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国際殺人団の崩壊《ほうかい》
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)作者《わたくし》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)大変|可笑《おか》しい

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、底本のページと行数)
(例)ごま[#「ごま」に傍点]
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 作者《わたくし》は、此《こ》の一篇を公《おおやけ》にするのに、幾分の躊躇《ちゅうちょ》を感じないわけには行かないのだ。それというのも、実《じつ》は此の一篇の本筋は作者が空想の上から捏《こ》ねあげたものではなく、作者の親しい亡友《ぼうゆう》Mが、其の死後に語ってきかせて呉《く》れたものなのである。亡友《ぼうゆう》Mについては、いずれ此の物語を読んでゆかれるうちに諸君は、それがどのような人物で、どのような死に方をしたのであるか、おいおいとお判りになってくれることであろう。それにしても「死後に語ってきかせたもの」などと言うのは大変|可笑《おか》しいことに聞えるかも知れないが、これも事情を申して置かねばならないことであるが、諸君もかねてお聞きおよびかと思う例の心霊《しんれい》研究会で、有名なるN女史という霊媒《れいばい》を通じて、作者がその亡友から聞いた告白なのである。その告白は、実に容易ならざる国際的怪事件を語っているので、命中率九十パーセントと称せられる霊媒《れいばい》N女史の取扱ったものだから充分事実に近いものだとすると、この怪事件は公表するには余りに重大な事柄で、或いは公表を見合わせた方が当《あた》り障《さわ》りがなくてよいかも知れないくらいなのである。しかし一方に於《おい》て、N女史の招霊術《しょうれいじゅつ》は、単なる読心術《どくしんじゅつ》にすぎないという識者《しきしゃ》もあるようだから、それなれば、N女史の前に坐った作者の心中《しんちゅう》にかくされていた妄想《もうそう》が反映したのに過ぎないとも云えないこともないのである。兎《と》も角《かく》、そこのところは諸君の御判断におまかせするとして、怪事件の物語をはじめようと思うが、一種の実話であるだけに、筋ばかりで、描写が充分でないのは我慢していただきたい。

  1

 古ぼけた大きな折鞄《おりかばん》を小脇にかかえて、やや俯《うつむ》き加減に、物静かな足どりをはこんでゆく紳士がある。茶色のソフト帽子の下に強度の近眼鏡《きんがんきょう》があって、その部厚なレンズの奥にキラリと光る小さな眼の行方《ゆくえ》は、ペイブメントの上に落ちているようではあるが、そのペイブメントの上を見ているのではないことは、その上に落ちていたバナナの皮を無雑作《むぞうさ》に踏みつけたのをみていても知れる。バナナの皮を踏んだものは、大抵《たいてい》ツルリと滑べることになっているが、この紳士もその例に洩《も》れずツルリと滑ったのであるが、尻餅《しりもち》をつく醜態《しゅうたい》も演ぜずに、まるでスケートをするかのように、鮮《あざや》かに太った身体を前方に滑《すべ》らせて、バナナの皮に一と目も呉《く》れないばかりか、バナナの皮を踏んだことにも気がつかないようにみえた。そこで紳士は、急に進路を左に曲げて、ある大きな石の門をくぐって入った。守衛が敬礼をすると、紳士は、別にその方を振りむいてもみないのに、鮮《あざや》かに礼を返したが、その視線は、更に路面の上から離れなかった。軽く帽子をとったところをみると、前頂《ぜんちょう》の髪が可《か》なり、薄くなっている。年の頃は五十四五歳にみえた。
 この紳士は、構内を物静かに歩いて行った。それは五階建ての白い鉄筋コンクリートの真四角なビルディングが、同じ距離を距《へだ》てて、墓場のように厳粛《げんしゅく》に、そして冷たく立ち並んでいる構内であった。紳士は、そのようなビルディングの蔭を七つ八つも通りすぎてから、これはまた何と時代|錯誤《さくご》な感じのする煉瓦《れんが》建《だて》のビルディングの扉《ドア》を押して入って行った。そこで紳士は直ぐ左手の壁にかかっている沢山の名札《なふだ》の中で一番上の列の一番端にかかっていた「研究所長|鬼村《おにむら》正彦《まさひこ》」と書いた赤い文字のある札を手にとって、その裏をかえすと、又|復《もと》の位置にパチリと収《おさ》めた。赤かった文字が、今度は黒い文字に代り、矢張り「研究所長鬼村正彦」と名が読めた。さてその老紳士鬼村所長は、この動作中にも、別に視線を動かすようなこともなく、札をかえしてしまうと、階段の下の薄暗い隅にある扉を開いて、それから長い廊下を、音のしないように歩き、一番奥まった部屋の中に姿を消した。すべての行動が、いかにも馴《な》れ切った世界に、大したエネルギーを費《ついや》すことなしに、いとも正確にすすめられてゆくという風に見えた。
