青空文庫アーカイブ

木枯紀行
若山牧水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)須走《すばしり》の

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(例)[#ここから2字下げ]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)うと/\と
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――ひと年にひとたび逢はむ斯く言ひて
  別れきさなり今ぞ逢ひぬる――
[#ここで字下げ終わり]

 十月二十八日。
 御殿場より馬車、乗客はわたし一人、非常に寒かつた。馬車の中ばかりでなく、枯れかけたあたりの野も林も、頂きは雲にかくれ其処ばかりがあらはに見えて居る富士山麓一帯もすべてが陰欝で、荒々しくて、見るからに寒かつた。
 須走《すばしり》の立場で馬車を降りると丁度其処に蕎麦屋があつた。これ幸ひと立寄り、先づ酒を頼み、一本二本と飲むうちにやゝ身内が温くなつた。仕合せと傍への障子に日も射して来た。過ぎるナ、と思ひながら三本目の徳利をあけ、女中に頼んで買つて来て貰つた着茣蓙を羽織り、脚軽く蕎麦屋を立ち出でた。
 宿場を出はづれると直ぐ、右に曲り、近道をとつて籠坂《かごさか》峠の登りにかかつた。おもひのほかに嶮しかつた。酒は発する、息は切れる、幾所《いくところ》でも休んだ。そしていつもの通り旅行に出る前には留守中の手当《てあて》為事《しごと》で睡眠不足が続いてゐたので、休めば必ず眠くなつた。一二度用心したが、終《つい》に或所で、萱か何かを折り敷いたまゝうと/\と眠つてしまつた。
「モシ/\、モシ/\」
 呼び起されて眼を覚すと我知らずはつ[#「はつ」に傍点]とせねばならなかつた程、気味の悪い人相の男がわたしの前に立つてゐた。顔に半分以上の火傷《やけど》があり眼も片方は盲ひて引吊つてゐた。
「風邪をお引きになりますよ」
 わたしの驚きをいかにも承知してゐたげにその男は苦笑して、言ひかけた。
 わたしはやゝ恥しく、惶てゝ立ち上つて帽子をとりながら礼を言つた。
「登りでしたら御一緒に参りませう」
 とその若い男は先に立つた。
 酒を過して眠りこけてゐた事をわたしは語り、彼は東京で震災でこの大火傷を負うた旨を語りつゝ峠に出た。
 吉田で彼と別れた。彼は何か金の事で東京から来て、昨日は伊豆の親類を訪ね、今日はこれより大月の親類に廻つて助力を乞ふつもりだといふ様な事を問はず語りに話し出した。いかにも好人物らしく、彼が同意するならば一緒に今夜吉田で泊るも面白からうなどとわたしは思うた。が、先を急ぐと云つて、そゝくさと電車に乗つて彼は行つてしまつた。
 ほんの一寸の道づれであつたが、別れてみれば淋しかつた。それにいつか暮れかけては来たし、風も出、雨も降り出した。其儘、吉田で泊らうかと余程考へたが、矢張り予定通り河口湖の岸の船津まで行く事にし、両手で洋傘を持ち、前こゞみになつて、小走りに走りながら薄暗い野原の路を急いだ。
 午後七時、湖岸の中屋ホテルといふに草鞋をぬいだ。

