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海潮音
上田敏訳詩集

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《》:ルビ
(例)伊太利亜《イタリア》

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(例)彫心|鏤骨《るこつ》の技巧実に

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(例)欲に※[#上に「厭」下に「食」]《あ》きて

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遙に満洲なる森鴎外氏に此の書を献ず

大寺の香の煙はほそくとも、空にのぼりて
あまぐもとなる、あまぐもとなる。
獅子舞歌


  海潮音 序

 巻中収むる処の詩五十七章、詩家二十九人、伊太利亜《イタリア》に三人、英吉利《イギリス》に四人、独逸《ドイツ》に七人、プロヴァンスに一人、而《しか》して仏蘭西《フランス》には十四人の多きに達し、曩《さき》の高踏派と今の象徴派とに属する者その大部を占む。
 高踏派の壮麗体を訳すに当りて、多く所謂《いはゆる》七五調を基としたる詩形を用ゐ、象徴派の幽婉《ゆうえん》体を翻《ほん》するに多少の変格を敢《あへ》てしたるは、その各《おのおの》の原調に適合せしめむが為《ため》なり。
 詩に象徴を用ゐること、必らずしも近代の創意にあらず、これ或は山岳と共に旧《ふる》きものならむ。然れどもこれを作詩の中心とし本義として故《ことさ》らに標榜《ひようぼう》する処あるは、蓋《けだ》し二十年来の仏蘭西新詩を以て嚆矢《こうし》とす。近代の仏詩は高踏派の名篇に於《おい》て発展の極に達し、彫心|鏤骨《るこつ》の技巧実に燦爛《さんらん》の美を恣《ほしいまま》にす、今ここに一転機を生ぜずむばあらざるなり。マラルメ、ヴェルレエヌの名家これに観る処ありて、清新の機運を促成し、終《つひ》に象徴を唱へ、自由詩形を説けり。訳者は今の日本詩壇に対《むかひ》て、専《もつぱ》らこれに則《のつと》れと云ふ者にあらず、素性の然らしむる処か、訳者の同情は寧《むし》ろ高踏派の上に在り、はたまたダンヌンチオ、オオバネルの詩に注げり。然れども又|徒《いたづ》らに晦渋《かいじゆう》と奇怪とを以て象徴派を攻むる者に同ぜず。幽婉|奇聳《きしよう》の新声、今人胸奥の絃に触るるにあらずや。坦々たる古道の尽くるあたり、荊棘《けいきよく》路を塞《ふさ》ぎたる原野に対《むかひ》て、これが開拓を勤むる勇猛の徒を貶《けな》す者は怯《きよう》に非《あ》らずむば惰なり。
 訳者|嘗《かつ》て十年の昔、白耳義《ベルギー》文学を紹介し、稍《やや》後れて、仏蘭西詩壇の新声、特にヴェルレエヌ、ヴェルハアレン、ロオデンバッハ、マラルメの事を説きし時、如上《うへのごとき》文人の作なほ未《いま》だ西欧の評壇に於ても今日の声誉《せいよ》を博する事|能《あた》はざりしが、爾来《じらい》世運の転移と共に清新の詩文を解する者、漸《やうや》く数を増し勢を加へ、マアテルリンクの如きは、全欧思想界の一方に覇《は》を称するに至れり。人心観想の黙移実に驚くべきかな。近体新声の耳目に嫺《なら》はざるを以て、倉皇視聴を掩《おほ》はむとする人々よ、詩天の星の宿は徙《のぼ》りぬ、心せよ。
 日本詩壇に於ける象徴詩の伝来、日なほ浅く、作未だ多からざるに当て、既《すで》に早く評壇の一隅に囁々《しようしよう》の語を為《な》す者ありと聞く。象徴派の詩人を目して徒らに神経の鋭きに傲《おご》る者なりと非議する評家よ、卿等《けいら》の神経こそ寧ろ過敏の徴候を呈したらずや。未だ新声の美を味ひ功を収めざるに先《さきだ》ちて、早くその弊竇《へいとう》に戦慄《せんりつ》するものは誰ぞ。
 欧洲の評壇また今に保守の論を唱ふる者無きにあらず。仏蘭西のブリュンチエル等の如きこれなり。訳者は芸術に対する態度と趣味とに於て、この偏想家と頗《すこぶ》る説を異にしたれば、その云ふ処に一々首肯する能はざれど、仏蘭西詩壇一部の極端派を制馭《せいぎよ》する消極の評論としては、稍《やや》耳を傾く可《べ》きもの無しとせざるなり。而してヤスナヤ・ポリヤナの老伯が近代文明|呪詛《じゆそ》の声として、その一端をかの「芸術論」に露《あらは》したるに至りては、全く賛同の意を呈する能はざるなり。トルストイ伯の人格は訳者の欽仰措《きんぎようお》かざる者なりと雖《いへど》も、その人生観に就ては、根本に於て既に訳者と見を異にす。抑《そもそ》も伯が芸術論はかの世界観の一片に過ぎず。近代新声の評隲《ひようしつ》に就て、非常なる見解の相違ある素《もと》より怪む可きにあらず。日本の評家等が僅に「芸術論」の一部を抽読《ちゆうどく》して、象徴派の貶斥《へんせき》に一大声援を得たる如き心地あるは、毫《ごう》も清新体の詩人に打撃を与ふる能はざるのみか、却《かへつ》て老伯の議論を誤解したる者なりと謂《い》ふ可し。人生観の根本問題に於て、伯と説を異にしながら、その論理上必須の結果たる芸術観のみに就て賛意を表さむと試むるも難いかな。
 象徴の用は、これが助を藉《か》りて詩人の観想に類似したる一の心状を読者に与ふるに在りて、必らずしも同一の概念を伝へむと勉《つと》むるに非ず。されば静に象徴詩を味ふ者は、自己の感興に応じて、詩人も未だ説き及ぼさざる言語道断の妙趣を翫賞《がんしよう》し得可し。故に一篇の詩に対する解釈は人各或は見を異にすべく、要は只類似の心状を喚起するに在りとす。例へば本書一〇二頁「鷺《さぎ》の歌」を誦するに当《あたり》て読者は種々の解釈を試むべき自由を有す。この詩を広く人生に擬《ぎ》して解せむか、曰《いは》く、凡俗の大衆は眼低し。法利賽《パリサイ》の徒と共に虚偽の生を営みて、醜辱|汚穢《おわい》の沼に網うつ、名や財や、はた楽欲《ぎようよく》を漁《あさ》らむとすなり。唯、縹緲《ひようびよう》たる理想の白鷺は羽風|徐《おもむろ》に羽撃《はばた》きて、久方の天に飛び、影は落ちて、骨蓬《かうほね》の白く清らにも漂ふ水の面に映りぬ。これを捉へむとしてえせず、この世のものならざればなりと。されどこれ只一の解釈たるに過ぎず、或は意を狭くして詩に一身の運を寄するも可ならむ。肉体の欲に※[#上に「厭」下に「食」、7-17]《あ》きて、とこしへに精神の愛に飢ゑたる放縦生活の悲愁ここに湛《たた》へられ、或は空想の泡沫《ほうまつ》に帰するを哀みて、真理の捉へ難きに憧《あこ》がるる哲人の愁思もほのめかさる。而してこの詩の喚起する心状に至りては皆相似たり。一二五頁「花冠」は詩人が黄昏《たそがれ》の途上に佇《たたず》みて、「活動」、「楽欲」、「驕慢《きようまん》」の邦《くに》に漂遊して、今や帰り来《きた》れる幾多の「想」と相語るに擬したり。彼等黙然として頭|俛《た》れ、齎《もた》らす処只幻惑の悲音のみ。孤《ひと》りこれ等の姉妹と道を異にしたるか、終に帰り来らざる「理想」は法苑林《ほうおんりん》の樹間に「愛」と相|睦《むつ》み語らふならむといふに在りて、冷艶《れいえん》素香の美、今の仏詩壇に冠たる詩なり。
 訳述の法に就ては訳者自ら語るを好まず。只訳詩の覚悟に関して、ロセッティが伊太利古詩翻訳の序に述べたると同一の見を持したりと告白す。異邦の詩文の美を移植せむとする者は、既に成語に富みたる自国詩文の技巧の為め、清新の趣味を犠牲にする事あるべからず。しかも彼《かの》所謂逐語訳は必らずしも忠実訳にあらず。されば「東行西行雲|眇眇《びようびよう》。二月三月日遅遅」を「とざまにゆき、かうざまに、くもはるばる。きさらぎ、やよひ、ひうらうら」と訓《よ》み給ひけむ神託もさることながら、大江朝綱《おおえのあさつな》が二条の家に物張の尼が「月によつて長安百尺の楼に上る」と詠じたる例に従ひたる処多し。

  明治三十八年初秋
                上田敏


目次

燕の歌     ガブリエレ・ダンヌンチオ
声曲      同
真昼      ルコント・ドゥ・リイル
大饑餓     同
象       同
珊瑚礁     ホセ・マリヤ・デ・エレディヤ
床       同
出征      同
夢       シュリ・プリュドン
信天翁     シャルル・ボドレエル
薄暮の曲    同
破鐘      同
人と海     同
梟       同
譬喩      ポオル・ヴェルレエヌ
よくみるゆめ  同
落葉      同
良心      ヴィクトル・ユウゴオ
礼拝      フランソア・コペエ
わすれなぐさ  ウィルヘルム・アレント
山のあなた   カアル・ブッセ
春       パウル・バルシュ
秋       オイゲン・クロアサン
わかれ     ヘリベルタ・フォン・ポシンゲル
水無月     テオドル・ストルム
花のをとめ   ハインリッヒ・ハイネ
瞻望      ロバアト・ブラウニング
出現      同
岩陰に     同
春の朝     同
至上善     同
花くらべ    ウィリアム・シェイクスピヤ
花の教     クリスティナ・ロセッティ
小曲      ダンテ・ゲブリエル・ロセッティ
恋の玉座    同
春の貢     同
心も空に    ダンテ・アリギエリ
鷺の歌     エミイル・ヴェルハアレン
法の夕     同
水かひば    同
畏怖      同
火宅      同
時鐘      同
黄昏      ジォルジュ・ロオデンバッハ
銘文      アンリ・ドゥ・レニエ
愛の教     同
花冠      同
延びあくびせよ フランシス・ヴィエレ・グリフィン
伴奏      アルベエル・サマン
賦       ジァン・モレアス
嗟嘆      ステファンヌ・マラルメ
白楊      テオドル・オオバネル
故国      同
海のあなたの  同
解悟      アルトゥロ・グラアフ
篠懸      ガブリエレ・ダンヌンチオ
海光      同


海潮音


   燕の歌     ガブリエレ・ダンヌンチオ

弥生《やよひ》ついたち、はつ燕《つばめ》、
海のあなたの静けき国の
便《たより》もてきぬ、うれしき文《ふみ》を。
春のはつ花、にほひを尋《と》むる。
あゝ、よろこびのつばくらめ。
黒と白との染分縞《そめわけじま》は
春の心の舞姿。

弥生来にけり、如月《きさらぎ》は
風もろともに、けふ去りぬ。
栗鼠《りす》の毛衣《けごろも》脱ぎすてて、
綾子《りんず》羽ぶたへ今様《いまよう》に、
春の川瀬をかちわたり、
しなだるゝ枝の森わけて、
舞ひつ、歌ひつ、足速《あしばや》の
恋慕の人ぞむれ遊ぶ。
岡に摘む花、菫《すみれ》ぐさ、
草は香りぬ、君ゆゑに、
素足の「春」の君ゆゑに。

けふは野山も新妻《にひづま》の姿に通ひ、
わだつみの波は輝く阿古屋珠《あこやだま》。
あれ、藪陰《やぶかげ》の黒鶫《くろつぐみ》、
あれ、なか空《そら》に揚雲雀《あげひばり》。
つれなき風は吹きすぎて、
旧巣《ふるす》啣《くは》へて飛び去りぬ。
あゝ、南国のぬれつばめ、
尾羽《をば》は矢羽根《やばね》よ、鳴く音《ね》は弦《つる》を
「春」のひくおと「春」の手の。

あゝ、よろこびの美鳥《うまどり》よ、
黒と白との水干《すいかん》に、
舞の足どり教へよと、
しばし招がむ、つばくらめ。
たぐひもあらぬ麗人《れいじん》の
イソルダ姫の物語、
飾り画《ゑが》けるこの殿《との》に
しばしはあれよ、つばくらめ。
かづけの花環こゝにあり、
ひとやにはあらぬ花籠を
給ふあえかの姫君は、
フランチェスカの前ならで、
まことは「春」のめがみ大神《おほがみ》。


 声曲《もののね》     ガブリエレ・ダンヌンチオ

われはきく、よもすがら、わが胸の上に、君眠る時、
吾は聴く、夜の静寂《しづけき》に、滴《したたり》の落つるを将《はた》、落つるを。
常にかつ近み、かつ遠み、絶間《たえま》なく落つるをきく、
夜もすがら、君眠る時、君眠る時、われひとりして。


 真昼《まひる》      ルコント・ドゥ・リイル

「夏」の帝《みかど》の「真昼時《まひるどき》」は、大野《おほの》が原に広ごりて、
白銀色《しろがねいろ》の布引《ぬのびき》に、青天《あをぞら》くだし天降《あもり》しぬ。
寂《じやく》たるよもの光景《けしき》かな。耀く虚空《こくう》、風絶えて、
炎《ほのほ》のころも、纏《まと》ひたる地《つち》の熟睡《うまい》の静心《しづごころ》。

