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「手首」の問題
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)下手《へた》と上手《じょうず》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)結局|生涯《しょうがい》本音を出さずに

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(例)[#地から3字上げ](昭和七年三月、中央公論)
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 バイオリンやセロをひいてよい音を出すのはなかなかむつかしいものである。同じ楽器を同じ弓でひくのに、下手《へた》と上手《じょうず》ではまるで別の楽器のような音が出る。下手な者は無理に弓の毛を弦に押しつけこすりつけてそうしてしいていやな音をしぼり出しているように見えるが、上手な玄人《くろうと》となると実にふわりと軽くあてがった弓を通じてあたかも楽器の中からやすやすと美しい音の流れをぬき出しているかのように見える。これはわれわれ素人《しろうと》の目には実際一種の魔術であるとしか思われない。玄人の談によると、強いフォルテを出すのでも必ずしも弓の圧力や速度だけではうまく出るものではないそうである。たとえばイザイの持っていたバイオリンはブリジが低くて弦が指板にすれすれになっていた、他人が少し強くひこうとすると弦が指板にぶつかって困ったが、イザイはこれでやすやすと驚くべき強大なよい音を出したそうである。この魔術のだいじの品玉は全くあの弓を導く右手の手首にあるらしい。手首の関節が完全に柔らかく自由な屈撓性《くっとうせい》を備えていて、きわめて微妙な外力の変化に対しても鋭敏にかつ規則正しく弾性的に反応するということが必要条件であるらしい。もちろんこれに関してはまだ充分に科学的な研究はできていないからあまり正確な事は言われないであろうが、しかし、いわゆるボーイングの秘密の最も主要な点がここにあるだけは疑いのないことのようである。物理学的に考えてみると、一度始まった弦の振動をその自然の進行のままに進行させ、そうしてそのエネルギーの逸散を補うに足るだけの供給を、弦と弓の毛との摩擦に打ち勝つ仕事によって注ぎ込んで行くのであるが、その際もし用弓に少しでも無理があると、せっかく規則正しく進行している振動を一時邪魔したり、また急に途中から別なよけいな振動を紛れ込ませたりしてそのために音がきたなくなってしまうのである。そういうことのないようにするためには弓がきわめて敏感に弦の振動状態に反応して、ちょうど弦の要求するエネルギーを必要にしてかつ有効な位相において供給しなければならない。この微妙な反応機巧は弦と弓とが一つの有機的な全系統を形成していて、そうして外部からわがままな無理押しの加わらない事が緊要である。しかし弓の毛にも多少のむらがあるのみならず、弓の根もとに近いほうと先端に近いほうとではいろいろの関係がちがうから、そういう変化にも臨機に適当に順応して自由な弦の運動を助長し一様に平滑によい音を出すためには、ただ機械的に一定圧力一定速度で直線的に弓を動かすだけではいけないであろう。それには、もっとデリケートな調節器官が入用であって、その大切な役目を務めるのが弓を持った演奏者の手首であるらしい。普通の初等物理学教科書などには弦が独立した振動体であるようなことになっているが、あれも厳密に言えば弦も楽器全体も弓も演奏者の手もおよそ引っくるめた一つの系統として考えるほうがほんとうだと自分には思われる。そうして音の振動数は主として弦で決定するが、音色を決定する因子中の最も主要なものが手首の運動をつかさどるところの筋肉の微妙な調節にあるように思われるのである。
 このように楽器の部分としての手首、あるいはむしろ手首の屈曲を支配する筋肉は、少しも強直しない、全く弛緩《しかん》した状態になっていて、しかもいかなる微細の力の変化に対しても弾性的に反応するのでなければならないのである。
 この手首の自由の問題は弦楽器のボーイングに限らずその他のいろいろな技術の場合にも起こって来るからおもしろい。
 玉突きをするのにキュー尻《じり》のほうを持つ手の手首を強直しないよう自由に開放することが必要条件である。手首が硬直凝固の状態になっていてはキューのまっすぐなピストン的運動が困難であるのみならず、種々の突き方に必要なキューの速度加速度の時間的経過を自由に調節することも不可能であるように見える。特に軽快な引き球《だま》などのできるとできないは主としてこの手首の自由さに係わるように思われるのである。
 ゴルフについては自分自身には少しの体験も持ち合わせないのであるが、T氏の話によるとあれのクラブの使用にもやはり自由なる手首の問題が最も大切だということになっているそうである。
 いわゆるスモークボールを飛ばして打者を眩惑《げんわく》する名投手グローブの投球の秘術もやはり主として手首にあるという説を近ごろある人から聞いた。真偽は別として、それは力学的にもきわめて理解しやすいことだと思われる。