 十月二十九日。
 宿屋の二階から見る湖にはこまかい雨が煙つてゐたが、やや遅い朝食の済む頃にはどうやら晴れた。同宿の郡内屋(土地産の郡内織を売買する男ださうで女中が郡内屋さんと呼んでゐた)と共に俄かに舟を仕立て、河口湖を渡ることにした。
 真上に仰がるべき富士は見えなかつた。たゞ真上に雲の深いだけ湖の岸の紅葉が美しかつた。岸に沿ふた村の柿の紅葉がことに眼立つた。こゝらの村は湖に沿うてゐながら井戸といふものがなく、飲料水には年中苦労してゐるのださうだ。熔岩地帯であるためだといふ。
 渡りあがつた所の小村で郡内屋と別れ、ルツクサツクの重みを快く肩に背に感じながらわたしはいい気持で歩き出した。直ぐ、西湖に出た。小さいながらに深く湛へてゐるこの湖の縁を歩きつくした所に根場《ねんば》といふ小さな部落があつた。所の祭礼らしく、十軒そこそこの小村に幟が立てられ、太鼓の音が響いてゐた。
 不図見ると村に不似合の小綺麗なよろづ屋があつた。わたしは其処に寄り、酒と鑵詰とを買ひ、なほ内儀の顔色をうかがひながらおむすびを握つて貰へまいかと所望してみた。お安いことだが、今日は生憎くお赤飯だといふ。なほ結構ですと頼んで、揃つた夫等を風呂敷に包んで提げながら、其処を辞した。今朝、雨や舟やで、宿屋で此等を用意するひまがなく、また急げば昼までには精進湖《しようじこ》まで漕ぎつけるつもりで立つて来たのであつた。然し、次第に天気の好くなるのを見てゐると、これから通りかゝる筈の青木が原をさう一気に急いで通り過ぎることは出来まいと思はれたので、店のあつたのを幸ひに用意したのであつた。
 樹海などと呼びなされてゐる森林青木が原の中に入つたのはそれから直ぐであつた。成る程好き森であつた。上州信州あたりの山奥に見る森木の欝蒼たる所はないが、明るく、而かも寂びてゐた。木に大木なく、而かもすべて相当の樹齢を持つてゐるらしかつた。これは土地が一帯に火山岩の地面で、土気《つちけ》の少いためだらうと思はれた。それでゐて岩にも、樹木の幹にも、みな青やかな苔がむしてゐた。多くは針葉樹の林であるが、中に雑木も混り、とりどりに紅葉してゐた。中でも楓が一番美しかつた。楓にも種類があり、葉の大きいのになるとわたしの掌をひろげても及ばぬのがあつた。小さいのは小さいなりに深い色に染つてゐた。多くは栂《つが》らしい木の、葉も幹も真黒く見えて茂つてゐるなかに此等の紅葉は一層鮮かに見えた。
 わたしは路をそれて森の中に入り、人目につかぬ様な所を選んで風呂敷包を開いた。空が次第に明るむにつれ、風が強くなつた。あたりはひどい落葉の音である。樅か栂のこまかい葉が落ち散るのである。雨の様な落葉の音の中に混つて頻りに山雀の啼くのが聞える。よほど大きな群らしく、相引いて次第に森を渡つてゆくらしい。と、ツイ鼻先の栂の木に来て樫鳥が啼き出した。これは二羽だ。例の鋭い声でけたゝましく啼き交はしてゐる。
 長い昼食を終つてわたしはまた森の中の路を歩き出した。誰一人ひとに会はない。歩きつ休みつ、一時間あまりもたつた頃、森を出外れた。そして其処に今までのいづれよりも深く湛へた静かな湖があつた。精進湖である。客も無からうにモーターボートの渡舟が岸に待つてゐた。快い速さで湖を突つ切り、山の根つこの精進村に着いた。山田屋といふに泊る。

 十月三十日。
 宿屋に瀕死の病人があり、こちらもろくろくえ眠らずに一夜を過した。朝、早く立つ。
 坂なりの宿場を通り過ぎると愈々嶮しい登りとなつた。名だけは女坂峠といふ。堀割りの様になつた凹みの路には堆く落葉が落ち溜つてじとじとに濡れてゐた。
 越え終つて渓間に出、渓沿ひに少し歩き渓を渡つてまた坂にかゝつた。左右口峠《うばぐちたうげ》といふ。この坂は路幅も広く南を受けて日ざしもよかつたが、九十九折の長い/\坂であつた。退屈しい/\登りついた峠で一休みしようと路の左手寄りの高みの草原に登つて行つてわたしは驚喜の声を挙げた。不図振返つて其処から仰いだ富士山が如何に近く、如何に高く、而してまたいかばかり美しくあつたことか。
 空はむらさきいろに晴れてゐた。その四方の空を占めて天心近く暢びやかに聳え立つてゐる山嶺を仰ぐにはこちらも身を頭をうち反らせねばならなかつた。今日の深い色の空の真中に立つこの山にもまた自づと深い光が宿つてゐた。半ばは純白の雪に輝き、なかばは山肌の黒紫《くろむらさき》が沈んだ色に輝いてゐた。而してその山肌には百千の糸巻の糸をほどいて打ち垂らした様に雪がこまかに尾を引いてしづれ落ちてゐるのであつた。
 峠を下り、やゝ労れた脚で笛吹川を渡らうとすると運よく乗合馬車に出会つてそれで甲府に入つた。甲府駅から汽車、小淵沢駅下車、改札口を出ようとすると、これは早や、かねて打合せてあつた事ではあるが信州松代在から来た中村柊花君が宿屋の寝衣を着て其処に立つてゐた。
「やア!」
「やア!」
 打ち連れて彼の取つてゐた宿いと屋といふに入つた。
 親しい友と久し振に、而かも斯うした旅先などで出逢つて飲む酒位ゐうまいものはあるまい。風呂桶の中からそれを楽しんでゐて、サテ相対して盃を取つたのである。飲まぬ先から心は酔うてゐた。
 一杯々々が漸く重なりかけてゐた所へ思ひがけぬ来客があつた。この宿に止宿してゐる小学校の先生二人、いま書いて下げた宿帳で我等が事を知り、御高説拝聴と出て来られたのである。
 漸くこの二人をも酒の仲間に入れは入れたが要するに座は白けた。先生たちもそれを感じてかほど/\で引上げて行つた。が、我等二人となつても初めの気持に返るには一寸間があつた。
「あなたはさぼし[#「さぼし」に白丸傍点]といふものを知つてますか」と、中村君。
「さア、聞いた事はある様だが……」
「此の地方の、先づ名物ですネ、他地方で謂ふ達磨の事です」
「ほゝウ」
「行つて見ませうか、なか/\綺麗なのもゐますよ」
 斯くて二人は宿を出て、怪しき一軒の料理屋の二階に登つて行つた。そしてさぼし[#「さぼし」に白丸傍点]なるものを見た。が不幸にして中村君の保証しただけの美しいのを拝む事は出来なかつた。何かなしに唯がぶ/\と酒をあふつた。
 二人相縺れつゝ宿に帰つたはもう十二時の頃でもあつたか。ぐつすりと眠つてゐる所をわたしは起された。宿の息子と番頭と二人、物々しく手に/\提灯を持つて其処に突つ立つてゐる。何事ぞと訊けば、おつれ様が見えなくなつたといふ。見れば傍の中村君の床は空である。便所ではないかと訊けば、もう充分探したといふ。サテは先生、先刻の席が諦められず、またひそかに出直して行つたと見える。わたしはさう思うたので笑ひながらその旨を告げた。が、番頭たちは強硬であつた。あなた達の帰られた後、店の大戸には錠をおろした。その錠がそのまゝになつてゐる所を見ればどうしてもこの家の中に居らるゝものとせねばならぬ……。
「実はいま井戸の中をも探したのですが……」
「どうしても解らないとしますと駐在所の方へ届けておかねばならぬのですが……」
 吹き出し度いながらにわたしも眼が覚めてしまつた。
 如何なる事を彼は試みつゝあるか、一向見当がつきかねた。見廻せば手荷物も洋服も其儘である。
 其処へ階下からけたゝましい女の叫び声が聞えた。
 二人の若者はすは[#「すは」に白丸傍点]とばかり飛んで行つた。わたしも今は帯を締めねばならなかつた。そして急いで階下へおりて行つた。
 宿の内儀を初め四五人の人が其処の廊下に並んで突つ立つてゐる。宵の口の小学校教師のむつかしい顔も見えた。自《おのづ》からときめく胸を抑へてわたしは其処へ行つた。と、またこれはどうしたことぞ、其処は大きなランプ部屋であつた。さまざまなランプの吊り下げられた下に、これはまたどうした事ぞ、わが親友は泰然として坐り込んでゐたのである。
「どうもこのランプ部屋が先刻からがたがたといふ様だものですから、いま来て戸をあけて見ましたらこれなんです、ほんとに妾はびつくりして……」
 内儀はたゞ息を切らしてゐる。怒るにも笑ふにもまだ距離があつたのだ。
 わたしとしても早速には笑へなかつた。先づ居並ぶ其処の人たちに陳謝し、サテ徐ろにこの石油くさき男を引つ立てねばならなかつた。

