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雪魔
丘丘十郎(海野十三)

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)恨《うら》めしげに

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)雪|下《お》ろし

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点、字下げの位置の指定
(例)[#地から3字上げ]一造
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 東京の学校が休みになったので、彦太少年は三月ぶりに木谷村へ帰って来た。村はすっかり雪の中にうずまっていた。この冬は雪がたいへん多くて、もう四回も雪|下《お》ろしをしたそうである。駅をおりると、靴をかんじきにはきかえて村まで歩いたが、電柱が雪の中からほんのわずかに黒い頭を出しているばかりで、屋根の見える家は一軒もなかった。
「この冬は、これからまだ三度や四度は、雪下ろしをせねばなるまいよ」
 と、迎えに来てくれた父親はそういって、またちらちらと粉雪を落しはじめた灰色の空を恨《うら》めしげに見上げた。
「五助ちゃんは何している? ねえ、お父さん」
 彦太は、仲よしの五助のことを尋ねた。
「ああ五助ちゃんか。五助ちゃんは元気らしいが、此頃ちっとも家へ遊びに来ないよ」
「ふうん。僕が居ないからだろう」
「それもあるだろうがな、しかし噂に聞けば、五助ちゃんたちは三日にあげず山登りに忙しいそうだ」
「山登りって、どの山へ登るの。こんなに雪が降っているのに……」
「さあ、それはお父さんも知らないがね。とにかくあの家の者は変っているよ。今につまらん目にでもあわなきゃいいが……」
「つまらん目って、何のこと」
 彦太は振返って後から来る父親の顔を見上げた。しかし父親は、ちょっと呻《うな》っただけで、それにはこたえなかった。
 その翌朝、彦太はもうじっとしていられなくて、先のとがった雪帽を肩のところまで被《かぶ》り、かんじきの紐をしめると、家をとびだした。雁木《がんぎ》道がつきると、雪穴をのぼって、往来へ出た。風を交えた粉雪が横から彦大の身体を包んでしまった。五助の家まで、まだ五丁ほどあった。
 五助は家にいた。そしておどりあがって彦太を迎えた。
 火炉《かろ》のむしろに腰をかけて、仲よしの二人は久しぶりに向きあった。東京から買って来たお土産の分度器《ぶんどき》と巻尺《まきじゃく》が五助をたいへんよろこばせた。
「五助ちゃんは三日にあげず山へ行くってね。どの山へ行くんだい」
 彦太は、聞きたいと思っていたことを、すぐに尋ねた。
「うん」
 五助は簡単な返事をしただけで、しばらく口をつぐんでいたが、やがて、
「誰にそんなことを聞いたの」
 と、ちょっとかたい目付で逆に尋ねた。
 そこで彦太は、「それはお父さんが村の誰かから聞いたことさ」といった。すると五助はかるくため息をついて、
「やっぱりもう知れわたっているんだな。だから僕は、こんなことをかくしておいても駄目だと、はじめにいったんだけれどね」
「五助ちゃん。何か悪いことをやっているのかい」
 彦太は、心配になるものだから、遠慮なく聞いた。すると五助は目を丸くして、首を左右に振った。
「彦くんのことだから、何もかくさないで話をするけれどね、実は一造兄さんが久しく山の中にこもっているんだ」
「へえ、そうかい」
「一造兄さんは、雪の中に大きな穴を掘ってその中にこもっているんだ。そして休みなしにカンソクをしているんだよ」
「カンソク? それは何のこと」
「僕もよく知らないけれどね、器械をたくさん持ちこんでね、地面の温度をはかったり、地面をつたわって来る地震を、へんな缶の胴中《どうなか》へ書かせたりしているのさ。これは春までつづけるんだって」
 彦太は、それが何のことやら分らなかった。しかし一造兄さんといえば、東京の何とか大学の大学院学生で、いつもこんな科学実験をやっている人だった。だからそういうことがかくべつ悪いことであるはずがないと安心した。
「じゃあ研究のために観測しているんだろう。それなら悪いことじゃないから、村の人たちにかくさなくてもいいじゃないか」
「しかしね、一造兄さんはこのことは黙って居れときびしく命令を出しているんだよ。で、僕達が三日毎に山登りをして、兄さんの食物なんかはこぶことさえ誰にも知られないようにしろというんだよ」
「ああ、それで五助ちゃんは三日にあげず山登りをするんだね。なんだそんなことか。はははは」と彦太少年は安心して笑った。「でも、そんなことを秘密にするということは、ちょっとへんだね」
 彦太がそういうと、五助は無口でいろりにそだをさかんにさし入れるのだった。五助の顔には、まだ何か語りつくさないものがあると書いてあるようであった。
(何だろう?)
