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地獄街道
海野十三

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)舗道《ほどう》から

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)かゆい[#「かゆい」に傍点]
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     1


 銀座の舗道《ほどう》から、足を踏みはずしてタッタ百メートルばかり行くと、そこに吃驚《びっくり》するほどの見窄《みすぼ》らしい門があった。
「おお、此処《ここ》だ――」
 と辻永《つじなが》がステッキを揚《あ》げて、後から跟《つ》いてくる私に注意を与えた。
「ム――」
 まるで地酒《じざけ》を作る田舎家《いなかや》についている形ばかりの門と選ぶところがなかった。
「さア、入ってみよう」
 辻永は麦藁帽子《むぎわらぼうし》をヒョイと取って門衛に挨拶《あいさつ》をすると、スタコラ足を早めていった。私も彼の後から急いだけれど、レールなどが矢鱈《やたら》に敷きまわしてあって、思うように歩けなかった。そして辻永の姿を見失ってしまった。
 私は探偵小説家だ。辻永は私立探偵だった。
 だから二人は知り合ってから、まだ一年と経たないのに十年来の知己《ちき》よりも親しく見えた。それはどっちも探偵趣味に生くる者同士だったからであった。しかし正直のところ辻永は私よりもずっと頭脳《あたま》がよかった。彼は私を事件にひっぱりだしては、頭脳の働きについて挑戦するのを好んだ。それは彼の悪癖《あくへき》だと気にかけまいとするが、時には何か深い企《たくら》みでもあるのではないかと思うことさえあった。
「オーイ。こっちだア――」
 思いがけない方角から、辻永の声がした。オヤオヤと思って、声のする方に近づいてゆくと一つの古ぼけた建物があった。それをひょいと曲《まが》ると、イキナリ眼前《がんぜん》に展《ひろ》げられた異常な風景!
 夥《おびただ》しい荷物の山。まったく夥しい荷物の山だった。山とは恐らくこれほど物が積みあげられているのでなければ、山と名付けられまい。――さすがは大貨物駅《だいかもつえき》として知られるS駅の構内《こうない》だった。
 辻永は大きな木箱《きばこ》の山の側に立って、鼻を打ちつけんばかりに眼をすり寄せている。早くも彼氏、何物かを掴《つか》んだ様子だ。小説家と違って本当の探偵だけに、いつでも掴むのがうまい。あまりうまいので、私はときどき自分が小説家たることを忘れて彼の手腕《しゅわん》に嫉妬《しっと》を感ずるほどだ。
「これだこれだ山野《やまの》君」と彼は私の名を思わず大きく叫んだ。「例の箱がいつ何処《どこ》で作られたんだかすっかり判っちまったよ。第一回の箱は七月四日の製造だ。第二回目のは七月十八日の製造だ。そして第三回目のは今から一週間前、実に八月八日の製造だということが判ったよ」
「そりゃどうして?」私はすっかり駭《おどろ》いた。
「ナニこれは殆んど努力で判ったのさ。今日は箱の山がどんな形に、どんな数量を積み重ねてあるかを知りたかったのだ。あとは発送簿《はっそうぼ》の数量を逆に検《しら》べてゆくと、あの箱を積んだ日、随《したが》ってあれを製造した日がわかるという順序なんだ」
 よくは呑みこめなかったけれど、やっぱり頭脳の冴《さ》えた辻永だと感心した。
 例の箱とは、前後三回に亙《わた》って発見された有名なる箱詰屍体《はこづめしたい》事件の、その箱のことなのである。
