青空文庫アーカイブ

野蒜の花
若山牧水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)宿醉《ふつかよひ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)下|褪《あ》せつ

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「えんによう+囘」、第4水準2-12-11、読みは「まわ」、96-2]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)だん/\
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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   その一

 酒の話。
 昨今私は毎晩三合づつの晩酌をとつてゐるが、どうかするとそれで足りぬ時がある。さればとて獨りで五合をすごすとなると翌朝まで持ち越す。
 此頃だん/\獨酌を喜ぶ樣になつて、大勢と一緒に飮み度くない。つまり強ひられるがいやだからである。元來がいけるたちなので、強ひられゝばツイ手が出て一升なりその上なりの量を飮み納める事もその場では難事でない。たゞ、あとがいけない。此頃の宿醉《ふつかよひ》の氣持のわるさはこの一二年前まで知らなかつたことである。それだけ身體に無理がきかなくなつたのだ。
 對酌の時は獨酌の時より幾らか量の多いのを厭《いと》はない。つまり三合が四合になつても差支へない樣だ。獨酌五合で翌朝頭の痛むのが對酌だと先づそれなしに濟む。けれどその邊が頂點らしい。七合八合となるともういけない。
 人の顏を見れば先づ酒のことをおもふのが私の久しい間の習慣になつてゐる。酒なしには何の話も出來ないといふ樣ないけない習慣がついてゐたのだ。やめよう/\と思ふ事も久しいものであつたが、どうやら此頃では實行可能の域にだけは入つた樣だ。何よりも對酌後の宿醉が恐いからである。
 運動をして飮めば惡醉をせぬといふ信念のもとに、飮まうと思ふ日には自ら鍬《くは》を振り肥料を擔いで半日以上の大勞働に從事する創作社々友がいま私の近くに住んでゐる。この人はもと某專門學校の勅任教授をしてゐた中年の紳士であるが、さうして飮まれる量は僅かに一合を越えぬ樣である。その一合を飮むためにそれだけの骨を折ることは下戸黨から見ればいかにも御苦勞さまのことに見えるかも知れない。然し得難い樂しみの一つを得るがための努力であると見れば、これなども事實貴重な事業に相違ない。まつたく身體または心を働かせたあとに飮む酒はうまい。旅さきの旅籠屋《はたごや》などで飮むののうまいのも一に是に因るであらう。
 旅で飮む酒はまつたくうまい。然し、私などはその旅さきでともすると大勢の人と會飮せねばならぬ場合が多い。各地で催さゝる歌會の前後などがそれである。酒ずきだといふことを知つてゐる各地方の人たちが、私の顏を見ると同時に、どうかして飮ましてやらう醉はせてやらうと手ぐすね引いて私の一顰一笑《いちびんいつせう》を見守つてゐる。從つて私もその人たちの折角の好意や好奇心を無にしまいため強ひてもうまい顏をして飮むのであるが、事實は甚ださうでない場合が多いのだ。これは底をわると兩方とも極めて割の惡い話に當るのである。
 どうか諸君、さうした場合に、私には自宅に於いて飮むと同量の三合の酒を先づ勸めて下さい。それで若し私がまだ欲しさうな顏でもしてゐたらもう一本添へて下さい。それきりにして下さい。さうすれば私も安心して味はひ安心して醉ふといふ態度に出ます。さうでないと今後私はそうした席上から遠ざかつてゆかねばならぬ事になるかも知れない。これは何とも寂しい事だ。
 獻酬といふのが一番いけない。それも二三人どまりの席ならばまだしもだが、大勢一座の席で盃のやりとりといふのが始まると席は忽ちにして亂れて來る。酒の味どころではなくなつて來る。これも今後我等の仲間うちでは全廢したいものだ。
 若山牧水といふと酒を聯想し、創作社といふと酒くらひの集りの樣に想はれてる、といふことを折々聞く。これは私にとつて何とも耳の痛い話である。私は正直酒が好きで、これなしには今のところ一日もよう過ごせぬのだから何と言はれても止むを得ないが、創作社全體にそれを被《かぶ》せるのは無理である。早い話が此頃東京で二三囘引續いて會合があり、出席者はいつも五十人前後であつた。その中で眞實に酒好きでその味をよく知つてるといふのは先づ和田山蘭、越前翠村に私、それから他に某々青年一二名位ゐのものである。菊池野菊、八木錠一、鈴木菱花の徒と來ると一滴も口にすることが出來ないのだ。そしてその他の連中は唯だ浮れて飮んで騷ぐといふにすぎない。にや/\しながら嘗めてゐるのもある。酒徒としてはいづれも下の下の組である。一度も喧嘩をしないだけ先づ下の上位ゐには踏んでやつてもいゝかも知れぬ。噂《うはさ》だけでも斯ういふ噂は香ばしくない。出來るだけ速くその消滅を計り度い。心から好きなら飮むもよろしい。何を苦しんでかこれを稽古することがあらう。一度習慣となるとなか/\止められない。そしてだらしのない、いやアな酒のみになつてしまふのだ。
 全國社友大會の近づく際、特にこれらの言をなす所以《ゆゑん》である。