 作者《わたくし》は、たいへん詰らない鬼村博士のスナップを、意味もなくだらだらと諸君の前に拡げたようであるが、これこそは最も意味のある大切なスナップなのであることは、頁《ページ》を追ってゆくに従ってお判りになろうと思う。とにかく、このスナップに現われたる鬼村博士の調子は、実に博士の性格の全部をものがたるものと云ってよい。博士はこの極東科学株式会社化学研究所長として令名《れいめい》があるばかりではなく、「日本のニュートン」と世界各国から讃辞《さんじ》を呈せられるほどの大科学者で、日本科学協会々長の栄誉を担《にな》っているばかりか、英国のローヤル・ソサエティーの名誉会長であり、米国のスミゾニアン・インステチュートの名誉顧問であり、独国のテクニッシェ・ライヒサンスタルトの名誉研究員であり、1940年に東京で開かれる万国工業会議には副総裁に任ぜられることに決定している。「日本の工業立国は鬼村博士によって完成されるであろう」といわれている。
 鬼村博士のする事には無駄がない。その優秀な頭脳は各学会に、さまざまのすばらしい研究問題をあたえて、日本|否《いな》世界の科学界を面目一新させようとしている。博士自身も、この研究所に自《みずか》ら一分科を担任して、終日《しゅうじつ》試験管やレトルトの側《そば》をはなれない。その研究題目は「化学による生物の人造法」というのである。外の学者が五十年かかるところを、博士は十年で成績をあげている。
「開け、ごま[#「ごま」に傍点]の実」と廊下を飛ぶようにやって来て、博士の扉《ドア》の前に立った白い実験衣の小柄の青年学者が大きな声で叫んだ。
「どなたですか?」と内側から博士の扉の番をするロボットがやさしい婦人の声を出して訊《き》いた。
「松《まつ》ヶ谷《や》研究員です」
 すると扉が開いた。若い松ヶ谷学士[#「学士」は底本では「博士」、172-上段-8]は、全身に興奮を乗せて躍《おど》りこむように所長室にすべりこんだ。
「先生、今朝の新聞をごらんになりましたか」
「これから見るところじゃ」と鬼村所長は答えた。博士は先刻《さっき》のペデストリアンと同じ姿勢をして静かに室内を歩き廻っているのであった。帽子も外套《がいとう》もとらずに、
「何か異《かわ》ったことでもありましたかい?」
「昨夜、丸の内会館で、薬物学会の幹部連中が、やられちまいました。松瀬博士以下土浦、園田、木下、小玉《こだま》博士、それに若い学士達が四五人、みな今暁《こんぎょう》息をひきとったそうです」
「うん、松瀬君もやられたか」と博士はちょっと押黙《おしだま》って何事かを考えているようであったが、相変らず室内散歩の歩調をゆるめはしなかった。「気の毒なことじゃのう」博士の声は水のように淡々《たんたん》として落付いていた。
「先生、昨夜の連中は毒|瓦斯《ガス》にやられたそうです。症状からみると一酸化炭素の中毒らしいですが、どうも可哀想《かわいそう》なことをしました」と松ヶ谷学士[#「学士」は底本では「博士」、172-下段-2]は下を俯《む》いた。
「薬学者連中が毒瓦斯にやられるなんて、ちょっと妙な話じゃね」博士は、毒舌《どくぜつ》を弄《ろう》するというのでもなく、これだけのことをスラスラと言ってのけた。
「ですが先生、これで四度目でございますよ。半年とたたない間に、第一に電気学会の幹事会に爆弾を抛《ほう》りこまれて幹部一同が惨死《ざんし》をする。次はS大学の工科教授室の連中が、悪性《あくせい》腸《ちょう》チブスでみな死ぬし、第三番目には先月、鉄道省の技術官連が大島旅行をしたときに、汽船爆沈で大半《たいはん》溺死《できし》しましたし、これで四度目です。私はいよいよこれは唯事《ただごと》ではないと思うのですが……」
「唯事ではない――とは」博士が例の調子で呻《うめ》くように言った。
「偶然の出来ごとでは無いというのかね」
「確かに、これは何か陰謀が行われているのに違いないと思うのです。一つ先生のお名前で学界に警告をなさってはどうですか。でないと、この調子で行けば、遠からず、我国の科学者は全滅するかも知れません」
「全滅、ウフ、それも悪くはないだろうが、一応警告を出すことにしようか。それにしてもこれが陰謀だとすると、どんな方面からのものだと考えているかね、君は」
「私は、こう思っています」と松ヶ谷学士は瞳を輝かして言った。「どうやら、これは変態的な性格を持った化学者の悪戯《いたずら》だろうと思うのですが。それは鉄道省の場合の外《ほか》は、爆弾、バクテリア、それから毒瓦斯という風に、いずれも化学者に縁《えん》のあるものばかりが、殺人手段に使われていることです。それから犯人は学界の事情によく通じているとみえて、幹部の出席する会合ばかりを覘《ねら》っています。先生も、どうか会合へは今後一切御出席なさらぬ様にねがいます」
「君は、犯人の心当りでもあるのかね」
「無いわけでもありませんが、申しあげません」
「僕には言えないというのかね」
「言うのを控えた方がよいでしょう。それにまだ明瞭《めいりょう》な証拠を握ったわけでもありませんから……」
「君は椋島《むくじま》技師のことを指して言っているのじゃないだろうな」博士は、はじめて立ち止ると、帽子や外套を脱ぎながら言葉をつぎ足した。
「……」松ヶ谷学士は、椋島技師の白皙《はくせき》長身《ちょうしん》で、いつも美しいセンターから分けた頭髪を目の前に浮べた。
「椋島君なら、僕が保証をするよ。あれはすこし妙な男ではあるが、そんな勇敢な仕事の出来るほどの人物じゃない。うちの娘の真弓《まゆみ》のお守をしている位が精一杯じゃて」
 松ヶ谷学士[#「学士」は底本では「博士」、173-上段-23]は、複雑な感情をジッと堪《こら》えていた。

  2