 細かいことは省略するが、その三つの屍体はすべて此《こ》の貨物積置場に積まれてあったビール箱の中から発見されたのだった。その箱は人間の身体がゆっくり入るばかりか、ビールがその隙間《すきま》に五ダースも入ろうという大量入りの木箱だった。
 事件を並べてみると、不思議な共通点があった。第一に、屍体の主《ぬし》はいずれも皆、若いサラリーマンや学窓《がくそう》を出たばかりの人達だった。第二にいずれも東京市内の住人《じゅうにん》だったのも、大して不思議でないとしても、不思議は不思議である。但《ただ》し三人の住所は近所ではなくバラバラであった。第三に三人の屍体は同様の打撲傷《だぼくしょう》や擦過傷《さっかしょう》に蔽《おお》われていたが、別にピストルを射ちこんだ跡もなければ、刃物《はもの》で抉《えぐ》った様子もない。もう一つ第四に、三人とも殺されるほどの事情を一向持っていなかったということ。それからこれは附《つ》け足《た》りだが、三人が三名とも名刺入れをもっていて、直ぐに身許《みもと》が判明したそうだ。
 ビール会社では、こんな青年の屍体が、どうして箱の中に入っていたか判らないと弁明《べんめい》した。その工場の内部を隅々まで調べてみたが、そんな青年達の忍びこんでいたような形跡《けいせき》は一向《いっこう》見当らなかった。ビール瓶に藁筒《わらづつ》を被《かぶ》して自動的に箱につめる大きな器械がある。これは昼となく夜となく二十四時間ぶっとおしで運転しているもので停めたことはないものだが、それをワザワザ停めても調べてみた。その結果もなんの得るところが無かった。
 事件はそのまま迷宮《めいきゅう》へ入った――というのが箱詰屍体事件のあらましである。


     2


「ビール会社へ行ってみようよ」
 辻永はそういうが早いか、駅の門の方へスタスタ歩きだした。私は依然《いぜん》お伴《とも》である。
 円タクを値切って八十銭出した距離に、そのビール会社の雲をつくような高い建物があった。古い煉瓦積みの壁体《へきたい》には夕陽が燃え立つように当っていた。遥《はる》かな屋根の上には、風受けの翼《つばさ》をひろげた太い煙筒《えんとつ》が、中世紀の騎士の化物のような恰好をして天空《てんくう》を支《ささ》えているのであった。その高い窓へ、地上に積んだ石炭を搬《はこ》びこむらしい吊《つ》り籠《かご》が、適当の間隔を保って一《ひ》イ二《ふ》ウ三《み》イ……相当の数、ブラブラ揺《ゆ》れながら動いてゆく。
 待つほどもなく、私たちは工場の中へ案内せられた。特に見たいと思ったのは、矢張《やは》りビール瓶を自動的に箱につめこむ工場だった。まったくそれは実に大仕掛けの機械だった。一つの大きい軸《シャフト》がモートルに接《つな》がるベルトで廻されると、廻転が次の軸に移って、また別のベルトが廻り、そのベルトは又更に次の機構を動かして、それが板を切るべきは切り、釘をうつべきはうち、ビールを詰め込むべきは詰めこんで、一番出口に近いところにすっかり納《おさま》ったビールの大箱が現われるのだった。
 それをすぐにトロッコが待っていて、外へ運び去る。まことに不精《ぶしょう》きわまることながら、便利この上もないメカニズムだった。
「実に恐ろしい器械群だと君は思わんか」
 と辻永が感歎の声をあげた。
「うむ、たった一つのスイッチを入れたばかりで、こんな巨人のような器械が運転を始め、そして千手観音《せんじゅかんのん》も及ばないような仕事を一時にやってのけるなんて……」
「イヤそれより恐ろしいのは、この馬鹿正直な器械たちのやることだ。もしこのベルトと歯車との間に、間違って他のものが飛びこんだとしても、器械は顔色一つ変えることなく、ビール瓶と木箱と同じに扱って仕舞《しま》うことだろう」
 辻永は大きく嘆息《たんそく》をした。
「すると君は、あの不幸な青年たちが、この器械にかかったというのかネ」