 中学時代に少しばかり居合い抜きのけいこをさせられたことがある。刀身の抜きさしにも手首の運動が肝要な役目を勤める。また真剣を上段から打ちおろす時にピューッと音がするようでなければならない。それにはもちろん刃がまっすぐになることも必要であるが、その上に手首が自由な状態にあることが必要条件であるように思われた。従って人を切る場合にでも同様なことが当てはまるであろうと思われる。撃剣でも竹刀《しない》の打ち込まれる電光石火の迅速な運動に、この同じ手首が肝心な役目を務めるであろうということも想像されるであろう。
 こんな話を偶然ある軍人にしたら、それはおもしろいことであると言ってその時話して聞かせたところによると、乗馬のけいこをするときに、手綱《たづな》をかいくる手首の自由な屈撓性《くっとうせい》を養うために、手首をぐるぐる回転させるだけの動作を繰り返しやらされるそうである。
 どうも世の中の事がなんでもかでもみんな手首の問題になって来るような気がするのであった。そう言えばすりこぎでとろろをすっているのなどを見ても、どうもやはり手首の運用で巧拙が別れるような気がする。
 ところが、手首にもやはり人によって異なる個性のあるものだという事実をある偶然な機会によって発見した。それは、セロの曲中に出て来る急速なアルペジオをひくのに、弦から弦と弓を手早く移動させるために手首をいろいろな角度に屈曲させる。その練習をしている際に私の先生の手首と自分の手首とでは、手首の曲がる角度の変化の範囲はほぼ同じであるが、しかしその両極端の位置、従ってその平均の位置における角度がかなり著しく違うということに気がついたのである。それで、先生には最も自然で無理のない手首の姿勢が弟子《でし》の自分には非常に苦しい、無理な、むしろ不可能に近いものになるのであった。しかしその先天的の相違を認めてもらって、それ以外の要領を授かれば、結果においては同じ事になってしまうのである。それで先生は弟子の手首の格好を見ただけで弟子をしかるわけにはゆかない。
 手首の問題についての自分の経験はまずこれだけであるが、よく考えてみると、この手首の問題を思い出させるような譬喩的《ひゆてき》な手首の問題がいろいろあることに気がつく。
 科学の研究に従事するものがある研究題目を捕えてその研究に取りかかる。何かしらある見当をつけて、こうすればこうなるだろうと思って実験を始める。その場合に、もし研究者の自我がその心眼の明を曇らせるようなことがあると、とんでもない失敗をする恐れがある。そうでない結果をそうだと見誤ったり、あるいは期待した点はそのとおりであっても、それだけでなくほかにいろいろもっと重大な事実が眼前に歴然と出現していても、それには全く盲目であって、そのために意外な誤った結論に陥るという危険が往々ある。それで科学者は眼前に現われる現象に対して言わば赤子のごとき無私無我の心をもっていなければならない。止水明鏡のごとくにあらゆるものの姿をその有りのままに写すことができなければならない。武芸の達人が夜半の途上で後ろから突然切りかけられてもひらりと身をかわすことができる、それと同じような心の態度を保つことができなくては、瞬時の間に現われて消えるような機微の現象を発見することは不可能である。それには心に私がなく、言わば「心の手首」が自由に柔らかく弾性的であることが必要なのではないか。
 だれであったかある学者が次のようなことを言っていた。「自然の研究者は自然をねじ伏せようとしてはいけない。自然をして自然のおもむく所におもむかしめるように導けばよい。そうして自然自身をして自然を研究させ、自然の神秘を物語らせればよい」そうしてわれわれは心を空虚にして、その自然の物語に耳を傾け、忠実なる記録を作ればよいのであろう。これを自分の現在の場合の言葉に翻訳すると、「研究の手首を柔らかくして、実験の弓で自然の弦線の自然の妙音を引き出せばよい」とも言われるであろう。研究者によって先天的の手首の個性の差異から来る手つきの相違はあっても、結局ほんとうの音を出せばよいのではないか。
 子供を教育するのでも、同じようなことが言われる。これについては今さら言うまでもなく、すでに昔から言いふるされたことである。教育者の手首が堅くてはせっかくの上等な子供の能力の弦線も充分な自己振動を遂げることができなくて、結局|生涯《しょうがい》本音を出さずにおしまいになるであろう。
 政治の事は自分にはわからない。しかし歴史を読んでみると、為政者が君国のために、蒼生《そうせい》のためにその国の行政機関を運転させるには、ただその為政者たるものが誠意誠心で報国の念に燃えているというだけでは充分でないらしく思われる。いかなる赤誠があっても、それがその人一人の自我に立脚したものであって、そうしてその赤誠を固執し強調するにのみ急であって、環境の趨勢《すうせい》や民心の流露を無視したのでは、到底その機関の円滑な運転は望まれないらしい。内閣にしてもその閣僚の一人一人がいかに人間として立派な人がそろっていても、その施政方針がいかに理想的であっても、為政の手首が堅すぎては国運と民心の弦線は決して妙音を発するわけには行かないのではないか。
