青空文庫アーカイブ

鞄らしくない鞄
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)引継簿《ひきつぎぼ》

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)警視|田鍋良平《たなべりょうへい》

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)相当[#「相当」に白丸傍点]
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   事件|引継簿《ひきつぎぼ》


 或る冬の朝のことであった。
 重い鉄材とセメントのブロックである警視庁の建物は、昨夜来の寒波《かんぱ》のためにすっかり冷え切っていて、早登庁《はやとうちょう》の課員の靴の裏にうってつけてある鋲《びょう》が床にぴったり凍《こお》りついてしまって、無理に放せば氷を踏んだときのようにジワリと音がするのであった。朝日は、今ようやく向いの建物の頭を掠《かす》めて、低いそしてほの温い日ざしを、南向きの厚い硝子《ガラス》の入った窓越しにこの部屋へ注入して来た。
 そのとき出入口の重い扉がぎいと内側に開いて、肥《こ》えた赭《あか》ら顔の紳士が、折鞄を片手にぶら下げて入って来た。
 課員たちは一せいに立上って、その紳士に向って朝の挨拶《あいさつ》をのべた。みんなの口から一せいに白い息がはきだされて、部屋の方々に小さな虹《にじ》が懸った。紳士は一番奥まで行って、まだ誰も座っていない一番大きな机の上に鞄をぽんと投げ出し、それから後を向いて帽子掛に、鼠色の中折帽子をかけ、それから頸《くび》から白いマフラーをとってから、最後に鼠色《ねずみいろ》の厚いオーバァを脱いで引懸けた。それから身体をひねって、大机にくっついている回転椅子をすこし後にずらせて、その上に大きな尻を落着かせたのであった。かくして警視|田鍋良平《たなべりょうへい》氏は、例日の如くちゃんと課長席におさまったのである。
 少女の給仕が、縁《ふち》のかけた大湯呑《おおゆのみ》に、げんのしょうこを煎《せん》じた代用茶を入れてほのぼのと湯気だったのを盆にのせ、それを目よりも上に高く捧げて持って来た。課長は彼女がその湯呑を、いつもと同じに、硯箱《すずりばこ》と未決《みけつ》既決《きけつ》の書類|函《ばこ》との中間に置き終るまで、じっと見つめていた。
 少女の給仕が、振分け髪の先っぽに、猫じゃらしのように結んだ赤いリボンをゆらゆらふりながら、戸口近い彼女の席の方へ帰って行くのを見送っていた田鍋課長は、突然|竹法螺《たけほら》のような声を放って、誰にいうともなく、
「あーア、昨夜から、何か変ったことはなかったかア」
 と、顔を正面に切っていった。そして手を延ばして大湯呑をつかむと、湯気のたつやつを唇へ持っていった。破《やぶ》れ障子《しょうじ》に強い風が当ったような音をたてて彼は極《ご》く熱《あ》つのげんのしょうこを啜《すす》った。近来|手強《てごわ》い事件がないせいか、どうも腸の工合がよろしくない。
 ばたんと机に音がして黒表紙の帳簿《ちょうぼ》が課長の前に置かれた。「事件|引継簿《ひきつぎぼ》第七十六号」と題名がうってある。課長は大湯呑を左手に移し、右手の太い指を延ばして帳簿の天頂《てっぺん》から長くはみ出している仕切紙をたよりにして帳簿のまん中ほどをぽんと開いた。その頁には、昨日の日附と夕刻の数字とが欄外《らんがい》に書きこんであり、本欄の各項はそれぞれ小さい文字で埋《うま》っていた。
“――省線山手線内廻り線の池袋駅停り電車が、同駅ホーム停車中、四輌目客車内に、人事不省《じんじふせい》の青年(男)と、その所持品らしき鞄(スーツケースと呼ばれる種類のもの)の残留せるを発見し届出あり、目白署に保護保管中なり。住所姓名年齢|不詳《ふしょう》なるも、その推定年齢は二十五歳前後、人相服装は左の如し……”
 課長はそのあとの文字を、目で一はけ、さっと掃《は》いただけでやめ太い指で紙をつまんで、次の頁をめくった。
 次の頁は空白《ブランク》だった。
(さっぱり商売にならんねえ)
 と、課長は、刑事時代からの口癖になっている言葉を、口の中でいってみた。ぽたりと微《かす》かな音がした。茶色の液《えき》の玉が空白の頁の上に盛上って一つ。課長は大湯呑を目よりも上にあげて、湯呑の尻を観察した。それからその尻を太い指でそっと撫《な》でてみた。指先は茶色の液ですこし濡《ぬ》れた。課長はすこし周章《あわ》てて茶碗を下に置きかけたが、机に貼りつめている緑色の羅紗《ラシャ》の上へ置きかけて急にそれをやめ、大湯呑は硯箱《すずりばこ》の蓋の上に置かれた。
 課長の仕事は、まだ終っていなかった。事件引継簿の頁の上にはげんのしょうこの液の玉が盛上っていた。課長は、机の引出から赤い吸取紙を出して、茶色の水玉の上に置いた。吸取紙は丸く濡れた。その吸取紙を課長が取ってみると、帳簿の上の水玉は跡片《あとかた》なく消え失せていた。課長の当面の仕事は終った。
 おれの次の仕事は、何時になったら出来てくるのであろうか――と、課長は背のびをしながら、両手を頭の後に組んだ。


   失踪《しっそう》の博士


 いつもなら、そういう面会人は必ず応接室へ入れるのが例になっていたが、今日ばかりは特別の扱いで、課長はいそいそと席から立って指図《さしず》をし、その面会人を自分の机の横の席へ通させたのである。ちょうどその日のお昼前のことであった。
 面会人は臼井《うすい》藤吾という姓名の青年であり、この臼井青年を紹介して来たのは、課長と同郷の大先輩である元知事|目賀野《めがの》俊道氏であった。しかし課長は、この大先輩に対し、あまり尊敬の念を持合わしてはいなかった。
「実は重大人物が行方不明となりましたものですから、特に課長さんの御尽力《ごじんりょく》に縋《すが》りたいと存じまして、目賀野|閣下《かっか》から紹介して頂いたような次第でございます」
 青年臼井は、ポマードで固めた長髪を奇妙に振りながら、近頃の青年にしては珍らしく鄭重《ていちょう》な言葉で挨拶をしたのだった。青年の赤いネクタイが、その睡眠不足らしい腫《は》れぼったい瞼《まぶた》や、かさかさに乾いた黄色っぽい顔面とが不釣合に見えた。
(目賀野氏はもはや閣下ではない筈ですが……)と皮肉をいってやりたくなった田鍋課長だったけれど、それは差控《さしひか》えることにして、
「どういう人物だか、詳しくお話下さらんので、われわれには正体が分りませんが、とにかく家出人の捜査申請《そうさしんせい》は本庁でも毎日受付けて居りますから、どうぞ届書《とどけしょ》を出されたい」
 と返答をした。
「いや、これは失礼をいたしました。故意にその人物の素性《すじょう》などを隠そうとしたものではなく、その人物が如何なる人であるかを説明するには相当長い説明が要《い》りますので、とりあえず重大人物と申上げたわけでありまするが……」
「お話中ですが、われわれは非常に多忙でありますし、且《かつ》又《また》非常に重大事件を数多抱えて居りますために、なるべくつまらんことでわれわれを煩《わずら》わさないように願いたい。いやもちろん目賀野先生の紹介状に対して敬意を表しないというわけではありませんが、とにかく本課では目下数多の重大事件を抱えこんでいる――今も申した通りですが、例えば某研究所から二百グラムという夥《おびただ》しいラジウムが盗難に遭い目下重大問題を惹起《じゃっき》していまして、本課は全力をあげて約四十日間|捜索《そうさく》を継続していますが、今以て何の手懸りもない――迷宮《めいきゅう》入り事件くさいですがね、これは……、それだとか次は……」
「お話中を恐れ入りますが、他の重大事件には私は殆んど関心を持って居りませんので。はい、只々《ただただ》重大人物博士の失踪《しっそう》について非常なる憂慮《ゆうりょ》と不安と焦燥《しょうそう》とを覚えている次第でございます」
「失踪事件ならば、先刻も御教えしたとおり家出人捜査|申請《しんせい》をせられたい」
「それは分って居ります。しかしですな、その博士はあまりに重大なる人物でありまして、普通の失踪捜査申請などをしていたのでは間に合わないのでございます。況《いわ》んや博士に於《おい》ては家出せられるほどの事情は痕跡《こんせき》ほども持って居られない。従ってこれは博士を誘拐《ゆうかい》したと見なければならない甚《はなは》だ重大刑事事件であります。果《はた》して然《しか》らば、刑事部捜査課長たる足下《そっか》が当然陣頭に立って捜査せらるべき筋合のものであると確信いたします」
「一体《いったい》誰ですか、その重大人物博士とやらいうのは……」
「赤見沢《あかみざわ》博士のことです。あの有名な実験物理学の権威《けんい》、そして赤見沢ラボラトリーの所長、万国《ばんこく》学士院会員、それから……いや、後は省略しましょう。ここまで申せば、課長さんも赤見沢博士の重大人物たることをよく御了解《ごりょうかい》になるでしょう」
「もちろんです」課長は勢い上、そう応《こた》えなければならなかった。「赤見沢先生が失踪されたとは、これは初耳ですな。それは何時《いつ》のことですか」
「昨夜以来、お邸《やしき》へお帰りがない。お邸と申しましても、それはラボラトリーの一室ですが……。私は昨夜はお目に懸《かか》る約束になっていたので博士の御帰りを待って居りましたが、遂《つい》に博士はお帰りにならず、本日午前十時になっても姿をお現わしになりません。それ故にこれは大変だと思い――今までそんな約束ちがいは一度もありませんでしたからな――それで目賀野閣下に御相談をし、こちらへ駈付《かけつ》けましたような訳です。如何です。昨夜何か都下において血腥《ちなまぐさ》き事件でもございませんでしたでしょうか」
 臼井は錐《きり》のように鋭く問い迫る。
「昨夜は極《きわ》めて静穏《せいおん》でしたな。報告するほどの事件は一つもなかった。いや、正確に申せば只一件だけあった。深夜《しんや》池袋駅|停《どま》りの省線電車の中に、人事不省になった一人の男が鞄と共に残っていたというだけのことです」
「えっ、鞄と仰有《おっしゃ》いましたか」
「ああ、鞄――それはスーツケースらしいですが、それが車内に残留していたので、その人事不省の人物の所持品じゃろうと……」
「その人事不省の男というのは、どんな男でしたか。年齢はどのくらい……」
「二十五前後の青年男子だと報告して来ています」
「ああ、それじゃ違う。赤見沢博士は確《たし》か本年六十五歳になられる老体《ろうたい》なんですからね」
「それはお気の毒」
 と課長はいって、事件引継簿を書類|函《ばこ》の既決《きけつ》の函の中へ、ばさりと投げ入れた。