「懸ることもあるだろうと思う程度だ。断定はしない。しかし……」と彼は急に眉を顰《しか》めて窓外を見た。「若《も》しこの窓から人間が入って来ることがありとすればだネ、これはもっとハッキリする」
「なにかそんな手懸りになるものがあるか知ら?」
 私は窓から首をつき出して外を見た。
「呀《あ》ッ!」
 そこの窓から見上げた拍子《ひょうし》に、石炭の入った吊り籠がユラリユラリと頭の上を昇ってゆくのが見えた。
「どうした」と辻永は私の背について窓外《そうがい》を見た。「オヤ、偶然かも知れないが、面白いものがあるネ。ここに通風窓《つうふうまど》があって窓の外へ一メートルも出ている。ホラ見給え、家に近い方の隅《すみ》っこに、小さい石炭の粉がすこし溜っているじゃないか」
「なるほど、君の眼は早いな」
「だからネ、もし石炭の吊り籠の上に人間が乗っていて、それが下へ落ちると、地上へは落ちないでこの通風窓にひっかかることだろう。すると勢いでスルスルとこの室に滑りこんでくることが想像できる。滑りこんだが最後、この恐ろしい器械群だ」
「吊り籠に若し人間が乗っていたとしても、この窓にばかり降ってくるなどとは考えられない」
「うん。ところがアレを見給え」と辻永は窓から半身を乗り出して頭上を指した。「あすこのところに腕金《うでがね》が門のような形になって突き出ているのだ。あの吊り籠が石炭だけを積んでいたのでは、苦もなくあの下をくぐることが出来るが、もし長い人間の身体が載っていたとしたら、あの腕金に閊《つか》えて忽《たちま》ち下へ墜ちてくるだろう」
「なるほど、そうなっているネ」と私はいよいよ友人の炯眼《けいがん》に駭《おどろ》かされた。
「しかしもう一つ考えなければならぬ条件は、吊り籠に載《の》っていた人間は気を失っていたということだ」
「ほほう」
「気が確かならば、オメオメこんな上まで搬《はこ》ばれて来るわけはないし、若《も》し身体が縛りつけられてあったとしたら、下へは墜ちることが出来なかろう。さア、とにかくあのケーブルが怪《あや》しいとなると、吊り籠の先生、どこから人間の身体を積んできたかという問題だ。下へ降りて石炭貯蔵場まで行ってみようよ」


     3


 下へ降りてみるとなるほど石炭の山の中を、吊《つ》り籠《かご》が通る度《たび》ごとに、籠《かご》一杯の石炭を詰めこんで、上に昇ってゆく。辻永は石炭庫《せきたんこ》の周《まわ》りをしきりに探していたが、
「いいものを見付けたぞ」と辻永はいよいよ元気になった。「ハテこれは綿《わた》やの広告だ。それも塀《へい》に貼ってあるのを引き剥《は》いだものらしい」
 辻永は石炭庫の傍《そば》から、真黒《まっくろ》になった紙片を拾い出して、私に示した。
「塀《へい》というと――」
「塀というと、あれだ。あの黒い塀だッ。あの塀に、これが貼ってあったのだ」
 石炭庫の向うに、大分痛んだ塀が見える。辻永は身を翻《ひるがえ》すと駈け出した。機械体操をするように、彼はヒョイと塀に手をかけるとヒラリと身体を塀の上にのせた。
「これは大変なところだぞ」
 彼は声をかえて駭《おどろ》いた。そして俄かに身体を浮かすと、ドッと地上に飛び下りた。
「オイどうしたんだ」
「イヤこれは実に大変な場所だよ、君」
 そういって辻永は、心持《こころもち》顔色を蒼《あお》くして説明をした。それによると、彼がいまよじのぼった塀の外は「ユダヤ横丁《よこちょう》」という俗称をもって或る方面には聞えている場所だった。それは通りぬけのできる三丁あまりの横丁にすぎなかったが、ユダヤ秘密結社《ひみつけっしゃ》の入口があった。なんでも夜中の或る時刻に団員をその入口へ案内してくれる機関があるらしかったが、その様子は分明《ぶんめい》でない。多分団員の服装か顔かに目印《めじるし》をつけて、その団員が通るところを家の中から見ている。ソレ来たというので、スイッチかなにかを入れると、地面がパッと二つに割れて、団員の身体を呑んでしまう――といったやり方で、団員を結社本部へ導《みちび》いているのじゃないかという話だった。なにしろどうにも手をつけかねるユダヤ結社のことだった。知る人ばかりは知っていて、其《そ》の不気味《ぶきみ》な底の知れない恐怖に戦慄《せんりつ》をしていたわけだった。その「ユダヤ横丁」がすぐ塀の外になっているというので、これは辻永が顔色をかえるのも無理ではないことだと思った。
