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人造人間エフ氏
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)人造人間《ロボット》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)日本人|剛情《ごうじょう》でしゅ、

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符疑問符、1-8-78]
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   人造人間《ロボット》の家


 このものがたりは、ソ連の有名な港町ウラジオ市にはじまる。そのウラジオの街を、山の方にのぼってゆくと、誰でもすぐ目につくだろうが、白い大きな壁と、そのうえに青くさびた丸い屋根をいただき、尖《とが》った塔が灰色の空をつきさすように聳《そび》えているりっぱな建物がある。
「ああ、じつにりっぱなお寺だなあ」
 知らない人は、きっとそういうであろう。ところが、この建物は、昔はお寺であったにちがいないが、今はそうではない。では、あれは一体どういう家なのであろうか? ほかでもない。あれこそイワノフ博士《はくし》の『人造人間《ロボット》の家』なのである。
 人造人間《ロボット》の家――というと、なんのことか分らないかもしれないが、もっとくわしくいうとこうである。イワノフ博士は、たいへんえらい科学者である。もうすっかり頭の禿げあがった老人であるが、若い学者にもまけない研究心をもっていて、ずいぶん古くから人造人間の研究にふけっている。あの寺院のあとへ引越してきたのが、今から十年前だったが、そのときは、タンクをつぎあわせたようなたいへんな恰好の機械人形の手をひいて、あの坂道をのぼっていったので、往来の人々はみな足をとどめてびっくりしたものである。その機械人形は、歩くたびにギリギリギリと歯車の音をたて、そしてときどき石油缶のような首をふり、ポストの入口のような唇のあいだから、
「うーう、みなさん。僕はロボットです。この町へ引越してきました。どうぞよろしく」
 と、ラジオのようなとほうもない大きな声で喋《しゃべ》ったものであった。そして道々いくどもおなじことを喋りちらしながら、坂道をのぼりきって、あのお寺の跡へ姿を消した。そのとき傍についていたイワノフ博士の得意そうな顔ったらなかったそうである。それからこっちへ十年の歳月がながれた。
 イワノフ博士の研究はいよいよすすみ、今では機械人形とはいわず、人造人間《ロボット》とよぶようになったほど、りっぱなものができるようになった。
 だが、ちかごろ博士は、もう前のように人造人間《ロボット》を町の人々に見せたがらなくなった。ただ申しわけのように、年に一度、それは白い李《すもも》の花の咲きほころぶ春、お寺の門をひらいて、町の人々を庭園に自由に出入させ、そして機械でうごく人形や馬や犬などを庭園に出して、見物させるのであった。きょうはその年にたった一度の、人造人間《ロボット》デーであった。庭園の中には、町の人々がいっぱい押しかけ、めずらしいものを見ようとおしあっている。ことに入口の混雑ときたら、たいへんであった。
「おお、あなたがた、はいれましぇん。人造人間《ロボット》、たいへん秘密あります。日本人いれることなりましぇん。さあ、おかえりなさい、はやくおかえりなさい」
 今しも、二人づれの兄妹《きょうだい》らしい日本人の少年少女が、入口の受付で、仁王《におう》さまのように大きいロシア人から、どなりつけられている。
「だって、僕たちは……」
「いけましぇん、いけましぇん。なにいっても、はいれましぇん」
 受付の大男は、なかなかやかましいことをいって、兄妹を入らせまいとする。


   イワノフ博士《はくし》


「じゃあ、イワノフ博士をここへよんでください。僕たちは、お隣りにすんでいる正太《しょうた》とマリ子という兄妹なんです。博士が……」
「なにいっても、日本人はいれましぇん。かえらなければ、私、つよいところを見せます」
「まあ、待ってください。だって博士が、僕たちにぜひ見に来いといって、さっき電話をかけてくださったんです」
「兄ちゃん、もうよしてかえりましょうよ」
 小学校の四年生の妹のマリ子はあまり受付がひどい剣幕《けんまく》なので、もうかえりたくなった。
「お待ちよ、マリちゃん。だって博士が見に来いといったのに、受付の人からおいかえされるなんて、そんな変なことはないよ」
「こらっ、どうしてもかえりましぇんか。日本人|剛情《ごうじょう》でしゅ、私、腕をふりあげます」
「あれぇ、兄ちゃん」
 マリ子は兄の正太をひきもどそうとする。正太は中学三年生、なかなかしっかりしている。その時だった。
 その仁王《におう》さまのような受付の腹の中で、なにかギリギリギリと変な音がした。とたんに受付のふりあげた腕が、そのままうごかなくなった。腕ばかりではない、身体全体がこわばってしまって、まるで木でつくった本当の仁王さまのようになった。
「あれっ、どうかしたよ、この受付は」
 と、正太は怪訝《けげん》な顔をしているとき、奥から人波をかきわけながらぜいぜい息を切らせてかけつけた一人の禿げ頭の老人があった。
「ドンや。いけましぇん。ああ正太しゃん、マリ子しゃん、待っておりました。さあさあ、こちらへおはいり、ください。この受付に、いいつけるのを、私、わすれていました」
「ああ、あなたはイワノフ博士ですね」
「そうです、イワノフです。ようこそ、正太しゃんもマリ子しゃんも来てくださーいました。こっちへおいでくださーい」
 兄妹は、それみたことかと、受付ドンの方をふりかえったが、そのときドンはいつの間にか入口の人波のなかに立って、知らぬ顔をして整理に一生けんめいのように見えた。
「あれっ、変だなあ」
「さあさあこっちへおいでくださーい。あなたがたに、とくべつ見せたい人造人間《ロボット》などたくさんあります」
「とくべつ見せたい人造人間て、なんです」
「いや、なかなか面白くできたものが、あります。私、誰も入れませんが、あなたがただけ、とくべつに家のなかへ入れまーす」
 博士は二人をつれて、大きな建物の扉《ドア》の鍵をはずし、兄妹をなかにみちびきいれた。


   不思議な動物


 兄妹が、一歩室内に足をふみ入れたとたん、とつぜん「うーう、わわわわ、わん」と足もとに吠えついたものがあった。マリ子はびっくりして、あっと叫ぶなり、正太の腕にすがりついた。見れば、それは一頭の小牛ほどもあろうという猛犬だった。
「これ、ダップ。あっちへゆきなさい」博士は、いきなり足をあげて、犬を蹴った。そのときごとんと椅子を蹴ったときのような音がした。犬は尻尾をまいて、奥の方へにげさった。
「すごい犬をお飼いですね」正太がいった。
「なあに、あれは人造犬《じんぞうけん》あります」
「えっ、人造犬ですか。マリちゃん、あれは人造犬だってさ」
「まあ、人造犬なの。すると機械で組立ててある犬なのね。まるで本物の犬そっくりだわ」
「そのとおり、ありまーす、人造犬がくいつくと、手でも足でも、ち切れます。本当の犬なら、そうはなりません」
「じゃ、本当の犬よりつよいのですね」
「そうですそうです。私、なかなか自慢している人造犬です」と博士は上機嫌でいって「もっと面白いものあります。いま、手を叩きます」と、博士はぽんぽんと叩いた。
 すると、ういういういと鳴き声をたてながら、カーテンの蔭から、一頭の白い豚が走りいで博士の前にぴたりととまった。
「この豚の背中を見てくださーい。背中が卓子《テーブル》になっています」
 なるほど、よく見ればおどろくではないか、白い豚の背中は、板を置いたようになっていた。
「この中に、おいしい酒がありまーす。私、命令する。その酒、コップに入って出てきます」
 博士が豚の方に手をさしのばすと、豚の背中がぱくりと左右にひらきその下からうまそうな洋酒が盃にはいって、三つも出てきた。そして背中が閉まると、盃はそのうえにちゃんとのっている。豚の身体が、酒をたくわえる倉庫のようになっているのだった。
「いかがです。酒をのんでくださーい」博士は盃をとりあげた。
「いや、僕たちはのみませんから、博士だけでおのみください」
「そうですか。では私もやめまーす、動く卓子《テーブル》をかたづけましょう」
 といって博士は豚のお尻をぽんと叩いた。すると豚は向うへかけだした。かけだしながら、また背中が二つに割れて洋酒の盃が自動的に中にかくれるのが見えた。
「はははは、どうです。面白いでしょう。あれも本物の豚ではなく、私がつくった人造豚《じんぞうぶた》です」
「はーん、あれは人造豚ですか。おどろいたなあ」
「あたし、なんだか気味がわるくなったわ。兄ちゃん、もうかえりましょうよ」
 マリ子はしきりに兄の横腹《よこっぱら》をつつき、邸を出ようとさいそくした。
「ちょっとお待ちください。もっと面白いもの見せます。自慢の人造人間《ロボット》エフ氏、見せます」
「もうたくさんだわ」
「いや、人造人間エフ氏、なかなかりっぱな人間です。見ておくと、話の種になります。あなたがた近く日本へかえります。よい土産《みやげ》ばなしができます」
 正太はそれを聞きとがめ、
「えっ、僕たちが日本にかえることを、どうして博士はご存知なんですか」
「はははは。それは皆わかります。私には世界中のことが何でもすぐわかります」
 博士は、別におかしくもないことを、ははははと声を出して笑いつづける。


   未完成のエフ氏


 正太とマリ子の父は、このウラジオに店をもっている貿易商だった。二人の母は病弱で、郷里の鎌倉にいるが、だいぶん永いあいだ二人の子供にあわないので帰ってほしいといってきた。そこで二人は近く日本へかえることになったのだ。このことは、うちで決めただけで、まだ領事館へもソ連の官憲へも知らせてないのに、はやくもイワノフ博士がそれを知っているとはおどろいたことだった。
「では、人造人間《ロボット》エフ氏だけ見て、それでおかえりくださーい。マリ子しゃん、恐ろしいですか。恐ろしければ、あなたは部屋の外でお待ちくださーい。正太しゃんだけ、見ていただきます。正太しゃん、きっと感心してくれます」
 博士は、にこにこ顔で、兄妹の手をとって廊下づたいに奥へ奥へと案内した。
 やがて廊下は行きどまりとなった。
「ここから階段をおりて、地下室へゆきます。マリ子さん、恐ろしいですか。それなら、ここに待っていてください。そこから庭へでてもよろしいです」
「じゃ、マリちゃん。ここで待っててね。僕が来るまで、どこへもいっちゃいけないよ」
「ええ、待っているわ。できるだけ早くかえってきてね、兄さん」
 マリ子は拝《おが》むようにいった。正太は博士につれられて、うすぐらい階段をおりていった。
「博士、人造人間《ロボット》エフ氏というのを、なぜそんなに僕に見せたがるのですか」
「うふん、それは――それはつまり世界中で一番すぐれた人造人間だからです。いままでの人造人間は、ゴリラか巨人のように大きかったですが、人造人間エフ氏は、たいへん小さくできています。日本語も、私たちより、なかなかよく話します」
「へえ、日本語を話すのですか、その人造人間エフ氏は――」
「そうです。日本語のほか、英語でも、ロシヤ語でもよく話します。十三ヶ国の言葉を喋《しゃべ》ります。なかなか私、苦心しました」
 博士は鍵を出して、扉《ドア》の錠《じょう》をはずした。
「どうぞ、おはいり下さい」
 紫色の電灯がついている。なにかじいじいじいと妙な音がしている。よく見ると、電灯の下に、椅子に腰をかけている人間の形をしたものがあった。しかしそれは、変なことに、まるで受信機の中のように沢山の針金が重なりあって、人間の形を保っているだけのものであった。
「エフ氏って、あれですか」
「そうです。エフ氏は、まだ中身だけしかできていましぇん。まだあの上に、肉をつけ、そして皮をかぶせ、人間に見えるようにいたします。まだできあがっていないのです。しかしよく動きますよ。さあ入りましょう」
 そういって博士は、正太を室内にひっぱりこんだ。扉《ドア》はぱたんとしまった。


   怪しい扉《ドア》の中


 こっちは、廊下に待っているマリ子だった。すぐかえってくるという約束の正太が、十分たっても二十分たってもかえってこない。正太はどうしたろう。マリ子は、急に心細くなって、胸が早鐘のように鳴りだした。
(兄さんは、どうしたのでしょう。すぐ出てくるといったのに、まだ出てきてくださらないわ。見物人もみなかえってしまって、こうして待っているのは、あたしひとりなんですもの。ああ、なんだか心細くなって、気が変になりそうだわ)
 マリ子は、廊下をみまわした。夕闇が、廊下の隅に、暗いかげをおとしていた。奇妙な塔が窓からじっとマリ子をのぞきこんでいるようであった。
(マリ子さん、兄さんはもうどこかに行ってしまって、のこっているのは、あなたひとりだけですよ)
 奇妙な塔は、なんだかそんな風にマリ子に話しかけているような気がした。
「ああ、もういやだ。あたし、これから地下室へいってみるわ」
 マリ子は、ひとりごとをいって、廊下を走りだした。
 地下室へくだる階段は、もうすっかり闇の中に沈んでいたが、マリ子は兄にあいたい一心で、とんとんとんとかけくだった。階段をおりると、そこにはまた広い廊下があった。そして大きな扉《ドア》をもった室がいくつもあった。
 一番ちかい部屋の扉の前に立って、マリ子はこわごわ室内の様子をうかがった。扉のむこうは、しずかであった。人のいるようなけはいはしなかった。
(この部屋ではないらしいわ)
 マリ子は、おびえたように、扉を見なおすと、“倉庫”という文字が、マリ子にもよめた。
「あら、ここは倉庫なんだわ」
 マリ子は、足早《あしばや》に、廊下を歩いて、次の部屋の前に立った。すると、部屋の中から、じいじいじい、じいじいじいというかなり高い物音がひびいてきた。
 そこには“人造人間《じんぞうにんげん》エフ氏の室”と書いてあった。
(まあ、人造人間エフ氏の室、兄さんはここにいるのじゃないかしら)
 マリ子は、おもいきって、扉《ドア》をとんとんと叩いた。
「兄さん、正太兄さん。マリ子ですわ」
 マリ子は、そういって、しばらく返事をまった。
 しかしどうしたものか、マリ子のまっていた返事はきかれなかった。ただ扉の向うでは、あいかわらずじいじいじいと奇妙な物音がしつづけであった。マリ子は、不安のため目の前がくらくなった。
「兄さん、兄さん。マリ子よ、マリ子が待っているのよ。兄さん、居たら返事をしてください」
 そういってマリ子は、扉《ドア》をやけに、とんとんとはげしくたたいた。手がいたくなって扉が叩けなくなったとき、マリ子は身体をどしんどしんと扉にぶっつけて、
「兄さん。どうしたの。マリ子よ。早くここへ出てきてくださらない」
 と、半分泣きながら叫んだのであった。
 そのとき、扉《ドア》のむこうで、がちゃりと鍵をまわす音がした。そして間もなく、扉がすーっと内にひらいた。その扉のかげから現れた一つの顔※[#感嘆符疑問符、1-8-78]


   日本語の先生


「兄さん!」
 マリ子は、扉《ドア》のかげから現れいでた顔にむかって、こうよびかけた。
 しかしそれは大まちがいであった。正太の顔ではなく、この『人造人間《じんぞうにんげん》の家』の主人イワノフ博士のあから顔であった。
「あっ――」
 マリ子は、びっくりして、二三歩うしろへとびのいた。
「ああ博士。兄はどこにいるのでしょうか。早くここへよんでくださいませんか」
 マリ子は、博士を拝《おが》むようにして、兄にあわせてくれるようにたのんだ。
「マリ子しゃん。そんなにさわぐ、よくありましぇん」
「だって博士、兄があたくしをおいてけぼりにして、どこかへいってしまったんですもの」
「正太しゃんのことですか。正太しゃんならこの室にいますから、心配いりましぇん」
 それを聞いて、マリ子は俄《にわか》に元気づいた。
「えっ、兄はこの室にいるのですか。まあ――」と目をみはり、
「では、あたし、入れていただくわ」
「おっと、お待ちなさい」イワノフ博士は、太い腕をだしてマリ子をひきとめた。
「なかへ入るとあぶないです。ちょっとお待ちなさい。正太しゃん、よんであげます」
 博士は室内へひきかえした。
 マリ子は、こわごわ室内をのぞいた。中はたいへんうすぐらい。紫色の電灯がかすかな光をだしているだけで、どこかでしきりにじいじいじいと変な音がしていた。
「ああ、マリちゃん。待ちくたびれたのかね」
 兄の声がした。どんなにか待っていたその兄の声だった。
「まあ、兄ちゃん。ずいぶん待たせるのね」
 マリ子は、兄が奥から姿をあらわしたのをみると、その前にとびついた。
「だって、人造人間《ロボット》の研究はとてもおもしろいんだもの。マリちゃん、お前、一足さきへかえってくれない。兄さんは、もっと実験をみてから、帰るから」
「いけないわ、いけないわ」
 マリ子は、それを聞くと、正太の胸にすがりついて、放そうとはしなかった。
「だって面白いんだがなあ。ねえ、マリちゃん。イワノフ博士って、すてきにえらい方だよ。人造人間をたくさんこしらえて、世界中をもっと幸福にもっと便利にしようといわれるのだよ。僕、人造人間のこしらえ方まで習ってゆきたいと思っているのだがなあ」
「いけないわ、お父さまが心配していらっしゃるわ。すぐ一しょに帰りましょうよね」
 すると、そのときまで黙って二人の話をきいていたイワノフ博士が、声をかけた。
「では正太しゃん。今日はどうぞ、おかえりください。マリ子しゃん、心配しています」
「だって博士。ここを見せてくださるのは、今日かぎりなんでしょう。明日は、もう駄目で見せてくださらないのでしょう」と正太がいえば、
「では、明日一日だけ、もう一度あなたに見せます。あなたひとりで来るよろしいです」
 イワノフ博士は、にこにこ顔で、それをいった。