   仔猫《こねこ》の怪《かい》


 面会人臼井は、なかなか尻を上げようとはしなかった。
「これは一つ、今日只今課長さんによく認識して頂かねば、僕は帰れません。そもそも赤見沢博士の重大性なるものは……」
「粗茶《そちゃ》ですが、どうぞ」
 少女の給仕が茶を入れて持って来て、臼井の前に置き課長の大湯呑にはげんのしょうこをつぎ足して来た、課長は客に粗茶をどうぞと薦《すす》めたわけだ。
「ああ結構です」と臼井は香《か》のない茶に咽喉《のど》を湿《しめ》し、「早く分って頂くために、そうですなあ、ああそうだ、仔猫《こねこ》のお話をしましょう」
「仔猫?」
「そうです。猫の子ですなあ」
 課長の前の既決書類函から書類を取出していた少女の給仕は、猫の子問答のおかしさに耐《た》えられなくなって、書類を抱えると大急ぎで後向きになって、すたすたと戸口の方へ駆出《かけだ》した。
「猫の子がどうしたというんです」
「課長さん。僕が博士を始めて訪問したときに、その部屋に仔猫がいたんです。僕はびっくりして腰を抜かしそうになりました」
「君はよほど猫ぎらいと見える。ははは」
「いや違う。総じて猫というものは僕は大好きなんです。だから普通では猫又《ねこまた》を見ようが腰を抜かす筈がない。だからそのときは愕《おどろ》きましたよ、実に……なぜといってその仔猫がですね、宙《ちゅう》にふらふら浮いているじゃないですか、びっくりしましたね」
「どうしてまたその仔猫は宙に浮いていたのですか。天井《てんじょう》から紐《ひも》でぶら下げてでもあったのですか」
「そんなことなら、僕はきゃッなどと恥《はず》かしい声を出しやしません。その仔猫たるや、紐でぶら下げられたのでもなく、風船で吊上《つりあ》げられているのでもなく、宙にふわふわと……」
「それは本当の猫じゃないのでしょう」
「本当の猫です。あとで僕はさわってみましたから、知っています。もっともこの仔猫は赤い腹掛《はらかけ》をしていましたがね」
「腹掛のせいじゃないでしょう、宙をふわふわやるのは……」
「さあどうですかなあ。とにかく赤見沢博士という大学者は仔猫を宙に浮かせるような奇妙な実験をしてみせる、恐るべき人物です」
「それは魔法かな、奇術《きじゅつ》かな」
「奇術でしょうな。博士はそのときいっていました。これは正しい学理に基く一つの実験なんだ。決してこの猫は化け猫ではないと説明されたんです」
「君はその種を知っているのでしょう。さあ聞かせて下さい」
 田鍋課長は、先刻《せんこく》とすっかり立場をかえ、臼井の語るのを催促《さいそく》した。
「僕には分りません」臼井はそういった。本当に知らないのか、それともわざと説明を逃げたのか分りかねる。「とにかくそういう重要人物なんですから、ぜひとも一刻も早く赤見沢博士を探し出して頂きたい」
「うーむ」
 課長は呻《うな》った。わが命令を出すのは極めて容易《ようい》であるが、そういう奇術師だか理学者だか分らない変な人物を探し出すのに大掛りなことをやって、後でもの嗤《わら》いにならないであろうかどうかを心配した。
 課長の返事はなかなか出て来なかった。その間、臼井青年はしきりにかきくどいた。課員が、課長の前の未決書類函へ帳簿を入れていった。それは、さっきからそのへんをまごまごしている黒表紙の事件引継簿であった。
「とにかく……まあとにかく、私から係へよく話をして置きましょう。それで、博士の人相書や――写真があれば更にいいですね――それから失踪の時刻やそのときの服装、その他参考になる事柄を出来るだけたくさん書いて私の許まで提出されたい。私としては出来得るかぎりの御便宜を図《はか》るでありましょう。どうぞ目賀野先生へよろしく」
 そういわれれば誰でも面会の終《おわり》へ来たことに気がつくものである。臼井青年は、いい足りなさそうな顔付で、その部屋を出て行った。
 臼井の姿が部屋から消えると、課長はその途端《とたん》に彼から頼まれたことを一切忘れてしまった。これは永年に亙る課長の修養の力でもあったり且又《かつまた》習慣でもあった。“ものごとを記憶するよりは、出来るだけ忘れよ”という金言があったと確信している田鍋課長であった。
 だが課長は、間もなく臼井から頼まれたことをはっきり思い出さないわけにはいかない運命の下《もと》にあった。それは彼が忠実に未決書類函へ手を延ばし、黒表紙の引継簿の仕切紙の挟まっているところを開いて読んだときに、そうなったからである。
 その頁は、昨夜の池袋駅事件につき、第二報告書が赤インキで書き入れてあって、
“――前記姓名|未詳《みしょう》の男は、二十五歳前後の青年にあらずして、実は六十五歳前後の老人なること判明せり。かく判明せる原因は、該《がい》要保護人を署内(目白署)に収容せる後に至りて、該人物が巧妙なる鬘《かつら》を被《かむ》り居たることを発見せるに因《よ》る。尚《なお》、同人所有のものと思われる鞄は、赤革のスーツケースにして、大きさに不相応なる大型の金具及び把手《ハンドル》を備《そな》え居り、その蓋を開きみたるに、長さ二尺ばかりの杉角材が四本と古新聞紙が詰めありたる外《ほか》めぼしきものも、手懸《てがか》りとなるものも見当らず。
 一方、前記要保護人は、収容後十時間を経《へ》るも未だ覚醒《かくせい》せず、体温三十五度五分、脈搏《みゃくはく》五十六、呼吸十四。その他著しき異状を見ず。引続き監視中なり。――”
 とあったので、課長はそれと気付き、立去った臼井青年の後を課員に追わせたが、遂に彼の姿を見つけることが出来なかった。課長としては、果して目白署に保護中の当人と赤見沢博士とが同一人だかどうかは不明だが、年齢《とし》がちょうど博士と合うので、損《そん》と思っても、行ってみてはどうかと臼井にすすめるつもりだったのである。


   研究生すみれ嬢


 臼井は、ぼんくらではなかったと見え、その足ですぐ目白署を訪ねている。
 やっぱり、赤見沢博士であった。
 彼は署の電話を借りて、とりあえず目賀野に知らせた。目賀野は愕《おどろ》いて、すぐ博士を引取りに行くからといった。
 それから一時間ほどして、目賀野は医師やら博士の姪《めい》の秋元千草という麗人《れいじん》や博士の助手の仙波学士を伴い、自動車で駆けつけた。そして一札《いっさつ》を入れ、人事不省《じんじふせい》の博士と遺留《いりゅう》の鞄《かばん》とを内容物もろとも引取っていったのであった。
 博士を護って、一行は目黒《めぐろ》行人坂の博士邸へ入った。
 雑用係の川北老夫妻と、研究生小山すみれ嬢とがびっくりして博士の帰邸を迎えた。
 目賀野の指図《さしず》で、臼井は出迎えた人々を掴《つかま》えて話をした。
「わしは存じて居りましたでがす」と川北老はいった。「先生さまが変装なすって、そっとお出懸《でか》けになるところを確《たし》かに見て居りました。はい、トランクをお持ちになっていましたなあ。おお、このトランクに違いありません。色といい形といい大きさといい……。先生さまは外出なされるとき必ず若い男になってお出懸けなさるんで、これは昨夜にかぎったことではございません。そのこみ入った理由《わけ》はわし如き者に分ろうはずはございません。お出懸け先でございますか、それは全く存じません。先生さまは、爺《じい》や、これからどこへ行ってくるぞなどと仰有《おっしゃ》るお方じゃございませんもんな。……坂をのぼって目黒駅の方へお出でなさったことだけは間違いねえでがす」
 博士の昨夜の行動について喋《しゃべ》ったのはこの川北老だけであった。他の妻君のお綱婆さんも、小山研究嬢も、共になんにも語らなかった。
 臼井は、目賀野の指図で、もう一つの重大申入れを留守番の人々に行った。
「実は、僕はこの前からしばしばこちらへ伺って博士に或る物の御製作をお願いしてあったんだ。昨日はその出来上ったものを僕の許《もと》へお届け下さるお約束の日だった。博士はこのトランクに入れて、僕のところへ向われたんだが、その途中であのような病態《びょうたい》となられた……」
 そういっているときに、目賀野が連れていた医師が入って来て、博士の容態《ようだい》について報告した。目下|麻痺《まひ》症状がつづいている。その原因は不明である。しかし急変はないと思うから、当分このままにそっと寝かして置くがよろしく、次第によって明日か明後日から滋養浣腸《じようかんちょう》などを始めることにしたいというのだった。目賀野は目くばせをして、医師をこの部屋から去らせた。そして臼井の腰の上を肘《ひじ》でついた。
「……そこでですね」と臼井は小山研究生と川北老夫妻へ気ぜわしく話しかけた。「このトランクとその中身とを、僕に預けていただきたいんですがなあ。もちろん博士が意識を回復されればそのとき改めて博士に申入れるつもりですが、それまでのところを、僕に預けておいて頂きたい。そしてかねがねその代償として博士にお支払いすることになっていた金十万円也を、今ここに置いて参りますから、それならあなた方も承諾して下されやすいと思う。ね、いいでしょう」
 そういって臼井は、十万円の紙幣束《さつたば》を三人の方へ差出した。三人は鶏《とり》のようにびっくりして、隅《すみ》へ固まって相談をはじめた。
 やがて相談がまとまったと見え、三人は臼井の方へ戻って来た。川北老が代表者となって折衝《せっしょう》の任に就《つ》くものと見えた。果然彼は発言した。
「とりあえずわしら留守番の者が相談ぶったんですが、その大金はお預りしますまい。その代り品物の何と何とを持って行かれるか、その品目を書いた借用証を一札入れていって下せえ。小山さんもそういわっしゃるだ」
 臼井の眼が小山すみれ嬢の方へ動いた。すみれ嬢は猫のように大きな目をじっと据《す》えて、臼井の顔を睨《にら》みかえした。
「承知しました。そうしましょう」臼井は目賀野の信号によって、そのように返事をした。それから小机の上に紙を延べて借用証を書き始めたが、その品目を書くについてトランクをあける必要にぶつかった。開いて中を見せれば、すみれ嬢の大きい目は臼井の脳髄を突き刺してしまうだろう。彼は、そうした。
「ええー、よくごらん下さい」
 すみれ嬢は、トランクの中を嘗《な》めんばかりにして入念《にゅうねん》に改めた。彼女が用を終って顔をあげたのを見ると、その面《おもて》にはほっとした色があった。
「よくごらんになりましたね。品書は、一つトランク、一つ木材四本、一つ新聞紙|若干《じゃっかん》、以上――でいいですね」
 すみれ嬢が川北老に目配せをしたので、川北老が、「はい。それでようがす」
 と返事をした。
 臼井は記名|捺印《なついん》をして、その預り証を川北老に手渡した。川北老はそれをすみれ嬢に見せ、嬢がうなずくと、それを八つに畳《たた》んで、胸のポケットに収《しま》って釦《ボタン》をかけた。
 取引は終った。
 目賀野と臼井は挨拶をして、玄関を出た。待たせてあった自動車の中には、さっき活躍した医師と、若い男女が各一人待っていた。その若い男女は、さっき目白署において、博士の姪の秋元千草と博士の助手たる仙波学士と名乗った二人であったが、この二人はこのさわぎを他処《よそ》に自動車を下りもせず、ぽかんとしていた。それもその筈、実は両人は博士の姪でもなく助手でもなく、目賀野が便宜《べんぎ》上連れて来た脇役の人物であったのだ。その便宜とは、もちろん署から疑いを持たれることなしに、博士と鞄とを引取ることにあった。
 こうなると目賀野という人物は、なかなか油断のならない重要人物であることが知れて来るが、彼の本来の面目は次の章に於《おい》て一層よく知れよう。