 と彦太は、ふしんに思った。いつもの五助なら、立板《たていた》に水を流すようにどんどんおしゃべりをするのに、それをしないで、何かを小さい胸に包んでいるようなのは、なぜだろうか。あ、そうか。ひょっとすると、その山がどこかというのが秘密なのではあるまいか。そしてその山からは、やがて尊《とうと》い鉱脈《こうみゃく》でも発見される見込みがあるのではなかろうか。
 そう考えた彦太は、また遠慮なしに、そのことを五助にいった。すると五助は、一言のもとに打消した。
「ちがうさ。うちの兄さんは、そんな欲ばりじゃないよ」
「じゃあ、どこの山。山の名を聞かせてくれたっていいだろう」
 彦太は五助を追いつめた。五助は見るもかわいそうなほど悩みの色をうかべていたが、やがて決心したものと見え、立上って彦太の傍へ席をうつした。そしてあたりを見まわした上で、彦太の耳の近くで低い声を出した。
「誰にもいっちゃいけないよ。そして君もおどろいてはいけないよ」
「誰がそんな秘密をもらすものかい。もちろん、おどろきやしないよ」
「さ、どうかなあ。で、その山というのはね、あの青髪山《あおがみやま》なのさ」
「えっ、青髪山! あの、誰も近づいちゃいけないという……」
「大きな声を出すなよ」
 ふーんと彦太は呻《うな》った。彼の顔色は、とたんに青ざめていた。青髪山か。青髪山ならたいへんである。青髪山には昔から魔神《まじん》がすんでいるという話で、そこへ入った者は無事に里へもどれないそうだ。猟師だって、どんないい獲物を追っていても、その青髪山には近づきはしない。
 そのような怪山の雪の下に穴を掘って観測を始めた一造兄さんが、誰にも語るなと命令したのはもっともだ。しかし一造さんは勇気がある。それはともかくあの奥深い青髪山まで、丈余《じょうよ》の雪を踏んで三日ごとに兄のため食物をはこぶ友の身の上を考えると、気の毒でならなかった。
 そのとき五助は、さらに彦太の方へすり寄っていった。
「実はね、一造兄さんはね、この冬こそ、青髪山の魔神の正体をつきとめてくれると、はりきっているんだよ」
「魔神の正体をだって。しかしそんな器械で魔神の正体が分るだろうか。第一、あの山に魔神がすんでいるなどというのは伝説なんだろう。誰もほんとうに見た者はないんだから……」
 彦太がそういうと、何思ったか五助は友の腕をしっかりつかみ、耳に口をあてた。
「ところがね、彦くん、魔神は実際あの山に居るんだよ」
「うそだよ、そんなこと」
「だって……だって見たんだよ、この僕が!」
「ええっ、君が魔神を見たって……」
 彦太はそれを聞くと頭がふらふらした。


   魔神《まじん》の山


 五助と彦太とは、身をかためて、粉雪のちらちら落ちる戸外へ出た。頭には雪帽を、身体には簑《みの》を、脚には長い雪ぐつをはき、かんじきをつけた。そして二人の背中には、食料品と燃料と水と酒とが、しっかりくくりつけられた。青髪山《あおがみやま》の雪穴の底で、観測をつづけている一造へとどける生活物資だった。
「彦くん、やっぱり君は行かない方がいいよ。お雪を連れていけばいいんだから」
 お雪というのは五助の妹だった。いつもは五助とお雪の二人で青髪山へ登るのであった。
「いいよ、いいよ。今日は僕が手伝う」
 彦太は、いくら兄のためとはいいながら、自分よりも年下の女の子があの恐しい青髪山へ登るのを、黙って見物しているわけにいかなかった。ことに今日は吹雪になるらしい天候で、お雪が行けばどんな苦労するかしれないと思うと、だんぜん彦太は自分が身代りになることを申出たのだった。
 お雪は、雪の往来まで送ってきた。はずかしそうにうつむき勝ちだったが、彦太にたいへん感謝しているのがよく分った。
 五助が先に立ち、その後に彦太がつづき、雪の道をいよいよ歩きだした。幸いに人の目にもふれず、うまく青髪山への遠い山道の方へ曲ることができた。粉雪は、だんだん量を増して、二人の少年の姿を包んでいった。五助のかんじきが、三歩に一歩は深く雪の中にもぐった。
「三日前に来たときよりも、二尺ぐらい雪が増したね」
 五助が、そういった。
「疲れたら、僕が代って、前を歩くよ」
「なあに彦くん、大丈夫だ」
 深い雪の山道の傾斜がひどくなった上に、重い荷を背負っているから歩行がたいへん困難になった。二人の少年は、もう、ものもいわず、あらい息をはきながら雪の道をのぼって行く。