 旅さきでのたべものゝ話。
 折角遠方から來たといふので、たいへんな御馳走になることがある、おほくこれは田舍での話であるが。
 これもたゞ恐縮するにすぎぬ場合がおほい。酒のみは多く肴をとらぬものである。もつとも獨酌の場合には肴でもないと何がなしに淋しいといふこともあるが、誰か相手があつて呉れゝばおほくの場合それほど御馳走はほしくないものである。
 念のために此處に私の好きなものを書いて見ると、土地の名物は別として、先づとろゝ汁である。これはちひさい時から好きであつた。それから川魚のとれる處ならば川魚がたべたい。鮎、いはな、やまめなどあらばこの上なし。鮒《ふな》、鮠《はや》、鯉、うぐひ、鰻、何でも結構である。一體に私は海のものより川の魚が好きだ。但しこれは海のものよりたべる機會が少ないからかも知れない。
 それから蕎麥《そば》、夏ならばそうめん。芋大根の類、寒い時なら湯豆腐、香のものもうまいものだ。土地々々の風味の出てゐるのはこの香の物が一番の樣に思ふがどうだらう。
 田舍に生れ、貧乏で育つて來た故、餘り眼ざましい御馳走を竝べられると膽が冷えて、食慾を失ふおそれがある。まことに勿體《もつたい》ない。ないがしろにされるのは無論いやだが、徒らに氣の毒なおもひをさせられるのも心苦しい。
 飯の時には炊きたてのに、なま卵があれば結構である。それに朝ならば味噌汁。

   その二

 女人の歌。
『どうも女流の歌をば多く採りすぎていかん、もう少し削らうか。』
 と私が言へば、そばにゐた人のいふ。
『およしなさいよ、女の人のさかりは短いんだから。』