眼路眇茫《めぢびようぼう》として極《きはみ》無く、樹蔭《こかげ》も見えぬ大野らや、
牧《まき》の畜《けもの》の水かひ場《ば》、泉は涸《か》れて音も無し。
野末遙けき森陰は、裾《すそ》の界《さかひ》の線《すぢ》黒み、
不動の姿夢重く、寂寞《じやくまく》として眠りたり。

唯熟したる麦の田は黄金海《おうごんかい》と連《つら》なりて、
かぎりも波の揺蕩《たゆたひ》に、眠るも鈍《おぞ》と嘲《あざ》みがほ、
聖なる地《つち》の安らけき児等《こら》の姿を見よやとて、
畏《おそ》れ憚《はばか》るけしき無く、日の觴《さかづき》を嚥《の》み干しぬ。

また、邂逅《わくらば》に吐息なす心の熱の穂に出でゝ、
囁声《つぶやきごゑ》のそこはかと、鬚長頴《ひげながかひ》の胸のうへ、
覚めたる波の揺動《ゆさぶり》や、うねりも貴《あて》におほどかに
起きてまた伏す行末は沙《すな》たち迷ふ雲のはて。

程遠からぬ青草の牧に伏したる白牛《はくぎゆう》が、
肉置《ししおき》厚き喉袋《のどぶくろ》、涎《よだれ》に濡《ぬ》らす慵《ものう》げさ、
妙《たへ》に気高《けだか》き眼差《まなざし》も、世の煩累《わづらひ》に倦《う》みしごと、
終《つひ》に見果てぬ内心の夢の衢《ちまた》に迷ふらむ。

人よ、爾《いまし》の心中を、喜怒哀楽に乱されて、
光明道《こうみようどう》の此原《このはら》の真昼《まひる》を孤《ひと》り過ぎゆかば、
※[#「にてんしんにょう」に官、22-2]《の》がれよ、こゝに万物は、凡《す》べて虚《うつろ》ぞ、日は燬《や》かむ。
ものみな、こゝに命無く、悦《よろこび》も無し、はた憂無し。

されど涙《なんだ》や笑声《しようせい》の惑《まどひ》を脱し、万象《ばんしよう》の
流転《るてん》の相《そう》を忘《ぼう》ぜむと、心の渇《かわき》いと切《せち》に、
現身《うつそみ》の世を赦《ゆる》しえず、はた咀《のろ》ひえぬ観念の
眼《まなこ》放ちて、幽遠の大歓楽を念じなば、

来れ、此地の天日《てんじつ》にこよなき法《のり》の言葉あり、
親み難き炎上《えんじよう》の無間《むげん》に沈め、なが思、
かくての後は、濁世の都をさして行くもよし、
物の七《なな》たび涅槃《ニルヴアナ》に浸りて澄みし心もて。


 大饑餓     ルコント・ドゥ・リイル

夢|円《まどか》なる滄溟《わだのはら》、濤《なみ》の巻曲《うねり》の揺蕩《たゆたひ》に
夜天《やてん》の星の影見えて、小島《をじま》の群と輝きぬ。
紫摩黄金《しまおうごん》の良夜《あたらよ》は、寂寞《じやくまく》としてまた幽に
奇《く》しき畏《おそれ》の満ちわたる海と空との原の上。

無辺の天や無量海、底《そこ》ひも知らぬ深淵《しんえん》は
憂愁の国、寂光土、また譬《たと》ふべし、※[#「ひへん」に「玄」、23-8]耀郷《げんようきよう》。
墳塋《おくつき》にして、はた伽藍《がらん》、赫灼《かくやく》として幽遠の
大荒原《だいこうげん》の縦横《たてよこ》を、あら、万眼《まんがん》の魚鱗《うろくづ》や。

青空《せいくう》かくも荘厳に、大水《だいすい》更に神寂《かみさ》びて
大光明の遍照《へんじよう》に、宏大無辺界中《こうだいむへんかいちゆう》に、
うつらうつらの夢枕、煩悩界《ぼんのうかい》の諸苦患《しよくげん》も、
こゝに通はぬその夢の限も知らず大いなる。

かゝりし程に、粗膚《あらはだ》の蓬起皮《ふくだみがは》のしなやかに
飢《うゑ》にや狂ふ、おどろしき深海底《ふかうみぞこ》のわたり魚《うを》、
あふさきるさの徘徊《もとほり》に、身の鬱憂を紛れむと、
南蛮鉄《なんばんてつ》の腮《あぎと》をぞ、くわつとばかりに開いたる。

素《もと》より無辺天空を仰ぐにはあらぬ魚の身の、
参《からすき》の宿《しゆく》、みつ星《ぼし》や、三角星《さんかくせい》や天蝎宮《てんかつきゆう》、
無限に曳《ひ》ける光芒《こうぼう》のゆくてに思馳《おもひは》するなく、
北斗星前《ほくとせいぜん》、横《よこた》はる大熊星《だいゆうせい》もなにかあらむ。

唯、ひとすぢに、生肉《せいにく》を噛まむ、砕かむ、割《さ》かばやと、
常の心は、朱《あけ》に染み、血の気に欲を湛《たた》へつゝ、
影暗うして水重き潮の底の荒原を、
曇れる眼《まなこ》、きらめかし、悽惨《せいさん》として遅々たりや。

こゝ虚《うつろ》なる無声境《むせいきよう》、浮べる物や、泳ぐもの、
生きたる物も、死したるも、此|空漠《くうばく》の荒野《あらぬ》には、
音信《おとづれ》も無し、影も無し。たゞ水先《みづさき》の小判鮫《こばんざめ》、
真黒《まくろ》の鰭《ひれ》のひたうへに、沈々として眠るのみ。

行きね妖怪《あやかし》、なれが身も人間道《にんげんどう》に異ならず、
醜悪《しゆうお》、獰猛《どうもう》、暴戻《ぼうれい》のたえて異なるふしも無し。
心安かれ、鱶《ふか》ざめよ、明日《あす》や食らはむ人間を、
又さはいへど、汝《なれ》が身も、明日や食はれむ、人間に。

聖なる飢《うゑ》は正法《しようほう》の永くつゞける殺生業《せつしようごう》、
かげ深海《ふかうみ》も光明の天《あま》つみそらもけぢめなし。
それ人間も、鱶鮫《ふかざめ》も、残害《ざんがい》の徒も、餌食《ゑじき》等も、
見よ、死の神の前にして、二つながらに罪ぞ無き。


 象       ルコント・ドゥ・リイル

沙漠は丹《たん》の色にして、波|漫々《まんまん》たるわだつみの
音しづまりて、日に燬《や》けて、熟睡《うまい》の床に伏す如く、
不動のうねり、大《おほ》らかに、ゆくらゆくらに伝《つたは》らむ、
人住むあたり銅《あかがね》の雲、たち籠むる眼路《めぢ》のすゑ。

命も音も絶えて無し。餌《ゑば》に飽きたる唐獅子《からじし》も、
百里の遠き洞窟《ほらあな》の奥にや今は眠るらむ。
また岩清水|迸《ほとばし》る長沙《ちようさ》の央《なかば》、青葉かげ、
豹《ひよう》も来て飲む椰子森《やしりん》は、麒麟《きりん》が常の水かひ場。

大日輪の走《は》せ廻《めぐ》る気重き虚空鞭《こくうむち》うつて、
羽掻《はがき》の音の声高き一鳥《いつちよう》遂に飛びも来ず、
たまたま見たり、蟒蛇《うはばみ》の夢も熱きか円寝《まろね》して、
とぐろの綱を動せば、鱗《うろこ》の光まばゆきを。

一天霽《いつてんは》れて、そが下に、かゝる炎の野はあれど、
物鬱《ものうつ》として、寂寥《せきりよう》のきはみを尽すをりしもあれ、
皺《しわ》だむ象の一群よ、太しき脚の練歩《ねりあし》に、
うまれの里の野を捨てゝ、大沙原《おほすなばら》を横に行く。

地平のあたり、一団の褐色《くりいろ》なして、列《つら》なめて、
みれば砂塵を蹴立てつゝ、路無き原を直道《ひたみち》に、
ゆくてのさきの障碍《さまたげ》を、もどかしとてや、力足《ちからあし》、
蹈鞴《たたら》しこふむ勢《いきほひ》に、遠《をち》の砂山崩れたり。

導《しるべ》にたてる年嵩《としかさ》のてだれの象の全身は
「時」が噛みてし、刻みてし老樹の幹のごと、ひわれ
巨巌の如き大頭《おほがしら》、脊骨《せぼね》の弓の太しきも、
何の苦も無く自《おの》づから、滑《なめ》らかにこそ動くなれ。

歩遅《あゆみおそ》むることもなく、急ぎもせずに、悠然と、
塵にまみれし群象をめあての国に導けば、
沙《すな》の畦《あぜ》くろ、穴に穿《うが》ち、続いて歩むともがらは、
雲突く修験山伏《すげんやまぶし》か、先達《せんだつ》の蹤蹈《あとふん》でゆく。

耳は扇とかざしたり、鼻は象牙《ぞうげ》に介《はさ》みたり、
半眼《はんがん》にして辿《たど》りゆくその胴腹《どうばら》の波だちに、
息のほてりや、汗のほけ、烟《けむり》となつて散乱し、
幾千万の昆虫が、うなりて集《つど》ふ餌食《ゑじき》かな。

饑渇《きかつ》の攻《せめ》や、貪婪《たんらん》の羽虫《はむし》の群《むれ》もなにかあらむ、
黒皺皮《くろじわがは》の満身の膚《はだへ》をこがす炎暑をや。
かの故里《ふるさと》をかしまだち、ひとへに夢む、道遠き
眼路《めぢ》のあなたに生ひ茂げる無花果《いちじゆく》の森、象《きさ》の邦《くに》。

また忍ぶかな、高山《たかやま》の奥より落つる長水《ちようすい》に
巨大の河馬《かば》の嘯《うそぶ》きて、波濤たぎつる河の瀬を、
あるは月夜《げつや》の清光に白《しろ》みしからだ、うちのばし、
水かふ岸の葦蘆《よしあし》を蹈《ふ》み砕きてや、降《お》りたつを。

かゝる勇猛沈勇の心をきめて、さすかたや、
涯《きはみ》も知らぬ遠《をち》のすゑ、黒線《くろすぢ》とほくかすれゆけば、
大沙原《おほすなはら》は今さらに不動のけはひ、神寂《かみさ》びぬ。
身動《みじろぎ》迂《うと》き旅人《たびうど》の雲のはたてに消ゆる時。

ルコント・ドゥ・リイルの出づるや、哲学に基《もとづ》ける厭世《えんせい》観は仏蘭西《フランス》の詩文に致死の棺衣《たれぎぬ》を投げたり。前人の詩、多くは一時の感慨を洩《もら》し、単純なる悲哀の想を鼓吹するに止《とどま》りしかど、この詩人に至り、始めて、悲哀は一種の系統を樹《た》て、芸術の荘厳を帯ぶ。評家久しく彼を目するに高踏派の盟主を以てす。即《すなは》ち格調定かならぬドゥ・ミュッセエ、ラマルティイヌの後に出《い》で、始て詩神の雲髪を捉《つか》みて、これに峻厳《しゆんげん》なる詩法の金櫛《きんしつ》を加へたるが故也。彼常に「不感無覚」を以て称せらる。世人|輙《やや》もすれば、この語を誤解して曰《いは》く、高踏一派の徒、甘《あまん》じて感情を犠牲とす。これ既に芸術の第一義を没却したるものなり。或は恐る、終《つひ》に述作無きに至らむをと。あらず、あらず、この暫々《しばしば》濫用せらるる「不感無覚」の語義を芸文の上より解する時は、単に近世派の態度を示したるに過ぎざるなり。常に宇宙の深遠なる悲愁、神秘なる歓楽を覚ゆるものから、当代の愚かしき歌物語が、野卑陳套《やひちんとう》の曲を反復して、譬《たと》へば情痴の涙に重き百葉の軽舟、今、芸苑の河流を閉塞《へいそく》するを敬せざるのみ。尋常世態の瑣事《さじ》、奚《いづくん》ぞよく高踏派の詩人を動さむ。されどこれを倫理の方面より観むか、人生に対するこの派の態度、これより学ばむとする教訓はこの一言に現はる。曰く哀楽は感ず可く、歌ふ可し、然も人は斯多阿《ストア》学徒の心を以て忍ばざる可からずと。かの額付《ひたひつき》、物思はしげに、長髪わざとらしき詩人等もこの語には辟易《へきえき》せしも多かり。さればこの人は芸文に劃然《かくぜん》たる一新機軸を出しし者にして同代の何人よりも、その詩、哲理に富み、譬喩《ひゆ》の趣を加ふ。「カイン」「サタン」の詩二つながら人界の災殃《さいおう》を賦《ふ》し、「イパティイ」は古代衰亡の頽唐美《たいとうび》、「シリル」は新しき信仰を歌へり。ユウゴオが壮大なる史景を咏《えい》じて、台閣の風ある雄健の筆を振ひ、史乗逸話の上に叙情詩めいたる豊麗を与へたると並びて、ルコント・ドゥ・リイルは、伝説に、史蹟に、内部の精神を求めぬ。かの伝奇の老大家は歴史の上に燦爛《さんらん》たる紫雲を曳《ひ》き、この憂愁の達人はその実体を闡明《せんめい》す。
      *
読者の眼頭に彷彿《ほうふつ》として展開するものは、豪壮悲惨なる北欧思想、明暢《めいちよう》清朗なる希臘《ギリシヤ》田野の夢、または銀光の朧々《ろうろう》たること、その聖十字架を思はしむる基督《キリスト》教法の冥想、特に印度《インド》大幻夢|涅槃《ねはん》の妙説なりけり。
      *
黒檀《こくたん》の森茂げきこの世の涯《はて》の老国より来て、彼は長久の座を吾等の傍《かたはら》に占めつ、教へて曰く『寂滅為楽』。
      *
幾度と無く繰返したる大智識の教話によりて、悲哀は分類結晶して、頗《すこぶ》る静寧の姿を得たるも、なほ、をりふしは憤怒の激発に迅雷の轟然《ごうぜん》たるを聞く。ここに於てか電火ひらめき、万雷はためき、人類に対する痛罵《つうば》、宛《あたか》も薬綫《やくせん》の爆発する如く、所謂《いはゆる》「不感無覚」の墻壁《しようへき》を破り了《をはん》ぬ。
      *
自家の理論を詩文に発表して、シォペンハウエルの弁証したる仏法の教理を開陳したるは、この詩人の特色ならむ。儕輩《さいはい》の詩人皆多少憂愁の思想を具《そな》へたれど、厭世観の理義彼に於ける如く整然たるは罕《まれ》なり。衆人|徒《いたづ》らに虚無を讃す。彼は明かにその事実なるを示せり。その詩は智の詩なり。然も詩趣|饒《ゆた》かにして、坐《そぞ》ろにペラスゴイ、キュクロプスの城址《じようし》を忍ばしむる堅牢《けんろう》の石壁は、かの繊弱の律に歌はれ、往々俗謡に傾ける当代伝奇の宮殿を摧《くだ》かむとすなり。
エミイル・ヴェルハアレン[#文末より1字上げ揃え]