 彦太の方は割合に楽であった。五助の後からついて行けばいいのだ。五助が踏みかためてくれた、かんじきの跡を踏みはずさなければいいのだった。
 彼は歩きながら、さっき五助から聞いた青髪山の魔神を見た話を頭の中に復習した。
 五助は、この前の登山のとき、その魔神を森の中にたしかに見たそうである。その森は、それから二十丁も奥にある杉の森で、地蔵様が立って居られるところから地蔵の森といわれているところだ。
 ちょうど行きの道だったが、五助が前方約二百メートルに、この森を見たとき、雪の中に高い幹を黒く見せている杉の木立の間を、何か青味がかったものが、煙のようにゆらいでいるのをみとめたのだった。
(誰か、あんなところで焚火《たきび》をしている?)
 と、始めは思ったそうだが、それにしても焚火にしてはおかしい。煙にしては色が青すぎるし、そして雪の降り積っている、下の方には見えず、杉の梢に近いところを、まるで広い帯が宙を飛んでいるように見えたので、はっと胸をつかれた。五助はあやうく声を出そうとして、ようやくそれを停めた。後には妹のお雪がついてくるので、ここでへんな声などをあげようものなら、お雪はおそろしさのあまり、気絶してしまうかもしれないと思ったからである。
 五助は気をしずめようと、一生けんめいつとめながら、なおも怪しい青いものの姿を見つづけた。するとその怪しいものは、急に杉の幹を伝わって下りたように見え、雪の上を匐《は》って道の方へ出てくると見えたが、その瞬間、ぶるっと慄《ふる》えたかと思うと、かき消すように、その姿は消えうせたという。
 五助はそこでもう道を引返そうと思ったが、兄が待っていることを思い、また妹をおどろかせることを心配して、自分の気を引立てると、そのまま、歩行をつづけたそうである。
 が、やがて恐ろしい関門《かんもん》にさしかかった。その地蔵の森の前を、どうしても通りぬけねばならないのだった。五助はいざというときは、その怪物と組打をする決心をし、他方どうかその怪物が出てくれないように祈りながら、森の前にさしかかった。
 幸いに、怪物の姿はどこにも見あたらなかったし、呻《うな》り声も聞えなかった。ただ見つけたものは、雪の中に凹《へこ》んだ足跡らしいものが、点々としてついていたことだった。その足跡らしいものは、もちろん人の足跡ともちがい、また動物のそれでもなく、舟の形をして縦に長く、そしてまわりからゆるやかに、中心へ向けて凹んでいたのである。森の前を通り抜けるとき見たのはそれだけだった。
 五助は、そこを抜けると、お雪をはげまして、急に足を早めた。一刻も早く、その気味のわるい森から遠ざかりたいためだった。何もしらぬお雪は、五助の早足を恨《うら》みながら、息を切らしてついてきたという。
 それからまた一里ばかり山を入って、兄一造のこもっている雪穴についた。五助はあのことを早く兄に話をしたく思ったが、妹がいるのでそれをいいかねた。帰りぎわになってやっとその機会が来た。一旦道へ出た五助は、忘れものをしたように装いながら、雪穴へ引返して、兄にその魔神を見た話をしたのだ。
 一造はその魔神の話を一笑に附した。第一地蔵の森は、青髪山よりずっと下にあること、またその足跡と見えたのは、雪を吹きつけた風の悪戯《いたずら》であること、それから雪の中では眼が変になって、よくそうした青いものを見ることがあることなどをあげて、それは青髪山の魔神ではないと結論したのだった。せっかくの一造の説明も五助の疑惑をすっかり払うほどの力はなかった。――まあ、こういう話だった。
「彦くん。いよいよ来たよ。地蔵の森だ」
 五助が叫んだ。
「ああ、地蔵の森か。魔神は見えるかい」
「いや、今日は出ていないや」
 雪はやんでいた。見とおしはよかった。地蔵の森の木立も、硝子にとおしたように、はっきり見えていた。なるほど、五助のいう魔神らしき怪しい影は何も見えなかった。
「今日は足跡もついてないや」
 五助は、森の前を通り抜けるときに、そういった。彦太は笑った。しかし五助は笑わなかった。
 それから一里の苦しい雪の山道が始まった。折悪しく急に風がかわって、粉雪が渦をまいて落ちだした。いよいよ吹雪になるらしい。二人の少年は、道の真中に立ちどまって、魔法壜からあつい茶をくんで呑み、元気をつけた。それからまた雪道へ踏み出した。