 いやさかと萬歳。
『十分ばかりお話がしたいが、いま、おひまだらうか。』
 といふ使が隣家から來た。
 ちやうど縁側に出て子供と遊んでゐたので、
『いゝや、ひまです。』
 とそのまゝ私の方から隣家へ出かけて行つた、隣家とは後備陸軍少將渡邊翁の邸の事である。土地の名望家として聞え、沼津ではたゞ「閣下」とだけで通つてゐる。私を訪ぬるために沼津驛で下車した人が若し驛前の俥に乘るならば、
「閣下の隣まで」
 と言へば恐らく默つて私の家まで引いて來るであらう。首から上に六箇所の傷痕を持つ老將軍である。
 翁の私に話したいといふ事は「いやさか」と「萬歳」とに就いてゞあつた。日本で何か事のある時大勢して唱和する祝ひの聲はおほよそ「萬歳」に限られてゐる。第一これは外國語であり、而かもその外國語にしても漢音呉音の差により一は「バンゼイ」と發音さるべく、一は「マンザイ」と發音されねばならぬのにかゝはらず、現在の「バンザイ」ではどちらつかずの鵺語《ぬえご》となつてゐる。ことにその語音が尻すぼまりになつて、つまり「バンザイ」の「イ」が閉口音になつてゐるために、陰《いん》の氣を帶びてゐる。めでたき[♯底本では「めだたき」と誤植、90-4]席に於て祝福の意味を以て唱和さるべき種類のものとしてはどの點から考へても不適當であるといふのである。
 それも他に恰好《かつかう》な言葉が無いのならば止むを得ないが、わが國固有の言葉として斯る場合に最もふさはしい一語がある。即ち「いやさか」である。「彌榮《いやさか》え」の意である。これは最初を、「イ」と口を緊《し》めておいて、やがて徐ろに明るく大きく「ヤサ、カァ」と開き上げて行く。
 どうかして「萬歳」の代りにこの「いやさか」を擴め度い、聞けば君は世にひろく事をなしてゐる人ださうだから、君の手によつてこれを行つて貰ひ度い、それをいま頼みに行かうと思つてゐたのだ、と翁は語られた。
 これは筧《かけひ》克彦博士が初めて發議せられたものであつたとおもふ。翁もさう言はれた。そして翁は多年機會あるごとにこの實地宣傳を試みられつゝあるのださうだ。
 何かで筧博士のこの説を見た時、私は面白いと思つたのであつた。端なくまた斯ういふところで思ひがけない人からこの話を聞いて、再び面白いと思つた。然し、一方は口馴れてゐるせゐか容易に呼び擧げられるが、頭で考へる「い、や、さ、か」の發音は何となく角ばつてゐて呼びにくいおもひがした。その事を翁に言ふと、翁は言下に姿勢を正して、おもひのほかの大きな聲で、その實際を示された。思はず額を上ぐるほどの、實に氣持のいゝものであつた。
 「いッ」と先づ脣と咽喉と下腹とを緊め固めて、一種氣合をかける心持で、そして徐ろに次に及び、最後の「かァ」で再び腹に力を入れて高々と叫び上げるのださうである。
 私は悉く贊成して、そして出來るだけの宣傳に努める事を約して歸つて來た。社友にも同感の人が少くないと思ふ。若し一人々々の力の及ぶ範圍に於てこれを實地に行つて頂けば幸である。
 全國社友大會の適宜な場合に渡邊翁に音頭をとつていたゞいて先づその最初を試み度く思ふ。

 梅咲くころ。
 今年は梅がたいへんに遲かつた。
   きさらぎは梅咲くころは年ごとにわれのこころのさびしかる月
 私はちらりほらりと梅の綻《ほころ》びそめるころになると毎年何とも言へない寂しい氣持になつて來るのが癖だ。それと共に氣持も落着く。
   好かざりし梅の白きを好きそめぬわが二十五の春のさびしさ
 この一首が恐らく私にとつて梅の歌の出來た最初であつたらう。房州の布良《めら》に行つてゐた時の詠である。
   年ごとにする驚きよさびしさよ梅の初花をけふ見つけたり
   うめ咲けばわがきその日もけふの日もなべてさびしく見えわたるかな
 これらは『砂丘』に載つてゐるので、私の三十歳ころのものである。
   うめの花はつはつ咲けるきさらぎはものぞおちゐぬわれのこころに
   梅の花さかり久しみ下|褪《あ》せつ雪降りつまばかなしかるらむ
   梅の花褪するいたみて白雪の降れよと待つに雨降りにけり
   うめの花あせつつさきて如月《きさらぎ》はゆめのごとくになか過ぎにけり
 これらはその次の集『朝の歌』に出てゐる。
   梅の木のつぼみそめたる庭の隈に出でて立てればさびしさ覺ゆ
   梅のはな枝にしらじら咲きそめてつめたき春となりにけるかな
   うめの花紙屑めきて枝に見ゆわれのこころのこのごろに似て
   褪《あ》せ褪《あ》せてなほ散りやらぬ白梅のはなもこのごろうとまれなくに
 その次『白梅集』には斯うした風にこの花を歌つたものがなほ多い。
 昨年はことに梅を詠んだものが多かつた。ほめ讚へたものもあつたが、矢張り淋しみ仰いだものが多かつた。
   春はやく咲き出でし花のしらうめの褪せゆく頃ぞわびしかりける
   花のうちにさかり久しといふうめのさけるすがたのあはれなるかも
 ところが今年はまだ一首もこの花の歌を作らない。もう二月も末、恐らくこの儘《まま》に過ぎてしまふ事であらう。朝夕の惶しさがこの靜かな花に向ふ事を許さぬのである。