 十月三十一日。
 早々に小淵沢の宿を立つ。空は重い曇であつた。
 宿屋を出外れて路が広い野原にかゝるとわたしの笑ひは爆発した。腹の底から、しんからこみあげて来た。
「どうして彼処に這入る気になつた」
「解らぬ」
「這入つて、眠つてたのか」
「解らぬ」
「何故戸を閉めてゐた」
「解らぬ」
「何故坐つてゐた」
「解らぬ」
「見附けられてどんな気がした」
「解らぬ」
 一里行き、二里行き、わたしは始終腹を押へどほしであつた。何事も無かつた様な、まだ身体の何処やらに石油の余香を捧持してゐさうな、丈高いこの友の前に立つても可笑しく、あとになつても可笑しかつた。が、笑つてばかりもゐられなかつた。二晩つづきの睡眠不足はわたしの足を大分鈍らしてゐた。それに空模様も愈々怪しくなつて来た。三里も歩いた頃、長沢といふ古びはてた小さな宿場があつた。其処で昼をつかひながら、この宿場にあるといふ木賃宿に泊る事をわたしは言ひ出した。が、今度は中村君の勢ひが素晴しくよくなつた。どうしても予定の通り国境を越え、信州野辺山が原の中に在る板橋の宿《しゆく》まで行かうといふ。
 我等のいま歩いてゐる野原は念場が原といふのであつた。八ヶ嶽の南麓に当る広大な原である。所所に部落があり、開墾地があり雑草地があり林があつた。大小の石ころの間断なく其処らに散らばつてゐる荒々しい野原であつた。重い曇で、富士も見えず、一切の眺望が利かなかつた。
 止むなく彼の言ふ所に従つて、心残りの長沢の宿《しゆく》を見捨てた。また、先々の打ち合せもあるので予定を狂はす事は不都合ではあつたのだ。路はこれからとろ/\登りとなつた。この路は昔(今でもであらうが)北信州と甲州とを繋ぐ唯一の通路であつたのだ。幅はやゝ広く、荒るゝがまゝに荒れはてた悪路であつた。
 とう/\雨がやつて来た。細かい、寒い時雨である。二人とも無言、めい/\に洋傘をかついで、前こゞみになつて急いだ。この友だとて身体の労れてゐない筈はない。大分怪しい足どりを強ひて動かしてゐるげに見えた。よく休んだ。或る所では長沢から仕入れて来た四合壜を取り出し、路傍に洋傘をたてかけ、その蔭に坐つて啜り合つた。
 恐れてゐた夕闇が野末に見え出した。雨はやんで、深い霧が野末をこめて来た。地図と時計とを見較ベ/\急ぐのであつたが、すべりやすい粘土質の坂路の雨あがりではなか/\思ふ様に歩けなかつた。そのうち、野末から動き出した濃霧はとう/\我等の前後を包んでしまつた。
 まだ二里近くも歩かねば板橋の宿には着かぬであらう、それまでには人家とても無いであらうと急いでゐる鼻先へ、意外にも一点の灯影を見出した。怪しんで霧の中を近づいて見るとまさしく一軒の家であつた。ほの赤く灯影に染め出された古障子には飲食店と書いてあつた。何の猶予もなくそれを引きあけて中に入つた。
 入つて一杯元気をつけてまた歩き出すつもりであつたのだが、赤々と燃えてゐる囲爐裏の火、竃の火を見てゐると、何とももう歩く元気は無かつた。わたしは折入つて一宿の許しを請うた。囲爐裏で何やらの汁を煮てゐた亭主らしい四十男は、わけもなく我等の願ひを容れて呉れた。
 我等のほかにもう一人の先客があつた。信州海の口へ行くといふ荷馬車挽きであつた。それに亭主を入れて我等と四人、囲爐裏の焚火を囲みながら飲み始めた酒がまた大変なことゝなつた。
 折々誰かゞ小便に立つとて土間の障子を引きあけると、捩ぢ切る様な霧がむく/\とこの一座の上を襲うて来た。