   秘密地下室


 省線|田端《たばた》駅を下りて西側に入り、すぐ右手の丘をのぼり切るとそこに目賀野邸があった。
 鞄を護衛した目賀野たちの自動車が、邸内に滑《すべ》りこんだ。
 玄関にとびだして来た書生が三名。自動車の扉が明いて、ぴょんととび下りたは目賀野であった。
「さあ、こっちへ寄越せ」
 と、目賀野が伸ばす手に、車内から続いて現われた臼井が例の鞄を手渡す。
「おい臼井。お前だけ、わしについて来い。外の奴は、邸のまわりを厳重に警戒して居《お》れ」
 目賀野はそういいすてて、鞄を大事に片手にぶら下げて、どんどん奥へ入っていった。臼井は遅れまいと、そのあとを追う。
 自動車から最後に下りた草枝と千田が、顔を見合わせてにやりと笑った。二人は連れ立って、別の小玄関から上にあがった。
 目賀野は、廊下をどんどん鳴らして、奥へ奥へと入っていった。一等奥に、洋間があった。彼はポケットから鍵束を出して鍵を探していたが、やがてその一つを鍵穴に入れて廻した。
 重い扉は、始めて開いた。
 目賀野は鞄を持って、中へ入った。
「臼井。うしろを閉めろ」
「はい」
 扉が閉められた。と、自動式に錠《じょう》がぴしんと掛った。
 この洋間には、窓が一つもなかった。しかし天井からは豪華なシャンデリアが下って、あたりを煌々《こうこう》と照らしていた。大理石のマンテルピース、一つの壁には大きな裸体画、もう一つの壁には印度|更紗《サラサ》が貼ってあった。立派な革椅子に、チーク材の卓子など、すこぶる上等な家具が並んでいて、床を蔽《おお》う絨氈《じゅうたん》は地が緋色《ひいろ》で、黒い線で模様がついていた。
 隅のところに、上から見ると三角形になっている隅の飾戸棚があった。目賀野はその戸棚の硝子戸《ガラスど》をあけた。洋酒壜が並んでいた。
 その中は、瓢箪《ひょうたん》を立てたような青い酒壜があった。目賀野はその酒壜の首を掴《つか》むと外に出し、もう一方の開《あ》いた手を戸棚の奥へ差入れた。そして何か探しているらしかったが、すると突然、裸体画のはいった大きな額縁《がくぶち》が、ぐうっと上にあがったと思うと、そのあとにぽっかりと四角い穴が開いた。そしてその穴の中に、地下室へ続いているらしい階段の下り口が見えた。
「臼井。その鞄を持って、こっちへ下りて来てくれ。鞄は大切に取扱うんだぞ」
「はい、承知しました」
 目賀野のあとについて、臼井は鞄を持って秘密の階段を下へ降りていった。
 下には十坪ほどの秘密室があった。この外にも倉庫や地下道や抜け穴などがあった。目賀野自慢のものであった。
「さあ、鞄をここへ載せて……そしていよいよ赤見沢博士|謹製《きんせい》の摩訶《まか》不思議なる逸品《いっぴん》の拝観と行こうか」
 目賀野は、童のようににこにこ顔だ。
 臼井が鞄を卓上へ載せる。
「開いていいですね」
「ああ、あけてくれ。丁重《ていちょう》に扱《あつか》えよ」
「はあ」
 臼井は、鞄についている金色の小さい鍵を使って、そのスーツケースを開いた。
 鞄の中には杉の角材《かくざい》と見えるものが四本と、新聞紙と見えるものが十四五枚とが入っていることは、さっき調べたとおりであった。
「さっきは、ひやひやしたよ。これを調べているうちに一件がもそもそ動き出しやしないかなあと思ってね」
「はあ」
「とにかく、ひどく心配させたが、これをこっちへ引取ることが出来たのは非常な幸運だった。――いや、君の骨折《ほねおり》も十分に認める。さあ、その材木みたいなものを、外に出したまえ。そっと卓子へ置くんだよ。乱暴に扱うと、急に跳ねだすかもしれないからなあ」
 目賀野は、なんだか訳のわからない無気味なことを喋《しゃべ》って大恐悦《だいきょうえつ》の態《てい》であった。
 臼井は、鞄の中から角材を出した。四本とも皆出して、卓子の上にそっと置いた。また新聞紙も皆出した。鞄の中は空っぽになった。
「さあ、これでいい訳だ。おい臼井、その鞄を閉じてくれ」
 目賀野の命令どおり、臼井は鞄の蓋をばたんと閉めた。
 目賀野の顔は、いよいよ緊張に赭味《あかみ》を増した。彼の目は鞄に釘《くぎ》づけになっている。
 が、そのうち彼の目は疑惑に曇《くも》りを帯《お》びて来た。
「どうもおかしい。鞄はおとなしい。おかしいなあ。……ああ、そうか。臼井。その鞄に鍵をかけてみろ」
 臼井は命ぜられるとおりに、鞄の錠に鍵を入れて、錠を下ろした。
 鞄は卓上に於て、再び熱烈な目賀野の視線を浴びることとなった。
 四五分経つと、目賀野の顔がすこし蒼《あお》ざめた。彼は鞄の傍へ寄ると、いきなり鞄を持上げ、力いっぱい振った。
 それがすむと、彼は鞄をもう一度、そっと卓子の上へ置いた。それから、じっと鞄を注視《ちゅうし》した。
 彼は小首をかしげた。
 もう一度鞄を抱きあげると、上下左右へ激しく振った。それがすむと、卓子の上へ戻した。但しこんどは鞄を横に寝かせて置いた。
 彼は腕組をして、鞄を睨据《にらみす》えた。
 一分二分三分……彼の顔は硬《こわ》ばった。と、彼はその鞄を手にとるが早いか、どすんと臼井の足許へ投げつけた。
「な、なにをなさるんです」
 臼井の顔も蒼くなった。
「ばかッ。この鞄は、ただの鞄じゃないか。こんなものをありがたく受取って来て、どうするつもりか」
 目賀野は、満身|朱盆《しゅぼん》のようになって、臼井を怒鳴《どな》りつけた。
「ただの鞄だと断定するのは、まだ早すぎると思います。もっとよく研究してみるべきではないでしょうか」
「駄目だ。これだけ色々とやってみても、がたりともせんじゃないか。ただの鞄に過ぎないことは明白《めいはく》だ。赤見沢博士謹製のものならこんなことはない」
「おかしいですね。……博士はこの鞄と共に警察署へ保護されていたんで、間違いはない筈なんですがね。それとも……」
 と、臼井はしばらく自分のおでこを指先でつまんで考えこんでいたが、そのうちに彼は指を角材の方へ指した。
「ああ、これだ。この杉の角材ですね。この中に博士の仕掛があるのですよ。閣下の御註文《ごちゅうもん》のとおり鞄にして置くと目に立つという心配から、仕掛はこの角材の中に秘《ひ》めて邸から持ち出されたんじゃあないでしょうか。いや、それに違いないです。そうでもなければ、ねえ閣下、鞄の中に杉の角材などを大事そうに収《しま》っておくわけがないですよ」
 臼井は、勇敢なる説を立てて、目賀野を説服《せっぷく》にかかった。
「杉の角材の中に仕掛があるというのか。それはどうも信ぜられないね。しかし念のためだ、調べてみろ」
 目賀野は臼井を督励《とくれい》して、四本の杉の角材を手にとるやら耳のところまで振ってみるやら、それから目方を考えてみるやらして、さまざまな診察を試みたが、その結果は、杉の角材であるという以外の化物ではなさそうであった。
「貴様のいうことは出鱈目《でたらめ》だ」
 目賀野は再び激昂《げきこう》に顔を赭《あか》くし始めた。
「待って下さい。博士の仕掛は、この角材の中にしっかり入っているんでしょうから、この角材を鉈《なた》で割ってみましょう」
 臼井は、部屋の隅の函《はこ》の中から鉈を出して来て、角材をぽかりと縦《たて》に二つに割った。それから中を調べた。が、それは杉の角材であるに十分であったが、他の何物をも隠していなかった。
 臼井は、次々に残りの角材をぽかりぽかりと割ってみた。すべては、只の角材であるという以外に、何の新発見もなかった。
「それ見ろ。なんにもないじゃないか。貴様は恩知らずだ。底の知れない鈍物《どんぶつ》だ。ああ貴様のような奴は、もうわしのところへは置いておけない。とっとと出て行け」


   不意討《ふいうち》


 臼井の顔が、酒に酔った人のように真赤になる。目賀野の顔色はすごいまでに蒼《あお》い。
「こんなにまでして貴方に尽《つく》しているのが分らんですか」
 臼井が残念そうに声をふり絞った。
「わしの命令から逸脱《いつだつ》するような者をこのまま黙って許しておけると思うか。事の破綻《はたん》はみんな貴様のよけいなことをしたのに発している。こんな鞄が何に役立つ。この材木は一体何だ。風呂桶《ふろおけ》の下で燃すのが精一杯の値打だ」
「そんな筈はないんですがなあ。もっと慎重によく調べさせて下さいよ」
「その必要はない。何もかもおれには分っとる。おまけに博士をあんなに生ける屍《しかばね》にしてしまって。……わしの計画は滅茶滅茶《めちゃめちゃ》じゃないか」
「博士は外出時に変装するということを貴方が僕に注意しなかったのが、そもそも手落ちですよ」
「博士のラボラトリーの前から警戒監視すべきが当然だ。しかるに貴様は骨を惜んで田端駅で待っていた。横着者《おうちゃくもの》め。そして博士が到着しないと分ると、そこで初めて目黒へ駆けつけた。そのときはもう後の祭だ。博士はもの言わぬ人となって目白署へ収容され……そうだ、まだ貴様にいうことがあった。貴様は田鍋のところでよけいなことを喋《しゃべ》ったな。知っているぞ、ちゃんと知っている。博士の部屋へ入ると、猫の子が宙に浮いてばたばたやっていたと喋ったろう。それから博士に仕事を頼んだことまでべらべら喋っちまったんだろう。どうだ、それに違いなかろう」
「それは……それは、そういわないとあの場合、捜査課長の心を動かすことが出来なかったからです」
「バカ。捜査課長にあれを連想せしめるような種を提供して、わしの方は一体どうなると思うんだ。田鍋のやつは、勘は鈍いが、あれで相当|克明《こくめい》でねばり強いから、そのうちにはきっと一件を感づくに違いない。そうなったら……ああ、そうなったら万事休《ばんじきゅう》すだ。わしの最後の一線が崩れ去るのだ。憎い奴だ、貴様は……」
「まだ投げるのは早いです。打つべき手は、まだいくらでもありましょう。こんどは間違いなくやります。一命を抛《なげう》ってやります。命令して下さい」
「貴様に対する信用はゼロなんだが……よしもう一度使ってやる。いいか、こうするんだ。田鍋のところへ行くんだ。さっきの十万円で買収だ。買収に応じなかったら田鍋の奴を早いところ誘拐《ゆうかい》してしまえ」
「はい」
 と、電話が外から懸って来た。
 目賀野は電話器を取上げた。彼は簡単な返事をして電話を切った。彼の奥歯がぎりぎりと鳴っていた。
「臼井、早くしろ。十万円はその書類棚の上に入っているから、開いて出したまえ」
「はあ」
 臼井は書類棚のところへ行った。と、彼の脳天《のうてん》にはげしい一撃が加わって、彼は意識を失ってしまった。
 目賀野は、ほっと一息ついて、手にしていた丸い盆を、隅の卓子へかえした。それから隣室へ通ずる扉を開いて、大声で呼んだ。すると、いつぞやの若い男と女とが、奥からとび出して来た。それを見ると、目賀野はいった。
「一時この邸から退去せにゃならなくなった。千田はこの臼井を担《かつ》いで霊岸橋《れいがんばし》へ行って、辰馬丸に乗込んですぐ出てくれ。行先は石《いし》の巻《まき》だ、草枝はもんぺをはいてわしといっしょに来てくれ。松戸へ出てから、すこし歩くことにするからなあ」
 そういっているとき、天井に取付けてある高声器が、がらがらと雑音を出してから、ひとりで喋りだした。
「警視庁の自動車が門前に停りました。三人の紳士が今玄関に立ってベルを押しています。一番えらそうな紳士は鼠《ねずみ》色のオーバーを着た大男です……」
 そこまで聞くと、目賀野は万事を悟った。
「捜査課長の田鍋が来たんだ。さすがに早く気がついたな。さあ千田、今のうちに地下道を通って長屋から出て行け。草枝は裏から抜け出ろ。そして松戸の駅前の丸留の家で待っているんだ。もんぺはそこで借りりゃいいぞ」
 目賀野はそういって命令を伝えると、彼自身は隣室へとびこんで、ばたりと扉を閉じた。


   鞄の怪談


 田鍋課長一行は、一向要領を得ないで、目賀野氏が留守だという邸から引揚げた。もし課長が、今しがたそこの地下室での出来事を勘づいていたら、そのように温和《おとな》しく帰りはしなかったろう。
 目賀野は行方不明となった。だが、田鍋は別に大して重要と思わないから、捜査命令を出しはしなかった。その代り彼は赤見沢博士の容態《ようだい》には十分の警戒を払い、専門の警察医を附添わせた。
 こうして、何だか正体《しょうたい》の分らないこの妙な事件は、田鍋課長側と目賀野側との間に喰いちがいのあるままでそれから先を別々に進行していった。
 臼井は、あれから船に乗せられると間もなく正気づいたが、自分が船内に軟禁《なんきん》されている身の上であることを、千田から話されて知った。こうなれぼ当分温和しくしているより仕方がない。そのうちに千田や船員が油断《ゆだん》をするだろうから、脱出も出来ようと考えた。但し脱出したのがよいか、しないで辛抱していた方が安全か、これは篤《とく》と考えてみなければならない問題だと思った。
 ちょうどその頃、東京に一つのふしぎな噂が流れはじめた。それは怪談の一種であるとして取扱われていた。人影もない深夜《しんや》の東京の焼跡《やけあと》の街路を、一つのトランク鞄《かばん》がふらりふらりと歩いていた、そのトランクを手に下げている人影も見当らないのに、トランクだけが宙をふわりふわりと揺《ゆ》れながら向こうへ行くのを見たというのだ。
 もし事実なら、奇々怪々《ききかいかい》なる出来事だといわなければならぬ。
 その怪事の目撃者というのは、焼跡に建っている十五坪住宅の主人で、昼間は物品のブローカーをしている人だったが、その人が夜中|厠《かわや》へ入って用を足しながら何気なく格子の外を覗《のぞ》いた、折柄《おりから》二十日あまりの月光が白々と明るく一面の焼跡と街路を照らしていたが、そこへ突然かのトランクが現われて、主人の目の前をすたすたゆらゆらと通り過ぎていったのだそうな。
「寝呆《ねぼ》けていたんじゃねえよ。へん、この世智辛《せちがら》い世の中に誰が寝呆けていられますかというんだ。信用しなきゃいいよ。とにかくおれは、ちゃんとこの二つの眼で鞄の化物を見たんだから……」
 と、その目撃者はたいへん自信に充ちて放言《ほうげん》したという。
 だが、およそ常識のある者なら、かの自称目撃者の言葉を信じようとはしないだろう。奴凧《やっこだこ》や風船なら知らぬこと、重いトランクが横に吹き流れて行くとは思われない。
 では、トランクの幽霊《ゆうれい》か。トランクに霊あるを未《いま》だ聞いたことがない。
 結局この噂話は、一篇の笑話と化して笑殺《しょうさつ》されるようになったが、その頃、また別の噂が後詰《ごづめ》のような形で伝わり始めた。それはやっぱり鞄|変化《へんげ》に関するものであった。
 何でも新宿の専売局跡の露店《ろてん》街において、昼日中《ひるひなか》のことだが、ゴム靴などを並べて売っている店に一つの赤革の鞄が置いてあったが、この鞄がどうしたはずみか、ゆらゆらと持上って、ゴム靴の海の上をすれすれに往来へ出ていったのである。店番をしていた若者はびっくりして後を追《お》い駈《か》けた。幸いその鞄は隣の店の前あたりにうろうろしていたので、かの店員は鞄に追いついて、左右の手をもって鞄の両脇から抱《だ》き留めたのである。これは重大な事柄であると後に分ったことであるが、そのときかの店員が鞄を取り押えたときの筋圧感《きんあつかん》はといえば、一向鞄を取り押えたような気がせず、なんだか幕に手をかけて引いたように感じた由《よし》である。つまり非常に軽々と感じ、そして少し遅れて慣性《かんせい》のようなものをも感じたというのである。
 その店員の感想にはもう一つ附加えるべきものがあった。それは彼が手を取押えたトランクの横腹から、そのトランクの把柄《はへい》へ移し、トランクをさげたときのことであるが、彼はずっしりとしたトランクの重さを急に感じたというのである。それはなんだか俄《にわか》にトランクの中へ或る重い物が入ったように感じたのである。そこで彼は念のためトランクをゴム靴を並べてあるその上に置くと、トランクの懸金《かけがね》をひらいて開けてみた。が、トランクの中には何も入っていなかった。全くからっぼであったのだ。
 彼は拳固《げんこ》をこしらえると自分の頭をごつんと一撃してからそのトランクの口を閉《し》めて再び店の一隅へ並べた。
 しばらくは何事もなかった。
 ところがそれから二三十分経ったと思われる後のこと、例のトランクは再び、のそのそと店から外へ匐《は》い出《だ》していったのである。店員はそれを見て知っていた。そのトランクを後から抱き停めなければ損をする虞《おそ》れがあるという気持と、気味がわるくて手が出せないという気持が、彼の心の中で闘いを始めた。そのうちに鞄は往来へ飛び出し、彼の眼界から失せた。そこで彼の心の中に怫然《ふつぜん》と損得観念が勝利を占め、彼はゴム靴の海を一またぎで躍り越えて往来へ飛び出した。そのとき彼はなぜか声が出なかったそうである。大声で叫んで人々を集めればよろしかったのにも拘《かかわ》らず、なぜか無言のままだった。それは多分、そのとき軽率《けいそつ》に叫び声をあげて人々にこの事件を知らせたが最後、結局は彼自身の頭が変になっていたんだなどと後に指摘されることになってはいやだと思ったらしいのである。
 トランクはどこへ行ったろう。
 店員はそれを発見するのに大して骨を折らなかった。その赤革のトランクは、金色の金具を午後の太陽の反射光で眩《まぶ》しく光らせながら、広い道路を半分ばかり渡り、地上約三尺ばかりの高度を保って、なおも向いの側の人道へ辿《たど》りつこうとしていた。
 と、左の方から一台のトラックが疾走《しっそう》して来て、呀《あ》っという間にそのトランクに突きあたった。トランクは、フットボールのように弾《はじ》かれて上へ舞いあがった。と思う間もなく下へ落ち始めた。するとその下へトラックの車体がすうっと入って来て、トランクを受け留めた。そのトラックは空《から》であった。そのトラックは、始めトランクに突き当ったそれだった。かくしてそのトラックは速力を緩《ゆる》めることなしに、店員にガソリンの排気《はいき》をいやというほど引掛《ひっか》けて遠去《とおざ》かっていってしまったのである。
 店員は、トラックの番号を覚《おぼ》えることさえ忘れて、呆然《ぼうぜん》と立ちつくしていた。なんという気味のわるいトランクだろう。豚《ぶた》のように跳ねあがり、通りすがりのトラックへとびこんで逃げてしまいやがった。これで、今朝、顔色のわるいカーキ服の男から三百円で買い取った品物をなくして、三百円丸損となってしまったぞと、大いに恨《うら》めしく思った。
 この話が、誰から誰へとなく拡がって行ったのである。