 珊瑚礁《さんごしよう》    ホセ・マリヤ・デ・エレディヤ

波の底にも照る日影、神寂《かみさ》びにたる曙《あけぼの》の
照しの光、亜比西尼亜《アビシニア》、珊瑚の森にほの紅く、
ぬれにぞぬれし深海《ふかうみ》の谷隈《たにくま》の奥に透入《すきい》れば、
輝きにほふ虫のから、命にみつる珠《たま》の華。

沃度《ヨウド》に、塩にさ丹《に》づらふ海の宝のもろもろは
濡髪《ぬれがみ》長き海藻《かいそう》や、珊瑚、海胆《うに》、苔《こけ》までも、
臙脂《えんじ》紫《むらさき》あかあかと、華奢《かしや》のきはみの絵模様に、
薄色ねびしみどり石、蝕《むしば》む底ぞ被《おほ》ひたる。

鱗《こけ》の光のきらめきに白琺瑯《はくほうろう》を曇らせて、
枝より枝を横ざまに、何を尋《たづ》ぬる一大魚《いちだいぎよ》、
光|透入《すきい》る水かげに慵《ものう》げなりや、もとほりぬ。

忽ち紅火飄《こうかひるが》へる思の色の鰭《ひれ》ふるひ、
藍《あゐ》を湛《たた》へし静寂のかげ、ほのぐらき清海波《せいがいは》、
水揺《みづゆ》りうごく揺曳《ようえい》は黄金《おうごん》、真珠、青玉《せいぎよく》の色。


 床       ホセ・マリヤ・デ・エレディヤ

さゝらがた錦を張るも、荒妙《あらたへ》の白布《しらぬの》敷くも、
悲しさは墳塋《おくつき》のごと、楽しさは巣の如しとも、
人生れ、人いの眠り、つま恋ふる凡《す》べてこゝなり、
をさな児《ご》も、老《おい》も若《わかき》も、さをとめも、妻も、夫も。

葬事《はふりごと》、まぐはひほがひ、烏羽玉《うばたま》の黒十字架《くろじゆうじか》に
浄《きよ》き水はふり散らすも、祝福の枝をかざすも、
皆こゝに物は始まり、皆こゝに事は終らむ、
産屋《うぶや》洩る初日影より、臨終の燭《そく》の火までも、

天離《あまさか》る鄙《ひな》の伏屋《ふせや》も、百敷《ももしき》の大宮内《おほみやうち》も、
紫摩金《しまごん》の栄《はえ》を尽して、紅《あけ》に朱《しゆ》に矜《ほこ》り飾るも、
鈍色《にびいろ》の樫《かし》のつくりや、楓《かへで》の木、杉の床にも。

独《ひと》り、かの畏《おそれ》も悔も無く眠る人こそ善けれ、
みおやらの生れし床に、みおやらの失《うせ》にし床に、
物古りし親のゆづりの大床《おほどこ》に足を延ばして。


 出征      ホセ・マリヤ・デ・エレディヤ

高山《たかやま》の鳥栖巣《とぐらす》だちし兄鷹《しよう》のごと、
身こそたゆまね、憂愁に思は倦《うん》じ、
モゲルがた、パロスの港、船出して、
雄誥《をたけ》ぶ夢ぞ逞《たく》ましき、あはれ、丈夫《ますらを》。

チパンゴに在りと伝ふる鉱山《かなやま》の
紫摩黄金《しまおうごん》やわが物と遠く、求むる
船の帆も撓《し》わりにけりな、時津風《ときつかぜ》、
西の世界の不思議なる遠荒磯《とほつありそ》に。

ゆふべゆふべは壮大の旦《あした》を夢み、
しらぬ火や、熱帯海《ねつたいかい》のかぢまくら、
こがね幻《まぼろし》通ふらむ。またある時は

白妙の帆船の舳《へ》さき、たゝずみて、
振放《ふりさけ》みれば、雲の果、見知らぬ空や、
蒼海《わだつみ》の底よりのぼる、けふも新星《にひぼし》。


 夢       シュリ・プリュドン

夢のうちに、農人曰《のうにんいは》く、なが糧《かて》をみづから作れ、
けふよりは、なを養はじ、土を墾《ほ》り種を蒔《ま》けよと。
機織《はたおり》はわれに語りぬ、なが衣《きぬ》をみづから織れと。
石造《いしつくり》われに語りぬ、いざ鏝《こて》をみづから執《と》れと。

かくて孤《ひと》り人間の群やらはれて解くに由なき
この咒詛《のろひ》、身にひき纏《まと》ふ苦しさに、みそら仰ぎて、
いと深き憐愍《あはれみ》垂れさせ給へよと、祷《いの》りをろがむ
眼前《まのあたり》、ゆくての途のたゞなかを獅子はふたぎぬ。

ほのぼのとあけゆく光、疑ひて眼《まなこ》ひらけば、
雄々しかる田つくり男、梯立《はしだて》に口笛鳴らし、
※[#「いとへん」に「曾」、40-2]具《はたもの》の※[#「あしへん」に「日」と「旧字の羽」、40-2]木《ふみき》もとゞろ、小山田に種《たね》ぞ蒔きたる。

世の幸《さち》を今はた識《し》りぬ、人の住むこの現世《うつしよ》に、
誰かまた思ひあがりて、同胞《はらから》を凌《しの》ぎえせむや。
其日より吾はなべての世の人を愛しそめけり。


 信天翁《おきのたゆう》     シャルル・ボドレエル

波路遙けき徒然《つれづれ》の慰草《なぐさめぐさ》と船人《ふなびと》は、
八重の潮路の海鳥《うみどり》の沖の太夫《たゆう》を生檎《いけど》りぬ、
楫《かぢ》の枕のよき友よ心|閑《のど》けき飛鳥《ひちよう》かな、
奥津潮騒《おきつしほざゐ》すべりゆく舷《ふなばた》近くむれ集《つど》ふ。

たゞ甲板《こうはん》に据ゑぬればげにや笑止《しようし》の極《きはみ》なる。
この青雲の帝王も、足どりふらゝ、拙《つたな》くも、
あはれ、真白き双翼《そうよく》は、たゞ徒《いたづ》らに広ごりて、
今は身の仇《あだ》、益《よう》も無き二つの櫂《かい》と曳きぬらむ。

天《あま》飛ぶ鳥も、降《くだ》りては、やつれ醜き瘠姿《やせすがた》、
昨日《きのふ》の羽根のたかぶりも、今はた鈍《おぞ》に痛はしく、
煙管《きせる》に嘴《はし》をつゝかれて、心無《こころなし》には嘲けられ、
しどろの足を摸《ま》ねされて、飛行《ひぎよう》の空に憧《あこ》がるゝ。

雲居の君のこのさまよ、世の歌人《うたびと》に似たらずや、
暴風雨《あらし》を笑ひ、風|凌《しの》ぎ猟男《さつを》の弓をあざみしも、
地《つち》の下界《げかい》にやらはれて、勢子《せこ》の叫に煩へば、
太しき双《そう》の羽根さへも起居妨《たちゐさまた》ぐ足まとひ。


 薄暮《くれがた》の曲《きよく》    シャルル・ボドレエル

時こそ今は水枝《みづえ》さす、こぬれに花の顫《ふる》ふころ。
花は薫じて追風に、不断の香の炉に似たり。
匂も音も夕空に、とうとうたらり、とうたらり、
ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦《う》みたる眩暈《くるめき》よ。

花は薫じて追風に、不断の香の炉に似たり。
痍《きず》に悩める胸もどき、ヴィオロン楽《がく》の清掻《すががき》や、
ワルツの舞の哀れさよ、疲れ倦みたる眩暈《くるめき》よ、
神輿《みこし》の台をさながらの雲悲みて艶《えん》だちぬ。

痍《きず》に悩める胸もどき、ヴィオロン楽《がく》の清掻《すががき》や、
闇の涅槃《ねはん》に、痛ましく悩まされたる優心《やさごころ》。
神輿《みこし》の台をさながらの雲悲みて艶《えん》だちぬ、
日や落入りて溺《おぼ》るゝは、凝《こご》るゆふべの血潮雲《ちしほぐも》。

闇の涅槃《ねはん》に、痛ましく悩まされたる優心《やさごころ》、
光の過去のあとかたを尋《と》めて集むる憐れさよ。
日や落入りて溺るゝは、凝《こご》るゆふべの血潮雲、
君が名残《なごり》のたゞ在るは、ひかり輝く聖体盒《せいたいごう》。


 破鐘《やれがね》      シャルル・ボドレエル

悲しくもまたあはれなり、冬の夜の地炉《ゐろり》の下《もと》に、
燃えあがり、燃え尽きにたる柴の火に耳傾けて、
夜霧だつ闇夜の空の寺の鐘、きゝつゝあれば、
過ぎし日のそこはかとなき物思ひやをら浮びぬ。

喉太《のどぶと》の古鐘《ふるがね》きけば、その身こそうらやましけれ。
老《おい》らくの齢《とし》にもめげず、健《すこ》やかに、忠《まめ》なる声の、
何時《いつ》もいつも、梵音妙《ぼんのんたへ》に深くして、穏《おほ》どかなるは、
陣営の歩哨《ほしよう》にたてる老兵の姿に似たり。

そも、われは心破れぬ。鬱憂のすさびごこちに、
寒空《さむぞら》の夜《よる》に響けと、いとせめて、鳴りよそふとも、
覚束《おぼつか》な、音《ね》にこそたてれ、弱声《よわごゑ》の細音《ほそね》も哀れ、

哀れなる臨終《いまは》の声《こゑ》は、血の波の湖の岸、
小山なす屍《かばね》の下《もと》に、身動《みじろぎ》もえならで死《う》する、
棄てられし負傷《ておひ》の兵の息絶ゆる終《つひ》の呻吟《うめき》か。


 人と海     シャルル・ボドレエル

こゝろ自由《まま》なる人間は、とはに賞《め》づらむ大海を。
海こそ人の鏡なれ。灘《なだ》の大波《おほなみ》はてしなく、
水や天《そら》なるゆらゆらは、うつし心の姿にて、
底ひも知らぬ深海《ふかうみ》の潮の苦味《にがみ》も世といづれ。

さればぞ人は身を映《うつ》す鏡の胸に飛び入《い》りて、
眼《まなこ》に抱き腕にいだき、またある時は村肝《むらぎも》の
心もともに、はためきて、潮騒《しほざゐ》高く湧くならむ、
寄せてはかへす波の音《おと》の、物狂ほしき歎息《なげかひ》に。

海も爾《いまし》もひとしなみ、不思議をつゝむ陰なりや。
人よ、爾《いまし》が心中《しんちゆう》の深淵|探《さぐ》りしものやある。
海よ、爾《いまし》が水底《みなぞこ》の富を数へしものやある。
かくも妬《ねた》げに秘事《ひめごと》のさはにもあるか、海と人。

かくて劫初《ごうしよ》の昔より、かくて無数の歳月を、
慈悲悔恨の弛《ゆるみ》無く、修羅《しゆら》の戦酣《たたかひたけなは》に、
げにも非命と殺戮《さつりく》と、なじかは、さまで好《この》もしき、
噫《ああ》、永遠のすまうどよ、噫、怨念《おんねん》のはらからよ。


