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貧乏首尾無し
若山牧水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)流石《さすが》に

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11、読みは「まわ」、162-10]つて

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)どろ/\に
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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   貧しとし時にはなげく時としてその貧しさを忘れてもをる
   ゆく水のとまらぬこころ持つといへどをりをり濁る貧しさゆゑに
 小生の貧困時代は首尾を持つてゐない。だからいつからいつまでとそれを定める由もない。そんな状態であるために殆んどまたそれに對する感覺といふものをも失つて居る觀がある。從つてオイソレとその記憶を持ち出して來ることが困難である。止むなくこれを細君にたづね相談して見た。
 流石《さすが》に彼女にはあの時はあゝであつた、あそこでは斯うであつたといふ相當に生々しい感傷がある樣である。然しそれとても尋ねられたから思ひ出した程度のもので、要するに亭主同樣この永續的貧乏に對しては極めてノン氣であるらしい。
 早稻田の學校を出たのはたしか二十四歳であつた。學校にゐる間も後半期は郷里からの送金途絶えがちであつたので半分自ら稼いで過してゐた。學校を出ると程なく京橋區の或る新聞社に勤めた。
 月給は二十五圓であつた。社命で止むなく大嫌ひの洋服を月賦で作つたが、ネクタイを買ふ錢がなく、それ拔きで着て出てゐたところ――さうだ、靴をば永代靜雄君のを借りて穿いたのだつた――社の古老田村江東氏が見兼ねて自分のお古を持つて來て結んで呉れた。居ること約半年、社内に動搖があつて七人ほど打ち揃うて其處を出た。そしてまた間もなく同區内の他の新聞社に出ることになつた。ところが前のと違つてどうもその社内の空氣が面白くなく、前社同樣二十五圓の月給をば二箇月分か貰つたが出社して事務をとつたのは僅々五六日であつた。
 それから暫く浪人してゐてやがて短歌中心の文藝雜誌『創作』を京橋の東雲堂から發刊する事になつた。編輯を續けること四五ケ月、漸く雜誌の基礎も定まる樣になると月並《つきなみ》で煩雜なその仕事がイヤになり、それをば他の友人に讓つておいて所謂《いはゆる》「放浪の旅」に出た。三四年間の豫定で、各地の歌人を訪ねながら日本全國を※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11、読みは「まわ」、162-10]つて來ようといふのであつた。
 先づ甲州に入り、次いで信州に※[#「※」は「えんにょう+囘」、第4水準2-12-11、読みは「まわ」、162-11]つたところ、運わるく小諸町で病氣に罹つた。そして其處の或るお醫者の二階に二ケ月ほども厄介になつてゐた。出立早々病氣に罹つた事が、いかにも出鼻を挫かれた氣持で、折角企てた永旅もまたイヤになつて東京へ引返して來、當時月島の端に長屋住居をしてゐた佐藤緑葉君の家に身を寄せた。初冬の寒い頃であつた。或日彼の細君から「若山さん、二圓あるとお羽織が出來ますがねエ」と言つて嘆かれた事を不圖《ふと》いま思ひ出した。その前後であつたのだらう、北原白秋君の古羽織を借りたが借り流しにしたかの事も續いて思ひ出されて來た。
 それから再び『創作』の編輯をやることになり、飯田河岸の、砲兵工廠の眞向ひに當る三階建の古印刷所の三階の一室を間借して住む事になつた。あのどろ/\に濁つた古濠の上に傾斜した古家屋の三階のこととて、二三人も集つて坐りつ立ちつすればゆらつくといふ實に危險千萬なものであつたが――實際小生が其處を立退くと直ぐその家は壞されてしまつた――その時はさうした變なところが妙に自分の氣持に合つてゐたのだ。その前後が最も小生の酒に淫《いん》してゐた頃で、金十錢あれば十錢、五錢あれば五錢を酒に代へ飮んでゐた。イヤ、それだけでなく帽子が酒になり、帶までもそれに變つた。
 さうしてその頃小生の詠んでゐた歌は次の樣なものである。
   正宗の一合壜のかはゆさは珠にかも似む飮まで居るべし
   わが部屋にわれの居ること木の枝に魚の棲むよりうらさびしけれ
   誰にもあれ人見まほしき心ならむ今日もふらふら街出であるく
   其處此處の友は今しも何をして何想ふならむわれ早やも寢む
   わだつみの底に青石搖るるよりさびしからずやわれの寢覺は
   明けがたの床に寢ざめてわれと身の呼吸《いき》することのいかにさびしき
   寢ざむればうすく眼に見ゆわがいのちの終らむとする際《きは》の明るさ
   夜深く濠に流るる落し水聞くことなかれ寢ざむるなかれ
   かなしくも命の暗さきはまらばみづから死なむ砒素《ひそ》をわが持つ
   青海のひびくに似たるなつかしさわが眼の前の砒素にあつまる
 あゝした落ちつかぬ朝夕を送つてゐながら斯ういふ小綺麗な歌ばかりを詠んでゐたといふことが今から見るといかにも滑稽の感を誘ふのである。

