青空文庫アーカイブ

さるかに合戦と桃太郎
寺田寅彦

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)合戦《かっせん》の話

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)十|分《ぷん》

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(例)[#地から3字上げ](昭和八年十一月、文芸春秋)
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 近ごろある地方の小学校の先生たちが児童赤化の目的で日本固有のおとぎ話にいろいろ珍しいオリジナルな解釈を付加して教授したということが新聞紙上で報ぜられた。詳細な事実は確かでないが、なんでもさるかに合戦《かっせん》の話に出て来るさるが資本家でかにが労働者だということになっており、かにの労働によって栽培した柿《かき》の実をさる公が横領し搾取することになるそうである。なるほどそう言えば、そうも言われるかもしれない。しかしまた、一方で、多年手塩にかけた子供らを安心して学校に託している「赤くない親たち」の心持ちから言えば、せっかく苦労して育てただいじのだいじの子供らを赤い先生のためにだいなしにされたと思うかもしれない。そうすると、この場合のさるは先生でかには親たちである。また、親が多年の辛苦でたくわえた貯金を赤いむすこや娘が運動資金に持ち出したとすれば、その場合のさるは子供でかにはおやじである。さらにその子供を使嗾《しそう》して親爺《おやじ》の金を持ち出させた親ざるはやはり一種の搾取者である。
 桃太郎が鬼が島を征服するのがいけなければ、東海の仙境《せんきょう》蓬莱《ほうらい》の島を、鎚《つち》と鎌《かま》との旗じるしで征服してしまおうとする赤い桃太郎もやはりいけないであろう。
 こんなくだらぬことを赤白両派に分かれて両方で言い合っていれば、秋の夜長にも話の種は尽きそうもない。
 手ぬぐい一筋でも箸《はし》一本でも物は使いよう次第で人を殺すこともできれば人を助けることもできるのは言うまでもないことである。
 おとぎ話というものは、だいたいにおいて人間世界の事実とその方則とを特殊な譬喩《ひゆ》の形式によって表現したものである。さるやかにが出て来たりまた栗《くり》のいがや搗臼《つきうす》のようなものまでも出て来るが、それらは実はみんなやはりそういう仮面をかぶった人間の役者の仮装であって、そうしてそれらの仮装人物相互の間に起こるいろいろな事件や葛藤《かっとう》も実はほんの少しばかりちがった形で日常にわれわれの周囲のどこかに起こっていることなのである。その事が善《よ》いとか悪いとかいう批判を超越して実際にこの世の中に起こっている事実なのである。
 握り飯と柿《かき》の種の交換といったような事がらでも毎日われわれの行なっていることである。月謝を払って学校へ行くのでも、保険にはいるのでもそうである。お寺へ金を納めて後生を願うのでもそうであり、泥棒《どろぼう》の親分が子分を遊ばせて食わせているのでもそうである。それが善い悪いは別としてこの世の事実なのである。
 さるのような人もありかにのような人もあるというのも事実であって、それはこの世界にさるがありかにがある事実と同じような事実である。さるなどというもののあるのはいったい不都合だと言って憤慨してみたところで世界じゅうのさるを絶滅することはむつかしい。かにの弱さいくじなさをののしってみたところでかにをさるよりも強くすることは人力の及ぶ限りでない。蜂《はち》やいが栗《ぐり》や臼がかにの味方になって登場するのもやはり自然の方則に従って出て来るので、法律で蜂と栗と臼の登場を禁じると、今度はさそりやばらやたくあん石が飛び出して来るかもしれない。また、桃太郎が生まれなかったらそのかわりに栗から生まれた栗太郎《くりたろう》が団子の代わりにあんパンかキャラメルを持って猫《ねこ》やカンガルーを連れてやはり鬼が島は征伐しないでおかないであろう。いくらそんな不都合なことはいけないと言っても、どうしてもだれか征伐に行くのが現世の事実である。その証拠は、どの歴史の書物でもあけて二三ページ読めばすぐに見つかるであろう。