「これはことによると――」と辻永は云《い》い澱《よど》んだ末《すえ》「例の三人の青年はユダヤ結社のものにやっつけられたのじゃないかと思う」
「うむ。しかし屍体《したい》には短刀の跡もなかったじゃないか」と私はわかりきったことをわざと訊《たず》ねた。
「僕ならこう考える。青年たちはこの横丁をとおりかかって誤って団員と間違えられた。そのとき結社の内部を青年たちに見られたものだから、これを死刑にしたのだ。方法は簡単だ。散々《さんざん》撲《なぐ》って気絶させ、それからあの塀を越えてあの石炭の吊り籠に載せる。それだけでよいのだ。あとはあの殺人器械がドンドン片づけてくれる。ここのところを見給え。奴等の乗り越えてきたあとがあるぜ」
 そういって辻永は、まだ塀の新しい裂《さ》け傷《きず》や、跳《は》ねかかった泥跡《どろあと》を指した。
「青年たちはどうしてこの横丁へなぞ入ってきたのだろう」私は不審に思った。
「そいつはこれから探すのだ」
 辻永の探偵眼に圧倒された気味で、私はそのうしろについてユダヤ横丁を通りぬけた。まだ空は薄明るかったが、いい気持はしなかった。
 辻永は左右へ眼を配りながら、黙々《もくもく》と歩いてゆく。
 そのうちに、あたりはいよいよ暗くなってきた。どこからかピストルの弾丸《たま》が風をきって飛んできそうな気がしてならぬ。わが友はその中を恐れもせず、三度《みたび》ユダヤ横丁を徘徊《はいかい》した。
「オヤッ――」
 私は駭《おどろ》きを思わず声に出した。辻永が急に活発に歩きだしたのだ。どうやら何か又新しい手懸《てがか》りを掴《つか》んだものらしい。
 その辻永が再びゆっくりした歩調に返ったのは、ユダヤ横丁をとおり抜けた先に沢山《たくさん》に押並んだ小さい二階家《にかいや》の前通りだった。歩いてゆくと、とある家の薄暗い軒下に一人の女が立っていた。まるまると肥った色の白そうな女だった。年の頃は十八か九であろう。透きとおるような薄物《うすもの》のワンピースで。――向うではこっちを急に見つけた様子をして、ものなれたウィンクを送った。
「上ろう。いいか」
 辻永は私の耳許《みみもと》に早口で囁《ささや》いた。しかし私は辻永のような実践的度胸《じっせんてきどきょう》に欠けていた。
「やめちゃいけないか」
「じゃ斯《こ》うしろ」辻永はやや声を震《ふる》わせて云った。
「バー・カナリヤで待っていろ」
 バー・カナリヤは銀座裏にある小さい酒場だった。私たちが友情をもつようになる前から二人は別々に客だったのだ。随《したが》って銀座方面へ出るたびに、二人は手に手をとってカナリヤの小さい扉《ドア》を押したものだ。
 ふりかえってみると、桜《さくら》ン坊《ぼう》のような例の女は、白い腕をしなやかに辻永の腰に廻して艶然《えんぜん》と笑っていた。そして二人の姿は吸いこまれるように格子《こうし》の中に消えてしまった。


     4


 バー・カナリヤで一時間半も待ったろうか。随分永いこと待たされたものだが、私にとってはそう退屈《たいくつ》ではなかった。それはミチ子を傍《そば》にひきよせて飽《あ》くことを知らぬ楽しい物語をくりひろげていたせいであった。出来るなら辻永が永遠にこのバー・カナリヤに現われないことを冀《こいねが》った。辻永が探偵に夢中になっている間にこの女を誘《さそ》い出してどこかへ隠れてやろうかという謀叛気《むほんぎ》も出た。それほど私は、辻永のキビキビした探偵ぶりにどういうものか気が滅入《めい》ってくるのであった。
