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予が見神の実験
綱島梁川

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)唯《た》だ心洵《まこと》に

|:ルビの付いていない漢字とルビの付く漢字の境の記号
(例)一切|打遺《うちす》てて

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)愈々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)毎々徒《つね/″\いたづ》らに
*濁点付きの二倍の踊り字は「/″\」
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 この篇は世の宗教的経験深き人に示さん為めにはあらずして唯《た》だ心洵《まこと》に神を求めて宗教的生活に入らんとする世の多くの友に薦《すゝ》めんとて也《なり》。

 予は今予みづからの見神の実験につきて語る所あらむとす。この事、予に於《お》いては多少心苦しからざるに非《あら》ず。されど、予は今、世の常の自慮や、心配《こゝろづか》ひを一切|打遺《うちす》てて、出来るだけ忠実に、明確に、予が見たる所を語らでは已《や》み難き一つの使命を有するを感ず。あながちに己《おの》が見証を将《もつ》て世に吹聴《ふいちやう》せんとにはあらず、唯だ吾が鈍根劣機を以てして、尚《な》ほ且つこの稀有《けう》の心証に与《あづか》ることを得たる嬉《うれ》しさ、忝《かたじ》けなさの抑《おさ》へあへざると、且つは世の、心洵に神に憧《あこが》れて未《いま》だその声を聴かざるもの、人知れず心の悩みに泣くもの、迷ふもの、煩《うれ》ふるもの、一言すればすべて人生問題に蹉《つまづ》き傷《きずつ》きて惨痛の涙を味へるもの、凡《およ》そ是等《これら》一味の友にわが見得せる所を如実《さながら》に分かち伝へんが為めに語らんとはするなり。あはれ、上天も見そなはせ、予は今この一個の貴き音づれを世に宣《の》べんが為めに此処《こゝ》に立てり。
 わが見証をさながらに世に伝へんといふ。事や、もと至難なり。嗚呼《ああ》吾れ一たび神を見てしより、おほけなくも此《こ》の一大事因縁を世に宣べ伝へんと願ふ心のみ、日ごとに強くなりゆきて、而《し》かも如何《いか》にして之れを宣べ伝ふべきかの手段に至りては、放焉《はうえん》として闕《か》けたり。如何にしてこの目的を達すべき。顧みれば、わが見証の意識の、超絶|駭絶《がいぜつ》にして幽玄深奥なる、到底思議言説の以《もつ》て加ふべきものなからむとす。人の世の言葉や、思想は、其《そ》の神秘的、具象的事相の万一をだに彷彿《はうふつ》せしめがたき概あるにあらずや。吾れ之《こ》れを思うて、幾たびか躊躇《ちうちよ》し、幾たびか沮喪《そさう》せり。而して今にして知りぬ、古人が自家見証につきて語る所の、毎々徒《つね/″\いたづ》らに人をして五里霧中に彷徨《はうくわう》せしむるの感ある所以《ゆゑん》を。彼等が心血を瀝尽《れきじん》して其の見証の内容を説くや、時に発して煌煌《くわうくわう》たる日星の大文章をなすことあれど、而かも其の辞|愈々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]繁《いよ/\しげ》くして、指す方のいよ/\天上の月を離るゝが如《ごと》き観あるは如何にぞや。彼等が悟を説くや、到底城見物の案内者が、人を導きて城の外濠《そとぼり》内濠をのみ果てしなく廻《めぐ》り廻りて、竟《つひ》に其の本丸に到らずして已《や》める趣きあるなり。古人にして然《しか》り、今所証の浅き予にして悟を説かんとす、説く所或《あるひ》は其の一膜を剥《は》ぎ、更に其の一膜を剥ぎ、かくして永久竟に人をして其の核心に達せざらしめんことを虞《おそ》る。