 おとぎ話というものは、そういう人間世界の事実と方則を教える科学的な教科書である。そうして、どうするのが善《よ》いとか悪いとか、そんな限定的なモラールや批判や解説を付加して説明するにはあまりに広大無辺な意味をもったものである。それをいいかげんなほんの一面的なやぶにらみの注解をつけて片付けてしまうのではせっかくのおとぎ話も全く台無しになってしまう。
 おとぎ話はおとぎ話でよいのである。
 おとぎ話は物理学の教科書と同じく石が上から下へ落ちるという事実を教える。善くても悪くても落ちる石は下へ落ちて、上へは落ちない。この事実をどう利用するかはそれは利用する人の勝手になる。これを利用して米をつくこともできるが、また人殺しをすることもできるのである。重力の講義をする物理学の先生が、重力は時々人殺しをする不都合なものであると言って生徒を訓戒したらそれは滑稽《こっけい》を通り越してしまった狂気の沙汰《さた》であろう。しかし、おとぎ話に下手《へた》な評注を加えるのはほとんどこれに類した滑稽に堕しうる可能性がある。
 これに関連して思うことは今日の普通教育のしかたに共通した一種の器械的な形式主義がありはしないかということである。昔の小学校の先生などとちがってあまりに立派な教育者としての素養があり過ぎるために、またその上に文部省の監督があまりに行き届き過ぎるために教場における授業が窮屈で煩瑣《はんさ》な鋳型にはいってしまって、その結果は自由に広大であるべきものを極端に制限してしまっているのではないかという疑いがある。たとえば小学校の理科の教程といったようなものを見ても、その膳立《ぜんだ》てが立派であると同時に料理の種がすっかり限定されてしまって、生徒はそれだけを食って満足するが、他に食物のあることをいっさい忘却してしまう。そうして、今度ひとりで旅に出ると宿屋の食膳《しょくぜん》のおかずの食い方がわからないといったような風《ふう》があるのではないか。
 一本の稲の穂を教材とするのでも、一生懸命骨を折って三日も四日も徹夜して教程をこしらえてかかるからかえっていけないではないかと思う。不用意に取って来た一草一木を机上に置いて一時間のあいだ無言で児童といっしょにひねくり回したり虫めがねで見たりするほうが場合によってははるかに有効な理科教育になるということもありはしないか。先生から押しつけられた植物学は十|分《ぷん》も運動場ではね回った後には、もうすっかり忘れてしまうかもしれないが、一時間植物とにらめくらをしたというそのことの効果は生涯《しょうがい》に残るということが可能である。
 おとぎ話も植物の標本もわれわれに教うるものは人間と自然との事実である。われわれはその事実を正しく認識するのが第一である。先生は黙って児童とともにその事実を熟視すればそれで充分ではないかと思うのである。
 われわれの子供の時分にはおとぎ話はおとぎ話としてなんらの注釈なしに教わった。そうして実に同じ話を何十回何百回も繰り返して教わったものである。そうしてそれらの話の中に含まれている事実と方則とがいつとなく自然自然と骨肉の間にしみ込んでしまって、もはやもとの形は少しも残らなくなっているが、しかし実際はそれらのものの認識がわれわれのからだのすみからすみまで行き渡ってわれわれの知恵の重要な成分をなしているのである。もしもこれらのおとぎ話を、尻《しり》の曲がったごうなの殻《から》にでも詰め込んで丸のみにさせられていたのであったら、とうの昔に体外に排泄《はいせつ》されてどこかよその畑の肥料にでもなっていたことであろうと思う。
[#地から3字上げ](昭和八年十一月、文芸春秋)



底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店
   1948(昭和23)年5月15日第1刷発行
   1963(昭和38)年5月16日第20刷改版発行
   1997(平成9)年6月13日第65刷発行
入力:(株)モモ
校正:かとうかおり
2003年5月29日作成
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