 そこへ辻永がシェパァードのように勢《いきお》いよく飛びこんで来た。
「大勝利。大勝利」
 彼は躍《おど》り出したいのを強《し》いて怺《こら》えているらしく見えた。
「おいミチ子。今夜は奢《おご》ってやるぞ。さア祝杯だ。山野《やまの》には何かうまいカクテルを作ってやれ。僕は珍酒《ちんしゅ》コンコドスを一つ盛り合わせてコンコドス・カクテルとゆくかな」
「コンコドス? およしなさい。アレ飲むとよくないことよ。それに辻永さん、今夜は顔色がたいへん悪いわよ。どうかして?」
 なるほど辻永の顔色のわるいことは前から気がついていた。変に黄色っぽいのである。
「ナーニ、今日は疲れたのと、喜びと一緒に来たせいなんだよ。――早くもって来い」
「じゃ辻永さんはコンコドス。山野さんはクィーン・ノブ・ナイルがよかない」ミチ子が向うへ行ってしまうと、辻永は待ちかねたように、懐中《かいちゅう》から手帖を出した。それには小さい文字で、いくつもの項目《こうもく》わけにして書き並べてあった。
「君。ちょっとこのところを読んで見給え」辻永は鉛筆のお尻で、そこに書き並べられた標題《ひょうだい》を指した。
 そこには次のようなことが書いてあった。
 ――○ガールの家(夜中に客が居なくなってしまったという不思議な事件が三度あったという)
「これは?」と私は訊《たず》ねた。
「さっきの女のうちに、箱詰《はこづめ》になった青年が三人とも泊ったことが判った。三人とも夜中にいなくなったので覚えているそうだ。遺留品《いりゅうひん》も出て来た」
「ほほう」
「ところがその青年たちは、申し合わせたように近所の薬屋で、かゆみ止《ど》めの薬を買って身体に塗ったそうだ」
「三人が三人ともかい」
「そうなのだ。三人が三人ともだ。それがこの薬屋でかゆみ止めの薬を買って、身体に塗るしさ。女の話では、なんでもその前は全身かゆがって死ぬように藻《も》がいていたそうだ」
「どうしてそんなにかゆがる客をわざわざ取ったのだ」
「イヤそれは、○かゆい[#「かゆい」に傍点](家につくちょっと前から始まる)――なんで、始めからかゆがっていた訳じゃないのだ」
「じゃどこかで拾ってきた客なのだネ」
「これだ。○ストリート・ガール(銀座で引っぱられる)――つまり銀座から、あの場所まで引張ってゆくうちに、かゆくなったのだ」
「どうして、かゆくなったのだ」
「それは後から話すよ」
 ミチ子がグラスを載《の》せてやってきた。
「オイ煙草を買って来て呉れ。それからシャンパンの盃《さかずき》をあげるから、冷《ひや》して用意しといて呉れ」
 辻永はミチ子に向ってたてつづけに用を云いつけた。
「まア景気がいいのネ」
 とミチ子はグラスを二人にすすめると向うへいった。
「さア一杯やろうよ」
「ウン」
「どーだ、これを飲んでみないか。君の口にはよく合うと思うがな」
 と彼は自分のところへ置かれた盃をこっちへ薦《すす》めようとして、又別の声をあげた。
「オヤオヤ。ミチ子の先生、今夜はどうかしているぞ。コンコドスを僕のところへ置かないで君の前へちゃんと置いているじゃないか。莫迦《ばか》に手廻しがいいなア」
 そういって辻永は二つのグラスを横から眺《なが》めた。私の眼にうつったものは、辻永のグラスの黄色い液体、私のグラスの透明な液体であった。
「コンコドスって無色透明《むしょくとうめい》なのかい」
 私は変な酒を飲まされてはかなわんと思って念のために訊《たず》ねた。
「ちがうよちがうよ。コンコドスは黄色いレモン水のようなやつさ。それ、そのとおり……」と彼は私の前の無色透明の酒を指した。
「その方のじゃないか」と私は彼のグラスに入っている黄色い酒を指した。