 梟《ふくろふ》       シャルル・ボドレエル

 黒葉《くろば》水松《いちゐ》の木下闇《このしたやみ》に
 並んでとまる梟は
 昔の神をいきうつし、
 赤眼《あかめ》むきだし思案顔。

 体《たい》も崩さず、ぢつとして、
 なにを思ひに暮がたの
 傾く日脚《ひあし》推しこかす
 大凶時《おほまがとき》となりにけり。

 鳥のふりみて達人は
 道の悟《さとり》や開くらむ、
 世に忌々《ゆゆ》しきは煩悩と。

 色相界《しきそうかい》の妄執《もうしゆう》に
 諸人《しよにん》のつねのくるしみは
 居《きよ》に安《やすん》ぜぬあだ心。

現代の悲哀はボドレエルの詩に異常の発展を遂げたり。人或は一見して云はむ、これ僅に悲哀の名を変じて鬱悶《うつもん》と改めしのみと、しかも再考して終《つひ》にその全く変質したるを暁《さと》らむ。ボドレエルは悲哀に誇れり。即ちこれを詩章の竜葢帳《りようがいちよう》中に据ゑて、黒衣聖母の観あらしめ、絢爛《けんらん》なること絵画の如《ごと》き幻想と、整美なること彫塑《ちようそ》に似たる夢思とを恣《ほしいまま》にしてこれに生動の気を与ふ。ここに於てか、宛《あたか》もこれ絶美なる獅身女頭獣なり。悲哀を愛するの甚《はなはだ》しきは、いづれの先人をも凌《しの》ぎ、常に悲哀の詩趣を讃して、彼は自ら「悲哀の煉金道士」と号せり。
      *
先人の多くは、悩心地定かならぬままに、自然に対する心中の愁訴を、自然その物に捧げて、尋常の失意に泣けども、ボドレエルは然らず。彼は都府の子なり。乃《すなは》ち巴里《パリ》叫喊《きようかん》地獄の詩人として胸奥の悲を述べ、人に叛《そむ》き世に抗する数奇の放浪児が為に、大声を仮したり。その心、夜に似て暗憺《あんたん》、いひしらず汚れにたれど、また一種の美、たとへば、濁江の底なる眼、哀憐《あいりん》悔恨の凄光《せいこう》を放つが如きもの無きにしもあらず。
エミイル・ヴェルハアレン[#文末より1字上げ揃え]

ボドレエル氏よ、君は芸術の天にたぐひなき凄惨の光を与へぬ。即ち未だ曾《かつ》てなき一の戦慄《せんりつ》を創成したり。
ヴィクトル・ユウゴオ[#文末より1字上げ揃え]


 譬喩《ひゆ》      ポオル・ヴェルレエヌ

主は讃《ほ》むべき哉《かな》、無明《むみよう》の闇や、憎《にくみ》多き
今の世にありて、われを信徒となし給ひぬ。
願はくは吾に与へよ、力と沈勇とを。
いつまでも永く狗子《いぬ》のやうに従ひてむ。

生贄《いけにへ》の羊、その母のあと、従ひつつ、
何の苦もなくて、牧草を食《は》み、身に生《お》ひたる
羊毛のほかに、その刻《とき》来ぬれば、命をだに
惜まずして、主に奉る如くわれもなさむ。

また魚とならば、御子《みこ》の頭字象《かしらじかたど》りもし、
驢馬《ろば》ともなりては、主を乗せまつりし昔思ひ、
はた、わが肉より禳《はら》ひ給ひし豕《ゐのこ》を見いづ。

げに末《すゑ》つ世の反抗表裏の日にありては
人間よりも、畜生の身ぞ信深くて
心|素直《すなほ》にも忍辱《にんにく》の道守るならむ。


 よくみるゆめ  ポオル・ヴェルレエヌ

常によく見る夢ながら、奇《あ》やし、懐《なつ》かし、身にぞ染む。
曾ても知らぬ女《ひと》なれど、思はれ、思ふかの女《ひと》よ。
夢見る度のいつもいつも、同じと見れば、異《ことな》りて、
また異らぬおもひびと、わが心根《こころね》や悟りてし。

わが心根を悟りてしかの女《ひと》の眼に胸のうち、
噫《ああ》、彼女《かのひと》にのみ内証《ないしよう》の秘めたる事ぞなかりける。
蒼ざめ顔のわが額《ひたひ》、しとゞの汗を拭ひ去り、
涼しくなさむ術《すべ》あるは、玉の涙のかのひとよ。

栗色髪のひとなるか、赤髪《あかげ》のひとか、金髪か、
名をだに知らね、唯思ふ朗ら細音《ほそね》のうまし名は、
うつせみの世を疾《と》く去りし昔の人の呼名《よびな》かと。

つくづく見入る眼差《まなざし》は、匠《たくみ》が彫《ゑ》りし像の眼か、
澄みて、離れて、落居《おちゐ》たる其|音声《おんじよう》の清《すず》しさに、
無言《むごん》の声の懐かしき恋しき節の鳴り響く。


 落葉      ポオル・ヴェルレエヌ

秋の日の
ヴィオロンの
ためいきの
身にしみて
ひたぶるに
うら悲し。

鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。

げにわれは
うらぶれて
こゝかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。


仏蘭西《フランス》の詩はユウゴオに絵画の色を帯び、ルコント・ドゥ・リイルに彫塑の形を具《そな》へ、ヴェルレエヌに至りて音楽の声を伝へ、而して又更に陰影の匂なつかしきを捉《とら》へむとす。訳者[#「訳者」は文末より1字上げ揃え]


 良心      ヴィクトル・ユウゴオ

革衣纏《かはごろもまと》へる児等《こら》を引具《ひきぐ》して
髪おどろ色蒼ざめて、降る雨を、
エホバよりカインは離《さか》り迷ひいで、
夕闇の落つるがまゝに愁然《しゆうねん》と、
大原《おほはら》の山の麓《ふもと》にたどりつきぬ。
妻は倦《う》み児等も疲れて諸声《もろごゑ》に、
「地《つち》に伏していざ、いのねむ」と語りけり。
山陰《やまかげ》にカインはいねず、夢おぼろ、
烏羽玉《うばたま》の暗夜《やみよ》の空を仰ぎみれば、
広大の天眼《てんがん》くわつと、かしこくも、
物陰の奥より、ひしと、みいりたるに、
わなゝきて「未だ近し」と叫びつつ、
倦《う》みし妻、眠れる児等を促して、
もくねんと、ゆくへも知らに逃《のが》れゆく。
かゝなべて、日には三十日《みそか》、夜《よ》は、三十夜《みそよ》、
色変へて、風の音《おと》にもをのゝきぬ。
やらはれの、伏眼《ふしめ》の旅は果もなし、
眠なく休《いこ》ひもえせで、はろばろと、
後の世のアシュルの国、海のほとり、
荒磯《ありそ》にこそはつきにけれ。「いざ、こゝに
とゞまらむ。この世のはてに今ぞ来し、
いざ」と、いへば、陰雲暗きめぢのあなた、
いつも、いつも、天眼《てんがん》ひしと睨《にら》みたり。
おそれみに身も世もあらず、戦《をのの》きて、
「隠せよ」と叫ぶ一声《いつせい》。児等はただ
猛《たけ》き親を口に指あて眺めたり。
沙漠の地、毛織の幕に住居する
後の世のうからのみおやヤバルにぞ
「このむたに幕ひろげよ」と命ずれば、
ひるがへる布の高壁めぐらして
鉛もて地に固むるに、金髪の
孫むすめ曙のチラは語りぬ。
「かくすれば、はや何も見給ふまじ」と。
「否なほも眼睨《まなこにら》む」とカインいふ。
角《かく》を吹き鼓をうちて、城《き》のうちを
ゆきめぐる民草《たみぐさ》のおやユバルいふ、
「おのれ今固き守や設けむ」と。
銅《あかがね》の壁|築《つ》き上げて父の身を、
そがなかに隠しぬれども、如何《いかに》せむ、
「いつも、いつも眼睨《まなこにら》む」といらへあり。
「恐しき塔をめぐらし、近よりの
難きやうにすべし。砦守《とりでも》る城築《しろつき》あげて、
その邑《まち》を固くもらむ」と、エノクいふ。
鍛冶《かぢ》の祖《おや》トバルカインは、いそしみて、
宏大の無辺都城《むへんとじよう》を営むに、
同胞《はらから》は、セツの児等《こら》、エノスの児等を、
野辺かけて狩暮《かりくら》しつゝ、ある時は
旅人《たびびと》の眼《まなこ》をくりて、夕されば
星天《せいてん》に征矢《そや》を放ちぬ。これよりぞ、
花崗石《みかげいし》、帳《とばり》に代り、くろがねを
石にくみ、城《き》の形、冥府《みようふ》に似たる
塔影は野を暗うして、その壁ぞ
山のごと厚くなりける。工成りて
戸を固め、壁建《かべたて》終り、大城戸《おほきど》に
刻める文字を眺むれば「このうちに
神はゆめ入る可からず」と、ゑりにたり。
さて親は石殿《せきでん》に住はせたれど、
憂愁のやつれ姿ぞいぢらしき。
「おほぢ君、眼は消えしや」と、チラの問へば、
「否、そこに今もなほ在り」と、カインいふ。
「墳塋《おくつき》に寂しく眠る人のごと、
地の下にわれは住はむ。何物も
われを見じ、吾《われ》も亦《また》何をも見じ」と。
さてこゝに坑《あな》を穿《うが》てば「よし」といひて、
たゞひとり闇穴道《あんけつどう》におりたちて、
物陰の座にうちかくる、ひたおもて、
地下《ちげ》の戸を、はたと閉づれば、こはいかに、
天眼《てんがん》なほも奥津城《おくつき》にカインを眺む。

ユウゴオの趣味は典雅ならず、性情奔放にして狂※[#「颱」の台に変えて「炎」、62-13]《きようひよう》激浪の如くなれど、温藉静冽《おんしやせいれつ》の気|自《おのづ》からその詩を貫きたり。対聯《たいれん》比照に富み、光彩陸離たる形容の文辞を畳用して、燦爛《さんらん》たる一家の詩風を作りぬ。訳者[#「訳者」は文末より1字上げ揃え]


 礼拝      フランソア・コペエ

さても千八百九年、サラゴサの戦、
われ時に軍曹なりき。此日|惨憺《さんたん》を極む。
街既に落ちて、家を囲むに、
閉ぢたる戸毎に不順の色見え、
鉄火、窓より降りしきれば、
「憎《に》つくき僧徒の振舞」と
かたみに低く罵《ののし》りつ。
明方《あけがた》よりの合戦に
眼は硝煙に血走りて、
舌には苦《に》がき紙筒《はやごう》を
噛み切る口の黒くとも、
奮闘の気はいや益《ま》しに、
勢猛《いきほひもう》に追ひ迫り、
黒衣長袍《こくいちようほう》ふち広き帽を狙撃《そげき》す。
狭き小路《こうじ》の行進に
とざま、かうざま顧みがち、
われ軍曹の任《にん》にしあれば、
精兵従へ推しゆく折りしも、
忽然《こつねん》として中天《なかぞら》赤く、
鉱炉《こうろ》の紅舌《こうぜつ》さながらに、
虐殺せらるゝ婦女の声、
遙かには轟々《ごうごう》の音《おと》とよもして、
歩毎に伏屍累々《ふくしるいるい》たり。
屈《こごん》でくゞる軒下を
出でくる時は銃剣の
鮮血|淋漓《りんり》たる兵が、
血紅《ちべに》に染みし指をもて、
壁に十字を書置くは、
敵|潜《ひそ》めるを示すなり。
鼓うたせず、足重く、
将校たちは色曇り、
さすが、手練《てだれ》の旧兵《ふるつはもの》も、
落居ぬけはひに、寄添ひて、
新兵もどきの胸さわぎ。

忽ち、とある曲角《きよくかく》に、
援兵と呼ぶ仏語の一声、
それ、戦友の危急ぞと、
駆けつけ見れば、きたなしや、
日常《ひごろ》は猛《た》けき勇士等も、
精舎《しようじや》の段の前面に
たゞ僧兵の二十人、
円頂《えんちよう》の黒鬼《こくき》に、くひとめらる。
真白の十字胸につけ、
靴無き足の凜々《りり》しさよ、
血染の腕《かひな》巻きあげて、
大十字架にて、うちかゝる。
惨絶、壮絶。それと一斉射撃にて、
やがては掃蕩《そうとう》したりしが、
冷然として、残忍に、軍は倦《う》みたり。
皆心中に疾《やま》しくて、
とかくに殺戮《さつりく》したれども、
醜行|已《すで》に為し了《を》はり、
密雲漸く散ずれば、
積みかさなれる屍《かばね》より
階《きざはし》かけて、紅《べに》流れ、
そのうしろ楼門|聳《そび》ゆ、巍然《ぎぜん》として鬱たり。

燈明《とうみよう》くらがりに金色《こんじき》の星ときらめき、
香炉かぐはしく、静寂《せいじやく》の香《か》を放ちぬ。
殿上、奥深く、神壇に対《むか》ひ、
歌楼《かろう》のうち、やさけびの音《おと》しらぬ顔、
蕭《しめ》やかに勤行《ごんぎよう》営む白髪長身の僧。
噫《ああ》けふもなほ俤《おもかげ》にして浮びこそすれ。
モオル廻廊の古院、
黒衣僧兵のかばね、
天日、石だたみを照らして、
紅流に烟《けぶり》たち、
朧々《ろうろう》たる低き戸の框《かまち》に、
立つや老僧。
神壇|龕《づし》のやうに輝き、
唖然《あぜん》としてすくみしわれらのうつけ姿。
げにや当年の己は
空恐ろしくも信心無く、
或日|精舎《しようじや》の奪掠《だつりやく》に
負けじ心の意気張づよく
神壇近き御燈《みあかし》に
煙草つけたる乱行者《らんぎようもの》、
上反鬚《うはぞりひげ》に気負《きおひ》みせ、
一歩も譲らぬ気象のわれも、
たゞ此僧の髪白く白く
神寂《かみさ》びたるに畏《かしこ》みぬ。