 ちょうど其の時間に、椋島技師は陸軍大臣の官邸で、剣山《つるぎやま》陸軍大臣と向い合って、低声《ていせい》で密談中であった。椋島技師は、緊張にこまかくふるえながら、普段から真白い顔色を、一層|蒼白《あおじろ》くさせて、大臣の一|言《ごん》一|句《く》に聞き入っていた。
「事態は、想像以上に容易ならんのです」と大臣は、寝不足らしい血走った眼を大きく見開いて云った。「彼等国際殺人団の一味徒党というのは、どの位、我国の政治界、経済界、科学界に潜行しているのか、さっぱりわからないのですが、その組織たるや、実に巧妙な方法で、一人の団員は、自分に指令を持って来る一人の人間と、自分が指命を伝達すべき二人の人間と、この三人しか知らないというのです。兎《と》に角《かく》、最近四回に亘《わた》る科学者虐殺事件は、あきらかに、この国際殺人団が活躍をはじめたものと考えてすこしも疑う余地がありません。これから先に、この災害が、どの位|拡《ひろま》ってゆくのか考えただけでも恐ろしいことです。彼等は、巧妙なる組織と、豊富なる情報と、莫大《ばくだい》なる資金と、しかもあくまで優秀なる頭脳と知識とを擁《よう》して立っているのですから、これは容易なことではうち破れません。宣戦布告のない戦争です。敵の戦線は、現に帝都の中に歴然と横たわっているのです。
 しかも敵影《てきえい》は巧《たく》みにカムフラージュされて、我々はその覘《ねら》いどころが見付からないのです。で先刻《せんこく》申しあげたように、あなたの御尽力《ごじんりょく》を乞いたいわけです。国家のために、敢《あ》えてあなたの御生命の提供を御願いしたい」
「だが、閣下のおっしゃることは、余りに空想すぎるのじゃありませんですか」と椋島技師は幾分苦笑を禁じ得ないという面持《おももち》で云った。「いくら日本人が堕落《だらく》をしていたって、要路《ようろ》の高官とか、其《そ》の道の権威とか言われる連中が、そうむざむざ敵国の云うことをきくわけはないじゃありませんか」
「そういうことを今あなたと議論しようとは思いません。それは、わが陸軍の探知し得た信用の出来る情報です。だが、考えても御覧なさい。×国は三十年も前から仮想敵国《かそうてきこく》として我国を睨《にら》んでいるのです。あらゆる術策《じゅつさく》が我国に施《ほどこ》されてある中に、最も陰険《いんけん》きわまるのはこの国際殺人団の本体であるところのJPC秘密結社です。×国は三十年前から各方面に亘って有望なる学才を有し、しかも貧乏だとか、孤児《こじ》だとか云う恵まれていない人物を探し出して、これに莫大な資金を送り、その人物が立身出世をするように極力宣伝し、遂に今日我国の要路要路の実権を彼等の手に握るようにまで後援したのです。×国の参謀本部の命令一下、彼等×探は、いやが応でもその命令を決行しなければならないのです。若《も》しそれに肯《がえ》んじなかったら、その男を国事犯で絞首台に送りでも、又、殺人隊をやって絶対秘密裡に暗殺してしまいでも、どうでも自由になるのです。彼等が始めて苦しいジレンマを意識したときには、その行く道は自殺があるばかりです。某博士の自殺、某公使の自殺、某中佐の自殺、それ等、原因のはっきりしない自殺は、皆ここに源があるのです。これだけ申せば、国際殺人団の活躍が如何に必然的なものであり、決死的なものであるか御判りになったでしょう」
「いや、よく判りました。それ以上は、おたずねいたしますまい。またこの御依頼にNO《ノー》と答えたくても、即座に私の命のなくなることを思えば、YES《イエス》と申して置くのがなによりであることも判っています。だが、私に大役《たいやく》をお委《まか》せになっても、若し私自身が、その結社の一員だったら、閣下は一体どうなさる御考えですか」
「どうも貴方は中々いたいところを御つきになりますね。しかし御安心下さい。その御念には及びません。いくらでも善処すべきみちが作ってありますから」
 この場面があって、椋島技師は、国際殺人団の探索《たんさく》に当るために、剣山陸軍大臣直属のスパイを任命された。彼はそのために、如何なる場合もこの目的のために一命を抛《なげ》うって努力すること、このスパイたることは、絶対に他人に洩《も》[#底本のルビは「もら」と誤記、175-上段-4]らしてはならぬのみか、同志であるものを発見したときと雖《いえど》も、その事情を明かし合ってはならぬこと、但《ただ》しスパイをつとめるについて、事情をあかすことがないのであれば、助手を使ってもさしつかえないことなどと、厳しい注意をこまごまとうけたのであった。
「誓って、祖国のために!」椋島技師は、燃えるような眼眸《がんぼう》を大臣の方に向けて立ちあがると、こう叫んで、右手をつとのばした。
「天祐《てんゆう》を祈りますよ、椋島さん」大臣の幅の広いガッシリした掌《て》がギュッと、椋島技師の手を握りかえした。

  3

 椋島《むくじま》技師は大臣のさし廻してくれた幌《ほろ》深《ふか》い自動車の中に身を抛《な》げこむと、始めて晴々しい笑顔をつくった。右手でポケットの内側をソッとおさえたのは、いましがた大臣から手渡された莫大な紙幣束《さつたば》を気にしたためであろう。
 さてそれからはじまった椋島技師の行動こそは、奇怪《きかい》至極《しごく》のものであった。