「イヤ、こんなに褐色《かっしょく》がかってはいないよ」と彼は打ち消して、
「さア乾杯だ」
 彼はキュッとグラスから黄色い液体を飲み乾《ほ》した。私は狐に鼻をつままれているような気がしたが、アルコールときては目がないので、目の前の無色のカクテルを(彼は黄色だというのを)ググッと一と息に飲んだ。
「それでいい。それでいい。大いに愉快だ」


     5


 辻永は大変興奮してきたようだった。この分では今に酔払って前後《ぜんご》がわからなくなるのであろう。私は今のうちに、先刻《せんこく》の話を聞いて置こうと考えた。
「あの話ネ、かゆくなるというのは、どういうわけなのだ」
「かゆくなるわけかい。ウン、話をしてやろう。――西洋に不思議な酒作《さけづく》りがある。それは禁止の酒を作っては、高価ですき[#「すき」に傍点]者《しゃ》に売りつけるのだ。法網《ほうもう》をくぐるために、酒瓶《さかびん》の如きも普通のウイスキーの壜に入れ、ただレッテルの上に、玄人《くろうと》でなければ判らない目印《めじるし》を入れてある。こうした妖酒《ようしゅ》のあることは君にも判るだろう」
「……」私は黙って肯《うなず》いた。それは例の媚薬《びやく》などを入れた密造酒のことを指すのであろう。
「これは大変に高価なもので、到底《とうてい》日本などには入って来ないわけのものだが、だが一本だけ間違ってこの銀座に来ているのだ。或るバーの棚《たな》の或る一隅《いちぐう》にあるんだ。ところがそのバーの主人も、その酒の本当の効目《ききめ》というものを知らないのだから可笑《おか》しな話じゃないか」
「それでは若《も》しや……」
「まア聞けよ」と辻永は私を遮《さえぎ》った。「その酒は滅多《めった》に客に売らないのだ。だが特別のお客に売ることがあるし、また間違って売る場合もある。それはバーの主人がときどき休む月曜日の夜に、不馴《ふな》れなマダムが時々こいつを客に飲ませるのだ。勿論《もちろん》マダムはそんな妖酒とは知らず、安ウイスキーだと思って使ってしまうのだ。――ところでこの酒を飲まされたが最後大変なことになる」
「ナニ大変なこと!」
「そうだ。大変も大変だ、自分の身体が箱詰《はこづ》めになってしまうんだ。無論《むろん》息の根はない。再び陽の光は仰《あお》げなくなるのだ」
「オイ辻永。その洋酒の名を早く云ってしまえよ」と私は卓子《テーブル》から立ち上った。
「まア鎮《しず》まれ。鎮まれというに」彼はいよいよ赤とも黄とも区別のつかぬ顔色になって、眼を輝かせた。「おれ様の探偵眼《たんていがん》の鋭さについて君は駭《おどろ》かないのか。いいかネ。その妖酒を飲んで例のバーを出るとフラフラと歩き出すころ一時に効目《ききめ》が現れてくるのだ。まず第一に尿意《にょうい》を催《もよお》す。第二に怪しい興奮にどうにもしきれなくなる。ところでそのバーを出てから尿意を催すと、どこかで始末をつけねばならぬが、適当なところがない。どこかで――と考えると、頭に浮かんでくるのは、その直《す》ぐ先の川っぷちだ。その川っぷちへ行って用を足す。ところがその辺に桜《さくら》ン坊《ぼう》という例のストリート・ガールが網を張っているのだ。これはカフェ崩《くず》れの青年たちを目当てのガールなのだが、たまたまバー・カナリヤから出て来た彼《か》の妖酒に酔いしれたお客さんだとて差閊《さしつか》えない。客の方では差閊えないどころかもう半分気が変になっている。だから桜ン坊の捕虜《ほりょ》になって、円タクを拾うと、例の女の家の方面へ飛ぶのだ。そのうちに、又々妖しの酒の反応が現れて、こんどは全身がかゆくなる。かゆくて苦しみ出すころ、自動車は彼女の家の近くに来ている。隠れ家をくらますために家の近所で降りて、あとはお歩《ひろ》いだ。しかし何分にもかゆくて藻掻《もが》きだす。そこであの近所にある一軒の薬屋を叩き起して、かゆみ止めの薬を売って貰う。――どうだ、この先はどこへ続いていると思う」