   怪異《かいい》は続く


 東京朝夕新報の朝刊八頁の広告欄に、気のついた人ならば気になったであろうところの三行広告が二つ並んで出ていた。
[#ここから1字下げ、ただし行頭の「○」は天付き]
○紛失《ふんしつ》、赤革トランク、特別美|且《かつ》大なる把柄《はへい》あり、拾得届出者に相当謝礼、姓名在社三二五番
 もう一つは、次のとおりであった。
○紛失、赤革トランク、特別美且大なる把柄あり、拾得届出者に莫大《ばくだい》謝礼、姓名在社三二六番
[#ここで字下げ終わり]
 つまり両方とも赤革トランクを返してくれと訴えているものだった。
 前日トラックの運転手は、空トラックを店のガレージの前に停め、車体の点検を行ったとき、ふしぎなことに、後の荷置き場の隅《すみ》に赤革トランクが逆《さか》さになって置かれてあるのを発見した。彼はそれを下へ下ろし、開いても見たが全然|見覚《みおぼ》えのないものだった。
 そのうちに朋輩《ほうばい》の誰彼がそのまわりに集って来た。そしてこのようなすてきな鞄を何処で手に入れたのかと知りたがった。
 かの運転手は早速返事をして途中まで喋《しゃべ》ったが、そこであとの言葉を嚥《の》みこんだ。そして俄《にわか》に彼は一つの創作をひねりだしてそれを以て返事に継《つ》ぎ足《た》そうとしたとき、支配人の酒田が割込んで来て、その鞄を欲しがった。結局、運転手はその鞄を百円札五枚で支配人に譲り渡した。売った方も買った方もにこにこしていた。
 酒田はその鞄を手にぶら下げて、そこから程遠からぬところにある彼の邸へ歩いて帰った。彼は目下やもめ暮しであった。家族たちはまだ疎開《そかい》先に釘《くぎ》づけのままだった。東京のこの家には、家政婦の老婆が一人仕えているだけだった。
 酒田はその鞄を持って帰ると、押入を開いて、下の段の奥へ押込んだ。そしてすぐ襖《ふすま》を閉めた。どういうわけでそうしたのか明瞭《めいりょう》でないが、多分あまり安く値切って買ったのが気になっていたのかもしれない。
 夕食後、彼は居間に引籠《ひきこも》った。例の鞄を押入から出して、絨氈《じゅうたん》の上に置いて開いた。それから彼は箪笥《たんす》の引出をあけて中からなまめかしい婦人の衣類を取出し、それを一々電灯の灯の近くへ持っていって眺め、指先で布地を摘《つま》み且つ匂いを嗅《か》いだ。そして二種類に別《わ》けて積んでいったが、その一方を例の鞄の中へていねいに入れ始めた。長襦袢《ながじゅばん》もあるし、錦紗《きんしゃ》もあるし、お召《めし》もあり、丸帯もあり、まるで花嫁|御寮《ごりょう》の旅行鞄みたいであった。その上にも彼は、隅の金庫を開いて中から取出した貴金属細工のついた帯留《おびどめ》や指環の箱、宝石入りのブローチの箱、腕環《うでわ》の箱などをその鞄の中、ほどよきところへ押込んだ。最後に特別になまめかしい鹿《か》の子《こ》緋《ひ》ぢりめんの長襦袢を上にのせ、それから鞄の蓋をしめたのであるが、ぎゅうぎゅうに詰まっているので蓋は外に向って太鼓腹《たいこばら》のように膨《ふく》らんだ。そのあとで彼、酒田は意外なことを発見して強く舌打《したうち》をした。
「ちょッ。この鞄には、鍵が二箇もぶら下っているのに、肝腎《かんじん》の錠前《じょうまえ》がついていないじゃないか。見かけによらず、とんだインチキものだ。ええッ、腹が立つ!」
 鍵はあれども鍵穴がない。これでは仕様《しよう》がない。折角《せっかく》トランクに詰めて、明日は横浜へ売りに行こうという寸法だったが、鍵のかからないトランクでは、あっちへ持っていったり、こっちへ預けたりしているうちにあぶないことになりそうだ。だが、折角ぎっしり詰めこんだものを、他のトランクに移すのは面倒《めんどう》だ、今夜はこのままにして、後は明日のことにしようと、闇屋《やみや》の旦那はこのところ聊《いささ》か過労の体《てい》にて、寝椅子の上へ身体をのせた。
「旦那さま。もうここの戸締《とじま》りをいたしてよろしゅうございましょうか」
 婆やの声である。
 酒田が、締《し》めておくれというと、婆やさんは硝子《ガラス》戸をあけて、長い廊下を箒《ほうき》でさらさらと掃《は》き出し、それから戸袋のところへ行って板戸を一枚一枚繰り出し始めたのである。そのとき勝手の方で電話のベルが鳴りだした。婆やさんはそれに気づいて勝手の方へ駆《か》けこんで行く。やがて婆やさんが再び駆け出して来て、酒田へ電話を取りつぐ。そこで酒田は寝椅子《ねいす》からむっくり起上って、婆やと共に勝手の方へ行く。電話機は勝手の廊下の隅にあって、そこは暗いので、婆やさんは電灯を急いで吊《つ》りかえなければならなかった。
 こうして僅か十分足らずの時間、お座敷の方を空虚《くうきょ》にして置いただけで、電話が終ると酒田と婆やさんとは再びお座敷の方へ戻って来て、婆やさんは雨戸《あまど》の残りを戸袋から繰《く》り出すし、酒田はラジオをちょっとひねって、そして男女合唱がとび出して来ると、すぐスイッチをひねって消し、それから煙草をつけて安楽椅子へ腰を下ろしたんだが、忽《たちま》ち彼はバネ仕掛の人形のようにとびあがった。
「あれッ、ここに置いてあったトランクが見えないぞ。……トランク、どこへ持って行った?」
 それからの騒ぎを一々克明にここに写している遑《いとま》はない。とにかくかのトランクは煙のように消えてしまったのである。庭の植込みに隠れていたかもしれない泥坊《どろぼう》の詮議《せんぎ》や、一応は疑われた婆やさんのこと、酒田の物忘れについての疑惑《ぎわく》など、いろいろのことが入りくんでややこしくなったのであるが、誰しもまさかトランクが悠々と絨氈の上から腰をあげ、明け放しの硝子戸の間から、朧月夜《おぼろづきよ》の戸外へと彷徨《さまよ》い出たものとは思わず、その事実を推理し得た者はなかったのである。
 それからそのトランクはどういう出来事にぶつかったか。
 外濠《そとぼり》の堤の松の下の暗闇《くらやみ》を連れだって行く若い女と男とがあった。女は男に対して強硬な態度をとって、男を引放してずんずん足を早めていた。その女はやがて――そのままで推移せば男のために締め殺されて、枯草の上に身を横たえなければならないのであったが、運命のくすしき足取は、女の生命を危局の寸前に救った。それは今や鼠《ねずみ》に向って躍りかかろうとする猫の如きその男の腰に、どすんと突き当った赤革のトランク一箇――女は生命を捨てずに済んだ。男は荒療治《あらりょうじ》を決行するに及ばなかった。男も女も、一応|妖異《ようい》に対する恐怖心を起しかかったが、それは慾心によって簡単に撃退された。開いた鞄の中のすごい内容物はあらゆる問題を解決した。女は急に男に対してやさしくなり、そしてその鞄を二人で守って男のアパートへ入り、同棲《どうせい》生活の第一夜を絢爛《けんらん》と踏み出すことに両人の意見は完全なる一致をみたのであるが、この詳細もここにくだくだしく描写している遑《いとま》はない。
 それよりは問題はトランクの運命にある。そのトランクは翌朝両人が目ざめてみると、たしかにそこに置いた筈の夜具の裾《すそ》のところには見当らず、両人は目を皿にして部屋中を匐《は》い廻ったがどこにもなく、そこで両人互いに相手を邪推《じゃすい》して立廻りへと移行したが、両人が相手の顔を捻《ね》じて天井へ向けたときに、そこにぴったり吸いついている前夜のトランクを両人が同時に発見した。そこで両人は再び協力し、誰がトランクを天井の桟《さん》に釘をうってそれへ引掛けたかを怪しみながら、机に椅子を積み重ね、箒や蝙蝠傘《こうもりがさ》やノックバットまで持ちだしてそのトランクを下ろそうと試みた。そのうちにどうした拍子《ひょうし》かトランクの蓋が開いて、その中身が五彩《ごさい》の滝となって下に落ちて来た。両人がそれにとびついて、かき集めている間に、トランクは明いた窓から黙って外へ飛び出していった。
 トランクの後を追って書きつけていると際限《さいげん》がないので、しばらくトランクから離れた話をしようと思う。