   正太《しょうた》の早寝


『人造人間《じんぞうにんげん》の家』を出てのかえり道、マリ子はたいへん機嫌がわるかった。
「兄ちゃん。もう二度と、イワノフ博士のところへいっちゃ駄目よ。博士はきっと恐ろしい人だとおもうわ。兄ちゃんは、あの部屋で、博士となにをしていらしたの」
「人造人間《ロボット》エフ氏という骨組だけしかできていない人造人間があるんだよ。そのエフ氏に日本語を教えてやっているんだよ」
 正太は、一向平気でもって、そういった。
「まあ、人造人間が日本語を覚えるなんて、ずいぶん変なことね」
「なかなかよく覚えるんだよ。僕が“ずいぶん寒いですね”というと、エフ氏もまたすぐ後から“ずいぶん寒いですね”と、おなじことをいうんだよ。そして僕の声をまねして、おなじような声で喋《しゃべ》るんだ。あまりおかしくて、僕吹きだしちゃった」
「まあ――」
「するとエフ氏もまたそのあとで、僕がやったと同じように、ぷーっとふきだしたので、大笑いだったよ。あははは」
「まあ、変ね」
 マリ子にとっては、それはおかしいというよりも、むしろ気味《きみ》のわるいことであった。このときマリ子が、気味わるく感じたことはまちがいではなかったようである。なぜならば、後《のち》にこのときのことをもう一度はっきり思いださねばならぬような恐ろしい事件が起ったのであるから。正太は、マリ子のとめるのもきかないで、そののちも、あきもせずに今日一日だけはとか、もう一日だけはなどといいながら、それでも四五日もイワノフ博士のところへ通ったであろうか。
 兄妹の父親も、このことをきいて心配しないでもなかったけれど、まさか後に起ったような大事件になるとは気がつかず、まあいい加減にしておいたのであった。正太が、最後にイワノフ博士を訪ねたのは兄妹がいよいよ日本へ帰るについて、汽船にのりこもうという日の前日のことであった。が、その日家中が出発の準備のため、荷造りやなにやかやでごったがえしの忙《いそが》しさの中にあるのにもかかわらず、正太は夜に入って、家へ帰ってきた。そして、
「僕、今日はなんだかたいへん睡《ねむ》いから、先へ寝かせてもらうよ」
 といって、ひとり先へ寝床へもぐりこんでしまった。


   航海中の出来事


 やかましい検査のあった後で、ようやく汽船ウラル丸は、ウラジオ港を出航した。
「ああ、お父さま。さよなら、さよなら」と、マリ子は舷側《げんそく》から、白いハンカチーフをふって埠頭《ふとう》まで見送りにきてくれた父親にしばしの別れを惜しむのであった。
「さよなら、さよなら」正太も声をはりあげている。
 やがて、父親の姿もだんだん小さくなり、埠頭も玩具《おもちゃ》のように縮《ちぢ》まり、ウラジオの山々だけがいつまでも煙のむこうに姿を見せていた。それでも兄妹は、まだ甲板《かんぱん》を立ち去ろうとはしなかった。このときマリ子は、兄の正太が最後にイワノフ博士邸から帰ってきたとき、たいへん気分がわるそうだったことをふと思いだしたので、
「ねえ、兄ちゃん。あれは一体どうしたの」
 と、たずねた。正太は、とつぜんの妹の問いに、はっとおどろいたようであったが、あたりを憚《はばか》るように声をひそめ、
「うん、マリちゃん。あの日ばかりは、さすがの僕も後悔したよ。つまりイワノフ博士の人造人間《じんぞうにんげん》エフ氏の実験をたいへん長いこと見せてくれたんだが、あの日は、人造人間エフ氏の身体と僕の身体との間になんだか怪しい火花をぱちぱちとばせてさ、急に目まいがして、しばらくなんだか気がぼーっとしてしまったんだよ」
「まあ、ひどいわね。イワノフ博士はまるで魔法使みたいね」
「それからどのくらいたったかしれないが、気がついてみると、僕はいつの間にか安楽椅子《あんらくいす》のうえにながながと寝ていたんだよ」
「あら、じゃ兄ちゃんは、博士からよほどひどいことをされたんだわ」
「さあ、博士からされたんだか、それとも僕と向いあっていた人造人間エフ氏からされたんだか分らないがね。とにかくそれからのちすっかり気持がわるくなって、家へ帰ってもすぐ寝床へもぐりこんじまったんだよ。お父さまには、だまっていておくれよ」
「兄ちゃんは、電気や機械の実験のことになると、すぐ夢中になるんですもの」
 二人が話に気をとられている最中、この汽船ウラル丸にだんだん近づきつつある一台の飛行機があった。それはどう考えても、日本の飛行機ではなかった。
「おや、変てこな飛行機が、この汽船をねらっているぞ」
 とつぜん二人の背後《うしろ》で、大きな声がしたので、正太とマリ子は、なにということなしにびっくりして、ふりかえった。するとそこには、いつの間に来たのか、甲板椅子のうえに、一人の老人の紳士が腰をおろしていた。その老紳士は、顔中|髭《ひげ》だらけで髭の中から鼻と眼がのぞいているといった方がよかった。そして太い黒枠《くろわく》の眼鏡をかけていた。
「あっ、飛行機がなにか放りだした。おや信号旗《しんごうき》らしい。はて、これは変てこだわい」
 老紳士は、あたり憚らぬ大声でわめいた。
 なるほど汽船の上空五百メートルぐらいの高度に、四枚の信号旗を下にひいた風船が、ゆらりゆらりと流れてゆく。なんの信号旗か。誰にむけ、何をしらせようとする信号旗なのであろうか。汽船ウラル丸のうえに落ちた不安な影!


   老紳士のしんぱい


 飛行機は、船のはるかうしろを、ぐるぐるまわっている。なにかを待っているらしい。四枚の信号旗だけが、あとにのこって、ゆっくりと下へおちてくる。
「おじさん。あの信号旗は、どういうことをしらせているの」
 正太は、顔中ひげだらけの老紳士にたずねた。
「おお、なにかわけのわからぬ信号旗じゃよ」と老紳士は、いった。
「えっ、それはどういうこと」
「わけのわからぬ信号だよ。つまり暗号信号なんじゃ。あたりまえの信号でないのじゃ」
「暗号なの。暗号で、どういうことをしらせているの」
「わからん子供じゃなあ。暗号だからなにをしらせているのか、わからんのじゃ。ただわかることは、これからきっと、この船になにかたいへんなことがおこるだろうということだ」
 そういっているとき、また一つ、へんなことがおこった。――老紳士のいったとおりだった。そのへんなことというのは、誰がやったのかしらないが、船のうえから海のうえにむかって、ボールのようなものがぽんぽんと二つ、なげられた。そのボールは、海のうえへおちると、どういう仕掛がしてあったのか、たちまちぱっと火がついて、たくさんの煙をむくむくとはきだした。一つのボールからは、黄いろい煙、もう一つのボールからは赤い煙が、ずんずんと波のうえにたちのぼるのであった。
「ほら、はじまった。誰か、船のなかから、へんじのかわりにあの煙をだしたのだ。いよいよこれはへんなことになったぞ」
 老紳士は、ふなばたにつかまって、煙をにらみつけた。飛行機は、煙のあがるのをまっていたらしく、このとき機首《きしゅ》をめぐらして、ずんずんもときた方にかえっていった。
「船長、船長!」
 老紳士は、こんどは船長をよびだした。船長とて、このへんな事件をしらないではなかった。船員のしらせで、さっきから船橋《ブリッジ》にでて、このありさまをすべてみてしっていた。
「やあ大木さん。あなた、あまりさわがないでください。船客たちのなかには、気のよわい方もいますからね」
 大木さんというのは、この老紳士の姓であった。
「だって、これがさわがずにいられますかね。だからわしは、船の出る前から、船長にあれほど注意しておいたのじゃ。たしかにこのウラル丸は、港をでるまえから、わるいやつに狙《ねら》われていたんじゃ。うっかりしていると、このウラル丸は沈没してしまいますぞ」
 老紳士は、目のいろをかえていた。


   犯人か?


 船長は、わざとおちつきをみせ、
「大したことはありません。いざといえば、軍艦がすぐたすけにきてくれますよ」
 というが、大木老人はなかなかおちつけない。
「では、すぐ手はずをととのえたがいい。この船には、わしがこんな年齢《とし》になるまで汗みずたらしてはたらいて作った全財産が荷物になっているのじゃ。船が沈没してしまえば、わしの一生はおしまいじゃ。あれあれ、あの信号旗はなにごとじゃ。それから、この船から放りだした赤と黄との煙の信号は、あれはなにごとじゃ」
「あの煙のことは、私もあやしいとおもっていましらべさせています。誰が、あれを海のなかへ放りこんだか、いますぐにわかります。」
 船長は、そういって、下甲板の方をちらとみた。さっき一等運転士を船内へやって、それをしらべさせているのであった。
 そのとき、一等運転士の顔が、階段の下からあらわれた。そのうしろから船員の一団が、中国人のコックをつかまえて、あがってくる。
「船長。こいつです、あの煙のでるボールを海のなかへなげこんだ犯人は……」
 一等運転士は、中国人のコックの張《ちょう》をゆびさした。
「なんだ、張か。お前は、なぜあのような煙のでるボールを海のなかへなげこんだのか」
「いえ、船長。わたし、悪いことない。わたし、なにもしらない」
 張は、つよく首をふった。すると、後にいた船員が、張の背中をどんとなぐりつけ、
「こら、うそをいうな。お前がボールをなげこんだところを、おれはうしろからちゃんとみていたんだ。かくしてもだめだ」
「えっ、あなたみていた。それ、うそないか」
「お前こそ、大うそつきだ。よし、いわないなら、いえるようにしてやる」
 と船員がコックの腕をむずとつかむと、張はすぐさま泣きごえをたて、
「ああ、わたし、いうあるよ、いうあるよ。あたし、ボールたしかに海へなげこんだ」
「それみろ。なぜなげこんだのか」
「それは、わたししらない。よそのひとに、ボールなげこむこと、たのまれたあるよ。わたし、お金もらった。そのお金もわたしいらない。あなたにあげる」
「だれが、お金をくれといった」船長が、このときこえをかけ、
「よし、わかった。張、お前はだれにたのまれて、煙のでるボールをなげこんだのか。どんなひとだか、それをいえ」
「それをいうと、わたし殺される」張は、がたがたふるえ出した。


   張《ちょう》の白状


「それをいうと殺されるって、いったい誰に殺されるというのか」
 と、船長がきつくたずねた。
「その子供にですよ」と張はいって、はっと口をとじたが、もうまにあわない。
「えっ、子供だって」船長はききかえした。
「それをたのんだのは、子供か、おい、へんじをしろ」
 張は、歯のねもあわず、がたがたふるえている。
「わたし、いわない、いわない」
「なにをいっているのか。お前にたのんだのは子供だとまで白状してしまったんじゃないか。いわないといっても、そりゃもうおそいよ。お前にたのんだその子供というのは、どんな顔をしていたか。またどんななりをしていたか。それをいえば、お前の罪はゆるしてやる」
 張は、どうも困りはてたという風に、誰かたすけてくれる人はないかと、あたりにあつまった人々の顔をみまわした。そのとき、彼の目が、正太の顔のうえにおちたとき、どうしたものか、張はああっとおどろきのこえをあげ船員の手をふりはらってにげだした。
「おい待て、張!」
 船員たちは、にがしてはなるものかと張のあとをおいかけた。張は、もう死にものぐるいである。階段をごろごろとすべりおちるかとおもえば、扉にぶつかったり、椅子をひっくりかえしたり、まるで鼠のようににげまわったが、船員たちのはげしい追跡にあって、とうとう船具室のすみっこでつかまってしまった。そのときはもう、張は死骸《しがい》のようにのびていた。
 船長のところへしらせがいったので、やがて彼は船具室までおりてきた。
「おい、張。なにもかも、もうすっかり白状したがいいぞ」
「ううっ――」
「白状すれば、お前の罪をゆるしてやるといっているのが、わからないか。おい、張、さっきお前は、正太という船客の顔をみて、なぜおどろいてにげだしたのだい」
「ああっ、それは――」
「こっちにはすっかりわかっているんだ。はやく白状しただけ、お前の得だぞ」
「ああ、もういいます」と張はくるしそうにいった。
「――が、あの子供、そこにいると、わたしいえない」
「あの子供のお客さんはこの船具室にはいないよ」
「ほんと、あるな。では、いう。わたし、あの子供にたのまれた」


   怪火《かいか》


 中国人コックの張は、意外にも、煙をだすボールを海のなかへなげこむことを、正太少年にたのまれたと白状した。
「ええっ、あの正太さんに頼まれたというのか」
 まさかとおもったのに、張が正太に頼まれたといったものだから、船長もことの意外におどろいた。もしや張が、同じ姿の少年である正太を、同じ人とみまちがえたのではないかと念をおしたが、張はつよくかぶりをふって、
「いや、あの子供にちがいない。わたし、人の顔、まちがえることない」というのであった。
 船長はじめ、これを聞いていた一同は、この中国人がうそをいっているのでないと知った。すると、こんどはあのかわいい日本少年の正太が、たいへんあやしい人物になってしまう。それはどうしたものであろうか。
 正太は、船長からよばれて、その前へいった。張は、正太がマリ子をつれてはいってきたのをみると、さもおどろいた顔つきで、船員のうしろにかくれた。
「正太さん。さっき海へなげこんだ煙のボールは、あなたにたのまれて、この中国人コックの張がやったのだといいますが、なにかいいわけすることがありますか」
「えっ、なんですって」と正太も、はじめてきく意外なうたがいにびっくりして「とんでもない話です。僕はそんなことはしません」
「いや、あの子供、わたしにたのみました。わたし、けっしてうそいわない」
 張は船員のかげから、正太少年をゆびさして、ゆずろうとはしない。すると、大木老紳士がおこったような顔をして、前へでてきた。
「そうだ。正太君がやらなかったことは、あのときわしも正太君のうしろにいて、みてしっている。正太君につみはない」
「そうですか。これはへんなことになった。張は正太君にたのまれたというし、あなたがたは正太君がやったのではないという。どっちがいったい本当なのだろう」
 正太にも、この事件がたいへんふしぎにおもえてきた。
(まてよ。もしかしたら、僕にたいへんよく似た少年がこの船のなかにいるのではないかしら)
 そのことを船長にいいだそうかとおもったが、彼はとうとういわないでしまった。なぜなら、そのときとつぜん船内で大さわぎがはじまったからである。
「おう、火事だ、火事だ。第六|船艙《せんそう》から、火が出たぞ。おーい、みな手を貸せ」
 怪しい船火事! 船員も船客も、いいあわせたように、さっと顔いろをかえた。
 そのとき、老紳士がはきだすようにいった。
「そらみろ。さっきの信号が怪しかった。船火事だけですめばいいが」
 そのことばがおわるかおわらないうちに、海面にうきあがった潜水艦隊。あっというまに、ウラル丸をぐるっととりまいてしまった。


   燃えるウラル丸


「あっ、潜水艦だ! おや、あれはどこの潜水艦か。日本には、あんなのはない!」
 ウラル丸の甲板《かんぱん》上を、目のいろをかえた船客がさわぎたてる。船内では、船火事をはやく消さないと、船が沈むかもしれないというので、消火にかかっている船員たちの顔には、必死のいろがうかんでいる。
「おい、船底《ふなそこ》の荷物の間から、さかんに煙をふきだしているぞ。ポンプがかりに、そういってやれ。もっと力をいれてポンプをおさないと、とてもものすごい火事を消せないとな」
「おい、こっちだこっちだ。こっちからも煙がでてきた。船客の荷物に火がついたぞ」
 船火事と、怪しい潜水艦!
 二つのものにせめたてられ、ウラル丸の船客も船員も、いきがとまりそうだった。正太とマリ子は、甲板にでて、潜水艦をにらんで立っていた。
「兄ちゃん。あの潜水艦は、なにをするつもりなのかしら」
「さあ、なにをするつもりかなあ――」
 正太ははっきりわからないような返事をしたが、その実こころのなかでは、この潜水艦はたぶん、ソ連の艦《ふね》であり、そして船火事をおこしてウラル丸が沈むのを見まもっているのであろうと考えていた。しかしそれをいうと、妹のマリ子がどんなにしんぱいするかもしれないとおもい、ことばをにごしたわけだった。そのとき、兄妹のうしろを、気が変になったようなこえをだしてとおる者があった。それは例の大木老人だった。
「ああ、わしはたいへんな船にのりこんだものじゃ。わしが一生かかってようやく作りあげた全財産が、焼けて灰になってしまう。たとえ灰にならなくても、その次は、あの怪潜水艦のために、水底へしずめられてしまうのじゃ。ああ、わしはもう気が変になりそうじゃ」
 大木老人はあたまの髪を両手でかきむしりながら、走ってゆく。
「兄ちゃん。あのお爺さんは、あんなことをいっているわよ。あの潜水艦は、ウラル丸をしずめようとおもっているのね」
 マリ子は、とうとう第二のおそろしいことに気づいてしまった。
「なあに、大丈夫だよ」
「いいえ、大丈夫ではないわ」
「ねえ兄ちゃん、あたしたちは火事で焼け死ぬか、潜水艦のために殺されるか、どっちかなんだわ。そうなれば、もう覚悟をきめて、日本人らしく死にましょうよ。そうでないともの笑いになってよ」