 二時間あまりの苦しい登山がつづいた。二人の少年は、全身汗にまみれ、焼けつくような熱さを感じた。
「五助ちゃん。まだ兄さんの雪穴までは遠いのかい」
 彦太は、雪になれていないので、ややへばったらしい声を出した。
「もうすぐだ。あそこに峯が見えているだろう。あの裏側だから、そこの山峡を過ぎると、観測所の雪穴が見え出すよ」
 彦太は返事の代りに、重い首を振った。
 そのときであった。とつぜん四、五発の銃声が聞えた。どどん、どんどんと、はげしく雪山に響いた。音のしたのは、どうやら峯のあたりである。
「銃声だ。どうしたんだろう」
「何かあったんだ。しかし誰が撃ったんだろう」
「早く行ってみよう。兄さんの雪穴へ……」
 二少年は顔色をかえ、雪をかくようにして前へ急いだ。


   雪崩《なだれ》だ!


「兄さーん。どうしたんです」
「一造兄さん。今行きますよウ」
 五助と彦太は、かわるがわる叫びながら、一秒でも早く一造のいるところへ近づこうと、一生けんめいに走った。
 観測所のあるところへは、山をぐるっと、一まわりしなければならない。二少年は好が気でないが、雪に足をとられて、思うように足がはかどらない。
 それでもやっとのことで、一造の籠《こも》っている雪穴の入口までたどりついたが、そのときはもう銃声が聞えてから二十分もたった後であった。
「兄さん、兄さん」
「どうしたんですか、さっきの銃声は……」
 二少年は、そう叫びながら、身体についた雪をも払わないで、雪穴の中へとびこんだ。
「おや。兄さんは見えないぞ」
 五助は、観測室の中できょろきょろ。
「じゃあ、外へ出たんだろうか」
 彦太はすぐ穴から外へとび出した。そして、あたりの雪の上に目を走らせた。
「分ったかい」
 五助が穴から出て来た。
「いや、分らない。でも、ほら、雪の上には僕たちの足跡の外《ほか》に誰の足跡もついていないよ。すると兄さんは外へ出ないわけだ。やっぱり穴の中だよ」
「そうかしらん。しかしへんだね。穴の中には、たしかにいないんだがね」
 二少年はもう一度、穴の中に入った。そして、しきりに一造を呼んでみたが、やっぱりその返事は聞かれなかった。
「おかしいねえ、あかりがいつもついているんだが、今日は消えていらあ」
「そうだ、暗くて分りゃしない。あかりを早くおつけよ」
「どこだったかなあ、電池のあるところは……」
 五助は奥の方へいって、手さぐりでそこらをなでまわしていたが、とつぜんおどろきの声をあげた。
「ああ、たいへんだ。電池がひっくりかえっている。……おや、いつの間に掘ったんだろう。穴の奥が深くなっているぞ」
 と、そのときである。どこからともなく、ごうッという音が聞え始めた。すると雪穴の外にいた彦太がとびこんできた。
「五助ちゃん。早く外へ出ないとあぶない。雪崩《なだれ》がやって来たぞ」
「えっ、雪崩。それはたいへんだ」
「早く、早く……」
 二少年はころがるようにして雪穴の外へ出た。ぱらぱらと、雪のつぶてが降って来た。
「向こうへ逃げよう。彦くん、早く……」
 五助は先に立って、反対の山の斜面へ、兎のようにかけのぼっていった。
 二少年の背後に、すさまじい響《ひびき》が起ったが、それをふりかえる余裕もなく、二人はなおも一生けんめいに斜面をはいのぼった。息が切れる。心臓が破裂しそうだ。
 響が小さくなったとき、二少年は始めて生命を拾ったことを知って安心した。二人とも雪の中にぶったおれて、しばらくは起上る元気もなかった。
 やがて二人が元気をとりもどして雪の上にむっくり起上ったとき、雪はもうやんでいて、あたりは明るさを増していた。そして二人の目にうつったものは、ものすごい雪崩のあとであった。さっきまで二人が走っていたところは、もうすっかり雪の下になっていた。観測所のあった雪穴なんか、もうはるかの底になってしまった。
「ああ、こわかったねえ」
「もう死ぬかと思ったよ。兄さんはどうしたかしらん」
「さあ、困ったねえ」
 とうとう一造の所在をたしかめないうちに、このとおり雪崩になってしまったのだ。一造の生死のほどが一層心配になってきた。彦太は何とかして五助を安心させたいと思ったけれど、そんな材料はなんにも見あたらなかった。だが一つ、そのとき気がついたことがある。
「五助ちゃん。今ごろ雪崩が起るというのはへんだね。まだ早すぎるじゃないか」
「そうなんだ」と五助はうなずいた。