 彼は、大臣からさしまわされた自動車を、銀座街《ぎんざがい》にむけさせた。尾張町《おわりちょう》の角を左に曲って、ややしばらく大道《だいどう》を走ると、とある横町を右に入って、それからまた狭い小路を左の方へ折れ、やがて一軒のカフェの前に車を止めさせた。そこは、悪性《あくせい》な銀座裏のカフェの中でも、とかく噂の高いエロ・サービスで知られたバア・ローレライであった。椋島技師は、午前十時のバアの扉《ドア》を無雑作に開くと、ツカツカと奥へ通り、そこに二階に向ってかけられた狭い急勾配《きゅうこうばい》の梯子段《はしごだん》の下に靴をぬぎとばすと、スルスルと昇って行った。二階は真暗であった。ムンと若い女の体臭が鼻をつく。
「キミちゃん居るかい」彼は暗中《あんちゅう》に声をかけた。
「ああ、ムーさんだわね、向うから二番目に、キミちゃん、まだ寝ているわ」と女給頭のお富が彼の膝頭《ひざがしら》の辺から頓狂《とんきょう》な声をあげた。
「そうか。僕は二時頃まで、ちょいと寝たいんだ、あとからウンと奢《おご》ってやるから大目《おおめ》に見るんだぜ。それからお富|姐御《あねご》すまないけれど、その時間になったら、コックの留公に用が出来るんだから、どこにも行かずに待たせて置いとくれ。もう二時まで、なんにも口をきかないからな、話しかけても駄目だぜ」
 云いたいことを云ってしまうと、彼はオーバーを脱いだり、バンドをゆるめたりして、イキナリ、おキミの寝床にもぐり込《こ》んだ。ぼそぼそと、しばらくは小声《こごえ》で話し合っているらしかったが、やがておキミは寝床から出て行って、あとには椋島一人が、何か考え悩んでいるものか、転輾反側《てんてんはんそく》している様子だった。こうして時計は、いく度か同じ空間を廻ってやがて午後二時を報ずるボーン、ボーンという眠そうな音が階下《した》からきこえて来た。それがキッカケでもあるかのように、おキミがおこしに上って来た。
 椋島とおキミとコックの留吉との三人が外出の仕度をして店の方に出て来たのは、それから一時間ほど経ってのちのことである。
「まア、仮装《かそう》舞踊会《ぶようかい》へでもいらっしゃるの」
「ムーさん、勇敢な恰好ねえ」
 などと、ウェイトレス連が囃《はや》したてた。たしかにそれは不思議な組合わせであった。留吉はシャンとした背広に、黒い喋《ちょう》ネクタイをしめて紳士になりすましていたし、おキミはどこで借りて来たのか、三越の食堂ガールがつけているような裾《すそ》のみじかいセルの洋服をきて年齢が三つ四つも若くなっていたし、椋島は椋島で、留吉の衣裳を借りたらしく、コールテンのズボンに、スェーターを頭から被ったという失業者姿であった。
 三人は、まぶしいペイブメントのうえへ飛び出した。三人が列をそろえて一列横隊で歩き出したところへ、横丁《よこちょう》から不意にとび出して来た若い婦人がドンと留吉にぶつかりそうになった。
「ごめん、あそばせ」と婦人は豊かな白い頬をサッと桃色に染めながら言って、チラリと一行を見たが、
「呀《あ》ッ」と小さい叫声をたてた。この婦人は鬼村博士の一人娘の真弓子《まゆみこ》にちがいなかった。無論彼女は、いち早く、椋島の姿をみとめたのである。だがその異様《いよう》ないでたちの彼を何と思って眺めたであろうか、スカートの短いところでカムフラージュされるとしても、生憎《あいにく》彼にしなだれかかっていたコケットのおキミを見落《みおと》す筈《はず》はなかった。これに対して、椋島は遂《つい》に一言も声を出さなかったし、むしろ顔をそむけたほどであった。しかし、何《ど》うやら気になるものと見えて、真弓子の行く後を振りかえった。彼は真弓子がこちらを振りむいたのを見て慌《あわ》てて頭を立てなおした。

  4

 其の夜の六時、電気協会ビルディングの三階第十号室には我国の科学方面に於けるさまざまな学会の会長連が、円卓《えんたく》を囲んでずらりと並んでいた。その人数は十七名もあろうか。電気学会長である帝大工学部長の川山博士の白頭《はくとう》や、珍らしく背広を着用に及んでいる白皙《はくせき》長身《ちょうしん》の海軍技術本部長の蓑浦《みのうら》中将や、テレヴィジョンで有名なW大学の工学部主任教授の土佐博士の丸い童顔や、それからそれへと、我国科学界の最高権威を残りなく数えることができるのであった。勿論《もちろん》、その座長席には鬼村博士のやや薄くなった大きな頭がみえていた。
 会合は、科学協会としての例月の打合わせ会であったのであるが、議事が一ととおり済《す》んでしまうと、鬼村博士が、やおら、ずんぐりと太い身体をおこして立った。
「みなさん、例月議事は、これで終了いたしましたが、次に是非みなさんの御智恵を拝借したいことがあります。御承知でもありましょうが、近来どうしたものか、われわれ科学者仲間におきまして、不測《ふそく》の災害に斃《たお》れるものが少くない、いや、寧《むし》ろ甚だ多いと申す方がよろしいようであります。これにつきまして、この頃では、さまざまの臆説《おくせつ》が唱えられて居るようでありまして、中には、これは科学者に共通な悪運が廻って来たものだと申し、或る者は殺人魔の跳梁《ちょうりょう》であると申し、また或る者は偶然災害が続くものであって決して原因のあるものではないと反駁《はんばく》をいたしておるようなわけであります。私個人の考えといたしましては、どうも気が変になった犯人のなせるわざであると考えて居るのでありまするが、それが如何なる人物であるか、探偵でもありませんのでつきとめては居りませぬが、どうも一《ひ》と筋縄《すじなわ》や二《ふた》筋縄で行かぬ人物であり、しかもその犯人は相当インテリゲンチャであると思うのであります。