「いや、それはあまりに独断《どくだん》すぎる筋道《すじみち》だと思う」私は最初のうちは彼の鋭い探偵眼に酔わされていたような気持だったが、話を訊《き》いているうちに、なんだかあまりにうまく組立てられているところが気になった。
「独想ではない、厳然《げんぜん》たる事実なのだ、いいか」と辻永は圧迫《あっぱく》するような口調で云った。「そのかゆみ止めの薬が又大変な薬で、かゆみを止めはするけれど、例の妖酒に対して副作用を生じるのだ。その結果夜中になって、その男を桜《さくら》ン坊《ぼう》の寝床から脱け出させる。現《うつつ》とも幻《まぼろし》ともなく彼は服を着て、家の外にとび出すのだ。一寸《ちょっと》夢遊病者《むゆうびょうしゃ》のようになる」
「まさか――」
「事実なんだから仕方がない。その擬似《ぎじ》夢遊病者はフラフラとさまよい出《い》でて、必ず例のユダヤ横丁に迷いこむ」
「それは偶然だろう」
「イヤ地形《ちけい》がユダヤ横丁へ引張りこむのだ。あとは簡単だ。あの夢遊病者のような歩き方が、団員の認識手段《にんしきしゅだん》なのだ。夢遊病者がやって来た。それ団員だといって、その男を本部へ引張りこむ。その上で尋《たず》ねてみると、どうも様子がおかしい。遂《つい》に正体が露見《ろけん》するが、結社の本部を知られてはもう生《い》かして置けぬということになる。やっつけられて気を失ったところを、黒塀《くろべい》の向うへ投げこみあの吊《つ》り籠《かご》に載せて、ギリギリとビール会社の高い窓へ送る。あとは器械に自然に捲《ま》きこまれて息の根も止《とま》れば、屍体も箱詰めになって、ビールと一緒に積み出される――」
「そんな歯車仕掛けのようにうまくゆくものか。行けば奇蹟《きせき》だ」
「奇蹟が三人の犠牲者を作るものか。ゆくかゆかないか。第四番目の犠牲者はもう出発を始めているのだ」
「なに?」
「考えても見給《みたま》え。例の妖酒から始まって、川っぷち、薬屋、ガールの家、ユダヤ横丁、黒塀《くろべい》、クレーンと吊《つ》り籠《かご》、ビール工場の高窓、箱詰め器械、それかち貨物駅と、これだけのものは次から次へとつながっているのだ。切迫《せっぱく》した尿意と慾情《よくじょう》とかゆみと夢遊《むゆう》と地形とユダヤ横丁の掟《おきて》と動くクレーンと動く箱詰め器械と、これだけのものが長いトンネルのように繋《つな》がっている。トンネルの入口はあの妖酒で、出口はビール箱だ。入口を入ったが最後、箱詰め屍体になるまで逃げることはできないのだ。なんと恐ろしいことではないか」


     6


 私にもだんだんと辻永の語る恐ろしさが判ってきた。ゾッとする戦慄《せんりつ》が背筋へ忍びよる――。
「この明るい東京の真ン中に、あのバーから始まってビール会社に続くこんな恐ろしい街道《かいどう》があるのだ。それは死に至る街道だ。地獄へゆく街道だ。これでも君は、おれ様の探偵眼を疑《うたが》うか」と辻永は虹《にじ》のような気焔《きえん》を吐《は》いた。
 私はすっかり自信がなくなった。顔面《がんめん》は紙のように白くなっていたであろう。手はワナワナと震《ふる》えてきた。
「もう判った。君はミチ子のことで、この僕をあの恐ろしい地獄街道へ送ろうというのだネ。さっき僕に飲ませた酒は、あの妖しい酒なんだろう。そうに違いない」
 私はもう坐《すわ》っても立っても居られなかった。それはミチ子をめぐる彼と私との暗闘《あんとう》が最後的場面へ抛《ほう》り出されたのだ。断然《だんぜん》たる敵意であった。砲弾のような悪意だった。