   正太の決心


(そうだ。僕はぼんやりしていられない!)
 正太は、はっと吾にかえった。今の今まで彼は気のよい少年としてひっこんでいたが、彼は今こそふるいたつべき時であるとおもった。自分のいのちはどうでもよいが、マリ子だけはどうにかして無事にこのさいなんから切りぬけさせ、日本に待っていらっしゃるお母さまの手にとどけなければならない。そうだ、それだ。マリ子を救わなければならない。
(自分のいのちを的にして、一つおもいきりこの危難とたたかってみよう)
 正太は、いまやよわよわしい気持をふりすてて、いさましい日本少年としてたたかう決心をしたのだった。
「ねえ、マリちゃん。どう考えても、まだしんぱいすることはないよ。僕も、船員のひとに力をあわせて、ウラル丸がたすかるようにはたらいてくるから、マリちゃんはさびしいだろうけれど、その間、船室で待っておいでよね」
「まあ兄ちゃんちょっと待ってよ」
「兄ちゃんのことはいいよ。はやく船室にはいって……」
「兄ちゃん、兄ちゃん……」
 マリ子はこえをかぎりに、兄の正太をよびとめたが、正太はどんどんと甲板《かんぱん》の人ごみのなかにはしりこんで、姿は見えなくなった。
 そのとき、ウラル丸の船橋《ブリッジ》には、船長と一等運転士が顔をそばへよせて、なにごとか早口で囁きあっていた。
「船長。どっち道、もうだめですよ」
「そう弱気をだしちゃ、こまるね。しかし無電機をこわされちまったのは困ったな」
「無電技士が、しきりにSOSをうっているとき、うしろに人のけはいがしたので、ふりむいた。するととたんに頭をなぐられて、気がとおくなってしまった。そのとき、ちらりと相手の顔をみたそうですが、それが例の正太という少年そっくりの顔をしていたそうですよ」
「そうか。あの少年は、いつの間にやら、私のところから逃げだしたとおもったが、そんな早業《はやわざ》をやったか。無電機をこわしたのも、もちろん無電技士をなぐりつけた犯人と同一の人物にちがいない。――というと、正太という少年のことだが、あんなかわいい顔をしていながら、見かけによらないおそろしい奴だな」
「そうです。おそろしい奴です。そしておそろしい力をもった奴です。無電技士を気絶《きぜつ》させたばかりではなく、無電機のこわし方といったら、めちゃめちゃになっていまして、大人だってちょっと出ないくらいの力をもっているんですよ、あの正太という子供は!」


   怪少年?


 正太はそんな力持であろうか。
 船長と一等運転士とは、正太のおそろしい力に身ぶるいをしていると、そこへひょっこりと、正太少年が顔をだしたものだから、二人は、あっといって、二三歩うしろへよろめいた。
「船長さん。まだ日本の軍艦はこないんですか」
「えっ?」
「船長さん、SOSの無電はうったのですか。それともまだうたないのなら、早くうってはどうですか」
 船長と一等運転士とは、顔をみあわせた。そして二人とも心のなかで、(この少年は、なんという図々しい少年だろう。自分が無電機をこわしておきながら、まだ無電をうたないのかなどとたずねるとは)と、あきれたり、おどろいたり。
「船長さんたちは、海の勇士ではありませんか。しっかりしてください」
 正太は、一生けんめいに船長と一等運転士をはげました。
 それをきいていた一等運転士は、こころのなかにむっとして、ポケットからピストルをぬきだすと、正太をめがけて、今にも銃口《じゅうこう》をむけそうな気配を示した。そのとき、電話のベルが、けたたましく鳴った。それは正太のために、一命をすくったようなものであった。
「船艙《せんそう》から電話がかかってきたのだろう。おい、なんだ」と、船長が電話にかかった。
「なに、船艙の火事が消えた。それはいいあんばいだ。……ええっ、電気仕掛の口火がみつかったって。それをつかって、荷物とみせかけてあったダイナマイトを爆発させたことがわかったのだって? そいつはおどろいたね。……その電気仕掛の口火を誰がつけたのかわからないって。ふんふん、それはわからんことはないよ」
 と船長は、じろりと正太の方に眼をうごかしたが、すぐ眼を元にもどして、
「とにかく、火事の方がかたづいたら、こんどは怪潜水艦と取組む番だ。いつこっちへ、魚雷《ぎょらい》がとんでくるかもしれないから、お前たちはすぐ昇降階段の下へ集っていろ。そしていつでも甲板へとびだせるように用意をしておくんだ。命令をするまでは、甲板へ出てはならない。こっちがうろたえているところを潜水艦にみつかると、都合がわるいからね」


   急潜航《きゅうせんこう》


「ねえ船長さん。まだ僕は、なんだかうたがわれているようで、気もちがわるいですね」
 と、正太がいった。
 船長は受話器をかけながら、ふふんと鼻のさきで笑った。
「この前も信号の煙のでるボールを海になげこんだようにうたがわれ、それを大木さんが口をだしてくれて、うたがいが晴れたはずですが、まだ船長さんたちは僕をうたがっているようです。一体どこがそんなにうたがわしいのですか」
「なにを。君はなんという図々しい少年だ」一等運転士が前へのりだす。
「まあ待て一等運転士。そのことよりも、今はあそこに見える潜水艦から魚雷のとんでくることをしんぱいせねばならないのだ」
「船長。それはわかっていますが、でもこの子供のいうことをきいていると、むかむかしてきてたまりません」
 正太は、もっといいたかったが、船長がいったとおり、今はウラル丸を狙っている怪潜水艦の方が大事であることに気がつき、それ以上、自分のことでいうのをひかえた。
「ねえ船長さん。僕にできることなら、なんでもしますよ。ボートを漕《こ》ぐことなんか、僕にだってできますよ」
「ふん。君はだまっていたまえ」
 船長は、じっと海面をながめている。一等運転士はまた潜水艦と正太とを、半分半分にながめていたが、そのうちおどろきのこえをあげ、
「おや、船長。潜水艦が潜水にうつったようではないですか」
 一等運転士のいうとおりだった。ウラル丸をとりまいていた四|隻《せき》の怪潜水艦が、にわかにぶくぶくと水中にもぐりはじめたのだ。
「そうだ、いやにあわてているようだね。どうしたんだろう」といっているところへ、ぶーんと飛行機の音が耳にはいってきた。しかもかなりたくさんの飛行機らしい音だ。
「あっ、飛行機だ。どこの飛行機だろう」
 そういっているうちに、南の空から翼《よく》をつらねて堂々たる姿をあらわしたのは、九機からなるまぎれもない、わが海軍機の編隊であった。
「あっ、日本の飛行機だ。海軍機だ」
「ああ、はじめにうったSOSの無電が通じて、わがウラル丸をたすけにきてくれたのだ。だから怪潜水艦は逃げだしたのだ。うわーっ、ば、ばんざーい」
 海面には、いつしか怪潜水艦の姿は消えさっていた。海軍機は、ウラル丸のうえをとおりすぎ、堂々たる編隊のまま、なおも北の方へとんでいく。


   ゆるせない砲撃


 怪潜水艦のあとをおいかけていた海軍機の大編隊が、とつぜん三つの編隊にわかれた。
「おや、どうしたのだろう」
 これを船橋のうえでながめていた正太少年はふしぎにおもった。
 すると、どどーんという大きな音がして、ぱっぱっぱっと高角砲のたまが空中で破裂した。そこはちょうど、編隊のまん中であった。飛行機の方でぐずぐずしていれば今の砲撃で、機体はばらばらになるところだった。たちまちそれと察して、編隊をといた海軍機もえらかった。そうおもっていると、つづいて二回目の砲撃だ。どどーん、ぱっぱっぱっと、ものすごい音をたて、目のくらむようなはげしい光をたてる。船長も船員も、正太もマリ子も、みんなびっくりしてこの砲撃を見守っている。一体、どこからこの高角砲弾《こうかくほうだん》はとんできたのであろうか。
「やあ、飛行機が急降下するぞ!」
 正太がさけんだそのとき、三つにわかれた編隊は、それぞれ宙がえりもあざやかに、機首をさかさまにしてひゅーっとまいさがる。
 どこを狙っているのか? それはすぐわかった。波間に見えつかくれつしているのは、さっきにげだしたはずの怪潜水艦だ。にげると見せておいて、にげもせず、波間からすきを見て、どどん、どどんと空中へ死にものぐるいの砲撃をはじめているのだった。ずるい潜水艦だ。
 そのとき急降下中のわが編隊は、つばさの下から、黒い爆弾をぽいと放りだした。爆弾は風をきって、海上めがけておちてゆく。そのあげく、どどどーん、ぐわーんという大爆発だ。海上からは、まるで大きな塔のような水柱《みずばしら》がたち、海面にはものすごい波のうねりがひろがってゆく。そのなかに、まっくろな煙がすーとたちのぼりはじめた。おやとおもうまもなく、その煙はどどんと一度に爆発して、海面は一めんの焔の海と化した。潜水艦に命中したのである。卑怯な不法砲撃を海軍機にむかってやったため、とうとうあべこべにやっつけられたのだ。そのころまた次の爆弾が海面にもぐりこんだ。あらためて、ものすごい爆発がおこった。天地はいまにもくずれそうに、ふるえるのだった。高射砲は、すっかりだまりこんでしまった。
 硝煙は海面をおおって、あたりをだんだん見えなくしてゆく。天候もわるくなってきたようだ。そのうちに、飛行機のすがたも、煙霧《えんむ》のなかにとけてしまって、やがて見えなくなった。ただエンジンだけが、つづいてはげしい唸《うな》りごえをたてていたが、それもいつしかとおくになってしまった。ウラル丸の船員といわず船客といわずみんないいあわしたようにほっとため息をついて、なに一つこわれたところのない船体をふしぎそうにながめまわすのであった。


   敦賀《つるが》港


 そののちは、べつにかわったこともなく、ウラル丸はついにめでたく敦賀《つるが》の港に錨《いかり》をおろした。ウラル丸の検疫《けんえき》がすんだ。もうこのうえは上陸してもよいということになった。そこで桟橋《さんばし》に、横づけとなりそして出口がひらかれた。
 まっさきに出口へ突進したのはひげだらけの老紳士大木であった。
「さあ、おまえたちも、わしについて、早く上陸するのじゃ。こんな縁起《えんぎ》のわるい船は、すこしでも早くおりたがいいぞ。さあ、わしについてくるのじゃ」
 大木老人は、正太とマリ子の手をとって、他の船客をらんぼうにおしのけながら、出口をとおりすぎようとする。大木老人はそれでもいいが、彼に手をとられた二人の兄妹《きょうだい》こそ大めいわくだ。マリ子などは、さっきからいくたびか足を踏まれたり、そして顔を大人の洋服ですりむいたり、全くひどい目にあっている。
「もしもし、あなたがたは、切符をどうしました。切符をおいていってください」
 出口にがんばっていた船員が、大木老人たちをよびとめた。
「なんじゃ、切符かね」
 大木老人は、もどってきて、ポケットからしわだらけの切符をとりだした。
「さあ、おまえたちも切符を出して、このおじさんにくれてやるんじゃ」
 大木老人は、兄妹の方をふりかえっていった。正太とマリ子は、それぞれ切符をとりだして、船員にわたした。
「兄さん、はやく出ましょうよ」
 マリ子は正太の腕をひっぱった。そのときマリ子は、兄の腕がたいへん固いので、びっくりした。それをたずねようとおもっているとき、また大木老人がうしろをふりかえって、
「さあさあ、なにをぐずぐずしているのじゃ。早くこっちへおりてこんか」
 と、ひげをうごかしながらどなった。
 マリ子は、それに気をとられてそのまま汽船をおり、桟橋に立った。
「こっちじゃ。この自動車にお前さんがたもおのり。わしが途中まで送っていってやるよ」
 大木老人は、なにもかも胸のなかにのみこんでいる気になって、車の中から兄妹をいそがせた。正太がさきに自動車のなかに入った。
 マリ子もつづいて入った。扉《ドア》はしまる。自動車は、警笛をならしながら、すぐさまたいへんなスピードを出して、桟橋からはしりさった。
 あまりスピードを出したものだから、桟橋ではたらいていた仲仕が、びっくりして身体をかわした。そしていうことに、
「ああ、らんぼうな奴だ。おれが今、あのままじっとしていたら、あの自動車はおれの身体を半分|轢《ひ》いていったろう。なんだって、あのようなスピードを出すのじゃろう」
 そういって、彼はとおざかりゆく自動車の番号を、にらみつけた。


   にせ切符


 それから三十分ばかりたってのことであった。ウラル丸の船客は、もうほとんどみんな出てしまった。出口に立って、船客から切符をうけとっていた切符|掛《がかり》の船員は、すこしつかれをもよおし、あたりはばからぬ大あくびをした。そのとき奥から、高級船員があらわれて、こえをかけた。
「おい、あくびなんかするなよ。そのあいだに、船客切符の番号でもあわしておけ」
 つまらないところを見られたものだと、切符掛の船員は、ぶつぶついいながら、一号二号三号と切符をそろえだした。彼は、もうすこしで全部の切符をかぞえおわろうとしたとき、船客がひとりそこへ出てきた。
「もしもし切符はこっちへください」
 そういって、船員が手を出した。見ると、その船客というのは一人の少年だった。少年の顔をみると、切符掛の船員は、あれっ、へんだなと、こころのなかで、さけんだ。
「ああ切符なら、これです」
 少年は、十九号と番号のうってある切符をさしだした。切符掛が切符をうけとろうとすると、かの少年はあわてて、手をひっこめた。
「ま、待ってください。いま船をおりるわけじゃないんです」
「だって、船はここでおしまいですよ。早くおりてください」
「それはわかっていますよ。しかし僕の妹がどこへいったのか、見えないんです」
「えっ、なんですって」
「さっきから妹のマリ子を船内あちこちとさがしているんですが、どこへいったのか、いないんです。僕、困っちゃったなあ」
 少年は、ほんとうに困っているらしくみえる。だが、船員は、この少年のふるまいを、たいへんあやしいとにらんだ。
「もしもし、ちょっとその切符をみせなさい」
「切符よりも妹をはやくしらべてください」
「いやいやそうはいきません。その切符はあやしいですぞ。君は十九号という切符をもっているが、ほら、これをごらんなさい。十九号という切符は、もうすでに私がちゃんとお客さまからいただいてある。君のもっている切符は、にせ切符だ。君は、どこからそんなにせ切符をもってきたのか。それともじぶんでこしらえたのか。これ、もうにがさんぞ」
 そういって切符掛は、少年にとびつくがはやいか、力にまかせてねじふせてしまった。この少年の顔をよくみると、ふしぎにも、正太少年と、そっくりの顔をしていた。


   ほんとうの切符


 このしらせが、船長のところへいった。船長はおどろいて出口のところへとんできた。
「ふーん、やっぱり君だったか。どうしてにせ切符をもっているのか、へんじをしたまえ」
「おじさんがたは、僕の切符をにせ切符だ、にせ切符だというが、なぜそういうんです。この切符は、ちゃんとお父さんに買ってもらった切符で、にせ切符なんかじゃない。よくしらべてから、おこったがいいや」少年は、顔をまっ赤にしていった。
 船長はうなずき、切符掛から、十九号と書いた二枚の切符をとって、くらべてみた。どっちもおなじような切符だ。船長は、指さきで切符の紙の質をしらべたり、それがすむと陽《ひ》にすかしてみたり、いろいろやった。
「ふーん、こいつはへんだ。こっちの切符は本物だが、こっちの切符はにせ切符だ」
 船長は、にせ切符の方へ、赤鉛筆でしるしをつけた。
「はっきり、にせ切符だということがわかりましたか」と切符掛はにやりと笑い、そして少年の方をむくと急にこわい顔をして「おい、もうだめだぞ。船長さんが目ききをした結果、おまえの切符は、にせ切符ときまった。さあ、白状《はくじょう》せい!」
「待て」
 船長は、船員の肩をおさえた。
「えっ」
「君は、おもいちがいをしている。この少年の持っている切符の方が本物で、はじめに君がうけとっておいた十九号の切符の方がにせ切符なんだ。この少年を、にせ切符のことでうたがったのはわるかった。君もこの少年にあやまりたまえ」
 そういって、船長は少年にわびをいった。切符掛は、なんだかわけがわからないが、船長があやまれというので、そのあとについてぺこぺこ頭をさげた。少年は、みんなにあやまられても、別にうれしそうでもなかった。彼の顔は、さっきよりも一そう青ざめていた。