されば、予は竟にこの一事を抛《なげう》たざるべからざる乎《か》。否《いな》、否。神はわが枯槁《こかう》の残生に意味あらせんとて、特にこの所証を予に附与したまへるにあらずや。この所証を幾分にても世に宣《の》べ伝ふるは、吾が貴き一分の使命の存する所にあらずや。げにや、悟といひ見証といふもの、所詮《しよせん》は言説の伝へ得べき限りにあらざるべし。しかはあれど、わが満心の自覚を一揮直抒《いつきちよくじよ》の筆に附して、尚《な》ほ能《よ》く其の駭絶の意識の、黝然《いうぜん》たる光の穂末をだに伝へ得ざる乎、その微《かす》かなる香気《かをり》をだにほのめかし得ざる乎。能と不能とすべて神にあり。吾れは唯々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]《たゞ》自ら見得せる所を如実に語り出《い》づべきのみ。
 神の現前[#「現前」に傍点]若《も》しくは内住[#「内住」に傍点]若しくは自我の高挙[#「高挙」に傍点]、光耀[#「光耀」に傍点]等の意識につきては、事に触れ境に接して、予がこれまで屡々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]躬《しば/\みづか》ら経たる所なりしが、而かもその不磨の記憶となりて永く後ちに残る程の奕々《えき/\》たる触発の場合は、幾《ほと》んどあらざりし也。その是れありしは、昨三十七年の夏以後の事なり。今後は知らず、昨一年は予の宗教的生活史に於ける、謂《い》はば、光耀《くわうえう》時代、啓示時代なりきとも見るべく、予は実に昨一年間に於いて、不思議にも三たびまでもこれまでに経験したることなき稍々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]《やゝ》手答へある一種稀有の光明に接したるなり。而して其の最後のものを以て最も驚絶駭絶とす。
 最初の経験は昨年七月某日の夜半(日附を忘れたり)に於いて起こりぬ。予は病に余儀なくせられて、毎夜半|凡《およ》そ一時間がほど、床上に枯坐する慣《なら》ひなりき。その夜もいつもの頃、目覚めて床上に兀坐《こつざ》しぬ。四壁沈々、澄み徹《とほ》りたる星夜《ほしよ》の空の如く、わが心一念の翳《くもり》を著《つ》けず、冴《さ》えに冴えたり。爾時《そのとき》、優に朧《おぼ》ろなる、謂はば、帰依の酔ひ心地ともいふべき歓喜《よろこび》ひそかに心の奥に溢《あふ》れ出でて、やがて徐《おもむ》ろに全意識を領したり。この玲瓏《れいろう》として充実せる一種の意識、この現世《うつしよ》の歓喜と倫を絶したる静かに淋《さび》しく而かも孤独ならざる無類の歓喜は凡そ十五分時がほども打続きたりと思《お》ぼしきころ、ほのかに消えたり。(本書〔『病間録』〕一七九頁「宗教上の光耀」と題する一篇のうちに、感情的光耀につきて記したる一節は、この折の経験に基づきて物したるなり。予は従来とても多少これに類したる経験を有せざりしにはあらざりしが、此の夜のに於けるが如く純粋にして充実せるは無かりき。)予は未だありしこの夜の経験の深きこゝろを測りつくし辿《たど》り尽くすこと能《あた》はず。今なほ折々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]当夜の心状を朧ろに想起しては、天上生活の面影をしばし地上に偲《しの》ぶの感あるなり。