 十一月一日。
 酒を過した翌朝は必ず早く眼が覚めた。今朝もそれであつた。正体なく寝込んでゐる友人の顔を見ながら枕許の水を飲んでゐると、早や隣室の囲爐裏ではぱち/\と焚火のはじける音がしてゐる。早速にわたしは起き上つた。
 まだランプのともつた爐端には亭主が一人、火を吹いてゐた。膝に四つか五つになる娘が抱かれてゐた。昨夜から眼についてゐた事であつたが、この子の鼻汁は鼻から眼を越えて瞼にまで及んでゐた。今朝もそれを見い/\、この子の名は何といひましたかね、と念のため訊いてみた。マリヤと云ひますよとの答へである。そして、それはこの子の生れる時、何とかいふ耶蘇の学者がこの附近に耶蘇の学校を建てるとか云つて来て泊つてゐて、名づけてくれたのだといふ。
「昨晩はどうも御馳走さまになりました」
 と、やがてそのマリヤの父親はにや/\しながら言つた。
「イヤ、お騒がせしました」
 とわたしは頭を掻いた。
 其処へ荷馬車挽きも起きて来た。
 煙草を二三本吸つてゐるうちに土間の障子がうす蒼く明るんで来た。顔を洗ひに戸外《おもて》に出ようとその障子を引きあけて、またわたしは驚いた。丁度真正面に、広々しい野原の末の中空に、富士山が白麗朗と聳えてゐたのである。昨日はあれをその麓から仰いで来たに、とうろたへて中村君を呼び起したが、返事もなかつた。
 膳が出たが、わが相棒は起きて来ない。止むなく三人だけで始める。今朝は炬燵を作りその上で一杯始めたのである。霧は既に晴れ、あけ放たれた戸口からは朝日がさし込んで炬燵にまで及んで居る。
 そしていつの間に出て来たものか[#「来たものか」は底本では「来もたのか」]、見渡す野原も、その向う下の甲州地も一面の雲の河となつてしまつた。富士だけがそれを抜いて独りうらゝかに晴れてゐる。二三日前にツイこの向うの原で鹿が鳴いたとか、三四尺の雪に閉ぢこめられて五日も十日も他人の顔を見ずに過す事が間々あるとか、丁度此処は甲州と信州との境に当つてゐるのでこの家のことを国境といふとかいふ様な話のうちに、おとなしく朝食は終つた。
 困つたのはランプ部屋居士である。砂糖湯を持つて行き、梅干茶を持つて行き、お迎へに一杯冷たいのをぐいとやつて見ろとて持つて行くが、持つて行つたものを大抵飲み干すが、なか/\御神輿が上らない。「とても歩けさうにない、あのお荷物を頼みますよ」とわたしが言つたので荷馬車屋もよう立ちかねてゐる。六時から十時まで、さうして過した。「いつまでもこれでは困るだらう、お前さん先に行つて呉れ」
 と荷馬車屋を立たせようとしてゐる所へ、蹌踉として起きて来た。ランプ部屋ではまだ何処やら勇ましかつたが、今朝はあはれ見る影もない。
 早速出立、実によく晴れて、霜柱を踏む草鞋の気持はまさしく脳にも響く快さである。昨日はその南麓を巡つて来た八ヶ嶽の今日は北の裾野を横切つてゐるわけである。からりと晴れたこの山のいただきにうつすらと雪が来てゐた。
「大丈夫か、腰の所を何かで結《ゆは》へようか」
「大、丈、夫です」
 と、居士は荷馬車の尻の米俵の上に鎮座ましまし、こくり/\と揺られてゐる。
 野原と云つても多くは落葉松の林である。見る限りうす黄に染つたこの若木のうち続いてゐる様はすさまじくもあり、また美しくも見えた。方数里に亙つてこれであろう。
 漸く歌を作る気にもなつた。
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日をひと日わが行く野辺のをちこちに冬枯れはてて森ぞ見えたる
落葉松は痩せてかぼそく白樺は冬枯れてただに真白かりけり
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 二里あまり歩いてこの野のはづれ、市場といふへ来た。此処にも一軒屋の茶店があつた。綺麗な娘がゐるといふので昼食をする事にした。
 其処より逆落しの様な急坂を降れば海の口村、路もよくなり、もう中村君も歩いてゐた。やゝ歩調を整えて存外に早く松原湖に着き、湖畔の日野屋旅館におちついた。まだ誰も来てゐなかつた。
 程なく布施村より重田行歌、荻原太郎君の両君、本牧村より大沢茂樹君、遠く松本市より高橋希人君がやつて来た。これだけ揃うとわたしも気が大きくなつた。昨日一昨日は全く心細かつた。
 夕方から凄じい木枯が吹き出した。宿屋の新築の別館の二階に我等は陣取つたのであつたが、たび/\その二階の揺れるのを感じた。
 宵早く雨戸を締め切つて、歌の話、友の噂、生活の事、語り終ればやがて枕を並べて寝た。
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遠く来つ友もはるけく出でて来て此処に相逢ひぬ笑みて言《こと》なく
無事なりき我にも事の無かりきと相逢ひて言ふその喜びを
酒のみの我等がいのち露霜の消《け》やすきものを逢はでをられぬ
湖《うみ》べりの宿屋の二階寒けれや見るみずうみの寒きごとくに
隙間洩る木枯の風寒くして酒の匂ひぞ部屋に揺れたつ
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 十一月二日。
 夜つぴての木枯であつた。たび/\眼が覚めて側を見ると、皆よく眠つてゐた。わたしは端で窓の下、それからずらりと五人の床が並んでゐるのである。その木枯が今朝までも吹き通してゐたのである。そして木の葉ばかりを吹きつける雨戸の音でないと思うて聴いてゐたのであつたが、果して細かな雨まで降つてゐた。
 午前中をば膝せり合せて炬燵に噛りついて過した。昼すぎ、風はいよいよひどいが、雨はあがつた。他の四君は茸とりにとて出かけ、わたしは今日どうしても松本まで帰らねばならぬといふ高橋君を送つて湖畔を歩いた。ひどい風であり、ひどい落葉である。別れてゆく友のうしろ姿など忽ち落葉の渦に包まれてしまつた。
 茸は不漁であつたらしいが、何処からか彼等は青首の鴨を見附けて来た。山の芋をも提げて来た。善哉々々と今宵も早く戸をしめて円陣を作つた。宵かけてまた時雨、風もいよ/\烈しい。が、室内には七輪にも火鉢にも火がかつかと熾《おこ》つた。
 どうした調子のはずみであつたか、我も知らずひとにも解らぬが、ふとした事から我等は一斉に笑ひ出した。甲笑ひ乙応じ、丙丁戊みな一緒になつて笑ひくづれたのである。それが僅かの時間でなく、絶えつ続きつ一時間以上も笑ひ続けたであらう。あまり笑ふので女中が見に来て笑ひこけ、それを叱りに来た内儀までが廊下に突つ伏して笑ひころがるといふ始末であつた。たべた茸の中に笑ひ茸でも混つてゐたのか知れない。