「打て」と士官は号令す。

誰|有《あつ》て動く者無し。
僧は確に聞きたらむも、
さあらぬ素振神々《そぶりかうがう》しく、
聖水|大盤《たいばん》を捧げてふりむく。
ミサ礼拝半《らいはいなかば》に達し、
司僧《しそう》むき直る祝福の時、
腕《かひな》は伸べて鶴翼《かくよく》のやう、
衆皆《しゆうみな》一歩たじろきぬ。
僧はすこしもふるへずに
信徒の前に立てるやう、
妙音|澱《よどみ》なく、和讃《わさん》を咏じて、
「帰命頂礼《きみようちようらい》」の歌、常に異らず、
声もほがらに、
      「全能の神、爾等《なんぢら》を憐み給ふ。」

またもや、一声あらゝかに
「うて」と士官の号令に
進みいでたる一卒は
隊中|有名《なうて》の卑怯者、
銃執《じゆうと》りなほして発砲す。
老僧、色は蒼《あを》みしが、
沈勇の眼《まなこ》明らかに、
祈りつゞけぬ、
      「父と子と」

続いて更に一発は、
狂気のさたか、血迷《ちまよひ》か、
とかくに業《ごう》は了《をは》りたり。
僧は隻腕《かたうで》、壇にもたれ、
明《あ》いたる手にて祝福し、
黄金盤《おうごんばん》も重たげに、
虚空《こくう》に恩赦《おんしや》の印《しるし》を切りて、
音声《おんじよう》こそは微《かすか》なれ、
闃《げき》たる堂上とほりよく、
瞑目《めいもく》のうち述ぶるやう、
      「聖霊と。」

かくて仆《たふ》れぬ、礼拝《らいはい》の事了りて。

盤《ばん》は三度び、床上《しようじよう》に跳りぬ。
事に慣れたる老兵も、
胸に鬼胎《おそれ》をかき抱き
足に兵器を投げ棄てて
われとも知らず膝つきぬ、
醜行のまのあたり、
殉教僧のまのあたり。

聊爾《りようじ》なりや 「アアメン」と
うしろに笑ふ、わが隊の鼓手。


 わすれなぐさ  ウィルヘルム・アレント

ながれのきしのひともとは、
みそらのいろのみづあさぎ、
なみ、ことごとく、くちづけし
はた、ことごとく、わすれゆく。


 山のあなた   カアル・ブッセ

山のあなたの空遠く
「幸《さいはひ》」住むと人のいふ。
噫《ああ》、われひとゝ尋《と》めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸《さいはひ》」住むと人のいふ。


 春       パウル・バルシュ

森は今、花さきみだれ
艶《えん》なりや、五月《さつき》たちける。
神よ、擁護《おうご》をたれたまへ、
あまりに幸《さち》のおほければ。

やがてぞ花は散りしぼみ、
艶《えん》なる時も過ぎにける。
神よ擁護《おうご》をたれたまへ、
あまりにつらき災《とが》な来《こ》そ。


 秋       オイゲン・クロアサン

けふつくづくと眺むれば、
悲《かなしみ》の色口《いろくち》にあり。
たれもつらくはあたらぬを、
なぜに心の悲める。

秋風《あきかぜ》わたる青木立《あをこだち》
葉なみふるひて地にしきぬ。
きみが心のわかき夢
秋の葉となり落ちにけむ。


 わかれ     ヘリベルタ・フォン・ポシンゲル

ふたりを「時」がさきしより、
昼は事なくうちすぎぬ。
よろこびもなく悲まず、
はたたれをかも怨むべき。

されど夕闇おちくれて、
星の光のみゆるとき、
病の床のちごのやう、
心かすかにうめきいづ。


 水無月《みなづき》     テオドル・ストルム

子守歌風に浮びて、
暖かに日は照りわたり、
田の麦は足穂《たりほ》うなだれ、
茨《いばら》には紅き果《み》熟し、
野面《のもせ》には木の葉みちたり。
いかにおもふ、わかきをみなよ。


 花のをとめ   ハインリッヒ・ハイネ

妙《たへ》に清らの、あゝ、わが児《こ》よ、
つくづくみれば、そゞろ、あはれ、
かしらや撫でゝ、花の身の
いつまでも、かくは清らなれと、
いつまでも、かくは妙にあれと、
いのらまし、花のわがめぐしご。

ルビンスタインのめでたき楽譜に合せて、ハイネの名歌を訳したり。原の意を汲《く》みて余さじと、つとめ、はた又、句読停音すべて楽譜の示すところに従ひぬ。訳者[#「訳者」は文末より1字上げ揃え]


 瞻望《せんぼう》      ロバアト・ブラウニング

怕《おそ》るゝか死を。――喉塞《のどふた》ぎ、
 おもわに狭霧《さぎり》、
深雪《みゆき》降り、木枯荒れて、著《し》るくなりぬ、
 すゑの近さも。
夜《よる》の稜威暴風《みいづあらし》の襲来《おそひ》、恐ろしき
 敵の屯《たむろ》に、
現身《うつそみ》の「大畏怖《だいいふ》」立てり。しかすがに
 猛《たけ》き人は行かざらめやも。
それ、旅は果て、峯は尽きて、
 障礙《しようげ》は破《や》れぬ、
唯、すゑの誉《ほまれ》の酬《むくい》えむとせば、
 なほひと戦《いくさ》。
戦《たたかひ》は日ごろの好《このみ》、いざさらば、
 終《をはり》の晴《はれ》の勝負せむ。
なまじひに眼《まなこ》ふたぎて、赦《ゆ》るされて、
 這《は》ひ行くは憂《う》し、
否|残《のこり》なく味《あぢは》ひて、かれも人なる
 いにしへの猛者《もさ》たちのやう、
矢表《やおもて》に立ち楽世《うましよ》の寒冷《さむさ》、苦痛《くるしみ》、暗黒《くらやみ》の
 貢《みつぎ》のあまり捧げてむ。
そも勇者には、忽然《こつねん》と禍福《わざはひふく》に転ずべく
 闇《やみ》は終らむ。
四大《したい》のあらび、忌々《ゆゆ》しかる羅刹《らせつ》の怒号《どごう》、
 ほそりゆき、雑《まじ》りけち
変化《へんげ》して苦も楽《らく》とならむとやすらむ。
 そのとき光明《こうみよう》、その時|御胸《みむね》
あはれ、心の心とや、抱《いだ》きしめてむ。
 そのほかは神のまにまに。


 出現      ロバアト・ブラウニング

苔《こけ》むしろ、飢ゑたる岸も
  春来れば、
つと走る光、そらいろ、
  菫《すみれ》咲く。

村雲のしがむみそらも、
  こゝかしこ、
やれやれて影はさやけし、
  ひとつ星。

うつし世の命を耻《はぢ》の
  めぐらせど、
こぼれいづる神のゑまひか、
  君がおも。


 岩陰に     ロバアト・ブラウニング

    一

嗚呼《ああ》、物古《ものふ》りし鳶色《とびいろ》の「地《ち》」の微笑《ほほゑみ》の大《おほ》きやかに、
親しくもあるか、今朝《けさ》の秋、偃曝《ひなたぼこり》に其骨《そのほね》を
延《のば》し横《よこた》へ、膝節《ひざぶし》も、足も、つきいでて、漣《さざなみ》の
悦《よろこ》び勇み、小躍《こをどり》に越ゆるがまゝに浸《ひ》たりつゝ、
さて欹《そばた》つる耳もとの、さゞれの床《とこ》の海雲雀《うみひばり》、
和毛《にこげ》の胸の白妙《しろたへ》に囀《てん》ずる声のあはれなる。

    二

この教こそ神《かん》ながら旧《ふ》るき真《まこと》の道と知れ。
翁《おきな》びし「地《ち》」の知りて笑《ゑ》む世の試《こころみ》ぞかやうなる。
愛を捧げて価値《ねうち》あるものゝみをこそ愛しなば、
愛は完《まつ》たき益にして、必らずや、身の利とならむ。
思《おもひ》の痛み、苦みに卑《いや》しきこゝろ清めたる
なれ自らを地に捧げ、酬《むくひ》は高き天《そら》に求めよ。


 春の朝     ロバアト・ブラウニング

時は春、
日は朝《あした》、
朝《あした》は七時、
片岡《かたをか》に露みちて、
揚雲雀《あげひばり》なのりいで、
蝸牛枝《かたつむりえだ》に這《は》ひ、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。


 至上善     ロバアト・ブラウニング

蜜蜂の嚢《ふくろ》にみてる一歳《ひととせ》の香《にほひ》も、花も、
宝玉の底に光れる鉱山《かなやま》の富も、不思議も、
阿古屋貝《あこやがひ》映《うつ》し蔵《かく》せるわだつみの陰も、光も、
香《にほひ》、花、陰、光、富、不思議及ぶべしやは、
   玉《ぎよく》よりも輝く真《まこと》、
   珠《たま》よりも澄みたる信義、
天地《あめつち》にこよなき真《まこと》、澄みわたる一《いち》の信義は
   をとめごの清きくちづけ。

ブラウニングの楽天説は、既に二十歳の作「ポオリイン」に顕《あらは》れ、「ピパ」の歌、「神、そらにしろしめす、すべて世は事も無し」といふ句に綜合《そうごう》せられたれど、一生の述作皆人間終極の幸福を予言する点に於《おい》て一致し「アソランドオ」絶筆の結句に至るまで、彼は有神論、霊魂不滅説に信を失はざりき。この詩人の宗教は基督《キリスト》教を元としたる「愛」の信仰にして、尋常宗門の繩墨《じようぼく》を脱し、教外の諸法に対しては極めて宏量なる態度を持せり。神を信じ、その愛とその力とを信じ、これを信仰の基として、人間恩愛の神聖を認め、精進の理想を妄《もう》なりとせず、芸術科学の大法を疑はず、又人心に善悪の奮闘|争鬩《そうげき》あるを、却て進歩の動機なりと思惟《しい》せり。而《しか》してあらゆる宗教の教義には重《おもき》を措《お》かず、ただ基督の出現を以て説明すべからざる一の神秘となせるのみ。曰《いは》く、宗教にして、若《も》し、万世|不易《ふえき》の形を取り、万人の為め、予《あらかじ》め、劃然《かくぜん》として具《そな》へられたらむには、精神界の進歩は直に止りて、厭《いと》ふべき凝滞はやがて来《きた》らむ。人間の信仰は定かならぬこそをかしけれ、教法に完了といふ義ある可《べ》からずと。されば信教の自由を説きて、寛容の精神を述べたるもの、「聖十字架祭」の如きあり。殊《こと》に晩年に※[#「莅」の位の左に「さんずい」、88-11]《のぞ》みて、教法の形式、制限を脱却すること益《ますます》著るしく、全人類にわたれる博愛同情の精神|愈《いよいよ》盛なりしかど、一生の確信は終始|毫《ごう》も渝《かは》ること無かりき。人心の憧《あこ》がれ向ふ高大の理想は神の愛なりといふ中心思想を基として、幾多の傑作あり。「クレオン」には、芸術美に倦《う》みたる希臘《ギリシヤ》詩人の永生に対する熱望の悲音を聞くべく、「ソオル」には事業の永続に不老不死の影ばかりなるを喜ぶ事のはかなき夢なるを説きて、更に個人の不滅を断言す。「亜剌比亜《アラビア》の医師カアシッシュの不思議なる医術上の経験」といふ尺牘体《せきとくたい》には、基督教の原始に遡《さかのぼ》りて、意外の側面に信仰の光明を窺ひ、「砂漠の臨終」には神の権化を目撃せし聖|約翰《ヨハネ》の遺言を耳にし得べし。然れどもこれ等の信仰は、盲目なる狂熱の独断にあらず、皆冷静の理路を辿《たど》り、若しくは、精練、微を穿《うが》てる懐疑の坩堝《るつぼ》を経たるものにして「監督ブルウグラムの護法論」「フェリシュタアの念想」等これを証す。これを綜《す》ぶるに、ブラウニングの信仰は、精神の難関を凌《しの》ぎ、疑惑を排除して、光明の世界に達したるものにして永年の大信は世を終るまで動かざりき。「ラ・セイジヤス」の秀什《しゆうじゆう》、この想を述べて余あり、又、千八百六十四年の詩集に収めたる「瞻望《せんぼう》」の歌と、千八百八十九年の詩集「アソランドオ」の絶筆とはこの詩人が宗教観の根本思想を包含す。訳者[#「訳者」は文末より1字上げ揃え]


 花くらべ    ウィリアム・シェイクスピヤ

燕《つばめ》も来《こ》ぬに水仙花、
大寒《おほさむ》こさむ三月の
風にもめげぬ凜々《りり》しさよ。
またはジュノウのまぶたより、
ヴィイナス神《がみ》の息《いき》よりも
なほ臈《ろう》たくもありながら、
菫《すみれ》の色のおぼつかな。
照る日の神も仰ぎえで
嫁《とつ》ぎもせぬに散りはつる
色蒼《いろあを》ざめし桜草《さくらそう》、
これも少女《をとめ》の習《ならひ》かや。
それにひきかへ九輪草《くりんそう》、
編笠早百合《あみがささゆり》気がつよい。
百合もいろいろあるなかに、
鳶尾草《いちはつぐさ》のよけれども、
あゝ、今は無し、しよんがいな。