 今一つは昨年九月末の出来事に繋《つなが》れり。予は久しぶりにて、わが家より程遠からぬ湯屋に物せんとて、家人に扶《たす》けられて門を出でたり。折りしも霽《は》れ渡りたる秋空の下、町はづれなる林巒《りんらん》遠く夕陽を帯びたり。予はこの景色を打眺《うちなが》めて何となく心|躍《をど》りけるが、この刹那忽然《せつなこつぜん》として、吾れは天地の神と偕《とも》に、同時に、この森然たる眼前の景を観たり[#「吾れは天地の神と偕に、同時に、この森然たる眼前の景を観たり」に白丸傍点]てふ一種の意識に打たれたり。唯だこの一刹那の意識、而《し》かも自ら顧みるに、其は決して空華幻影の類《たぐ》ひにあらず。鏗然《かうぜん》として理智を絶したる新啓示として直覚せられたるなり。予は今尚ほ其の折を回想して、吾れ神と与《とも》に観たり[#「吾れ神と与に観たり」に傍点]てふその刹那の意識を批評し去る能はず。
 終はりに語らんとするもの、是れ曩《さき》に驚絶駭絶の経験と言ひたるものにして、これまで予が神の現前につきて経験せるもののうち、かくばかり新鮮、赫奕《かくえき》、鋭利、沈痛なるはあらじと思はるゝ程なり。予は今なほ之れを心上に反覆再現し得ると共に、倍々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]《ます/\》其の超越的偉大に驚き、倍々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]其の不動の真理なるを確めつゝあり。左に掲ぐるは、当時の光景を略叙してさる友に書き送れる書翰《しよかん》の大旨なり。
[#ここから引用文。一字下げ]
藪《やぶ》から棒に候《さふら》へども、いつぞや御話しいたし候ひし小生あの夜の実験以来、驚きと喜びとの余勢、一種のインスピレーションやうのもの存続いたし候《さふらひ》て、躰にも多少の影響なきを得ず候ひき。
彼《か》の事ありてこのかた、神に対する愛慕一しほ強く相成申候《あひなりまうしさふらふ》。如何《いか》にすればこの自覚を他に伝へ得べき乎《か》とは、この頃の唯一問題にて候也。一面にはこの自覚、人に知られたしとの要求|有之《これあり》候へど、他の一面には、更に真面目《まじめ》に、厳粛に、世の未だこの自覚に達せず又は達せんとて悩みつゝある多くの友に対する同情を催起いたし居《をり》候。この事によりて、小生幾分か、釈迦《しやか》の大悲や、基督《キリスト》の大愛を味ひ得たる感有之候也。
本年のうち小生はこれと併《あは》せて三たびほど触発の機会を得申候。他の二つの場合(前に陳《の》べたるものを斥《さ》す)も今|憶《おも》ひ出だし候てだに心|跳《をど》りせらるゝ一種の光明、慰籍《ゐしや》に候へども、先日御話いたしし実験は、最も神秘的にして亦《また》最も明瞭に、インテンスのものに候ひき。君よ、この特絶無類[#「特絶無類」に傍点]とも申すべき一種の自覚の意《こゝろ》をば誰れと与《とも》にか語り候ふべき。げに彼《か》の夜は物静かなる夜にて候ひき。一燈の下、小生は筆を取りて何事をか物し候ひし折のことなり、如何なる心の機《はずみ》にか候ひけむ、唯だ忽然はつと思ふやがて今までの我が我ならぬ我と相成《あひなり》、筆の動くそのまゝ、墨の紙上に声するそのまゝ、すべて一々超絶的不思議となつて眼前に耀き申候[#「はつ」を除いて「忽然はつと思ふやがて今までの我が我ならぬ我と相成、筆の動くそのまゝ、墨の紙上に声するそのまゝ、すべて一々超絶的不思議となつて眼前に耀き申候」に白丸付く、「はつ」には傍点]。この間|僅《わづ》かに何分時といふ程に過ぎずと覚ゆれど、而《し》かもこの短時間に於ける、謂《い》はば無限の深き寂しさの底ひより、堂々と現前せる大いなる霊的活物とはたと行き会ひたるやうの一種の Shocking 錯愕、驚喜の意識は、到底筆舌の尽くし得る所にあらず候[#「はた」と「 Shocking 」を除いて、「堂々と現前せる大いなる霊的活物とはたと行き会ひたるやうの一種の Shocking 錯愕、驚喜の意識は、到底筆舌の尽くし得る所にあらず候」に白丸付く、「はた」には傍点]。唯だ兄の直覚に訴へて御推察を乞ふの外之れなく、今はその万一をだに彷彿《はうふつ》する能《あた》はず候。