それで吾人《ごじん》は充分、警戒をする必要があると考えます。殊に今日迄の災害の後をふりかえってみますに、いずれも会合の席を覘《ねら》って居るようでありまして、今後、私共科学者の集会はなるべく控えるか、または極力秘密な場所に開き、尚《なお》これに官憲の保護を得るようにつとめたいと考えますが、かように私の御警告申上げることについてみなさんは、或いは異説をおもちかと存じ、今度は充分御対論を願いたく尚《なお》警戒法について御心付の点をお話し願いたい。現に今夜のこの会合の如き、最も鏖殺《おうさつ》し甲斐《がい》のあるものでございますが、いままでなんともないところをみると、或いは遂になんでもないかもしれないのでありまするが、或いは又、これから爆弾が降ってくるかもしれないのでございます。いやそれは冗談でありまして、実は私の老婆心から、本会場は既に厳重な警視庁の警戒でとりまいてございますから、どうぞ御安心をねがいます」と博士はニヤニヤと両頬に笑《え》みをうかべながら諧謔《かいぎゃく》を弄《ろう》して着座したので、最初のうちは顔色をかえた会員も、哄笑《こうしょう》に恐怖をふきとばし、一座は和《なごや》かな空気にかえった。一旦席についた博士は衣嚢《かくし》から金時計を出してみたあとで一座の顔をみわたしたが、「どうぞ御意見を……」と言った。そして急に立ちあがって「ちょっと便所へ……」と隣席の川山博士に耳うちをすると、席を立った。そして入口の扉《ドア》をあけて室外に出ると、
「先生、なにも変ったことは御座いません」と、今夜の警戒の第一線に自ら進んで立っていた松ヶ谷学士が、いきなり博士に顔を合わせて、こう囁《ささや》いた。
「わしは便所へ行って来る、よろしく頼むぞ」博士は、例の調子で呻《うめ》くように言うと、そろりそろりと便所のある方へと足どりを搬《はこ》んで行った。会合室内では蓑浦中将が立って、
「唯今、協会長の御説明のあった最近の奇怪なる事件につきまして、私の……」と、そこまで話をすすめて来たときに、どうしたものか、グローブの中の電燈が、急に二倍もの明さに輝いたかとみる間に、スーウという微《かす》かな音をたてて消えてしまった。それだけのことであった。別に爆発物の破裂しそうな煙硝《えんしょう》の匂いもしなかったし、イペリット瓦斯《ガス》の悪臭も感じられなかった。座中の或る者が、
「唯今《ただいま》、私が給仕を呼びますから」と言ったので一同は子供のように立騒ぎはしなかったが、いずれも内心の不安をかくすことが出来なかった。声をかけた人は、そろりそろりと扉《ドア》の方に近づいて行った。やがて扉に手が触れたので、両手を上下左右に伸ばしながら把手《ハンドル》の在所《ざいしょ》を探しもとめた。把手はあった。彼氏はその把手を握ってギュッと廻すと、外へ押したが、どうしたわけか扉は開かない。そんなわけはないと思って更に一生懸命押してみたが、今度はなんだか腕が痺《しび》れてくるようで力が入らなかった。そのうちに頭が割れるように痛み出し、胸がひきしぼられるように苦しくなってきた。
「やややられたッ。扉が、あああかない」と叫びながら、扉を滅多うちに叩きつけた。暗黒の室内のあちらこちらでは、獣《けもの》のような絶望的な叫び声が起り、うんうんと呻吟《しんぎん》する声がだんだん高くなって行った。室外では、今、松ヶ谷学士が扉に身体をうちつけている。刑事や警官が扉の前に走《は》せ集って来た。扉はドーンと開く。松ヶ谷学士は先頭になって飛び込んだ。
「灯《あかり》を、灯を」
 と叫ぶ警官がある。今入ったばかりの松ヶ谷学士がよろよろと入口へよろめき出て来ると、パタリと其儘《そのまま》斃《たお》れた。惨劇《さんげき》の室の前に集った人の中から、マスクをかけた長身の男が飛び出して、
「毒瓦斯だ! 入ってはいけない」と叫んだ。彼は腰をかがめると、入口に斃《たお》れている松ヶ谷学士を肩に担《かつ》ぐと、ドンドン階段の方へ駈け出して行った。そのとき、便所から帰って来た鬼村博士が、この騒ぎに驚いて、博士に似合わぬ狼狽《ろうばい》ぶりを見せて、室内に飛込もうとしたが、それは警官が二人がかりで抱きついて、やっと止めることができたのであった。
 鬼村博士を除く十六名の学会長は、悉《ことごと》く枕を並べて無惨なる最後をとげてしまった。鬼村博士が、偶然にも唯一人助かったことは、不幸中の幸《さいわい》であると、各新聞紙は悲壮な空元気《からげんき》の社説を掲《かか》げた。だが、当夜の不思議な毒瓦斯電球を、誰が装置したのであるか、また入口の扉は誰が鍵をかけたのであるかについては、各紙は一行の報道もしていなかった。現場から行方不明となった松ヶ谷学士には、すくなからぬ嫌疑《けんぎ》がかけられていたが、その生死のほどについては知る人が無かったのである。

  5

 惨劇《さんげき》は、満都の恐怖をひきおこすと共に、当局に対する囂々《ごうごう》たる非難が捲き起った。「科学者を保護せよ、犯人を即刻逮捕せよ」と天下の与論《よろん》は嵐の如くにはげしかった。