 花の教     クリスティナ・ロセッティ

心をとめて窺《うかが》へば花|自《おのづか》ら教あり。
朝露の野薔薇《のばら》のいへる、
「艶《えん》なりや、われらの姿、
刺《とげ》に生《お》ふる色香《いろか》とも知れ。」
麦生《むぎふ》のひまに罌粟《けし》のいふ、
「せめては紅《あか》きはしも見よ、
そばめられたる身なれども、
験《げん》ある露の薬水を
盛《も》りさゝげたる盃《さかづき》ぞ。」
この時、百合は追風に、
「見よ、人、われは言葉なく
法を説くなり。」
みづからなせる葉陰より、
声もかすかに菫草《すみれぐさ》、
「人はあだなる香《か》をきけど、
われらの示す教暁《をしへさと》らじ。」


 小曲      ダンテ・ゲブリエル・ロセッティ

小曲は刹那をとむる銘文《しるしぶみ》、また譬《たと》ふれば、
過ぎにしも過ぎせぬ過ぎしひと時に、劫《ごう》の「心」の
捧げたる願文《がんもん》にこそ。光り匂ふ法《のり》の会《え》のため、
祥《さが》もなき預言《かねごと》のため、折からのけぢめはあれど、
例《いつ》も例《いつ》も堰《せ》きあへぬ思《おもひ》豊かにて切《せち》にあらなむ。
「日《ひ》」の歌は象牙にけづり、「夜《よる》」の歌は黒檀に彫《ゑ》り、
頭《かしら》なる華《はな》のかざしは輝きて、阿古屋《あこや》の珠《たま》と、
照りわたるきらびの栄《はえ》の臈《ろう》たさを「時《とき》」に示せよ。

小曲は古泉《こせん》の如く、そが表《おもて》、心あらはる、
うらがねをいづれの力しろすとも。あるは「命《いのち》」の
威力あるもとめの貢《みつぎ》、あるはまた貴《あて》に妙《たへ》なる
「恋」の供奉《ぐぶ》にかづけの纏頭《はな》と贈らむも、よし遮莫《さもあらばあれ》
三瀬川《みつせがは》、船はて処《どころ》、陰《かげ》暗き伊吹《いぶき》の風に、
「死」に払ふ渡《わたり》のしろと、船人《ふなびと》の掌《て》にとらさむも。


 恋の玉座    ダンテ・ゲブリエル・ロセッティ

心のよしと定《さだ》めたる「力」かずかず、たぐへみれば、
「真《まこと》」の唇《くち》はかしこみて「望《のぞみ》」の眼《まなこ》、天仰《そらあふ》ぎ
「誉《ほまれ》」は翼《つばさ》、音高《おとだか》に埋火《うづみび》の「過去《かこ》」煽《あふ》ぎぬれば
飛火《とぶひ》の焔《ほのほ》、紅々《あかあか》と炎上《えんじよう》のひかり忘却の
去《い》なむとするを驚《おどろか》し、飛《と》び翔《か》けるをぞ控へたる。
また後朝《きぬぎぬ》に巻きまきし玉の柔手《やはて》の名残よと、
黄金《こがね》くしげのひとすぢを肩に残しゝ「若き世」や
「死出《しで》」の挿頭《かざし》と、例《いつ》も例《いつ》もあえかの花を編む「命」。

「恋」の玉座《ぎよくざ》は、さはいへど、そこにしも在《あら》じ、空遠く、
逢瀬《あふせ》、別《わかれ》の辻風《つじかぜ》のたち迷ふあたり、離《さか》りたる
夢も通はぬ遠《とほ》つぐに、無言《しじま》の局奥深《つぼねおくふか》く、
設けられたり。たとへそれ、「真《まこと》」は「恋」の真心《まごころ》を
夙《つと》に知る可く、「望《のぞみ》」こそそを預言《かねごと》し、「誉《ほまれ》」こそ
そがためによく、「若き世」めぐし、「命」惜《を》しとも。


 春の貢     ダンテ・ゲブリエル・ロセッティ

草うるはしき岸の上《うへ》に、いと美《うる》はしき君が面《おも》、
われは横《よこた》へ、その髪を二つにわけてひろぐれば、
うら若草のはつ花も、はな白《じろ》みてや、黄金《こがね》なす
みぐしの間《ひま》のこゝかしこ、面映《おもはゆ》げにも覗《のぞ》くらむ。
去年《こぞ》とやいはむ今年とや年の境《さかひ》もみえわかぬ
けふのこの日や「春」の足、半《なかば》たゆたひ、小李《こすもも》の
葉もなき花の白妙《しろたへ》は雪間がくれに迷《まど》はしく、
「春」住む庭の四阿屋《あづまや》に風の通路《かよひぢ》ひらけたり。

されど卯月《うづき》の日の光、けふぞ谷間に照りわたる。
仰ぎて眼《まなこ》閉ぢ給へ、いざくちづけむ君が面、
水枝《みづえ》小枝《こえだ》にみちわたる「春」をまなびて、わが恋よ、
温かき喉《のど》、熱き口、ふれさせたまへ、けふこそは、
契《ちぎり》もかたきみやづかへ、恋の日なれや。冷かに
つめたき人は永久《とこしへ》のやらはれ人と貶《おと》し憎まむ。


 心も空に    ダンテ・アリギエリ

心も空に奪はれて物のあはれをしる人よ、
今わが述ぶる言の葉の君の傍《かたへ》に近づかば
心に思ひ給ふこと応《いら》へ給ひね、洩れなくと、
綾《あや》に畏《かし》こき大御神《おほみかみ》「愛」の御名《みな》もて告げまつる。

さても星影きらゝかに、更《ふ》け行く夜《よる》も三つ一つ
ほとほと過ぎし折しもあれ、忽ち四方《よも》は照渡り、
「愛」の御姿《みすがた》うつそ身に現はれいでし不思議さよ。
おしはかるだに、その性《さが》の恐しときく荒神《あらがみ》も

御気色《みけしき》いとゞ麗はしく在《いま》すが如くおもほえて、
御手《みて》にはわれが心《しん》の臓《ぞう》、御腕《おんかひな》には貴《あて》やかに
あえかの君の寝姿《ねすがた》を、衣《きぬ》うちかけて、かい抱《いだ》き、

やをら動かし、交睫《まどろみ》の醒《さ》めたるほどに心《しん》の臓《ぞう》、
さゝげ進むれば、かの君も恐る恐るに聞《きこ》しけり。
「愛」は乃《すなは》ち馳《は》せ去《さ》りつ、馳せ走りながら打泣きぬ。


 鷺《さぎ》の歌     エミイル・ヴェルハアレン

ほのぐらき黄金隠沼《こがねこもりぬ》、
骨蓬《かうほね》の白くさけるに、
静かなる鷺の羽風は
徐《おもむろ》に影を落しぬ。

水の面《おも》に影は漂《ただよ》ひ、
広ごりて、ころもに似たり。
天《あめ》なるや、鳥の通路《かよひぢ》、
羽ばたきの音もたえだえ。

漁子《すなどり》のいと賢《さか》しらに
清らなる網をうてども、
空翔《そらか》ける奇《く》しき翼の
おとなひをゆめだにしらず。

また知らず日に夜《よ》をつぎて
溝《みぞ》のうち泥土《どろつち》の底
鬱憂の網に待つもの
久方《ひさかた》の光に飛ぶを。

ボドレエルにほのめきヴェルレエヌに現はれたる詩風はここに至りて、終《つひ》に象徴詩の新体を成したり。この「鷺の歌」以下、「嗟嘆《さたん》」に至るまでの詩は多少皆象徴詩の風格を具《そな》ふ。訳者[#「訳者」は文末より1字上げ揃え]


 法《のり》の夕《ゆふべ》     エミイル・ヴェルハアレン

夕日の国は野も山も、その「平安」や「寂寥《せきりよう》」の
黝《ねずみ》の色の毛布《けぬの》もて掩《おほ》へる如く、物|寂《さ》びぬ。
万物|凡《なべ》て整《ととの》ふり、折りめ正しく、ぬめらかに、
物の象《かたち》も筋めよく、ビザンチン絵《ゑ》の式《かた》の如《ごと》。

時雨村雨《しぐれむらさめ》、中空《なかぞら》を雨の矢数《やかず》につんざきぬ。
見よ、一天は紺青《こんじよう》の伽藍《がらん》の廊《ろう》の色にして、
今こそ時は西山《せいざん》に入日傾く夕まぐれ、
日の金色《こんじき》に烏羽玉《うばたま》の夜《よる》の白銀《しろがね》まじるらむ。

めぢの界《さかひ》に物も無し、唯|遠長《とほなが》き並木路、
路に沿ひたる樫《かし》の樹《き》は、巨人の列《つら》の佇立《たたずまひ》、
疎《まば》らに生《お》ふる箒木《ははきぎ》や、新墾小田《にひばりをだ》の末かけて、
鋤《すき》休めたる野《の》らまでも領《りよう》ずる顔の姿かな。

木立《こだち》を見れば沙門等《しやもんら》が野辺《のべ》の送《おくり》の営《いとなみ》に、
夕暮がたの悲を心に痛み歩むごと、
また古《いにしへ》の六部等《ろくぶら》が後世《ごせ》安楽の願かけて、
霊場詣《りようじようまうで》、杖重く、番《ばん》の御寺《みてら》を訪ひしごと。

赤々として暮れかゝる入日の影は牡丹花《ぼたんか》の
眠れる如くうつろひて、河添馬道《かはぞひめどう》開けたり。
噫《ああ》、冬枯や、法師めくかの行列を見てあれば、
たとしへもなく静かなる夕《ゆふべ》の空に二列《ふたならび》、

瑠璃《るり》の御空《みそら》の金砂子《きんすなご》、星輝ける神前に
進み近づく夕づとめ、ゆくてを照らす星辰は
壇に捧ぐる御明《みあかし》の大燭台《だいそくだい》の心《しん》にして、
火こそみえけれ、其|棹《さを》の閻浮提金《えんぶだごん》ぞ隠れたる。


 水かひば    エミイル・ヴェルハアレン

ほらあなめきし落窪《おちくぼ》の、
夢も曇るか、こもり沼《ぬ》は、
腹しめすまで浸りたる
まだら牡牛の水かひ場《ば》。

坂くだりゆく牧《まき》がむれ、
牛は練《ね》りあし、馬は※[#「鉋」の「かねへん」に変えて「あしへん」、107-8]《だく》、
時しもあれや、落日に
嘯《うそぶ》き吼《ほ》ゆる黄牛《あめうし》よ。

日のかぐろひの寂寞《じやくまく》や、
色も、にほひも、日のかげも、
梢《こずゑ》のしづく、夕栄《ゆふばえ》も。

靄《もや》は刈穂《かりほ》のはふり衣《ぎぬ》、
夕闇とざす路《みち》遠み、
牛のうめきや、断末魔。


 畏怖《おそれ》      エミイル・ヴェルハアレン

北に面《むか》へるわが畏怖《おそれ》の原の上に、
牧羊の翁《おきな》、神楽月《かぐらづき》、角《かく》を吹く。
物憂き羊小舎《ひつじごや》のかどに、すぐだちて、
災殃《まがつび》のごと、死の羊群を誘ふ。

きし方《かた》の悔《くい》をもて築きたる此|小舎《こや》は
かぎりもなき、わが憂愁の邦《くに》に在りて、
ゆく水のながれ薄荷莢※[#「くさかんむり」に、にすいのしんにょうの「迷」、109-9]《めぐさがまずみ》におほはれ、
いざよひの波も重きか、蜘手《くもで》に澱《よど》む。

肩に赤十字ある墨染《すみぞめ》の小羊よ、
色もの凄き羊群も長棹《ながさを》の鞭に
撻《うた》れて帰る、たづたづし、罪のねりあし。

疾風《はやて》に歌ふ牧羊の翁、神楽月よ、
今、わが頭掠《かしらかす》めし稲妻の光に
この夕《ゆふべ》おどろおどろしきわが命かな。


 火宅      エミイル・ヴェルハアレン

嗚呼《ああ》、爛壊《らんえ》せる黄金《おうごん》の毒に中《あた》りし大都会、
石は叫び烟《けむり》舞ひのぼり、
驕慢の円葢《まるやね》よ、塔よ、直立《すぐだち》の石柱《せきちゆう》よ、
虚空は震ひ、労役のたぎち沸《わ》くを、
好むや、汝《なれ》、この大畏怖《だいいふ》を、叫喚を、
あはれ旅人《たびうど》、
悲みて夢うつら離《さか》りて行くか、濁世《だくせい》を、
つゝむ火焔の帯の停車場。

中空《なかぞら》の山けたゝまし跳り過ぐる火輪《かりん》の響。
なが胸を焦す早鐘《はやがね》、陰々と、とよもす音《おと》も、
この夕《ゆふべ》、都会に打ちぬ。炎上の焔、赤々、
千万の火粉《ひのこ》の光、うちつけに面《おもて》を照らし、
声黒《こわぐろ》きわめき、さけびは、妄執の心の矢声《やごゑ》。
満身すべて涜聖《とくせい》の言葉に捩《ねぢ》れ、
意志あへなくも狂瀾にのまれをはんぬ。
実《げ》に自らを矜《ほこ》りつゝ、将《はた》、咀《のろ》ひぬる、あはれ、人の世。