   正太の心配


 正太は船をおりた。船のなかで、行方不明になった妹マリ子のことが心配でたまらない。警察署へいって、このことを話すと、さっそくさがしてくれることになった。
 だが、正太には、警察のさがしかたが、なんだかたいへん頼《たよ》りなくおもわれた。マリ子は、一体どこへいったのであろうか。正太はあてもなく敦賀《つるが》の町をさまよってマリ子をさがしてあるいたが、なんの手がかりもなく三日の日がすぎた。
 船長は、たいへん気の毒がって、このうえは東京へいって、誰かいい探偵をたのむのがいいだろうとおしえてくれた。そして船長は、自分の名刺をつかって、紹介状をかいてくれたのであった。宛名を見ると、「帆村荘六《ほむらそうろく》どの」としてあった。
 帆村荘六? どこかで聞いたような名前だった。船長は正太をなぐさめながら、この帆村探偵は若い理学士だが、なかなかえらい男だから、きっとマリ子をさがしだすだろうと、正太に力をつけてくれた。そこで正太は、やっとすこし元気づいて、なごりおしくも敦賀の町をあとに、東京へむかったのであった。それはウラル丸が敦賀の港について五日目のことだった。
 ここで話は一日前にさかのぼる。場所は、東京九段の戦勝展覧会場の中であった。朝早くから、会場の門はひらかれていた。お昼からは、見物人でたいへん混んだが、さすがに朝のうちは、すいていた。
 その朝、番人はなんにもあやしまないで、入場をさせたが、正太やウラル丸の船長や、それから敦賀警察署の警官たちに見せると、かならず「あっ」と叫ばずにはいられないようなあやしい二人づれの入場者があった。
 その二人づれとは、一人は上品な少年、もう一人はその妹と見えるかわいい少女であった。いや、もっとはっきりいうと、その少年は、正太そっくりの顔をしていたし、その少女は、正太の妹のマリ子そっくりであった。二人は仲よく手をつないで、会場にならんでいる、分捕《ぶんどり》の中国兵器やソ連兵器を、ていねいに見てまわった。
「かわいい坊っちゃんにお嬢さん。こんな早くから見に来て、かんしんですね」
 会場のあちこちに立っている番人が、いいあわしたように、二人にこんな風に話しかけた。
 二人は、それをきいて、にっこりと笑うのであった。やがてこの正太とマリ子に似た二人づれは、この展覧会で一等呼び物になっているソ連から分捕った新型戦車の前に来た。
 正太に似た少年は、その前にずかずかとよると、まるで匂いをかぎでもするように、戦車に顔をすりよせた。それからというものは、正太に似た少年の様子がへんになった。
 ちょうどそのとき、二人のあとから入って来た村長らしい見物人を、わざとさきへやりすごすと、正太に似た少年は、俄《にわ》かに目をぎょろつかせ、あたりに気をくばった。マリ子は、人形のように、じっと室の隅に立っていた。ぱちぱちぱちと、とつぜんはげしい音がきこえた。見ると、その呼び物のソ連の新型戦車が火をふいているのであった。よく見ると戦車は真赤に熟しつつ、どろどろと形が熔《と》けてゆくのだ。そして、その前には、正太に似た少年が、大口をあいて、はあはあ息をはきかけている。その息が戦車にあたると、戦車はどろどろと飴《あめ》のように熔けてゆくのであった。
 なんというあやしい少年のふるまいであろう。それは人間業《にんげんわざ》とはおもわれない。一体彼は何者であろうか。


   燃える戦車


「おう、たいへんだ。戦車が燃えている。いやどろどろに熔《と》けている、おい、みんな早くこい」
「何だ。火事か。えっ、鋼鉄《こうてつ》づくりの戦車がひとりで焼けている?」
 展覧会場は、たちまち大さわぎになってしまった。警官隊がトラックでのりこんでくる。サイレンを鳴らして、消防自動車がとびこんでくる。たんへんなさわぎだ。このさわぎが始まると、二人の少年少女はいちはやく会場の外へにげだした。そしてどこかへいってしまった。
 ホースをもって、消防手がのりこんでくると、そのとけくずれた戦車をしきりにのぞきこんでいる髭《ひげ》だらけの老人紳士があった。
「うふふふ、これはすごいことになったぞ。三センチもある鉄板《てっぱん》が、ボール紙を水につけたようにとけてしまった。とてもおそろしい力だ」
「おい邪魔だ。おじいさん、あっちへどいてくれ。水がかかるよ」
「なあに、水をかけることはないよ。もう火はおさまっている。戦車がとけて、鉄の塊《かたまり》になっただけでおさまったよ。はははは」
 老紳士は、声たからかに笑って、消防士においたてられて立ちさった。その老人紳士は誰あろう、ウラル丸でさかんにさわいでいた老人だった。自分の全財産をつんだウラル丸が沈没するというので、船長にくってかかったあの老人であった。
 戦車どろどろ事件は、その筋《すじ》をたいへんおどろかしもし、困らせもした。大事の分捕品《ぶんどりひん》が形がなくなったことも大困りだが、なぜどろどろにとけくずれたか、そのわけがわからないのだ。番人たちは、憲兵隊の手できびしくしらべられた。だが彼等も、本当のことはなに一つ知っていなかった。狐に化かされたようだというのが、そのしらべのしめくくりであった。まさかあのかわいい少年少女が、おそろしい犯人だと、気がついた者はない。それから二日おくれて、正太少年は、ひとりさびしく汽車にゆられて東京についた。
 少年は、なにをおいても、郊外にある家へかえって、病床《びょうしょう》にある母にあいたかった。しかし本当のことをいったら、母はどんなに心配するかもしれない。母にはすまないが、マリ子は船の中で病気になり、敦賀の病院に入っていることにしておこうと決心をした。その正太が、東京郊外の武蔵野に省線電車をおり、それから砂ほこりの立つ道を、ひとりぽくぽく家の方へ歩いているときだった。彼は母にあってよどみなくいうべき言葉を、あれやこれやと考えながら歩いていたので、ついぼんやりしていたらしい。それが、ふと目をあげて、向こうにつづくひろびろとした畑道をながめたとき、彼は意外なものを見つけて、おもわず「あっ」とおどろきの声をあげた。
「あっ、あれはマリ子じゃないか」
 二百メートル先の向こうの畑道を、二人の少年少女が、手をひいて歩いていく。その少女のうしろ姿を見たとき、正太はそれが妹のマリ子だといいあてたのだった。なぜといって、その少女は、船の中にいたときのマリ子の服と同じ服を着ていた。赤い帽子も同じであった。おかっぱの頭の恰好や歩きぶりまで、たしかにマリ子にちがいなかった。
「おーいマリ子」
 正太は、マリ子が誰と歩いているのかを考えるひまもなく、うしろからよびかけた。すると二人は、一しょにくるっと正太の方をふりかえった。そのとき正太は、おそろしいものを見た。
 妹マリ子のそばに立っている連れの少年の顔は、なんとふしぎにも、自分そっくりの顔をしているではないか。こうもよく似た顔の少年があったものだ。
「おーい、君は誰だ」
 正太が声をかけると、かの正太そっくりの少年は、いきなりマリ子を背に負い、後をふりかえりながら、どんどん逃げだした。その足の早いことといったら、韋駄天《いだてん》のようだ。
「おーい、待て。マリ子、お待ちよ」
 正太は、二人のあとをおいかけた。畑道をかけくだってゆくと、郊外電車の踏切があった。マリ子を背負った怪少年は、踏切をとぶように越していった。正太はあと五十メートルだ。
 そのとき意地わるく、踏切の腕木《うでぎ》が下がった。そしてじゃんじゃんベルが鳴りだした。急行電車がやってきたのだ。正太が踏切のところまでかけつけたときは、もうどうにもならなかった。番人は、それとさとって、腕木の下をいまにもくぐりそうな正太をぐっとにらみつけた。
「あぶないあぶない。入っちゃ生命がない!」


   怪少年出没


 おしいところで、正太は妹と怪少年においつけないで終った。踏切の腕木《うでぎ》があがったあとは妹を背負った怪少年の姿はもう小さくなっていた。
 それでも正太は、ここで妹をとりかえさねばいつとりかえせるやらわからないと一生懸命においかけたがもうすでにおそかった。やがて二人の姿は、村の家ごみの中に消えてしまった。
「ああざんねんだ。とうとうのがしてしまった」
 正太は、道のうえに坐って、おちる涙を拳《こぶし》でふいていた。
 怪少年が、マリ子をさらっていったのだった。あの怪少年は、一体何者だろうか。それにしてもマリ子の様子が、ふにおちない。兄が声をかけたのだから、「ああ兄ちゃん」とかなんとかいって、こっちへかけだして来そうなものだ。しかしじっさいは、妹はこっちをみても知らん顔をしていた。じつにふしぎだ。ただ一つ、正太の心をなぐさめたものは、敦賀で見うしなった妹マリ子が、いつの間にか東京へ来ていたことである。マリ子が東京にいるならそのうちにまたどこかで会えるかもしれないと、正太ははかないのぞみをつないだ。正太は、その足で、久方《ひさかた》ぶりにわが家の門をくぐった。
 病床の母は、おもいのほか元気だった。この分なら近いうちに起きあがれるかもしれないということであった。しかし母はマリ子の病気のことをきくとたいへん心配して、正太にいろいろとききただした。正太はつくりごとをはなしているので、母親からあまりいろいろきかれると、返事につまった。
「お母さん、マリ子は、はしかのような病気です、大したことはありません。ただ他の人にうつるとわるいから、あと一ヶ月ぐらい入院していなければならないのです」
 そういって正太は、母親をなぐさめた。それをきいて母親はやっと顔いろを和《やわらげ》たのだった。
 帆村探偵の事務所は、丸の内にあった。ウラル丸の船長からもらった紹介状を出すと、帆村はすぐ会ってくれた。
 この探偵は、背が高くて、やせぎすの青年だった。茶色の眼鏡をかけ、スポーツ服を着ていた。しきりに煙草をぷかぷかふかしながら、正太の話をきいていたが、たいへん熱心にみえた。
「よくわかりました、正太さん」
 と帆村探偵は、たのもしげにうなずいて、
「とにかく全力をあげて、マリ子さんの行方《ゆくえ》をさがしてみましょう。しかしですね、正太君、いまお話をきいて僕がたいへん面白く感じたことは、あなたの見た怪しい二人づれの少年少女と、昨日九段に陳列してあったソ連戦車をどろどろに熔《と》かした怪事件がありましたが、そのときあのへんをうろついていたやはり二人づれの怪少年少女があるのですが、どっちも同じ人物らしいことです。これはなかなか、手のこんだ事件のように思われますよ」
「戦車事件は、新聞でちょっと読みましたが、たいへんな事件ですね。しかし、妹のマリ子が、あのようなおそろしい事件にかかわりあっているとは、僕にはおもわれないのですが――」
「もちろん、マリ子さんにはなんの罪もないのでしょう。マリ子さんと一しょにとびまわっている少年、つまり正太君のにせ者が、いつも先にたってわるいことをしているのにちがいありません。その少年をひっとらえて、あなたと一しょに並べると、これはまたおもしろいだろうとおもいます。じつは、そのことについては、私にもいささか心あたりがあるのです」
「心あたりというと、どんなことでしょう」
「それがねえ――」と帆村探偵は、ちょっと言葉をとめて「いって、いいかわるいか、わからないが、どうもちかごろ怪しい外国人が入ってきて、すきがあれば日本の工場をぶっつぶしたり、軍隊の行動を邪魔したりしようと思っている。ゆだんはならないのです。ことに……」
 といっているとき、扉があいて、帆村の助手の大辻がつかつかとはいってきた。
「先生、いまラジオが臨時ニュースを放送しています。横須賀《よこすか》のちかくにある火薬庫が大爆発したそうです」


   爆発現場《ばくはつげんじょう》


 火薬庫が大爆発をしたというしらせだ。帆村探偵は、椅子からたちあがった。
「正太君。いまおききになったように、火薬庫が爆発したそうですが、私はすこし心あたりがあるから、これからすぐそっちへいってみます。君も一しょについてきませんか」
 帆村探偵にいわれ、正太ももちろん尻ごみをするような弱虫ではなかった。
「ええ、僕はどこへでもついてゆきますよ。ですけれどねえ、探偵さん、マリ子を何時とりかえしてくれますか」
「さあ、それはまだはっきりうけあいかねるが、私の考えでは、この火薬庫の爆発事件も、なにか君の妹さんと関係があるような気がしますよ。とにかく爆発現場へいってみれば、わかることです」
「じゃあ、これからすぐいきましょう」
「よろしい。おい大辻、三人ですぐでかけるが、用意はいいか」
「はい、用意はできています。そんなことだろうと思って、私は車を玄関につけておくように命じておきました」
 帆村と正太と大辻の三人は、玄関に出た。自動車はちゃんとそこに待っていた。大辻が運転をした。三人はとぶように京浜国道をとばして現場へ急行した。一時間も走ったころ、山かげを廻った。すると運転台の大辻が、
「ああ先生、あそこですよ。たいへんな煙がでています」
 と、前をゆびさした。なるほど、まっ黒な煙が、もうもうとふきだしている。
「そうだ。あそこにちがいない。おい大辻、全速力ですっとばせ!」
 帆村探偵の命令で、なお全速力で、現場に近づくにしたがって、爆発のため破壊された家や塀《へい》の惨状《さんじょう》が、三人の目をおどろかせた。現場ちかくで頤紐《あごひも》かけた警官隊に停車を命ぜられた。
「おいおい、ここから中へはいってはいけない」
 三人は車をおりた。帆村が口をきくと、非常線を通してくれた。三人は、地上に大蛇《だいじゃ》のようにはっている水道のホースのうえをとびこえながら、なおも奥の方へすすんだ。
「おい、そっちいっちゃ、あぶない。そっちには、まだ爆発していない火薬庫があるんだ」
 そういって一人の警部が、帆村たちにこえをかけたが、急に気がついたという風に、
「おう、帆村君か。君もやってきたのか」
 と、帆村に話しかけた。帆村がその方を見ると、それは彼と親しい警部だった。
「やあ、河原警部さんじゃありませんか。どうもご苦労さまです。一体どうして爆発がおこったんですか」
「そのことだよ」と河原警部は首をかしげて「どうも原因がわからなくて困っているのだ。君もなにか気がついたら、参考にきかせてくれたまえ」
 帆村探偵はたのもしげにうなずくと、すぐさま一つたずねた。
「爆発の前に、少年と少女が現場附近をうろついていたというようなしらせはありませんか」
「少年と少女とがうろついていなかったかというのかね。はてな、そういえば誰かがそんなことをいっていたよ。その少年と少女とが、どうかしたのかね」
「その少年が、どうも怪しいんですよ。あれはただの人間じゃありませんよ」
「えっ、人間じゃない」河原警部はふしぎそうな顔をして、
「人間じゃなければ、何だというのかね。まさか化物《ばけもの》だというのではないだろうね」
 帆村探偵は、なんとこたえたろうか。


   人造人間《じんぞうにんげん》か、人間か


「警部さん、あの怪少年は、一種の化物ですよ」
 帆村探偵は、大まじめでいった。
「化物の一種だとすると、狸かね狐かね。はははは、そんなばかばかしいことが……」
「警部さん。その怪少年というのは、ここにいる私の連《つ》れの正太君そっくりの身体、そしてそっくりの顔をしているのですよ」
「なんだ、この少年と似ているのか。ふーん、じゃ、あの化け物もかわいい少年なんだね」
「そうです。似ているというよりも、双生児《ふたご》のように、いやそれよりも写真のようにといった方がいいでしょうが、この正太君そっくりなんです」
「なんだ双生児《ふたご》なのか」
「いや、双生児のようによく似ているというはなしです。それがたいへんおかしい。だから私は、こう考えているのです。あの怪少年は、人造人間にちがいない」
「えっ、人造人間? はははは、君はますますへんなことをいうね」
「いやじつは、さっき正太君から聞いた話で思いあたったのですが、あの怪少年こそ、ウラジオの人造人間研究家のイワノフ博士がこしらえた人造人間エフ氏じゃないかと思うのです。これはこれからのち、よくしらべてみないとわかりませんけれど」
「人造人間エフ氏!」
「いよいよこれはなんだかわからなくなった」
 そういっているとき、さっきから二人の傍《そば》に立って爆発現場《ばくはつげんじょう》を見まわしていた正太少年は、いきなり大きなこえをはりあげ、
「あっ、あそこに大木老人がいる。僕ちょっといって、大木老人にあってきます」
 それをきいた帆村は、正太の指さしている方を見た。なるほど髭《ひげ》だらけの眼鏡をかけた老人が、なんの用事があってか、壊《こわ》れた火薬庫のあとをうろついている。
「ちょっとお待ち、正太君。あの老人にあうのは、ちょっと待って下さい」
「なぜ大木老人にあってはいけないのですか。あの老人は、僕にもマリ子にもたいへん親切だったんですよ、さっき、僕が帆村さんにくわしくお話したでしょう」
「それはわかっています。それだから、ちょっと待ってくださいと、とめたんです」といって帆村は正太の顔をじっと見て、
「ねえ正太君。私はあの老人を一番あやしいと睨《にら》んでいたのですよ。なんだってあの老人は、怪少年があらわれると、いつでもかならずそのあとに姿をあらわすのでしょうか」
「僕、大木老人はいい人だと思うがなあ。船の中でも、僕のことをたいへんかばってくれましたよ。あのとき僕は、もうすこしで船の中の牢屋《ろうや》にいれられるところだったんです。そのとき大木老人がきてくれて、僕が無罪だということをさかんにいってくれたんです。だから僕は、牢にも入らないで、船の中をずっと自由に歩きまわることができたくらいなんですよ」
「それがどうもあやしい」
「あれ、どうしてです。僕を助けてくれた人があやしいとは、わけがわかりませんよ」
「いや、いまによく分るでしょう。私には、大木老人となのるあの怪人物が、なにをもくろんでいたか、分るような気がするのです。正太君、いま僕のいった言葉を忘れないように」
「どうもへんだあ」
 正太は、帆村探偵のいったことが、なかなかのみこめなかった。探偵は、大木老人を何者だと考えているのだろうか。