 サテ、斯うして順々に書いてゐたのでは結局一種の自叙傳を書くことになつてゆく。間を端折つて結婚後の事を少し書き添へておきたい。すべて貧乏史の續きならぬはないが、多少その間に色彩の變化がある樣であるからである。
 私等が結婚したのは小生の二十八歳の時であつた。當時彼女は新宿の女郎屋の間に在る酒屋の二階を借りて、其處で遊女たちの着物を縫つて身を立てゝゐたので取りあへず其處に同棲する事になつた。謂はゞ亭主が女房の許に寄食した形であつた。小生は小生でその頃休刊してゐた以前からの雜誌『創作』を自分の手で復活經營したく頻りと金を集めることに腐心してゐたのであつた。折も折、其處へ小生の郷里から父危篤の電報が來て九州の日向まで歸らねばならぬことになつた。病氣は中風で次第に永引き、終《つひ》には其儘《そのまま》眠つてしまつた。かた/″\で約一年ばかりも郷里に留り、大正二年六月上京して小石川の大塚窪町にさゝやかな一戸を構へた。その時はもう長男が生れてゐた。
 其處で或る金主がついていよ/\其の雜誌を再興する事になつた。なるにはなつたが、なかなか思ふ樣に成績が擧らず、小生の受くる報酬なども一向に定つてゐなかつた。それに妙に小生の家には來客が多かつた。毎日五人か十人、而も一向にこちらの事にはお察しのつかぬ人たちだつた。小生自身もまた前の頽廢期間の惰力から逃れ得ずに相手さへあれば二日でも三日でも酒に浸つて醒めなかつた。從つて雜誌の方の仕事も進まず金主との間も面白くない、間に在つて唯だもう困るのは細君ばかりであつた。初めに言つた彼女の記憶といふのは概ねこの大塚窪町時代に係つてゐるのも無理ならぬ話である。幸にツイ近所に同じ樣に貧しい友人が住んでゐた。中の一人の若い畫工などは一圓でも二圓でも金が手に入れば必ず先づその一割を以て鹽を買ひ、五分を以て胡麻を買ひ、殘り八割五分の金で米を買つて置く。米と胡麻鹽とさへあれば人間決して死なゝいといふのがこの人の言分であつた。そしてさう言ひながら我等の間には明朝の米今夜の米の貸借が行はれてゐたのである。斯うした貧しい同志が相隣つて住んでゐた事はお互ひにとつて少なからぬ力であらねばならなかつた。
 細君はたうとう病氣になつた。つて[#「つて」に傍点]を求めて雜司ケ谷に在る或る慈善病院に入れたが、次第に永引きやがて醫師のすゝめで相州三浦半島に轉地した。その頃流石に小生自身も疲れてゐたのでいつそ一緒に行くがよからうと一家して移つて行つた。此處に來ると細君は非常に安らかな氣持になつたらしい。代つて苦しんだは小生である。轉地と共に雜誌も休刊したので、一定の收入といふものから全然離れてしまつた。せつせと書く原稿料とても知れたもので、歌の選科亦然りであつた。歌人仲間が短册會を起して金を拵《こしら》へ、細君の藥代として送つてよこして呉れたもその時であつた。が、此處でもまた一人貧しい友達が出來た。これは寧ろ我等のあとを追つて移つて來た樣な人たちで、同じく親子三人連で、そして同じく細君は病んでゐた。
 この夫婦の貧乏は我等よりもつとひどかつた。「オイ、これをこれだけ借りてゆくよ」と言つて主人公自身、我等の借りてる部屋の隅の炭箱から木炭を一掴み抱へて行つた姿など、今でもまだ眼の前にある心地がする。

 三浦を引上げたは大正五年の暮であつた。
 そしてその後をなほ語るとすればそれは寧ろ日常生活の貧乏といふより雜誌發行者としての貧窮談になる。即ち多く印刷工場を相手としての苦鬪史である。休刊してゐた『創作』をその年から自分自身の手でまた/\再興して今日まで續けて來てゐる道中の話となるのである。

 然し、どうしたものか小生には實のところ貧乏といふものがさほどには苦にならない。よくよくの貧乏性に生れて來てゐるのか、その時/\ですぐ忘れてしまひ得る幸福な性質を持つてゐるのか、その場はとにかく、その前後などを考ふることに於て、さほどには苦にならない。もう歳も歳だし、子供も大きくなつたし、それに三界無宿《さんがいむしゆく》の身で、今少し何とか考へねばならぬのだが、考へるつもりではゐるのだが、どうもまだ身にしみて來ない。おしまひまでこれで押してゆくのかも知れない。



底本:「若山牧水全集第七巻」雄鶏社
   1958(昭和33)年11月30日初版1刷
入力:柴 武志
校正:浅原庸子
2001年3月20日公開
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