 十一月三日。
 相も変らぬ凄じい木枯である。宿の二階から見てゐると湖の岸の森から吹きあげた落葉は凄じい渦を作つて忽ちにこの小さな湖を掩ひ、水面をかしくてしまふのである。それに混つて折々樫鳥までが吹き飛ばされて来た。そしてたま/\風が止んだと見ると湖水の面にはいちめんに真新しい黄色の落葉が散らばり浮いてゐるのであつた。落葉は楢が多かつた。
 今日は歌を作らうとて皆むつかしい顔をすることになつた。
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木枯の過ぎぬるあとの湖をまひ渡る鳥は樫鳥かあはれ
声ばかり鋭き鳥の樫鳥ののろのろまひて風に吹かるる
樫鳥の羽根の下羽の濃むらさき風に吹かれて見えたるあはれ
はるけくも昇りたるかな木枯にうづまきのぼる落葉の渦は
ひと言を誰かいふただち可笑しさのたねとなりゆく今宵のまどゐ
木枯の吹くぞと一人たまたまに耳をたつるも可笑しき今宵
笑ひこけて臍《へそ》の痛むと一人いふわれも痛むと泣きつつぞ言ふ
笑ひ泣く鼻のへこみのふくらみの可笑しいかなやとてみな笑ひ泣く
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 十一月四日
 今日はわたしは皆に別れて独り千曲川の上流へと歩み入るべき日であつたが、「わが若草の妻し愛《かな》し」とばかり言ひ張つてゐる重田君の宅を布施村に訪うてそのわか草の新妻の君を見る事になつた。
 やれとろゝ汁よ鯉こくよとわが若草の君をいたはり励まし作りあげられた御馳走に面々悉く食傷して昨夜の勢ひなくみなおとなしく寝てしまふた。