   その三

『山櫻の歌』が出た。私にとつて第十四册目の歌集に當る。

 此處にその十四册の名を出版した順序によつて擧げて見よう。
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海 の 聲  (明治四十一年七月)  生命社
獨り歌へる  (同 四十三年一月)  八少女會
別   離  (同    年四月)  東雲堂
路   上  (同 四十四年九月)  博信堂
死か藝術か  (大正  元年九月)  東雲堂
み な か み  (同   二年九月)  籾山書店
秋 風 の 歌  (同   三年四月)  新聲社
砂   丘  (同   四年十月)  博信堂
朝 の 歌  (同   五年六月)  天弦堂
白 梅 集  (同   六年八月)  抒情詩社
寂しき樹木  (同   七年七月)  南光書院
溪 谷 集  (同   七年五月)  東雲堂
く ろ 土  (同   十年三月)  新潮社
山 櫻 の 歌  (同  十二年五月)  新潮社
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 となるわけである。この間に『秋風の歌』まで七歌集の中から千首ほどを自選して一册に輯めた
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行 人 行 歌  (大正  四年四月)  植竹書院
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 があつたが間もなく絶版になり、同じく最初より第九集『朝の歌』までから千首を拔いた
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若山牧水集  (大正 五年十一月)  新潮社
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 との二册がある。
 處女歌集『海の聲』出版當時のいきさつをばツイ二三ケ月前の『短歌雜誌』に書いておいたから此處には略《はぶ》くが、思ひがけない人が突然に現はれて來てその人に同書の出版を勸められ、中途でその人がまた突如として居なくなつたゝめ自然自費出版の形になり、金に苦しみながら辛うじて世に出したものであつた。私が早稻田大學を卒業する間際の事であつた。
『獨り歌へる』は當時名古屋の熱田から『八少女』といふ歌の雜誌を出して中央地方を兼ね相當に幅を利かしてゐた一團の人たちがあつた。今は大方四散して歌をもやめてしまつた樣だが、鷲野飛燕、同和歌子夫妻などはその頃から重だつた人であつた。その八少女會から出版する事になり、豫約の形でたしか二百部だけを印刷したものであつた。形を菊判にしたのが珍しかつた。
 程なく私は當時東雲堂の若主人西村小徑(いまの陽吉)君と一緒に雜誌『創作』を發行することになり、その創刊號と相前後して『別離』を同君方から出すことになつた。意外にこれがよく賣れたので、その前の二册はほんの内緒でやつた形があり、かた/″\で世間ではこの『別離』を私の處女歌集だと思ふ樣な事になつた。また、内容も前二册の殆んど全部を收容したものであつた。これの再版か三版かが出た時に金拾五圓也を貰つて私は甲州の下部温泉といふに出向いた事を覺えて居る。歌集で金を得たこれが最初である。