   裏山の怪


 帆村探偵は、大木老人のあとを、どこまでもついていってみるといいだした。正太はそれをきいて、むだなことだと思った。それよりも、人造人間エフ氏かもしれないというその怪少年をおいかけた方がいいと思い、帆村にはなすと、探偵は、
「とにかく私は、大木老人をおいかけます。君は私についてきますか、ついてくるのがいやなら、私ひとりでいきます」
「僕は、マリ子の方をさがしたいのです」
「そうですか。よくわかりました。では、正太君には、私の助手の大辻をつけてあげましょう。大辻はなかなか力があるから、きっと君の役に立つでしょう」
 そういって帆村は、大辻を正太の方につけ、そそくさと出かけてしまった。探偵は、なにか心の中に、はっきり考えていることがあるらしかった。
「さあ、坊っちゃん。先生のいいつけで、わしは坊っちゃんのお伴をすることになりましたが、これから何をしますかね」
 大辻は、仁王さまのように大きな男、太い腕を胸にくんで、正太を見おろす。
「じゃあ大辻さん。僕が探偵長になるから、大辻さんは僕の助手というようにしてこれから妹と怪少年のあとをおいかけようや」
「なに、わしは助手か。ああなさけない。わしはいつまでたっても万年助手《まんねんじょしゅ》だ」
「じゃあ、いやだというの」
「いやじゃない。いやだなどといったら、あとで先生から、叱《しか》られるよ」
「ついてくるのなら、それでもいいが、大辻さんは、あまり役に立たない探偵なんだろう」
「じょ、じょうだんいっちゃこまるよ。先生もさっきいったじゃないか。力にかけては、双葉山でも大辻にはかなわないとね」
「あんなことをいってらあ。やっぱり双葉山の方がつよいにきまっているよ」
「子供のくせに、なまいきなことをいうな。出かけるものなら、さっさと出かけようぜ」
 正太は、探偵長になったつもりで、さっそく河原警部にはなしをし、さっき少年と少女を見たという警官にひきあわせてもらった。
「ええ、私がたしかに見つけました。二人は裏山の方へはいっていったようですがね」
 警官がそういったので、二人は、すぐさま裏山へわけいった。道はだいたい一本筋だった。二人は一生けんめいに、山道を走った。
 あっ、あそこにいる。正太が目ざとく、怪少年と妹の姿を見つけた。下り坂のところを、怪少年がマリ子をひきずるようにして下ってゆく。
「ああ、なるほど、あれか」と大辻は汗をふきながら、
「けしからん怪少年だ。お前さんの妹さんは、へたばりそうじゃないか」
「大辻さん。一二三で、おいかけようや」
「うむ。お前さんはそうしなさい。わしは、この草むらの中を通って、先まわりをしよう。ちょうど、あの曲り道の向こうあたりで、両方からはさみうちだ」
「よし、じゃあ元気でやろうね」
「いよいよわしの大力《たいりき》をお前さんに見てもらうときがきた」
 大辻は、そういうよりはやく、大きなからだを躍らせて、草むらの中にとびこんだが、草むらにはとげのある野ばらが匐《は》いまわっていて、大辻は思うように前へすすめない。
「あいた。ああっ、あいた。どうもこのとげが邪魔をしやがる。野ばらめ、消えてなくなれ!」
 と、ひとりで文句をいっている。そのうちに時間はたつ、大辻は死にものぐるいで、洋服のズボンをとげでさきながら、突進した。やっと道に出たときには、大辻の手も足も、野ばらのとげでひきさき、血だらけになっていた。見ると、目の前に、少女の手をとった少年がいた。
「こいつだな。おい待て、人造人間の化けた怪少年め!」
 とおどりかかろうとすれば、相手は、
「はやまっちゃいけない、大辻さん。僕だよ、正太だよ」
「えっ、正太君か」
「そうだ、いま僕が人造人間をたおして、妹をとりかえしたんだ」
「そうか。そいつはでかした。わしはまた、人造人間め、うまく化けたなと思ったよ。ははは、もすこしで君をなぐり殺すところだった」
 と、大辻が笑いだしたとたんに、少年は、拳《こぶし》で大辻の横腹をどんとついた。
「あっ、うむ。き、貴様は……」大辻は、無念そうに歯をばりばりかみあわせたが、少年の拳につかれた横腹のいたみにたえられなくなって、ばったりその場にたおれ、そのまま気を失ってしまった。けけけけ――というようなこえで、正太とばかり思っていた少年は、笑った。マリ子は笑いもせず泣きもせず、人形のようにつったっている。
 これでみると、大辻が正太だと思ったこの少年は正太ではなく、やはり例の人造人間が化けた怪少年だったのだ。正太はどこへいったのだろうか。


   追跡急!


 助手探偵の大辻は、しばらく気をうしなって、山道にころがっていた。そのうちに、なんだか自分の名前をよばれるような気がして、はっとわれにかえった。
「おやおや、わしはこんなところにねころがって、一体なにをやっていたのかしらん」
 と、起きあがりかけたが、急に顔をしかめ、横腹をおさえてその場に尻もちをついた。
「おい、大辻さん。どうしたのさ」
 そういうこえに、大辻は顔をあげると、そこには正太少年が立っていた。
 それを見ると、大辻はびっくり仰天《ぎょうてん》して、あっと叫ぶなり、その場に一メートルほどもとびあがったと思うと、妙な腰つきをして山道を匐《は》うように逃げだした。
「おーい大辻さん。お待ちったら」
 正太が追いかけると、大辻はますますおそろしげに顔色をかえ、
「うわーっ、人殺しだあ。誰か助けてくれ! うわーっ、人殺しだーい」
 と、まことにみっともない騒ぎ方であった。正太には、なぜ急に大辻が自分を見て騒ぎたてるのかよくわからなかった。もしや気が変になったのではないかとうたがったくらいであった。正太は足が早いから、妙な腰つきで山道を匐うように逃げる大辻には、すぐに追いついた。そこで正太は、やっと懸けごえをして、大辻の背中にとびついた。
「大辻さん、なぜ僕を見て逃げるんだい」
「あっ、人殺しだあ。人造人間がわしの背中に噛みついた! わしはエフ氏にくい殺される!」
 大辻は、もう夢中になってわめきちらし、背中のうえの正太をふり落そうと、そこら中に土ほこりを立ててうしのようにあばれるのであった。“人造人間がわしの背中に噛みついた?”――という言葉が正太の耳に入ると、少年はようやく大辻のひとりで騒ぎたてているわけがわかったような気がした。大辻は正太のことを人造人間エフ氏とまちがえているのであった。無理もないことだ。さっき大辻は、目の前にあらわれた少年を正太だと思いこんで安心していたばかりに、人造人間エフ氏の拳骨《げんこつ》をくらって目をまわしたのであるから正太の顔をみて、またもや人造人間エフ氏があらわれたと思ったのであろう。
「大辻さん、しっかりしておくれよ。僕は、ほんとの正太だよ」
「いや、もうその手には、誰がのるものか。人殺し!」
「ほんとに正太だというのに、それがわからないのかなあ。大辻さんは、人造人間エフ氏にどうかされたらしいね」
「どうかされたところじゃない。もう一つやられると、この世のわかれになって死んでしまうところだったよ。ほんとにお前さんは、正太君かね」
「いやだなあ。よく見ておくれよ。人造人間じゃない、ほんとの正太だよ」
「いやいや、さっきのエフ氏も、そのようになれなれしい言葉をつかいやがった。そしてこっちの油断をみすまして、ぽかりときやがるんだ。わしはなかなかほんとの正太君だとは信じないよ。それとも、ほんとの正太君だという証拠があるなら、ここへ出してみるがいい」
「なに、人造人間ではなく、ほんとの正太だという証拠を出すんだって?」これには正太も弱った形だった。
「なにかないかなあ」正太は腕組をして考えていたが、やがてはたと手をうった。
「あっ、そうだ。大辻さん、これを見ておくれ!」
「なにっ? おお、なるほどお前さんは人造人間じゃない」
 と大辻は、大安心の顔で叫んだ。どうもふしぎだ。一体、正太は何を大辻に見せたのであろうか?


   かわいそうなマリ子


「あはははは」「わっはっはっはっ」
 正太と大辻とは、しばらくはおかしさに腹をかかえて、笑いがとまらなかった。
「どうだい。大辻さん。よくわかる証拠を見せてやったろう」
「うむ、よく分った。むし歯のある人造人間なんて聞いたことがないからね。お前さんのむし歯も、ふだんは困ったものだが、こういうときにはたいへん役に立つよ。わっはっはっ」
 大辻は、また大きなこえをたてて笑いだした。
 これで分った。正太は、自分の口をあけて、大辻にむし歯を見せたのであった。人造人間にむし歯があるはずはないから、それで正太がエフ氏でないことが分ったのである。
「それはいいが、大辻さんはエフ氏を逃がしてしまったらしいね」
「そうなんだ、ちときまりが悪いがね」
「どっちへ逃げたんだろう。エフ氏はマリ子をつれていたかい」
「いいや、マリ子さんは見えなかった」
「じゃマリ子をどうしたんだろう」
「なにしろ、エフ氏というやつは、足も早いし、力もたいへんつよい。じつに強敵だ」
「ははあ大辻さんは、エフ氏がおそろしくなったんだね」
「いや、おそれてはいない。ただ、あの怪物は、よくよく手におえない奴だということさ」
 そういっている間にも、正太は山道のうえをしきりにきょろきょろ見まわしていたが、このとき大きなこえで叫んだ。
「うむ、マリ子もやっぱり人造人間エフ氏につれられていったのだ。そして二人はこっちの方向へ逃げていった」
「えっ、正太君。どうしてそんなことがわかる」
「だって、ここをごらんよ。マリ子の足あとと、人造人間の足あとがついているじゃないか」
 と、地面を指した。なるほど、二つの足あとがある。マリ子の足あとは、まるで宙をとんでいるように乱れていた。それにくらべて、エフ氏の足あとは地面にしっかりあとをつけていた。
「ほほう、お前さんはなかなか名探偵だわい」
 大辻は目をまるくして、正太の顔を見なおした。だが、正太はしずんでいた。
「マリ子は、エフ氏のためずいぶんむりむたいに引張られているらしい。このままではマリ子は病気になって死んでしまうにちがいない。今のうちにマリ子をたすけないと、手おくれになるかもしれない」
 正太は、誰にいうともなく、しずんだこえでそういった。そうだ、正太のいうとおりである。人間ではない機械に、ぐんぐん引張られてゆくかよわいマリ子は、たしかに病気になって死ぬよりほかに道がなかろう。帆村探偵も、それを知らぬではあるまいのに、マリ子の方を追いかけないで、大木老人の方を追っていくとはなんという見当ちがいなことであろう。正太の胸の中には、しばらくわすれていた心配がまたどっと泉のようにわいてきた。
「大辻さん。ぐずぐずしていると、間にあわないかもしれない。さあ、すぐ行こうぜ」
「行こうって、どこへ」
「わかっているじゃないか、人造人間エフ氏の手からマリ子を奪いかえすんだよ。今日中にそれをやらないと、かわいそうにマリ子は死んじまうんだ」
「ええっ、今から人造人間のあとを追うのかね。やがて山の中で日が暮れてしまうがなあ」
「ずいぶん弱虫だなあ、大辻さんは。僕の何倍も大きなからだをしているくせに、そんな弱音《よわね》をはいて、それでよくも、はずかしくないねえ」
「じょ、冗談いっちゃいけない。わしは山の中でやがて日が暮れるだろうと、あたり前のことをいったまでなんだ。からだが大きければ力も強い。人造人間をおそれたりするような弱虫とは、だいたいからだの出来具合からしてちがうんだ」
 大辻は、へんなことをいって、しきりに強がってみせた。
「よし、それならいい。さあ、この足あとについて、どんどん追いかけていこうよ」
「ああ、それもわるくないだろう。が、どうも今日はだいぶん疲れたね。第一腹が減って、目がまわりそうだ」
「あれっ、強いといばった人が、もはやそんなに弱音をふくんじゃ、やっぱり弱虫の方だね。いいよ、大辻さんはここにおいでよ。僕一人でたくさんだ。一人で行くからいいよ」
 正太は、ひとりでどんどん走りだした。
 これを見た大辻は、大あわてで、そのあとから不恰好《ぶかっこう》な巨体をゆるがせて、正太についてくる。正太は一生けんめいだ。ものもいわないで、ひたすら人造人間エフ氏とマリ子の足跡とをつたって、いよいよ山ふかく入ってゆく。
 いつしか太陽の光は木々の梢《こずえ》によってさえぎられ、夕方のようにうすぐらくなってきた。山の冷気がひんやりとはだえに迫る。名もしれない怪鳥《かいちょう》のこえ!


   巌《いわお》にちる血痕《けっこん》


「そんなにのぼっていって、それでいいのかね。横合《よこあい》から人造人間がわーっと飛びだしたらどうするのかね」
 大辻は、あいかわらず、びくびくもので正太の後からのぼってゆく。正太は一生けんめいだ。
「あっ、釦《ボタン》がおちている。うむ、これはマリ子の服についていたのが、ちぎれて落ちたんだ。ちくちょう、エフ氏はマリ子をいじめているんだな」
 そう叫んで、正太はまた足をはやめて山道をのぼりだす。
「おい、待ってくれ。わしをひとりおいていっちゃいけないじゃないか。おいおい、わしゃ、こんなさびしい山の中はきらいじゃよ」
 正太は、それに耳をかさず、どんどんと山をのぼっていく。妹をすくいだしたい一心だ。
 大辻もたのみにならなければ、大木老人などを追いかけている帆村探偵も、さらに役に立たない。そのうちに、見上げるような大きな巌《いわお》が正太の行手をふさいだ。
「あっ、大きな巌だなあ」人造人間エフ氏の足あとは、その巌の前で消えてしまっている。側の道は右へ曲っているが、ここには人造人間の足あとはなかった。
「へんだなあ」見上げると、人間の背丈の四五倍もあるような大岩石《だいがんせき》だった。人造人間はこの巌のなかに入ったらしく思えるが、こんなかたい岩のなかにどうして入れようぞ。
「どうもふしぎだ」正太は、巌のまわりを見まわした。そこには雑草がしげっている。まさかと思ったが、もしや人造人間がこの雑草づたいに巌のうしろへまわったのではないかと思い、草を踏んで巌の横手へまわった。すると、彼は、たいへんなものを発見した。
「あっ、誰か倒れている」
 背広服を着た男が、うつむけになって倒れていた。誰かしらと思って、正太は傍《そば》へかけより、倒れている男の肩に手をかけようとして、はっと胸をつかれた。
「血だ、血だ! 死んでいる?」
 洋服のズボンが血にそまっている。よく見ると、草までも、血によごれているではないか。
 正太は、うしろをふりかえったが、そこにはまだ大辻の姿も見えない。やむをえず正太は、すこしおそろしかったけれど、倒れている男のうしろに手をまわして抱きおこした。男のからだには、まだ温味《あたたかみ》があった。正太が彼のからだをうごかすと、その男はかすかに呻《うな》った。
 正太は思わずその男の顔をのぞきこんだ。そしてのけぞるくらいにおどろいた。
「あっ、これはたいへん。帆村探偵、どうしたんです!」
 意外とも意外、人造人間の足あとが消えた巌の横にまるで死んだようになって横たわっていたのは、帆村探偵だったのである。彼は、大木老人のあとをつけて行ったはずであるのに、こんなところに倒れているとは、一体どうしたことであろうか。
「帆村さん、しっかりしてください」
 正太は、あたりを警戒して、こえを忍《しの》ばせながら耳もとに口をつけて、帆村の名をよんだ。
「ううーっ、あっくるしい」帆村はやがて気がついた。
「おや、正太君か」
「ええ、そうです」
「うむ、本物の正太君じゃないか。こんな危いところへどうしてきたのか」
 帆村は名探偵といわれるだけあって、正太が本物の正太であることをすぐ見破った。
「僕たちは人造人間の足あとを追いかけて、ここまでやってきたんです。帆村さん、ここは危いところなのですか」
「そうだ。あまり大きいこえを出してはいけない」と油断なくあたりを見まわして「僕は、この巌《いわお》のうえで、もうすこしで大木老人にピストルで射殺されるところだったよ。あの巌のうえから落ちて、ふしぎに一命を助かったのだ」
「えっ、大木老人もここへやってきたんですか」
「そうだとも。どうやらここは、人造人間エフ氏やイワノフ博士の秘密の隠《かく》れ家《が》らしい」
「えっ、イワノフ博士ですって」
「正太君、僕はあの大木老人が実はイワノフ博士の変装だということをつきとめたよ」
「ええっ、大木老人がイワノフ博士だったのですか。あの、大木老人が……」