 時鐘《とけい》      エミイル・ヴェルハアレン

館《やかた》の闇の静かなる夜《よる》にもなれば訝《いぶか》しや、
廊下のあなた、かたことゝ、※[#「裃」のころもへんを「きへん」に変える、113-5]杖《かせづゑ》のおと、杖の音《おと》、
「時」の階《はしご》のあがりおり、小股《こまた》に刻《きざ》む音《おと》なひは
           これや時鐘《とけい》の忍足《しのびあし》。

硝子《がらす》の葢《ふた》の後《うしろ》には、白鑞《しろめ》の面《おもて》飾なく、
花形模様色|褪《さ》めて、時の数字もさらぼひぬ。
人の気絶《けた》えし渡殿《わたどの》の影ほのぐらき朧月《ろうげつ》よ、
           これや時鐘《とけい》の眼の光。

うち沈みたるねび声に機《しかけ》のおもり、音《おと》ひねて、
槌《つち》に鑢《やすり》の音《ね》もかすれ、言葉悲しき木《き》の函《はこ》よ、
細身《ほそみ》の秒の指のおと、片言《かたこと》まじりおぼつかな、
           これや時鐘《とけい》の針の声。

角《かく》なる函《はこ》は樫《かし》づくり、焦茶《こげちや》の色の框《わく》はめて、
冷たき壁に封じたる棺《ひつぎ》のなかに隠れすむ
「時」の老骨《ろうこつ》、きしきしと、数噛《かずか》む音《おと》の歯《は》ぎしりや、
           これぞ時鐘《とけい》の恐ろしさ。

げに時鐘《とけい》こそ不思議なれ。
あるは、木履《きぐつ》を曳《ひ》き悩み、あるは徒跣《はだし》に音《ね》を窃《ぬす》み、
忠々《まめまめ》しくも、いそしみて、古く仕ふるはした女《め》か。
柱時鐘《はしらどけい》を見詰《みつ》むれば、針《はり》のコムパス、身《み》の搾木《しめぎ》。


 黄昏《たそがれ》      ジォルジュ・ロオデンバッハ

夕暮がたの蕭《しめ》やかさ、燈火《あかり》無き室《ま》の蕭《しめ》やかさ。
かはたれ刻《どき》は蕭やかに、物静かなる死の如く、
朧々《おぼろおぼろ》の物影のやをら浸み入り広ごるに、
まづ天井の薄明《うすあかり》、光は消えて日も暮れぬ。

物静かなる死の如く、微笑《ほほゑみ》作るかはたれに、
曇れる鏡よく見れば、別《わかれ》の手振《てぶり》うれたくも
わが俤《おもかげ》は蕭《しめ》やかに辷《すべ》り失《う》せなむ気色《けはひ》にて、
影薄れゆき、色蒼《いろあを》み、絶えなむとして消《け》つべきか。

壁に掲《か》けたる油画《あぶらゑ》に、あるは朧《おぼろ》に色|褪《さ》めし、
框《わく》をはめたる追憶《おもひで》の、そこはかとなく留まれる
人の記憶の図《づ》の上に心の国の山水《さんすい》や、
筆にゑがける風景の黒き雪かと降り積る。

夕暮がたの蕭《しめ》やかさ。あまりに物のねびたれば、
沈める音《おと》の絃《いと》の器《き》に、※[#「裃」のころもへんを「きへん」に変える、116-5]《かせ》をかけたる思にて、
無言《むごん》を辿《たど》る恋《こひ》なかの深き二人《ふたり》の眼差《まなざし》も、
花|毛氈《もうせん》の唐草《からくさ》に絡《から》みて縒《よ》るゝ夢心地《ゆめごこち》。

いと徐《おもむ》ろに日の光陰《ひかりかぐ》ろひてゆく蕭《しめ》やかさ。
文目《あやめ》もおぼろ、蕭やかに、噫《ああ》、蕭やかに、つくねんと、
沈黙《しじま》の郷《さと》の偶座《むかひゐ》は一つの香《こう》にふた色の
匂交《にほひまじ》れる思にて、心は一つ、えこそ語らね。


 銘文《しるしぶみ》      アンリ・ドゥ・レニエ

夕まぐれ、森の小路《こみち》の四辻《よつつじ》に
夕まぐれ、風のもなかの逍遙《しようよう》に、
竈《かまど》の灰や、歳月《さいげつ》に倦《う》み労《つか》れ来て、
定業《じようごう》のわが行末もしらま弓、
杖と佇《たたず》む。

路《みち》のゆくてに「日」は多し、
今更ながら、行きてむか。
ゆふべゆふべの旅枕、
水こえ、山こえ、夢こえて、
つひのやどりはいづかたぞ。
そは玄妙の、静寧《せいねい》の「死」の大神《おほかみ》が、
わがまなこ、閉ぢ給ふ国、
黄金《おうごん》の、浦安の妙《たへ》なる封《ふう》に。

高樫《たかがし》の寂寥《せきりよう》の森の小路よ。
岩角に懈怠《けたい》よろぼひ、
きり石に足弱《あしよわ》悩み、
歩む毎《ごと》、
きしかたの血潮流れて、
木枯《こがらし》の颯々《さつさつ》たりや、高樫《たかがし》に。
噫《ああ》、われ倦《う》みぬ。

赤楊《はんのき》の落葉《らくよう》の森の小路よ。
道行く人は木葉《このは》なす、
蒼ざめがほの耻《はぢ》のおも、
ぬかりみ迷ひ、群れゆけど、
かたみに避けて、よそみがち。
泥濘《ぬかりみ》の、したゝりの森の小路よ、
憂愁《ゆうしゆう》を風は葉並に囁きぬ。
しろがねの、月代《つきしろ》の霜さゆる隠沼《こもりぬ》は
たそがれに、この道のはてに澱《よど》みて
げにこゝは「鬱憂」の
鬼が栖《す》む国。

秦皮《とねりこ》の、真砂《まさご》、いさごの、森の小路よ、
微風《そよかぜ》も足音たてず、
梢《こずゑ》より梢にわたり、
山蜜《やまみつ》の色よき花は
金色《こんじき》の砂子《すなご》の光、
おのづから曲れる路は
人さらになぞへを知らず、
このさきの都のまちは
まれびとを迎ふときゝぬ。
いざ足をそこに止めむか。
あなくやし、われはえゆかじ。
他の生《しよう》の途《みち》のかたはら、
「物影」の亡骸《なきがら》守る
わが「願《がん》」の通夜《つや》を思へば。

高樫《たかがし》の路われはゆかじな、
秦皮《とねりこ》や、赤楊《はんのき》の路《みち》、
日のかたや、都のかたや、水のかた、
なべてゆかじな。
噫《ああ》、小路《こみち》、
血やにじむわが足のおと、
死したりと思ひしそれも、
あはれなり、もどり来たるか、
地響《じひびき》のわれにさきだつ。
噫、小路、
安逸の、醜辱《しゆうじよく》の、驕慢の森の小路よ、
あだなりしわが世の友か、吹風《ふくかぜ》は、
高樫《たかがし》の木下蔭《このしたかげ》に
声はさやさや、
涙《なみだ》さめざめ。

あな、あはれ、きのふゆゑ、夕暮悲し、
あな、あはれ、あすゆゑに、夕暮苦し、
あな、あはれ、身のゆゑに、夕暮重し。


 愛の教     アンリ・ドゥ・レニエ

いづれは「夜《よる》」に入る人の
をさな心も青春も、
今はた過ぎしけふの日や、
従容《しようよう》として、ひとりきく、
「冬篳篥《ふゆひちりき》」にさきだちて、
「秋」に響かふ「夏笛」を。
(現世《げんぜ》にしては、ひとつなり、
物のあはれも、さいはひも。)
あゝ、聞け、楽《がく》のやむひまを
「長月姫《ながづきひめ》」と「葉月姫《はづきひめ》」、
なが「憂愁」と「歓楽」と
語らふ声の蕭《しめ》やかさ。
(熟しうみたるくだものゝ
つはりて枝や撓《たわ》むらむ。)
あはれ、微風《そよかぜ》、さやさやと
伊吹《いぶき》のすゑは木枯《こがらし》を
誘ふと知れば、憂《う》かれども、
けふ木枯《こがらし》もそよ風も
口ふれあひて、熟睡《うまい》せり。
森蔭はまだ夏緑《なつみどり》、
夕まぐれ、空より落ちて、
笛の音《ね》は山鳩よばひ、
「夏」の歌「秋」を揺《そそ》りぬ。
曙《あけぼの》の美しからば、
その昼は晴れわたるべく、
心だに優しくあらば、
身の夜《よる》も楽しかるらむ。
ほゝゑみは口のさうび花《か》、
もつれ髪《がみ》、髷《わげ》にゆふべく、
真清水《ましみづ》やいつも澄みたる。
あゝ人よ、「愛」を命の法《のり》とせば、
星や照らさむ、なが足を、
いづれは「夜《よる》」に入らむ時。


 花冠      アンリ・ドゥ・レニエ

途《みち》のつかれに項垂《うなだ》れて、
黙然《もくぜん》たりや、おもかげの
あらはれ浮ぶわが「想《おもひ》」。
命の朝のかしまだち、
世路《せいろ》にほこるいきほひも、
今、たそがれのおとろへを
透《すか》しみすれば、わなゝきて、
顔|背《そむ》くるぞ、あはれなる。
思ひかねつゝ、またみるに、
避けて、よそみて、うなだるゝ、
あら、なつかしのわが「想」。

げにこそ思へ、「時」の山、
山越えいでて、さすかたや、
「命」の里に、もとほりし
なが足音もきのふかな。

さて、いかにせし、盃に
水やみちたる。としごろの
願《がん》の泉はとめたるか。
あな空手《むなで》、唇|乾《かわ》き、
とこしへの渇《かつ》に苦《にが》める
いと冷《ひ》やき笑《ゑみ》を湛《たた》へて、
ゆびさせる其足もとに、
玉《たま》の屑《くづ》、埴土《はに》のかたわれ。

つぎなる汝《なれ》はいかにせし、
こはすさまじき姿かな。
そのかみの臈《ろう》たき風情《ふぜい》、
嫋竹《なよたけ》の、あえかのなれも、
鈍《おぞ》なりや、宴《うたげ》のくづれ、
みだれ髪《がみ》、肉《しし》おきたるみ、
酒の香《か》に、衣《きぬ》もなよびて、
蹈《ふ》む足も酔ひさまだれぬ。
あな忌々《ゆゆ》し、とく去《い》ねよ、

さて、また次のなれが面《おも》、
みれば麗容《れいよう》うつろひて、
悲《かなしみ》、削《そ》ぎしやつれがほ、
指組み絞り胸隠す
双《そう》の手振《てぶり》の怪しきは、
饐《す》ゑたる血にぞ、怨恨《えんこん》の
毒ながすなるくち蝮《ばみ》を
掩《おほ》はむためのすさびかな。

また「驕慢」に音《おと》づれし
なが獲物をと、うらどふに、
えび染《ぞめ》のきぬは、やれさけ、
笏《しやく》の牙《げ》も、ゆがみたわめり。
又、なにものぞ、ほてりたる
もろ手ひろげて「楽欲《ぎようよく》」に
らうがはしくも走りしは。
酔狂の抱擁酷《だきしめむご》く
唇を噛み破られて、
満面に爪《つま》あとたちぬ。
興《きよう》ざめたりな、このくるひ、
われを棄《す》つるか、わが「想」
あはれ、耻《はづ》かし、このみざま、
なれみづからをいかにする。

しかはあれども、そがなかに、
行《おこなひ》清きたゞひとり、
きぬもけがれと、はだか身に、
出でゆきしより、けふまでも、
あだし「想」の姉妹《おとどひ》と
道異《みちこと》なるか、かへり来《こ》ぬ
――あゝ行《ゆ》かばやな――汝《な》がもとに。
法苑林《ほうおんりん》の奥深く
素足の「愛」の玉容《ぎよくよう》に
なれは、ゐよりて、睦《むつ》みつゝ、
霊華《りようげ》の房《ふさ》を摘みあひて、
うけつ、あたへつ、とりかはし
双《そう》の額《ひたひ》をこもごもに、
飾るや、一《いつ》の花の冠《かんむり》。

ホセ・マリヤ・デ・エレディヤは金工の如くアンリ・ドゥ・レニエは織人の如し。また、譬喩《ひゆ》を珠玉に求めむか、彼には青玉黄玉の光輝あり、これには乳光柔き蛋白石《たんぱくせき》の影を浮べ、色に曇るを見る可し。訳者[#「訳者」は文末より1字上げ揃え]


 延びあくびせよ フランシス・ヴィエレ・グリフィン

延《の》びあくびせよ、傍《かたはら》に「命」は倦《う》みぬ、
――朝明《あさけ》より夕をかけて熟睡《うまい》する
  その臈《ろう》たげさ労《つか》らしさ、
  ねむり眼《め》のうまし「命」や。
起きいでよ、呼ばはりて、過ぎ行く夢は
大影《おほかげ》の奥にかくれつ。
今にして躊躇《ためらひ》なさば、
ゆく末に何の導《しるべ》ぞ。
呼ばはりて過ぎ行く夢は
去りぬ神秘《くしび》に。