 十一月五日
 総勢岩村田に出で、其処で別れる事になつた。たゞ大沢君は細君の里なる中込駅までとてわたくしと同車した。もうその時は夕暮近かつた。
 四五日賑かに過したあとの淋しさが、五体から浸み上つて来た。中込駅で降りようとする大沢君を口説き落して汽車の終点馬流駅まで同行する事になつた。
 泊つた宿屋が幸か不幸か料理屋兼業であつた。乃ち内芸者の総上げをやり、相共に繰返してうたへる伊那節の唄
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逢うてうれしや別れのつらさ逢うて別れがなけりやよい
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 十一月六日
 どうも先生一人をお立たせするのは気が揉めていけない、もう一日お伴しませう、と大沢君が憐憫の情を起した。そして共に草鞋を履き、千曲川に沿うて鹿の湯温泉といふまで歩いた。
 其処で鯉の味噌焼などを作らせ一杯始めてゐる所へ、裁判官警察山林官聯合といふ一行が押し込んで来た。そして我等二人は普通の部屋から追はれて、台所の上に当る怪しき部屋へ押込まれた。下からは炊事の煙が濛々として襲うて来るのである。
「これア耐らん、まつたくの燻し出しだ」
 と言ひながら我等は膳をつきやつてまた草鞋を履いた。
 夕闇寒きなかを一里ほど川上に急いで、湯沢の湯といふへ着いた。

 十一月七日。
 朝、沸し湯のぬるいのに入つてゐると、ごう/\といふ木枯の音である。ガラス戸に吹きつけられ、その破れをくゞつて落葉は湯槽の中まで飛んで来た。そしてとう/\雨まで降り出した。
 終日、二人とも、炬燵に潜つて動かず。

 十一月八日。
 誘ひつ誘はれつする心はとう/\二人を先日わたしと中村君と昼食した市場といふ原中の一軒家まで連れて行つた。其処で愈々お別れだと土間に切られた大きな炉に草鞋を踏み込んで盃を取らうとすると不図其処の壁に見ごとな雉子が一羽かけられてあるのを見出した。これを料理して貰へまいかと言へば承知したといふ。其処へ先日から評判の美しい娘が出て来て、それだつたら二階へお上りなさいませといふ。両個相苦笑して草鞋をぬぐ。
 いつの間にやら夜になつてゐた。初めちよい/\顔を見せてゐた娘は来ずなり、代つてその親爺といふのが徳利を持つて来た。そして北海道の監獄部屋がどうの、ピストルや匕首が斯うのといふ話を独りでして降りて行つた。小半日、ぐづぐづして終に泊り込んだ我等をそれで天晴れ威嚇したつもりであつたのかも知れない。
 二階は十六畳位ゐも敷けるがらんどうな部屋であつた。年々馬の市が此処の原に立つので、そのためのこの一軒家であるらしい。