『創作』の毎月の編輯に間もなく私は飽いた來た。そしていはゆる放浪の旅が戀しく、三四年間で日本全國を※[#「※」は「えんによう+囘」、第4水準2-12-11、読みは「まわ」、96-2]るつもりで先づ甲州に入り、次いで信州に※[#「※」は「えんによう+囘」、第4水準2-12-11、読みは「まわ」、96-2]つた。かれこれ半年もそんなことをしてゐるうちにまた東京が戀しくなつて歸つて來て出版したのが『路上』である。これは當時小石川の竹早町に主として古本を買つてゐた博信堂といふ店の主人が或る紙屑屋から古人尾崎紅葉の未發表の原稿を手に入れたといふのでそれで大いに當てる積りで急に出版を始め、案外にも失敗して困つてゐた頃太田水穗さんの紹介でその店から出すことになつたのであつた。これには珍しく油繪の口繪が入つてゐる。私の歌集に肖像寫眞以外斯うした口繪の入つてゐるのはこの一册だけである。この口繪に就いて思ひ出す。出版する少し前に山本鼎君と一緒に數日間下總の市川に遊びに行つてゐた。或日同君が江戸川べりの榛《はん》の若芽を寫生すると云つて畫布を持ち出したのについて行き、その描かれるのを見てゐるうちに私は草原に眠つてしまつた。それを見た同君は急に榛の木をやめて眠つてゐる私を寫生してしまつた。サテ東京へ引上げようとなつて宿屋の拂ひが足りず、その繪を其處に置いて歸つた。それを博信堂の主人と共に幾らかの金を持つて出懸けて受取つて來て三色版にしたのであつた。原畫は私が持つてゐたのだが、富田碎花君がいつしか持ち出し、それをまたその愛人だかゞ持ち出し、思ひがけない何處か長崎あたりへ行つてゐるといふ話をあとで聞いた。
『死か藝術か』に就いても思ひ出がある。喜志子と初めて同棲して新宿の遊女屋の間の或る酒屋の二階を借りてひつそりと住んでゐた。その頃彼女は遊女たちの着物などを縫つて暮してゐたのでそんな所に住む必要があつたのだ。一緒になつて幾月もたゝぬところに私の郷里から父危篤の電報が來た。其處で周章《うろた》へて歌を纒《まと》めて東雲堂へ持ち込み、若干の旅費を作つて歸國したのであつた。で、この本の校正をば遠く日向の尾鈴山の麓でやつたのであつた。最初の校正刷を郵便屋の持つて來た時、私は庭の隅の据風呂に入つてゐて受取つた。そして濡れた手で封を切つてそれを見ながら、何となしに涙を落したことを覺えて居る。
 郷里には一年ほどゐた。一時よくなつた父がまた急にわるくなつて永眠したあと、いつそ郷里で小學校の教師か村役場にでも出て暮らさうかなどとも考へたのであつたが、矢張りさうもならず、五月ごろであつた、非常に重い心を抱いてまた上京の途についた。そしてその途中、前から手紙などを貰つてゐた伊豫岩城島の三浦敏夫君を訪ふことにした。先づ伊豫の今治《いまはる》に渡り、それから瀬戸内海の中の一つの小さな島に在る同君宅を訪ねて行つた。勸めらるゝまゝに同家の別莊風になつた一軒に暫く滯在してゐた。海の上に突き出しになつた樣な部屋は實に明るくて靜かであつた。フツと私は其處で郷里に歸つてゐた間に詠んだ歌を一册に纒めて見たいと思ひついた。そして荷物を解いてノートを取り出し一首々々清書し始めたのであつたが、それは私にとつて意外にも苦しい事業である事を知つた。郷里の一年間は異樣に緊張した感傷的な、また思索的な時間を私に送らせたのであつた。だから詠んだ歌にしろ、いつか平常の埒《らち》を放れて一首が四十四五文字もある樣なものになつたり、雅語から離れて口語になつたり、今までにない變體なものばかりが出來てゐた。それを、その郷里から離れてそんな一つの島の岸の靜かな所で見直し始めたので、周圍の環境が急變したゝめに、己れ自身自分の心の姿に驚いたのであつた。一首を寫し二首を清書してゐるうちに、全く息のつまる樣な苦しさを覺えて來た。後には飯が食へなくなつた。それを見て三浦君がひどく心配し、では私が清書しませうと云つて、大半彼が代つて寫しとつて呉れたのであつた。それを持つて上京して、當時『ホトトギス』を發行してゐた籾山書店に頼んで出版したのが『みなかみ』であつた。この歌集は私のものゝ中でも最も記念すべきものである樣に思はるゝ。その前の『死か藝術か』あたりから多少づつ變りかけてゐた私の詠歌態度が、この集に於て實に異樣に緊張して變つて來てゐるのである。『みなかみ』が出ると世間で例の破調問題が八釜敷くなり、短唱だの何だのといふものが行はるゝ樣になつた。