「しかしさっきの銃をうったあの響で、雪崩が起ったのかもしれない」
「そんなことがあるもんかなあ」
「たまにはあるんだよ。しかし、どっちかといえば、めずらしい出来事だ」
 五助の語るのを聞いていた彦太はそのとき五助の手首に赤く血がついているのを見つけて、おどろきの目をみはった。
「五助ちゃん、怪我をしているじゃないか。手から血が出ているぜ」
「えっ、手から血が出ているって……」
 五助もおどろいて、急いで自分の両手を見た。なるほど手首のところに、いっぱい血がついている。
「どこから出血したのだろう。別に痛みも感じないのにねえ」
 よく調べてみたが、ふしぎにも、どこにも傷口が見つからない。
「どこにも、怪我はないんだがねえ」
「でもへんだね。ちゃんと血がついているんだからね。ずいぶんたくさんの血だよ」
 彦太も、ともども調べてやったが、たしかに五助はどこにも傷をうけていないことが分った。
「ふしぎだねえ。どうしたんだろう」
「全くふしぎだ。気味が悪いねえ」
「ああ分った」
「分ったって。どういうわけなの」
「そのわけは……困ったねえ」と彦太は困った顔をしながら「でも五助ちゃん、悲観しちゃだめだよ。つまりあの雪穴の中に血が流れていたんじゃないか。その血が君の手についたのかもしれない」
「あっ、そうか」五助は、そういって、さっと顔色をかえた。「すると一造兄さんが穴の中で……」
「さあ、それはまだほんとうかどうか分らないんだ。雪穴を掘りだした上でないと、確かにそうだといえないよ。だから気を落すのはまだ早いよ」
 彦太は五助を一生けんめい、なぐさめたが、心の中では、これはたいへんなことになったぞ、と思った。
「五助ちゃん。山を下りよう。そしてこのことを皆に知らせようや」
「そうだ。村の人にそういって、雪崩の下から雪穴を早く掘りだして見なければ……」
 五助と彦太とは、雪の中に幾度もころびながら、大急ぎで山を下りた。
 すこし早すぎる雪崩のこと、一造の行方不明のこと、五助の手首についていた血のこと――二人が知らせた変事は、すぐ村中にひろがった。すぐさま救援隊がつくられ、一同は青髪山の現場へかけつけ、そこで雪掘りが始まった。
 果して雪崩の下から、どんな怪しい事が掘りだされるだろうか。


   雪とけて


 変事を知ってかけつけた村人たちは、雪の中に一生けんめいに雪崩《なだれ》のあとを掘りかえした。しかし仕事は思うように進まず、やがて夜が来た。ふもと村からはこばれた薪《まき》があちこちにつみあげられ、油をかけて火をつけると、赤い焔《ほのお》はぱちぱちと音をたてながら燃えさかり、雪の山中はものすごく照らし出された。掘出作業は、夜中つづけられたが、それでもまだ目的をはたすことができなくて、ついに暁をむかえたが、どこまでも不幸なことに、その頃になって、またもや猛烈な大吹雪《おおふぶき》となってしまった。それは今も気象台の記録に残っている三十年来の大吹雪の序幕だった。
 そうなると、もう人間の力ではどうにもならなかった。人々は涙を流しながら、山はそのままにして、生命からがら、ふもと村へ引きあげねばならなかった。その中には五助も彦太もまじっていた。
 あの変事も、記録やぶりの大吹雪も、共に青髪山の魔神のたたりだといううわさが、その後その地方にひろがったのも、ぜひないことであったろう。
 それから数ケ月の日がたった。
 五月の半ばすぎのある日、五助の家へひょっくりと彦太がすがたをあらわした。休みでもないのにどうしたのかと、五助はいぶかりながら、うれしく彦太をむかえたが、彦太の話では、東京はひどい食糧不足のため、学校は当分のうち授業が休みになったということだった。五助は、へえそうかねと目を丸くしておどろいた。
「あれから、青髪山へ行ったかい」
 と、彦太は五助にたずねた。
「いや、行かないよ。行かれないんだよ、彦ちゃん」
「なぜさ」
「だって、この村では、青髪山の魔神のたたりがおそろしいといって、もう誰も山へのぼらせないことになったんだ」
「それはおかしいね」と彦太は口をとがらせていった。「青髪山の魔神をこわがるなんて迷信だよ。そんな迷信をかついでいたのでは、いつまでたっても日本は世界のお仲間にはいれないよ」
