりはしても直ぐまた二人は膝の上へ手を重ねて置いて、今に楽みと云ふものが二人の傍《そば》へ自然に現れて出て来るはずだと云ふ風《ふう》に待たれるのでした。加賀田さんが、
「私もう帰ります。」
と云ひ出しました。
「さう。」
 私は悲しくなりました。
「帰りたうなりましたから。」
「そんならお帰りなさいな。」
 前の時に私がしたことを思ふと留《と》めることは出来ないのでした。かうして二人の会合は二度とも失敗に終つたのです。
 それから一年か二年か経つてのことだと思ひます。次のやうなこともありました。学校のお午《ひる》に生徒の半分程は自家《うち》へ帰つて食事をする人でしたが、私も加賀田さんもその仲間でした。それで或時私は、
「ねえ加賀田さん、学校では好きぢやない方《かた》も交つて遊ぶのですから、私それよりもいゝことはないかと考へましたの、あのお午《ひる》に帰りました時ね、学校の太鼓のなるまでお旅所《たび》の処の大きい燈籠《とうろう》へ上つて遊ばないこと。」
 こんな提議を加賀田さんにしました。
「さうだすな、二人でお家《うち》ごつこなんてして遊んだら面白うおますやろ、今日行きませう、燈籠へ。」
 加賀田さんは直ぐに賛成をしたのでした。私は其《その》日のお昼飯を平生の半分の時間も使はず済ませて、急いで加賀田さんの門口《かどぐち》まで行きますと、もうおみきさんは先刻《さつき》から待つて居たと云ふのでした。二人は手を引き合つて住吉《すみよし》神社の宿院《しゆくゐん》のお旅所《たびしよ》の隣にある大燈籠の所へ行きました。石段が五六段あつて、二つの燈籠の並んだ廻りの石も二尺位の幅のあるものなのです。その二三日前に見知らない子が二三人その上へ上つて遊んで居るのを見て私は羨しく思つたのです。初めて上へ上つて見ますと、地上からは一|丈《ぢやう》も離れて居て、向うの青物市場《あをものいちば》などがよく見えて面白いのです。二人は燈籠と燈籠の間をお廊下だと云つて通つたり、二階から降りませうと云つて下へ降りたり、花園へ行くと云つて玉垣《たまがき》の傍《そば》に生えた草を摘んだりして居ました。丁度《ちやうど》二人が上に居て燈籠の脚元《あしもと》へ腰を掛けて居ます時に、突然わあつと云ふ声がして、ばらばらと穢《きたな》い物が寄つて来ました。それは乞食なのです。
「おい、何をしてる。」
「阿呆《あはう》。」
「降《お》れ、降《お》れ。」
「此処《ここ》は此方《こつち》の仲間のやで、おまん等《ら》の上る所やないで、阿呆。」
「えらい目に合せてやる。」
 男も女も混つた子供の乞食なのですが、その着物のぼろ/\さは東京の乞食のやうなものではないのです。山蔭《やまかげ》の土に四|月《つき》も五|月《つき》もひつゝいて居る落葉のやうなものを着て居るのです。竹の棒やら、木の片《はし》やらを皆持つて居て私等の足に近い所を叩いて居るのです。私等二人は余りの驚きに物が云へなくなつて居ました。手をしつかりと取り合つて二人が狭い石段を降りますのに、下駄の先ががた/\と鳴つてなりませんでした。慄《ふる》へて居たのでせう。もう走つて行けばいゝのであると二人が思つて居ますと、
「おい。」
「唖《おし》か。」
 二人は首を振りました。
「そんなら銭を持つてるやろからおくれ。」
 二人はまた首を振りました。
「持つてへんで、阿呆やな。」
と一番大きい女の乞食が云ひました。
「そんならお菓子でもえゝやないか。」
と仲間の顔を見廻して云ふ乞食もあるのでした。
「鉛筆でもえゝ。色紙はないのか。」
 何物かを私等から取り上げないでは済まさないと云ふ風《ふう》なのです。二人は唯《たゞ》胸をわくわくさせて居るばかりでしたが、そのうち巡査の影が見えたのでせう、乞食はまたばら/\と逃げて走りました。
 加賀田おみきさんが病気か何かで暫《しばら》く休んで居たせゐなのですか何時《いつ》の間《ま》にか二人は一級違ひになつて居ました。おみきさんは小さい頃は習字などが私よりもずつと上手で大抵の試験に一番の席を取つて居た人でした。人形のやうに毛の厚いおけしを頭に置いた、色の白い目の切れの長いおみきさんは小さい声で物を云ふ人でした。



底本:「私の生ひ立ち」刊行社
   1985(昭和60)年5月10日発行
入力:武田秀男
校正:福地博文
1999年3月3日公開
2001年11月16日修正
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