 惨劇のあった翌日、秘密裡《ひみつり》に、日本化学会の幹部二十三名が、学士会館の一室で会合した。会場は言うに及ばず、会館内の隅々まで、電球や電熱器をはじめ、館内に在るありとあらゆるものが厳重な検査をせられたのち、内外に私服警官隊の網をつくり、それこそ一匹の蟻のぬけ出る道もない迄に、警戒せられたのであった。その会合は、午後七時となって、やっと開催せられた。勿論《もちろん》この会合には、昨夜の惨劇から幸運にものがれた鬼村博士が座長席にすわって、「毒|瓦斯《ガス》犯人についての意見」を交換し合い、これに対抗する具体的手段を考案せられんことを希望した。一座は、それこそ、我国に於ける化学界の至宝《しほう》と認められる学者たちばかりであった。この会合で、充分効果のある具体的方法を考え出さない限り、当分はいかなるこの種の会合も危険で出来ないのであった。一座はそれについて重大なる責任を思いながらも、昨日の惨劇におびえ切って兎角《とかく》、議案にまとまりがつかない様子であった。一座の中には、鬼村博士の命拾いまでを神経に病んで若しこの席から博士が立つようであれば、直《す》ぐ様《さま》その後を追って室外に出なければ危険であると考え、博士の行動にばかり気をとられている人もあった。
「椋島君は、見えないようですね」と訊《き》いた人がある。
「椋島君は、来ると言っていましたが、どうしたものかまだ見えません。いや、いずれその内やって来ますよ」
 と鬼村博士が答えた。
「椋島君は、鬼村さんの御令嬢が昨日家出されたので、それで忙しいらしいですよ」と隣りの化学者が囁《ささや》いた。
「だが、今日の問題は、国家の興廃《こうはい》に関する重大事項じゃありませんか」
「それに違いありませんが、この道ばかりは何とやら云いますからね」
 その噂にのぼった椋島技師は、鬼村博士の言葉のとおりに、実は既にこの学士会館に到着しているのであった。だが彼は、どうしたものか、コック部屋にいるのであった。前の日|留吉《とめきち》に借りた妙ないでたちの上に、白いエプロンをぶら下げ、白いキッチン・キャップを被《かぶ》っていた。どうやら留吉の紹介でこのコック部屋へ這入《はい》りこんだものらしい。それはどこからみても、コックでしかなかった。椋島は料理の方には眼も呉《く》れず、部屋の片隅にある妙な道具の蔭に頭をつき込んでいる。その道具のことを説明すれば彼氏の奇怪な行動がわかるのであるが、それはプリズムとレンズとからなる反射鏡で、その器体はコック部屋から、換気洞《かんきどう》を上の方に匍《は》いあがり、果然《かぜん》、日本化学会の会合のある室に届いているのである。また彼の側にある特設電話器の延びて行く先を辿《たど》ってゆくならば、例の会合のある三階の窓際にある衝立《ついたて》の蔭に達しているのを発見するであろう。そればかりではない、その衝立のうちには、洋装の給仕女が控えていて、時々ぬからぬ顔をしてはその衝立から顔を出し、会合のある部屋の扉に注目しているのを発見するであろう。いや、それがバア・ローレライのおキミであることも既に発見せられているであろう。
 さて椋島技師ののぞいている望遠鏡には一体何が映っているのであろうか。そこには、例の会合室の正面に座っている鬼村博士の全身がクッキリと映し出されているではないか。椋島技師は、博士の挙動《きょどう》を静かに注目している。博士は今、何か喋《しゃべ》っているらしく口を開閉している。やがて一礼をして席についた。博士の右手が、スルリと伸びて、衣嚢《ポケット》の時計にかかった。博士は、秒針の動きを、じっと眺めている様子である。椋島技師は、ゴクリと唾《つば》をのみこんだ。博士は時計を握ったまま、顔を正面に立てなおした。そのとき博士のとなりに居るK大学の昌木《まさき》教授が何事か博士に向って尋ねているようである。博士は、じいと正面を向いた儘《まま》答えない。昌木教授は、すこし苛々《いらいら》した面持《おももち》になって来て、卓を叩いてワンワン詰め寄るかのように見えた。他から人が立って来て昌木教授をなだめている様子だ。しかし博士は黙《もく》して語らない。
 ところが其の時である。果然《かぜん》、昌木教授の表情が変って来た。昌木教授をなだめている人も、嫌《いや》な顔付にかわった。
「シ、しまった!」叫んだのは椋島技師である。反射鏡から飛びのくと、傍《そば》の電話器をつかんで、自棄《やけ》に信号をした。
「キミちゃん。早く信号しろ!」
 そう言ったかと思うと、椋島技師は、気が変になったようになってコック部屋を飛び出した。
 おキミは、素早《すばや》く側の窓を開くと、窓の下に腰をかがめ、右手を水車《みずぐるま》のように廻すと、何か黒いものをパッと窓外になげた。なにか街路の上で爆発するらしい音がして、スーウと青い光が閃《ひらめ》いた。パンパンと音がして、ヒューッと銃丸《じゅうがん》が窓外《そうがい》から、おキミの頭をかすめて衝立にピチピチと当った。そのとき遅《おそ》し、例の会合のある室の大きな硝子《ガラス》窓が、バシーン、ガラガラというすさまじい音響をたてて壊《こわ》れ始めた。何だか真黒な大きいものが、あとからあとへと硝子窓に飛んできては、硝子という硝子を悉《ことごと》く壊《こわ》してしまった。例の室内は硝子の破片がバラバラと雨のように降った。硝子の雨を浴びた一座のものは奇声をあげているばかりで、逃げ出そうとする気配《けはい》はなかった。どうやら、その前に、一同は毒|瓦斯《ガス》に幾分あてられているかのように、その場にグッタリと身体をのばしていた。硝子の破片で傷ついているものもあるようであったが、別に痛そうな顔をしていないのは、中毒作用のせいであろうと思われる。唯一人の例外は、鬼村博士であった。博士だけは、直立して、柱の蔭に硝子の雨を避けていた。警官連中は入口の扉を開きはしたが近寄れないので、どうしたものかと犇《ひしめ》き合《あ》っていた。