   帆村探偵登場


 冬日の暖くさしこんだ硝子《ガラス》窓の下に、田鍋《たなべ》捜査課長の机があった。課長と相対しているのは、長髪のてっぺんから地肌《じはだ》がすこし覗いている中年の長身の紳士だった。無髭無髯《むしむぜん》の顔に、細い黒縁《くろぶち》の眼鏡《めがね》をかけ、脣が横に長いのを特徴の、有名なる私立探偵|帆村荘六《ほむらそうろく》だった。一頃から思えば、この探偵も深刻にふけて見える。
「猫の子が宙を飛べるものなら、鞄が宙を飛んだって、仔猫の場合以上にふしぎだとはいえないわけですね」
「いや帆村君、それは違うだろう。猫の子が宙を飛ぶのは許さるべきとしても、生《せい》なき鞄が宙を飛ぶのは怪談だよ。その怪談に怯《おび》やかされてわが五百万の都民は枕を高うして睡《ねむ》れないと山積する投書だ。あれあの籠《かご》を見たまえ」と課長は、二つ三つ向こうの部下の机上を指す。それは尤《もっと》もな風景を見せていた。
「怪談ということでは、この事件の解決はちょっとむずかしいですよ。物理学で行くなら、仔猫も鞄も同じ格です。そしてそらに飛ぶ場合も考えられないことはない。課長さん、そのことについて赤見沢博士の助手の何とかいう婦人に糾《ただ》してみましたか」
「だめだ、あの小山すみれは。ああいう女は、一旦|依怙地《えこじ》となったら、殺されても喋《しゃべ》らないものだ。赤見沢はさすがにそれを心得て雇っている。沈黙女史は今のところそっとして置くしかない。しかし――帆村君。生もない鞄がなぜ飛び得ると考えるのか、怪談以外の考え方に於て……。ねえ君、林檎《りんご》も落ちるよ、星も落ちる、猿も木から落ちる」
「万有引力が正常普通に作用するかぎり、それはその通りです。猫の子が宙を飛び、鞄が空《くう》を走るためには、それらの物体に万有引力と反対の方向に作用する相当の力が働いていると断定して間違いないわけでしょう。課長さん、これに答えて下さい」
「さあ、わしには分らんね、全く……」
「万一に考えられることは、特別の浮力です。物体が空気の中にあるために、自分が排除《はいじょ》する容積だけの空気の重量に等しい浮力が、万有引力と反対方向に働いているのですが、こんなことは断るまでもない常識事です。そしてその浮力が仔猫の場合に於ても、鞄の場合に於ても万有引力に比して殆んど省略し得る程度の微小《びしょう》なる力です。これはこれで片づいたとして第二に考えられることは……」
「頭の痛くならんように喋《しゃべ》ることはできないものかね」
「ご尤《もっと》もです。……それでそれは――第二に考えられることは、万有引力常数を変えてしまうこと。第三には第三の物体を誘致《ゆうち》し来《きた》って、それによる引力を、万有引力以上に効《き》き目を持たせること。それから第四に、アインシュタインの設定した万有引力テンソルを……」
「待った。もうたくさん」
「第四は、今の場合論じなくてもすみますから、横へどけて」
「みんな横へどけて、怪談へ戻ろうじゃないか」
「とんでもない。要するに、第二又は第三の素因《そいん》によって、仔猫が宙を飛び、鞄が空を走るものと推定し得られないことはない。赤見沢博士のユニークな頭脳はそれを装置化することに成功したのではないか。仔猫が飛び鞄が走るは、その装置化の成功を語っているのではないか。しからばもはや鞄が深夜《しんや》の焼跡《やけあと》をうろつこうと、真昼のビル街を掠《かす》めようと問題ではない。そうでしょうが……」
「いや、おかしいよ。鞄は必ずしも空中を泳いでばかりはいない。神妙に下に落着いていることもある」
「そんなことは仕掛の工合《ぐあい》でどうにでもなりますよ。たとえぼ、鞄の把柄を手に持って鞄を下げているときには、スイッチが外《はず》れるようになっていて異変《いへん》は起らない。しかし把柄が握られていないときはスイッチが入って、鞄は例の素因《そいん》により万有引力に勝《まさ》って浮きあがる――つまり鞄とその中身との重さが一枚の羽毛ほどの重さに変わってしまう。そういうわけでしょうな」
「実際に出来るのかね、そんな仕掛が……」
「発明が出来れば、あとは仕掛を作ることなんか極《きわ》めて容易《ようい》ですよ」
「ふうん、そんな鞄がどんどん現れて管下一円《かんかいちえん》を脅《おびやか》すことになれば、わし達は鞄狩りに手一杯となり、他の仕事が出来なくなるだろう。とにかく怪談にせよ引力にせよ、一大事件だ。早いところその核心《かくしん》を摘出《てきしゅつ》して、犯人を検挙せにゃいかん」
「犯人というほどのものじゃないでしょうに。それに赤見沢博士は今も人事不省《じんじふせい》を続けていて、何一つ出来ない」
「わしは赤見沢が真実不能者かどうか、厳重に監視をしている。序《ついで》に、あの女も小使夫婦も見張っている。赤見沢たちの犯行は、例の臼井という若僧や前知事の目賀野が出て来れば分ると思うんだが、どういうわけか彼等は姿を見せん。それはなぜだろうか、どうも分らない」
「その臼井氏や目賀野氏の行方こそ、即急《そっきゅう》に突きとめなければならないですね。それから、鞄は一日も早く取り押えなければならない。それと例の仔猫です。あの仔猫はどうなったか、あれはぜひ突き留[#ママ]めなければならないですね」
「はあ、仔猫か。あんなものは大したことはあるまい」
「いや、そうじゃないですよ。あれこそ最も重視すべきものだ」
「もうそろそろ本格的に化《ば》け猫になる頃だという意味かね」
「あの助手女史が保管していないでしょうか」
「あっ、そうか。よし、白状させてみる。不都合な奴だ」


   名探偵ノート


 その夜、田鍋課長と部下二名は、帆村荘六を交《まじ》えて、ひそかに赤見沢博士の研究所を指《さ》して出発した。このことは絶対に秘密裡《ひみつり》に行われた。捜査課長ともあろうものが、私立探偵の手を借りたなどという風評《ふうひょう》がたっては、田鍋警視は甚《はなは》だ困るのであった。
 もっとも課長は、今夜の行動を、役所の用事とはしないで、お化け鞄と猫又《ねこまた》に興味を持つ帆村荘六を援助するための特別行動である――と、彼の部下二名に説明してあった。
 帆村は、お化け鞄については、前章に述べたような見解を持《じ》していた。しかし彼は、この鞄の素性《すじょう》についてまだ突き留[#ママ]めていないことは、田鍋課長の場合と同じだった。
 だが彼が、この事件に異常な興味を持って、解決に一生懸命の努力を払っていることは誰の目にも明白であり、従ってそのお化け鞄についての考察については、誰よりも深いものがあり、そのことを田鍋課長もはっきり認めていたればこそ、こうして帆村荘六のうしろについて行く気にもなったのである。正直な話が、課長としては、このお化け鞄事件ぐらいやりにくい事件は、本庁に奉職以来に一度も先例のないものだった。
 今夜の行動は、帆村の示唆《しさ》するところに従って、田鍋課長が蹶起《けっき》したという形になっていたが、実のところ課長としては何等自信のあることではなかった。行きあたりばったりに何か掴《つか》めるかもしれない、とにかく助手の小山すみれを絞《しぼ》ってみれば何か出て来やしないか――ぐらいの予想しか持っていなかった。
 これに対して帆村荘六の方は、ずっと確《たし》かな筋として、今夜の行動を割り出しているのだった。すなわち帆村の考察によれば、まず第一に、お化け鞄の誕生は赤見沢博士の研究所に違いないから、どうしてもそこをもっと詳しく調べる必要がある。誠《まこと》に彼はその研究所へ一度も足を踏み入れたことがないのであるから、今夜はぜひ入って調べてみたい。
 第二に、あのお化け鞄の製作を注文したのは元知事の目賀野であることは、臼井の話から想像がつくが、目賀野は一体その鞄をどんな目的に使用するつもりであったか、そのことは注文主として当然赤見沢博士に語ったことであろうし、従ってその製作の助手をつとめた小山すみれ女史にも全部又は一部が通じられている筈である。一体その目的は何であるか。それが分ればこの事件の解決はずっと早くなろう。また、それが分れば、或いはこの事件は更に重大なる特性を曝露《ばくろ》して前代未聞《ぜんだいみもん》の大事件に発展するのではなかろうか。これは永年探偵等をつとめて来た帆村の第六感であった。
 それから第三に、お化け鞄と、赤見沢博士が電車の中で後生大事に抱えていた鞄――その中には杉の角材四本などが入っていた方の鞄――この両者の関係が、まだはっきりしないのであるが、これもなかなか重大問題だと思う。なぜなればこの問題には、赤見沢博士の遭難事件が関係している。つまり赤見沢博士が怪漢《かいかん》のために襲撃されたのは、お化け鞄を持っていたことによるらしく思われる節がある。博士はお化け鞄を怪漢のために奪われたのではあるまいか。そしてその代りとして、只の鞄が博士の昏睡体《こんすいたい》の横に置かれてあり、共に目白署に収容されたのではないか。
 帆村は、この二つの鞄を区別して考えていた。係官の中には、両者を同一の鞄とし、それが時には普通の鞄であり、また時には化けるのだと考えているようであったが、帆村はこの二つが別物《べつもの》だとしていた。それを区別するのに最もはっきりしている点は、赤見沢博士の昏倒《こんとう》している傍《そば》にあった鞄には、ちゃんと鍵がかかるようになっていたのに対し、かのお化け鞄を手にしたことのある人々の話によると、そのお化け鞄には鍵がかからない、つまり錠前がついていない。それともう一つは、お化け鞄には特別に立派な把柄がついているとのことであった。
 もし出来るなら、この二つの鞄を並べてみればよく分るのであるが、今はそんなことが出来ない。お化け鞄は相変らず神出鬼没《しんしゅつきぼつ》だし、目賀野たちが出頭して引取っていった只の鞄の方は、目賀野たちと共に目下行方不明とある。
 もう一つ、帆村が特に重大視《じゅうだいし》していることがあった。それは案外誰も大して気にかけていないことであったが、例の「赤革トランク紛失」の新聞広告のことであった。
 あの三行広告は、同じ日の同じ新聞の広告欄に、同じような文句でもって、二つの広告が並んでいた。「拾得届出者に相当[#「相当」に白丸傍点]謝礼」と書いてある「姓名在社三二五[#「三二五」に白丸傍点]番」と、もう一つは「拾得届出者に莫大[#「莫大」に白丸傍点]謝礼」と書いてある「姓名在社三二六[#「三二六」に白丸傍点]番」との二つだった。
 一体これは何者が出した広告なのであろうか。帆村が調べたところでは、前者は「葛飾《かつしか》区新宿二丁目三八番地松山」が出したものであり、後者は「板橋区上板橋五丁目六二九番地杉田」が出したものであった。それらの番地を当ってみたところ松山という家も杉田という家もちゃんとあったけれど、その当人はこの広告主ではなく、本当の広告主は別にあった。それに頼まれて名前を貸しただけのことで、その当時毎日何回か、連絡の人が尋ねて来たそうだが、もうこの頃は来なくなったそうである。そして連絡に来た者は、松山の場合には、長屋のお内儀《かみ》さん風《ふう》の女であったそうだし、杉田の場合は、目の光の鋭い、そしていやに丁重《ていちょう》な口のきき方をする商人体の者だったという。そこまでは分っているが、その先のところは帆村にも調べがついていない有様《ありさま》だ。
 一体何者だろう、この二人の広告主は?
 このことについては、帆村は田鍋捜査課長にも報告して、その注意を喚起《かんき》した。課長は帆村ほどこの問題を重大視はしていない。そしてこの二人の広告主の一人は、博士を昏倒《こんとう》せしめ、お化け鞄を奪った姓名未詳の兇賊《きょうぞく》であり、もう一人は例の目賀野であろうと考えていた。
 だが帆村は、田鍋課長と考えを異《こと》にしていた。
 広告主の一人は目賀野だと課長は推定している。しかし帆村は、そうでないと思っていた。なぜならば、目賀野ならば一度もそのお化け鞄を手にとって見たことがないから「特別美|且《かつ》大なる把柄あり」などというその鞄の特徴を知っている筈《はず》がない。だから目賀野ではないと思われる。
 しからば二人の広告主は何者か。
 酒田であろうか、外濠《そとぼり》の松並木の下を歩いていた男であろうか。いやいや、そのどっちでもない。新聞広告の出たのは、彼らがお化け鞄に始めてめぐり合ったどりもずっと以前のことになる。
 トランクをトラックに受取って走ったそのトラックの運転手でもないことは、彼が酒田と満足すべき取引をしたことを考えれば、すぐに分る。では、新宿の露店《ろてん》で、この鞄を店に並べて売っていた店員であろうか。いや、彼でもなさそうである。なぜならば三行広告代金と鞄の値段とは殆んど同じであるので、広告を出したとて大抵《たいてい》戻って来ないことが分っているのに広告をする筈がないと思われる。
 すると、広告主はもっと以前から、このお化け鞄に関係していた人物に違いない。この十五坪住宅の主人が夜|厠《かわや》の窓から何気《なにげ》なく外を見たところ、トランクが月の光に照らされて、ひとりで道を歩いていたという東都怪異譚《とうとかいいたん》の始まり――あの頃|更《さら》に以前の関係者に相違ない。
 一体、誰と誰であろう。
 一人は、田鍋課長の指摘《してき》したとおり、多分お化け鞄を博士から奪った兇賊であろうと思われる。しかしこのことも、博士が意識を恢復《かいふく》して、遭難談を詳《くわ》しく述べてくれる日までお預けとしなければなるまい。今一人の人物については、全く五里霧中《ごりむちゅう》である。
 が、この二人の正体を突き留[#ママ]《と》めさえすれば、この事件の解決は一層早くなるものと、帆村は確信し、いま推理を懸命に働かせている最中なのであった。
 なにさま、帆村探偵の考え方は、田鍋課長のそれとは大分違っている。