 十一月九日。
 早暁、手を握つて別れる。彼は坂を降つて里の方へ、わたしは荒野の中を山の方へ、久しぶりに一人となつて踏む草鞋の下には二寸三寸高さの霜柱が音を立てつつ崩れて行つた。
 また久し振の快晴、僅か四五日のことであつたに八ヶ嶽には早やとつぷりと雪が来てゐた。野から仰ぐ遠くの空にはまだ幾つかの山々が同じく白々と聳えてゐた。踏み辿る野辺山が原の冬ざれも今日のわたしには何となく親しかつた。
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野末なる山に雪見ゆ冬枯の荒野を越ゆと打ち出でて来れば
大空の深きもなかに聳えたる峰の高きに雪降りにけり
高山に白雪降れりいつかしき冬の姿を今日よりぞ見む
わが行くや見る限りなるすすき野の霜に枯れ伏し真白き野辺を
はりはりとわが踏み裂くやうちわたす枯野がなかの路の氷を
野のなかの路は氷りて行きがたし傍への芝の霜を踏みゆく
枯れて立つ野辺のすすきに結べるは氷にまがふあららけき霜
わが袖の触れつつ落つる路ばたの薄の霜は音立てにけり
草は枯れ木に残る葉の影もなき冬野が原を行くは寂しも
八ヶ嶽峰のとがりの八つに裂けてあらはに立てる八ヶ嶽の山
昨日見つ今日もひねもす見つつ行かむ枯野がはての八ヶ嶽の山
冬空の澄みぬるもとに八つに裂けて峰低くならぶ八ヶ嶽の山
見よ下にはるかに見えて流れたる千曲の川ぞ音も聞えぬ
入り行かむ千曲の川のみなかみの峰仰ぎ見ればはるけかりけり
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 おもうて来た千曲川上流の渓谷はさほどでなかつたが、それを中に置いて見る四方寒山の眺望は意外によかつた。
 大深山村附近雑詠。
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ゆきゆけどいまだ迫らぬこの谷の峡間《はざま》の紅葉時過ぎにけり
この谷の峡間を広み見えてをる四方の峰々冬寂びにけり
岩山のいただきかけてあらはなる冬のすがたぞ親しかりける
泥草鞋踏み入れて其処に酒をわかすこの国の囲炉裏なつかしきかな
とろとろと榾火《ほだび》燃えつつわが寒き草鞋の泥の乾き来るなり
居酒屋の榾火のけむり出でてゆく軒端に冬の山晴れて見ゆ
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 とある居酒屋で梓山村に帰りがけの爺さんと一緒になり、共にこの渓谷のつめの部落梓山村に入つた。そして明日はこの爺さんに案内を頼んで十文字峠を越ゆることになつた。
 此処の宿屋でまた例の役人連中と落合ふことになつた。ひとの食事をとつてゐる炬燵にまで這入つて来て足を投げ出す傍若無人の振舞に耐へかねて、膳の出たばかりであつたが、わたしはその宿を出た。そして先刻知り合ひになつた爺さんのうちにでも泊めて貰はうとその家を訪ねた。爺さんはまだ夕闇の庭で働いてゐた。見るからに荒れすたれた家で、とても一泊を頼むわけに行きさうにもなかつた。当惑しながら、ほかにもう宿屋は無からうかと訊くと、木賃宿ならあるといふ。結構、何処ですといふと爺さんが案内して呉れた。木賃宿とは云つても古びた堂々たる造りで、三部屋ばかり続いた一番奥の間に通された。
 煤びた、広い部屋であつた。先ず炬燵が出来、ランプが点り、膳が出、徳利が出た。が何かなしに寒さが背すぢを伝うて離れなかつた。二間ほど向うの台所の囲炉裡端でもそろ/\夕飯が始まるらしく、家族が揃つて、大賑かである。わたしはとう/\自分のお膳を持つてその焚火に明るい囲炉裡ばたまで出かけて仲間に入つた。
 最初来た時から気のついてゐた事であつたが、此処では普通の厩でなく、馬を屋内の土間に飼つてゐるのであつた。津軽でもさうした事を見た、余程この村も寒さが強いのであろうと二疋並んでこちらを向いてゐる愛らしい馬の眼を眺めながら、案外に楽しい夕餉を終つた。家の造り具合、馬の二疋ゐる所、村でも旧家で工面のいゝ家らしく、家人たちも子供までみな卑しくなかつた。