 そのところへ、いきなり飛び上って来た怪漢がある。警官が取押《とりおさ》えようとする手をはらいのけて、勇敢にも室内へ躍り込んだが柱のかげにひそんでいる鬼村博士の姿を目懸《めが》けて飛びかかって行った。博士は悲鳴をあげて救いを求めた。怪漢は、博士の顔を床の上におしつけると、博士の大きな鼻をねじり廻して、何だか綿のような白いものを、指先で抜きとったようであった。それはどうやら特種《とくしゅ》の薬品を浸みこませた濾気器《ろきき》で、博士が唯一人毒瓦斯に耐《こら》えていたのも、そのせいであるかのように思われた。そこへ警官連中が上から折重って怪漢をひきはなし、高手小手《たかてこて》に縛りあげてしまった。
 博士は身震いして、ヨロヨロと立ち上ったが、そこに引きすえられた怪漢の顔を見ると、
「椋島君、お気の毒じゃな」と、薄気味のわるい笑顔をズッと近付けた。
 翌朝の新聞紙は、一斉に特初号活字、全段ぬきという途方もない大きな見出しで、「希代の科学者|鏖殺《おうさつ》犯人|遂《つい》に捕縛《ほばく》せられる。犯人は我国毒|瓦斯《ガス》学の権威椋島才一郎」などと、昨夜の大事件を書きたて、彼の現場に於ける奇怪な行動や、精密な機械類の写真などが載った。帝都は鼎《かなえ》の湧《わ》くがように騒ぎ立ち、椋島が収容せられたという市ヶ谷刑務所へは、「椋島を国民に引渡せ」というリンチ隊が、あとからあとへと、入りかわり立ちかわり押しかけては、時代逆行の珍現象を呈した。それを鎮撫《ちんぶ》するのに、陸軍大臣に麻布《あざぶ》第三連隊に総動員を命ずるという前代未聞の大騒ぎが起ったのであった。
 しかし、新聞紙面には、曩《さき》に行方不明になった松ヶ谷学士や、家出をした鬼村真弓子のことについては、一行も報道していなかったばかりではなく、昨夜、活躍したおキミの消息も、それから又おキミの信号により、硝子窓の破壊に従事した人物についても、何の報道もしていなかった。

  6

 それから約一ヶ月の月日が流れた。
 あの事件を最後の幕として、科学者虐殺事件は其後《そのご》まったく起らなくなった。椋島技師の犯行は、愈々《いよいよ》明白となって死刑の判決が下り、その刑日《けいび》もいよいよ数日のちに近付いた。世間は、反動的に静かになり、東京市民は、めっきり暖くなった来《く》る朝|来《く》る朝を、長々しい欠伸《あくび》まじりで礼讃《らいさん》しあった。
 鬼村博士は、どの市民よりも、ずっとずっと早くから、あの凄惨《せいさん》きわまる事件を忘れてしまったかのような面持で、何十年一日の如き足どりで化学研究所に通い、実験室に、立籠《たてこも》っていた。研究所の入口で出勤札《しゅっきんふだ》を返す手つきも同じなら、帽子を被ったまま、何時間となく室内をグルグル歩きまわる癖《くせ》も、全く前と同じことであった。
 しかし、仔細《しさい》に誠を知り給う神の眼には、博士一味の行動こそは、その後、いよいよ出でて、いよいよ怪《け》しからぬものがあることがよく映っていたことであろう。実に博士こそは剣山《つるぎやま》陸軍大臣が、かつて椋島技師にスパイを命じたときに語ってきかせた国際殺人団の団長であったのだ。その下に集る団員は、博士の命令で、あの事件以来ピタリと鳴りを鎮《しず》め、その代り、新《あらた》に恐ろしき第二期計画に着々として準備を急いでいた。博士は、多数の権威を喪《うしな》った我国の科学界の王座に直って、あらゆる機関を手足の如くに利用していた。殊《こと》に博士が所長を勤める研究所にあっては、所外不出《しょがいふしゅつ》ではあるが極秘裡《ごくひり》に、数々の恐ろしい実験がくりかえされていた。たとえば、その一つの部屋を窺《うかが》ってみるならば、大きな金網《かなあみ》の中に百匹ずつ位のモルモットを入れ、これを実験室の中に置き、技師たちは皆外へ出た上で、室外から弁《べん》を開いて室内へ、さまざまの毒|瓦斯《ガス》を送り、モルモットの苦悩の有様や、死に行くスピードなどを、部厚な硝子窓からのぞきこんでは観測するのであった。こうして色々な毒瓦斯が研究されはしたが、結局、前に椋島技師が発明して残して行ったフォルデリヒト瓦斯《ガス》に及ぶ強力な毒瓦斯はなかった。これは非常に濃厚なもので、適当な精製法を経《へ》ると、三間四方の室なら五c.c.のフォルデリヒト瓦斯で、充分殺人の目的を達するようであった。博士は最近、この毒瓦斯の精製法に成功したのであった。
 博士は其の日の午後、近くにせまる陰謀の計画をチェックしていた。すると、博士の愛するロボットは、珍客の案内を報じたのであった。博士はその密室を出て、広間の扉を開いた。そこには、この一ヶ月というものの間、全く生死不明を伝えられていた松ヶ谷学士が、おどおどした眼付で立っていた。
「松ヶ谷君か。君、どうしていたんだ」と博士は機嫌がよかった。
「ハイ、それは追々《おいおい》御話し申上げる心算《つもり》でございます」
 と松ヶ谷学士は言って、口をつぐんだ儘《まま》、やや躊躇《ちゅうちょ》している風だったが、強いて元気をふるいおこす様子で、
「先生、実は、……申上《もうしあ》げ憎《にく》いので御座いますが、わたくし、お嬢様のお使いに本日参上いたしましたのですが……」
「ほう、真弓の使いというのか」博士は冷く言い放った。「遠慮《えんりょ》なくここへ連れてくればよいではないか」
「それが、どうしても先生に、所外まで御出《おい》で願いたいということなんで、実は、いろいろ入組《いりく》んだ事情もございまして、所内へ入るのは嫌《いや》だと仰有《おっしゃ》いますのですが……」