いでたちの旅路の糧《かて》を手握《たにぎ》りて、
歩《あゆみ》もいとゞ速《はや》まさる
愛の一念ましぐらに、
急げ、とく行け、
呼ばはりて、過ぎ行く夢は、
夢は、また帰り来《こ》なくに、

進めよ、走《は》せよ、物陰に、
畏《おそれ》をなすか、深淵《しんえん》に、
あな、急げ……あゝ遅れたり。
はしけやし「命」は愛に熟睡《うまい》して、
栲綱《たくづぬ》の白腕《しろただむき》になれを巻く。
――噫《ああ》遅れたり、呼ばはりて過ぎ行く夢の
いましめもあだなりけりな。
ゆきずりに、夢は嘲る……

さるからに、
むしろ「命」に口触れて
これに生《う》ませよ、芸術を。
無言《むごん》を祷《いの》るかの夢の
教をきかで、無辺《むへん》なる神に憧《あこが》るゝ事なくば、
たちかへり、色よき「命」かき抱き、
なれが刹那を長久《とは》にせよ。
死の憂愁に歓楽に
霊妙音《れいみようおん》を生ませなば、
なが亡《な》き後《あと》に残りゐて、
はた、さゞめかむ、はた、なかむ、
うれしの森に、春風や
若緑、
去年《こぞ》を繰返《あこぎ》の愛のまねぎに。
さればぞ歌へ微笑《ほほゑみ》の栄《はえ》の光に。


 伴奏      アルベエル・サマン

 白銀《しろがね》の筐柳《はこやなぎ》、菩提樹《ぼだいず》や、榛《はん》の樹《き》や……
 水《みづ》の面《おも》に月の落葉《おちば》よ……

夕《ゆふべ》の風に櫛《くし》けづる丈長髪《たけなががみ》の匂ふごと、
夏の夜《よ》の薫《かをり》なつかし、かげ黒き湖《みづうみ》の上、
水|薫《かを》る淡海《あはうみ》ひらけ鏡なす波のかゞやき。

楫《かぢ》の音《と》もうつらうつらに
夢をゆくわが船のあし。

船のあし、空をもゆくか、
かたちなき水にうかびて

ならべたるふたつの櫂《かい》は
「徒然《つれづれ》」の櫂「無言《しじま》」がい。

水の面《おも》の月影なして
波の上《うへ》の楫の音《と》なして
わが胸に吐息《といき》ちらばふ。


 賦《かぞへうた》       ジァン・モレアス

色に賞《め》でにし紅薔薇《こうそうび》、日にけに花は散りはてゝ、
唐棣花色《はねずいろ》よき若立《わかだち》も、季《とき》ことごとくしめあへず、
そよそよ風の手枕《たまくら》に、はや日数経《ひかずへ》しけふの日や、
つれなき北の木枯に、河氷るべきながめかな。

噫《ああ》、歓楽よ、今さらに、なじかは、せめて争はむ、
知らずや、かゝる雄誥《をたけび》の、世に類《たぐひ》無く烏滸《をこ》なるを、
ゆゑだもなくて、徒《いたづら》に痴《し》れたる思、去りもあへず、
「悲哀」の琴《きん》の糸の緒《を》を、ゆし按《あん》ずるぞ無益《むやく》なる。

         *

ゆめ、な語りそ、人の世は悦《よろこび》おほき宴《うたげ》ぞと。
そは愚かしきあだ心、はたや卑しき癡《し》れごこち。
ことに歎くな、現世《うつしよ》を涯《かぎり》も知らぬ苦界《くがい》よと。
益《よう》無き勇《ゆう》の逸気《はやりぎ》は、たゞいち早く悔いぬらむ。

春日《はるひ》霞みて、葦蘆《よしあし》のさゞめくが如《ごと》、笑みわたれ。
磯浜《いそはま》かけて風騒ぎ波おとなふがごと、泣けよ。
一切の快楽《けらく》を尽し、一切の苦患《くげん》に堪へて、
豊《とよ》の世《よ》と称《たた》ふるもよし、夢の世と観《かん》ずるもよし。

         *

死者のみ、ひとり吾に聴く、奥津城《おくつき》処《どころ》、わが栖家《すみか》。
世の終《をふ》るまで、吾はしも己が心のあだがたき。
亡恩に栄華は尽きむ、里鴉《さとがらす》畠《はた》をあらさむ、
収穫時《とりいれどき》の頼《たのみ》なきも、吾はいそしみて種を播《ま》かむ。

ゆめ、自《みづか》らは悲まじ。世の木枯もなにかあらむ。
あはれ侮蔑《ぶべつ》や、誹謗《ひぼう》をや、大凶事《おほまがごと》の迫害《せまり》をや。
たゞ、詩の神の箜篌《くご》の上、指をふるれば、わが楽《がく》の
日毎に清く澄みわたり、霊妙音《れいみようおん》の鳴るが楽しさ。

         *

長雨空の喪《はて》過ぎて、さすや忽ち薄日影、
冠《かむり》の花葉《はなば》ふりおとす栗の林の枝の上に、
水のおもてに、遅花《おそばな》の花壇の上に、わが眼にも、
照り添ふ匂なつかしき秋の日脚《ひあし》の白みたる。

日よ何の意ぞ、夏花《なつはな》のこぼれて散るも惜からじ、
はた禁《とど》めえじ、落葉《らくよう》の風のまにまに吹き交《か》ふも。
水や曇れ、空も鈍《に》びよ、たゞ悲のわれに在らば、
想《おもひ》はこれに養はれ、心はために勇《ゆう》をえむ。

         *

われは夢む、滄海《そうかい》の天《そら》の色、哀《あはれ》深き入日の影を、
わだつみの灘《なだ》は荒れて、風を痛み、甚振《いたぶ》る波を、
また思ふ釣船の海人《あま》の子を、巌穴《いはあな》に隠《かぐ》ろふ蟹《かに》を、
青眼《せいがん》のネアイラを、グラウコス、プロオティウスを。

又思ふ、路の辺《べ》をあさりゆく物乞《ものごひ》の漂浪人《さすらひびと》を、
栖《す》み慣れし軒端がもとに、休《いこ》ひゐる賤《しづ》が翁《おきな》を
斧《おの》の柄《え》を手握《たにぎ》りもちて、肩かゞむ杣《そま》の工《たくみ》を、
げに思ひいづ、鳴神《なるかみ》の都の騒擾《さやぎ》、村肝《むらぎも》の心の痍《きず》を。

         *

この一切の無益《むやく》なる世の煩累《わづらひ》を振りすてゝ、
もの恐ろしく汚れたる都の憂あとにして、
終《つひ》に分け入る森蔭の清《すず》しき宿《やどり》求めえなば、
光も澄める湖の静けき岸にわれは悟らむ。

否《あらず》、寧《むしろ》われはおほわだの波うちぎはに夢みむ。
幼年の日を養ひし大揺籃《だいようらん》のわだつみよ、
ほだしも波の鴎鳥《かもめどり》、呼びかふ声を耳にして、
磯根に近き岩枕《いはまくら》汚れし眼《まなこ》、洗はばや。

         *

噫《ああ》いち早く襲ひ来る冬の日、なにか恐るべき。
春の卯月《うづき》の贈物、われはや、既に尽し果て、
秋のみのりのえびかづら葡萄《ぶどう》も摘まず、新麦《にひむぎ》の
豊《とよ》の足穂《たりほ》も、他《あだ》し人《びと》、刈《か》り干しにけむ、いつの間《ま》に。

         *

けふは照日《てるひ》の映々《はえばえ》と青葉|高麦《たかむぎ》生ひ茂る
大野が上に空高く靡《な》びかひ浮ぶ旗雲《はたぐも》よ。
和《な》ぎたる海を白帆あげて、朱《あけ》の曾保船《そほふね》走るごと、
変化《へんげ》乏しき青天《あをぞら》をすべりゆくなる白雲よ。

時ならずして、汝《なれ》も亦近づく暴風《あれ》の先駆《さきがけ》と、
みだれ姿の影黒み蹙《しか》める空を翔《かけ》りゆかむ、
嗚咽《ああ》、大空の馳使《はせづかひ》、添はゞや、なれにわが心、
心は汝《なれ》に通へども、世の人たえて汲む者もなし。


 嗟嘆《といき》      ステファンヌ・マラルメ

静かなるわが妹《いもと》、君見れば、想《おもひ》すゞろぐ。
朽葉色《くちばいろ》に晩秋《おそあき》の夢深き君が額《ひたひ》に、
天人《てんにん》の瞳《ひとみ》なす空色の君がまなこに、
憧るゝわが胸は、苔古《こけふ》りし花苑《はなぞの》の奥、
淡白《あはじろ》き吹上《ふきあげ》の水のごと、空へ走りぬ。

その空は時雨月《しぐれづき》、清らなる色に曇りて、
時節《をりふし》のきはみなき鬱憂は池に映《うつ》ろひ
落葉《らくよう》の薄黄《うすぎ》なる憂悶《わづらひ》を風の散らせば、
いざよひの池水に、いと冷《ひ》やき綾《あや》は乱れて、
ながながし梔子《くちなし》の光さす入日たゆたふ。

物象を静観して、これが喚起したる幻想の裡《うち》自から心象の飛揚する時は「歌」成る。さきの「高踏派」の詩人は、物の全般を採りてこれを示したり。かるが故に、その詩、幽妙を虧《か》き、人をして宛然《さながら》自から創作する如き享楽無からしむ。それ物象を明示するは詩興四分の三を没却するものなり。読詩の妙は漸々遅々たる推度の裡に存す。暗示は即《すなは》ちこれ幻想に非《あ》らずや。這般《しやはん》幽玄の運用を象徴と名づく。一の心状を示さむが為、徐《おもむろ》に物象を喚起し、或はこれと逆《さかし》まに、一の物象を採りて、闡明《せんめい》数番の後、これより一の心状を脱離せしむる事これなり。
ステファンヌ・マラルメ[#文末より1字上げ揃え]


 白楊《はくよう》      テオドル・オオバネル

落日の光にもゆる
白楊《はくよう》の聳《そび》やぐ並木、
谷隈《たにくま》になにか見る、
風そよぐ梢より。


 故国      テオドル・オオバネル

小鳥でさへも巣は恋し、
まして青空、わが国よ、
うまれの里の波羅葦増雲《パライソウ》。


 海のあなたの   テオドル・オオバネル

海のあなたの遙けき国へ
いつも夢路の波枕、
波の枕のなくなくぞ、
こがれ憧れわたるかな、
海のあなたの遙けき国へ。

オオバネルは、ミストラル、ルウマニユ等と相結で、十九世紀の前半に近代プロヴァンス語を文芸に用ゐ、南欧の地を風靡《ふうび》したるフェリイブル詩社の翹楚《ぎようそ》なり。
「故国」の訳に波羅葦増雲《パライソウ》とあるは、文禄慶長年間、葡萄牙《ポルトガル》語より転じて一時、わが日本語化したる基督教法に所謂《いはゆる》天国の意なり。訳者[#「訳者」は文末より1字上げ揃え]


 解悟《かいご》      アルトゥロ・グラアフ

頼み入りし空《あだ》なる幸《さち》の一つだにも、忠心《まごころ》ありて、
   とまれるはなし。
そをもふと、胸はふたぎぬ、悲にならはぬ胸も
   にがき憂《うれひ》に。
きしかたの犯《をかし》の罪の一つだにも、懲《こらし》の責《せめ》を
   のがれしはなし。
そをもふと、胸はひらけぬ、荒屋《あばらや》のあはれの胸も
   高き望に。


 篠懸《すずかけ》      ガブリエレ・ダンヌンチオ

白波《しらなみ》の、潮騒《しほざゐ》のおきつ貝なす
青緑《あをみどり》しげれる谿《たに》を
まさかりの真昼ぞ知《しろ》す。
われは昔の野山の精を
まなびて、こゝに宿からむ、
あゝ、神寂びし篠懸《すずかけ》よ、
なれがにほひの濡髪《ぬれがみ》に。


 海光      ガブリエレ・ダンヌンチオ

児等《こら》よ、今昼は真盛《まさかり》、日こゝもとに照らしぬ。
寂寞《じやくまく》大海《だいかい》の礼拝《らいはい》して、
天津日《あまつひ》に捧ぐる香《こう》は、
浄《きよ》まはる潮《うしほ》のにほひ、
轟《とどろ》く波凝《なごり》、動《ゆる》がぬ岩根《いはね》、靡《なび》く藻よ。
黒金《くろがね》の船の舳先《へさき》よ、
岬《みさき》代赭色《たいしやいろ》に、獅子の蹈留《ふみとどま》れる如く、
足を延べたるこゝ、入海《いりうみ》のひたおもて、
うちひさす都のまちは、
煩悶《わづらひ》の壁に悩めど、
鏡なす白川《しらかは》は蜘手《くもて》に流れ、
風のみひとり、たまさぐる、
洞穴口《ほらあなぐち》の花の錦や。



底本:「海潮音 上田敏訳詩集」新潮文庫、新潮社
   1952(昭和27)年11月28日初版発行
   1968(昭和43)年1月15日20刷改版
   1977(昭和52)年6月30日35刷
※冒頭の献辞を「遙に此書を満洲なる森鴎外氏に献ず」としている異本が多いが、底本のままとしました。
入力:山口美佐
校正:Juki
1999年7月1日公開
2003年8月10日修正
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