「はッはッはッ」と辻永は軽く笑った。「まア落着いたがいいだろう。あの酒は僕が飲ませたわけではなく、もともと君の前にミチ子が持ってきたのを、君がとりあげて飲み乾しただけのものじゃないか。僕がなにを知るものかネ。唯《ただ》、地獄街道の道案内を聞かせてやっただけじゃないか。最後の注意をするが、もうソロソロ催《もよお》してくるから、助かりたかったら……」
 と、そこまで云ったとき、辻永は襲《おそ》われた様《よう》に声を嚥《の》んでガッと眼を剥《む》いた。そして椅子からピンと立ち上ったが、痛そうな顔をして腰をかがめて下腹をおさえ、急いで手洗室の方へ駈け出した。
「戸をあけてくれ。あけてくれ」
「貴方《あなた》、ちょっとお待ちなすって」とその日は月曜だというのに珍らしくいつものように出ていた主人が駭《おどろ》いて駈けつけた。「唯今お客さまがお使いになっていますから、しばらく、しばらくお待ち下さい。しばらくどうぞ」
「ぎゃーッ」主人に遮《さえぎ》られて、辻永は獣《けもの》のような声をあげた。これがあの沈着な辻永とはどうして思えよう。彼はクルリとふりむくと、今度は表戸《おもてど》を蹴破《けやぶ》るようにしてサッと外へ飛び出した。私には何もかも判った。実に辻永は例の妖酒《ようしゅ》を自分が飲んでしまったのだ。
「オイ待て、辻永」私も続いて戸外にとび出した。もう十二時に間もない街はヒッソリと静かだった。辻永の姿はと見ると、向うの軒灯《けんとう》の下に転《ころ》がるように駈けている黒い影がそうであろうと思われた。私は彼の名を呼びながら追い駈けたがとても追いつけなかった。
 彼の話にある川っぷちを方々探したが見えない。桜ン坊も見当らない。探し疲れて橋の欄干《らんかん》に身を凭《もた》せかけた。もう時間はかなり経っているのにと心配していると、そこへ一台の自動車が風のように現われて、サッと通りすぎた。
「呀《あ》ッ! 辻永ッ」
 私は車内に、たしかに辻永の姿を認めた。彼の傍《かたわら》には確かにあの桜ン坊というガールがピッタリと倚《よ》りそっていた。私は路の真中まで駈け出したが、もう間に合わなかった。どうやら私は違った側の川っぷちを探していたものらしい。
 そこへ向うからパタパタと一人の女が近づいてきた。私の方へ向ってくるようだ。私はギョッとした。例のガールででもあって、そして矢張《やは》り私があの妖酒を飲まされていたのであったら、ああ其《そ》の恐るべき先は……。
「山野さん。あの人見付かって」
 それはミチ子だった。私はすこし安心した。
「駄目だった」
「あの人、黄疸《おうだん》だったようネ」
「黄疸! 黄疸というと、なんでも彼《か》でも黄色に見える病気だネ」
「そうよ」
「それで判った。僕のグラスの無色の酒を黄色のコンコドスと見誤《みあやま》り、自分の黄色のコンコドスを、もっと黄色い別の酒と見誤《みあやま》ったのだ。だからコンコドスは最初から註文したとおり辻永の前にあったのだ。彼は話をうまく持っていって、僕にコンコドスを飲ませるつもりだったのに違いない」
「コンコドスの事をまだ云ってるの。――辻永さんはどこへ行ったのでしょう。大丈夫かしら」
「うん――」私は返事に詰まった。このままにして置けば箱詰めになる辻永だった。
「とにかく帰って一杯飲もうよ――」と、私はミチ子の手をとった。いま地獄街道を蝙蝠《こうもり》のような恰好でヒラリヒラリと飛んでゆく彼の姿を肴《さかな》に一杯飲みながら、さて助けてやろうかやるまいかと考えるのも悪い気持ではなかろうと謂《い》うものだ。



底本:「海野十三全集 第2巻 俘囚」三一書房
   1991(平成3)年2月28日第1版第1刷発行
初出:「モダン日本」
   1933(昭和8)年9月号
入力:tatsuki
校正:土屋隆
2004年5月31日作成
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