   深夜の研究室


 闇《やみ》に紛《まぎ》れて、四名は赤見沢研究所の建物の壁際《かべぎわ》にぴったり取付いた。
 時刻は午後十一時であった。
 研究所のすべての窓は真暗《まっくら》であった。みんな寝てしまったであろうかと始めは思ったけれど、窓の一つからすこし灯《ひ》が洩《も》れているので、一同はそれを目当《めあ》てにしてその窓下へ身をひそめたわけである。
 ジイイイ……と、妙な音が、室内にしている。
 中を覗《のぞ》こうとしたが、窓が高い。
 そこで田鍋の部下二名が台の代りになり、帆村と課長を肩車に乗せた。この珍妙《ちんみょう》な形でもって、透間《すきま》を通して窓の中を覗いた。
 カーテンの隙間から、室内の模様をうかがうことが出来た。
「おやア……」
「あッ」
 帆村も田鍋課長も、思わず愕《おどろ》きの声を発して、あわててあとの声をのみこんだ。
 室内には、まことにふしぎな光景が展開していた。
 その部屋は、赤見沢博士の研究室の一つで、多数の器具機械がごたごたと並んでいた。そしてそこに三人の人物が居た。
 そのうちの一人は、助手の小山すみれ女史であって、彼女がそこに居ることには格別《かくべつ》愕きはしない。
 もう一人は、若い男であった。かなり背の高い、立派な顔立の青年であって、にこやかな笑いをたたえて、小山すみれの方を見つめている。
 この男の顔を見て愕いたのは帆村荘六ではなく、田鍋課長であった。
(はてな。この女たらしの男は、どこかで見たことがあるぞ)
 たしかに課長の記憶の中にある男であった。しかしどこで見た男だったか、すぐにはそれを思出すことが出来なくて、課長はいらいらして来た。帆村はこの青年の顔に、何の記憶も持っていなかった。ただ、小山すみれ嬢とはおよそ反対の立派な男子で、皮肉な対照《たいしよう》をなしていると感じたことであった。が、しかし、彼はあまりながくこの美貌《びぼう》の青年に見惚《みと》れていることが出来なかった。というのは、残るもう一人の人物が、彼の注意力の殆んど全部を吸取ってしまったからである。そのことは、田鍋課長にとっても亦《また》同様であった。
(あれは赤見沢博士に相違ないが、一体どういうわけで博士はここにいるんだろうか)と帆村は不審《ふしん》の目をぱちくり。課長の方は(誰が赤見沢博士を病院から出したんだろうか、わが輩《はい》の許可を得もしないで……。何奴《どいつ》が出したか、怪《け》しからん奴《やつ》どもだ)
 と、かんかんになって、頭から汗が出て来た。
 その赤見沢博士は、肘懸椅子《ひじかけいす》に凭《もた》れ、頭を後の壁につけていたが、その恰好がへんにぎこちなかった。博士はまだ意識|混沌《こんとん》としているので、あのような恰好をしているのであろうが、両眼を大きく明けているのが、ちと腑《ふ》に落ちかねる。
 そのときであった。小山すみれが脚立《きゃたつ》から下りて、二本の綱を引張って、赤見沢博士の傍へ来た。その綱は、天井から垂《た》れていた。よく見ると、天井には滑車《かっしゃ》がとりつけてあり、綱はそれに掛っていて、上下自在になっていることが分った。
 小山女史は、その綱の一本を、いきなり赤見沢博士の頸《くび》にぐるぐるっと巻きつけた。顔色一つ変えないで……。美貌《びぼう》の男は、あいかわらずにこにこ笑っている。小山嬢は綱に結び目をつくると二三歩うしろへ身を引いて、もう一方の綱をぐんぐんと下にたぐった。すると博士の頸に搦《から》みついている綱がぴーンと張った。それでも小山嬢は、自分の手にある綱をぐんぐんと下にたぐった。博士の身体が椅子から浮きあがった。小山嬢が綱をたぐるたびに、博士の身体は上へ吊りあげられた。博士の絞首刑《こうしゅけい》である。それを自らの手によって行っている小山すみれの顔は、始めと同じく無表情で、悔恨《かいこん》の色もなければ憎悪《ぞうお》の気も見えない。
 とうとう赤見沢博士は、背広姿のまま、室内にぶら下った。博士の足が、実験台よりもすこし高くなったところで、小山嬢は、手にしていた綱《つな》を壁際の鉄格子《てつごうし》にしっかりと結びつけた。そして首吊り博士の下までやって来て、美貌の男の方へ何とかいって、博士の足を指した。
 田鍋課長は先刻から愕《おどろ》きの連続で、息が詰まる想《おも》いだった。かねて怪しいと睨《にら》んでいた小山すみれが、博士の首に綱をかけてくびり殺すところをまざまざと見せられ、全身の血は逆流した。現行犯にしても、これほど鮮かに恐ろしい現行犯を見たことは、今までにないことだった。彼は、自分が部下の肩車に乗っていることを忘れて、窓を叩き割ろうとして、帆村に停《と》められた。
「ちょっと、静かに……」
 帆村は、室内を指した。
 小山嬢は博士のズボンを手にとって、ズボンの裾《すそ》を持ち上げた。
 奇怪なことに、そのズボンには脚《あし》が入っていなかった。つまりズボンだけであった。
 小山嬢は、実験台の下に跼《しゃが》むと、間もなく台の上に大きな靴を持出した。彼女はそれを博士のズボンの下のところへ持っていって、靴をはかせるような恰好《かっこう》をしてみせ、それから靴をまた台の上へ置いた。博士にその靴をはかせるつもりらしいが、ズボンだけで足のない博士が、どうしてそんな重い靴をはくことが出来るだろうかと、田鍋課長は気がかりであった。
 小山嬢は、その靴を指して、美貌の青年の顔を見上げた。青年は肯《うなず》いた。小山嬢は靴の中をあけて見せた。中には何やら詰まっていた。それは何かの小型の器械であるらしく、小さい部分品が組合わせられていた。そんなものが入っていては、靴の中に足を突込むことが出来ないではないかと、田鍋課長は更《さら》に気がかりになった。
 小山嬢の指は敏捷《びんしょう》に動いて、その部分品を一々指した。彼女はそれについて説明しているらしいが言葉はさっぱり分らない。しかし帆村は、その小型器械が、無電装置であることに気がついた。
 小山嬢は、もう一つの靴の中からも、別の器械を取出した。その器械は、著しい特徴があるので、帆村にはすぐ分った。それは放射能《ほうしゃのう》物質から出る放射線を捕えて、その放射線の強さを検出する計数管《けいすうかん》の装置であった。
(無電装置と放射線計数管と――妙なのが靴の中に収《しま》ってある?)と、帆村は首をひねった。田鍋課長には、そんなことは分らないので、どうしてあんなものを靴の中に入れてあるのか、あれでは足が入るまいなどと、そんなことばかりを心配していた。
 小山嬢は、靴を手にぶら下げた。そして指をしきりに動かして、計数管と無電装置との間に連絡のあることを示したのち、靴をいじっていたが、靴のフックのところに突然赤い豆電球がついた。
 すると、殆んど同時に、靴の底から熊手《くまで》のようなものがとび出して、下に向って開いた。その恰好は、がんじきをつけた雪靴にどこか似ていた。その熊手|様《よう》のものは、蟹《かに》のように爪をひろげ、びくびく慄《ふる》えていたが、そのうちにその爪がだんだん内側へ曲って来て、遂《つい》には靴の下で何物かをがっちりと抱きしめたような恰好となった。
 小山嬢は、そうなった靴をしきりにさしあげて、美貌の青年の注意を喚起《かんき》している風に見えた。すると青年は感激の面持《おももち》で、つと小山嬢の方に寄ると、靴もろとも両手でぐっと抱きしめた。青年の腕の下にある小山嬢の顔が、急に蒼《あお》くなり、それからこんどは赤くなった。彼女のしっかり閉じられた瞼《まぶた》の下に大きな眼玉がごろんと動くのが見えた。彼女は恍惚境《こうこつきょう》に入っているらしい。
 青年が腕を解《と》いて小山嬢を離すと、彼女は靴を持ったまま傍の椅子の上へ、へたへたと崩《くず》れるように腰をおとし、しばらくは動こうともせず、口もきかなかった。
(無電装置と放射線計数管と浚渫機《しゅんせつき》とを備えている靴――とは、妙な靴があったものだ。一体この三題噺《さんだいばなし》みたいなものをどう解くべきであろうか)
 帆村は、小山嬢がまだ持続する恍惚境から醒《さ》めやらぬのを見やりながら、心のなかにメモをとった。
 そのうちに小山嬢は、やっと正気に戻ったと見え、靴を抱《かか》えて椅子から立上った。
 彼女はその靴の紐《ひも》を、博士のズボンの下端《かたん》にまきつけて縛《しば》った。ズボンが靴をはいたように見える。
 それがすむと、小山嬢は、飾椅子に結《ゆわ》きつけてあった綱をほどき、宙に首吊《くびつ》りを演じている博士の身体を下におろし、前のとおり肘懸《ひじかけ》椅子に腰を掛けさせた。博士の死体は、綱を首にまきつけたまま、目をかっと剥《む》いて、天井を見詰めている。
 小山嬢は、美貌の青年に向って手真似《てまね》と共に何事かを命じた。すると青年は、くるっと後を向いた。青年の顔は、今や窓外から室内を窺《うかが》う帆村と田鍋課長の方へ正面を切った。
(あっ、そうだ、思い出したぞ。あの若僧《わかぞう》とは、この前、R大学研究所で会ったことがある。二百グラムのラジウムの盗難事件が起ったあの研究所だ。たしかあの若僧は、そのラジウム保管室の向い側の何とか研究室の助手で、彼は事件当時、怪《あや》しい女性がその保管室からあわてくさって出て行くのを見たと証言したんだ。なんという名前だったかな。ええと、万沢といったかな。……)
 田鍋課長は、えらいことを思い出した。彼の胸の中は、今や沸々《ふつふつ》と沸騰《ふっとう》を始めた。しかし帆村はそんなことを知らない。