兄よ、如何にか思ひ給ふ、小生の如き一面随分批評的、学究的精神をもてるものに、このやうな東洋的、中世紀的とも申すべき神秘的実験あるベしとは、如何にもあり得まじき不思議事と思ひ給はずや。小生自身にも、其の後両三日の間は、何だか狐《きつね》にでもつまゝれたるやうの心地いたし候ひしが、程たつに従ひ、件《くだん》の自覚は益々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]《ます/\》明瞭確実と相成、其の驚絶の事実は、不壊金剛《ふゑこんがう》の真理となつて光明を放ち来たり申候。今日は最早《もはや》一点動かすべからざる、疑ふべからざる心霊上の事実となり、力と相成申候。(下略)
[#引用文ここまで]
 これ実に昨十一月の某夜、十一時頃に起こりたる出来事なりとす。予はこの実験につきては、最早言ふ所なかるベし、そは如何なる妙文辞を傭《やと》ひ来たるとも、最早こゝに書き記したるより以上の事を説き明かし得べくも思はれざれば也。真理は簡明也。真理をして真理自らを語らしめよ。言詮の繁重は真理の累《わづらひ》也。
 さあれ予は件《くだん》の見神の意識につきて、今一つの言説すべき者あるを感じたり。そは他にもあらず、予が曩《さき》に「我が我ならぬ我となりたり」といひ、「霊的活物とはた[#「はた」に傍点]と行き会ひたり[#「行き会ひたり」に傍点]」と言へるが如き言葉の、尚《な》ほやゝ疎雑《ルーズ》の用法ならざる乎《か》との疑ひ、読者にあらんかとも思ひたれば也。されば、予をして今一度最も厳密に件の意識を言ひ表はさしむれば、今まで現実の我れとして筆|執《と》りつゝありし我れが、はつと思ふ刹那に忽ち天地の奥なる実在と化《な》りたるの意識、我は没して神みづからが現に筆を執りつゝありと感じたる意識[#「今まで現実の我れとして筆執りつゝありし我れが、はつと思ふ刹那に忽ち天地の奥なる実在と化りたるの意識、我は没して神みづからが現に筆を執りつゝありと感じたる意識」に白丸付く]とも言ふべき歟《か》。これ予が超絶、驚絶、駭絶の事実として意識したる刹那の最も厳密なる表現也。予は今、これ以上、又以外にこの刹那に於ける見証の意識を描くの法を知らざる也。予は如是《かくのごとく》に神を見たり、如是に神に会へり。否《いな》、見たり[#「見たり」に傍点]といひ会へり[#「会へり」に傍点]といふの言葉は、なほ皮相的、外面的にして迚《とて》もこの刹那の意識を描尽するに足らず、其は神我の融会也、合一也、其の刹那に於いて予みづからは幾《ほと》んど神の実在に融け合ひたるなり。我即《われすなはち》神となりたる也。感謝す、予はこの驚絶、駭絶の意識をば、直接に、端的に、神より得たり、一毫《いちがう》一糸だに前人の証権を媒《なかだち》とし、若《も》しくは其の意識に依傍したる所あらざる也。(彼等が間接なる感化は言はず。)
 顧みるに、予が従前の宗教的信仰といふもの、自得自証より来たれるは少なく、基督《キリスト》其の他の先覚の人格を信じ、若しくは彼等が偉大なる意識を証権として、其れに依り傍《そ》うて[#「依り傍うて」に傍点]幻《おぼろ》げに形づくりたる者、その多きに居りし也。半《なか》ばは他の声に和し、他の意識を襲うて、神をも見たりと感じ、神の愛をも知りぬと許したりし也。即ち間接に他より動かさるゝ所、其の多きに居りし也。後深く内部生活に沈潜するに及びては、一切前人の証権を抛《なげう》ち去つて、自ら独立にわが至情の要求に神の声を聴かむとしぬ。わが要《もと》めは空《むな》しからず、予はわが深き至情の宮居にわが神|在《いま》しぬと感じて幾たびか其の光明に心|跳《をど》りけむ。吾が見たる神は、最早|向《さ》きの因襲的偶像、又は抽象的理想にはあらざりし也。