「だって、僕だって青髪山を思出してもぞっとするからね。地蔵の森にあやしい帯みたいなものがとんでいたこと、舟のような形をしている足跡、一造兄さんが行方不明になるし、大雪崩はあるし、それから大吹雪――そうそう、それにあのとき僕の手が血だらけになっていたことを君もおぼえているだろう。こんなにあやしいことだらけだもの」
 そういった五助の顔には血の気がなかった。彦太は首を左右にふって、
「だめ、だめ。そのようにおびえていては、いつまでたっても正体をつかむことはできないよ。さあ、これから僕といっしょに青髪山へ行ってみよう。もう山の雪はとけているだろうね」
 と、強い声でいった。
 五助ははじめ気がすすまなかったけれど、彦太にはげまされ、迷信をやぶった方がいいと思い、それにほんとうは兄の遺骸《いがい》でも見つけて葬ってあげたいと思っていたので、ついに彦太のことばに従って、ひそかに二人で青髪山へのぼることに心をきめた。
 用意は前の日にし、翌朝まだ暗いうちに二人の少年は村をあとにして山のぼりをはじめたのだった。雪はとけていた。春の山草の香がぷんぷん匂っていた。そして朝日が東の山の上に顔を出すころ、ちょうど青髪山の峯についた。
 兄一造のこもっていた穴の入口を見つけることは、そんなにむずかしいことではなかった。もちろん雪はなく、入口は半くずれになっていた。二人はその前に立って、顔を見合わせた。五助の目にはきらりと涙が光った。
「元気を出して、そして、おちついて物事を考えなければいけないんだよ」と彦太が大人のような口をきいた。「この前、僕たち二人がここへのぼった日の三日前に、五助ちゃんはお雪ちゃんといっしょにここへ来て、一造兄さんの元気なすがたを見たんだったね」
「そうとも」
「そこまでは無事だったが、僕たちが山をのぼって来ると銃声がきこえ、それからここへかけつけると、穴の中に一造兄さんのすがたが見えなかった。五助ちゃんは穴の中を奥まで行って、電池がひっくりかえっているのを見た。そのとき雪崩《なだれ》が来たから僕が穴の外から大声で呼んだ。君は穴からはい出してくる、そして向こうの山へひなんした。雪崩のあとで君の手を見ると血がついていた。そうだったね」
「そうだとも」五助は、彦太が何をいい出すのかと、じっと目をすえた。
「君の手についていたその血は、穴の奥にこぼれてた血だ。五助ちゃんが穴の奥でさぐっているとき、その血だまりに手をふれたんだ」
「あっ、そうか」五助は青くなった。「するとあの血は兄さんの身体から流れだした血だったんだね。やっぱり兄さんは殺されてしまったんだ。あのピストルの音が……」
「お待ちよ、五助ちゃん」彦太がおさえるようにいった。「僕は君の家の人の血液型をしらべたんだが、皆、A型だね」
「うん、皆、A型だ。お父さんもお母さんもA型だからねえ」
「そう、だから一造兄さんももちろんA型なのさ。ところが君の手についていた血を、あのとき僕が持って帰っても東京でしらべてもらったんだがね、一体その血液型が何とあらわれたと思う」
 五助は息をはずませながら「A型じゃなかったとでもいうのかい」
「そうなんだ。A型ではない。だからあの血は一造さんから出た血ではない」
「ああ、うれしい。兄さんの血ではなかったのか」と五助はとびあがって喜んだが、やがてふと顔をくもらせ
「じゃあ、あの血は誰の血だったんだろう。もしや……もしや……」
 五助はその先をいうことができなくなった。彼の身体はぶるぶるとふるえ始めた。
(ああ、するともしや……もしやあの血は、一造兄さんがピストルで誰かをうって、傷つけた血ではなかろうか。そうなると、兄さんは人をピストルでうったことになる。いや、ひょっとしたらそれよりも悪いことなのではなかろうか。兄さんが人殺しをした! ああ、そんなことではないのかしら)と、五助は思いなやんでそこに立っていられなくなり、土の上へどしんと尻餅《しりもち》をついた。
「あの血の型は、今いったとおり、A型でもなく、またO型でもなく、B型でもなく、AB型でもなかった」
「えっ、じゃあ……人間じゃなく、けだものの血かね」
 人間の血液型は、四つに限っている。それのうちに入らなければ、あとはけだものではないのかと五助は首をかしげた。
「ある博士に調べてもらったが、けだものの血でもないのだよ」
 ふしぎなことを彦太がいった。人間の血でもなく、けだものの血でもない。そんなことがどうして信じられようか。
 ――だが、彦太は何か自信をもっているらしく見えた。
 その謎の正体は何?