 十一月十日。
 満天の星である。切れる様な水で顔を洗ひ、囲炉裡にどんどと焚いて、お茶代りの般若湯を嘗めてゐると、やがて味噌汁が出来、飯が出た。味噌汁には驚いた。内儀は初め馬の秣桶で、大根の葉の切つたのか何かを掻きまぜてゐたが、やがてその手を囲炉裡にかゝつた大鍋の漸くぬるみかけた水に突つ込んでばしや/\と洗つた。その鍋へ直ちに味噌を入れ、大根を入れ、斯くて味噌汁が出来上つたのである。
 馬たちはまだ寝てゐた。大きい身体をやゝ円めに曲げて眠つてゐる姿は、実に可愛いゝものであつた。毛のつやもよかつた。これならお前たちと一つ鍋のものをたべても左程きたなくはないぞよと心の中で言ひかけつゝ、味噌汁をおいしくいたゞいた。
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寒しとて囲炉裡の前に厩作り馬と飲み食ひすこの里人は
まるまると馬が寝てをり朝立《あさだち》の酒わかし急ぐ囲炉裡の前に
まろく寝て眠れる馬を初めて見きかはゆきものよ眠れる馬は
のびのびと大き獣のいねたるは美しきかも人の寝しより
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 其処へ提灯をつけて案内の爺さんが来た。相共に上天気を喜びながら宿を出た。
 十文字峠は信州武州に跨がる山で、此処より越えて武蔵荒川の上流に出るまで上下七里の道のりだといふ。その間、村はもとより、一軒の人家すら無いといふ。暫らく渓に沿うて歩いた。もう此処等になると千曲川も小さな渓となつて流れてゐるのである。やがて、渓ばたを離れて路はやゝ嶮しく、前後左右の見通しのきかない様な針葉樹林の中に入つてしまつた。木は多く樅と見た。今日はいちにち斯うした森の中を歩くのだと爺さんは言つた。
 三国に跨がるこの大きな森林は官有林であり、其処にひそひそ盗伐が行はれてゐた。中でもやゝ組織的に前後七年間にわたつて行はれてゐた盗伐事件が今度漸く摘発せられたのださうだ。何しろ関係する区割が広く、長野県群島県東京府の役人たちがそのために今度出張つて来たのだといふ。わたしは苦笑した。その役人共のためにわたしは二度宿屋から追放されたのだと。
 いかにも深い森であつた。そして曲のない森でもあつた。素人眼には唯だ一二種類と見ゆる樹木が限界もなく押し続いてゐるのみであるのだ。不思議と、鳥も啼かなかつた。一二度、駒鳥らしいものを聞いたが、季節が違つてゐた。たゞ散り積つてゐるこまかな落葉をさつくり/\と踏んでゆく気持は悪くなかつた。それが五六里の間続くのである。
 幸ひに登りつくすと路は峰の尾根に出た。そして殆んど全部尾根づたひにのみ歩くのであつた。ために遠望が利いた。ことに峠を越え、武州地に入つてからの方がよかつた。我等の歩いてゐる尾根《をね》の右側の遠い麓には荒川が流れてゐ、同じく左側の峡間の底には末は荒川に落つる中津川が流れてゐた。いや、ゐる筈であつた。山々の勾配がすべて嶮しく、且つ尾根と尾根との交はりが非常に複雑で、なか/\其処の川の姿を見る事は出来なかつた。
 やがて夕日の頃となると次第にこの山の眺めが生きて来た。尾根の左右に幾つともなく切れ落ちてゐる山襞、沢、渓間の間にほのかに靄が湧いて来た。何処からとなく湧いて来たこの靄は不思議と四辺の山々を、山々に立ちこんでゐる老樹の森を生かした。
 また、夕日は遠望をも生かした。遠い山の峰から峰へ積つてゐる雪を輝かした。浅間山の煙だらうとおもはるゝものをもかすかに空に浮かし出した。其他、甲州地、秩父地、上州地、信州地は無論のこと、杳《はる》かに越後境だらうと眺めらるゝもろ/\の峰から峰へ、寒い、かすかな光を投げて、云ふ様なき荘厳味を醸し出して呉れたのである。
「ホラ、彼処《あそこ》にちよつぴり青いものが見ゆるづら、」
 と老爺はうなづいて、其処の伝説を語つた。斯うした深い渓間だけに、初め其処に人の住んでゐる事を世間は知らなかつた。ところが折々この渓奥から椀のかけらや、箭の折れたのが流れ出して来る。サテ豊臣の残党でも隠れひそんでゐるのであろうと、丁度江戸幕府の初めの頃で、所の代官が討手に向うた。そして其処の何十人かの男女を何とかいふ蔓《かづら》で、何とかいふ木にくゝつてしまつた。そして段々検べてみると同じ残党でも鎌倉の落武者の後である事が解つて、蔓を解いた。其処の土民はそれ以来その蔓とその木とを恨み、一切この渓間より根を断つべしと念じた。そして今では一本としてその木とその蔓とを其処に見出せないのださうである。
 日暮れて、ぞく/\と寒さの募る夕闇に漸く峠の麓村栃本といふへ降り着いた。此処は秩父の谷の一番つめの部落であるさうだ。其処では秩父四百竃の草分と呼ばれてゐる旧家に頼んで一宿さして貰うた。
 栃本の真下をば荒川の上流が流れてゐた。殆んど真角に切れ落ちた断崖の下を流れてゐるのである。向う岸もまた同じい断崖でかえたつた山となつて居る。その向う岸の山畑に大根が作られてゐた。栃本の者が断崖を降り、渓を越えまた向う地の断崖を這ひ登つてその大根畑まで行きつくには半日かかるのださうだ。帰りにはまた半日かゝる。ために此処の人たちは畑に小屋を作つて置き、一晩泊つて、漸く前後まる一日の為事をして帰つて来るのだといふ。栃本の何十軒かの家そのものすら既に断崖の中途に引つ懸つてゐる様な村であつた。

 十一月十一日。
 爺さんはまた七里の森なかの峠を越えて梓山村へ帰つてゆくのである。わたしは一人、三峰山に登つた。そして其処を降つて、昨日尾根から見損つた中津川が、荒川に落ち合ふ所を見度く、二里ばかり渓沿ひに遡つて、名も落合村といふまで行つて泊つた。
 翌日は東京に出、ルックサックや着茣蓙を多くの友達に笑はれながら一泊、十七日目だかに沼津の家に帰つた。



底本:「現代日本紀行文学全集 中部日本編」ほるぷ出版
   1976(昭和51)年8月1日初版発行
※1927(昭和2)年冬記
※「ルツクサツク」と「ルックサック」の混在は、底本通りにしました。
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:林 幸雄
校正:浅原庸子
2003年10月22日作成
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