   イワノフが現れた


 正太少年と帆村探偵とが、イワノフ博士の秘密のかくれ家といわれる巌のまえで、話をしている最中、かたわらの草をがさがさいわせて出てきたのは大木老人だった。
「うぬ、探偵め、まだ死にそこなって、そこにいたか」
「ああ、大木老人!」
「おや、正太もそこにいたか。これはちょうどいいあんばいだ。二人とも一しょに片づけてしまおう。ここは山の中だ。助けをよんでも、誰も来ないところだぞ」
 大木老人は、手にした大型のピストルを二人の方にむけ、にくにくしげにあざ笑った。
「大木さん。なぜ僕をうつのですか。あなたは、船の中で、僕をかばってくれたのに」
「ふふ、ふふ、なにをいっているか、この小僧め。あのときは、お前に味方したとみせたが、じつはこっちの都合でそうしたのじゃ、あのときお前を縛っておくと、船がついたとき人造人間エフ氏をお前に仕立ててわしがつれてでようと思っても、できないじゃないか。まだわからんか。あたまのわるい子供じゃ。人造人間エフ氏をお前に仕立てて、船を出ようとしても、そのまえにお前を縛ってあれば、わしのつれているのが本物の正太ではないということがすぐわかってしまうじゃないか」
「ああ、なるほど、そうか。僕のかえ玉をつかうために、僕をわざと助けておいたんだな。そうとはしらず、今の今まで、大木さんをありがたい人だと思っていた僕は、ばかだった」
「ふふふふ、今ごろ気がついたか。もうおそいわい。わしがイワノフ博士としられたからには、もう帆村も正太も、ゆるしておけない。二人とも、いよいよ殺されるかくごを、きめたがいいぞ!」
 大木老人に変装しているイワノフ博士は、いよいよ悪人の本性をあらわして、すごいおどし文句を二人のまえにならべた。帆村は、崖《がけ》からおちたときの傷がいたむらしく、歯をくいしばって、じっとこらえていた。
 一体イワノフ博士は、なぜ人造人間エフ氏をつれて、日本へわたったのであろうか。たしかに彼は悪人にちがいないが、一体日本へきてなにをするつもりなのであろうか。そのへんのことは、まだ一向はっきりわかっていない。もちろんこれまでに、展覧会場にならべてあったソ連から分捕った戦車をどろどろにとかして形が分らないようにしたり、それからまた今日は、火薬庫を爆破させたのもこの二人のやったことだとおもわれるが、二人がやりとげようということは、よもやそれだけでおわるものとは考えられない。おもえばおそろしいイワノフ博士と人造人間エフ氏ではある。
 しかもこのおそるべき二人が、日本へもぐりこんでいることを知っている者は、あまりたくさんないのである。それを知っているのは、まず帆村と正太ぐらいのところではないか。その帆村と正太とが、今イワノフ博士につかまって殺されようとしているのだ。二人の一大事であるとともに、大きくいえば、わが日本の一大事である。


   おそろしき棲家《すみか》


 イワノフ博士は、大型のピストルをかまえ、帆村と正太とを今にも撃ち殺しそうないきおいであった。
「さあ、二人とも、こっちへはいれ。ずんずん、その穴をおりてゆくんだ。ぐずぐずすると、うしろからピストルの弾丸《たま》をごちそうするぞ」
 イワノフ博士は、ゆだんなく二人の様子をみまもりながら、大岩のうしろにあいている洞穴《ほらあな》のなかにおいこんだ。かぼそい少年正太と、傷ついている帆村とを洞穴においこむことぐらいなにほどのことでもなかった。
 そこがイワノフ博士の隠《かく》れ家《が》なのである。大岩をたくみにくりぬいてつくってある洞穴は、見るからに身の毛のよだつほど、すさまじい光景を呈している。洞穴内には、バクテリア灯らしいふしぎな青色の光をはなつ灯火《ともしび》がついている。奥へいくと、なかなかひろく、三畳ぐらいの大きさの部屋が二つも三つもつづいている。よくまあこんな部屋があったものだ、――と思うが、じつはそんな部屋がはじめからあったわけではなく、イワノフ博士が人造人間エフ氏をつかってこれだけの洞穴をつくらせたのであるから、さらにおどろかされる。人造人間エフ氏は機械人間であるから、たいへんな力が出るのであった。どんな風にして、洞穴をつくるか、読者諸君はすでに、人造人間エフ氏が戦車をどろどろにとかしたことをおぼえているだろう。あの調子なのである。いや、いかに人造人間が、ばか力をもっているかということは、やがて親しく読者諸君の目の前にあらわれる日が来るであろう。その大事件のことは、いずれ先へいって、くわしく申しのべるつもりだ。
「さあ、こっちへはいっておれ。どんなことをしてもにげられないぞ。もしもにげだす様子がみえると、そのときはすぐに人造人間エフ氏をさしむけて、二人の息《いき》の根《ね》をとめてやるぞ。前もって、いっておくぞ」
 イワノフ博士は、いいたいことをいっていばっている、そのにくらしさ。でも、ざんねんながら、どうすることもできない帆村と正太とは、命じられるままに、奥まったところにある深い井戸のような石牢《いしろう》の中につきおとされてしまった。正太も帆村も、とびこんだとたんに腰骨《こしぼね》をいやというほどうち、石牢の底で、死んだようになってぐったりところがっているばかり、ものをいう元気さえなかった。
 イワノフ博士は、すっかり安心してしまった。もうこれで、邪魔者《じゃまもの》はおっぱらったから、いよいよ日本へやってきた大仕事にかかろうとおもい、人造人間エフ氏を前にしてはかりごとを考えはじめた。
「さあ、いよいよとりかかるとしようか。どこからどういう風にやったものだろう」
 イワノフ博士は、大きな日本の地図をひろげて、しきりに考えこんでいる様子だ。そのうちに博士は、大きく首を左右にふって、ふーっとため息をついた。
「どうもわし一人きりでは、はかりごとをつくるにしても、相談相手がなくて、どうも勝手がわるい。どうしたものかしらん」といって、博士は、こまった顔でたばこに火をつけ、しずかにけむりをくゆらせていたが、やがて膝をうって、「そうだ、いいことがある。人造人間エフ氏をよんで、話相手をさせよう。まねごとだけなんだから、エフ氏でもまにあうだろう」
 博士は、たちあがった。そして壁のところへいった。博士はそこにかかっている剣道の胴当《どうあて》のようなものをおろし、元の椅子へかえってきた。これは一体なんであろうか。やはり剣道の胴当のように、たてに細い竹のきれのようなものが、胴の形に、やや円味《まるみ》をもってならんでいたが、これは竹ではなくて、或るめずらしい材料でつくったものだ。そのうえに、数えられないくらいたくさんのボタンが並んでいた。博士は、それを膝のうえにのせ、そのボタンの一つを指さきでおした。すると、そのしずかな洞穴のなかのどこかで、急にごとんごとんと重いものがうごく音がした。なんであろうか、その物音は?


   エフ氏の怪


 博士の目は部屋の隅にうつった。
 そのとき、ぱたんと音がして、部屋の隅っこに、一つのまるい穴があいた。ごとんごとんの音は、その下からきこえてくる。――と、おもう間もなく、ぽーんといきおいよく穴から跳《は》ねあがってきたのは、正太少年であった。彼は一ぺん下にあたって、ゴム毬《まり》のようにはねあがったが、やがて足がふたたび下につくと、のそりのそりと博士の前にやってきた。正太少年が、なぜこんなところへとびだしてきたのであろうか、いや、正太少年でないことはたしかである。
「おお、人造人間エフ氏。話があるんだ。ちょっとこっちへおいで」
 人造人間エフ氏をむかえて、イワノフ博士は、人間とおなじにあつかった。
「なにかご用ですか」と、エフ氏はいった。
「うむ、わしが作った人造人間じゃが、われながらうまくできたものじゃ。こっちのいった言葉に応じて、ちゃんと返事をするんだから、大したもんだよ」
 博士は、うれしそうに、しげしげと人造人間をみて、
「まあ、そこへおかけ。そうだそうだ、そのとおりだ。――ところでエフ氏よ、いよいよかねての計画をここではじめようとおもうが、君の考えはどうかな」
「いいでしょう。ぜひはやくおはじめなさい」
「うまいうまい、その調子で、もっとたのむぞ。――ところで、それをやる前に、日本中の人間をふるえあがらしておきたいとおもうのだ。それには、ラジオでおどかすのが一番いいとおもう。どうだ、お前一つ臨時放送局となって、日本国民をびっくりさせるような放送をやってみる気はないか」
「いや、僕はバナナよりも林檎《りんご》の方がすきです」
「おかしいぞ、へんなことをいいだしたな。どうもこっちへきてから人造人間をつかいすぎたせいか、ときどき故障がおこるのには閉口《へいこう》じゃ。どれ、ちょっとしらべてやろう」
 イワノフ博士は、人造人間エフ氏のそばへより、いきなりエフ氏の右の耳に手をかけると、ぐっと下にひいた。すると、なぜかエフ氏は、ラジオ体操をやるときのように、両足を左右へひらき、両手を水平にぱっとのばした。そして両眼《りょうがん》を閉じた。それは人造人間エフ氏をうごかす電気のスイッチを切ったのである。エフ氏の耳がスイッチだったのである。
 博士は、エフ氏のそばによって、エフ氏が着ている正太君とおなじ洋服のボタンをはずして、腹をあけた。それから一つの鍵を出して、エフ氏の臍《へそ》の穴につきこみ、これをぐっとまわしてひっぱると、腹の皮がまるで扉のように手前へひらいて、腹の中がまる見えとなった。
 ――といっても、腹からは血がながれてくるわけでもなく、腸《ちょう》がとびだしてくるわけでもなく、腹の中には、ぎっしりとこまかい器械が、すきまなく、つまっていた。
 イワノフ博士は、そのとき妙な眼鏡をかけると、ペンチとネジまわしをもって、人造人間の腹の中をしきりにいじりはじめた。
「ふん、どうもよくわからない。はやく直しておかないと、あとでこまるんだが……」
 といっているうちに、「あっ、この歯車がこんなに折れている。歯車の歯がぼろぼろにかけている。なぜこんなことになったんだろうか」
 博士は、ふーんと呻《うな》った。


   大辻の冒険


 ここにしばらく忘れられた一人の人物がある。それは誰だったろうか? それは外でもない。足が痛いとか、腰がだるいとかいって、ふうふう息をつきながら、だんだん遅れてしまう大辻助手だった。
 彼は一体どうしたのであろうか。
 大辻助手は、胆《きも》がつぶれるほどのたいへんな場面をみた。それは、自分の主人の帆村探偵と正太少年とが、イワノフ博士のために岩かげにおいこまれるところだった。(これは一大事。うぬ、先生たちを捕虜《ほりょ》にされてたまるものかい)と、すぐにその場にとびだそうとしたが、待てしばし、このまま出ていっては、あの怪老人にあべこべにやっつけられるので、とびだしたい心をしいておさえつけ、しばらく様子をうかがっていた。そのうちに、大岩のまわりはしんかんとして、なに一つ物音がしなくなったので、
「しめた。これでみると、あのイワノフめは、まだおれさまという強い人間がいるということを知らないな。よし、そんなら、こっちもそのつもりで、うまくやってやるぞ」
 大辻は、この一大危難《いちだいきなん》におちいって、かえってにわかに勇気りんりんとふるいたった。
 彼はそれから、注意ぶかく巌のまわりをみてまわった。その彼は、やがて草むらのなかに、一つのまるい金網《かなあみ》をみつけた。金網の下はまっくらでよくわからないけれども、穴があいていて、かなり下の方まで通じている様子であった。
「これは一体なんだろう?」大辻は金網のうえに手をつけて、じっと身体をうごかさないでいた。すると、どこからともなく、しくしくという泣き声がきこえるのであった。
「あれっ、誰か泣いているぞ!」
 大辻はびっくりして顔をあげた。たしかにその泣き声は、地面の下から聞えてくる。
「はて、あれは正太君の泣き声かな、それとも先生が泣いているのかな。まさか先生ともあろうものが泣くとは考えられないけれど、いやそうではないかもしれない。先生でも、いよいよもうだめだというときには子供のようにわんわん泣くのかもしれない。よし、おれが助けてやろう」
 大辻は、金網に手をかけて、ひっぱった。金網はすぽんとひらいた。中をのぞくと、そこははたして、深い穴で、彼の身体がやっとはいれるぐらいの太さはある。
「よし、こうなったら、はいっていくぞ」
 大辻は大決心をかためて、足の方から穴の中へいれた。が、足は下までとどかない。そのうちに、つかまっていた草の根が、ごそりとぬけたので、あっという間に、彼の身体はすーっと下へおちだした。そしてやがてどしんという音とともに、穴の底に尻餅《しりもち》をついたが、そのとき何者か、きゃっといってとびのいたものがある。


   大手柄《おおてがら》


 大辻助手は、どんなにおどろいたか、しれなかった。なにしろ、高いところから、どすんとおちて、いやというほど腰をうった。さあ、すぐ起きあがろうとおもっても、腰ははげしくいたむばかりで力というものが、まるっきりはいらない。そばでは何者かが、きゃーっと、へんなこえを出してとびのいた。気味がわるいったらない。が、こっちはうごくことができない。
 大辻助手は、唸《うな》りたいのを、こえをだしてはたいへんと、口の中にのみこんで、一生けんめい観音《かんのん》さまを心の中で拝《おが》んだ。すると、しばらくたって、
「ひーい」と、一こえ、泣きごえがきこえる。それはたいへん細いこえだった。
「うむ、ゆ、幽霊だ!」
 とうとう大辻助手は、たまらなくなって、おどろきのこえをたてた。からだは大きいが胆玉《きもったま》の方は、それほど大きくないのがこの大辻助手だ。
「ええっ、幽霊。あれーえ」
 つづいて、かん高いこえで叫んだ者がある。それは大辻ではなかった。女の子のこえだった。大辻は二度びっくり!
 だが、はっきり女の子のこえとわかって、彼はややおちついた。さっきから、まっくらな、このしめっぽい空井戸《からいど》の底みたいな中で、きゃあきゃあいっていたのは、この女の子だったんだ。とたんに、大辻の頭の中に、一つの考えがぴーんとひらめいた。
 そこで彼は低い声で叫んだ。
「もしもし、あなたはマリ子さんじゃありませんか」
「えっ」相手は、おどろきのこえをだした。
「マリ子さんでしょう。わしは探偵じゃ、名探偵長の大辻という者です。えへん。正太君からたのまれて、ここまでマリ子さんをさがしにきたのです」
「それは本当ですか、あたし、マリ子よ」
「やっぱりそうだった。名探偵長がここへ来たからには、マリ子さん、安心をなさい」
「まあ、あたし、本当に助かるのかしら。あたしまた夢をみているのじゃないかしら」
 そうであろう。これが本当にマリ子であれば、そう思うのもむりではない。ウラル丸の中でイワノフ博士にかどわかされ、それから兄の正太とおなじ顔かたちをした人造人間エフ氏にひきずられるようにしてずいぶん苦しい目、かなしい目にあって苦しんできたのだ。死んだ方がましだと、なんべん思ったかしれない。しかしなんとかして生きていて、病気で寝ていると同じお母さまに、一度でもいいから会いたい。それまでは、どんなことがあっても倒れまいと、よわい少女の身をまもって、こらえてきたのであった。
「もう大丈夫。わしが――この名探偵長大辻がついている以上、何が来たってもう大丈夫だ。マリ子さん、どうぞ大船《おおぶね》にのった気で安心なさい」
 大辻は、マリ子に元気をつけようとおもい、名探偵長になりすまして、さかんにいばってみせるのだった。大辻は、たいへんお手柄をたてたわけである。が、そのお手柄のはじまりというのは、(あっ、幽霊だ!)と、本気でがたがたふるえたことにあるのだ。臆病のお手柄なんだから、あまりいばれたものではない。帆村探偵がきいたら、笑うだろう。
 マリ子は、大辻のことばをきいて、たいへん元気づいた。でも、どうしてこんな空井戸みたいなところから、にげだすことができるだろうか。マリ子はそれを心配して、大辻にうったえた。すると大辻は、からからと笑って、
「なあに、そんな心配は無用だ」
「どうして?」
「だって、わしは、この穴の上から、ここへおっこったんだもの。だからこの穴を逆に上にのぼっていけば、必ず外に出られるわけだ。ねえ、そうでしょう」
「そうね。でも、こんな深い縦穴《たてあな》をのぼるなんて、あたしにはそんな力はないのよ」
 と、かなしげにいった。
「なあに、それも心配無用だ。わしは、穴の中へおっこちるのも上手だけれど、上へのぼるのも大得意《おおとくい》なんだよ。なぜって、わしは山国《やまぐに》の生れでね、小さいときから、山のぼりや木のぼりをやっていて、それにかけてはお猿さんより上手なんだからね」
 お猿さんというよりは、ゴリラといった方が似あう大辻助手だった。