   美しき闖入者《ちんにゅうしゃ》


 田鍋課長の知っていることを帆村は知らず、帆村の知っていることで田鍋課長の知らぬことがあり、両人肩を並べて窓の中を覗《のぞ》き込《こ》んでいるところは奇観《きかん》だった。
 後を向いて、ごそごそやっていた小山嬢が、くるりとこっちへ向き直ったと思うと、彼女の手に一疋の仔猫《こねこ》があった。それをきっかけに美貌の青年も、廻れ右をして、仔猫を見ることを許された。
 小山嬢は、頬《ほお》のあたりにいきいきとして血の色を見せながら、その仔猫を抱いて、博士の首吊《くびつ》り死体の傍《そば》へ寄った。そして博士の服の胸を開くと、その中へ仔猫を入れて、しばらくなにかごそごそやっていた。そのうちにそれが終ったと見え、彼女は博士の胸の釦《ボタン》をかけて身を引いた。
 するとふしぎなことが起った。博士の死体が椅子からふらふらと立上ると見るや、なおそれはふわふわ上へ上って行く。博士の首にからみついている綱がだらりと下へ下る始末。そのうちに博士の死体は、頭を天井にこつんとぶつけ、天井に吸いついたようになってしまった。両脚――いや両のズボンに重い靴をくっつけたのが、ぶらんぶらんと振子運動をつづけている。
 帆村は、たまりかねたように、課長の首へ手をかけて引き寄せた。
「あっ、苦しい。一度下りて下さい」
「こっちもそう願いたい」
 叫んだのは帆村ではなく、帆村と課長を肩車に載《の》せている二人の部下だった。それには構《かま》わず、帆村は課長の耳に囁《ささや》いた。
「今見たでしょうね、あの仔猫を……。仔猫を博士の人形の中に入れると、あのとおり博士の人形はふわふわと空中に浮きあがって天井に頭をつかえてしまった」
「ええッ、あれは人形か。人形だったのか」
 課長は唖然《あぜん》として、目を天井へやる。
「田鍋さん。あの女はやっぱり猫又《ねこまた》を隠していたんですよ。そして博士の人形を作ったり、その他へんな装置をつけたりして、一体何をするのか、このへんで中へ踏込《ふみこ》んだら、どうです」
「うん。しかし、もうすこし見ていよう」
「課長。一度下りて下さい、肩の骨が折れそうだから」
「これ大きな声を出すな。家の中へ聞えるじゃないか」
 上と下との掛け合いが、だんだん尖鋭化《せんえいか》して来た折《おり》しも、思いがけないことが、室内に於《おい》て起った。
 というのは、突然に――全く突然に、どこからとび出したのか、一人の若い女人《にょにん》が、部屋の隅に現われた。彼女の手にはピストルが握られていた。ピストルは小山すみれと美貌《びぼう》の青年とに交互《こうご》に向けられている。
 美貌の青年が両手をあげた。小山嬢もそのあとから、しなびた両手をあげた。小山嬢は額《ひたい》に青筋をたてて憤慨《ふんがい》の面持《おももち》で突然|闖入《ちんにゅう》したる背の高い美女を睨《にら》みつけている。美貌の青年は、にやりと笑っている。
 美女は、しずかに歩を運《はこ》んで、博士の人形を結《ゆわ》えている綱に、空いている方の手をかけた。彼女はその綱をひいて、博士の人形を室外に持出す様子を示した。
 そのとき、美女はわずかの隙《すき》を作った。
 と、実験台の下の腰掛が、風を剪《き》って美女の胸のあたりを襲《おそ》った。が、それは美女が咄嗟《とっさ》に身をかわしたので、うしろの扉にあたって、扉を開いただけに終った。
 ズドン。
 銃声が轟《とどろ》く。硝子《ガラス》の壊《こわ》れる音。悲鳴《ひめい》。途端《とたん》に又もや腰掛がぶうんと呻《うな》りを生じて美女の顔を目懸《めが》けて飛ぶ。これは美貌の男の防禦手段だった。――が、このときどこからともなく煙がふきだしたと思ったら、カーテンが一瞬《いっしゅん》に焔《ほのお》と化した。めらめらぱちぱちと、すごい火勢《かせい》に、研究室はたちまち火焔地獄《かえんじごく》となり、煙のなかに逃げまどう人の形があったが、その後のことは、帆村も田鍋課長も見極《みきわ》めることが出来なかった。突然窓から吹きだした紅蓮《ぐれん》の炎に、肩車担当の二警官はびっくり仰天《ぎょうてん》、へたへたとその場に尻餅《しりもち》をついたからである。帆村と課長は、弾《はず》みをくらって大きく投げだされ、腰骨をいやというほど打って、しばらくは起上ることが出来なかった。
 そのうち火勢はずんずん拡《ひろ》がって、赤見沢博士のラボラトリーはすっかり火に包まれてしまい、手のつけようもなくなったが、それは研究室内にあった油と薬品が、このように火勢を急に強めたものに違いなかった。
 課長が帆村たちと共に再び立上り、燃える建物をいくたびもぐるぐる廻って警戒につとめると共に、機会があれば、中へとびこんで何か目ぼしい品物を取出そうとあせったけれど、遂《つい》に研究室の方には入ることが出来なかった。そしてかの美貌の男か、美女か、小山すみれかに行逢《ゆきあ》えば、直ちに補えるつもりでいたけれど、結局この重要なる三人の人物を空《むな》しく逸《いっ》してしまった。
 駆《か》けつけた消防隊の手で、完全に火が消されると、間もなく暁《あかつき》が来た。
 課長は、焼跡を丹念《たんねん》に調べた。
 その結果、一箇の無残《むざん》な焼死体が発見せられた。背骨からしてすぐ判定がついて、犠牲者《ぎせいしゃ》は気の毒な研究生小山すみれであることが分った。しかし美貌の男も美女も、現場に骨を残していなかった。
 また仔猫の骨もなかった。帆村がさっき異常なる興味を覚えた妙な器具の入っている靴も、焼跡の灰の中には見当らなかった。
 この博士|邸《てい》の火が消えた後で、田鍋課長と帆村荘六とは、焼跡に立って、意見の交換をした。互いに知っている事実を語り合った結果、
「田鍋さん。これは面白くなりましたよ。化け鞄事件と、ラジウム盗難事件との間に密接な関係があるということが分って来たじゃありませんか」
 と、帆村がいえば、田鍋課長は、
「どうもそういうことらしいね。しかしラジウムとお化け鞄と、どういうつながりになっているか見当がつかんが、君は何か思いあたることがあるかね」
「そのことだが、僕の考えでは、あの盗難《とうなん》に遭《あ》ったラジウムは、今どこか知らんが、兎《と》に角《かく》ちょっと手の届かない場所にあるんだと思うんですね。それでさ、あの万沢《まんざわ》とかいう男が小山すみれ嬢を唆《そその》かして、仔猫利用の吊上《つりあ》げ装置を作らせたんだと解釈《かいしゃく》する」
「どうしてそうなるのかね」
「博士の人形も焼けちまい、すみれさんも焼け死んだので、はっきりしたことは分らないけれど、あの博士の人形は猫又の浮力――というか重力消去装置の力というか、それを利用しで浮き上る力を持たせてある。靴に仕掛けた放射線計数管は、ラジウムの在所《ありか》を探すための装置だ。無電の機械は、計数管に現われる放射線の強さを放送する。それからもう一つ、あの人形には電波を受けて、靴の下に仕掛けてある浚渫機《しゅんせつき》みたいな、何でもごっそりさらい込む装置――あの装置を動かせるようになっているんだと思う。つまり電波による操縦《そうじゅう》で浚渫機を動かすんだ。これだけのものを、あの人形は持っていたと思う」
「そんなものを、どうする気かな」
「そこでだ、悪漢《あっかん》一味は、あれを持ち出して人形を歩かせ、計数管の力を借りて、ラジウムの在所を確かめる。
人形がちょうどラジウム二百|瓦《グラム》の容器の上に来たとき、放射線の強さは最大となるから、そのとき悪漢一味は電波を出して、あの靴の下に仕掛けた浚渫機を働かせる。つまりごっそりと、ラジウムの容器を、あの浚渫機の爪《つめ》の間にさらえ込むのさ」
「ふうん、なるほど」
「それからこんどは、例の猫又の力を借りて、人形ごとずっと上へ浮き上らせるわけなんだが、僕にも分らないのは、重力消去装置の力を借りる必要のあるラジウムの隠《かく》し場所とは一体どこなんだか、見当がつかないんだ」
「はてな、一体どこなんだかね。そういうへんな人形の力を借りなければ取出せない場所というと……」
 田鍋課長にも、全く見当がつかなかった。


   椿《つばき》の咲く島


 椿の花咲く大島の岡田村の灯台《とうだい》のわきにある一本の大きな松の木の梢《こずえ》に、赤革のトランクがひっかかっていた。
 それを発見したのは、早起きをして崖《がけ》っぷちで遊んでいた官舎《かんしゃ》の子供たちだった。それからみんなに知れわたって、騒ぎは絶頂《ぜっちょう》に達した。
「誰があんな高いところまで登って、鞄をくくりつけでいったろう。不審《ふしん》なことだ」
 まことに不審の至《いた》りであった。それを探究《たんきゅう》すべく、灯台の職員で、身の軽い瀬戸さんという中年の人と、その配下《はいか》の平木君という青年とが、身を挺《てい》してその松の木をよじ登って行った。
 両人は松の枝にひっかかっている鞄を、枝から取外《とりはず》すと、把柄に縄《なわ》をしばりつけて、鞄を下へぶら下げて下ろした。下に集っていた連中はその鞄が下りてくるのを興味ぶかく見守っていた。その鞄の中から、赤い紐《ひも》が二本ぶらぶらと垂《た》れているのが、甚だ奇妙《きみょう》であったのと、その鞄が地面へつくと同時に、あたりが急にへんに臭《くさ》くなったことが特記せらるべきだった。
 松の木をよじ登った両人も下りて来て、その鞄が半分は自分たちのもののような顔で鞄のそばへ近づいたが、その臭気《しゅうき》には顔をしかめずにはいられなかった。
「瀬戸さん。えらいものを下ろして来たな」
「なんじゃろうかなあ、この臭いのは……」
「その鞄の中が怪しいなあ。へんなものが入っているんじゃよ。女の生首《なまくび》かなんかがよ」
「嚇《おど》かしっこなしよ」
「鞄から出ている赤い紐な。それは若い女の腰紐じゃぞ。その腰紐が、先が裂《さ》けて切れているわ。それにさ、紐の先んところが赤黒く染《そま》っているが、血がこびりついているんじゃないのかい」
 書記の青木が、とがった口吻《くちぶり》から、気味のわるい言葉を次々に吐《は》いた。立合いの衆《しゅう》は、いいあわせたように二三歩後へ下った。
「よおし、何が入っているか、一つ鞄をあけてくれよう」
「よしなよ、気味が悪い。海へ捨てちまいな」
 瀬戸の妻君がいった。
「鞄をあけてから捨てても遅《おそ》くはないだろう。もし紙幣《さつ》が百万円も入っていてみな、わしらの大損だよ」
「ははは、慾が深いよ、工長《こうちょう》さんは……」
 その鞄が簡単にあかなかった。鞄の金具がどうかしているらしかった。そのうちにも臭気はいよいよぷんぷんとたまらなく人々の鼻を刺戟《しげき》したので、立合いの衆は気が短かくなり、とうとう斧《おの》を持ち出して、鞄の金具を叩《たた》き斬《き》った。
 鞄はぱくりと開いた。みんなはわれ勝《が》ちに中をのぞきこんだ。顔をしかめる者、ぺっぺっと唾《つば》を吐く者。中には仔猫の死骸《しがい》が入っていた。それと赤い紐が一本……。
 靴の先と棍棒《こんぼう》とで、鞄は崖《がけ》を越して海へ。
 その鞄は、執念《しゅうねん》深いというのか、海上を漂《ただよ》ううちに海岸へ漂着《ひょうちゃく》した。元村《もとむら》の桟橋《さんばし》のすぐそばであった。
 警官が聞きこんで、その鞄を検分《けんぶん》に来た。彼は東京からの指令《しれい》を憶《おぼ》えていたので、早速《さっそく》「それらしきもの漂着す」と無電を打った。
 折返し、新しい指令が来た。警官たちは忙しくなった。旅館は一軒のこらず臨検《りんけん》をうけた。
 その結果、目賀野が見つかって、飛行機で到着したばかりの田鍋課長の前へ呼び出された。
 目賀野は、その鞄と無関係であることを主張した。いわんや殺人事件などは思いもよらないと抗弁《こうべん》した。
 三日間、のべつに取調《とりしらべ》がつづけられ、目賀野が陳述《ちんじゅつ》した重要事項は、次のようなことであった。
「別に悪いことをした覚《おぼ》えはありません。君も知っているとおり、昔からわしは曲ったことは大嫌いだ。……しかし、ちょっと慾《よく》の気《け》は出した。例のラジウム二百|瓦《グラム》の入った鉄の箱が、この三原山の噴火口《ふんかこう》の中に投げこんであると耳にしたもんだから、なんとかそれを取出そうと思ってね。いや、取出せばその筋《すじ》へ届けるつもりだった、本当です。しかし世間を呀《あ》っといわせたかった。そこで思いついたのが、赤見沢博士の研究だ。重力消去の実験に成功していることをわしは知っていたので、博士にそれを使った一種の起重機《きじゅうき》の製作を依頼したのです。そのトランクは、すなわちその品物だったかもしれない。いや、その種の試作品だったかもしれない。要するにその装置を噴火口の中へ投げ入れておくと、火口底《かこうてい》において巧《たく》みにラジウムの入った鉄函《てつばこ》を吸いつけ、あとは重力消去によって噴火口をのぼり、上へ現われ、わが手に入るという計画だった。生《なま》の人間じゃ、とても火口底へは下りられないんでね。……が、その博士がわしのところへ来てくれる約束の日に、途中であの事件に遭《あ》って、あんなことになるわ、そばにあったトランクは、早いところ何者かによって掏《す》りかえられていたので、わしはすっかり失敗してしまった。たったこれだけのことです。すこしも怪しい点はない。元村へ来て泊っていたのも、別な手段でラジウムを取出す方法を研究に来たわけで、あのトランクには関係がないです。これはよく分ってもらわにゃ大迷惑《おおめいわく》だ。……臼井はどこへ行ったか知らん。船に乗っていたが、その後脱走したそうで、わしは知らん」
 この陳述によって、あらまし筋は分って来たようである。
 つまるところ、目賀野は本事件の主役ではなく、その傍系《ぼうけい》のドンキホーテ染《じ》みたところのある人物に過ぎないのだ。
「例のラジウム二百瓦が三原山の噴火口に投げこんであることは、いつ誰から訊《き》いたか」
 課長は、最も重大なるところを突込《つっこ》んだ。
「そのことかね。それはあの臼井が、いつだったか、密書《みっしょ》を拾ったんだ。その密書に簡単ながら、そういう意味のことが書いてあった。その密書は臼井が持っている。わしではない」
「その密書の差出人《さしだしにん》は誰か。また受取人は誰なのか」
「名前ははっきり書いてなかった。ただ、差出人の名前に相当するところには、矢を二つぶっちがえた印が捺《お》してあった」
「矢を二本ぶっちがえた印が、ふうん。そして受取人の方には……」
「受取人の名前に相当する場所には、三本足の黒い烏《からす》の絵が書いてあった」
「何という、三本足の黒い烏の絵が?」
 と、課長は驚愕《きょうがく》の色を隠《かく》しもせずに叫んだ。
「どうした課長。烏の絵になぜそんなに愕《おどろ》くのか。一体[#「一体」は底本では「体」と誤植]それは誰のことなんだ」
 目賀野はいい気になって反問《はんもん》した。
「それは恐《おそ》るべき賊《ぞく》のしるしだ。烏啼天駆《うていてんく》という怪賊があるが知っているかね」
「ああ、怪賊烏啼か。烏啼のことなら聞いたことがあるが、若いくせに神出鬼没《しんしゅつきぼつ》の悪漢だってね。一体どんな顔をしているのかな、その烏啼というやつは……」
「それがよく分らない。烏啼と名乗《なの》る彼に会った者は誰もない。しかし脅迫状《きょうはくじょう》などで、烏啼天駆の名は誰にも知れ亙《わた》っている」
「捜査課長ともあろう者が、そんなぼやぼやしたことで、御用が勤《つと》まると思うのか」
「何をいう。いい気になって……」
 課長は目賀野を元の留置場《りゅうちじょう》へ戻した。