   兄の手帳


 雪こそなけれ、一造兄さんのこもっていた穴は、ひんやりと肌さむい。
 それに彦太が、血液型についてへんな話をはじめたものだから、五助は気味がわるくなって、背中に水をあびたようにぞっとした。
「五助ちゃんの手についていた血は、人間の血でもないし、けだものの血でもないことが分ったんだ。だからあの血は、兄さんのからだから出た血ではないから安心したまえ」
「兄さんの血でないと分ったのは、とてもうれしいよ」五助はほほえんだ。「しかし、人間の血でも、けだものの血でもないとすると、いったい何者の血だろうね。ああ気持が悪い」
「謎がそこにあるんだ。その謎をこれからぼくたちの手でときたいね」
「彦ちゃんには、すこしは見当がついているのかい」
「いいや、だめなんだよ」彦太は首をふったが「しかしねえ、ひょっとすると、あれはいつだか五助ちゃんがいった青髪山《あおがみやま》の魔神《まじん》の血じゃないかと思うんだ」
「魔神の血だって。魔神のからだにも血があるのかしらん」
 五助は目を丸くして彦大の顔を見つめる。
「それはぼくの想像だよ。とにかくこの穴の奥へ入って、もっと探してみようじゃないか」
 彦太は先に立って、穴の奥へ進んだ。穴は行きどまりのように見えた。だが、持ってきたつるはしをふるっで、土の壁を四五回掘ってみると、急に土ががらがらと崩れて、その奥に暗い穴があいた。
「やっぱりそうだ。この奥に穴がつづいているんだ」
 二人は、電池灯をふりかざして、その奥へ足を踏み入れた。
「でっかい穴だね」
「兄さんが掘った穴ではないようだね。もうずいぶん古くからあった穴らしい」
 穴の壁は岩のようにかたくなっていて、地質がちがっていた。いよいよ空気はつめたく、そしてどこからか滴《しずく》の落ちるような音がきこえた。彦太があっと叫んで、前へのめった。彦太の電池灯がふっと消えた。
「彦ちゃん。どうしたッ」
「なに、大丈夫。足がすべっただけだ。水が流れているよ」
 五助はほっと安心して、灯を持って彦太のところへ近づいた。彦太は両手をはじめ膝のあたりを泥まみれにして起上るところだった。
 そのとき五助は、彦太の足もとに小さい手帳が落ちているのを見つけたので、それは彦太が落としたものだと思い、彦太に注意をした。彦太はそれを拾い上げたが、それは彦太のものではなかった。
「ぼくんじゃないぞ」
「じゃあ誰のだろう」
「へんだねえ。こんなところに手帳を落とした者がいるなんて……」
 二人は顔をよせて、その手帳のページをひらいて中をしらべた。
「あ、これは兄さんのだ」
「えっ、一造兄さんの手帳かい」
「そうだとも。文字に見おぼえがあるし――あ、ほら、そこにほくの名が書いてある」
 なるほど、五助のいうとおりだった。『五助よ、気をつけよ、危険がせまっている、早くふもとへ引きかえせ……』
「あ、兄さんが、危険をぼくらに知らせているんだ」
「そうだ。よし、先を読もう」
 二人はこわさも忘れて、その手帳にかじりつくようにしてその先を読んだ。それには次のようなことが走り書になっていた。

 ――五助よ、気をつけよ、危険がせまっている、早くふもとへ引きかえせ。
 兄さんはゆだんをしていて失敗した。きょう(十二月二十五日)兄さんがかんそくしていると、とつぜん穴の奥がくずれる音がしたと思う間もなく、奥から怪しい灰色の人ともけだものともつかぬものがはいだしてきて、兄さんに組みついた。兄さんはこれを相手にたたかい、はじめのやつはたおした。しかしあとからまたぞろぞろとはいだしてきて、兄さんにかかってきた。すごい力の奴だ。兄さんはついにピストルをうった。それでようやく相手はひきさがったが、兄さんはざんねんにも両足を折られてしまって、動けなくなった。そこで手だけを使って穴を出ようとしたが、どうしてもだめだった。穴の中では電池がたおれ硫酸《りゅうさん》がこぼれているうえに、水でぬかるみとなり、しかも穴の外は高くなっていてとてものぼれない。ざんねんだ。お前の来てくれることを祈っている。
 いったい何奴《なにやつ》だろう、思いがけなく穴の奥から現われた奴は?