「よし、行ってやろう」と博士は、何を考えたか機嫌よく立ちあがった。
 真弓子は、研究所から鳥渡《ちょっと》はなれた森の中に待っていた。彼女は、松ヶ谷学士が運転して来た自動車の中に、身うごきもせずに待っていた。彼女の相貌《そうぼう》は、この一ヶ月の間に、森華明《もりかめい》の描《えが》いた小野小町《おののこまち》美人九相の図を大急ぎで移って行ったように変りはてていた。額《ひたい》は高く、眼窩《めくぼ》は大きく、眼にはもう光がなかった。蒼白《そうはく》の頬、灰色の唇、すべて生きている人間のものではなかったのである。彼女は、椋島に捨てられたものと思い懊惱《おうのう》の果《はて》、家出をしたのであったが、電気協会ビル事件のとき、思いがけなく椋島のために一命を救われ、その翌日は其の助手となって学士会館の硝子窓破壊係をつとめてその夜の犠牲《ぎせい》を少くすることに成功した松ヶ谷学士に探し出されて、椋島の誠意を伝えられたが、それは遂に好意であって得恋《とくれん》ではなかった。其内《そのうち》に識《し》るともなく父鬼村博士の陰謀に気付き、夜に昼を継《つ》いで歎《なげ》きかなしんだため、到頭《とうとう》ひどく身体を壊してしまった。だが、椋島技師の死刑が近いと聞いたので、彼女は片恋《かたこい》ながら、なにをおいても椋島を救いたく思い、それには、父博士によって、椋島技師の行状《ぎょうじょう》を有利に証言して貰うことができれば、必ず彼女の思いはとどくものと信じ、こうして生と死の境を彷徨《ほうこう》する身体をここまで搬《はこ》んできたのであった。
 彼女の傍に立った鬼村博士は、急ににがりきった顔付になって、真弓子の痛々しい姿に、一言の憐憫《れんびん》の言葉もかけはしなかった。彼女は、いくたびかはげしく咳《せ》きいりながら、虫のような声でくりかえしくりかえし歎願し、椋島の助命を頼んだのであった。しかし父博士は一言も口を開かなかった。が真弓子が絶望のあまり、泣き声も絶《た》えてその場に気を失ったとき博士は始めて口をきいた。
「松ヶ谷君、悪魔のしのび笑いを耳にしないかね!」
 二発の銃丸が、消音|短銃《ピストル》のこととて、音もなく博士の手から松ヶ谷学士と真弓子の脇腹に飛んだ――
「とんだことに、永く手間どらせた哩《わい》」と博士は呟《つぶや》きながら後を再びふりむこうともせず、そろそろと研究所の方へ引きかえして行った。それは博士の退所時間三十分も過ぎていた。博士は、門をくぐり、ペイブメントをとおり、いくつかの会社のビルディングの蔭に行き、研究所の扉を押してスーウと内に入った。名札《なふだ》をかえすと、スタスタと実験室の中に入って行った。そのとき、別な廊下から、白い実験衣をきた一人の技師があらわれた。彼氏は、そこの壁にかかっていた研究所員の名札を見まわした。
「所長室はあいているようだから」と、今し方、鬼村博士が習慣的にかえして行ったために、「不在」をあらわす赤字の札になっているのを指《さ》しながら彼氏はあとから顔を出した助手に云った。「今試作した毒瓦斯は、直ぐ所長室へ送りこむんだ。そして一時間置きに、気圧計《プレッシュア・ゲージ》を読むんだぜ」
「じゃ、今送ります。時間がよろしいようですから。――弁《バルブ》をみんな開いて七百八十五ミリになりました」
「オウ・ケー」
  *  *  *
 完全で、正確この上なしの頭脳を持っている筈の鬼村博士はまことにつまらない、錯覚《さっかく》のために不慮《ふりょ》の最後を遂《と》げた。国際殺人団全体にその飛報が伝わると団員一同は色を失った。それも無理のない話で、博士の企《くわだ》てた第二期計画の日は、実にその翌日の暁《あかつき》かけて決行されるのであったから。
 それは何?
 翌日の早暁《そうぎょう》、帝都の西郊《せいこう》から毒|瓦斯《ガス》フォルデリヒトを撒《ま》きちらし、西風《せいふう》にこれを吹き送らせて全市民を殺戮《さつりく》しつくそうという、前代未聞の計画であった。彼等は十三台の飛行機にそれぞれ分乗して、午前三時というに、根拠地を離れて午前四時を十五分過ぎる頃あい、予定どおりに今や眠りから醒《さ》めようとしている帝都の上空を襲来《しゅうらい》した。十三台の殺人団機は翼をそろえて南にとび、機体の後部から猛毒フォルデリヒト瓦斯を濛々《もうもう》と吐《は》き出《だ》した。その十三|條《すじ》の尾がむくむくと太くなり、段々と地上に近づいて来たとき、北方の空から、突如《とつじょ》として二隊の快速力を持った戦闘機があらわれ、一隊は殺人団機の後をグングン追いついて行った。他の一隊は、今や帝都の上に垂《た》れ下《さが》ろうとする毒瓦斯の煙幕《えんまく》よりは、更に風上に、薄紅《うすあか》い虹《にじ》のような瓦斯を物凄《ものすご》くまきちらして行った。それは椋島《むくじま》技師が陸軍大臣と打合わせた手筈《てはず》により、投獄と世間を偽《いつわ》って実は密《ひそ》かに某所《ぼうしょ》で作りあげたフォルデリヒト解毒《げどく》瓦斯であった。勿論、その一隊の誘導機上には、もう死刑執行の日も近い筈の椋島技師のいとも晴やかな笑顔があった。



底本:「海野十三全集 第1巻」三一書房
   1990(平成2)年10月15日第1版第1刷発行
初出:「新青年」
   1931(昭和6)年5月号
入力:田浦亜矢子
校正:もりみつじゅんじ
2001年12月3日公開
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