されどかく端的に見たりと感じたりしわが神の、尚ほ一重の薄紗《はくしや》を隔てたる如き感はあらざりし乎《か》、水に映りし花の、朧ろのこゝろを著けざりし乎。予は過去の幼穉《えうち》なる朧げなる経験をば一切虚也、誤也、又は無意義なりとするものにあらず。予は過去一切の経験を貴ぶ。それら皆其の折の機根相応に神を見たる真実|無妄《むまう》の経験として、わが宗教生活史の一鎖一環をなす者にあらずや。謝せよ、これ皆上天の賜《たまもの》也。但《た》だ、予は従来の一切の経験を以て、わが不動の信念の礎《いしずゑ》とせんには、尚ほしかすがに一点の虧隙《きげき》あるを感ぜざるを得ざりし也。予が従来の見神の経験なるもの、謂《い》はば、春の夜のあやなき闇《やみ》に、いづことしもなき一脈の梅が香を辿《たど》り得たるにも譬《たと》へつベし。たしかにそれと著《し》るけれど、なほほのかに微《かす》かなりき。而して今や然らず。わが天地の神は、白日|魄々《とう/\》、驚心駭魄《きやうしんがいはく》の事実として直下当面に現前しぬ。何等の祝福ぞ、末代下根の我等にして、この稀有《けう》微妙の心証を成じて、無量の法《のり》の喜びに与《あづか》るを得ベしとは。
 夫《そ》れ見[#「見」に白丸付く]と信[#「信」に白丸付く]と行[#「行」に白丸付く]とは、吾人の宗教生活に於ける三大要義也。三者は相済《あひな》し相資《あひたす》けて、其の価値に軒輊《けんち》すべき所あるを見ず。だゞ予は、予みづからの所証に基づきて、見[#「見」に白丸付く]の一義に従来慣視以上の重要義を附せんとす。人|動《やゝ》もすれば見[#「見」に白丸付く]と信[#「信」に白丸付く]とを対せしめては、信[#「信」に白丸付く]の一義に宗教上|千鈞《せんきん》の重きを措《お》くを常とし、而して見[#「見」に白丸付く]の一義に至りては之れを説くもの稀《まれ》也、況《いは》んや其の光輝ある意義を※[#「確」の「石」に換えて「てへん」]揮《かくき》するものに於いてをや。されど、予は信ず、偉大なる信念の根柢《こんてい》には、常に偉大なる見神[#「見神」に白丸付く]あることを。真に神を見[#「見」に白丸付く]ずして真に神を信[#「信」に白丸付く]ずるものはあらず。基督の信は、常に衷《うち》に神を見、神の声を聴《き》けるより来たり、ポーロの信は、其のダマスコ途上驚絶の天光に接したるより湧《わ》き出でたり。菩提樹《ぼだいじゆ》下の見証や、ハルラ山洞の光耀や、今一々煩《わづら》はしく挙証せざるも、真の見神の、偉大なる信念の根柢たり、又根柢たるべきは了々火よりも燎《あきら》かなり。見[#「見」に白丸付く]なき信は盲信となり、頑信となり、他律信となり、外堅きが如くして内自ら恃《たの》む所なきの感を生ずべし。我等が神を信ず[#「神を信ず」に傍点]と言ひて、尚ほ自ら顧みて、どことなく其の信念の充実せざるを感ずることあるは、是れ尚ほ未だ面相接して神を見ざるが故《ゆゑ》にあらずや。「見ずして信ずるものは幸《さいはひ》なり」、「信仰は未だ見ざる所を望んで疑はず」などいふ古言もあることなれど、是れ未だ真理の両端を尽くしたるものとは言ふべからず。見ざる所を信ずる信をして信たらしむるもの、是れ即《やが》て既に幾分か見たる所の或物を根柢とせるが故に非《あら》ずや。勿論詮議《もちろんせんぎ》を厳にしていはば、見は竟《つひ》に信に帰著すベし。信[#「信」に白丸付く]の尖鋭照著なるもの、即て見[#「見」に白丸付く]なりともいふベし。されど、こゝには唯だ普通|謂《い》ふ所の信の一義を取つて言説せるなり。されば予は将《ま》さに曰《い》ふベし、見ずして信ずるものは幸也、されど見て信ずるものは更に幸也と。而してこゝに謂ふ見る[#「見る」に傍点]の義がかの基督の一弟子が手もて再生の基督の肉身に触れて、さて始めて彼れを見たりとせるが如き官覚的浅薄の意味ならざるや、論なき也。夫《そ》れ真に神を見て信ずるものの信念は、宇宙の中心より挺出《ていしゆつ》して三世十方を蔽《おほ》ふ人生の大樹なる乎。生命《いのち》の枝葉永遠に繁り栄えて、劫火《ごふくわ》も之れを燬《や》く能はず、劫風も之れを僵《たふ》す能はず。