 人間とは思われない。からだは人間の二倍ぐらいもあり、灰色の毛がからだ中に生えていた。しかしけだものでもないと思う。ちゃんと両足で立ち、声を出して話をし、穴の上を蝙蝠《こうもり》のようにとぶのを見た。足は蛙《かえる》のように見えた。そしてくさい。なにか、瓦斯《ガス》みたいなものを出すのだ。たしかに高等な生物だ。
 いったい何者だろうか。
 そうだ、あれかも知れない。あれというのは、地球が四回氷河期をむかえたが、その前にこの地上にすんでいた高等生物の子孫ではないかと思う。その当時、彼らのあるものは地上がさむくなったため、地中へにげこんだのだ。そしてそれ以来ずっと地中で何万年もくらしていた前世紀の生物じゃないかと思う。それがひょっくりこの穴の奥から出て来たのではあるまいか。ふしぎなことだが有り得ないことでもないと思う。
 そういえば、兄さんがこれまでにこの穴で地中を伝わる震動をかんそくして来たが、どうもあたりまえの地震ではないところのへんな震動が交っていた。兄さんはその謎をとこうと思い、誰にもいわないでその研究をつづけて来たわけだが、それはついにこのような悲劇をむかえることとなった。なにごとも運命である。――だが、兄さんはまだ息があるうちに世界中でまだ誰も知らない地中怪人族を見ることができて、うれしいと思う。この怪物どもだよ、青髪山の魔神といわれていたのは。あの足あと、あのあやしい空中飛行……。
 みなで警戒しなければならない。もっとりっぱな研究者たちをここへ送るようにせよ。十分に警備隊をおいて、けがのないようにせよ。相手はなかなかゆだんがならない怪物だよ――
 あっ、また怪物どもがおしよせて来たようだ。兄さんはもう助からない。ピストルの弾丸のつづくかぎりうって――もう二発しかないが――あとは彼らにからだをまかすしかない。さよなら五助。みんなによろしく。
[#地から3字上げ]一造

「ああ、かわいそうに。君の兄さんは最後のピストルを二発うって、怪物につかまったんだよ。ぼくらがもっと早く来ればよかった」
「いや、ぼくらが早く来れば、ぼくらもまた怪物につれていかれたかもしれない。兄さんはぼくたちの生命をすくってくれたことになるんだ」
「なるほど、そうだったね。五助ちゃん、もっと奥を探してみようか」
「いや、よそう。兄さんは、危険だから早くふもとへひきあげろと書置《かきおき》してある。さあ早く穴を出ようや」
「そうかい、ざんねんだなあ」
 二少年は、思い切って穴から外にはい出した。ところが、そのすぐあとで、どういうわけか、とつぜん地鳴りとともに大山つなみが起った。そして穴のあったところはすっかり岩石の下にうまってしまった。二少年は生命《いのち》からがら山をかけ下って、ふもとの村へかえりついた。
 怪物はそののち姿を現わさなくなったので、村人は無事に日を送っているという。



底本:「海野十三全集 第12巻 超人間X号」三一書房
   1990(平成2)年8月15日第1版第1刷発行
初出:「東北少国民」河北新報社
   1946(昭和21)年3月〜9月号
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年11月12日公開
2003年8月31日修正
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