   負けない二人


 大辻助手は、物事がうまくいくと、たいへん元気の出る男だった。そのかわり、物事がちょっとけつまずいて、うまくいかないと、とたんにくさるという悪いくせがあった。
「さあ、マリ子さん。わしの背中におんぶするんだ。ぐずぐずしていると、また悪い奴にみつかるからね」
 マリ子は大辻の背中にとびついた。大辻はそこで、バンドを外《はず》して、マリ子を背にくくりつけた。マリ子は、お尻の下のところがバンドにしめつけられてくるしいが、そんなぜいたくなことをいっていられない。マリ子の両手は、大辻の肩をしっかりとおさえる。大辻は、その穴をのぼりはじめた。
 彼は、ポケットから大きな水兵ナイフを出して口にくわえている。両足と両手と、この四つの手足が、穴の壁を押しているが、まるで煙突の中に蟹《かに》が入っているような恰好である。彼は、たくみに手足をかわるがわるうごかし穴の壁を上へのぼっていくのであった。水兵ナイフは、穴の壁に、手足をかける凹《くぼ》みをつくるためたいへん便利であった。
 穴をのぼりきるまでに、丁度三十分かかった。大力を自慢にしている大辻助手も、さすがにこの三十分間のむりな働きに力のありったけを出してしまったものとみえ、穴の外に出ると同時にものもいわずに、草の上にどしんと倒れて了《しま》った。
「大辻さん。しっかりしてよ」
「ふーん」
「はやくにげましょうよ。だれか追いかけてくるとたいへんだから」
「ふーん」
 なにをいっても、しばらくは、ふーん、ふーんと唸《うな》っていた大辻だったが、やがて牛がやるように、むっくり起きあがると、
「ばんざーい。もう、こわい者はいないぞ。さあ、ひきあげよう!」
 マリ子を背中におうと、大辻は、うすぐらい山道を下へ、どんどんと駈《か》けおりていった。
 大辻は、たいへんうれしかったのだ。そして大得意だった。彼は、帆村のことや正太のことを思い出さなければならないのだが、彼はそんなことなしに、どんどん山を下りていった。あまりにうれしすぎたのであった。大得意だったのである。
 麓村《ふもとむら》へ、麓村へ! その間、人造人間エフ氏にも追いかけられないように祈りつつ、大辻助手はどんどんと山を下りていく。
 さてこっちは、イワノフ博士である。人造人間エフ氏の身体をあけて、そこにぎっしりつまっている器械をなおしているうちに、彼はなにか気になる物音をきいた。
「はてな、あれはなんの音だろうか?」
 博士は、どこかでざざあ、どどーんと、岩石がこわれておちる音をきいてたち上った。
「ふむ、あの探偵と小僧とが、脱走をしようとおもって岩穴《いわあな》をくずしているのかもしれない。きっとそれにちがいない。うむ、ひどい目にあわせてくれるぞ」
 博士は、ピストルをもって、室を出ていった。地下道にひびく博士の足音。
 博士は、帆村探偵と正太少年とを放りこんである土牢《つちろう》の前に、そっと近づいた。そして小さい格子窓《こうしまど》のところへよった。かすかな豆電球がともっている土牢であった。博士の目は、そのうすぐらい明りをたよりにして石牢の中をのぞいた。
「あっ、いた――二人とも、あそこに長くなって倒れている。さっきのやつが、よほどきいたとみえるな。これで安心、大安心だ。すると、あのもの音はマリ子を入れてある奥の牢の方かもしれない。そっちを見てこよう」
 そういって博士は、地下道を奥の方へとはいっていった。
 ところが博士が向うへいったとわかると、帆村と正太は、がばとはねおきた。じつは二人とも、わざと倒れている様子をしていたのである。
「さあ、今のうちだ。いよいよ穴があくぞ」
 二人は、蝗《いなご》のように壁にとびついた。そして棒切《ぼうきれ》みたいなもので、暗い壁をつついていたが、どうしたものか、にわかに壁をとおしてさっと一|条《すじ》の光がとびだした。


   意外な出来事


 光だ! 暗い壁から、ぱっとさしこんだ光だ!
 その光は、みるみる大きくなっていった。帆村と正太は、あらそうようにして、この光のそばにくっついて、はなれない。
「ふん、よく見える!」低いこえで帆村がいった。
「見えるの、室内が……」と、これは正太少年だった。壁に穴があいたのだ。壁穴をとおして、となりの室内が見える。
「あっ、あそこに人造人間がいる。正太君、ちょっとここへ来て、中を見たまえ。僕が抱いてあげよう」帆村は正太を、うしろから抱きあげて、穴をとおし室内の様子をみせてやった。
「あっ、あいつだ。僕そっくりの顔をしている。人造人間エフ氏だ」
「正太君、しずかに――」と、帆村は注意をした。
「ねえ正太君。いま見ると、壁の穴から、大してとおくないところに、イワノフ博士が大事にしている人造人間エフ氏を操縦する器械が見える。机のうえに乗っているんだ。あいつを、なんとかして壊《こわ》してしまおうではないか。すると人造人間はきっとうごかなくなってしまうとおもうよ」
「ああ、それはうまい考えですね」
「博士がかえってこないうちに、あれを壊してしまおう。ちょっと横にどいていたまえ」
 探偵帆村は、短い棒を手ににぎると、穴の中に手をさし入れた。穴が小さいので、手を一本入れると、向うを見るのがなかなか厄介《やっかい》である。
 帆村は、あらかじめ見当をつけておいてから、右手をにゅっと出して、ひゅうひゅうと棒をふった。だが棒が短いのか、帆村の腕が短いのか、うまく器械にあたらない。
「もっと長いものはないかしら。よわったな、じゃこうしてみよう」
 と、帆村は、棒をひっこめると、ハンカチーフをべりべりとさいて大急ぎで紐《ひも》をつくり、それを棒のさきにくくりつけた。それから紐の他の端には、ナイフをくくりつけた。
「これで、もう一度やってみよう」
「なるほど、帆村さんは、うまいことを考えだすなあ。僕すっかり感心しちゃった」
「なあに、くるしまぎれのちえだ」帆村は、ふたたび穴の中に右手をいれた。そして、手にもった棒をふりまわした。棒の先に紐で結ばれたナイフは、きりきりまわっていたが、やがてがたんと手応《てごた》えがあった。が、それっきり、棒がうごかなくなった。
「あれえ、どうしたのかな」といったが、帆村の腕は、腋《わき》の下まで穴の中にすっぽり入っているので、穴の隙間《すきま》がない。したがって向うも見えない。すると、とつぜん、大きな声だ。
「だ、誰だ!」イワノフ博士のこえだ。
「しまった。もう、いけない」帆村は、もうこれまでと思い、棒を握ったまま、満身《まんしん》の力をいれて、ぐっと手もとへひっぱった。
 ずいぶんくるしかったが、棒はやっとうごいた。重いものが床の上におちる音がした。それはエフ氏を操縦する器械が下におちたのである。そのとたんに、
「あ、いたい」と、帆村が叫ぶ。このとき棒は彼の手から放れてしまった。彼は大急ぎで穴から腕をひっこめた。
「うおーっ」と、獣《けだもの》のようなものが呻《うな》るこえ。
「さあ、たいへん。ううん、よわった」これはイワノフ博士のこえ。
 博士の室内からは、なにかどすんどすんと重いものがぶつかっている気配《けはい》だ。そうかと思うと帆村と正太の押しこめられている壁までが、ずしんずしんとひびいて、壁土がばらばらとおちはじめた。
「これ、人造人間エフ氏。しずまらんか。しずまれというのに」
 博士の室内のもの音は、ますます大きい。いろいろなものが、こわれていくらしい。
「あっ、どうするのだ」
 と、博士が叫んだとき、帆村と正太のはいっていた室の土壁が、がらがらと崩れた。あっとおもう間もなく、その穴からとびこんで来たものは、人造人間エフ氏であった。たいへんな力であった。
 さあ二人は、どうなるであろうか。


   暴れる人造人間《じんぞうにんげん》


「うおーっ」
 と、ものすごい唸《うな》りごえをあげて、人造人間エフ氏は、部屋の中をあばれまわる。姿だけ見ると、それはまるで正太少年があばれているとしか見えなかった。エフ氏のそのときの顔といえば、そのものすごい唸りごえに似合わず、にこにこ笑っていた。にこにこ笑いながら、ものすごい唸りごえをあげて、手あたり次第、壁をつきこわしていくのである。これは、ものすごい顔をして、あばれられるのとちがい、かえってよけいに気味《きみ》がわるかったと、後に帆村探偵が、そのときのことを思いだして、語ったことであった。帆村と正太少年とは、壁の隅っこに小さくなって、人造人間が、こっちへやってこないことを祈っていた。でも、あまりに、そのあばれ方が、はげしくなるので正太はついに、帆村のそばへすりよった。
「帆村さん、大丈夫?」
「うん、たいてい大丈夫だろう」
 帆村探偵のこえは、おちついていた。そのこえをきくと、正太は、急に気がつよくなった。
「帆村さん。エフ氏は、なぜあばれているんですか」
「さあ、よくは分らないが、さっきエフ氏を動かす器械を下におとしたろう。あのとき、その器械のどこかがこわれてしまったので、それでエフ氏が急にあばれだしたんだと思うよ」
 帆村探偵は、このさわぎの中にも、なかなか頭をはたらかせた。正太は、それをきいて、また恐しくなった。
「じゃあ、エフ氏は、気が変になったわけですね。もし僕が気が変になったら、あんな姿であばれるんだと思うと、いやだなあ」と、正太は、心がくらくなった。
「ああもっともだ」と、帆村は相槌《あいづち》を打って、「あんなものは、見ない方がいいよ。君は、頭をさげて、じっと見ないでいたまえ」と、帆村は正太の頭を抱《かか》えてやった。
 人造人間エフ氏は、ますますものすごくあばれる。土をとばし、石塊《いしころ》をとばし、まるで闘牛《とうぎゅう》が穀物倉《こくもつぐら》のなかであばれているようであった。イワノフ博士は、どうしたであろうか。
 博士は、向うの部屋で、これも背中を丸めて、じっとこっちの様子を見守っている。
「あっ、たいへんだ。こうでもなければ、これをこう動かしてみるか」
 よく見ると、博士は、人造人間の操縦機を前において、しきりに、たくさんのスイッチを切ったり入れたりしているのであった。たしかに、どこかが故障らしく、博士の思うようにはうまくいかないので、よわっているのだった。
「ちぇっ、これでもだめだ。仕方がない。この操縦器を一度分解して、なおすより外ないらしい」
 博士は、もう夢中で、額《ひたい》の汗をはらいながら、ネジ廻しをもち出して、操縦器の分解にかかった。そのとき、博士の持つネジ廻しが、どこにふれたものか、ぱっと火花が出た。
「あっ」と、イワノフ博士がおどろきのこえをあげたとき、今まで監禁室《かんきんしつ》であばれていた人造人間は、くるっとむきをかえて、博士の部屋にとびこんできた。
「あっ、あぶない!」
 と、博士のおどろきのこえが終るか終らないうちに、人造人間エフ氏は、まるで砲弾《ほうだん》のような速さでもって、天井へ向けてとびあがった。どーんとすごい音、そしてばらばらとおちてくる土や石塊《いしころ》。それっきり人造人間エフ氏の姿は、見えなくなってしまった。
 人造人間エフ氏は、どうしたのであろうか。いまエフ氏は、真暗《まっくら》な空を、ひゅーっとうなりごえをあげながら、砲弾のように、東の方にむかってとんでいく。
 そして、どうしたのか、ときどき身体がぱっと気味わるく光った。光るたびに、エフ氏の身体は空中でぐるぐる廻転して、まるで人間花火みたいであった。エフ氏の身体は、だんだんと、空高くのぼっていくように思われた。その当時、あれ模様の空からは、急にはげしい風が吹きはじめたが、それはエフ氏が風《かぜ》の神《かみ》に早がわりをしたかのように思われた。
 エフ氏は、はげしいいきおいで、空をとんでいく、夜中だから、まだいいようなものの、もしもこれが昼間であったとしたら、道ゆく人たちは、空を飛ぶ少年姿のエフ氏を仰いでさぞ胆《きも》をつぶしたことであろう。きっと、百人や二百人は、目をまわすものがでてきたことであろう。


   岩窟《がんくつ》の押し問答《もんどう》


 岩窟の中では、帆村と正太の二人が、元気をもりかえした。エフ氏がとびだしたので、イワノフ博士は、すっかりあわてている。そこをねらって、帆村と正太とは、右と左とから、博士をおさえつけたのだった。
「さあ、イワノフ博士。しずかになさい」
「あっ、わしをおさえて、一体どうしようというのか」
「知れたことです。人造人間を日本へもちこんだあなたの悪い仕業《しわざ》を、どうしてこのままゆるしておけるものですか」と帆村は、博士ににげられないように、その手に、縄《なわ》をかけた。
「おや、これはなにをするのかね」博士は、じろりと、帆村をにらんだ。
「お気の毒ですが、こうなっては、どうもやむを得ません。あなたに逃げられると、またとんでもないさわぎをくりかえさなければなりませんのでね」
 帆村は、はっきりと博士に対して、引導《いんどう》をわたした。
「ぶ、無礼な奴じゃ。だが今にみるがいい。貴様の方で、どうぞこの縄をとかせてくれという時がくるだろうよ」と、イワノフ博士は、ぶつぶついいながら怒っている。
 帆村は、そんなおどかしの手には乗らない。そこで正太少年に目くばせして、博士のうしろから気をつけているようにたのんだ。帆村は、ここでイワノフ博士に、人造人間の秘密を早くいわせるつもりだった。
「博士。あなたは、人造人間エフ氏を日本へ連れこんで、どうするつもりだったのですか」
「ははあ、そろそろ取調べがはじまったというわけだな。そんなことは、そっちで考えてみたらいいだろう」博士は、ふてぶてしく、顔を天井《てんじょう》の方にむけていった。
「博士、返事ができないようですね。いや、その返事は、あとで聞くことにしましょう」と、帆村は、イワノフ博士の様子をじっとうかがいながら、「博士。あなたは、人造人間エフ氏を、この電波操縦器でもって、いつも動かしていたのでしょう。人造人間は、いわば自動車のようなもので、運転手がのって、エンジンをかけ、そしてハンドルをとると動くので、自動車ひとりでは動かない。それと同じように、エフ氏も、エフ氏ひとりでは動かない。博士が、この操縦器についているたくさんのスイッチを、うまい工合に入れたり切ったりしないかぎり、エフ氏は動かないでしょう。どうです、それにちがいありますまい」
 帆村は、するどく、人造人間の秘密に切りこんだ。
「はははは、そこまで分っていれば、なにもわしに聞くことはないじゃないか。どうじゃ、日本には、人造人間などというこんなりっぱな器械があるかね。いや、ありますよといっても、世界中の誰も信用しないであろう」
 と、博士は、いやなことをいう。帆村は、それには一向とりあわず、さらに一歩前に出て、
「ねえ博士。そこで僕は一つ、あなたに御注意をしますが、どうも、あの人造人間エフ氏は、あなたの自由にならなくなっているように思うんですがね。つまり、エフ氏は、勝手に動きだしているように思うんです。これは、御心配なさらなくてもいいのですか」
 帆村の質問は、たしかに博士の痛いところをついたようであった。それまで、いばって胸をはっていたイワノフ博士が、帆村のこの質問をきくと、急にあわてだした。
 ここぞと、帆村はまたするどく、言葉でもって切りこんだ。
「どうです、博士。人造人間エフ氏は、あなたの心にそむいて、こんなに壁に穴をあけ天井をつきぬき、そのうえどこかへとびだしました。まさか、あなたは、エフ氏に対し、博士が苦心してつくったこの岩窟を、こんな風にこわせとは、命令されなかったのでしょうにねえ」
「うむ。それは……」
「博士。エフ氏を、このまま放《ほう》っておいて、それでさしつかえないのですか。エフ氏に勝手なことをさせておいていいのですか。もしやエフ氏が、海の中へとびこんだとしたらどうでしょう。たちまち海水が、身体の中の器械をぬらしてしまって、動かなくなるでしょう、そうなれば、折角《せっかく》の人造人間が、だめになってしまいます」
「海水ぐらいは平気じゃ。いや、これは……」
 と、口をおさえたが、この博士の言葉から考えると、人造人間は、水にぬれても大丈夫《だいじょうぶ》のようにできあがっているらしい。どこまでもよくできた人造人間だった。