   怪賊《かいぞく》烏啼《うてい》


 そのあとで課長は溜息《ためいき》ばかりついていた。この二つの事件に、怪賊|烏啼天駆《うていてんく》が関係しているとは、目賀野の話で始めて分った。そうなると、これはますます事が面倒《めんどう》になってくる。ありとあらゆる検察力を発揮《はっき》しないと、烏啼を引捕えることは出来ない。しかし、一体どこから手をつけていいか、分別《ふんべつ》がつかない。こういうときに帆村が居てくれれば、どんなに力になってくれるか分らない。が、彼にはこの事を知らせずに、この大島へ来てしまったことが後悔《こうかい》された。
 だが、その帆村が、ひょっくりと課長の前に現われたもんだから、田鍋はおどろき且《か》つよろこんだ。彼は早速《さっそく》、この事件に烏啼天駆が関係していることを帆村に語って、帆村の助力をもとめた。
「それはいいことが分ったもんです。いや実は、僕が今日飛行機でここへ飛んで来たのは、本庁からの依頼で、あなたに手紙を持って来たのです。さあ、これを読んで下さい」
 と、帆村は内ポケットから手紙を出して、課長に渡した。それは課長の次席にいる主任の芥川《あくたがわ》警部からのものだった。手紙の内容は、これまた愕《おどろ》きの一つだった。
「えっ、赤見沢博士が昏睡状態《こんすいじょうたい》から覚《さ》めたというか。そして君は博士に会って話をして来たって?」
「そうなんです。その結果、いろいろと分って来ましたよ。第一に、博士はあの晩、只《ただ》の鞄の中に、例のお化け鞄――つまり重力消去装置の仕掛けてある立派な把柄のついている鞄を入れて、電車に乗ったんだそうです。決して角材《かくざい》や古新聞紙は入れなかったといいます。つまり賊は、博士の鞄とそっくりの鞄を用意し、その中に角材を入れて、二重鞄と同じ位の重量とし、博士の鞄と掏《す》りかえるつもりだったらしい。博士は言明《げんめい》しています、自分が座席に座っていると、よく似た鞄を持った乗客が近寄って来て、博士の前に立ったそうです」
「そやつが怪しい!」
「そうです。誰が聞いても怪しい奴《やつ》ですが、そのとき博士は大いに要慎《ようじん》して、自分の持っている鞄を奪《うば》われまいとして、一生懸命|抱《かか》えこんだそうです。すると怪しい乗客の連《つ》れである若い女が博士の方へ身体をおっかぶせるようにのしかかって来て、女の膝《ひざ》が博士の膝を強く押した、すると急に博士は気が遠くなってしまったんだそうです」
「どうしたのだろう」
「女の膝から博士の膝へ、或る麻薬《まやく》の注射が施《ほどこ》されたんでしょうね。博士は、そういえばちくりとしたようだといっています。――それから博士は、意識の朦朧《もうろう》たる裡《うち》にも、膝の間に挟《はさ》んでいた鞄が掏《す》りかえられるのに気がついたそうです。しかし声を出そうにも手をあげようにも、どうにもならなかったそうです。そしてそのうちに何もかも分らなくなった……」
「怪しい奴は、すると男と女と二人組なんだね」
「そうなんです。これが頗《すこぶ》る重大な事柄《ことがら》なんですが、田鍋さん、博士はその男女の顔をよく覚《おぼ》えているといって、人相を話してくれましたが、男も女もなかなか目鼻の整《ととの》った美しい人物だったといいますよ」
「えっ、何という。美男美女だって?」
「正に美男美女なんです。そしてそれがですよ、ほら博士邸が焼けた晩ね、あの晩に研究室にいて小山すみれを相手にしていた若い美貌の男――万沢とかいいましたね――あの男とそれから後にピストルを持って現われた美人がありましたね、あの女と、この両人《りょうにん》らしいのですよ」
「ふーん、そうか」
 田鍋課長は、満面を朱盆《しゅぼん》のように赭《あか》くして、膝を叩いて呻《うな》った。
「ね、課長さん。さっきあなたから伺《うかが》った話から誘導《ゆうどう》すると、その美貌の男こそ、烏啼天駆《うていてんく》でなければならないと思うんですが、課長さんの意見は如何ですか」
 帆村は、大胆なことをいった。
「そうかもしれない。いや、それに違いない。あれが烏啼なら、あのとき逃がすんじゃなかった。で、女は何者か」
「それが分らないのです。しかしですよ、この事件の主軸《しゅじく》には、二つの者が功を争っていることは、僕も察していました。例えばあの紛失鞄の新聞広告のことですね。
あの広告主の一人は烏啼天駆であり、もう一人はやっぱりあの女だったんですよ」
「ふうん、なるほど、そういえばそうかもしれない」
「あの二人は、時に一緒になって働きました。その例は、博士から鞄を奪《うば》ったときなんかがそれです。それでいて、二人は大いに睨《にら》み合《あ》っていたんですね。だから博士邸のピストルさわぎも起った。あれはお化け鞄が紛失したのに困った烏啼が、小山すみれを唆《そそ》のかして、猫又を利用した新規の起重装置をこしらえるように頼んだ。それが完成したので、持って帰ろうとしたところを、例の女が嗅《か》ぎつけて、暴《あば》れこんだという訳なんでしょう」
「そうだ、それに違いない。するとわが輩《はい》も大迂回《だいうかい》をやっていたわけだ。ちえッ、いまいましい」


   天罰《てんばつ》下る


 事件は、そこまでは解《と》けた。
 当局は警戒網《けいかいもう》を三原山のまわりに厳重に固《かた》めめぐらした。
 その一方、大学に懇請《こんせい》して、火口底《かこうてい》に果してラジウム二百|瓦《グラム》が投げこまれてあるのかどうかを検《しら》べて貰った。これは案外苦もなく分った。たしかにラジウムは火口底の南寄りの岩の間にあることが確認された。
 しかし、そのラジウムを取出す方法はちょっと簡単には出来そうもないことが分り、当局は未だに警戒の陣をゆるめないで番をしている。なにしろその後、烏啼の消息《しょうそく》がさっぱり分らないので、油断《ゆだん》はならないとのことであった。
 帆村はもうラジウム事件には、大した興味を持っていない。しかし田鍋課長が、彼に自慢らしく語ったところでは、烏啼はあのR大学の研究所のラジウム保管室の向いの研究室の助手に化《ば》けこんでいて、あのラジウムを巧《たく》みに盗《ぬす》み出した。それから彼は、かねて連絡をつけてあった看護婦の秋草《あきくさ》に渡した。秋草はそれを持って出て、某《ぼう》飛行場へ急行し、烏啼の一味である矢走という男をして、その品物を飛行機でもって三原山の噴火口に投げおとさせたと認める。例の美男美女というのは、この烏啼と秋草らしいといわれる。研究所の同僚たりし人々は、確かに彼ら二人を、美男美女と認めているから、間違いないと、田鍋課長はいささか得意で、椅子《いす》の背にふん反《ぞ》りかえった。
 帆村の興味は、そんなことよりも、大島の松の木にひっかかっていたお化け鞄と猫又の死骸と血染《ちぞめ》の細紐《ほそひも》が、何を語っているか、それを解くことに懸《かか》っていた。
 その年の春、ひどい海底地震が相模湾《さがみわん》の沖合《おきあい》に起り、引続いて大海嘯《おおつなみ》が一帯の海岸を襲った。多数の船舶が難破《なんぱ》したが、その中の一隻に奇竜丸《きりゅうまる》という二百トンばかりの船があって、これは大島の海岸にうちあげられ、大破《たいは》した。また乗組員の半数が死傷した。
 この奇竜丸の救援に赴《おもむ》いた官憲は、はからずも、この船の構造や、乗組員の様子に疑惑《ぎわく》を持ち、厳重に取調べた結果、この船こそ怪賊|烏啼天駆《うていてんく》の持ち船だと分り、そして天罰《てんばつ》とはいえ重傷を負っている烏啼を、遂に他愛《たわい》なく引捕《ひっとら》えた。
 このことは早速東京へ無電で連絡され、田鍋課長は再びこの大島へ急行して、烏啼を受取った。
 烏啼はもう観念したものと見え、すべてをべらべらと喋《しゃべ》った。
 彼の行動は、大体帆村の推理したところに一致していた。しかし烏啼がその後秋草と争って、遂《つい》に猫又もお化け鞄も共に自分の手に入れ、それを奇竜丸に持ち込んだばかりか、秋草の自由を束縛してこの船に乗せてしまったことが分った。それから後はずっと海上生活をしていたものだから、この二人の行方は陸上を監視していただけでは知れなかった筈《はず》である。
 その烏啼は、海上生活を送りながら、なんとかして大島へ上陸し、三原山の火口底から例のラジウムを取出そうと、機会の来るのを狙《ねら》っていたが、当局の警戒がすこぶる厳重なため、その目的を達することが出来ないでいた。
 ところが或る日、秋草が実に大胆なる脱走を試みた。
 彼女は、烏啼の部下数名を、巧《たく》みなる手段によって籠絡《ろうらく》すると、その力を借りて、猫又とお化け鞄とを盗み出させ、それから細紐《ほそひも》で自分の手首をしばって、猫又を入れたお化け鞄に結びつけ、鞄の把柄を下へ押し下げた。すると猫又の浮力《ふりょく》と、お化け鞄の浮力とによって、鞄は秋草の身体を下にぶら下げたまま宙に浮きあがった。船は依然として走っているものだから、鞄にぶら下った秋草の身体は見る見るうちに船を離れた。
 これに気がついた乗組員が、急いで烏啼に知らせたので、烏啼は顔色をかえて船橋《せんきょう》へ上った。そして秋草の身体の流れていったと思う方向へ船を戻した。
 だが、折柄《おりから》空に月はあれど夜のことだから、遂《つい》にそれを発見することが出来なかったという。
 この烏啼の告白によって、猫又の死骸とお化け鞄と血染めの細紐の謎が漸《ようや》く解けそめた。そのようにして秋草は脱走をはかったが、彼女はぐんぐん上空へ引き上げられて息が絶《た》えたものと思う。そのうちに彼女の身体を吊下《つりさ》げている紐が切れ、下へ落ちてしまったのであろう。恐《おそ》らくそれは広い海の中であったことと思われる。彼女の繊細《せんさい》なる手首が紐でこすられて血が出、それが紐の切れ端に残ったことは確かだ。こうして彼女は、遂に敗れて一命《いちめい》を失ったものらしい。
 臼井は今も行方が知れない。
 それから最後に特筆大書《とくひつたいしょ》しておくべきは、田鍋課長が目賀野を証人として、烏啼に会わせたところ、目賀野がびっくりして烏啼を指して叫んだ。
「やッ、貴様は千田じゃないか」
 烏啼は、繃帯《ほうたい》を巻いた頭をすこし起こして、ふふんと笑った。
「貴様が千田なら、おい話せ、わしの姪《めい》の草枝はどこへ連《つ》れていった」
 千田と草枝が一組となって、いつも目賀野の下で働いていたことは、ずっと前から知られている。
「おれは知らんよ。課長に願って、細紐に残っているあの女の血に尋《たず》ねてみたがよかろう」
 と、烏啼はいって、むこうを向いてしまった。
 そんなことから、目賀野の姪の草枝こそ、看護婦秋草のことであり、彼女が或るときは烏啼に協力しながら、後には烏啼と張合ってラジウムやお化け鞄やお化け猫の争奪に生命を賭《か》けたことが判明した。
 これで、鞄らしくない鞄の話は、すべて終ったわけであるが、気の毒なのは赤見沢博士である。博士は研究所を火災《かさい》で失って、どうにも復興《ふっこう》の見込みが立たず、あたら英才《えいさい》を抱《いだ》いて不幸を歎《たん》しているという。しかし博士のことだから、そのうちにもっと何かいい手段を考え出すことだろう。博士が、この次に、重力消去装置をどんな方面に活用するかは、非常に興味あることだと思う。



底本:「海野十三全集 第13巻 少年探偵長」三一書房
   1992(平成4)年2月29日初版発行
※「深夜の研究室」において、小山嬢が綱を結びつけたところは、「壁際の鉄格子」と「飾椅子」の二つが示してある。矛盾しているが、底本のママとし、本文中には注記しなかった。
入力:tatsuki
校正:原田頌子
2001年7月21日公開
2001年7月23日修正
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