 官海遊泳術というものについてその道に詳しい人の話だというのを伝聞したことがある。それによると学校を卒業して役所へはいって属僚になってもあまり一生懸命にまじめに仕事をするとかえっていけない、そうかと言ってなまけても無論いけないのだそうである。どうもはなはだふに落ちない不都合な話だと思ったのであったが、しかし翻ってこれを善意に解釈してみると、やはり役人たちがめいめい思い思いの赤誠の自我を無理押しし合ったのでは役所という有機的な機関が円滑に運転しないから困るという意味であるらしい。役所でも会社でも言わば一つのオーケストラのようなものであってみれば、そのメンバーが堅い手首でめいめい勝手にはげしい轢音《れきおん》を放散しては困るであろうと思われる。悪く言えば「要領よくごまかす」というはなはだ不祥なことが、よく言えば一つの交響楽の演奏をするということにもなりうる。めいめいがソロをきかせるつもりでは成り立たないのである。
 中学時代にはよく「おれは何々主義だ」と言って力こぶを入れることがはやった。かぼちゃを食わぬ主義や、いがくり頭で通す主義や、無帽主義などというのは愛嬌《あいきょう》もあるが、しかし他人の迷惑を考慮に入れない主義もあった。たとえば風呂《ふろ》に入らぬ主義などがそれである。年を取って後までも中学時代に仕入れたそういう種類の主義に義理を立てて忠実に守りつづけて来た人もまれにはあった。これらは珍しい手首の堅い人であろう。しかし手首の柔らかいということは無節操でもなければ卑屈な盲従でもない。自と他とが一つの有機体に結合することによってその結合に可能な最大の効率を上げ、それによって同時に自他二つながらの個性を発揚することでなければならない。
 孔子《こうし》や釈迦《しゃか》や耶蘇《やそ》もいろいろなちがった言葉で手首を柔らかく保つことを説いているような気がする。しかし近ごろの新しい思想を説く人の説だというのを聞いていると、まさしくそれとは反対でなければならないことになるらしく見える。なんでも相生の代わりに相剋《そうこく》、協和の代わりに争闘で行かなければうそだというように教えられるのであるらしい。その理論がまだ自分にはよくわからない。
 三つの音が協和して一つの和弦《かげん》を構成するということは、三つの音がそれぞれ互いに著しく異なる特徴をもっている、それをいっしょに相戦わせることによってそこに協和音のシンセシスが生ずる。しかしその場合の争闘相剋は争闘のための争闘ではなくて協和のための争闘である。勝手な音を無茶苦茶に衝突させ合ったのではいたずらに耳を痛めるだけであろう。
 バイオリンの音を出すのでも、弓と弦との摩擦という、言わば一つの争闘過程によって弦の振動が誘発されるとも考えられる。しかしそれは結局は弦の美しい音を出すための争闘過程であって、決して鋸《のこぎり》の目立てのような、いかなる人間の耳にも不快な音を出すためではないのである。しかし弓を動かす演奏者の手首がわがままに堅くては、それこそ我利我利という不快な音以外の音は出ないであろう。そうしてそういう音では決して聞く人は踊らないであろう。
 欧州大戦前におけるカイゼル・ウィルヘルムのドイツ帝国も対外方針の手首が少し堅すぎたように見受けられる。その結果が世界をあのような戦乱の過中《かちゅう》に巻き込んだのではないかという気がする。ともかくもこれにもやはり手首の問題が関係していると言ってもよい。これは盛運の上げ潮に乗った緊張の過ぎた結果であったと思われる。深くかんがみるべきである。
 近ごろスペインの舞姫テレジーナの舞踊を見た。これも手首の踊りであるように思われた。そうしてそのあまりに不自然に強調された手首のアクセントが自分には少し強すぎるような気もした。しかしこれがかえっていわゆる近代人の闘争趣味には合うのかもしれないと思われるのであった。
 しかし、時代思想がどう変わってもバイオリンの音の出し方には変わりがないのは不思議である。いわゆる思想は流動しても科学的の事実は動かないからであろう。馬の手綱《たづな》のとり方の要領の変わらないのは、千年や二千年ぐらいたっても馬はやはり同じ馬だからであろう。一人の哲学者が一言二言いったというだけで人間全体が別種の存在に変わって人間界の方則があべこべになるということは想像ができない。
 ついでながら、揺れる電車やバスの中で立っているときの心得は、ひざの関節も足首の関節も柔らかく自由にして、そうして心もちかかとを浮かせて足の裏の前半に体重をもたせるという姿勢をとるのだそうである。大地震の時に倒れないように歩くのも同じ要領だということである。これも言わば足の場合における「手首の問題」とでも言われるであろうか。
[#地から3字上げ](昭和七年三月、中央公論)



底本:「寺田寅彦随筆集 第三巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年4月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年9月5日第64刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年6月25日作成
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