『みなかみ』の次に出したのが『秋風の歌』であつた。
『みなかみ』を瀬戸内海の島で編輯してゐた時のことで書き落した一事がある。餘りに急變した自分自身の歌の姿に驚いた私は、一首を書いてはやめ、二首を清書しては考へ込み、一向に爲事《しごと》の捗《はかど》らぬその間にまた行李を解いて萬葉集を取り出してぼつ/\と讀み始めた。心を靜めたいためとひとつは古來の歌の姿をさうした場合にとつくりと眺め直して見度いためであつた。そしてこの事は一層私に歌集清書の筆を鈍らしたのであつた。
 とかくして出來上つた『みなかみ』の原稿を持つて上京した私は、程なく小石川の大塚窪町に家を借り、一時信州の里へ歸してあつた妻子(その間に長男が生れてゐた)を呼んで、初めて家庭らしい家庭を構ふることになつた。そして其處に永い間の獨身時代の自由や放縱やまたは最近一二年間の歸省時代の妙に緊張してゐた生活と異つた朝夕が始まつた。鎭靜があり、疲勞があつた。さうした一年間のあひだに詠まれたものが『秋風の歌』である。これは『みなかみ』の奔放緊張は急に影を消していかにも懶《ものう》い寂寥が代つて現れて居る。この本は友人郡山幸男君の經營してゐた新聲社といふのから出したのであつたが、程なく閉店したゝめ、同君の手により他の何とかいふ本屋の手にその紙型は渡つて今でも其處から出版されてゐるさうである。散文集『牧水歌話』も亦た同樣であつた。
『秋風の歌』で見るべきは、最初『海の聲』あたりから『路上』に及ぶまで殆んど感傷一方で詠んで來たものが『死か藝術か』に及んで(その名の示すが如く)多少の思索味を加へて來、『みなかみ』で一層その熱を加へてやがて本書に及んでるのであるが、これには熱叫するといふ樣なところがなく、たゞ在るがままの自分を見詰めて歌つてゐるといふ形に表れてゐる事などであらう。
 大塚窪町に住んでゐる間に妻が病氣になつた。轉地を要するといふので相模の三浦半島に移り住んだ。大正三年の二月末であつた。そして其處で詠んだものを輯めたのが『砂丘』である。これにはいかにも物蔭に隱れて勞れを休めてゐるといふ樣な、か弱い感傷から詠まれたものが大部分を占めて居る。春の末から夏にかけての景象を歌つたものが多く、いはゞ「夏の疲勞」とも謂ふべき歌集であつた。前に『路上』を出した博信堂主人が一度悉く失敗した後、琴の音譜の本を出して大いに當て日本橋の方に引越して開業してゐる店から出版したのであつた。今でもその當時の樣にこの店が繁昌してゐるかどうか其後一向に消息をしらない。
 次が『朝の歌』である。『砂丘』と同じく三浦半島北下浦の漁村で詠んだ歌が大半を占め、東北地方の旅行さきで出來たものが加はつてゐる。同じ三浦半島で詠んだものではあるが、前の『砂丘』とは歌の性質がすつかり變つてゐる。前と違つて歌に生氣がある。しかも『みなかみ』の樣に神經質のそれでなく、おほどかな靜かな力を持つた生き/\しさであると思つて居る。この歌集あたりから私の詠風といふ樣なものがほぼ一定して來たのではないかと考へらるゝ所がある。最近の著『くろ土』『山櫻の歌』はまさしくこの『朝の歌』直系の詠みぶりであると見ることが出來るのである。さういふ所から前の『みなかみ』とはまた異つた意味で私には忘れ難い一册である。これは神樂坂に天弦堂といふを開いてゐた中村一六君の書店から出したのであつたが、これも程なく閉店し、紙型は他へ轉賣せられてしまつた。同じ店から出した散文集『和歌講話』また然りである。