   人造人間《じんぞうにんげん》の操縦


 博士は、急に、そわそわしはじめた。立ってもすわってもいられない様子だ。帆村探偵は、正太の方に、目配《めくば》せをした。
 正太は、帆村の顔色を察して、だまって、うんうんとうなずいた。
「ねえ、博士。人造人間が、こわれないうちに、この操縦器をつかって、おとなしく呼びもどしておいたがいいでしょう」
「うん、それはそうだが、わしの手は動かない。この縄をといてくれ」
「はははは。あなたの方でといてくれといいだしましたね。しかし、とくことはなりません」
「なぜとかないのか。とかないと、人造人間は大あばれにあばれて、今に、日本の国民全体が、大後悔《だいこうかい》しても、どうにもならんような一大事がおこるが、それでもいいのじゃな」
「博士、おどかしは、もうよしてください」と帆村はひややかにいい放った。
「なるほど、あなたの手は動きません。しかし口は利けるのですから、口でいってください。僕がそのとおりに、操縦器のスイッチを切ったり入れたりしましょう」
「ははあ、分った。貴様、人造人間の操縦法を、わしから聞きだそうというのじゃな」
「そうです。早くいえば、そうです」
 博士は、しばらく考えこんでいた。が、やがてその面上《めんじょう》には、決心の色がうかんできた。
「仕方がない。わしの知っていることを、君におしえてやろう」
 博士の考えが、たいへん変った。帆村に、人造人間の動かし方をおしえるという。そういう博士の心変りの奥に、どんなおそろしい計略があるのか、決して油断はできなかったが、とにかく今、人造人間エフ氏があばれ出しているのだから、博士としてはとりあえず帆村の力を利用してでも、エフ氏を自分の手許《てもと》にとりもどしたい気持であることは、よくわかった。
「さあ、おしえるから、よくおぼえるのだ、いいかね。この主幹《しゅかん》スイッチをおすと、電波が出て、エフ氏の身体の中にある受信機に感じるのだ」
「なるほど」
「そうしておいて、こっちに一から百まであるスイッチのどれかをおすのだ。このスイッチは、いろいろと、ちがった動作をするようにできている。わしのポケットに、それを説明した虎《とら》の巻《まき》があるから、出してみたまえ」イワノフ博士は、身体をねじってポケットを帆村の方に向けた。この中には、なるほど操縦虎の巻と書いた小さな本があった。
「どうだ。よくできているじゃろう。たとえば第十九番のスイッチを入れると、人造人間エフ氏は、相手の心の中をすっかり知ってしまう」
 博士は、たいへんなことをいいだした。人間の心がわかる仕掛《しかけ》があるというのだ。
「イワノフ博士。相手の心の中がわかるなんて、そんなばかばかしいことができるのですか」
「ふん、そんなことにおどろくような頭脳《あたま》じゃから、日本では、科学の発達がおくれているというのだ」と、博士は軽蔑《けいべつ》の色をみせて、「人間が物を考えるということは、脳髄《あたま》の働きだということになっているが、その脳髄の働きというのは、じつはやはり電気の作用なのだ。そしてラジオと同じように、或る短い電波となって、人間の身体の外へも出てくる。電波が出てくるんだから、それをつかまえることは、やはり受信機さえあれば、できることじゃ。もちろん、ラジオの受信機とはちがう。もっと短い電波に感ずる特別の受信機じゃ。これはエフ氏の身体の中に、とりつけてある。どうだ、おどろいたか」
「なるほど。そうして、相手の心の中がわかれば、それに従って返事をしたり、握手したり、一しょに歩いたりすることができる」
 ああ、なるほど、そういっているときだった。室内にあったラジオの受信機が、いきなり臨時ニュースを喋《しゃべ》りだした。
「東海道線が不通となりました。保土ヶ谷のトンネルが爆破されました。例の怪少年が、この事件に関係しているようです。現場《げんじょう》一帯は大警戒中ですが、戦場のようなさわぎが始まっています」
 博士と帆村は、思わず目と目とを見あわせた。


   大事件!


 保土ヶ谷トンネルが爆破された! 人造人間エフ氏が、それに関係しているという! 東海道線が、不通となってしまった!
 帆村探偵はイワノフ博士を、じっと睨《にら》みつけている。彼は心の中の苦悶《くもん》をかくすことができなかった。なぜなら、帆村はその夜、東北方面の優秀な特科兵で編成された某師団が、その夜を期して西の方へ急行することを知っていたので、それを思いあわせて、たいへん心が痛んだのであった。
 その出征師団《しゅっせいしだん》は、どうするであろう。保土ヶ谷トンネルが爆破されてしまえば、列車はもちろん通じない。すると、一たん列車から下りて、あの山路を越えていかねばならないが、あの重い機械化された部隊が、あの※[#「山+険のつくり」、第3水準1-47-78]《けん》を越えていくのは、たいへんな手間でもあり、時間つぶしであった。しかし、この出征師団は、ある戦況に応ずるため、一時間でも早く目的地の大陸へつかないと、その戦地において、わが大陸軍は、大なる損害をこうむらなければならない。
 いや、保土ヶ谷トンネルの爆破だけでおわれば、まだいいのであるが、イワノフ博士は、手を縛られていながら、さっきから小気味よげに、(今にごらんなさい。もっともっとたいへんなことが起るから……)と、いいたげな顔をしているのであった。それを考えると、帆村の腸《はらわた》は、煮えくりかえるおもいだった。
「イワノフ博士。あなたは、人造人間エフ氏をとりしずめる方法を知っておいでだろう。すぐそれをやってください」
 と、帆村探偵は、くやしいのをおさえて、博士にいった。するとイワノフ博士は、それ見たかという顔で、
「だめだめ、そんなことは。なにしろ、器械の故障なんだから、なにをしてもだめだよ。わしの手におえないものが、君の手におえるはずがないじゃないか」と、うそぶく。
 帆村は、歯をくいしばって、くやしがったが、どうすることもできない。
 すると、さっきから、じっとこれを見ていた正太少年が、口をだした。
「帆村のおじさん。こうすればいいのじゃないんですか。つまり、その操縦器をこわしてしまうんですよ。それさえこわしてしまったら、エフ氏も自然うごかないんじゃないのですか」
「うん、正太君、えらい。それはいい思いつきだ、じゃあ、操縦器をうちこわすか!」
 といって、帆村は、よこ目で、イワノフ博士の顔をみた。博士は、ふふんと、鼻の先で、それを笑っているようであった。帆村は、ちょっと迷った。ここでイワノフ博士が狼狽《ろうばい》してくれればいいのに、すこしもおどろいた様子がみえないのである。といって、いつまでもぐずぐずしているわけにはいかない。せっかく手に入れた操縦器をぶちこわすのは、残念だが、どうも仕方がない。帆村は、その岩窟《がんくつ》の隅にもたせてあった大きな鉄の棒をとりあげた。そして、操縦機を睨みながら、うんと大きく、ふりあげたのであった。
「あははは、そんなことをして、あとで、後悔しないがいいぞ」
 それにかまわず、帆村は、えいやッと鉄の棒をうちおろした。その一瞬、一大音響の下に目もくらむような電光が、ぱっと室内を照らした。
「あッ!」と、帆村は、おどろきのこえをあげると、その場にもだえつつ、ばったりたおれた。
「ふふふふ、それ見ろ。だから、よせといったのだ」
 博士は、せせら笑って、立ちあがった。いつの間にか、博士をしばってあった縄が、全部とけていた。おどろいたのは、正太であった。
「イワノフ博士、あなたは、悪い人だ。帆村さんを、元のようにかえしてあげなさい」
「なにをいうか、正太。お前も、一しょにそこで長くのびているがいい」
 そういうと、イワノフ博士は、正太の頤《あご》をがんとつきあげ、正太があっといって倒れるのを尻目に、すばやく、部屋をとびだした。岩窟の外は、闇であった。イワノフ博士は、懐中電灯をつけると、どんどん麓《ふもと》の方へかけだした。遠くの空が、うす赤くこげている。どうやらそれは、戸塚の方角らしい。


   戦場そっくり


 博士は、どんどんと山道を駈けくだっていった。老人とも見えない足早であった。
「さあ、もう日本に永くいることは、無用だ。行きがけの駄賃《だちん》というやつで、かねて計画しておいた帝都東京を焼きうちして、それからおさらばということにしよう」
 イワノフ博士は、からからと笑って、なおも、走りつづけた。
 こっちは、帆村探偵だった。電撃をうけて、彼は一時ひっくりかえったが、ほどなく、正気にかえった。あたりは、しーんとしずまりかえっていたのに、びっくりして、はね起きた。起きてみて、三|度《たび》びっくりだ。傍《そば》に正太少年が、長くなって倒れているではないか。
「おい正太君、しっかりしなさい」と、抱《かか》えあげて、ゆすぶると、正太も気がついた。
「おい、イワノフ博士がいないぞ。さては、にげたか」
 そのへんを探したが、もちろんイワノフ博士の姿が見つかるはずがない。そのとき、二人の頭の上で、またラジオが鳴りだした。また臨時ニュースだ。
「臨時ニュースを申上げます。保土ヶ谷トンネルの爆破現場《ばくはげんじょう》は、わが軍隊によって、完全に包囲されました。怪少年と見えたのは、どうやら恐るべき人造人間であることが推定されましたので、戦車部隊が、円陣《えんじん》をつくりまして、だんだん輪を小さくして、人造人間を捕えるのに努力中であります。――あ、只今、追加のニュースが入りました。人造人間は、さきほどから、急に様子がかわりまして、しきりに土を掘っています。たとえどこへ潜りこみましょうとも、もう間もなく捕えられることでありましょう。臨時ニュースを、おわります。なお、いつ、避難命令が出ますかわかりませんから、どうぞスイッチをお切りにならないようにと、当局からのご注意がありました」
 帆村と正太とは、おもわず走りよって、手を握った。
「行こう、保土ヶ谷へ」
「行きましょう」
 二人は、外へとびだした。が、まっくらで山道を歩くのは、たいへんむずかしそうであった。二人は、また岩窟《がんくつ》にかえり、手提電灯《てさげでんとう》をさがしてから、改めて山を下っていった。
「よかったですね。エフ氏は、間もなくつかまりますよ。博士は、どうしたんでしょうか」
「博士も、現場へいったのではないかしらん。早く電話のかけられるところまで出たいものだ。だが、大体、もう安心だろう。博士だって、老人だから、そのうちにくたびれて、警官にとっつかまるだろう」
 二人は、だんだん気がかるくなったようにみえた。しかし、そんなに安心していていいのであろうか。イワノフ博士は、どうしたのであろうか。帆村と正太とは、大いそぎで山をくだっていったが、四十五分ほどのちに、ついに非常線にひっかかった。非常線にひっかかることは、二人にとって、かえって喜びであった。
 帆村は、警官隊へ、これまでのことを、かいつまんで話をした。そしてイワノフ博士を捕える手配をすることが大事であると告げた。幸いなることに、その近くに警察ラジオの送受信機をもった自動車が、警戒と連絡のために来ていたので、帆村は、すぐさま、その送信機をつかって、逃げたイワノフ博士を捕えるよう、彼の考えをのべたのであった。それを聞いていたのは、警視庁の大江山捜査課長であったが、
「よし、わかった。では、すぐ手配をするから、安心してくれたまえ」
 といって、帆村のはたらきをほめた。帆村と正太とは、それから自動車で、保土ヶ谷のトンネル附近へ、はこんでもらった。現場は、火事場さわぎであった。消防自動車が高いビルの消火のときにつかう長い梯子《はしご》をまっすぐ上にのばし、その上から探照灯でもって、エフ氏の逃げこんだ谷あいを照らしていたが、その明るい光は、一本や二本でなく、方々から同じところに集められているので、谷あいは、真昼のような明るさである。
「どうしました、人造人間は?」と、帆村が一人の警官にきけば、
「人造人間は、あの大きな木が倒れているあたりから、地中へもぐりこんだきり、なかなか出てこないのだ」
 そのとき、その谷あいが、轟然《ごうぜん》たる一大音響とともに爆発した。ものすごい火柱がたち、煙と土とが、渦《うず》をまいた。すべては探照灯に照らしだされて、更にものすごさを加えた。


   大団円


 おもいがけない爆発だった。
「ははあ、正太君。人造人間エフ氏は、とうとう自爆をしたんだよ」
 帆村探偵は、手をひいている正太に教えてやった。
「ああ、とうとう自爆したんですか」と、正太はほっと溜息《ためいき》をつき、
「でも、いくら人造人間でも、僕と全く同じ形をした少年の身体が、こなごなにとび散ったとおもうと、なんだかへんな気がするなあ」と、いった。もっともなことである。
 人造人間の自爆は、他の方からも、つたえられてきた。やれやれこれで安心だというものもあれば、惜しいことをしたというものもあった。
「さあ、残るはイワノフ博士の行方《ゆくえ》なんだが、一体どうしたんだろう」
 帆村は、しきりに、そのことを気にしていた。イワノフ博士の行方について、くわしいことが帆村の耳に入ったのは、その次の日の朝であった。
 それを話してくれたのは、横浜の水上署の警官で飛田《とびた》という人だった。その話というのは、こんな風であった。
「いや、全くおどろきましたよ、昨夜の十時ごろでしたかね。私が、ランチにのって、港内を真夜中の巡回《じゅんかい》をやっていますと、海面にへんなものを発見したんです。船でもないのですが、海面を相当のスピードで進んでいくものがある。すぐさまエンジンをかけて、こいつを追跡しましたよ。ところが、びっくりしたじゃありませんか。近づいてみると、これがたいへんなものです。なんだと思いますか、あなたは。じつに、そいつは、人間の形をしているのですよ。髭《ひげ》づらの老人でしたが、服を着たままで、港外の方へ泳いでいくんです。いや、ところがです。泳ぐといっても、クロールやなんかではない。魚雷《ぎょらい》が波をきって進んでいくようなあんばいで、すっと波を切って走っていくんですからね、しかも相当のスピードでいかなオリンピックの選手だって、ああはいきませんよ。私は、まるで狐《きつね》にばかされているような気がしましたが、なにしろはやいのですから、そのままに放《ほう》っておけません。すぐさま無電で、本署に報告しました。――本署ではおどろいて、私になおも追跡を命ずるとともに、警備艦隊へ知らせたんです。そこで、大さわぎとなったんですが、その泳ぐ怪人を追跡していったのはついに私のランチだけで、他の艦艇は、みな間にあいませんでした」
 と、飛田警官は、そこで身ぶるいした。
「それはイワノフ博士にちがいないというんですね。え、老人ですよ、小さい探照灯で照してよく見ましたが、洋服のまま泳いでいました。とにかく追跡しているうちに、その怪人は、海中に出ている大きな浮標《ふひょう》のようなものに泳ぎつき、そのうえによじのぼったんです。浮標の上からも、数人の水兵が、手をさしのべて、この怪人をひっぱりあげました。こうお話しても、浮標の上に、水兵がいるのは、おかしいとおっしゃるのでしょう。ごもっともです。それは、これから説明しますが、おやおやと私が訝《おか》しく思っているうちに、その浮標は、ずんずんと海中に沈んでいったんです。(あっ、潜水艦だ!)と気がついたときには、もうあとの祭です。つまりその怪人はそこに待ちうけていた潜水艦の中にひっぱりこまれ、そして逃げてしまったんです。いや、でたらめではないのです。当局のえらい方からも、後で話を聞きましたが、その潜水艦は、たしかに○○のものにちがいないとの話でした」
「私の話というのは、まあざっと話すと、このへんでおわりですが、その怪人は、なぜ魚雷のように海面を走ったのか、その謎はさっぱり解けないのです。帆村さん、あなたには、この話をきいて、なにか思いあたることはありませんか」
 飛田警官の話は、大体右のようなものであった。それを聞いていた帆村は、ぶるぶると身体をふるわせ、
「あッ、そうか。それで分った。なぜ、もっと早く気がつかなかったろう」
「えっ、何が?」
 と、正太少年は、ふしぎそうに、このただならぬ帆村探偵の様子を見守った。
「おい正太君。あのイワノフ博士というのも、じつは人造人間だったんだよ」
「ええッ、博士も人造人間ですか。まさか――」
「ううん、それにちがいない。エフ氏は、あの操縦器でうごく人造人間、イワノフ博士の方は、潜水艦の中に操縦器がある人造人間――それだけのちがいだ。それで始めて、潜水艦との関係がはっきりした。どこまで恐ろしい科学の力だろう。われわれ日本人は、しっかりしなきゃならない!」
 と、帆村探偵はそういって、眉《まゆ》をぴくんと動かした。



底本:「海野十三全集 第6巻 太平洋魔城」三一書房
   1989(平成元)年9月15日第1版第1刷発行
初出:「ラヂオ子供のテキスト」日本放送協会出版
   1939(昭和14)年1月〜12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。ただし「保土ヶ谷」は底本通りです。
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2004年4月20日作成
青空文庫作成ファイル:
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