 予は予が見神の実験の、或は無根拠なる迷信ならざるかを疑ひて、この事ありし後、屡々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]《しば/\》之れを理性の法庭に訴へて、其の厳正不仮借なる批評を求めたり。而して予は理性が之れに対して究竟《きうきやう》の是認以外に何等の言をも挿《さしはさ》む能《あた》はざるを見たり。予は又この実験の、予がその折の脳細胞の偶然なる空華ならざりしかをも危《あや》ぶみて、虚心屡々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]之れを心上に再現して、前より、後ろより、上下左右、洩《も》らす所なく其の本躰を正視透視したり、而して其の事実の、竟に※[#「嵐」の「風」に換えて「歸」]然《きぜん》として宇宙の根柢より来たれるを確めたり。されど、予は尚ほこの実験の事実が、万が一にも誇大自ら欺きしものにあらざるかを虞《おそ》れて、其の後も幾度となく之れを憶起再現し、務めて第三者の平心を持して、仔細《しさい》に点検したりしが、而かも之れを憶《おも》ひいづる毎に、予は倍々[#「々」は、底本では踊り字の「二の字点」]《ます/\》其の驚くべき事実なるを見るのみ。そは到底如実には言ひ表はしがたき稀有《けう》無類の意識也。今やいよ/\一点の疑をも容《い》れがたき真事実とはなりぬ。但《た》だ予は、予が今日の分として、この実験の意義、価値の幾許《いくばく》なるかを料《はか》り知る能《あた》はざるのみ。真理の躰察、豈《あに》容易ならんや。予は唯だ所謂《いはゆる》「悟後の修行」に一念向上するあらんのみ。
 嗚呼《あゝ》、予が見たる所、感じたる所、すべて是《か》くの如し。或《あるひ》は余りに自己を説くに急なるふしもありしならん、或は辞藻やゝ繁くして、意義明瞭ならざるふしもありしならん、いづれは予が筆の至らざる所と諒《りやう》し給ふベし。予は今尚ほこの事の表現に心を砕きつゝある也。但だ予は此《か》くの如くに神を見、而してこれより延《ひ》いて天地の間の何物を以てしても換へがたき光栄無上なる「吾れは神の子なり」てふ意識の欝《うつ》として衷《うち》より湧き出づるを覚えたり。われは宇宙の間に於けるわが真地位を自覚しぬ。吾れは神にあらず、又大自然の一波一浪たる人にもあらず、吾れは「神の子」也、天地人生の経営に与《あづか》る神の子也。何等高貴なる自覚ぞ。この一自覚の中に、救ひも、解脱《げだつ》も、光明も、平安も、活動も、乃至《ないし》一切人生的意義の総合あるにあらずや。嗚呼吾れは神の子也、神の子らしく、神の子として適《ふさ》はしく活《い》きざるべからず。かくして新たなる義務の天地の、わが前に開けたるを感じたり。されど顧みれば、吾れ敗残の生、枯槁《こかう》の躯、一脚歩を屋外に移す能はざるの境に在《あ》りて、能《よ》く何をか為《な》さむ。吾れ一たびはこの矛盾に泣きぬ。而してやがて「世にある限り爾《なんぢ》が最善を竭《つ》くすべし、神を見たるもの竟に死なず」てふ強き心証の声を聞きぬ。新たなる力は衷より充実し来たりぬ。それ吾が見たる神は、常に吾れと偕《とも》に在《い》まして、其の見えざるの手を常に打添へたまふにあらずや。
(明治三十八年五月)



底本:「現代日本文學大系96」筑摩書房
   1973(昭和48)年7月10日初版第1刷発行
入力:j.utiyama
校正:Juki
1999年2月19日公開
2000年11月13日修正
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