 いつまでもその漁村に引込んでゐるわけにゆかず、大正五年の夏から私だけ上京して本郷の下宿に住んで原稿などを書いてゐた。その間に出來た歌を輯めたのが『白梅集』である。これはまた歌の姿が『朝の歌』とは急に變つてゐるのが不思議なほどだ。ひどく神經衰弱的で、そしてすべてが絶望的な主觀で滿ちてゐる。謂はゞ『みなかみ』をきたなくした樣なもので、それだけまた鋭くなつたとはいへるであらう。
 これは妻の歌との合著になり、内藤※[#「※」は「金+辰」、第3水準1-93-19、101-10]策君の抒情詩社から出したものであつた。當時妻も恢復して上京し、小石川の金富町に住んでゐた。
『寂しき樹木』はその次、巣鴨の天神山に移つた頃、出したものであつた。これはよく『砂丘』の詠みぶりに似通つたもので、即ち夏の輝やかしさとその光の中に疲れて居る自分の心とを詠んだ歌が一册の基調をなしてゐる。細いけれど、何處にか光を含んだものとしてこの本を振返ることが出來る。これは本郷邊の印刷所に勤めてゐた青年が(その以前籾山書店にゐた關係から歌集出版などに眼をつけてゐたと言つてゐた)突然訪ねて來て叢書の中の一編として出したいからと云つて急に原稿を纒めさせられたものであつた。彼はひどく病身で、それに初めての事ではあり、事ごとにまごついて原稿を渡してから出版まで隨分な時間がかかり、ためにその半年ほど後に東雲堂から同じく歌集叢書の一編として出す事になつた『溪谷集』の方が先に町に出てしまつたのであつた。しかも彼はこの一册を(その前に吉井勇君の『毒うつぎ』といふのがあつた)出すと直ぐ死んでしまつた。そしてこの本もそれなりになつてしまつた。印税の約束で出版した『秋風の歌』『砂丘』『朝の歌』『寂しき樹木』、それに散文集二册、すべて初版を出すか出さぬに本屋の都合でその版權が行衞不明になつてしまふなど、よくよくの貧乏性に生れて來たものと苦笑せざるを得ない。
 その『寂しき樹木』と前後して出たものに『溪谷集』がある。『朝の歌』と比べれば歌の柄《がら》の大きさに於て劣り、清澄さに於て――狹く迫つてゐることに於いて優つて居るであらう。これは主として二つの連作から成つてゐると見ていゝ。即ち一つは秋の秩父の溪谷を巡り歩いて詠んだものと、一つは伊豆の土肥温泉に滯在してその海濱の早春を詠んだものとである。
 其處で自分の歌集の出版が一寸途切れて居る。それまでは必ず一年に一册、どうかすると二册づつも出して來てゐたのであるが、『溪谷集』を出してからまる三年の間何物をも出してゐない。そして大正十年三月に出したのが『くろ土』であり、二年おいて同十二年五月出版のものが即ち最近の『山櫻の歌』となるのである。この二册に就いては多く諸君の知悉《ちしつ》せらるる所だらうと思ふので筆を略《はぶ》く。



底本:「若山牧水全集 第七巻」雄鶏社
   1958(昭和33)年11月30日初版1刷
※「飮」と「飲」の混在は「飮」に統一した。
入力:柴 武志
校正:林 幸雄
2001年6月20日公開
2001年9月3日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。


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